新宿御苑の巨樹

新 宿 御 苑 の 巨 樹 た ち
グリーンアカデミークラブ
文
永野 信
写真
根本弘幸
国際香りと文化の会
「VENUS」
DECEMBER 2011 VOL23 掲載
新宿御苑の成り立ち
新宿御苑のこの広大な土地は江戸時代、信州高遠藩主内藤家の江戸下屋敷でした。明治 5 年、
新政府は近代農業振興の拠点として上納されたこの土地に隣接地を買い足してわが国初の「内藤
新宿試験場」を開設しました。今日、この面積は 58.3ha となっています。国内、欧米から取り寄
せた作物、野菜、果樹、樹木とそれらの技術を試験し、種苗の配布もおこないました。明治 7 年
には農事修学所の設置が決まり、外人教師も招聘されました。
その後農事修学所は駒場へ、そのほかは三田育種場に移って、明治 12 年には宮内省の「新宿植
物御苑」となり,皇室向けの御料生産と国内外の果樹、野菜、花などの栽培、研究が続けられ、華
族向け授産所として養蚕、製茶、缶詰めなどもおこなわれました。
欧米留学から帰った福羽逸人は明治 24 年御料局専任技師となり、海外園芸の導入をはかり、民
間への普及にもつとめました。明治 29 年には、4棟からなる大規模な温室を完成させ、洋らん、
バナナなど温室園芸植物の栽培をはじめました。今日、国の重要文化財になっている洋式御休所
もこれに合せて建てられたものです。
当時の日本が農業の米麦と林業に重きを置いていた時代に皇室園芸の名の下に近代農業、特に
花卉、蔬菜、果樹園芸の発展に果たした役割は大きいと思います。
さらに、福羽は日本が近代国家として欧米並みの庭園が必要であるとして、明治初頭から折々
に導入された多くの外来庭園樹のうち、ヒマラヤスギやスズカケノキなどを苑内で増殖していま
す。そして明治 29 年、32 年、33 年の3回にわたりロシヤ、ヨーロッパを視察し、各国の庭園と
その造築法を学ぶと共に、33 年のパリ万博の折にはベルサイユ園芸学校のアンリ マルチネ教授
の指導の下で御苑の改造計画をつくりあげました。
庭園は今日見られるように回遊式日本庭園を併設
したイギリス風景式庭園とフランス式整形庭園です。
正門から新宿門方向に延びる 800mのヴィスターラ
イン(見通し線)、広い芝生や樹林の中に伸びる曲線
の苑路。苑内各所に単植、群植された外来樹などは
あらかじめ苑内で育てられたものでした。
庭園改造工事は5年を要して完成し、明治 39 年5
月 に は 明 治 天 皇 御 臨 席の 下 に 日 露 戦 争 戦 勝 記念
イギリス風景式庭園
の祝賀会が挙行され、庭園は「新宿御苑」と改称さ
れました。
庭園改造の基本設計図ではフランス庭園の頂部に
二階建てルネッサンス式の饗宴殿が描かれていまし
たが明治天皇の聖慮により中止されたといわれ、今
日も広い砂利広場として残っています。
フランス式整形庭園
明治 40 年には東京市の街路樹 10 種が定められ、翌 41 年にスズカケノキの苗木用挿し穂とユ
リノキの種子が大量に払い下げられ、その後も神宮外苑、絵画館前のイチョウ並木用にイチョウ
の種子が使われました。
大正 6 年から、それまで浜離宮で開催されていました皇室の観桜会が、昭和 4 年からは赤坂御
所の観菊会が、広大な新宿御苑で催されるようになりました。明治 14 年に植えられた吉野桜は後
に染井吉野と改名されて大木になり、庭園改造時に全国から集められた 70 品種の里桜も開花期を
迎えていました。また観菊会は江戸時代の肥後や嵯峨、伊勢、江戸の古典菊が日本庭園の各所に
それぞれ、独自の上屋に飾られて、苑内を回遊しながら鑑賞されました。
しかし、このような皇室による二大催事も戦雲の濃くなった昭和 12 年秋以降取りやめとなりま
した。
