研究会報告「リム・ブンケンと海峡華人:歴史的再評価」(篠崎香織・戸田

JAMS News No.38 (2007.7)
研 究 会報告『リム・ブンケンと海峡華人:歴史的再評価』
篠崎香織(欧亜大学)・戸田賢治(一 橋大学大学 院)
シ ン ガポ ー ルの 近 代史 にお い て政 治、 経 済、 文化 と 多岐 に わた る 分野 で重 要 な
役 割 を 果 た し た リ ム ・ブ ン ケ ン (1869- 1957)の 逝 去 50 周 年 を 記 念 す る 諸 行 事 が
2007 年 1 月 24 日から 27 日まで開催された。 そ の開幕は、1901 年にリムが出版
した The Chinese Crisis From Within の再出版 を記念するワン・グンウ教授によ
る講 演会 で あっ た。 さら に 、リ ム・ブン ケ ンの 曾 孫に あた る ステ ラ・コン は リムの
生 涯 をミ ュ ージ カル に して いる が 、そ の作 品 の演 出 であ る ヴィ クト リ ア調 の音 楽
や歌がライブで披露された。翌 25 日には 、リム ・ブンケンに縁ある場所をめぐる
バ ス ツア ー が行 われ 、 個人 では な かな か訪 問 し難 い リム 夫 妻の 眠る 墓 地に まで 案
内してくれた。そして、この一連の記念行事を締 めくくる『リム・ブンケンと海 峡
華 人 : 歴 史 的 再 評 価 (Lim Boon Keng and the Straits Chinese: A Historical
Appraisal)』と 題する研究大会が、シン ガポール 国立大学(以下 NUS)と国立図
書館との共催で、27 日に同図書 館で開催された。(戸田)
Philip Holden (NUS)がリム・ブンケンの生涯 を 紹介したのち、‘Lim Boon Keng
& His Times’と題する第 1 セッションが行われた 。
Mark Ravinder Frost (Asia Research Institute, NUS) は 、 “Remaking
Singapore: Lim Boon Keng and His Circle”と題 した報告を行った。現代のシンガ
ポ ー ルで は 、文 化的 伝 統の 維持 と 国際 性・ 近 代性 へ の対 応 を課 題と し 、そ の方 策
と し て例 え ば二 言語 教 育が 行わ れ てお り、 同 様の 課 題と 対 応が リム の 言説 に見 出
せることが指摘されている。これに 対して Frost は、リムを特殊な例 外的な人物
として位置づけるのではなく、 20 世紀初頭 にお けるアジア人知識人の登場と公共
圏 の 発展 と 、そ の言 動 を急 進的 と 捉え た社 会 との 関 係の 中 に位 置づ け て考 える べ
きだとした。
Neil Khor ( ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 ) は “Multicultural Burlesque: Parodying
Modernity in Lim Boon Keng’s Tragedies of Eastern Life”と題した報告を行っ た。
‘Tragedies of Eastern Life’とはリムが著した小説 で、1927 年に上海で発行された。
Khor はこの小説を、近代的でコスモポリタンな マラヤの架空の都市‘Teratai’に生
き 長 らえ る 伝統 慣習 と 封建 権力 の 中で 、エ ス ニッ ク や階 級 の違 いを 越 えて 恋愛 を
成就させようとする 4 組のカップルを通じ 、近 代と伝統の緊張を描いた作品であ
る と 紹介 し た。 また 本 小説 とバ ン サワ ンの 演 目( 多 様な エ スニ ック 集 団に よっ て
構 成 され た 大衆 演芸 集 団で 、各 地 を巡 業し 、 寓話 、 ロマ ン ス、 喜劇 、 社会 風刺 を
主な演目とした)との類似性を指摘 した。
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Didi Kwartanada (NUS) は“A Nanyang Cosmopolitan: Dr. Lim Boon Keng
