未堂 徐廷柱の「新婦」の解明 −捨てられた女の恨みと捨てた男の悔やみ−

未堂 徐廷柱の「新婦」の解明
−捨てられた女の恨みと捨てた男の悔やみ−
金 恩 典*
1.序言
ミ ダン
ソチョンジュ
未堂 徐廷柱(1915∼2000)は、韓国では激動する20世紀を身を持って、また詩作を通じて生き抜
いた屈指の大詩人として知られており、彼の詩は広く親しまれている。これは必ずしも彼が詩人とし
て偉大であったとか、国と民族の受難期に当たって道を踏み外すことなく、常に身を高潔に保って世
人の尊敬を受けたということではない。むしろ彼は、時折決定的瞬間に人間としての弱点をさらけ出
して、ごうごうたる避難の的にもなった。詩人に期待される、歴史の展開する未来を見きわめる眼力
が彼には無かったのである。彼の関心は逆に過去の事がら、韓民族の文化の根本を探り、いにしえの
栄光を今日に復元しようとする、言わば過去指向的なものであった。
しかし、私はここで彼の評伝を書き、彼の往年の功過を論じるつもりは無い。この人の詩人として
の面貌をとらえ、幾たびの変身のもかかわらず、常にこだわり続けて来た詩精神のより所と詩心の源
泉及び彼の詩世界の一端を、一篇の短い詩を考察することによって解明しようとするものである。
2.作者の詩壇活動−人生派から霊通者としての歴史参与に至るまで−
彼は、1936年、韓国では有数の日刊紙「東亜日報」の新春文芸に詩「壁」が当選し掲載され、それ
キムトン ニ
オチャンホァン
をきっかけに文壇に登場した。彼は同年の11月、同世代の金東里・ 呉章煥らと同人誌『詩人部落』を
刊行する。彼の本格的活動はこの詩誌を主宰しながら始まるが、初期の彼の掲げた旗じるしは「人生
派」
「生命派」だった。
「生命派」という呼称は、彼自身によれば自分が1949年、『朝鮮名詩選』を編集しながら、その解
説のくだりで使い始めたという。この一派には『詩人部落』同人の一部と、
『生理』
(1937)誌の主幹
ユ チ ホァン
である柳致 環 が含まれるが、これらの共通特質は人間の基本的価値意識、その権限意識−このよう
なもののために疾走し、猪突し、郷愁し、原始回帰するところにあったという。要するに人間の値段
*
Unjon KIM 国際言語文化学科・アジア言語文化専攻(Asian Course, Department of International Studies in
Language and Culture)
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東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004)
をも一度最も根元的なものとして省察しはじめた点では、この一派の一致するものであったという。
では、この「人生派」もしくは「生命派」は、韓国の現代詩の歴史において、どの位置に置かれる
のだろうか? 徐廷柱は韓国の近代詩史の時代区分を ①草創期、②浪漫派前期、③浪漫派後期(白
潮派1)前後)、④プロレタリア芸盟派とその傾向派、⑤純粋詩派2)、⑥主知派と超現実派、⑦人生派、
⑧自然派3)、このように試みる。
彼は自分たちの詩の特性を「言語の技巧でもなく、自然でもなく、外来思潮でもなく、ただ‘人間’
その中だった」と語っている。彼等は自派の出帆を、直接的には主知派、すなわちモダニズム詩に対
する抵抗であったと認識していたようだ。主知派・超現実派などを含むモダニズムは外来思潮であり、
おもむき
言語の技巧によって詩としての趣を維持していると判断していたのである。文明批評と文明礼賛を兼
ねているモダニズムの傾向が、文化の最尖端から出発したものと見るのであれば、生命派の詩は当然
過去指向的であらねばならなかったのである。そしてモダニズムが西欧思潮にたよるものとすれば、
生命派の理論と詩風は自生的ないし民族的であるしかなかった。
徐廷柱の初期詩の土俗趣味と柳致環の原初的生命力の渇求のようなものは、このような事情をよく
かたよ
反映しているものであった。彼等は、「詩文学派」の詩までも技巧に偏 ったとして非難する。また、
自分らよりも遅れて発足した「青鹿派」の自然礼賛さえも人間を疎外したという点で排斥している。
本能的衝動までも引っくるめて、混沌状態にある生命力の噴出を歌っている徐廷柱、人間を抑圧する
かたき
すべての非人間的なものを「仇」と呼ぶ柳致環の詩は、確かに「生命派」「人生派」と命名するしか
なかった。
では、彼の処女詩集『花蛇集』所収の詩「自画像」を一べつする。
てて
父は下男だった。夜が更けても帰らなかった。
ねぎ
お ばあ
なつめ
葱の根っこのように老いた祖母と棗の花がひと株立っているのみだった。
…………
おっかあ
爪が黒い母の息子
「自画像」の冒頭、23歳の時の詩
これは驚きである。旧韓末のいわゆる「開化期」から1930年代まで、詩人と言えばどことなく良家
出身の、海外留学でも体験したような、精神的貴族趣味をにおわす知識人といった通念があった。
これに対し、彼は自分の家庭が貧しいのみならず、卑賎な家系だが、それでどうしたとでも言わん
ばかりに居直っている。このような一種のRomantic agonyとでも名付けられそうなposeは、当時の韓
国の植民地的状況を反映したものと解釈できる。
しかし、1945年の第二次世界大戦とともに訪れた民族解放と、大韓民国の樹立を契機に、彼の詩風
は一転した。それまでの、彼がよく口にする「肉声の慟哭」のような暗い情熱、反逆的、偽悪的ジェ
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未堂 徐廷柱の「新婦」の解明
スチャーを精算して、自分なりの価値指向的詩の世界を開拓した。それが「新羅の空」である。1000
年も続いた新羅時代は、韓民族が独自の文化を花咲かせながら栄えた黄金時代であったというのであ
る。これは一方、西洋の物質文明の洪水のような侵入に抵抗して、古来の東洋の精神文化の優越性を
主張するものでもあった。
もち論、彼のこのような見解及び主張には厳しい批判の声もあった。新羅時代は、骨品制を基にし
た貴族社会であったが、徐廷柱自身の祖先が支配階級であったという保障はないのである。いや被征
服国家の百済の遺民であったかも知れない。それに現代に過ぎ去った新羅を再現でもしそうな言動は、
時代錯誤的でもあろう。地理的にも東洋と西洋は境界を定めることが至難である。ましてや文化の領
域で東西を分割できるだろうか?
