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1- 私の父について(1993年頃の文章、父の葬儀で

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私の父について(1993年頃の文章、父の葬儀で聞いた内容をまとめた。 鎌田修平筆)
私に父は酒が好きだった。時々友達が来て、酒を飲んでは大声で話していたのを覚えて
いる。また、あるときは逆に友人の家から酒に酔って帰ってくることも時々あった。
冬の夜など時々母が心配して待っていたことを思い出す。もし、道端で寝込むようなこ
とがあれば死につながるからだ。母の心配をよそに、酒に酔って帰る父にはあまり尊敬す
る気持ちが起きなかった。時々沖に出て漁をしてくる時も、母は不慮の事故を心配してい
た。
中学1年生のときに,学級担任の古屋正徳先生が家庭訪問のかえりに,「君のお父さん
はなかなかしっかりした考えを持っている方だな。」と言われた。私は少し,父に対する
尊敬の気持ちを抱いた。
私が中学生になると、二人の兄たちは就職して家を離れた。長男の景基は北海道電力(札
幌)、次男の慎吾は北酒販(旭川)へ行った。家の仕事は私が手伝う時間が増えた。父は
「俺の工場は紋別では一番小さいが、製品は紋別で一番だぞ。」
そのころは水産加工場も経営していて、「すきみ」を作っていた。(鱈の頭と内臓と骨
を取り、皮を取って魚肉を塩漬けして乾燥させたもの)
父の仕事に対するまじめさ、勤勉さは私が父から受けついだ一番大切な教訓かもしれな
い。昆布を干したり,乾燥させたり。「すきみ」を干して,乾かしたり。毎日の単調な仕
事の繰り返しだが、私も手伝いながら,身をもって訓練されてきたのだなと思う。
父は薄田佐吉の六男として生まれた。生後まもなく母キエが死んだため,鎌田ア子の養
子として引き取られた。父は鎌田弥市とア子の養子になったつもりでいたらしいが、弥市
とア子は夫婦ではなく兄妹である。鎌田家の跡取りとして入籍したのだが、嫁に出ていた
鎌田ウハが子ども重治郎を連れて家に戻ったので、後継問題が起こることを恐れて、父は
家を出ることにしたそうだ。
孫太郎の小学校時代の成績は優秀だったらしい。鎌田家も由緒ある家柄らしい。鎌田清
蔵は村会議員で,郷土資料館には鎌田清蔵から寄贈された物品が数点ある。
生家の薄田家について
先祖は薄田太三郎の足軽だったそうで、名字をもらったそうだ。(薄田茂治?談)(薄
田太三郎は県会議員をする人物である。世代的にはその何世代か前の時代だと思われる)。
孫太郎は炭鉱ではたらいたこともある。戦時中は旭川の師団に入隊。後の紋別町議会議
員木原五郎と同期だった。木原が順調に昇進したが、父は二等兵止まりだった。理由は,
「前へ進め」と言われて、横に逃げてかくれたため、と冗談を言っていたという。
戦後は樺太から紋別に来た。山崎富十郎、木村清三郎と一緒に「ニシン場」を経営した。
木村清三郎は孫太郎のいとこに当たり、彼を頼って紋別に来た。そして、中村トシにあう。
第二次世界大戦で出兵する直前、矢田ミツイと結婚し,一時『矢田』を名乗っていた。
ところが終戦になり戻ってみると,『矢田』さんたちはいなかった。戸籍には結婚した相
手の名前は残っているが,相手が住んでいた新潟市に問い合わせると(私、鎌田修平が問
い合わせた),『矢田』という姓名の人はいないという返事だった。
後に、中村トシと結婚し,再び父の戸籍が作成されることになった。このことは私が系
図を調べる過程で知ったものだ。私の父は一切このことは私には言わなかったが、兄(慎
吾)は知っていたようだ。私が系図を調べるのを両親は不快に思っていたようだが、こん
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な事情があったからかもしれない。大学生の時、除籍謄本を父に見せ,父は初めて自分の
父親の正しい名前を知った。(というより、だれと養子縁組をしていたかということと、
産みの父親の正しい名前を知った。)
中村富吉、あい、は山形県から北海道に来た。湧別町で牧場を経営していた。富吉は頑
固な性格の人だった。子どもの頭はたたくことはなかったが、妻はたたくことがあったよ
うだ。子どもの頭をたたくと,頭が悪くなるといって、たたかなかったそうだ。トシが1
0歳、タカが8歳、喜榮治が5歳の時、「もう子どもは大丈夫」といって別れたそうだ。
北浜町にいた小林さん(行商をしていた)をたよって、クリーニングをしていた村上健太
郎のところに住み込んだ。あいは子ども、一女(かずめ)を産んだ頃から体調を壊した。
体が動かなくなった。そこで健太郎は村上富吉を訪ね,子守としてタカを家に呼んだ。そ