大戦後の昭和 22 年、新宿御苑は皇居外苑、京都御苑とともに厚生省の所管となり、昭和 24 年
には「国民公園新宿御苑」として一般に公開されました。観桜会は昭和 27 年から時の総理大臣が
ご招待する「桜を観る会」として、観菊会は 28 年から厚生大臣、後に環境大臣がご招待する「菊
を観る会」として皇室庭園時代の華やかさを引きついています。
今日、新宿御苑は開苑 100 年をこえ、苑内の木々は百数十年を経た巨樹となって、大都市の中
の緑のオアシスとして重要な役割をはたしています。
次ぎに、こうして新宿御苑の庭園樹として保護、管理されてきた主要巨樹について、今日地球
環境保護のためのテーマとなっている種の保全・絶滅危惧種の問題を念頭におきながら記述を進
めましょう。
1.御苑のシンボルツリー
ユリノキ
イギリス風景式庭園のほぼ中央に、寄せ植えされた 3 本のユリノキがあります。その高さは 33
mとひときわ高く、天を掃いているようです。近くに 2 本、単植されたものがありますが風で枝
が折られ、痛んでいます。やはり寄せ植えが必要な樹種なのでしょう。
ユリノキの渡来は、日本最初の理学博士
となった伊藤圭介が明治 6 年にアメリカの
デービット・モレー博士から種子をもらい、
自宅で育苗、明治 9 年に内藤新宿試験場と
小石川植物園に植えたものに始まります。
御苑では上記の 3 本と御休所前の 6 本で、
樹齢は 138 年になります。
ユリノキはモクレン科ユリノキ属で、原
産国はアメリカ東部、現地では花の形から
チューリップ・ツリーと呼ばれています。
3本のユリノキ
幹が太く、素性がよいことからアメリカ原住
民はこの材からカヌーを造っていたそうです。
日本では当初その葉の形が職人の着る半纏に似ていることからハンテンボクと称されていまし
たが明治 23 年、時の皇太子、後の大正天皇がこの苗を小石川植物園にお手植えの折、ユリノキと
命名されました。属名の Liriodendron によっています。
5 月中ごろ、淡緑黄色のチューリップ様の花を咲
かせますが、この花には良質な蜜が多量にあること
から、近年、カラスが学習をして蕾のうちから食い
ちぎって落とし、木の下は蕾の残骸で一杯になりま
す。最近では都内の養蜂家も集蜜をしていて、蜂蜜
は珍品扱いのようです。
都内の街路樹では四谷の迎賓館前、日比谷公園周
辺の並木が周囲の建物と良く調和して、美しい景観
をなしています。これらはみな御苑のユリノキから
ユリノキの花
採取された種子によるものです。
御苑にはほかに千駄ヶ谷門の近くに同属のシナ
ユリノキが 2 本あります。中国中部が原産地で、
1875 年(明治 8 年)イギリス人シェラーにより発
見されました。葉は緑色がやや濃く、花は小ぶりで、
黄緑色の少ない緑色の花を咲かせる絶滅危惧種(※)
です。アメリカのユリノキとは後に述べる隔離分布
の関係にあります。
シナノユリノキの花
(※:ここでいう「絶滅危惧種」とは世界または日本のレッドリストに記載されている種です。
以下同じです)
2.農事修学所が輸入した
ラクウショウ
御苑の西の端、新宿高校の近くにラクウショウ(落羽松)の巨木 11 本が、亭々と聳えています。
その樹高は 34m,幹周 4.4m、あたりは昼なお暗い深山の雰囲気です。太い幹の周りには根から
氣根が生えていて、高いものは 1m にもなっています。その形は筍が生えているような、あるも
のは仏像が座しているような、または拳を突き上げたような奇怪さです。新宿御苑ではこの辺り
が渋谷川の源流地域であったことと玉川上水の取水がこの辺りを流れていたことから湿地になっ
て、生育が良く、氣根も発達したものと思います。
ラクウショウはアメリカ南部、特にミシシッピー河流域に自生するスギ科ラクウショウ属で、
湿地、沼地を好み、呼吸のために氣根を地上に出します。秋には羽状複葉のような小枝が赤茶色