しかし、彼は自分のペイスで、先へ先へと突き進んだ。上掲の『花蛇集』を皮切りに、『帰蜀途』
(1946)
『徐廷柱詩選』
(1955)
『新羅抄』
(1960)
『冬天』
(1968)
『チルマジェ神話』
(1975)
『彷浪者の
詩』(1976)『西に行く月のように…』(1980)『鶴が鳴いて去った日日の詩』(1982)など枚挙にいと
まがない。
彼の詩と詩集は1962年頃から海外にも翻訳紹介されはじめた。その国々と地域は、米・佛・西・独
・英・愛などに及んでいる。4)彼の詩の魅力は、どこにあるのだろうか? 詩人としての彼の生涯は、
さなぎ
既に述べたようにある種の動物が脱皮を重ねながら成長するように、または昆虫が幼虫から蛹に、そ
れがさらに殻を脱ぎ捨てて成虫になるように、絶えず新しい領域を探し求めながら変貌を遂げて来た。
み な
これも彼が大詩人と看倣される由縁である。
よ
しかし、彼の心の奥底には、何か知ら熾烈に燃え盛る詩精神の拠り所、芯とでも言うべきもの、自
こわ ね
己主張の声音があったはずである。私はこの問いに答えるべく、彼の詩「新婦」を取り上げ、その様
式と構成上の特異性、題材の出処、モデルの有無、古代歌謡から現代詩に至るまでの長い期間にわた
る韓国の文学史上に、この詩の置かれるべき位置を見定め、最後には隣国の中国文学・日本文学にお
ける類似した作品などと比較を試みることにする。
3.テキスト
ここに、テキストとして、筆者拙訳の和文と、韓国語の詩、原文を提示する。
新婦
新婦は、緑のチョゴリ2)眞紅のチマ3)でやっと耳の下の髪の毛だけほどかれたまま、新郎とい
いま
っしょに初夜を未だ坐っていたが、新郎が急に尿意を催しつと立ち上がって走ってゆくはずみに
ひじかね
衣服の裾が扉の肘金に引っ掛かりました。それを新郎は考えがまたそそっかしく、自分の新婦が
淫らで、その間を待ち切れず後ろから引っぱるのだとそのようにだけ思って、振り返りもせずに
出て行ってしまいました。扉の肘金に引っ掛かった衣服の裾が千切れたまま、用を足してからい
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けない女と言いながら逃げてしまいました。
それから40年か50年が過ぎた後に、俄かに別の用事ができて、この新婦の家の近くを通りかか
のぞ
ったが、それでも暫く気になって新婦の部屋の扉を開けて覗くと、新婦は耳の下の髪の毛だけほ
いま
どかれた初夜の姿そのまま、緑のチョゴリ眞紅のチマで未だそっくり座っていました。いじらし
から
い気がしてその肩を行って撫でるとその時になって辛い灰になってぱさっと崩れ落ちてしまいま
した。緑の灰と眞紅の灰に崩れ落ちてしまいました。
4.題材 −怪談もしくはミステリー類の志異文学−
詩であれ小説であれ、新聞記事のような一般の散文であれ、読者の関心は、まず「何が書かれてい
るか」に集中する。「新婦」のあらましは、新婚初夜にひょんなことから新婦をうたぐって家出、い
や逃げ出した男の話である。逆に言えば、初夜に新郎に置き去りにされた新婦の話である。韓国の昔
の婚礼の風習は婿入りの形式であった。
今の時世にも、結婚式場に姿を現さない新郎、または新婦の話はある。新婚旅行先のホテルで口論
のあげく、別別に帰宅してそれっきりとなったカップルの例もある。
「結婚は人間大事」であり、
「二
姓之合、万福根源」とたたえられた昔と違って、今は結婚の人生における意義も、重大さも、相対的
に薄れてきたあかしとして、保守的性向の村老たちを嘆かせる若者たちの仕草である。
ところでその昔、この詩に登場する男のように、新婚初夜に新郎が新婦を置き去りにして逃げる事
件が起こりえただろうか? 常識的には思いもよらないが、だからこそ語り草になったのではなかろ
うか?
昔、韓国の良家の娘たちは、「大門」からかけ離れた奥にある、外来客はおろか下僕でさえも出入
りを遠慮した母屋で暮らした。慈しみ深いが厳しい母親のひざもとで、書物を読んだり針仕事に刺し
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未堂 徐廷柱の「新婦」の解明
ゅうなどを習いながらひたすら婦道を磨き、嫁ぎゆく日に備えていた。
そして、子女の結婚の件は、母親とは相談したであろうが、嫁選び・婿選び・日取りまで、主とし
て家父長である父親の権限に属するものであった。そして結婚は、本人同士の好き嫌いの問題ではな
く、「二姓之合、万福根源」の文字どおり、両家の繁栄を念願する行事であって、本人たちはある点
では、このような目的のための道具の観さえあった。
それでも、婚礼の儀式ははなやかで、それに継ぐうたげは楽しかったはずである。事前に見合さえ
までできなかったゆえに、新郎・新婦は好奇心をもって相手を盗み見しながら胸をわくわくさせてい
たのではなかっただろうか? うたげの終わった後、文字どおりの「華燭洞房」にはあでやかに着飾
った新婦が、恥じらいのあまり口も利けずうつむいている。
新郎はきれいな新婦が気に入ってか、ほおを擦りよせて、愛情を表したようでもある。新婦の耳の
下の髪の毛が乱れていたのが証據だ。
だが、外に出た新郎はそれっきり消息を絶つ。それから4・50年の歳月を隔てて舞台は再び新婚初
夜の部屋ではあるが、「華燭洞房」の明かりは消えて、廃屋のかび臭い薄暗い陰うつな部屋である。
そこに新婦はいた。緑色のチョゴリに眞紅のチマを着て。たいていの男だったらいかに豪胆な者でも、
ひと け
人気のない暗い部屋の片隅に、しょんぼり座っている昔のままの新婦の姿、その鬼気におびえ、悲鳴
でもあげながら外に転がり出たか、その場で卒倒でもしただろう。
しかし、この男は、まるでそこに当然あるべきものと期待でもしていたかのように、恐怖心ではな
く憐れみといとおしさで、近寄って肩を撫でた。では4・50年もの間、新郎は新郎なりに悩み苦しみ、
自分のかつての軽はずみの衝動的行動を悔やんで、その新婦を恋しく思い続けていたのだろうか?
