名古屋市民コーラス 平成23年10月25日(火)発行 ドヴォ研ノート 第7号(最終号) ドヴォルザーク研究会 編集: S.矢口 交響曲第9番「新世界より」第2楽章ラルゴによせて ドヴォルザークといえば交響曲第9番「新世界より」をイメージする人が多い。とりわけ第2楽章の郷愁を帯びたイングリッシ ュホルンの奏でる旋律は、多くの人々に名曲として愛されてきた。この旋律は、ドヴォルザークの弟子に当たるウイリアム・アー ムス・フィッシャーの手によって1922年、歌唱用の編曲と“Going Home”の歌詞が与えられてから、広く一般の人に知られ るようになった。日本では「家路」という題名であまりにも有名であるが、これは大正末頃、堀内敬三の詩によるものである。 夢 を 見 ん い ざ や 楽 し 夢 を 見 ん や す き み 手 に 守 ら れ て 堀内敬三 さ そ う ご と く 消 え 行 け ば 眠 れ や す く い こ え よ と ほ の お 今 は 静 ま り ぬ 二 、 や み に も え し か が り 火 は ま ど い せ ん い ざ や 楽 し ま ど い せ ん 風 は す ず し こ の 夕 べ 心 軽 く や す ら え ば 今 日 の わ ざ を な し お え て 星 は 空 を ち り ば め ぬ 一 、 遠 き 山 に 日 は 落 ち て 家 路 堀 内 敬 三 1924年(大正13年)に岩手県の詩人 宮沢賢治の手による詩がある。 雪 融 け の 草 を わ た る 。 雲 か げ 原 を 超 え く れ ば 四 月 は 風 の か ぐ は し く な か ば は 雲 に 鎖 ( と ざ ) さ る ゝ 。 種 山 ヶ 原 に 燃 ゆ る 火 の い し ぶ み し げ き お の づ か ら 二 繞 ( め ぐ ) る 八 谷 に 劈 靂 の 雪 融 け の 草 を わ た る 。 雲 か げ 原 を 超 え く れ ば 四 月 は 風 の か ぐ は し く 風 と ひ か り に ち か ひ せ り 。 縄 と 菩 提 樹 皮 に う ち よ そ ひ ア ル ペ ン 農 の 汗 に 燃 し 一 春 は ま だ き の 朱 ( あ け ) 宮 沢 賢 雲 治 を 種 山 ヶ 原 種山ヶ原 (岩手県) 宮沢賢治 【注】 まだき=夜明けの薄明どき。朝まだき。 菩提樹皮(マダカ)=菩提樹の皮で作った蓑(みの)。 (東北方言で、菩提樹をマダという。) 劈靂(へきれき)=雷。 (種山ヶ原あたりは雷が多い。) フィッシャーの原詩には、遠き山も星の輝きもなく、また、春の朱雲もうたわれていない。当時の通信事情などを考えれば宮 沢賢治は、フィッシャーの“Going Home”を事前に目にしていたとは考えにくく、ラルゴのあの旋律に動かされて賢治は憑 かれるように詩にしたのではないかといわれる。種山ヶ原は、アイオワの大草原よりは、ボヘミアの起伏に富んだ平原に近い 印象を持つという。わずか数小節のラルゴの旋律から感動を膨らませて、「種山ヶ原」に結実させた賢治の創造性の豊かさに 驚く。イングリッシュホルンの哀愁をおびた音色に故郷岩手の自然への郷愁を詩に託した賢治と、ドヴォルザークの故国ボヘ ミアに対する想いとが重なるのである。 私がまだ小学生で5時間目の無い頃、「帰ったら学校で遊ぼうね。」が合言葉だった。おやつがわりの10円玉をにぎりしめ て学校の裏の駄菓子屋であめやらせんべいやら買って、校庭のブランコ、渡り棒、滑り台等で遊んだ。夕方になると、このラ ルゴが校庭に流れた。「用事のない子は家に帰りましょう。」というアナウンスとともに。夕焼けに染まる校庭に揺れるブランコと ラルゴのメロディが、私にとっての原風景ともいえる。川沿いの道を走って家に帰った。なつかしい思い出のメロディである。 ≪参考文献≫ 『癒しのドヴォルザーク』 國久よしお著(幻冬舎) Web 『池田小百合 なっとく童謡・唱歌』 『日本の唱歌[中]大正・昭和篇』 金田一春彦・安西愛子編(講談社文庫) Web.検索 -1- 【生涯班: S.各務麗子】 雑学ドヴォちゃん 「スターバト マーテル」のスケッチ この曲の成りたちには二度の時期があります。 まず1875年、長女ヨゼファを亡くした悲しみを込めて翌年の2月から5月 までに書き上げられた、いわゆるスケッチといわれる作品。 