エクリチュールにみる<現実>と<異世界>の往還

002
SFC−SWP 2015−
研究会優秀論文
エ
クリチュールにみる
<現実>と<異世界>の往還
−人間らしさを汲み取る文学的体験の考察
2015年度 秋学期
AUTUMN
吉 田 将 梧 環境情報学部 4年
國 枝 孝 弘 研究会
慶應義塾大学湘南藤沢学会
エクリチュールにみる〈現実〉と〈異世界〉の往還
人間らしさを汲み取る文学的体験の考察
國枝孝弘研究会
環境情報学部4年
71249643
吉田将梧
1
はじめに
就職活動を始めて 3 ヵ月あまりが過ぎた昨年の 6 月末、
「僕は何のために就職しようとしてい
るのだろう」という考えがふと頭をかすめて、面接や説明会を全て投げ出してしまいました。
衣食住がお金と切り離せない限り、お金を稼ぐことは生存の条件だけど、企業に入り、朝から
晩までお金のために身を削るだけの人生を想像すると、なんだかむなしくなってきます。
お金を稼ぐ力が、社会では大きなステータスになっていて、それに準じて格付けされます。
社会的には、たったひとりの人間にかけがえのない感銘を与えた売れない作家よりも、いわゆ
るコミュニケーション能力があり、最小限の努力で最大限の結果が出せるやりくり上手の商社
マンの方が、確実に有能視されます。努力は結果のためであって、大学を出て、できるだけ給
与や待遇の良い企業に勤め、愛する人と結婚し、子どもを産み、定年後は趣味と孫に慰むこと
が、真っ当な生き方として正当化されます。社会に出るとは、そうした一元化された価値観に
染まりきることを盲目的に奨励されることであって、例えば僕のようにそれに懐疑的になれば、
「就活を断念した大学生」
「モラトリアム」などと、何らかの負の枠組みをもって類型化される
はずです。あらかじめ限定された人生を限定されているとすら思わない鈍感さ、あるいは、限
定性を割り切った上で、それをすんなりと受け容れられる大人びた諦念を、生来的に備えもっ
た人は羨ましい。それでも、社会から外的に押し付けられる枠組みや前提そのものに何らかの
違和感ややりきれなさを感じたとき、人間とはそもそもどういう存在なのか、それを根本から
問い直してみたいと思うようになりました。
僕のいるこの世界では、
「幸せ」や「充実」
、さらには、「人生」という観念までもが、強度に
コード化されているような気がします。例えば結婚とは「幸せ」の象徴だし、逆に離婚とは「不
幸」の代名詞です。そうした括弧付きの「幸せ」や「不幸」とは、果たして本当の意味でのそ
れなのか。僕たちは、日常に蔓延る錆び付いた言葉によって、洗脳されているだけなのではな
いか。固着した言葉をひとつひとつ解きほぐしていく芸術における“異化”という概念に出会
ったとき、それが、僕の社会に対する疑念に何らかの光を投げかけてくれるであろうことを感
じました。
本論の執筆を通して、現時点での僕なりの答えが、曲がりなりにも出せたように感じていま
す。
2
目次
序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
第一章
人間らしさと社会の相関・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
第一節
前近代社会と人間らしさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
第一項
《第一ステージの人間らしさ》と《第二ステージの人間らし
さ》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6
第二節
第三節
第二章
第二項
象徴秩序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10
第三項
供儀と外交・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
第四項
総括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16
近代以降の社会と人間らしさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 18
第一項
北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」
』の概略・・・・・・・ 19
第二項
象徴秩序の終焉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 21
第三項
資本主義社会におけるビジネス空間と余暇・・・・・・・・・・ 22
第四項
資本主義社会におけるコミュニケーション空間・・・・・・・・ 26
第五項
総括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 29
文化的営為のもつパラドクス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30
第一項
文化的営為の持つパラドクス・・・・・・・・・・・・・・・・ 30
第二項
無力な革命家たち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32
第三項
総括、並びに、言葉への序論・・・・・・・・・・・・・・・・ 34
言葉とテクスト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 36
第一節 日常のコトバと文学の“ことば”
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 36
第一項
反復されるアウラなきコトバ・・・・・・・・・・・・・・・・・36
第二項
エクリチュールの“ことば”・・・・・・・・・・・・・・・・・ 41
第三項
芸術における異化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
第二節 テクストという広がり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
第一項
作家による異化の限界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
第二項
読者の異化行動が紡ぐ“テクスト”・・・・・・・・・・・・・・ 51
3
第三章
作品分析・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 58
第一節
第二節
第三節
心の鬱滞に傾聴する――川上弘美『真鶴』・・・・・・・・・・・・・・・58
第一項
「現実」という虚構・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 58
第二項
「輪郭」をもつコトバ・
「にじむ」
“ことば”・・・・・・・・・・62
第三項
「虚構」という現実・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 65
第四項
「母娘」という特殊性と「女性」という両義性・・・・・・・・ 68
第五項
総括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 76
不毛さを抱え、
“尚”生きる――村上春樹『ノルウェイの森』
・・・・・・ 77
第一項
東京という「中心」
・阿美寮という「周縁」
・・・・・・・・・・ 78
第二項
涙・雨・濡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 86
第三項
「中心」の極と「周縁」の極・・・・・・・・・・・・・・・・ 91
第四項
境域としての「僕」と小林緑・・・・・・・・・・・・・・・・100
第五項
総括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・109
善悪の彼岸としてのエクリチュール――元少年 A『絶歌』
・・・・・・・ 110
第一項
手記というエクリチュール・・・・・・・・・・・・・・・・・111
第二項
飽和した《母》に安住する・・・・・・・・・・・・・・・・・114
第三項
自己防衛としての“能面”
・・・・・・・・・・・・・・・・・・117
第四項
総括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・121
終章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・123
謝辞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・125
参考文献、参考 HP・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・126
4
序章
社会とは人間の生の与件である。
人間が他者と共生していくためには何らかの秩序が必要で、たとえそれに何らかの疑念を抱
いたとしても、良心を同定させなければならない。幼少期によく両親に言われた、「◯◯しなさ
い」
「◯◯しては駄目」という言葉に、「どうして?」という疑問は、明確な回答を与えられる
ことがなかった。それらは、徹底して問われることを拒む。
なぜか。
両親より発せられる禁止の言葉とは、社会という場の前提以上ではないからであり、前提と
は疑ってはいけないから前提たりうるからである。そこに、純粋な疑問としての“なぜ”を投
げかけたとしても、『男はつらいよ』の寅さんよろしく、
「それを言っちゃあお仕舞いよ」とし
か、誰ひとりとして応じることができないのである。
しかし、前提を前提として疑いもしない態度は、現状に甘んじる惰性的人間の怠慢以上では
ないのではないか。そもそも、我々は日常生活においては、自らがエポケーにあるという事実
にすら思い至る機会があまりにも少ない。
“当たり前”や“常識”などの権威あるコトバに等閑
視された領域への遡求的な思索は、往々にして、屁理屈だと嘲笑されるか、あるいは、哲学的
だと仰がれる。いずれにしても、レッテルを回避できない。一個人としての純粋な疑問に正面
から向き合い、それらが主体的に昇華される場は、果たしてこの世界にはあり得ないのか。
本論は、そうした問いに応えていくことを最終的には目指し、エクリチュールの“ことば”
に行き着く。エクリチュールとは、読者に際限なく開かれた、本当の意味で自由な位相である。
読者は作家の意図を離れ、言葉そのものと向き合うことで、日常における凝り固まったコトバ
を “異化”していく。読者による“異化”の実践とは、コトバによって社会に黙殺された深奥
の「人間らしさ」への肉薄を志向する、主体的な行動なのである。
ここで、本論の概要を簡単に紹介しておく。
第一章ではまず、人間あるいは社会がいかにして秩序や体系を具有するに到ったか、その筋
道と、秩序に包摂され得ない人間の内的な機微についての考察を、精神分析や構造主義、文化
人類学など多様な学説を借りて綜合的に行う。続く第二章では、秩序の主形態でありながらそ
の打開の契機にもなり得る言葉について論考を施し、
“異化”や“テクスト”などの芸術的概念
を借用しながら、エクリチュールの可能性について考察していく。そして第三章では、第一章
で論じた権威に等閑視されがちな内的な機微が、第二章で論じた“ことば”や“テクスト”に
よっていかに回復され得るか、その実践的明証として、個別の散文作品を分析することで、著
者自身の主体的な異化行動の軌跡を描いていくことを目指す。
5
本論
第一章 人間らしさと社会の相関
本章では、社会と人間の相関について論じていく。主に精神分析、構造主義の言説を借りて、
まず、根源的な「人間らしさ」について考察し、第一節で前近代社会、第二節で近代以降の社
会とそれとの関係性について論述を試みる。第三節では、それらの考察を踏まえ、社会と人間
の相関について、綜合的に論考・判断しなおす。社会的実践の場に、果たして「人間らしさ」
の全てを汲み取る契機があり得るのか。本章の末部において、その結論に行き着けたらと思う。
*
第一節 前近代社会と人間らしさ
第一項 《第一ステージの人間らしさ》と《第二ステージのにんげんらしさ》
人間とは、いかにして人間足り得るのか。人間らしさの本質はどこに求めるべきなのか。
こうした問いへのアプローチは、ひとつには、人間と他の生物との間に分水嶺を求める理学
的なやり方、もうひとつには、幼児から成熟していく、動的な人間の発育過程を考察する、精
神分析や 1960 年代にフランスで発展した構造主義のアプローチ、このふたつが考えられる。前
者のアプローチでは、ピュシス(自然の摂理)からの逸脱、すなわち、エコシステムの中で安
住できないほどに膨れ上がった人間の《過剰》に、その原因を求める視座が主流である。理学
者の河合雅雄は、有機体の生きる世界(ピュシス)を、
「どんな種でも平等に生きる権利があり、
逆に他を排除して自分だけが生き残ろうとすることは許されないような、自然の構造が出来上
がって1」いて、「善も悪もない、生命体の生活が全肯定されている世界2」であると著述してい
る。そこでは、ただ、個々の生物はピュシスという「自然の構造」に与する形で動くため、個
性や主客などの概念はなく、生物世界がひとつの有機体として円滑に動いているといわれてい
る。したがって、ここから逸脱するに到った人間は、ピュシスに包摂され得ない何らかの過剰
を孕んでしまった存在だといえるのだ。
人間の《過剰3》と呼ばれる非生物的何かは、確かに、様々な局面でその姿を顕現させている。
例えば、我々は最低限度の衣食住や生命の再生産だけに甘んじることがない。食事に際しては、
単なる栄養価だけでなく、味や色彩、レストランの雰囲気や流行り廃りにまで拘るし、また、
1
2
3
河合雅雄(1979 年)
『森林がサルを生んだ―原罪の自然誌』平凡社 p.234.
同上 p.234.
浅田彰、丸山圭三郎らによる呼称。
6
生理的欲求を満たすためだけに性交するわけではない。
「種族保存本能が命ずるはずの生殖の可
能性が皆無である同性愛やオナニーレン4」に思いを馳せれば、いかに本来の生物的な機能性か
ら人間が逸脱しているかを感得することができる。浅田彰は、そのような人間の過剰を、主著
『構造と力』の冒頭で、次のように述べている。
はじめに EXCЁS があった。
この命題はすでにミスリーディングである。はじめに X があったと言うとき、X は何ら
かの実体としてイメージされるだろう。EXCЁS とは、しかし、そのような確実な原点な
のではなく、(中略)
「EXCЁS があった」という形でしかとらええぬものなのである5。
過剰(EXCЁS)とは、人間を人間足らしめるための根源的な何かである、と、とりあえずは
定義できるだろう。つまり、他の生物との相違として考えられている、言葉や道具を使う能力、
他人を愛したり憎んだりする性質、または、過去を記憶したり未来にむけて計画を立てたりす
る特性など、多々ある「人間らしさ」の原初形態が、EXCЁS なのである。これは、見方次第
では超生物的・進歩的な余分ととることもできるし、生物の本来性の欠如ともとれる。余分か
欠如か。要は、捉え方次第である。
こうした人間の本源的な過剰については、これまでに様々な学問分野でその論理付けが試み
られてきた。例えば、20 世紀の精神分析は、ピュシスに適った本能(Instinkt)とは異なる人
間の過剰を、欲動(Trieb)という語で規定することによってそこへの近接を試みたといえる。
人間の欲動には、生を統一し、保持しようとするそれと、破壊し、殺害しようとするそれの 2
種類があると考えたジークムント・フロイトは、「この二つの欲動が協力し、対抗することで、
生命のさまざまな現象が誕生する6」と著述している。この欲動を、本論では知覚(過剰の発展
形態)以前の根源的な何かという意味で、浅田のいう EXCЁS と同定し、論を進めていくこと
にする。
また、精神分析の言説を受け継いだ哲学者のジュリア・クリステヴァは、人間の内部におけ
る、
「激しく変化しながらも枠をはめられている動性のなかで、欲動とその鬱滞から形成される、
表現的ではない全体性7」をセミオティクと名付けることで、人間の本来性に迫ろうと試みてい
る。
クリステヴァが呼称するこのセミオティクとは、後に詳述する象徴秩序(=サンボリク)の
対概念としてのカオスではなく、
「リズム豊かで、奔放だから、それをことばに移し替えて理解
4
5
6
7
丸山圭三郎(1987 年)
『言葉と無意識』講談社 p.203.
浅田彰(1983 年)
『構造と力―記号論を超えて』勁草書房 p.27.
ジークムント・フロイト(2008 年)
『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』光文社 p.25.
ジュリア・クリステヴァ(1991 年)
『詩的言語の革命 第一部理論的前提』勁草書房 p.15.
7
の対象にすることはできない8」非実体的な何かであり、精神分析がエディプス期以降の人間に
見出した、体系的で秩序的な結晶(象徴秩序・サンボリク)とともに、つねにすでに存在して
いる内的な撞着であると解釈できる。すなわち、本論の文脈に即せば、EXCЁS の、サンボリ
クに組み尽くせない側面であると規定できる。それがカオスでないとするのは、彼女の措定す
るセミオティクが、それ自体に「枠をはめられて」いて、秩序(象徴秩序・サンボリク)とは
違う位相で何らかの方向付けがなされているとする彼女の仮説に因る。
とはいえ、仮に一応の方向付けがなされていたとしても、
「表現的ではない」という意味で我々
の知覚によっては捉えきれない、錯乱し、混濁した EXCЁS(=欲動)から、人間はどのよう
に「人間らしく」成熟していくのか。すなわち、冒頭で述べたもうひとつのアプローチである
が、これに関しては、性欲の発達を考察したフロイトの言説が示唆してくれるところが大きい。
翻訳家・批評家である鈴木晶は、性感帯の推移を口唇期、肛門期、男根期の三つに類型化した
フロイトの説を次のように説明している。
口唇期の場合と同じく、肛門期における性的快感は排泄の快楽と結びついている。肛門期
は肛門サディズム期とも呼ばれるが、それはこの時期に自我が形成され、ということはつま
り幼児は他者を発見し、自他の区別がつくようになり、自分を守るためにサディスティック
になるからである。なお、幼児にとっては、ちゃんとウンチをすることは母親に贈り物をす
ることなので、夢や空想の象徴体系では、糞便は贈り物と、さらには贈り物としての金銭と
結びつく。また、子どもは肛門から生まれるという幼児の性知識のせいで、子どもとも結び
つき、ペニスは体から切り離すことができると思い込みから、
ペニスとも結びつく。
つまり、
ペニス=糞便=子ども=贈り物=金銭という象徴の等式が成り立つ。
男根期になると、さまざまな部分欲動が性器の下に統合される9。
ここでは、口、肛門を経て性器へと辿り着く性感帯の変遷過程が提示されている。口唇期と
いう自己=母なるもの(ここで自己と母の区別はない)への委託及び愛が、肛門期には明確な
他者としての母への愛へと移っていく。そして、母への愛の象徴(=糞便)は、共示的に多方
向に連動することで他の事象へと結びつけられていくわけだが、この肛門期の象徴作用にこそ、
《第二ステージの人間らしさ》
、すなわち、エディプス期以降の弁別を備えた人間への端緒を見
てとることができる。
ここで、肛門期が自我の形成期と重なることは、瞠目に値する。肛門期は、相互関連的に、
一方では自己と他者の間に明確な境界線が引かれる時期であり、多方では、生後の原初形態
8
9
同上 p.20.
鈴木晶(1992 年)
『フロイト以後』講談社 p.91-92.
8
(EXCЁS)において連続的だった世界が、系統立ったそれへと変貌する時期である。「ペニス
=糞便=子ども=贈り物=金銭という象徴の等式」の成立は、それらとその他の事象を区別す
ることを同時に意味し、これを経て移行した男根期では、性欲の発達が一応の終結を迎える。
男根に象徴されるのは、性欲であり、父親であり、全ての決断と判別を行う絶対者である。性
欲が性器に結びつけられることは、生命の再生産としての男女の性交の正しさを裏付け、逆に、
それ以外の性行為を傍流、もしくは禁忌とみなす秩序・体系が創出されることを意味する。人
間内部における、絶対者としての《父》、秩序の顕現である。
しかし、ここで注意したいのが、本論の核心でもある次の事情だ。
人間の本源的な何かである EXCЁS の特定部分が、自己を統御するためのものとして発達し
たのが他ならぬ精神分析における《父》であるが、そうなれば、これに組み尽くせない EXCЁ
S の残りの部分については、秩序によって抑圧されるか、あるいは、反秩序的行動として顕われ
ることとなる。フロイトが欲動という言葉で置き換え、それをエロス(愛)とタナトス(破壊)
の斥力として規定し、また、クリステヴァがセミオティクと名付け、それを多方向的な錯乱と
捉えたように、彼らの論から導きだせる本来の人間らしさ(ここでは、
《第一ステージの人間ら
しさ》と呼ぶことにする)とは、流動的でとりとめのない矛盾し合った状態なのである。した
がって、人間の進むべき道を特定し、統合する、肛門期から男根期にかけて創出される《父》
とは、その創出行為自体は他の動物ではあり得ないという意味でひとつの「人間らしさ(=《第
二ステージの人間らしさ》)」ではあるが、我々がその権威を絶対視する状況に埋没し、無思考
にそれへの服従に甘んじてしまったとき、人間は EXCЁS ももう片方の側面であるセミオティ
ク(=《第一ステージの人間らしさ》
)を黙殺しているということを同時に意味するのだ。
以上のように、精神分析は人
間の成熟が象徴としての《父》
に行き着くことの必然性を、人
間個人の成熟過程の考察によ
って理論付けることを試みた。
他方で構造主義の言説は、これ
を社会というマクロな範囲で
の謂いに拡大化したそれだと
いえる。人間個人ではなく、社
会としての《父》。これこそ、
構造主義でいうところの象徴
秩序である。以下では、精神分析における人間個人の《父》と、構造主義における社会の《父》
である象徴秩序の、両者を統括する語として、クリステヴァのサンボリクという言葉を用いる
9
ことにする(図参照)
。
以下では、上記で精神分析の学説を使って確認した本源的な「人間らしさ(=セミオティク・
《第一ステージの人間らしさ》)」と、社会という共同体の枠組みの相関性を、第一章全般を通
じて論じていく。人間は衣食住から逃れられないのと同じ理由で、社会という枠組みから逃れ
ることができない。したがって、セミオティクに傾聴する機会を社会的実践の場で見出せるの
かどうかの確認がまずは必要である。もし見出せるのであれば、社会という場は人間らしさの
全てを汲み取ることができると結論づけられるはずである。
次項では、象徴秩序・サンボリクの成立する社会に焦点を当てて論じていく。詳しくは第二
節で論じるが、象徴秩序とは「リジッドな枠組み10」であり、浅田は、象徴秩序の失効以降を近
代と名付けることで、前近代と区別している。従って、これから論じることは、前近代におけ
る人間社会である。
*
第二項
象徴秩序
この項では、象徴秩序が社会に形成される過程を考察していきたい。
レヴィ・ストロースを嚆矢とする構造主義の学説は、複数の人間の共存である社会の成立を
《交換》の必要性を出発点として、その理論を構築する。それは、社会学者の橋爪大三郎が、
「人
間は“交換する動物”なのだ11」述べているとおりである。彼は、『はじめての構造主義』とい
う書籍の中で、次のように述べている。
社会のいちばん基本的な形は、交換のシステムである。その交換は、利害や必要にもとづく
ものではなく、純粋な動機(交換のための交換)にもとづくものだ。交換のシステムのなか
では、女性や、物財や、言葉が、
「価値」あるものになる。しかし、それらが、その「価値」
ゆえに交換されるとか、
利害動機や機能的な必要にもとづいて交換されるとか考えるわけに
はいかない12。
《交換》とは、人間の、そして社会の前提である。したがって本論も構造主義の学説に従い、
社会の前提には《交換》があるとする立場をとることにする。しかし、
《交換(疎通・コミュニ
ケーション)
》のための人間同士の直接の交渉は、浅田がいうように「互いに相手の主体性を奪
10
11
12
浅田『構造』p.100.
橋爪大三郎(1988 年)
『はじめての構造主義』講談社 p.102.
同上 p.103-104.
10
ってこれを客体化し、自己を映す鏡、つまりは自己確証の手段と成すべく、熾烈な闘争13」に帰
着せざるを得ない。本源的にエロスとタナトスを抱える錯乱した原初状態の人間同士の交わり
において、タナトスの側面が、社会の成立条件である《交換》の過程に顕現したとき、「熾烈な
闘争」を回避することができないからだ。
したがって《交換》を円滑に行うためには、つまり、社会を成立させるためには、闘争の平
面の外で争いの負荷の全てを引き受ける中立的な第三者が措定される必要に迫られる。
かくして、あらゆるけがれを一身に背負った犠牲が、死せる王として中心 0 の座につく
のである。
(中略)この死者は、生きた者たちが互いに殺し合い犯し合う相互性の平面を超
越したところに立ち、過去の全重量をこめた禁止の言葉を発する。このとき、絡み合った「矛
盾を孕んだ網の目」(直接的相互関係に因る熾烈な闘争)は完全に切断され、全員は各々中
心 0 に、そして 0 だけに、自らを委ね、同一化することになる。中心 0 を経由しない、い
かなる直接的相互関係も、厳密に排除される。このようにしてはじめて象徴秩序が生成する
のである14。
浅田のいう「死せる王」が、暴力(無秩序)を一挙に引き受ける存在であるということに、
ここでは注目したい。象徴秩序は、社会の成立において負荷となる、人間の内部に鬱積する負
のセミオティク(=タナトス)を、無条件に引き受ける存在だからこそ、《父》としての権威を
持つ。
暴力を引き受けるからこそ、社会の《父》として禁止の言葉を発せられる「死せる王」
。
文化人類学者の山口昌男は、こうした両義性を具有した象徴秩序の一例として、キリストと
洗礼者ヨハネを挙げ、同じく人類学者のエドマンド・リーチの論を援用しながら、無秩序と秩
序の両義性を具有した彼らの存在を以下のように著述している。
リーチが示したように、イエス神話の様々の構成要素は、ユダヤの神話においては救世主
に託されるはずの事蹟あるいは役割の倒立からなっているのである。例えば、かつてイスラ
エル人たちがファラオに追われてエジプトからカナンの地に逃れたように、
イエスはヘロデ
王に追われてカナンの地からエジプトに逆に逃れる。イエスが死ぬ時、彼は王として死ぬの
ではなく、市街のさらし台で荊の王冠を被せられて、偽王として死ぬ。事実、彼はふつうの
罪人として死ぬのである。しかしこうして死ぬことによって、彼はヨハネが始めに得ていた
13
14
浅田『構造』p.56.
同上 p.59.()内は筆者。
11
地位に達し、他の世界、永遠の生とこの世界との架橋をなすのである15。
原野(外部・無秩序の領域)に住んでいるヨハネが、最後は王侯(秩序の象徴)にのみ許さ
れた斬首によって死を迎えた(暴力・セミオティクの受容)のとは真逆に、王として生まれた
イエスは、犯罪者に適応された処刑法・磔刑によって絶命する。ヨハネの人生を無秩序から秩
序への転化として捉えられる一方で、イエスの人生は、秩序から無秩序への反転として捉える
ことができる。方向は真逆だが、両者の象徴としての人生は、ともに、秩序と無秩序の混在で
あるということに変わりはない。さらに、彼らは、暴力(=タナトス)を引き受ける形で、自
らの命を絶っている。
象徴秩序は、秩序と無秩序(物理的な秩序の外部)の両方を受け入れると同時に、生命を投
げ打ってまでタナトス(≒セミオティク=形而上学的な秩序(精神分析における《父》)の外部)
を一身に背負う。この両義性によって、イエスやヨハネは象徴秩序として「死せる王」の座を
獲得し、禁止と統制の《父》としての役割を社会で担うことができたのだ。
こうして、象徴秩序が神話としてセミオティクを受け入れていることが明らかとなったが、
それはあくまで象徴秩序の成立与件である。社会が通時的に維持されるためには、象徴秩序は、
その権威を保持し続けなければならない。従って、
《父》なる象徴秩序が、無秩序・暴力を引き
受けてくれる象徴なのかどうかを、社会の実践的側面においては随時確認される必要がある。
この確認の場が、象徴秩序の切れ目に実行される供儀と外交である。
*
第三項
供儀と外交
まず、供儀について。
象徴秩序は、暴力を引き受けるがゆえに《父》としての絶対性を獲得するが、その暴力が奔
放に乱発されれば、象徴秩序の権威そのものが脅かされることになる。象徴秩序のイデオロギ
ーが最も嫌う状態を、浅田が、「セミオティックなカオスの象徴秩序への侵入16」と規定してい
るとおりである。
ここで付言しておかなければならないのは、第一項において確認した、人間の欲動における
エロスの領域は、精神分析における《父》
、社会における象徴秩序に準えることができ、一方で、
タナトスの領域は、セミオティクに準えることができるという事情である(p9 図参照)。したが
って、暴力・タナトス・セミオティク・カオスを、以下では近似の意味合いにおいて用いる。
15
16
山口昌男(2000 年)
『文化と両義性』岩波書店 p.47.
浅田『構造』p.76.
12
上述した浅田の「セミオティックなカオス」とは、秩序の対概念としてのカオスが、セミオテ
ィクの意味に重ねられているものとして、解釈されたい。
さて、供儀の分析にもどる。暴力・セミオティクを、象徴秩序の保持の妨げにならない形で、
というよりもむしろ、象徴秩序の保持に役立つ形で、最小限に方向付けて開放する場。供儀に
はそうした意味合いが込められている。
前述した人類学者の山口は、供儀の一例として、近畿地方周辺部における山間部の、大般若
経にまつわる民俗信仰を挙げ、次のように説明している。
この祭りは村人が当番制で、一年間潔斎して氏神に奉仕することによって行われる。
(中略)
行事は、般若の日に当たり村人が全部お堂または社に集って、お札をいただくことにはじま
る。その後転読札は村の四方の境に立てられる。転読のあいだに「乱声」
「タダ押し」
「鬼走
り」
などが村人によって行われる。
乱声は、村人がお堂の床板や縁を牛王杖でたたきまわり、
タダ押しでは堂内を跳ねまわり踏みまわって騒音をたてる。鬼走りは鬼踊りともいい、鬼の
面を被った鬼役が松明をふりながら堂内、堂外を走りまわり踏みまわる。
ここで見られるのは、日常生活の静寂に対する騒音、異常な身ぶり、境界の明示を中心と
する「異和性」の儀礼といってよい17。
供儀は、
「村の四方の境」
、つまり、社会(秩序)の物理的な外部空間との接触によって、
「実
体化された悪しき霊魂を「追い払う」ための対抗呪術18」としての役割を担い、一方で、
「乱声」
「タダ押し」「鬼走り」という秩序内・俗の領域で抑圧されたセミオティク(タナトス)を顕在
化させる場として機能する。象徴秩序に統括される社会の節目に、こうした錯乱の契機を囲い
込むことによって、「「徴あり」としての境界の強調、という儀礼的=記号論的秩序の再構築が
行われる19」のだ。
こうした習俗は、「日本ばかりでなく、中国にも見られ、さらに、西欧のカーニヴァルの「マ
ルディ・グラ」に対応する20」と山口は述べている。例えば、クリステヴァは、人間の生き血を
神(象徴秩序)に捧げる供儀を例に挙げて、その解釈を試みている。
彼女は、犠牲者の破壊が伴う供儀を、
「暴力を解き放つのではなくて、どのようにすれば暴力
の再現[表象]だけで十分暴力をつなぎ止め、秩序を作り上げられるか21」を示したものだとし
た上で、犠牲者の破壊が、神による予想される返答を未来に投影する形で「二つの進級のあい
17
18
19
20
21
山口『両義性』p.72-73.
同上 p.76.
同上 p.79.
同上 p.78.
クリステヴァ『詩的言語』p.74.
13
だのシンボルによるコミュニケーションの回路22」を設置すると述べる。
犠牲者の破壊が、人間と神との対話となり、その契機の設置が、同時に、神の存在を確約す
るものとなる。クリステヴァは、人間社会におけるサンボリク(神=象徴秩序)とセミオティ
クの相互依存関係という文脈で、神が犠牲者の破壊という形で、秩序に内包されない EXCЁS
のある部分(暴力)を引き受けるこの性格を説明する。
秩序と禁忌の境界を社会の内部に限定された形で招き入れることで、象徴秩序を再確認する。
そこには、個としての人間の内部に鬱積するセミオティクの噴出の契機としての意味合いが被
せられているのである。
供儀が無秩序(外部)を社会の内部に顕在化させる場である一方で、外交は、社会の周縁そ
のものを体験させる機能を担う。浅田は、象徴秩序の物理的外部との接触である外交(財の交
換)について次のように述べる。
共同体の外部とは即ち象徴秩序の外部であり、そこに住まうのは全くの異人たちである。
(中
略)象徴秩序は、言葉の通じない者、血のつながらない者と接触するとき、それを介してカ
オスの深層をのぞき込むのである。自らの深層に渦巻くカオスを外部に投射し、それを畏れ
るのだと言ってもいいだろう23。
社会の前提が《交換》にあること、そして、その《交換》を成り立たせるのが象徴秩序であ
り、社会とは象徴秩序によって機能する共同体であることは、構造主義の学説をもとに、上記
で著述してきたとおりである。そして、この《交換》が、異なる共同体間にまで拡大されたの
が外交と解釈できる。したがって、外交とは人間および社会の必然性から生まれる無償の行為
であるが、ここに、浅田がいうような「カオスの深層をのぞき込む」契機が宿されている。
以下では、文化人類学者のマルセル・モースが分析した、パプアニューギニアのトロブリア
ンド諸島、ダントルカストー諸島などの部族によって行われる外交・クラ交換を例に、外交の
効用を論じていく。
クラ交換とは、
「数々の部族がかかわり、海を越える遠征をおこない、貴重材や常用品をやり
とりし、食事や祝祭をふるまい、儀礼的サービスや性的サービスなど、あらゆる種類のサービ
スを供与24」するもので、ヴァイグアと呼ばれる貝や真珠でつくった腕輪や首飾りが諸島を円環
的に贈与されていく、異共同体間の交流のことである。
22
23
24
同上 p.77.
浅田『構造』p.79-80.
マルセル・モース(2014 年)
『贈与論 他二篇』岩波書店 p.143.
14
このヴァイグアとは、「卓越した性格、聖なる性格25」を宿した、「名前をもち、人格をもち、
故事来歴をもち、そしてそれにまつわる波乱の物語さえももっている26」、非常に貴重な財であ
る。その意味で、次節で詳述する現代社会における貨幣とは異なる。この聖性をもつ貴重な財
の交換であるクラ交換は、交換という形態それ自体にも聖性を及ぼすとモースは語る。
クラで贈り物の授受を取り結ぶ契約それ自体が、ヴァイグアのもつこの性質の影響を受ける
のである。腕輪と首飾りだけではないのだ。財にしろ装飾品にしろ武器にしろ、ありとあら
ゆるもの、クラ・パートナーの所有するすべてのものが、人格的な魂に、とまでは言わずと
も、何らかの情動に突き動かされるようになる。その突き動かされ方が激しいだけに、腕輪
と首飾りだけでなく、これらまでもがすべて契約に参加することになるのである27。
「何らかの情動に突き動かされる」というモースの言葉から察せられるように、クラ交換に
は、供儀と同様にセミオティク発散の契機を垣間みることができる。クラ交換に際しては、取
引相手と呪文が交わされるが、その呪文の目的とは、
「増悪や戦争にかかわることがらを、あま
すところなく数えあげる28」ことにある。呪文に、現実に起きては象徴秩序を破壊するようなタ
ナトスの文言を孕ませておくことで、予防線を張るのである。悲劇を先取りしておくことで、
これからの円滑な交流を祈願する意味が込められているのだ。クラ交換の儀式に際しては、反
秩序的行為が許容される。
また、ヴァイグアを最初に受け取った側は、お返しの贈り物(ヨティレ)をしなければなら
ない。これについて、モースは次のように説明する。
お返しの贈り物は必ずなされなければならない。相手はそれを待っているし、しかもそれは、
最初に与えられた贈り物と価値において等しくなくてはならない。場合によっては、それを
力ずくで奪い取ったり、不意打ちをかけて取り上げたりしてもよい。お返しのヨティレが贈
り物として不適切であれば、呪術をかけて仕返しをしてもよいし、そこまでせずとも、のの
しりや恨みごとを相手にぶつけてかまわない29。
異共同体間で交わされる「ののしりや恨みごと」は、行き過ぎれば戦争に発展し、互いの象
徴秩序を破壊することに繋がる。したがって、クラ交換では、あくまでルールに則った、最低
25
26
27
28
29
同上 p.157.
同上 p.157.
同上 p.158.
同上 p.161.
同上 p.167.
15
限度の仕方で、セミオティクの解放が許されるのである。
浅田が述べる、外交における「カオスの深層をのぞき込む」契機とは、これを意味するのだ
と解釈できる。俗の領域においては秩序に抑圧されている人間のタナトスが、クラ交換に際し
て限定的に発散されることで、後の共同体間の関係を逆説的にも良好にする。供儀が象徴秩序
に寄与する役目を担っているのと同じ構造を、ここにみることができる。
供儀もクラ交換も、あくまで制限され、方向付けられた仕方で、セミオティクの解放の場と
して機能しているのだ。
*
第四項
総括
以上で見てきたことは、象徴秩序がいかにして成立するかの過程と、象徴秩序を長期的に保
持するための機能的側面を担った、セミオティク・暴力の噴出の場としての供儀と外交だった。
そこに確認されるのは、象徴秩序が反秩序的な場(供儀・外交)への接触を持つことで社会が
成り立つという、一見矛盾した構図である。山口の「両義性」という言葉に集約されていると
おり、象徴秩序は、その外部を、限定した形ではあるが、必然的に担保していた。
ここで再度、本論の根本的課題である、社会と人間らしさ(EXCЁS)の相関の考察に戻りた
い。本節の冒頭において、精神分析の学説を借りつつ個としての人間らしさについて確認した
のは、社会という場が人間らしさの全てを汲み取れるかどうかを確認するための布石であった。
象徴秩序によって成り立つ前近代社会は、その内部における実践の場に、果たして EXCЁS の
全てを組み尽くすことが可能だったのだろうか。
精神分析が構築した論理は、個としての人間がその成長過程で、個人の内部に禁止の《父》
を確立するという、概念上の措定だった。本論では、この《父》が社会という共同体にまで拡
大され、可視化された状態を、構造主義やクリステヴァの用語を借りて、象徴秩序・サンボリ
クと規定してきた。したがって社会と人間らしさの相関を考えるにあたって、人間の EXCЁS
における、
《父》と、
《父》に違和なく統合される内的な部分、つまり、
《第二ステージの人間ら
しさ》は、問題とならない。象徴秩序・サンボリクに組み尽くされる《第二ステージの人間ら
しさ》は、社会という場に過不足なく順応するはずだからである。
問題は、EXCЁS における、秩序に順応しきれない「人間らしさ」の部分(=《第一ステー
ジの人間らしさ》
)にある。これは、クリステヴァでいうところのセミオティクであり、フロイ
トが述べるところのタナトスに準ずることは、上記で確認してきたとおりである。そして、前
近代的社会は、象徴秩序を保持する必要性から、「徴なし(=俗)」の日常において抑圧された
16
、、
セミオティクを掬いとる場を、供儀や外交という形で一応は確保してきたのだった。
、、、
しかし、それはあくまで、一応は、という枕詞付きの謂い以上ではない。というのは、本来
的に多方向的で錯乱状態にあるセミオティクの全てを、儀礼的に方向付けられた仕方で解消で
きるのかという疑問に、正面から答えることができないからである。上記で紹介した、近畿地
方の「乱声」「タダ押し」「鬼走り」しかり、クラ交換におけるののしり合いしかり、騒音立て
る、罵詈雑言を吐くという、ある種の方向付けに沿った行為がなぞられるだけの形態に過ぎな
いとする見立ては、特段牽強付会ではない。供儀や外交を、象徴秩序による統制の外部とみな
すのではなく、部分的側面だと解釈することに、不自然さはないように思えるのだ。
、、、、、、、、、
もちろん、個々の人間の内実としての(その意味で主観的かつ唯一的な)セミオティクと、
構造主義や人類学の言説による抽象的概念としての象徴秩序・シンボリクの相関を、一般論的
に統括して論じることは強引である。この節で前近代社会を挙げて主張したかったことは、あ
くまで、例え供儀や外交という場が設けられていようとも、それらの社会的実践の場で、個々
のセミオティクを汲み取ることは難しいのではないかという疑問の提示である。
個的・主観的なセミオティクは、クリステヴァがいうように、「ことばに移し替えて理解の対
象にすることはできない」。なぜなら、第二章で論じるように、言葉とは、社会的産物であり、
客観的な側面が大きいからだ。そして、供儀や外交は、「暴力を解放する」という特定のコード
に沿った行為が反復される、まぎれもなく社会的・共同体的トポロジーである。セミオティク
、、、、
があくまで言葉の対象にできない個的・主観的内面である限り、どれほど社会的に、秩序外的
、、、、
に見える実践の場が設けられようと、全てを汲み尽くすことはできないと結論付けざるを得な
い。
こうした帰結から、本論は、社会的実践の場以外の位相において、セミオティクに目を向け
る方法を探ってゆくこととなる。が、その前に次節で、近代以降の社会、すなわち、象徴秩序
失効以降の社会への考察を施すことにする。というのは、我々が生きるのはまぎれもなく現代
社会(近代以降の社会)だからである。
浅田の論に準ずると、近代以降の社会は、その外部を持たない。本論が、近代以前/近代以
降の区別として第一節、第二節を分割するのは、普遍的な外的尺度としての貨幣が絶対的な権
威を得た世界を近代以降とみなすため(そこには供儀もなければ、貨幣を免れた外交もない)、
外部を内部に包摂する形で成り立っていた象徴秩序とは違う論理でそれを考察するのが妥当だ
と判断したからだ。
最後に、現代においても近代以降の論理(資本・貨幣)と並行して、象徴秩序(あるいはそ
の延長)を見出せることを確認して、この節を終えたい。
宗教は、現代社会においても、未だ象徴秩序の機能によって成り立っているといえる。とい
17
うのは、禁止の《父》としての神の判断に即して自らの行動を選定することが、現代人にもよ
く見られる行為だからである。また、「近代の資本主義の精神を構成する本質的な要素の一つ、
そしてたんにそれだけでなく近代の文化そのものを構成する本質的な要素の一つは、
(中略)キ
リスト教的な禁欲から生まれたものだ30」とするマックス・ウェーバーの有名な論説が示すよう
に、単純に、象徴秩序の前近代/資本という一元的価値に基づく近代以降、と区分することは
できない。さらに、宗教の尾を引く近代的“法”も、象徴秩序としての側面を保有している。
憲法や法律は、
《父》として我々の行動に規制をかける。違反者への刑罰の執行は、法の確実性
を担保するという意味で、現代的な供儀と捉えられなくもない。
加えて、前近代的供儀においても、未だ実行されているものが少なくないこともまた事実で
ある。前述した「鬼走り」は、奈良県五條市大津町で現在も「陀々堂の鬼はしり31」として毎年
1 月 14 日に執行されているし、西欧のカーニヴァルの「マルディ・グラ32」もヨーロッパ各地
で毎年開催されている。もちろん、これらを、形骸化した前近代の残滓と捉えることは可能だ
ろう。それらに、供儀としての機能性が未だ残されているかどうかを断定することはできない。
こうしたことを念頭に入れつつも、便宜的な区切りとして、象徴秩序(前近代)/象徴秩序
の失効(近代以降)の境を本論に導入することを改めて述べておく。第二節では、象徴秩序の
内部・外部として静的に分析できない近代以降の資本主義社会を分析し、本章の主題である、
人間らしさと社会の相関についての考察につなげることにする。
第二節 近代以降の社会と人間らしさ
第一節で著述してきたことは、確固たる外的指標としての非時間的な象徴秩序に統括される
前近代的な社会において、本源的な人間らしさ(EXCЁS)が、どのように制御され、また、発
散の場が設けられてきたかの確認であった。注視したいことは、象徴秩序の成立が共時的に社
会の内部と外部を規定してしまうその副次性であり、外部・無秩序への接触が、錯乱するセミ
オティクの解放の契機と結節することによって、逆説的に象徴秩序を維持することに繋がって
いたということだ。そこでは、セミオティクが、供儀や外交という象徴秩序の切れ目に囲い込
、、、
まれることによって、一応は、担保されていたとみなすことができた。
この節では、社会学の言説を借用し、近代以降の社会、すなわち、象徴秩序が機能し得なく
なった社会に焦点を移して論じていく。その際、社会学者・北田暁大による、日本社会という
マックス・ウェーバー(1989 年)
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店 p.491.