一方、新婦も自分を置き去りにした新郎に対し、面当てに怨念晴らしどころではなく、消息の知れ
ない新郎を案じ、新郎の無事の帰宅にほっとした印象さえある。それで、新郎の自分に対する疑いが
晴れた瞬間、いや疑いが残っていたとしてもそれよりは愛情が勝っていることが分かったとたん、い
ささかの無念も消え失せて、一握の灰となって崩れ落ちたのである。佛家の説を借りれば、「成佛し
た」とでも言えるだろうか?
ここに至って、私には昔の読書体験の一つが思い起こされる。それはロシアの文豪トルストイの書
」
(1899)だ。それは、作者自身の姿でもある貴族青年Nekhludoff
いた長篇小説「復活「Voskresenie」
の人間性の回復による魂の救済の物語である。
若い頃、休暇で伯母の家に遊びに来ていた青年士官Nekhludoffは、その家に養女兼お手伝いさんと
いった形で住みこんでいる Katjucha を、一夜の快楽のためにもてあそんだ。その結果、妊娠した
Katjuchaはふしだらな女ということでその家から追放される。売春婦にまで成り果てた彼女は、ある
事件に巻き込まれて、殺人容疑者として法廷に立たされる。
証人として法廷に召喚されたNekhludoffは変り果てた彼女の姿に良心のかしゃくを覚える。彼の必
死の助力にもかかわらず、彼女はシベリアへ流刑に処せられる。彼は罪の償いの行為として、シベリ
アへ護送される Katjucha ら囚人一行と旅立つが、心をかたくなに閉ざした Katjucha は、最後まで
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東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004)
Nekhludoffを寄せつけないだろう。しかし、自分の快楽のため他人の運命を狂わせることをものとも
しなかった冷酷無情の利己主義者、Nekhludoffの良心のよみがえりと人間らしい心情の回復は、彼に
は救いとなったはずである。
「新婦」に登場する男、新婚初夜に逃げ出した新郎も、4・50年もの間さいなまれてきた良心の呵
責と、償いの行為としての帰家、そして新婦との再会は、Nekhludoffの復活に比べることができるだ
ろうか?
5.様式と構成 −相反する要素の融合統一−
この「新婦」は、文章面では明らかに散文である。散文は、
「純粋詩(poésie pure)
」を唱えたHenri
Bremondの言葉を借りるまでもなく、コミュニケーションの延長線上にあるものであって、それは言
語を一種の道具として取り扱い、そこでは言語にただ実用性だけが求められる。従って非実用の領域
に成立する、芸術品である詩においては、散文的陳述は背斥される。Paul valéryも詩作に当たって、
偶然性を排除することによって詩作品を完璧なものにすることを心掛けた。
このような観点に立つと「新婦」は見なれた叙情詩とは違って、一つの物語であり、散文的な陳述
が目立つ。それにもかかわらず、作者はこれを詩として発表し、読者もこれを詩として受け入れる理
由は何であろうか?それは、この作品が本質的に詩の成分を多分に含んでいるからであろう。話し手
の位置にある詩人は、感情を抑え言葉を節約して控えめに語っているが、時折情緒の高ぶりを見せる。
それは「同文反復」や「言葉の遊び」となって表れる。死者が遺体を生き生きと保ち、待ちわびてい
た新郎の手が肩に触れるや否や、一握の灰、緑色と眞紅色の灰となって崩れ落ちるといった現実と非
現実の交錯する幻想的結尾部は正に詩としか言い様がない。この「新婦」は、
「散文詩」
「譚詩」の一
典型としてとらえられる。いわば、詩的成分が散文の様式に盛られ、両者が仲良く共存結合している
とでも言える。
構成面でこの作品を眺めると、前半部と後半部に区分できる。前半部の文段は、語り手の諧謔的口
振り、登場する新郎のそそっかしさなどで喜劇的側面が強い。ここでは断然新郎が主人公である。彼
は自分がいかにも性慾からも超越した、無類の道徳君子であるかのように振る舞って、恥じらい慎み
深さでうなだれている新婦を「淫らな女」とさげすむが、ここに至っては読者は失笑を禁じ得ないだ
ろう。これに対し、後半部の文段では、詩人の口調はがらっと変わり、悲痛哀切の感さえある。読者
は、40・50年ぶりに新婦の家を訪ね、部屋に入った新郎の眼を借りて新婦の姿を凝視する。登場人物
は紛れなく新郎であるが、実の主人公は新婦である。
喜劇と悲劇の混在、Protagonist 新郎のあまりにもひどい仕打ちに対するAntagonist 新婦の無言の抵
抗が緊張をはらんで、この短い一篇の詩のスケールを、大きく膨らませて見せる。これも作品の大詩
人としての力量を示すものであろう。
この詩には二つのモティフが見当たる。
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未堂 徐廷柱の「新婦」の解明
① 新婚初夜に新婦を置き去りにして逃亡する新郎。
② 死んでも死に切れず、なおも生き身同然の遺体を保って、ひたすら新郎の帰りを待ち続ける
新婦。
この二つのモティフは、あたかもソナタまたは交響楽での音楽的様式、もっと具体的に言って、第
1主題と第2主題とが交互に入れ替わりながらメロディを展開していくように、たがいにもつれなが
