カラマゾフの兄弟

カラマゾフの兄弟
上
ドストエーフスキイ
中山省三郎訳
3
なんじ
あ
み
誠にまことに 汝 らに告ぐ、一粒の麦、地に落ち
ただ
て死なずば、
一つにて在 唯 りなん、もし死なば、多くの 果 を
結ぶべし。
ヨハネ
伝第十
二章第
二十四
節
4
アンナ・グリゴリエヴナ・ドストイエフスカヤにおくる
5
おそらく納得なさるであろう﹄としか答えられないから
やさなければならないのか?﹄といったたぐいの質問を
れわれ読者は、この人間の生涯の事実の研究に時間を費
て、誰に知られているのか? いかなる理由によって、わ
男が、どんなことを成し遂げたというのか?
いったいこの
ヴィッチをこの物語の主人公に選ばれたのは、何か彼に
く承知している。したがって、
﹃アレクセイ・フョードロ
かし彼がけっして偉大な人物でないことは、自分でもよ
イ・フョードロヴィッチを主人公と呼んではいるが、し
の懐疑に陥っている。すなわち、自分は、このアレクセ
カラマゾフの伝記にとりかかるに当たって、自分は一種
この物語の主人公アレクセイ ・ フョードロヴィッチ ・
何によっ
偏屈とか奇癖とかいうものは、個々の特殊性を統一して、
た、むしろ奇人に近い人物だということである。しかし、
だ一つ、どうやら確実らしいのは、この男が一風変わっ
ら、それこそ要求するほうがおかしいのかもしれぬ。た
も、今のような時世に、人間に明瞭さを要求するとした
かみどころのない活動家だというところにある。もっと
らく活動家なのであろうが、それもきわめて 曖昧 で、つ
うか、それがはなはだおぼつかない。問題は、彼もおそ
るが、はたしてこれを読者に立証することができるだろ
ある。作者にとっては、確かに注目すべき人物なのであ
ことに残念ながら、今からそれが見え透いているからで
は、どうしたものか?
の注目すべき点を認めることができないといわれた暁に
つ納得がゆかず、わがアレクセイ・フョードロヴィッチ
である。ところが、この小説を一通り読んでも、なおか
受けるにきまっていることは、今のうちからよくわかっ
全般的な乱雑さのうちに、ある普遍的な意義を発見する
作者より
ている。
能力を、与えるというよりは、むしろ傷つける場合が多
あいまい
こんなことを言うのも、実はま
この最後の質問は最も致命的なものである。それに対
い。奇人というものは、たいていの場合に、特殊で格別
卓越したところがあってのことなのか?
しては、ただ、
﹃御自分でこの小説をお読みになられたら、
6
は一つなのに、小説は二つになっている。しかも、重要
ただけるはずである。ところが、困ったことには、伝記
てもよかったであろう。お気にさえ召せば、通読してい
どはいっさい抜きにして、あっさりと本文に取りかかっ
つかむような説明にうき身をやつすことなく、前口上な
それにしても、自分は、こんな、実に味気ない、雲を
たのだ、といったような場合がよくあるからである⋮⋮。
の風の吹きまわしで、一時的にこの奇人から引き離され
れず、その他の同時代の人たちは︱︱︱ことごとく、何か
うかすると彼が完全無欠の心髄を内にもっているかもし
ものでも、格別なものでもないばかりか、かえって、ど
する次第である。というのは、奇人は﹃必ずしも﹄特殊な
イ・フョードロヴィッチの価値について大いに意を強う
答えられるとすれば、自分はむしろわが主人公アレクセ
に、﹃そうではない﹄とか、﹃必ずしもそうではない﹄と
そこで、もしも読者がこの最後の主張に賛成なさらず
なものである。そうではないだろうか?
なんのために、 むやみに役にも立たない文句を並べて、
いそうだったと、早くも見抜いてしまって、ただ、︱︱︱
読者はすでに、そもそもの最初から私がそんなことを言
全く解決をつけずにいこうと決心した。もとより 炯眼 な
自分はこの問題の解決にゆき悩んだあげく、 ついに、
り口を、どうして説明したらよいであろう?
ことになるであろう。それにまた、自分のこの 不遜 なや
えているのに、わざわざ二つにしたら、いったいどんな
主人公には、一つの小説でもよけいなくらいだろうと考
自身からして、こんなに控え目で、つかみどころのない
惑はいっそう紛糾してくる。すでにこの伝記者たる自分
しまうからである。しかも、そうすれば自分の最初の困
ば、第二の小説の中でいろんなことがわからなくなって
の小説を抜きにすることはできない。そんなことをすれ
の 一刹那 のことにすぎない。そうかといって、この初め
いうものではなくて、単にわが主人公の青年時代の初期
十三年の前にあったことで、これはほとんど 小説 などと
ある現在の今の活動なのである。第一の小説は今を去る
けいがん
ふそん
ロマン
な小説は第二部になっている︱︱︱これはわが主人公のす
貴重な時間を浪費するのかと、私に対して腹を立てられ
いっせ つ な
でに現代における活動である。すなわち、現に移りつつ
7
もっとも、自分は、この小説が、
﹃本質的には完全な一
を打っておこう﹄という、ずるい考えによるのであると。
であり、第二には、
﹃何はともあれ、あらかじめ何か先手
べて、貴重な時間を浪費したのは、第一には儀礼のため
お答えしよう。すなわち自分が役にも立たない文句を並
たであろう。しかし、これに対しては、はっきりとこう
さて、いよいよ本文にとりかかろう。
たことでもあるから、これはこのままにしておこう。
るということに全く同感ではあるが、せっかくもう書い
これで序文は種切れだ。自分はこれがよけいなものであ
すのに最も正当な口実を提供しておくわけである。さあ、
うとも、やはりこの小説の第一の插話の辺で本を投げ出
体でありながら﹄おのずからにして二つの物語に分かれ
たことを喜んでさえもいるのである。読者が最初の物語
を通読された以上、第二の物語に取りかかる価値がある
かないかは、すでにおのずから決定されるであろう。い
うまでもなく、誰ひとり、なんらの拘束を受けているわ
けではないので、最初の物語の二ページくらいのところ
から、もう二度とあけてみないつもりで、この本を放り
出しても、いっこうさしつかえはないのである。しかし、
公平な判断を誤るまいとして、ぜひとも最後まで読んで
しまおうというようなデリケートな読者もあるのではな
いか。たとえば、ロシアのあらゆる批評家諸君がそれで
ある。かような人たちに対しては、なんといっても気が
楽である。つまり、彼らがどんなに精密で良心的であろ
8
︱︱︱もっとも、同じわけのわからない連中の中でも、自
ができて、しかも、それだけが身上かと思われるような
分の財産に関する細々した事務を、巧みに処理すること
たぐいの人間であった。たとえば、フョードル・パーヴロ
第一篇 ある家の歴史
かるべきところにおいてお話しすることにしよう。ここ
の高かった人物であるが、この事件についてはいずれし
今でもやはりこちらでは時おり 噂 にのぼる︶非常に評判
に悲劇的な陰惨な最後を遂げたために、そのころ︵いや、
の三男で、父のフョードルは、今からちょうど十三年前
の郡の地主フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフ
アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマゾフは、こ
る、 ︱︱︱つまり、 わけがわからないのである。 しかも、
いう狂気じみた人間の大多数は、かなり利口で 狡猾 であ
してばかであったというわけではない。かえって、こう
て押し通してしまったのである。くり返していうが、けっ
郡内きっての最もわからずやの狂気じみた男の一人とし
とがわかった。それだのに、彼は依然として、一生涯を、
が、死んだ時には現金で十万ルーブルものこしていたこ
食事をしたり、居候に転がりこむことばかり狙っていた
てもきわめてささやかなものなので、よその家へ行って
ヴィッチはほとんど無一物で世間へ出て、 地主とはいっ
では単にこの﹃地主﹄が︵当地では彼のことをこう呼んで
そこにはなんとなく独特な国民的なところさえうかがわ
一 フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフ
いたが、その実、彼は一生涯ほとんど自分の持ち村で暮
れる。
うわさ
らしたことがなかった︶かなりちょいちょい見受けるに
彼は結婚して、三人の子を 挙 げた。︱︱︱長男のドミト
こうかつ
は見受けるが、一風変わった型の人間であった、という
リイは先妻、次の二人、すなわちイワンとアレクセイと
あ
だけにとどめておこう。つまり、やくざで 放埒 なばかり
は後妻の腹から生まれた。フョードルの先妻は、やはり
ほうらつ
ではなく、それと同時にわけのわからない人間のタイプ
9
ヤにあやかりたいためであった。それで、もし彼女がずっ
ぐれによることで、ひたすらシェークスピアのオフェリ
投じて死んでしまった。それというのも全く自分の気ま
に、断崖のような高い岸から、かなりに深い激流に身を
うにもならないような障害を勝手に考え出して、嵐の夜
にいつなんどきでも結婚することができるのに、結局ど
の紳士に謎めいた恋をしていたが、この相手と泰平無事
一人の娘を知っていた。この娘は何年かのあいだ、一人
自分はまだ前世紀の﹃ロマンチックな﹄時代に生まれた
か、それについてはあまり詳しく説明しないことにする。
こう呼んでいた︱︱
︱とどうして結婚することができたの
な取るにも足らない﹃やくざ者﹄︱︱︱そのころ、 誰もが
ろ前世紀においても、現われかかっていた︱︱︱が、あん
は現代のわが国ではいっこうめずらしくないが、そろそ
のうえてきぱきした 聡明 な娘︱︱︱こういったたぐいの娘
貴族の出であった。持参金つきで、おまけに美しく、そ
この郡の地主でミウーソフという、かなり裕福で名門の
取ったことで、これがまた、すっかりアデライーダ・イ
なおそのうえに痛快なのは、駆け落ちという非常手段を
その実、 相手は性根のよくない道化者にすぎなかった。
一瞬間だけにもせよ、 思いこんでしまったのであろう。
最も勇敢にして最も皮肉な人間の一人であると、たとい
の身分でこそあれ、 向上の途上にある過度期における、
かげで、彼女は、フョードル・パーヴロヴィッチが居候
みたかったのかもしれない。また、御丁寧にも空想のお
を宣言し、社会の約束や、親戚家族の圧制に反抗して進
されたものであった。ことによると、彼女は女性の独立
いもなく他人の思想の反映であり、囚われた思想に刺激
これと同様にアデライーダ・ミウーソフの行動は、疑
考えなければならぬ。
わがロシアの生活において、少なからず起こったものと
このような、 ないしはこれと類を同じゅうする事件は、
もない実話であるが、最近二百年なり三百年のあいだに、
いうさたは全く起こらなかったであろう。これはまぎれ
い岸ででもあったならば、おそらく、こんな自殺などと
そうめい
と以前から目をつけて、 惚 れこんでいたこの断崖が、そ
ワーノヴナの心を引きつけてしまったのである。フョー
ほ
れほど絵のように美しくなくて、その代わりに平凡な低
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フョードル・パーヴロヴィッチにとっては、これこそ一
わずにはおかない 淫蕩 このうえもない男で一生を通した
相手がどんな女であろうとも、すぐにしつこくつきまと
なわけで、ほんのちょっとでも向こうが色気を見せると、
をもってしても、なお全然なかったようである。かよう
り、男のほうにも、アデライーダ・イワーノヴナの 美貌 互の愛情などというものに至っては、女のほうはもとよ
めるということは、きわめて誘惑的なことであった。相
心だったからである。名門に取り入って、持参金をせし
は問題でなく、ただただ出世のいとぐちを見つけたい一
進んでやりたいくらいであった。というのは、手段など
位からいって、このくらいのきわどい芸当はこちらから
ドル・パーヴロヴィッチにしてみれば、自分の社会的地
なりに立派な町の家をも、何かそれ相当の証書を作って、
やはり彼女の持参金の中にはいっていた小さな村と、か
ならないほど 高邁 な態度を示したという。 やがて彼は、
よると、その際にも新妻のほうが良人よりも比べものに
たもなく消えてしまったわけであるが、世間の人の噂に
たがって、彼女にとっては、これだけの大金が、あとか
千ルーブルからの金をすっかり巻きあげてしまった。し
ヴィッチは妻が金を受け取るやいなや、さっそく二万五
間に知られていることであるが、フョードル・パーヴロ
と、絶え間のないいざこざが始まった。これは今なお世
にもかかわらず、夫婦のあいだにはきわめて乱脈な生活
らめをつけて、家出をした娘に持参金を分けてやったの
された。実家側がむしろ、かなり早めにこの事件にあき
くのごとくして、結婚の結末は非常な速さをもって暴露
びぼう
世一代の、おそらく唯一の偶然なことであったろう。そ
自分の名義に書き換えようと、長いこと一生懸命に骨を
こうまい
れにしても、この女ばかりは情欲の点からいって、彼に
折っていたが、絶え間なしにあつかましいおねだりや哀
いんとう
なんらの特別な感銘を与えなかったのである。
願をして、妻の心にいわば、軽蔑と 嫌悪 の念とをよび起
けんお
アデライーダ・イワーノヴナは駆け落ちの直後に、自分
こし、女のほうを根負けさせて、ただそれだけで、女の
けいべつ
が良
人 を軽
蔑 しているのみで、それ以上にはなんの感情
手を逃げようとあせっていたのに相違ない。 ところが、
おっと
ももっていないことをたちどころに悟ってしまった。か
11
ロヴィッチはたちまち自分の家へたくさんの女を引き入
に手をとって家出をしてしまった。フョードル・パーヴ
困のために零落しかかっているある神学校出の教師と手
チャをフョードル・パーヴロヴィッチの手に残して、貧
れていた。とうとう、しまいに彼女は、三つになるミー
顔の浅黒い、気短かな女でなみなみならぬ腕力を 賦与 さ
ヴナのほうだという。彼女は 癇癪 の強い、向こう見ずな、
パーヴロヴィッチではなくて、アデライーダ・イワーノ
であるが、 言い伝えによると、 打ったのはフョードル ・
間によくつかみ合いがあったということは全く周知の話
里方が仲にはいってこの横領を押えてしまった。夫婦の
運のよかったことには、アデライーダ・イワーノヴナの
哀れな女は教師とともにペテルブルグへ落ちのびて、そ
しれぬ。 ついに、 彼は出奔した妻の行方を突きとめた。
はおそらく、彼にあっては、無邪気なことであったかも
るのだとよけいなことまで言っていた。もっとも、それ
彼らに自分の滑稽な立場に気がつかないようなふりをす
前へ出るのを嬉しがって、いっそうおかしくするために、
くの人が、彼はときどき道化者の面目を一新して、人の
でしょうに﹄と 口性 ない連中が言ったりした。それに多
らいでしょうけれど、位を授かったことを思えば、満足
あに、フョードル・パーヴロヴィッチさん、つらいにはつ
は愉快なばかりか、気休めにさえなったものらしい。
﹃な
た 凌辱 を事こまかに描き出して見せるのが、彼にとって
り、あまつさえ、いろんな潤色まで施して自分がこうむっ
りょうじょく
れて、酒色にふけるようになった。また、その合い間合
こできわめて奔放自由な 解
くちさが
い間には、ほとんど県下一帯を回るようにして、会う人
た。フョードル・パーヴロヴィッチは、さっそくあわて
かんしゃく
ごとに自分を見すてたアデライーダ・イワーノヴナのこ
出して、自身でペテルブルグへ出かける準備をした。︱
よ
とを涙ながらに訴えたりそのうえ、良人として口にする
︱︱なんのために?
ふ
のはあまりにも恥ずかしい結婚生活の子細を臆面もなく
もわからなかった。彼は実際、そのとき本当に行きかね
ということは、 もとより、 自分で
放
に 惑溺 していたのであっ
エマンシペーション わくでき
しゃべり立てたりした。何はさておき、こうして衆人の
なかったのであろうが、しかし、この決心を固めると同
こっけい
前で、はずかしめられた良人という 滑稽 な役割を演じた
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時に、彼は元気をつけるために、出発の前に、あらため
見る目にも可
哀 そうなほどであった、ともいわれている。
はあったが、小さな子供のように、おいおいと泣くので、
おりた﹄と叫んだという。また一説には、いやなやつで
さのあまり両手を宙に差し上げながら、﹃今こそ重荷が
妻の 訃報 に接したが、いきなり往来へ駆け出すと、嬉し
フョードル・パーヴロヴィッチは酔いしれているときに
うが、また一説には飢え死にしたのだとも言われている。
なったのであった。一説にはチフスで亡くなったともい
である。彼女はどうかして、どこかの屋根裏で急に亡く
グで亡くなったという知らせが、彼女の里方へ届いたの
た。ところが、まさにこの時であった。妻がペテルブル
を乱行の 巣窟 にしたりしているうちに、三つになるミー
し、泣き言を並べてうるさい思いをさせたり、自分の家
忘れ果てていたからであった。彼が会う人ごとに涙を流
感情によるのでもなかった。ただ単に子供のことを全く
よるものでもなければ、はずかしめられた良人としての
しまったのである。しかし、それは子供に対する悪意に
とのあいだに生まれた自分の子供を、まるきり見すてて
たまでであった。つまり、アデライーダ・イワーノヴナ
であろう。父親としての彼は、当然やりそうなことをし
育者として、どんな風であったかは、容易に想像がつく
いうまでもなく、かような人間が父親として、また養
それもこれも大いにありそうなことである。つまり、解
チャの世話を引き受けたのは、この家の忠僕グリゴリイ
二 長男を追い立てる
放されたことを喜ぶと共に、同時に解放してくれた妻を
であった。もしもそのころ、この男がめんどうを見てや
て思いきりひと浮かれするのが当然の権利だと考えつい
思って泣いたのであろう。人間というものは、たいてい
らなかったなら、子供にシャツ一つ替えてやる者もなかっ
ふほう
の場合に、たとえ悪人でさえも、われわれがおおよその
たであろう。それに、子供の母方の縁者も、初めのうち
かわい
見当をつけているよりもはるかに無邪気で単純なもので
この子のことは忘れていたらしかった。祖父にあたるミ
そうくつ
ある。われわれ自身にしてもやはり同じことである。
13
リから帰って来た。この人は、そののち長年、ずっと外
ル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフという人がパ
にも、アデライーダ・イワーノヴナの 従兄 で、ピョート
はやはり 放蕩 の邪魔になるからである。ところが、偶然
屋へ追いやってしまったことであろう。なにしろ、子供
にいるわけにはいかなかった︶、 自分で、 またもとの小
したとしても︵事実、彼とても、この子の存在を知らず
それにしても、たとい父親がミーチャのことを思い出
ればならなかった。
いうもの、グリゴリイのもとで、下男小屋に暮らさなけ
よそへ 嫁 いでしまっていたので、ミーチャはまる一年と
こで重い病気にかかっており、 姉妹 という姉妹はみんな
人、すなわち、ミーチャの祖母も、モスクワへ移って、そ
の父は、もうそのころはあの世の人となって、その未亡
ウーソフ氏、つまりアデライーダ・イワーノヴナの現在
のことで、この修道院を相手にはてしのない訴訟を起こ
はわからないが、何か川の漁業権とか、森の伐採権とか
はまだほんの若い時分に遺産を相続するやいなや、よく
境を接していた。ピョートル・アレクサンドロヴィッチ
はずれたところにあって、ここの有名な修道院の地所と
立した財産をもっていた。彼の立派な領地はこの町を出
彼は昔の標準でいうと、千人ほどの農奴に相当する独
い思い出の一つであった。
好きであった。これこそ彼の青年時代における最も楽し
であると言わぬばかりにほのめかしながら物語るのが大
のことを思い出して、自分も 市街阻絶 戦に参加した一人
代の終わりごろには、四十八年のパリ二月革命の三日間
ルードンやバクーニンをも個人的に知っており、遊歴時
最も進歩的な、多くの自由主義者たちと交渉があり、プ
華やかなりしころを通じて、彼は同時代における内外の
くあった自由主義者の一人となったほどであった。その
ほうとう
きょうだい
国に暮らしたほどで、そのころはまだかなりに若かった
したものであった。彼は﹃僧侶﹄たちを相手どって訴訟
とつ
が、ミウーソフ家の人たちの中でも異色があり、都会的
を起こすのを、公民としてまた教養人としての義務だと
バリケード
で、外国的な教養があり、のちには一生涯、ヨーロッパ
心得ていた。ところで、彼はアデライーダ・イワーノヴ
いとこ
人になりすましたばかりか、晩年には四、五十年代によ
14
にしても、しかもなお真実らしい何ものかがあったに相
ピョートル・アレクサンドロヴィッチの話に誇張がある
たような顔つきをしてみせたとのことであった。たとい、
のどこかにそんな小さな息子がいたのかと、びっくりし
るのか、さっぱり合点がいかぬといった風で、自分の家
あいだ、いったいどんな子供のことが話題にのぼってい
がミーチャのことを話しだしたとき、相手はしばらくの
いって、長いあいだ語りぐさとしたところによれば、彼
フョードル・パーヴロヴィッチの特徴を示す好資料だと
子供の養育を引き受けたいと申しいでた。 彼がその後、
ル ・ パーヴロヴィッチなる者を知った。 彼はいきなり、
あうこととなったのである。そこで、はじめてフョード
らしい義憤と 侮蔑 を感じながらも、この事件にかかわり
とを知るとフョードル・パーヴロヴィッチに対する青年
り聞かされ、またミーチャという子供ののこっているこ
心を引かれたこともあったが、この女の身の上をすっか
ナのことは、もちろん今もなお記憶にとどめ、かつては
を忘れてしまい、わけても、彼に思いもよらなかったほ
ろが、パリに住み馴れて、ミウーソフはこの子供のこと
クワに住んでいるある夫人のところに預けられた。とこ
へ立ったので、子供は、この人の又 叔母 の一人で、モス
処理すると、すぐにまた、永逗留のために大急ぎでパリ
地からあがる金の受け取り方を後顧の憂いのないように
取られたが、この人は自分の家族というものがなく、領
である。こうしてミーチャはこの又 叔父 のところに引き
ても小さな持ち村や、家作や地所などが残っていたから
までなってやった。というのは、やはり母親が亡くなっ
で、フョードル・パーヴロヴィッチと共に子供の後見人に
ピョートル・アレクサンドロヴィッチは熱心に事を運ん
にはかなりに聡明な人にさえも、ありがちなものである。
ル・パーヴロヴィッチばかりに限らず、多くの人、とき
であった。もっとも、こうした傾向は、ひとりフョード
ように、みすみす自分の損になることさえいとわないの
別になんの必要もないどころか、たとえば、今の場合の
芝居を打ってみせるのが大好きで、それも、時としては、
ぶべつ
違ない。しかし、事実において、フョードル・パーヴロ
どの強い感銘を与えて、もはや一生涯忘れることができ
お ば
お じ
ヴィッチは一生涯、何かだしぬけに人を驚かせるような
15
る陸軍の学校へはいり、のちにコーカサスへ行って任官
りとして過ごしてしまった。中学校も中途でよして、あ
長した唯一の息子であった。青少年時代は、ぬらりくら
に達したら独立することができるという確信をもって成
はとにもかくにも、若干の財産を持っているから、丁年
フョードル・パーヴロヴィッチの三人の息子のうち、自分
まず第一に、このドミトリイ・フョードロヴィッチは、
だけにとどめておこう。
説を始めるのに欠くことのできないきわめて緊要な消息
ろいろと物語らなくてはならないから、今はただこの小
フョードル・パーヴロヴィッチの長男のことは、まだい
とにまでは触れないでおくこととしよう。いずれ、この
度目に自分の巣を変えたらしかった。が、今はそんなこ
娘のところへ移った。やがてのちに、彼はもう一度、四
の人となって、ミーチャはよそへかたづいている夫人の
果ててしまった。モスクワの夫人も、そのうちにあの世
なかった、あの二月革命の起こった時にはすっかり忘れ
ドル・パーヴロヴィッチは特殊な目安をおいていたので、
て取った︵これも記憶しておかなければならぬ︶。フョー
ついて、誇張した不正確な考えをいだいていることを見
き、はじめて会ったばかりで、ミーチャが自分の財産に
い事実である︶。フョードル・パーヴロヴィッチはそのと
出せずにしまった︵これは注意しておかなければならな
収額も価格も、フョードル・パーヴロヴィッチから聞き
て、少しばかり協議をしただけで、彼は自分の領地の年
これからさき領地からあがる収益を受け取る方法につい
で立ってしまった。ただ、父から幾らかの金をもらって、
親が気に入らなかったらしく、永逗留もせずに、大急ぎ
たときのことであった。どうやら、その時から、自分の父
産のことを相談するために、わざわざこちらへやって来
知ったのは、もう丁年に達してのちのことで、自分の財
自分の父、フョードル・パーヴロヴィッチを、はじめて見
で、すでにそれまでにかなりの借金をしていたのである。
りを受けるようになったのは、丁年に達してからのこと
金を浪費した。フョードル・パーヴロヴィッチから仕送
おと
したが、決闘をやったために位を 貶 され、のちにはまた
このことにすっかり満足した。この若者は、ただ軽はず
ほうとう
元にかえると、今度はひどく 放蕩 をして、比較的多額の
16
して、きれいさっぱりと父親との交渉をかたづけるため
に、それから四年ののち、ミーチャは堪忍袋の緒を切ら
けばかりの仕送りをしてその場をのがれていたが、つい
て、フョードル・パーヴロヴィッチは時おりほんの申しわ
てしまうものと断定した。そこで、これをいいことにし
の当座だけのことではあるが、たちまちおとなしくなっ
から、時たま少しばかり握らせさえすれば、むろんほん
みで乱暴で、愛欲の強い、気短かな放蕩者にすぎない。だ
れて来たかということも説明しておかなければならぬ。
物語っておかなければならぬ。また、彼がどこから現わ
チの次男、三男、つまりミーチャの二人の弟についても
に取りかかる前に、さらにフョードル・パーヴロヴィッ
的な方面を形づくっているのである。しかし、この小説
分の第一の序説的小説の主題、というよりは、その外面
への導火線をなしたのであり、その前後の叙述こそは自
違ったようになってしまった。実にこの事情が一大 破綻 はたん
に、またもやこの町へやって来た。さて、来てみると、自
しまって、ことによったら父親に対して、借りさえある
でに全くフョードル・パーヴロヴィッチから引き出して
むずかしいが、自分の全財産の価格に相当する金は、す
からず驚いた。今ではどれくらいあったか勘定するのも
後妻の、やはりかなりに若いソフィヤ・イワーノヴナと
結婚をした。この二度目の結婚生活は八年続いた。その
を手もとから追いのけてしまうと、間もなく、二度目の
フョードル ・ パーヴロヴィッチは四つになるミーチャ
三 再婚と腹違い
かもしれず、これこれのときに、彼自身の希望によって
いう女は、彼があるユダヤ人と連れ立って、あるほんの
分にはまるきりなんの財産もないことがわかって、少な
取り結んだこれこれの約束によって、彼はもう何一つ要
ちょっとした請負仕事のために出向いて行ったよその県
めと
求する権利もなくなっているなどということがわかった
かた
から娶 ったのである。フョードル・パーヴロヴィッチは放
うそ
のであった。青年は 愕然 として、嘘 ではないか、 騙 りで
蕩もし、酒も飲み、乱暴もしたが、自分の資本の運用は
がくぜん
はないかと疑い、ほとんどわれを忘れて、まるで気でも
17
その実、この老婆は、見たところ、別に意地の悪そうな
い小言や移り気に耐えてゆくのがつらかったのであるが、
は耳にしている。それほど彼女はこの老婆の絶え間のな
をくくろうとしたところをおろされたとかいうことだけ
ない内気な養女が、自分で納屋の釘に 輪索 をかけて、首
ないが、ある時のこと、この気立てのすなおな、悪気の
もあった老婦人の裕福な家に成長した。詳しい話は知ら
あり、養育者でありながら、それでいて同時に迫害者で
なヴォーロホフ将軍の未亡人で、彼女にとっては恩人で
ないころから寄るべない﹃ 孤児 ﹄の一人となって、有名
イワーノヴナはさる貧しい補祭の娘であったが、いわけ
てはなかなか巧妙に処理したものであった。 ソフィヤ ・
方はほとんどいつもきたなかったが、自分の商売にかけ
けっしておろそかにはしなかった。もちろん、そのやり
しさに迷っただけであった。何よりもその無邪気な容姿
てにしていなかった。ただ無邪気な少女のきわだった美
らである。もっとも、彼も今度は持参金を取ろうとは当
一つくれなかったばかりか、二人をのろってさえいたか
きなかった。なにしろ、将軍夫人がかんかんに怒って、何
フョードル・パーヴロヴィッチにも 鐚一文 とることがで
から男に換えただけであった。 が、 今度という今度は、
道理のわかろうはずはない。哀れな少女はただ恩人を女
ましだくらいに思いつめている十六や七の小娘に、物の
くらいならば、いっそのこと川へでも飛びこんだほうが
ではあるし、ましてや、いつまでも恩人のところにいる
ろへなど行かなかったに相違ない。しかし、他県のこと
ば、おそらく彼女は、どんなことがあっても、彼のとこ
とき、彼のことを、もう少し詳しく聞きこんでいたなら
今度もまたこの少女に駆け落ちをすすめた。もしもその
みなしご
ところもなく、ただ、安逸な生活のために、どうにも我
が、これまで 猥褻 な女の色香にのみなじんで、 荒 みきっ
かみそり
びたいちもん
慢のならない強情な人間になっていたのであった。
ていた女たらしの心を打ったのである。
わなわ
フョードル・パーヴロヴィッチが結婚を申しこむと、先
﹃あの無邪気な眼が、ちょうど、 剃刀 の刃のように、お
すさ
方ではいろいろと身もとを調べて、すげなく追い払って
れの心をひやっとさせたのさ﹄と、彼は後になって、例
わいせつ
しまった。 ところが、 彼は、 初婚のときと同じように、
18
ころのきわだったこととして紹介しておきたいのは、あ
んで来て、乱痴気騒ぎをやることもあった。ここに、その
ちゃんと控えている家の中へ、性の悪い女どもが乗りこ
て普通な礼儀さえも、踏みにじって顧みなかった。妻が
にすなおで内気なのにつけこんで、彼は夫婦間のきわめ
立場にいるのにつけこんで、さらにまた生まれつき非常
ど自分が﹃輪
索 にかかる﹄ところを救ってやったような
うな﹄風でいるのをいいことにして、︱︱︱また、ほとん
た。それに、彼女が良人に対して、いわば﹃罪でもあるよ
らなかったこの妻に対してはなんの遠慮会釈もしなかっ
フョードル・パーヴロヴィッチは、なんのもうけにもな
そらくは、単なる肉欲的なショックであったかもしれぬ。
ものである。もっとも、女たらしにとっては、これもお
のいやらしい、忍び笑いをしながら、よく言い言いした
母が亡くなってから二人の子供は、長男のミーチャの場
ようなものではあったが、よく母親のことを覚えていた。
は、不思議なことには、一生を通じて、もとより、夢の
亡くなったとき、アレクセイは四つになっていたが、彼
婚の年に、下のほうは三年たってからであった。彼女が
ワンとアレクセイの二人の子をもうけた。上のほうは結
彼女はフョードル・パーヴロヴィッチとのあいだに、イ
人は時として理性をさえ失うことがあった。 とはいえ、
恐ろしいヒステリイの発作を伴うこの病気のために、病
この病気にかかった女は﹃憑 かれた女﹄と呼ばれていた。
た。それは田舎の百姓女などに実によく見られる病気で、
この不仕合わせな若い女は、一種の婦人神経病にかかっ
た。その後、子供のころから絶えずおびえてばかりいた
な女どもを、腕づくで一人残らず追い払ったほどであっ
る時などは、家へ集まって乱痴気騒ぎをしている 蓮 っ葉 ぱ
の陰気で、愚かしく、頑固で、理屈っぽい下男のグリゴ
合とほとんどそっくりそのままの運命に陥った。すなわ
はす
リイが前の夫人アデライーダ・イワーノヴナを憎んでい
ち、二人は父親からすっかり忘れられ、見すてられて、や
つ
たのに、今度は新しい奥様の味方になって、ほとんど下
はり同じグリゴリイの手にかかって、下男小屋へ引き取
わなわ
男にはあるまじき態度で、フョードル・パーヴロヴィッ
られたのであった。二人の母の恩人であり、育ての親で
けんか
チと 喧嘩 までして、彼女をかばっていたことである。あ
19
暮れ方のことであった。彼女がこの八年というもの絶え
あったが、彼女は多くのことを成しとげた。それは日の
りこんだ。夫人がこの町にいたのはやっと半時間ほどで
て、まっすぐにフョードル・パーヴロヴィッチの家へ乗
目に、不意に、将軍夫人はみずからこの町に姿を現わし
ソフィヤ・イワーノヴナが亡くなってちょうど三か月
当てなすったのだ﹄
まえなのだよ。神様があれの恩知らずな仕打ちに罰をお
かってささやいたものであった、
﹃それがあれにはあたり
度ならず、二度も三度も、口に出して居候の女たちに向
ばかり醜い場面の中に暮らしているかを耳にすると、一
消息を手に入れて、彼女が病気をしていることや、いか
んな暮らしをしているか、それとなく、きわめて正確な
きなかった。彼女はこの八年のあいだ、
﹃ソフィヤ﹄がど
八年のあいだ、常に自分の受けた侮辱を忘れることがで
はり、この下男小屋であった。夫人はまだ生きていたが、
あった強情者の将軍夫人が彼らをはじめて見たのも、や
えてみて、なかなか結構なことだと思ったので、将軍夫
フョードル・パーヴロヴィッチはこの前後の事情を考
なのだよ!﹄と叫んだ。
馬車が動き出すと、
﹃それにしてもやはりおまえが間抜け
お礼をしてくださりましょう﹄と 挨拶 した。将軍夫人は
ら、子細らしく、
﹃神様が孤
児 たちに代わってあなた様に
を馬車まで見送ったとき、うやうやしく最敬礼をしなが
この頬打ちを耐え忍んで、ことば一つ返さずに、老夫人
町へと連れて帰った。グリゴリイは忠実な奴隷のように、
のままで膝かけの毛布にくるんで、馬車に乗せて自分の
の家へ連れて行くと宣言した。そして、二人を着のみ着
たグリゴリイに頬打ちを食わして、子供を二人とも自分
ツを着ているのを一目で見てとると、いきなり夫人はま
た。彼らが湯も使っていないうえに、よごれきったシャ
ないで、さっさと二人の子供のいる下男小屋へおもむい
ばかり、上から下へ引きむしった。それから、口もきか
を二つばかり食わしておいて、髪の毛をつかむと、三度
に、彼の顔を見るなり、きき目のある、音のいい頬打ち
みなしご
て会わなかったフョードル・パーヴロヴィッチは酔いし
人の手もとで子供を養育する件について、のちに正式に
あいさつ
れて夫人の前に出た。すると、夫人は何一つ物を言わず
20
ム・ペトローヴィッチ・ポレーノフというその県の貴族
という話である。老夫人のおもなる遺産相続人はエフィ
んでもこんな風に妙な、実に独特な書き方がしてあった
こと﹄云
々 。自分はこの遺言状を読みはしなかったが、な
の財布の紐を解かれることいっこうさしつかえこれなき
もっとも、何びとたりとも、篤志のかたは、随意に御自分
子供には、 これだけの贈り物にても十分すぎるゆえに。
では十分に足りるように使うこと。すなわち、かような
人のために使用すること、ただし二人が丁年に達するま
ると遺言した。
﹃二人の教育費として、この金額を必ず二
なった。が、二人の子供にそれぞれ千ルーブルずつ与え
やがて、この将軍夫人もほどなくこの世の人ではなく
であった。
いては、自分から出かけて町じゅうに振れまわったもの
し立てなかった。ところで、例の頬をなぐられた件につ
承諾を与えたときにも、ただの一項目にさえも異議を申
と多くかかっていた。彼らの青少年時代の細々した話に
うまでもなく、それは一人あたり千ルーブルよりはずっ
ていた。彼は自分の金で二人を養育したのであるが、い
ろには利子が積もり積もって、それぞれ二倍からになっ
くり保管してきたので、二人が丁年に達しようとするこ
から残された二千ルーブルの金を、子供らのためにそっ
ム・ペトローヴィッチに対してであった。彼は将軍夫人
なわち、この、まれに見る高潔な、人情のあついエフィ
通じて、誰かに負うところがあったとすれば、それはす
お願いする。もし若者たちが養育と学問の点で、生涯を
える。私は最初からこのことに注目されんことを読者に
は長いあいだその家の家族として大きくなったものとい
のアレクセイをことさらに 可愛 がったので、アレクセイ
になって 孤児 のめんどうを見ることにした。中でも、弟
には泣き言さえも並べるのであった︶ポレーノフは親身
いつもこんな場合には長々と一寸のがれを言ったり、時
相手はけっしてあからさまには断わりはしなかったが、
みなしご
団長で、高廉な人であった。フョードル・パーヴロヴィッ
はいることはしばらく見合わせて、私はただ重要な点だ
かわい
チと手紙で交渉をしてみると、この男からはとても実子
けを述べておくことにしよう。それにしても、兄のイワ
うんぬん
の養育費を引き出せないことがわかったので︵もっとも、
21
話したところによると、これは、天才のある子供は天才
家の寄宿舎へはいったのであった。のちにイワン自身が
チの幼な友だちで、ある経験のある、当時の有名な教育
モスクワの中学校に入学し、エフィム・ペトローヴィッ
の年に彼はエフィム・ペトローヴィッチの家庭を離れて、
し始めた。正確なことは知らないが、やっと十三くらい
れば︶、学問に対する一種の並ならぬ華々しい能力を現わ
とんど幼年のころから︵少なくとも、伝うるところによ
だけは言っておこう。この少年はかなりに早くから、ほ
間だなどということを、 洞察 していたらしいということ
に自分たちの父は、口にするのも恥ずかしいくらいの人
り他人の家で、他人のおなさけで育っているのだ、それ
少年になって、十くらいのころから自分たち兄弟はやは
ではないが、なんとなく気むずかしい、引っこみ思案の
ンについては、彼が長ずるに従ってけっして臆病なわけ
はっきりした判断力によったのかもしれぬ。それはとも
もまじめな援助を受ける望みのないことを教える冷静な、
によるものであろう、それとも、父からほんのわずかで
要がある。おそらく、 傲慢 な気持、父に対する軽蔑の念
ようとさえも考えなかったということは注意しておく必
ころが、そのころの彼が、父と手紙のやりとりをしてみ
立てながら、同時に勉強をしなければならなかった。と
