クラシック音楽のことが話題になる機会がふえました。その分だけ、おやっ?、と首をひねりたく なるような、事実誤認にもとづいたことばを雑誌などでみかけることも多くなりました。 たとえば、「今では、タイトルロールが歌手ではなく指揮者、という場合が多いんですね。僕はミ ーハーだから、カラヤンの指揮というより、デル・モナコやカラスを選んでしまいますが」、という ようなものも、そのたぐいの、お粗末な例といえるでしょう。タイトルロールというのは、標題役と 訳されることもある、オペラなどでつかわれることばです。「ドン・ジョヴァンニ」におけるドン・ ジョヴァンニとか、「カルメン」におけるカルメンとか、あるいは「オテロ」におけるオテロなどの ことを、タイトルロールといいます。だとすると、「タイトルロールが歌手ではなく指揮者」という のは、いったいどういうことなのでしょうか。 クラシック音楽、とりわけオペラの周辺では、知ったかぶりが跋扈しがちです。もっとも、知った かぶりをしたい人は、どんどん知ったかぶりをして恥をかきつづければいいわけですから、はたから とやかくいうべきことでもないでしょう。ただ、知ったかぶりのことばは、いかにも軽薄にきこえま すし、やむをえないことながら、どうしたって説得力に欠けます。 似たようなことは、クラシック音楽をつかったり、あるいはクラシック音楽の演奏家や作曲家をあ つかった映画などについてもいえるかもしれません。これは、音楽にかぎらずとも、古典をあつかう ときに共通していえるようですが、それをどのようにあつかったかによって、あつかった人の理解の 深さが計られてしまう。古典では付焼刃は通用しないからです。 クラシック音楽もまた、例外ではなさそうです。ただの思いつきでとしか考えられないような感じ で、いかにも粗雑にクラシック音楽がつかわれた映画やドラマにふれると、クラシック音楽好きとし て、なんともやりきれない気持になります。謙虚にふれたときにかぎって、古典は、その含蓄のある ことばでぼくらに語りかけるようです。 そういうことがありますので、クラシック音楽をつかったり、あるいはクラシック音楽の演奏家や 作曲家をあつかった映画をみる前には、せっかくの素敵な音楽が無残につかわれていたりするのでは なかろうか、などといらぬことを考え、どうしても期待より不安の方が大きくなります。「仮面の中 のアリア」というベルギーの映画をみる前にもそうでした。 しかし、うれしいことに、「仮面の中のアリア」の場合、それは取り越し苦労でした。これは、オ ペラのアリアやマーラーの音楽を完全に咀嚼し、しかも、そこでとりあげた音楽に、ことばや映像で は語りえないことを語らせることに成功した、素晴らしい映画でした。この映画の素晴らしさは、音 楽を背景につかうところでとどまらず、オペラのアリアやマーラーの音楽をナイフのひとつとしてつ かい、鋭利に人生の一断面を切りとってみせたところにありました。 この頃では、オリジナルをそのまま片仮名書きにしただけのタイトルもすくなくありませんが、 「仮 面の中のアリア」の場合はちがいます。この映画のオリジナルのタイトルは「音楽の先生」となって います。いかになんでも、それでは素っ気なさすぎる、と配給元で考えたのでしょう。「仮面の中の アリア」は映画の内容を巧みに暗示した秀逸なタイトルです。いい映画がいいタイトルにめぐまれた 幸せな例というべきでしょう。 この映画のはなしの筋は、とりたてて特にどうということもないものです。「音楽の先生」という オリジナルのタイトルからもあきらかなように、現役をしりぞき、死を予感した歌い手が若い男女に 声楽のレッスンをしていく過程が淡々と語られていきます。師を慕う娘の恋が、ほんの一瞬、赤く燃 えあがったりもしますが、映画は淡々とした口調を乱すことなく、静かに展開していきます。 しかし、この映画では、口調が静かなだけにかえって、周到に準備された心理的サスペンスが効果 を発揮しています。クライマックスで待ちかまえているのは、声と声による決闘です。声と声による 決闘は、仮面で顔をかくしたふたりの若い歌い手によっておこなわれます。決闘にのぞむのは、この 映画の主人公である音楽の先生の弟子と、かつて音楽と先生と声による決闘をしてやぶれた男の弟子 です。 そのクライマックスの部分でスリルを感じるためには、ある程度、声のことを、あるいはオペラの アリアをうたう難しさを、わかっている必要があります。しかし、心配はいりません。「仮面の中の アリア」をみてきた観客は、そこにいたるまでの過程で、歌い手にとっての声について、あるいはう たうということについて、充分に教えられているからです。この映画は、その意味で、声の面からみ たオペラを、きわめて本質的に、そして平易に教えてくれます。そのようなことが「仮面の中のアリ ア」で可能だったのは、この映画にたずさわった人たちが、知ったかぶりの軽薄さをしりぞけたとこ ろにいたためと考えられます。 この映画で主人公の音楽の先生を演じているのは、カラヤンの指揮したオペラや宗教曲でしばしば ソリストをつとめてきた、ベルギー出身のバス・バリトン、ホセ・ファン・ダムです。当然、映画の なかでうたわれるアリアや歌も、吹き替えではなく、ファン・ダム自身がうたっていますが、驚かさ れるのは、その演技の見事さです。さまざまな思いが入り乱れているはずの音楽の先生の複雑な胸中 を、ホセ・ファン・ダムは、抑えた渋い演技でものの見事に演じ切っています。欧米のオペラ歌手の なかには専門の役者顔負けの演技巧者がいますが、ホセ・ファン・ダムもそのひとりです。これだけ の演技力をそなえた人がうたい演じるのだから、オペラの奥行きもちがってくるな、と思わずにいら れませんでした。 「仮面の中のアリア」は、ひたひたと、静かに情感の伝わってくる素晴らしい映画でした。映像と しても美しく、それぞれの場面につかわれている音楽も、これ以上に適切な音楽はあるまいと思える ような音楽でした。いい音楽がその音楽に適した場所でつかわれると、その音楽の美しさが一層きわ だちます。ここでつかわれている音楽すべてについて、そのことがいえるようでした。
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