被爆者の訴え 池田 早苗 私は十二歳の時、母と買い出しに行く途中、爆心から二キロ、今の長崎市小江原で被爆しま した。B–29 の爆音がしたので空を見上げ飛行機を探しましたが、薄い雲がかかり見つけること が出来ない。その直後、濃厚な青い光が私の目に突き刺さり、その瞬間意識を失いました。気 がついた時には大きな木の根元にしがみついてガタガタと震えていました。母は爆風で吹き飛 ばされていました。自分たちの上にすごい爆弾が落ちたとばかり思い、買い出しの農家の方へ と必死で逃げていきました。黒い雲が空を覆い、太陽の光は見えなくなりました。 急いで買い出しを済ませて帰宅する途中、全身真っ黒焦げの人間が近づいて来ます。その男 性は目と歯だけが白く、フラフラと歩いて近づき、母が瓶に入れた水を見て、その水を飲ませ てくれと手を伸ばします。母が水を飲ませますと、その人はようやく言葉が出て、「長崎は全滅 した」と言います。私が「小父さん、それは爆弾が何個も一度に落ちて来たのですか。」と聞く と、「すごい爆弾が一発だけ頭の上に落ちて来た。そしてたくさんの人が真っ黒焦げになって死 んでいる。たくさんの人が今にも死にそうな悲鳴をあげ苦しんでいる。」と言います。 母は家にいた兄弟五人が心配になり途中で歩けなくなる。私一人で帰宅しますと、爆心地か ら八百メートルの家は全壊。父が一足先に職場(長崎県庁)から帰宅して兄弟を助け出し、家 の近くの広い畑の真ん中に畳を二枚敷いてその上に寝かせていました。妹が一人いないので姉 に尋ねると、直前に家の外に出たので近くで死んでいるに違いないと言います。私は家の近く の溝(1 メートル位)の中に多数の人々が死んでいる中から、妹を見つけ出しました。顔も頭 も全身が真っ黒焦げです。姉に妹の服の色を聞きますと、小さな花柄のパンツを着ていたと言 います。パンツのゴム紐の内側に残った一、二輪の花柄だけで見分けることが出来ました。原 爆は人間の顔もわからないほど、真っ黒焦げにして焼き殺してしまったのです。 野宿生活一週間が過ぎた日に、一番年下の弟が死にました。母は子どもたちの死のショック で寝込んでしまいました。父は生き残った兄弟の看護で手がはずせません。父は私に死んだ弟 を一人で火葬してくれないかと言います。私は一人で弟を火葬しました。小さな木片を集め、 最後に柱を引きずり積み上げ、その上に畳のゴザに巻いた弟をのせて、下から火をつけます。 弟は関節の音をグシグシとたてて火の中に消えて行きます。手を合わせて、弟に最後の言葉を サヨナラと言ってあげます。夕日が真っ赤に西の空に、それに燃える炎が重なり合って、私の 涙を赤くそめて流れ落ちます。この弟は、太平洋戦争が勃発した真珠湾攻撃の夜に生まれ、終 戦の次の日に死にました。四歳のこの弟は、平和の日を一日も生きることが出来なかったかわ いそうな弟でした。そして十二歳の私一人で自分の弟を火葬しなければならなかったのが悲し い戦争です。父は私が戻ってきた時のあまりにも悲しい姿を見てか、その後、弟、妹、姉の火 葬には立ち合わせませんでした。 翌十七日には八歳の弟が死に、次の十八日には十歳の妹が死にます。毎日毎日一人ずつ死ん で行きます。最後に一人生き残っている十四歳の姉も、次の十九日死んで行きます。 それは父母がいない午後でした。すぐ横の池に動くものが見えた。それは赤トンボです。赤 トンボは池の真ん中の棒にとまりました。新型爆弾が落とされ、人間も動物も昆虫も植物さえも、 すべての生きものは全部焼き尽くされてしまったのに、どこからともなく飛んで来た生き物を 久しぶりに見たとき、一人生き残っている姉と両親、私は生きられるのだと思った。 私は今、平和教育、原爆証言活動をしています。長崎を最後の被爆地とするために核兵器廃 絶の声を全世界に広げましょう。
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