and the Kaoem Moeda Bangsa Tionghoa in Early Twentieth Century Java”にお
い て 、リ ム ・ブ ンケ ン が果 たし た 役割 はシ ン ガポ ー ルに 留 まら ず、 南 洋と 中国 を
結 び つけ た コス モポ リ タン であ る と評 価し た 。そ れ によ る と、 華人 と して のア イ
デ ン ティ テ ィと 倫理 観 を維 持し 、 かつ 合理 性 とモ ダ ニテ ィ を追 求し た バタ ヴィ ア
の華人は、1900 年以降中華 会館を設立し、儒教 の復興や華語教育の促進などを行
っ た 。 リ ム は こ れ ら に 直 接 か か わ っ た う え 、 リ ム な ど が 発 行 し て い た Straits
Chinese Magazine は、ジャワの華人によって参 照されていたとのことである。
戸 田 賢 治 は “Anti-Opium
Movement
and
Straits
Chinese
Vicarious
Nationalism in British Malaya in the Early 20 t h Century”において、1906 年に
海 峡 華人 ら が中 心と な って 展開 し たア ヘン 吸 引反 対 運動 を 「ナ ショ ナ リズ ム」 と
の関連で論じた。それによると、リム・ブンケン ら海峡華人の知識人は 19 世紀末
よ り 、シ ン ガポ ール の 華人 社会 の 改革 と中 国 の発 展 にお け るア ヘン 吸 引の 弊害 を
指 摘 して い た。 これ は 日本 とア メ リカ がア ヘ ンの 吸 引を 禁 止し 、ア ヘ ン廃 止の 機
運が国際的に高まりつつある背景下 で進展した。その中で、アメリカが 1904 年に
華人排斥法を更新したことを受け て 1905 年 5 月 に上海でアメリカ製品をボイコッ
トする運動が発生し、同年 6 月にシンガポ ール でも同様の運動が発生した。戸田
は 、 これ を 契機 に華 人 のナ ショ ナ リズ ムが 覚 醒し 、 華人 と 中国 の生 存 を希 求す る
意 識 がア ヘ ン吸 引の 廃 止と アヘ ン 吸引 者の 救 済活 動 とな っ て現 われ た とし た。 た
だ し この 活 動は 、ア ヘ ンの 吸引 者 であ った 富 裕な 商 人層 の 支持 を得 ら れず 、部 分
的な成功に留まったという。(篠崎)
第 2 セッションは、‘Straits Chinese History’というテーマで、「海峡華人」がど
の よ うに イ ギリ スに よ って 近代 化 する マラ ヤ の植 民 地社 会 のな かで 政 治的 ・文 化
的アイデンティティを構築していっ たのかを考察 する発表で構成された。
Chua Ai Lin (NUS) は、 “Those for Whom Malaya is Home: Reframing the
Straits Chinese as Leaders of the Anglophone, Domiciled Community in
Singapore, 1920-1940”と題した報告を行っ た。 従来の研究において「海峡華人」と
い う こと ば には 定ま っ た解 釈が 存 在せ ず、 英 語教 育 を受 け イギ リス に 帰化 した 富
裕 エ リー ト 層の 華人 や 現地 社会 に 適応 した り マレ ー 人と 混 血し たり し て形 成さ れ
た バ バや ニ ョニ ャを 指 した り、 さ らに は単 な る海 峡 植民 地 生ま れの 華 人を 指し た
り す る場 合 もあ り文 化 的政 治的 に 多岐 にわ た る。 こ の定 義 の多 義性 の 問題 に対 し
て、‘Anglophone’と‘’Domiciled’を必 要欠 くべか らざる 要素と して 抽出し 再定義 を
試みようというのが本報告の趣旨で ある。Chua は、1914 年に発刊 された Malaya
Tribune において、1920 年代以降華人社会 の枠 を超えてインド人など他の移民社
会 の 存 在 も 含 め て 「マ ラ ヤ 」と い う 枠 組 み を 積 極 的 に 使 用 す る 現 地 化 指 向 を 持 つ