陀々堂の鬼はしり | 五條市 HP(http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1143010218687/)
2015/12/28
32 Mardigras HP(http://www.mardigrasday.com/mardi-gras-info/)2015/12/28
30
31
18
限定した場の分析をまずは参照することにする。日本という限定した場における分析を検討す
ることで、象徴秩序失効以降の普遍的な社会の在り方への帰納的な遡及を目指す。最終的には、
第一節と同様、近代以降の社会と人間らしさの相関について論じられたらと思う。
*
第一項
北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』の概略
社会がその外部を喪失したとき、それは同時に、象徴秩序の終焉を意味する。本節はこの立
場に則して、資本によって全てが包摂された社会を近代以降の社会と規定し、論じていくこと
とする。
浅田は近代以降の資本主義社会を、
「スタティックな象徴秩序の存立と周期的な祝祭によるカ
オスの侵入33」によって成立していた前近代社会と比較し、「すみずみまで脱聖化された同質的
な空間の中で、史上類例のないダイナミックな運動を続ける社会34」だと述べる。象徴秩序とし
ての《父》の消滅は、善/悪、正道/禁忌、聖/俗を判別する絶対者としての外的尺度を失う
ことを意味する。全てが等価となるため、社会に残されるのは差異だけとなる。そうして社会
は、差異のみを求めて、終わりなき自己回転に収斂せざるを得ない。
理論書としての『構造と力』が、哲学的概念を駆使して以上のような近代社会論を展開する
一方で、社会学者の北田暁大は、その代表的著書『嗤う日本の「ナショナリズム」』によって、
日本という限定した場における具体的な諸事象の分析を試み、独自の論を構築している。
1960 年代以降の日本における時代的精神の変遷を考察した北田の分析の概略を、まず、以下
で描いてみる。その際、北田の分析を筆者がさらに分類し直し、①学生運動に象徴される 60 年
代、②コピーライター・純粋テレビに象徴される 70、80 年代、そして、③2 ちゃんねるに象徴
される 90 年代以降、のみっつのフェーズを抽出した35。
以下が、それぞれのフェーズにおける、北田の論の概略である。
①
このフェーズを象徴する 60 年代の学生運動は、人間の内面的な正統性をマルクス主
義や反資本主義という顕在的な《父》に求め、自己の内面をイデオロギーと照合して反
省する「総括」を通して展開された。このフェーズにおける社会的精神を、北田は、
「自
意識なき内面――内面と思想の関係を徹底的に反省するなかで、「私」という自意識が
33
浅田『構造』p.99.
同上 p.100.
35 北田は、70 年代と 80 年代をわけて考察することで、4 フェーズの抽出を行っている。ここでは、80 年
代を 70 年代の延長と捉え、まとめて②とすることで、3 フェーズに分類し直した。
34
19
後退する――に根拠づけられた形式主義36」と説明する。学生運動と「総括」は、しか
し、それが凄惨な内ゲバ、さらには浅間山荘事件にしか帰結し得なかった。このことは、
社会を必然的に、イデオロギーとしての《父》から距離をとる方向に導き、こうして、
フェーズは①から②へと以降していく。
②
「総括」による「反省」の失敗を反省することで、社会が「無反省」に向かうフェー
ズである。
このフェーズは、広告と純粋テレビによって象徴される。糸井重里や川崎徹を始めと
するコピーライターたちによって牽引された広告が、言葉と自由に戯れることで、「言
葉が世界(モノ)を再現するのではなく、世界が言葉によって操作しうる37」という共
同幻想を社会に根付かせる役回りを担った。一方で純粋テレビとは、
「お約束」と「裏」
の境界をテレビというメディア自体が内部に飲み込んでいく過程で、「お約束」をいか
に破るかのメタ化合戦に帰着した、外部なきメディアとしてのテレビに対する北田によ
る呼称である。
60 年代的な象徴秩序と距離をとりつつ、全ての事象が広告や純粋テレビのネタとし
て囲い込まれていくなかで、均質的な社会が養成されていく。それは、ネタになれば何
でも良しとする倫理なき消費社会への埋没である。広告や純粋テレビは、本来外部であ
、、、、、、、
るはずの広告らしくないもの(一見商品の購買意欲促進につながらないような言葉遊び)
、、、、、、、
やテレビらしくないもの(素人や科白の言い間違い)すらも、ネタとして内部に包み込
んでしまう。そこに見ることができるのは、粉飾的な記号の戯れだけだ。
このフェーズにおける社会的メンタリティーを、北田は、「内面なき自意識――内面
形成の契機となる思想との折衝を断念し、「私」を記号的に粉飾することに拘泥する―
―に彩られた形式主義38」と説明する。
③
②のフェーズにおける一見無秩序な記号の戯れは、広告や純粋テレビのネタになるか
どうかという条件付きのそれであった。インターネット技術の全面化に伴い、そうした
超越的他者としての広告や純粋テレビの存在が希薄化することで、コミュニケーション
ツールが相対化されたフェーズが③である。
このフェーズは、2 ちゃんねるに象徴されるように、自らの言動がネタになるかどう
かの裁定が、行為に接続する他者によって逐次的に遂行されなければならない。アイロ
36
37
38
北田暁大(2005 年)
『嗤う日本の「ナショナリズム」
』日本放送出版協会 p.166.
同上 p.77.
同上 p.166.
20
ニカルであること(他者に承認されるネタを生み出せること)自体が「「この私」=実
存の目的として設定される行為空間39」となり、人々は、過敏に他者との繋がりを志向
し続ける。
以上が、北田が 60 年代以降の日本社会に見出した、時代的精神の概略である。このみっつ
のフェーズを以下、本論の文脈に即して解釈し直してみることにしたい。
まずこのみっつのフェーズだが、ここでは、①を象徴秩序が飽和状態となった社会(その意
味で、第一節の延長線上にある)、②③を資本主義社会が全面化して以降の社会として、再度、
ふたつの項に分類し直すことにする。ここに、前近代/近代(象徴秩序/象徴秩序失効)の区
切りを導入すれば、①をその過渡期とみなすことができるだろう。
また、北田は②から③への以降を、社会の進展に応じて時代別に区分けしているが、ここで
は、同じ資本主義社会という形状において、ビジネス空間に焦点を当てた分析を②、コミュニ
ケーション空間全般に焦点を当てた分析を③と捉え直して、考察を進めることとする。
以下では、象徴秩序の終焉(第二項)
、資本主義社会におけるビジネス空間と余暇(第三項)
、
資本主義社会におけるコミュニケーション空間(第四項)のみっつの区分けによって、分析を
試みる。
*
第二項
象徴秩序の終焉
北田が①のフェーズにみいだした、イデオロギーという象徴秩序に支配された革命戦士たち
は、内面(EXCЁS)の全てを《父》の言葉に沿わせることが要請されている。この《父》は、
極限にまで強度を高めた象徴秩序であるがため、そこには、象徴秩序でありながらも外部への
抜け道を持たないという奇妙な構図ができあがっている。外部への抜け道を持たないこと同様、
革命戦士たちにとっては、イデオロギーからの離脱が許される供儀という場も存在しない。
このフェーズは、象徴秩序の飽和状態と解釈できる。そこは、イデオロギーに沿わない行為
が、文字通りの死を意味する世界である。連合赤軍において、“指輪をしてリップクリームを塗
る”という非イデオロギー的行為が、結果として遠山美枝子(連合赤軍のひとり)の死に行き
着いたことを軽視するべきではない。
もちろん、遠山が殺された理由はそれだけに還元できるわけではなく、社会学者の小熊英二
39
同上 p.234.
21
が膨大な資料から分析しているように、「バセドー氏病で目が出ていた40」主犯格・永田洋子の
コンプレックスが、「自分より美しい女性を殺害41」した側面も否定できない。実際、永田に目
をつけられた遠山が、後日、「総括」を要求され、リンチされるに及び、「腫れあがった遠山の
顔を、永田が鏡で見させ42」て彼女を罵倒している。しかし結果として、「指輪をしてリップク
リームを塗っていることを、山で革命戦士として闘っていく態度ではないと批判した43」永田の
理論が正当化されことを、ここでは重視したい。
幹部である永田や森恒夫の発する言葉(=イデオロギー・象徴秩序)に(例えそれらに一貫
性がなかったとしても)
、革命戦士たちは準じなければならない。究極の象徴秩序に縛られて生
きる彼らは、供儀という方向付けられた仕方でさえ、セミオティクを発散する機会を失ってい
る。というよりも、セミオティク=サンボリクであることが要請される社会と言った方が正し
い。もちろん、サンボリクの対概念としての錯乱した人間の内面がセミオティクであるため、
セミオティク=サンボリクの成立は、論理的にあり得ない。北田による呼称「自意識なき内面
に根拠づけられた形式主義」とは、イデオロギーという形式に無理矢理にも己の EXCЁS の全
てを合致させようとする、原理主義的な革命戦士を端的にあらわした謂いである。
切れ目(供儀・外交)も、死以外に外部への抜け道も存在しない、究極的な閉塞性を持つ人
間社会である。
*
第三項
資本主義社会におけるビジネス空間と余暇
資本主義社会のビジネス空間における人間像を考えて行く上で、まず、社会そのものを支え
る資本(=貨幣)という巨大なバックボーンについて、考察したい。
、、、、、
明らかなことは、資本主義とは、外部を持たない巧妙な構造だということである。そこでは、
衣食住という人間の生存条件にかかわるものを含め、全てが、資本によって媒介・包摂される
、、、、、
構図が埋め込まれている。それを巧妙な構造と呼ぶのは、毎日貨幣を使って生活しているにも
関わらず、そこで生きる我々が、自らが資本に包摂されているという事実にほとんど無自覚の
まま、日々をやり過ごせているからである。それは、
《父》としての象徴秩序とは明らかに違う。
象徴秩序によって確立する社会は、供儀によって《父》の存在が断続的に確認されることで、
統合が諮られてきた。クリステヴァが述べるように、人々はそこで神(象徴秩序)と接するこ
とで、意識的にその存在を確認してきたのだった。しかし、生を支える土台としての資本に我々
40
41
42
43
小熊英二(2009 年)
『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』新曜社 p.609.
同上 p.609.
同上 p.631.
同上 p.611.
22
が従属しているという事実が、生活の過程で意識に上ることなどほとんどあり得ない。言うな
れば、資本とは、可視化されない、潜在的な《父》である。
資本が人間の生存条件に関わるというのは、重要な点だ。生きるために人は、貨幣を紡ぎ続
けなければならない。手段は何でも良いが、どこかの企業に入るなり、起業するなり、ギャン
ブラーになるなり、富豪の愛人になって貢いでもらうなり、とにかく貨幣を獲得し続けること
が、生の与件になる。したがって資本主義社会には、
“何らかの形で貨幣を生み出し続けなけれ
ばならない”という絶対に逃れることのできない強迫観念が常に植え付けられている。この強
迫観念に駆られて起こす行動、すなわち、貨幣を獲得する行動全般を以下、
“ビジネス”と呼ぶ
ことにする。
ビジネスとは、貨幣を生み出す行動であると同時に、資本主義社会を社会として成立させる
ための逐次的な行動である。分業がビジネスの前提となった近代以降、細分化したビジネスに
よって、人は、特定の業務を反復することで貨幣を産出してきた。こうした、資本主義社会の
仕組みが生み出した、貨幣を獲得し続けることに日々負われている人間を、浅田は《パラノ型》
の人間と規定する。《パラノ型》の人間とは、「偏執型の略で、過去のすべてを積分=統合化し
て背負い込み、それにしがみついているような44」人間である。貨幣を得ることに奔走しなけれ
ば生きていけない我々は、ビジネスに携わっている限り、
《パラノ型》の行動を免れることがで
きない。
さて、資本主義社会を回して行くために我々が携わるビジネスは、その初期の段階では、機
能的な側面を担う部分が大きかった。人間は、生きるために必要な何かを生産することに従事
し、需要者に提供することで、貨幣を得る。この構図は比較的単純だが、テクノロジーの発達
とともに社会が複雑化してくると、ビジネス自体が本来的には《パラノ型》であることに、人々
は気付きにくくなる。例えば浅田は、広告業界を例に挙げて、次のように著述している。
いちばん古典的なパターンは、この製品は他の製品よりこれだけすぐれた性能をもってま
す、というヤツ。機能的な製品差別化といってもいい。
だけど、今の時代じゃ、そういう面での差はすぐに縮まって、結局ドングリの背比べにな
る。そこで、この製品と他の製品の差は違いのわかるひとにはわかる筈です、という新しい
パターンが出てくる。象徴的な製品差別化といってもいい。ファンクショナルには五十歩百
歩なもんで、シンボリックに違いを出そうというわけね。
これがもっと進んでくると、最後には製品ってものがどっかへいっちゃって、製品やブラ
ンドや企業を包み込むシンボリックなイメージだけが残る。こうなると、製品のもつ差異を
44
浅田彰(1986 年)
『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』筑摩書房 p.36.
23
広告するってことじゃなく、広告が広告として独立しちゃって広告同士で差をつけあう、と
いう世界になるわけ45。
このように、資本主義社会の成熟が進むと、ビジネスがビジネスとして成り立つためには、
北田が具体例を挙げつつ分析したように、ビジネス自体が差異化の方向へと収斂して行かざる
を得ない。必要最低限度の生活基盤が整って以降の、後期の資本主義社会では、ビジネスを成
立させるには、「象徴的な製品差別化」が不可欠となる。哲学者のジャン・ボードリヤールが、
「消費対象とはあるモノが客観的機能(道具性)を相対的に失って記号としての機能をもつよ
うになったもの46」と述べているとおり、ビジネスの基盤は、需要に応えるやり方ではなく、製
品の“新しい”価値を社会に植え付ける方法(=差異化)へと変転していく。
ここに見出せるのは、差異化のための差異化による、粉飾的な記号の戯れだ。北田がこの空
間における人々を「内面なき自意識に彩られた形式主義」と規定したのは、ビジネスの本来性
(需要を満たすこと)が記号の戯れの過程(差異化のための差異化)に置き換わることで、手
段のための手段に人間を駆り立ててしまう、資本主義社会の自律性を鑑みてのことだと解釈で
きる。
後期資本主義社会が生み出すこうした構造を、浅田は《差異化のパラノイア47》と規定してい
る。資本主義社会の初期段階における、反復的なビジネスに携わる人々の偏執性(パラノイア)
については、比較的理解しやすい。彼らにとっては、社会の前提条件(食物、インフラ、金融
など)を支えることがそのまま貨幣を得ること(=生活の与件)だから、行動は常に、明らか
にパラノイアックである。しかし、資本主義社会の発展段階においては、一見反パラノイアッ
クに思える他者との差異化の競合が、逆説的にも《パラノ型》の行動となっている。差異化と
は、本来、偏執性の逆を意味する言葉だ。しかし、人々の行動が差異化のための差異化に血眼
になったとき、彼らは、パラノイアックに差異化を求める《パラノ型》の人間に帰している。
こうした《差異化のパラノイア》が直接的に垣間みられる現象は、現代社会において例を探
せばきりがない。経営用語として飛び交う「ブルーオーシャン戦略」や「ニッチな市場」とい
う言葉は、他の企業が手を出していない市場を開拓すること、つまり、差異化を全面的に推奨
する言葉である。また、北田や浅田が分析した広告・テレビに限らず、例えば、日本を代表す
、、、、、、
、
、
、、
る自動車メーカー・トヨタ自動車のテーマ(社是)は、
「Innovation into the Future48」である
、、、、、
し、文學界新人賞の募集ページには、選考委員が、
「新しい才能にあふれた応募作を、たくさん
45
46
47
48
同上 p.21.
ジャン・ボードリヤール(2015 年)
『消費社会の神話と構造 新装版』紀伊國屋書店 p.178-179.
浅田『逃走論』p.24.
トヨタ自動車採用 HP(http://www.toyota.co.jp/jpn/recruit/)2015/11/22
24
読みたいです。49」とコメントしている。文学と名の付く小説の新人賞すらも、資本がそれを下
支えする以上、
《差異化のパラノイア》を避けることが許されなくなった状況、それが、資本主
義社会の実情である。
そこに見るのは、
「シンボリックなイメージだけが残」った世界、記号の終わりなき戯れを強
要された、形式主義的な世界である。高度資本主義社会のビジネス空間において人々は、“差異
化しなければ”、“新しい領域を攻めなければ”という社会が生み出すい駆動輪に絶えず押し出
されながら、パラノイアックに行動する。もちろん、日々ルーティーン・ワークを課されるサ
ラリーマンや OL が《パラノ型》であることは言うまでもない。
パラノイアックであることを土台として、ビジネス空間が構成される。そこに、セミオティ
クを汲み取る契機が見出せようもないことは自明である。セミオティクは一方向的ではなく、
あくまで錯乱した個的・主観的な内面だからである。
ここで、もう少し踏み込んで確認しておきたいのが、貨幣の獲得に関与しない領域、すなわ
ち、
「余暇」である。先に、資本主義は外部を持たないという点で、象徴秩序とは明らかに違い、
供儀が存在しないと述べた。確かに、我々は、余暇の領域においても、消費という行為によっ
て貨幣に関与せざるを得ない。しかし、生存の条件という意味で人間を強制するビジネスその
もの(貨幣を獲得すること)を象徴秩序と見立てれば、余暇をある種の供儀とみなし、ビジネ
ス/余暇に、前近代的な文脈(象徴秩序/供儀・外交)を当てはめることが可能となる。
余暇が消費という行為の場である以上、資本(=貨幣)との相関を免れ得ないことは、一方
では供儀と同質な側面をみることができ、一方では、供儀とは違う面をみることができる。
まず、供儀と同質な側面は、余暇がビジネスを支える役回りを担っているという点である。
余暇が消費を免れ得ないということは、余暇とは、消費のための時間であると言い換えて問題
はない。映画館に行ったり、旅行したり、本を読んだりという行為が、消費行動(貨幣を使う
こと)であることは言うまでもないが、ベッドの上でただ眠るだけでも、そのベッドは貨幣を
介在させて購入したものであるはずだから、眠ることも消費行動とみなすことができる。
ビジネスとは、消費行動によって成り立っている。ここには、供儀が象徴秩序の存在を確認
する場であったことと、同等の構図がみてとれる。連合赤軍(供儀の場を失った象徴秩序)が
潰えたように、余暇(消費)のないところにビジネスは存在し得ない。一見、ビジネスからの
解放の場とも思われがちな余暇だが、その内実は、ビジネスと表裏一体である。消費活動によ
って放出された貨幣が、そのまま、ビジネスにおいて吸収されるのだ。
一方、余暇が資本と切り離せないがために供儀と異なっている点は、ビジネスの水準に応じ
文藝春秋|雑誌|文學界_文學界新人賞原稿募集 HP
(https://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/bungakukai_prize.htm)2015/11/22
49
25
て、余暇の水準が自動的に設定されてしまうことにある。供儀とは、象徴秩序に統括された社
会の人々が、本質的に平等に行為できる場である。無礼講という言葉どおり、そこは、日常(俗・
象徴秩序)における上下関係や肩書きが無化された、聖なる空間である。一方、資本主義社会
における余暇は、資本の蓄積の多寡に左右されざるを得ない。海外旅行に行きたければ、ビジ
ネス空間で相応の貨幣を獲得し、蓄積しなければならない。余暇の領域には、供儀にみられる
ような聖性はない。資本に被い尽くされた外部なき社会は、俗の全面化したそれである。
以上より、余暇には、二重の意味での資本からの拘束をみることができると結論づけられる。
余暇は、ビジネスの歯車の一部であり、その水準は、ビジネスによって獲得した資本の量によ
って決定される。哲学者のジャン・ボードリヤールは、この状況を端的に、
「余暇は表面的には
無償の時間のように見えるが、生産の時間と奴隷化された日常性に伴うすべての精神的・実践
的拘束を忠実に再現するという意味で、拘束された時間である50」と、著述している。外見上は
「無償の時間のように」みえても、余暇は、資本からの「拘束」を決して脱することがない。
*
第四項
資本主義社会におけるコミュニケーション空間
資本主義社会において人は、資本が生み出すパラノイアを免れ得ないこと、そしてそれが、
余暇までもを包摂していることを、前項で確認した。以下では、ビジネス・余暇を含む資本主
義社会の、コミュニケーション空間全般に焦点をあてて考えていくことにする。
北田が 2 ちゃんねるを分析し、そこに見いだしたことは、
「内輪性を再生産するコミュニケー
ション――内輪の空気を乱さずに他者との関係を継続すること――を続けることが至上命題51」
となった空間だった。インターネットの浸透とともに、広告やテレビなどのマスメディアが相
対化されていく中で、コミュニケーションにおける基準が分解されていく。広告やテレビが全
盛期の社会においては、
「テレビや広告がネタとしたもの=面白い・話題性がある」とする、社
会全体を被う大きなコミュニケーションの基準が確立していた。それは、象徴秩序的なものと
いってもいい。マスメディアが絶対的なコードを担保していたのである。
北田は、インターネットの大衆化がそうしたマスメディアによる権威としての基準をなし崩
しにしていくなかで、コミュニケーション空間が細分化され、コミュニティごとに「内輪性を
再生産するコミュニケーション」が展開されるようになったという。例えば、2 ちゃんねるとい
う場に求められるコミュニケーションは、いかに他者の言葉に対してアイロニカルなツッコミ
50
51
ボードリヤール『消費社会』p.268.
北田『ナショナリズム』p.203.
26
をいれられるかであり、就職活動の面接で求められるそれは、いかに端的かつ論理的に入社を
希望する理由を述べられるかである。細分化された多数のコミュニティを横断して生きなけれ
ばならない現代社会の我々は、その場その場に応じたコードを読み取り、行為の弁別をその都
度諮らなければならない。
従って、内輪の空気を読み、適切に行動できることが“常識”人としての条件となる。そこ
にみることができるのは、前項で述べたビジネス空間と同様の偏執、
《差異化のパラノイア》な
らぬ、
《空気を読むことへのパラノイア》とでもいうべき様相だ。先輩に対しては誠実な後輩を
、、
、、、、、、、
演じ、飲み友達との間では自分のキャラクター像 に沿った振る舞いに従事し、ネット空間の掲
、、、、、
示板に求められるコメントを投稿する。言葉を探すのに自己の本心にまで遡及しようとする必
要性はなく、あくまで形式としての言葉を並べ立てればよい。
空気を読むことやキャラクターについてのこうした批判的論考に対して、一方で、精神科医
の斎藤環が述べるように、キャラとは、
「単一の主体の所有物ではなく、対人関係の文脈におい
てその都度生成させられるものであるがゆえに、コントロールがきかない52」ものであり、した
がって、
《空気を読むことへのパラノイア》とは、単なる非内面的な形式ではないという指摘も
あるかもしれない。しかし、意図的であろうと受動的であろうと、キャラを使い分ける、ある
いは使い分けさせられる、その偏向性を回避しがたいという実情と、その脅迫に無意識である
という事情は、少なくとも本論が肉薄を目指すセミオティクとは相容れないことに変わりはな
い。
また、北田はインターネットの大衆化がマスメディアを相対化させたと論じるが、一方で、
社会全般を被う共同体間で成り立つ大きなコードが、往々にしてマスメディアの影響によって、
依然として残存していることも、確かであるように思える。例えば作家の高橋源一郎は、そう
したコードに沿ったコミュニケーションを街頭インタビューに見いだし、次のように著述して
いる。
「街頭インタビューのことば」というものがある。
テレビで、レポーターが、通行人にマイクを突きつけ、いきなり質問する。
たとえば、
「イギリスのウィリアム王子が結婚なさいましたが、どう思いますか?」
すると、バッグを抱えた OL 風の女性が、
「よかったですね。お母さんのダイアナ妃の分も幸せになってほしいです」と答える。
たとえば、
52
斎藤環(2014 年)
『キャラクターの精神分析 マンガ・文学・日本人』筑摩書房 p.276.
27
「焼肉店のユッケを食べた子どもが亡くなりましたが、どう思いますか?」
すると、帰宅途中のサラリーマンらしいおじさんが、少々むかついた様子で、
「食用の肉なのかどうか、確認もしてないなんて許せないね」と答える。
(中略)
この時、OL やサラリーマン(中略)は「考え」て、発言したのだろうか。
(中略)
ぼくは、ここには、おそらく「考え」はなかったのだと思う53。
「街頭インタビューのことば」と、それに対する「おそらく「考え」はなかったのだと思う」
という高橋の感覚より見いだすことができるのは、貨幣を使っているのに資本主義に内包され
ていると気付かない、ビジネス空間における人間像と同質のそれである。
《空気を読むことへの
パラノイア》の一方で、規定されたコードを無意識裏になぞるだけの、形骸化したコミュニケ
ーションの反復。自らのコミュニケーションが空虚であるという事実に思い至れる機会すら、
社会的実践の場にはほとんどみあたらない。多くの場合、人は、
「考え」ていないことにすら気
付かず(エポケー)、日常をやり過ごしている。
形骸化は、「恋愛」や「友情」などの、本来的には人間の心の奥の葛藤が関係性につながるは
ずのコミュニケーションにも、見いだすことが容易い。
「恋愛」という言葉が、“常識”的に彷彿させることは、「お付き合い」という形式に規定さ
れる男女一対一の関係である。
「お付き合い」の最良の形態は、男女がそれぞれのパートナーだ
けを「好き/愛している」ことであり、「愛し合う」彼らは、デート・性交・同棲といった、恋
愛という言葉が許容する記号に戯れることで、両者が「好き/愛している」状態であることを
逐次、確認していく。そこでは、本当に好きか、そもそも愛しているとはどのような心境か、
という内面の葛藤(セミオティク)への遡及よりも、付き合うか付き合わないか、恋愛するか
しないか、という形式が重んじられる。パートナーへの本質的な思いを等閑に、「お付き合い」
に到った男女は祝福され、
「別れた」男女は慰撫の対象となる。
「お付き合い」
(能記)は、両者
が「好き/愛している状態」(所記)を自動的に規定し、それを前提とした上で「恋愛」が許容
する記号(デート・性交)にただただ戯れる。「友情」においても、
“友達だから助け合う”“あ
まり親しくないから関与しない”など、対人関係は、強度のコードが埋め込まれた《日常のコ
トバ54》によって規定される。
《空気を読むことへのパラノイア》と、形骸化したコードを反復するだけのコミュニケーシ
53
54
高橋源一郎(2012 年)
『非常時のことば 震災の後で』朝日新聞出版 p.16-17.
第二章で詳述。
28
ョン。そして、発した言葉が本心であるかどうかさえ考える契機を与えてくれない社会的実践
の場(余暇とビジネス)。人々はそこで、「自由」に記号と戯れる。こうした現代社会を、解剖
学者の養老孟司は「意識の世界に完全に浸りきってしまうことによって無意識を忘れて55」しま
った社会だという。その世界に安住している限り、我々は、セミオティクが抑圧されていると
いう事実にすら気付かない。
*
第五項
総括
以上のことをまとめて、この節の締めくくりとしたい。
まず、象徴秩序が飽和した状態にある社会では、象徴秩序に包摂され得なかった人間の内面
、、、、、、、、、、
(セミオティク)は、そのはけ口を供儀という限定された形式にすら 求めることができないこ
とが判然とした。この社会の内部においては、人間が反(非)秩序的に行為する(≒セミオテ
ィクを顕在化させる)ためには、絶命しかその方法があり得ない。もちろん、物理的には、当
、、、、、
該社会の外部に出ることはできる。遠山美枝子は、連合赤軍を捨てて、通常の社会 (=資本主
義社会)に戻れば、死を免れることができたはずだ。それでも、究極の象徴秩序を《父》とし、
その内部で生きることを選択する限り、セミオティク=サンボリクという背理に生きることが
永遠に強制され続ける。
こうした飽和した象徴秩序の内部における社会の非人間性(セミオティクの抑圧)の事実は、
比較的分かりやすかった。その社会は物理的な外部空間を持つため、外部の人々(連合赤軍以
外の人々)はその閉塞を認識し、批判することがそれほど難しくはなかった。しかし、資本主
義社会では、全ての人間の生存の与件に資本が関係するため、物理的な外部を持たない。そし
て、資本主義社会が高度化していくに連れて、当該社会が資本に包摂されているという事実を
人々に気付かせないような巧妙な仕組みへと変貌していく。
ビジネス空間において人々は、差異化のための差異化が脅迫観念として植え付けられる。そ
こでは、本質的にパラノイアックである資本主義社会の特性が、一見偏執とは真逆に思える差
、
異化という行為の推奨によって、隠蔽されている。また、一見したところビジネス空間外であ
るはずの余暇においても、資本主義の束縛を逃れることができない。人々は、“身体を休める”
“ストレス発散のために散在する”という資本側が生み出した括弧付きの「自由」を、真の自
由であると思い込んで疑わない。
“身体を休める”のは、ビジネスで力を発揮するためであって、
“ストレス発散のために散在する”という行為には、貨幣を流動化させるという一元的な目的
55
養老孟司(2003 年)
『バカの壁』新潮社 p.116.
29
が内密に貫かれている
こうした構図は、コミュニケーション空間全般においても同様に見いだせる。人々は、コー
ド化された会話を反復的に繰り返すか、あるいは、空気を読むことに偏執的に奔走する。コミ
ュニケーションは、自己の内面(セミオティク)を丁寧に汲み取って言語化する行為では最早
ない。前節で述べたように、セミオティクとは、言葉によって汲み尽くせない領域である。第
二章で論じるが、しかし、人間は言葉以上に守備範囲の広い媒体を持たないのだ。どうしよう
もない背理を抱えながらも、それでも言葉によってセミオティクへ肉薄しようとする実践を本
論は後に推奨することになるが、上述してきたように、日常のコミュニケーションとは、言葉
の表層に戯れるだけである。
ビジネスにしろ、余暇にしろ、強度のコードや内輪の空気に沿った言葉が強要されるコミュ
ニケーション空間にしろ、これらの資本主義における社会的実践の場に、錯乱し、心の内部に
わだかまるセミオティクに目を向ける機会を見いだすことがほとんど不可能であることは、こ
こで明らかとなった。全てがパラノイアックに方向付けられる社会という場では、それは黙殺
されざるを得ない。浅田の《パラノ型》という言葉を用いて分析したのは、その確認のためで
あった。
社会的実践の場で等閑視されるセミオティクに、人はどのような方法でなら、正面から向き
合うことができるのか。本論の主題であるこの問いへの答えは、第二章以降で探していくこと
にする。次節を、第一節、第二節をとおして論じてきた前近代/近代以降の社会と人間らしさ
の相関についての、そのまとめの節として、第一章を終えることにする。
第三節
文化的営為のもつパラドクス
第一項
文化的営為のもつパラドクス
以上で見てきたことは、人間らしさと社会の相関についてだった。
まず、精神分析の学説を借りつつ、本源的な個としての人間らしさ(EXCЁS)について論考
した。そしてそれをもとに、個としての人間の内面を、《父》としての秩序に違和なく符合する
部分(サンボリク)と、それに汲み尽くせない撞着した部分(セミオティク)に分割する指標
を打ち立て、象徴秩序/供儀・外交としての前近代社会、パラノイアを免れ得ない資本主義社
会についての考察を試みてきた。
こうした分析によって明らかとなったのは、どのような社会でもその実践の場においては、
人間は、人間自身による創造物に、逆に支配されてしまう状況を回避できないという実情であ
る。前近代社会における象徴秩序は、社会を形成させるために人々の営為が「死せる王」を創
30
造し、彼に超越者としての絶対的な権威を付与することで、当該社会の人々にとっての共通の
《父》として昇華させた。もちろん、それぞれの個的内面における禁止の《父》(精神分析にお
ける《父》)が、共通の《父》(象徴秩序)と過不足なく一致するとは断定できない。しかし、
それらが例え本質的に相違していたとしても、社会が多数の人々によって成り立つ共同体とし
て機能するために、内面における個別的な《父》を象徴秩序と仮にも同定することで、象徴秩
序は象徴秩序足り得、社会は安定を得た。つまり、象徴秩序とは、人々が必然性に駆られ、内
面を置き去りにしながらもつくりあげた、人間自身の手による産物であるということである。
したがって、象徴秩序に即して自らの行動を人間が規定するということは、人間的産物に人間
自身が服従することを意味する。このような逆説的な実情を、《文化的営為のもつパラドクス》
と規定することにする。
もちろん、
《文化的営為のもつパラドクス》とは、人間が社会的動物であることを前提とする
なら、むしろ人間が免れることのできない宿命的な帰結であり、一概に否定することは決して
できない。問題は、
《文化的営為のもつパラドクス》によって、自らの内面(セミオティク)を
等閑にせねばならない状況が社会という実践の場には永遠に付き纏うのだというその事実に、
人間が意識的・主体的に向き合えないでいることにある。
前近代社会においては、供儀という場で逐次的に象徴秩序の実在が確認されてきた。象徴秩
序の反復的な確認は、人々がそれに自らが服していることを意識的に実感することと同じであ
る。第二節で北田の論を借りて考察した連合赤軍における革命戦士たちにおいても、自らが革
命戦士であることを、つまり、どのようなイデオロギーに自らが服しているのかという現状を、
「総括」という場で再三確認してきたのだった。もちろん、供儀や「総括」による、象徴秩序
に自らが服していることの意識的な確認が、それに汲み取ることのできない内面であるセミオ
ティクに目を向ける契機へと直接的に繋がるとは断言できない。前近代社会においては、聖な
る場が設けられることで、名目上はそれがセミオティクを発散する機会とみなされていたのか
もしれない。しかし、その発散が、コード付けられたやり方(乱声・クラ交換等)に従ってい
たという事実を、否定することが最早不可能であることは、前節の末尾で論じたとおりである。
また、一方で革命戦士においては、セミオティクは無理矢理にでもイデオロギーに同化させる
ことが義務づけられていた。イデオロギーと《父》がセミオティクを包摂しきれないという実
情に、彼らは頑として向き合おうとしなかったのだ。
とはいうものの、象徴秩序によって成り立つ前近代社会に、何らかの体系に自らが服従して
いることを自覚する場が存在していたということは、セミオティクにとっての救いの可能性が
比較的開かれていたと言えるかもしれない。しかし、時を移して近代にはいり、資本主義社会
が高度化していくと、その事実を確認する契機すらもが失われたまま、形式だけが流転してい
く。
31
前節で論じたように、後期資本主義社会の特性は、自身の行為が体系によって操作されてい
るという事実(=《文化的営為のもつパラドクス》
)を巧妙に掩蔽してしまうことにある。それ
は、
「自由」を謳歌できる余暇や、空気を読むことを強要されるコミュニケーション空間を挙げ
て、上記で分析してきたとおりである。そこで人々が服従している《父》とは、単に資本(=
貨幣)だけではなく、《差異化のパラノイア》や《空気を読むことへのパラノイア》、インタビ
ューという形式など、明示化されない観念上の強制だった。前近代社会における象徴秩序が、
神という唯一的・絶対的で認識しやすい対象であった一方で、明示化されない観念上の強制は、
対象化してそれを意識にのぼらせることが極めて難しい。そして、ただでさえそのことが困難
であるにもかかわらず、供儀や総括などの《父》を意識するための場すら、人文系の学問領域
などの一部の少数者が立ち入る場以外にほとんど設けられていないから、
《文化的営為のもつパ
ラドクス》の直中に自身がいることにすら、人々は多くの場合、社会的実践の場で気付けない
でいる。
《文化的営為のもつパラドクス》とは、人間の惰性的性質、すなわち、エポケーの換言でも
ある。
《父》なる存在を社会が創出するや否や、それに服従することに甘んじてしまい、その内
実如何への能動的な考察が、よほど意図的にならない限り逐次的になされることはない。
明確な《父》によって統括される前近代社会においても、人々を《父》ならぬ《父》
(=明示
化されない観念上の強制)によって駆り立てる資本主義社会においても、そこで生きる人間の
惰性的性質が社会に全面化している状態においては、非《父》的(=《母》的)側面であるセ
ミオティクが、往々にして抑圧されざるを得ない。それでも、
《母》なる領域が社会に萌芽する
瞬間はある。それは、革命の兆しだ。
*
第二項
無力な革命家たち
革命の兆し。例えば、それは芸術的行為にみられる。
前述したボードリヤールは、記号の戯れとしての(その意味で非芸術としての)ポップ・ア
ートと対比し、
「
「奥底にひそむ」世界を見抜こうという態度の上に成り立っていた56」ポップ以
前の芸術を次のように著述している。
たとえばキュビストたち――彼らが追求するのもやはり空間の「本質」、「秘密の幾何学」
の暴露などだ。ダダ、デュシャン、シュルレアリストたち――モノからブルジョア的機能
56
ボードリヤール『消費社会』p.187.