らエスカレートして、この詩においては「絶頂(climax)」を兼ねている結尾部に登りつめるのであ
る。
二つのモティフ間の対立・葛藤は、つまり新郎と新婦の対決は、緊張をはらみながら上昇を続け、
白熱を放って遂に読者をして種のカタルシス状態にのめり込ませる。
この作品において、詩人はいにしえの語り部、講談師の位置にある。たいへんな悲劇的内容である
にもかかわらず、情に溺れまた流されることなく、常に冷静に構え、淡淡と話の筋だけをかいつまん
で語っているのが印象的である。
6.登場人物のモデル −詩人の外祖母−
「新婦」は、この詩人の刊行した第6詩集『チルマジェ神話』に収められている。「チルマジェ」
は詩人の生まれ育った韓半島西南地方の黄海に面した辺鄙な漁村の俗称である。行政上の正式の名称
は全羅北道高敞郡富安面仙雲里。彼はこの辺鄙な寒村で、感受性の鋭敏な幼少年時代を過ごした。
チルマジェ村は、人口も少く戸口もわずかで、ほとんどの住民が小作農か、塩田の人夫か、または
漁労で生計を立てていた。であるから、少年徐廷柱は、その村の誰とでも顔見知りで、そこで起きた
事件を見聞きしていた。『チルマジェ神話』には幼少年時代に彼がこの村で出合った人物の印象と、
彼ら彼女らにまつわる事件、または小話、そして自分の体験などを散文詩の形式で書いた小品が収録
されている。
「新婦」も、実はこの村で聞いたひとこまの昔話の体裁で書かれている。詩人の自序伝「我が心の
遍歴」7)によると、自分の家からさほど遠くない所に母の実家があって、彼の母の母(外祖母)が、
独りっきりでひっそりと寡婦暮らしをしていた。彼はこの外祖母が好きで、しょっちゅう遊びに行っ
ていた。この外祖母が無類の昔話の愛好者だったのである。彼女は、若い頃遠い海に漁に出たまま消
息を絶った夫を思い煩いながら、その暇と侘しさを紛らすため、手当たり次第に昔話の本などを読み
漁っていた。
これを考慮に入れると、「新婦」のモデルは実在していた。詩人の外祖母、その人に外ならない。
彼女はとっくの昔に漁に出て溺死した夫を慕って、たった一人の娘(詩人の母)を育てながら、やが
ては死後の夫との再会を心待ちに生き長らえていたのである。そうすると「新婦」の作中人物、新郎
新婦両者の生死の関係は逆になる。
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新郎:既に死んでいて、妻の思い出の中によみがえる。
新婦:この世に「未亡人」として生きている。
ろうおく
徐廷柱の幼少年時代、外祖母の貧しいわらぶきの陋屋は、入り江に面した低地にあったらしい。そ
して何年かに一度は、海面の水位の上昇によって、庭が水浸しになったりした。
「新婦」と同じく『チルマジェ神話』所収の散文詩「海溢」の全文を掲げる。
海水が満ち溢れ小川伝いに登って来て、麻の茎で囲った垣根の透き間をくぐり抜けとうもろこ
おばあさん
し畠の中を通り過ぎて庭になみなみと溜まる日が私の外祖母の家にはありました。こんな日私は、
こ えび
ひばり
ひなどり
はぜ・小蝦をそこで探そうと歯の内側まで余りにも嬉しい雲雀の雛鳥の鳴き声にほとんどなって
素足でキャッキャッと笑いながら追っかけましたが、いつも蚕が糸を吐くように私を見さえすれ
はてしなく
おばあさん
な ぜ
ば昔話を無制限になさった外祖母は、この時には何故だかひと言もいわず既に随分年老いた顔が
薄い夕焼雲色のようにほんのり赤らんで海の方だけ茫然と眺めて立っていしました。
な ぜ
その時には何故そうなさるのやら私はまだ知らなかったのですけれど、その方が亡くなられた
おじいさん
今ではそのわけをようやく分かりはしそうな気がいたします。私の外祖父は船に乗って遠い海に
漁に出かけた漁夫で、私が生まれる前のある年の冬の激しいあらしにどこの海でだったのやら巻
おばあさん
き込まれてはとこしえに戻って来ないままになっているとか言われますから、多分外祖母はその
き
夫の海水が自分の家の庭に群を成して押し寄せてくるのを見てそのように口も利けず顔だけ赤ら
めていたのでしょう。
(
「海溢」全文)
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未堂 徐廷柱の「新婦」の解明
詩人の記憶によれば、外祖母の家はふだん何かしら恐ろしい雰囲気に包まれていた。そしてこのよ
うな津波の時、うつろな目で物思いにふけっていた外祖母の顔にもまた恐ろしい表情を浮かべていた
と書いている。自分を慕って津波に乗って訪ねてきた冥界の人、その人との魂交、また死人との同居
のゆえだったのだろうか?
おばあさん
のぼ
外祖母んちの庭に上って来た津波にはですよ
と し
60歳の年齢に21歳の顔をした
と し
そして千の年齢をとっても今では死なないことに決めた
こ みち
(海溢)
新郎が帰って来る草むらの間の小径があるのですよ。
若くして死んだので、死後40年の歳月が流れていても、若若しい青年の顔色に姿で老女のもとに訪
ねてくる夫。
「新婦」のヒロインは、新婚初夜に夫に置き去りにされ、死んでも死に切れず、生き身同然の遺体
を保ち続けていた。しかし実際には夫に捨てられ、または夫と死別して、この世に生き長らえてきた
無数の不運な女性の姿ではなかろうか? しかも貞女の鑑として。
7.