なりひどい苦労をした。彼はこの間じゅう、自活の道を
ために、彼は大学における最初の二年間というもの、か
きの渋滞のおかげで容易に受け取ることができず、その
この国ではなんともしようのないいろんな形式や、手続
二千ルーブルにも殖 えた、自分の子供の時分からの金が、
から譲られて、今では利に利が積もって千ルーブルから
よろしきを得なかったばかりに、あの強情者の将軍夫人
の人となっていた。エフィム・ペトローヴィッチの処置が
ペトローヴィッチも、天才的な教育者も、すでにあの世
ふ
のある教育家のもとで教育されねばならぬ、という思想
かくとして、青年は少しもまごつかずに、やっとのこと
どうさつ
に心酔していたエフィム・ペトローヴィッチの、
﹃善事に
で、仕事にありついた。最初のうちは一回二十カペイカ
ごうまん
対する熱情から﹄起こったことである。もっとも、この
の出張教授をやっていたが、のちには、あちこちの新聞
お
青年が中学を 卒 えて大学へ進んだころには、エフィム・
22
わめて才能のある批評を掲載し始めたため、文学者仲間
大学を終わるころにはいろんな専門的な書物に関するき
フョードロヴィッチはその後も、ずっと関係を絶たずに、
のである。あちこちの編集部と近づきになると、イワン・
からと懇願する以外には、なんのいい思案も浮かばない
らぬ仏文の翻訳だとか筆耕の口だとかを、あとからあと
の新聞雑誌の編集室へ、お百度を踏みながら、相も変わ
いた。両都の学生たちは、たいてい朝から晩まで、各種
生に比べて、実際的にも知的にも断然頭角をあらわして
不仕合わせな境遇にある、この国のおびただしい男女学
はこの一事をもってしても、いつも貧しい暮らしをして
ろく、辛
辣 だったので、たちまち評判になったという。彼
たりした。この小さい記事は、いつも、なかなかおもし
名のもとに、市井の出来事についての十行記事を寄稿し
の編集者のところを駆けずり回って、
﹃目撃者﹄という署
すぎないと断定した。このいきさつを特に紹介しておく
の士はこの論文は、単に大胆不敵の 俄狂言 であり嘲
弄 に
から、やんやと 喝采 し始めた。が、つまるところ、具眼
みならず無神論者までがいっしょになって、各自の立場
を目して自党と確信したが、それと同時に公民権論者の
の結論とにあった。ところで、教会派の大多数は断然彼
した。重要な点は文章の調子と、全く人の意表に出たそ
つかの意見を検討してから、彼は自分自身の見解を発表
たものである。すでにこの問題について公けにされた幾
あちこちで論議されていた教会裁判問題に対して書かれ
く縁のなさそうなものであった。その論文は、そのころ
なかんずくその題材が博物科を卒業した彼にとっては全
文を載せて、 専門外の人の注意まで引いたのであるが、
フョードロヴィッチは突然ある大新聞に一つの奇妙な論
ルーブルの金で外国行きを企てているうちに、イワン・
ある出来事であった。すでに大学を卒業して、例の二千
しんらつ
のあいだにまで有名になった。もっとも、偶然にも彼が
のは、そのころもちあがった教会裁判問題について一般
かっさい
ずっと広範囲の読書に特別な注意をよび起こして、非常
的な興味を持っていた、この町の郊外にある有名な修道
ちょうろう
に多くの人から一時に認められ、記憶されるようになっ
院でも、たまたまこの論文が問題になって、非常な疑惑
にわかきょうげん
たのは、つい最近のことである。それはかなりに興味の
23
いであろうとも、いついかなる場合にも金などを出す心
しなければ覚えてもいず、もちろん、たといわが子の願
青年が、︱︱
︱一生自分の存在を無視して、自分を知りも
があり、 あれほど見識が高くて、 あれほど体面を 慮
る
不可解な 謎 として残っていた。だいたい、あれほど学問
郷は、自分にとって、その後長いあいだ、ほとんど常に
あのような恐ろしい事件の 端緒 となったこの宿命的な帰
い気持で、 この疑問を心にいだいたことを覚えている。
帰って来たのか︱︱
︱自分は当時すでにほとんど不安に近
なんのためにイワン・フョードロヴィッチがそのとき
た。
どそのころ、ひょっくりこの町へ当の筆者が姿を現わし
とがまた人々の興味を引くのであった。ところがちょう
フョードル・パーヴロヴィッチの息子である﹄というこ
て、それがこの町の出身者で、しかも﹃あのほかならぬ
をよび起こしていたからである。さて筆者の名がわかっ
んな風に話していた。
﹃いつでも小銭はもうけるし、それ
と彼はそのころ、われわれに向かってイワンのことをこ
張り合いをすることがあった。﹃あの男は気位は高いし﹄
なったが、ともすれば内心の苦痛を感じながら、知識の
彼は異常なる興味を覚えてこの青年と相識のあいだに
ように記憶する。
地に居合わせた。この人が誰にもまして特に驚いていた
住み慣れたパリから帰って来て、再び当市に隣接した領
親戚に当たる人であるが、ちょうどそのころ、すっかり
妻とのつながりでフョードル・パーヴロヴィッチの遠い
ミウーソフ︱︱︱この人はすでに前にも述べたとおり、先
特に驚かされた。ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・
ある。これには単に私ばかりではなく、多くの人たちが
く、両者のあいだはこのうえもなく折り合いが好いので
はもう二月ばかりもいっしょに暮らしているばかりでな
ある。ところが、そんな父親の家へ戻って来てこの青年
脈きわまる家庭へ突然やって来たのは、不思議なことで
たんちょ
配は絶対にないくせに、それでいて、やはりイワンとア
に今でも外国へ行くだけの金は持っているのだから、何
なぞ
レクセイがいつか帰って来て、金をねだりはしないかと、
もいまさらこんなところへやって来る必要はなさそうな
おもんぱか
一生涯そればかりを恐れているような、こんな父親の乱
24
し、ある重大な事件︱︱︱といっても、主としてドミトリ
もほとんどこの帰郷のときがはじめてであったが、しか
のころ、生まれてはじめて兄のことを知り、顔を見たの
フョードロヴィッチの頼みとその用件のためであった。そ
ロヴィッチが帰って来た一半の理由は、 兄ドミトリイ ・
後になってわかったことであるが、イワン・フョード
われることさえもあった⋮⋮。
はなく、どうかすると、身持ちが幾らかなおったかと思
時おりは彼の言うことを聞くらしかった。そればかりで
まで、ときにはひどく片意地なこともあったが、しかも、
て明らかに一種の勢力を持っていた。父は非常にわがま
まだ!﹄それは全く事実であった。イワンは父親に対し
のに父親はあの男でなければ、夜も日も明けないありさ
埒 なまねをしたりするのは、大嫌いなんだが、それだ
放
を出す父親ではないのだから。 あの男は酒を飲んだり、
いことは、誰の眼にも明らかなことだ。なんにしても金
ものだが? 父親に金をもらうためにやって来たのでな
て、こうした序説的な物語の中で説明することは、何よ
レクセイについて、小説の本舞台へ登場させるに先立っ
われのところへ姿を現わしたわけである。さて、このア
らで暮らしていた。つまり兄弟じゅうで最も早く、われ
セイ・フョードロヴィッチだけは、一年ほど前から、こち
めて互いに顔を見知ったのである。ただ末の子のアレク
いっしょに落ち合ったのであって、ある者は生まれてはじ
この一家族は、くり返して言うが、このときはじめて
ていた。
父との間に 挾 まって、仲裁役といったような立場に立っ
ようとしていた兄のドミトリイ・フョードロヴィッチと
はそのころ、父と大喧嘩をして、正式裁判にまでも訴え
つけ加えて言っておくが、イワン・フョードロヴィッチ
由も依然として不可解に思われた。
チという人がやはり謎のように感ぜられ、その帰郷の理
き知った後でさえも、私にはイワン・フョードロヴィッ
てくるはずである。とにかく、後日その特別な事情を聞
がいかなる事件であるかは、やがて読者に詳しくわかっ
ほうらつ
イ・フョードロヴィッチに関したことである︱︱︱のため
りも自分にとってはむずかしいことである。しかし、彼
はさ
に、モスクワから帰郷する前から文通は始めていた。それ
25
道院に住みこんでからすでに一年近くになるが、どうや
明しておく必要があるのである。事実、彼がこちらの修
介しなければならぬので、その点だけでもあらかじめ説
人公を、小説の第一幕から 新発意 の法衣姿で、読者に紹
くとも、ある非常に奇妙な点、すなわち、この未来の主
についても、やはり前書きを書かなければならぬ。少な
ら非常に変わった人間であったことは争われない事実で
この長老に傾倒した。もっとも、彼はすでに 揺籃 時代か
はやむにやまれぬ心の初恋のような熱情を捧げつくして、
する、有名な長老ゾシマを、発見したからであった。彼
その中に、そのころ、彼の目してなみなみならぬ人物と
この修道院の生活が彼の驚異の念を呼びさましたのも、
想として、そのころの彼の心に映じたからである。また
かったことである。前もって遠慮のない意見を述べるな
なくとも自分の考えでは、けっして神秘主義者でさえな
アリョーシャが、けっして狂信者でもなければ、また、少
まず最初に言っておかなければならないのは、この青年
ンは当時二十四、長兄のドミトリイは二十八であった︶。
彼はその時まだやっと満二十歳であった︵中の兄のイワ
を通じて心のなかに浮かんでくるものである。アリョー
た大きな絵から切り抜かれた小さい断片のように、一生
点のように、︱︱︱また、それ以上は跡形もなく消え失せ
ていることであるが︶、それは闇の中に浮かび出た明るい
ろからさえ、よく記憶に残るもので︵それは誰でも知っ
こうした思い出はずっとずっと幼い︱︱︱二つくらいのこ
ざまざと覚えていたことはすでに述べたとおりである。
自分の眼の前に母親が生きて立っているかのように﹄ま
しんぼち
ら彼は一生涯その中に閉じこもる覚悟でいるらしかった。
ある。ついでながら、彼がわずか四つで母に別れながら、
ようらん
らば、彼はわずかに若き博愛家にすぎず、修道院の生活
シャの場合も全くそのとおりであった。彼はある夏の静
その後一生を通じて、母の面影やその慈愛を、
﹃あたかも
にはいったのも、ただその生活が彼の心をうち、いわば
かな夕暮を覚えていた。窓があいていた、夕日が斜めに
四 三男アリョーシャ
世界悪の闇から愛の光明を願い求める彼の魂の究極の理
26
たばかりか、むしろ口数の少ないほうであった。それは
にも、少年期にも、彼はあまり感情を面に現わさなかっ
憶を人に打ち明けることをあまり好まなかった。幼年期
してはいたが、美しいものであった。しかし、彼はこの記
ていた。その顔は、彼が記憶している限りでは、取り乱
であった! アリョーシャはその刹那の母の顔まで覚え
親の手からもぎ取ってしまった、これがそのときの光景
と、不意に乳母が駆けこんで来て、おびえながら彼を母
に抱き上げて聖像の方へ差し伸べたりしていた⋮⋮する
母の 被衣 の陰に隠そうとでもするかのように、彼を両手
きしめて、わが子の身の上を聖母マリヤに祈り、また聖
あげてわめきだすと共に、彼を両の手で痛いほど固く抱
ヒステリイのようにすすり泣きしながら不意に金切声を
燈明がともされていた。 聖像の前に母がひざまずいて、
覚えていた︶、 部屋の片隅には聖像があり、 その前には
さしこんでいた︵この斜めにさしこむ光を彼は最もよく
潔な彼は、見るに忍びないときに、黙々としてその場を
き 淫蕩 の巣窟たる父親の家に身を寄せてからも、童貞純
になっていた。二十歳の年に、まぎれもなく、けがらわし
彼を驚かしたりおびやかしたりすることができないほど
のことを許しているらしかった。この意味で、何びとも
は深い悲哀を感ずることもたびたびあったが、いっさい
あった︶、事実、彼は少しもとがめ立てをせずに、ときに
なところがあった︵それはその後、一生を通じてそうで
なことがあっても人を 咎 めない、とでも言っているよう
いやだ、そして他人を非難するのも好かないから、どん
かった。彼の内部には、自分は他人の裁判官になるのは
をばかというものもなければ、お人好しと考える者もな
信じきって暮らしたらしいが、かつて誰ひとりとして彼
であった。しかも彼は人を愛した。そして一生涯、人を
のために他人のことは忘れるともなく忘れがちになるの
るが、それが彼にとっては非常に重大なものなので、こ
もない、自分だけの内心の屈託といったようなものであ
かつぎ
けっして臆病のためとか、無愛想で人づきが悪いためで
はずすばかりで相手が誰であろうとも、いささかの軽蔑
とが
はなかった。それどころか、かえって、原因は何か他に
をも非難をも見せなかった。かつてよその居候であった
いんとう
ある。つまり、きわめて個人的な、他人にはなんの関係
27
へはいったのは、まだきわめて幼少のころで、こんな子
見なされたものであった。それにしても、彼がこの家庭
すっかり引きつけてしまって、全く本当の子供と同様に
の家へ引き取られると、彼はこの家のあらゆる人たちを
で養育者たるエフィム・ペトローヴィッチ・ポレーノフ
れはまだ幼い子供のときからそうであった。自分の恩人
それに、この青年はどこへ行っても人に好かれた。そ
いような、深い真実な愛情がありありと見えていた⋮⋮。
彼のような人間には、ほかの何びとにも感ずることのな
れは泣き上戸の感傷の涙まじりにではあったが、しかも
ず彼を抱きしめて、接吻するようになった。もっとも、そ
えたが、結局は、まだ二週間ともたたないうちに、絶え
い態度で、
﹃黙り者の腹はさまざま﹄といった風で彼を迎
いた父親は、最初は、 腑 に落ちないような、気むずかし
ところから、侮辱に対しては敏感で繊細な神経を持って
考えたことはなかった。そのせいであろうか、彼はつい
子供に伍しても、彼はけっして頭角を現わそうなどとは
る、ということをすぐに悟るのであった。同じ年ごろの
なく、反対に、落ち着いてさっぱりした性質のためであ
目彼を見ると、それはけっして気むずかしさのためでは
たり、はしゃいだりはしなかったが、しかし、誰でも一
いいほど、仲間から可愛がられた。彼はめったにふざけ
彼は学校にいる間じゅう、全くみんなの 寵児 といっても
で、 読書にふけることを好んだ。 それにもかかわらず、
があった。ごく幼少のころから彼は隅のほうに引っこん
えば、彼はよく物思いに沈んで、人を避けるようなこと
憎悪さえも受けそうな子供に見えたかもしれない。たと
間から疑いや、時として嘲笑や、あるいはことによると、
においてもやはり同じことであった。もっとも、彼は仲
端的に自然から賦与された本性だったわけである。学校
心に呼びさます能力は、 なんら技巧を 弄 することなく、
ろう
供に打算的な悪知恵や、機嫌を取って人に好かれようと
ぞ何一つ恐れたことがなかった。それでいて仲間の子供
ふ
する術策や技巧や、自分を 可愛 がらせようとする手腕な
たちは、彼が自分の勇気を鼻にかけているのでなく、か
ちょうじ
どといったものを期待することは、絶対にできないこと
えって、自分が大胆で勇敢なことを、いっこう知らない
かわい
である。したがって、おのれに対する特別な愛情を人の
28
全学級にわたって、彼をからかってやろう、という望み
があって、それが下級生から上級生に至るまで、中学の
征服したのであった。ただ一つ彼には人と変わった性質
つきなので、 この点がすっかり子供たちの心を 擒 にし、
はなく、そんなことは侮辱でもなんでもないといった顔
たとか、またはことさらに許したとかいうような様子で
れした顔をしている。それはうっかり、その侮辱を忘れ
もなかったかのように相手を信じきったような、晴れ晴
あった。そんなときには、まるで二人のあいだには何事
り、自分のほうからそれに話しかけたりすることがよく
受けてから一時間ほどすると、当の侮辱者に返事をした
辱を覚えていたことなどは一度としてなかった。侮辱を
ようなありさまであることを、すぐに了解した。彼は侮
えられるのである。
﹃アリョーシャ・カラマゾフ﹄が、
﹃そ
トで、微妙で、男らしい、 模倣 に価するもののように考
しかもこれがしばしば彼らのあいだでは、何かデリケー
面的なものではなくて、ただ外面的なものにすぎないが、
厚顔無恥はあっても、やはり本当の意味での放縦な、内
おそらく、道徳的堕落というようなものはないであろう。
なければ、心得てもいないものである。まだ、そこには
知っているような、この方面のことを、あまり知りもし
などは、教育のある上流社会の年少の子弟が 疾 うの昔に
室の中で、仲間同士大きな声で口外する。かえって兵隊
にするのを 憚 るような事柄や、場面や、方法などを、教
魂も清浄潔白な少年たちが、時によっては兵隊でさえ口
すことはできないものである。まだほんの子供で、心も
る種﹄のことばや会話は、いずれの学校においても絶や
はばか
を友だちに起こさせたものである。もっとも、それは腹
のこと﹄について話の出るたびに、あわてて指で耳を 塞 と
の黒い嘲笑ではなくただ皆にとってそれが楽しいからで
ぐのを見て、 時おり一同はことさらぐるりに集まって、
とりこ
あった。この変わった性質というのは、野性的な、夢中
むりやりにその手を払いのけながら、両の耳を向けて大
もほう
になるほどの 羞恥心 と潔癖とであった。彼は女に関する
声で忌まわしいことをわめくのであった。すると相手は、
ふさ
ある種のことばやある種の会話を、はたで聞いているこ
それを振り払って、床の上に倒れ、すっかり顔を隠して
しゅうちしん
とすらできなかった。ところが、不幸にも、こうした﹃あ
29
ことになったが、いかなる条件のもとに引き取られたも
れまで一度も顔を見たこともない二人の婦人の家へ移る
シャはエフィム・ペトローヴィッチの遠縁に当たる、こ
逗留の予定でイタリアへ旅立ってしまったので、アリョー
人 の亡きあと、すぐに、女ばかりの家族をまとめて、永
良
た。エフィム・ペトローヴィッチの夫人は悲嘆に暮れて、
シャはなお二年のあいだ、県立の中学校にとどまってい
エフィム・ペトローヴィッチが死んでからも、アリョー
首席になったことはなかった。
課において彼はいつも優等生の一人であったが、一度も
情をもって見るようになった。ついでながら、級中、学
えもよしてしまったばかりではなく、この意味で彼に同
には誰も彼を構わなくなって、
﹃女 っ児 ﹄とからかうのさ
かず、無言のまま、じっと侮辱を忍ぶのであった。つい
しまって、その際、何も言わなければ、乱暴な口ひとつき
文字どおりの意味ではない。彼はけっして自分から頼ん
打ちというものをよく知らなかった。もとより、それは
ないと、すぐに気づくからであった。概して彼は金の値
い果たしてしまう宗教的キ 印 に類する青年の一人に違い
欺師にひっかかって巻きあげられるかして、苦もなく使
なにかの慈善事業に寄付をするか、または単に巧妙な詐
たところで、 最初に出会った無心者に施してしまうか、
つかると、アレクセイはたとえ一時に多額の金がはいっ
は、彼を少しでも知っている者は誰でも、この問題にぶ
り深くとがめるわけにはいくまいと思われる。というの
しかし、アリョーシャのこうした奇妙な性格も、あま
思いをしていたのに比べると、全く正反対であった。
人のやっかいになっている、ということを感じてつらい
たり、またほんの子供のころから、自分の恩人の家で他
初めの二年間、自分で働いて身すぎをしながら苦労をし
点において、兄のイワン・フョードロヴィッチが大学で
こ
のか、 それは自分でも知らなかった。 もう一つ、 彼の、
だのではないが、時おり小遣い銭をもらうことがあった
あま
非常にといっていいくらいの変わった性質は、自分はそ
が、それも、時によると、幾週間もその使途に困ってもて
おっと
もそも、誰の費用で生活をしているのか、ということを、
あますかと思えば、また時にはおそろしく無雑作に扱っ
じるし
これまで一度も心に留めたことのない点であった。この
30
まる一年あるのに、彼はいきなり、やっかいになってい
彼は中学の全課程を終えなかった。まだ卒業までには
少しも苦にしないどころか、かえって満足に思うだろう﹄
れば、屈辱でもなく、また世話をしてくれる人もそれを
かもそれはあの人間にとって、骨の折れることでもなけ
てくれなくとも、自分ですぐどこかに職を見つける。し
くれたり、仕事の世話をしてくれたりするから。人がし
をしたりすることはないだろう。すぐに人が食べものを
打っちゃられても、けっして飢え死にをしたり、 凍 え死に
内な都会の大広場へ、いきなりただ一人で、一文なしで
い人間かもしれない。あれはたとい人口百万ほどの不案
﹃この男はおそらく、世界じゅうにただ一人の、類のな
があった。
てから、あるとき、彼について一つの名句を吐いたこと
ほうであったが、のちに、アレクセイを見慣れてしまっ
ジョアらしい廉恥心にかけては、少なからず神経過敏な
ル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフは、金やブル
て、またたく間になくしてしまうのであった。フョード
れはそのころ、彼自身にさえもわからず、なんら説明の
彼を引っぱっていったのは、はたして何であったか、そ
かも避けがたい新しい道へ、いやおうなしにぐんぐんと
心のうちにわきあがって、どこかよくわからないが、し
由の全部が尽きていたかどうかは疑わしい。不意に彼の
でも打ち明けかかっていた。しかし、それだけで帰郷の理
それが帰郷の唯一の目的であると、帰って来たとき自分
の後まもなく、彼が母の墓を捜していることがわかった。
いつものように物思いに沈んでいたという噂である。そ
の最初の質問に対して、彼は何も答えなかった。そして
んだって学校を卒業もしないで来たんだ?﹄という父親
その金も半分は返してしまった。この町へ着いた時、
﹃な
れた。しかし、彼はぜひ三等車に乗りたいからと言って、
費をつくってくれ、新しい着物や肌着類までも調えてく
ようとしたが、二人の婦人はそれをも止めて、十分に旅
の遺族から、外国出発のおりに贈られた時計を質に入れ
た。旅費はあまりたいした額でもなかったので、彼は恩人
ちはひとかたならず彼を惜しんで、放そうとはしなかっ
きたので、父のもとへ帰るつもりだと申し出た。婦人た
こご
た二人の婦人に向かって、ふとある用事が頭に浮かんで
31
は、この時代のことと考えなければならぬ。彼が再びこ
ようになった。彼が金もうけに特別の腕を磨きあげたの
人ばかりでなく、﹃上流のユダヤ人の家へも出入りする﹄
男女のユダヤ人﹄とつきあっていたが、やがてはユダヤ
うちは、彼自身の言いぐさによると、
﹃多くの卑しい老若
て、そこに何年か引き続いて暮らしたのであった。最初の
四年たって、南ロシアへ 赴 き、ついにオデッサまで行っ
町に住んでいなかった。二度目の妻が亡くなってのち三、
少しばかり話しておこう。彼はそれまで長いあいだこの
ついでながらフョードル・パーヴロヴィッチのことを
葬ったのか、全く忘れ果ててしまったからである⋮⋮。
とがないので、長い年月がたつうちに、そのときどこへ
た。棺へ土をかぶせてこのかた、一度も墓参りをしたこ
妻をどこに葬ったか、わが子に教えることができなかっ
あろう。フョードル・パーヴロヴィッチは自分の第二の
しようがなかったのだと解釈するのが最も妥当なことで
いぼれていた例の下男グリゴリイが、ほとんど付き添い
た。だから、もしも、そのころ、やはりいいかげんに老
げやりになって、いよいよ頻繁に深酒に浸るようになっ
か事を始めても、前後がすっかり食い違い、すべてが投
と身のしまりがなくなり、妙にだらしがなくなって、何
近になって、彼もなんだか気がゆるんだらしく、 流暢 さ
ちろん、たしかな抵当を入れてのことであった。ごく最
くの人たちが、たちまち彼から借金をしたが、それはも
分それに欠けるくらいはあったらしい。町内や郡内の多
た。どうやら彼の財産は十万ルーブルか、それとも、幾
思われた。間もなく彼は郡内に多くの新しい酒場を開い
よりも、そのやり方がいっそういやらしくなったように
見苦しいまねをすることは、以前どおりに好きだという
ずうずうしい要求を現わし始めたのである。女を相手に
の道化が、今度は、ほかの者を道化に仕立てようという、
というよりも、なんだか妙にあつかましくなってきた。昔
ひどく老けたように思った。彼の物ごしは上品になった
おもむ
の町へ帰って、すっかり落ち着くことになったのは、ア
の格で彼を見張っていなかったなら、フョードルの生活
りゅうちょう
リョーシャの帰郷よりわずか三年前のことであった。町
には、絶えずめんどうなごたごたが起こっていたことで
ふるなじみ
の古
馴染 は、彼がまだけっしてそんな老人ではないのに、
32
年などといっしょに碑銘があって、下の方には、一般に
指さした。その上には故人の名まえ、身分、年齢、死亡の
まり金はかかっていないが、小ぢんまりした墓じるしを
つれて行って、そこのずっと奥の隅にある鋳鉄製の、あ
リョーシャに教えられた。グリゴリイは彼を町の墓地へ
かれた女﹄の墓は、ついに下男のグリゴリイによって、ア
アリョーシャの母をそう呼んでいたのである。その﹃憑
生き写しだな、あの憑 かれた女に﹄彼は自分の亡き妻で、
くづく眺めながら、言うのであった、
﹃おまえはあいつに
であった。
﹃なあ、これ﹄と彼は、アリョーシャの顔をつ
えしぼんでいたあるものが、不意に眼ざめたかのよう
萎 老いぼれたフョードルの心のうちに、遠い昔に魂の中で
も、彼になんらかの影響を与えたらしい。年に似合わず
あろう。アリョーシャの帰郷は、精神的な方面から見て
すなわちアリョーシャの母である﹃憑かれた女﹄のため
の回
向 を頼んだのであった。しかし、それは二度目の妻、
取り出すと、それを町の修道院へ持って行って、亡き妻
は非常に風変わりなものであった。彼は金を千ルーブル
ドル・パーヴロヴィッチにも影響を与えたが、しかもそれ
来なかったであろう。しかもこの小さな插話は、フョー
ち去った。それきり、彼はおそらく、一年ばかりも墓場へ
たれてたたずんでいたが、やがて何一つ物も言わずに立
もらしい話にじっと聞き入ったばかりで、しばらく頭を
じるしを建てるについてグリゴリイの物々しい、もっと
前でなんら感傷的な態度を示さなかった。彼はただ、墓
へ行ってしまったのであった。アリョーシャは母の墓の
かりではなく、あらゆる思い出を振りすてて、オデッサ
ものであるが、結局フョードルは、ただにこの墓のことば
かして、フョードル・パーヴロヴィッチをうるさがらせた
な
中産階級の人の墓に使われる古風な、四行詩のようなも
でなく、自分を打った先妻のアデライーダ・イワーノヴ
つ
のまで刻んであった。驚いたことに、この墓じるしはグ
ナの 菩提 を葬うためであった。そして、その晩、酒に酔
ぼだい
えこう
リゴリイの仕
業 であった。これは彼が自腹を切って、気
いしれて、アリョーシャを相手に坊主どもの悪口を言っ
しわざ
の毒な﹃憑かれた女﹄の奥
津城 の上に建てたものである。
た。彼自身は信心からおよそ縁遠い人間であった。おそ
おくつき
それに先立って彼は幾度となく、この墓のことをほのめ
33
しい 淫蕩 な相を与えているのであった。そのうえに、 腫 大きな 贅肉 がぶらさがっていた。それが彼の顔にいやら
の下から、まるで金財布のようにだぶだぶした横に長い
だしい 皺 が深く刻まれているばかりでなく、とがった 頤 た肉の袋がたれて、小さいながら 脂 ぎった顔に、おびた
かも人を嘲けるような小さい眼の下に、長いぶよぶよし
な相好を現わしてきた。いつも無遠慮でうさん臭い、し
去の生活全体の内容と特質を、まざまざと証明するよう
述べたとおりである。それに彼の容貌は最近とみに、過
彼がこのごろ、ひどく気のゆるんできたことは、前に
奇妙な感情や思想の突発が起こるものである。
とのない男であった。こんな手合いには、よくこうした
らく五カペイカの蝋燭一本さえも、聖像の前へ立てたこ
していた。
供﹄に特殊な感銘を与えていることは、すでによく承知
ない済ましているゾシマ長老が、自分の﹃おとなしい子
願いすると説明した。老人は、この修道院内の庵室に行
父としての厳粛な許しが与えられるように、ぜひともお
彼はまたそのとき、これは自分の格別な希望であるから、
も自分が 新発意 になることを許してくれたと言いだした。
父に向かって、自分は修道院へはいりたい、修道僧たち
アリョーシャは母の墓を見つけてほどなく、いきなり、
た。
できあがっているんだ﹄それが彼の自慢なところらしかっ
しょになって、退廃期の古代ローマ貴族そのままの顔が
﹃正真正銘のローマ鼻だ﹄と言った、
﹃こいつが肉袋といっ
に細かくて、ひときわ目立つ段のついた鼻を指しながら、
ぜいにく
いんとう
は
しんぼち
れぼったい唇のあいだから、ほとんど腐ってしまった黒
﹁あの長老は、そりゃあ、あすこではいちばん心の潔白
どんよく
あぶら
い歯のかけらをちらちら見せる 貪欲 らしい長い口が付い
な坊さんだよ﹂じっと黙ったまま何か考えこむような風
あご
ているのである。彼は話をするたびに 唾 をやたらに跳 ね
でアリョーシャのことばを最後まで聞いて、彼はこう口
しわ
飛ばした。とはいえ、よく好んで、われとわが顔をひや
を切ったが、わが子の願いに驚いた様子は少しもなかっ
は
かしたものであるが、さしてその顔に不満足でもなかっ
た。
﹁ふむ⋮⋮じゃあ、おまえはあすこへ行こうっていう
つば
たのである。ことに彼はそれほど大きくはないが、非常
34
ときに、なんだな、あるお寺のことなんだが、そこには
週間に二粒ずつもありゃたくさんだろうよ︱︱︱ふむ⋮⋮
金の使い方といえば、とんとカナリヤとおんなじで、一
るまいよ。そんなもんじゃないかえ? だって、おまえの
ば、なにもこっちから出しゃばったことをするにも当た
まえのために寄進するよ。だが、もし出せと言わなけれ
んからな、今だって、寺で出せと言うだけのものは、お
ものだ。わしもけっしておまえを打っちゃっときゃあせ
を持っておるのだから、あれがまあ、持参金になるって
しかたがないさ、おまえも二千ルーブルという自分の金
えは全くあすこをねらっておったんだからの。が、まあ、
おったのだよ。どうだ、思いがけなかったろうが? おま
えが、何かそんな風なことになるだろうとは、感づいて
ら笑いであった。
﹁ふむ⋮⋮だが、わしも、いずれはおま
一杯機嫌ながらも、 狡猾 さと、生酔いの本性を失わぬ薄
突然、にやりと笑った。それは例の引きのばしたような、
のか、うちのおとなしい坊主!﹂彼は一杯機嫌だったが、
ねたものだからな。わしはいつもよくそう思ったものさ
に 御輿 をすえているうちに、ずいぶんいろいろと罪を重
ために、お祈りをしてくれるんだな。全くわしらはここ
も、これを 機会 に一つ、わしらのような罪障の深い者の
しはおまえが大好きになってしまったのだよ⋮⋮それで
えが可哀そうなんだよ。まさかと思うかもしれんが、わ
な?
ば⋮⋮。じゃあ、おまえは坊主の仲間へはいりたいんだ
で、戒律のやかましい連中ばかりなんだな、白状をすれ
ないで、坊主ばかりが二百匹ほどもいるのさ。道心堅固
が、ここの寺には何もない。お囲い女房なんか一人もい
から。そのうち 嗅 ぎつけたら、やって来るだろうよ。だ
の。呼び寄せたらいいんだのに、金は幾らでもあるんだ
ろしい国粋主義で、フランスの女がさっぱりいないんで
だけのおもしろさなんだけれど、ただ惜しいことに、恐
しろいわい。もちろん、一種特別な、変わっておるという
ぞ⋮⋮わしもそこへ行ったことがあるが、なかなかおも
住んでおる﹄のさ。なんでも三十匹ぐらいもいるらしい
こうかつ
ちょっとした控え屋敷のようなものがあって、その中に
︱︱︱いつか、わしらのために祈ってくれる者がどこかに
みこし
し お
だが、アリョーシャ、わしは全くのところ、おま
か
は、 誰でも知っておることだが、﹃お囲い女房ばかりが
35
んかもしれんが、このことにかけたら、わしは か ら他愛
しらん?
ば、すっかり見込み違いで、またわからなくなる、つま
鉤もないことになるだろう。ところで、鉤がないとすれ
その中にあるんだ! それで、もし天井がないとすれば、
ことじゃないかよ。ところが、このいまいましい問題は、
がないんだよ。そりゃおそろしくばかなのさ。ところが、
り、誰もわしを鉤にかけて引きずりこむ者はいないわけ
そんな人間がはたしてこの世にいるか
ばかなりにも、しょっちゅうこのことを考えるんだよ。い
だ、ところで、もしわしを鉤にかけて引きずりこまないと
いるだろうか?
や、しょっちゅうじゃない、むろん、ときどきの話だ。だ
したら、そのときはどうだろうな、いったい、この世のど
とな。なあ、可愛い坊主、おまえは本当にせ
が、わしが死んだとき、鬼どもがわしを 鉤 に引っ掛けて、
かぎ
地獄へ引きずりこむのを、ちょっと忘れさせるっていう
こに、真理があるというんだ?
Il faudrait les inventer
︵ ぜひとも作り出さにゃならんのだ ︶ことさらにその
わしの気になるの
鉤をわしのために、わし一人のためにな、なぜと言って、
しら? 鉄だろうかな?
﹁でも地獄には鉤なんかありませんよ﹂と父を見つめな
実になんとも言えん恥知らずだからな!⋮⋮﹂
とてもおまえにはわかるまいが、アリョーシャ、わしは
を鍛 つんだろう? 何か工場のようなものでも地獄にあ
がら、静かにまじめにアリョーシャは答えた。
何でこしらえてあるんか
るのかな? でも修道院では坊主どもはきっと、地獄に
﹁そうだとも、そうだとも、ただ鉤の影ばかりなんだ、知っ
そんなら、どこでそんなもの
天井があるものと考えてるんだろう。ところが、わしは
てるよ、知ってるよ。あるフランス人が地獄のことを書い
う
地獄というものを信じるのはいいけれど、まだねがわく
ておるが、全くそのとおりなんだ、 J’ai vu l’ombre d’un
気のきいた、文化的な、つまりルーテル式なものになっ
てくるからな。全く、天井があろうとなかろうと、同じ
cocher’qui avec l’ombre d’une brosse frottait l’ombre
︵ わたしは見た、刷毛の影にて馬車の影
d’une carosse
ば天井のないやつがいいな。そうすれば、地獄も少しは
ものを手に入れるんだろう?
は、この鉤なんだよ。いったいやつらは、どこからそんな
わけにはいかんものだろうかなあ?
、
、
36
を磨く御者の影を
少しのあいだ坊さ
︶だ。しかし、おまえはどうして鉤
がないってことを知ってるんだい?
んたちの中へはいっておったら、そんなことも言わなく
なるだろうが。しかし、まあ行くがいい、そして善知識
になるがいいぞ。そうなったら、わしのところへ来て話
して聞かしてくれ。なんといっても、あの世の様子が良
く知っていさえすれば、そこへ行くのも楽なわけだから
な。それに、おまえも、のんだくれの親爺や娘っ子ども
のそばにいるよりは、坊さんたちのところにいたほうが
身のためだから⋮⋮、せめておまえだけは、天使のよう
に、なんにもさわらせたくないよ。いや、あすこへ行け
ば、おまえもさわるものがなかろう。わしがおまえに許
しを与えるのも、つまりは、それを当てにするからなん
だよ。 おまえの心はまだ悪魔に食われておらんからな。
ぱっと燃えて、消えて、それからすっかり以前のからだ
になって、帰って来るがいい。わしはおまえを待ってお
るぞ。実際、世界じゅうでこのわしを悪く言わないのは、
ただおまえ一人きりだからな、それはわしも感じとるわ
い。本当に感じとるとも、実際、それを感じないわけに
はいかんじゃないかえ?⋮⋮﹂
そして、彼はすすりあげて泣きだしさえした。彼は感
傷的であった。悪党ではあったが、同時に感傷的な人間
五 長老
でもあった。
おそらく、読者の中にこの青年を、病的な、われを忘
や
れてしまうほど感じやすい、生まれつき発育のよくない、
貧弱な 痩 せ衰えた人間で、 青白い顔の空想家だろうと、
考えられるかたがあるかもしれぬ。ところが、その正反
ひとみ
対で、そのころのアリョーシャは堂々たる体格に、ばら
色の頬をして、健康に燃えるような明るい 眸 の、二十歳
の青年であった。そのころの彼はむしろ非常な美貌の持
ち主であった。すらりとした中肉中背で、黒みがかった
亜麻色の髪に、輪郭の正しい、しかもこころもち長めの
卵なりの顔、大きく見はった濃い灰色の眼︱︱︱概して考
え深そうな、見たところは、いかにも落ち着いた青年で
あった。あるいは、ばら色の頬も、狂的信仰や神秘主義
37
得ないのである。使徒トマスも、見ないうちは信じない
しくその現実主義を通じて、必ず奇跡をも許容せざるを
もしひとたびレアリストが信仰をいだいたならば、まさ
ら生まれるのでなくて、信仰から奇跡が生ずるのである。
容するのである。レアリストにあっては、信仰が奇跡か
事実でありながら、今まで知られずにいた事実として許
けれど、いざ奇跡を許容するとなれば、きわめて自然な
を許容するよりも、むしろ自分の感覚を信じまいとする。
すべからざる事実となって現われた場合には、彼は奇跡
と才能を持っているのである。そして、もし奇跡が否定
もし彼が不信者であるとすれば、常に奇跡を信じない力
を信仰に導くのではないからである。真のレアリストは、
レアリストを困惑させるものでない。奇跡がレアリスト
は相違ない。しかし、自分の考えでは、奇跡はけっして
修道院へはいってから、彼はすっかり奇跡を信じたのに
真のレアリストではないかと思われる。それはなるほど、
しかし、自分には、むしろアリョーシャが誰にもまして
の邪魔にはならない、 という人があるかもしれないが、
いったんそれを信じたうえは、 己 が心魂を傾けて一刻の
真理を探求し、ついにそれを信じるに至ったのであるが、
であったことを付け加えればいい。つまり、天性潔白で、
れにいまひとつ、半面において彼がわが国の近代的青年
対する究極の理想として映じたからにほかならない。そ
を撃ち、闇の中から光明を目ざして 驀進 する彼の心霊に
がこの道へ踏みこんだのは、当時ただこれのみが彼の心
べたところを、いま一度くり返すまでであるが、︱︱︱彼
うのは、たいへんな間違いである。自分はすでに前に述
事実であるが、しかし、彼を鈍な人間だのばかだのとい
人がないとも限らない。彼が中学を卒業しなかったのは
達も不十分で、学業も全うしなかったのだ、などという
あるいはまた、アリョーシャは鈍な人間で、精神の発
しれない。
でに、自己の存在の奥底では、完全に信じていたのかも
たぶん彼が﹃見ないうちは信じない﹄と頑張ったときす
いと望んだればこそ、 信ずることができたのであろう。
だろうか?