32
を奪い取り、破壊を秘めた月並みなオブジェに仕立てあげ、また不条理が呼び起こす失わ
れた本質と本物の領域を想起させようとする。ポンジュ――むきだしで具体的なモノを彼
が把握するときにも詩的意識と詩的知覚が働いている57。
彼の解釈によると、キュビストたちは、その実践において「
「本質」
、
「秘密の幾何学」の暴露」
、、
を「追求」したのであり、シュルレアリストたちは、
「不条理が呼び起こす失われた本質と本物
、、、、、
の領域を想起させようと」したのである。秩序に抑圧された「本質」や「本物の領域」、すなわ
ち、セミオティクに傾聴するその実践は、一回性の無償の行為でしかあり得ない。セミオティ
クは、肉薄しようとしたその瞬間から形を変える、流動的な錯乱だからである。
ボードリヤールの挙げた芸術家たちが、かつて、例えどのような能動的行為を実践しようと
したのだとしても、社会的言説は、それらをシュルレアリスム、キュビズムという“型”とし
てしか把握することができない。問題はここにある。社会的言説は、彼らの能動的行為を、「シ
ュルレアリスムとは」
「キュビズムとは」という静的・類型的な語り口で固定化させてしまうの
である。
彼らの実践が社会的言説として流布し、その“型”を完成させたとき、シュルレアリストや
キュビストたちは、そのパラノイアを免れることができなくなる。彼らは、
「シュルレアリスム」
に固執するからシュルレアリスト足るのであり、
「キュビズム」に固執するからキュビスト足る
のである。ここに見ることができる実情は、手段の目的化以外の何ものでもない。パラノイア
に人が取り憑かれたとき、そこにセミオティクを見る契機が完全に失われてしまうことは、上
述で再三論じたとおりである。芸術が目指した《母》なる領域の萌芽は、それが社会に取り込
まれた時点で潰える。文学者の江藤淳が、次のように述べているとおりである。
社会は「父」であるような「神」の下にしか構成されない。つまり「責任」と「倫理」と
「契約」の上に成立する秩序は、「父」である「神」の視線の下にしか生まれない。つま
りそれはそのなかで各々が「役割」を与えられるような秩序であり、禁止と限界によって
支えられた体系である58。
社会の中では、人々は自らの「役割」をパラノイアックに果たし続けなければならない。し
かし、流動的でとりとめのない《母》なる領域であるセミオティクは、固定化・類型化の彼岸
にある。それは、ふとした違和感を覚えた時点で、その都度傾聴を試みるという、主体的で動
的な無限の行動によってしか、汲み尽くすことのできない内実である。
57
58
同上 p.187.
江藤淳(1993 年)
『成熟と喪失“母”の崩壊』講談社 p.94.
33
現代社会の形式主義に対して北田は批判的に論じるも、社会学者として、その超克の策を提
言できずにいる。このことは、社会という実践の場でセミオティクを汲み取ることの難渋さを、
同時に示している解釈できるだろう。革命によって社会は確かに変わる。が、それは、新たな
《父》の形成、新たな固定化の始まり、新たな「役割」の付与に他ならない。革命とは、既存
の《父》を転覆するために新たな《父》を導入する手法でしかない。浅田はこの実情を踏まえ、
「男になろうとする女たちほど、批判されるべきものはない59」と述べている。例えばフェミニ
ストたちは、自身の抑圧(セミオティクの領域)を解消しようと声を張り上げた時点で、女で
あることを自ら放棄してしまっているといえる。
また、そもそもの問題として、現代社会で革命を起こすことの困難さがある。現代における
《父》は、資本そのものを除けば、あくまで明示化されない雰囲気としての焦燥感(=《差異
化のパラノイア》
・《空気を読むことへのパラノイア》
)であり、そこには外部が存在しない。現
代社会の《父》に、例え違和感を覚えたとしても、具体的な“敵”を特定できないがために、
何に対して反抗したらいいのかが分からなくなる。もちろん、資本そのものに対抗しようとす
れば社会主義・共産主義にむかい、新たな《父》を産むことに帰結する。
しかし、資本そのものへの対抗し、革命戦士たちのように社会主義・共産主義社会を確立さ
せようとするのでないのなら、反抗しようとするその姿勢自体が、差異化の一形態として、
《父》
に包摂されてしまう他に帰結はない。したがって、革命家の辿る道は、
“敵”を見出せずに、反
抗という行為が差異化に取り込まれることで、目的を喪失して自己撞着に陥る以外にはないの
である。
*
第三項
総括、並びに、言葉への序論
人間の惰性的性質・エポケーが全面化することで成立するのが社会という実践の場である以
上、セミオティクを汲み取る行為の場を、社会自体に求めることは難しい。社会は、全ての能
動的行為を固定化・パラノ化させてしまう。そもそも、社会(=秩序)とは、EXCЁS におけ
るセミオティクではない部分(=サンボリク)の顕現形態である。社会は、セミオティクと交
差し得ないからこそ、社会(=秩序)なのである。ここまで、前近代から近代以降にかけて社
会という場を総合的に論じてきたのは、そのことの確認であった。
したがって、セミオティクを汲み取る実践は、社会的実践の場とは違う位相で試みられる必
要がある。そしてそれは、言葉という記号を使った表現によって試みられるのが最も有望で網
59
浅田『構造』p.96.
34
羅的だと思われる。というのは、言語哲学者の佐藤信夫が述べるように、絵画や音楽などの他
の表現に比べて、「言語というものが守備範囲を無限にかかえて60」いて、ひょっとするとその
領分に負えないように思える事象まで、とにかく包摂し尽くそうとする極めて積極的な姿勢を
歴史的に永らく貫き続けてきたからだ。
言語は、森羅万象というか人事百般というか、とにかくこの宇宙に存在しうるもの、人
間の考え創造しうるものごとのすべてを表現するためにある。範囲が限定されていない。
これはわかり切った現象のようでありながら、実は大変な事実なのだ。それだからこそ、
本来言語の能力を超えていると思われるふしもあるような対象まで、人は言語によって把
握しようとする(せざるをえない)
。哲学の本が言語で書かれるという常識的な事態すら、
もしかすると、道路交通標識をもって恋文を書こうとする試みに近いかもしれないのであ
る61。
佐藤がいうように、これまで、誰も哲学の論文を楽譜や絵で書こうなどとはしなかったし、
また、言葉そのものを音楽や絵画、もしくは写真によって追求しようとする試みもなかった。
一方で我々は、言葉によって、哲学論文も書くし、音楽や美術や写真への論及も行う。本論は
これまでに、セミオティクがいかに人間の知覚によって捉え難く、流動的で撞着しているかを
折に触れて論じてきた。それゆえセミオティクは、言葉の領分を多いに超越する対象であるよ
うにも思える。が、人間はこれまでに幾度となく、言葉の領分を顧みることなしに、言葉を駆
使して不可能性へ到達しようと足掻いてきたのだ。こうした実情から、人間は言葉に他のどん
な表現よりも強い信頼を抱いるといえるはずだ。言葉は、その領分に甘んじることなく、無限
に表現し尽くそうと試みる。セミオティクを汲み尽くすことを目指す本論において、言葉が最
も有効だと考える所以である。
言葉の本来性に立ち返ることで、その可能性を無限に追求する努力が、セミオティクを汲み
取る実践につながるのではないか。次章では、言葉そのものの考察から初め、言葉の可能性を
探っていくことにする。
60
61
佐藤信夫(1993 年)
『レトリックの記号論』講談社 p.20.
同上 p.117.
35
第二章 言葉とテクスト
言葉とはそもそも何なのか。本章では、言葉の根源的な考察からはじめることで日常のコト
バの空虚さをあぶり出し、それと相対するかたちで、エクリチュールの“ことば”の可能性を
論じていく。その際、芸術における“異化”の概念、ロラン・バルトの提唱する“テクスト”
の概念を分析手法として参照する。
最終的には、社会的実践の場で汲み取ることのできなかったセミオティクに肉薄する方法論
に行き着くことを目指す。
*
第一節
日常のコトバと文学の“ことば”
第一項
反復されるアウラなきコトバ
言葉とは何か。
例えば作家の江藤淳は、言葉とは「人間の主体的な行為と不可分のもの62」でありながらも全
く主観的なものというわけではなく、一方で外在的な道具でもないという。もしも言語が人間
の外側に確固として存在していて、ものに縛り付けられているならば、我々は「一般的な「机」
、
まるいのや四角いのやニスをぬったのやきずだらけのや、などのことを絶対に考えられなくな
って、いま眼の前にある鎌倉彫の机のことしか考えられなくなる63」し、また、全く主観的なも
のであれば、他者との意思の疎通が不可能になってしまうからだ。
また、文芸批評家のテリー・イーグルトンは、言語に対する構造主義の学説を次のようにま
とめている。
あなたが自分の世界をどう解釈しようとも、それは、あなたが好きなように処理できると考
えている言語の機能の範囲内のものでしかない、またそうした言語には、明らかに永遠不変
なるものなどない。意味は、あらゆる男女がどこででも直感的に共有しているものではない。
共有していないからこそ、母語や表記法に応じて、意味はさまざまに分節化されるのだ。あ
なたがどういう意味を分節化できるかは、なにをおいてもまず、あなたがどういう表記法な
り言語なりを共有しているかにかかってくる64。
彼によると、構造主義の学説は、
「現実は、言語のなかに反映するのではなくて、言語によっ
62
63
64
江藤淳(2005 年)
『作家は行動する』講談社 p.11.
同上 p.11-12.
テリー・イーグルトン(2014 年)
『文学とは何か――現代批評理論への招待(上)
』岩波書店 p.256.
36
て生みだされる65」と考える。言語の体系(ラング)があることによって人間は現実を認識でき
るのであって、決してその逆ではない。また、言語学者の丸山圭三郎は、「規則の総体がラング
であって、これはあくまでも個人を越えたところにある抽象的な制度であり約束事であり条件
である66」と説明している。ラング(日本人にとっての日本語・フランス人にとってのフランス
語)と「照らし合わせて人びとが言語化する具体的なメッセージがパロール67」であるが、逆説
的にも、ラングの成立には個々人の言葉(パロール)が先に成立していなくてはならないはず
だとして、
「歴史的にはパロールの事実が常に先行したはずなのに、現実には既成のラングに個
人が拘束される面の方がはるかに強い68」と丸山は述べる。言語(ラング)によって人間は認識
や知覚を操作・制限されているとする構造主義の謂いは、言語と人間の関係性に、《文化的営為
のもつパラドクス》を看取している。
確かに、先行する現実を言葉によって認識できるとする考え方よりも、言葉の体系によって
現実が構成されるとする構造主義の学説の方が腑に落ちる点が多い。例えば、前述した言語哲
学者の佐藤信夫は、
「私たちは年じゅう、うそに近いかすかな虚偽をまじえることなしに、口を
きくことができない状態のなかにいる69」とし、次のように述べている。
現代でもわれわれは、常識的言語では夕方になると「日が沈む」と言う。にもかかわらず
心のなかでは、何か科学的知識めいたものをもっているものですから、あれは太陽が沈んで
いるんではなくて《大地がのぼっている》んだということを、別に知っている。ただ、口で
は「日が沈む」という。(中略)それまで「大地」というものは、動かないものの代表だっ
たわけですから、その名詞に対してたとえば「のぼる」というような動詞を接続することは
意味論的コードに反していたはずです。それはほとんど「暗闇が輝いている」というような
無理な言い方だったはずです。(中略)いまでもわれわれは、日常的には地球中心に考えま
すから、どう見てもあれは日が沈むように見えるのです。だからわれわれは、日常のことば
づかいまでは変えなかった70。
我々の多くは科学的には地動説を信じていて、それが「現実」であるとして疑わない。しか
し、そんな我々は、
「日が沈む」という言葉を日常的に用い、感覚のレベルでは、その現象をあ
たかも「日が沈んで」いるかのように捉えてしまっている。しかし、「現実」はその逆で、「大
65
66
67
68
69
70
同上 p.256-257.
丸山圭三郎(2008 年)
『言葉とは何か』筑摩書房 p.70.
同上 p.72.
同上 p.72.
佐藤信夫(1992 年)
『レトリック感覚』講談社 p.232.
佐藤信夫『記号論』p.36-37.
37
地がのぼって」いるのだということを認識している。この矛盾した状況に対して、我々自身は
普段、
「日が沈む」と口にすることを虚言だとすら思わない。そう考えれば、人間は知らず知ら
ずのうちに言葉によって「嘘」をつかされているのであって、その「嘘」によって「現実」が
構成されていると考える構造主義の学説は、確かに説得力がある。
もちろん、この場合の「現実」と「嘘」は、捉え方次第でいくらでも反転する。上記のよう
な、地動説か天動説かという科学的難問や、観念上の概念、人間の錯綜した内心など、可視化
されない非実体的な何かについては、それを、疑い得ない客観的な真実であると絶対的・普遍
的に明証することができない。デカルトの「神の存在証明」をニーチェが覆したように、「神」
「精神」「好み」「真実」などの形而上学的な概念については、解釈の方向次第で「現実」にも
「嘘」にも転ぶ。その一方で、眼の前にモノがあること、例えば、
「今、私の眼の前に一冊の本
があること」や「昨日、晩ご飯にカレーライスを食べたという事実」については、現象学のよ
うに客観を主観の一形態として捉える考え方(客観的な真実はないとする考え方)もあるには
あるが、少なくとも認識のレベルにおいては、まぎれもない現実であることに変わりはない。
、、、、、、、、、、、
つまり、実際に私は今、本を見ていないと思っているにも関わらず、言葉の力によって「私の
眼の前に一冊の本がある」と口にし、無意識に嘘をつかされてしまうようなことはほとんどあ
り得ないということである。
つまり、我々がラングによって無意識に認識の在り方を規定されてしまうときに混乱が生じ
るのは、圧倒的に、可視化されない形而上学的な概念の言語化にあるということだ。それは、
時代や認識の枠組みによっていくらでも変転する、概念という一定性のない人間的創造物の本
来的な性質に由来している。
地動説が主流となって久しいが、未だにラングとしての言語が「日が沈む」という表現を維
持し続けていることは、ラングの保守性・惰性を端的に示しているといえる。概念的な現象は、
それが言語化されるときに、なんらかのレトリックとして恣意的な枠組みが設定されざるを得
ない。実体のない現象を言表に置き換えるとき、そこに無理が生じるのは当然のことである。
上述したように、言葉とは、そうした無理を承知の上で、それでも全てを言語化し尽くそうと
する究極的な積極性を有しているのだ。日没という現象は、太陽と地球の関係を、身近にある
フィジカルな(目に見える)運動の現象(この場合、液体のなかでモノが浮き沈みする現象)
、、、、、、、
、、、、、、、、
に仮に置き換えることで言語化される。しかし、そうした言葉による一時的な置き換えが、模
、
倣され、反復されることによって、コード化し、やがてラングとして固着する。本来的には仮
、、、、、
の置き換えだったはずの言語が当該社会で普遍化し、定着することで、我々は、いつの間にか
「日が沈ん」でいるようにしか見えなくなる。というよりも、太陽が本当に沈んでいるのか、
それとも大地がのぼっているのかということを考えることすらなく(エポケー)
、特定の現象を
「日が沈む」という言葉で不感症的に乱発してしまうようになるのだ。
38
こうした、日常で使われるステレオタイプな言葉について、哲学者のロラン・バルトはつぎ
のように述べている。
ステレオタイプとは、魔力も熱狂もなく繰り返される単語である。あたかも自然であるか
のように、あたかも、奇妙なことのように、繰り返される単語は、その度に、それぞれ異な
った理由で、そこにふさわしいかのように、あたかも模倣することが、もはや模倣と感じら
れなくなることがあり得るかのように。図々しい単語だ。凝着性をもとめていて、自分の固
執性を知らない71。
ラングが人間の惰性によって定着した言葉であるという、その事実にすら思いを馳せること
なく、我々は言葉をあくまで自動的に繰り返し発する。日常において我々が“普通”につかう
言葉は、「嘘」と「現実」を棚上げにした状態で、「考えない」ことを前提として交わされる。
それは、バルトのいうように、「自分の固執性」すら知らずに自らに固執する、「図々しい」言
葉である。
こうした日常の言葉を、本論ではカタカナの“コトバ”と規定し、以下、論じていくことに
する。
コトバは、経済的である。もし我々が、日没の現象を言表するのに、本当に日が沈んでいる
のかどうかをその都度考えるのであれば、たった一言発するのにすら、多大な時間と深い考察
が要されることとなる。そしてもし、認識レベルにおける「真実」しか口にしてはいけないと
いう理念を誰もが共有するのなら、最終的に我々は皆、徹底的な不可知論者として言葉に絶望
する他なくなる。
しかし、我々がやり過ごす日常とは、コトバによって成り立つ。だから、コミュニケーショ
ンがスムーズに行われるのだ。第一章で論じたように、「お付き合い」というコトバは、男女が
互いに愛し合っていることを意味し、インタビューの質問は、特定の受け答えの仕方を、質問
自体に「期待」という形で内包している。社会という日常の空間では、
「お付き合い」というコ
トバやインタビューによって質問されるコトバの能記が、会話を貫く特定のコンテクストに照
応されることで、ほとんどひとつだけの所記を有することが自動的に決定される。コトバとは、
共通言語と言い換えてもよい。それは、当該のコミュニティで不和なく用いられる。コミュニ
ケーションにおいてコトバの受け手は、話し手のコトバ(能記)のもつほぼ唯一の所記を読み
取って返答することが“常識”的とされるから、まれに発話者の意図に沿わない返答をすると、
71
ロラン・バルト(1977 年)
『テクストの快楽』みすず書房 p.80-81.
39
怪訝な顔を呈されるか、嘲笑を持って冷遇されることになる。現代社会における《空気を読む
ことへのパラノイア》とは、そうしたコトバのコードを鋭敏に察知できることが全面的に推奨
される世情だった。
そう考えると、言葉は、一度発せられることにより、コトバに転化してしまう宿命を負って
いるといえるのかもしれない。言葉とは、その始まりにおいては、言葉によっては捉え難い現
象を、身体的・物理的感覚に依拠しながら何とか認識として捕まえようとする、無理を承知の
足掻きによって仮構されるものであったはずだ。その意味で、本源的に言葉とは、一回性のア
、、、、、
ウラをそれ自体が纏っていたといえるのではないか。しかし、唯一の言表として発せられた言
葉は、反復されることによってその内実が失われ、空虚なコトバとして形骸化する。言葉の反
復は、なにも複製技術時代以降の話ではない。言葉は、発せられたその瞬間に、繰り返され、
アウラを消滅させ、コトバに転化する運命を背負っている。言葉を生みだす人間は、こうして、
《文化的営為のもつパラドクス》に陥らざるを得ないのだった。
アウラなき形骸化したコトバの反復によって、我々は、「現実」がそれにしか(「日が沈ん」
でいるようにしか)見えなくなる、というよりもむしろ、それにしか見えないかどうかにさえ
考えを及ばすことなく、反射的なコミュニケーションを交わし続けることに偏執する。往々に
して、そうしたコトバはパロール(発話)における言葉であって、とりあえずはスムーズで、
誰ひとり疑問を抱かないコミュニケーションを成立させることが社会という日常の場で目的化
されてしまう。
パロールとして交わされるコトバによって、本論の主題「人間らしさを汲み取る実践」は到
底達せられそうにもない。コトバとは内実を失いながらも、繰り返されることで意図されずも
《父》としての権威をもつに到った言葉である。そして、我々はコトバが《父》であるという
事実にすら思い至る機会を失っている。
したがって本論の主題を遂行するには、言葉をコトバとしてではなく、言葉の本来性に立ち
返ろうとする姿勢、コトバの空虚さに気付こうとする姿勢が貫かれねばならないのだった。我々
は、日常の空間において、コトバに浸かりきっている。しかし、フロイトが撞着する「欲動」
として規定し、クリステヴァが錯乱する「セミオティク」と名付けたような、秩序に包摂され
ない「人間らしさ」が、物化したコトバによっては決して肉薄できないことなど自明である。
もちろん、構造主義からすると、そうしたことは問題にならないだろう。構造主義は、むし
ろ言葉が人間の内面を形作ると考える。しかし、本節の冒頭で江藤の説を紹介したように、言
葉とは、つきつめれば、個人の外にある客観的な実在ではないのだ。人間は、数式によって月
面に着陸することができたとしても、コトバによって、EXCЁS を汲み尽くすことはできない。
言葉とは道具ではない。
コトバでは汲み取れない人間らしさに光を当てるには、コトバの輪郭をぼかし、言葉を柔軟
40
に解きほぐしていく必要がある。それは、不可能を前提としたゴールのない連続的な行為でし
かなし得ない。言葉は発せられたそのときから、コトバとして錆び付いてしまう宿命を免れる
ことができない。セミオティクの流動に余す所なく言葉を照射することは、実質的には不可能
、、、、
である。しかし、照射しようと努めることは可能だ。そうした終わりのない実践の端緒を、本
論は詩的言語(文学・エクリチュール)に求める。
*
第二項
エクリチュールの“ことば”
ここで、エクリチュールとパロールの違いについて考察しておきたい。
パロールとは、発話であり、そこで交わされる言葉であると、ここでは規定しておくことに
する。会話という形態の中で発せられるパロールの言葉は、発話者と聞き手のコミュニケーシ
ョンを前提とするため、それがどのような意図に沿って発せられたのかを、その都度発話者に
よって確認される必然性を免れることができない。そして、聞き手の解釈が発話者の意図と一
致しない場合には、後者によって修正を余儀なくされる。言葉がセミオティクをどのように汲
み尽くせるのかという言葉そのものの可能性への考察にではなく、話し手の意図に重きが置か
れがちであり、例えどれほど気を遣ったとしても、その側面を回避することは難しい。パロー
ルが会話をその前提としている限り、両者の意思疎通がその目的となるからだ。そして意思疎
通とは、会話する主体同士が、自らの意思を自身で理解できているという前提の上に行為とな
る。言葉によるセミオティクへのアプローチは、そもそも言葉にできないはずの目に見えない
流動体を言葉にしようとする背理を抱えた行為だった。したがって、往々にして「私はこう思
、、、
う」
「私はその意図で言葉を発したのではない」という仕方で聞き手の解釈を修正する、自らの
、、、、、、、、、、
意図を理解できている ことを疑わない上に成り立つパロールでは、コトバの罠を突破すること
がそもそも難しい。
もちろん、現代社会のような、コミュニティによって空気を読み分け、時と場合に応じたコ
ードを読み取って社会的な共通言語を使い分ける我々は、多様な志向を持った言語空間(職場・
家族・友だち・ネット空間など)の影響を受けて自らの言葉を養成させている。したがって、
統括的に見れば自己の言表の一貫性は失われていて、多様性に富んでいるといえるだろう。例
えば、大学生が哲学の授業でつかう「愛」という言葉と、恋人や友だちとの会話で口にするそ
れとでは、同じ能記でもその意味が異なっているはずだ。しかし、他者との会話の場合には、
何らかの立場に即し、論理的矛盾を排した言葉を意図的に(あるいは無意識に)選んで発する。
哲学用語における「愛」と、恋人や友だちとの間で交わされる「愛」にはそれぞれに違ったコ
ードがあることを我々は知っていて、発話空間の移動に応じて、ただコードを切り替えている
41
にすぎない。この両者が混同されること(恋人との間で交わされる「愛」という言葉に、しば
しば破壊性を含む哲学的な意味合いを持ち込むこと)は、
“常識”的である限り許されない。
ロシア・フォルマリストのミハイル・バフチンが述べるように、特定の立場での発話は、
「閉
じられた日常にとどまることによって72」、つまり、多様な志向を有した諸処の言語空間の影響
による自身の綜合的な矛盾や葛藤を黙殺することにより、
「言語の無葛藤性と自己の言語の先験
的な既定性にやすんじ73」ることで逆説的にも肯定される。立場とは多様な自己の動性における
たった一側面に過ぎないにも関わらず、発話に論理的一貫性が求められるが故に、それは、言
葉を拘束してしまうのである。
また、パロールにおいて発せられた言葉には、受け手が何らかの反応を言葉によって示すこ
とが半ば義務づけられている。両者が交互に発話を繰り返す、その形態が会話である。フラン
ス文学者の蓮實重彦は、こうしたパロールが重視される社会空間を「「音声中心主義」的な西欧
の神話的「制度」74」とみなした上で、そこに、
「「声」の直線的な配列によってその同時的共存
をそのつど否定する75」排除と選別の体系を見いだす。話し手と聞き手が同時に発声することが
できないという蓮實の謂いは比喩であるが、会話において、話し手の言葉は彼の意図の表象で
なければならず、彼の言葉は、それ以外の意義を包摂していてはいけない。確かに、声による
会話は、排除と選別の上に築かれている。パロールは、発話者同士の意図の確認作業だ。発せ
られたコトバには、それが意味する明確な解答が確認されなければならない。
一方、詩的言語(エクリチュール)においては、書き手がどのような意図を持ってその言葉
を書き留めたのかということがほぼ問題にならない。殊に散文(小説)においては、詩やエッ
セー、日常のパロールのように、
「私はこう思う」といった書き手の意思の具象が、完全に排さ
れた状態で提示される。もちろん、詩には、直接的な詩人の意思表明かどうか明確でない場合
も多いが、バフチンも述べるように、あくまでそこで使われる言葉は、
「完全に作者の意図に忠
実な、従順な機関76」として提示されている。詩の言語は作家の一人称でしかあり得ないという
意味で一元的であるが、他方、小説の場合は、作家が直接的な意図を言表することがなく、多
様な登場人物によって語られるという点において多声的である。仮に、語り手の描写が一人称
でなされていたとしても、それは作家が創造した作中の主人公としての「私/僕」であって、
彼の言葉は物語の中で多様な他者の言葉と交差することによって、矛盾や葛藤を経験する。社
会においてはコミュニティごとに共通言語としての言葉が《父》性を帯びるが、小説の中では
多様な立場の人物がやり取りすることで、言葉の《父》性が相対化されて薄まる。読者は特段、
72
73
74
75
76
ミハイル・バフチン(1996 年)
『小説の言葉』平凡社 p.70.
同上 p.70.
蓮實重彦(2009 年)
『反=日本語論』筑摩書房 p.316.
同上 p.316.
バフチン『小説の言葉』p.55.
42
主人公の発する言葉に共感する必要はない。小説においては、作家によって書かれた諸処の言
葉を、読者は彼の意図から解放された状態で、自由に往還することができるのだ。
多様な言葉の交差によってコトバが《父》性を解消し、それゆえに所記が撓んで言葉の輪郭
が潤びる。作家は、新しい言葉を創造するわけではなく、日常に溢れかえるコトバを登場人物
に語らせることで、それらを相対化するのだ。そこには、絶対的なイデオロギーなど見出せよ
うもない。読者は、そうして相対化されたコトバを縦横に行き来することで、派生的に自身の
思索へと接続させていく。そこでは、作家と読者の意思疎通も要請されない。登場人物は作家
自身ではない。小説の中に、作家という人間は存在しない。
小説の言葉は、作家の意図の表明ではなく、したがって、読者に反射的な応答を求めること
もない。読者は小説に散らばるそれぞれのコトバに対する応答を引き延ばした状態で、思索の
過程を無限に延長させることができる。エクリチュールは、単発的な反応(解答)を要請しな
い。読者に能動的・自発的な思索を促すだけである。
こうしたエクリチュール(文学作品)の特性は、イーグルトンが次のように述べているとお
りである。
文学作品とは、特定の「生きた」関係からはきりはなされた言語であって、それゆえ多くの
異なる読者の「再記入」と再解釈に開かれている。作品そのものは将来自分がどのように解
釈されるか「予見」することはできないし、解釈を制御して一定の枠にはめること――私た
ちが誰かと面と向かって話しているときなら、できるし、そうしようと努めること―——もで
きないのだ。作品の「無名性」は、作品の構造それ自体の一部であって、作品にふりかかっ
た不運な偶発事故ではない。そして、この意味から、「作家」であること―——自分自身の意
味の「起源」となり、意味に対して「権威」を主張できること――は、神話である77。
言葉に込められた作家の意図を一度剥奪し、言葉そのものの可能性を考え直す契機がエクリ
チュールにはある。言葉はその意味で「無名」なのであり、発話の状況に見られるような、発
話者と聞き手の「「生きた」関係」、つまり、意思疎通の強要が、書き手と読者の関係において
は解消されている。本論が詩的言語(文学・エクリチュール)に向かうのは、この理由による。
言葉によってコトバの支配をくぐり抜け、セミオティクに迫ろうとする能動的・主体的な実
践。そうしたエクリチュールの言葉を日常のコトバと区別し、ひらがなの“ことば”と規定す
ることにする。
最後に、文学の“ことば”を芸術理論における“異化”の概念とともに、考えていくことに
77
イーグルトン『文学』p.281.
43
する。
*
第三項
芸術における異化
コトバによって世界の見方が固定化され、錆び付いてしまっているのが我々の日常空間であ
ると上記で述べてきた。日常において我々は、コンテクストに沿った語を配置することで、あ
る表象のもつ本来的には多様な所記を、ひとつに収斂させて理解する。例えば、ドラマでよく
目にするであろう、女性が浮気した男性を平手打ちするシーンを想像してみたい。女性は平手
打ちの後、目尻に涙を浮かべながらも去り際にひとこと彼に発するのだが、我々は、彼女の口
からどんな言葉が飛び出すことを期待するだろうか。おそらくは、ほとんどの人が、「最低!」
「大嫌い!」などの否定的な言葉が彼に浴びせられることが“自然”であると思うはずだし、
そう期待するはずである。我々の日常の思考においては、平手打ちという行為(能記)や、目
尻に涙を浮かべるという彼女の生理的表象(能記)を、男性の浮気という物語を構成するプロ
ットと併せて考えることで、自動的に、否定的な意味合い(所記)に結びつけてしまう。
“自然”
であることは、コンテクストに応じて能記に対応する所記がほぼひとつにきまっていることで
あり、我々が日常空間で話すコトバは、だからこそ、簡単に意思疎通の道具となり得た。また、
このシーンで、もし、本当に女性が「大嫌い!」と彼に言い放ったのであれば、我々は字義ど
おり、彼女は彼を心底憎んでいるのだと受け取ることだろう。ここにも、「大嫌い!」(能記)
=忌みはばかる(所記)という短絡的な構図が当てはまる。
こうしたコトバにおける自動化した能記と所記の結びつきは、我々を「分かった」という確
信(=思考停止状態)に追いやり、言葉のもつ意味の幅を狭めてしまう。しかし、言葉によっ
てとりとめようのないセミオティクに接近しようとする本論においては、言葉のもつ本来的に
は開かれている、多様な所記に目を向けることが、その鍵となる。つまり、日常で“自然”と
される能記=所記の固着を解きほぐす技法が必要で、それによって必然的に、コトバは「耳慣
れない」
“ことば”に転化されなければならない。この技法を、ロシア・フォルマリストのヴィ
クトル・シクロフスキーは“異化(非日常化・オストラネーニエ)”と名付けた。現在では芸術
理論における基本的な概念として定着している。
この異化については、前述した文化人類学者の山口によって、次のようにわかりやすく説明
されている。
まず芸術の目的は、我々に物事の表層を認知させるのではなく、その隠された意味を「見
る」よう手助けするところにある。(中略)生活のなかで、我々は物事を「見る」ことをや
44
めてしまう。事物、衣装、家具、妻、戦争の恐怖すら、我々は見慣れたものにしてしまい日
常生活に同化してしまう。こうした慣性化は、我々と深層の現実との本源的な接触の機会を
奪い、我々を単なる日常生活のレヴェルの因果関係のみに支配される存在に還元してしまう。
芸術がその衝撃効果によって生活に介入するのは、ここである。芸術は、人の視線を、自動
的な反射作用から逸らす助けをする。
芸術がこういった作用を成し遂げるのは、それが現象をその見慣れたコンテキストから切
り離し、それらを見慣れぬコンテキストの中に移行させることによってである。
それは事物の相貌を変えてしまい、それらを一見して知覚することを困難にすることによ
って、最終的には事物の隠された相貌をよく「見える」ようにする。つまり、ある事物や観
念が未知で、奇異で、見慣れなく、なにやら難しいものになると、我々はそれに注目し、積
極的な関係をうち樹て、それを「見よう」とする。つまり、このオストラネーニエの技法は、
芸術の素材を見慣れぬものにする、言い換えれば、事実をその普通のコンテキストから切り
離して、予想されない組み合わせの中に持ち込むという点をその基本的特徴としているので
ある78。
先ほどの例でいえば、この状況のなかで女性が「大嫌い」ということば=紋切り型の言葉を
発話してしまうことは、
「物事を「見る」ことをやめて」いる状態だといえる。我々は日常の空
間において、女性と男性は愛し合っていたが、男性が浮気したために女性が彼のことを嫌いに
なったという、
「単なる日常生活のレヴェルの因果関係のみに支配」された思考しかできなくな
っている。女性が彼を憎むのは、彼の浮気という行動だけに原因があるのではないかもしれな
い。また、平手打ちは、彼を字義通り嫌いになったからではないかもしれないし、目尻に涙を
浮かべて発せられた「大嫌い!」という言葉には、今ではやり場のなくなった彼への愛情が裏
返しに含まれていたのかもしれない。そうした決してひとつの原因には還元することのできな
い人間の言動について、我々はテレビドラマを鑑賞しながら思いを巡らせることが果たしてど
れほどあるだろうか。
確かに、テレビで放映されるような多くのドラマは、物語の起承転結に重きを置いた、最終
的にはオチのある作品が多い。ドラマにおいて、
「ある事物や観念が未知で、奇異で、見慣れな
く、なにやら難しいもの」に思えるシーンは少ないだろう。制作者側に照射して考えてみると、
、、、、、
確かに彼らは、ドラマを芸術的には作っていないということがいえるのだろう。
これに比べて、本論が主眼とする文学(小説)の“ことば”は、コトバを「普通のコンテキ
ストから切り離して、予想されない組み合わせの中に持ち込む」ことで、コトバの“ことば”
78
山口『両義性』p.281-282.
45
化を試みる実践といえる。文学においては、彼の浮気に激昂する女性が、仮にも彼に「大嫌い!」
という言葉を投げかけたとして、彼女のその科白以外の箇所で、その言葉に到るまで、あるい
は、言葉を発した後の彼女の心理的葛藤が、他者のコトバと多声的に折り混ざりながら描写さ
れることになるだろう。その記述は、
「大嫌い!」という言葉をテレビドラマが設定するような
短絡的な因果関係から引き離し、
「大嫌い!」という語に含まれる複雑な彼女の内的葛藤や心の
機微、いきさつを提示することで、読者に衝撃を誘う。その衝撃とは、コトバとしての「大嫌
い!」に、読者自身がいつも無意識に読み取っていた唯一の意味合い以上の、多様で撞着した
所記が含まれていることを実感したことに対する、衝撃である。ここにおいて読者は、
「大嫌い!」
というコトバが、揺さぶられ、解体していく過程を体験する。読者は、
「大嫌い!」という“こ
とば”に、
「浮気されたから怒った」という明解で単純な構図以上の意味を見いだして、女性の
内面へ深く遡求していく動機を得る。はたまた、自身が日常的に使っている「大嫌い!」とい
う静的なコトバに、“ことば”としての揺れをみることだろう。文学において、コトバは、異化
されることによって“ことば”として開放され、セミオティクの多動性に肉薄する力となる。
そうした文学における異化を、文学者の大江健三郎は、
「ありふれた、日常的な言葉の、汚れ・
クタビレをいかに洗い流し、仕立てなおして、その言葉を、人間がいま発見したばかりででも
あるかのように新しくすること79」だと述べる。しかし、ここで強調しておきたいのは、本論で
規定する異化とは、単に、「見慣れた」コトバが「見慣れない」“ことば”に、スイッチのオン
/オフのように切り替わるイメージではないということだ。コトバとしての「大嫌い!」が有
していた唯一の意味(=忌みはばかること)が、別の唯一の意味に瞬間的に置き換わることが、
異化なのではない。
文学における書き手、つまり作家は、自動化したコトバを多声的に組み合わせることで、コ
トバのコードを解体的に、つまり、曖昧にして提示する。それは、解体の過程といった方が正
しい。作家がもし、単に「嫌い」というコトバを「愛する」という意味で用いたとしたら、確
かに読者は衝撃を受けるし、「嫌い」という語を「いま発見したばかりででもあるかのように」
受け取ることだろう。もちろん、「嫌い」という語を「忌みはばかる」という意味で用いてきた
読者に、いきなりそんな置き換えを示しても理解はされないだろうが、仮に上手く疎通できた
としても、それは、
「嫌い」という言葉の新たなコトバ化の推奨でしかない。コトバの“ことば”
化(=本論が規定する異化)とは、達成や結果などの静的な状態を指す概念ではない。「進化」
、、
「変化」などの「化」がつく名詞を、我々は往々にして、
「あるものが別の状態に移行すること」
として、実体的に把握してしまいがちである。名詞とは基本的に、静的な実体を表象する言葉
だからだ。したがって、「異化」という言葉で、異化の動的な過程を意味したい本論では、「異
79
大江健三郎(1988 年)
『新しい文学のために』岩波書店 p.42-43.
46
、、、、
化すること」という言い方のほうが正確かもしれない。
本論における「異化」は、異化された結果の意味合いではなく、コトバに規定された所記を
解きほぐしていく過程、コトバが固まっていることに気付こうとする能動的な行為の軌跡を指
す概念として用いたい。当該社会への閉塞感が革命によって解消されることがないという事実
を第一章でみたように、コトバのもつ《父》を別の《父》に置き換えたところで、問題はなに
ひとつとして解決されない。言葉を本来的な所記の多様性へと開く作業、この動的な行為が異
化の本質であるはずだが、そのためには、作家の提示の仕方だけではなく、読者の受容の仕方
にも異化の行動が持ち込まれる必要がある。
セミオティクが中心も周縁もなくとりとめのないように、言葉を“ことば”として開くこと
によるセミオティクへの近接、つまり異化の実践には、始まりも終わりもない。つまり、ただ
作家が文章として提示すればおしまいなのではなく、それは異化のきっかけであって、多様な
思索による行動は、読者側に強く求められる。先に、テレビドラマが非芸術的だと述べたが、
それは単にドラマに鑑賞者の知覚を新しくするギミックが含まれていないという理由だけでな
い。受容者がただ物語を消費するだけの受け身に徹していることに、深く根ざしているのであ
る。
、、
テレビドラマの現代的な受容は、物語によるカタルシスを目的とする仕方、もしくは、イン
、、
スタグラムやツイッターに投稿することで流行に戯れる目的、好みの俳優や女優の姿を拝める
、、
目的が大方だろう(もちろん、それらの目的は往々にして相互に関連し合っている)。こうした
鑑賞者は、
「見慣れた」日常の景色を解体してくれるきっかけなど、ドラマに決して求めはしな
い。作家やドラマの制作者などの表現者側が、異化を目指すなら、その表象の仕方は、大江が
いうように「知覚を長びかせる難渋な形式80」でしかあり得ない。上述したように、異化とは短
絡的な因果関係で理解できる実体、つまり、結果として受容できるモノではない。唯一ではな
いにしろ、ほとんど明確な目的を持って鑑賞されるテレビドラマに、もし仮に「見慣れた」景
色を解体する技法(異化のきっかけ)が含まれていたとしても、鑑賞者はそれを見過ごすか、
あるいは、よく理解できない描写として等閑視することになるだろう。
無論、小説にしろテレビドラマにしろ、表象という行為は、どんな場合でも、受容者が五感
で捉えることができるという意味で実在的でしかあり得ない。したがって表現者側の異化とは、
この意味で、本来的には語義矛盾なのである。つまり、表象という行為に及んだ時点で、表現
者の異化は始まるとともに終了している訳である。この事情については、次節で詳しく論じる
ことにする。
80
同上 p.39.
