文学における真と美

文学における真と美*
父路門
フランソワ
正田靖子
訳
なぜ詩人や小説家は詩や小説を書くのか。なぜ我々は詩や小説、随筆を読む
のか。なぜ我々は芝居を見に行くのか。より抽象化していえば、次のようにな
る。第一に、なぜ我々は文学を営むのか。第二に、なぜ文学は存在するのか。
第三に、なぜ人は文学に関心をもつのかとなる。
文学研究者、文学部の教授や学生、あるいは文学愛好者は、概ね幾度となく、
これらの問題について考えたことがあるに違いない。果たして、明確な回答を
見い出しえた人が、多くいたか否かはわからない。この抽象的な問題の答えを
出そうと努力するよりも、むしろ文学とともに生きることの方が重要であると
もいえる。
斯くいう私も、この問題について、明確かつ完璧な答えを出すことはできな
い。敢えていうならば、ただ我々が人間であるからだというのが、回答といえ
るかもしれない。人類が存在する所には、文学と文学への嗜好が常にあった。
たとえば文字が使用される以前から、あらゆる民族で詩-叙事詩-や物語が作
られ、歌われ朗唱され、また鑑賞された。動物は、全エネルギーを現前の欲求
を満足させるために使う。記憶力は微量で、過去に対する後悔の念を持たない。
唯一の希望は差し迫った欲求に向けられている。これに比べて、人間はしばし
ば、不完全であった過去を美化したり、懐旧の情に思いを巡らす。また絶えず
現在よりも素晴らしい未来を夢見る。このような後悔の念や懐旧の情、素晴ら
しいものへの期待が、詩や戯曲・小説を無尽蔵に生み出す原動力なのではない
だろうか。
定年を向かえ、神がお望みになれば新しい春と仕事とに奉仕し、文学から少
し距離をおくようになる可能性がある。そこで改めて、この問題について考え
てみたいと思う。つまり、文学とは何か。その目的や価値は何か。なぜ文学は
我々を魅了するのかについて、考えてみたい。
シャルル・ぺギーは、私にとって最も大切なフランスの作家である。彼は
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1900 年 1 月『カイエ-ド-ラ-キャンゼーヌ(半月手帖)』の最初のシリーズの第1
号に「田舎の友からの手紙」という記事を書いている。この記事はパスカルへ
敬意を表したものなのだが、ぺギーは自らに次の目標を課している。その目標
とは、「真を、すべての真を、真のみを述べること。愚かな真を愚かに述べるこ
と。煩わしい真を煩わしく述べること。悲惨な真を悲惨に述べること。」(1)
この文章は多分に挑発的である。好ましい真、素晴らしい真、喜ばしい真で
あれば、真を述べるのは簡単である。だが真が悲惨に、煩わしく、愚かに見え
る時にこそ、真を述べる必要がある。この義務感は、強い力をもって作家ぺギ
ーに迫ったと考えられる。通例、真を述べるといった使命は、まず『半月手帖』
の創刊者、その主幹たるジャーナリスティックな文章に適用されることではあ
る。しかしながら、純粋に文学的な作品やエッセーばかりでなく、詩や戯曲『ジ
ャンヌ・ダルク』においてまで、ぺギーはこの目標-「真を述べること。悲惨
な真を悲惨に述べること。」-を厳しく掲げていた。この点に疑いの余地はない。
三つの作品で構成される戯曲『ジャンヌ・ダルク』は、文体がとても簡潔で、
素朴ですらあり、またわずかに古風なために、作者ぺギーは浮世か、夢、ある
いは理想郷にいるかのような印象を与える。しかしながら、この戯曲の見せ場、
たとえば兵士へのジルドレの話方とジャンヌ・ダルクの話方とを対比させる場
面では(2)、名君と民衆あるいは暴君と民衆という人間関係の真を、言葉と文体と
を通して表現しようと努力している。ここでいう言葉と文体とは、当然のこと
ながら、社会学者や歴史学者のものではない。詩人と戯曲家の、言葉であり文
体である。
真に到達し、これを表現しようとする努力と探求とは、フランスの著名な古
典作家たちにも認められる。彼らが、本性または生来の性格と呼ぶものは人間
の真であり、しばしば情念によって意識的に隠蔽されている。だが、彼らはそ
れらを作品の中で曝露する。
真を示すための手法は、数多くある。モリエールは喜劇作品の中で、情念に
隠された人間の真を明らかにした。また人間関係の、たとえば家族関係などや、
時に金銭や情念によって歪められた人間関係の、真を暴いた。人間の真を示す
ためにモリエールは、道徳論や心理学概論を書く必要はなかった。またそのよ
