民衆の政治学 池上善彦 今日本の政治はどうなっているのか。菅直人首相は震災対応をめぐる相次ぐ批判 のなか、先日退陣を表明したにもかかわらず、その時期は未だに明確にはなって いない。内閣支持率は下がり続けている。菅直人首相はかなり早い段階で、稼働 中の浜岡原発を停止する要請を出し、この原発は現在停止している。また、経済 産業省が現在停止中の玄海原発の再稼働を示唆したにもかかわらず、首相は横槍 を入れる形で、再テストを命じることで事実上再稼働を阻止した。しかしそれら は必ずしも多くの支持を得たわけではない。法的手続きの無視を指摘され、さら には先の見通しのなさを批判された。さらにはつい先日記者会見を行い、脱原発 社会を目指すことを示唆したにもかかわらず、経済界からの批判は言うに及ばず 、身内であるはずの閣僚からも見通しのなさを批判され、党内からも人気取りで あるとの批判が続出した。 現在の国家は言ってしまえば国家の体をなしていない。それほどの大災害であ ったとも言えるだろう。与党である民主党も、現在の閣僚も含めその思惑と行動 は全くばらばらである。党内派閥力学、従来の政党抗争、そして今回の事故によ る将来のエネルギー源をめぐる、旧エネルギー派すなわち原発推進派とソフトエ ネルギー派といった対立がかつてないほど複雑にアクターとして動いている。 しかし、こういった対立軸とは別に皆が気づいているにもかかわらず、考慮に 入れる術すらも分からないアクターがある。それは民衆である。今回の政治の凄 まじいまでの流動化を生んでいる最大の要素が民衆なのである。首相の言動は内 閣の支持率に直結しないがゆえに、首相は民衆から支持されていないのではない のかとも分析されたりするが、そうではない。民衆が支持するかしないかでは無 く、民衆の動きを首相が支持するかしないか、が問題なのある。菅直人首相はこ の動きをつかもうとやっきになっている。だから、今うごめいているのは世論で はない。世論というものをはるかに超えた、民衆の直接行動が現在を流動化させ ている最大の原因なのである。 原発事故に対してとった政策に対して、民衆は絶対に国家を許しはしない。国 家の放射能汚染に対する対策は、不十分を通り越して、殺人的処置といっていい ものである。しかし一度再稼働した原発を再び止めるのは不可能に近いこともよ く知っているのである。今や脱原発は一つの大きな流れを形成し、脱原発を口に する政治家も多い。しかし、彼らは一様に手続きの重要性と脱原発までの具体的 プロセスを言いたてる。ドイツでは脱原発は国家の方針として定まったが、しか しそれは20年のプロセスがあるではないか、と言うのだ。つまり、今すぐ全て の原発を停止するのは現実的ではない、と言っているのである。 民衆の直接行動はそのような言い方にはさほど興味を示さない。もちろんそれ は内閣支持率とか政党別支持率とかいった従来の方法では、議会制民主主義と直 接行動との相関関係を説明することは出来ない。かといって両者が無関係ではも ちろんない。それは、少なくとも戦後日本においてはかつてない経験なのである 。60年安保時とも違い、この直接行動は内閣打倒が目標なのでもない。強いて 言えば、このかつてない、別次元の動きに政治を引きずり込むことが目標なのだ 。今働いている力学は、原発推進、反対という次元とは別の、この未体験の、か つてない経験したことのない力の流動である。この流れを捉える言葉は、ざっと 見渡したところ、誰も未だ持っていないように感じられる。 8/4/11
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