47
以上では、日常で固着したコトバを解きほぐすために、異化という実践が必要であることを
述べてきた。しかし、異化のそもそもの必要性に思い至ると、むしろ、人間の日常世界が慣性
的で思考停止の状態で回っているからこそ、その反動として芸術における異化という概念が要
請されるという、同時発生的な逆説がそこに見えてくる。サンボリクの対概念としてのセミオ
ティク、両者は共犯関係にある。エポケーのないところに異化は要請されないのだ。第一章で
社会という日常空間、そして、この節で《父》としてのコトバについて考察してきたのは、そ
れらが、文学的体験の必要条件であることを示すためでもあった。最も、精神分析が明らかに
したように、人間の存在は必ず秩序(=《父》・サンボリク・社会)と結びついている。
秩序に抑圧にされた EXCЁS の余りの部分へ、小説の“ことば”によって肉薄を目指す。そ
のために、異化という動的な実践は、作家だけではなく、鑑賞者・読者によって担われなけれ
ばならない。
次節では、読者側の異化の実践の場を“テクスト”という概念に見いだし、論じていくこと
にする。
第二節
テクストという広がり
前節では、日常のコトバから分析をはじめ、エクリチュールにおける詩的言語の異化につい
て、山口や大江の説を借りて考察してきた。
「見慣れた」コトバを“ことば”化する文学におい
て、異化は、読者の行為に大いに担われる必要がある。異化とは始まりも終わりもない継続的
な実践の過程であって、したがって、作家による作品の提示は、その一契機に他ならないから
だ。
この節では、読者による異化の実践の場を“テクスト”という概念に見いだして論じていく。
*
第一項
作家による異化の限界
エクリチュールとしての小説(文学)とパロールの違いを前節で触れたが、ここでもう一度、
読者による異化の考察の前に、小説の本来性について考えたい。小説という書かれた言葉(=
エクリチュール)による表象は、どのような特性をもつのであろうか。
前節で述べたように、小説の“ことば”には、コトバによって固定された我々の日常の視野
を異化しようとする姿勢が貫かれている。それは、言葉の輪郭をぼかす仕方で語のもつ所記の
撓みを提示し、言葉の本来性に立ち返ろうとする姿勢であったが、言葉とはそもそも、江藤の
48
いうように、主観的な概念でも客観的な実体でもあり得なかった。つまり、小説によって作家
が、実体性の強いコトバから言葉の本来性へと立ち返ろうとするとき、完全に主観的な、彼自
身の個としての言葉に到達できる訳ではないということである。ということはすなわち、小説
によって提示される言葉とは、社会的な形式としてのラングと個的な作家の内心の中間的な媒
体に他ならないということである。そして、作品に散らばる言葉単体を取り出してみるなら、
それはむしろコトバとしての側面が強い。
それでも作家は、永遠に掴める筈のない人間らしさ(セミオティク)に何とか肉薄しようと、
さまざまな言葉をひねり出し、交差させることで、コトバを相対化し、その輪郭を薄めようと
苦心する。しかし、輪郭を薄めるとは隠喩の域を出ない。作家は何らかの言葉(往々にして、
それはコトバでもある)を実際のエクリチュールとして読者に提示しなければならないのだ。
、、、、
つまり、無限にバリエーションのある言葉の連鎖の中から、唯一の言葉を選び出し 、文章とし
、、
て、つまりは実体として顕在させなければならないということである。ここで、前節で紹介し
た蓮實の説、すなわち、排除と選別の体系は、何もパロールだけに特有だったわけではないと
いうことが明らかとなる。小説の書き手は、排除と選別によって、書物という平面上に言葉を
可視化して提示しなければならない。
前節で述べたとおり、この時点で、
“ことば”のコトバ化はすでに始まっている。小説の執筆
とはそうした背理を抱えた行為であって、つまり、ラングを解体させるために作家は書くわけ
だが、その行為は、皮肉なことにも、同時に新たな《父》の萌芽でもある。エクリチュールと
、、、、
、、、、、、、、、、
は、紛れもなく、書かれた言葉であり、それによって生まれた物語は、それ以外で はあり得な
、
い物語である。
そう考えると、作家による異化とは単なる虚偽でしかない。作家は異化の糸口を掴んだ時点
で、それはすでに、彼の手からすり抜けてしまっているのである。
小説を書くことの本末転倒とでもいうべきこの不毛さを、フランスの哲学者であるモーリ
ス・ブランショは、同じくフランスの哲学者であるバルトの著書『エクリチュールの零度』の
巻末の解説、「零地点の探究」と題された文章の中で、次のように述べている。
書くということは、また、神殿を建設する前に、まずそれを破壊しようとすることであり、
少なくとも、その敷居を越える前に、そのような場所の束縛とか、そこに閉じこもろうとい
う決心が構成することになる本源的な誤謬とかについて、自問することである。書くという
ことは、結局のところ、敷居を越えることを自分に拒否することであり、《書く》ことを自
分に拒否することなのだ。
(中略)文学が、すべてのものの変貌する(そして美化される)境域として姿を現すやいな
や、
(中略)つまり、文学的なエクリチュール(中略)が、たんなる透明な形式ではなくて、
49
さまざまな偶像が君臨し、さまざまな先入観が眠りこみ、すべてを変質させる力が目に見え
ないかたちで生きるところの隔絶した世界なのだということを予感するやいなや、その世界
から自分を解放しようと努めることは各人にとって必要事であり、あらゆる先行する慣習か
ら純化されたかたちで、その世界を再構築するなり、さらに、それ以上に、場所を空けたま
まにするなりするために、その世界を破滅させることは、みんなにとっての誘惑となるので
ある81。
作家の目指すべき異化とは、コトバによって固着している事物の新たな側面に光を投げかけ
ることで、事物の隠された部分を明るみに晒すこと、つまり、「変貌する(そして美化される)
境域として姿」を照らし出すことにある。前節の例を引き継いでいえば、女性が浮気した男性
に発した「大嫌い!」という言表に、それまで可視化されていなかった隠れた所記を見いだす
ことに他ならない。しかし、新たな側面に光を投げかけること、すなわち、
「敷居を越えること」
が、「本源的な誤謬」であることを作家自身は常に知っている。“ことば”のコトバ化は、書く
という行為と同時発生的なのだ。書くということとは「《書く》ことを自分に拒否することなの
だ」と述べるブランショの謂いは、それでも書かなければならない作家の、どうしたって乗り
越えようのない不毛さを、端的に言い当てている。
この著書の中でバルト自身は、
「エクリチュールはたしかに著作家と彼の社会との対決から生
まれるのであるが、他方において、エクリチュールは、この社会的な目的性から、一種の悲劇
的な移送によって、著作家を、彼の創造の道具的な源泉へと送り返す82」と述べ、その意味で、
エクリチュールは「両義的な現実83」であると論じている。彼のいう「社会」とは、本論の文脈
でいう「コトバ」であり、
「悲劇」とは、
「“ことば”のコトバ化」と置き換えられる。それが「悲
劇」なのは、コトバを解体的に再構築しようとして作家は“ことば”を記すが、記した瞬間か
ら“ことば”はコトバへと転化する宿命を担う、この本末転倒を作家は免れることができない
からである。
ことばとコトバ、解体と固着、動性と静性、この矛盾を内包する両義的な小説・エクリチュ
ールにおいて、異化は、開始されると同時にすでに終了している。また、そもそも作家によっ
てどれほど異化を目指して紡がれた“ことば”も、ラングと彼自身の内面の中間の域を超越で
きないがために、一足飛びにセミオティクに接触することは不可能である。そもそも、流動的
な「人間らしさ(=セミオティク)」とは、第一章でクリステヴァの謂いを借りて論じたように、
言葉という媒体によって到達できる領域の彼岸にある。しかし、前節で述べたように、言葉ほ
81
82
83
ロラン・バルト(1999 年)
『エクリチュールの零度』筑摩書房 p.236-237.
同上 p.28.
同上 p.28.
50
ど守備範囲が広く、積極性を宿した媒体を我々は他に持っていない。我々は、小説の“ことば”
を契機に、象徴秩序やサンボリク、コトバによって局所に追いやられた EXCЁS の余りの部分
、、、、、、
を、汲み尽くすのではなく、汲み尽くそうとする能動性が必要なのである。何度も繰り返すが、
その行為は、達成を目的としない。達成と未達成に明確な境界線を引く現代的な価値観をもっ
、、、、
てすると、我々は言葉の不可能性に絶望する他なくなる。尊重すべきは、達成しようとする主
体的な行動であって、したがって異化とは、不可能を承知した上での、決して達成へとは至ら
ない不断の運動なのである。
ここで本論は、作家の行動から、読者の行動に焦点を移すことになる。作家の書くという行
動は、異化を目指した時点で、共時的にその終了を意味していた。しかし、それは読者に提示
されることで、イメージとして再び息を吹き返す。エクリチュールは実体性を免れ得ないため
に作家は悩むのだが、少なくとも、彼によって書かれた諸処のコトバは、ラングそのものでは
ない。それは、ラングと作家の個としての内面の中間的な“ことば”であり、それぞれのコト
バが相対化されて提示されることによって、読者の眼裏に、
「奇異で、見慣れなく、なにやら難
しいもの」としての何らかの衝撃(この衝撃は明瞭なものではなく、それは、
「どこかスッキリ
としない違和感」とでも表現した方が正確かもしれない)を与えてくれる。エクリチュールは、
読者に読まれたその時点で、異化としての行動が作家から読者に受け継がれる。
読者が行動を実践する場、それを本論では“テクスト”に見いだす。
*
第二項
読者の異化行動が紡ぐ“テクスト”
ここで再び、バルトの論を借りることにする。彼は、“テクスト”という概念を“作品”と区
別し、次のように述べている。
作品は手のなかにあるが、テクストは言語活動のうちにある。テクストは、あるディスクー
ルにとらえられて、はじめて存在する(あるいはむしろ、そのことを知っているからこそ、
「テクスト」である)。
「テクスト」は作品の分解ではない。作品のほうこそ「テクスト」の
想像上の尻尾なのである。あるいはまた、「テクスト」は、ある作業、ある生産行為のなか
でしか経験されない。したがって、「テクスト」が(たとえば、図書館の書架に)とどまっ
ていることはありえない。
「テクスト」を構成する運動は、横断である(「テクスト」はとり
わけ、作品を、いくつもの作品を横断することができる)84。
84
ロラン・バルト(1979 年)
『物語の構造分析』みすず書房 p.94.
51
バルトのいうテクストとは、「いかなる言語活動も他の言語活動の優位に立たず、すべての言
語活動が(循環する、というこの用語の意味をも保ちつつ)交流する空間85」である。それは、
「現代生物学の生物観に近い86」
「網目87」のようなもので、読者が「いくつもの作品を横断する」
ことによって、
「記号内容を無限に後退させ88」るトポロジーである。
バルトのいうテクストを、上記で何度も挙げた事例で考えてみたい。これはさほど文学的な
例とはいえないかもしれないが、作品を読み進め、女性が浮気した男性に投げかけた「大嫌い!」
という言葉をみた読者は、その言葉に、
「愛の裏返し」という共示的な意味合いの萌芽をみたと
しよう。そのとき彼は、なぜか、自身の思春期に継母に対して「お母さんなんか大嫌い」と吐
き捨てた、微かな記憶に不意に思い至ったとする。ここで読者は、思春期に描いていた自身の
母親像が微かに変化したことを自覚する。彼は、どのような状況でそんな言葉を発してしまっ
たのか、その背景的要因を覚えていないのだが、とにかく「大嫌い」という言葉に、字義どお
りの継母への嫌悪だけが込められていたのではなかったことを悟る。字義どおりの嫌悪である
なら、むしろ「大嫌い」という赤裸々な感情をあえて母に投げかける必然性はなかったのでは
ないか。この女性がまだ彼を愛していたように、読者は継母を好いていて、
「大嫌い」に込めら
れた心情はその意味の方がはるかに大きかったのではないだろうか。こうして読者は、「思春期
には母が嫌いだった」という自らの錆び付いていた思い込みに、楔を打ち込むことになる。自
身が日常的に、疑問も抱かずに発していたコトバ(=臆見)が、換喩的に、登場人物である女
性の「大嫌い!」から自身の言葉としての「大嫌い!」へと解体されていくのを体感するのだ。
作品には、始まりがあって終わりがある。それは、物理的な実体だからだ。したがって作家
は、書いたときにすでに異化を終了していなければならないのだった。しかし読者は、自らの
臆見の解体を志向し、小説の“ことば”に共示義を見いだそうと能動的な姿勢を崩さない限り
において、彼の異化(=運動)にはゴールがない。
バルトは、テクストとは、「中心ももたず、閉止も知らない89」空間だという。エクリチュー
ルにおける異化としての“ことば”は、読者に衝撃(=違和感)を持って受け取られることで、
彼の思索という行動とともにテクストに織り込まれる。いや、小説の諸処のコトバから読者が
“ことば”を築き上げていくと言った方が正しい。読者の思索にはテクストという「編目」が
張り巡らされているのであって、いわば小説の“ことば(コトバ)
”は滋養の供給源である。テ
クストとは、コトバの輪郭をぼかしていく地道で通時的な実践においてのみ生成される。それ
85
86
87
88
89
同上 p.104.
同上 p.100.
同上 p.100.
同上 p.96.
同上 p.96-97.
52
は、セミオティクへの肉薄に向かう軌跡でもある。テクストの生成に歯止めをかけないために
重要なことは、読者が、コトバの縁から横溢する“ことば”としての意味を感受する姿勢を常
に保つこと、要するにコトバに甘んじないことである。
先にバフチンの言説を引き合いに論じたように、小説とはその構造上の特性として、多声性
がある。多様な登場人物によって発せられるそれぞれの言葉のどれかに、読者は殊更同調する
ことを強要されていない。多声的である小説は、絶対的な《父》
(=イデオロギー)を提示しな
い。というよりも、構造上、提示できないのである。仮にも小説に、例えば勧善懲悪的な方向
性があったとしても、異化行動を志す読者は、そこに同調圧力を読み取るべきではない。最終
的に善人が悪人を倒すという構図がそこに埋め込まれていたとしても、善人の理論が悪人のそ
れと比較されることで善人は善人となり、悪人は善人がいる限りにおいて悪人なのである。そ
の小説は、読者を善人たれと強要するものではない。というよりも、その決定権は完全に読者
に委ねられている。少なくとも、それを勧善懲悪的なプロパガンダ小説と捉える読者は、異化
行動をやめた怠慢な人間に他ならない。小説の精神とは、善と悪を混濁することにある。
そもそも、日常における《父》としてのコトバとは、ある種の「嘘」をそれが嘘であるかど
うかも考えずに発している惰性の言葉だった。小説においても、そこで提示される諸処の言葉
はコトバとしての側面を免れられないことは、何度も述べてきた。読者は、コトバとは虚偽で
あるということを常に念頭に置いておかなければならない。
バルトは、イデオロギー(=コトバ)の虚偽性について、次のように述べている。
イデオロギーの体系はフィクションである(中略)。(中略)それぞれのフィクションは、
それが属している一つの社会的な特殊語法、社会言語に支えられている。フィクションとは、
言語活動が異常に凝固し、共通にそれを語り、それを広めるための聖職者階級(僧侶、知識
人、芸術家)が見出されたときに達する凝着の度合いである。
(中略)それぞれの特殊語法(それぞれのフィクション)は主導権を争っている(中略)。
権力を味方にすると、それは日常の社会生活の到る所に拡がり、ドクサとなり、自然となる。
それは、(中略)日常会話の語法だ。しかし、権力の外にあって、権力に逆らっていても、
敵対は復活し、特殊語法は分派に分れ、互いに争う。(中略)言語活動はいつもある場所か
ら生れる。それは戦いのトポス〔場所〕だ90。
バルトの言うように、フィクションとは、言語活動の凝着の度合いであるのなら、紛れもな
くコトバ(小説の“ことば”とは、コトバの延長線上にある)以外によってセミオティクに接
90
バルト『快楽』p.52-54.
53
近する方法を持たない小説の読者は、少なくともコトバがフィクションであることを自覚して
おかなければならない。とするなら、特定のコトバ(勧善懲悪など)に、共感できるという理
由で全身を委ねる態度を、読者はとるべきではない。小説の多声性が示すのは、小説が現実(=
社会)のミメーシスであるという自体の特性でもある。社会という場での発言(パロール)は、
各人は何らかの立場を明示して言表する。それは、何らかの《父》に沿って自らをイデオロギ
ー化することであり、したがってバルトがいうように、例えそれが反権力的であったとしても、
言語活動は「戦い」に他ならない。この戦いが意味するのは、他でもない、排除と選別の体系
である。
小説は、「戦い」を永続していく場である。それは、「戦いのトポス」とは違う位相にある。
読者は、小説にばらまかれたどのコトバにも全面的に賛同してはいけない。そうではなくて、
コトバを“ことば”としてみること。それは、バルトのいうように、コトバのコードを拒絶す
ることである。
争いは、常にコードに組まれているし、攻撃は言語活動の中で最も使い古されたものなので
ある。暴力を拒否する時、私が拒否するのはコードそのものである91
テクストとは、コトバのコードを解体し、
“ことば”として開いていく場である。そこに争い
はない。コトバは偏狭だが、“ことば”はどこまでも寛容だからである。
したがって、異化という行動の渦中にある読者は、作品のコードを解読しようなどとはする
べきではない。彼が取るべき態度は、解釈を無限に派生させていこうとする行動の志向だけで
ある。解読という行為は達成(=終焉)を意味するプラグマティズムである。明確に樹立され
ている解答を探すだけの解読行為の帰結は、小説の中に《父》を見出すだけである。
「人間らし
さ」というとりとめもなく掴みようのない流動体への肉薄は、解読という達成(=終焉)とは
何ら関係がない。
「人間らしさ」は解読できる実体ではない。解読を目的化した時点で、読者の
異化行為は、すでに潰えてしまっている。彼は蜿蜒と続くテクストの中で、臆見の解体に向か
って直走らなければならない。そして、その姿勢を読者が保持し続ける限り、作品の「質」は
何ら問題にならない。読者の異化行為の場、つまりテクストにとっては、純文学も大衆文学も
存在しない。むしろ「この作品は大衆文学だ」と断言してしまった時点で、彼はすでに、本論
が目指すところの読者であることを、つまり異化という運動に携わることを、自ら放棄してし
まっているといえる。
「質」とは、確かに作家の異化への情熱によっても左右される。が、それ
以上に、読者が何を汲み取ろうとするか、その姿勢と努力によって構築されていくものである。
91
同上 p29.
54
作品の「質」を磨くのは、他ならぬ読者だ。
“テクスト”は、ジャンルの区分を貫き、読者によ
って終わることなく、生成的に紡がれていく。
したがって、例えば推理小説を読む場合であれば、異化行動を志す読者は、物語の最後に明
らかにされるであろう殺人犯を探し当てることを目的になどしない。彼は、登場人物や語り手
によって発せられるコトバを相対的に“ことば”化し、それに、何らかの派生的な意味合いを
見出そうと努めなければならない。解読とは受動的な態度であるが、意味を見いだそうとする
能動性は主体的である。次章では、いくつかの作品を実際に取り上げ、主体的な分析を試みる
つもりだが、そこで取り扱う作品は、単なる一例である。それが「文学的」な傑作か、あるい
は「大衆的」でとるに足らない俗物かは、従って、著者(=読者)の行動の軌跡によって決定
されるのである。
無論、バルトが提唱し、本論が肯定する“テクスト”による読者の異化実践には、批判的な
見解もある。例えば、前述のイーグルトンは、バルトのいう“テクスト”をモダニズム・テク
ストとして、次のように否定的に論じている。
モダニズム・テクストとは、あらゆる明確な意味を溶解させて語の自由な戯れを出現させる
テクストであり、また言語の絶えまないずらしと横すべりによって抑圧的思想体系をくつが
えそうとするテクストである。そのようなテクストが要請するのは、
(中略)
「官能美学」だ。
確定的意味へとテクストをつなぎとめるいかなる方法もない以上、読者はただ、記号の蠱惑
的滑走と、表面に現われたかと思うと再び沈潜してしまう誘惑的に見え隠れする意味に、耽
溺していればよい。このような言語の豊潤なゆらぎに心を奪われ、言葉そのものの表層に、
限りない喜びを見出す読者にとって馴染み深いのは、(中略)作品そのものの絡みもつれあ
った網の目を通して自己がこなごなにくだけ散逸することを感ずるときのなんともいえぬ
マゾヒスティックなスリル感なのだ92。
イーグルトンは、バルトの“テクスト”論のアナーキーな側面を指摘し、読者の解釈が無限
に開かれているとする奔放さに、疑念を呈している。読者が、小説のコトバを“ことば”とし
て、
「絶えまないずらしと横すべりによって」意味を多様に生成できるといっても、それには限
界がある。例えば、女性の「大嫌い!」という科白から「エッフェル塔」を連想することはど
う考えても不自然だし、現実的ではない。
“ことば”はどこまでも開かれているわけではないの
だ。とすると、日常的なコトバのコードほど固まってはいないにしろ、小説の“ことば”にも
何らかのコードがあって、その範囲内という限定されたかたちでしか、読者は思索を巡らすこ
92
イーグルトン『文学とはなにか』p.200-201.
55
とができないのではないか。その限定性を考えずに、無秩序に「誘惑的に見え隠れする意味に」
溺れる読者を肯定する態度は、誠実さに欠けているのではないか。これが、イーグルトンのバ
ルトに対する批評の、大まかな掴みである。
確かに、読者が言葉を“ことば”としてとらえ、コトバ(=《父》)の解体に盲目的に身を委
ねることは、マゾヒスティックであるように思えるし、その行為には際限があるようにも思え
る。しかし、読者が行動的である限り、彼は単なるマゾヒストではない。そもそも、作家によ
ってどんなに丹精的に練られ、提示された“ことば”も、読者がそれをコトバとみなすか、あ
るいは解釈しようと努めずに読み飛ばしてしまえば、それは実質的には“ことば”ではなくな
る。
“ことば”の半分は読者が作り出すものでもある。マゾヒストは自分からは何ひとつ行動し
ないが、テクストを生成する読者は、自ら自己のエポケーを解体しようと行動する。両者には
決定的な断絶があるはずだ。
また、確かに小説の“ことば”から連想できる意味には限界があるように思えるが、何度も
繰り返すように、EXCЁS という人間の根源的な全形は、とりとめのない流動体のようなもの
、、、、
である。それは、流動体という比喩ですら正確に描写できず(その意味で、流動体のようなと
しか表し得ない)
、どのようなイメージでもってしても正確に捉えることができない、いうなれ
ば可能態である。その意味で、EXCЁS には限界がない、というより、どんな媒体(言葉・音
楽・絵画など)の力量をも超越、あるいは逸脱しているのである。本論にとって、小説の“こ
、、、、、、、、、、、
とば”に意味の多様性を見出すことがどの程度まで可能なのか は、全く問題ではない。何度も
述べてきたように、最も守備範囲が広く、積極性を宿した媒体である言葉の可能性を最大限に
、、、、、
追求し、EXCЁS に迫ろうとすることが本論の志向である。したがって、イーグルトンのバル
トへの批評は、本論への批判へと直接的に通じることはない。
そして最後に、イーグルトンの批評とは別にして、こうした本論の姿勢はパラノイアである
かに思われる節もあるだろう。
“ことば”の寛容さをどこまでも追求していく仕方は、コトバの
“ことば”化への偏執であるようにみえるかもしれない。前章において、
《パラノ型》の人間を、
本論は批判的に論じてきた。とすれば、本論の志向する読者像も、その意味で何ら彼らと違わ
ないのではないか。
こうした疑問に対しては、とりあえずは次のように答えておくことにする。
パラノイアとは、その内実性を宙づりにしたまま、あるひとつの極に向かって、猪突猛進、
直走ることである。例えば、革命戦士や声をあげるフェミニストたちは、何らかのイデオロギ
ー(あるいは反イデオロギー)に固執する人間であり、《差異化のパラノイア》とは、他者との
相違をどこまでも肯定する固執である。彼らに、イデオロギー(反イデオロギー)や差異化と
いう極の正否が根本から問い直される契機は与えられていない。
しかし、これまでに論じてきたコトバの“ことば”化とは、コトバを徹底的に破壊するとい
56
うような、無秩序な固執ではない。世に溢れるコトバに不感症的に追従することが、
「人間らし
く」あるためにどのような弊害を生むのか。社会はどうしてコトバを必要とするのか。安逸し
た態度でコトバを否定しさるのではなく、コトバの特性を多角的に思考しつつ、言葉の本来性
へ遡求しようとする試みが、コトバの“ことば”化である。
その過程で読者は、多方向へと往還し、揺蕩いつつ、また、立ち止まることさえある。多声
的な小説において、提示される諸処の単語は、むしろコトバとしての側面が強い。コトバをコ
トバとして受け入れつつ、相対的に開かれる場がテクストであって、そこには進むべき唯一の
極など存在しない。したがって、コトバの“ことば”化(=読者の異化行動)とは、パラノイ
アではあり得ない。
それでは次章で、著者自身の異化行動によって、作品を往還し、“テクスト”を紡いでいくこ
とを試みる。
57
第三章 作品分析
本章では、実際のエクリチュールに触れることで、著者(=読者)の異化実践の軌跡を描く
ことを目指す。第一節では川上弘美の『真鶴』、第二節では村上春樹の『ノルウェイの森』、そ
して、第三節では元少年 A の『絶歌』をその対象とした。
順を追って、以下、著述していくことにする。
*
第一節
心の鬱滞に傾聴する――川上弘美『真鶴』
この小説は、2006 年に刊行された、川上弘美による長編小説である。
けい
もも
物語は、京という中年女性の一人称で綴られる。京は、彼女の母親と百という名の一人娘の、
れい
女三人で、都内で暮らしを営んでいる。そんな彼女の夫・礼は、12 年前、ほとんど何の手がか
りを残さず、前触れもなく、京の前から姿を消した。京は、物書きとして生計を立てる傍ら百
せいじ
を育てる。礼が疾走したのは百が三歳のときで、百に父の記憶は覚束ない。京は現在、青慈と
いう仕事を通じて知り合った、家庭を持つ男性と恋人関係にある。彼らは逢瀬を重ねるも、京
は疾走した礼を、未だ忘れられずにいた。
そんなある日、京は、ふとした思いつきで、電車を乗り継ぎ、真鶴へと降り立つ。物語はそ
の場面から始まるが、真鶴で京は、目に見えない女が「ついてくる」ことに気が付く。彼女は
以後、何かに取り憑かれたかのように東京と真鶴を往還する。彼女が「ついてくる」女ととも
に、真鶴でみた光景は、幻想とも虚構とも見分けがつかない異様な世界だった。
*
第一項
「現実」という虚構
この小説における広義の“ことば”として、まず、東京(=「現実」)と真鶴(=「虚構」)
という二つの軸を見出したい。つまり、字義どおりの、日常と非日常、俗と聖、存在と不在で
ある。
ここでいう「現実」とは、逆説的だが現実ではない。現実は絶対的だが、
「現実」とは、集団
的に現実だと思われていること、つまり、共通言語としての括弧付きの「現実」である。ここ
では、“日常”、
“俗”
、“実在”の領域として規定するが、その世界で発せられる言葉のほとんど
は、建前としてのコトバである。
「現実」世界で人びとは、所作の全てを空虚なコトバとして形
骸化することで、それゆえに傷つくことなく、ただ、記号に戯れる。
58
次の引用は、京が、青慈と似た声を発する、見ず知らずの男と一夜を共にした後の場面であ
る。彼らの会話にみることができるのは、内実なき、建前としてのコトバである。
「からだが、いいね」男に、言われた。
「ほしかったから」答えた。
「また、したい」
「してもいいけれど、今日よりもいいことは、ないと思う」正直に、告げた。
それでもいいよ。ふつうは、そうだよ。でも、実際のことと、気持ちのうえでのことは、く
いちがうことも多いんだよ。ほんとうのことなんて、誰も覚えてないんだよ。男は真面目な
表情で、言った。
(中略)
じゃあ、また、会いましょう。笑顔をつくって、男に言った。もうにどと会うことはない
と思いながら93。
「現実」のコトバは、内実を棚上げにして、形式的に発せられる。男は、
「女と寝る」という
行為(記号)を、ひとつのコードとして捉えている。京の「今日よりもいいことは、ないと思
、
う」という内実への遡求が、彼の「ほんとうのことなんて、誰も覚えてないんだよ」というも
、、、、、、
っともらしい言葉によって、消沈させられていることに注視したい。性交という記号に戯れる
ことを志向する男は、その内実(所記)を意図的に無視し、可視化される動き(能記)だけに
照射する。人間が“確実”に察知できることとは、五感で捉えられること、つまり物質的なこ
とだけである。したがって、言葉を含め、全ての所作(ここでは性交)は、何らかの意味を求
めた時点で、虚構の側面を回避できなくなるのだった。しかし、例えそうだとしても、それを
承知で事物の本質へ向かおうとする積極性を持たない限り、人間に待っているのは不可知論で
しかない。男の態度はニヒリズムのそれである。彼は、人間が知り得るものは何もないのだか
ら、性交という形式に戯れていれば良いという、ニヒリズム(=一種のイデオロギー)を《父》
に見立てた開き直りによって、自己の「また、したい」という言葉を「真面目な表情で」正当
化する。彼によって推奨されているのは、コトバとしての性交である。
こうした男の謂いに対して、京は、
「もうにどと会うことはないと思いながら」も、
「じゃあ、
また、会いましょう」と、同じく、建前で返す。内実なきコトバに、同じく内実なきコトバで
応答する日常の会話は、両者ともども傷つけることがない。差し障りのない表層のやり取り。
つまり、割り切った“遊び”である。
93
川上弘美(2009 年)
『真鶴』文藝春秋 p.195.
59
言葉が内実を求めず、表層での“遊び”に従事するとき、言葉は虚偽性を全面化させるとい
える。それが、言葉の“コトバ”化であるが、一方で、コトバが、自身の空虚さに常に開き直
っているのでは、建前は建前ですらなくなってしまう。したがって「現実」は、コトバが、一
応は本音や真実を志向する表象であることを、担保しておかなければならない。虚偽性とは、
コトバが内実の表象では最早あり得ないにもかかわらず、その空虚さを掩蔽することで本音と
建前を曖昧にする、その特性を意味する。
東京という場における、建前のコトバの虚偽性は、京が、百の保護者会に参加する場面で、
はっきりと彼女に自覚されている。周りの保護者たちは、「最近のお子さんの様子 94」を述べる
よう促されるも、「ほんとうに言いたいことは、だれも言わない95」。そこは、「言う場所ではな
い96」からだ。
こうした内実のないコトバは、一方では、融通の利く便利な道具でもある。コトバとコトバ
を交わし続ける限り、人は、傷みをやり過ごすことができるからだ。次の引用は、真鶴での、
京と「ついてくる」女との会話である(女は霊なので、実際に声を発している訳ではない)
。女
は、松の木に吊るされて絶命した、とある女(いい子)の話を、京にもちかける。
その子って、あなたなの。女に聞く。ちがう。女が答える。ほんとに、ちがうの。また聞く。
わからない、もうわすれた。女が答える。雷鳴がとどろく。高くなった波を、岩はさえぎる
ことができない。さらわれるから、高いところにいきましょうね。女がやさしく言う。いや
な話を聞いた。思いながら、女にしたがう。ワンタン麺、おいしかったわ。場違いなことを、
わざと言ってみる。ワンタン麺て、たべたことないの。女がうらやましそうに言う97。
京には、
「ついてくる」女の語る話によって、自らの内面が揺さぶられることを畏れる。今自
分が会話している女が、もしも吊るされた(おそらく自殺した)女であるのなら、女の話を、
京は「現実」的に受け止めることができないかもしれない。内的葛藤の最終地点としての、後
戻りできない極地としての自殺に、もしも彼女が共鳴してしまったなら、京は、東京での生活
に戻ることができなくなる。京の感じた畏れとは、生理的なぎりぎりの臨界点において、
「現実」
的たろうとする自己防衛に他ならない。その一歩を踏み越えたとき、京は「現実」としての彼
女を完全に喪失してしまう。だからこそ彼女は、「わざと」、全く関係のない、真鶴で食べたワ
ンタン麺の話を女にもちかけるのだ。「ワンタン麺、おいしかったわ」という京のコトバは、完
全に彼女の外側にある。「虚構」を断ち切り、「現実」としての自己を防衛する手段としての、
94
95
96
97
同上 p.33.
同上 p.33.
同上 p.33.
同上 p.117.
60
便利なコトバである。
もちろん、真鶴という異世界で交わされる女と京の言葉のほとんどは、建前や道具としての
それではない。霊と話すのに、建前を用いる必要はない。ただ、
「虚構」という世界に安住する
ことのできない京の実際性が、時折、建前としてのコトバを彼女に要求するのである。
「ワンタ
ン麺、おいしかったわ」という一言には、
「現実」と「虚構」の境界における、彼女の足掻きが
集約されている。
しかし一方で、
「現実」の会話で交わされるコトバには、その空虚さ故に、逆の意味での不快
さ・畏れを感じる瞬間がある。それは、コトバの形式性に、倦んだときに訪れる。作中でその
瞬間は、例えば、京のコトバが実子・百へ向かう場面にみることができる。彼女は、自らの空
虚なコトバの虚偽性を、“罪”として自覚し、「現実」と「虚構」が反転する契機を、微かなが
ら感じ取る。
、、、、、、
花をむしる百を、母親としての京が諭す、次の描写をみてみたい。
うず
足もとの土の上に、小さな白い埋みができてゆく。かわいそうでしょう。二歳ほどのころ
の百をとがめた自分の声を思い出す。花をむしっちゃ、花さん、いたいいたい、よ。野に咲
いていた黄色い花をつみ、無心に花びらをむしっていた百に、言ったのである。
白いお花も、いたいいたい、黄色いお花も、いたいいたい。
自分の声で、自分の頭の中で、自分に言ってみる。
きもちが悪い。つくりものめいたわたしの声。そしていいかた。
花の痛さなんて、わたしは、知らない。知っていたことも、ない。百に注意なんて、でき
るはずもなかった。でも百はやめた。おはなむちると、いたいいたいね。そう言いながら、
にっこりとほほえんだ98。
、、、、、、
母親としての京の言葉は、秩序を教える《父》としての、禁止のコトバである。母親は、子
どもに、道理を教えなければいけない。「白いお花も、いたいいたい、黄色いお花も、いたいい
たい」というコトバを発するときの京に、花が実際に「いたい」のかどうかなどは問題ではな
い。花をむしってはいけないから、社会(=「現実」
)でそれは不文律としていけないことだか
ら、そう、諭してみる。あくまで、立場としての「母親」が発するコトバだ。しかし、ふと気
付く。日常のコトバとはどこまでも虚しい。
「正しい」と思って発していた自らの言葉に紛れも
ない欺瞞を実感したとき、果たして、百の純真な「おはなむちると、いたいいたいね」という
言葉(≠コトバ)は、どこへ向かえばいいというのか。コトバは、コトバを知らない無垢な子
98
同上 p.183.
61
どもへと向かうとき、
“罪”として主体にはっきりと自覚される。百とは、まだ己の中に《父》
を見出せていない、いわば、比喩としての男根期以前の子どもである。その罪は、「母親」とい
う《父》によって正当化され、隠蔽されたそれである。
しかし、
「母」という立場から発せられる言葉には、たとえそれが空虚で内実のない、虚偽を
孕んだコトバであったとしても、立場としての「子」に、秩序を教えなければならないという
責任が要請されている。したがって、ここでみた「いたいいたい」という京のコトバは、社会
的には、むしろ、必要悪として捉えられなければならない。この辺の撞着した事情については、
後に、「母娘関係」という文脈で詳述する。
*
第二項
「輪郭」をもつコトバ・「にじむ」
“ことば”
上述してきた「現実」としてのコトバと、コトバに戯れる「現実」の人間が、作中では「輪
郭」という言葉で表現されている。一方で、
「現実」の「現実」性が弱まったとき、つまり、建
前としてのコトバが揺らぎ、人間としての撞着(セミオティク)が押さえ難く噴出したとき、
コトバや人の「輪郭」はぼやけ、「にじむ」。
若いころ、夏に入りかけのころの、にじむようなからだの感じは、年々うすくなっている。
礼の部屋にしばしば泊まるようになってから、梅雨の終わりころでなくとも、そうなった。
おさえつけても、漏れでてしまうものがあった。結婚してからも、百を生んでからも、わた
くら
しはよくにじんだ。昏くやわらかな部分から分泌されるものだけでなく、目のうらがわあた
りからにじみでてくる感じのもの99。
作中では、「にじむ」という言葉が、女性の肉体の提喩として用いられている。それは、
《父》
に抑圧にされた《母》なる内実(セミオティク)の表象であるが、この箇所では、「にじむ」と
いう肉体的な感覚が、《父》なる季節の狭間(周縁)に重ね合わせられている。《父》としての
「春」と「夏」の狭間である「梅雨の終わりころ」が、京の身体の「にじみ」と同化している。
それが、
「年々うすくなって」いるのは、京が「輪郭」を顕在化させつつあること、つまり、
「現
実」的な人間として確立しつつあることを意味していると解釈できる。
この「にじむ」という女性の肉体的な感覚が、コトバに向けられたとき、第二章で論じた、
コトバの“ことば”化が実践される。作中でその様相がみられる描写を以下でみっつ挙げた。
99
同上 p.77.