の後一女は牛乳をのどに詰まらせ死んだという。そこで健太郎は富吉に三人の子どもを育
てるのは大変だろうからと言って,タカを養子に引き取ることを申し出た。富吉は,母親
に引き取ってもらうことにもなるので,了解した。
富吉は牧場経営に失敗し、現在の北浜3丁目の土地を所有する佐藤さんと土地を借りて
農業をすることになった。
トシ、喜榮治の二人は北浜町の家から紋別小学校に通うことになった。トシも喜榮治も
成績はよく,高等小学校まで進んだ。トシは女学校に行きたかったがお金がなく,村上ク
リーニング店で少し働いたこともあった。さらに収入を得ようと,当時親しくしていた山
崎さんのニシン場で働いたそうだ。このニシン場の若い衆(孫太郎)と知り合い、結婚す
ることになった。
一方、富吉は頑固な性格で、子どもには学校を絶対に休ませなかった。
喜榮治さんが「足を切る」ほどの大けがをした時、トシがリヤカーにのせて、喜榮治さ
んを学校まで運んだという。
また、富吉は、トシが山崎さんの家に遊びに行って,遅くまで帰らない時、マサカリを
もって怒鳴り込んだという。
当時、富吉、トシ、喜榮治は藁葺き屋根の家に住んでいたという。「越田」さんの近く
だという。時々学校の遠足で家の近くを通る時、貧乏な家が恥ずかしく,「中村の家はこ
の近くだな」と言われるのがいやだったという。
(トシの話)喜榮治さんは近くになると,
小便といって道を外れたという。
喜榮治さんは優秀だったので,小学校を卒業して,2年飛ばして中学校(?)に進んだ
という。同期の生徒に(現)東京農業大学の学長、松田藤四郎がいる。紋別北高校の2回
生だったそうだ。学資はクリーニング店で働いていたタカさんが払ったそうだ。喜榮治さ
んは理数系よりも文化系が好きで,ある歴史の先生の話は好きで,よく覚えているという。
卒業後、北海道拓殖銀行に勤めたが、網走税務署の試験にも合格したそうだ。どちらに行
くか,いろいろな人に相談したそうだが、税務署の仕事は人に嫌われる仕事だと言われ、
そちらの仕事は辞めたそうだ。当時、離婚した家庭や貧乏な家庭からの入社は異例なこと
だったようだ。彼の優秀さを感じさせる。拓銀でも出世し,本社の重役になり,退職した
そうだ。演劇も好きだったようだ。
子どもの頃から山崎さんに可愛がられ,山崎さんと親しくしていた。兄弟同然につきあ
っていた山崎光子さんに縁談があった時、彼女の友人たちから「喜榮治さんの気持ちは動
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なの」という話になった。そこで○年3月31日、喜榮治さんが仕事で忙しい最中、喜榮
治さんを呼び出し,喜榮治さんの気持ちを確かめることになった。兄弟同然のつきあいを
していたので,気持ちの整理がついたわけではなかったようだが、「光子でいい」という
返事をした。双方ともいろいろな縁談はあったそうだ。その年の11月に結婚した。
喜榮治さんが就職して2年後、富吉が耕作していた土地の近くに家を建てた。
孫太郎とトシは結婚して数年間、林さんの家の別室で生活し,子どもをもうけた。しか
し、父の戸籍がなかったので,中村トシの私生児という扱いだった。数年後、景基(長男)
が小学校に入学するころ正式に戸籍を作ることができた。
私には,北浜町1丁目の林さんの家で生活していた頃からの記憶がある。冬になると防
寒のためにむしろを下げていたのを覚えている。すぐ近くに海があった。
その後、北浜町3丁目の喜榮治さんが建てたという家に引っ越し,富吉とわたしたちの
家族と住んだことを覚えている。しかし、富吉さんには悪い印象しかない。すでに認知症
だったのか,家族に「どろぼう」といったり、怒りっぽかったりしていたように思う。も
っとも、当時の私には認知症の知識は無かった。しばらくして、富吉さんは別居し,花園
町の中村喜榮治さんの家に住むことになった。中学1年生の時、なくなり、同じクラスに
いた、いとこの村上善昭とともに葬式に行った。
村上あいさんは村上クリーニング店を訪問した時、いつも布団の中に寝たきりになって
いたのを覚えている。私が高校生の時亡くなり、葬式が終わってから連絡があった。「学
校を休ませたくない」と父が判断したそうだ。
父、母の家系には優秀な人が多い。そして貧しかった。母の兄弟はよく助け合っていた。
貧しかったがまじめに努力したので成功したと思う。私が一人福音を知ったが、私はこう
した先祖を救う責任がある。やることは事務的なことで、大したことではないが、人の救
いという意義の深いことだ。
(2014 年 6 月 28 日
-3-
入力終了)
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