が神よ!﹄と言った。これは、奇跡が彼を信じさせたの
おの
ばくしん
おそらくそうではなくて、彼がただ信じた
と言い張ったが、いよいよ見たときには、
﹃わが主よ、わ
38
だけで、一時も早く功績を立てたいと思う熱望に変わり
である。アリョーシャはただ、人と正反対の道を取った
が、多くの青年にとってはほとんど全く耐えられないの
学問のための犠牲にするという︱︱︱こうした不断の努力
五年、六年を割 いて、むずかしいやっかいな勉強のため、
力を増すだけにでも、青春の血に燃ゆる自己の生活から
成を心に期している同じ真理なり、功名なりに奉仕する
である。たとえば、みずからそれに打ちこんで、その完
牲よりも、最も容易なものだということがわからないの
たちには、生命の犠牲はこういう場合、他のいかなる犠
れていたのである。とはいえ、不幸にして、こうした青年
も犠牲にすることを辞さないという、必死な希望にから
い、しかもその功績のためにはいっさいの物を、命さえ
猶予もなくこれに 馳 せ参じて、少しも早く功績を立てた
れない。あるいはまた﹃憑かれた女﹄なる母が、彼を両
の郊外の修道院に関する何ものかが残っていたのかもし
の記憶の中に、よく母に抱かれて弥撒に詣った、この町
へだけ顔を出すようなことはできない﹄彼の幼少のころ
は心につぶやいた。
﹃自分は﹁すべて﹂の代わりに、弥
撒 われの後より来たれ﹄と言ってある。で、アリョーシャ
にも、
﹃もし完 たからんと欲せば、すべての財宝を 頒 ちて
をするのが、奇怪で不可能なことにすら思われた。聖書
塔であるから︶。アリョーシャにはこれまでどおりの生活
おろすために、神なくして建てられつつあるバビロンの
る。地上から天に達するためではなく、天を地上へ引き
問題である。無神論に現代的な肉づけを施した問題であ
第四階級の問題であるばかりでなく、主として無神論の
といえば、社会主義は単なる労働問題、またはいわゆる
や社会主義者の中へはいって行ったに違いない︵なぜか
は
はなかった。真剣になって思索した結果、不死と神とは
手に載せて差し出した聖像の前の斜陽が、彼の心に何か
わか
存在するという信念に心を打たれると同時に、きわめて
作用を及ぼしたのかもしれない。彼が物思いに沈みなが
まっ
自然にこう口走った。
﹃不死のために生きたい。中途半端
ら、 当時この町へ帰って来たのは、 ここでは ﹃すべて﹄
さ
な妥協はとるまい﹄これと同じく、もしも彼が不死や神
であるか、それともただの﹃二ルーブル﹄であるかを見
ミ サ
は存在しないと決めた場合には、彼はたちまち無神論者
39
の結果、わが国においてはこの制度が忘れられて、長老
陥落以後の東方との交通途絶とかいう、もろもろの事件
ダッタンの入
寇 とか、反乱とか、コンスタンチノープル
くは、存在していたに違いないのだが、国運の衰退とか、
主張に従えば、ロシアにも古代には存在していた。もし
スには千年も前からあったとのことである。なお彼らの
なっていないが、東方の諸正教国、ことにシナイとアト
院に現われたのはきわめて最近のことで、まだ百年にも
によると、長老とか長老制度とかが、わがロシアの修道
述を試みようと思う。まず第一に、権威ある専門家の説
うな気がする。しかし、ちょっと手短かに、表面的な叙
けては、たいして資格もなければ、確かな心得もないよ
を加えなければならぬが、残念ながら自分はこの道にか
道院における長老とはいかなる者であるかについて説明
に、ゾシマ長老のことである。ここでひと言わが国の修
彼は長老に会ったのである⋮⋮それは前にも述べたよう
きわめるためだったかもしれない、が︱︱︱この修道院で
史的勲功とか祖国に対する忠勤とかいうものもない。そ
もなく、国史に縁のあるすばらしい伝説もなければ、歴
の遺骨もなければ、世間に知られた霊験あらたかな聖像
修道院にはこれまで何一つ有名なものがなかった。聖僧
道院にとっては重大な問題であった。というのは、この
継者に推すべきかもわかっていなかった。これはこの修
ど死になんなんとしているにもかかわらず、誰をその後
長老である。しかもこの人が老衰と病気のためにほとん
ここの長老職はもう三代もつづき、ゾシマはその最後の
修道院で創 められたかは確言することができないけれど、
た。いつ、何びとによって、この制度が当地の郊外にある
あの有名なコゼリスクの僧庵、オプチーナ修道院であっ
のである。これがロシアにおいてことに隆盛を見たのは、
にも聞かぬ新制度として、迫害をこうむることがあった
にしか存在せず、それさえどうかすると、ロシアでは話
ほとんど百年も後の今日に至っても、ごく少数の修道院
スキイと、その弟子たちの力によったもので、それから
そう呼ばれている︶の一人パイーシイ・ヴェリチコーフ
はじ
というものの跡を断つに至ったのである。それが復活し
れにもかかわらず、この修道院が隆盛をきわめて、ロシ
にゅうこう
たのは前世紀の終わりごろで、偉大なる苦行者︵一般に
40
生涯の苦行を通じて、やがて完全なる自由、すなわち自
した恐ろしい﹃人生の学校﹄を迎えるのである。この全
る日の来るのを期待して、甘んじてこうした試練、こう
託した人は、長い試練の後に自己を征服し、かつ制御す
これに自己の意志を預けるのである。こうして自己を委
れの意欲を断ち、 全幅の服従と絶対の没我とをもって、
ある。人はいったんある長老を選み出したら、全然おの
志とをとって、自己の霊魂と意志とに結合させるもので
た。では長老とは何者かというに、これは人の霊魂と意
もせず、群れをなしてこの町へ流れこんで来るのであっ
シアの全土からおびただしい巡礼が、千里の道を遠しと
ちのおかげであった。彼らの 謦咳 に接せんがために、ロ
ア全体にその名をうたわれたのは、ひとえにこの長老た
のからだを納めた 棺 が、その場から動き出して、寺の外
出でよ!﹄という助祭の声が響き渡ると同時に、殉教者
からだを葬ろうとした時であった、﹃許されざるものは
くこととなった。すでに教会が彼を聖徒と 崇 めて、その
められて信仰のための 拷問 を受け、殉教者として死に 就 いあいださまざまの偉大な苦行を積んだ結果、ついに認
それはシリアからエジプトへ行ったのである。そこで長
る行を果たさないで、修道院を去って他国へおもむいた。
のことが、こうした一人の道心が、長老に課せられたあ
たとえばこんな話がある。キリスト教として古い古い昔
れる者とのあいだの断つべからざる結縁のきずなである。
のは、行に服する者の永久の 懺悔 である。結ぶ者と結ば
律﹄とはおよそ趣を異にしている。ここに認められるも
時代にもわが国の修道院にあったところの、普通の﹃戒
けいがい
我の解放に到達する。そして全生涯をいたずらに過ごし
へ投げ飛ばされた。これが三度までくり返されたのであ
ざんげ
て、ついに自己を発見することのできない人々と運命を
る。 その後ようやく、 この聖い殉教者が戒律を破って、
つ
共にすることを免れ得るのである。この発案、すなわち
自分が長老のもとを立ち去ったために、たとえ偉大な功
ごうもん
長老制度というものは、けっして理論的のものではなく、
績があったにしても、長老の許可なくしては罪障を免れ
あが
実践上東方に端を発してから、現代においてはすでに千
ることができない、ということがわかった。そこで、呼
かん
年の古い経験を経ている。長老に対する義務は、いつの
41
のどこにもない。否あり得ない。それができるのは、戒
ん長老に課せられた戒律を解き得る権力は、世界じゅう
大僧正たる自分にそれができないばかりでなく、いった
るように嘆願した。すると、大僧正の答えるには、単に
僧正のもとへ出頭して、自分の服従義務を解除してくれ
は、コンスタンチノープルへおもむき、全キリスト教大
と命ぜられた。思いがけない悲しみに打ちのめされた僧
おまえの住むべき場所はあちらなのだ、 ここではない﹄
からロシアに引き返して、﹃北の端なるシベリアへ行け、
てて、聖地巡礼のためまずエルサレムにおもむき、それ
避難所として、心の底から愛着していたアトスの地をす
ていたが、突然、長老から、彼が聖地として、また穏かな
る。わが国の現代のある修道僧がアトスの地で修行をし
はほんの昔話であるが、ここについ近ごろの事実談があ
を終えることができたということである。もちろんこれ
び迎えられた長老がその戒律を解いたので、やっと埋葬
ことがある。それで、なかには、忍従と完全な自己制御
を積んだこの武器も、場合によっては両刃の凶器となる
かって、人間を更生させるところの、すでに千年の経験
至った。もっとも奴隷状態から自由と精神的完成とに向
てきて、しだいしだいにロシアの修道院に根をおろすに
ころはないのである。しかし結局、長老制度は維持され
内心を長老に打ち明けるに際して、なんら神秘らしいと
た。︱︱︱ところが、道心なり俗人なりが、絶えず自分の
懺悔の神秘が専断軽率に 貶 し卑しめられていると告発し
の連中は、さまざまに非難を浴びせると共に、ここでは
うために群がり集まったのである。これを見た反長老派
いめいの懐疑や罪悪や苦悩を懺悔して、忠言と教訓を乞
と貴族の別なく、等しく長老の前へ身を投げ出して、め
なった。たとえば当地の修道院の長老のもとへも、庶民
間もなく長老は、民間で非常に高い尊敬を受けるように
が迫害をこうむったのは、これがためである。けれども、
である。わが国の多くの修道院で、初めのうち長老制度
おと
律を課した当の長老あるのみだ、とのことであった。こ
におもむかないで、反対に悪魔的な 倨傲 へ、すなわち自
きょごう
ういう次第で、長老というものはある一定の場合におい
由へではなくて、束縛へ導かれる者がないとも限らない
ふ よ
て、限りのない、不可思議な権力を 賦与 せられているの
42
の人がこんなことを言っていた︱︱︱彼のもとへあらゆる
きかけたのかもしれない。ゾシマ長老については、多く
り巻いている権力と名声とが、彼の若々しい心に強く働
入ってもいたのである。ことによったら、長老を常に取
のであった。しかし、いうまでもなく、それが彼に気に
きわだたないように、みずからすすんで、そうしていた
た。彼が僧服をつけていたのは、修道院の中で他の人と
でも自由に、幾日もぶっ通しに出かけてもかまわなかっ
ても、まだなんの拘束も受けていなかったので、どこへ
ておくが、当時アリョーシャは修道院に住んでいると言っ
の庵室に住むことを許されていた。ここでちょっと断わっ
実である。アリョーシャは長老の深い愛顧を受けて、そ
格でアリョーシャの心を 震駭 させたのは、疑いもない事
を勤めていたこともある。彼がなにかしら一種独特な性
たが、ごく若いころ、軍務に服して、コーカサスで尉官
ゾシマ長老は年齢六十五歳で、生まれは地主階級だっ
のである。
ていいつでも、いかにも愉快そうであった。それに、彼
とである。そればかりか、かえってその応対ぶりはたい
に感動させたのは、長老がけっして厳格ではなかったこ
な顔に変わるのであった。いま一つアリョーシャを非常
であった。全く、恐ろしく陰気だった者が、さも幸福そう
には、晴れやかな喜ばしそうな顔つきになっていること
みな恐怖と不安の表情ではいって行くが、出て来るとき
ところへ差し向かいで話しに来る多くの人が、たいてい
どいつもアリョーシャの気づいたことは、最初、長老の
繊細な洞察力を獲得しているのであった。しかもほとん
悪がらせたり、ときには気味悪く思わせたりするほどの、
魂の秘密を正確に言い当てて、当人を驚かしたりきまり
まで、見抜いて、本人がまだ口をきかない先に、その霊
苦しみがその人の良心を 苛 んでいるかというようなこと
んな用事で来たのか、何が必要なのか、いかなる種類の
には自分のところへ来る未知の人を一目見ただけで、ど
や、告白を限りなく自分の心に受け入れたので、しまい
長老は多年こういう人たちと接して、その懺悔や、苦悩
さいな
人々が、めいめいの心中を打ち明けて、霊験のあることば
は少しでもよけい罪の深い者に同情し、誰よりも最も罪
しんがい
や忠言を聞こうという渇望に燃えながらやって来るので、
43
然にこそ言わないが、長老は聖者である、それにはいさ
とんど狂信的に彼に傾倒していた。こうした人たちは公
を愛している者も少なくなかった。ある者に至っては、ほ
た。しかもその中には、全心を打ちこんで熱烈 真摯 に彼
多数の者は、すでに疑いもなくゾシマ長老の味方であっ
の行者でかつ 希有 の禁欲家であった。しかしそれでも大
た。たとえばその中の一人は、古参の僧で、偉大な無言
修道院でも非常に名の通った、有力な人物も幾人かあっ
口をつかなくなった。 もっともそういう連中の中には、
た。しかしそんな人もしだいに少なくなって、あまり悪
づいた今でさえ、彼を憎んだりねたんだりする者があっ
話していた。僧たちの中には、長老の生涯が終わりに近
の深い者を誰よりもいちばんに愛するのだ、と僧たちは
めに、ロシアの全土から集まって来て、庵室の門口に待っ
輝くようだったのは、長老を拝し、その祝福を受けるた
ことに彼が胸のときめきをとどめかね、歓喜の光りに
身の勝利かなんぞのように思っていたからである。
はすっかり師の精神力を信じきって、その声望を自分自
リョーシャにとって問題ではなかった。というのは、彼
経過が自然に快方に向かったのか、︱︱︱そんなことはア
が事実、長老によってなおされたのか、それとも病気の
癒 してもらった礼を述べるのであった。はたしてそれ
治
びやって来て、涙と共に長老の前にひれ伏して、病人を
人を見た。彼らは間もなく、なかにはすぐその翌日、再
を載せて、 祈祷 を唱えてくれるようにと懇願する多くの
者どもを連れて来て、長老がその病人の頭にちょっと手
じたのと同じであった。彼は病気の子供や大人の親族の
どうこく
きとう
さかの疑いもないと噂していた。そしてほどなき長老の
ている百姓町人の巡礼の群れへ、しずしずと長老が姿を
ち ゆ
去 を予想していたので、ごく近いうちにその死体から
逝
現わすときであった。彼らはその前へひれ伏して、泣き
け う
急に奇跡が現われて、この修道院にとって偉大な名誉と
ながらその足に接吻し、その足の踏んでいる土を接吻し、
しんし
なるに違いないと期待していたのである。長老の奇跡的
声をあげて 慟哭 した。また女どもは彼の方へ子供を差し
せいきよ
な力は、アリョーシャも絶対に信じて疑わなかった。それ
出したり、病める﹃ 憑 かれた女﹄を連れて来た。長老は彼
つ
はちょうど、寺の中から消し飛んだ棺の話を、絶対に信
ない。その代わり地球の上のどこかに聖者高僧があって、
﹃よしわれわれに罪悪や、虚偽や、誘惑があってもかまわ
てぬかずくこと以上の、強い要求と慰謝はないのである。
とっては、聖物もしくは聖者を得て、その前にひれ伏し
の罪にまで苦しめられている、ロシア庶民の謙虚な魂に
の生活につきまとう不公平や、自己の罪のみならず世間
常に労苦と災禍に、いや、それよりもいっそう、日常 坐臥 疑問にもならなかった。おお、彼はよく理解していた!
にむせぶのか、それは、アリョーシャにとってはなんの
老の顔を見るやいなや、その前に身を投げてありがた涙
て彼らがこれほど長老を愛慕するのか、なぜ、彼らは長
だ、彼が出て来るのを修道院で待ち受けていた。どうし
しまうことがあったので、巡礼者たちはよく数日のあい
ときとすると、僧房を出るのもむずかしいほど衰弱して
を退出させるのであった。最近では、病気の発作のため、
らとことばを交え、短い祈祷を唱え、祝福を与えて、彼ら
地上に押したてる偉力がある、それでやがては万人が神
中には万人に対する更新の 秘訣 がある、ついには真理を
﹃どっちにしても、長老は神聖な人だから、この人の胸の
すぎないということも、けっして彼を困惑させなかった。
も、自分の目前に立っているのは、この長老ただ一人に
よ激しく彼の胸に燃えさかるのであった。なんといって
は、何かしら深遠な、炎のような心内の歓喜が、いよい
アリョーシャの心に根ざしていた。それに総じて、最近
えるという信念は、 修道院内の誰にもまして最も深く、
老が永眠ののち、この修道院になみなみならぬ名声を与
差し出す病的な女房などと変わりはなかった。また、長
これらのありがた涙に暮れる百姓や、子供を長老の方へ
るということを疑わなかった。その点において彼自身も、
民の信じているその当の聖人であり、真理の保持者であ
アリョーシャはよく知っていた。そしてゾシマ長老が庶
風に庶民が感じているばかりか、考えてさえいることを
約束どおり、全世界を支配するに違いない﹄と、こんな
が
真理を保持している。その人が真理を知っている。つま
聖になり、互いに愛しあうようになるだろう。そして貧
ざ
り真理は地上に滅びてはいないのだ。してみれば、その
富高下の差別もなくなって、一同が一様に神の子となり、
ひけつ
真理はいつかわれわれにも伝わってきて、やがては神の
44
45
リョーシャもこれに気がついて幾らかきまりが悪かった。
彼のことなど考えてみようともしなくなったようだ。ア
な視線をじっと弟に注いだものだが、 やがて間もなく、
ちこそ、アリョーシャの気がつくほど長い、物珍しそう
じらっているような風であったし、兄イワンも初めのう
なほうで、何ものか待ち設けているような、何ものか恥
うしても親密になれなかった。アリョーシャ自身も無口
なりたびたび顔を合わせたにもかかわらず、いまだにど
いだいたが、その帰省以来ふた月のあいだに、二人はか
る。彼は兄イワンの人となりを知ることに非常な興味を
きた。そのくせ、長兄のほうが遅れて帰って来たのであ
ヴィッチとよりずっと早くかつ親しく知り合うことがで
フョードロヴィッチとは、同腹の兄イワン・フョードロ
シャに非常に強い印象を与えたらしい。長兄ドミトリイ・
これまで全然知らなかった二人の兄の帰省は、アリョー
れがアリョーシャの胸に浮かぶ空想であった。
こうしてついにキリストの王国が実現されるだろう﹄こ
ヴィッチはこのうえもなく深い尊敬と、何か特別な熱中
持になるのを待っていた。長兄ドミトリイ・フョードロ
不安な 擾乱 をもって、兄がもう少し自分の方へ近寄る気
かったが、それでも彼は、何か自分にもよくわからない、
たにしても、それに対して彼は腹を立てるわけにゆかな
うことを百も承知していた。もしそんな侮蔑の念があっ
いるのではなかろうか?
心に対する、学識ある無神論者としての 侮蔑 が交じって
も考えた︱︱︱この態度の中には自分のような愚かしい道
一の原因に違いない。アリョーシャはまた、こんなこと
れがアリョーシャに対する彼の放心したような態度の唯
している。それで彼は弟のことどころではないのだ、こ
る、おそらく何か非常に困難な、ある目的に向かって努力
われている、何か重大な心内の出来事に気を取られてい
こんな気がしてならなかった︱︱︱イワンは何かに心を奪
するのではあるまいか?
ら、アリョーシャの全然知らない、何か別の事情に起因
イワンのこうした好奇心や同情の欠乏は、ことによった
と。彼は兄が無神論者だとい
ぶべつ
というのである。彼はなぜか
彼は兄の冷淡な態度を二人の年齢、ことに教育の相違に
をもってイワンのことを取りざたした。アリョーシャは、
じょうらん
帰したが、 また別様にとれないでもなかった。 それは、
46
チとの反目は、すでに飽和点に達していたらしい。その
フョードロヴィッチとその父フョードル・パーヴロヴィッ
時、例の遺産のことや、それの算定に関するドミトリイ・
際この寄り合いの口実ははなはだ 眉唾 ものであった。当
それがアリョーシャに異常な影響を与えたのである。実
一同の会見、というよりはむしろ、寄り合いが催されて、
ちょうどこのころ、長老の庵室で、この乱脈な一家の者
極端な対照をなしていたことである。
も似つかぬ二人の人間を想像することはむずかしいほど、
並べてみると、性質にしろ人格にしろ、これくらい似て
ど無教育といっていいほどの人間で、二人をいっしょに
られたのは、兄ドミトリイがイワンに比べると、ほとん
な取りざたが、アリョーシャにいっそうおもしろく感じ
のである。ドミトリイのイワンに関する感に耐えたよう
大な事件の詳しいいきさつを、この長兄の口から聞いた
近ごろ二人の兄を目立って緊密に結び合わした、あの重
退屈しのぎのためか、それとも気軽な慰み半分にか、と
自由主義者であり、また自由思想家で無神論者たる彼は、
パーヴロヴィッチの思いつきに賛成した。四、五十年代の
ヴィッチ ・ ミウーソフが、 むしょうにこのフョードル ・
当時この町に 逗留 していたピョートル・アレクサンドロ
チのように父の家にいないで、町はずれに別居していた。
たのである。ちなみに、彼はイワン・フョードロヴィッ
とがめていたやさきであったから、彼もその相談に乗っ
ともすれば乱暴な挙動に出たがる自分自身を、内々心に
うという肚 だなと思ったが、最近、父との争いに際して、
は、もちろん、長老をもちだして、自分をおどしつけよ
長老をたずねたことも、顔を見たこともないドミトリイ
も限らないから、というのであった。これまで、一度も
老の高い地位や人物が、何か和解的な示唆を与えないと
れど、なんとか穏便に話がつくかもしれない。それに長
い、それは真正面から調停を仰ぐというわけではないけ
室へ集まったらどうだ、という案をもちだしたものらし
はら
あいだがいよいよ尖鋭化して、もはや耐えがたいものに
にかくこの事件に非常に力を入れた。彼は急に、修道院
とうりゅう
なったので、なんでもフョードル・パーヴロヴィッチの
や﹃聖者﹄が見たくなったのである。で、例の領地の境界
まゆつば
ほうから、まず冗談半分に、ひとつ皆でゾシマ長老の庵
47
微笑を含みながら言った。会合の話を聞いて、アリョー
たのだろう?﹄と、ただ一言、アリョーシャに向かって
た。﹃いったい誰がわしをあの人たちの仲へ割りこませ
なかった。結局、長老は承諾して、日取りまで決められ
部からなんとか都合のいい口添えをしてくれるかもしれ
ど全く庵室を出なくなった長老に対しても、修道院の内
近ごろ病気のために普通の訪問者さえ拒絶して、ほとん
て遇するに違いない。 こうして事情を総合してみると、
訪者は、修道院でも単なる好事家より一倍と注意を払っ
ようと考えたのである。こういう有益な意図を持った来
とつ談合してみたいという口実のもとに、それを利用し
とか事件を円満に解決するわけにはいかないものか、ひ
遷延していたので、彼は親しく修道院長に会って、なん
に関する古い係争がなお引き続き、修道院相手の訴訟が
や、森林の伐採権や、川の漁業権など、いろいろの事柄
してこんなことが絶えず彼の心にかかっているのであっ
なイワンの人を見下げたような皮肉が恐ろしかった。そ
る侮辱、ことにミウーソフの繊細で 慇懃 な嘲笑や、博学
は長老の名誉が心配でたまらなかった。長老に加えられ
はいえ、彼のおもなる懸念は長老の身の上であった。彼に
らそれを気づかっていたのは疑いもないことである。と
擾 に、なんとかしてけりがついてくれればと、ひたす
紛
るのを待っていた。彼が心中ひそかに、そうした家庭の
かった。彼は重苦しい気持をいだきながら、その日にな
年はけっして皆の考えているほどおめでたい人間ではな
ど、かなり深く父を知っていた。かえすがえすも、この青
のだろう。実際、アリョーシャは口にこそ言わないけれ
何か道化じみたお芝居の一幕を演ずるためにやって来る
法きわまる好奇心からやって来るのだろうし、父はまた
はこんな風に考えたのだ。兄イワンとミウーソフは無作
的のためにやって来るのにすぎない︱︱︱とアリョーシャ
ふんじょう
シャはひどく当惑した。もしこれらの相争える不和な人
た。彼は長老に向かって、近いうちにやってくるに違い
いんぎん
たちの中で、誰かこの会合をまじめに見る人があるとす
ないこれらの連中について、なんとか警戒しておこうか
よ
れば、それはまさしく兄ドミトリイだけである。 爾余 の
とまで思ったが、しかし考えなおして口をつぐんだ。た
じ
連中に至っては、ただ軽薄な、長老にとって侮辱的な目
48
だ会合の前日、彼は知人を通して兄ドミトリイに、自分
は彼を愛しておる、そして彼が約束を実行してくれるの
を期待していると伝言した。ドミトリイは何も約束した
覚えがないので、いろいろ考えたすえ、手紙で﹃卑劣な
言行﹄を見聞きしても、一生懸命に自分を抑制する、そ
わな
して長老と弟イワンに対しては深い尊敬を払っているけ
れど、今度のことは自分をはめるための 罠 か、でなけれ
か
ばばかばかしい茶番に違いないと確信している。﹃しか
しとにかく、自分の舌を 噛 み切っても、おまえがそんな
に尊敬している長老に対して、不敬なことはけっしてし
ない﹄そういう文句でドミトリイの手紙は結んであった。
だが、アリョーシャには、それもさして心を引きたてる
よすがにはならなかった。
49
めいそうてき
そそのかしていた。が、この青年はまだ決心がつきかね
ているのであった。彼はなんとなく 瞑想的 で、どこか放
心したようなところがあった。その顔は感じがよく、体
第二篇 お門違いな寄り合い
ひとみ
格もしっかりしていて、背はかなり高いほうであった。と
には、ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフ
来たが、二頭の高価な馬をつけた、 瀟洒 な先頭の軽馬車
れの終わるころに到着した。彼らは二台の馬車に乗って
た。わが訪問者たちは弥撒には列しないで、ちょうどそ
ぐあと、だいたい十一時半ごろということに決まってい
八月の末のことであった。長老との会見は昼の 弥撒 のす
美しく澄み渡った暖かい晴朗な 日和 であった。それは
彼はいつも立派な、しかも上品な 服装 をしていた。もう
同じように、 不意にぱったり消えてしまうのであった。
ことがあった。けれどもこうした元気は、起こり初めと
しゃべりだして、何がおかしいのかむしょうに笑いだす
とも誰かと二人きりで差し向かいのときに限るが、急に
ちないところがあった。しかしどうかすると、︱︱︱もっ
ているのではない。彼は無口のほうで、どこか少しぎこ
つめることがあるけれど、そのくせ、ちっとも相手を見
すべて放心した人の常で、じっと長いあいだ人の顔を見
きどきその 眸 が奇妙に固定することがあったが、それは
が、その遠い親戚に当たる、ピョートル・フォミッチ・カ
なにがしかの独立した財産を持っているうえに、まだこ
一 修道院に着く
ひより
ルガーノフという二十歳くらいの非常に若い青年と同乗
のさき、ずっと大きな遺産を相続することになっていた。
ミ サ
していた。この青年は大学へはいろうとしていたが、ミ
アリョーシャとは親友であった。
しょうしゃ
ウーソフ︱︱
︱この人の家に彼は何かの事情で当分同居し
ミウーソフの馬車からだいぶ遅れて、二頭の 青鹿毛 の
みなり
ていたのだ︱︱
︱は、自分といっしょに外国へ、チューリッ
老馬に引かせた、ひどく古びてがたがたする、だだっ広
あおかげ
ヒかイエナへ行って、そこの大学を卒業したらと、彼を
50
帽子を取って十字を切りながら出て来た。それらの庶民
つなかった。 本堂からは、 最後に残った参詣者たちが、
あった︱
︱
︱のほかには、彼の観察眼に映ずるものは何一
本堂や塔や庫
裡 の建物︱︱︱それもきわめて平凡なもので
たりを見回していた。 しかし修道院の中へはいっても、
は取ってつけたようなゆとりを表わした好奇の眼で、あ
のあいだ、教会へさえ足踏みをしないくらいである。彼
ないらしい。ミウーソフに至っては、もう三十年ばかり
三人は、これまで一度も修道院というものを見たことが
の門をはいった。フョードル・パーヴロヴィッチ以外の
を囲いの外の宿泊所に乗り捨てておいて、 徒歩 で修道院
刻も日取りも知らしてあったのに遅刻した。一行は馬車
で来た。ドミトリイ・フョードロヴィッチは、きのう時
子のイワン・フョードロヴィッチといっしょに乗りこん
い辻馬車に乗って、フョードル・パーヴロヴィッチが息
れだのに、いま公式に彼らを出迎える者が一人もいない
て修道院内の人をことごとく左右し得る人物である。そ
人で、訴訟の経過いかんによっては、川の漁業権に関し
一人は富裕な地主で、しかもいわば最高の教養を有する
いこのあいだ千ルーブルの寄進をしたばかりだし、いま
意さえ払って出迎えるべきはずであった。一人はまだつ
院ではこの一行を待ち受けているばかりでなく幾分の敬
しかし 合点 のいかぬことであった。本来ならば、修道
と、彼はなおいっそうどぎまぎしてしまった。
もきまり悪がることはないはずだのに、それに気がつく
それに対してかれこれ言う者はなかったのだから、少し
分けるんだよ﹄と早口に言った。同行者のうち誰ひとり、
ぎで一人の女乞食の手へそれを押しこんで、
﹃皆で同じに
たわけか妙にあわてて、ひどくどぎまぎしながら、大急
金入れから十カペイカ銀貨を一つ取り出したが、どうし
者がなかった。ただペトルーシャ・カルガーノフだけが、
ち
階級の中に、旅の人らしい比較的上流の、二、三の婦人
のである。ミウーソフは堂のまわりにある墓石をぼんや
か
と、一人のひどく年の寄った将軍も交じっていた。この
り見回しながら、こういう﹃聖域﹄に葬られる権利のた
がてん
人たちは宿泊所に泊まっているのであった。乞食どもが
めに、この墓はさぞ高いものについたことだろう、と言
く り
さっそくわれらの一行をとり巻いたが、誰も施しをする
51
おうとしたが、ふと口をつぐんでしまった。それは罪の
とはな﹂とフョードル・パーヴロヴィッチが答えた。
﹁と
﹁それはわしも知っておりますよ、林の向こうだというこ
た。そしてさっそく一行の懸念していることに口を入れ
分はツーラ県の地主マクシーモフというものだと名乗っ
いう音を立てながら、誰とはなしに一同に向かって、自
帽子を持ち上げて、甘えた調子でしきりにしゅっしゅっと
甘ったるい目つきをしながら近寄って来た。彼はちょっと
た、 少々頭の 禿 げた男が、 ゆったりした夏外套を着て、
このとき突然、一行の傍へ一人いいかげんの年のいっ
ひとりごとかなんぞのように彼はつぶやいた。
ぐんぐんたってしまうばかりだから﹂こう、だしぬけに、
それからしてまず決めてかからなきゃならない。時間が
んところでは、いったい誰に物を尋ねたらいいんだ⋮⋮
﹁ちぇっ、それはそうと、ここでは⋮⋮このわけのわから
変わりかけていたからである。
用事のためなんですよ﹂とミウーソフはいかめしく彼に
﹁実は、僕たちがあの長老のところへ行くのは、特別な
んとなくあつかましい表情があった。
て、一行を眺め回すのであった。その目のうちには、な
震いの出るような、ほとんど名状しがたい好奇心をもっ
というよりは、横っちょに駆け出すようにしながら、身
クシーモフは、六十くらいの男であったが、さっさと歩く
一同は門をくぐって林の中を進んで行った。地主のマ
でなさい、こちらへ⋮⋮﹂
しなんでしたら⋮⋮わたくしが⋮⋮さあ、こちらへおい
林を通って⋮⋮林を通って⋮⋮さあまいりましょう。も
﹁ああ、それならこの門をはいりましてな、まっすぐに
よ、だいぶ長い御無沙汰をしましたのでな﹂
ころが、わしらは道をはっきり覚えておりませんのじゃ
ふんまん
た。
注意した。
﹁僕たちはいわば﹃あのかた﹄に 謁見 を許され
はら
ない自由主義的な反語が、 肚 の中でほとんどもう 憤懣 に
﹁ゾシマ長老は庵室に暮らしておられますよ。修道院か
ているんだからね、道案内をしてくださるのはありがた
は
ら四百歩ばかり離れた庵室に閉じこもっておられますの
いけれど、御いっしょにおはいりを願うわけにはいかん
えっけん
で、あの林の向こうですよ、あの林の⋮⋮﹂
52
﹁わたくしは行ってまいりましたよ、行ってまいりまし
ですよ﹂
とも。それになんですよ、わたしたちはこちらにおる間
﹁それはぜひお受けいたしますよ!﹂と、フョードル・パー
た。
皆様にお食事を差し上げたいと申しておられます。時刻
﹁皆様、庵室のほうの御用が済みましたら、修道院長が
にくっつくくらい丁寧な会釈をしてから、こう言った。
チとミウーソフとは立ち止まった。僧はほとんど顔が帯
せさらばえた僧であった。フョードル・パーヴロヴィッ
ぶった、背のあまり高くない、恐ろしく顔の青ざめて痩
に追いついた、一人の僧がさえぎった。それは頭巾をか
しかし、そのまとまりのないことばを、ちょうど一行
のかたはまことに⋮⋮﹂
しい⋮⋮。この修道院のほまれですよ。ゾシマ長老。あ
﹁ Chevalier
って誰のことです?﹂
﹁長老のことですよ。すばらしい長老ですて。実にすばら
chevalier parfait︵! 立派な騎士です
で指をぱちりと鳴らした。
のほうへふり返って言った。
から、修道院長によろしくお伝えください﹂と、彼は僧
しょなんですからね。それじゃあ、お食事に参上します
快だろうとでもいうんですか?
すがね。いったいあなたの家のごたごたが僕にとって、愉
﹁さようさ、あの男がずるけてくれたらありがたいんで
﹁それに、ドミトリイがまだ来ませんしな﹂
来たことでしてな、フョードル・パーヴロヴィッチ⋮⋮﹂
んですからね。ただ一つ困るのは、あなたと御いっしょに
は、つまり修道院の習慣をすっかり見せてもらうためな
﹁むろん、行かないでどうします。僕がここへ来ましたの
な?﹂
じゅうは行儀に気をつける約束をしましたのじゃ⋮⋮。と
ヴロヴィッチはその招待にひどく恐悦して叫んだ。
﹁ぜひ
た よ、 わ た く し は も う 行って ま い り ま し た ん で⋮⋮ Un
︶﹂ と地主は宙
は正一時で、それより遅くなりませぬように。あなたも
﹁いえ、わたくしはあなたがたを長老のところへ御案内
おまけにあなたといっ
ころで、ミウーソフさん、あなたもおいでになりますか
どうぞ﹂と彼はマクシーモフの方へふり返ってつけ加え
53
いが、どことなしにそんなところがあるんですよ。正真
﹁写真で見ましたよ。別に顔つきが似ておるわけじゃな
たは自分でフォン・ゾンを見たことがあるのですか?﹂
どうしてあの男がフォン・ゾンに似てるんです! あな
﹁あなたの知ってるのはそんなことぐらいですよ。⋮⋮
言った。
﹁フォン・ゾンに似てらあ﹂とだしぬけにフョードルが
に出して言った。
道院のほうへ引っ返して駆け出した時、ミウーソフは口
﹁なんてうるさい爺だろう﹂と、マクシーモフがまた修
の御都合で⋮⋮﹂と僧は渋りがちに言った。
﹁修道院長はただ今お忙しいのですけれど、でもあなた
わい﹂とマクシーモフがさえずり始めた。
はそのあいだに、じかに修道院長のところへまいります
﹁では、わたくしは修道院長のところへ⋮⋮、わたくし
しなくてはなりませんので﹂と僧が答えた。
こうした考えが彼の頭を 掠 めた。
な顔をしているが、 その実、 駄法螺 だ、 荒唐無稽だ!﹄
﹃ええ、ろくでもない、幾世紀もかかって仕上げたよう
いであった。ミウーソフはいっそうひどく眉をしかめた。
んずる心から出たものだ、ということは明瞭すぎるくら
彼はなんとも答えなかった。その沈黙が自分の品位を重
ころのある、かすかな無言の微笑が浮かんだ。けれども、
血の気のない青ざめた僧の唇には、一種ずるそうなと
らないのですよ﹂
いっしょにきちんとした人を訪問するのが、心配でたま
しょうね﹂と彼は僧のほうへふり向いた。
﹁僕はこの人と
らさらないのですからね⋮⋮どうです、なんという人で
ようなら、僕はここであなたと同列に置かれる気は、さ
をつけてくださいよ。あなたが道化たまねを始めなさる
ていう約束をしたんですよ、ね、いいですか。どうか、気
分でおっしゃったとおり、 僕たちは行儀に気をつけるっ
フョードル・パーヴロヴィッチ、あなたがたった今、御自
ら
正銘フォン・ゾンの生き写しだ。わしはいつでも顔つき
﹁あああれが庵室だ、いよいよ来ましたぜ!﹂とフョー
だ ぼ
を見ただけでそういうことがわかるんでしてね﹂
ドルが叫んだ。
﹁ちゃんと囲いがしてあって、門がしまっ
かす
﹁おおきにね。 あなたはその道の通人だから。 ただね、
54
えておる窓がそうです。長老は気分のよいときには内側
かし囲いの外になっておりますので、そら、あすこに見
は小部屋が二つ、この廊下に建て添えてありますが、し
待っております。ところで、上流の貴婦人がたのために
﹁平民の女性は、今でも、そら、あすこの廊下のそばに
て聞いた。
なものでしょうな?﹂こう彼は不意に案内の僧に向かっ
老が婦人がたに会われるという話を聞きましたが、どん
よ。しかもこれは全く本当のことなんですよ。しかし、長
をはいることができん︱︱︱ここが肝心なところなんです
ベツばっかり食べてござる。そのくせ女は一人もこの門
き世をのがれて、お互いににらみっこをしながら、キャ
いだした。
﹁この庵室の中には二十五人からの聖人様が浮
﹁郷に入っては郷に従えということがあるが﹂と彼が言
て、ぎょうさんそうな十字を切り始めたものだ。
彼は門の上や、その両側に描いてある聖徒の像に向かっ
とるわい﹂
ソフさん?
﹁なんでわしがあなたの邪魔になるんですかい、ミウー
てしまいますぞ、それは僕が予言しておきますよ﹂
かったら、あなたなんぞ両手をつかんで引っ張り出され
こへうっちゃっといて、帰ってしまいますよ。僕がいな
﹁フョードル・パーヴロヴィッチ、僕はあなたを一人こ
でも、牝の七面鳥でも、牝の 犢 でも⋮⋮﹂
になっとるばかりか、どんな生物でも 牝 はならん、牝鶏
アトスでは、お聞き及びでしょうが、女性の訪問が禁制
思わんでくださいよ。別になんでもないので、ところで、
さん、わしが何かその、妙なことでも考えておるなどと
ろへ、抜け穴が作ってあるわけですな。いやなに、神父
﹁じゃあなんですな、やっぱり庵室から婦人がたのとこ
いに出られませんが﹂
ごろは非常に衰弱されて、一般の人たちにもめったに会
と、約束をされたのでございましょう。もっとも、この
えた娘御を連れて待っておられます。たぶんお会いする
コフの地主でホフラーコフ夫人とかいうかたが、病み衰
おや、御覧なさい﹂庵室の囲い内へ一歩踏
めす
の廊下を通って、婦人がたに会いに行かれるのです。つ
みこんだ時、彼はだしぬけにこう叫んだ。﹁御覧なさい、
こうし
まり、囲いの外で。今も一人の貴婦人のかたが︱︱︱ハリ
55
ように見えることがありましたけれど、人の噂にはずい
﹁ワルソノーフィ長老は、実際、時として、宗教的奇人の
ながら言った。
と、フョードル・パーヴロヴィッチは正面の階段を上り
で、婦人たちさえ杖で打たれたというじゃありませんか﹂
ですかい? なんでも、あのかたは 優美 なことが大嫌い
﹁これは先代のワルソノーフィ長老の時分からあったの
ぐらしてあって、その入口の前には廊下が続いていた。
た。長老の庵室のある木造の平家も、同様に花が植えめ
い。花壇は堂の囲い内にも、墓のあいだにも設けてあっ
るところ、なかなか老練家の手で世話をされているらし
におびただしく咲き誇っていた、どれもこれも、見受け
らしい美しい秋の花が、植えられるかぎりいたるところ
見ればなるほど、ばらの花こそ今はなかったが、めず
な!﹂
ここの人たちは、まるでばらの谷に暮らしているんです
しゃした気色ではいって行った⋮⋮。
うちに、一同は中へ招じ入れられた。彼は幾分むしゃく
しかし、ミウーソフがこのいやみに応酬する暇もない
しまいましたぜ、ほんとに!﹂
の思わくを気になさるんでしょう。全く、びっくりして
リっ 児 で自由主義の紳士が、どうしてそんなに坊主ども
ですからな、しかし、あなたのようなちゃきちゃきのパ
人物で何の用に来たかということを見抜いてしまうそう
すかい?
かうように言った。
﹁それとも罪障のほどが恐ろしいんで
んとわからん﹂とフョードル・パーヴロヴィッチはから
﹁なんでまた、あなたがそうひどく興奮されるのか、と
もう一度そうささやいた。
ないと、僕にも考えがありますよ﹂ミウーソフは急いで
よ。いいですか。十分に言行を慎しんでくださいよ。で
﹁フョードル・パーヴロヴィッチ、これが最後の約束です
ただ今皆さんのおいでを知らせてまいりますから﹂
かんしゃく
なんでも長老は相手の眼つきだけで、どんな
ぶんつまらぬことが多いのでございます。杖で人を打た
﹃もう、ちゃんと今からわかってる、おれは 癇癪 を起こ
は で
れたなどということはけっして一度もありません﹂と僧
して喧嘩をおっぱじめる⋮⋮かっとなったが最後︱︱︱自
こ
は答えた。﹁それではちょっと皆さん、お待ちください、
56
えが彼の頭をかすめた。
分も自分の思想も卑しめるくらいがおちだ﹄そういう考
分が人の指揮監督を受ける身分で、対等の人間ではない
て来た客に対しても、彼は挨拶をしなかった。それは自
人にとりいろうとするようなところが見えない。はいっ
の庇
護 を受けている神学校卒業生で、未来の神学者なの
トを着ている。これはどういうわけでか修道院と僧侶団
見たところ二十二くらいの年格好で、普通のフロックコー
た︵この男はそれからあともずっと立ち通しであった︶。
その他にもう一人、片隅に立って待っている若い男があっ
人の噂では非常に学識の高い、パイーシイ神父であった。
は司書で、もう一人はさして年寄りではないが、病身で、
の修道僧が、長老の出て来るのを待ち受けていた。一人
自分の寝室から出て来た。僧房では一行に先立って二人
彼等が部屋の中へはいるのとほとんど同時に、長老が
いるにもせよ、ただ礼儀のためとしても︵ここではそれ
先頭に立っていた。で、よし彼がどんな思想をいだいて
せぶりのように見えた。彼はいっしょにはいった仲間の
しミウーソフにはいっさいのことが、わざとらしい思わ
非常に謹厳にほとんど一種の感激さえ伴っていた。しか
うした礼式はまるで毎日のしきたりの型のようではなく、
会釈を返して、こっちからもいちいち祝福を求めた。こ
してから、長老もやはり指が床につくくらい一人一人に
を受けると、その手に接吻するのであった、彼らを祝福
わめてうやうやしく彼に敬礼した。それから長老の祝福
来た。僧たちは立ち上がって、指の先が床に届くほど、き
ゾシマ長老は別の道心とアリョーシャに伴われて出て
からと遠慮したのである。
であった。彼はかなり背が高くて、生き生きとした顔に、
が習慣なのだから︶、 長老のそばへ寄って祝福を受けな
二 老いたる道化
骨 が広く、聡明らしい注意深い眼は細くて 顴
鳶色 をして
ければならぬ、手を接吻しないまでも、せめて祝福を乞
ほおぼね
ひ ご
いる。その顔には非常にうやうやしい表情が浮かんでい
うくらいのことはしなくてはならない︱︱︱それは彼が昨
とびいろ
るが、それはきわめて礼儀にかなったもので、すこしも
57
長椅子に腰をおろし、二人の僧を除く一同の客を、反対
長老は革ばりの、恐ろしく旧式な造りのマホガニイの
始めたのである。
くてたまらなかった。不吉な予感が事実となって現われ
うた。紅潮がアリョーシャの頬に上った。彼は恥ずかし
かけた手をおろして、もう一度客に会釈をして着席を乞
るっきりお辞儀もしなかった。長老は祝福のために上げ
いた。カルガーノフはすっかりまごついてしまって、ま
い丁寧な会釈をしたが、やはり直立不動の姿勢をとって
た。フョードル・パーヴロヴィッチも非常にものものし
一般の会釈をすると、そのまま 椅子 の方へ退いてしまっ
しまった。そしてもったいらしくきまじめに、普通世間
たちの会釈や接吻を見ると、彼はたちまち決心を翻して
夜から考えていたことである。ところが、今こうした僧
肖像を石版にしたものも少し掛かっていたが、それはも
麗々しく掲げてある。また現在や過去のロシアの主教の
ている、きわめて稚拙なロシア出来の石版画が、幾枚も
いた、どこの定期市でも三カペイカか五カペイカで売っ
美で高価な版画のほかに、聖徒や 殉教者 や僧正などを描
名画から複製した、舶来の版画やらがあった。こうした優
牙 製のカトリック式十字架やら、前世紀のイタリアの
象
一天使 やら陶器の卵やら、﹃嘆きの聖母﹄ に抱かれた
第
つけた聖像がもう二つ、またそのぐるりには作りものの
がとぼっている。そのかたわらには 金色燦然 たる聖飾を
裂よりよほど前に描かれたものらしい。その前には燈明
︱︱その中の一つは大きな聖母の像で、 どうやら宗派分
と、それから部屋の隅にたくさんの聖像が掛けてある︱
ならない品ばかりであった。鉢植えの花が窓の上に二つ
た。調度や家具の類は粗末で貧弱な、ただもうなくては
い す
の壁ぎわにある、黒い革のひどくすれた四脚のマホガニ
う別の壁であった。 ミウーソフはこういう ﹃ 繁文褥礼 ﹄
ぞうげ
じゅんきょうしゃ
こんじきさんぜん
イの椅子に、並んで坐 らせた。二人の僧は両側に、一人は
にさっとひとわたり目を通してから、じっと 執拗 な凝視
ケ ル ピ ム
戸のそばに、もう一人は窓ぎわに座を占めた。神学生と
を長老に投げた。彼は自分の見解を自負する弱点を持っ
しつよう
はんぶんじょくれい
アリョーシャと、もう一人の道心とは立ったままであっ
ていた。もっとも、これは彼の五十という年齢を勘定に
すわ
た。僧房全体が非常に狭くて、なんとなく殺風景であっ
58
の点のようにぎらぎら光っている。白い髪の毛は 顳顬 の
薄色の小さな眼はしつこく動いて、まるで輝かしい二つ
皺 に埋もれている。 ことに眼の辺がいちばんひどい。
小
少なくとも十くらいは 老 けて見える。顔はひどく 萎 びて
と六十五にしかならないのに、病弱のため、ずっと︱︱︱
の曲がった、非常に足の弱い、背の低い人で、まだやっ
多くの人の気に入らなそうなところがあった。それは腰
なかった。実際、長老の顔にはミウーソフばかりでなく、
そもそも最初の瞬間からして、彼には長老が気に入ら
うになる。
ない人は、誰でもだんだん自分というものを尊重するよ
この年配になると、賢い、世慣れた、生活に不自由をし
入れれば、たいてい許すことのできる欠点である。実際、
我慢がならなくて、ミウーソフがすぐこうつぶやいた。
﹁だが、少なくとも、あなたは王者ではない﹂
とをよくわきまえておりますので⋮⋮﹂
とはございません︱︱︱正確は王者の礼儀なり、というこ
くしはいつでもきちょうめんで、一分一秒とたがえたこ
様﹄でアリョーシャは、思わずぎくりとした︶当のわた
申しますよ、神聖なる長老様!
トリイはまだまいりませんので。あれに代わってお 詫 び
ドル・パーヴロヴィッチが叫んだ。
﹁ところが、 倅 のドミ
﹁ちょうどかっきりお約束の時刻でございます﹂とフョー
時を報じた。
いた安ものの小さな掛け時計が、急調子でかっきり十二
時計が打ち出して話のいとぐちをつくった。 分銅 のつ
に不機嫌であった。
こめかみ
くさび
猊下 様、わたくし
げいか
︵この﹃神聖なる長老
せがれ
ふんどう
あたりに少々残っているだけで、 頤髯 はまばらで 楔 がた
﹁さよう、 全くそのとおりで、 王様じゃありませんよ。
くちばし
わ
をしている。その笑みを浮かべた唇は、二本の紐かなん
それになんですよミウーソフさん、わしもそれくらいの
しな
ぞのように細い。鼻は長いというよりは、鳥の 嘴 のよう
ことは知っておりますわい。全く!
ふ
に鋭くとがっている。
はいつもこんな風に、取ってもつかんときに口をすべら
こじわ
﹃どの点から見ても、意地悪で、高慢ちきな老爺だ﹄そ
すのでございまして!﹂どうしたのか一瞬、感慨無量と
かす
あごひげ
ういう考えがミウーソフの頭を 掠 めた。概して彼は非常
59
は癇
癪 もちですからなあ、癇癪もちで⋮⋮。わたくしは
ちばん 剣呑 なしろものなんで。なんしろ、こんな手合い
の、むっつりとした人物で、︱︱︱つまりこんな場合にい
来たのを見ますと、その署長というのは 肥 えた、薄い髪
事に招待しようという寸法だったのでございます。出て
いりました。それは、ちょっと依頼の筋がありまして、食
たりかの 小商人 と仲間を組んで、警察署長のところへま
ちょっとした用事がありましてな。そこでわたくしは幾
七年ばかり前に、 ある町へ出向いたことがございます。
が必要でございますからなあ、そうじゃありませんか?
でございますわい。とかく愉快な人間になるってえこと
を笑わして、愉快な人間になろう、という当てがあるの
も、当てがあってのことでございますよ。︱︱︱どっと人
しかし、ときどき取ってもつかんでたらめを言いますの
をあげてしまいます。昔からの悪い癖でございまして!
