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柿野欽吾 写真=増田雅与志
中にある大手メーカーの工場地は、建設当初
三洋化成工業の京都工場をはじめ、いま町
通
●智積院
●陶器塚
線
東海道本
新幹線
東海道
●
泉涌寺
河井寛次郎記念館
を 歩 け ば ︱︱︱︱
は郊外というケースがほとんどであった。各
企業の社史の当時の写真を見れば歴然である。
京都市域が発展し人口が急増するに伴い、工
場は市街地に飲み込まれていったのである。
その結果、新しい工場ほど市の中心部から遠
くなる。近代的な工場だけでなく、現在、町
中にある伝統産業もその歴史をさかのぼれば、
同じように産地が形づくられていったことが
ある。その典型例が京焼・清水焼である。
江戸前期の俳人、嵐雪の句﹁ふとん着て寝
南北細長く京焼・清水焼の窯元が点々と連な
たる姿や東山﹂
。そのなだらかな山並みの麓に
っている。大正までは五条清水と三条粟田の
両地域が窯場であった。だが大正・昭和期に
なり、南の日吉さらに泉涌寺の地域に生産地
が延びていった。新たに開窯するには傾斜地
である東山山すその適地を南に求めざるをえ
で東山を越えると山科だ。戦後は、この山科
なかったからである。その日吉から滑石街道
の東山東麓の清水焼団地に、さらに宇治市炭
山の炭山団地に京都市・府の相次ぐ計画に基
づき多くの陶工が工房を開いていった。今回
は、この京焼・清水焼巡りを試みたい。
から南にある子安の塔に向かう途上に野々村
清水寺からスタートしよう。清水寺の舞台
所の泉涌寺と東福寺に挟まれた地域であるこ
ゴールは泉涌寺だ。この泉涌寺地域は紅葉名
仁清と尾形乾山の﹁記念碑﹂がある。この二
人は、江戸初期、京都の北西、仁和寺付近や
展示・即売される。こうした﹁陶器まつり﹂は、
打って陶器市が開催され、地元窯元の作品が
泉涌寺地域だけでなく、日吉地域や清水焼団
とから、秋に﹁泉涌寺窯 もみじまつり﹂と銘
たえているわけである。清水寺からは、雑踏
地、炭山団地でもそれぞれ春か秋に開催され、
させた恩人だ。そこが遠望でき、京焼・清水
する五条坂を避けて茶わん坂を下ろう。古い
なお、明治初期に五条坂に陶磁器実験工場
掘り出しものに出会える。そのときにも訪ね
を設置するなどヨーロッパの科学的な手法を
窯場の雰囲気が味わえる。東大路通五条を少
水焼が展示即売されている。あの﹁寅さん﹂
京焼・清水焼業界にも伝えたドイツ人、ゴッ
たいものだ。
も訪れた﹁河井寛次郎記念館﹂
︵渋谷通東大路
トフリード・ワグネルの顕彰碑が、当時欧米
し北に歩けば、そこにあるのがモダンなショ
西入ル︶にも立ち寄りたい。近代陶芸巨匠の
に大量に輸出された粟田焼の窯跡︵三条通南
三条通
側の東山斜面︶の望める岡崎公園にある。機
工房と登り窯が見られる。柳宗悦主宰の民芸
ワグネル●
顕彰碑
会があれば行ってみたい。
五条
東山沿いに七条から九条方面へ足を伸ばそ
くるる五条坂
う。智積院東側の坂道脇に﹁陶器塚﹂があり、
坂
五条 茶わん坂
日吉地域の焼き物が大正期に始まったことを
●
伝えてくれる。ここ日吉から南へ泉涌寺界隈
坂
に向かう細く曲がりくねり上り下りする道脇
●
平安神宮
︿かきの きんご﹀京都産業大学経済学部教授。 一 九 四
二 年、 京 都 市 生 ま れ。 大 学 院 時 代 か ら 西 陣 機 業 な ど 京
都 の 伝 統 産 業 を 実 証 的 に 研 究。 著 書 は﹃ 和 装 織 物 業 の
研 究 ﹄﹃ 京 都 企 業 の 光 と 陰 ﹄﹃ 伝 統 工 藝 再 考 京 の う ち
そと﹄
︵いずれも共著︶など。京都府・市の伝統産業関
連の委員会・審議会などの委員も務める。
水
に窯元や各種工房、かつて使われた窯の煙突
清
見に値する。
運動に参加しただけに、そのたたずまいは必
ールーム﹁くるる五条坂﹂だ。今の京焼・清
焼の中心地でもあるここ東山にその功績をた
その奥の鳴滝で開窯し、京焼・清水焼を完成
上:泉涌寺界隈で見られる新旧の窯の煙突
下右:茶わん坂では京焼・清水焼が販売されている
下左:陶器塚
が散見され、歩いていて実に楽しい。そして、
東大路通
八坂神社
四条通
●
清水寺
●
乾山と
仁清の記念碑
●
岡崎公園
二条通
乾山記念碑(手前)と仁清記念碑(奥)
ワグネルの顕彰碑
5
2009 夏 No.455
三洋化成ニュース
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東山に京焼・清水焼を訪ねて
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