うな書物を著したとしても恐らく彼は成功しなかったであろう。彼は、ただ喜
劇によって人間の真を表現し、暴き出した。
これに対して、17 世紀に最も精緻に人間の情念を理解したといわれる作家、
すなわちラシーヌは、悲劇のヒーローやヒロインを通して情念を描いた。ラ-ブ
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リュイエールの表現を借りるならば、「かくあるがごとし」に描いた。
各人が得意とする文体とジャンルとによって、フランス古典主義の一流作家
は、人間の真を探究し明らかにした。この点はフランス文学の特徴といいえる。
そのようにいいえよう。だがあえて危険を冒していうならば、フランス文学以
外の、たとえば日本文学に一例を求めるならば、夏目漱石の小説もまた、人間
の真を探求し発見するものであったといえるのではないか。しかし間違う危険
性の少ないフランス文学に、論点を集中させるほうがよかろう。
真を発見し、描写しようと試みたのは、17 世紀の古典作家に限ったことでは
ない。20 世紀のフランス小説は、17 世紀の演劇と同様に傑出した地位を得てい
る。小説の本質はフィクションである。近年、出版界では、英語の影響から、
フィクションとノンフィクションとを区別する傾向がある。この区別の前提に
は、フィクションは美しく、楽しく、面白く、刺激的ではあるが、真ではない。
真があるのはノンフィクションのほうにであるといった認識がある。
終わりを告げたばかりの 20 世紀は、小説の時代であると同時に、人文科学が
飛躍的に発展した世紀でもあった。この点は日本の大学という小さな世界にい
ても実感できた。学生たちは心理学に殺到した。彼らは、自らの悩みを理解し、
解決できるようにしたい。自分の周囲で悩んでいる人の手助けをしたいと強く
希望している。この望みの実現は、ある程度は期待できよう。
前述したように、文学作品はフィクションであり、人文科学概論と違い技術
的な研究の代替物とはならない。しかし文学作品、ことに小説は、それがたと
えフィクションであろうと、独自の手法によって、鍛えられた心理学概論と同
レベル、あるいはそれ以上に人間の真について語ることができる。人間や社会
に関する真を明らかにし、語る方法は幾筋もあるのである。フィクションの言
葉は、我々に人間の生と心とに関する真を理解させることができる。
20 世紀のフランスの小説家の中からひとり選ぶとすれば、モーリャックをあ
げたい。「これらの作品は偽りである。我々の家庭やこの世の中にこのような人
物など存在しない。」と、反論する読者は少なからずいよう。それはモーリャッ
クが描く苦悩するヒーローやヒロインに憤慨し、あるいは嫌悪するためである。
ところが、フランスと日本との空間を超越し、心の内なる目を開くならば、モ
ーリャックが描く男と女、情念や愛あるいは嫉妬や怨恨に苦悩する男と女、そ
して金銭によって引き裂かれた家族、あるいはコミュニケーションが欠如した
家族は、周囲にいる人々であり、何よりも自分自身であるのだと、誰しも、認
めざるを得ない。これに留まらず、モーリャックの全ての小説に輝く一条の希
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望の光りを見い出すに相違ない。
幾度も述べてきたように、たしかに小説は現実ではない。文学作品では、必
要なものが選ばれ強調される。不必要で重要でないものはすべて省略される。
一方、実際の日常生活では、様々なものが我々の注意をそらし、重要なものを
見失わせる。繰り返せば文学は、平凡な現実と異なっているからこそ、なにか
雑多なものが入り混じっている日常や現実が隠蔽する真を、我々に教えること
ができる。
もしも小説家の作品が銀行や駅のホームに設置された自動カメラと変わらな
いとしたならば、どんな興味も引かないだろう。なぜ同じ物を二回も見る必要
があろうか。どのみち理解不可能な人生を、なぜ二度も経験する必要があるだ
ろうか。ところが、芸術作品は写真家が自動カメラと入れ代わった瞬間から始
まる。写真家は選び、それを際立たせる。この作業こそ、小説家が卓越して行
ってきたことなのである。
小説家は我々に、新しい言葉で新しい真の見方を示してくれる。手の施しよ
うのないほどの、理解力が欠如した状況に陥らないためには、その言葉を読み