「新婦」を彩る情緒 −いわゆる「恨」の問題−
あだ う
日本で一般庶民に愛され、最も人気のある物語・演劇といえば仇討ちの話である。赤穂義士の登場
チュンヒャン
フンブ
「興夫伝」などの小説が善玉・悪玉の
する「忠臣蔵」がその例だ。これに対し、韓国では「春香 伝」
う や む や
対決の構造を持ちながらも、結局は有耶無耶、両者の和解で終わる。なぜだろう? このような指摘
と疑問を筆者は知人の日本人教授からいただいたことがある。これは、韓国人の性格が楽観的である
からかも知れない。
韓国のある古典文学者8)は、韓国文学の特色として、「好爺型人物」の登場と「否定の美学」とを
論じた。妻の不義の現場を目
しながらも、いさぎよく妻をあきらめて、「奪われしものをいかにせ
ん」と歌を歌い、舞を舞いながら退出したといったいわく付きの新羅時代の「處容歌」がその代表的
例である。このような伝統が上掲の古典小説にも知らず知らずのうちにうけ継がれていたようだ。で
は、「新婦」の女主人公も處容型のお人好しのたぐいなのだろうか? いや、そうではない。むしろ
激しい気性の烈女型の人物である。もしもお人好しタイプであったら、そのような得体の知れない男
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東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004)
のことなどあきらめ、忘れ去って、さっさと他の男に嫁いで行ったであろう。
はん
しかし、新婦は死してもなお新郎を待ち続けている。新婦の胸中にわだかまっていたのは、「恨」
の情緒だった。では「恨」とは何だろう。韓国の『標準国語大辞典』には、「とても恨めしかったり、
チョヒチョル
悔しかったり、悲しかったりしてできたわだかまり」と説明がなされている。これを引用して 喜 氏は、次のように述べている。
この「わだかまり」は相手に向けて爆発させることなく、自分の奥底にしまっておくことである。
韓国人は「恨の民族」と言われてきた。不幸や不運を乗り切るために努力するよりも観念したり、宿
命として受け止めたりで、消極的にそれを抑える。また、それをよしとする。ある面では自虐的受け
止め方である。弱者を名乗り出たり、共感したりすることでカタルシスを感じる面がある。9)
話の仔細を示すと次のようになる。
新羅第49代王憲康王が開雲浦(蔚州)に遊覧中、東海の竜王が7人の王子を連れてあいさつに来た。
王がその中の一人を供って帰り、これに妻として美女を与え、また高位の官職を授けて国政をたすけ
させる。ところが、この美女に疫病神が恋慕し、彼女を犯したと記されている。歌の大意は次のとお
り。
みやこ
京 に月が明るく、夜もすがら遊びほうけた。
帰り来て寝床に入ろうとしたら、脚が四つはみ出ている。
二つはおれのものだけど、二つは誰のものなのだろう。
もともとはおれのものだったけど、奪われしものをいかにせん。
處容作(憲康王 5年、879年)
ムンスン テ
では、この「恨」はどのような過程を経て生成されたのだろうか? 同氏は、小説家の文淳太氏の
次の説明を引用する。
まず、最初に、長年続いた内乱と外敵の侵略により、国民は不安に駆られ、心理的に退行する
ようになった。第二に、儒教的な階級社会において、賎民と奴婢には自由が与えられず、根深い
「恨」を持つようになった。第三に、男尊女卑の世界で、服従と忍耐を強いられる女性の「恨」
が形成された。第四に、加虐的な官吏に対する被虐者としての民衆の「恨」が形成された。
これに次いで、同氏は自分の意見を付け足す。
要するに「恨」というものは、強い者と弱い者の間のギャップから生まれてきたもので、強い
者に歯向かうことなく、強い者に強いられることを運命と受け止め、順応する知恵でもある。国
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未堂 徐廷柱の「新婦」の解明
際関係としては、日本、中国、ロシアという超大国に囲まれた地政学的な理由も影響しただろう。
しかし、一時おおいに受け入れられ、また納得されてきたこのたぐいの見解−韓国文化を支配し
また特徴づける情緒は「恨」であり、その形成過程はかくかくしかじかであったという、型にはまっ
た説明は、その後批判され、部分的には廃棄されもした。例えば次の一文である。
はん
はん
我我は韓民族である。ところが最近には恨民族と別称してもいい程恨という単語が流行してい
る。恨が宿った山河とか、韓国女性の恨、恨がこびりついた歴史といったたぐいの表現が新聞雑
誌とテレビジョンでたびたび言及されている。はなはだしきは、我が民族の特徴が恨であるとた
めらわず言う人さえいる。
恨とは一体何だろう。天壽を全うできなくて恨、婚姻できなくて恨、貧しくて恨、常に圧迫さ
れて恨、地下資源が豊かでなくて恨、外国の侵略に苦しめられて恨、志を成し遂げることできな
くて恨というのをみれば、成就できなかったしこりが恨の意味だろうか? 例えそれが恨として
も、そのような状況がどの時代、どの国にせよ無くて、ただ韓国人にだけわだかまっているのだ
ろうか。10)
しかし、韓国文化の基底に、このようなわだかまりが巣くっているのも見逃せない。韓国民謡を代
いや け
表する「アリラン」がその例だ。この歌の内容は、自分に嫌気でも起こしたのか立ち去って行く男を
のろ
恨んで、「1里も行かないうちに足を傷めるだろう」と半ば呪っているものではあるが、その表面を
ひと皮はがすと、断ち切れない、相手への未練と愛情が露見される。
「新婦」の女主人公も、自分を捨て去った新郎に対する愛憎こもごもの、複雑な感情にさいなまれ
たはずである。しかし新郎の帰家と自分の肩に触れる新郎の手ざわりによって、彼女の骨髄にまで徹
はん
していた「恨」は、雪のように溶けて彼女は成佛し、新郎も同じく救われたのである。
8.
「新婦」の原型 −韓国文学史上に展開する「新婦」の系譜−
「新婦」は、作者である詩人の幼・少年時代に、多分昔話の名手であった外祖母から聞いたストリ
や もめ
ーが「ねた」になったようである。そしてそれに若くして夫を失った寡婦暮らしのその外祖母の姿が
オバラップされたのが分かる。しかし、それだけでは納得できない、その背後に何かがあることが感
知される。それは何であろうか?