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人々が台頭してきたことに注目し、こうし た動向 を支えているものが「英語」と「定
住」の二要素であると分析している。こうし た現 地化指向をもった海峡華人の運動
や言説はコスモポリタンで普遍的な 性格をもって いたと指摘している。
Daniel Goh (NUS) は“Unofficial Contentions: The Postcoloniality of Straits
Chinese Representations in the Legislative Council, 1867-1940”と題して報告し
た 。 脱植 民 地化 にお け るシ ンガ ポ ール の政 治 の在 り 方は 多 人種 ・多 文 化主 義、 ま
た は 保守 か ら中 道型 の 政治 であ る とよ く指 摘 され て きた が 、こ うし た 特徴 の源 泉
を 植 民地 時 代の 海峡 華 人指 導者 に よる 立法 議 会で の 活動 や 性格 のな か に跡 付け よ
うとす ること であ る。Goh は、 大き く三つ の時 代区分(1867-1894、 1895-1918、
1919-1940)に 整理 しな がら 、各 時期 に活 躍し た 代表 的な 立法 議員 とし て具 体的に
Whampoa, Seah Liang Seah, Tan Jiak Kim, Lim Boon Keng, また Tan Cheng
Lock らを取り上げる。特に第二期に活躍したリ ム・ブンケンを先達の政治家たち
の 遺 産を 吸 収し 結合 し た政 治家 と して 、さ ら に西 洋 的価 値 観を もっ て 植民 地的 な
人 種 主 義 を 攻 撃 し 広 く 被 植 民 者 の 側 に 立 つ 「 帝 国 的 多 文 化 主 義 (imperial
multiculturalism)」を構築した存在として、シン ガポールの政治的アイデンティテ
ィ形成過程の歴史において大きな画 期をなしたと 分析する。
篠 崎 香 織 は “Straits Chinese as Protagonists to Promote the Multi-Ethnic
State and Its Reality Outside the Straits Settlements”と 題する報告を行った。
20 世紀というネー ションステートの時代の 幕開 けとともに国民として正式に認知
さ れ るの は 誰か とい う 問題 は頻 繁 に生 じる が 、国 外 にお い ては 国内 の 定義 が必 ず
し も 通用 せ ず公 権力 に よる 保護 を 十分 に受 け られ な いケ ー スが あっ た 。海 峡植 民
地 に おい て は現 地生 ま れで あれ ば 基本 的に イ ギリ ス 国籍 を 取得 する こ とが でき 、
帰 化 申請 で 取得 する こ とも 可能 で あっ た。 篠 崎は 、 イギ リ ス国 籍を 持 った 海峡 華
人 ら が近 隣 のア ジア 植 民地 諸国 や 中国 に行 っ た国 外 のケ ー スに おい て どう であ っ
た か を分 析 して いる 。 中国 では イ ギリ ス領 事 らが 海 峡華 人 にイ ギリ ス 人と して の
保 護 を与 え なか った り 、ア メリ カ のフ ィリ ピ ンや 仏 領イ ン ドシ ナや 蘭 領東 イン ド
な ど では い くら 海峡 植 民地 政府 が 彼ら をイ ギ リス 国 籍者 で ある こと を 強調 して も
華 人 系は す べて 中国 人 と見 なさ れ たり した 事 実を 実 証的 に 示し た。 こ うし たあ や
ふ や な時 代 状況 こそ が 海峡 華人 ら の政 治的 な 運動 を 覚醒 さ せる 一原 動 力と なっ て
いたのではないかと分析している。
Seah Bee Leng ( NUS ) は “Phoenix Without Wings: The Negotiation of
Modernity Among Straits Chinese Women in Early 20 th Century in Singapore”
と題して報告した。伝統と近代の間に 揺れる 20 世 紀初頭のシンガポールにおいて、
女 性 への 教 育の 扉は 西 洋で 教育 を 受け た海 峡 華人 に よる 改 革運 動の な かで 開か れ