そしてその翌年またも二児を相次いで亡くし失意のうちに、前年 のスケッチをもとに一気にオーケストレイションを完成させています。 では何故ヨゼファを亡くした後半年もしてから、そして何 故一気に書き上げられなかったのでしょうか? ヨゼファを亡くした当時は丁度「ピアノトリ オ」を作曲中で、これを早期に仕上げなくてはなりませんでした。1月に「トリオ」を完成さ せるとすぐにスケッチに取り掛かり5月には書き上げますが、またも次の締め切りに追わ れそれを棚に上げてしまいました。この時の仕事が「モラヴィア二重唱曲集」でブラーム スから絶賛されました。 近年の研究によれば、スケッチとはいえ彼の自筆楽譜には細か な強弱やアーティキュレーションが書き込まれ、ソロ、コーラス、ピアノ伴奏とすべて形成 されており、単なるスケッチではなく完成された作品であると認められました。 これが即 ち「原典版」、「1876年版」「ピアノ版」といわれるものです。ただこの原典版には現在の スコアにある5・6・7番が有りません。この三曲はオーケストレイションの折に短期間に作 曲されたようです。 「原典版」と認められて初めて録音されたCDがありましたので聴いてみました。ACC ENTUS室内合唱団の演奏です。40名弱でエキルベイと云う女性指揮者の合唱団で す。少人数の所為かオケ版に比べて哀悼の想いが余計に強く感じられました。完成品と 認められたように素晴らしい曲なのに何故そのまま演奏されなかったのか。本当に仕事 に追われていたのか、彼自身は細かなアーティキュレーションを指示したにもかかわらず、 1884 年 9 月 12 日 Worcester 演奏終演後指揮者用スコアに 楽員が署名のパフォーマンス ドヴォルザークは何処? ヒントは使用楽譜にあり 単にスケッチとしか思っていただけなのか、或いはヨゼファへの追悼の想いから演奏出 来なかったのか、私はこの気持ちを汲みたいのですが、これ以上は調べが足りませんで した。使用楽譜を手にして聴いてみました。多々違いがありますが極め付きは十番アカ ペラ合唱部分が全く無いことです。 CD試聴ご希望の方はご連絡下さい。 ≪参考文献≫ ベーレンライター出版社の楽譜 ・ ACCENTUS 室内合唱団のCDの解説書 ・ Web.検索 ウィキペディア 【楽曲解説班: B. 市岡伸幸】 コラム 聖書の中のイエスの母 マリア像 マリアは 「乙女」と 「母」 という二つのイメージで表わすことが出来ると思います。聖母マリアはイエスの母であり教会 の母です。小説家 遠藤周作は母マリアについて、次のような美しい文を寄せています。 「子を産んだ瞬間から女の顔は一足とびにもう娘の表情でもなく、一人の母親の顔になりかわります...だが彼女はや がて今、馬槽の中で眠っている赤ん坊の母親だけでなく、この子の劇的な運命を通じて全ての母親となるでしょう。 こ の日から歴史の続く限り、悲しみと苦悩にあえぐ母親になるでしょう。」 イエスの死を、聖母マリアが十字架のそばで見守ったと伝えるヨハネによる福音書です。聖母マリアは十字架の下で 使命を授かり、イエスは十字架上で息を引き取る前に愛された弟子ヨハネを通して、すべての人間に自分の母を与えま す。母に「婦人よ御覧なさい。あなたの子です。」と言われた。それから弟子に「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19- 26~27) マリアはイエスから一人の息子の母でなく全ての人間の母なる使命を受ける。受胎告知から、ベツレヘムか ら十字架に至るまで全ての道を受諾することでもあり、母マリアは十字架の傍らに立ちわが子の悲痛な死を看取り、自ら の腕に亡がらを抱きかかえます。マリアはイエスの生涯のどの時にもイエスの言葉と行いに従った、忠実なイエスの弟子 だった。初代教会は聖母マリアを中心人物にしたと「使徒言行録1-14・2章」には記されています。 イエスを産み、育てる母の愛。イエスの生涯に示される神の御旨に従うこと。 全ての人々を慈しみ、愛する心を学び 取れます。 (※ ≪参考文献≫ 当原稿はカトリックの教えを基に記述しています。) 『聖母のなかの女性たち(美しく生きるために)』 ホアン・カトレット他著 -2- 【作品班: T.