62
「つけおき」「うらみ」「すき・だいすき」のみっつ言葉が異化される過程を、以下で解釈し
てみたい。
・ 「つけおき」
つけおき。そう思いながら、水をとめる。おこなうときに、おこなっていることにかんする
え
言葉を思うばあいと、言葉ではなく画を思うばあいと、何も思わないばあいがある。つけお
き、と、もう一度頭の中で言ってみる100。
京は、ひとつひとつの所作(能記)に繊細である。同じ所作でも、自己に語りかけてくる情
景が、場や状況に応じて固有であることを自覚し、その度ごとにおいてかけがえのない所記を、
丁寧に汲み取ろうとしている。彼女は、所作を「輪郭」を持ったコトバとして扱おうとはしな
い。それは、言表に限ったことではない。つけおきという行為(能記)に、「つけおき」という
言葉を付与する。もっとも、行為の最中に「何も思わない」のであれば、そのとき彼女は、コ
トバとしての行為に戯れているだけだといえるだろう。しかし彼女は、その状況が自らにあり
得ることを、少なくとも自覚している。前章で「日が沈む」という例を挙げて論じたように、
コトバとは、その内実が空虚であるという事実にすら、思い至らずに発せられる、無思考的な
抜け殻だった。
ときとして自らの言表や行為が空虚であり得ることへの自覚は、第二章で論じてきた異化実
、、、、、、
践(=異化しようとすること)として規定できる。京のつけおきの行為は、
「現実」的でありな
がら、形骸化した記号への戯れではない。
・ 「うらみ」
「うらんでいるの」そう、自身に聞いてみた。一人きりで、百は小学校の午前の授業の、教
室のなかほどにちんまりと座って、ぼうとした目で黒板を眺めていただろう時刻、母はまだ
自室から出てこない、こまぎれに眠りをとる体質なのである、夜なか妙な時刻に台所で静か
に座っているのにぎょっとすることがある、一人座る自分自身に、うらんでいるの、と、ま
っすぐに聞いてみた。
「うらんでいる」すぐに答えがきた。自身で、自身に、答えた。
うらむというコトバは強すぎるか。いやつよくはない、むしろよわすぎるくらいだ。礼を
100
同上 p.24-25.
63
うらんでいる。なぜ去ったのか、うらんでいる101。
夜中の台所で、京は、
「うらんでいるの」と自問する。その答えは、
「うらんでいる」だった。
「うらむ」という言葉は、一見、京の思索によって、意味されるもの(所記)を変容させてい
ないように感じる。しかし、自問自答という過程によって、礼は自らが口にする「うらむ」と
いう言葉に、彼女の内実を孕ませる契機を得た。
「いやつよくはない、むしろよわすぎるくらい
だ」という思索によって、京は、コトバを「にじま」せ、解体的に再構築しようとする。そこ
にみるのは、言葉の生成に携わろうとする人間としての、主体的な行動の軌跡である。
セミオティクへ言葉によって肉薄しようとする試みは、
「うらむ」という言葉が“何を”外示
するのかではなく、“どう”共示するのかを探るそれだ。はたまた外見上は不毛な行為である。
、、
思索の結果(結果は「現実」において重んじられる)、「うらむ」という言葉はその外見を何ら
変形させてはいない。考えて“何”になったかを問う姿勢は「現実」的だが、
“どう”考えたか
、
を問い、その過程に重きを置く姿勢は、本質的である。言葉によって本質に辿り着くことがで
、、、、、、
きないことは、前章で再三論じた。しかし、辿り着こうとする姿勢には、《文化的営為のもつパ
ラドクス》を超克しようとする、主体性が宿っている。
・ 「すき・だいすき」
すきになろうと思った。青慈をすきになりそう、と感じたときに、それではすきになろう、
と思った。青慈はこばまなかった。感情が青慈のほうに流れる。それがわたしの、すきにな
る、ということだ。つよい感情も、よわい感情も、青慈にそのまま、というのでもないが、
青慈のいるあたりへ向かって、流れる。こばまないでいてくれて、ただありがたかった。礼
が疾走し、いどころがなかった。どこにきもちをながしていいのか、みつけられなかった。
流れる先が定まらないと、自分のいる場所が、わからなくなる。川のどちらが上流か下流か、
水はどちらに流れているのか、みわけられずに怖くなるのに似ていた102。
京は、
「すき」という言葉を、整流器のようなものとして捉えている。礼を失ったことで、
「輪
郭」が撓み、溢れんばかりに錯乱するセミオティクを秩序立てる方法が、今、京には定まって
いない。子を持つ母としての、作家という職業家としての、自身の母親の娘としての、それら
の社会的立場を免れ得ない京は、女性としての「弱み」を放埒に散乱させてはいけない。東京
で生活を営む、「現実」においての彼女は、「自分のいる場所が、わからなく」なってはいけな
101
102
同上 p.28.
同上 p.30.
64
いのだ。だから、
「すき」という言葉を、あえて外在化させることで、抑え難い内面の噴出を自
制する。
ここでみることができるのは、構造主義的な言語観である。
「それではすきになろう」と決意
した京は、
「すき」という語を掲げることで、文字通り、好きになる。機能的ではあるが、この
「すき」は、空虚なコトバではない。「すき」というコトバの記号に戯れているわけではなく、
「すき」という言葉を、セミオティクと秩序との橋渡しとして能動的に使用することで、
「現実」
的たろうとしている。空虚なコトバとは、そこに何の葛藤もみられない、抜け殻としての言葉
である。彼女の「すき」にみることができるのは、道具としての機能性よりも、自己の揺れを
規制しようとする、責任としての密度である。
しかし一方で、機能性としてではない「だいすき」も本論には見受けられる。次は、真鶴で、
京が海をみている場面である。
きもちがぼんやりしてくる。女のはんぶんすきとおった体の間に、海がみえる。よく光って
いる。百、だいすき。急に思う。だいすき、という言葉では言い尽くせない、でもほかに言
葉を知らないから、だいすき、と、また思う103。
真鶴(=「虚構」
)という場所の特殊性も鑑みたい。真鶴では、言葉を、秩序と折り合いをつ
けるための媒体として発する必要がない。文末の「だいすき」へと京の思索の辿る筋道は、上
述した「うらみ」のそれに近い。京は、
「でもほかに言葉を知らないから」と言葉への懐疑を挟
み、コトバの「輪郭」を「にじま」せた後に、
「だいすき」という同じ言葉で構築し直している。
「虚構」の世界といえども、使う言葉は、外見上はコトバにすぎない。しかしその言葉は、行
動の過程が含まれている分、重い。
*
第三項
「虚構」という現実
京は、真鶴で異様な世界をその目にする。いや、それは、心象であって実際に可視化された
光景ではないのかもしれない。しかし、その世界の描写は精緻を極めていて、むしろ現実であ
るかのように見紛わせる。次の引用は、真鶴での祭りの最中、海に浮かぶ囃子船が転覆し、夜
空に打ち上がる花火を背景に、船が燃え上がる場面の描写である。
103
同上 p.108.
65
空き地の石にすわり、海をみおろす。ななめ前に建っている古びた蔵の隙から、海はわず
かにみえるばかりだ。
花火がつぎつぎにあがる。音がしない。気がつくと、いっさいの音が失せている。昨日、
岬の白い建物でコーヒーを飲んだときと、同じように。
ほら、みて。
女がゆびさす。蔵の隙の海面を、転覆した船がしずかに漂ってゆく。むすうの火花が船の
腹にふる。火花はやがて小さな炎となって、鬼火のように船のまわりをとびかいはじめる。
水をよく吸った船の材は、燃えあがろうとして、すぐに尽きる。そしてまた、燃えあがろう
と。
しまいに、ようよう船は燃えあがる104。
転覆した船が徐々に燃えていく様子が、実際の情景描写であるかのように描かれている。
「水
をよく吸った船の材は、燃えあがろうとして、すぐに尽きる」という箇所などは、それがあた
かも現実であるかのような豊かさを湛えている。しかし、後にホテルに京が帰り着いたあと、
「つ
いてくる」女が、京の耳元で、「船は、燃えはしなかったわよ 105」と教える。読者は本文から、
実際に船が燃えたのか、それとも燃えなかったのか判然としない。女の言葉が幻聴なのか実際
の声なのかも判別し難い。ただ、ところどころの、疾走した(死んだ)はずの礼が幻想的にそ
の姿を顕したり、倒壊したはずの建物が実は最初から朽ち果てていたりという、細部の描写か
ら、それらがあくまで「虚構」の世界の光景であることを知るのみである。
京は、真鶴(=「虚構」
)で、「ついてくる」女と目合う。彼女の身体は、濡れて、「にじみ」、
「礼としたときよりも、青慈とするときよりも、楽々とみなぎってゆく106」。一方、彼女のみる
世界とは、
「現実」的な視座からすると、精神不安定、あるいは狂気の烙印を押されてもおかし
くない、内的に錯乱した状態のあらわれである。彼女の錯覚・幻視が、
「にじん」だ女性の肉体
と共鳴して描写されている。そこは、精神と肉体の区別がない、一元的な世界である。
こうした真鶴の光景が、非「現実」的であることを読者に認識させるも、ふと、本来的な「人
間らしさ」が撞着そのものにあったことに気が付く。フロイトが規定した「欲動」とは、クリ
ステヴァが規定した「セミオティク」とは、方向付けたり可視化したりすることのできない、
葛藤そのものを意味していた。それに思い至ったとき、真鶴という「虚構」の世界が、実は、
現実的であるらしいことへの疑念が沸き上がる。そのとき、括弧付きの「現実(=東京)
」と「虚
構(=真鶴)」が逆転する契機を垣間みる。
104
105
106
同上 p.137.
同上 p.147.
同上 p.125.
66
真鶴(「虚構」という現実)という場には、「ついてくる」女や死んだはずの礼が顕在すると
いう意味での非「現実」性(=「虚構」)と、提喩としての「にじむ」女性(=《母》)の肉体
が二重写しにされている。東京という場における「現実」=男性(《父》)=「輪郭」という等
式に対置し、真鶴という場を、
「虚構」=女性(《母》
)=「にじむ」という等式で解釈すること
が可能である。
「虚構」という現実の世界では、すべての「輪郭」が定まらず、時間も「現実」的ではない。
続くふたつの引用は、真鶴で、京がバスを待っている場面である。
バスは、十分後。
何回、そう確認しただろう。
どこにわたしは入りこんでしまったのか107。
彼女はベンチに腰を下ろし、カモメの声を聴いていたはずだった。しかし、ふと気付けば、
礼と春の野をあるいていて、次の瞬間には、また同じ野にいるのだが、今度は季節が秋に変わ
っている。そしてまた気付くと、そこは夏の終わりである。
礼。よんだ。
京。よびかえされた。
夏の終わりの野には、蚊柱が濃くたっていた。
バスは十分後。蚊柱のたつ真鶴の海ぎわのベンチに、こごえながら、座っている108。
時間は進んでいない。野原を礼と歩いた描写が、仮に京の妄想だったとしても、「現実」であ
れば、時計の針は進んでいるはずである。「現実」世界の人間は、全ての事象に対して、原因へ
の遡求を志向する。彼らの態度は、
「なぜ時間が進んでいないのか」という問いである。しかし、
真鶴では、そうした原因/結果の二元論が解消され、全てが無償のものとして一元化されてい
る。ふと、時計をみて、時間が進んでいないことに気付いた京の心象は、次のとおりだ。
鷺は山を越え、見えなくなった。時計をたしかめる。十分後にバスがくる時刻のまま、短
針も長針もとどまっている。秒針はたしかにうごいているのに。
鷺が戻ってくる。一羽だったものが、二羽つらなってとびかえってきた109。
107
108
109
同上 p.207.
同上 p.214.
同上 p.215.
67
「秒針はたしかにうごいているのに」とは、果たして京の疑問か、それとも、単なる事実の
描写なのか。判然としないが、彼女は、時計の針が進んでいないことに特段不思議がる様子は
ない。鷺を見ていた彼女は、時計を確かめ、然したる驚きもなく、また、鷺を目で追い始める。
「虚構」とはあくまで、
「現実」という価値に染まりきっていないという意味での「虚構」であ
る。それを狂気と名付けるのは、「現実」という検閲者(=《父》)の恣意である。京は時計を
確認する。そこは、時間という輪郭が「にじん」だ場所であり、時間が進んでいないことは、
疑問ですらない。ただ、時間が進んでいない。それだけである。
京の真鶴と東京の往還は、「現実」と「虚構」の往還をそのまま意味する。このことは、京に
よってはっきりと自覚されている。次の引用は、真鶴から東京への帰路における、電車の中で
の、彼女の心情の吐露である。
「まなづる」と言い、それから「とうきょう」とつづけてみる。
この電車は、真鶴と東京を結ぶいれものだ。わたしのからだを、まぼろしからうつしよへ、
またはんたいに、今生から他生へはこんでくる、いれものだ110。
東京に戻った京は、「にじん」だ状態のままで生活を送ることができない。「現実」とは、そ
のような場であるが、それでも、彼女には完全な「輪郭」を保持し続けることが難しかった。
「にじん」だ京と、輪郭を持った「現実」の人間が接触するとき、京の肉体は「刺される」。
それは例えば、京と百の会話の描写にみることができる。なぜ京は、「現実」的である百に対し
て、建前として接しないのか。建前として接している限り、お互いがお互いを傷つけることな
どないはずだった。
そこには、母娘という特殊な関係が影響している。
*
第四項
「母娘」という特殊性と「女性」という両義性
百が幼い頃、京にとって百は、「近い」存在だった。百がまだ胎児のとき、物理的にも、ふた
りは一人だったからだ。産まれた後も、しばらくは「にじんだ」状態で百と接することが容易
だった。両者の間には明確な境界がなかった。少なくとも、京はそう思っていたのだ。
母親になるとは、どういうことなのか。以下の描写は、子を生むことによる女性の心境の変
110
同上 p.164.
68
化を、京の視座から語った描写である。
子供を生んだ瞬間から、互いを「おかあさん」と思いあうようになったのも、へんだった。
生みおとす直前の、分娩室では、名字で思っていたのに。
子供を生む前と生んだあとの、妙なかんじについては、ほかの「おかあさん」たちも、み
なひとこと、あるようだった。
「考えてたのと、ぜんぜん、ちがう」くちぐちに言った。
世界が変わった、というのではない。でもちがう場所に行ってしまった。時々刻々と、い
る場所は変化した。変わって、変わって、どこまで行くのかとおののいて、それからまたこ
こに戻ってきた。けれどまだ、戻りきれていない111。
この引用の直前には、
「あんなに、激しい怒りのように痛くて、ぶつけどころのないものをか
らだじゅうに漲らせ、人のかたちをもう保っていられないとまで思ったのに112」、分娩後たった
一日ふつかで、「平気で、「わたしのあかちゃん、よしよしいいこ」などと、かるがる言ってい
た113」ことに対する奇妙な感懐が描写されている。
ここでは、「おかあさん」になること(=分娩)が、境域として語られている。それまでの身
体の痛みや嗚咽が、子どもの生誕によって、全て無化される。また同時に、分娩は、
「ちがう場
所に行ってしまった」ことを意味した。折に触れて京は、「やはり、いとおしい、ではなかった
114」や「百のからだは、必要なのではなく、大事なのだった115」などと、百に対する自身の感
情の揺れを表象するのに、最適な言葉を、都度、多様に探っている。分娩前の個としての京は、
“柳下”という「名字」に象徴される彼女であり、それは、責任を背負う対象が夫(=礼)だ
けにあることを意味した。京と礼は、ほぼ均等な相互依存の関係にある。というよりもむしろ、
礼に彼女の責任を負ってもらう側面の方が大きいといえる。往々にして婚姻とは、「彼女を大切
にします」という夫の言葉から始まるように、夫が妻を養う文化的な意味合いが大きかったの
ではなかったか。しかし、子を産んだ瞬間から、彼女は、
「おかあさん」になる。責任の対象が
夫から娘へと移行する中で、均等な相互依存の関係が解消される。子は親に責任を負わないが、
親は子の全てに責任を負う。そして、その責任は、
「現実」としての立場が強要するそれではな
い。
「おかあさん」という彼女の内面の「妙なかんじ」が、自身に、無償の責任と愛を芽生えさ
せる。それは、自身とは完全に隔たった、他人としての百に向けられた責任や愛ではない。
111
112
113
114
115
同上 p.80.
同上 p.79.
同上 p.79.
同上 p.20.
同上 p.20.
69
「ちがう場所に行ってしまった」という京の感覚は、まだ身体の一部として記憶しているに
もかかわらず、肉体的には分化している百への、
「妙なかんじ」についての換言ではないだろう
か。分娩直後、京と百は、それぞれの個としての「輪郭」をもっていなかった。むしろ、ふた
りでひとつの「輪郭」を描いている状態ではないか。それでも、百は成長し、それにともなっ
て個としての「輪郭」を濃くはっきりとあらわしてきて、いつしか、京との間に“距離”が生
まれている。互いの「輪郭」が濃いほど、両者の“距離”は「遠く」なる。
いつから百は近いものではなくなったのだろう。遠い、よりは近い、けれど近い、よりは遠
いものになっていた116。
出産を終え、百が大きくなる過程の中で、いつしか京は、自身が「またここに戻ってきた」
ことを実感する。それは同時に、百が「近いものではなくなった」ことを意味する。それでも、
完全に彼女たちが隔たることはない。京にとって、百が紛れもない他者として「輪郭」をもち、
京から完全に乖離することはあり得ない。だから、彼女にとって百はいつまでも、「遠い、より
は近い、けれど近い、よりは遠いもの」なのである。
「けれどまだ、戻りきれていない」という京の内省は、おそらく、永遠に隔たることのない、
ふたりの微妙な距離感を表現している。これが、母娘という、極めて特殊な関係である。
しかし、出産前の「名字」としての彼女に永遠に戻りきれないでいることへの実感は、
「おか
あさん」である京の内情に他ならない。一方で百は、
「輪郭」を描くことで、親離れを志向する。
いつまでも「にじん」だままの京と、
「輪郭」を持とうとする百。ふたりの間の硬度の差が、や
わらかな方を傷つけるのは当然だ。
以下は、ペットボトルを少し振って泡を立てた百を、京が叱る場面の引用である。
だめよおもちゃにしちゃ。小さな子どもにするようないいかたで注意する。してないよ。
とがった声音がかえってくる。とがりに、思いがけず刺される。わたしが刺されて傷んだこ
となど、百は想像もしていない。ただ、とがっているだけなのだから。ただ、反射のように
いいかえしているだけなのだから。
こんなふうに傷みをくわえることのできるのは、百だけだ。容赦がない。やわらかなとこ
ろへ、かまわずくわえてくる。跡になって膿むとも知らず。百には、やわらかな部分しか、
さらせないのだ。かたくおおって守ればいいものを。むかし、百を自分のからだが所有して
116
同上 p.19.
70
いたことをおぼえていて、へだてをつくって拒むことができない117。
百の「現実」的な成長。それは、京との分離を同時に意味した。事態を親離れというコトバ
で統括するのは簡単だが、京と百の関係は、他でもなく「京」と「百」だけの唯一のそれであ
る。だから京は、百との間にあえて「刺される」という“ことば”を導入する。前章で述べた
ように、可視化できない“関係”という形而上学的な事象は、実存的な真実がないがゆえに、
言葉での模索を必要とするのだった。
「にじん」だ京のやわらかな部分に、毅然と食い込んでく
る百の「輪郭」
。その傷みを、京は「刺される」という隠喩に置き換えることで、自身の内面へ
の遡求を諮る。
百の「輪郭」を上手に受け入れ、ふたりの隔たりに対して器用に処することができない京は、
いつまでも百の「近い」存在でありたいと切に願う。
「知らないぶぶんは、見せないでください、
百118」という京の内に秘めた悲痛の叫びが、虚しくも響く。それは、第三者としての、京の母
親にも看取されている。
百に、もっとふれたいのね、あなた。
母がしずかに言った。
でも、人は、そんなかんたんに、人にふれさせてもらえないのよね。
つづけて、言った。
わけもわからぬままぞくりとして、母の顔を見た。ふつうの顔をしている。子供でも?血
をわけて腹をいためた子供でも?いそいで聞いた。
あら京ったら、あなたこそ子供になってるわよ、今。母はまた笑った。どうしちゃったの。
あなただって、昔は、あたしに、おなじだったでしょう119。
後に考察の対象とするが、京の母親も、京という娘との“距離”に永遠に心悩ます「おかあ
さん」のひとりである。彼女は、「輪郭」を顕在化させてとめどない娘の成長と、それを、素直
に受け入れることのできない「おかあさん」の心情の両方を知っているがゆえに、第三者とし
て事態を相対化して俯瞰することができる。母の、
「ふれたい」という願望を押さえることの難
しさは、娘が、
「血をわけて腹をいためた」存在だからだ。京は百が「現実」的に成長していく
ことをおそらくどこかで願っていながらも、その「輪郭」が自身を隔てることを拒む。
しかし、そんな百の成長も単線的ではない。
117
118
119
同上 p.39.
同上 p.96.
同上 p.169.
71
百の顔をじっと見る。輪郭がまたはっきりしなくなっている。成長を終えるまでに、何回、
輪郭がかわるのだろう120。
「輪郭」をはっきりさせる(=成長)とは、社会的人間、つまり、コトバを使う人間への成
長である。それは、第一章で述べた、
《人間らしさの第二ステージ》における成長である。百は、
「輪郭」を濃くしては薄め、また濃くしては薄め、という、律動ではない揺蕩いによって「人
間らしく」生きていく。精神分析やクリステヴァの謂いを借りて論じてきたように、本源的な
「人間らしさ(=EXCЁS)」とは、秩序と錯乱、サンボリクとセミオティク、エロスとタナト
ス、さらには、「輪郭」をもつことと「にじむ」ことの両存だった。ただ、東京(=「現実」)
という場は、後者を圧倒的に黙殺するのだった。
輪郭がはっきりとした人間同士は、「遠い」。彼らは、接触しても「にじま」ない。例えば、
青慈への深入りを求めなくなった京は、自身の状態を、
いつからわたしは、にじまなくなったのだろう。青慈では、にじまない。いつまでももとの
形のまま、きちんと、輪郭をたもっている121。
と内省している。
しかし、一方が「にじん」でいるのに、他方が「輪郭」を顕在させていると、前者は「刺さ
れる」のだった。京が「刺される」のは、成長する百によってだけではない。疾走した礼の残
した、素っ気ない日記を読むたびに、彼女は「刺される」
。
以来、日記の字を読むと、刺されるようになった。いたい。いやだ。きらいだ。礼が。わた
しとちがう。わたしから、へだたっている122。
「人間らしさ」に言葉で肉薄しようとしても、それは、どうしても隠喩の域を越えることが
できない。真鶴(=「虚構」)が、サンボリクの対概念としてのセミオティクの場として機能し
ていることは先に述べた。サンボリクとは、隠喩として、
「にじんで」いて、
「やわらか」く、
「輪
郭」が薄く、女性的で、それゆえに繊細で、「刺される」と傷つく、「弱い」領域である。一方
で、東京(=「現実」)の人間は、「強い」。彼らは、秩序に服せない自身の内面の錯乱を、“欠
120
121
122
同上 p.255.
同上 p.87.
同上 p.68.
72
如”として憎む。彼らにとってセミオティクとは、その存在に気付かないに越したことはない。
もし、気付いてしまった場合、それは、
“矯正”の対象となる。精神病院とは、あくまで、錯乱
する精神を“治療”する場であったはずである。セミオティクを“欠如”として“矯正”し、
それを当然のことだとして疑わないから、
「現実」世界で人は、パラノイアックにどこまでも一
直線上を加速していけるのではなかったか。
京もまた、保護者会の主婦たちや一夜限りの男と接するときのように、割り切ってしまえば、
「現実」の人間として「輪郭」を固め、どこまでも「強く」在れるはずだった。先に引用した
ように、それは、恋人・青慈との関係においても同様である。
しかし、自らの腹に生命を宿し、血を分けて産んだ実娘・百との関係は、そう淡白にはいか
ない。「にじん」だり、「輪郭」を濃くしたりという、互いの内面の動きに合わせて、互いが互
いを傷つけ合う。そこには、母娘という社会的立場も関係している。京は、どこまでいっても
百の「母親」であり、彼女は《父》としての禁止のコトバを、時として娘に浴びせなければな
らない。
作中における京と百の関係について、巻末の解説で、文芸評論家の三浦雅士が、「京は百の百
兆倍の単位であり、母娘が精神的に同族であることを強く印象づける命名になっている 123」と
分析している。著者・川上にその意図があったかどうかは別として、事実、両者は切っても切
れない関係にある。
前述した「いたいいたい」という幼少期の百への諭しは、確かに形骸化したコトバであると
いう意味で欺瞞かもしれないが、人間が「現実」的側面を回避できないことを前提とするなら、
それは、必然に駆られた欺瞞である。母娘の関係であるがゆえに、この撞着に、京は悩む。
次の引用は、図書館に行くと嘘をついて夜分遅くまで家に帰らなかった百を、京が叱る場面
である。
あかるみながら、困惑した。いったい今、自分がどんな考えに因って百を叱っているのだか、
わからなくなっている。未成年の子供は親の監視下にいるべきだ、という規範?それとも、
子供は勉学にはげむべき、という?または、危険な場所におんなこどもは行くべからず?い
っそのこと、人は嘘をつくべきではない、という、それこそ嘘くさい建前みたいなもの?124
「自分がどんな考えに因って百を叱っているのだか、わから」ないと京は自省するが、母(=
《父》)としてのコトバに「考え」はない。母(=《父》)は、子どもが嘘をついたことに対し
て、何らかの反省を求めなければならない。それは、「考え」からではなく、必要からである。
123
124
同上 p.268.
同上 p.102.
73
本論の序章でも述べたとおりである。
したがって、京の心理描写に、単純に、母としてのコトバの不毛さだけを読み取るべきでは
ない。異化を目指す読者は、京の心理的葛藤を、コトバへのアンチテーゼとして収斂させるべ
きではない。小説の多声性とは、明確なプロパガンダを提示できない、小説自体の構造を意味
した。本来的な人間とは、京が悩むように、サンボリクとセミオティクの間で揺れ動き、撞着
しているのだ。コトバに過信すれば味気ないが、常に「にじん」でいるのであれば、今度は、
生きていくことができなくなる。
注視すべきは、京も百も、女性であるという事実だ。象徴としての男性(=《父》
)は、にじ
まない。彼らは、
「強い」から、形骸化したコトバに戯れ、内実を黙殺していても、何ら傷つか
ない。
「現実」とは、
「強い」
《父》が闊歩する場であった。しかし、比喩としての女性(=《母》
)
の本質とは、そうした「強い」《父》に抑圧・侵略される、極めて人間らしい「弱さ」にある。
女性としての京と百の関係性における言葉の交差には、社会に置き去りにされた、人間とし
ての心の鬱滞をみることができる。男性としての「弱さ」は、「強くあれ!」
「ド根性」「男らし
く」という少年漫画その他に美化されたコトバによって、否定される125。彼らの「弱さ」は、
男性であるがゆえに、是正されなければならない。しかし、女性らしさとは、男性とは逆に、
彼女たちの持つ「弱さ」にこそある。
男性は、美化されたコトバで自らの心の鬱滞を掩蔽する限り(少なくともセミオティクに鈍
、、、、、、、
感であるふりをしている限り)、
「男らしく」生きていくことができる。しかし、女性の場合は、
その本質が「弱さ」にあったとしても、「現実」が衣食住と切り離せない問題として彼女たちに
降り掛かってくる限りにおいて、適度には「男らしく」あらねばならない。京も百も、東京で
は、仮にも「輪郭」を保って生きなければならないのだ。したがって、本論で再々論じてきた、
サンボリクとセミオティク、《父》と《母》、秩序と無秩序の両存を本質とする、流動的な「人
間らしい(=EXCЁS)」生き方とは、後者を抑制する美学をもつ男性には見出せようもない。
、、、、、、、、、
京と百が女性である(女性でなければならない)所以は、ここにあるのではないだろうか。
京が、
「礼に向かう心も、青慈に向かう心も、くもりがないのに、百に向かう心だけは、くも
りだらけだ126」と述べるとき、そこに読者は、立場としての「母」である一方、女性としての、
実子へ無償の愛をもつ母としての京の撞着をみる。立場としての「母」は、《父》なるコトバを
要請するが、女性としての、我が子への無償の愛をもつ母としての京は、「にじん」だ状態のま
まで百と接したいと願う。この葛藤が、京の、百へ向かう心をぐらつかせる。
京と百との母娘関係は、人間が生きることの、決して解決できない内的なわだかまりや矛盾
にまで、換喩的に読者の思索を派生させてくれる。「母娘関係」とは、作中においてはどこにも
125
126
例えば、週刊少年ジャンプ(集英社)が掲げるテーゼは、
「友情」
「努力」
「勝利」である。
同上 p.132.
74
その単語を見ることができないが、読者が作品から「創造」できる“ことば”である。その“こ
とば”に、読者は、無限(イーグルトンのいうように、際限がない訳ではない)の共示義を含
有させることができる。コトバのコードは読み取るものだが、
“ことば”は「創造」するもので
ある。したがって“ことば”とは、作品ではなく、
“テクスト”によって紡がれていくのだった。
そして、この小説における母娘の関係は、何も、京と百の間だけに見出されるわけではない。
以下は、例の図書館の一件のあとで、京が娘のそっけない態度に悩み、彼女の母親に相談する
場面である。
「わたしも、あんなふうだったかしら」母に聞いてみる。
「京は、もっと、一定しなかった」
いってい?聞き返す。
そうよ。かたくなったり、かと思うと急にとけたり。子供になったり、次の瞬間には突如
大人めいたり。
「そういう、年ごろ、なの?」
年ごろ、という言葉で始末するのは、かんたんなのよね。母は目をとじ加減にしながらつ
ぶやいた。年ごろ、じゃなくて、始まり、なのよ、たぶん。
「はじまり?」
終わりの、始まり、かしら。
「おわり」
そうよ。もうあの小さな京はいなくなっちゃって、ちがう人になってしまう、そういう、
終わり。
「そんなたいしたものだったかしら」と、わたしは笑った。母も笑った。そんな簡単に大人
にならないわ。なれないわ。今だって、なんだかまだ一定しないし。言い合って、また笑う
127。
先に少し触れたが、京の成長過程が彼女の母親の目線から語られることで、それまで一人称
で描かれてきた京の内情が相対化されている。上で「母娘関係」という“ことば”を挙げたが、
「京と百」、「京の母親と京」というふたつの重なる母娘像が提示されることで、その関係が帰
納的に普遍化されている。娘が母に冷たく接することを「年ごろ、という言葉で始末するのは、
、、
かんたん」すぎる。「年ごろ」とは、コトバである。それを、「終わりの、始まり」と仮に言い
換えてみることで、言葉の起源に、京の母親は立ち返ろうとする。母娘の一筋縄では行かない
127
同上 p.168-169.
75
関係に思いを馳せるとき、我々が“常識的”に連想してしまう「年ごろ」という錆び付いたコ
トバが、そこで、異化される。それは、まぎれもなく作家・川上の異化行為の萌芽であるが、
彼女は「終わりの、始まり」と書いてしまった時点で、行動を終了させてしまう。
「言い合って、
また笑」ったところで、京と彼女の母親の会話は、物理的には、エクリチュールとして終了す
るのだ。そこから「母娘関係」という“ことば”を養っていくのは他でもない読者である。読
者は、「終わりの、始まり」や「そんな簡単に大人にならないわ」という彼女たちの個々の科白
を、
「輪郭」や「にじむ」という作中に散布する別の言葉に接続させることで、作品から“テク
スト”を紡いでいくことができる。もちろん、
「母娘関係」という“ことば”の生成は、この作
品を越えて、以後も繋がっていく。
こうした読書行為は、決してコードの解読ではない。異化行動による、終わりなき“テクス
ト”生成の一過程である。
*
第五項
総括
以上では、東京(=「現実」)と真鶴(=「虚構」)というふたつの軸を物語の構造上に見出
すことで、それぞれの特性をまず解釈してきた。
「現実」とは、空虚なコトバとの戯れの場であ
り、個々人はそこで、
「輪郭」を顕在させることで、自己を防衛的に社会化する。そこは、象徴
としての《父》の世界だった。一方で「虚構」とは、
「現実」世界において抑圧されていたセミ
オティクが横溢する場であり、「にじん」だ京が一元的に世界を主体化する。それは、《母》と
しての世界であった。
この両局はそれぞれ、サンボリクとセミオティク、秩序と無秩序、男と女、《父》と《母》、
建前と本音のトポスとして提示されている。それは入れ子式に、後者を《第一ステージの人間
らしさ》の、前者を《第二ステージの人間らしさ》の寓喩として捉えることが可能である。
しかし、
「人間らしさ」の本来性とは、本論の第一章で精神分析やクリステヴァの論を借りて
考察したとおり、サンボリクとセミオティク、《父》と《母》の両性具有にあった。
そして、この両性の共存の巧妙な組み込みをみることができるのが、
「母娘」という特殊な関
係である。母娘とは、両者とも生物学的な女性であるという点で、《母》として「にじむ」こと
をその本質とするが、一方で、立場としての「母」
「娘」が、自身に《父》として「輪郭」を保
持することを要請する。したがって、両者の関係には、「現実」と「虚構」の葛藤(=往還)、
すなわち、EXCЁS そのものの特性をみることができた。これがそのまま、東京と真鶴のふた
つの地をどちらか一方に定住することなく語り手・京が往還するという、物語の構造上の特性
に置換できるのも、決して偶然ではないだろう。
76
第二節
不毛さを抱え、“尚”生きる――村上春樹『ノルウェイの森』
この小説は、1987 年に刊行された、村上春樹による長編小説である。
37 歳の主人公「僕」は、ハンブルク空港に着陸した飛行機の中で、偶然、ビートルズの「ノ
ルウェイの森」を聴き、自身の学生時代の記憶が蘇ってくる。この回想の描写が、「僕」の一人
称の語りで物語を貫く。
1968 年 5 月、「僕」は、中央線の電車の中で、直子という女性と一年ぶりの再会を果たす。
彼女は「僕」の高校時代の友人・キズキのかつての恋人であり、三人は、地元・神戸で青春時
代の多くを共にした仲だった。しかし、高校三年生の 5 月、キズキは前触れもなく自殺し、そ
れ以来、
「僕」と直子は疎遠になっていた。再会により、それぞれが都内の異なる大学に進学し、
上京していたことが判明する。
「僕」は学生寮に入り、突撃隊というあだ名の潔癖性の青年や、外務省を目指す東大生の永
沢さん、脳腫瘍の父親の看病に奔走する同じ大学の小林緑らと時を過ごしながらも、孤独な学
生生活を送る。
1969 年 4 月、
「僕」は、直子の 20 歳の誕生日に彼女と性交して以来、彼女と一切連絡がとれ
ずにいた。そんなある日、直子から手紙が届き、京都の山奥の阿美寮という精神療養施設にい
ることを知らされる。その年の秋と冬の二度、
「僕」は阿美寮を訪れ、直子と再会すると同時に、
彼女と同室で生活する 39 歳のレイコさんと親しくなる。レイコさんは、将来を有望視されたピ
アニストだったが、精神を病み、ここに入寮して 7 年にもなるという。三人は積もる話を共有
し、夜になると、レイコさんがギターでビートルズの「ノルウェイの森」や「ミシェル」など
を演奏した。
東京に戻った「僕」は、直子への愛と「僕」に好意を抱く小林緑との板挟みに、しばしば
葛藤しつつも、孤独な時間をおくる。1970 年の春に、
「僕」は学生寮を出て吉祥寺の一軒家を借
り、直子やレイコさんとの文通を続けていた。しかし、その年の 8 月、直子は自殺し、ショッ
クを受けた「僕」は、ひと月ほど、東京を離れて放浪の旅にでる。
旅から戻った「僕」は、8 年間滞在していた阿美寮を出たレイコさんと、東京で再会する。旭
川で友人の仕事を手伝うというレイコさんを駅まで送った後、
「僕」は小林緑に電話をかけ、自
身のいる不安定な世界を自問する。
*
77
第一項
東京という「中心」・阿美寮という「周縁」
この項では、前節の延長線で、東京(=「中心」)と阿美寮(=「周縁」)の比較において分
析する。前節における「現実」「虚構」の二項対立を、ここで「中心」「周縁」に置き換えたの
は、この作品に、霊的・幻視的描写がほとんど見受けられない理由による。
『真鶴』において真
鶴という地が、京による「虚構」的な語りによって描かれていたのに対し、この小説における
東京の対概念としての阿美寮は、精神療養施設という「現実」的な場所として設定されている
(そこに「ついてくる」女のような存在はない)。京とは違い、「僕」には霊感らしきものがな
く、語りは一貫して「現実」的である。「周縁」の象徴としての阿美寮は、京都駅からバスで 1
時間以上進み、さらに停留所から歩いて 20 分という、おそろしく山深いところにある。東京と
いう場所との隔たりに焦点を当て、
「中心」「周縁」という枠組みに置き換えることにした。
また、この「周縁」には、京都の阿美寮だけでなく、「僕」・直子・キズキの出身地でもある
神戸、さらには、最終的にレイコさんが向かうことになった北海道の旭川も含める。これらの
どの地の描写からも、
「虚構」的な様相はみうけられない。
しかし一方で、
「中心」としての東京が、コトバ(コードの固まった記号)に戯れる場所とし
て描かれていることは、前節との共通項として見出せる。次の引用は、孤独な学生生活をおく
る「僕」と、寮の相部屋仲間である突撃隊とのやりとりである。地図作りを夢見る誠実な学生
としての彼は、非「中心」的な存在として描かれている。
僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわりアムステルダムの運河の
写真が貼ってあった。僕がヌード写真を貼ると「ねえ、ワタナベ君さ、ぼ、ぼくはこういう
のあまり好きじゃないんだよ」と言ってそれをはがし、かわりに運河の写真を貼ったのだ。
僕もとくにヌード写真を貼りたかったわけでもなかったのでべつに文句は言わなかった。僕
の部屋に遊びに来た人間はみんなその運河の写真を見て「なんだ、これ?」と言った。「突
撃隊はこれ見ながらマスターベーションするんだよ」と僕は言った。冗談のつもりで言った
のが、みんなあっさりとそれを信じてしまった。あまりにもあっさりとみんなが信じるので
そのうちに僕も本当にそうなのかもしれないと思うようになった128。
寮の他の連中のほとんどの部屋には、
「裸の女か若い女性歌手か女優の写真129」が貼っていて、
「僕」も例に漏れず、その流行りに乗じようとする。しかし、突撃隊は、そうした内実なきコ
村上春樹(2004 年)
『ノルウェイの森(上)
』講談社 p.31-32.(※以下、上巻を(上)
、下巻を(下)と
表記する。
)
129 (上)p.30.