て き たが 、 それ は男 性 主導 の改 革 運動 であ っ た。 こ れに 対 して 女性 自 らが 女性 の
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権利を 主張 する動 きは 、1920-30 年代 に現 われ たとし 、そ れをフ ァッ ショ ンの変
化 や 新聞 の 投書 欄の 「 自由 」を め ぐる 議論 な どを 事 例と し て明 らか に した 。こ れ
らの試みでは、近代的な妻や母の創 出に重点がお かれていたという。(戸田)
最後に Public Lecture として、Lee Guan Kin(ナンヤン工科大学)が“The Boon
Keng Pavilion at Xiamen University: History Recovered, Nanyang Link
Reconnected”を 華 語 で 報 告 し た 。 リ ム ・ ブ ン ケン は 厦 門 大 学 が 創 設 さ れ た 1921
年から 16 年間、同大学の学長を務めたが、中国 ではその功績が忘れ去られていた
ため、Lee は 厦門を 中心 にリム の歴 史的功 績を 伝える 活動を 行っ た。そ の結 果、
同大学にリムの功績を讃える記念碑 が建てられた とのことであった。(篠崎)
記念行事の一つとして、国立図書館 において 1 月 24 日から 3 月 18 日まで‘Lim
Boon Keng: A Life to Remember ’と題した 展示 が行われた。ここでの説明文は、
英語のみで表記されていた。また上述 の研究大会 は、Lee Guan Kin の報告(英語
の 同 時通 訳 あり )以 外 全て 英語 で 行わ れた 。 こう し た状 況 につ いて 華 語メ ディ ア
(『聨合早報』2 月 2 日付など)に、ある統計によるとシンガポールの華人の 3 割
は 英 語が 分 から ない に もか かわ ら ず、 一連 の 行事 が 英語 に 偏り すぎ て いる とい う
批 判 や、 華 語学 習の 提 唱や 儒教 論 など 中国 文 化の 発 展に お ける リム ・ ブン ケン の
貢 献 があ ま り指 摘さ れ ず、 リム の もう 半分 の 側面 を 理解 し 損ね たと い う批 判が 、
シンガポールの華人や中国人留学生 から寄せられ た。
リム・ブンケンに関するこれまでの 研究の多く は、華人性を維持しつつ、「進歩」
を 体 現す る 欧米 文化 に 対応 する た めに 、ブ ン ケン が いか に 文化 を論 じ 対処 して き
た か に着 目 して きた 。 これ に対 し て今 回の 学 会は 、 シン ガ ポー ルや マ ラヤ 、お よ
び そ の周 辺 地域 にお け る秩 序の 構 築に おい て 、ブ ン ケン 的 な思 想や 発 想が 何を も
た ら しど う 引き 継が れ たか を評 価 する こと に 重き を 置い て おり 、そ の 点に おい て
新たな試みであったと言える。
他 方で 、 何語 でそ の 評価 をす る かと いう 問 題は 、 いか な る学 会に お いて も起 こ
り う る問 題 であ るよ う に思 われ た 。あ る地 域 を事 例 とし た 研究 の成 果 を、 その 地
域 の 住民 に 還元 すべ く 、住 民の 言 語で 発信 す るこ と は望 ま しい 。そ れ と同 時に 、
そ の 地域 の 住民 の生 き 方に 普遍 的 な価 値を 見 出し 、 研究 成 果を 世界 的 に発 信す る
こ と で、 そ の価 値を 人 類で 共有 す ると いう 考 えも あ る。 そ のた めの 言 語と して 、
現 在 の世 界 で最 も有 効 なの は英 語 であ ろう 。 研究 の 成果 を 複数 言語 で 発表 すれ ば
問 題 はあ る 程度 解決 す るも のと 思 われ るが 、 諸事 情 によ り それ が困 難 な場 合も 多
い 。 誰に 向 って どの よ うな 意図 で 何語 で発 信 する か を説 明 する こと の 重要 性を 、
改めて認識させられた会議であった。(篠崎)
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