に紅葉して、鳥の羽が舞い落ちるように落下する様子から日本では落羽松と名付けられました。
ヌマスギとも呼ばれ湿地、沼地周辺の庭園樹として好まれています。
ラクウショウの日本への渡来について幕末のペリー来航記念樹というラクウショウの巨木が東
京狛江市の石井家の庭に生存していますが、伝承のみで確信的な記録はありませんでした。記録
としては白澤保美の「明治年間本邦へ渡来の外国樹木」に勧農寮新宿農事修学所時代に北米から
ラクウショウの種子を輸入した、とありますから新宿御苑のラクウショウは明治7~11 年ころに
導入したことになります。
今日、狛江市石井家の他、都内の小石川植物園、林試の森公園、井の頭公園そのほかのラクウ
ショウと新宿御苑のものを比較してみても樹高、幹径、氣根の発達状況、そのた樹相すべてにお
いて勝っており、新宿御苑のラクウショウは明治7年ごろに導入した、現在樹齢 137 年の最も古
い巨樹であると確信しています。
ラクウショウの気根
ラクウショウの巨木と気根(右下)
3.常緑樹のモクレン
タイサンボク
初夏の朝、高い木の枝先に大きな白い花を咲かせるタイサンボクは苑内の数箇所に植えられて
いますが、なかでも旧新宿門からレストラン・ユリノキに向う苑路脇に立つ 1 本は樹高約 25m、
幹径 0.9mとひときわ大きく、威容を誇っています。この道筋は江戸時代からの古道で、明治 38
年の庭園改造の際にもそのまま残された道ですからこのタイサンボクは導入当初からこの場所に
あったものと思います。
タイサンボクの日本への渡来は明治6年、アメリカより種子を輸入したとの記録がありますが、
どこに播種されたか確認できていません。その後明治 12 年に世界一周旅行で来日したアメリカ第
18 代大統領、グラント将軍夫妻がいまの上野動物園前の公園に記念植樹したホソバタイサンボク
は今日なお元気に生存していますが、この苗木は開拓使嘱託、津田仙が麻布本村の自宅で育てた
ものだといいます。津田仙は農事修学所とも関係していましたので御苑にはこの頃きたものかも
知れません。
タイサンボクはモクレン科モクレン属、アメリカ南東部の原産で、フィラデルフィア辺りが北
限です。日本では泰山木の和名から中国から来た樹と思われがちですが、大きな上向きの花の形
さん
が大杯に見えることから大盞木と名付けられ、その後泰山木になったといいます。
モクレンの仲間はおよそ 1 億年前の白亜紀に裸子植物から被子植物に進化した初期の形態を残
している原始的な植物で、長く伸びた花軸の周りにたくさん
のおしべ、めしべがらせん状に取り巻いています。
江戸時代からの古道に立つタイサンボク
タイサンボクの大きな花
江戸時代の末期、ペリー提督の一行が持ち帰った日本の植物をハーバード大学のアーサー・グ
レイが見て大変驚いたといいます。アメリカ東部にしかないと考えていたモクレンの仲間がたく
さんあったからです。
モクレン属、ユリノキ属、マンサク属などの植物は地球の気候が今より暖かかった第三紀と呼
ばれる時代には北極圏をとりまいて広く分布していました。しかし氷河期時代がやってくると、
これらの植物は次第に南方に移動し、東アジアと北アメリカにたどり着いたと考えられています。
その結果、現在見られるように両地域に似た植物が分布するようになりました。このような分布
を「隔離分布」と呼んでいます。
今日、苑内には多くのモクレン、マンサクの仲間がありますがいずれも長い地球変動の中で生
きてきた植物で、シナユリノキ、シデコブシ、などは絶滅危惧種となっています。
4.世界の五大街路樹
スズカケノキ
御苑のフランス式整形庭園にはモミジバスズカケノキの並木が、片側 4 列、両側 8 列、155 本
が整然と並び、秋の落葉後には淡緑色、縞模様の木肌がやさしく光っています。