しは正真正銘の道化でございます!
もう正直に名乗り
いった調子で、彼はこう叫んだ。
﹁御覧のとおり、わたく
ナプラーウニックです﹄とさ。どうでしょう、おかげで
ましたが、
﹃いいや、いったんそう言われた以上、わしは
察署長で、ナプラーウニックじゃありません﹄とわめき
しはその後から、
﹃そうですよ、そうですよ、あなたは警
てくるりと背中を向けて、出て行こうとします。わたく
ぞ、自分の官職を地口にするとはけしからん﹄そう言っ
せんか? ところが、
﹃まっぴらだ、わしは警察署長です
なかなかうまくこじつけて、 ば つを合わせたじゃありま
ためにも、音楽隊長のようなものが入用なんでして⋮⋮﹄
楽隊長ですからね。ところで、われわれの事業の調和の
ますよ。つまりナプラーウニック氏は有名なロシアの音
浮き立たすために、ちょっと冗談を言ったまででござい
いるじゃありませんか。
﹃いえ、その、わたくしは一座を
まじめくさった顔で突っ立ったまま、いっかな頑張って
初手の瞬間に、 こいつはしくじった、 と思いましたよ。
んですね?﹄と、こうなんです。わたくしはもう、その
たものです。すると、
﹃いったいナプラーウニックとはな
ラーウニックになっていただきたいものでして﹄とやっ
かんしゃく
けんのん
こあきんど
そのかたへずかずかと近寄って、世慣れた人間らしい無
まんまとわたくしどもの仕事は お じ ゃ んになってしまい
こ
雑作な調子で、
﹃署長さん、どうかその、われわれのナプ
、
、
、
、
、
、
60
しいとは思いませんがね。こういう風に、わたくしはし
これはもうずっと昔のことなんで、お話ししても恥ずか
そくわたくしをこっぴどくくすぐってくれましたて⋮⋮。
りましたよ﹄とやったんです。ところが、その人はさっ
できなくなって、まあお愛嬌のつもりで、
﹃ええ、くすぐ
ですか?﹄と聞きました。わたくしはその、つい我慢が
なり、わたくしに﹃じゃ、あなたは家内をくすぐったん
な特質をさして言ったのです。ところが、その人はいき
名誉にかけて、と言うつもりだったので、その、精神的
ぐったがりの御婦人ですな﹄ と言ったのです。 つまり、
人の勢力家に向かって﹃あなたの奥さんはずいぶんくす
ておるのでございます!
てこうなんですよ。徹頭徹尾、自分の 愛嬌 で損ばかりし
ましたわい!
もう何年も前のこと、ある一
びそうなもんですからなあ。 ただし、 ミウーソフさん、
もう少しどうかしたやつだったら、もっとほかの宿を選
もっとも、あまりたいしたしろものじゃありますまいよ、
たくしの中には悪魔が住んでおるのに違いございません。
いも同然でございますな、猊下様、こりゃあきっと、わ
な。わたくしは根から生まれついての道化で、まあ気違
候をして、冷飯にありついておったころからの癖でして
すよ。これはまだ、わたくしが若い時分、貴族の家に居
びついて、身うちがひきつってくるようなんでございま
いなと思うと、その瞬間は、両方の頬が下の 歯齦 に干
乾 たんで。 猊下 様、わたくしは自分の茶番がうまくいかな
れを注意してくださる、ということまで感じておりまし
とを感じましたよ。そればかりか、あなたがまっ先にそ
フさん、わしは口をきるといっしょに、ちゃんとそのこ
﹁そうでしょうとも! そして、どうでしょう、ミウーソ
いつもわたくしはこうなんです。決まっ
じゅう、自分の損になることばかりしておるのでござい
あんたじゃありませんぜ、あんたもあまりたいした宿で
あいきょう
ますよ!﹂
はありませんからな。けれど、その代わりにわたくしは
げいか
﹁あなたは今もそれをやってるんですよ﹂とミウーソフ
信じていますよ。神様をなあ。ついこのごろちょっと疑
ひから
は吐き出すようにこう言った。
いを起こしましたが、その代わり、今ではじっと坐って、
はぐき
長老は無言のまま、二人を見比べていた。
61
な駄
法螺 を吹くんです?﹂ミウーソフは、もう少しも自
な嘘だってことが。いったいあなたはなんのためにそん
かってるんでしょう、そのばかばかしい一口話がまっか
ない! あなたは自分でもでたらめを言ってることがわ
﹁フョードル・パーヴロヴィッチ、もう聞いちゃあいられ
帥が教父でしてな!⋮⋮﹂
したが、ダシュウ公爵夫人が教母で、ポチョームキン元
叫んだのでございます。そこですぐさま洗礼が施されま
とへ身を投げて、
﹃信じます、そして洗礼を受けます﹄と
られました。するとこちらは、いきなりがばとその足も
へあげて、
﹃狂える者はおのが心に神なしと言う﹄と答え
い!﹄と言いました。それに対して偉い大僧正は指を上
話を御存じでございますか。はいるといきなり﹃神はな
リーナ女帝の御世の大司教プラトンのところへまいった
ますよ。猊下様は哲学者のディデロートが、あのエカテ
うど、あの哲学者のディデロートのようなものでござい
偉大なことばを待っております。猊下様、わたくしはちょ
論者のディデロートが神様の議論をしに、プラトン大司
も、いつか聞いたことがありますぜ。あの連中は、無神
よ。あんたの伯母御のマーウラ・フォーミニシュナから
こちらの地主たちから、二十ぺんも聞かされたものです
すよ。 あれはわたしがまだ居候をしていた若い時分に、
デロートのことですな、あの﹃狂える者は﹄ってやつで
のためだかわからんことがありますがね。そこで、ディ
りたいからですよ。もっとも、ときどきは自分でもなん
ん、わしが駄法螺を吹くのは、ただ少しでも愛嬌者にな
せるために、つけ足したのでございます。ミウーソフさ
には頭に浮かんだこともありません。つまり ぴ り っとさ
ます。今お話ししているうちに考えついたことで、以前
の話は、わたくしがたった今、自分で作ったのでござい
いちばんしまいに申しました、あのディデロートの洗礼
ろを申し上げますよ。長老様! どうぞお許しください。
んだ。
﹁その代わり皆さん、今度は嘘いつわりのないとこ
んで﹂とフョードル・パーヴロヴィッチは夢中になって叫
﹁これは嘘だ︱︱︱という感じは生涯、いだいてきました
ら
分を押えようとしないで、声を震わせながら、こう言っ
教のところへ行ったことを、いまだに信じておるのです
だ ぼ
た。
、
、
、
62
のみならず、過激な思想をいだいた人たちですら、他の
てたずねて来る﹃上流の﹄人たちや、最も博学多才な人々
なかった。単なる好奇心か、またはその他の動機によっ
くと、初めから終わりまで、その 膝 を上げることができ
はいって来るのであった。多くの者はいったんひざまず
い誰でも、非常な恩恵を施されたような心持で、ここへ
るものばかりであった。この僧房へ通される人はたいて
来たが、しかしそれはすべて深い 敬虔 の念をいだいて来
ら、もう四、五十年ものあいだ、毎日来訪者が集まって
のである。この僧房へは、先代、先々代の長老の時分か
何かしらほとんどあり得べからざることが起こっていた
が滑稽に見えることも自覚していた。実際僧房の中には、
彼は狂暴な怒りにかられていたが、そのために自分自身
たためばかりでなく、前後を忘れてしまったからである。
ミウーソフは立ち上がった。それは我慢しきれなくなっ
よ⋮⋮﹂
いるのに、彼は眼を伏せたまま、身じろぎもしないで椅
めてくれるかと、アリョーシャはそればかり当てにして
勢力を持っている唯一の人間だから、今にも父をたしな
不思議なのは兄のイワンである。彼は父に対してかなり
だしそうな顔をして、首うなだれて立っていた。何より
たたまれない様子であった。アリョーシャは今にも泣き
ていたが、やはりミウーソフと同じように、もう座にい
まじめな心構えで、長老がなんと言うだろうかと注視し
よび起こした。それでも二人の僧は少しも表情を変えず、
人々、少なくともその中のある者に、疑惑と 驚愕 の念を
えずにさらけ出した、こうしたふざけた態度は、同席の
え、今フョードル・パーヴロヴィッチが場所柄もわきま
決しようという渇望が存在するばかりであった。それゆ
難な問題、もしくは自己の心内の生活の困難な瞬間を解
愛と慈悲、他方からは 懺悔 と渇望︱︱︱自己の心霊上の困
では金銭というものは少しも問題にならず、一方からは
のを、第一の義務と心得るのであった。そのうえ、ここ
ひざ
ざんげ
者と同席か、または差し向かいの対面を許されて、この
子に腰かけている。そしてこの事件にはなんの関係もな
きょうがく
僧房の中へはいって来ると、すべて一人残らず、会見の
い赤の他人のように、物珍しそうな好奇の色を浮かべな
けいけん
初めから終わりまで深い尊敬を示し、細心の注意を払う
63
ミウーソフは最後まで言いきらないうちにまごついて
思いもかけませんでした⋮⋮﹂
に伺ったことで、お許しを乞うようなことになろうとは、
の過ちでございました⋮⋮私はまさかこの人といっしょ
義務をわきまえていることと信じたのが、私のそもそも
あいう尊敬すべきかたをおたずねする場合には、自分の
とえフョードル・パーヴロヴィッチのような人でも、あ
者のように、あなたのお目に映るかもしれませんが、た
て口をきった。
﹁ことによると私も、この悪ふざけの共謀
﹁どうかお許しください﹂とミウーソフは長老に向かっ
人きりであった︶。
も、それがわかるのは、修道院じゅうでアリョーシャ一
らであった。彼はその 肚 の中をよく知っていた︵もっと
親しい知り合いで、親友といってもいいほどのあいだが
顔さえ、眺めることができなかった。それはやはり彼の
かの観があった。アリョーシャはラキーチン︵神学生︶の
がら、事件がどんな風に落着するかを、待ち設けている
﹁自分の家と同じように? つまりあけっぱなしでござい
いのもとですからな﹂
分を恥じぬことが肝心ですぞ、これがそもそも、いっさ
じつもりでいてくだされ。何はともあれ第一に自分で自
﹁どうか遠慮をなさらぬようにな、自分の家にいるのと同
御遠慮をなさらぬようにな﹂と長老は諭 すように言った。
﹁どうかお願いですじゃ、あなたもけっして、御心配や
チが叫んだ。
ような身構えをしながら、フョードル・パーヴロヴィッ
つかんで、返答次第では、その中から飛び出しかねない
せんか、どうか?﹂と不意に、肘椅子の手すりを両手に
くしがあんまり元気すぎるために、お腹立ちはなさりま
﹁神聖な長老様、どうかおっしゃってくださいまし、わた
と、向きを変えて再び自分の長椅子に腰をおろした。
となってもらいとうござりますのじゃ﹂彼は会釈をする
だされ、お願いですじゃ。別してあなたには、わしの客
両手を取って再び彼を肘椅子に坐らせた。
﹁落ち着いてく
ひよわい足を伸ばして中腰に席を立つと、ミウーソフの
はら
しまって、そそくさともう出て行きそうにした。
ますな?
ああそれはもったいなさすぎます、もったい
さと
﹁御心配なされますな、お願いですじゃ﹂突然、長老は
64
とも、なかには、わたくしという人間を誇張したがって
の他のことは、まだ未知の闇に包まれております。もっ
るために、前もって御注意するのでございます。まあ、そ
しも、行き着きかねますて。これは、つまりあなたを守
けっぱなしというところまでは、ちょっと当人のわたく
くしを 煽 てないでください、 剣呑 でございますよ⋮⋮あ
う! ところで、長老様、あけっぱなしでなどと、わた
なさすぎます、がしかし︱︱︱喜んでお受けいたしましょ
しをおもしろい利口な人間だと思ってくれるという、確
す。もし、わたくしが人前へ出るときに、みんながわたく
す。小心翼々たればこそ、やんちゃもするのでございま
ますよ、お偉い長老様、恥ずかしいが 因 なのでございま
なったのでございます。恥ずかしいが 因 の道化でござい
卑劣なやつらばかりだ!﹄ってんで、わたくしは道化に
などかまうものか。どいつもこいつもみんな、わしより
なら本当に道化の役をやってみせてやろう。人の思わく
るような気がするのでございます。そこで、
﹃よし、そん
ざいましょう?﹂
もと
して乳頭でございますて!
はたして彼はふざけているのか、それとも実際に感動
ごじん
けんのん
おる 御仁 もありますがな。これはミウーソフさん、あん
信があったならば、そのときのわたくしは、どんないい
おだ
たに当てて言ってることですよ。ところで、 猊下 、あな
人間になったことでございましょうなあ! 師の御坊!﹂
ひれき
もと
た様に向かっては 満腔 の歓喜を披
瀝 いたしまする!﹂彼
と、いきなり彼はひざまずいて、
﹁永久の生命を受け継ぐ
恥じてはならぬ、これはいっさいのもとだ﹄と御注意く
しているのか、今はどちらとも決定することがむずかし
げいか
は立ち上って両手を差し上げると、言いだした。﹁﹃なん
ために、わたくしはいったいどうすればよろしいのでご
ださりましたが、あの御注意でわたくしを腹の底まで見
かった。
ちくび
通しなさいましたよ。実際、わたくしはいつも人の中へ
長老は眼をあげて彼を眺めながら、微笑を含んで、こ
まんこう
じを宿せし母胎と、なんじを養いし 乳頭 は幸いなり﹄、別
はいって行くと、自分は誰よりもいちばん卑劣な人間で、
う言った。
あなた様はただ今﹃自分を
人がみんな寄ってたかってわたくしを道化あつかいにす
65
になる。したがって、みずからを侮り、他人をないがしろ
中にも他人の中にも、真
実 を見分けることができぬよう
き、みずからの偽りに耳を傾ける者は、ついには自分の
なのは、自分自身に嘘をつかぬことじゃ。みずからを欺
﹁いや、ディデロートのことというわけではない。肝心
か?﹂
﹁と申しますと、ディデロートの一件なんでございます
ことですじゃ﹂
なことは、いちばん大事なことは︱︱︱嘘をつかぬという
でも、せめて二つでも三つでもお閉じなされ。が、大事
ぞ。それからあなたの酒場を、皆というわけにいかぬま
ことばを慎み、女色、別して拝金に 溺 れてはなりません
なたには分別は十分にありますでな。 飲酒にふけらず、
﹁どうすればよいかは、自身で 疾 うから御存じじゃ。あ
﹁お聖人様!
やはり偽りの所作ではありませぬかな﹂
立ってお掛けくだされ、どうかお願いですじゃ、それも
当の仇
敵 のような心持になってしまうのじゃ⋮⋮。さあ、
えぬ満足を感じるまでに腹を立てるのじゃ。こうして本
先に腹を立てる。それもいい気持になって、なんとも言
だ、︱︱︱それをちゃんと承知しておるくせに、われから
たてついて、針ほどのことを棒のように言いふらしたの
げるために、自分で誇張して、わずかな他人のことばに
れに潤色を施すために嘘をついたのだ。一幅の絵に仕上
はずかしめたのではなく、自分で侮辱を思いついて、そ
人はちゃんと承知しておりますのじゃ、︱︱︱誰も自分を
いものじゃ。な、そうではありませんかな?
てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよ
ことですぞ。みずから欺く者は何よりも先にすぐ腹を立
と
にするに至るのじゃ。何びとをも尊敬せぬとなると、愛
フョードル・パーヴロヴィッチはぴょんぴょんと飛び上
どうぞお手を接吻させてくださいませ﹂
そういう
することも忘れてしまう。愛がなければ、自然と気を紛
がると、長老の痩せこけた手をすばやくちゅっと接吻し
おぼ
らすために、みだらな情欲に溺れて、畜生にも等しい乱
た。
﹁全く、全くそのとおり、腹を立てるのがいい気持な
きゅうてき
行を犯すようなことにもなりますのじゃ。それもこれも
んでございますよ。ほんとによくおっしゃりなされまし
まこと
みな他人や自分に対する、絶え間のない偽りから起こる
66
三年も前から調べてみるつもりで、こちらへ伺ってぜひ
ますが、あ、うっかり忘れるところでした、これはもう
います。ときに、お偉い長老様、ついでにちょっと伺い
デロートは害になりません、害になるのは別の話でござ
ロートの話も、ときにはよろしゅうございますよ? ディ
ろで結構なんですよ。ただしかし⋮⋮長老様⋮⋮ディデ
文句にはまごつきますので。まあ、偽りの子にしたとこ
ではないようでございますな。いつもわたくしは聖書の
りの父なり!︱︱︱でございますよ。もっとも、偽りの父
あいだ毎日毎時間、嘘をつきました。まことに偽りは偽
わたくしは徹頭徹尾、嘘をつきました。それこそ一生の
これは手帳へ書きつけておきましょうわい! ところで、
いっていうことを一つお忘れなされましたよ、長老様!
どうかすると美しいことがございますからな。この美し
て、侮辱されるというやつは、気持がいいばかりでなく、
りその、美的に腹を立てたのでございますよ。なぜといっ
いだいい気持になるまで腹を立ててまいりました。つま
ございません。全くそのとおりで、わたくしは生涯のあ
た、これまで、わたくしはそういうお話は聞いたことが
う話ですがな。わたくしも人からのまた聞きでして。と
うに知りませんよ。なんでもぺてんにかけられたとかい
﹁それはわたくしもよく存じませんので。いや、いっこ
とおっしゃるのですか?﹂と司書の僧が尋ねた。
ません。いったい何聖人のことがそんな風に書いてある
﹁どの﹃殉教者伝﹄にもそんなようなことは載っており
﹁いいや、それは嘘ですじゃ﹂と長老が答えた。
うでしょう神父さんがた?﹂
なんだそうです。全体これは本当のことでしょうか、ど
それを手に持って歩きながら、﹃いとおしげに接吻しぬ﹄
とおしげに接吻しぬ﹄とあるんです。しかも長いあいだ
行者はひょいと起き上がるなり、自分の首を拾って﹃い
首をちょん切られてしまいましたんで。ところが、その
のために迫害をこうむっておりましたが、とどのつまり
か︱︱︱それはなんでも、ある神聖な奇跡の行者が、信仰
にこんな話があるっていうのは、全くでございましょう
たします。ほかでもありませんが、
﹃殉教者伝﹄のどこか
し、ミウーソフさんに口出しをさせないようにお願いい
ともお尋ねしようと存じておったのでございます。しか
67
落の原因なんですぜ。これはもうディデロートどころの
んですぜ。ほんとにミウーソフさん、あんたは大きな堕
じゃ。それ以来いよいよますます、ぐらついてきておる
しだが、わしはぐらついた信仰をいだいて帰りましたの
たからですぜ、ミウーソフさん。あんたは何も御存じな
な話でもって、あんたがわしの信仰をぐらつかせなされ
なあ。わしがこんなことをもちだしたのも、このおかし
というわけですよ。なんでも四年ばかり前のことでした
あんたが人中で話しておられた席に、わしも居合わせた
﹁なるほど、わしにお話しなされたことはありませんが、
しやしませんよ﹂
せんよ。それに全体、僕はあなたとなんか、てんで話を
﹁僕はけっして、そんな話をあなたにしたことはありま
がわたくしに話して聞かせたのです﹂
で、あんなに腹を立てたミウーソフさんですよ。この人
のミウーソフさんですよ。たった今ディデロートのこと
ころで、いったい誰から聞いたとおぼしめしますか。こ
うが、わしはこのとおり、信仰をなくしてしまったんで
﹁さようさ、あんたはそこで食事をしておられたのでしょ
きも、ちょうど食事をしていたんですからね⋮⋮﹂
どんなことをしゃべるかしれたもんじゃない⋮⋮そのと
は思っていません⋮⋮いや、 全く食事のときなどには、
伝﹄など読んだことはありません⋮⋮この先も読もうと
長らく住んでいたことがあります⋮⋮僕自身は﹃殉教者
する統計を専門的に研究していたんです⋮⋮ロシアにも
聞かせたんです⋮⋮その人は非常な学者で、ロシアに関
の中で、こんな話を、 弥撒 に朗読するといって、話して
た時分に、 あるフランス人が、 ロシアでは ﹃殉教者伝﹄
僕自身も人から聞いたんですからね。なんでもパリにい
あるかもしれん⋮⋮しかしあなたに話したのではない。
だ﹂と彼はつぶやいた。
﹁実際、僕はいつか話したことが
﹁なんてくだらないことだ、何もかもがくだらないこと
ウーソフはひどく気を悪くした。
いうことを、もうはっきりと見抜いていた。それでもミ
てた。しかし一同は、またしても彼が芝居をしていると
サ
騒ぎじゃないて!﹂
すよ!﹂とフョードル・パーヴロヴィッチがまぜっかえ
ミ
フョードル・パーヴロヴィッチは悲痛な声でまくした
68
機嫌のいい顔をしているのも嬉しかったのだ。長老は自
るのが嬉しかったのだが、長老が少しも腹を立てないで、
リョーシャは息をはずませていた。彼はこの席をはずせ
は階段を助けおろすために、その後から駆け出した。ア
彼は僧房を出て行こうとした。アリョーシャと道心と
う言い足した。
ドル・パーヴロヴィッチに向かって、にこやかな顔でこ
にしても、嘘をつかぬがようござりますぞ﹂彼はフョー
た御仁が待っておられるのでな。したが、あなたはなん
に向かってこう言った。
﹁実は、あなたがたより先に見え
間、中座させていただかねばなりませんのじゃ﹂彼は客
﹁御免くだされよ、皆さん、わしはちょっと、ほんの数分
長老は不意に席を立った。
のさわったものには泥を塗らずにおかぬ人ですよ﹂
げすむように言った。
﹁あなたは全く文字どおりに、自分
ミウーソフはわめきかけたが、急におのれを制して、さ
﹁あなたの信仰なんか、僕に何の用があるんです!﹂と
した。
分間だけじゃが﹂
いよいよあなたが一番役者です⋮⋮もっとも、ほんの十
あミウーソフさん、 今度はあなたが話をする番ですぜ。
ます。ちゃんと椅子に腰かけて、黙っておりますよ。さ
れでもう口はききません。ずっとしまいまで黙っており
よ︱︱︱いっしょに暮らすことができますわい。さあ、こ
な。ところが、あなたには 褒状 を差し上げてもよろしい
慢ちきなあなたと折り合いがつくかどうかと思いまして
たわけですよ。つまり、わたくしのような 謙遜 な者に高
いっしょに暮らすことができるかどうか、脈を取ってみ
あんなまねをしたのでございますよ。あれは、あなたと
ところが、わたくしはあなたを試してみるために、わざと
て、道化たまねばかりしておるとお思いなされますか?
すよ!
実際あなたはなかなか話せますよ、いっしょに暮らせま
だ。﹁どうかもう一度お手を接吻させてくださりませ!
﹁あらたかな長老様!﹂と彼は思い入れたっぷりで叫ん
チは僧房の戸口で彼を引き止めた。
して歩を運んだ。けれども、フョードル・パーヴロヴィッ
ほうじょう
けんそん
あなたはわたくしがいつもこのように嘘をつい
分を待ち構えている人たちを祝福するために、廊下をさ
69
まつげ
いたずら
た。 睫 の長い暗色の大きな目には、なんとなく 悪戯 らし
愛嬌のある女 で、ほとんどまっ黒な眼がひどく生き生き
まだかなり若いほうで、少し顔色は青いけれど、非常に
人で、いつも 垢抜 けのした服装をしているうえに、年も
二人連れだった。母なるホフラーコワ夫人は富裕な貴婦
地主のホフラーコワ夫人も回廊へ出た。それは母と娘の
上流の婦人訪問者のために設けられた別室に控えていた、
て待ち構えているのであった。同様に長老を待ちながら、
はいよいよ長老様のお出ましと聞いて、こうして集まっ
日は、女ばかりが二十人ばかりも押しかけていた。彼女ら
外囲いの塀に建て増しをした木造の回廊の下には、今
ない北国の寺から来た僧である。彼も同じように長老の
ていた。これはこの修道院の人ではなく、あまり有名で
が、彼女から二歩ばかり離れたところに一人の老僧が立っ
だ、母夫人は娘の安楽椅子のそばの椅子に腰かけていた
ことを嘆願したのである。長老が出て来るのを待つあい
いて、もう一度﹃偉大な治療主を拝む幸福﹄の恵まれん
も会えなくなったことを承知しながら、再びここへ出向
たのに、今日また突然二人は、もう長老がほとんど誰に
用のためであった。しかし三日前にも一度、長老を訪れ
ているが、それは神信心のためというよりは、むしろ所
まったのだ。母娘はもう二週間ばかりもこの町に滞在し
行く気でいたが、夏の領地整理のため時期を遅らしてし
い光りがあった。母は春ごろからこの娘を外国へ連れて
している。年はまだせいぜい三十三、四だが、もう五年
祝福を受けようとしているのだ。しかし回廊に姿を現わ
三 信心深い女たち
ばかりも前から 寡婦 になっている。十四になる娘は足痛
した長老は、そこを通り過ぎてまっすぐにまず群集の方
ご
あかぬ
風を患っていた。この不仕合わせな娘はもうこの半年ば
へ進み寄った。群集は低い回廊と庭をつないでいる、三
ひと
かり歩くことができないため、車のついた長い安楽椅子
段の階段を目ざして詰め寄せた。長老はいちばん上の段
け
に乗せて、あちこち引き回されていた。その美しい顔は
に立って、 袈裟 を着けると、自分の方へ押し寄せる女た
け さ
病気のために少し痩せてはいるけれど、にこにこしてい
70
すぐやんで、いつでも病人はしばらくのあいだ落ち着く
て、 そのそばへ連れて行かれると、﹃憑きものの業﹄ は
たり、犬の吠 えるような声を立てたりするが、聖餐が出
ると、堂内に響き渡るようなけたたましい叫び声をあげ
いたりしたものである。こういう病人を教会へつれて来
修道院で、よくこんな﹃憑かれた女﹄を見たり、噂に聞
た。今はどうか知らないが、自分の子供時代には、村や
えると、病人はたちまち静かになって落ち着いてしまっ
めた。長老がその頭の上へ袈裟を載せて、短い 祈祷 を唱
がら、まるで驚風患者のように全身をがたがた震わせ始
と、何やら愚かしい叫び声を立てて、しゃっくりをしな
取って前へ引き出された。その女は長老の姿を一目見る
ちを祝福し始めた。と、一人の﹃ 憑 かれた女﹄が両手を
のことだったけれど、これもたぶんきわめて自然に生じ
居で、ことによったら﹃売
僧 ども﹄の手品かもしれぬ、と
意にけろりとなおる不思議な事実も、それはただのお芝
今まで荒れ狂ったり、じたばたもがいていたものが、不
ことである。 病人を聖餐のそばへ連れて行くやいなや、
とか、 折檻 とかいうようなものも、その原因になるとの
して、とても耐えられるものでない、絶体絶命の悲しみ
とから生ずるものであるが、その他、か弱い女性の常と
ちゃな難産をした後、あまりに早く過激な労働につくこ
運命を説明する病気で、なんら医薬の助けを借りないむ
くりした次第である。これはわが国農村婦人の 惨澹 たる
特有のものらしい恐ろしい婦人病だと聞いて、二度びっ
から、それはけっしてお芝居ではなくて、わがロシアに
持ちだして聞かせてくれた。ところが後日、専門の医者
つ
ものだった。こうした事実は子供の自分をひどく驚かせ
たことであろうと思う。おそらく病人を聖餐のそばへ連
さんたん
た。しかしそのころ、地主の誰彼や、ことに町の学校の先
れて行く女たちと、ことに病人自身が聖餐のそばへ寄っ
きとう
生などに根掘り葉掘り聞いてみたら、あれは仕事をする
て頭をかがめさえすれば、病人に取り憑いている悪霊が、
せっかん
のがいやであんなまねをするだけで、適当な非常手段を
どうしても踏みこたえることができないものと、一定の
ほ
用いさえすれば、いつでも根絶することのできるものだ
真理かなんぞのように、信じきっているのであろう。そ
まいす
と説明して、それを裏書きするようないろいろの珍談を
71
以前もちょいちょい来たことがあった。
修道院から六露
里 ほど離れた村から連れられて来たので、
れた女﹄は彼もよく知っていた。これはあまり遠くない、
同を祝福して、 二、 三の者とことばをかわした。﹃憑か
者もあれば、何やら経文を唱える者もあった。長老は一
なかにはその法衣の端でも接吻しようとして押し寄せる
瞬間の印象によびさまされた感動に随喜の涙を流した。
長老のそば近くひしめいていた多くの女たちは、その
と同じ奇跡が起こったのである。
う。長老が病人を袈裟でおおうやいなや、ちょうどそれ
して奇跡は、わずかのあいだながら、出現するのであろ
こすのであろう︵否、引き起こすべきである︶。かように
神経的な精神病患者の肉体組織に、非常な激動を引き起
出現を信じきっている心とが、聖餐の前にかがんだ瞬間、
れゆえ必然的な 治癒 の奇跡を期待する心と、その奇跡の
て、ようやく悲しみを紛らすばかりである。こうした悲
うものは、ひときわ心を刺激し、 掻 きむしることによっ
て無言の悲しみより忍びやすいわけではない。愚痴とい
る。それはことに女に多い。しかし、これとてもけっし
共に流れ出すと、その瞬間から愚痴っぽくなるものであ
張ち切れてしまった悲しみがある。それはいったん涙と
潜んで、じっと黙っている悲しみである。しかし、また
までもしんぼう強い悲しみがある。それは自己の内部に
しているようであった。民衆のあいだには無言の、どこ
うたうように女は言った。その口調がまるで愚痴をこぼ
に振るようなあんばいに掌へ片頬を載せたまま、歌でも
神父様、遠方でござりますよ﹂と、首をふらふらと左右
こから二、三百露里もござります。遠方でござりますよ、
﹁遠方でござりますよ、神父様、遠方でござりますよ、こ
悦の色があった。
すえたまま見つめていた。その目の中にはなんとなく法
ゆ
﹁ああ、あれは遠方の人じゃ﹂と、けっして年を取って
しみは慰謝を望まないで、あきらめきれぬ苦悩を餌食に
ち
るわけではないが、恐ろしく痩せほうけて、日に焼けた
するものである。愚痴とは、ひたぶるに傷口を食い裂い
エルスター
というではなくて、まっ黒な顔をした、一人の女を指さ
ていたいという要求にほかならない。
か
して、彼は言った。その女はひざまずいて、じっと目を
72
﹁倅 が可哀そうなのでございます、神父様、三つになる
﹁何を泣いておいでじゃな?﹂
へ参じましたんで﹂
屋に泊まりましたが、今日はこうしておまえ様のところ
くれましたので。こちらへやって参じまして、昨日は宿
でございますよ、︱︱︱こちらへ行ってみろ﹄って教えて
に、
﹃ナスターチャ、こちらへ︱︱︱つまりおまえ様のこと
す。三ところのお寺へお参りしましたところ、わたくし
さい男の子の葬いをしておいて巡礼に出たのでございま
にかかりに参じました。お噂を聞きましたのでなあ。小
ます。町に住まっておりますんで。おまえ様に一目お目
農家の生まれではございますが、今は町方の者でござい
﹁町の者でございます、 神父様、 町の者でございます。
ながら、長老は語をついだ。
﹁町家の御仁じゃろうな?﹂と、好奇の目で女を見つめ
ちましょう?
います。けれど今となって、こんな身上がなんの役に立
いたしておりまして、馬も車もみんな自分のものでござ
ほど暮らしには困りませぬので。ひとり立ちで馬車屋も
いますが、さほど暮らしに困りませぬので、神父様、さ
くれと申しましたのでございます。 配偶 は馬車屋でござ
す。そこで 配偶 のニキートカに、どうか巡礼に出してお
を、一つ一つ広げて見ては、おいおい泣くのでございま
は泣くのでございます。あの子が後に残していったもの
た、あれの小さい着物を見ては泣き、シャツや靴を見て
のでございます。まるで胸の中も 涸 あがってしまいまし
せん。まるでこう目の前に立っておるようで、どかない
が、こんどの末子だけは、どうにも忘れることができま
くしたときには、それほど可哀そうにも思いませなんだ
どうも、神父様、育たないのでございます。上を三人亡
ましたが、 どうもわたくしどもでは子供が育ちません。
わたくしがおりませんでは、きっとうち
ひ
子供でございました、まる三つにたった三月足りないだ
のニキートカはむちゃなことをしているに違いありませ
つれあい
けでございました。倅のことを思って苦しんでおるので
ん。それはもう確かな話でござりますよ。以前もそうで
つれあい
ございます。それも、たった一人あとに残った子でござ
ございました。わたくしがちょっと眼を放すと、すぐも
せがれ
いました。ニキートカとのあいだに四人の子供をもうけ
73
ぬのか?
幼い子供ほど神の国でわがままいっぱいなも
前では、わがままいっぱいにしておるということを知ら
の言われるには、
﹃いったいおまえは小さい子供が神様の
人子を思って泣いている母親じゃったのじゃが、聖人様
御覧になられてな、それはやっぱり、神様に召された一
人様が、おまえと同じように寺へ来て泣いておる母親を
﹁のう、おっかさん﹂と長老が口をきった。
﹁昔の偉い聖
たいとは思いませぬ!﹂
の家や持ち物なんぞ見たいとも思いませぬ。なんにも見
てしまいました。誰とも縁を切ってしまいました。自分
といたしましょう。わたくしはもうあの人とは縁を切っ
れにいまさらあの人といっしょになったところで、なん
も忘れてしまって、思い出すのもいやでございます。そ
ます。わたくしはすっかり忘れてしまいました、何もか
など考えはいたしません。もう家を出てから三月になり
うぐらつくのでございますよ、でも今ではあの人のこと
そばで、天使たちといっしょに歌でもうたっておるにき
くことがあるんだ、うちの坊やも今ごろはきっと神様の
までございました。
﹃わけのわからんやつじゃよ、何を泣
めてくれました。おまえ様のおことばとそっくりそのま
﹁それと同じことを言って、ニキートカもわたくしを慰
いた。彼女はほうっとため息をついた。
女は片手で頬杖をつきながら、伏し目になって聞いて
ばねばならんのじゃ﹂
じゃろう。それじゃによって、そなたも泣かれずに、喜
遊び 戯 れながら、そなたのことを神様に祈っておること
ない。そなたの子供も今はきっと、神様の御座所の前で
い聖人のことじゃから、間違ったことを言われるはずが
うその昔、聖人が泣いておる母親を 諭 された。それは偉
で、天使たちといっしょに暮らしているのじゃから﹄こ
くことはないのじゃ、おまえの子供はいま神様のおそば
とせがむのじゃ。じゃによっておまえも喜ぶがよい、泣
などとだだをこねて、今すぐ天使の位を授けてくだされ
さと
のはないのじゃ。子供らは神様に向かって、あなたはわ
まっておるよ﹄ 配偶 はこう言いながら、そのくせ、自分
たわむ
たしたちに生命を恵んでくださったけれど、ちらと世の
でも泣いておるのでございます。見ると、やっぱりわた
つれあい
中をのぞいただけで、もう取り上げておしまいになった、
74
度あれの足音が聞きたい、どうしても聞きたいのでござ
て、叫んだり笑ったりしましたが、わたくしはたった一
度でも聞きたい。以前よくわたくしのところへ走って来
います。あの小さい足でことことと歩くのを、たった一
ます。あの小さい足で部屋の中を歩くのが聞きとうござ
て、ほんのちらりとでも、見たり聞いたりしとうござい
こにいるの?﹄って呼ぶのを、どこかの隅に隠れておっ
らへやって来て、 あの可愛らしい声で、﹃母ちゃん、 ど
あれが以前のように、戸外で遊んでいるところや、こち
そばへ寄ったり声を掛けたりできなくてもかまいませぬ。
のちょっとでよいから、あれが見たいのでございますよ。
ほんの一ぺんきりでも、あれが見とうございます。ほん
坐ってはおらんだもの!﹄とね。ほんとに、わたくしは
わしらのそばにはいっしょにおらん、前のようにここに
ほかにいるところはありませんさ。 けれど、 今ここに、
わしも知っているよ、 あの子は神様のそばでなくては、
わたくしはそう言ってやりました。
﹃おまえさん、それは
くしと同じように、 泣いておるのでございますよ。 で、
やがてはそれが静かな喜びとなり、その苦い涙も静かな
そなたの母としての大きな嘆きはまだ長く続くけれど、
さしておるということを、忘れぬように思い出すがよい。
を見おろし、そなたの涙を見て喜んで、それを神様に指
の息子は神様の御使いの一人となって、天国からそなた
に泣くがよい。ただ、泣くたびごとにたゆまず、そなた
められぬがよい、慰められることはいらぬ。慰められず
たち母親のために置かれた地上の隔てなのじゃ。ああ慰
は有らざればなり﹄とあるのと同じじゃ。それがそなた
が子らを思い嘆きて慰むことを得ず。なんとなれば子ら
﹁ああそれは﹂と長老が言った、
﹁それは昔の﹃ラケルわ
出た涙は指のあいだを伝って流れるのであった。
を震わせながら泣きくずれた。そして不意にほとばしり
出したが、それを一目見ると、両手で顔をおおって、身
彼女はふところから小さな組紐の、わが子の帯を取り
せん⋮⋮﹂
を見ることはできません。あれの声を聞くことはできま
の帯がござりますが、あれはもうおりません。もうあれ
の声を聞くときはもうございません!
これここにあれ
います。けれども神父様、もうあれはおりません、あれ
75
の中で告げてあげようし、 配偶 の息災も祈ってあげよう。
回向をして進ぜるよ!
﹁それはなんという聖い子じゃ! 回向をして進ぜよう、
ます!﹂
﹁尊者でございます、神父様、アレクセイ尊者でござい
な?﹂
それからそなたの悲しみも 祈祷 ﹁よい名まえじゃ。アレクセイ尊者にあやかったのじゃ
﹁アレクセイでございます。神父様﹂
えはなんといったのじゃな?﹂
るだろう。そなたの子供に 回向 をして進ぜようが、名ま
感動の涙と変わって、罪障を払い心を清めるよすがとな
返しそうになったが、長老はもう別の老婆の方へ向いて
ていさっしゃろうなあ!﹂とまたもや女は、愁嘆をくり
ちかねていさっしゃろうなあ、ニキートカ、さぞ待ちかね
あの 愛 しいニキートカ、おまえさんはこのわたしを、待
す。おまえ様はわたくしの心を見抜いてくだされました。
﹁帰ります、神父様、おまえ様のおことばに従って帰りま
おっかさん、帰りなされ、今日すぐ帰りなされ﹂
たなら、子供が穏かな夢を送ってくれるじゃろう。さあ、
なたは子供の夢に苦しんでおるが、 配偶 のところへ帰っ
ら、子供はいったいどっちへ行ったらよいのじゃ? 今そ
まえがた二人が、父親と母親がいっしょにおらぬとした
いったら、どうして子供が家へはいって来られよう! お
つれあい
えこう
ただ、 配偶 を捨てておくのはそなたの罪になるのじゃ。
いた。それは巡礼風ではなく、町の者らしい 服装 をして
つれあい
帰ってめんどうを見てやりなされ。そなたが父親を見す
いた。その眼つきから、何か用事があって相談に来たも
いと
てたのを天国から見たら、その子はそなたたちのことを
のらしいことが、それとうかがわれた。彼女は遠方から
きとう
思って泣くじゃろう。どうしてそなたは子供の 冥福 に傷
来たのではなく、この町に住んでいる下士の 寡婦 だと名
つれあい
をつけるのじゃ? その子供は生きておるのじゃよ。おお
乗った。息子のワーシェンカというのが、どこか 被服廠 やもめ
な り
生きておるとも、魂は永久に生きるものじゃもの。家に
あたりに勤務していたが、シベリアのイルクーツクへ出
めいふく
こそおらねど、見え隠れにおまえがたのそばについてお
向いて、そこから二度手紙をよこしたきり、もうまる一
ひふくしょう
るのじゃ。それなのにそなたが、自分の家を憎むなぞと
76
のも恥ずかしいことじゃ。第一、生きておる魂を、それも
﹁そのようなことは考えることもなりませぬぞ。尋ねる
んなことをしてよろしいものでございましょうか?﹂
で!⋮⋮。神父様、いったい本当でございましょうか、そ
ダさんが言うんですけど、わたしはどうかと存じますん
びたび 験 されたことなんだから﹄って、そうステパニー
こすようになるよ。それは現金なもので、これまでもた
そうすれば息子さんの魂が悩みだして、きっと手紙をよ
こんで、お寺様へ持って行ってお経をあげておもらいよ。
ローホロヴナ、いっそ息子さんの名まえを過去帳へ書き
ドリャーギナという、金持ちの商家のお 内儀 さんが、
﹃プ
﹁ところがつい先ごろ、ステパニーダ・イリイニシナ・ペ
であった。
なところ、どこへ問い合わせたらいいかもわからないの
年も便りがない。老婆は問い合わせもしてみたが、正直
を群集の中にみとめていた。彼女が無言のまま、見はっ
た肺病やみらしい、まだ若い百姓女の、熱した二つの 瞳 が、長老はもう、自分の方へじっと注がれた、痩せ衰え
かた様でいらっしゃいます!﹂
たくしどもの罪障のために、代わって祈ってくださるお
恩人でございます。わたくしども一同のために、またわ
のありますように!
