成蹊大学文学研究科 文献学共通講義 和本学の提唱 2011 第5回 中世の書物 寺社の役割 それは、決して暗黒時代ではない 橋口 侯之介 摺経の開始 奈良時代には、 『百万塔陀羅尼経(だらにきょう)』→が 作られ、日本最古の印刷物である。 以後、200年間は印刷なし。11世紀初頭に供 養のために一度にたくさんの経を奉納する目的で、 すりきょう 摺 経 が始まった。 『御堂関白記』に藤原道長の千 部供養の儀式のことが載っている。 摺経は写経をそのまま木版にして印刷したもので、 巻子にする。この技術は奈良時代の装潢の技術を継 いだ経師が担った。中世の間、興福寺や高野山で盛 んに作られた。 興福寺の印刷本は春日版と呼ばれた。 その摺経のピークは鎌倉時代である。 高野版の『大般若波羅密多経』(鎌倉時代刊)→ 中世は寺社の役割が大きい 11 世紀末、白河帝上皇となって白河院と呼んで実質 的な政務をとったこと(=院政)から中世という。 中世は寺社勢力の時代。権門体制といって、公卿(三位以 上の貴族) ・将軍としての武家政権とならんで、大寺社が 権力をもった。中世の歴史の流れは、公家と武家の勢 力争いととらえ、武家が権力を掌握した時代と考え がちだが、 もうひとつ寺家の実力もあなどれなかった。 春日社や祇園社のような社家も強大だったので、 合わせて寺社勢力という。 写本の流れ 鎌倉時代の黄門様・藤原定家の役割 藤原定家(1162-1241)は、各種の物語・歌集の注釈と正確な伝本 の整理をおこない、善本(証本という)を残そうとした。とくに 『源氏物語』の青表紙本は有名。歌人としても第一級であり、『新古 今和歌集』などの撰者である。公家でがんばった文学中興の祖といえる。 ほかにも『伊勢物語』や『土佐日記』も定家が書写したものの写しが、 残されている。とくに『土佐日記』は紀貫之の自筆本が手元にあったよ うで、巻子本だったその書誌情報が記述されている。以後、定家の子孫 (=現代でも冷泉家)が何代にもわたって書写することを仕事にしてき た。古典文学の本が残るというのは、そういう地道な仕事の積み重ねで ある。 1 み こ ひだりけ 御子左家の父・藤原俊成の子として生まれた。御子左家という のは藤原道長の子・道家を祖として代々和歌を専門とした家で ある。 み ん ぶ きょう 民部 卿 を経て 1232 年貞永元年、 正二位権中納言に任じられた。 居住地にちなんで京極中納言ともいわれた。権とつくのは仮に 任じられた官位ということで、いわばお飾りである。すぐに中 納言を辞して隠居し、子の為家に家を譲って出家した。中納言 のことを唐の律令制度で別名を黄門といった。地名をとって京 極黄門などと呼ばれた。江戸時代の徳川光圀を水戸黄門といっ たことは有名だが、何も光圀だけではなくずっと用いられてき た慣習である。定家の子孫のひとつが冷泉家。いまでも歌の家 であり、書籍の保存を心がけることを相伝してきた。 書物の保存と注釈 がくりょ ピラミッドの頂点に親王や公卿出身の学 侶 と呼ばれるエリートがお り、その下に武家出身の一般僧がいてここまでを僧侶といった。この ぎょうにん どうしゅ 出身身分の上位が寺院内部でも力を持っていた。その下に 行 人・堂 衆 だいしゅ などと呼ばれる大 衆 層が寺院の形成する都市(「境内都市」という人 もいる)周辺に集まって住んでいた。僧兵もこういう層の人たちで構 成されていたし、その末端が商工業と深く結びついていた。さらにこ ひじり の寺社に出入りする 聖 や神人がいた。彼らはいわば放浪民であり、 商人でもあり芸能者でもあった。 当時の、有識者、学者というのはほとんどが僧侶だった。 本は寺社の僧侶によって、保存され、書き写されて伝わった。 注釈という研究方法 注釈は研究だけでなく、書物を残し、 「育てる」役割をはたす。 元の本に、書き入れをしていくのが、基本的な方法。 さまざまな注の方法があるが、とくに文字の校正を「校合(きょうごう)」 という。写本は誤字などが発生しやすい。 漢文の訓点に相当するのがヲコト点(上図) 。その方法は家ごとに秘 伝とされ、標準的ではんかった。現在の一、二点レ点などを使う方 法は室町時代の後半から。そこでようやく標準化された。 →『衛生秘要抄』正応元年(1288)成・延文 6 年(1361)本奥書本のヲコト点 本文に注や解釈をつけることを注釈というが、中世は僧侶が担った。 恋の物語である源氏ですら僧侶の注釈書があった( 『紫明抄』素寂= 鎌倉期の僧) 。 講義の様子がありのまま見える抄物(しょうもの)。仏典や漢文など の解説をカナで入れたもの=抄という。多くは講義の口述筆記の形をとる。そのため当時の言語を知ることもでき る。 *抄には抜粋という意味と、中国では手書き本という意味もある。 2 五山版 鎌倉時代後半から、元の印刷工が日本に来て(亡命と思わ れる)中国の木版印刷方法が伝わった。支えたのは臨済宗 の寺院で京や鎌倉の五山(有力な寺院)で、その学僧たち の勉学のために仏典=内典だけでなく、漢籍(中国の著作 物)=外典も数多く出版した。とくに南北朝時代に入って 盛んになり、室町時代も応仁の乱頃までは、よく続いた。 この学僧たちは、自らも漢詩をつくった(五山文学) 。虎関 師錬(こかんしれん)はその中でもトップクラス、漢詩を つくるための漢字字典 『聚分韻略 (しゅうぶんいんりゃく) 』 も自ら編集、また日本仏教史というべき『元亨釈書(げん こうしゃくしょ) 』も書き、五山版で刊行した。 五山版が高野版などと違うは外典刊行のほかに、宋元版の 様式を踏襲したこと。漢籍のスタイルで本づくりをしたこ とである。 南北朝時代には元から幾人もの刻工が来日して、 技術を伝えている。その証拠は、元版にならって、板木の 匡郭外に刻工名を入れることでわかる。 摺経とは異なった版式、印刷方法だった。 ☆ここで培ったノウハウは、江戸時代にもつながる。 ☆中世には物語や和歌などは、印刷されることがなかった。 http://www.mmjp.or.jp/seishindo/seikei_kinsei/ 参考文献 黒田俊雄著作集 「顕密仏教と寺社勢力」1995、法蔵館 川瀬一馬『五山版の研究』1970、ABAJ 五味文彦『書物の中世史』みすず書房、2003 小川剛生『中世の書物と学問』日本史リブレット、山川出版、2009 冷泉為人『冷泉家・蔵番ものがたり』NHKブックス、2009 3 五山版『韻府群玉』。左下の匡郭外にある のは「長有」という刻工名
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