128
78
ードの戯れ(女性の写真=流行)とは無縁な人間であって、自身の好みであるアムステルダム
の運河の写真を壁に貼る。作中で描かれる突撃隊は、建前を使わない、純正な人間である。東
京という「中心」に馴染めない人物の象徴であり、それゆえに彼の言動は、周囲の笑いのネタ
となる。
「突撃隊はこれ見ながらマスターベーションするんだよ」という「僕」の冗談で盛り上
がる寮内の連中にとって、それが真実かどうかについては二次的な問題に過ぎない。彼らは、
コミュニケーションに浸ること自体に最大の悦楽を感じているのであって、それは、話題の真
実性によって左右されるものではない。「僕」が、「あまりにもあっさりとみんなが信じる」と
、、、、、、、、、
語るが、あくまで「僕」が見るのは、あっさりと信じてしまったかのように ネタと戯れる彼ら
の姿であって、ここでの「信じる」とは、
「僕」の誇張法的な謂いであり、客観的な事実ではな
い。
そして、冗談のつもりで発した一言が、
「僕」を離れて一人歩きするに連れて、いつしか当の
本人さえもが、「本当にそうなのかもしれないと思うように」なっていく。この場合も、「本当
にそうなのかもしれない」と「僕」が本心で感じているというよりは、むしろ、それがコトバ
として固着化していく過程で、真実の重要性が薄らいでいく様相をメタメッセージとして提示
した描写であると解釈するのが妥当だろう。
この一件以降、突撃隊は、諸処で「僕」の話のネタとして機能するようになる。次の引用は、
「僕」が、直子に彼の話をする場面である。
そんな突撃隊の話をすると直子はいつも笑った。彼女が笑うことは少なかったので、僕も
よく彼の話をしたが、正直言って彼を笑い話のたねにするのはあまり気持の良いものではな
かった。彼はただあまり裕福とはいえない家庭のいささか真面目すぎる三男坊にすぎなかっ
たのだ。そして地図を作ることだけが彼のささやかな人生のささやかな夢なのだ。誰がそれ
を笑いものにできるだろう?
とはいうものの〈突撃隊ジョーク〉は寮内ではもう既に欠くことのできない話題のひとつ
になっていたし、今になって僕が収めようと思ったところで収まるものではなかった。そし
て直子の笑顔を目にするのは僕としてもそれなりに嬉しいことではあった。だから僕はみん
なに突撃隊の話を提供し続けることになった130。
適度に「中心(=コトバへの戯れ)」の外部にいる突撃隊をアイロニカルなネタとしてふりま
くことで、誰もが傷つくことなく明るく笑っていることができる。もしもそのことが原因で彼
が首でも吊ったなら、誰が、彼のエピソードを笑いのネタとして受け入れることができるだろ
130
(上)p.60.
79
う。第四項で踏み込んで考察するが、
「僕」とは、キズキや直子の死という「周縁」を抱えつつ
も、東京という「中心」で生きる存在であって、
「中心」に対して懐疑的・否定的な側面がある。
「誰がそれを笑いものにできるだろう?」という彼の心理描写からも示唆されるとおり、揶揄
の対象として突撃隊を弄ぶことに、少なくとも抵抗を感じている。
また、直子が彼のエピソードを好んで聞きたがるのと、寮の連中が彼の言動をあざけるのと
には、相違がある。第一章第二節で挙げた北田の言説を借りるなら、前者は純粋な“笑い”で
あって、後者は嘲笑としての“嗤い”である。現代社会の象徴的人間(広告や純粋テレビの人
間=《差異化のパラノイア》)が往々にして後者であり、全てをコミュニケーションのネタとし
て包摂することでコトバに戯れることは、何度も述べてきたとおりである。学生寮の連中は、
その意味で、「中心」の典型的人間像と捉えて良い。
「僕」は突撃隊のエピソードをコトバとして話のネタにし、直子に語り聞かせているわけだ
が、こうしたコトバには、一方で、救いとしての側面もある。前節で、京の「ワンタン麺、お
いしかったわ」という科白を、
「虚構」からの自己防衛手段としての便利なコトバであると論じ
、、、、、、、
たが、
〈突撃隊ジョーク〉が、これと同様に機能するはずだった描写がある。直子に面会するた
めに阿美寮を訪れた「僕」は、そこで、直子の口から深刻な彼女の病状についての話を聞く。
「周
縁」としての阿美寮は、真鶴と同じく建前のない世界である以上、話題が往々にして深刻で奥
まった方向に流れてしまう。その世界で〈突撃隊ジョーク〉は、救いとなるはずだった。直子
は話を終えると、
「僕」に向かって次のように言う。
「もう少し明るい話をしない?」と直子が言った。
でも僕には明るい話の持ちあわせがなかった。突撃隊がいてくれたらなあと僕は残念に思
った。あいつさえいれば次々にエピソードが生まれ、そしてその話さえしていればみんなが
楽しい気持になれるのに、と131。
突撃隊はそのとき、すでに音沙汰もなく寮を去っていて、
「僕」の前から姿を消していた。直
子との文通で頻繁に彼の話題を提供していたせいで、「僕」には彼女に伝えられる突撃隊の「明
るい話」が尽きていた。コトバは、東京という「中心」においてコトバとの戯れだけを目的と
して交わされる限り、内実なき表層の“遊び(=コミュニケーションの自己目的化)”以外の何
ものでもない。しかし、その内実のなさが、逆に、
「周縁」世界では救いとなり得るはずだった。
そして、非「中心」的人物としての突撃隊の失踪は、東京という「中心」の有する、排除と選
別の体系を、副次的に示唆していると解釈することができるだろう。
131
(上)p.266.
80
東京という「中心」において、コードの固まった記号への戯れの描写は、突撃隊の笑い話に
限らず、作中に多く散見される。
例えば、女性を口説くことに長ける東大生の永沢さんは、
「前にいる女の子たちと本気で寝た
がっているというわけではない132」にも関わらず、
「その圧倒的な才能をゲームでもやるみたい
にあたりにばらま133」くし、
「僕」は新宿で、いかにも不味そうな「薄いサンドイッチを買って
食べ、新聞のインクを煮たような味のするコーヒー 134」を飲む。性交が単なる反復的なゲーム
として、食事が外来の流行りを消化するものとして、
「僕」の目線から、アイロニカルに描写さ
れている。第四項で詳述するが、「僕」とは、こうした「中心」を一方で嫌悪していながらも同
時に脱却できずにいる、両義的で撞着した存在である。彼は、永沢さんの女遊びに付き合うこ
とにためらいを覚えながらも、
「性欲を処理する方法としては気楽だったし、女の子と抱き合っ
たり身体をさわりあったりしていること自体は楽しかった 135」と述懐しているし、例え薄くて
も、新聞のインクのような味がしても、サンドイッチやコーヒーを口にする。
こうした内実のないコトバが、ときとして欺瞞に繋がることは前節で述べた。欺瞞は、それ
をやり過ごせない純正さを持った人間(非「中心」的な人間=「僕」
・小林薫)によってしばし
ば看破されることとなる。次の引用は、ウンドー(時代設定の 1960 年代末は学生運動が席巻し
た時代であった)を先導する学生の欺瞞に、僕が切り込む場面の描写である。
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたのは
ストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノート
をとり、名前を呼ばれると返事をした。(中略)僕は彼らのところに行って、どうしてスト
をつづけないで講義に出てくるのか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられ
るわけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ136。
第一章第二節で連合赤軍については触れたが、彼らのように象徴秩序と内面を同化させてい
る人間ではなく、あくまでコトバとしてのイデオロギーを掲げるストライキの主導者たちは、
言動に一貫性がない。もっともらしい大言壮語をふりまくも、それは、結局はコトバに過ぎな
かった。ここに「僕」は虚偽性をみる。彼らの虚偽性は、小林緑によっても述懐されている。
彼女は自身の所属していたサークルの連中が社会変革を掲げ、
「分かったような顔してむずかし
132
133
134
135
136
(上)p.73.
(上)p.73.
(下)P.61-62.
(上)p.73,
(上)p.101.
81
い言葉を使ってる137」ことに対して、怒りを吐露している。
私わかんないからそのたびに質問したの。『その帝国主義的搾取って何のことですか?東イ
ンド会社となんか関係があるんですか?』とか、『産学協同体粉砕って大学を出て会社に就
職しちゃいけないってことですか?』とかね。でも誰も説明してくれなかったわ。それどこ
ろか真剣に怒るの。そういうのって信じられる?
(中略)そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふり
まわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむこ
としか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だの
TBS だの IBN だの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないか
わいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ138。
建前があくまで浅薄な“嗤い”として機能しているぶんには、そこに怒りを覚えるほどの不
快さはない。「僕」が〈突撃隊エピソード〉に感じているような、「誰がそれを笑いものにでき
るだろう?」というささやかな疑念以上には、不問とされる。しかし、それがあまりにも肥大
化して、建前がその虚偽性を隠蔽することに奔走すると、
「僕」や小林緑の目には、救いようの
ない「インチキ」として映る。「僕」は、学生運動を指導する彼らの欺瞞をみて、「こういう奴
らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会をつくるんだ 139」と述懐す
る。
こうした虚偽性の体現者が、あくまで男性として描かれていることにも注目したい。
「僕」に
、、
よって語られる「ストを指導した立場にある連中」は、男性としての「彼ら」であるし、小林
緑が述べる「インチキ」な連中は、
「新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこ
むことしか考えてない」男である。また、第三項で詳述することになる、「中心」的存在の極限
としての男性である永沢さん(外務省に軽々と内定する東大生)は、周囲から一目おかれる存
在として描かれる。彼は日々、バーで女性を漁り、必ず自分から彼女たちをホテルに誘う、性
交においても究極的な能動性をもった人物である。「中心」として描かれる人物は、寮の連中も
含め、そのほとんどが男性なのだ。
男性が能動的に行動する存在として描かれているのに対し、一方で女性は、つねに控えめで、
彼らに追従し、受け身であることが推奨される。例えば、小林緑は、恋人に「純粋な好奇心140」
137
138
139
140
(下)p.66.
(下)p.66-67.
(上)p.101-102.
(下)p.58.
82
から男のマスターベーションについて訊ねると、「女はそんなのいちいち訊くもんじゃない 141」
と叱咤されたことがあると「僕」に語る。永沢さんはいくら女漁りに明け暮れても一目おかれ
ることに変わりはないが、一方で女性である小林緑は、例え「純粋な好奇心」からであっても、
性的な能動性を持つことが許されていない。また、彼女がサークルの集会で、
『産学協同体粉砕
って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですか?』などと質問した際、あとで周り
は、
「あなた馬鹿ねえ、わかんなくたってハイハイそうですねって言ってりゃいいのよ142」と彼
女をなだめている。この口調が女性のそれであることは明らかだ。
「中心」において、女性とは、
男性の謂いに「ハイハイそうですね」と追従する役回りに徹することが、 “常識”的だと考え
られていることが伺える。
以上のように、東京(=「中心」
)とは、アイロニカルなコトバとの戯れの場であり、そこに
は欺瞞を孕んだもっともらしい大言壮語が蔓延していて、その意味で「インチキ」で、男性中
心の理論において成立する場である。一方で、
「周縁」としての阿美寮は、そんな東京の対局と
して描かれている。次の引用は、阿美寮について語ったレイコさんの科白の一部である。
この療養所はね、営利企業じゃなのよ。だからまだそれほど高くない入院費でやっていける
の。この土地もある人が全部寄附したのよ。法人を作ってね。(中略)どうしてそういうこ
とを始めたかというとね、その人の息子さんがやはり精神病の傾向があって、ある専門医が
その人にグループ療養を勧めたわけ。人里離れたところでみんなで助け合いながら肉体労働
をして暮し、そこに医師が加わってアドバイスし、状況をチェックすることによってある種
の病を治療することが可能だというのがその医師の理論だったの。そういう風にしてここは
始まったのよ143。
阿美寮に対して、
「僕」の居住空間である東京の学生寮は、
「
「教育の根幹を窮め国家にとって
有為な人材の育成につとめる」
、とこれがこの寮創設の精神であり、そしてその精神に賛同した
多くの財界人が資材を投じ……というのが表向きの顔なのだが、その裏のことは例によって曖
昧模糊としている144」と描写されており、
「根本的な胡散臭さ145」を孕んだものとして提示され
ている。同じ寮でも、阿美寮は、胡散臭い建前もなく、営利を追求しない誠実なそれであるこ
とが強調されている。
上記で分析してきたように、学生寮に限らず、東京でのコミュニケーションは、自らの欺瞞
141
142
143
144
145
(下)p.58.
(下)p.67.
(下)p.199-200.
(上)p.26.
(上)p.26.
83
を隠蔽することによって成立する。彼らは、自らの言動がいかに空虚かを内省しないまま、大
仰なコトバをふりまく。一方で、阿美寮の人びとは、自らが“まとも”ではないということを
知っている。
「私たちがまともな点は」とレイコさんは言った。「自分たちがまともじゃないってわかっ
ていることよね146」
前節で分析したのと同様に、ここで、
「中心」と「周縁」のヒエラルキーが転倒する気配を読
者は感じ取る。事実、直子は、東京では誰からも尊敬される逸材としての永沢さんについての
話を「僕」から聞き、
「その人、私よりずっと頭がおかしいと思うわ147」と述べている。彼が尊
敬されるのは、あくまで欺瞞に満ちあふれた「中心」の理論においてであり、そこに絶対性は
ない。異なった尺度をもってすれば、彼は「頭がおかしい」と計られるのだ。京都の山奥に居
を構える阿美寮と比較されることで、
「中心」の傲慢さがあぶりだされている。
また、阿美寮とは、
「治療をするところではなく療養をするところ148」であり、いわゆる「一
般的な『病院』149」ではない。そこで人びとは、患者もスタッフも共同で規則正しい生活を送
り、運動し、野菜を育て、それぞれがそれぞれを助け合って暮らしている。患者だかスタッフ
だかわからない状態で共生する彼らの世界では、階級が解体されていて、事実、七年もいるレ
イコさんは、患者として入寮したにもかかわらず、今ではみんなに音楽を教え、
「先生」と呼ば
れているのだ。
「中心」世界の病院においては、あくまで医師は医師であり、患者は患者であっ
て、その境界線は、絶対に乗り越えることのできない鋼の城壁として前提化している。次の引
用は、
「僕」と小林緑が彼女の父親の看病のために東京の病院に向かい、そこで彼女があまりに
も短いスカートを履いていることに対して、医師が彼女に忠告する場面である。
「君、そのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ」とあきれたように医者
が言った。「それからこの病院の中じゃなるべくエレベーターを使ってくれよな。これ以上
病人増やしたくないから。最近ただでさえ忙しいんだから150」
医師の科白が、阿美寮との対比で描かれていることは明らかだ。東京の病院とは、患者が医
、、、
師に診てもらう場所であり、優劣関係は絶対である。ここにも、
「中心」と「周縁」の相反を認
146
147
148
149
150
(下)p.7.
(上)p.227.
(下)p.198.
(下)p.198.
(下)p.80.
84
めることができる。
また、阿美寮に代表される「周縁」とは、女性の世界であることにも注目したい。阿美寮に
は男性もいるにはいるが、描写の大半を占めるのは直子とレイコさんの日常的なやりとりであ
る。そこは、
「嘘をついたり、物事をとり繕ったり、都合のわるいことを胡麻化したりしない151」
人びとが暮らす、前節の文脈に準えれば、
「輪郭」をもたない「にじん」だ世界である。彼女た
ちは、素直に涙を流し、性についても赤裸裸である。また、雨の降る描写も多い。こうした涙
や雨、濡れる世界が、女性の肉体の提喩として解釈できることについては、次項の分析の対象
とする。この項では最後に、「輪郭」を持たない「周縁」の世界が、夢と現実を貫いた一元的世
界であることを指摘して、分析を終えることにする。
冒頭で述べたように、この物語にはほとんど幻視的な描写がみられない。しかし、次の箇所
に限って、夢とも現実とも似つかない「僕」と直子の接触の様子が描かれている。阿美寮での
夜、
「僕」は、直子やレイコさんとは別室の、ソファー・ベッドの上で眠りに落ち、柳の木から
金属になった鳥がどさどさと落下する夢をみる。次の引用は、その夢に続く描写である。
目を覚ましたとき、僕はまるでその夢のつづきを見ているような気分だった。部屋の中は
月のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反射的に床の上に鳥のかたちをした金属を探
し求めたが、もちろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕のベッドの足もとにぽつん
と座って、窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝をふたつに折って、飢えた孤児の
ようにその上に顎をのせていた。僕は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探したが、
それは置いたはずの場所にはなかった152。
直子は、寝る前に外していたはずの、蝶のかたちをしたヘアピンをつけている。彼女はしば
らくして顔を上げ、
「僕」の目をじっとのぞき込んだかと思うと、ガウンを脱ぎ捨て、裸になる。
数分後、ガウンを再びまとうと自室に去って行った。そして翌朝、「僕」は直子と顔を合わせる
が、彼女は、昨夜、
「僕」の前で裸になったような素振りを一切みせない。
「僕」は、
「あれは間
違いなく本物の直子だった、夢なんかじゃない 153」と思いながらも、結局直子に打ち明けるこ
とができず、事態は宙づりのまま、彼は阿美寮を去ることになる。
夢と現実が判別されていないこの描写に、前節と同様に「虚構」の枠組みを当てはめること
もできるだろう。また、直子がガウンを脱ぐという行為を、
「輪郭」からの離脱として解釈する
ことも、それほど強引ではないように思える。
151
152
153
(上)p.201.
(上)p.268.
(上)p.276.
85
次項では、阿美寮に限らず、作中に散見される「周縁」としての世界を、象徴としての《母》
=女性=セミオティクの解放の場として解釈していくことにする。
*
第二項
涙・雨・濡
阿美寮が東京の対概念としての「周縁」であることを前項で述べてきた。
阿美寮とは、性の秩序立てから解放された、性的に自由な場でもある。作中では永沢さんや
「僕」の性交の場面が多々描かれているが、東京(=「中心」
)のそれは、全て家内かラブホテ
ルにおいてである。また、男女間での交わりのみだ。そうしたいわゆる「中心」世界における
“常識”から、阿美寮は解放されている。例えば、以下の描写は、草原での「僕」と直子の交
わりの場面である。
我々は草原の乾いた草の上に腰を下ろして抱きあった。腰を下ろすと我々の体は草の中に
すっぽりと隠れ、空と雲の他には何も見えなくなってしまった。僕は直子の体をゆっくりと
草の上に倒し、抱きしめた。直子の体はやわらかくあたたかで、その手は僕の体を求めてい
た。僕と直子は心のこもった口づけをする154。
彼らは性交にこそ到らないが、互いを愛撫し、
「僕」は草原で射精する。レイコさんは、愛し
合う彼らが何の遠慮もなしに交わることをむしろ推奨する。
「中心」においては、内なる隠れた
領域にどこまでも囲い込まれる性が、阿美寮では、当然のこととして大っぴらに受け入れられ
ているのだ。また、この寛容さは、男女間という規範を超越して貫かれている。直子は、草原
を歩きながら、
「僕」に、以下のような告白をする。
「ねえ、ワタナベ君、変に思わないでね」
「思わないよ」と僕は言った。
「レイコさんに抱いてもらうの」と直子は言った。「レイコさんを起こして、彼女のベッド
にもぐりこんで、抱きしめてもらうの。そして泣くのよ。彼女が私の体を撫でてくれるの。
体の芯があたたまるまで。こういうのって変?155」
近年、徐々に同性同士の交わりは許容されつつあるが、ここでは 1969 年という時代設定を考
154
155
(上)p.291.
(上)p.290.
86
慮したい156。一応は「中心」においてタブー視されている同性同士の交わりが、阿美寮では偏
見なく許容されている。直子は淋しくなると、何をはばかることもなく、レイコさんに抱かれ、
彼女の胸で号泣する。愛情の表現としての性交も、感情の揺さぶりの体現としての涙を流すと
いう行為も、前節で触れたように、体の「輪郭」が潤び、
「にじむ」イメージとして、女性の肉
体の提喩と捉えることができる。「中心」が男性の論理によって整序されているとするならば、
「周縁」で生きる彼女たちは、言うなれば、女性の感性(≠理論)に忠実に、内面の鬱滞をみ
なぎらせる。それがセミオティクへの傾聴と等号で結ばれる行為であることは、これまでに幾
度となく述べてきたとおりである。
また付言しておくと、作中では、レイコさんが、かつてピアノを教えていた少女にレスビア
ンの行為を持ちかけられ、さらにはその少女に欺かれたことで、
「中心」世界で生きることがで
きないくらいの精神疾患に到ったというエピソードが描かれている。しかし、この描写は、あ
くまで「中心」的足ろうとするレイコさんを、再び「周縁」に追いやった契機として捉えるの
が正当だと思われる。次項で述べるように、この物語は、
「中心」的で男性的な人間像を否定的
に描き、
「周縁」に生きる女性たちを正当化するような、短絡的な構図を提示しているわけでは
ない。「中心」に染まりきることも、「周縁」に染まりきることも、どちらも、見方によっては
絶望でしかない。そのために、境域的な存在としての「僕」と小林緑は、葛藤し、悩まされる
のだ。
“涙”や性の解放(=“濡れる”
・“口づけ”)が、直子やレイコさんの内面の、肉体による直
接的な具象である一方で、背景描写の“雨”も、女性的世界であることをそれとなく暗示する
陰影として機能している。
次の引用は、阿美寮での夜の、三人の団欒の様子である。
雨は降りつづいた。ときどき雷まで鳴った。葡萄を食べ終るとレイコさんは例によって煙
草に火をつけ、ベッドの下からギターを出して弾いた。「デサフィナード」と「イパネマの
娘」を弾き、それからバカラックの曲やレノン=マッカートニーの曲を弾いた。僕とレイコ
さんは二人でまたワインを飲み、ワインがなくなると水筒に残っていたブランディーをわけ
あって飲んだ。そしてとても親密な気分でいろいろな話をした。このままずっと雨が降りつ
づければいいのにと僕も思った157。
156
アメリカ精神医学会の理事会が同性愛自体を精神障害として扱わないと決議したのは、1973 年に入っ
てからのことである。
157 (下)p.35.
87
この引用部の直前で、レイコさんは「雨よ降れ158」と発している。
「僕」も「このままずっと
雨が降りつづければいいのに」と内観しているように、往々にして「中心」世界においては嫌
悪の対象とされる雨が、むしろ彼女たちによって歓迎されていることに注目したい。さらに、
“涙”“雨”“濡”に通底する液体のイメージから派生して、ここで描写されている“ワイン”
や“ブランディー”を、それらの換喩として捉えられることも付言しておく。
こうした「周縁」とは、阿美寮だけを意味するのではない。例えば、小林緑が脳腫瘍の父が
死んだあと、恋人と数日間、奈良県に旅行していたと「僕」に語る場面がある。彼女は父の看
病と周囲への対応に奔走する日々で堪っていた鬱憤をはらすために、旅行先で「やりまくろう159」
と思っていたと語る。しかし、ホテルに着いて腰を落ち着けた途端、予定よりも一週間早い生
理がはじまったという。
笑いごとじゃないわよ、あなた。予定より一週間も早いのよ。泣けちゃうわよ、まったく。
たぶんいろいろと緊張してたんで、それで狂っちゃったのね160。
「周縁」としての奈良県が、
「中心」における男性の理論から、彼女を女性として解放したと
解釈することは、強引だろうか。また、直子が自殺した後、「僕」はひとつきほど東京を離れ、
全国各地を転々と旅する。彼は、
「ウィスキーを何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、
髪を砂だらけにしながら初秋の海岸をリュックを背負って西へ西へと 161」歩く。そして、廃船
の陰で寝袋にくるまって涙を流し、飲み過ぎた酒を嘔吐する。これらの場面から、“生理”“ウ
ィスキー”
“水”
“海”“涙”
“嘔吐”などの表象が、
「周縁」と重ねて描写されていることを読み
取ることができる。
以上で分析した「周縁(=女性の世界)
」の図式が、あくまで「中心」の外部であったのに対
し、一方で「周縁」は、
「中心」の内部においても、特定の時空に囲い込まれるかたちで限定的
に共存している。
前述で少し触れたが、性交や酒類は、場所としては家内やラブホテル、バーなどに、時間と
、、、
しては、夜間や休日に囲い込まれるかたちで、
「中心」の内部で一応は解放されているといえる。
ここで、「中心」が昼(=光)の世界である一方で、「周縁」が、夜(=闇)と重ねあわせられ
ていることも同時に指摘しておくことにする。
例えば、作中では、
「中心」と「周縁」の中間的存在である「僕」と小林緑が、昼下がりにジ
158
159
160
(下)p.35.
(下)p.153.
(下)p.153.
161
88
ャズ喫茶で飲酒する場面が描かれているが、
「店の中には他に五、六人の客がいたが酒を飲んで
いるのは我々だけ162」である。日中に飲酒する彼らの行為が、非「中心」的であることを端的
に示した描写であろう。
また、東京で「僕」は、日曜だけは学校やバイトなどの所用を離れ、
「自由」な時間に身をま
かせる。
僕は通勤電車みたいに混み合った紀伊國屋書店でフォークナーの「八月の光」を買い、なる
べく音の大きそうなジャズ喫茶に入ってまずいコーヒーを飲み、買ったばかりの本を読んだ。
五時半になると僕は本を閉じて外に出て簡単な夕食を食べた。そしてこの先こんな日曜日を
いったい何十回、何百回くりかえすことになるのだろうとふと思った。「静かで平和で孤独
な日曜日」と僕は口に出して言ってみた。日曜日には僕はねじを巻かないのだ163。
休日の「自由」が、まずいコーヒーを飲んだり、通勤電車みたいに混み合った本屋で買った
本を読んだりという、コトバとの戯れ以上の自由を保証していないことに注目したい。近代以
降の社会において、象徴秩序の消失とともに、カーニヴァルやクラ交換における儀式などの聖
、、
なる領域が排されたことは、第一章で論じたとおりである。
「僕」にとっての日曜日とは、日々
、、、、、、、、、、、、、、、
、、、
の所用からの解放という程度には、
「周縁」的な時間である。それを聖の空間であると、良い意
、、
味で錯視し、俗の空間のルーティーンへの駆動力として転換できる人間は、
「中心」世界で迷う
ことなく生きていけるはずである。そのような人間は、「僕」のように、「この先こんな日曜日
をいったい何十回、何百回くりかえすことになるのだろう」などとは考えない。彼らの「自由」
が、あくまで括弧付きの「自由」でしかないことは、前節で論じたとおりである。
性交や飲酒を含む「自由」が、特定の時空に囲い込まれる一方で、
“雨”だけは、そうした融
通が利かない。次の引用は、二ヶ月間も口をきいていなかった「僕」と小林緑が、久々に都内
でデートする場面である。季節は梅雨で、
「梅雨どき特有の、風を伴わないまっすぐな雨164」が、
「何もかもをまんべんなく濡らして 165」いる。彼女は、直子の事情を聞き、それを踏まえた上
で、
「僕」への愛を打ち明ける。ふたりは、デパートの屋上に、傘をさして佇んでいる。
僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。
「そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり抱いてよ」と緑は言った。
「傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ」
162
163
164
165
(下)p.52.
(下)p.107.
(下)p.225.
(下)p.225.
89
「いいわよ、そんなの、どうでも。今は何も考えずに抱きしめてほしいのよ。私二ヵ月間こ
れ我慢してたのよ」
僕は傘を足もとに置き、雨の中でしっかりと緑を抱きしめた。高速道路を行く車の鈍いタ
イヤ音だけがまるでもやのように我々のまわりをとり囲んでいた。雨は音もなく執拗に降り
つづき、それは僕らの髪をぐっしょりと濡らし、涙のように頬をつたって落ち、彼女のジー
ンズの上着と僕の黄色いナイロンのウィンド・ブレーカーを暗い色に染めた166。
男性の理論を持ってしても操作しようのない、
“雨”という自然現象(カオス)が、彼らの限
定された「自由」から、括弧を取り外す役目を担っていることをここでは強調したい。彼らは、
雨ゆえに誰もいないデパートの屋上で、口づけをし、抱き合う。そこに描かれているのは、誰
にも抑圧されることのない「周縁(=女性)」世界の横溢である。彼らの性愛に、雨が、「髪を
ぐっしょりと濡らし、涙のように頬をつたって落ち」という官能的な情景を付与する。「中心」
の内部にありながら、
「中心」という網の目をかいくぐり、手つかずの状態で残された最後の「周
縁」
。それが、
“雨”に象徴されていることを、この場面にみいだすことが可能だろう。
以上では、「周縁」が、女性の肉体の提喩としての“涙”
“雨”“濡”などの言葉で表象されて
いていることを論じてきた。また、それらの多くは、
「中心」の内部で、限定された領域に囲い
込まれていることを見てきた。“涙”や“雨”が、感情の奔流や陰鬱をときに表象することは、
昨今ではむしろコードとして固まってきている。しかし、
“酒”や“海”
、
“生理”までもが、
「周
縁」の表象としての共示義を有することの解釈は、本論が実践してきた異化行動に因る。
また、
「周縁」を女性の肉体と重ね合わすことで解釈の幅が広がったが、これは、前節から引
き続く“テクスト”の生成過程であることを最後に強調しておくことにする。
以上で論じてきた「中心」「周縁」が、それぞれ、秩序とセミオティクの寓喩であることは明
らかであり、同時にここまでの分析では、「中心」を批判的に論じることで、「周縁」に重きを
置いてきた感がある。本論の主題が秩序に等閑視されたセミオティクを汲み取る位相を探るも
のである以上、こうした偏重はやむを得ないが、一方で、上述したように、
「周縁」も極限まで
突き進めば、そこにあるのは絶望でしかない。次項では、
「中心」と「周縁」の両局の極限的人
物として、前者を永沢さん、後者を直子・キズキに見立て、それぞれの人間像を論じていくこ
とにする。
*
166
(下)p.234.
90
第三項
「中心」の極と「周縁」の極
最初に、
「中心」の極北としての永沢さんを検討していきたい。
上述したように、永沢さんとは、
「僕」と同寮のふたつ上の先輩であり、東大生の風采の良い
男である。名古屋で大病院を経営する父親を持ち、申し分のない富と名声を有する家庭に育っ
たが、彼の女遊びに業を煮やした父親が、学生寮に彼を入れた。しかし永沢さんは、そんなこ
とはものともしないかのように、夜な夜な女遊びに明け暮れる。
そんな永沢さんは、
「
『グレート・ギャツビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな167」
というひとことで、「僕」と関係を持つようになった。次の引用は、「僕」の永沢さんに対する
印象の描写である。
永沢という人間の中にはごく自然に人をひきつけ従わせる何かが生まれつき備わってい
るようだった。人々の上に立って素早く状況を判断し、人々に手際よく的確な指示を与え、
人々を素直に従わせるという能力である。彼の頭上にはそういう力が備わっていることを示
すオーラが天使の輪のようにぽっかりと浮かんでいて、誰もが一目見ただけで「この男は特
別な存在なんだ」と思っておそれいってしまうわけである168。
そんな天賦の才をもつ永沢さんの人となりを端的にあらわす描写がある。次の引用は、「僕」
と彼の会話の一部である。外務官僚を目指す彼に、
「僕」は、なぜ外務省を目指すのかと質問す
る。
「いろいろと理由はあるさ」と永沢さんは言った。「外地勤務が好きだとか、いろいろな。
でもいちばんの理由は自分の能力をためしてみたいってことだよな。どうせためすんならい
ちばんでかい入れものの中でためしてみたいのさ。つまりは国家だよ。このばかでかい官僚
機構の中でどこまで自分が上にのぼれるのか、どこまで自分の力を持てるかそういうのを試
してみたいんだよ。わかるか?」
「なんだかゲームみたいに聞こえますね」
「そうだよ。ゲームみたいなもんさ。俺には権力欲とか金銭欲とかいうものは殆どない。本
当だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そういうものはびっくりするくらいない
んだ。いわば無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いタフな世界で
自分の力を試してみたいんだ」
167
168
(上)p.66.
(上)p.68.
91
「そして理想というようなものも持ちあわせてないんでしょうね?」
「もちろんない」彼は言った。「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想では
なく行動規範だ169」
永沢さんは、絶対に他者や周囲に流布する謂いを信じたりはしない。集団討論や面接などの
外務省の二次試験を、
「女の子口説くのと変わりゃしない170」と述べ、軽々と突破するような人
物である。
「中心」世界の全てが表層的な戯れであることを受け入れた上で、その表層上でどこ
までも上り詰めることだけを考える。
上述したウンドー家や寮内の学生とは、コトバと戯れながらも、自身がコトバと戯れている
事実にすら気付かない存在であった。あるいは、気付いても受け入れられずに、それを隠蔽し
てなんとか「中心」に生きることに意味を見出そうとする人々だった。そうしたイタイタしい
虚栄が彼らの生き方であった。また次節で詳述するが、「僕」や小林緑は、表層の戯れに過ぎな
い人生に疑問を抱きつつも、「中心」から脱却できずにいる撞着した存在である。
しかし、永沢さんという人物は、女の子を口説くことも、外務省の試験に合格することも、
さらには、外務省に入って上りつめていくことすらも、すべて等価で不毛なことだと受け入れ
た上で、その上で己の「行動規範」を打ち立てる、究極的に開き直った人間である。したがっ
て、彼の「権力欲とか金銭欲とかいうものは殆どない」という言葉に、嘘はないだろう。永沢
さんは、己という存在以外に、何ひとつとして信じていないのである。だから、隠蔽も欺瞞も、
葛藤も撞着もあり得ない。自身で決めた「行動規範」だけに従い、そのとおりに行動する、迷
いを一切持たない人物である。
そんな彼が「僕」に近づいた理由を、「僕」は次のように推察している。
永沢さんが僕を好んだのは、僕が彼に対してちっとも敬服しなかったせいなのだ。僕は彼の
人間性の非常に奇妙な部分、入りくんだ部分に興味を持ちはしたが、成績の良さだとかオー
ラだとか男っぷりだとかには一片の関心も持たなかった。彼としてはそういうのがけっこう
珍しかったのだろうと思う171。
「僕」とは、「中心(=男性)」の理論そのものに対して懐疑的な人物として作中で描かれて
いる。したがって、大学の成績がどれほど良いかとか、女性を何人落とすことができるかとい
った、「中心」の尺度で計られる彼の能力に、「僕」はそもそもの関心がない。永沢さんも「中
169
170
171
(上)p.116.
(上)p.115.
(上)p.68.
92
心」の尺度に絶対性などないということを達観しているのだが、彼の場合には、他により良い
尺度が見つからないために、その理論の内で、実人生を懸けて成り上がることに開き直るので
ある。しかし、
「中心」に安住する多くの者は、そうした「中心」の尺度の絶対性を一度たりと
も疑ったことのない人間であり、だからこそ彼を一目置いて敬遠する。そうした周囲の人物に
比べて、
「僕」の方が永沢さんのことをより理解していると彼が考えるのは、いわば、必然的な
帰結である。
また、永沢さんには、3 年間付き合っている、ハツミさんという恋人がいる。永沢さんは彼女
に、自身が絶えず女遊びに明け暮れていることや、自身に全く結婚願望がないことなどを、悪
びれる様子もなく打ち明けている。それでは、外務省に勤めて海外勤務になったらハツミさん
はどうするのかという「僕」の質問に対して、「それはハツミの問題であって、俺の問題ではな
い172」と不問に付す。
次の引用は、
「僕」と永沢さんとハツミさんの三人で、永沢さんの内定祝いの食事に出掛けた
場面である。ハツミさんは、彼の女遊びに対して、自身が少なからず傷ついていることを自白
する。
「私は傷ついてる」とハツミさんは言った。
「どうして私だけじゃ足りないの?」
永沢さんはしばらく黙ってウィスキーのグラスを振っていた。「足りないわけじゃない。
それはまったく別のフェイズの話なんだ。俺の中には何かしらそういうものを求める渇きの
ようなものがあるんだよ。そしてそれがもし君を傷つけたとしたら申しわけないと思う。決
して君一人で足りないとかそういうんじゃないんだよ。でも俺はその渇きのもとでしか生き
ていけない男だし、それが俺なんだ。仕方ないじゃないか173」
ハツミさんの胸中の吐露に対して、永沢さんには最初から答えがあった。女性を無分別に求
める渇きが自分にはあると自覚している一方で、ハツミさんを傷つけることへの申しわけなさ
、、、、、
も述べている。前者は、通常ならば欲望(セミオティク)の領域であり、後者は自身の欲望の
整序という意味で、サンボリクの領域である。本来的な「人間らしさ」が両者の混交にあるこ
とは、精神分析の学説を借り、第一章から繰り返し論じてきたとおりである。したがって多く
の人間は、こうした二律背反の状況に苛まれたとき、その決定不能性に少なからず迷うはずだ
った。しかし、永沢さんは、全てを自身の「行動規範」に従わせることを始めから揺るぎなく
決意しているため、内面にブレがない。その「行動規範」とは、
「自分がやりたいことをやるの
172
173
(下)p.112.
(下)p.124-125.
93
ではなく、やるべきことをやる174」ことだと、本人の口からはっきりと断言されている。
彼は、自分の「やるべきこと」が、ハツミさんの願望を汲み取ることではなく、己の渇きを
癒すことだと始めから確信していた。社会的な意味におけるセミオティクを、際限なく解放す
ることを選び、同様に社会的な意味におけるサンボリクの領域を、完全に圧殺することを選ん
だのだ。彼にとっては、もはやセミオティクであるはずの領域はセミオティクではない。彼は
特に女性と寝ることに特別な喜びを感じているわけではない。彼にとってセミオティクとサン
ボリクは、排斥しあうものではなく、全て、
「行動規範」に属する、従順な領域である。その意
味で、両者とも、彼自身のサンボリクに統御される領域といったほうが正確だろう。おそらく
彼にとってこの選択はどちらでもよかった。ただ「行動規範」という絶対的な尺度が、前者に
旗を揚げたから、彼はそれをとった。ただそれだけである。そして、そのせいで誰かを傷つけ
ることになったとしても、それはあくまで「仕方ない」ことに過ぎない。なぜなら、彼は「や
るべきこと」を実行するだけだからである。
すべてを秩序に隷属させる、超男性的な「強さ」を持った彼の人間像は、本論の文脈に沿っ
て、「中心」的人間の極限に位置づけることが可能だろう。《文化的営為のもつパラドクス》と
は、何らかのイデオロギーや貨幣その他に服従させられる、
「中心」における一般的人間像であ
った。しかし、イデオロギーや貨幣などのように、固執する対象が自己の外部にあるとき、対
象(秩序)と自己(セミオティク)は初めから齟齬をきたしていて、それゆえに、彼らは自己
の隠蔽をそもそもにおいてやり過ごさざるを得なかった。さきに挙げた、ウンドーを指導する
立場の学生が、単位欲しさに簡単にストを投げ出した事例は、隠蔽を隠蔽としてやり過ごす彼
、、、、、、
らの鈍感さ、良い意味での不真面目さをあらわしている。
しかし、永沢さんのように秩序が自己の内面にあり、しかもその内面を達観しているような
人間が、ささやかながらでも己の「行動規範」に自身が疑念を抱いた時分には、おそらくは永
遠に立ち直れなくなる。究極のナルシシズムとでもいえる彼の性分の欠点は、ここにある。彼
は、現時点においては、自己の渇きを癒すことが「やるべきこと」であると確信している。し
かしそれが揺らいだとき、彼に待っているのは絶望以外の何ものでもないのではないか。
永沢さんが一年の内勤を経てドイツへと旅立ったその二年後、ハツミさんは他の男と結婚す
る。そして事実、その二年後、彼女は剃刀で手首を切って自殺するのだ。
ハツミさんの死を「僕」に知らせる手紙に、永沢さんは、次のように綴っている。
「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、それはたまらなく哀しく辛いことだ。この
174
(上)p.118.