韓国の村落の出入口、山路の峠など、至る所に「望夫石」と名付けられている人の形をした岩石が
立っている。帰らぬ夫を待ち続けて、とうとう絶命して石になった女の姿なのだと言い伝えられる。
北海道の一地名である「立待岬」もあるいは同様の伝説が絡んでいるかも知れない。
キョンジュ
ウルサン
チスルリョン
望夫石の代表的なものの一つに、新羅の古都、慶州から新興工業都市の蔚山に行く途中の鵄述嶺
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東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004)
(海抜850m)にある岩石が数えられる。
ヌルチ
ミ サ フム
新羅の訥祇王(9代王)は、日本で捕囚生活を余儀なくされていた王弟の未斯欣の身の上を案じ会
ペクチェサン
いたいと願っていた。これを見かねたサップナ郡の太守朴堤上は、家族にも告げず日本(博多あたり
か?)に渡り、計り事で王弟を脱出させ、自分は命を落とす。この事実が朴夫人に知らされたものの、
ユル ポ
彼女は夫の死を信じず、鵄述嶺に登っては夫が船出した栗浦の遙かな沖合を眺め、そして絶命した。
スクチョン
この哀話は朝鮮王朝の 宗 11年(1845)に出版された著者未詳の『増補東京通志』20)に書かれている。
ところで、「新婦」に登場する女主人公のような女性像は、韓国文学の流れには、一つの典型とし
て繰り返し語られて来た。それらを示すと次のとおりである。
「箜篌引」11)「西京別曲」12)「井邑詞」13)「カシリ」14)「つつじの花」15)などである。朝鮮時代の最
チョンチョル
高詩人とたたえられる鄭
(1536−1593)の代表作「思美人曲」「続美人曲」などの歌辞も、
争に
巻き込まれ配所に流された自分の身の上を、夫に疎んじられて離別された女の立場を借りて歌ったも
のである。
一方、死んでも生き身同様の遺体を保って夫との再会を待ち続けるといった「新婦」のモティフも、
古典小説の領域で再現される。朝鮮時代の作者不明の「淑英娘子伝」16)がその代表的例である。
しかし、この類の小説は、韓国文学に限らず広く中国と日本など隣国の古典にも見られる。中国の
明の時代に書かれた瞿佑の「剪燈新話」巻3に収録されている「愛卿伝」17)がその一例であるが、そ
の前にも『捜神記』18)などに先例が発見できる。
日本では、上田秋成の『雨月物語』巻2の「浅茅ヶ宿」19)が、上掲の「愛卿伝」の日本版であるこ
とが知られている。
ところで、①捨てられた女、②生き身同様の遺体を保ち続ける死人、この二つのモティフはヨーロ
ッパの説話と文学作品にも現れる。Goetheの「Faust」に出て来るGretchen、Ibsenの「PeerGynt」に
登場するSolveigは音楽化されて、歌としても歌われる。これらの女主人公は、男性の移り気のせいの
被害者の立場にありながらも、特にSolveigの場合は、仕返しよりは無償の愛によって、あまねく男性
には「久遠の女性」として昇華する。上掲の作品は、自分は気ままに振る舞っても女には背かれたく
ない、そして女性に永遠の至純なる愛を得たい男の期待から書かれたものだろうか?
後者の②の例としては、B.Stokerの「Dracula」が考えられる。この場合はもともと「愛」とか「恋」
とは関係のないせいか、生血をすすることによって死人が死体を保つので、そして神の摂理・自然の
秩序に逆らうので、あくまでも悪魔的存在である。『牡丹灯籠』の愛卿もこれに似たような存在であ
る。これらの話は、至純な愛を異性に求めるためではなく、怖いもの見たさに、また恐怖という強烈
な刺激と被虐待的、倒錯的快感を得たいために読まれるところにその特徴がある。7年間にわたる不
在の末にようやく帰って来た夫の勝四郎を寝床の中に連れ込んで共寝をした妻の宮木の眞の意図と心
情が問われるわけは、動機と結果の間のずれのせいでもある。
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未堂 徐廷柱の「新婦」の解明
9.結語
徐廷柱の「新婦」は、様式上では「譚詩」「散文詩」の領域に置かれる。これを題材面でとらえ直
すと志怪文学の系列に連なる。登場人物は、口伝による昔話の主人公たちだが、現実の作者の自伝に
よると、彼の外祖父母の姿と重なる。
読者は、この「新婦」を読みながら憐憫の情とともに想像をたくましくする。新郎は初夜の花燭洞
房から逃げ出して、他の女と暮らしたのだろうか? また幸福だったのだろうか? そして新婦のそ
の後はどうなったのだろうか? 「新婦」の作者は、言葉を最小限に節約し、また感情を抑えている
ので、読者はいきおい自分の人生における体験と想像力に頼らざるを得ない。もしも若かった頃交際
していた女性を裏切った記憶のある男には、古傷のかさぶたをはがされたような、一種の内出血を経
験するだろう。
若い頃に愛していた Friederike Brian を捨て去った Goethe は、後年自作の戯曲「 Gotz von
Berlichingen」(1773)の中で、婚約者を捨てた主人公のWeislingenを死に追いやって、自分を罰した
ようである。
ほこら
韓国の田舎に行くと、由緒のある古い村落の村はずれなどによく苔のむした小さな祠を見かける。
せいもん
「旌門」といって、忠臣・孝子・烈女らを国家が表彰して祭ったもので、その中にはその主人公の生
涯・業績などを刻んだ石碑がある。
ひと昔まで、家庭を持つ男女の間の不義は犯罪行為として法の裁きを受けた。これが家庭の純潔を
きずな
守り家庭崩壊を防ぐ効果があると考えられたのである。しかし今の時世には夫婦の絆も弱まり、「浮
気」のような単語が使用されることによって罪の意識も薄れた感がある。
このような世相から見ると、たとえ国家社会にこれといった功献は別に無かったとしても「新婦」
の女主人公は、旌門に祭られる資格があるだろう。いかに夫につれなくされても、またむごい運命に
翻ろうされても、儒教の教えと戒めどおり「不更二夫」
、操を守りとおしたからである。
最後に、長い期間にわたる作者の創作活動において、この詩「新婦」がどのような位置におかれ、