﹁おありがたい長老様、どうかあなた様に神様のお恵み
れ、そなたの息子は息災でおるのじゃよ﹂
もそのつもりでおるがよい。さあもう安心して帰りなさ
来るか、それとも手紙をよこすに決まっておる。そなた
ておこう。︱︱︱その息子さんは近いうちに自分で帰って
プローホロヴナ、わしはそなたにこれだけのことを言っ
さりますようにと、お願いしたがよろしいぞ。それから
すように、また間違った考えを起こした罪をお許しくだ
てくださる聖母様にお祈りをして、息子の息災でおりま
ようじゅつ
か み
現在生みの母が供養するなどということが、どうしてで
ている両眼は、何か願うもののようであったが、彼女は
ひとみ
ほんにあなた様はわたくしどもの
きるのじゃ? それは大きな罪で、 妖術 にも等しいこと
そばへ近づくのを 怖 じ恐れているような様子だった。
ため
じゃ。ただ、そなたは何も知らなんだのじゃからぜひもな
﹁そなたは何の用で来たのじゃな?﹂
お
いが。それよりも、すぐに、たれにでも味方をして助け
77
き、わたくしはその顔をつくづくと見ながら思いました、
しましたのでございます。それが病気で寝つきましたと
した。 配偶 が年寄りで、ひどくわたくしをぶち 打擲 いた
た。
﹁わたくしは嫁にいってつらいつらい思いをいたしま
ると身を震わすようにしながら、ささやき声でこう言っ
﹁わたくしは 寡婦 になって三年になります﹂女はぶるぶ
たまま、そのかたわらへにじり寄った。
長老はいちばん下の段に腰をおろした。女は膝を突い
しゅうございます﹂
﹁神父様、わたくしは罪を犯しました、自分の罪が恐ろ
ひれ伏した。
ろにこう言いながら、彼女は膝をついて長老の足もとに
﹁わたくしの魂を許してくださいませ﹂低い声でおもむ
よくよすることもいらぬ。ただそなたが懺悔の心を衰え
﹁何も恐れることはない、けっして恐れることはない、く
ろしゅうございます﹂
﹁いただきました。恐ろしゅうございます。死ぬのが恐
﹁聖餐はいただいたかな?﹂
﹁話しましてございます。二度も懺悔をいたしました﹂
﹁懺
悔 のとき、話したのじゃな?﹂
﹁ここから五百 露里 でございます﹂
﹁遠方かな?﹂
ふさいでまいりました﹂
なんだが、このごろは、ぶらぶら 病 にかかるほど、気が
﹁三年目でございます。初めのうちはなんとも思いませ
﹁三年になるのじゃな?﹂
話し終わった。
よ
やまい
もしこの人が 快 くなって起きるようになったらどうしよ
ぬようにしさえすれば、神様は何もかも許してくださる
エルスター
うか? と、そのとき、あの恐ろしい考えが、ふとわた
のじゃ。それに、真実心に後悔しておる者を神様が許し
ざんげ
くしの心に浮かんだのでございます!﹂
てくださらぬような、そんな罪業は、けっしてこの世に
ご け
﹁お待ち!﹂そう言って長老は、耳を女の口の間近へ持っ
あるものではない、またあるべきはずもないのじゃ。そ
ちょうちゃく
て行った。女は低いささやき声で先を続けたので、ほと
れにまた、限りない神様の愛をさえ失ってしまうような、
つれあい
んど何一つ聞き取ることができなかった。間もなく女は
78
の子じゃ⋮⋮愛はすべてのものを 贖 い、すべてのものを
おるのじゃ、もし愛しているならば、そなたはもはや神
するのじゃ。もし後悔しておるとすれば、つまり愛して
ずかしめたことはいっさい許して、真底から仲なおりを
に腹を立てたりしてはならぬ。死んだ 配偶 がそなたをは
れ、恐れることはない。人の言うことを気にしたり、 侮蔑 喜びは増すべけれと、昔から言ってある。さあ帰りなさ
のためには、十人の正しきものによってよりも、天国に
しゃるということを信じなされ。一人の悔い改むるもの
ろうとも、そなたの罪のままに、そなたを愛していらっ
うな愛を持っていらっしゃるぞ、たとえそなたに罪があ
いのけるがよい。神様はそなたのとうてい考え及ばぬよ
たすら怠りなく、懺悔精進して、恐ろしいという心を追
愛でさえ追っつかぬような罪でもあるというのか?
ひ
そんな大きな罪が犯せるものではない。それとも神様の
らっていなさるちゅうこんだで、ちょっとお見舞いにと
ええおかたではないとみえるだ。村ではおまえ様がわず
ね?
え様のところへ参じますだに、お忘れなされましただか
﹁おまえ様を一目拝みに参じましただ。わしはようおま
くたびれたじゃろう。何の用じゃな?﹂
﹁それは六露里からあるところを、子供を抱いて、さぞ
﹁ウィシェゴーリエから参じましたよ﹂
のだった。
飲み子を抱いた丈夫そうな一人の女を、機嫌よく眺める
ま地にぬかずいて伏し拝んだ。長老は立ち上がると、乳
像をはずして、それを女にかけてやった。女は無言のま
彼は女に三度まで十字を切ってやり、自分の首から聖
れることはない﹂
罪でさえ贖うことができるのじゃ、さあ帰りなされ、恐
を買うこともできる。自分の罪はいうまでもなく、人の
ぶべつ
救う。 現にわしのようにそなたと同じく罪深い人間が、
思って参じましただ。 ところがお目にかかってみれば、
つれあい
そなたの身の上に心を動かして、そなたをあわれんでお
なんの御病気どころか、まだこのさき二十年でも生きな
わしを忘れなされたとすりゃ、あんまり物覚えの
るくらいじゃもの、神様はなおのことではないか。愛は
されますよ、本当に。どうか息災でいておくんなさりま
あがな
まことにこのうえもない宝で、これがあれば世界じゅう
79
し! それにおまえ様のことを祈っておる者は大ぜいあ
ぜよう。抱いておるのは娘かな?﹂
の美しい心がけが気に入った。必ずそのとおりにして進
﹁ありがとうよ、かみさん、ありがとう。わしはそなた
よう御存じじゃから、となあ﹂
らい申したほうがええ、 あの方は誰にやったらええか、
へ来てから考えましただ、長老様に頼んで、渡しておも
しより貧乏な女子衆にくれてやってくださりまし。ここ
うら、ここに六十カペイカござりますだで、これを、わ
﹁ついでに一つ、ちょっくらお願いがござりますだよ。そ
﹁いや、いろいろとありがとう﹂
ざりましねえだよ﹂
民はあなたを愛しています。わたくしは自分でも人民を
できなかった。
﹁ああ、わたくしにはよくわかります、人
う⋮⋮﹂彼女は感動のために、最後まで言いきることが
した、ほんとにどんな切ない思いをいたしましたでしょ
﹁わ た く し は た だ い ま の 美 し い 光 景 を 残 ら ず 拝 見 し ま
それを迎えた。
長老が彼女のほうへ近づいたとき、彼女は歓喜に 溢 れて
格をもった、 濃 やかな感じの上流婦人であった。やがて
カチで拭いていた。それは多くの点でまことに善良な性
さまを残らず打ち見やりながら、静かに流れる涙をハン
旅の地主の婦人は下層民との会釈や、その祝福のあり
﹁娘でござります、長老様、リザヴェータと申しますだ﹂
愛します、いえ、愛そうと思っております。あの偉大な
四 信心の薄い婦人
﹁神様がそなたたちふたりに、そなたと 稚 ないリザヴェー
中にも美しい単純なところのあるロシアの人民を、どう
りますだで、おまえ様がわずらいなどなされるはずがご
タとに祝福をたれたまわんことを。ああ、おっかさん、そ
して愛さないでいられましょう!﹂
こま
なたのおかげで心が晴れ晴れしてきましたわい。ではさ
﹁お嬢さんの御健康はいかがですな? あなたはまた、わ
いと
あふ
ようなら、皆の衆、さようなら、大事な愛 しい皆の衆!﹂
しと話がしたいと言われるのかな?﹂
いとけ
彼は皆の者を祝福して、一同に丁寧に会釈した。
80
日からすっかりなくなりまして、これでもう二昼夜少し
﹁ですけれど、夜ごと夜ごとの発熱は、ちょうどあの木曜
んはやはり椅子に寝ておられるではござりませぬか?﹂
﹁どうしてなおしたとおっしゃられるのかな? お嬢さ
ために、急いでまいった次第でございます!﹂
わたくしどもの心持を、敬慕の念を汲みとっていただく
はございませんか。わたくしどもはそのお手を接吻して、
てくださいまして、お手を頭へ載せてくだすっただけで
た。それもあなたは、ただ木曜日にこの子のお祈りをし
おしてくださいました、すっかりなおしてくださいまし
めにまいったのでございます。あなたは宅のリーザをな
この歓びに溢れた感謝の心を、腹蔵なくお目にかけるた
として待っている覚悟でございました。わたくしどもは
お窓の外にこの膝を地べたについたまま、三日でもじっ
でございます。わたくしはあなたのお許しが出るまでは、
﹁ええ、わたくしはむりやりにたってお願いいたしたの
それまで笑っていたリーズの愛くるしい顔は、急にま
し上げないかえ、お礼を!﹂
ていらっしたのでございますか?
飛んで来て礼など言わなければいいが、とお思いになっ
は、わたくしどもがお邪魔をしなければいい、こちらへ
り申しているのでございますよ。それですのにあなた様
肩をすくめながら、驚いた、どうもいぶかしい、とばか
お医者のヘルツェンシェトウベさんを呼びましたところ、
たくしと 賭 をしたのでございます、わたくしがこの町の
はもう二週間もしたら 四班舞踏 を踊ると申しまして、わ
もつかまらないで立っていたのでございますよ。この子
のでございます。そしてまる一分間、自分一人で、何に
ます。今日はどうしても立たせてくれと申して聞かない
はにこにこと、いかにも上機嫌で、嬉しそうにしており
さいまし。いつも泣いてばかりおりましたものが、今で
色を見てくださいまし、この生き生きした眼を御覧くだ
きましたときなどぴんぴんいたしておりました。この血
カドリール
も起こらないのでございます﹂と夫人は神経的にせきこ
じめになった。彼女はできるだけ肘椅子の上にからだを
かけ
みながら言った。
﹁そればかりか、足までしっかりいたし
浮かせて、長老の顔を見つめながら、彼の前に手を合わ
リーズや、お礼を申
ました。昨晩はぐっすりとよく休みましたので、けさ起
81
﹁カテリーナ・イワーノヴナが、あたしの手からこの手
した。リーズはもったいらしい顔つきをした。
悪そうな薄笑いを浮かべながら、彼女の方へ手を差し出
リョーシャはリーザに近寄ると、なんとなく妙な、間の
とふり返ると、急にアリョーシャをじっと見つめた。ア
袋をはめた手を差し出しながら、語をついだ。長老はつ
突然、母夫人はアリョーシャのほうを向いて、美しく手
ことずかりものをしていますのよ⋮⋮御機嫌はいかが?﹂
﹁アレクセイ・フョードロヴィッチ、この子はあなたに
であろう。彼の眼はぱっと輝いて伏せられた。
は、一瞬にして彼の両頬を染めた紅潮に気がついたこと
長老の一歩後ろに立っているアリョーシャを眺めたもの
て、 アリョーシャを指さした。 誰にもせよ、 このとき、
子供らしいいまいましさを浮かべながら、彼女はこう言っ
我慢がならなくなって笑いだしてしまった自分に対して、
﹁あたしあの人のことを笑ったのよ、 そらあの人よ!﹂
せた。が、こらえきれなくなって、突然笑いだした。
リョーシャは依然として合点のいかぬ様子でことばを続
﹁僕はあの人にはたった一度会ったきりですよ﹂と、ア
リスト教的感情の命令ですもの﹂
と、そうしておあげになりますわね。だって、それはキ
でしたよ。あなたもそうしておあげになるでしょう、きっ
れはむろん、存じませんが、なんでも至急にってお頼み
なければならないんですって⋮⋮どうしてですか?
すの⋮⋮けれど、そのためにぜひあなたにお目にかから
リーナ・イワーノヴナは今ある決心をしていらっしゃいま
でしょうよ﹂ と母夫人はかいつまんで説明した。﹁カテ
それから近ごろ起こったいろんなことで御相談があるの
﹁それは、ドミトリイ・フョードロヴィッチのことや⋮⋮
心配そうになった。
を浮かべながら、こうつぶやいた。彼の顔は急にひどく
が⋮⋮どうしてだろう?﹂アリョーシャは深い驚きの色
﹁あ の 人 が 僕 に 来 て く れって ?
てくださいって﹂
いっておっしゃったわ。どうぞ 瞞 さないでぜひいらっし
だま
紙をあなたに渡してくれって﹂と彼女は小さな手紙を差
けた。
そ
あの人のところへ僕
し出した。﹁そしてね、 ぜひ、 至急に寄っていただきた
82
派なかただと思っていたの。だから今そのことを言うの
派なかたなんでしょう!
るんですものって。まあ本当に、あなたはなんという立
ことがあっても行きゃしない、あの人はお寺で行をして
あたしお母さんにそう言ってたのよ︱︱︱あの人はどんな
のよ﹂不意にリーズは活気づいてこう叫んだ。﹁だって、
﹁ああ、それはあなたとして本当に美しい、立派なことな
の説明もしていなかった。
あたしね、いつもあなたを立
て見たが、ぜひとも来てくれという依頼のほかには、何
きっぱり言って、短い 謎 のような手紙にざっと眼を通し
﹁よろしい、では僕まいりましょう﹂とアリョーシャは
ですわ、恐ろしいことですわ!﹂
を待ち受けているか⋮⋮ほんとに何もかも恐ろしいこと
ていらっしゃるか、そしてこの先どんなことがあのかた
んなに苦労をしていらっしたか、またどんなに苦労をし
もねえ⋮⋮まあ、考えても御覧なさいな、あのかたがど
うなかたですわ!⋮⋮あのかたの苦しみだけからいって
﹁ほんとにあのかたは高尚な、とてもまねもできないよ
て来たとのことであった。長老はこの僧を祝福して、い
のいないという、貧しい聖シルヴェストル寺院からやっ
北の果てのオブドルスクにあって、わずか十人しか僧侶
持った僧の一人である。そのことばによれば、彼はずっと
い世界観をいだいてはいるが、それだけに頑固な信仰を
僧らしかった。つまり身分も低くて、単純で危なげのな
を始めたのである。それは見たところ、きわめて質朴な
ズの椅子のかたわらで自分を待っていた、旅の僧と問答
を見守ってはいなかった。彼は、前に述べたとおり、リー
だかわからない微笑を浮かべた。けれども長老はもう彼
た急にまっかになって、それからまた突然、自分でもなぜ
よ﹂アリョーシャは伏せていた眼をちょっと上げたが、ま
御いっしょにいるときだけ気分がいいって申しましたの
ろが、リーズはもう二度もわたしに向かって、あなたと
とも宅へいらしてくださらないじゃありませんの。とこ
たのね、アレクセイ・フョードロヴィッチ、あなたはちっ
﹁あなたはすっかりわたしたちを忘れておしまいになっ
すぐににっこり笑った。
﹁リーズや!﹂ と母夫人はたしなめるように言ったが、
なぞ
が、とてもいい気持なのよ!﹂
たとしても、それは誰の力でもなく、ひとえに神様のお
かもしれませぬでな。しかし、たとえ何かききめがあっ
たわけではないし、それにまた、何か他に原因があるの
せんじゃ。少し軽くなったからとて、すっかりなおりきっ
﹁これについてはもちろん、まだ語るべき時ではありま
は彼女の﹃治療﹄のことをほのめかしたのである。
ものものしい態度で、リーズを指しながら尋ねた。それ
でございますか?﹂と僧はだしぬけに、非難するように
﹁あなたはどうしてあんなことを思いきってなされるの
つでも都合のいいときに庵室をたずねてくれと言った。
いう資格があるのじゃ。すべての公明な人、すべての聖
合わせな人間は、自分はこの世で神の遺訓を果たしたと
福 のために創 幸
られた者ですからな。それで、本当に仕
ほど、わしにとって嬉しいことはありませんわい。人の
そうな顔をしておると言われたが、そう言っていただく
見抜いておりますのじゃ。あなたはわしがたいへん楽し
ますじゃ。わしはもう今では自分の病気を間違いなしに
つかの間のことじゃ、それはわしにもようわかっており
﹁今日わしは珍しく気分がよいが、しかしそれはほんの
きをしておいでになるではございませんか﹂
そうお丈夫そうで、楽しそうなお仕合わせらしいお顔つ
病身のことで、もうわしの命数も数え尽くされておるの
う勇ましい高遠なおことばでございましょう!﹂と母夫
﹁ああなんというおことばでございましょう、なんとい
つく
ぼしめしじゃ。何もかも神意から出ているのじゃ。とき
徒、すべての殉教者は、みなことごとく幸福であったの
しあわせ
にぜひおたずねくだされ﹂と彼はつけたして僧に言った。
じゃから﹂
人は叫んだ。﹁あなたのおっしゃることは、 いちいちわ
じゃ﹂
﹁いいえ、いいえ、神様はけっしてわたくしどもからあ
ああ、 あなたがもしわたくしどもに今日、
しあわせ
たくしの心を突き通すようでございます。 ですけれど、
ましょう?
しあわせ
なたを奪い取りはなさいませぬ。あなたはまだ長く御存
お見受けしたところ、たい
福 ⋮⋮幸
幸
福 ⋮⋮それはいったいどこにあるのでござい
悪いのでございましょう?
命になりますとも﹂と母夫人が叫んだ。
﹁それにどこがお
﹁でないと、いつでもというわけにはまいりませぬでな。
83
84
えもいたしません。けれど来世︱︱︱それが大きな謎でご
﹁いいえ、違います、違います、そんな大それたことは考
﹁神を信じなさらぬのかな?﹂
す⋮⋮﹂
﹁わ た く し の 悩 ん で お り ま す の は⋮⋮不 信 で ご ざ い ま
﹁とりわけ何ですかな﹂
かられて、夫人は長老の前に両手を組み合わせた。
おりますのは⋮⋮﹂こう言いながら熱烈な感情の発作に
でおりますのは、お許しくださいまし、わたしが悩んで
しの悩みの種をお聞きくださいまし!
わたくしが悩ん
きってよう申し上げなかった、長い長いあいだのわたく
れますのなら、この前申し上げなかったことを︱︱︱思い
二度目の対面をお許しくださるほど、御親切でいらせら
﹁まあ、ほんとにありがとうございます!
までも信じきっておりますじゃ﹂
老が答えた。
﹁わしはあなたの悩みの真実なことを、どこ
﹁わしの思わくなぞ懸念することはありませんぞ﹂と長
夫人は思わず手を打った。
くしをどんな女だとお思いあそばすでございましょう!﹂
えいたします⋮⋮。まあ、ほんとにあなたは、このわた
けれども今、わたくしは思いきってあなたにこれをお訴
たらよいか、生涯わたくしは存じ及びませんでした⋮⋮
すのでございます⋮⋮それだのに誰にこの苦しみを訴え
えが、苦しいほど、恐ろしいほど、わたくしの心をかき乱
断言いたします。ほんとにこの来世という謎のような考
ことを申し上げるのではないことは、どこまでも立派に
んけれど、けっして軽はずみな考えで、ただいまこんな
いまし。あなたはお医者でいらっしゃいます、あなたは
答えてくれる者がございません!
たら、どこからそれを得たのでしょう?
ざいます︱︱︱もしすべての人が信仰を持っているのだっ
たくしはよく目をつぶって、こんなことを考えるのでご
それで、わ
ざいます! これに対しては誰ひとり、誰ひとりとして
人の心をお見抜きになるかたでいらっしゃいます。わた
説くところでは、すべてそれは、初め自然界の恐ろしい
どうぞお聞きくださ
くしは、もちろん自分の申し上げることを残らず信じて
現象に対する恐怖の念から起こったもので、本来は何も
ある人たちの
いただこうなどという、大それた望みは持っておりませ
85
墓の上に 山牛蒡 が生えるばかり﹄であったら、まあどう
て、 ある小説家の書いたもので見ましたように、﹃ただ
しても、死んでしまえば急に何もかもなくなってしまっ
で、わたくしそう思いますの︱︱︱こうして一生、信じ通
あるものではないというのだそうでございます。ところ
きぬが、信念を得ることならばできますぞ﹂
かし、それについては証明するということはとうていで
﹁それは疑いもなく死ぬほどつらいことですじゃ! し
は死ぬほどつろうございます、死ぬほど!﹂
だけ、それが耐えられないのでございます。本当にそれ
心を煩わしている人はありません。ただひとりわたくし
す。だって、もしこの機をのがしましたなら、生涯わたく
お尋ねしようと存じて、お邪魔にあがったのでございま
今日わたくしはあなたのお前にひれ伏して、このことを
たら、本当にどうしたらこのことが証明できましょうか、
く機械的に信じていたのにすぎませんけれど⋮⋮どうし
ほんの小さい子供のころだけで、それもなんの考えもな
しら?
たの心に忍びこむことはできませんのじゃ。これはもう
や疑いもなく信仰が得られたので、いかなる疑惑もあな
完全な自我の否定に到達したならば、その時こそ、もは
るようになりますのじゃ。もし隣人に対する愛において、
すむにつれて、神の存在も自分の霊魂の不滅も確信され
く愛するようにつとめて御覧なされ。その愛の努力がす
﹁それは実行の愛じゃ。あなたの隣人を実際に、根気よ
ざいましょうか?﹂
やまごぼう
でございましょう。それは恐ろしいことでございます!
﹁どうしたら?
しの問いに答えてくれる人はございませんもの。どうし
実験ずみの、確かな方法なのじゃから﹂
どういう風にいたしたらよろしゅうご
本当にどうしたら信仰を呼び戻すことができましょうか
たら証明ができましょうか、どうしたら信念が得られま
﹁実行の愛? それがまた問題でございます。しかもたい
もっとも、 わたくしが信じておりましたのは、
しょうか? ほんとにわたくしは薄
倖 でございます。じっ
へんな問題でございます!
ふしあわせ
と立ってぐるりを眺めましても、みんな、たいていの人
き、自分が持っているいっさいのものを投げすて、リー
長老様、わたくしはときど
が平気な顔をしています、今ごろ誰ひとりそんなことに
86
ん苦しい問題なのでございます。わたくしは目をつぶっ
な問題でございます!
の熱烈な調子でことばを続けた。﹁これがいちばん大切
るでございましょうか?﹂と、夫人はほとんど無我夢中
﹁けれど、わたくし、そういう生活に長くしんぼうでき
ありましょうわい﹂
これがわたくしにとっていちば
ちひょっくりと、何か本当によいことをなされるときも
だけでもたいへん結構なことじゃ。いや、いや、そのう
﹁ほかならぬそういうことを空想されるとすれば、それ
だらけの傷口を接吻することもできるくらいです⋮⋮﹂
洗ったりして、苦しめる人々の看護婦になるでしょう。膿
ないでしょう。わたくしは自分の手で傷所を包帯したり
どんな 膿 だらけの腫
瘍 も、わたくしを脅かすことはでき
とのできない力を感じるのでございます。どんな傷口も、
て空想しておりますと、わたくしは自分の中に押えるこ
人類を愛しているのでございます。じっとこう眼をつぶっ
ザも見すてて、看護婦にでもなろうかと空想するくらい、
﹁それはある医者がわたしに話したのとそっくりそのま
ことができません!﹂
ございます。これでなくては、わたくしは誰をも愛する
の賞賛と、愛に対する愛の報酬を要求いたしておるので
います。わたくしは即時払いの報酬を︱︱︱つまり自分へ
ちに申しますれば、わたくしは賃金目当の労働者でござ
れば、それはつまり忘恩そのものでございます。ひとく
的﹄な愛を、その場限り冷ましてしまうものがあるとす
のでございます︱︱︱もしわたくしの人類に対する﹃実行
たくしは胸をわななかせながらも、この疑問を解決した
続かないでしょうか?
まあ どう でしょう ?
ところで、どうでしょう︱︱︱わ
わたく しの 愛は 続く でしょう か、
くありがちのことでございます︶したら︱︱︱そのときは
げ口をしたりなど︵それはひどく苦しんでいる人に、よ
なりつけたり、無理な要求をしたり、誰か上役の人に告
もしないで、いろんなわがままを言って困らせたり、ど
りか、かえってわたくしの博愛的な行ないを認めも尊重
てやっている病人が、即刻に感謝をもって報いないばか
しゅよう
て、本当にそういう道を長く歩み続けられるかしら、と
まの話じゃ、もっともだいぶ以前のことですがな﹂と長
うみ
自分で自分に尋ねてみます。もしわたくしが傷口を洗っ
87
ちに、すぐれた人格者をすら憎みだしてしまうことがで
自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のう
へ近寄って来ると、すぐにその個性がこちらの自尊心や
は経験でわかっておる。相手がちょっとでも自分のそば
つ部屋に二日といっしょに暮らすことができない。それ
かねないほどの意気ごみなのだが、そのくせ、誰かと一
必要になったら、人類のためにほんとに十字架を背負い
むしろ奇怪なほどの想念に達して、もしどうかして急に
くなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、
とが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少な
分でもあさましいとは思いながら、一般人類を愛するこ
の人が言うには﹃わたしは人類を愛しているけれど、自
とも冗談にではあったが、痛ましい冗談でしたわい。そ
を、あけすけに打ち明けたことがありますのじゃ。もっ
く賢い人であったが、その人があなたと同じようなこと
老が言った。
﹁それはもういいかげんの年配の、紛れもな
も到達されることはありませんぞ。すべてが空想にとど
とすれば、もちろんあなたは実行的な愛の道で、何物に
たのも、その誠実さをわしに 褒 めてもらいたいがためだ
なりますのじゃ! がもし、今あのように誠実に話され
からには、もはやあなたは多くのことを行なったわけに
れほど深く、真剣に自分というものを知ることができた
うちに、うまく帳尻が合ってきますのじゃ。あなたがそ
さんなのじゃから。できるだけのことをなされば、その
て、そのように苦しみなされる⋮⋮ただそれだけでたく
﹁いや、そうではないのじゃ。あなたがこのことについ
それでは絶望するほかないではございませんか?﹂
な場合にはどうしたらよろしいのでございましょうか?
﹁ですけれど、どうしたらよろしいのでしょう?
ういう話なのじゃ﹂
類全体に対する愛はいよいよ熱烈になってくる﹄と、こ
わり、個々の人間に対する憎悪が深くなるに従って、人
分に触れると、たちまちその人の敵となるのだ。その代
そん
きる。ある者は食事が長いからとて、またある者は鼻風
まって、一生は幻のごとくにひらめき過ぎるばかりなの
ほ
邪を引いていて、ひっきりなしに 鼻汁 をかむからといっ
じゃ。やがては来世のことも忘れ果てて、ついには勝手
は な
て憎らしがる。つまりわたしは、他人がちょっとでも自
88
観察して、一時間ごと、いや一分間ごとにそれを吟味な
に対する偽りを避けなければなりませぬ。自分の偽りを
偽りを避けることじゃ、あらゆる偽り、ことに自分自身
はずさぬように心がけられたがよい。何より大切なのは
に立っておるということを覚えておって、その道を踏み
しや幸福にまでは至らぬにしても、いつも自分はよき道
かたで、善良な心を持っておいでだと信じますじゃ。よ
白をなされたからには、今こそわしは、あなたが誠実な
﹁あなたはしんから、そう言われるのかな? そういう告
取り押えて、わたくしに見せてくださいました!﹂
を知らせてくださいました。あなたはわたくしの正体を
にしておりました。あなたはわたくしに自分というもの
した時、自分の誠実さを褒めていただくことばかり当て
らずな仕打ちを我慢することができないと白状いたしま
ははじめて気がつきました。ほんとにわたくしは、恩知
た! たった今あなたにそうおっしゃられて、わたくし
﹁あなたはわたくしをおしつぶしておしまいなされまし
りますわい﹂
なあきらめに安んじてしまわれることはわかりきってお
と忍耐じゃ。またある人にとっては一つの立派な学問か
ころが、実行の愛となると、これはとりもなおさず労働
棒に振っても惜しくない、というほどになるのじゃ。と
見て感心してもらいたいが山々で、それがためには命を
上かなんぞのように、一刻も早くそれが成就して、人に
ることを望むものじゃ。実際、極端なのは、まるで舞台の
からな。空想的な愛は急速な功績を渇望し、人に見られ
愛に比べると、なかなか困難な、そして恐ろしいものじゃ
きないのは残念じゃが、なにしろ実行的な愛は空想的な
んじゃ。どうもこれ以上に愉快なお話しをすることがで
の良からぬ行ないも、あまり恐れなさることはありませ
量を恐れなさるな。そればかりか、その際に犯した自分
のじゃが。また愛の到達についても、けっして自分の狭
ぞ︱︱︱もっとも、恐怖はすべて偽りの結果にほかならぬ
じゃ。恐怖もやはり同じように避けなければなりません
に気づいたという一事で、すでに清められておりますの
心の中にあってきたなく思われるものも、あなたがそれ
も、あまり潔癖すぎるのもよくありませんぞ。あなたの
さるのじゃ。それから、他人に対しても、自分に対して
89
んが初めからしまいまでふざけておられたのを、わしは
﹁お嬢さんは愛を受ける値打ちがありませんじゃ。お嬢さ
まし、祝福して!﹂不意に彼女は飛び上がった。
﹁リーズを、リーズを、どうぞあれを祝福してください
夫人は泣いていた。
る人がありますでな。さようなら﹂
お話しをしておるわけにまいりませぬのじゃ、待ってお
認められるのじゃ。御免なされ、もうこれ以上あなたと
たを導かれた神の奇跡的な力を、自己の上にはっきりと
れるのじゃ。そして絶えずあなたを愛し、ひそかにあな
る時、そういう時、あなたは忽然として目的に到達せら
えってそれから遠のいて行くような気がして、 慄然 とす
うに努力しても目的に達することができぬばかりか、か
もしれぬ。しかし前もって言っておきますがの、どのよ
つめながら、彼が自分のほうへふり向くのを一心に待ち
子から身を乗り出すようにして、横手からじっと彼を見
ほうへふり返って見た。するとリーズはほとんど安楽椅
力に引き寄せられて、自分を見ているかどうかと、娘の
れてしまった。数分の後、彼はまた同じ打ち勝ちがたい
まいには、彼はすっかり顔をそむけて、長老の後ろへ隠
シャはいっそう 羞 かんで焦 れるのであった。とうとうし
がら、勝ち誇ったような微笑をにっと浮かべる。アリョー
見やる。とたちまち彼女はまともに相手の顔を見つめな
がたい力に引きずられて、不覚にも自分から娘のほうを
つこく自分に注がれた視線に耐えきれないで、打ち勝ち
えて、相手の視線を捕えようとした。アリョーシャはし
にはひどくおもしろかったのだ。彼女は根気よく待ち構
のほうを見まいとしているのに気がついた。それが彼女
きから、アリョーシャが彼女に 羞 かんで、なるべく彼女
はに
ちゃんと知っておりますぞ﹂と長老は冗談まじりに言っ
構えていたのだ。 そこでまんまと彼の視線を捕えると、
りつぜん
た。
﹁あんたはどういうわけで、しじゅうアレクセイをか
長老ですら我慢がならないような笑い声をあげてしまっ
じ
らかいなさったのじゃ!﹂
たのである。
はに
事実リーズは初めからしまいまでその 悪戯 に心を奪わ
﹁どうしてあんたはこの人にそう恥ずかしい思いをさせ
いたずら
れていたのである。彼女はもうとうから︱︱︱この前のと
90
しゃべりだした。
女はいきり立った不平満々たる調子で、早口に神経的に
を輝かした。彼女の顔は恐ろしくきまじめになった。彼
リーズは突然、全く思いがけなくまっかになって、目
なさるのじゃな、 悪戯 っ 児 さん?﹂
そして彼女は不意にこらえきれなくなって、片手で顔
ないの⋮⋮﹂
んな 裾 の長い法衣を着せたの⋮⋮駆け出したら転ぶじゃ
しているんですもの!
くれるのなら⋮⋮いいえ、だめだわ、あの人は今、行を
に思い出してくれるのが本当だわ、もし忘れないでいて
こ
﹁じゃあ、どうしてこの人は何もかも忘れてしまったの?
を隠すと、持ち前の神経的な、からだじゅうをゆすぶる
いたずら
だって、この人はあたしが小さいころ、よくあたしを抱
ような、声を立てぬ長い笑い方で、激しく、とめどなく
だけど、なんだってあの人にあ
いて歩いたり、いっしょに遊んだりしたのよ。それから
笑い続けるのであった。長老は微笑を含みながら彼女の
すそ
家へ来てあたしに読み方を教えてくれたのよ、あなたは
ことばを聞き終わると、 優しく祝福してやるのだった。
二年前に別れるときも、あたしのこと
それを御存じ?
自分の眼に押し当てて泣きだした。
リーズは長老の手に接吻しようとした時、突然その手を
﹁ね、あたしを怒らないでちょうだい、あたしはばかだ
はけっして忘れない、二人は永久に、永久に、永久に親
から、なんの値打ちもないのよ⋮⋮アリョーシャがこん
それだのに、今になって急にあた
しをこわがりだしたんですもの。あたしがこの人を取っ
友だって言ったわ!
どうしてあたしの
なおかしな女のところへ来たがらないのも、もっともか
て食べるとでもいうのでしょうか?
な
そばへ寄って、お話をしようとしないんでしょう?
もしれないわ、いいえ本当にもっともだわ﹂
﹁いや、わしがぜひとも行かせますじゃ﹂と長老がきっ
あなたがお
出しなさらないの?
ぱりと言いきった。
ぜこの人は家へ来てくれないんでしょう?
歩くことは、あたしたちようく知っててよ。あたしのほ
だって、この人がどこへでも出て
うからこの人を呼ぶのはぶしつけだから、この人から先
91
五 アーメン・アーメン
長老が庵室を出ていたのはおよそ二十五分くらいだっ
た。もう十二時半を回っているのに、この集まりの主要
人物たるドミトリイ・フョードロヴィッチはいまだに姿を
見せなかった。しかし一同はほとんど彼のことなど忘れ
てしまった形で、長老が再び庵室へはいって来たときに
は、恐ろしく活気のある談話が客のあいだに取りかわさ
れていた。その話の牛耳をとっていたのはイワン・フョー
ようかい
ドロヴィッチと二人の僧であった。見受けるところ、ミ
ウーソフも熱心にその話に 容喙 しようとしていたのだが、
この時もまた彼は運が悪かった。どうやら彼は二流どこ
ろの役割しか当てがわれていないらしく、彼のことばに
うっせき
は答えるものもあまりなかった。この新しい情勢が、し
だいに 鬱積 した彼の癇癪を、ますます募らせるばかりで
あった。彼はもう以前からイワン・フョードロヴィッチ
と学識のせり合いをしていたのだが、相手の示す粗略な
態度を、冷静に我慢することができなかったのだ。
﹃少な
くとも、今日までわれわれはヨーロッパにおける、いっ
けいべつ
はら
さいの進歩の頂上に立っていたのに、この青二才が思い
きりわれわれを 軽蔑 してやがる﹄と彼は 肚 の中で考えた。
さっき、椅子にじっと腰をおろして、口をつぐんでいる
ことを誓ったフョードル・パーヴロヴィッチは、本当にし
ばらくのあいだは口を開かなかったが、人を小ばかにし
たような薄笑いを浮かべて、隣りに坐っているミウーソ
フをじろじろ眺めながら、そのいらいらした様子にすっ
かたき
かり喜んでしまっている様子であった。彼はずっと前か
ら何か 敵 を討ってやろうと待ち構えているのだから、こ
の好機会を見のがすことはできなかった。とうとうしん
ぼうがしきれなくなって、ミウーソフの肩へかがみこみ
ながら、小声でもう一度彼をからかった。
﹁あんたがさっき﹃いとしげに接吻しぬ﹄の後ですぐ帰
そ
らないで、こうした無作法な仲間といっしょに踏みとど
まるようになられたのはどういうわけでしょうな?
れはほかでもない、あんたは自分が卑しめられ、侮辱さ
れたような気がするものだから、その意趣返しに、一つ
利口なところを見せつけてやろうと思って踏みとどまっ
たのでがしょう。もうこうなっては、利口なところを見
92
﹁このかたの至極珍しい論文の話をしておるところでご
目的だろうか? アリョーシャはじっと彼に目を注いだ。
のうえ、何かまだ目的があるらしい、︱︱︱さて、どんな
に彼はこの集まりを解散させたくなさそうであった。そ
今その顔に広がって、唇も白けていた。しかし、明らか
ることがあった。その卒倒の前と同じような青白い色が、
てとった。近ごろ彼は体力の衰弱から、ときどき卒倒す
しく疲れ果てて、やっと我慢していることを明らかに見
情を研究し尽くしたアリョーシャは、このとき彼が恐ろ
ひとわたり見回した。長老の顔の、ほとんどすべての表
と、さあお続けなさいと愛想よく勧めるように、一同を
論争は一瞬間はたとやんだが、長老は以前の席に着く
と刺した。ちょうどその時、長老が戻って来たのである。
て!﹂フョードル・パーヴロヴィッチはもう一度ちくり
﹁どうして、どうして、いちばん後からお帰りでしょう
﹁またですか? なんの、今すぐにも帰りますよ﹂
なあ﹂
せないことには、お帰りになるわけにはいきませんから
深いところがあり、底意らしいものは少しもなかった。
悪丁寧さではなく、つつましく、控え目で、著しく用心
アリョーシャが心配したように、上から見下したような
イワンはやがてそれに返事をしたが、その調子は前夜
な?﹂と長老はイワン・フョードロヴィッチに尋ねた。
﹁それは珍しいが、ところでどのような意味あいですか
ておられるらしいのでございます﹂
会裁判の問題について、教会と国家の区別を全然否定し
ざいます﹂と司書の僧は語をついだ。
﹁つまり、教会的社
﹁このかたの立脚されている点はなかなかおもしろうご
めながら、こう答えた。
じっと鋭い目つきでイワン・フョードロヴィッチを見つ
しかしその話はかねがね聞いておりましたわい﹂長老は
﹁残念ながら、わしはその論文を読んでおりませんじゃ。
答えて、雑誌に論文を発表されましたので⋮⋮﹂
の問題について、一冊の書物を著わしたある桑門の人に
ございます。このかたは教会的社会裁判とその権利範囲
しい説が述べてありますが、根本の思想は 曖昧 なもので
チを指しながら、長老を顧みてこういった。
﹁いろいろ新
あいまい
ざいます﹂司書の僧ヨシフがイワン・フョードロヴィッ
93
的とならねばならぬ、とこう論駁したのであります﹂
キリスト教社会の今後の発展に対する直接かつ重要な目
の理由でそれが不可能であっても、その根本においては、
かな一隅を占めるべきものではない、たとえ今は、何か
身の中に国家全体を包含すべきであって、国家の中に確
と断定しておられますが、僕は反対に、教会こそそれ自
は、教会が国家の中に確然たる一定の地歩を占めている
言って不可能であります。僕が 弁駁 を試みた僧侶のかた
おいて国家と教会とが妥協することは、純粋な本質から
いるからであります。たとえば裁判というような問題に
と言いますのは、そもそもその根本に虚偽が横たわって
慢のできる状態に導くことすらできないのであります。
可能なことで、正常な状態に導くどころか、幾分でも我
う仮定から出発しているのです。もっともそれは全然不
な二者の本質の 混淆 は、むろん、永久に続くだろうとい
﹁僕はこの二つの要素、すなわち教会と国家という別個
﹁わたくしはあなたの論駁されたあの本を読んで﹂ と彼
パイーシイ神父は我慢がしきれないで、また口を出した。
﹁桑門の人にあるまじき言語の遊戯でございます!﹂と
の王国にあらず﹄というのでございます!﹂
と両立することを得ず﹄最後に第三は︱︱︱﹃教会は現世
神の制度にかかるものとして、その性質上、かかる権利
および民事裁判権は教会に属すべからず。かつ、教会は
あたわず、 かつまた所有すべからず﹄ 第二は⋮⋮﹃刑事
の民法的、並びに政治的権利を支配する権力を所有する
命題は、
﹃いかなる社会的団体といえども、自己の団体員
命題を弁駁しておられる点に御注意なされませ。第一の
た、論敵たる僧侶の、次のような根本的かつ本質的なる
長老のほうを向きながら語をついだ。
﹁なかんずくこのか
せんよ!﹂と司書の僧ヨシフ師が叫んだ。そしてさらに
﹁なんですと!
んだ。
わるがわる両方の足を置き換えながら、ミウーソフが叫
こんこう
﹁全然公正なる御意見です﹂と、無口で博学な僧パイー
はイワン ・ フョードロヴィッチのほうを向いて、﹁あの
それに第一、ロシアには山などありま
シイ神父が、強い神経質な声で口をはさんだ。
僧侶の﹃教会は現世の王国にあらず﹄ということばには
ウルトラモンタンストオ
べんばく
﹁純然たる法
王集権論 ですよ!﹂と、じれったそうにか
94
フョードロヴィッチは敬意と関心をもって、そのことば
彼は急に自制するもののように口をつぐんだ。イワン・
す!⋮⋮﹂
それは、われわれが神より誓約されていることでありま
く全世界に君臨する天国とならなければなりません︱︱︱
ているのであります。そして、究極においては疑いもな
です。教会は真に王国であり、王国たるべき使命を持っ
における俗世間的地口は不可能で、かつあるまじきこと
を通るよりほかには道がありません。それゆえこの意味
んが、そこへはいって行くには、地上に立てられた教会
なく、この世のものでなく、天上にあるに違いありませ
建てるためにおいでなされたのです。天国は言うまでも
です。主イエス・キリストは正しく、この地上に教会を
ん。このようなことばをもてあそぶとはあるまじきこと
ばは、そのような意味で用いられているのではありませ
か。聖書の中にある﹃この世のものならず﹄ということ
の地上に教会は全然存在するはずがないではありません
一驚を喫しました。もし現世のものでないとすれば、こ
であります。つまり全世界を、したがって、あらゆる古
に向かって進むよりほかなかったことは疑いもない事実
によっていったん固く定められかつ示された究極の目的
基礎のうち一物をも譲歩することを得ずして、上帝自身
たとしても、自己の立っている土台石、すなわち根本の
れです。しかるに、キリスト教会は国家の組織にはいっ
した。たとえば、国家の方針とか基礎とかいうものがそ
には異教的な文明や知識の遺物がたくさんに残っていま
うなるべきだったのです。しかし、国家としてのローマ
たる異教国として存在を続けたのです。本質上、ぜひこ
含したのみで、多くの施政に 顕 われたその本質は、依然
教国にはなったけれど、それは単に国家の中へ教会を包
て次のような事実が生じました。ローマ帝国はキリスト
リスト教国になる望みを起こしたとき、必然の結果とし
ぎなかったのです。ところが、ローマという異教国がキ
は単に教会として地上に出現して、単に教会であるにす
ちキリスト教発生以来二、三世紀のあいだ、キリスト教
﹁つまり僕の論文の要旨はこうなのです。古代、すなわ
しはしした率直な調子で言った。
あら
を聞き終わると、落ち着き払って、しかし依然としては
95
しょう。ところが、もし著者が現に提唱しており、かつ
ぎないと見たならば、彼の判断も正しいものになったで
代においては避けることのできない、一時的の妥協にす
たって、それを、まだ現今のような罪障多き未完成な時
の基礎﹄の著者が、これらの根拠を発見し提唱するに当
になるのです。こういうわけで、もし﹃教会的社会裁判
道から、永遠の目的に達する唯一の正しき道へ導くこと
奪いもしないばかりか、かえって誤れる異教的な虚偽の
たる名誉をはずかしめもしなければ、その君主の栄光を
であります。しかも、それはけっしてその国家の大帝国
の目的と両立しないような、あらゆる目的を排除すべき
に全然同化し、単なる教会そのものになりきって、教会
なくして、かえってあらゆる地上の国家こそ、結局教会
いる︶としても、国家の中に一定の地歩を求むべきでは
間の団体﹄︵僕の論敵は教会のことをこう言い表わして
て︶教会は﹃社会的団体﹄または、
﹃宗教目的を有する人
ります。かくのごとくにして︵つまり未来の目的におい
い異教国を打って一丸として教会に化してしまうのであ
家が究極において単に教会そのものとなるべきでありま
の形をとって国家へ同化するのではなくして、反対に国
えなり、希望なりによりますと、教会が下級から上級へ
行なわれておる事実であります。しかし、ロシア人の考
しょう。これは現今のヨーロッパの各地いたるところに
がわれて、それも一定の監視のもとに置かれるでありま
すれば、教会のために国家のほんのわずかな一隅が当て
なければならないのです。もし、それをいとって、反抗
だの、文明だのというものにけおされて、滅びてしまわ
に、国家の中へ同化されて、結局、科学だの、時代精神
ば、教会は、下級のものが上級のものに形を変えるよう
においてあまりにも喧伝されてきたある種の理論に従え
語に力を入れながら、再び口をはさんだ。
﹁わが十九世紀
﹁つまり簡単に申しますと﹂パイーシイ神父は、一語一
部です﹂
なるのであります。これが僕の論文です、その概要の全
のものに反抗し、その永久不変の使命に 背馳 することに
りにも口幅ったいことを広言する限りは、すでに教会そ
論拠を目して、永久不変の本質的原理であるなどと、仮
はいち
ただいまヨシフ神父によってその一部を数えあげられた
96
でも教会は流刑や死刑を宣告するようなことはしないで
﹁もし今でも教会的社会裁判だけしかなかったなら、今
するようになるのじゃないかと考えたんですよ﹂
を裁判して、 笞刑 や流
刑 や、悪くすると死刑の宣告さえ
れをまじめなことだと思って、教会はこれから刑事事件
こやら、むしろ社会主義に似ていますね。僕はまた、そ
ものの根絶を予想する美しい 理想郷的 な空想ですね。ど
はまあ 御意 のままに。戦争や外交官や銀行などといった
れる、やたらに先のほうにある理想のようですね。それ
は、どうやらそれはキリスト再生のときにでも実現せら
置きかえながら、にやりと笑った。
﹁僕の考えるところで
出てきましたよ﹂とミウーソフはまた足をかわるがわる
﹁いや、実のところ、そのお話を伺って僕も少々元気が
メン!﹂
す。神よ、まことにかくあらしめたまえ、アーメン、アー
ては同じことですが、それでもやはり、そう明白に告示
ませんか。これはもちろん、今日でも厳格な意味におい
リストの教会に対しても反旗を翻すことになるじゃあり
自分の犯罪によって、単に人間に対してのみならず、キ
も去ってしまわなければならないでしょう。つまり彼は
に人間社会から離れるばかりではなく、主キリストから
そのとき破門された人間は、今日の受刑者のように、単
された人間はいったいどこへ行ったらいいのでしょう?