苑内にはこの他 65 本のスズカケノキが単植または風致林として聳え、その高さは 30m、幹径
約 1m の巨樹で、これがフランス庭園の並木植えの木と同じ頃に植えられたとは思えません。毎
年行う剪定がいかに樹木の生長を抑制しているか驚くばかりです。
スズカケノキが本邦に渡来したのは明治 8~9 年頃で、伊藤圭介が小石川植物園、内藤新宿試験
場、林業試験場の 3 ヶ所に導入したと記録にあります。これが御苑に現存しているとすれば新宿
門の近くにある幹径 2.1mと 1.8mの 2 本の巨樹でしょう。
明治 25 年、福羽逸人はモミジバスズカケノキの苗木を導入し、千駄ヶ谷門の近くに 3 本の寄せ
植えにし、今も見ることができます。福羽はこの頃から庭園改造の構想を持っていたようで、苑
内の空き地にこれらスズカケノキの枝を挿し木にし、ヒマラヤスギの種子を蒔いて沢山の苗木を
造っています。フランス庭園のスズカケノキ並木の苗木もこうして準備されました。
スズカケノキはプラタナスの別名でよく知られ、公害、乾燥に強くニレ、ボダイジュ、マロニ
エ、ポプラと共に世界の主要街路樹です。スズカケノキ属には 3 種類あり、アメリカ原産のアメ
リカスズカケノキと西アジアのスズカケノキ、それにこの両種が交雑して、17 世紀末イギリスで
生まれたモミジバスズカゲノキです。日本では主にこのモミジバスズカケノキが普及しています
がこれは成長が早く、耐病性が強いということと、普及の当初新宿御苑のモミジバスズカケノキ
が親木となったからだろうと思います。 アメリカ種の幹は表皮が暗褐色の荒れ肌ですが他の 2
種は成長とともに表皮が剥離して、淡緑色のまだら模様になります。丸い集合果はアメリカ種が
1 本の果枝に 1 個付けるのに対しスズカゲノキは3~5 個、この双方を親とするモミジバスズカケ
ノキは1~2 個つけることが品種鑑別のポイントです。
4 ヶの球果を付けたスズカケノキ
明治 25 年アメリカから苗木で輸入のモミジバスズカケノキ
和名のスズカケノキはこの集合果が山伏の着る篠懸衣についている篠に似ているところから名
付けられたといいます。アメリカではボタン・ツリーと呼ばれています。
ギリシャ、コス島に現存するスズカケノキは大変な老木で、紀元前数百年前、この木の下でヒ
ポクラテスが弟子たちに医学の道を説いたといわれ、近年、小石川植物園や慶応病院、そのほか
の病院でこの木の実から育てたスズカケノキが植えられて、医学関係の人たちに崇められている
そうです。
5.香りのよい聖木
ヒマラヤスギ
と
レバノンスギ
御苑の新宿門の近くに大きなヒマラヤスギが 1 本、下枝を地面につけて鎮座しています。樹高
22m、幹径 1.2m、下枝の占める面積は 250 ㎡、中に入ると大きなテントのなかにいるようで、
暑い夏の日などは蒸散成分のフィトンチッド一杯の芳しい風が降り注いできます。イギリス風景
式庭園の 800m に及ぶヴィスターラインの終点を示すランドマークです。
御苑には樹齢 120 年前後のヒマラヤスギ、レバノンスギとアトラススギ 400 本が洋式庭園の景
観として、しかるべき場所に単植、寄植え、或いは群植にされています。
ヒマラヤスギはアフガニスタン北部からヒマラ
ヤ西部の 2~3千mの高地に自生するマツ科ヒマラ
ヤスギ属の樹で学名は Cedrus deodara=香りの良
い聖木、と命名されています。
日本への渡来は明治 12 年にイギリス人、ヘンリ
ー・ブルックがインドから種子を持ち込んで育苗、
横浜山の手、外国人居留地に植えたのに始まります。
そしてこのうちの 100 本を新宿御苑が買い上げた
御休所車寄せ前に植えられたヒマラヤスギ
といいます。
その後御苑では明治 27 年に実生で、36 年には挿し木により大量の苗木を内生したと上原敬二