小山恒生】 (新世社) 寄稿 ドヴォルザークの最期 厚生労働省の調査統計(2006 国民健康・栄養調査)によれば、40~74 歳の男性の約 60%、女性の約 40%が高血圧(140 /90mmHg 以上)だといいます。同省の「健康日本 21」における試算では、この血圧を平均 2mmHg 降圧できれば、脳卒中死 亡者を約 1 万人減らせるんだそうです。 さて、ドヴォルザークの生涯について、その最期は脳卒中によるものとなっています。医師であるディーター・ケルナー著の 『大音楽家の病歴』によれば、ドヴォルザークは高く評価された交響曲等の作品の栄光によって尊敬される晩年であったが、 オペラの大作を完成させることに固執した。しかし、その歌劇「アルミダ」はR・ヴァグナーからの借用物が目立ちすぎており、 彼の筆力の不安定さ…病気の進行を感じさせるものであったということです。高血圧から尿毒症、動脈硬化症そして心臓の 合併症も患うようになり、イライラしたり猛烈に怒ったりすることが頻繁になったといいます。一般に高血圧には、自覚症状がほ とんどないと言われていますが、重症で合併症もあればこのようにもなるのでしょう。この時代に血圧測定や降圧剤があれば、 頑強な彼はかなり長生きできたと言われています。 友人?A・ロバートソンは、1904 年 5 月 1 日の昼すぎのことを次のように記しています。(長い間ベッドに居たが)医師は今日 は体調がよいから昼食は起きてテーブルについてよいと言った。(途中略) 彼は立つとふらふらするので、練習のため部屋の 内を一周し、次に安楽椅子に座り食事についた。異常に食欲が進みスープ一皿を平らげたが、急に「頭がぐるぐる廻る。横に なっていたほうが楽のようだー。」これが最後の言葉。直後顔面は蒼白、次に真っ赤になり椅子に倒れこみ、意識を失い、もう 一度何か話したいようであったが理解できない声が出るのみであった。 ≪参考文献≫ 『大音楽家の病歴』 第2巻 ディーター・ケルナー著 ・・・・ 以上アーメン 【B.冨田卓邦】 石山昱夫訳 (音楽之友社) 編集後記 【時代背景班】 ドヴォルザークはモーツァルト没後 50 年目に生まれ、今年が生誕 170 年。この記念すべき年に「ドヴォ研」に参加し、貴重 な体験をさせてもらった。団員の皆様に少しでもお役に立てたという事であれば嬉しい限り。研究会のメンバーは本当によく 頑張ってくれた。文章1本出来上がるまでの労力と時間は並大抵ではない。多士済々の集まりだからこそやれたのだと思う。 およそ8ヶ月、私は才女、論客に囲まれ幸せだった。 【会長 B.池田修平】 ドヴォルザークについては知らないことばかりで、特に肉屋の職人資格を持つというミスマッチには驚いた。音楽家と して多分唯一だろうが、良き家庭人だった彼がたまには家族のために肉料理を作ったのだろうか。研究会ではいつも作 曲家の意外な面を知ることができ、人物像を思い描く上で想像が広がって楽しい。でもチェコの歴史がこんなに複雑だ ったとは!時代背景も情報量が多くてうまくまとめ切れなかったのが心残りです。ドヴォ研で良い仲間とめぐり合い協力 し合ったこと、そして「ドヴォ研ノート」を読んで下さった皆様に感謝、有難うございました。有意義な 1 年でした。 【S.天野美才子】 【楽曲解説班】 ドヴォルザーク研究会に参加させていただいて、色いろな面でとても勉強になりました。個人的にはあまり「研究」ができな いままで、「いつか調べてみたいこと…」がそのままになってしまい反省しきりです。メンバー皆さんの熱いパワーに圧倒されっ ぱなしだった暑くて長い夏が終わり、いよいよ本番です。ドヴォルザークの晩年は子供も大勢育って幸せだったでしょうか。子 を亡くした悲しみはいつか癒えて、スタバトの最後の和音のように穏やかな心境で過ごせたのでしょうか。現代でも同じで、今 年は本当に災害の多い年になりましたが、いつかそれぞれに笑顔が戻りますようにと願いを込めて演奏会に臨みたいと思い ます。 【S.堀尾峰子】 ドヴォ研に入って色々勉強できた事が一番の収穫でした。でなかったらここまでドヴォちゃんに接することはなかったでしょ う。そしてプログラム作成の一端を担うことがいかに大変なことかがよくわかりました。今までは演奏会前にもらうという受身でし たが作るのは2千人相手に能動的行為の重要さを改めて思い知らされました。 