94
僕にとってさえも175」
この字面の真意は定かではないが、仮にハツミさんの死が永沢さんの「行動規範」への信頼
を失墜させたのであれば、彼はこれから何を信じて生きていけばいいというのだろう。信念に
忠実なその性分は、適当に欺瞞をやり過ごして生きることさえ、おそらくはままならない。徹
底的に迷わないという超男性的な「強さ」は、「中心(=男性)」の極限として定義できる。し
かしその信念が崩れたとき、彼に残されているのは、後戻りできない絶望だけである。
もちろん、それらを超越して死ぬまで「行動規範」を貫き続ける究極的な「強さ」を持って
いるのなら、彼にとっての問題は特にない。しかしその圧倒的な「強さ」とは、愛してくれる
存在を死に追いやってまで貫く価値のあるものだったと、果たして誰に断定できるだろうか。
作中において、永沢さんのその後は明らかにされないが、紛れもなくハツミさんは絶命した。
他のどんなことに無責任でいられても、死だけは無償であることを認めるなら、彼の信念は少
なくとも、正しくはなかったと結論付けざるを得ない。
以上では、男性的「強さ」の極限として、永沢さんという人間像を論じてきた。一方で、
「周
縁」の極限、すなわち、女性的「弱さ」の極限としては、直子・キズキを位置づけることがで
きる。以下では、主に直子に焦点を当てつつ、「周縁」の極限状態を探っていくことにする。
*
上記で幾度か触れたが、直子とは、
「僕」の高校時代の自殺した友人・キズキの元恋人である。
「僕」と直子は大学進学とともに上京し、久しぶりの再会を果たすも、彼女はキズキの死から
立ち直れずにいた。
「僕」は以来、直子とたびたびデートを重ねるようになるが、彼女の言葉に、
非正常さ(=非「中心」性)を感じつつあった。
以下の引用は、
「僕」と直子が週末のデートで、東京の町を散歩する場面である。
時々直子はとくにこれといった理由もなく、何かを探し求めるように僕の目をじっとのぞき
こんだが、そのたびに僕は淋しいようなやりきれないような不思議な気持になった。
多分彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子は
それをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握
することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっちゅう髪
175
(下)p.132.
95
どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだ
りしているのだ176。
ここで提示されている直子の人間像は、永沢さんのそれとは真逆である。彼が「自分の中の
歪みを全部系統だてて理論化177」するような人間である一方で、直子とは、言葉によって自己
を解釈することの困難さから、言葉を発せられずにいる人間である。言葉とは、第二章で論じ
たように、口にしたその瞬間からコトバへと転化する宿命を回避できないという点で、撞着そ
のものであった。しかし、我々は言葉以上に守備範囲の広い表象を持たないがゆえに、その不
可能性を受け入れつつも、何とか言表しようと終りなき異化行動に勤しむ必要があった。した
がって、言表による異化行動とは、セミオティクとサンボリクの間を永遠に揺蕩うことでもあ
る。本論が肯定的に捉えてきたのは、そうした能動性であった。
言葉を完全に断念してしまうということは、いわばサンボリク(=秩序・
「中心」
・男性・
《父》)
の断念であって、錯乱の世界(=セミオティク・「周縁」・女性・《母》)に永住することを意味
する。直子は、初めから完全に言葉(=「中心」)を放棄するわけではなく、「中心」的存在た
ろうと努力する。
次の引用は、直子が「周縁」の世界から抜け出せずにいることの理由が、彼女の口から「僕」
に説明される場面である。
「たぶん私たち(直子とキズキ)、世の中に借りをかえさなくちゃならなかったからよ」と
直子は顔を上げて言った。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価
を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっちゃ
ったし、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなも
のだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱きあって眠ったの。で
もそんなこといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に
出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。あ
なたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味を持っていたのよ。
(略)178」
「中心」的世界が求めるものは、ときには腹が減っても我慢する「強さ」であり、淋しくて
どうしようもないときにも一人で耐えきるような「強さ」である。直子とキズキは、精神分析
の学説を第一章で論じてきた、
《第二ステージの人間らしさ》としての《父》を不幸にも必要と
176
177
178
(上)p.62.
(上)p.227.
(上)p.264-265.()内は筆者。
96
することなく、常に「にじん」だ状態で「周縁」に安住し、十代後半までのときを過ごしてき
た。しかし、いつかは社会(=「中心」
)に出て生きなければならない。キズキは、それを断念
して死を選んだ。そのキズキの不在は、直子に「輪郭」を要請する。また、仮にキズキが生き
ていたとしても、直子がいうように、彼らは「たぶん一緒にいて、愛しあっていて、そして少
しずつ不幸になっていった179」ことだろう。彼らにとって大人になるとは、
「周縁」にいつまで
も安住することはできない、その事実を受け入れることである。
《父》と無縁で生きてきた彼ら
だが、いつまでもそうしてはいられないことに、いずれは苦しめられるはずだった。
言葉に苦しめられつつも、それでも直子は「中心」を受け入れようと、必死に足掻く。上で
直子も述べているように、
「周縁」と「中心」の橋渡し役が「僕」という存在だった。
作中では、「僕」と文通する直子が、「ずいぶん長い時間 180」をかけ、「十回も書きなおし181」
ながらも返事を書こうと努める姿が描かれている。また、その手紙の中で、彼女が男性の理論
(=「中心」
)を何とか自分に打ち立てようともがく様子が記されている箇所がある。次の引用
は、直子が「僕」に当てた、二回目の返信である。
私はあなたに対して、もっときちんとした人間として公正に振舞うべきではなかったのかと
思うのです。
でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。どうしてかというと私
くらいの年の女の子は『公正』なんていう言葉はまず使わないからです。普通の若い女の子
にとっては、物事が公正かどうかなんていうのは根本的にどうでもいいことだからです。ご
く普通の女の子は何かが公正かどうかよりは何が美しいかとかどうすれば自分が幸せにな
れるかとか、そういうことを中心に物を考えるものです。『公正』なんていうのはどう考え
ても男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの『公正』という言葉がとてもぴったりと
しているように感じられるのです182。
男性の理論である『公正』という尺度で物事を整序する必要性を、直子は感じている。
「ごく
普通の女の子」が公正という言葉を必要としないのは、彼女たちは「中心」の内部で適度に「周
縁」たることができるからである。彼女たちは、前項で述べたような、男性の理論によって限
定され、囲い込まれた「周縁」のみに、甘んじることができる。彼女たちは、決して「中心」
の外部へ出ていこうなどとはしない。
しかし、「中心」の外部としての「周縁」にいる直子は、「ごく普通の女の子」が意識もしな
179
180
181
182
(上)p.264.
(上)p.92.
(上)p.92.
(上)p.177.
97
いような『公正』という男性の理論を、内面化する必要があった。直子は、言葉を使おうとも
がき、男性の理論を内在化させようと苦悶する。そうしなければ、生きていくことができない。
人間が社会(=「中心」)を完全に断念したとき、彼らは、キズキと同じ道を歩む他なくなる。
往々にして、錯乱・セミオティクの領域がタナトスと矛盾しないことは、第一章で述べたとお
りである。
「中心」の放棄とは、すなわち「周縁」の極限とは、死でしかない。
そして事実、直子は、生きることを断念して、逆のベクトルに振り切れる。彼女が「周縁」
から抜け出せずにいるも、何とか「中心」的たろうと足掻いていた時分には、まだ希望があっ
た。しかし、徐々にその兆候は薄らいでいく。
「僕」の二回目の阿美寮への訪問の後、
「僕」は、直子の代わりに、レイコさんから手紙を受
け取る。その手紙には次のような内容が記されていた。
それから幻聴が少しずつ始まりました。彼女が手紙を書こうとすると、いろんな人が話しか
けてきて手紙を書くのを邪魔するのです。彼女が言葉を選ぼうとすると邪魔するわけです。
(中略)あなたが帰ったあとで、その症状はかなり深刻なものになってしまいました。彼女
は今、日常会話するのにもかなりの困難を覚えています。言葉が選べないのです。それで直
子は今ひどく混乱しています。混乱して、怯えています。幻聴もだんだんひどくなっていま
す183。
永沢さんにみたような一切迷うことなく全てを決断する人間像を、超男性的な「中心」の極
として論じてきた。一方で、一切決断ができずに、言葉を発することができない状況を、逆に、
超女性的な「周縁」の極として位置づけることにしたい。言葉とは、決断である。捉えようの
ない流動的な事象を、ひとつの表現に収斂させることが言表である。直子には、それが、一切
できなくなっている。錯乱したセミオティクの全面化が、幻聴としてあらわれ、彼女の決断を
妨げている。
この手紙が「僕」に届いたおよそ半年後の夜中、直子は、阿美寮の森の中で首を吊って自殺
する。その日の晩、直子がレイコさんに語ったことは、直子が「僕」と東京で会った最後の日、
つまり、直子の二十歳の誕生日の出来事だった。彼らはその日、直子の部屋で抱き合い、性交
に及ぶ。そのとき「僕」は、直子がそれまで処女だったことを知った。直子はキズキと長い年
月を恋人関係で過ごしてきたが、彼女はそれまでもそれ以降も、一度として「濡れる」ことが
なく、したがってその日の「僕」が最初で最後の彼女の性交相手となった。
直子はレイコさんに、性交の様子を詳細に語る。以下の引用は、レイコさんが、最後の晩の
183
(下)p.197-198.
98
直子とのやりとりを、
「僕」に語って聞かせる場面である。
「(略)『(略)頭の中がとろけちゃいそうなくらい。このまま、この人に抱かれたまま、一
生これやってたいと思ったくらいよ。本当にそう思ったのよ』
『そんなに良かったんならワタナベ君と一緒になって毎日やってれば良かったんじゃない
の?』って私言ったの。
『でも駄目なのよ、レイコさん』って直子は言ったわ。『私にはそれがわかるの。それはや
って来て、もうさっていってしまったものなの。それは二度と戻ってこないのよ。何かの加
減で一生に一度だけ起ったことなの。そのあとも前も、私何も感じないのよ。やりたいと思
ったこともないし、濡れたこともないのよ184』(略)」
「中心」とは、空虚なコトバに反復的に戯れる場であった。永沢さんにみたように、そこで
は、性交さえもが単なるゲームの一要素として、その内実が剥奪されている。事実彼は、自身
が寝た相手の顔すら覚えてはいない。これに対して、直子にとっての性交とは、人生でたった
一度きりの、かけがえのない体験であった。彼女は死を覚悟した最後の夜に、そのかけがえの
ない体験がいかに素晴らしかったかを滔々と語って聞かせる。そして、
「汗やら涙やらでぐしょ
ぐしょに濡れ185」ながら、レイコさんにやさしく抱かれるのだ。男性的「中心」の対局として
の、女性的「周縁」に全身を包まれながら、彼女は最後の夜を過ごした。
直子とは、とことん「中心」の外部に存在する人間である。一切の決断をできないことが、
彼女の精神が「周縁」の極にあることを示しているとすれば、コトバとしての性交に戯れるこ
とを拒む彼女の女性器は、肉体までもが「周縁」の極にあることを示唆している。
以上で、永沢さんと直子という二人の人間を分析することによって、「中心」の極・「周縁」
の極が、それぞれどのような末路を歩むのかを検討してきた。超男性的「強さ」に身を預けた
永沢さんが、愛される人を死に至らしめた一方で、
「中心」を断念し、超女性的「弱さ」に安ら
いだ直子は、自身を現世から放逐した。
どちらの極も、絶望でしかない。
最後に次項で、
「中心」と「周縁」の両義的存在としての「僕」と小林緑を検討することにす
る。
*
184
185
(下)p.273.
(下)p.274
99
第四項
境域としての「僕」と小林緑
最初に、
「僕」という語り手の人間像を検討していく。
「僕」とは、キズキという高校時代の唯一の友人を喪失した人間として設定されている。前
項で、キズキや直子の死を「中心」への断念として規定したが、
「僕」は、彼らの死の尾を引く
人間として設定されている。進学時に上京し、
「中心」への馴染み難さを抱えながら、それでも
東京で生きなければならない存在である。
次の引用は、大学の昼休みに、スケートボードをしたり、ベースの音階練習をしたりしてい
るあたりの学生たちを眺めながら、「僕」が、自身の孤独を内観する場面である。
とにかくその九月の終りの気持の良い昼下り、人々はみんな幸せそうに見えたし、そのおか
げで僕はいつになく淋しい思いをした。僕ひとりだけがその風景に馴染んでいないように思
えたからだ。
でも考えてみればこの何年かのあいだいったいどんな風景に馴染んできたというのだ?
と僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を撞いた港の近くのビ
リヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまい、それ以来僕と世界
とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷やかな空気が入りこむことになってしまった
のだ。(中略)僕にわかるのはキズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の
一部が完全に永遠に損われてしまったらしいということだけだった186。
「周縁」を引き摺る「僕」は、大学の風景(=「中心」
)に馴染めない。こうした彼の「中心」
への違和感が、キズキの死に端を発していることは明らかだ。キズキの生前に彼と最後に会話
したという理由で、彼の死後、
「僕」は警官の取り調べを受ける。「僕」は警官に対して、
「高校
の授業を抜けて玉撞きに行くような人間なら自殺したってそれほどの不思議はないと彼らは思
っているようだった187」と胸中を語っている。ここにみることができるのは、
「周縁」としての
キズキと、
「中心」としての警官の対立構造である。
「中心」への懐疑あるいは嫌悪は、上京後の彼の語りに、多々、散見される。例えば、上述
したように、「僕」は周囲に一目置かれる永沢さんの特性、「成績の良さだとかオーラだとか男
っぷりだとかには一片の関心も」持てずにいる。彼が東大生であることや、外務省に内定した
ことなどにたいして、特段の敬意を抱く様子がない。そもそも「僕」は、現世の職業にさえ興
味を持てずにいるのだ。
186
187
(上)p.166-167.
(上)p.52.
100
寮の連中はいつも一人で本を読んでいるので僕が作家になりたがっているんだと思いこん
でいるようだったが、僕はべつに作家になりたいとは思わなかった。何にもなりたいとは思
わなかった188。
こうした、「中心」世界に距離を感じている「僕」だが、それはときに、ささやかな反逆とし
て実行される。空虚なイデオロギーを掲げるウンドー家たちが、単位が危うくなると尻尾を巻
いて授業に出てくるその様は上で挙げたが、虚偽的な彼らへの抵抗として、
「僕はしばらくのあ
いだ講義には出ても出席をとるときには返事をしない 189」。また、「夜中に煙草が切れたときの
辛さ190」のようなものに、
「何かにそんな風に縛られるのって好きじゃない191」として、禁煙を
決行する。煙草とは、コトバの典型例である。最初のひとくちは多くの人間にとって、衝撃的
で、ある種の不快を伴いつつ、咳き込むなどの、体に拒否反応が伴う。それが、本数を重ねる
うちに中毒性を発揮し、気が付くと喫煙者は、それなしでは落ちついた生活ができないような
状態に陥っている。その段階になると、その日に何本の煙草を吸ったのか、さっき吸った一本
はどのような味だったのかなどは完全に忘却の彼方へと葬り去られ、無意識にポケットをまさ
ぐって煙草に火をつけているような、煙草というコトバに服従的に戯れる人間が完成している。
煙草を吸わない「僕」の行動(非行動)とは、コトバに戯れることへの反逆・拒絶として解
釈できるのではないだろうか。
「中心」に対して懐疑的・反抗的な「僕」であるが、しかし同時に、完全には「周縁」に染
まることができない存在でもある。以下の引用は、
「僕」が阿美寮の食堂で晩ご飯を食べながら、
辺りの静けさの中で、都会の無意味なざわめきをなつかしむ場面である。
「周縁」世界の静けさ
に疑問を抱く「僕」に、直子は次のように説明する。
「それに声を大きくする必要がないのよ。相手を説得する必要もないし、誰かの注目をひく
必要もないし」
「そうだろうね」と僕は言った。でもそんな中で静かに食事をしていると不思議に人々のざ
わめきが恋しくなった。人々の笑い声や無意味な叫び声や大仰な表現がなつかしくなった。
僕はそんなざわめきにそれまでけっこううんざりさせられてきたものだが、それでもこの奇
妙な静けさの中で魚を食べていると、どうも気持が落ちつかなかった192。
188
189
190
191
192
(上)p.63.
(上)p.102.
(上)p.147.
(上)p.147.
(上)p.219-220.
101
「中心」においては、空虚な大言壮語をふりまくウンドー家たちをあれほど嫌悪していた「僕」
だったが、
「周縁」という虚栄心も自己顕示欲もない言葉のただ中にいて、前者に恋しさを覚え
ている。また、直子とレイコさんの留守中の阿美寮で、「僕」がひとり、テーブルに向かってド
イツ語の文法表を暗記する場面がある。そこで「僕」は不意に、次のような感懐を抱く。
台所の日だまりの中で T シャツ一枚になってドイツ語の文法表を片端から暗記していると、
何だかふと不思議な気持になった。ドイツ語の不規則動詞とこの台所のテーブルはおよそ考
えられる限りの遠い距離によって隔てられているような気がしたからだ193。
ドイツ語の不規則動詞が「中心」に属するモノである一方で、阿美寮の台所のテーブルが「周
縁」に属するそれであることは明らかだ。両者の「およそ考えられる限り」の隔たりを内包す
る、
「僕」という人物の特殊性が、明確にあらわされた描写である。東京での生活に馴染めない
一方で、
「僕」とは、阿美寮に来てまでドイツ語の復讐をするような人間なのである。
こうした「中心」にも「周縁」にも煮え切らない「僕」の撞着は、彼の両局の往還(場所の
移動)という物語構造に、そのまま置換することもできる。キズキの死を抱える町・神戸(=
「周縁」
)で育った「僕」は、大学進学とともに上京し(=「中心」
)、在学中に、直子のいる阿
美寮(=「周縁」
)に二度訪れる。そして直子の死後、東京(=「中心」)を離れて放浪の旅(=
「周縁」
)へと繰り出し、また東京(=「中心」
)へと舞い戻る。
キズキが神戸(=「周縁」)で自殺し、直子が阿美寮(=「周縁」)の森の奥深くで生涯を終
えたのに対して、
「僕」は、結局最後には、また東京(=「中心」
)へと戻ってくる存在である。
「僕」という存在に反映されているのは、死を背負いながらも東京で生きていく、両局の境域
に他ならない。
次の引用は、直子の死後、放浪から戻り、旭川へ行くレイコさんを見送った「僕」が、小林
緑に電話をかける場面である。
「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるんだ?
、
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕
、、、、、、、、、
は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった194。
193
194
(上)p.278.
(下)p.293.
102
、、、、、、、、、、
「僕は今どこにいるのだ?」という科白に、彼の両義性・撞着をみることは容易い。両局の
どちらにも割り切って安住することのできない「僕」の人間像が、このひとことに、如実に集
約されている。このように、「僕」は、自身の存在する場所に疑問を呈すも、それと同時に、彼
がまぎれもなく東京にいるという事実については疑いようがない。人間が生を全うするにおい
て、社会という場(=「中心」
)から永遠に逃れられないことは先に述べたが、東京から離れら
れない「僕」が、
「周縁」を抱えながら社会を渡っていく、その処世術が垣間みられる描写を最
後にみていくことにする。
「僕」は、進学とともに上京すると、「あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、
あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くこと195」を心に誓う。キズキの死は、
「僕」
に、
「中心」的なものへの疑念をもたらした。しかし、それでも生きていかなければならないの
は東京という場に他ならない。彼は、
「自分の中の空洞を意識せずに済196」むように、運送屋の
アルバイトに精を出したり、上で〈突撃隊ジョーク〉をみたが、コミュニケーションを冗談で
やり過ごしたりすることで、自らの「周縁」的側面に蓋を被せ、社会的存在として全うたろう
と努める。
しかし、直子の容態の悪化が甚だしくなるにつれ、表層への戯れにあえて同化する素振りを
見せることすら、彼には、一時、困難になる。次の引用は、レイコさんからの直子の現状を知
らされる手紙が届いた直後の、
「僕」の内観である。
それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を送った。誰かが僕に
話しかけても僕にはうまく聴こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても、彼らはそれ
を聴きとれなかった。まるで自分の体のまわりにぴったりとした膜が張ってしまったような
感じだった。その膜のせいで、僕はうまく外界と接触することができないのだ。しかしそれ
と同時に彼らもまた僕の肌に触れることはできないのだ。僕自身は無力だが、こういう風に
している限り、彼らもまた僕に対しては無力なのだ197。
、、、
ここにみることができるのは、「周縁」世界に引きずり込まれそうになる、危うい「僕」であ
る。他人の言葉をうまく理解できず、自分の言葉を相手に伝えることのできない「僕」の状態
は、前項で検討した、直子の失語症的な「周縁」性と近似する。外界(=「中心」)に対して自
己を閉ざしてしまうことは、同時に、「周縁」世界に閉じこもることを意味する。膜が、「僕」
の全身を余すところなく被ってしまったなら、
「僕」の今後辿ることになる道は、キズキや直子
195
196
197
(上)p.53.
(上)p.89.
(下)p.201.
103
と同じでしかない。
それでも、「僕」は直子を守り、強く生きることを最終的には志向する。
おいキズキ、と僕は思った。(中略)俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女
が好きだし。彼女よりは俺の方が強いからだ。そして俺は今よりももっと強くなる。そして
成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。俺はこれまでできることな
ら十七や十八のままでいたいと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年
じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ198。
キズキは成人する前に、少年としてこの世を去った。一方で直子は、女性である。彼らの人
物設定は、非男性としての「周縁」である。しかし一方で、「僕」とは、作中で二十歳の誕生日
を迎える成人した男性なのだ。
「俺はもう十代の少年じゃない」
、
「俺は責任と言うものを感じる」
という、
「僕」のキズキへ向けた内心の決意表明は、彼が男性として生きなければならないこと、
つまり、
「中心」からの逃れ用のなさを、自身で噛み締める描写として解釈できる。
以上では、「周縁」を抱えながらも「中心」で生きざるを得ない、「僕」の人間像を分析して
きた。作中には、唯一の太文字で表記されている「僕」の内観描写に、
「死は生の対極としてで
はなく、その一部として存在している 199」という一文がある。彼の両義性は、阿美寮と東京を
往還するという、物語構造にもそのまま置換することができたが、この一文ほど、彼の人物像
を端的にあらわした箇所はない。「僕」にとっての直子やキズキの死(=「周縁」)は、自身の
生(=「中心」)に取り込まれ、「その一部として存在している」。生と死の両局のあいだに揺れ
動く、境域としての「僕」である。
ここで、最後にひとつだけ指摘して、「僕」という人間の分析を終えることにする。それは、
「僕」が一度たりとも生身の死そのものに直面したことがないという事情である。
作中では、キズキ、直子を初めとして、小林緑の両親、直子のお姉さん、ハツミさんなど、
様々な人物の死が描写されている。しかし、彼らの誰ひとりの死に対しても、
「僕」はその瞬間
に立ち会ってはいない。レイコさんは首を吊った直子の、その直子も、自室で首を吊った彼女
のお姉さんの、小林緑も、彼女の父親や母親の絶命を(少なくとも彼らの遺体を)その目に焼
き付けているのである。
しかし「僕」は、彼らが絶命した、その事実を人伝に聞くだけに過ぎない。
誰か(往々にして親密な関わりのある人間)の死という現象を直接的に体験することと、間
198
199
(下)p.204.
(上)p.54.
104
接的に知ることの間には、歴然の相違があるはずだ。「僕」が、「周縁」に飲み込まれずに「中
心」として生きていくことを可能にした物語の構造上の要因を、この事実からも、遡求できる
のではないだろうか。
*
続いて、
「僕」と同様に「中心」と「周縁」の境域的存在として規定できる、小林緑の人物像
について分析していくことにする。
小林緑は、都内で書店を経営する両親のもとに生まれた次女で、母親が脳腫瘍で亡くなって
以降、同じく脳腫瘍に苦しめられる父親の看病をしながら、店番を手伝いつつ、
「僕」と同じ大
学に通う学生である。彼女は、
「親の見栄200」で、中高一貫の、いわゆるお嬢様学校に 6 年間通
っていたが、その学校がどうしても好きになれずにいた。
彼女は、自分の一家が、その学校に通う友人たちと比べて、それほど裕福ではないことを悟
る。そして、まわりの友人たちと自身との距離を覚えつつ、彼女たちの言動に引け目を感じて
いた。次の引用は、小林緑と「僕」とが、公園のベンチに座って会話している場面である。
「ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?」
「わからないな」
「お金がないって言えることなのよ。たとえば私がクラスの友だちに何かしましょうよって
言うでしょ、すると相手はこう言うの、『私いまお金がないから駄目』って。逆の立場にな
、
ったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもし『いまお金ない』って言ったら、それは本
、、
当にお金がないっていうことなんだもの。惨めなだけよ。美人の女の子が『私今日はひどい
顔してるから外に出たくないなあ』っていうのと同じね。
(略)201」
、、
彼女の友だちの発する「お金がない」とは、断り文句としてのコトバである。しかし、本当
、
にお金のない小林緑にとっての「お金がない」は、内実を持った、字義どおりの言葉でしかな
い。上述で〈突撃隊ジョーク〉の例を挙げたが、それが冗談として反復されるのは、例えば「僕」
の「突撃隊はこれ見ながらマスターベーションするんだよ」という言葉が、その内実を宙づり
にするコトバであるがためだった。深層を置き去りにする表層への戯れとしてのコトバは、同
じコードを共有する人々の間で交わされる限り、誰も傷つけることがない。コトバを交わす人々
200
(上)p.126.
201
(上)p.131.
105
は、彼らが深層を隠蔽していることにすら気付くことなく、
“遊び”としての会話を楽しむ。そ
の鈍感さが、円滑な会話を保証するのだった。
しかし、小林緑のような、コードの外部にいる人間がその会話に巻き込まれると、嫌でも彼
女たちの無意識裏の虚偽性が目にとまる。それは、不快さをもって受け止められ、次第に、コ
ード(=「中心」のコトバ)に対する反感が彼女に芽生える。もちろん、彼女が同じような家
庭環境の友人に囲まれて育ったのであれば、社会に対する違和感(=気付き)が養われること
はなかっただろう。周囲に対する環境の特殊性が、小林緑に、
「中心」への懐疑を植え付けたと
解釈できる。
彼女のコードに対する違和感は、別の状況においてもみることができる。彼女の父親の看病
に付き合った「僕」が、病院の食堂で昼食をとる場面がある。そこで、
「僕」が食事を半分くら
い残しているのを見て、彼女は、次のように語る。
「親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にごはんを食べるでしょ、するとみんなやはり半分く
らい残すのよ、あなたと同じように。でね、私がペロッと食べちゃうと『ミドリちゃんは元
気でいいわねえ。あたしなんかもう胸いっぱいでごはん食べられないわよ』って言うの。で
もね、看病をしてるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て同情するだ
けじゃない。ウンコの世話したり痰をとったり体拭いてあげたりするのはこの私なのよ。
(略)
202」
無病息災を与件として生を貪る小林緑の親戚が、ごく稀に、
「解体されるのを待っているだけ
の古びた家屋203」のような、死を間近に控えた彼女の父親の姿を目にすると、往々にして食欲
が半減する。そんな彼らは、食欲旺盛な彼女の、死に対する鈍感さ、幼気さを読み取る。
しかし、彼女が食事を怠らないのは、
「ごはんをしっかり食べておかなきゃ看病なんてとても
できない204」からであり、死という「周縁」を日常的に傍らに携え、それに対して誰よりも肉
薄しているのは、紛れもなく彼女の方なのである。親戚たちにとって、死へと歩む小林緑の父
親に接することは、自らが無思考的に描いていた、それまでの「死」というコトバを異化する
契機であったはずである。異化の本質が、難渋な手続きと衝撃を伴うことは、前章で大江の説
を借りて論じたが、親戚たちは、死の受け入れ難さから、自分たちと違い、それに接してもご
はんをしっかり食べていられる彼女を、「中心」の理論で鈍感さとして片付ける。彼らの態度に
見ることができるのは、
「周縁」の拒否、「中心」に甘んじる人間の惰性に他ならない。
202
203
204
(下)p.82.
(下)p.72.
(下)p.82.
106
死を傍ら置く彼女が、東京という「中心」で生活を営みながらも、
「周縁」的存在であること
は明らかである。彼女にとっての「死」とは、親戚たちのような“普通”の人にとっての悲し
むべき対象とは違う。家族が「大病して苦しみ抜いて死ぬ 205」姿を幾度となく見てきた彼女に
とって、
「死ぬこと自体はちっとも怖くない206」。むしろ本当に恐怖を覚えるのは、
「ゆっくりと
ゆっくりと死の影が生命の領域を侵蝕して、気がついたらうす暗くて何も見えなくなっていて、
まわりの人も私のことを生者よりは死者に近いと考えているような207」、そのような死への過程
なのである。だから、彼女は父親の死後の諸事について「僕」に尋ねられると、
「お葬式なんて
楽なものよ208」と応える。葬式に参列した親戚は、涙どころか哀しげな様子も見せない彼女に
非難の眼差しを浴びせるも、彼女は決して屈しようとはしない。死を悲しむべき対象としてそ
れ以上に深入りしない親戚たちが、
「中心」というベールを硬くすることで「周縁」を頑に拒む
人間なのに対して、小林緑とは、「中心」という場にいながらも「周縁」を離れられない存在で
あり、「中心」に染まりきった彼らに疑念を抱く。
こうした小林緑の両義性は、
“男性”・
“女性”の識別で彼女を眺めてみると、もう少しよく見
えてくるように思う。
上述したように、「中心」における“女性”とは、男性の理論に追従するそれであった。ウン
ドー家たちの大仰なコトバに「わかんなくたってハイハイそうですね」と膳立てする女性たち
や、永沢さんに性交を持ちかけられる受け身に甘んじる女性たちについては、先に述べたとお
りである。女性とは、
「中心」の理論に対して受動に徹し、男性に追従するそれであり、そんな
彼女たちのイメージが往々にして「周縁」に重なることは、上記で何度も述べてきたとおりで
ある。
小林緑が、男性の性事情に興味を持ったことで、恋人に叱咤される場面は、先に説明した。
性的な行為に限らず、男性を先導し、むしろ追従させる、彼女の男性的積極性は、作中に多々
散見される。彼女は、「僕」をポルノ映画やジャズ喫茶に誘い、ときには、「僕」と次のような
やりとりを交わす。
全部で五杯ずつウォッカ・トニックを飲んでから我々は店を出た。僕が金を払おうとする
と緑は僕の手をぴしゃっと叩いて払いのけ、財布からしわひとつない一万円札を出して勘定
を払った。
「いいのよ、アルバイトのお金入ったし、それに私が誘ったんだもの」と緑は言った。
「もちろんあなたが筋金入りのファシストで女に酒なんかおごられたくないと思ってるん
205
206
207
208
(上)p.162.
(上)p.162.
(上)p.163.
(下)p.151.
107
なら話はべつだけど209」
この描写には、男性が女性に先んじる「中心」の構造に対する、彼女の反動が読み取れる。
デートで代金を支払うのは、“普通”、男性の方である。この例以外にも、彼女が女性的である
ことを脱しようとする描写は、例えば、
「女の子の吸う煙草じゃない210」マルボロを吸い始める、
彼女の所作にも見ることができる。
しかし一方で、彼女は、“女性らしい”側面も同時に有している。作中では、「僕」と小林緑
の久しぶりデートで、
「僕」が彼女の髪型の変化に全く気付かずに、そのことに腹を立てた彼女
が、
「僕」に嘘をついてデートを切り上げる場面が展開される。別れ際に彼女が「僕」に渡した
手紙には、次のような内容が記されていた。
ねえ、知ってますか?あなたは今日私にすごくひどいことしたのよ。あなたは私の髪型が
変っていたことにすら気がつかなかったでしょう?(中略)私だって女の子よ。いくら考え
事をしているからといっても、少しくらいきちんと私のことを見てくれたっていいでしょう。
たったひとこと『その髪、可愛いね』とでも言ってくれれば、そのあと何したってどれだけ
考えごとしたって、私あなたのこと許したのに211。
「私だって女の子よ」という科白から受ける彼女の人物像は、マルボロを吸う彼女(
“男性ら
しい”女性)とは真逆のそれである。男性的(=「中心」的)側面と女性的(=「周縁」的)
側面の両局を持ち合わせる小林緑は、
「僕」と同様、境域的存在として規定することが可能だろ
う。
突撃隊が行方をくらまし、レイコさんが旭川に向かい、直子とキズキ、ハツミさんが絶命し、
永沢さんが東京の内部でどこまでも成り上がろうとする中で(彼は最終的にドイツに向かうが、
ここでのドイツは「周縁」よりも超「中心」と捉えるのが妥当だろう)、「中心」に懐疑的であ
りながら、最後まで「中心」に残存するのは「僕」と小林緑のただふたりだけである。
そんな彼らが永遠に「中心」と「周縁」の葛藤から抜け出せないことを端的に表現した、小
林緑の科白がある。彼女の死んだ父親は生前、日本を脱してウルグァイに旅立つことを夢見て
いた。以下の引用は、そんな父親の夢に対する、彼女の自意識の露呈である。
「どこもかしこもロバのウンコよ。ここにいたって、向うに行ったって。世界はロバのウン
209
210
211
(下)p.54.
(上)p.147.
(下)p.212.
108
コよ。(略)212」
どれだけ場所を変えようとも、また、時間が移り過ぎて行こうとも、
「周縁」と「中心」の両
局で揺れ動かざるを得ない彼らは、結局は、どこへも逃避することができない。死を抱えなが
ら生を全うする彼らの両義性にみることができるのは、「中心」の桎梏と、生あるいは死の、異
化の契機である。
この項では、
「中心」と「周縁」の両局の間を揺蕩う、両義的存在としての「僕」と小林緑を
分析してきた。この分析も、前節から紡いできた“テクスト”の延長線上にある。
『真鶴』における京が、東京と真鶴を往還する存在として、そして、女性として、
「現実」と
「虚構」の両義的存在だったのに対して、
「僕」は、東京と阿美寮を往還する存在であり、小林
緑は、死を身近に携えながら都内に生きる存在である。
「僕」は、37 歳の時分にふとしたきっか
けで直子のことを思い出すが、作中で描かれる彼の描写のほとんどが十代のそれである。
「中心」
と「周縁」の狭間に揺れ動く「僕」と小林緑が、非成人男性であることを、ここで付言してお
きたい。
間接的に死を経験する彼ら(彼ら自身が死ぬわけではない)を、分析的に読むことによって、
表裏一体としての生と死が、読者によって異化されていく。それは、コトバに戯れる周囲の大
学生や、小林緑の親戚などと相対化されることで可能となった。ここに、バフチンのいう小説
の多声性の効用が発揮されていることを、最後に指摘しておくことにする。
*
第五項
総括
前節に引き続き、東京を「中心」として、阿美寮を「周縁」として規定することで、作品分
析(読者としての異化行動)の軸をまず見出した。
「中心」とは、男の理論で統括される場であ
り、人々は表層のコトバに戯れる。ここでは、男性が主導的、女性が従属的であることが“常
識”として不文律にされていて、したがって、ときおりみせる、女性としての小林緑の主体的
な行動は、世間からの嫌厭・懐疑の対象とされた。
一方で「周縁」とは、女性的な感性が全面化する場であり、そこでは、
「中心」においては限
定した場に囲い込まれていた、感情の発露や性交などが、余地なく許容される。
「周縁」におけ
る“涙”や“雨”、“濡”、“酒”などの液体的なイメージが、女性の肉体と結びつくことで、そ
212
(下)p.50.
109
こは、象徴としての“女性”=《母》=セミオティクの世界として規定できた。
本論では、社会という《父》に統括される「現実」や「中心」の反動として、
「虚構」や「周
縁」の女性的世界に重きを置いて来た。しかし、女性的世界の極限もまた、男性的世界の極限
と同様、絶望に他ならない。
後者の象徴としての永沢さんは、その超男性的な「強さ」によって、彼を愛するハツミさん
を死に追いやった。また、己以外は何も信じない彼の究極のナルシシズムは、その信念が少し
でも揺らいだとき、彼自身を破滅させるはずだった。一方で、前者の象徴としての直子やキズ
キは、
「中心」世界に生きることを断念したがために、彼らの辿った末路は絶命だった。社会と
いう場が衣食住と切り離せない人間世界において、社会(=《父》
)の拒絶は、同時に生きるこ
との拒絶を意味した。超男性的人間の永沢さんが成人男性であり、超女性的人間の直子やキズ
キが、女性、あるいは成人前の少年であることが、本論が規定した「中心」
「周縁」の両局の性
別的判別の論拠として繋がっている。
そして最後に、語り手である「僕」と、小林緑は、両局の境域的存在として規定できた。
「僕」が、キズキや直子の死を抱える存在として、「中心」と「周縁」を往還するのに対し、
小林緑は、両親の死を抱えながら東京で生きる。彼らは、前提を疑うこともなく「中心」世界
に安住する人々に対して違和感・嫌悪を覚える一方で、完全に「周縁」世界に染まりきること
、、、、、、、、、、
もできずにいる。こうした両者の葛藤は、「僕」の最後の科白、「僕は今どこにいるのだ ?」と
いう一言に如実に集約されている。
以上の分析が、前節の延長線上にあること、すなわち、
“テクスト”の生成過程の一部である
ことが、この節で述べて来たことのもうひとつの共示義(メタメッセージ)である。生や死、
男性や女性からはじまり、酒や東京、雨、冗談といった諸々のコトバが、作品分析という読者
の行動の過程で、異化されてきたことを示唆して、総括としたい。
第三節 善悪の彼岸としてのエクリチュール――元少年 A『絶歌』
これは、1997 年に発生した神戸連続児童殺傷事件の加害者・元少年 A による、事件の経緯と
その後の彼の実人生が綴られた手記である。2015 年 6 月 28 日、太田出版より刊行された。
ナメクジの解剖や猫殺しに性的快楽を覚える少年が、1997 年、殺人に手を染めた。神戸市須
磨区で女児をハンマーで殴りつけ、男児を殺害するなどした一連の事件の犯人である少年が、
殺害した男児の生首を小学校の校門に置いたことで、猟奇殺人として、この事件は世を震撼さ
せた。
110
少年は、まだ殺人を犯す前に、親しくしていた祖母を病気で失ったことで、失意の底を経験
する。彼には、周囲の他者に対する激烈な劣等感があり、友だちやふたりの弟たちに、そのせ
いからか、日頃から暴力を振るっていた。
2004 年に少年院を仮釈放された少年(元少年)は、住居や職を転々としながら、更正の道を
歩むことを志向する。内気な性格は他者とのコミュニケーションを拒み、仕事の合間を縫って、
彼は、ペーパークラフトや読書、コラージュなどに熱中する。被害者への謝罪の念、過去の行
為の取り返しのつかなさに苛まれつつ、日々を送る。
*
第一項 手記というエクリチュール
他者に対する少年の甚だしい劣等感は、手記の冒頭部で、明らかなそれとして読み取ること
ができる。次の引用は、小学生時代の彼を、自身で振り返った描写である。
勉強も、運動もできない。他人とまともにコミュニケーションを取ることもできない。教
室に入ってきても彼の方をまともに見る者はいない。廊下でぶつかっても誰も彼を振り返り
はしない。彼の名を呼ぶ人はひとりもいない。いてもいなくても誰も気付かない。それが僕
だ213。
置かれた環境に馴染めないでいることへのコンプレックスは、自己承認欲求を満たす行動へ
と少年を駆り立てる。例えば、最愛の祖母に認めてもらうために木登りをする場面では、一度
も後ろを振り返らずに一心不乱に木のてっぺんを目指して登る。褒めてもらえることを期待し
ての行為だったが、心配そうな表情を呈す祖母に、気が遠くなるほどの幻滅を味わう。また、
キッチンで母親と二人きりになると、毎度のように「兄弟三人の中で誰が一番好き?214」と彼
女に訊ねた。すると母親は必ず、「あんたに決まっとおやん215」と応えたという。
周囲からの孤立を埋めるかのように、母親や祖母を自己承認の拠り所にしていた幼少期の彼
の様子が、作中から浮かび上がる。
また、その甚だしい承認欲求は、一重に、本作の執筆動機にもつながっていると解釈できる
だろう。例えば、逮捕後の精神鑑定においても、医療少年院で受けたカウンセリングでも、一
切誰にも話さなかったエピソードを挙げるとき、読者にむかって「あなたはこれから神父にな
213
214
215
元少年 A(2015 年)
『絶歌』太田出版 p.7.