取り、その見方をつかむ訓練をしなければならない。モーリャックの小説に反
発し、それが偽りであると思い込む読者は、おそらく読み取る力がなかったの
だろう。子供の頃に字の読み方は学習しても、小説の言葉を読み取る能力は身
についていなかったのだろう。
言葉を教え、文学の読み方を教えることは楽しい。文学の前にする語学の授
業も同じように楽しいが、やや堅苦しいところがある。文学の授業は素晴らし
く、学生に読み取る技術を教えようとしているのだという実感を、私は常にも
っていた。
20 歳の学生は、すでに多くの物を読んでいる。しかし読むことを教えるとは、
文学作品の新しい言葉の読み方を教え、文学が内包している真の理解の方法を
教えることだ。また、色めがねをかけずに読むこと、つまり偏見というプリズ
ムを除去して作品を読むことを教えることなのだ。偏見は、既知あるいは既知
と錯覚している事柄しか通さない。そのため、多くの物を読んでも、蓄積され
るのは、以前と同じ狭い考え、貧弱な知識だけということになりかねない。
批評家であるアンリ・ギユマンは、作家であるジャン・シュリヴァンを評し
て、「嘘をやや少なくするために文章を書く」という名言を残している(3)。
ジャン・シュリヴァンは、1980 年に事故により死亡したが、多くの小説やエ
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ッセーを残している。ガリマール社の叢書「切り開かれた道」の主幹を務めた
彼の作品は、多くの読者を得ることはなかったが、エリートを惹きつけた。ア
ンリ・ギユマンの名言-「嘘をやや少なくするために文章を書く」-は、逆説
的な表現によって、ジャン・シュリヴァンの作品を的確に位置づけている。こ
の位置づけは概ね、シュリヴァン以外の多くの作家にも適合しよう。
以下、ジャン・シュリヴァンの作品『もっとも小さき淵』から引用したいと
思う。「長い間、かつて教えられたように、私はどちらかと言えば、緻密で、主
観を抑えた、古典的な作品を好んだ。今でも自分で意識する以上にそのような
作品に惹かれる。奇跡のように完結し、それ自体で充足している作品。触れる
ことさえ憚られる。しかしそうした作品の光沢は、以前ほど強い印象を与えな
くなった。その透明性が私を不安にする。(中略)時として、文章を逆さにするだ
けで、正反対の事を変わらぬ鮮やかさで表現することもできるのである。あら
ゆることを表現できる素晴らしい偶像だが、決して自らの嘘を告白はしない。
しかし、仮にそうした能力をもちあわせていたとしたら、一体誰がこうした偶
像をつくりたいという誘惑に逆らえようか。」(4)
作家がここで問題としたのは、嘘をつく誘惑に抵抗することである。言葉は
不完全で、多すぎると同時に少なすぎる。理解力は決して完璧ではなく、常に
理解できていない部分がある。表現したい感情と、それを表現する文章の整合
性も決して十全ではない。言葉は常に多少の偽りをもっている。にもかかわら
ず、作家は沈黙に打ち沈むこと、表現することと理解することとを断念しない
限り、言葉を使わなければならない。ゆえにジャン・シュリヴァンの努力は、
アンリ・ギユマンが故意に用いた極端な表現を借りるならば、できるだけ嘘を
少なくするように言葉を使う努力をする、となる。文学は可能な限り真を書く
が、おそらく完全な真に到達することはないと思われる。
ただし、シュリヴァンは、完成した古典的な作品を書けないといった失望感
から、上記の努力に身を投じたわけではない。なぜならば、「素晴らしい偶像」
と呼ばれるものを創造する能力を彼は持っていた。また文学活動を開始した当
初から、稀にみる完成度の高い短編集『反逆者の幸福』(5)を書いているからだ。
しかし作品の中で、真により肉迫する努力を彼は続けた。
ここで特に、キリストを信じる作家の事例をとりあげて、検討してみたい。
その事例とは、シュリヴァンの『私個人の小さな文学』の最後にある「キリス
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トを信ずる作家の論理」(6) である。これは、言葉を扱う者として、言葉や美に
よって考えを表現することは聖パウロがいう「やかましいシンバル」(7) に等し
いということを、自覚している人に向けて書かれたものである。しかし、言葉
や美は、必然として打ち破られねばならない。キリストを信じる作家は、真に