そしてどのような意味を持つかを再度確かめたい。
彼は常に変貌を遂げて来たけれども、かたくなに守り通した精神的支柱と領域があった。自分の出
身地である全羅道のあくの強い方言と、因縁説とか輪廻転生説などに表われる、佛家的世界観と人生
観、いや、それにも増して執着した巫俗的ものの考え方などである。だから彼の詩は題材も思想も、
口調さえも土俗的であるしかなかった。それが彼の「新婦」によくにじみ出ている。
彼は、1945年の民族解放後に、自虐的反抗精神から立ち上がって、新羅の文化を礼讃しその永遠性
おう か
を謳歌した。それから、新羅・高麗・朝鮮など王朝時代の古典に親しみ、そこで出合った人物たちと
その逸話を詩に歌っている。例をあげれば『大同韻府群玉』14)に書かれている説話で、ある人が死ん
だ愛人の魂魄を竹筒に入れて持ち歩きながら、随時に呼び出しては対話をしたといった話などである。
彼は、魂交または霊通者としての歴史参与のような精神経営の態度は、今日に作用するすべての大
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東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004)
きな宗教にそのまま維持されており、それが現代の弊害をいやす薬になっていると主張する。永遠を
区切って隔てる時代主義、地域主義、そして「死んだらそれっきり、何が残るのか?」といった唯物
思想から人間を救済するのは、「永遠」そのものに脈絡を与え、歴史の停滞を解く、このような霊通
者としての歴史参与のみであると唱えた。
このような彼の主張はに対しては多数の批評家の反問と論議を引き起こしもした。これらを一々検
討することは、この場では控えることにする。しかし、彼の表明する詩作精神と意図は、この「新婦」
をより深く理解し、鑑賞する上に少からず役立つと考えられる。
この拙論の締めくくりとして、次のことが言える。「新婦」に登場する男と女の関係は、何もこの
特定の新郎と新婦だけに限定されるものではなく、理由と事情とはどうであれ、妻を捨てたすべての
男、そして夫に捨てられたすべての女に当てはまる一つの典型ではなかろうか? そして、この地上
に男と女という生きものが生息していて、それが夫婦という名で結ばれて、家庭という生活の場を築
いてそれを維持していく限り、
「新婦」のような悲劇は永遠に繰り返されるドラマでもあろう。
〈註〉
ホン サ ヨン
ノ チャ ヨン
パクチョンホア
イ サン ホア
パク ヨン ヒ
ヒョンチンコン
1)白潮派:1922年、洪思容・盧子泳・ 朴鐘和 ・李相和・朴英煕・ 玄鎮健らによって刊行された純粋文芸
誌『白潮』の同人に与えられた呼稱。感傷的傾向が強かった。
2)純粋詩派:一名詩文学派。1930年に刊行された『詩文学』の同人たちに与えられた呼稱であるが、これ
らの詩人たちは、「大衆文学」及び政治意識の強い「参興文学」に対抗して、「芸術至上主義」の立場
キムヨンナン
にあったので、純粋詩派とも呼ばれた。この一派のリーダーは金永郎であった。
パクモグウォル
パク トゥ ジン
チョ チ クン
3)自然派:青鹿派の別稱。青鹿派とは、1940年頃に文壇に出た朴木月 ・朴 斗 鎮 ・趙 芝 薫 の3人を指すが、
青鹿派とは、彼らが後年、共同で詩集『青鹿集』を刊行したことにちなむ。彼らの詩風は、現実の社
会的状況から眼を背けて自然観照ないし自然との交感に傾斜したので「自然派」とも呼ばれた。
4)海外に翻訳紹介された徐廷柱の詩・詩集
1981年、アメリカNew Jersey州の『Quarterly Review of Literature』夏号の「世界詩選」に58篇が収
録される。David Macken(New York Cornell大学教授)英訳
1982年、「朝鮮タンポポの歌」金素雲・白川豊・鴻野映二 和訳、冬樹社
ミン ヒ シク
1982年、『赤い花(La Fleur rouge)』の文庫版、閔熹植
佛訳 Luxemburg、Euroeditor社
1986年、『忘れられぬことなど(Unforgettable Things)』David Macken、ソウル、時事英語社
1986年、
『新羅風流』
鴻野映二・白川豊 和訳、角川書店
1987年、『彷浪者の詩(Poèmes du Vagabond)』金和栄 佛訳、フランス、サンジェルマン・デプ社
1988年、『菊の花のそばで(Janto al crisantemo)』キム ヒョン チャン 西訳、Madrid大学出版部
ざくろ
1988年、
『柘榴の花(Lyranatapgel-bute)』チョ ホァソン 独訳、ドイツ Bouvir社
1989年、『徐廷柱詩選( Selected Poems of So Changjou )』David Macken
英訳、アメリカ
Columbia大学出版部
1993年、『MIDANG』Brother Anthony Taize
英訳、英国 ユネスコ Forest Book社(ソウル 民
音社刊行の『未堂散文』が原本)
1995年、詩集『彷浪者の詩(Poem of a Wanderer)
』ケビン・オロック 英訳 アイルランド Dedalus社
1995年、『SO JONG-JU』キム ヒョンチャン 西訳、スペイン Madrid大学出版部
2000年、
『夜が更ければ』韓国文学英訳叢書、ラムガ
2000年、『SO CHONG JU』西訳版、ソウル 民音社
5)チョゴリ(
6)チマ(
):韓国の伝統的衣服の一つ。上衣をいう。
):同上。女性の着るはかま。女性用の婚礼の礼装は、ホァルホッ(
)といって、朝鮮
王朝時代に公主(王女)の着用する大礼服が、当時から現代に至るまで、一般庶民にも着ることが認
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未堂 徐廷柱の「新婦」の解明
められた。儀式が終わるとこれを脱いでふだん着に着替えるが、これも新婦の衣裳としては、緑色の
チョゴリに鮮紅色のチマと決まっていた。
7)「我が心の遍歴」:『徐廷柱文学全集』巻3、ソウル 一志社、1972、PP.8-61.