は著書、樹木大図説の中で記しています
ヒマラヤスギは日本の建築物や公園などが洋風化し、大型化する明治中ごろ以降急速に普及し、
今日ではなくてはならない庭園樹です。
レバノンスギ、アトラススギの苑内への導入経緯は不明
ですが現在の植栽場所等から推定するとヒマラヤスギと同
時期と考えられます。
レバノンスギの原産地はレバノン、シリア、キプロスの
高所で、聖書のなかで「香栢」と呼ばれている聖木です。
香りが良く腐食性に強いことから古来、神殿、橋、船、棺
などの用材としてフェニキア人の主要交易品となり、今日
では絶滅危惧種となっています。
苑内には同じ属のアトラススギとその園芸品種、ギンヨ
ウヒマラヤスギが数本あります。トルコ、アルジェリアの
アトラス山脈原産で珍しい樹種ですが、日本の気候にあま
り適さないようで、毎年雨季に新梢の先端が枯れます。
レバノンスギの林
3 種を見分ける特徴といえば、ヒマラヤスギは
枝が下垂し、葉は最も長く、緑が濃い。レバノン
スギの枝は横に伸び、葉は前種より短く,淡緑色。
アトラススギの枝は斜上し、葉は最も短く、銀白
色の緑です。
御苑では温室前そのほかの場所に 3 品種を混植
にしてありますのでみてください。
アトラススギの変種ギンヨウヒマラヤスギ
6.絶滅危惧種になった
コウヤマキとタイワンスギ
コウヤマキはスギ科の1属1種、日本の固有種で、御苑には旧御休所前と日本庭園、その他に
あります。皇室秋篠宮家のご長男、悠仁親王お印の木でもあり、ヒマラヤスギ、ナンヨウスギと
共に世界の三大庭園木といわれています。
名のとおり高野山に多く、木曽、紀伊の中部から四国、関西以西に自生する、高さ 40m、幹径
1.5m にもなる、樹形の美しい樹です。江戸時代には[木曽の五木]としてヒノキなどと共に保護
されていました。興味深いことは奈良時代末期の日本書紀、神代の巻に記されているスサノオノ
ミコトの説話です。
「わが国は島国だから舟がなければ困るだろう、と言って、ひげを抜いて放つとそれは杉とな
った。胸毛を抜いて放つとそれは檜になり、お尻の毛は槙となり、眉毛は楠になった。そしてこ
れらの用途を次ぎのように定めた。杉と楠からは船を造りなさい。檜は宮殿を造る材にし、槙は
現世から奥城(墓)に臥す具(棺)を造りなさい」と。
今日、古墳や遺跡からの出土品がこの材から造られていたことは日本人が古代から樹木の特性
について多くの知識を持っていたことで、驚くばかりです。
さらに韓国、扶余の陵山里にある歴代百済王の棺材はいずれも日本のコウヤマキであることが
判っています。棺の大きさは長さ 2m、幅 80cm、厚さ 10cm でこのような大材が取れる巨樹が倭
の国にあって、歴代の百済王に貢物として贈られていたのでした。
コウヤマキの材はヒノキより白くて軽く、香りはヒノキと少し異なるがよい香りがします。乾
湿による狂いが少なく,腐朽に強い特性から最高の風呂桶材として重用されて来ましたが今日で
は生活様式の進展で見ることができません。
コウヤマキの新梢
コウヤマキ(世界 3 大庭園木)
御苑には同じような経緯で絶滅危惧種となってしまった銘木、タイワンスギが 2 本あります。
昭和3年、昭和天皇御成婚のお祝いとして、当時日本の統治下にあった台湾の邦人たちから御涼
亭,通称台湾閣が贈られました。現在もその美しい屋根瓦をみることができますが、このとき一緒
に贈られたものです。
タイワンスギは明治 37 年、小西成章が高雄山 2000m地帯の混生林の中で発見し、早田文蔵が
「タイワンスギ」
(Taiwania cryptomerioides Hayata=台湾由来の,スギに似た針葉樹)と命名、
記載した 1 属 1 種の新種です。
ところが、この木はかつて中国雲南省南部からビルマ、現