完全に忠実であるためには、永遠に同じメッセージを誠実に繰り返すだけでは
いけない。メッセージを至上としそれを正確に伝えるために、すべての言葉を
捧げたとしても十分ではない。そこに真の忠実はない。なぜならば、復唱は死
んだ(生気のない)言葉を伝える危険性があるからだ。
ここで再び、ジャン・シュリヴァンの『最も小さき淵』を引用しよう。「たと
え私達の外部で真が不易であろうとも、私達の内なる真への歩みは不易ではな
い。言われることは、まだ言われていないことであり、見い出されるものは、
まだ見い出されたことがなかったものなのである。反復する人はうわべだけが
忠実となる。人間の心の中で再び燃え立つことがなくなった真は、歪められた
真である。」(8)
作家は、ある時代の混乱や渇望の中で、真を受け入れ、人の心の中に真を新
しく燃え上がらせ、今一度、真に活力を吹き込む人である。いつの世も、真は
不変であり、新しい時代の如何なる作品においても、真は常に新しい。
キリストを信じる作家は、人の心を通過すると真に不純物が混入することを、
とくに意識しなければならない。ただし、不完全であろうとも、真を表現しよ
うと努力する作家の言葉は、不滅で活力に溢れているといえよう。作家のこの
ような言葉によって、真ははじめて読者に伝わる。
もう一つ解決しておくべき問題が残っている。ここまで行論に辛抱強くお付
きあい下さった方は、きっと満足しておられないと思う。それには肯首できる。
真の探求は、哲学が目的とするところである。文学が真の探求を目的とするな
らば、哲学と混同されてしまうだろう。しかも我々の現実は、そのようなもの
ではないと承知している。哲学は観念によって成立し、一方、文学は言葉によ
って成り立つ。いや、文学は文章によって成立しているといった方が正確であ
ろう。孤立した言葉には生命力がない。辞書の中の言葉は死んでいるか、眠っ
たものである。文章のみが、たとえそれがどれほど短くとも、意味と活気とを
持つ。つまり、文章のみが生きているのである。
言葉と文章を使用するにあたり、作家は選択し、構成して、結び付ける。作
家は、可能な限り、美を追求する。音の調和や、喚起と照応との調和によって
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美を探求する。先に、小説は心理学の技術論ではなく、理論書の代替物でもな
いと述べた。しかしその持ち味が十分に生かされるならば、小説は技術論をは
るかに凌駕している。文学作品は、読者の理性にのみではなく、人の心の底、
つまり感覚に訴える。
モーリャックの小説『蝮のからみあい』の有名な場面が 11 章(9)にある。それ
は、雷雨が花の咲いたぶどう畑を襲う場面である。そこで、自然の中で突然に
起る雷雨や、主人公ルイの心を引き裂く嵐を、我々は理性だけで理解している
わけではない。勇壮で恐ろしい光景が我々には見えている。あらゆる音が聞こ
えている。雹の粒が皮膚に打ち付ける痛さまで感じられる。美と恐怖が我々を
捕らえている。ここには、あらゆる著名な文学作品と同じように、理性が捕ら
える真を超えた、何かが存在する。
理性を超えたこの力こそが、美である。この美こそが芸術である文学を特徴
づけていると考えられる。13 世紀の『真理論』の結論部分でトマス-アクィナス
は、ラテン語で“Bonum et verum convertuntur”と記した(彼は『神学大全』にお
いてもこの表現を用いた)(10)。この簡潔なラテン語を、同じように簡潔な表現
でフランス語に訳すのは困難であるが、それを試みるすれば、「善と真は完全に
対応する」あるいは「善と真は合致する」となろう。このように断言する聖ト
マスは、哲学者また神学者として、あるいはモラリストとして語ったといえよ
う。しかしあえて言うならば、中世のこの著名な哲学者の表現は、芸術と文学
を語るについて、不十分であったと言わざるを得ない。“Bonum et pulchrum et
verum convertuntur”「善と美と真は合致する」とすべきであったろう。
美と真と善との完全な一致は、常に明白であるとは限らない。人間の苦悩、
懐疑や過失を通して、作家は進んでいく必要がある。しかしそれは、17 世紀の
著名な古典作家から、我々に馴染み深い 20 世紀の作家に至るまで、様々な有名
作家が作品の中で実践してきたものである。つまり、美と真とは一致する。
