「帝国責任」ということ

巻頭言(成田) ― 3
ヘスティアとクリオ
巻頭言
「帝国責任」ということ
成 田 龍 一
戦争研究が転換期を迎えているという意識のもとで編集作業にかかわった『岩波講座 アジア・
太平洋戦争』(全 8 巻、岩波書店、2005-6 年。編集委員は、吉田裕、油井大三郎、倉沢愛子、杉原
達、テッサ・スズキと成田である。以下、
「講座」と略記する)が、完結した。
戦争を体験した当事者たちが、敗戦後 60 年を過ぎ、社会や人生の舞台から去り始め、戦争の記憶
や戦争の語りが議論されるようになる一方、アジアの人びとからは「従軍慰安婦」とされた女性た
ちを始め、大日本帝国を過去のものとさせないための厳しい告発がなされている。こうしたなかで、
戦争研究は、これまでの「十五年戦争研究」という方法―認識を転換(ないし修正)する必要があ
るのではないか、というのが「講座」発足の出発点であった。
「十五年戦争」というときには、1931 年の「満州事変」から日中戦争、さらに太平洋戦争を経て
1945 年の敗戦に至る 15 年間(正確には、14 年間となろう)戦闘期間に限定されており、いきおい、
空間的にも東アジアに目が限定されがちではなかったか。また、1945 年 8 月 15 日で戦時と戦後が
区分けされ、戦後における戦時の体制や人脈の継続の意識が希薄だったのではないか。また、戦時
の傷痕は、いまだに決着していないのではないか―こうした問題意識により、対象とする戦争の
名称も「十五年戦争」ではなく、
「アジア・太平洋戦争」とし、戦争認識と戦争研究の方法の転換を
めざしたのである。
この試みが成功したか否かは、百人近くの執筆者とともにアジア・太平洋戦争の戦争像を提示し
た「講座」を見ていただきたいが、あらためて思うことは、アジア・太平洋戦争をめぐる「責任」
への関心が、この「講座」を貫いていることである。
「戦後」後が意識される〈いま〉においても、
さらに「責任」をめぐる議論を核とした戦争研究が継続されていく必要があるように思う。
*
「戦後」における戦争研究として、
「十五年戦争研究」は「戦争責任」を意識的、自覚的に追及し
続けてきた。軍部や天皇、さらに「国民」をアジア・太平洋戦争に責任を有する主体とし、それぞ
れの戦争責任を問うた。ここでは、一般的な世論が日本を敗戦に導いた「敗戦責任」に傾いていく
ことを批判し、日本をアジア・太平洋戦争に赴かせた「戦争責任」そのものを問うという問題意識
のもとに、政局や軍閥の攻防ではなく大日本帝国の構造を追及していった。
『太平洋戦争』(岩波書
店、1968 年。改訂版は、1986 年)を著わした家永三郎が、『戦争責任』(岩波書店、1985 年)をつ
づけて刊行することに象徴されるが、
「戦争責任」の議論をはずしては戦争が考察しえないことを、
4 ― ヘスティアとクリオ No.4(2006)
「十五年戦争研究」は定着させていった。
「講座」では、この「戦争責任」論を継承するとともに、さらに戦争を誘引し、それに先行する
大日本帝国の植民地領有に対する責任―「植民地責任」の存在をあわせて指摘した。
「植民地責任」
は、「戦争責任」に比し、はるかに自覚されていない。政治家たちの「妄言」(高崎宗司)は、ほと
んどが「植民地責任」の希薄さに起因しているのをはじめ、アジア・太平洋戦争にかかわる多くの
回顧録や自伝でも、「植民地責任」に触れられることは稀であった。ましてや、「戦後」まで「植民
地責任」が継続していることへの意識は薄いことを「講座」では問題化した。森崎和江や小林勝、
あるいは李恢成らの「植民地責任」への自責や告発に関しては、
「講座」の拙稿(「『引揚げ』と『抑
留』」第 6 巻所収、2006 年)を参照していただきたいが、こうした「責任」への言及自体、まこと
に数が少ない。「戦争責任」の自覚も決して充分とはいえないが、「植民地責任」はいっそう無自覚
に検討されないままとなっている。
*
このとき、
「戦争責任」と「植民地責任」は、まったく切り離されたものではなく、相互に規定し
あい重なりあっていることに注意を促したい。大日本帝国が、アジア・太平洋戦争の敗戦とともに
崩壊したため、
「戦争責任」の議論が前面に出されるが、アジア・太平洋戦争は植民地領有と切り離
しては考えられない。
「帝国責
私は、こうした二つの責任―「戦争責任」と「植民地責任」とを包括する概念として、
任」という概念を提起したいと思う。大日本帝国としての歴史がもった責任であり、大日本帝国の
責任を一掃し決着しないのみならず、あらたな矛盾を加えている戦後・日本がもつ責任の総体であ
る。すなわち、戦争遂行と植民地領有の責任、さらにそれらの責任を決済せずにいるという戦前と
戦後にまたがる責任が、ここでいうところの「帝国責任」となる。大日本帝国を問うことが、大日
本帝国とともに、
(大日本帝国を問うてきた)問いの問題構成を問うことを明示する概念―方法であ
る。
「帝国責任」の概念―方法を用いてみれば、たとえば帝国内部にあった差異が他者には覆われ、
暴力的となっていく問題がはっきりする。植民地の人びとが「日本人になる」ことにより、
(帝国内
の)矛盾を乗り切ろうとするとき、
(帝国外には)暴力的となる事例など、加害と被害の葛藤―矛盾
が射程に入ってこよう。BC 級の戦犯に対する議論も、あらためて「帝国責任」として論じなおす
ことが可能となろう。
加えて、
『嫌韓流』
(2005 年)などに代表される、植民地支配をめぐる点に焦点を当てた修正主義
が跋扈している。また、話題となった、読売新聞戦争責任検証委員会『検証
戦争責任』ⅠⅡ(中
央公論新社、2006 年)は、「昭和戦争」の名称を提起するなど歴史の見直しに意欲的であるが、開
戦責任に比重がかけられ、植民地支配には言及されていない。こうしたことを見るにつけても、
「帝
国責任」ということが問われる必要があるように思う。
(日本女子大学人間社会学部・教授/歴史学)