同上 p.150.
同上 p.150.
111
る216」と記す。大仰な表現に隠れた共示義を、いかにこれまで隠し通してきた秘密が重大であ
るかを誇示したい、彼の尊大な内心として解釈することが可能だろう。
さらに少年は、自身が他者と壁を作ることでしかうまくコミュニケーションがとれないこと
に関して、
「冷酷な殺し屋の役を演じる俳優が、休憩時間になっても他の共演者たちと一切会話
をせず、役作りに徹するように217」と、俳優に準え、また、自分の物語を綴ってみたい衝動に
駆られたことを、
「法医学者が白骨死体から生前の姿を再現するように218」と、法医学者に準え
ている。役作りに徹する俳優も、法医学者も、紛れもなく社会的に広く承認された、名誉と富
に充足した肩書きに他ならない。そんな彼らと己を同等に配し、自身の行動の動機をあたかも
高尚であるかのようにみせようとする彼の文章からは、痛々しいまでの読者に対する元少年の
虚栄心・承認欲求をみることができる。
こうしたどこまでも肥大化してやまない承認欲求は、一方で、“達観”という形で作中に多々
散見される。例えば、少年院で彼の精神鑑定にあたった男性を、
「人間の精神のジャングルの奥
深くに分け入り、そこに潜む“異常心理”という獲物を仕留めることに、その獲物を追いつめ
るプロセスそれ自体に、無上の快楽を覚える一種の“変態”219」と記している。彼は、精神鑑
、、、
定医に分析される立場であり、決して彼を分析する立場にはない。この描写にみることができ
るのは、主客の転倒である。客体として分析されることは、ある類型を彼の人間性に当てはめ
られることであり、数ある人間性の型のひとつとして凡庸視されることを意味する。それへの
抵抗から、逆に、精神鑑定医という人間観察の達人を、仮にも分析的に客体化することで、卑
屈な身上を虚栄している。
また、漫画家・古谷実のファンであることを公言する箇所では、作品への感想の著述にとど
まらず、
「古谷実は本当は最初からこの作品を描きたかったのではないかと思った220」と、あた
かも漫画家の創作動機を理解したかのような口ぶりで著述している。彼自身と精神分析医、彼
自身と作品における対等なコミュニケーションではどうしても免れることのできない己の劣等
感を、第三者の視点を用いて客観視(=達観)を装って著述することで、逃避的に勝利感を味
わっている。
「抜け殻のような人生に、言葉でもう一度息を吹き込みたかった221」という彼のエクリチュ
ールへの欲望は、地のコミュニケーションでは決して昇華されない自尊心を満たすための、方
法論として以上ではないのだろう。この“達観”が見られる箇所は、
「結局のところ、人間は感
216
217
218
219
220
221
同上 p.44.
同上 p.179.
同上 p.280.
同上 p.138.
同上 p.228.
同上 p.281.
112
情の動物なのだ222」や「作家は言葉を刃物にして素材を捌く料理人のようなもの」など、枚挙
に暇がない。
こうした独りよがりの“達観”が、傲慢な押し付け以上の体裁をとらないのは、これが小説
ではなく手記であり、彼の謂いを相対化する多声的他者が、作中にはほとんど存在しないから
である。極度なまでに他者に怯え、自己の殻に閉じこもる元少年 A は、仕事の傍ら、銀行口座
の預金額やアクセサリーのデザイン、ペーパークラフトなどにパラノイアックにのめり込むこ
とで、社会(=《父》)からの逃避を諮ってきたといえる。誰にも心を許すことなく、孤独に仕
事に熱中し、理不尽な仕打ちにも耐え忍び、自らの世界を囲いこんできた。社会復帰・更正の
つもりで彼が歩んできた道のりが、独我論的な自己陶酔に帰結していることは明らかだ。
少年ひとりしかいない世界で彼は、神の高座にあぐらをかいて、全てを“達観”することが
できた。しかし、その世界が、まぎれもなく他者のいる現実にまで拡張されたとき、現実に殺
人がおきた。
そして、手記を出版するという行為は、彼の独我論的世界を現実に拡張させることであり、
さ か き ば ら せ い と
それは、自作の漫画に登場するキャラクター「酒鬼薔薇聖斗」に同化することで自身が作りあ
げた虚構の世界に現実を取り込んだ、少年時代の忌まわしき犯行の構図と、根本においては同
一であると結論付けざるを得ない。手記にみられる、あくまで相対化されない彼の“達観”と
してのアフォリズムの数々は、出所後の生活の中で鬱積された承認欲求を満たすための、彼の
作りあげた孤独な世界の読者への押し売り以外の何ものでもない。
もし読者が主体的に作品と向き合い、彼の“達観”を数ある言説のうちのひとつとして“テ
クスト”の生成過程に取り込み、うまく位置づけることをしなければ、手記はプロパガンダと
して強力な権威を確立するおそれがある。猟奇殺人という奇異性に、ある人は好奇心を惹き付
けられるし、上述でバフチンの言説を参照したように、詩やエッセー(ここでは手記も含む)
は、そもそもにおいて多声的に書かれていない(著者による押し売り的な謂い以上ではない)。
また一方で、単なる猟奇殺人犯の書物として定型句で唾棄してしまうのであれば、それは、本
論が超克を試みる《文化的営為のもつパラノイア》に屈することを意味する223。本論の主題は、
表層的なコトバの戯れとは違う位相で主体的な行動を試みることによって、社会に抑圧された
「人間らしさ」を汲み取ることにあった。
したがって次項から、本論が前々節、前節で紡ぎあげてきた“テクスト”をもとに、手記か
222
同上 p.186.
年 6 月 25 日号)では、ノンフィクション作家・柳田国男には「幼い子を惨殺された二つ
の家族の苛酷な日々が消えることなく続いている事件の告白記」と、作家・高山文彦には「遺族の心痛に
思いを馳せず出版を急いだ A は、自己の利益を優先させた」と評されている。少年 A の断罪の視点にほ
とんどの言説が収斂している点に注目したい。
223週刊文春(2015
113
ら分析できる元少年 A の人物像をあぶり出していくことにする。それは、手記という形式のも
つプロパガンダ性に身を任せることでも、元少年 A を殺人犯として定型句で片付けることでも
ない。
エクリチュールにおける開かれた読者の“テクスト”生成の可能性を以降の分析で確認し、
凶悪犯というコトバとしての元少年 A を、異化していけたらと思う。
手記を、
“小説的”に分析していくことを目指す。
*
第二項
飽和した《母》に安住する
前節までの手法に倣って、ここでも、“少年の独我論的世界”と“他者の存在する現実世界”
のふたつの区分を軸に、分析を試みることにしたい。前者の、固い殻に閉じこもって他者との
コミュニケーションを拒み、尊大な“達観”によって世界を一元化しようとする少年の孤立し
た世界を「異常」と、逆に、後者の、現実における秩序立った世界を「正常」と規定する。元
少年 A がはまり込んでしまった「異常」世界を支える土台とは、果たして何だったのだろうか。
「正常」に対して「異常」としてのこの世界が、往々にして《母》なる領域として規定でき
ることは、前節までの分析で論じてきたとおりである。したがって、彼にとっての《母》がい
かなる存在だったのかを、ここでまず、検討してみることにする。
作中で描かれる少年の母親(=《母》
)は、底なしの許容力をもつ人物である。上述したよう
に、彼の母親とは、自分を兄弟の中で特別視してほしいという彼の要望に、仮にも応じる存在
である。彼女は、ある日、少年が同級生のダフネ君を歯が折れるほど傷み付け、さらにはナイ
フで脅したことに対し、彼が偽りの言い訳をすると、やさしく、次のように述べる。
「そぉか。それはあんたも辛かったな。せやけど、いくら悪口言いふらされても、暴力ふる
ってもうたら、最終的にはあんたが悪者にされてまうねんで。
(略)224」
歯まで叩きおられたダフネ君の痛みについて少年に諭すわけでもなく、彼に同情を示す。さ
らに、学校をしばらく休みたいという少年に、
「あんたがそないしたいんやったら、それでもえ
えよ225」とあっさりと請け負う。
《母》性とは、許容の象徴であり、禁止の《父》と対をなすことは、上述して来たとおりで
ある。しかしここでいう《母》
《父》とは、概念上の区分であって、実際の親が担うところは、
224
225
同上 p.81.
同上 p.85.
114
《母》でもあり、
《父》でもあるはずだ。したがって、母親に《母》の役割、父親に《父》の役
割があてがわれる必然はないが、手記から読み取れる限りにおいて、少年の母親が究極的に《母》
的であることは疑いようもない。とすると、
《父》としての役割は、必然的に父親に担われる必
要がある。しかし、少年の父親も、少年にとっての《父》としての役割を果たすわけではない。
次の引用は、少年が出所後、実父への感懐を振り返る場面の描写である。
父親を尊敬したことは一度もなかった。真面目なだけが取り柄のつまらない人間だと思っ
ていた。自分がやったことで父親が苦しむかどうかなんて、毛の先ほども考えなかった 226。
《父》とは、子どもの悪行に「苦しむ」ような存在ではなく、徹底的にその行為を禁止する
存在である。
《父》は、本来的には、禁止の言葉を発するための威厳を備えていなければならな
い。しかし、少年が「父親を尊敬したことは一度もなかった」と述べるように、彼の父親は、
全くと言って良いほど《父》の役割を果たしてはいない。事実、少年がダフネ君に重傷を負わ
せた翌日、生徒指導室に呼び出され、彼の反抗的な態度に辟易した教師が少年の親に電話を入
れ、父親が迎えにきたとき、「父親は悲しそうな眼をして227」少年の前に立ち、静かに、
「どないしたんや?なんでダフネ君を殴ったんや?大事な友達やったんとちゃうんか? 228」
と発するにとどまる。第一章で論じてきたように、幼児は《父》の禁止の言葉があってこそ、
《第二ステージの人間らしさ》を確立し、社会的人間たることができる。《父》の役割が、両親
のどちらにも担われないとき、果たして誰が彼に秩序を教える存在であり得るのか。少年が親
愛する祖母も、
「この世で唯一、ありのままの僕を受け容れ守ってくれる存在229」であり、彼に
とってはむしろ《母》として機能している。
少年が、ダフネ君や弟たち、殺害した生前の淳君に暴行を加える描写が、手記の中に多々み
られるが、それに関して、少年の両親が彼を説教、もしくは折檻するような場面は皆目みられ
ない。全てが許容される世界に甘んじていた少年が、学校という社会に馴染めないことは、当
然の帰結である。
前項で述べたような、少年の過剰なまでの承認欲求は、ここに根付いていると分析できる。
学校という場は、教師という《父》に統括されるに限らず、生徒たちが共同で生活する場であ
って、そこでは社会(=「正常」)が規定する《父》に照応して、自己の錯乱した欲動(セミオ
226
227
228
229
同上 p.117-118.
同上 p.80.
同上 p.80.
同上 p.35.
115
ティク)に折り合いをつけなければならない。《父》の存在への耐えられなさは、少年を必然的
に、独我論的世界へと向かわせる。学校を長期にわたって休むことは、
《父》への完全な拒絶で
あり、一切の規制を排した、撞着そのものの顕在が許容される「異常」な世界を、少年に構築
させるのである。
少年は、
「大人への階段を上がっていく同級生たちを尻目に230」、近隣の池や山で、音楽を聴
きながら多くのときを過ごすようになる。当時の自己について、彼は手記で、次のように懐古
している。
僕にとって“池”は“母体の象徴”であり、ユーミンの「砂の惑星」は胎児の頃に聴いた
母親の心音だった。池のほとりでユーミンの「砂の惑星」を聴くと、母親の子宮に還ってい
るような無上の安心感を覚えた231。
《母》としての祖母の死が、少年に少なくない喪失感を与えるも、社会に眼を閉ざし、以降
も《母》なる領域に安住することで、
《第二ステージの人間らしさ》が潰えていく。前節で分析
したように、「中心」=「正常」=《父》なる領域の断念は、直子を絶命に追いやった。撞着し
た内面の全面化は、絶望でしかない。タナトスが自己に向かうか、それとも他者へと向かうか
の違いはあれ、少年と直子は、
《父》の拒絶という点では通底している。
前節では、直子の言葉の喪失から遡求し、
「周縁」の極に決定不能性を結論付けた。言葉を発
すること、つまり、決定し、そのことに対して責任を持つことを要請される社会(=《父》
)の、
対局への逃避である。
これと同じ様相を少年にみることができる。彼は逮捕されて直後の尋問の最中、「一刻も早く
、、、、、、、、
死刑台に連れていってすべてを終わらせてほしい232」と内心でつぶやくし、手記で、
「もしかし
たら生まれてから十四歳までの、どんなに小さな楽しいことも、悲しいことも、そのすべてが、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
自らの犯した罪にひとつ残らず繋がるよう、あらかじめシステマティックに組み込まれていた
、、、、、
のだろうか233」と往年を回顧する。また、自身が弟に暴力をふるっていたことを思い出しては、
、、、、、、、、、、、
「僕を罵倒して、自分がされたのと同じように僕を殴りつけてくれたのなら、僕はもっと楽に
なった234」と振り返る。これらの言葉にみることができるのは、マゾヒズム的な無責任である。
自分が引き起こした事件を終わらせるのは、あくまで他人であり、それは、あらかじめ組み込
、、
まれていたことであり、自身の罪悪感は、弟が殴りつけてくれなかったせいなのである。行動
230
231
232
233
234
同上 p.29.
同上 p.32.
同上 p.11.
同上 p.39.
同上 p.271.
116
の一切に責任を取ろうとしない、放埒とした無責任な思考は、事件当初から手記刊行時までに
おいて、一貫して変わってはいない。
犯行から検挙までの内心を、少年は次のように綴っている。
異常な行動を起こしても普段通りの日常が続く。
(中略)
あれは夢だったのか?
僕は現実には何もしていないのか?
どこまでが現実でどこからが現実でないのかわからなくなった。自分が、幽霊か透明人間
にでもなったような、虚構の世界を生きているような、どうしようもない気持ち悪さを感じ
た235。
「異常」な世界に一元化された少年の日常は、夢現の状態で快楽を求め、猟奇的行為を繰り
返す。しかし、彼の両親がいかに《母》的側面が強かったとしても、息子の殺人を許容するわ
けではない。その程度の《父》性は、当然のことながら彼らにもあり、また、少年も感取して
いた。そうでなければ、彼が犯行に及ぶに、両親の眼をはばかることすらしなかっただろう。
しかし、両親の《父》性は、少年の咄嗟のいいわけでやり過ごせるような、その程度の《父》
性に過ぎなかった。少年は周囲に蔓延る「正常」な世界との対面に際して、自らが構築しつつ
ある「異常」な世界を「能面のように無表情な顔236」の下に隠蔽することで躱す。己の世界に
どこまでも閉じこもり、その世界がまぎれもなく他者の存在する現実(=「正常」)を侵蝕した
とき、殺人は現に起きた。前項で述べたように、こうしたスタンスは、出所後も一貫して失わ
れることがない。
次項では、“更正”という観点から、主に出所後の少年の心理描写・言動に照射して、彼の人
物像を探っていくことにする。
*
第三項
自己防衛としての“能面”
少年は、手記の冒頭部で、次のように語る。
事実僕は、めったに涙を流さない。「男らしい」というのとは違う。感情全般がとにかく
表に出にくい。それは、幼少の頃から僕が培ってきた自己防衛テクニックなのかもしれない
235
236
同上 p.70-71.
同上 p.16.
117
237。
上述した、彼の「能面のように無表情な顔」は、
「正常」な世界をやりすごす処世術としてで
あった。感情が表に出にくいのは、《父》なる世界に対して内面を閉ざしているからであって、
そうしている限り、己の深奥を誰かに覗かれる心配はない。彼の「異常」な内的世界が淳君を
取り囲んだときの感覚について、少年は、
「何びとたりとも入ってこられぬよう、僕はその庭園
をバリケードで囲った238」と述懐している。
このバリケードの外(=「正常」)にいる人々に対しては、
「身体的接触を極端に嫌う239」。心
身ともに閉ざすことで、内なる世界において少年は、怪奇で錯乱した性欲の発散と、周囲への
劣等感を自己陶酔に挿げ替える日々に明け暮れた。
しかし、そうした隠蔽工作も、精神鑑定医を前にしては、危ぶまれる。彼は、
「いつも以上に
感情を表に出さないよう240」必死に努めるも、その反動からか、母親との面会に際して、硬く
閉ざされたはずのバリケードはあっけなくも崩壊してしまう。面会に訪れた母親に対して、少
年は、自身でも訳の分からないうちに、
「あんなに会わんて言うとったのに、何で来たんやぁー!
241」と大粒の涙をこぼしながら吐き捨てる。
後に「あんなお声を出したのは初めてだった242」と振り返るほどの感情の爆発は、なぜ起っ
たのだろうか。
この章で論じてきた全て作品分析に通底するのは、
「虚構」
「周縁」
「異常」が、流動的なセミ
オティク・欲動の放埒の場であるという構造だ。そして、この領域は、象徴としての女性、す
なわち、
《母》としての領域であった。前述したように、
《母》の究極像とは、錯乱や撞着の全
てを許容するそれである。少年の母親が《母》としての役割を担う部分が大きいことは第一項
で述べたとおりで、そもそもにおいて、少年の内なる「異常」な世界は、
《母》と隔たってはい
ない。少年がいくらその世界を自分一人の内面に封じ込めようとして、外界に対して「輪郭」
の硬度を上げようとも、母親(=《母》)との接触だけは、それを「にじま」せてしまう。
「異常」な内面が「弱い」領域であるがために、己の厚い殻の内に閉じ込めようとするも、
母親との接触は本人の意図に反して、潤びる。
「輪郭」が「にじむ」とき、女性の肉体の提喩と
しての“涙”を伴うだった。少年の“能面”は、精神鑑定医を前にいくら強度を保とうとも、
実母を前にしては無効だったのである。
237
238
239
240
241
242
同上 p.16.
同上 p.122.
同上 p.143.
同上 p.139.
同上 p.139.
同上 p.141.
118
「異常」な世界を被うバリケードは、「正常」な世界に対して極端に懐疑的になることで、そ
の硬度を強くする。精神鑑定医の質問を「カマ243」だと解釈し、明るくて人気者だったダフネ
君に対して、『人間失格』の竹一よろしく、「僕は密かに彼が、かなり無理をして「道化を演じ
ている」ことを見抜いていた244」と述べているように、外界に対する怯えを懐疑へと置き換え、
その懐疑を、自分だけが気付いているという自己陶酔に、内なる世界ですげ替えるのだ。
外界への怯えが懐疑に、懐疑が内的で「異常」な世界の確約につながる。この心理的な連鎖
は、出所後の少年(元少年)においても一貫して失われていない。篤志家の Y さんの家を出て
からの元少年は、カプセルホテルや住み込みの寮を渡り歩きながら、職を転々とする。彼はそ
こで、職場の人間関係(=社会)を自己の敵に据えることで、自分一人の世界に閉じこもる。
特に、保護観察機関が終了した 2005 年の元旦以降の手記の描写は、一貫して自己の正当化と
他者への非難に満ちている。次の引用は、アパートの退去日の、不動産会社の担当者との会話
である。
もともと物が少なく、マメに掃除もしていたので、僕の部屋の点検はものの五分ほどで終
わり、書類にサインした。
「いやぁ〜、すごいきれいに使っていただいてたんですね。さっきの部屋の人、もうキッタ
なくてキタなくて……。おまけに窓ガラスにでっかい罅割れがあって、本人は『そんなの知
らない。最初っからでしょ』とかって言うんですけど、そんなのあり得ないでしょう?(略)
245」
不動産会社の担当者の言葉は、小説の機能としての多声性による、元少年という人間像の相
対化に与しない。部屋を片付けない隣室の男を貶めることで自己の優位性を担保する、その手
段として、彼の言葉を描写しているに過ぎない。
また、建築会社の寮に入っていた頃の描写では、テレビのチャンネルを替えたの替えないだ
ので喧嘩を始めた若い男たちをみて、
「僕は呆れ返った246」と著述している。他人に言葉を発す
ることすらできない元少年の怯えが、内心では彼らを傲慢にも見下すことで、自己の内なる世
界を正当化する。さらに、とある会社で、四人一組で部屋を契約させられたときの描写では、
同室の人にマリファナを勧められたことに関して、
「ふざけるな247」と著述している。もちろん、
彼らに対して何を言ったわけでもない。そしてその続きには、
「この一件から同室の連中との関
243
244
245
246
247
同上 p.134.
同上 p.56.
同上 p.224.
同上 p.237.
同上 p.245.
119
係がギクシャクし始め、僕は居辛くなってそこから逃げた248」と著述している。内なる「異常」
な世界で彼は、
「ふざけるな」と発し、高見に自惚れることができても、「正常」な世界(=社
会)においては、そこから逃げ出すことしかできない。犯行を繰り広げた少年期に、“能面”と
逃げ口上で両親や学校を躱してきた、その当時の彼と全く同じ人間像が、ここに浮かび上がっ
てくる。
そして、極めつけは、次の述懐にある。仕事を失った元少年が次なる職を探す場面で、彼は、
以下のように語っている。
ちゃんとした仕事に就くために使える自分の武器は、少年院で習得した溶接技術しかなか
った。ひとりで生きる道を選び、サポートチームの元を去ったあの日、「溶接関係の仕事に
だけは絶対に就くまい」と心に決めていた。「少年院で取った資格」の恩恵を受けるのはプ
ライドが許さなかった。それだと自分の力で居場所を作ったことにはならないと思ったから
だ249。
彼にとっての“自分の力で居場所を作る”ことが、何を意味するのかは明らかだ。それは、
社会と必要最低限以上の接触を持たず、己の力を過信できる孤独な世界を築き上げていくこと
である。上述したように、彼は現に、極力他者との交わりを控え、仕事に没頭し、それ以外で
はペーパークラフトやコラージュなどに自分一人で熱中する。社会という場で罪を犯した彼に
求められる“更正”とは、社会からそのようにして逃げ続けることではなく、自己の殻を脱ぎ
捨て、社会を真っ向から受け容れることではなかったのか。少年院というひとつの社会に対す
る敵愾心が、彼の「異常」世界を正当化させる“プライド”となって、両局の間を隔てる。
“自
分の力で居場所を作る”といういかにも尤もらしい美辞麗句によって、彼は自分自身に「異常」
世界へ引きこもることを許容し、快楽に身を任せるだけなのである。
他人の命を奪うという、償いようも、責任の取りようもない罪に対して、それでも償おうと、
責任を取ろうと必死に足掻くことが彼に課された使命ではなかったか。それは社会(=「正常」
世界)を全面的に受け入れ、自らの「異常」世界(殺人という罪)との撞着に苦悶しつつ、そ
れでも尚、生きようとする態度であるはずだ。
彼は、手記を綴り始めた動機について、次のように著述している。
振り返ると、プレス工時代はアクセサリーデザイン、建設会社に居た頃はペーパークラフ
ト、流浪生活を送った頃はコラージュと、一定のサイクルで興味の対象は切り替わったが、
248
249
同上 p.246.
同上 p.247.
120
僕は常に、何かを“創る”ことに夢中だった。僕にとってものを創り表現することは生理現
象だった。当時は意識しなかったが、もしかすると僕は、クリエイションによる自己回復を
絶えず志向し、試みていたのかもしれない。何かを創り、表現することで、必死に自分で自
分を治そうとしたのかもしれない。そうして僕が最後に行き着いた治療法が文章だった。も
はや僕には言葉しか残らなかった250。
上述したように、彼にとってのクリエイションとは、内なる世界に閉じこもることの快楽に
惑溺すること以上ではない。それを「生理現象」や「自己回復」だと述べ、彼は正当化するが、
その「自己回復」とは、社会によって罪というレッテルを貼られ、解体することを強制される
ことで揺らいだ、少年時代の尾を引く「異常」な世界の“回復”ではないのか。
第二章で論じたように、エクリチュールとは、作家と読者の対話の場ではない。読者は作家
から解放されることで、自由な解釈が可能となる。しかしそれは一方で、作家という存在の解
放も同時に意味する。読者は作家に対して無責任でいられる一方で、作家も読者に対して責任
を負わない。したがって、エクリチュールとは、社会という場とは違う位相なのであった。
こうした事実からも、
「僕に残された唯一の自己救済251」だと遺族に説明する彼の執筆動機が、
社会という場からの逃げ口上に他ならない、その実情が浮かび上がってくる。
*
第四項
総括
「少年 A」とは、果たして何だったのか。以上で分析してきたのは、彼の人物像への肉薄だっ
た。
少年時代の彼は、《母》なる世界に安住することで、彼ひとりだけの「異常」な世界に閉じこ
もり、錯乱した性欲を発散させる傍ら、社会への劣等感を自己陶酔にすげ替える日々に明け暮
れてきた。そうした内的で傲慢な彼ひとりの世界が、まぎれもなく他者の存在する「正常」な
世界を侵蝕したとき、それは、殺人という忌まわしき行為として顕現した。
「正常」な世界で犯した彼の罪は、社会という場で“更正”することを彼に課すも、元少年
は、出所後も一貫して社会から逃避することで、自己の「異常」な世界に身を守り続けた。社
会という場で他者と接触することを極端に拒み、己の世界に浸りきって、「自己回復」という美
辞麗句で正当化されたペーパークラフトやコラージュに没頭する。そうしている限り彼は何ひ
とつ傷つくことなく、かといって社会に非難されることもなかった。仕事をし、誰にも迷惑を
250
251
同上 p.281.
同上 p.294.
121
かけない以上、少なくとも外見上は、粛々と彼が“更正”の道を歩んでいるかに見えるからで
ある。
そんな彼が最後の「自己回復」として選んだのが、エクリチュールとしての手記であった。
手記とは小説とは異なり、そこに他者がいない。元少年というひとりの謂いが絶対化される
世界、そのものである。手記の刊行がペーパークラフトやコラージュとは異なっているのは、
刊行という行為がもたらす、彼の「異常」世界の「正常」な世界への解放にある。彼の内なる
「異常」世界の謂いをそのまま読者が受け取るのであれば、それは、その世界において絶対的
存在である元少年の謂いに、服従すること以外ではない。したがって、我々読者は、それまで
に紡いできた“テクスト”の延長線に手記を位置づけることによって、
“小説的”に解釈する必
要があった。“小説的”に解釈するとは、他者の声(
《母》
《父》などの枠組みなど)を交え、相
対的・批判的に分析することである。本論が試みてきたのは、その実践であった。
そうした相対的・批判的な分析の過程で、
「無機質な「記号」252」としての「少年 A」が異化
されていく。彼に押し付けられた“凶悪犯”というイメージ(=コトバ)が解体され、《母》に
全身を預け、《父》を拒んだ「虚構」
「周縁」「異常」の極限としての人物像が浮かび上がってく
る。そんな彼の人物像が『ノルウェイの森』における直子と重なったことは、ひとつの異化行
動の帰結でもあった。
終わりなく生成される“テクスト”の中でのみ、
“凶悪犯”ではなく、人間としての「元少年
A」が見えてくる。
以上では、社会的な“更正”を目的に生きるべき元少年が、本論が肯定しつつあった《母》
なる領域に安らいでいることについて、逆説的にも、否定的に論じてきた。社会での罪は、社
会でしか償いようがない。彼には、
《父》なる領域で主体性を確立させ、粛々と生きていくこと
が求められている。
社会に生きることの難しい人間が、社会を拒否し、
《母》へと逃避することを、本論は肯定し
ない。第一章で論じた社会という場の限界の指摘は、そのまま、社会の否定には繋がらない。
反社会的な革命家たちが新たな《父》を創出する一方で、非社会的な直子や元少年の開き直り
は、絶命に帰着する他なかった。
背理を抱えながらも、正気を保ち、尚、生きていくこと。
三作より紡いできた“テクスト”の最終的な帰結は、この一文に集約できるように思う。
252
同上 p.6.
122
終章
本論ではまず、人間がいかなる存在であるかを、精神分析や構造主義の学説を借りて考察す
ることで、
《第一ステージの人間らしさ》と《第二ステージの人間らしさ》を規定した。前者は、
錯乱して流動的な、セミオティクの領域であり、人間にとって最も守備範囲の広い媒体である
言葉によってさえ汲み尽くすことのできない、象徴としての《母》なる領域であった。この領
域は、往々にして、欲動のタナトスに置換できる。一方で後者は、秩序や規律を保守するサン
ボリクの領域であり、禁止のコトバを発する象徴としての《父》によって整序される、エロス
の領域であった。
そして、現実的な問題として人間は社会から乖離して生きることができないが、社会という
場は、圧倒的に《第一ステージの人間らしさ》を抑圧する。それは、前近代においては、供儀
やクラ交換などの特定の時空に囲い込まれることによって、発散の機会が一応は設けられてい
た。しかし、供儀やクラ交換は、あくまで儀礼という方向付けられた行為がなぞられるだけの
限定的なトポスであるため、そもそも方向付けが不可能である《第一ステージの人間らしさ》
を汲み取る機会として、十全に機能していたとは言い難い。
それでも前近代社会において、仮にも非秩序の領域(≒《母》なる領域)が担保されていた
のは、社会に外部が存在していたからであった。しかし、近代以降の資本主義社会においては、
全てが貨幣という一元的な価値によって包摂されるため、外部がなくなる。前近代社会の供儀
やクラ交換が象徴秩序からの逸脱の機会であったのに対し、近代以降の社会の余暇は、貨幣を
決して免れることができない。
聖も俗もない現代社会は、《パラノ型》の人間を生みだした。
貨幣に固執する人間が《パラノ型》であることは当然だが、差異化に奔走し、一見、偏執と
は真逆であるように見えるテレビや広告の業界人なども、逆説的にパラノイアに陥っていると
言える。
“新しい”ことが盲目的に肯定される世情で、人々は、一定の方角に向かって走り続け
ることが強要される。前近代社会においては象徴秩序が《父》であったのに対し、近代以降の
社会では、貨幣に加え、
《差異化のパラノイア》
、《空気を読むことへのパラノイア》などの不文
律の強要が、《父》として機能する。“努力”や“前進”などのもっともらしい言葉に背中を押
され、一心不乱に直走る現代人に、
《第一ステージの人間らしさ》について思索を巡らす余裕さ
えないのは当然である。彼らの多くは、“前提”を疑うことがない。もっといえば、
“前提”を
疑っていない自分にすら気付いてはいない。
しかし、
“前提”を根本的に問い直そうとする姿勢は、例えば、革命家たちの行動にみられた。
とはいえ、彼らが革命を達成し、新たな“前提”を拵えた時点で、それは、
《父》として固着し
てしまう。
《母》なる領域とは、決して社会的実践によって肉薄することができない、静的・固
123
着・パラノイアの彼岸にある、常に流動するとりとめのない領域である。したがって本論では、
社会とは違う位相で、そこへの肉薄の契機を探究してきた。そして辿り着いたのが、エクリチ
ュールの“ことば”であった。
社会とは、“前提(=コトバ)”によって統括される場である。《父》を解体的に再構築する実
践、すなわち、コトバの“ことば”化(=異化)によって、《母》なる領域への近接を目指すこ
とができるのではないか。その方法論の選定が、本論・第二章の主題だった。
作家は、権威的なコトバを薄め、自己の内面に遡求しようと言葉を紡ぐ。しかし、言葉とは、
発した時点で、コトバとして錆び付く宿命を回避できない。したがって、エクリチュールを紡
ぐ作家は、自らが執筆した時点で、異化を終了しなければならないのだった。この背理を、作
家は永遠に乗り越えることができない。
そこで、作家の異化行動は、読者に引き継がれる必要があった。作家の書くという行動によ
って芽生えた異化の兆しを、解釈の過程に取り込むことで、読者自身が、個としての“テクス
ト”を生成させていく。そもそも、実体的な言葉によって、錯乱した《第一ステージの人間ら
しさ》を汲み尽くすことは不可能である。しかし、その不毛さを背負い、コトバによって等閑
にされた領域に“ことば”で辿り着こうとする、終りのない足掻き。こうした動的で主体的な
実践が、読者の異化行動である。
異化とは、結果ではない。問題とされるのは、何が達成できたかではなく、どのような軌跡
を描き、過程を築いて、行動を続けるかである。
第三章は、みっつのエクリチュールを横断的に読むことで、一読者としての異化行動の一例
を提示した。
「現実」
「中心」
「正常」(=〈現実〉)と「虚構」
「終焉」「異常」(=〈異世界〉)のふたつの
軸を三作品に通底して見出したことで、それらが作品を超えた“テクスト”として繋がったと
同時に、前者が《第二ステージの人間らしさ(=サンボリク)
》、後者が《第一ステージの人間
らしさ(=セミオティク)》のアレゴリーとして機能した。
本論の命題が、セミオティクを汲み取ることにあったため、
『真鶴』や『ノルウェイの森』に
おいては真鶴や阿美寮の描写に重きを置き、肯定的に論じてきた。しかし、
〈異世界〉の極限的
人間像としての『ノルウェイの森』の直子が、自らを死に至らしめ、
『絶歌』の元少年 A が他者
の殺害に及んだことで、《母》なる領域への安住にディストピアを結論付けざるを得なかった。
コトバに戯れるだけの〈現実〉への徹底的な埋没が《第一ステージの人間らしさ》を排除す
る一方で、
〈異世界〉への埋没も絶望でしかない。生を否定したところに「人間らしさ」など見
出せるはずもないが、生きることがコトバの世界(=社会)と切り離せないがために、本論の
124
分析は、撞着を免れることができなかった。
異化行動に求めるべき解答などはなく、欲動がエロスとタナトスの斥力だったように、人間
の本来性とは撞着そのものなのだから、結局は、この論文が示したことはそのことの確認だっ
たと言ってしまえば、確かにそのとおりかもしれない。しかし、小説の多声性に基づき、相対
的に登場人物を分析してきたことで、
「人間らしい」生き方の示唆が、少なからずできたとは思
う。
『真鶴』の京は、東京と真鶴を往還し、
「にじん」だり「輪郭」を描いたりしながら生きて
いく。『ノルウェイの森』の「僕」や小林緑は、死を抱えながら生きることで、
〈現実〉の領域
に染まりきることもなく、
〈異世界〉に埋没することもない。
撞着こそが人間の本質であるなら、ふたつの領域を揺蕩いながら生きていくことが、最も「人
間らしい」と言えるのではないか。
社会という逃れ用のない領域に生きながらも、“テクスト”をとめどなく生成させることで、
異化行動を続けていく。作品の登場人物にみた、
〈現実〉と〈異世界〉の往還の構図は、
「人間
らしい」生の在り方を、示唆してくれる。
謝辞
國枝研には三年の秋学期からお世話になりました。輪読したり、みんなの発表を聴かせても
らったりしていく中で、僕と同じように、周りのみんなも日常の“当たり前”に何らかの違和
感や疑問を抱いていることが徐々にわかってきました。それぞれの研究が全く違うようでいて、
どこかで繋がっています。毎週の研究会は、芸術における知識や考え方の習得にとどまらず、
人間性を涵養する場でもありました。無知な僕でしたが、たくさん勉強させていただきました。
最後に、國枝先生には本当にお世話になりました。加入したばかりの頃、村上春樹の文献を
通して、個別に文学分析のいろはを教えていただいたことは、卒論を書くにあたって大きな土
台となりました。また、学問に限らず、僕の将来的なことに関しても心配していただいて、至
れり尽くせりです。
一年間半という短い時間でしたが、本当に、ありがとうございました。
125
参考文献、参考 HP
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浅田彰(1986 年)『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』筑摩書房
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大江健三郎(1988 年)『新しい文学のために』岩波書店
小熊英二(2009 年)
『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』新曜社
河合雅雄(1979 年)
『森林がサルを生んだ―原罪の自然誌』平凡社
川上弘美(2009 年)
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北田暁大(2005 年)
『嗤う日本の「ナショナリズム」
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斎藤環(2014 年)『キャラクターの精神分析 マンガ・文学・日本人』筑摩書房
佐藤信夫(1992 年)
『レトリック感覚』講談社
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ジークムント・フロイト(2008 年)『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』光文社
ジャン・ボードリヤール(2015 年)『消費社会の神話と構造 新装版』紀伊國屋書店
ジュリア・クリステヴァ(1991 年)『詩的言語の革命 第一部理論的前提』勁草書房
鈴木晶(1992 年)『フロイト以後』講談社
高橋源一郎(2012 年)『非常時のことば 震災の後で』朝日新聞出版
陀々堂の鬼はしり | 五條市 HP(http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1143010218687/)
テリー・イーグルトン(2014 年)『文学とは何か――現代批評理論への招待(上)』岩波書店
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橋爪大三郎(1988 年)『はじめての構造主義』講談社
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文 藝 春 秋 | 雑 誌 | 文 學 界 _ 文 學 界 新 人 賞 原 稿 募 集
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(https://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/bungakukai_prize.htm)
マックス・ウェーバー(1989 年)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店
マルセル・モース(2014 年)
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丸山圭三郎(1987 年)『言葉と無意識』講談社
ミハイル・バフチン(1996 年)『小説の言葉』平凡社
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126
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養老孟司(2003 年)
『バカの壁』新潮社
ロラン・バルト(1999 年)
『エクリチュールの零度』筑摩書房
ロラン・バルト(1977 年)
『テクストの快楽』みすず書房
ロラン・バルト(1979 年)
『物語の構造分析』みすず書房
127
エクリチュールにみる<現実>と<異世界>の往還
−人間らしさを汲み取る文学的体験の考察
2016年 3 月 5 日 初版発行
著者 吉田将梧
監修 國枝孝弘
発行 慶應義塾大学 湘南藤沢学会
〒252-0816 神奈川県藤沢市遠藤5322
TEL:0466-49-3437
Printed in Japan 印刷・製本 ワキプリントピア
SFC-SWP 2015-002
本論文は研究会において優秀と認められ、
出版されたものです。
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