2014年10月】『十字架を担う

教会報
2014年10月 第61号
「十字架を担う」
主任司祭
岩間
勉
「私は十字架から離れない」という言葉を残して、教皇ベネディクト 16 世が 2013 年 2 月 28 日に退位さ
れました。後に初代教皇となり殉教したペテロは「あなたは生ける神の子、メシアです」という信仰告白をして
います。しかしこの時、ペテロの理解は深いものではありませんでした。受難を通る救い主ではなく、ダビデの
ようなこの世的な強力な王を期待していました。このメシア理解は、苦難を通して清められる必要がありました。
かつて非暴力運動を導いたガンディーは「罪は、苦しみを甘受することによってあがなわれる必要がある」と言
いました。受難を前にしてイエスは「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」(Jn18:11)と語っています。
イエスは社会共同体の一時的安定と統一のためになされる暴力的ないけにえを終わらせ、愛をもって十字架を担
い全ての人に祝福をもたらします。悪しきシステムを遠ざけ、全ての人に祝福をもたらす神の子はどこを歩んで
行くのでしょうか。
よく知られているアブラハムによるイサクの犠牲の話には、祭儀の由来伝承があったといいます。つまり、長
子を人身御供(ごくう)として神に捧げるカナンの宗教的風習に対して、神が子供を犠牲にすることを止めさせ、
代わりに動物を犠牲にするよう指示したという口伝伝承です。これらは旧約聖書の各所、出エジプト記、レビ記、
申命記、士師記、エレミヤ、ミカに記されています。人見御供の目的は、災難を引き起こす神々の怒りを宥める
ため(ヨナは縛られたまま海に放り込まれた)
、自分や他者、共同体の罪を償うため、神に立てた誓いのため(ギ
レアド人エフタはアンモン人との戦いに勝利した際、最初に自分の家から出る者を焼き尽くす捧げものとする誓
いたてた結果、自分の娘を嘆きながら捧げることになった)などがあります。こうした惨い人身御供は、全体主
義的な統一をもたらすため、歴史を通じて広範囲に行われてきました。
『邪な人々の昔の道』を著したルネ・ジラールは、福音書のテキストは文化人類学的な次元があると指摘しま
す。「キリストの内に全ての犠牲となった者を見ないとき、我々は迫害する宗教に落ち込む危険をおかすことに
なる」と警告します。そして「悪しき身代わりのシステム」をこう説明しています。「共同社会は危機に際して
犠牲者を特定し、その者に憎悪を集中させ、殺すことによって全体の安定と統一を図ろうとする」と言います。
「民全体が滅びるよりも、独りが滅びるほうが良い」
(Jn18:14)とカイアファは言いました。ローマの大火の
時には、多くのキリスト者が犠牲になっています。もしこの身代わりのヤギを捧げなければ、所謂、災難の中で
万人の万人に対する闘い・内乱が始まるので、これを避けようとするメカニズムが社会や共同体に働き出します。
しかし、犠牲者の死によってもたらされる安定は、一時的なもので終わります。多くは孤児や貧しい者、少数派
が犠牲になりました。この少数派を犠牲にして成り立つ一時的な安定と統一は、全く愛に根ざしたものではない
のです。多数者によってこの犠牲が捧げられると、神聖な祭儀的な色彩を帯びてきました。ヨブは迫害者たちが
奉じる偽りの神を告発することによって、キリストの前触れとなっています。いけにえとなった者たちを守るの
は、キリストの霊、助け主なる聖霊だけです。
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終わりの時に神自身が自分の命である独り子を捧げられた。御父は犠牲者、貧しい者、恵まれない人びとを守
るために、その子を地上に送りました。創造主であり、審判者である方が、犠牲になった者たちの運命を最後ま
で共にしたのです。ここでイエスは真理を明らかにすることによって、「サタンのメカニズム」がもたらす偽り
の平和を告発しました。段階的に救いの計画を進められる神は、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす捧げものやい
けにえであろうか。
むしろ、主の御声に聞き従うことではないか」
(サムエル上 15:22)と述べ御言葉イエスを派遣しました。イエ
スがただ独り犠牲者の位置に見出されるのは厳密な論理に沿っています。神はこの世の王と暴力によって対峙す
ることはない。メシアは人に暴力を加えるよりは、自ら甘んじて受ける方でした。確かに御父は「私が望むもの
は愛(重荷を担い合う)であって、いけにえ(犠牲者をつくり断罪する)ではない」(Ho6:6)と言います。全
ての愛の業は人をして神と対面させます。イエスの十字架はこの世の迫害者の奉じる暴力の神と、犠牲者と一つ
になった愛の神の両者を露にしています。復活は人間社会安住の基盤、身代わりのヤギのシステムが実はサタン
のわざであることを示します。イエスの死は復活となり、排除された御言葉は、真理の言葉となります。この言
葉を受け入れる者は、神の子として新しく生まれていきます。御言葉の排除はサタンの支配にとっては、終末の
始まりとなりました。
犠牲者・迫害者の双方を悪しきサイクルから救出して、神の子として命と平和の道を歩ませるためにイエスは
愛を持って十字架を担われた。27 年後に獄中から出てきた南アフリカのマンデラ氏は、圧迫される者と圧迫す
る者の両者が解放されなければならないと語りました。他者の自由を奪う者は憎しみという牢獄に閉じ込められ、
偏見と狭量というかんぬきの背後に置かれる。キング牧師は敵対する者にこう語ります。「我々は苦難を負わせ
るあなた方の能力に対して、苦難に耐える我々の能力を対抗させよう。したいことをするがいい、それでも我々
はあなた方を愛し続けるだろう。我々は耐え忍ぶ能力によってあなた方を摩滅させる。いつの日か我々は自由を
勝ち取るであろう。
しかし、それは我々自身のためだけではない。我々はその過程で、あなた方の心と良心に強く訴えて、あなた方
を勝ち取るだろう。…我々が自分の敵を愛し、迫害する者のために祈るまでは、我々は決して天の父のまことの
子となりえないのだ」
。
イエスに結ばれて、私たちも憎しみを愛によって、偽りを真理によって、暴力を受難によって乗り越えていき
ます。
「汝の敵を愛せよ」とイエスは弟子たちに命じています。これはユートピアの出来事を語っているのでは
なく、現実の社会で私たちがサタンのシステムを遠ざけ、神の子として生きるために不可欠な指示なのです。
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