しかしながらこの点は、必ずしも自明ではない。これとは違う目的が作家と
読者とを惹き合せることもある。ある作家は驚嘆、新しさ、奇抜を作品で追求
するかもしれない。真や美によって感嘆させる以前に、彼らは驚嘆や醜聞によ
って、人々の興味を惹きつけようとするかもしれない。
仮に境界線が存在すると前提するなら、これらの境界線は、現実の世界を描
く作家と、非現実的な世界を描く作家との間に横たわっていると考えるべきで
はないだろう。非現実的な世界は妖精・魔法・空想など、あらゆる形式で描か
れるが、いずれも独自の手法で真を表現しうる言葉である。
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サン=テグジュペリの『星の王子さま』は、フランス文学の中では唯一、日本
でも 1 億 2500 万人が読み、人気の高い作品である。『星の王子さま』には、象
やバオバブ、星の間を飛翔する野生の雁が登場し、現実の世界の描写とは隔絶
している。しかし、王子さまによって、子供から大人まですべての読者は、そ
れぞれのレベルで、美しさに感嘆し、真を愛する気持ちにさせられる。類似す
る例は数多くある。一つあげるならば、ジロドゥの『オンディーヌ』がある。
この作品も非現実的な世界を描いているが、我々に人間の真を伝えている。
不幸にも境界線が存在するならば、それは作家の意志によって決定される。
それは、奇抜や新しさや意外性ではなく、美と真の一致を追求して、それを読
者に提供しようとする意志である。
20 世紀は、作家の仕事とジャーナリスティックな活動の両面で活躍した作家
を多く排出した。そのため本論文の最後では、文学を取り巻いていると思われ
る危うさとジャーナリズムを脅かす危険とを比較することにしよう。本論文の
冒頭で、ぺギーの言葉を引用した。純然たる文学作品を執筆する以前に、彼が
雑誌の主幹としてジャーナリスティックな作品に対して語ったあの言葉である。
ぺギーは、ジャーナリストの責務は、時に、真が、愚かに煩わしく悲惨に見
えようとも、真を、すべての真を、真のみを叙述することにあるとした。近年、
ジャーナリストは、真、とくに煩わしく悲惨に見える真を蔑ろにして、斬新で
面白く奇抜なもの、あるいは読者の興味を惹くもの、ひいてはスキャンダルま
で、つまり英語でいうところの「ニュースヴァリュー」を優先するという誘惑
に侵されている。
文学は、美と真を追求する営みである。文学が、奇抜なものや驚嘆すること、
あるいは醜聞に引きずられすぎるとすれば、残念なことだと思う。20 世紀はフ
ランス文学、とりわけ小説にとって大変、充実した世紀だった。21 世紀の初頭、
我々の進歩が作り上げた危険な迷路の前で、途方にくれることがあまりにも多
い世の中となっているが、我々は、作家に大きな期待を寄せよう。彼らは、お
そらく新しい文体によって、美と真と善との一致をさらに追求していくことだ
ろう。
(*) 本論文は、2001 年 11 月 10 日に上智大学フランス語フランス文学会第 22
回研究発表会における特別講演「文学における真と美」をもとに作成した。
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注
(1)
シャルル・ぺギー『ぺギー全集/散文作品』第 1 巻、プレイヤード版、ガ
リマール、1987 年、291-292 頁。
(2)
シャルル・ぺギー『ぺギー全集/詩作品』プレイヤード版、ガリマール、
1975 年、169-170 頁。
(3)
アンリ・ギユマン『シュリヴァンあるいは解放する言葉』ガリマール、1977
年、143 頁以下。
(4)
ジャン・シュリヴァン『もっとも小さき淵』ガリマール、1965 年、12-13
頁。
(5)
ジャン・シュリヴァン『反逆者の幸福』ガリマール、1960 年。
(6)
ジャン・シュリヴァン『私個人の小さな文学』ガリマール、1971 年、137
頁以下。
(7)
『コリント信徒への手紙一』13 章第 1 節。
(8)
前掲書、15 頁。
(9)
フランソワ・モーリャック『モーリャック全集/小説と劇作品』第 2 巻、
プレイヤード版、ガリマール、1979 年、459-461 頁。
(10) トーマス・ダキャン『真理論』終わりの行に。『神学大全』諸所に。
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