さて知り得た情報を演奏会で如何に発揮で きるか それが問題だ。 【B.市岡伸幸】 -3- 【生涯班】 初めて触れた本物のクラシックがドヴォルザークの「新世界より」でした。今回の研究会の活動を通じてドヴォルザークの生 涯をたどれたことを,とてもうれしく思っています。音楽は人の想いの表現であり,その時々のエピソードと合わせて聴くと,自 らの想いと重なって,より深く癒されるのだということがわかりました。楽しかったです。皆さんありがとうございました。 【S.各務麗子】 「ドヴォ研ノート」を編集する勉強をさせてもらい感謝しています。ドヴォルザークの生涯についての本を本屋さんや図書館 で探しましたが、数が少なくインターネットでも探しました。絶版になっている本は中古ですが、インターネットとその本を売っ てくださった人のおかげで手に入れることができました。ドヴォルザークはボヘミアの民族音楽や故郷を愛し、経済的に苦しい 時も美しいメロディーを作り続けた努力家であり天才的であることを学びました。 【S.矢口妙子】 「新世界」や「チェロ協奏曲」「レクイエム」「スターバト マーテル」の作曲者ドヴォルザークについていろいろな本を読んだり ネットで調べたりして学ぶ機会が得られたことは、本当によかったと思います。研究会で、原稿を喧々諤々?シビアにみんな で議論しあったこと、台風の最中にもかかわらず熱心にプログラム原稿の検討をしたこと、今となってはなつかしいです。「ドヴ ォ研ノート」を皆さんがお役に立てていただけたらうれしいです。 【A.鵜飼奈都子】 ドヴォルザークの生涯は、幼少時代、肉屋の修行時代、「ラ・ボエーム」のような貧しい暮らしの青年時代、ブラームスと出会 ってからの躍動時代、アメリカ赴任時代、と概ね5幕の物語になりますが、生涯の軸となるのはチェコ民族でありチェコ人として 生きることでした。研究を進めるにつれ、彼のアイデンティティの形成の種が幼少期に蓄積され、激動の時代を経て確固たる ナショナリズムを持つに至った経緯を確認しつつ、そこで作られた作品を味わうことが出来ました。 【B.福岡敦】 【作品班】 イエス・キリスト、聖母マリア、キリスト教について上っ面に過ぎませんが、この一年であれこれ勉強しました。信仰心のない 私には到底たどることの出来ない奥深い世界であると思い着いたのです。「スターバト マ―テル」は不条理に死んでいく我が 子をみとる母親マリアの心情に共感するという歌い込みが出来ればと考えています。ドヴォ研メンバーの博識に多くを学ばせ てもらいました。感謝します。 【S.山田和子】 聖母マリアと共に歩んだこの一年(約10ヶ月)でした。作品班として「スターバト マーテル」について調べてみて、その無数 の出版物だけをみてもマリアが世界中の人々にいかに愛されているかがよく解りました。そして聖母マリアはキリストの母では あるけれど、「マリア的な」母性への愛着は私を含め誰にも共通にあるものだと改めて思いました。 締め切りに追いかけられ、お互いの原稿をシビアにチェックしあったのも今はいい思い出です。とても充実した日々でした。 私たち「ドヴォ研」のとりくみが市民コーラスの演奏会の成功に少しでも貢献できれば嬉しいです。 【A.三浦松子】 最終号に来るまで何回か投稿と思いつついろいろ事情が重なり他の皆さんに負担を掛けました。私としては一般的 知識と合わせて味付けで言うかくし味的少し余韻と思っていました。市民コーラスの中での「ドヴォ研ノート」発行にあた り,スタッフの皆さん原稿持ち寄りと摺りあわせ発行等大変な時間と労力、私の思っていた以上でした。どうもお疲れさま でした。 【T.小山恒生】 小生は、この会が茶話会みたいな会と勝手に思って、趣旨とか内容を確認しないまま、今年の3月にドヴォ研のメンバーに 入れて頂きました。諸先輩方は凄く真面目で、知識欲、探求心には、ただ驚くばかりで、大変勉強になりました。という訳で、 会長の池田さんをはじめ会の皆さんには大変ご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。 完 -4- 【B.岡嶋恒夫】
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