高校生のころ名画座で見た「楢山節考」(1958年、写真上)は、私の大好きな映画のひとつである。深 沢七郎の原作は姥捨てという貧村の因習に材をとりながら、悲惨で悲劇的な話に終始するはずの物語を 至って淡々と民話的なユーモアで包み込むという鮮やかな手法を用い、当時文壇でも評判となった。そ れを「日本の悲劇」「二十四の瞳」の木下恵介(写真下)が映画化するというので、果たして深沢文学 の脱日本的な「アンチ・ヒューマニズム」を表現できるのかという危惧がささやかれた。案の定、完成 した作品は伝統的な日本の語りの世界に代表されるような涙無くしては見られない、きわめて浪花節的 な物語となった。この映画に対してベテランの批評家たちは絶賛し、その年のキネマ旬報ベストテンの 1位に選出される一方、若手の批評家は深沢文学の本質を誤解した失敗作だと酷評した。否定的だった のは若手批評家だけではない。映画の撮影現場の間でもそのいらだちがあったらしい。小津安二郎の「東京物語」(53年)の助監督だった若 き日の今村昌平は、松竹の水が合わず日活に移籍し、異才として頭角を現しつつあった川島雄三の助監督についた。その当時、古巣の松竹 の「楢山節考」を見て違和感を覚え、自分なら違う撮り方をすると感じていた。そもそも、今村は天才肌の木下が松竹のスタジオの中を美 少年揃いといわれたスタッフを従えて肩で風を切る勢いで闊歩する姿にある種の劣等感を抱いていた節がある。美少年にはほど遠い今村が 木下から疎まれたとしても仕方がない。 当時、フランスでは「カイエ・デュ・シネマ」という映画雑誌を中心に従来の映画づくりを否定する若い世代が台頭して、世にヌーベル バーグと呼ばれた。欧米でも日本でも監督は既成の映画スタジオで現場の苦労を積んでから昇進するものだったが、いきなり映画評論家や アマチュアの映画の作り手たちが商業映画の製作現場に入り込んできた。こうした動きは各国に波及し、わが国においても既存の映画会社 の枠組みからはみ出した記録映画や実験映画の世界から劇映画を撮る監督が現れ、羽仁進や勅使河原宏は前衛の旗手 として注目された。また、大手の映画会社の中からも変革者が出ることになる。先ごろ亡くなった大島渚や篠田正 浩、吉田喜重らは松竹ヌーベルバーグと呼ばれる一連の反体制的な作品を全く新しい表現手法を用いて発表して行 く。そうした動きを尻目に黙々と松竹伝統の小市民喜劇を撮り続けていたのが「男はつらいよ」でブレイクする前の 山田洋次であった。 一方、大映の増村保造、日活の今村昌平らも新感覚の映画作品を世に送り出すこととなる。日活にはほかにも今村 の師匠格の川島雄三(「幕末太陽伝」57年)、型破りの映画を連発し会社からにらまれていた鈴木清順、スタイリッ シュな映像感覚で知られた中平康(「狂った果実」56年)がいて個性を発揮していた。清順はNHKの名司会者として 知られた鈴木健二の実兄だ。殺し屋がひと仕事したあと、殺しの現場で茶漬けを食うというシュールな場面を撮って、ときの日活のワンマ ン社長、堀久作をして「わけのわからん映画ばかり撮る」と憤慨せしめ、しばらく干されたという逸話の持ち主だ。とくに高橋英樹主演の 「けんかえれじい」(66年)は、毎日けんかに明け暮れる旧制中学生の青春を描いて熱狂的なファンを獲得した。主人公が田舎をあとにして 東京に出て行くというラストで、その列車に乗り合わせた眼光鋭い男と目が合う。誰が見ても「北一輝」だとわかるそっくりさんが扮した エンディングが忘れられない。 ところで、「楢山節考」だが、私にはけっこう新鮮だった。というのも、木下は深沢文学を単にオーソドックスな形で映画化したのでは ない。冒頭から浄瑠璃仕立てで物語をはじめる。背景はすべて張りぼての岩やセットの山々。徹底した人工的世界の中で姥捨ての話が進行 して行くのである。こうしてリアリズムを排して、民話的、説話的な世界を構築した。それが、木下なりの深沢文学の理解の仕方だったの だ。しかし、そのベースはあくまで純日本的な浪花節的世界であり、涙、涙のセンチメンタルな物語が主旋律を奏でる。深沢のめざした脱 浪花節的世界とは相容れない、むしろそれとは逆行する描き方に若い世代の多くが反発したのだろう。この映画は、しかし、カンヌ国際映 画祭に出品され、最終選考まで残った。大賞の決戦投票で稲垣浩監督の「無法松の一生」(阪東妻三郎ではなく三船敏郎主演版)に敗れ賞 こそ逸したが、よく健闘した。ところで、姥捨ての運命に抗うことなく従容として死地に赴くことを願う老母に扮した田中絹代がいい。口 減らしのために母を涙ながらに捨てに行かざるを得ない倅を当時松竹では佐田啓二と人気を分け合った高橋貞二が好演した。このふたりと 若き日の鶴田浩二を松竹「新三羽がらす」というのだが、高橋はその後ほどなく交通事故のため夭折する。木下のショックは如何ばかりで あったろう。運命のいたずらか、高橋と仲が良かったライバルの佐田も数年後にあとを追うように交通事故で亡くなった。不思議な因縁と いうほかはない。 その後、木下は「楢山節考」を自ら失敗と認めたのかどうか知らないが、もう一度深沢文学の映画化に挑戦している。こういうところが 木下のえらいところで、戦国時代の戦乱に翻弄されながらしぶとく生きる農民の姿をやはりドライなタッチで描いた深沢の代表作「笛吹 川」がそれだ。こんどは、いつもの木下と違って、深沢ワールドに忠実な(乾いたユーモアを漂わせた)描き方をしている点がなるほどと 思わせる。もっとも、深沢自身が映画化を許諾したということは前作(楢山節考)を満更でもないと認めたからだろうか。たしかに、「笛 吹川」(60年)は原作の意図をよく咀嚼して理解も行き届いていると思うけれど、私には「楢山節考」ほどの感動を覚えなかった。 ずっと後年になって、例の今村昌平が「楢山節考」をリメイクした。かつて木下版に不満を感じ、自分ならこう撮ると思い続けていた積 年の企画だ。坂本スミ子、緒形拳主演のリメイク版(83年)は、リアリズムに徹しているけれど、惜しむらくは今村が得意とする土俗的な ユーモアに欠けていた。再びカンヌに出品され、今度は大賞に輝いた。国内でも、ようやく深沢の世界に忠実な映画化が成功したと、批評 は概ね好意的だった。しかし、果たしてそうか、と私は思った。今村昌平は私の大好きな巨匠のひとりだが、このリメイクだけは頂けな かった。正直なところ、やはり高校時代に見た木下版が私は好きだ。 (2013年3月1日)
© Copyright 2024 Paperzz