は語り続けた。
﹁じゃあ、一つあなたに伺いますが、破門
なんか切らないでしょう﹂とイワン・フョードロヴィッチ
犯罪者や抵抗者を破門するだけにとどめて、けっして首
﹁もし国家全体が教会になってしまった暁には、教会は
を見すえながら言った。
﹁君はまじめなんですか?﹂と、ミウーソフはじっと彼
まばたき一つしないで、こう言った。
う⋮⋮﹂イワン・フョードロヴィッチは落ち着き払って、
ぎょい
しょう。また犯罪も、それに対する見解も、疑いもなく一
されているわけではありません。だから今の犯罪者の良
ユ ト ピック
変すべきはずです。もちろんそれは、今すぐさっそくに
心はきわめて容易に、自分と自分で妥協することができ
るけい
というわけではありません、しだいしだいにそうなるの
ます、
﹃おれはなるほど盗みをした。けれど教会に背くわ
ちけい
ですが、しかしその時期はかなり早くやってくるでしょ
97
して、社会保全のために行なわれている、感染せる 肢体 会は目下行なわれているようなほとんど異教的方法を廃
する教会そのものの見解を考えてみますに、はたして教
いような情勢が必要ですからね。ひるがえって犯罪に対
なことを言うためには、よほど偉い条件と、めったにな
トの教会だ﹄これはちょっと言いにくいことです。こん
会だ。ただ人殺しで泥棒の自分一人だけが公正なキリス
る、みんな岐
路 にそれている。すべてのものが偽りの教
を言うわけにはいきません。
﹃誰も彼もみんな間違ってい
ける教会の全部を否定してしまわない限り、こんなこと
ろが、教会が国家にとって代わった場合には、地上にお
犯罪者は絶えずこんな気休めを言っているのです。とこ
けではない、キリストの敵になったわけではない﹄今の
め和らげるような、自分自身の良心の認識中に納められ
のじゃ。つまり真に人を恐れおののかせると同時になだ
たせるにすぎぬ機械的なものではなしに、本当の刑罰な
人の言われたような、多くの場合、単に人の心をいらだ
違いないのじゃ。しかし刑罰といっても、ただいまあの
ひいてはそれに対する刑罰すらもなくなってしまったに
かったら、 犯罪者の悪行にはなんらの抑制がなくなり、
向いた。﹁実際、 今でもキリストの教えというものがな
然長老が口をきったので、一同は一斉に彼のほうへふり
﹁ところが実は今でもそれは同じことですじゃ﹂と、突
んよ、イワン・フョードロヴィッチ﹂
おもしろ半分に言っていられるような気がしてなりませ
い何ですか、どういう破門なんです? 僕にはなんだか、
ようで、まるでわけがわかりませんよ。破門とはいった
のでございます﹂とミウーソフは激しい好奇心にかられ
わきみち
を切除するような、機械的な方法をば、真に、人間の更
ている本当の罰なのじゃ﹂
したい
生と復活と救済の理想に向かって、徹底的に変改してし
﹁それはどういうわけでしょうか?
﹁と言うと、つまりどういうことになるのですか?
ながら、こう尋ねた。
ひとつ伺いたいも
まう必要はないでしょうか⋮⋮﹂
はまたわからなくなってしまいました﹂とミウーソフが
﹁それはこういうわけですじゃ﹂と長老は説き始めた。
﹁す
僕
さえぎった。
﹁また何かの空想ですね。なんだか形がない
98
れはやはり、自己の良心に含まれているキリストの 掟 に
匡正して別人に更生させるものが何かあるとすれば、そ
じゃ。もし現代において社会を保護するばかりか、罪人を
代わって別の犯罪者が一人、ないしは二人現われるから
も届かぬ遠方へ追放されるとしても、すぐそれにとって
なる。すなわち有害な人間が機械的に切り放されて、目
ような方法では社会は少しも保護せられぬということに
れはあなたも御同意のはずですじゃ。で、つまり、この
か、それは年を追うてますます増加する一方なのじゃ。こ
せず、けっして犯罪の数を減少させることがないどころ
ことには、ほとんどいかなる罪人にも恐怖の念を起こさ
して人を 匡正 することはできませんじゃ。何より困った
べてこの 笞刑 の後で流刑に処するというやり方は、けっ
おお神よ!
逐したならば、その罪人はそもそもどうなるであろう?
会、すなわち教会が、法律と同じように、罪人を排斥し放
魅入られた者として遇するのじゃ。もしキリスト教の社
物も分けてやる。そして罪人というよりはむしろ悪魔に
ようにして、教会の 勤行 にも 聖餐 にも参列させるし、施
人に対してもつとめてキリスト教的な交わりを絶やさぬ
ただ父としての監視の目を放さぬまでじゃ。そのうえ、犯
おるのじゃ。つまり犯人を破門するようなことはせずに、
ぬから、犯人の実際的な処罰からはこちらで遠ざかって
精神的 譴責 のほか、なんら実際的な裁判権を持っておら
は、ちゃんとわかっているはずじゃ。今では教会は単に
から呼び戻して、再び社会へ入れたらよいかということ
会としての社会に属していたならば、どんな人間を追放
ちけい
ほかならぬ。ただキリストの社会、すなわち教会の子と
いですぐさま破門の罰を下したらどうであろう!
きょうせい
して自己の罪を自覚した時、はじめて犯人は社会、すな
くともロシアの罪人にとって、これ以上の絶望はあるま
けんせき
わち教会に対して、自己の罪を悟ることができるのじゃ。
い。なぜといって、ロシアの犯罪者はまだ信仰をもって
少な
もし教会がそのつど、国法による刑罰に次
せいさん
かようなわけで、ただ教会に対してのみ、現代の犯罪者
いるからじゃ。実際そのときにはどんな恐ろしいことが
きんこう
は自己の罪を自覚するのであって、けっして国家に対し
もちあがるかもしれぬ︱︱︱犯罪者の絶望的な心に信仰が
おきて
て自覚するのではないのじゃ。そこで、もし裁判権が教
99
彼ら自身が言っておる︶、憎悪ばかりでなくおのが同胞た
てこの追放には憎悪が伴う︵少なくともヨーロッパでは、
全然機械的に犯罪者を自分から切り離してしまう。そし
思想を鼓吹しておるからじゃ、社会は絶対の力をもって、
はなくて、ただ不正な圧制力に対する反抗である、という
じゃ。つまり、それは現代の教育が、犯罪はその実犯罪で
でも、外国の犯人はあまり 改悛 するものがないとのこと
合いいかげんなごまかしはとうてい許されませぬ。なん
精神的に結合することが不可能であるからじゃ。この場
え一時的な妥協にもせよ、他のいかなる裁判とも本質的、
を包蔵する唯一無二のものであって、したがって、たと
が処罰を差し控えるおもなる原因は、教会の裁判は真理
人でもそれをあわれむ者がなくてはならぬ。しかし教会
て恐ろしい刑罰を受けておるのじゃから、せめて誰か一
差し控えておるのじゃ。さなきだに罪人は、国法によっ
は優しいいつくしみ深い母親のように、実行的な処罰は
失われたら、そのときはどうなるのじゃ? しかし教会
が、ここに異なるところは、わが国には国法で定められ
いこれと同じありさまのように思われなくもないのじゃ
身で御判断がつきましょう。わが国においても、だいた
しまうのじゃ。これがどういう結果に終わるかは、御自
会そのものが自分で自分を追放するようなことになって
あっても、しばしば非常な憎悪をいだいて帰るため、社
げこまれてしまうのじゃ。たとえ社会へ復帰することが
自覚がないので、追放に処せられると絶望のどん底に投
唱されておる。それゆえ、犯人自身も教会の一員という
至っては、もう千年このかた、教会に代わって国家が高
ルーテル派の国々では、そのように思われる。ローマに
かり姿を没してしまおうとしておるのじゃ。少なくとも
たるありさまで、やがては国家というものの中へ、すっ
の形から、国家という上級の形へ移るのにきゅうきゅう
からじゃ。教会そのものはとうの昔に、教会という下級
業的な牧師と、壮麗な会堂の建物が残っておるにすぎぬ
の場合、外国には教会というものが全然なくなって、職
かの 憐愍 もなしに取り行なわれる。それというのも多く
れんびん
る犯人の将来の運命に関する極度の無関心と忘却が伴う
た裁判の他に教会というものがあって、なんといっても
かいしゅん
のじゃ。こういうありさまで、一事が万事教会側のいささ
100
く者を未然にいましめ、堕落した者を更生させることが
ろう。そして追放された者を呼び戻し、悪だくみをいだ
多くの場合、今とはまるで別な目をもって見るに至るじゃ
疑いもなく教会は未来の犯罪者ならびに未来の犯罪をば、
そのものの数も異常なる割合をもって減少するじゃろう。
めしのなかった影響を及ぼすばかりでなく、事実、犯罪
まったならば、単に社会が罪人の 匡正 に、かつてそのた
が来たなら、すなわち全社会が教会そのものになってし
り、もし教会裁判が実現されて、完全な力を行使する時
だいまのお話もまことにもっともなことですじゃ。つま
いなく犯人によって本能的に認められておるのじゃ。た
ている教会裁判なるものが保存されておって、これが疑
ないにしても、未来のためにたとえ空想の中にでも生き
なおそのうえに、思想的なもので、今は実際的なもので
て、いついかなる場合にも交渉を断たぬことにしておる。
やはり可愛い大切な息子じゃ、という風に犯罪者を眺め
その声は熱しているというよりも、むしろ 肚 の底に何か
﹁奇妙だ、 実に奇妙だ!﹂ とミウーソフは口走ったが、
しくおごそかに調子を合わせた。
﹁アーメン、アーメン!﹂とパイーシイ神父はうやうや
かあらしめたまえ、アーメン、アーメン!﹂
来ておるのかもしれませんじゃ。おお、これこそ真にし
定めによれば、もう実現の間ぎわにあって、つい戸口へ
に人間の考えではまだ遠いように思われることも、神の
の先見と、神の愛の中に納められておるからじゃ。それ
りませんのじゃ。時節や期限の秘密は、神の 叡智 と、神
アーメン!
後なりとも、 この願いのかないますように、 アーメン、
ず実現せられるべき約束のものなれば、よしや八千代の
待は今はなおしっかりとつかんでおるのじゃ。これは必
世界に君臨する唯一無二の教会に姿を変えようという期
えておらぬから、いまだほとんど異教的な団体から、全
おるにすぎないのじゃが、しかしその義人の力はまだ衰
はら
えいち
ところで時節のために心を惑わすことはあ
できるに違いない。実のところ、﹂とここで長老は微笑を
懣 を隠しているという風であった。
憤
きょうせい
浮かべた。
﹁いまキリスト教の社会はまだ準備がすっかり
﹁何がそのように奇妙に思われますか?﹂と用心深くヨ
ふんまん
整っておらぬので、ただ七人の義人を基礎として立って
101
とも、あなたの御解釈とも全然正反対で、これこそ地上
となってしまうのです。これは法王集権論とも、ローマ
す、国家が教会の高さまで登って全世界にまたがる教会
それとは正反対に、国家のほうが、教会に同化するので
ローマとその空想です。それは悪魔の第三の誘惑です!
のではありません、このことを御了解ください。それは
イーシイ神父がいかつい声で言った。
﹁教会が国家になる
﹁あなたはまるで正反対に解釈しておいでです!﹂とパ
よ!﹂
は法王グリゴリイ七世だって夢にも見なかったでしょう
ころじゃなくなって、 最上法王集権論 だ! こんなこと
教会が国家の段階に登るなんて!
然、堰 でも切れたように叫んだ。
﹁地上の国家を排斥して、
﹁本当に、これはいったい何事です!﹂ミウーソフは突
シフ神父が尋ねた。
それは 法王集権論 ど
ところへ、私交上の訪問をしましたところ、そこできわ
る時、僕はパリである一人の非常に権勢のある政治家の
のすぐ後のことですから、もう幾年か前の話ですが、あ
た様子で、 意味深長に語りだした。﹁あれは十二月革命
しいたしましょう﹂突然ミウーソフが格別もったいぶっ
﹁失礼ですが、皆さん、ひとつちょっとした逸話をお話
はよく知っていた。
とが察せられた。彼が興奮している理由をアリョーシャ
潮によって、彼もアリョーシャに劣らず興奮しているこ
らすべてを観察していた。しかしその頬に 映 えている紅
まま、眼こそ伏せてはいるが、注意深く耳を澄ましなが
ると、この男は依然として戸のそばにじっとたたずんだ
興奮させたのである。彼がふとラキーチンのほうを見や
の様子に注意していた。この会話のすべてが極度に彼を
ていた。アリョーシャは激しく胸をおどらせながら始終
い所から見おろしたような、大様な微笑がその口辺に漂っ
せき
におけるロシア正教の偉大なる使命なのです。やがて東
めて興味ある人物に出会いました。この人物は普通の探
ウルトラモンタニズム
のかなたよりこの明星が輝き始めるのであります﹂
偵というより、大ぜいの政治探偵の部隊を指揮している
アルキウルトラモンタニズム
ミウーソフはしかつめらしく押し黙っていた。その姿
人で、ですから、やはり一種の権勢家なんですね。この
は
にはなみなみならぬもったいらしさが現われていた。高
102
きにして、ただこの人がなんの気なしに口をすべらした、
社会主義の革命家たちのことでした。その話の本題は抜
題にのぼっていたのは、 当時官憲から追跡されていた、
うね。僕にはその人のいうことがよくわかりました。話
に僕を外国人と見てよけいそういう態度に出たのでしょ
人は慇懃な態度をとるすべを知っていますからね。それ
より、むしろ 慇懃 な態度だったのです。実際、フランス
しかしそれもむろんある程度までで、打ち解けたという
対ぶりを見て、幾分打ち解けた態度を示してくれました。
た属官という資格でしたから、彼の長官の僕に対する応
面会に来ていたわけではなく、ある種の報告を持って来
話を始めたのです。ところで、この人は別に知己として
人物と、ふとしたきっかけから、僕は好奇心にかられて、
チがはいって来た。実のところ、一同はいつとはなしに
あいて、ひどく遅刻したドミトリイ・フョードロヴィッ
ウーソフが返事をしてやろうと思うより先に突然、戸が
シイ師は単刀直入に、いきなり聞きとがめた。しかし、ミ
れわれを社会主義者だとおっしゃるのですな?﹂とパイー
﹁つまりあなたは、それはわたくしたちに当てはめて、わ
意にそれを思い出しましたんで⋮⋮﹂
のですが、今ここでお話を伺っているうちに、なぜか不
ものです﹄このことばはすでに、当時の僕を驚かしたも
リスト教徒は、社会主義の無神論者よりさらに恐ろしい
険に思う、最も恐ろしい連中なのです!
義者なのです。こういう手合いこそわれわれが何より危
いる立派なキリスト教徒で、しかもそれと同時に社会主
干毛色の変わったやつがあります。それは神を信仰して
社会主義のキ
たいへんおもしろい解釈を御紹介いたしましょう。この
彼を待つことを忘れていたので、この不意の出現は最初
いんぎん
人が言うことに、
﹃われわれには無政府主義者だの、無神
の瞬間、 驚愕 の念を引き起こしたほどであった。
六 何のためにこんな人間が生きているのだ!
きょうがく
論者だの、革命家だのといった連中は、あまりたいして
恐ろしくはありません。われわれはこの連中を絶えずつ
け狙っていますから、彼らのやり口もわかりきっていま
す。ところが、彼らの中に、ごく少数ではありますが、若
103
ているときでさえ、 その眼の内部の気持に従わないで、
やらそわそわしている。興奮していらいらしながら話し
ところ、どこか 執拗 そうなまなざしであるが、その実何
やをしている。少し飛び出した大きな暗色の眼は、見た
せた頬がこけて、何かしら不健康らしい黄色っぽい色つ
彼の顔にはなんとなく病的なところがうかがわれた。 痩 を持っていることが察せられたが、それにもかかわらず、
と老 けて見えた。筋骨がたくましくて、すばらしい腕力
いい顔だちをした、中背の青年だったが、年よりはずっ
ドミトリイ・フョードロヴィッチは二十八歳で、気持の
帽子 を手に持って、申し分のない 絹
瀟洒 な服装ではいっ
クコートのボタンをきちんとかけて、 黒の手袋をはめ、
ある集会の席で彼を批評したことばである、彼はフロッ
判事セミヨン ・ イワーノヴィッチ ・ カチャリニコフが、
軌を逸した突発的な性情﹄を持っていた。これは当市の
がっていた。もっとも、彼は生まれつき癇
癪 持ちで、
﹃常
である。それについて町じゅうにいろいろな噂がもちあ
ていることも、等しく一同の者によくわかっていたから
とで父親と喧嘩をして、非常にいらいらした気持になっ
﹃遊
蕩 ﹄ 生活に 耽溺 していることも、 また 曖昧 な金のこ
は、無理もない話である。彼がこのごろ恐ろしく不安な
シルクハット
くちひげ
しきい
しょうしゃ
かんしゃく
あいまい
何か別な、時とすると、その場の状況に全然そぐわない
て来た。つい最近退職したばかりの軍人のよくするよう
そ
たんでき
表情をあらわすことがあった。
﹃あの男の肚の中はちょっ
に、 口髭 だけをたくわえて、 頤鬚 は今のところきれいに
ゆうとう
とわからない﹄というのが、彼と話しをした人の批評で
り落としている。暗色の髪は短く刈りこんで、 剃 顳顬 の
ふ
ある。またある人は、彼が物思わしげな、気むずかしそ
ところだけちょっと前へ 梳 き出してあった。彼は軍隊式
や
うな眼つきをしているなと思っていると、突然思いもか
に活発な大またで歩いて来た。一瞬間、 閾 の上に立ち止
しつよう
けず笑いだされて、 めんくらうことがあった。 つまり、
まって、ひとわたり一同を見回すと、彼はそれがこの席
あごひげ
そんな気むずかしそうな眼つきをしていると同時に、陽
の主人だと見てとって、いきなり長老のほうへつかつか
こめかみ
気なふざけた考えが彼の心中に潜んでいることの証拠で
と歩み寄った。彼は長老に向かって深く腰をかがめて祝
と
ある。もっとも、現に彼の顔つきが幾分病的に見えるの
104
たあげく、これによって自分の敬意と善良な意図を示す
明らかに、彼は前からこの会釈のことをいろいろと考え
うを向いて、同じようなうやうやしい丁重な会釈をした。
ロヴィッチはもう一度頭を下げた。それから急に父のほ
ぶっきらぼうにことばを切ると、ドミトリイ・フョード
して、そうあろうとは存じておりましたが﹂そう言って
﹁まことに恐縮でございます。お優しいあなたのお心と
ませんじゃ⋮⋮﹂
あに、ちょっと遅刻されただけで、たいしたことはあり
﹁御心配には及びませんじゃ﹂と長老がさえぎった。
﹁な
ころが今不意に⋮⋮﹂
ころ、一時だと、はっきり二度まで答えましたので。と
コフに時間のことをくれぐれも念を押して尋ねましたと
ません。実は父が使いによこしました下男のスメルジャ
﹁どうも、長らくお待たせいたしまして申しわけござい
ような調子で口をきった。
接吻すると、恐ろしく興奮した、ほとんどいらいらした
ミトリイ・フョードロヴィッチはうやうやしくその手を
福を乞うた。長老は立ち上がって彼に祝福を与えた。ド
た。
対して、ミウーソフはもう返事をする必要を認めなかっ
パイーシイ神父の執拗な、ほとんどいらいらした質問に
続けられなければならぬはずであった。ところが今度は、
二分かそこいらしか暇どらなかったので、会話はすぐに
ドミトリイ・フョードロヴィッチの出席には、ほんの
聞く身構えをした。
り乗り出すようにして、自分がさえぎった会話の続きを
た一つ残っていた椅子に腰をおろして、からだをすっか
たで窓のほうへ近寄ると、パイーシイ神父のそばにたっ
部屋の中にいる一同に会釈を一つして、例の活発な大ま
それからドミトリイ・フョードロヴィッチは無言のまま、
それがまたかえって非常に陰険な影を添えるのであった。
た。その顔は急にものものしくしかつめらしくなったが、
上がりざま、同じような丁寧な会釈をもって息子に報い
フョードロヴィッチの会釈に対して、彼は椅子から立ち
たが、すぐに彼一流の活路を見いだした。ドミトリイ・
たれてフョードル・パーヴロヴィッチはちょっとまごつい
ことを、自分の義務だと思いついたのである。不意を打
105
ん、あなたのパリのお話にはなかなか妙味がありますよ﹂
これはもちろん外国の憲兵のことですが。ミウーソフさ
の場合、憲兵もその仲間にはいるようですね。もっとも、
単に自由主義者とディレッタントばかりではなく、多く
まるところ、 社会主義とキリスト教とを混同するのは、
ん、彼らの特性を暴露するものであります。しかし、つ
ば混同しています。こうした奇怪千万な推断は、もちろ
前から、社会主義の結末とキリスト教の結末とをしばし
でなく、ロシアの自由主義的 素人道楽 までが、久しい以
チはすぐに答えた。
﹁一般にヨーロッパの自由主義ばかり
どのことはないんですよ﹂とイワン・フョードロヴィッ
﹁いや、ほんのちょっとした感想のほか、別に説というほ
あるんでしょう。この人にひとつ聞いて御覧なさい﹂
ますよ。きっとこの問題についても何かおもしろい説が
ン・フョードロヴィッチがこちらを見てにやにやしてい
なかなかむずかしい問題ですからね。御覧なさい、イワ
と彼は世間慣れたむとんじゃくな調子で言った。
﹁それに
﹁どうか、この話はやめさせていただきたいもんですね﹂
ならず、その場合に不道徳というものは全然なくなって、
くために必要な、あらゆる生命力を失ってしまう。のみ
に枯死してしまうのみならず、この世の生活を続けてい
信仰を滅ぼしてしまったならば、人類の愛がたちどころ
そ自然の法則が全部含まれているので、人類から不死の
ういうことを付け加えられました。つまり、この中にこ
ヴィッチはちょっと括弧の中へはさんだような形で、 こ
︱︱というのであります。そのうえ、イワン・フョードロ
てではなく、人が自分の不死を信じていたからである︱
またこれまであったとすれば、それは自然の法則によっ
則はけっしてない。 もしこの地上に愛があるとすれば、
はけっして存在しない。人類を愛すべしというような法
なわち、地球上には人間同士の愛を強制するようなもの
ロヴィッチは堂々と、こんな議論をはかれたのです。す
の、おもに婦人ばかりの会話の席で、イワン・フョード
いたしましょう。つい五日ばかり前のことですが、当地
富んだ、最も特性的な逸話を、もう一つ皆さんにお話し
当のイワン・フョードロヴィッチに関する、非常に興味に
すね﹂とミウーソフはくり返した。﹁その代わりに僕は、
ディレッタンチズム
﹁全体として、やはりこの問題はやめていただきたいで
106
論者の立場から見ると、悪行は単に許されるばかりでな
んだ、﹁聞き違えのないように伺っておきますが、﹃無神
﹁ちょっと﹂と突然ドミトリイ・フョードロヴィッチが叫
ないではありませんか﹂
しておられる自余のすべての議論は、想像するにかたく
ワン・フョードロヴィッチの唱道され、かつ唱道せんと
逆説から推して、わが愛すべき奇人にして逆説家たるイ
もって結論とされたのであります。皆さん、このような
高尚な行為としてすら認められるだろう、という断定を
においては避けることのできない、最も合理的なしかも
義が人間に許されるのみならず、かえってそういう状態
のは全然正反対になって、悪行と言い得るほどの利己主
各個人にとって、自然の道徳律がこれまでの宗教的なも
在のわれわれのように、神もおのれの不死をも信じない
うになるというのです。まだ、そればかりではなく、現
どんなことをしても許される、 人肉嗜食 さえ許されるよ
たことも、信じておられぬらしいからじゃ﹂
も、そればかりか自分で教会や教会問題について書かれ
﹁なぜかといえば、あなたはどうやら自分の霊魂の不滅
薄笑いをした。
﹁なぜ薄倖なのです?﹂イワン・フョードロヴィッチは
それともまた、恐ろしく 薄倖 な人かじゃ!﹂
﹁もしそう信じておられるのなら、あなたは幸
福 な人か、
行もありません﹂
﹁ええ、僕はそう断言しました。もし不死がなければ善
けた。
と、不意に長老がイワン・フョードロヴィッチに問いか
のような結果が生じるものと確信しておいでなのかな?﹂
﹁本当にあなたは人間が霊魂不滅の信仰を失ったら、そ
突だった。一座の者は好奇の 眼眸 を彼に注いだ。
それはやぶから棒のように話へ口を入れたと同じく、唐
こう言うとすぐ、 ドミトリイは黙りこんでしまった。
﹁覚えておきましょう﹂
アンスロポファジイ
く、かえって最も必要な、最も賢い行為と認められる!﹄
﹁あるいは仰せのとおりかもしれません!⋮⋮しかしそ
ふしあわせ
まなざし
と、そういうのですか?﹂
れでも、僕はまるきりふざけたわけではないのです⋮⋮﹂
しあわせ
﹁そのとおりです﹂とパイーシイ神父が言った。
107
﹁もし肯定のほうへ解決することができなければ、否定
た。
ワン・フョードロヴィッチは奇妙な質問を続けるのであっ
ぬ薄笑いを浮かべたまま、長老の顔を見つめながら、イ
肯定的に解決されることが?﹂依然としてえたいの知れ
﹁これが僕の心中で解決されることがありましょうか?
拗に解決を強要するからじゃ⋮⋮﹂
あなたの大きな悲しみがある。なぜといえば、それが執
実際あなたの心の中でこの問題は決しておらぬ。ここに
がら、心の中でその議論を冷笑しておられるのじゃ⋮⋮。
かも自分で自分の議論が信ぜられず、胸の痛みを感じな
せたり、社交界で議論をしたりして慰んでおられる。し
る。あなたも今のところ、絶望のあまりに雑誌へ論文を載
には絶望のあまり、おのれの絶望を慰みとすることがあ
たの心を悩ましておるのじゃ。しかし、悩める者は、時
思想はまだあなたの心の内で決しられていないで、あな
﹁まるきりふざけたのではない、それは本当じゃ。この
白状したが、その顔はさっと赤くなった。
と、イワン・フョードロヴィッチは不意に奇妙な調子で
は一瞬、声をひそめた。アリョーシャの顔にはほとんど
と、それにまた厳粛な点において一同を驚かした。人々
ては思いもかけない長老との会話は、その謎のような点
るまいと、それに前述のイワン・フョードロヴィッチとし
彼の顔つきはしっかりしていてきまじめだった。このふ
受けて、手を接吻すると、無言のまま自分の席へ戻った。
こちらは突然、椅子を立って長老に近寄り、その祝福を
ヴィッチに向かって十字を切ってやろうとした。しかし
長 老 は 手 を 上 げ て、 そ の 場 か ら イ ワ ン ・ フョー ド ロ
神によって祝福せられますように!﹂
たの心を訪れますように、そしてあなたの歩まれる道が
もって、まだこの世におられるうちに、この解決があな
らのすみかは天国にあればなり﹄願わくば神の御恵みを
に思いをめぐらし高きものを求めよ、なんとなればわれ
けくだされた創世主に感謝せられるがよい。﹃高きもの
ういう苦しみを苦しむことのできる、高遠なる心をお授
ろう。これが、あなたの心の苦しみなのじゃ。しかしこ
あなたの心の特性は、御自身でも承知しておられるじゃ
のほうへもけっして解決せられる時はない︱︱︱こういう
108
とになりました当の相手でございますが︱︱︱これは最も
ロヴィッチ、つまり、こうしておさばきをお願いするこ
た今はいってまいりました息子のドミトリイ・フョード
べきカルル・モールでございまして、こちらの︱︱︱たっ
でございます!
これはわたくしの、いわば最も尊敬す
子で、わたくしの肉から出た肉、わたくしの最愛なる肉
ドロヴィッチを指しながら叫んだ。
﹁これはわたくしの息
﹁神のごとく神聖な長老様!﹂こう彼はイワン・フョー
フョードル・パーヴロヴィッチは椅子から飛び上がった。
然ミウーソフがひょいと肩をすくめると、それと同時に
おびえたような表情が浮かんだほどである。しかし、突
だすったのは、あんまりお心が優しすぎたのです。 親爺 るのです。わたくしどもにここへ集まることをお許しく
知らないくらいですが、あなたはだまされていらっしゃ
すから、何と言ってあなたをお呼び申したらいいかさえ
と、彼はゾシマのほうへふり向いて﹁僕は無教育な男で
同じく席を飛び上がった。﹁お許しください、長老様!﹂
イ ・ フョードロヴィッチは 憤懣 のあまり、 そう叫ぶと、
道すがら、もう感づいていたことです!﹂と、ドミトリ
﹁愚にもつかない茶番です。それは僕がこちらへまいる
て、だんだん目に見えて気力を失っていった。
きった声で答えた。明らかに彼は、疲労が加わるにつれ
をきるものではありませんじゃ﹂と長老は弱々しい疲れ
ふんまん
尊敬すべからざるフランツ・モールでございます︱︱︱ど
に必要なのは不体裁なばか騒ぎだけなんです。何のため
おやじ
ちらもシルレルの﹃群盗﹄の中の人物でございますが︱︱
どうやらその目的が僕にわかってきたようです⋮⋮﹂
か︱︱︱それは親爺の方寸にあることです。親爺にはいつ
の役回りでございます! どうか御判断のうえ、お
Moor
助けを願います! あなた様のお祈りばかりでなく、御
﹁みんなが、みんながわたくし一人を悪しざまに申しま
︱ところで、わたくしはさしずめ
予言までお聞かせ願いたいのでございます﹂
す!﹂と今度はフョードル・パーヴロヴィッチのほうが
も自己流の打算があるのですから。 しかし今になって、
﹁そのような気ちがいじみた物の言い方をなされぬがよ
わめき立てた。﹁現にミウーソフさんもわたくしを責め
Regierender Graf von
い。また自分の家族をはずかしめるようなことばで、口
109
の人にとってもまんざらの他人ではないからですよ。そ
のを嫌うわけは、ドミトリイ・フョードロヴィッチがこ
定してくれまさあね!
ミウーソフさんが裁判にかける
か、そして今、いくらいくら残っているかを、すっかり勘
に幾ら幾らあったか、おまえさんがいくらいくら使った
取りや手紙や契約書をもとにして、おまえさんのところ
ドロヴィッチ、あすこへ出たら、おまえさんの書いた受け
判所というものがありますからね。ドミトリイ・フョー
まかしてしまったといって責めるのです。が、しかし裁
る。
﹁つまりわたくしが子供の金を靴の中へ隠してちょろ
だがミウーソフは別に口出しをしたわけではないのであ
よ!﹂ と、 不意に彼はミウーソフのほうをふり向いた。
ます。いやミウーソフさん、責めましたよ、責めました
になかなか気性のしっかりした女ですから、誰にかけて
女はさる立派な男といわば内縁関係を結んでいて、それ
ところへ通っておるのでございます。もっともこの淫売
に、あれはその 女 を目の前に置いて、この町の 淫売女 の
に暮らしております。もう 許婚 のあいだがらであるくせ
い目にあわせたために、当の令嬢は今 孤児 としてこの町
な大佐なのです。そのお嬢さんに結婚を申しこんでひど
で、聖アンナ利剣章を首にかけた、勲功の誉れ高い勇敢
したのでございます。父御というのは自分の以前の長官
なさるまいけれど、この男は高潔無比な良家の娘を迷わ
証明してみせますよ⋮⋮神聖な長老様。あなたは本当に
く内密な詳しいことまで知っとりますよ、わしが立派に
イ・フョードロヴィッチ、よっく承知しとりますよ、ご
のという金を使ったもんでさあ。それはもう、ドミトリ
ておった町でも、良家の娘を誘惑するために、千の二千
ん
みなしご
れでみんながわたしに食ってかかるんですけれど、ドミ
も難攻不落の要塞で、まあ正妻も同じこってさあ。なに
いいなずけ
トリイ・フョードロヴィッチは差し引きわたしに借りが
ねえ、神父さんが
き
いんばいおんな
あるのですぜ。それも少々のはした金じゃなくって、何
しろ貞淑な女ですからなあ、全く!
ところがドミトリ
イ・フョードロヴィッチはこの要塞を 黄金 の鍵でもって
ひと
千という額ですからな。それにはちゃんと証文がありま
た、実に貞淑な女でございますよ!
それに、以前勤め
す! なにしろこの人の放蕩の噂で、いま町じゅうがひっ
くり返るほどの騒ぎですからなあ!
110
ようにつぎこんでおるのですからなあ。だから、のべつ
これまでにも、この淫売のために何千という金を湯水の
金をもぎ取ろうとたくらんでおるのでございます。もう
相手に力み返っておりますので。つまり、わたくしから
あけようとしておるのですよ、そのために今わたくしを
ありません!
すもの、他の人にどんなことをするかわかったもんじゃ
﹁これが父親に、現在の父親に向かって言う言いぐさで
チは狂暴にどなりつけた。
﹁恥知らずな偽善者!﹂と、ドミトリイ・フョードロヴィッ
なるのだ?﹂
皆さん、ここに一人の退職大尉がありま
借金ばかりしているんです。しかも誰から借りているん
ため退職を命ぜられましたが、公けに軍法会議に付せら
す。貧乏だが尊敬すべき人物です。思いがけない災難の
まいか?﹂
れたわけではなく、名誉は立派に保持されていたのです。
なあミーチャ、言おうか言う
﹁お黙りなさい!﹂とドミトリイ・フョードロヴィッチ
いま大ぜいの家族をかかえて難渋しております。ちょう
だとお思いになります!
が叫んだ。
﹁僕の出て行くまで待ってください。僕のいる
ど三週間前ドミトリイ・フョードロヴィッチがある酒屋
彼は息をはずませていた。
ん!﹂
﹁それはみんな嘘です!
を勤めたからのことで﹂
その人がちょっとした用件で、内密にわたくしの代理人
ちょうちゃく
ひげ
前で純潔な処女をけがすようなことは言わせません⋮⋮。
で、この人の 髯 をつかんで往来へ引っ張り出して、人前
﹁ミーチャ! ミーチャ!﹂と、フョードル・パーヴロ
ると嘘の皮です!﹂ドミトリイ・フョードロヴィッチは
ひと
あなたがあの 女 のことをおくびに出したという一事だけ
でさんざん 打擲 したのでございます。 それというのも、
ヴィッチは弱々しい神経的な声で、涙を無理に絞り出し
憤怒に全身をわなわなと震わせた。
﹁お父さん、僕は自分
ひと
でも、あの女 の身のけがれです⋮⋮僕は断じて許しませ
ながら叫んだ。
﹁いったい生みの親の祝福は何のためなん
のふるまいを弁解するわけではありません。いや、皆さ
外見は事実だが、内面から見
だ? もしわしがおまえをのろったら、そのときはどう
111
でいるからです。それは、あなた自身があの婦人に変な
監獄へ入れたがるわけは、あの婦人のことで僕を 嫉妬 ん
のことを笑っていましたよ!
向かって話しましたよ。自分で僕にぶちまけて、あなた
させたのじゃありませんか!
ところで、あなたが僕を
ええ、あの女は僕に面と
が、その実あなたがこの婦人をそそのかして、僕を誘惑
がこの婦人に対して弱みを持っていると非難されました
あなたの名前をもって申し入れたのです。お父さんは僕
訟を起こして、 僕を監獄へぶちこんでくれるようにと、
たのところにある僕の手形をその婦人が引き受けて、訴
あまりうるさく財産の清算を迫るような場合には、あな
が淫売だといわれた当の婦人のもとへ行って、もし僕が
しかしあなたの代理人とかいうあの大尉は、今お父さん
憤りを悔やんで、自分に愛想をつかしているくらいです。
獣のようなふるまいをしました。今でもあの獣のような
んの前でまっすぐに白状します。僕はその大尉に対して
安にかられて席を立った。二人の僧はいかつい眼を 瞠 っ
た一座の人々も動乱していた。長老以外の一同の者は不
らと光り、息使いも苦しそうだった。しかし僧房の中にい
彼はそれ以上続けることができなかった。眼はぎらぎ
たのです。僕にとっては肉身の父なんですけれど⋮⋮﹂
からくりを皆さんの前へすっかり暴露してやる気になっ
比な処女まではずかしめましたから、こちらもこの男の
てその名前を口にすることさえはばかっている、純潔無
爺は僕一人ならともかく、僕が尊敬のあまりゆえなくし
を乞おうとも思ってやって来たのです。ところが今、親
が折れて出てくれたら、こちらから許しもし、また許し
てことは、ちゃんと感づいていたのです。僕はもし親爺
な空騒ぎのために、皆さん御一同をここへ呼んだのだっ
ください。しかし僕は初めからこの狸爺が、ただ不体裁
おりの人間なんです! 皆さん、どうか僕の癇癪を許して
このとおりです。 放蕩息子 をとがめ立てる父親がこのと
を笑いながら、話して聞かせたんですよ。神父さんがた、
ほうとうむすこ
気持を起こして付きまとい始めたからです。そのことも
ていたが、それでもなお長老の意見を待っていた。当の
やっか
やはり、あの女が笑いながら話して聞かせたから、僕は
長老はまっさおな顔をして坐っていたが、それは興奮の
みは
百も承知しているのです︱︱︱いいですか、あなたのこと
112
けれど⋮⋮これは即刻けりをつけなくちゃなりません!
す。もっとも、相手が誰だかってことは承知していました
すがらも、まさかこうまでとは思いもよらなかったので
は熱した口調で語りだした。﹁しかし僕はここへ来る道
﹁この醜態の責任はわれわれ一同にあるのです!﹂と彼
しめられ、けがれたような心持を覚えた。
ていた。とうとうミウーソフは、決定的に自分がはずか
かのように、じっと視線を 凝 らしながら、何事かを待っ
せぬことがあって、それをよくのみこんでおこうとする
めるのに十分なはずであったが、彼はまだ何かはっきり
のであった。もちろんその身ぶり一つで、この騒ぎを鎮
どめようとするもののように、ときどき手を振りかざす
微笑がその唇に漂っていた。彼は 猛 り狂う人々を押しと
ためではなく、病躯の衰弱のせいであった。祈るような
らずの老いぼれめ、貴様がどんなに﹃神聖な﹄怒りだの
瞬間︵もしくはほんの一秒もしてから︶に、
﹃えい、恥知
迫った心持になる瞬間があるものである。もっともその
興奮のあまり実際に身震いをして泣きだすほどの、真に
こうした、生涯を茶番狂言に終始した嘘つき親爺でも、
がら、ことばを結んだ。
らかぶせてな⋮⋮ハンカチを!﹂彼はじだんだを踏みな
なんだ⋮⋮武器は 拳銃 、距離は三歩⋮⋮ハンカチを上か
ら、わたしは即刻、おまえさんに決闘を申しこむところ
絞った。﹁もし、 おまえさんがわたしの息子でなかった
パーヴロヴィッチが、何かまるで借物のような声を振り
﹁ドミトリイ・フョードロヴィッチ﹂突然、フョードル・
す、僕は誰にも劣らずだまされたのです⋮⋮﹂
たのです⋮⋮だまされたのです、皆さんの前で言明しま
僕はこんな連中と共にこちらへまいるように仕向けられ
たけ
下 、どうぞ信じてください。僕は今ここで暴露された事
猊
﹃神聖な﹄怒りの瞬間を感じたって、やっぱり貴様は嘘を
こ
実の詳細を知らなかったのです。そんなことは本当にした
ついているのだ、今でも茶番をやっているのだ﹄と肚の
ピストル
くなかったのです⋮⋮全く今が初耳なのです⋮⋮現在の
中でつぶやくのではあるが。
げいか
父親が卑しい稼業の女のことで息子を嫉妬して、当の 売女 ドミトリイ・フョードロヴィッチは恐ろしく顔をしか
じごく
とぐるになって息子を牢へ入れようとするなんて⋮⋮。
113
ぶべつ
トル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフさん、今あな
はね飛ばしながら、わめき声をあげた。
﹁ところで、ピョー
﹁決闘だ!﹂と老爺は息を切らしながら、一語一語に唾 を
る色情狂で、しかも卑劣この上もない茶番師なんです!﹂
思っていたのです。ところが来てみると、父は放
埒 きわま
いうべき未来の妻といっしょに、父の老後を慰めようと
声で言った。
﹁僕は故
郷 へ帰ったら、自分の心の天使とも
﹁僕は⋮⋮僕は﹂と彼は妙に静かな、押えつけるような
父をちらっと眺めた。
とばはおだやかで整然としていた。
片手で長老を指しながら、彼は一同を見回した。彼のこ
のうえ大地を汚させておいてよいとおっしゃるんですか﹂
うつろなほえるような声で言った。
﹁もうだめだ、なおこ
リイ・フョードロヴィッチは憤怒のために前後を忘れて、
なるくらい、むしょうに肩をそびやかしながら、ドミト
﹁どうしてこんな男が生きているんだ!﹂ほとんど猫に
ぽい声を震わせながら、大きく興奮のあまりこう叫んだ。
言でいたカルガーノフが突然、まっかになって、子供っ
﹁恥ずかしい、そしてけがらわしいことです!﹂終始、無
た。
たが大胆にも﹃ 売女 ﹄呼ばわりをなされた、あの女ほど、
﹁聞きましたか、お坊さんがた、父殺しの言うことを聞
めて、なんとも言いようのない 侮蔑 の色を浮かべながら、
高尚で潔白な︱︱︱いいですか、潔白なと言っているんで
きましたか!﹂と、フョードルはだしぬけに今度はヨシ
じごく
に
すよ︱︱︱婦人は、あなたの御一門にはおそらく一人もご
フ神父に食ってかかった。
﹁これがあなたの﹃恥ずかしい
く
それから、ドミトリイ・フョードロ
ほうらつ
ざいますまいて!