ミャンマー北部一帯の高山帯には樹齢 2~300 年の巨木が沢
山あったものが地域の少数民族によって棺材に切られ,華僑
に売り渡されて、明治末期にはその巨木を探すことも大変で
あったと、イギリスのプラント・ハンターの F.キングドン・
ウオードは彼の遠征記に述べています。
成長の遅いタイワンスギ
7.昭和天皇が愛された
メタセコイア
昭和 16 年、京都大学の講師、三木茂は和歌山県、岐阜県の粘土層に含まれる古生植物の研究で、
これまでのセコイアやラクウショウと異なり葉(小枝)が二列対生で、毬果鱗片が十字対生、そ
して落葉性の新種を発見し、これをメタセコイアと命名、発表しました。かつて日本の各地にも
生存し、150 万年前に絶滅した化石の木です。
一方この頃、中国四川省の磨刀渓という山間地で「水杉」
とよばれる巨木の自生地が発見され、戦後の昭和 21 年、鄭万
均、胡先驌らが調査した結果、この植物は三木が記載したメ
タセコイアの現存種であることが判明して世界中の植物、地
質学者を興奮させました。
このメタセコイアはアメリカを経て世界に広まり、日本へ
の渡来は昭和 24 年末、カリフォルニア大学 R・W チェネー
博士から昭和天皇へ 2 年生の苗 1 本と種子 500 粒が贈られた
のをはじめとし、25 年 2 月にチェネーから京都大学木原教授
のもとに 2 年生の苗 100 本が送られました。木原、三木らは
この苗を全国の大学、林業試験場、主要公園の 30 箇所に分配
して、生育状況や森林資源としての適性の調査を進めました。
秋の紅葉も美しいメタセコイア
国民公園としてスタートしたばかりの新宿御苑にも 2 本が配られ、現在、下の池の中洲に聳え
ています。
メタセコイアは挿し木による増殖が容易で、生長も早く、樹幹が真っすぐなことから用材やパ
ルプ材としても期待されましたが材質が柔らかすぎるとして専ら庭園樹として急速に普及しまし
た。いま御苑には 40 本のメタセコイアが苑内各所に群植されて、春にはやさしい緑、秋には褐色
に紅葉した端正な樹形を見せています。
メタセコイアをはじめとしてイチョウ、フウ、コウヨウザン、タイワンスギなどは氷河時代以
前の第三紀の日本にも生育していたが、およそ 150 万年前の寒冷期に消滅してしまい、今日では
中国大陸の一部に生存し、その多くが絶滅危惧種となっているもので、これらをメタセコイア植
物群と呼んでいます。
昭和 24 年、昭和天皇が吹上御所にお手植えになったメタセコイアの苗木は天皇が驚かれるほど
の成長ぶりで、側近たちが「メタセコイア」と呼ぶと和名である「アケボノスギ」と呼ぶようご
注意されたといいます。
昭和 62 年、新年の歌会始めで昭和天皇は「わが国のたちなほり来し年々にあけぼのすぎの木はの
びにけり」と詠まれて戦後立派に復興したわが国のことを喜ばれました。
新宿御苑の巨樹たち
新宿御苑年表各種
文献
新宿御苑
内藤清成と高遠内藤家展
新宿歴史博物館
平成 20 年
江戸の上水と三田用水
三田用水普通水利組合
昭和 59 年
日本国民公園協会
平成 18 年
福羽逸人回顧録
福羽逸人
津田梅子伝
山崎孝子
昭和 39 年
明治林業逸史
明治年間本邦へ渡来の外国樹木
白澤保美
大日本山林会
昭和 6 年
樹木大図説
上原敬二
有明書房
1977 年
林試の森公園
小林安茂、中島宏
植物の進化を探る
前川文夫
岩波新書
1969 年
F,キングドン・ウォード岩波文庫
1999 年
植物巡礼
メタセコイアと天皇の戦後史
斉藤清明
中央公論社
平成元年
海を渡った華花
国立歴史民族博物館
平成 15 年
小石川植物園案内
東京大学理学部付属植物園
横浜山の手公園物語
鳥海正泰
有隣堂
平成 16 年
日本人と木の文化
小原二郎
朝日新聞社
1984 年