第23回 埋もれた名匠~デュヴィヴィエのセンチメンタリズム 戦前フランス映画の巨匠といえば、まずジュリアン・デュヴィヴィエの名を落とすわけにはいかな いだろう。日本人にはいかにも発音しにくそうな名前をもったこの巨匠が、なぜにわが国でもっとも 愛されたのか。 1930年代、トーキー初期の時代にあって、しばらくフランス映画の全盛期が続いた。その中でひと きわ日本人の好みにぴったり合ったのがデュヴィヴィエである。戦前のフランス映画は、きわめて 厭世的なペシミズム(悲観主義)が支配していて当時の日本の知識人層に好まれ、楽天的なハリ ウッド映画と好対照をなした。ルネ・クレールの「巴里の屋根の下」(30年)、「巴里祭」(32年)、ジャッ ク・フェデーの「外人部隊」(33年)、「女だけの都」(35年)、デュヴィヴィエの「望郷」(37年)、「舞踏会の 手帖」(37年)、「旅路の果」(39年)、ジャン・ルノワールの「大いなる幻影」(37年)、「ゲームの規則」(39年)と、当時の四大巨匠が残した 作品群を一覧するだけで映画ファンなら背筋がゾクゾクするほどの興奮を覚えるはずだ。これに「悪魔が夜来る」(42年)、「天井桟敷 の人々」(45年)のマルセル・カルネを加えてフランス映画古典期のビッグ・ファイブという。 そのほかに、かれらと同世代にクロード・オータン・ララ(「肉体の悪魔」47年)や、ジャン・コクトー(「美女と野獣」46年)、マックス・オ フュルス(「輪舞」50年)という独自の映像美を構築した異才がいたし、それに続く世代がジャック・ベッケル(「現金に手を出すな」54 年、「穴」60年)、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー(「情婦マノン」48年、「恐怖の報酬」53年)、ルネ・クレマン(「鉄路の闘い」46年、「禁じ られた遊び」52年)である。さらに、後のヌーヴェルヴァーグとの橋渡しをしたのがジャン・ピエール・メルヴィル(「恐るべき子供たち」 50年)であった。 もちろん、デュヴィヴィエといえば「望郷」(ペペ・ル・モコ、写真上)である。アルジェリアはカスバの暗黒街に顔を利かせるジャン・ ギャバンがパリからやって来たという高嶺の花の美女(ミレーユ・バラン)に恋慕し、やがて女がカスバを去る日、警察に拘束された 手錠姿のギャバンが女の乗る船の出港を見送りながら片手に隠し持った短刀で割腹して果てるラストシーンは何度見ても泣かされ る。それから、畢生の名優と謳われたルイ・ジューヴェやミシェル・シモンらフランス劇壇の逸材が揃った「旅路の果」もすばらしい。役 者ばかりの養老院での人間模様、とくに大根役者のなれの果てを演じた芸達者なシモンが実にいい味を出している。 フランスが第二次世界大戦中にナチス・ドイツの侵攻を許し、パリを占領されたときも、多くの映画人が国外に逃れるなか、カルネ は映画史上の傑作といわれる「天井桟敷の人々」をパリに残って撮っている。ドイツに懐柔されたペタン元帥がフランス南部のヴィ シーに傀儡政権を樹立し、戦後に大統領となる反ナチのド・ゴール将軍はロンドンに臨時政府を打ち立てて対抗する。 そうした中、デュヴィヴィエとルノワールはともにハリウッドに避難した。前者は「運命の饗宴」(42年)、「肉体と幻想」(43年)という粋 なエピソードをつないだオムニバスの佳作を、後者は「南部の人」(45年)という牧歌的な佳作を生んだ。英米軍によるノルマンディー 上陸作戦が決行されてフランスがドイツから解放され戦争が終結すると、ド・ゴールが民衆の歓呼を浴びてパリに凱旋帰国し、映画 人も祖国へ戻った。帰国後のデュヴィヴィエもまた精力的に映画づくりに励んだ。しかし、かれの不在中に国内での評価が急降下す る。幅広い題材を器用にこなして人情の機微にふれたデュヴィヴィエ作品は戦前までで封印され、戦後のかれを通俗性の強いただ の職人監督と見下す流れができた。とくにヌーヴェルヴァーグの若手監督や批評家たちは印象派の巨匠画家を父に持つルノワール を偉大な師と崇めるいっぽう、デュヴィヴィエを徹底的に無視した。たしかに戦後のデュヴィヴィエが往年の精彩を欠いたことは事実 である。しかし、だからといって、万能選手から器用貧乏な職人に格下げされるほど、腕が落ちたとは思えない。それはデュヴィヴィ エ特有の感傷趣味、叙情性(まさにそれこそが戦前の日本人の感性とマッチした特質である)が、もはや戦後の冷徹なリアリズム、 批判的思考の前では色あせて時代遅れに思われたからだろう。 戦後も「アンナ・カレニナ」(48年)、「巴里の空の下セーヌは流れる」(51年)、「埋れた青春」(54年)、「わが青春のマリアンヌ」(55年)と 日本人好みの佳作を連打した。そうした中で私が好きなのは「陽気なドン・カミロ」(51年、写真下)である。フランスの国民的な人気コ メディアンのフェルナンデルが村の司祭に扮し、イタリアを代表する名傍役ジーノ・チェルヴィ扮する共産党の市長との対立がコミカ ルに描かれる。まあ、デュヴィヴィエの手柄というよりは、いわば舌を巻くほど巧いご両人の演技 とキャラで見せる映画である。伝統のカトリシズムと新興のコミュニズムの対立を図式化して皮 肉ったこの映画は高く評価された。馬面フェルナンデルと丸顔のチェルヴィのコンビが大いに受 けて、続編「ドン・カミロ頑張る」(53年)が作られた。 それから、「殺意の瞬間」(56年)も私の好きな作品だ。センチメンタルな恋愛ものが得意なデュ ヴィヴィエだったが、スリラー好きの私には、やはりハラハラドキドキのほうがおもしろい。監督と は名コンビのギャバンがパリの下町のレストラン経営者兼コックに扮し、店に毎日のようにやって くる貧乏学生(ジェラール・ブラン)を倅のように可愛がっている。そこへ現れたファム・ファタール (運命の女、ここでは悪女)ともいうべき小娘(ダニエル・ドロルム)が計略によってふたりの仲を裂 くという話である。 社会派のルネ・クレマンがアラン・ドロンを使って秀作「太陽がいっぱい」(59年)で成功して以来、相次いでサスペンスのヒットを 放ったのを尻目に、デュヴィヴィエもまた後輩に負けてはいられないと発奮したのか、自動車事故で記憶を失った男(アラン・ドロン) が事件に巻き込まれるというスリラー「悪魔のようなあなた」(67年)を撮る。フランスの盲目のサスペンス作家ルイ・C・トーマの原作 だが、この映画だけはデュヴィヴィエびいきの私もさすがに首を傾げる駄作であった。そうして、恵まれぬ往年の巨匠監督は、皮肉な ことに映画完成後すぐに自ら運転する自動車の衝突事故で急死するという映画さながらの最期となった。(2013年11月1日)
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