こと﹄に対する返答ですよ!
つば
ヴィッチ、おまえさんが自分の 許婚 をあの﹃売女﹄に見
ことです?
若い時分には周囲
あの ﹃ 売女 ﹄ は、 あの ﹃卑しい稼業の女﹄
何がいったい恥ずかしい
かえたところをみると、つまりおまえさんの許婚でさえ、
は、こうしてここで行ない澄ましてござるあなたがたよ
いいなずけ
あの﹃ 売女 ﹄の靴の裏ほどの値打ちもないと、自分で考
り、ずっと神聖かもしれませんよ!
じごく
じごく
えたわけだね。あの﹃ 売女 ﹄はこういうえらい女だて!﹂
の感化で堕落したかもしれないが、その代わりあの女は
じごく
﹁恥ずかしいことです!﹂と、突然ヨシフ神父が口走っ
な
いで、思わずこう言った。
ではありません⋮⋮﹂温順なヨシフ神父もこらえきれな
﹁キリストがお許しになったのは、そのような愛のため
リストもお許しになりましたからな⋮⋮﹂
かりめんくらってしまって、長老が立ち上がろうとした
た、意識的な礼拝をするのであった。アリョーシャはすっ
とへぬかずいて、額が地につくほど丁寧な、きっぱりし
くと、そのままドミトリイ・フョードロヴィッチの足も
れたのかと思ったが、そうではなかった。長老は膝をつ
ざまずいたのである。アリョーシャは長老が力 萎 えて倒
﹁いいや、お坊さんがた、そういう愛のためです。てっき
ときも、助け起こすことを忘れていたほどである。かす
もかろうじて、その手をささえることができた。長老は
とんど度を失ってしまっていたアリョーシャは、それで
立ったのである。師を思い一同を思う恐怖のために、ほ
もかけぬ出来事によって中断された。突然、長老が席を
しかし、醜態の極にまで達したこの場面は、全く思い
が僧房の四方からわきあがった。
﹁もう我慢がならん、もう我慢がならん!﹂そういう声
で神様が買えると思っていなさるのだ!﹂
を食べてからに、一日に一尾ずつ※を食べてからに、※
の行をして、それでもう上人だと思っていなさる!
人の僧だけは、再び祝福を受けるために長老のそばへ近
ないで、どやどやと外へ出てしまったのである。ただ二
て来客一同も、あわててうっかり主人に挨拶も会釈もし
おおって、部屋の外へ駆け出してしまった。それに続い
とうとう不意に﹃ああ神様!﹄と叫びざま、両手で顔を
に礼拝するなんて、いったいどうしたことだろう? が、
でも打たれたように棒立ちになっていた。おれの足もと
トリイ・フョードロヴィッチはしばらくのあいだ、雷に
方に向かって、来客一同に会釈をしながら言った。ドミ
﹁御免くだされ!
かな微笑がその口辺にわずかに漂っていた。
※ ドミトリイ・フョードロヴィッチのほうへと歩き出した。
寄った。
皆さん、御免くだされ!﹂と彼は四
そしてぴったりそばまで近寄ったとき、彼はその前にひ
かまつか
りそういう愛ですとも! あなたがたはここでキャベツ
﹃多くのものを愛し﹄ましたよ。多く愛したるものは、キ
114
を修道院長にお伝えくだすったうえで、急に思いがけな
﹁神父さん、まことに恐縮ですが、わたくしの深い尊敬
こに待ち受けていたように、さっそく出迎えたのである。
の庵室の階段をおりると、すぐに彼は、まるでずっとそ
の坊主﹄はあまり長く待たせはしなかった。一行が長老
しかし、先刻、修道院長からの食事の招待を伝えた﹃あ
坊主はどこへ行ったんだろう?﹂
いですか、永久にですよ。それはそうと、さっきのあの
りますよ、フョードル・パーヴロヴィッチ。それも、い
﹁しかしその代わり、あなたと同席はまっぴら御免こうむ
よ﹂と、ミウーソフがいきなりむかっ腹を立てて答えた。
﹁僕は 瘋癲 病院や狂人どもに対しては責任を持ちません
のとき庵室の囲いの外へ出ようとするところであった。
話しかけようという勇気もなかった。ちょうど一行はこ
とぐちを見つけようとした。しかし特別、誰に向かって
くなったフョードル・パーヴロヴィッチが、まだ会話のい
う、何かの象
徴 でしょうかなあ?﹂なぜか急におとなし
﹁あの、長老が足にお辞儀をしたのはいったい何事でしょ
ですよ。だって、あんたは親類だと言われるのが、ばか
﹁わしはあんたを怒らせようと思って、わざと言ったん
ともありませんよ、本当にあなたはげすな人だ!﹂
﹁僕はあなたと親類でもないし、これまで親類だったこ
あ、うちの大切な親類のミウーソフさん﹂
うわい。ここではとてもそんな勇気がありませんからな
ますわい。帰ります、帰ります、帰って家で食べましょ
ようがすかね、あんたよりわしのほうが御免をこうむり
へ顔をお出しなさい、そして︱︱︱よろしく召しあがれ!
からおいでなさいよ、ミウーソフさん、修道院長のとこ
さもなければ、すぐに出かけられるはずなんで。ね、だ
といっしょに残りたくないから、ああ言われるんですよ。
取った。
﹁もし神父さん、このミウーソフさんはね、わし
う!﹂とすぐにフョードル・パーヴロヴィッチがあげ足を
﹁その思いがけない事情というのは、わしのことでがしょ
子のミウーソフは僧に向かって言った。
くおわびをしてくださいませんか﹂と、いらいらした調
と、このミウーソフになり代わって、あなたからよろし
どうしても、お食事をいただくわけにまいりませんから
ふうてん
シンボル
い事情が起こりましたため、 まことに残念ですけれど、
115
116
ありませんね?﹂
﹁あなたは本当に帰るんですか? 嘘をおっしゃるんじゃ
びしなくちゃなりませんて⋮⋮﹂
わしたちがあんたと長老のところで騒いだことを、おわ
道院長のとこへ顔を出さなくちゃなりませんて、そして
らな。ミウーソフさん、あなたは礼儀からいっても、修
いよ、わしが時刻を見はからって馬車をよこしてやるか
ワン・フョードロヴィッチ、おまえもなんなら残るがい
れは寺暦を繰ってみれば証明できまさあね。ところがイ
なさっても、やっぱり親類にはちがいありませんよ。そ
にお嫌いですからな。しかし、あんたがなんとごまかし
﹁いったい君は修道院長のところへ行くのですか?﹂と、
るのであった。
手が自分を見送っているのに気がつくと、投げ接吻を送
くれた。フョードル・パーヴロヴィッチはふり返って相
をけげんな眼つきで見送りながら、ミウーソフは思案に
すのかもしれないぞ!﹂だんだん遠ざかって行く道化者
﹁とんとわけのわからない男だ、あるいはいっぱいくわ
します!﹂
ても恥ずかしくって、そんなことはできませんよ、失礼
たり、お寺のソースをたいらげたりできますかい?
あんなろうぜきを演じた後で、どの面さげてお 食事 に出
うでしてな、すっかり気おくれがしてしまいましたよ!
﹁どうして行かないわけがありましょう?
き
﹁ミウーソフさん、あんなことのあった後で、どうして
ミウーソフはぶっきらぼうにイワン ・ フョードロヴィッ
す、おまけに打ちのめされたのですからな!
は昨日から修道院長に特別な招待を受けているのですか
と
そんな元気があるものですか。つい夢中になったのです、
チに尋ねた。
恥ずかしいことです。ねえ、皆さん、人によっては、マケ
らね﹂
と
ほんとに御免なさい、皆さん、夢中になってしまったので
ドニア王アレクサンドルのような心を持っておるかと思
﹁不幸にして、僕も同様、あのいまいましいお 食事 に、い
と
き
それに、僕
えば、また人によっては、フィデルコの犬みたいな根性
やでも出席しなければならないように思うのですよ﹂と
ほんとに
を持ったのもあります。わしの心はフィデルコの犬のほ
117
がにがしそうないらだたしい調子で語をついだ。
﹁それに
ミウーソフは、僧が聞いているのもおかまいなく、例のに
﹃鉄面皮即カラマゾフ的良心だ!﹄
だがしかし、一同は先へ進んで行った。僧は押し黙っ
当にいまいましい食事だよ!﹂
﹁そうさ、君の親父さんがいっしょでたまるもんか! 本
とイワン・フョードロヴィッチが答えた。
る必要がありますね。それに親父も出ないことですから﹂
﹁そう、あれが僕たちのせいでないことを、明らかにす
君はどう思いますか?﹂
僕たちのせいでないことを、説明するためにもねえ⋮⋮
いも苦しそうであった。坐ると、彼は何か思いめぐらす
に腰をおろしたが、その眼はぎらぎらと光って、息づか
十字架と福音書とが載せてある。長老は力なく寝台の上
いてあった。片隅には、聖像の前に経机がすわっていて、
のもので、その上には蒲団の代わりに 毛氈 が一枚だけ敷
けの、ささやかな部屋であった。寝台は幅の狭い、鉄製
らせた。それは、ほんのなくてはならぬ家具を並べただ
アリョーシャは長老を寝室へ助け導いて寝台の上へ 坐 七 野心家の神学生
て、耳をすましていた。たった一度だけ、森を通って行
ように、じっとアリョーシャを見つめるのであった。
われわれがしでかしたことをあやまったうえで、あれは
く道すがら、修道院長がずっと前から一行を待っている
﹁行っておいで、な、行っておいで。わしのそばにはポ
すわ
ことと、もう半時間以上も遅くなっていることを注意し
ルフィーリイが一人おればたくさんじゃ、おまえは急い
もうせん
ただけであった。誰ひとりそれに答えるものはなかった。
で行くがよい。おまえはあちらで入用な人じゃ、修道院
き
ミウーソフは憎々しげにイワン・フョードロヴィッチを
長のお 食事 へ行って給仕するがよい﹂
と
見やりながら、
﹁お願いですから、ここにおれとおっしゃってください
はら
﹃まるで何事もなかったように、しゃあしゃあとしてお
き
まし﹂と、アリョーシャは嘆願するような声で言った。
と
事 へ出ようとしていやがる!﹄ こう 食
肚 の中で考えた。
118
どうしても。そして再びここへ来るまでには、まだいろ
行をすべき運命なのじゃ。妻も 娶 らねばならぬはずじゃ、
うに、今わしが祝福してやる。おまえはまだまだ長い修
ではないのじゃ。おまえが 娑婆 で大きな難業に耐えるよ
﹁どうしたのじゃ? 当分ここはおまえのおるべき場所
アリョーシャはぎくりとした。
てしまうのじゃぞ﹂
たら、すぐさまこの修道院を去るのじゃぞ。すっかり去っ
れをよく覚えておるがよい。神様がわしをお召しになっ
ここは、おまえのいるべき場所ではないぞ。よいか、そ
それにな、 倅 ︵長老は好んで彼をこう呼んだ︶このさき
もしれぬ。騒
擾 がもちあがったら、お祈りをするがよい。
の和がない。お給仕をしておったら、何かの役に立とう
﹁おまえはあちらでよけい入用なのじゃ。あちらには人
くがよい。兄のそばについておるのじゃぞ、それも片方
ておいてくれ、お祈りをせねばならぬからな。急いで行
んでその 冥福 を祈ればよいのじゃ。さ、わしを一人にし
門 は神に召された法師を喜んでやればよいのじゃ。喜
沙
えんだ。
﹁俗世の人が涙で亡き人を送ろうとも、われわれ
﹁またおまえはどうしたのじゃ?﹂と長老は静かにほほ
唇の両隅がぴくぴくと震えた。
アリョーシャの顔には再び激しい動乱の色が現われた。
でなく、時刻で数えあげられておるのじゃから﹂
話をすることもあろうけれど、わしの命数はもはや日限
からこのことばを覚えておくのじゃぞ、まだおまえとは
幸福を求めるがよい。働け、たゆみなく働け。よいか、今
すじゃろう。これがわしの遺言じゃ、︱︱︱悲しみの中に
会うでもあろうが、その悲しみの中にこそ幸福を見いだ
もおまえを守りたまうじゃろう! 大いなる悲しみに出
せがれ
そうじょう
いろ多くのことを耐え忍ばねばならぬのじゃぞ。それに、
だけでなく、両方の兄のそばにおるのじゃぞ﹂
しゃば
なすべき仕事もたくさんあるじゃろう。しかし、わしは
長老は祝福のために手を上げた。アリョーシャはむしょ
しゃもん
おまえという者を信じて疑わぬから、それでおまえを娑
うにそこに居残りたかったけれど、ことばを返すわけに
めいふく
婆へ送るのじゃ。おまえにはキリストがついておられる。
はいかなかった。そのうえ、長老が兄ドミトリイに向かっ
めと
心してキリストをお守り申すがよい、さすればキリスト
119
た予言は、必ずや実現するに違いない。それはあくまで
気がしたのだ。長老の予言、しかもあれほどきっぱりし
予言した長老のことばが、再び彼の耳もとで響くような
の場に立ちすくんでしまった。間近に迫った自分の死を
急に心臓を激しく締めつけられるように覚えて、彼はそ
侍するために︶修道院をさして庵室の囲いの外へ出た時、
の昼餐の始まるまでにと思って︵もちろん、ただ食卓に
的な、そしてまた恐ろしい意味かもしれない。修道院長
的な意味の伏在することを、盲目的に信じていた。神秘
恐ろしくアリョーシャの心を打った。彼はその中に神秘
そうする意志がなかったのである。しかし、あの礼拝は
うから説明してくれるはずであった。つまり、長老には
もしそれがかなうことなら、尋ねるまでもなく長老のほ
たが、しかし思いきって問いかけることができなかった。
が聞いてみたくて、危うく口をすべらせるところであっ
て、地にぬかずいて礼拝したのはどういう意味か、それ
るよ。供応があるんだからね。大主教がパハートフ将軍
笑った。
﹁修道院長のところへ急いでるんだろう、知って
﹁まさしくそのとおり、君をさ﹂ラキーチンはにやりと
チンと並び立つとこう尋ねた。
﹁僕を待ってるんじゃないかい?﹂アリョーシャはラキー
受けていたのである。
の曲がり角でラキーチンの姿を認めた。彼は誰かを待ち
り出会わす者はあるまいと思っていたのに、突然、最初
か五百歩ばかりにすぎなかったが、こんな時刻に誰ひと
をじっと眺めた。その道程はたいして遠くはなく、わず
である。彼は道の両側に連なる、幾百年を経た松の並木
かった。それほど彼は、その思いに心を 挫 がれていたの
みながらも、おのれの想念を持ちこたえることができな
修道院と庵室を隔てている木立ちのあいだを急ぎ足に進
長いあいだこんな悩みを経験したことがなかった。彼は
て行けと長老は命じているのだ!
にどこへ行ったらいいのだろう?
アリョーシャはもう
泣かずに修道院を出
といっしょに来られたとき以来、あれほどの御馳走は今
ひし
アリョーシャの信じて疑わぬところであった。 しかし、
この人なき後の彼はどうなるだろう?
までなかったくらいだ。僕はあんなところへ行くのは御
その姿を見、そ
の声に接することなく、どうして生きられよう? それ
120
思ったよ。もちろん、何もむずかしい問題ではないのさ。
﹁そうだろう、長老が君に話して聞かせるはずはないと
﹁知らないよ、ミーシャ、何のことだかさっぱり!﹂
味するんだ?﹂
んざいだっていいやね。で、いったいあの寝言は何を意
﹁ははあ、言い方がぞんざいだというのかい! まあ、ぞ
﹁額がこつんだって?﹂
﹁ああ、ゾシマ長老のことだよ﹂
﹁それは君、ゾシマ長老のことなの?﹂
まけに額がこつんといったじゃないか!﹂
チに向かって、地にぬかずいてお辞儀をしたやつさ。お
﹁あの、君の兄さんの、ドミトリイ・フョードロヴィッ
﹁寝言って何?﹂
はなんのことだい? 僕はそれが聞きたかったのさ﹂
ただ、一つ聞きたいことがあるんだ。いったいあの寝言
免だが、 君はひとつ出かけて、 ソースでも配りたまえ。
てものはみんなそうなんだよ。居酒屋に向かって十字を
人の目星をつけたとか言いふらすのだ。 宗教的奇人 なん
ことをいうのさ!
世間では、いやあれは 象徴 だの 諷刺 だのと、くだらない
たのは、 予言でもなんでもありゃしないよ。 ところが、
るためなんだ。もっとも、あの爺さんが額でこつんとやっ
あ、なるほど、あの 上人 が予言したとおりだ﹄と言わせ
額でこつんをやったのさ。後で何か起こったときに、
﹃あ
こるんだよ。それでゾシマ長老も万一の場合を 慮
って、
君の二人の兄さんと、裕福な君の親爺さんのあいだに起
﹁君の家で起こるのさ、その犯罪めいたものが。それは
ラキーチンには何やら話したいことがあるらしかった。
﹁犯罪ってどんな?﹂
全く君の家は少々臭いぜ﹂
か観察眼が鋭いよ。犯罪めいたものを嗅ぎ出したんだね。
だろう?﹄ってんでね。ところが、あのお爺さんなかな
下一帯にもち回るから。
﹃いったいあの寝言はなんの意味
シンボル
ユロージウイ
そして犯罪を未然に察したとか、犯
おもんぱか
いつもお決まりのありがたいたわごとにすぎないらしい。
切って、お寺へ石を投げつけるってやつさ、君の長老も
しょうにん
しかし、あの手品はわざとこしらえたものなんだぜ。今
そのたぐいで、正直なものは棒で追っぱらいながら、人
アレゴリイ
にみたまえ、町じゅうのありがたや連が騒ぎだして、県
121
うから、聞いてみるんだが、いったい君はこのことを考
君はいつも二
股膏薬 だけれど、とにかく本当のことを言
いつぁあちょっとおもしろい問題だ。ねえアリョーシャ、
とを考えてるってこたあ、 賭 をしてもいいよ。しかし、こ
﹁どんなって? いやに白ばくれるね? 君がもうこのこ
ンも立ち止まった。
シャは釘づけにされたように棒立ちになった。ラキーチ
﹁どんな犯罪なの? 人殺しって誰のことだい?﹂アリョー
殺しの足もとにはいつくばるってね﹂
いうところから感づいたかといえば、今日君の兄さんド
もなことなんだよ。おのおの別々に答えよう。まずどう
﹁その二つの質問はまるで別々の問題だが、しかしもっと
気にするのだ。これがまず第一の問題だよ﹂
な風に考えるの?⋮⋮なんだって君はそんなことばかり
づかわしげにさえぎった。
﹁君はどういうところからそん
﹁まあ、待ちたまえ、待ちたまえ﹂とアリョーシャは気
誤りはないだろう?﹂
犯罪のことを考えたんだろ?
今日お父さんとミーチェンカ兄さんを見ているうちに、
してみると、僕の推察に
えてたのか、それとも考えていなかったのかい?﹂
ミトリイ・フョードロヴィッチの赤裸々の正体を、突然、
かけ
﹁考えてたよ﹂とアリョーシャは低い声で答えた。で、ラ
一瞬のあいだにすっかり見抜いてしまったからだ。さも
ふたまたごうやく
キーチンのほうがいささかめんくらった形だ。
﹁僕は⋮⋮僕は別に考えていたっていうわけじゃないけ
彼は叫んだ。
で、しかも情欲の盛んな人には、けっして踏み越えてな
人の全貌をつかんでしまったのさ。ああいう正直いちず
まり、何かしらちょっとしたきっかけから、すっかりあの
なければ、こんなことを感づくはずはなかったのさ。つ
れど﹂と、アリョーシャはつぶやくように答えた。
﹁いま
らない一線があるのだ。全くあの人は、いつどんなこと
君は本当にもう考えてたのかい?﹂と
君があんな変なことを言いだしたので、なんだか僕自身
で親爺さんを刀でぐさりとやらないとも限らないよ。と
﹁なんだって?
もそんなことを考えていたような気がしたのさ﹂
ころが、親爺さんは酔っ払いの 放埒 な道楽者で、何事に
ほうらつ
﹁ほうら︵君ははっきり言い表わしたんだよ︶ほうらね?
122
が、今三人の好色漢がどうどうめぐりをやっている⋮⋮
が炎症ともいうべき程度に達してるんだものね。ところ
もやっぱりカラマゾフ一族じゃないか! 君の家では肉欲
シャ。君はどうしてそんなに純潔なんだろう? だって君
いだからだよ。僕はただ君にだけに驚いてるよ、アリョー
質だ。これは、親爺さんからあの人が下劣な肉欲を受け継
これがあの人に対する完全な定義だ、あの人の内面的本
かだけれど正直だよ︶、しかし、あの人は好色だからね。
人が、ミーチェンカが正直な人だとしても︵あの人はば
いったい君にこういうことがわかるかい?
﹁なんだって君は、そんなにぶるぶる震えてるんだい?
僕も安心したよ。そこまではいきゃしないから﹂
﹁違うよ、ミーシャ、違うよ。もしそれだけのことなら。
いう間に 溝 の中へまっさかさまに⋮⋮﹂
よしやあの
お互いにおのれを制するということがないから、あっと
つけてもけっして度というものがわからない︱︱︱そこで
ンカを軽蔑してるに決まっていても、この際、軽蔑なぞ
だけには限らないがね⋮⋮だから、あの人がグルーシェ
を見ては 戦慄 を禁ずることができないのだ。しかし、足
を歌っている。ほかの連中は歌いこそしないが、女の足
す。女の足の詩人プウシキンは、自分の詩の中で女の足
ありながら人殺しをする、誠実でありながら裏切りを犯
売ってしまうのだ。正直でありながら盗みをやる、温良で
には自分の子供でも渡してしまう、父母も祖国ロシアも
れは好色家でなくてはわからないことだが︶、 そのため
体、もしくは肉体のある一部分に迷いこんだとしたら︵こ
するのさ。もしここである男が一種の美、つまり女の肉
こには⋮⋮今のところ君に理解のできないあるものが存
けっして軽蔑しているとはいえないよ。ここには⋮⋮こ
ないよ。現在自分の花嫁を公然とあの女に見変えた以上、
﹁グルーシェンカをかい?
アリョーシャがこう言った。
あの女を⋮⋮軽蔑しているんだ﹂妙に身震いをしながら
ううん、君、軽蔑しちゃい
短刀を長靴の中に隠してね。こうして三人が鉢合わせを
何の役にも立ちはしないさ。軽蔑しているくせに、離れ
どぶ
したんだが、君はあるいは第四の好色漢かもしれないぜ﹂
ることができないんだ﹂
せんりつ
﹁君はあの女のことを思い違いしているよ。ミーチャは
123
カラマゾフだ、完全無欠なカラマゾフだ︱︱︱つまり何か
るんだ。それは僕も前から気づいていたよ。君自体やはり
童貞でありながら、もうそんな深刻なところへ進んでい
んだね、本当にたいへんなことを君は知ってるんだね!
いが、おとなしいくせに君はたいへんなことを考えてる
がおとなしい聖 かい人間だってことには、僕も異存はな
貞だよ! と言いたくなるね。ねえ、アリョーシュカ、君
とを、もう考えてたんだね!
の問題はもう君にはお 馴染 なんだね。この肉欲というこ
が、それだけ君の告白はよけいに尊いんだよ。つまりこ
た。
﹁君は今、何の気なしに、ふいと口をすべらせたんだ
だね﹂と、ラキーチンは意地悪くほくそえみながら言っ
たところをみると、君はこのことが本当にわかってるん
﹁へえ? 君がそんなにいきなり、わかるって言ってのけ
口をすべらせた。
おやおや、たいへんな童
﹁それは僕にもわかる﹂と、アリョーシャがだしぬけに
︱︱好色漢と、守銭奴と、宗
教的奇人 か! 今イワン君は
こに君たちカラマゾフ一族の問題が潜んでいるのさ。︱
どうだろう?
好色漢が隠れているとすれば、同腹の兄さんのイワンは
明白だあね。こんなこたあ古臭い話だよ。もし君の中に
﹁話してしまうもしまわないもありゃしない、何もかも
考えを話すから﹂
シャ、言いさしたことを話してしまいたまえ。後で僕の
ここでアリョーシャは苦笑いをした。﹁それよりかミー
﹁よろしく言って、 僕は行かないと伝えてくれたまえ﹂
なか非凡な女だよ!﹂
を持つのかと思ってさ。ねえ君、あれであの女も、なか
えちまったよ、なんだってこの女は、こうまで君に興味
熱心に頼むんだ、連れて来い連れて来いって!
人の法衣を脱がしちゃうから﹄ってさ。そりゃあ、全く
︵つまり君のことさ︶連れて来てちょうだい、あたしあの
にね君、グルーシェンカが僕に頼んだんだぜ、
﹃あの人を
ユロージウイ
あの人もやはりカラマゾフだからね。こ
僕あ考
血統とでもいうのかなあ。親父のほうからは好色の、母
無神論者のくせに、何か恐ろしくばかげた、わけのわか
ユロ ージウイ
なじみ
親のほうからは 宗教的奇人 の性質を受け継いだんだ。何
らない目算のために、神学的な論文を冗談半分に雑誌に
けだ
それとも図星をさされたのかい。とき
を震えるんだ?
124
まあ、その先を聞きたまえ。今ミーチャ
陋劣を自覚しながら、その陋劣の中へもぐりこんでいく
なっては、何が何やらとんとわからなくなるよ。自分の
よ。いや、全くそろいもそろって因果な連中だ! こう
を清廉潔白な気持でやっているのだから、注目に値する
進んで未来の妻を譲ろうとしているからだ。しかもそれ
グルーシェンカのもとへ走りたいばっかりに、自分から
ミーチェンカはただいちずに 許嫁 のきずなを逃がれて、
から承諾を得たうえなんだからなあ。 それというのも、
ろう。しかもそのやり口はといえば、当のミーチェンカ
取りしようとしているが、たぶんこの目的は成功するだ
しているのだ。それにまだ、兄のミーチャから花嫁を横
載せている。そしてその 陋劣 さを、自分でちゃんと承知
ミーチャにも独自の価値が生じてくる。金はないが、そ
で、 財布 の口を締めてしまうかもしれない。こうなると
婚はしてくれず、とどのつまりは、ユダヤ人式のやり口
さんのほうからは金が引き出せるけれど、その代わり結
どっちが得だか 日和見 をしているのさ。なぜって、親父
二人をごまかして、 両方をからかってるんだ。 そして、
グルーシェンカのほうは、どっちつかずの 曖昧 なことで
さんとは、どの道、衝突せずにいられないよ。ところが
のではないさ。だから、この二人は、︱︱︱親父さんと兄
としにかかったんだ、もちろん、その口説も真正直なも
色に気がついて、狂気のようにのぼせあがって 口説 きお
さんに雇われていただけなんだが、いまごろ急にその容
前あの女は何か後ろ暗い、酒場に関係したことで、親父
ろうれつ
のだからな!
の代わり結婚することができる。そうだ、結婚すること
ど
の行く手をふさいでいるのは、老いぼれの親父だ。あの
ができるのだ! 自分の許嫁の、比類まれな美人で、金持
よだれ
ひひおやじ
々爺 の小商人に
狒
く
親父さん、このごろ急にグルーシェンカに血道をあげて、
ちで、貴族で、大佐令嬢たるカテリーナ・イワーノヴナ
いいなずけ
あの女の顔を見ただけで、 涎 をだらだら流してるじゃな
をすてて、町長のサムソノフという
あいまい
いか。親父さんがいま庵室で大乱痴気を演じたのも、た
囲われていた、グルーシェンカと結婚するんだ。こうし
ひよりみ
だミウーソフが、無遠慮にあの女のことを淫売だなんて
たすべての事情から、本当に何か犯罪めいた衝突が起こ
さいふ
言ったからさ。まるでさかりのついた猫より下劣だ。以
125
だからね。それはともかく、いったいイワンはどうして
現に今でも、彼女は二人のあいだに立って迷っているん
かかっては、もちろん、しまいには 兜 を脱ぐに違いない。
しても、イワン・フョードロヴィッチのような誘惑者に
でどなったんだもの、当のカテリーナ・イワーノヴナに
弟のイワンなら立派にその資格があると自分で大きな声
あげく、自分はカーチャを妻にする値打ちがないけれど、
料理屋で、ジプシイの女たちといっしょに酔いつぶれた
だ。僕はよく知っている。つい先週ミーチェンカがある
しないばかりか、かえって一生恩に着られるというもの
なかなか悪くないよ。おまけに、それがミーチャを侮辱
なすかんぴんにとって、これだけの金高は手始めとして
参金もたぐり寄せられようという 肚 だ。イワン君のよう
ノヴナも手にはいれば、六万ルーブルというあの女の持
んだからな。痩せるほど思っているカテリーナ・イワー
れを待ち構えているんだ。そうなれば思うつぼにはまる
るかもしれないよ。ところが、君の兄さんのイワンはそ
ンは金や平安を求めてはいない。たぶん苦痛を求めてる
は何万あろうとも、金なんかに迷わされはしない。イワ
﹁イワンはもっと高いところに目をつけてるよ。イワン
ね﹂
も、六万ルーブルといえば、まんざら憎くもなかろうが
貌はどうだね?
﹁そうかしら?
しかしカテリーナ・イワーノヴナの美
に迷ってやしないよ﹂
﹁君はイワンが好きじゃないんだね。イワンは金なんか
てことを承認してるんじゃないか?﹂
を恐れてるんだい?
﹁じゃあ、なぜ君は今そう言って尋ねながら、僕の返事
鋭く、眉をひそめながら、不意に尋ねた。
してそうきっぱりと言いきるの?﹂アリョーシャはこう
﹁だが、どうして君はそんなことを知ってるの?
ますってね﹂
金だけが問題じゃないんだよ。もっと
かなったりだ。おれはおまえたちの勘定で御馳走になり
ろが、あの人は君らをせせら笑ってるんだぜ。願ったり
かぶと
つまり僕の言ったことが本当だっ
どう
君らをそんなにうまく丸めこんでしまったのかしら、君
んだろう﹂
はら
らはみんなあの人を三拝九拝してるじゃないか? とこ
126
て、唇は変にひん曲がっていた。
﹁ところが、その謎はば
露骨に敵意をあらわしてこう叫んだ。彼は顔色まで変え
たいへんな謎を投げかけたもんだよ!﹂とラキーチンは
とばを焼きなおしたまでだ。ほんとにイワンは君たちに
﹁アリョーシャ、それは文学的な剽
竊 だよ。君は長老のこ
りも、思想の解決を望むような人物の一人だよ﹂
が、まだ解決がついてないのだ。イワンは幾百万の金よ
は囚われているんだ。イワンの考えている考えは偉大だ
﹁ううん、ミーシャ、兄の心は荒れてるんだよ。兄の頭
は⋮⋮お殿様だよ!﹂
ラキーチンは熱狂してしまって、ほとんどおのれを制
い⋮⋮﹂
由と、平等と、友
誼 に対する愛の中に発見するに違いな
だけの力を、自分自身の中に発見するに違いない!
たとえ霊魂の不滅を信じなくても、善行のために生きる
で尽きている。あの人の理論は陋劣の魂だよ! 人類は、
方からいっても、 やはり承認しないわけにはいかぬ!﹄
ては﹃一方からいえば承認しないわけにいかず、また一
からね。 大法螺 吹きだよ。ところで、その内容にいたっ
小学生式の威張り屋さんにとって、すこぶる魅力がある
ざ者じゃない、
﹁解決できないほど深い思想﹄をいだいた
言い方は少し悪口じみてきたね。こりゃいかん⋮⋮やく
かげたもので、解くほどのものはなんにもありゃしない。
することができなかった。が、不意に何を思い出したの
ほんとに君たち
ちょっと頭をひねったらすぐわからあな。あの人の論文
か、口をつぐんだ。
﹁そ れ は ま た な ん と い う 夢 だ ろ う ?
は滑
稽 な、愚にもつかぬものさ。さっきあのばかばかし
﹁まあ、いいさ﹂前よりも一倍口をひん曲げて彼は苦笑し
おおぼら
い理論を聞いたが﹃霊魂の不滅がなければ、善行という
た。
﹁君は何を笑ってるんだい? 僕をげすだとでも思っ
ひょうせつ
ものもない。したがって何をしてもかまわないことにな
てるのかい?﹂
自
る﹄っていうんだったね︵ところで、兄さんのミーチェ
﹁ううん、僕は、君がげすだなんて、考えてみようとし
ゆうぎ
ンカが、ほら君も聞いただろう、
﹃覚えておこう﹄って叫
たこともないよ。君は賢い人間だよ、だが⋮⋮許してく
こっけい
んだじゃないか︶。この理論はやくざ者にとって⋮⋮僕の
127
テリーナ・イワーノヴナのことは別としても、虫が好か
ないよ! 君たちにゃわかるまいけれど、あんな男は、カ
て、君たちや兄貴のイワンなんかどうなろうとかまやし
﹁君の言うことだから信じるさ。しかしなんと言ったっ
いよ。君を侮辱するつもりじゃないんだもの﹂
﹁ううん、僕は金のことなんか、なんにも言ってやしな
でも言うつもりなのかい?﹂
﹁そして、あの女の金にもやはり嫉妬してるだろう? と
れだから、君はイワン兄さんを好かないんだ。君は兄に
う。僕は前からそうじゃないかと思っていたんだよ。そ
が、君自身カテリーナ・イワーノヴナに気があるんだろ
君があんまり夢中になるので、僕にも見当がついたんだ
は、君がそう熱するのも無理はないと思うよ、ミーシャ。
れ、僕はただぼんやり何の気なしに笑っただけだから。僕
し、耳だけは一心にひっ立てる、というのも実際は敵に
りは、ちょっぴり社会主義の 光沢 をつけるのだ。がしか
つ無神論的方向をとって、社会主義的な陰影、というよ
まう。それから再び発行を続けるが、必ず自由主義的か
はせっせと書き続けるが、結局その雑誌を乗り取ってし
誌に関係して、必ず批評欄にこびりついて、十年ばかり
ないとすれば、必ずペテルブルグへ行ってどこかの大雑
わめて近き将来に管長になる野心をすて、 剃髪 を肯 んじ
もこんな説を、お吐きあそばしたそうだよ。もし僕がき
妬してるんだか、さっぱりわかりゃしないさ!
味を持ってるんだよ。こうなると、いったい誰が誰に嫉
聞いたよ︱︱︱それくらいあの男はこの忠実なる下僕に興
の家で、僕のことをさんざんに、こきおろしたって話を
﹁ところが、あの男は一昨日カテリーナ・イワーノヴナ
てんで話しゃしないよ﹂
か言っていたって話は聞かないよ。兄は君のことなんか、
﹁兄が君のことを、いいことにしろ悪いことにしろ、何
しっと
ないんだよ。 何のために僕があの男を好きになるんだ、
妬 してるんだろう?﹂
嫉
向こうだってわざわざ僕の悪
がえ
なんで
くそおもしろくもない!
も味方にも用心して、衆愚には目をそむけるってわけだ。
ていはつ
口を言ってくれるんだもの。僕にだってあの男の悪口を
僕の社会遊泳の終わりは、君の兄貴の解釈によるとこう
つ や
言う権利がなくってさ!﹂
128
﹁ううん、 そうじゃない、 僕冗談に言っただけなんだ、
ヴィッチ﹂
﹁君 ま で 皮 肉 を 言 う ん だ ね、 ア レ ク セ イ ・ フョー ド ロ
んだ。
もしろそうに笑いながら、不意にアリョーシャがこう叫
わず的中するかもしれないよ!﹂我慢しきれないで、お
﹁いや、ミーシャ、それはすっかりそのとおり寸分たが
に掛かる新しい石橋のそばなんだそうだよ⋮⋮﹂
テイナヤ街からウイボルグスカヤ街へかけて、ネヴァ川
じゃないか。いまペテルブルグで計画中だとかいう、リ
いうんだ。しかもその家の敷地まで、ちゃんと指定する
建てて、そこへ編集局を移し、残りを貸家に当てるって
回転させて、しまいにはペテルブルグにすばらしい家を
を流動資本に回して、誰かユダヤ人を顧問に、どしどし
なんだ⋮⋮社会主義の色調などにはお構いなく、予約金
﹁どうしてさ?
君は気でも違ったのじゃないか? 頭がどうかしてるぜ﹂
急にラキーチンはまっかになってこう叫んだ。
﹁いったい
﹁親類だって? あのグルーシェンカが僕の親類だって?﹂
だってねえ⋮⋮﹂
﹁ああ、そうそう、僕忘れていたが、あの女は君の親類
のさ﹂
だから、先生が帰るまで寝室を出ることができなかった
てたとき、ドミトリイ・フョードロヴィッチが来たもん
いったんだ。そのわけは、僕がグルーシェンカの家へ行っ
したのさ、とは言っても、もちろん、心ならずも耳には
の人が僕に向かって話したわけじゃない、僕が立ち聞き
チから自分のこの耳で聞いたんだ。が、しかし実は、あ
ヴィッチがいたのさ。僕はドミトリイ・フョードロヴィッ
﹁僕はいなかったが、その代わりドミトリイ・フョードロ
イワーノヴナのところにいるはずもないからねえ﹂
僕はそんな風
勘忍してくれたまえ。僕はまるで別なこと考えてたもん
に聞いたんだけれど⋮⋮﹂
よ
してくれ、君たちカラマゾフ一統は、しきりに何か偉い
じゃ親類ではないの?
だから。ところで、ねえ君、誰がいったいそんな詳しい
﹁いったい君はどこでそんなことを聞いたんだい?
兄がそんな話をしたときに、君自身カテリーナ・
ことを知らせたの、いったい誰からそんなことを聞いた
の?
129
思いもよらなかったもの。それにしても、どうしてあの
﹁後生だから勘弁してくれたまえ。僕はそんなこととは
ラキーチンはおそろしく癇癪を起こしていた。
淫売のさ! どうか御承知おき願いますよ!﹂
がグルーシェンカの親類なんかでたまるものか、あんな
誉心があるからね、アレクセイ・フョードロヴィッチ。僕
もしろ半分な侮辱はよしてもらいたいね。僕にだって名
ばあぶらむし同然かもしれないとしても、そんな風なお
しんば僕が坊主の息子で、君たちのような貴族から見れ
お情けで台所の隅に置いてもらってたんじゃないか。よ
役者のまねをしながら、 他人の家の居候をして歩いて、
古い家柄の貴族を気どっているけれど、君の親父は道化
体に飛び出したんだよ。そら、イシール神父が上り段の
とから出て来たぜ。あれは修道院長のところから無理無
の親父さんだ、そしてイワン・フョードロヴィッチもあ
か騒ぎをやったのかな?
ないて。それとも、カラマゾフ一統がここでもまた、何
遅刻したのかしら?
や⋮⋮あれは何だろう、どうしたんだろう?
ぜ。君は台所のほうからはいったほうがいいだろう。お
うさ。僕の知ったこっちゃないよ。さあ、とうとう来た
親父さんが、むしろ君をあの女と親類にしてくれるだろ
ころが、親類のことだが、それは君の兄貴か、それとも
かもしれないさ。もうこんなこと君にはたくさんだ。と
﹁僕があの女のとこへ行くのにも、ちゃんと原因がある
してみると食事はなかったわけだな!
ひょっとすると
モフまで駆けて行かあ、︱︱︱きっと醜態を演じたんだよ。
てっきりそうだよ。ほら、君
しかし、こんなに早く済むわけが
僕たちが
が淫売なの? いったいあの 女 女 が⋮⋮そんなことをし
上から何か二人に声をかけてるぜ。それに君の親父さん
ひと
てるの?﹂とアリョーシャは不意に赤くなった。
﹁もう一
もわめきながら手を振っている、確かに悪態をついてる
ひと
度言うけど、僕は親類だって話を聞いたんだよ。君はよ
んだよ。おやおや、ミウーソフ氏まで馬車で出かけて行
ひと
くあの 女 のとこへ行くけれど、恋愛関係はないって自分
くところだ、ね、見えるだろう。そら、地主のマクシー
ほんとにあの 女 ひと
で言ったじゃないか⋮⋮僕は君までがあの人をそんなに
軽蔑していようとは思わなかったよ?
はそうされてもしかたのないような人かねえ?﹂
130
修道院長をひっぱたいたんじゃないかしら? それとも、
それならいい気味
しここの坊さんたちが物のわかった連中でさえあれば、
︵あのニコライ院長はやはり、貴族出の人だとのことだ︶、
どうしてその人たちに優しく、愛想よく、丁寧に応対し
あの連中がひっぱたかれたのかな?