8)鄭炳
(チョンビョンウク)、ソウル大学校の国語国文学科に在職していた。「否定の美学」というのは、
「然り」よりは「否」、「生」よりは「死」、「出合い」よりは「離別」、「笑い」よりは「涙」などにこだ
わっていたのに注目して命名したものである。
9)脚注 僧一然の『三国違事』巻二、金富軾の『三国史記』巻十一参照
10)『現代韓国を知るキーワード77』
大修館書店、2002、PP.36-38参照
11)金完吉氏の一文 「韓民族は恨民族か」より
12)箜篌引(一名「公無渡河歌」):ハープに似た弦楽器であるといわれる。中国、晋の国の人崔豹が、290
∼307年の間に著したといわれる『古今注』書かれているのを、朝鮮時代の人、韓致
(1765−1814)
が『海東釈史』で引用した。
君、河を渡るなかれと引き止める妻をふりきって渡河中に溺れ死んだ「白髪狂夫」の妻の歌と伝え
られる。彼女もこの歌を箜篌引にあわせて歌い終えた後、夫の後を追って河に身を投げて死んだ。
ピョンヤン
13)西京別曲:「西京」は、今の 平壌 市の別称。「別曲」は歌曲の一ジャンルの呼称か? 内容は、大同江
を渡って立ち去ろうとする男を引きとめようとするが、それがかなわず、男を恨みまた自分を嘆く妻
の歌である。
チョンウブ
14)「 井邑 詞」:井邑に住む女が、全州の町に出かけた行商人の夫が帰らないのを案じて歌ったもの。井邑
は、全州市の西南方にある小邑。
15)「カシリ(
)」:行くのですか?の意。
自分を捨てて去って行こうとする男を引きとめようとする女の辛い心情を歌ったもの。
16)「淑英娘子伝」:朝鮮中期の古典小説の一つ。
「淑英」は女主人公の名。
〔概要〕朝鮮の世宗の時代に慶尚道の安東地方に白という男がいた。彼は夢の中で出合った仙女の淑英
と巡り合い、めでたく結婚した。そして10年の歳月が流れた。その頃科挙が催されるという知らせが
あって、彼も上京することになる。しかし夕暮時、見知らぬ宿屋に着いた彼は、激しい郷愁に襲われ、
また妻が恋しくなって夜を徹して家にたどり着き、妻の部屋に忍び込んで睦言を交わす。
一方、息子の不在ゆえ、邸内を巡視していた白の父は、嫁の部屋から男の声が漏れてくるのを不審
に思った。とかし彼は嫁の貞節を信じていたのでそのままにした。
翌日も白は、妻に対する恋しさゆえ家に引き返す。そして父に立ち聞きされた。父は嫁の婢女にわ
けをただす。ところがこの婢女は、自分の女主人の夫を横恋慕していたので、これを機会にして、女
主人の淑英に無実の罪を着せた。淑英はのどを突いて自害する。
ところが、葬式を出そうにも、死体が床にこびりついたようで、動かすことができない。勿論、顔
かたちも生きたままの姿だ。
白はめでたく壯元及第(首席合格)して、家に帰ったらこのありさま。白は妻の霊を慰めて、仙薬
をのませて、妻を生き返らせる。
17)「愛卿伝」:
〔概要〕浙江の嘉興の名妓羅愛愛は、同じ町の資産家である趙家の息子に愛されてその妻になった。趙
は役人に取り立てられることになって家を出る。
ところが江南の都に着いてみたら、頼りにしていた吏部尚書は、病のため免職になって、都にはい
なかった。
元の至正16年に張士城の乱が発生し、元の達丞相は苗族の大将楊完に嘉興を守らせた。ところが彼
の軍はかえって掠奪暴行をほしいままにする。趙家も楊の部将の劉万戸に襲われた。そして愛卿(愛
愛の愛称)は劉の求めに応じず、貞操を守りみずから首をくくった。
戦乱が収まって家に帰った趙が、妻の埋葬された銀杏の木の下を掘ってみたら、愛卿の死体が生き
身同然の顔で横たわっていた。趙は死体を香油で洗って更めて埋葬した。
それから10日程の後、ある夜中に愛卿の幽霊が現われて二人は共寝をした。
18)「捜神記」
始皇帝の時代に、王道平という男が美しい少女、父喩と婚約した。しかし、彼は兵隊にとられて南に
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東京成徳大学研究紀要 第 11 号(2004)
連れ去られた。父喩は他の男に嫁がされ、そして死んだ。帰って来た道平が墓を尋ねて、呼びかけた
ら、父喩の魂が現れて、自分の墓を掘りおこして棺をこわしてくれとたのんだ。そのとおりにすると
果たして、彼女の遺体は、生きている人のようだった。そして生き返った彼女と王は長生きした。
19)「雨月物語」
〔概要〕下総の葛餝(かつしか、今の千葉県市川市)の住人勝四郎は、足利染の絹の交易で家を再興さ
せようとして、毎年京から訪れる雀部(さきべ)の曽次という男に伴われて上京する。そして相当の
利益を得た。しかし戦乱のため、郷里に帰れない。
7年経ったある日、ようやく意を決して、10日をかけて郷里に帰る。あたりはすっかり荒廃してい
た。夜中に我が家に着くと、妻の宮木はやつれ果てた顔で出迎えた。夫を確認すると、さめざめと泣
きだした。夫婦はその間のことなどを語り合って寝床につく。
あけがたに寒気がさして目をさました勝四郎は、自分独りのみが朽ち果てた廃屋の野草の中で横た
わっているのを発見して驚く。
※同類の話、謡曲「砧(きぬた)
」
20)「大東韻府群玉」、朝鮮の宣祖の代に權文海が著作した書籍。地理・言語・歴史・姓氏(家門)・人名・
孝子・烈女・守令(役人)・山名・木名・花名・獣名など種々の項目を設けて解説を施した。百科事
典的体裁の本である。
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