だが!⋮⋮﹂
て悪いはずがあろう?⋮⋮﹄⋮⋮﹃議論なんかしないで、
あいきょう
ラキーチンが騒ぎ立てるのも無理ではなかった。事実、
かえっていちいち相づちを打って、 愛嬌 で引きつけてや
ここ んみ ぞ う
今未曾有 の意想外 な醜 事件 がも ちあがった のである。
古
ろう、そして⋮⋮⋮そして⋮⋮結局おれがあのイソップ
の、あの道化の、あのピエローの仲間ではなく、かえっ
も軽蔑せずにはおれぬげすな人間だから、先刻、長老の
彼は 肚 の中で、フョードル・パーヴロヴィッチはどこまで
過程を経て、腹を立てているのが恥ずかしくなってきた。
ない、デリケートな紳士らしく、急速に一種微妙な心的
修道院長のところへはいって行ったとき、真実申し分の
ミウーソフはイワン・フョードロヴィッチといっしょに
こうした殊勝な心がけは、修道院長の食堂へはいった
心したのである。
修道院相手の訴訟はいっさいとりやめてしまおう、と決
段にしてからが、ごくわずかなことなんだから。そして
も、きっぱり譲歩してしまおう、それにあんなものは値
にあるのか、 彼は自分でも知らなかった︶、 今日すぐに
係争中の森林の伐採権も漁業権も︵そんなものがどこ
たんだということを証明してやろう⋮⋮﹄
インスピレーション
いっさいは﹃ 霊 感
﹄から起こったのである。
庵室でしたように、彼といっしょに冷静を失って、自分
とき、さらに強固になった。しかし、修道院長のところに
てみんなと同じように、あいつのためにひどい目に合っ
まで夢中になることはないのだと思った。﹃少なくとも、
は正式には間数が二つしかなかったので、食堂というも
八 醜態
これについて坊さんたちには何の罪もないのだ﹄と、彼
のはなかったわけだ。もっとも、長老の庵室よりはずっと
はら
は修道院長のところの上がり口で、急にそう考えた。
﹃も
131
よった煮魚、それから 魚 の か つ れ つにアイスクリーム
た。蝶
鮫 の魚
汁 に魚肉饅頭、何か巧みな特別の料理法に
たところによると、このときの食事は五皿調理されてい
ウオッカは全部出ていなかった。後でラキーチンの話し
壺 などが出ていた。
院製の ク ワ スを入れた大きなガラスの るすばらしい蜂蜜が 二壜 、それに近在でも有名な、修道
焼かれたパンが三いろに、 葡萄酒 が二本、修道院ででき
はきれいだし、食器はぴかぴか光っている。じょうずに
けである。が、それも比較的の話である。とにかく卓布
部屋でいちばんみごとなのは、立派な器を並べた食卓だ
には高価な草花もたくさんおいてある。しかし、今この
その代わり、全体が光るほど 清楚 に磨きあげられて、上
そればかりか、床にペンキさえ塗ってないほどであった。
は二十年代の流行おくれな、マホガニイの革張りだった。
ろ同様、格別ぜいたくらしいところがなかった。家具類
手広く、便利にできていたが、部屋の飾りは長老のとこ
ガーノフとイワンがはいって来たとき、これらの人々はも
父に、もう一人の僧が招かれていた。ミウーソフとカル
いかなかったが、その代わりヨシフとパイーシイの両神
ラキーチンは身分が低くて、食事に招待されるわけに
うもしかたのないことであった。
る。だが、これはアリョーシャばかりでなく、誰にもど
彼に友情を寄せているアリョーシャを悩ませたものであ
うえもない正直な人間だと固く信じているのだ。これが
に置いてある金を盗まないという理由から、自分はこの
ではそれを自覚しないばかりか、かえってテーブルの上
た。もっとも、ラキーチンは破廉恥な男のくせに、自分
のだ。彼は自分が一種の敏腕家になることを確信してい
覚していたが、それを神経的に誇張してうぬぼれていた
のないうらやましがりやだった。人並すぐれた才能を自
ろんなことを聞きかじっていた。彼はきわめて落ち着き
のである。彼はいたるところに近づきをこしらえて、い
わざのぞきに行って、こういうことをみんなかぎ出した
ちょうざめ
ウハー
かじき
ぶ ど う しゅ
せいそ
と果物の甘煮を取り合わせたもの、最後がブラマンジェ
う修道院長の食堂で待ち受けていた。地主のマクシーモ
ふたびん
に似たジェリイであった。ラキーチンは我慢しきれない
フも脇のほうに控えていた。修道院長は来客を迎えるた
つぼ
で、かねて近づきになっている修道院長の勝手口をわざ
、
、
、
、
、
、
、
132
ればなりません﹂とミウーソフは愛想よく作り笑いをし
﹁尊師様、わたくしどもは、深くおわびを申し上げなけ
いう音を立てて、修道院長の手に接吻したのである。
に祝福を受けた。つまり 淳樸 な、平民らしい、ちゅっと
かえイワン・フョードロヴィッチとカルガーノフは完全
たため、結局その接吻は成り立たなかった。それに引き
たのか修道院長のほうで急にその手を引っこめてしまっ
フはまさに手を接吻しようとさえしかかったが、どうし
そは祝福を受けるためにそのそばへ近寄った。ミウーソ
ていた。彼は無言のまま客に会釈をしたが、一行も今度こ
が交じって、おも長な禁欲者らしいものものしい顔をし
しかしまだ壮健らしい老人で、黒い髪にはひどく 胡麻塩 めに、部屋のまん中へ進み出た。それは痩せて背の高い、
ていただきたいと申しておるのでございます⋮⋮﹂
なた様の祝福をお願いすると同時に、あの出来事を忘れ
とで償いをするつもりでおりますけれど、とりあえずあ
て欲しいと申しました⋮⋮。要するに、あの人は万事あ
て、心からの遺憾と悔恨と 懺悔 を尊師様のお前に 披露 し
と子息のイワン・フョードロヴィッチに
入った次第でございます。それで面目なさに、わたくし
も自分の非をさとって、心から後悔いたしまして、恥じ
のお耳にはいっていることと存じます。それゆえ、当人
たぶん ︵と彼は二人の僧をちらと眺めて︶、 もう尊師様
失礼なことばを漏らしたのでございます⋮⋮そのことは
三言場所柄をわきまえぬ⋮⋮ひと口に言えば、たいへん
息子さんとの不幸な親子喧嘩に夢中になって、つい二言
います。実はさきほどゾシマ長老様の庵室で、あの人は
ごましお
ながら、口をきった。しかしやはりもったいぶったうや
ミウーソフは口をつぐんだ。この 長台詞 の最後のこと
ながぜりふ
ひろう
こと づけ まし
うやしい調子で、﹁ほかでもありませんが、 わたくしど
ばを結ぶと、彼はすっかり自分で自分に満足してしまっ
ざんげ
もはあなたからお招きにあずかっておりました 伴 の一人、
て、さきほどまでの 癇癪 は跡形もなく消え失せたのであ
じゅんぼく
フョードル・パーヴロヴィッチを同道しないで参上いた
る。彼は再び真底から人間に対する愛を感じていた。修
つれ
しました。同氏はあなたの御供応を御辞退いたすのやむ
道院長はものものしい様子でこのことばを聞き終わると、
かんしゃく
なきに立ち至りました。それも理由あってのことでござ
133
いできない相談だと感じたのは事実である。がみずから
長の 食事 へのこのこ出かけて行くようなことは、とうて
あんな不体裁なことをしたあげく、そしらぬ顔で修道院
は本当に帰って行くつもりなのであった。長老の庵室で
の 悪戯 を演じたのである。ちょっと注意しておくが、彼
ちょうどこの時フョードル・パーヴロヴィッチが最後
ありがたそうに合掌しながら、ひときわ前へ乗り出した。
はうやうやしく 首 をたれた。地主のマクシーモフは格別
彼は聖像の前に立ち、声に出して 祈祷 を始めた。一同
さあ皆さん、どうぞ召し上がってくださいますよう﹂
くしどもはあの人を愛するようになったかもしれません。
この食事のあいだにあの人はわたくしどもを、またわた
﹁ひとり立ち帰られたかたのことは衷心残念に存じます。
軽く首を傾けて、こう答えた。
あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にわしはあ
せんが、その代わりわしのほうであの男に一つきたない、
れはこうですよ、あの男は実際わしになんにもしやしま
彼は道化た破廉恥のこみあげるままに、こう答えた。
﹃そ
憎むのです?﹄と聞かれたことを思い出した。そのとき
だいぶ前に、
﹃あなたはどうしたわけで誰それをそんなに
打とうという気になったのである。ふと今、彼はいつか
ございます﹄彼は自分自身の卑劣さに対して、人に 仇 を
ろっておれよりばかで下劣なんだ、という気になるので
てやろう。なあに、あいつらのほうがみんなそろいもそ
そこでわたくしは、それじゃひとつほんとに道化を演じ
間で、 人から道化もの扱いにされるような気がします。
人中へはいって行く時いつも、自分が誰よりも下劣な人
とばが、ふと胸に浮かんだのである。
﹃わたくしはどこか
は足を止めた。さきほど長老のところで言った自分のこ
ざんき
と き
きとう
愧 して、自責の念にかられていたというわけではない。
慚
の男が憎らしくなりましてね﹄今それを思い出すと、彼
こうべ
あるいは、かえって正反対であったかもしれない。しか
はちょっとのあいだ考えこみながら、静かな毒々しい薄
と
かたき
し、何にしても、 食事 に連なるのは無作法だと感じたの
笑いを浮かべた。その眼はきらりと光った、唇まで震え
いたずら
である。ところが、例のがた馬車が、宿屋の玄関先へ回
だした。
﹃どうせいったんやりかけたものなら、ついでに
き
されて、まさにその中へ乗りこもうとした時、不意に彼
134
な悪ふざけというようなものではけっしてない。この点
劣な行為にとどまって、犯罪だの、裁判ざたになるよう
ということはよく承知していた。しかし、それは単に陋
ら、それこそたちまち、極端な陋劣な行動に出るだろう、
押えることができない、何かちょっとした衝動があった
もよくわかっていなかったが、もうこうなっては自分を
へおもむいた。彼はまだ、何をするつもりなのか自分で
急ぎ足に修道院へとって返し、まっすぐに院長のところ
さ!﹄ 彼は御者に待っておるように言いつけておいて、
いつらに 斟酌 することがあるもんか、それっきりのこと
いつらの顔に思いきり 唾 をひっかけてやれ。なんの、あ
回復もおぼつかない、ええ、かまうもんか、もう一度あ
で現わすことができたであろう。
﹃もう今となっては名誉
間、彼の心の底に潜んでいた感じは、このようなことば
しまいまでやっちまえ﹄彼は急にこう決心した。この瞬
かっと血が頭に突き上がった。彼は言句につまったが、
﹁断然、できない⋮⋮絶対にできない!﹂
﹁だめだ、もうこれは我慢ができない!﹂と彼は叫んだ。
が、一どきによみがえって頭をもたげたのである。
てしまった。彼の心の中で消滅し鎮静したすべてのもの
から、たちまちにしてこのうえなく 獰猛 な気分に変わっ
のである。ことにミウーソフはこのうえなく優しい気分
きっと醜態をさらけ出すに違いないと、一同は直覚した
た。今にも何か忌まわしいばかげた事件がもちあがって、
一瞬間、人々はじっと彼の顔を見つめながら、押し黙っ
たるような声でわめいた。
はほうら、このとおりさ!﹂と彼は広間じゅうに響きわ
﹁みんなわしが帰ってしまったと思っていたのに、わし
もなく意地の悪い声を立てて笑いだした。
顔をじろじろと眺めながら、引き伸ばしたような、臆面
に立ち止まって、一同をひとまわり見回すと、みんなの
つば
では、 彼はいつもおのれを抑制するすべを心得ていて、
もはやことばどころではなかった。彼は自分の帽子を引っ
しんしゃく
ときには自分でも感心するほどうまくゆくことがあった。
つかんだ。
どうもう
彼が修道院長の食堂へ姿を現わしたのは、いま祈祷が済
﹁いったいあの人は何ができないというんだろう?﹂と
しきい
んで、一同が食堂に近づいた瞬間であった。彼は 閾 の上
フョードル ・ パーヴロヴィッチがわめき立てた。﹁何が
ン? そら、そこに立っておるのがフォン・ゾンでさあ。
よ。もうこうなればミウーソフさんといっしょにどこへ
わい。わしも帰ります。わしはそのつもりで来たんです
﹁ミウーソフさんがだめなら、わしもやっぱりだめです
を忘れて叫んだ。
﹁いや、いや、だめなことです!﹂とミウーソフはわれ
血縁の和楽と愛の中に一致和合してくださりませ⋮⋮﹂
て、この平和な食事のあいだに、神に祈りを捧げながら、
の底からのお願いでござります。一時のいさかいを捨て
た。
﹁皆様、まことに失礼ながら﹂と彼はつけ加えた、
﹁心
﹁それはようこそ、さあおはいりくだされ﹂院長は答え
にあずかった一人でございますが?﹂
丈様、はいってもよろしゅうございますかね? 御招待
がれて、おまけにいい年をしておりながら、箱の中へ
剥 う場所をこう申すそうですな︱︱︱殺されたうえに、裸に
男は悪所で殺されたんです︱︱︱お寺様のほうではああい
れはある犯罪事件に関係したことでございますよ。この
ン・ゾンというのは、何者か御存じでございますか? こ
﹁いんにゃ、おまえはフォン・ゾンだよ。方丈様、フォ
たくしはマクシーモフです⋮⋮﹂
﹁でも、わたくしもフォン・ゾンではございません、わ
院長様がフォン・ゾンであらっしゃるはずもなかろうぜ﹂
はどなった。
﹁でなかったら誰に言うんだい? まさか僧
﹁むろんおまえにだよ﹂とフョードル・パーヴロヴィッチ
クシーモフは 唖然 たるかたちで口ごもった。
﹁あなたは⋮⋮わたくしにおっしゃるので?﹂地主のマ
御機嫌さん、フォン・ゾン!﹂
でも行きます。ミウーソフさんがお帰りなら、わしも帰
たたきこまれて、貨物列車でペテルブルグからモスクワ
あぜん
るし、お残りなら、わしも残ります。あなたが血縁の和
へ発送されたんですよ、しかも番号を付けられましてね。
は
楽とおっしゃったのが、格別ミウーソフさんの胸にこた
ところで箱の中へたたきこまれるとき、 売女 どもが歌を
ばいた
えたのですよ、院長様。あの人は自分を、わしの親類だ
うたったり、手琴つまりピアノですな、あれを 弾 いたり
ひ
と認めておらんのですからな。そうだろう、フォン・ゾ
﹃絶対にできない、どうしてもできない﹄んだろう? 方
135
136
でございます。それが墓場から生き返って来たのですよ。
したそうですよ。これが今申した当のフォン・ゾンなの
憚 なく所信を申し上げたいと存じます。さよう、わた
忌
ますが、それでも名誉を重んずる騎士でございますから、
す、わたくしは道化者で、道化じみたまねばかりいたし
叫んだ。
﹁行こう!﹂と、ミウーソフはカルガーノフに向かって
だろう?﹂そういう声が僧たちのあいだから聞こえた。
﹁いったいこれはなんたることだ?
ろを申し上げるためであったかもしれません。わたくし
たのも、あるいは自分で親しく一見して、忌憚のないとこ
なんにもありゃしません。わたくしがここへまいりまし
ウーソフさんの肚の中には、傷つけられた自尊心のほか、
くしは名誉を重んずる騎士でございます。ところが、ミ
きたん
そうだろう、おいフォン・ゾン?﹂
﹁いんや、失礼じゃがな!﹂と、また一度部屋の中へ踏ん
の倅 のアレクセイがここにお籠 りしておりますでな、父
どうしたというの
ごみながら、フョードル・パーヴロヴィッチがかん高い声
親としてあれの身の上が気がかりでございます。また心
こも
でさえぎった。
﹁まあ、わしにも言うだけのことを言わし
配するのがあたりまえでございますよ。わたくしは始終
倒れかかったものは倒れて
わ
がた、わたくしにはあなたがたが、憤慨に耐えんのでご
たくしは起き上がりたいのでございます。有徳の神父様
がれっこありません。それじゃあたまりませんや!
しまいます。また一度倒れたものは、もう永久に起き上
んなありさまでしょうか?
目にかけるつもりでございます。いったい今わが国はど
せがれ
てください。あちら ※ 庵室でわしはぶしつけ者という汚
耳をそばだてて、お芝居をしながら、そっと様子を見て
かまつか
名を着せられましたが、それというのも、わしが ※ のこ
おりましたが、今こそあなたがたの前で最後の一幕をお
かまつか
とをほざいたからなんですよ。わしの親類すじのミウー
ソフさんのお好みでは、ことばの中に plus de noblesse
︵ 真摯さよりは気高さがいい ︶んだ
que de sincérité
そうですがな、わしの好みはその反対で plus de sincérité
︵ 気高さよりは真摯さがいい ︶んで
que de noblesse
すよ。 noblesse
︵ 気高さ ︶なんかくそくらえだ! な
あそうじゃないか、フォン・ゾン? 院長様へ申し上げま
137
ありますからなあ。そんなのは全く不体裁ですよ!
すよ! 時にはとても口に出しては言えないことだって
かじかこういうことを話すことができますかというんで
しかじかこういうことをいたしましたと、つまりそのし
すよ。それでなくて、どうしてわたくしがみんなの前で、
となるのであります。しかも、それが昔からのお定まりで
を定められました。それであってこそ人間の懺悔が神秘
人様 たちが、懺悔は口から耳へ伝えよと、ちゃんと 上
掟 懺悔することが許されておるのでございますか?
い
昔の
で懺悔をしておるじゃありませんか。全体、声を出して
ころが、あの庵室ではみんな 膝 を突いたまま、大きな声
その前にひれ伏してもよいくらいの覚悟でおります。と
ございます。これはわたくしもありがたいものと思って、
ざいます。いったい 懺悔 というものは偉大なる聖秘礼で
のである。で、それを正確に言い現わすこともできなかっ
ヴィッチにはこの非難の意味が初手からわからなかった
きこんだのであるが、しかも当のフョードル・パーヴロ
く連れて行く愚かな悪魔が、この古い非難を彼の耳に吹
りたてて、いずことも知らぬ汚れの深みへ、しだいに遠
ドル・パーヴロヴィッチをつかまえて、本人の神経をか
自然といつの間にか消滅してしまった。ところがフョー
ものであったから、この町ばかりでなく全体にわたって、
するなどということであった。この非難はばかばかしい
こなうほどに至った、とりわけ長老は懺悔の神秘を濫用
は長老があまり尊敬されすぎて、修道院長の威厳さえそ
の採用されている他の修道院に関してであった︶。 それ
はいったことがある︵この修道院だけでなく、長老制度
いつか、意地の悪い 讒誣 が広まって、大主教の耳にさえ
ロヴィッチは世間の取りざたには耳の早いほうであった。
ざんげ
や、神父様がた、あなたがたといっしょにおったら鞭打
たし、おまけに長老の庵室では誰ひとり膝をつくものも
ざんぶ
教のお仲間へ引きずりこまれてしまいますて、⋮⋮わし
なければ、大きな声で懺悔するものもなかった。したがっ
ひざ
はよいおりがあり次第、宗教会議へ上申書を送りますよ、
て、フョードル・パーヴロヴィッチはそんなことを目撃
おきて
そして倅のアレクセイは家につれて帰ります⋮⋮﹂
するはずは全然なく、ただうろ覚えの古い風説や讒誣を
しょうにんさま
ここでちょっと断わっておくが、フョードル・パーヴ
138
﹁お許しください﹂と突然、院長が言った。
﹁ 古 からのこ
んだ。
﹁なんというけがらわしいことだ!﹂とミウーソフが叫
まるで急坂をくだるように突進してしまったのである。
していたけれど、もう自分で自分を制することができず、
かしさが加わっていくばかりだ、ということをよく承知
をすべらせてしまった愚かなことばに、なおいっそう愚
彼は自分でもこのさき一語を加えるごとに、すでに、口
ろ自分自身にさっそく、証拠だてようと思ったのである。
たことでないということを聞き手に、というよりはむし
なと気がついたので、自分の言ったのはけっしてばかげ
話をもちだすと同時に、うっかりばかなことを口外した
種にしゃべりだしただけの話である。しかしこの愚劣な
ねえ、お偉いお坊さん、お寺に閉じこもって人の焼いた
な褒美がもらえるのなら、わしだって精進をしますぜ!
に天国へ行けると思っておいでなさる?
精進をしておいでなさる?
とおりですよ!
は ※ の中にはありませんぜ、それはもうわしが言明した
はごまかしが嫌いで、真実が欲しいんでさ! だが、真実
﹃群盗﹄の中にもありまさあね。なあ神父さんたち、わし
承知の助だよ!
くっつけるお辞儀の 繁文褥礼 だ! そんなお辞儀は先刻
り型の文句と所作だ!
﹁ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ! 偽善と紋切り型だ! 紋切
ドル・パーヴロヴィッチに会釈した。
礼を申し上げます﹂そして彼は腰を深くかがめてフョー
はんぶんじょくれい
ごちそう
ほんとにそん
どうしてそんなことの 褒美 ほうび
坊さまがた、なんだってあんたがたは
﹃唇に接吻、胸に 匕首 ﹄とシルレルの
あいくち
古臭い嘘っぱちと頭を地べたに
とばに﹃人々われにさまざまなることばを浴びせて、つ
パンを食べながら、天上の報いを待っているより、世の
かまつか
いには聞くに耐えざるけがらわしきことすらも口にす。
中へ乗り出して徳を行なって、社会に貢献されたらどう
いにしえ
われかかることばをも忍びて聞く、これキリストの医術
ですな︱︱︱しかし、こいつは少々骨ですよ。院長様、わ
た
にして、わがおごれる 魂 を矯 めんがために、おくられた
しでもなかなかうまいことを言いましょうがな。いった
こころ
るものなればなり﹄とあります。それゆえわたくしども
いここにはどんな 御馳走 があるんだろう?﹂と彼は食卓
とうと
も、このうえなく 貴 いお客人たるあなたにつつしんでお
139
カルガーノフも飛び出した。
ミウーソフはぱっと部屋を駆け出した。 それについで、
神父が言った。パイーシイ神父は強情に押し黙っていた。
﹁それはあまりといえば乱暴な言いぐさです﹂とヨシフ
様、あなたたちは人民の生き血をすすっておいでなさる
して、ここへ持って来たんでさ!
イカ、二カペイカの金を、家族や国家の入用を後回しに
は勤勉なロシアの百姓が 胼胝 だらけの手で 稼 いだ一カペ
いこういうものは誰がここへ持って来たのだね? これ
のびんをしこたま並べましたな、へ、へ、へ! いった
としたことが!
ほんとにお偉い方丈
こいつは ※ どころの騒ぎじゃない。酒
セーフ兄弟商会の蜂蜜か⋮⋮これはどうもお坊さんがた
へ近寄った。
﹁ファクトリヤの古いポートワインに、エリ
かし彼は自分で自分の作り涙にすっかり感動してしまっ
ために苦い涙を流したこともありはしないのである。し
の生涯に特別な意味を持ったこともなければ、彼がその
またここで断わっておくが、けっしてこの修道院が彼
カだってあんたがたにあげるものか!﹂
ろか、百ルーブルも、百カペイカも、なんの、一カペイ
主義の時代だ、汽車と汽船の世の中だ。千ルーブルはお
たのもあんたがたですぞ!
じゃ。七つの会議でわしをのろって、近在を触れまわし
の﹃ 憑 かれた女﹄をわしにたてつかせたのもあんたがた
寺のためにわしはいろいろと苦しい涙を流した! 女房
お寺もわしの生涯にとっては意味深長な所だった。この
て、 拳 でテーブルをどんとたたいた。﹁このちっぽけな
き討ちをするんです!﹂と彼は憤怒の発作をよそおっ
仇 過去の青年時代や、自分の受けたすべての侮辱に対して
なんの、もうけっしてあげやしませんよ。わしは自分の
た
こ
かた
﹁じゃあ、お坊様がた、わしもミウーソフさんの後を追っ
のだ!﹂
もう二度とここへは来ませんぜ、膝を
かまつか
て行きますよ!
て、一瞬のあいだ自分でもそれを信じないばかりの気持
つ
こぶし
ついて頼まれたって来るこっちゃありません。わしが千
になったのである。そればかりか感激のあまり泣きだし
かせ
ルーブル寄進したもんだから、それであなたがたはまた
そうにさえなったくらいだが、それと同時に、もうそろ
もうたくさんだ、今は自由
目を皿にして待ってなすったのでがしょう、へ、へ、へ!
140
すよ。さあイワン・フョードロヴィッチ、いやさ、わしの
アレクセイは父親の権利で、永久に引き取ってしまいま
なされ、わしは御免をこうむりますぜ。ところで、倅の
ん弁説だよ! お坊さんがたはお好きなことを言ってい
﹁ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ、ちんぷんかんな寝言とくだら
れもこの教えのとおりにいたしております﹂
むことなく、みずからの心を迷わしむるなかれ﹄われわ
る凌
辱 をばつとめて耐え忍び、かつなんじを汚す者を憎
﹁また、こうも言ってあります。
﹃なんじの上に襲いかか
の意地の悪いでたらめに頭を下げて、再び威圧するよう
そろお 神輿 をあげるころあいだと感じた。修道院長はそ
まま、むっつりして馬車へ乗ろうとしていた。しかしこ
向きもしないで、イワン・フョードロヴィッチが無言の
それに続いて、別れのためにアリョーシャのほうをふり
パーヴロヴィッチはそのあいだに馬車へ乗りこんでいた。
ら、釘づけにされたように突っ立っていた。フョードル・
アリョーシャは黙ってまじまじとこの光景を眺めなが
がしても承知せんぞ﹂
枕も 蒲団 も引っかついで来るんだ。ここにおまえの 匂 い
から声をかけた。﹁今日すぐにうちへ帰っちまうんだぞ、
﹁アレクセイ!﹂と、彼はわが子の姿を見つけると、遠く
ラキーチンがアリョーシャに指さしたのである。
出した。 ちょうどこの 刹那 、 彼の出て来た姿を認めて、
彼はわめきたてながら、手ぶり身ぶりをしながら駆け
の幸運を取り逃がさんようにしろよ!﹂
みこし
尊敬すべき倅や、わしの跡からついて来なよ! フォン・
こで、あたかもこの 插話 の不足を補うかのように、 滑稽 かろう!
エピソード
せつな
ゾン、なにもおまえだってこんなとこに居残ることはな
に言った。
さあ、今すぐ町のおれんとこへ来なよ。おれ
なほとんどあり得べからざる一幕が演じられた。ほかで
りょうじょく
ほんの一 露里 そこそこだよ。精
こっけい
にお
んちはおもしろいぞ!
もない、不意に馬車の踏み段のそばへ地主のマクシーモ
こぶた
ふとん
進油の代わりに、 粥 を添えた 子豚 を出すぜ。いっしょに
フが現われたのである。彼は遅れまいとして、息を切ら
エルスター
飯を食おうよ。コニャクも出すし、後からリキュールも
せながら駆けつけたのだ。ラキーチンとアリョーシャは
いちござけ
カーシャ
出る。 苺酒 もあるぜ⋮⋮。おいフォン・ゾン、せっかく
141
﹁わたくしも、お連れになって!﹂
潜りこもうとしながら彼は叫んだ。
べながら、どんなことでもやってのけそうな意気ごみで、
な嬉しそうな笑い声をたてて、恐悦らしい色を顔に浮か
﹁わたくしも、わたくしもごいっしよに!﹂と、小刻み
台につかまりながら馬車の中へ飛びこもうとした。
いた踏み台へ、もう我慢しきれないで片足かけると、車
で、まだイワン・フョードロヴィッチの左足が載っかって
彼が走って来る様子を目撃した。彼は恐ろしく取り急い
かって腹立たしげに叫んだ。
﹁やれ!﹂と、イワン・フョードロヴィッチは御者に向
である。
へはね飛ばされた。彼が倒れなかったのは、ほんの偶然
モフの胸を突きのけた。で、こちらは一間あまりも後ろ
ヴィッチが突然、黙ったまま、力任せに、どんとマクシー
し か し、 も う 座 席 に 坐って い た イ ワ ン ・ フョー ド ロ
ン、御者台へ飛び上がれよ!﹂
者といっしょに御者台へ乗っけるかな?⋮⋮フォン・ゾ
せてやろう。いいだろう、フォン・ゾン?
だってあいつをあんな目に合わせるんだ?﹂そう言って、
それとも御
﹁そうら、わしの言わんこっちゃないて﹂とフョードル・
﹁これ、おまえどうしたんだ? どうしたんだよ? なん
うちょうてん
こいつこそ墓場から生き
パーヴロヴィッチは有
頂天 になって叫んだ。
﹁こいつはフォン・ゾンだ!
﹁そうれ、見ろやい!﹂と、二分ばかり黙っていてから、
はもう動き出していた。イワンは何の答えもしなかった。
フョードル・パーヴロヴィッチは体を起こしたが、馬車
息子に流し目をくれながら、フョードル・パーヴロヴィッ
だが、おまえ
ン式を発揮して、うまうまお 食事 をすっぽかして来たん
チがまた言った。
﹁おまえは自分でこの修道院の会合をも
返って来た正真正銘のフォン・ゾンだ!
だい? ずいぶん鉄面皮でなくちゃできない芸当だぜ!
くろんで、自分で 煽 り立てて賛成しておきながら、いま
ぬし
どんなフォン・ゾ
わしの面も千枚張りだが、お主 の面の皮にも驚くぜ! 飛
どうしてあすこを脱け出て来たい?
ワーニャ、この男を
と き
び上がれ、飛び上がれ、早くさ!
さら何をそんなにぷりぷりしているんだい?﹂
あお
乗せてやれよ、賑かでいいぞ。どこか足もとへでも坐ら
142
﹁もうばかなことをしゃべるのはたくさんです、せめて
今のうちでも休んだらどうです﹂とイワン・フョードロ
ヴィッチは容赦なくきめつけた。
フョードル・パーヴロヴィッチはまた二分間ばかり黙
りこんでいた。
﹁今コニャクを飲んだらいいんだがなあ﹂と彼はしかつ
めらしく言った。が、イワン・フョードロヴィッチは返
事をしなかった。
﹁帰ったらおまえも一杯やるさ﹂
イワン・フョードロヴィッチはやはり黙っていた。
フョードル・パーヴロヴィッチはまた二分ばかり待っ
てから、
﹁だがアリョーシカはなんと言っても寺から引き戻すよ、
おまえさんにはさぞおもしろくないことだろうがね、最
も尊敬すべきカルル・フォン・モールさん﹂
イワン・フョードロヴィッチは小ばかにしたようにひょ
いと肩をすくめると、外方を向いて、街道を眺めにかかっ
た。それからずっと、家へ帰るまでことばをかわさなかっ
た。
143
いんとう
広々とした頑丈な造りであったから、母屋のほうにも台
はここで煮たきをさせることに決めていた。彼は台所の
所はあったのだけれど、フョードル・パーヴロヴィッチ
臭いが嫌いなので、夏も冬も食べ物は中庭を通って運ば
第三篇 淫蕩 な人たち
の屋根がついていた。まだかなり長く 保 ちそうで、手広
鼠色に塗りあげた、中二階つきの平家建てで、赤い鉄板
て古い家ではあったが、外観はなかなか気持がよかった。
るっきり町はずれというわけでもなかった。それはきわめ
中心からかなり隔たってはいたが、そうかといって、ま
フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフの家は町の
ついては、も少し詳しく説明しなければならぬ。しかし、
うまだ若い下男であった。さて、この三人の召し使いに
リイ、その妻の老婆マルファ、それにスメルジャコフとい
いるにすぎなかった。その三人というのは、老僕グリゴ
それに 傍屋 の従僕部屋にわずか三人の召し使いが住んで
ドル・パーヴロヴィッチとイワン・フョードロヴィッチ、
とができた。しかしこの物語の当時、この家にはフョー
たから、奥の者も召し使いも、今の五倍は優に 容 れるこ
い
せていた。だいたいこの家は大家族むきに建てられてい
く居心地よくできていた。いろんな物置きだの納戸だの、
老僕グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ・クツーゾフのこ
一 従僕の部屋にて
思いもかけない階段だのがたくさんあった。鼠もかなり
とは、もうかなりに話してある。これは、もし何かの原
はなれ
いたが、フョードル・パーヴロヴィッチはたいしてそれ
因で︵ときどきそれは恐ろしく非理論的なものであった
も
には腹を立てなかった。
﹃まあ何にしても、夜分ひとりの
が︶、いったんそれを間違いのない真理だと思いこんだ暁
ばくしん
ときさびしくなくっていいわい﹄実際、彼は夜分は召し
には、しつこくその一点に向かって一直線に 驀進 すると
はなれ
おもや
使いを 傍屋 へ下げて、一晩じゅう 母屋 にただひとり閉じ
いった頑固一点張りの人間であった。概して正直で清廉
はなれ
こもるのが習慣であった。その傍
屋 は邸内に立っていて、
144
小金がたまっていたので︶。しかしグリゴリイはいきなり
りに 口説 いたものである︵二人のふところにはいくらか
へでもおもむき、そこで何か小商売を始めたらと、しき
フョードル・パーヴロヴィッチのもとを去ってモスクワ
うことがあった。たとえば農奴解放のすぐあとなどには、
ど、よくいろんなことを言ってうるさく良人につきまと
は生涯、 良人 の意志の前には絶対的に服従してきたけれ
潔白な人物であった。妻のマルファ・イグナーチエヴナ
意地な道化者のフョードル・パーヴロヴィッチは、彼自身
思ったのは、けっして思い違いではなかった。 狡獪 で片
る勢力をもっていることを知っていた。そして彼がこう
れにグリゴリイは、自分が主人に対して、異論のないあ
給金を定めて、それをきちんきちんと支払っていた。そ
フョードル・パーヴロヴィッチは夫婦に対してわずかな
そ し て 結 局、 二 人 は こ の 家 を 去 ら な かった。 そ こ で
かなわねえだ。もうこのさき口はきくまいぞ﹂
﹁わからにゃわからんでええだが、それはそうなくちゃ
はマルファに向かって言った。
﹁義務ちゅうのはどんなことだか知っとるか?﹂と、彼
うもんだ﹄と言い渡した。
なければならない場合がある。そんなとき身辺に誰か忠
である。世の中には、ある種の事柄に対して、十分警戒し
も知っていて、いろいろなことに恐れをいだいていたの
気地がなかった。それがどんな事柄であるかは、自身で
おっと
断固として、女はばかばかりぬかす、﹃女ちゅうものは、
の言いぐさのように﹃世の中のある種の事柄に対しては﹄
﹁義務ちゅうことは知っとるだよ、グリゴリイ・ワシー
実な人間がいなくては心細かったが、グリゴリイは忠実
く ど
どいつもこいつも不正直なもんだでな。けんど以前の御
なかなかずぶとい気性を持っていたけれど、ある﹃別種
リエヴィッチ。だけんど、どういうわけでわしらがここ
という点では無類な人間であった。フョードル・パーヴロ
こうかい
主人の家を出るちゅう法はないぞ、それがたとえどんな
な世の中の事柄﹄に対しては自分でも驚くほど、から意
に残っておるちゅうことが義務なもんか、それがいっこ
ヴィッチはこれまで世の中を渡る間にも、幾度となくな
きょう び
人であったにしても、それが 今日日 こちとらの義務とい
うわかりましねえだよ﹂とマルファが強情に答えた。
145
な虫けらのように残忍非道なことをしてのけるフョード
わまりなく、しかもその淫欲のためにはしばしば、害悪
れはほとんど病的といってもいい状態であった。 放埒 き
さえ、その理由を明らかにすることはできなかった。そ
議にも瞬間的に心に感じるのであった。しかも彼自身で
分の身辺に置きたいというただならぬ要求を、突然不思
で、フョードル・パーヴロヴィッチは誰か忠実な人間を自
端な、ときにはむしろ複雑微妙な場合さえよくあったの
だけなら、さして恐ろしくもなかったはずだが往々、極
ドル・パーヴロヴィッチも、打ったりなぐったりされる
毎回お説教を聞かせるのが常であったが。しかしフョー
つもグリゴリイが彼を救い出した。もっともそのあとで
ぶつかったこともよくあったが、そういうときには、い
ぐられそうな、しかもこっぴどくなぐられそうな場合に
たら何か一つ二つ、それも全く縁のないむだ口をたたき
寄せる、それもただじっとその顔を見つめて、気が向い
なくてはならない、心の 疼 むようなときにその男を呼び
まり、昔なじみの親しい﹃自分以外の﹄人間が、ぜひい
いけれど、しかし、危険な恐ろしい人間からである。つ
自分を守ってくれる︱︱︱誰から?
ら脅かすようなことを言わないが、 す わという場合には、
ないことで、現世のことにしろ来世のことにしろ、なん
しない、しかし何よりも大切な点は、けっして非難をし
していながら、忠順の心からいっさいを見のがして反抗
れるすべての不行跡を見、かつその裏の裏まで知り尽く
て自分のような道楽者ではないが、目のあたりに行なわ
て 傍屋 のほうにでもいて欲しかった。その男は、けっし
た男が自分の身近に、同じ部屋の中ではなくても、せめ
た。こういう瞬間に彼は、自分に信服した、しっかりし
はなれ
ル・パーヴロヴィッチが、ときどき、酔っ払ったおりな
合うくらいが関の山で、もし相手が平気な顔をして別に
しんがい
ほうらつ
どに、不意と心の中に精神的の恐怖と、非道徳的な 震駭 腹も立てないようなら、それでなんとなく心が休まるし、
いた
を感じるのであったが、それはほとんど生理的に彼の魂
もし腹を立てれば、よけい心がめいろうというものであ
ど
に反応した。
﹃そんなときわしは、魂が 咽喉 の辺で震えて
る。こんなこともあった︵もっともそれはごくたまさか
の
おるような気持だ﹄彼はときにこんなことを言い言いし
誰からかはわからな
、
、
146
リョーシャは、父にとってついぞこれまで覚えのないも
点で、彼の﹃心を突き刺した﹄のである。あまつさえ、ア
見ておりながら、ちっともとがめ立てをしない﹄という
こった。アリョーシャは﹃いっしょに住んで、何もかも
似寄ったことがフョードル・パーヴロヴィッチの心に起
る。アリョーシャが帰って来たときも、ちょっとこれに
なる。と、もう聖人のような眠りに落ちてしまうのであ
することもある。そして御当人はぺっと 唾 を吐いて横に
かすると別れぎわに、ひやかしたり冗談口をたたいたり
ない話をちょっとして、すぐにさがらしてしまう。どう
ると、フョードル・パーヴロヴィッチは思いきりくだら
とでいいから来てくれという。こちらが起きて行ってみ
中に傍
屋 へ行って、グリゴリイをたたき起こすと、ちょっ
のことだが︶
、フョードル・パーヴロヴィッチがそれも夜
ならず、 すぐさまその無礼者をとっちめるのであった。
とでも彼女のことを悪く言うような当てこすりは我慢が
て、二十年も後の今でも、誰の口から出たにせよ、ちょっ
な女に対する彼の同情は、一種神聖なもののようになっ
とは、すでにこの物語の初めに述べておいた。この薄倖
り軽はずみな陰口をきく者を、容赦しなかったというこ
てまでかばいだてして、断じて彼女のことを悪く言った
すなわち﹃ 憑 かれた女﹄を、自分の当の主人にたてつい
ナを憎み、 その反対に後妻のソフィヤ ・ イワーノヴナ、
イ・フョードロヴィッチの母アデライーダ・イワーノヴ
グリゴリイがフョードルの先妻、つまり長男ドミトリ
白した。
うとも思わなかったあるものを理解した、と 肚 の中で告
アリョーシャが去って行ったのち、彼は今まで理解しよ
て、 こういうことはすべて思いもかけぬ賜物であった。
はなれ
のをもたらした。それは、この老父に対して少しも軽蔑
外貌からいうと、グリゴリイは冷酷厳粛な人物で、口数
はら
の念をいだかないばかりか、反対に、それほどの価値も
も少なく、物を言ってもしかつめらしく軽はずみなとこ
つば
ない父にいつも優しく、しかも全く自然ですなおな愛慕
ろの少しもない男であった。彼がすなおで温順な自分の
つ
の情を寄せるのであった。これまで家庭というものを持
妻を愛しているかどうかはちょっと見ただけでは、 はっ
じゃいん
たず、ただ﹃ 邪淫 ﹄のみを愛してきた、老放蕩児にとっ
147
自分の無口の価値を認めて、そのため自分を賢いものと
ていないことをとうの昔から知っていた。彼女は良人が
ナーチエヴナも、良人が自分の助言など少しも必要とし
気配りをいつも一人で考えていたので、マルファ・イグ
しくどっしり構えたグリゴリイはいっさい自分の仕事や
ごくまれにしか口をきかなかったことである。ものもの
夫婦が生涯、きわめて必要な当面の事柄以外には、ごく
点で彼を絶対に尊敬していた。変わっていたのは、この
黙々としてグリゴリイに心服し、その精神的に卓越した
夫婦になったそもそもの初めから、なんの不平も言わず
良人よりはるかに分別があった。が、それでいて彼女は
くらいであった。少なくとも、実生活の事柄にかけては
かったばかりか、どうかするとかえって亭主より利口な
マルファ・イグナーチエヴナはけっしてばかな女ではな
いたし、いうまでもなく妻もそれを承知していた。この
きりしたこともいえなかったが、しかし実際彼は愛して
二人のあいだには子供が授からなかった。もっとも赤
と踊りを絶ってしまった。
に、マルファ・イグナーチエヴナも、それきりふっつり
檻はその時限りで、生涯二度とくり返さなかった。それ
をつかんで少し引き回して彼女をこらしめた。しかし折
ていたが、一時間の後、自分の小屋へ戻ると、彼女の髪
その踊り方であった。グリゴリイは妻の踊りを黙って見
付けをした同家の家庭劇場で、彼女もいっしょに踊った
ころ、モスクワから 招聘 された舞踊の師匠が踊りの振り
と違って、彼女が富裕なミウーソフ家で女中をしていた
踊り﹄を踊った。それは女房どものような田舎臭いもの
然、 合唱隊 の前へ飛び出して、特別な身ぶりで﹃ロシア
き、当時まだ若かったマルファ・イグナーチエヴナが突
踊ったりしたことがある。
﹃草原で﹄の踊りが始まったと
や女房どもが、 田舎 の地主邸へ呼び集められて歌ったり
その年のこと、あるとき、当時まだ農奴であった村の娘
ヴロヴィッチがアデライーダ・イワーノヴナと結婚した
しょうへい
いなか
みてくれるのだと悟っていた。グリゴリイはけっして妻
ん坊が一人生まれたが、それもすぐ死んでしまった。グ
コーラス
を折
檻 したことがなかった。もっともたった一度、それ
リゴリイは明らかに子供好きで、またそれを隠そうとも
せっかん
もほんのちょっと打ったことはある。フョードル・パー
148
り落胆してしまって、洗礼の日までむっつり黙りこんで
六本あったのである。これを見たグリゴリイは、すっか
き刺した。ほかでもない、その男の子は生まれつき指が
てみると、その子は悲しみと恐れとをもって彼の心を突
イグナーチエヴナの懐妊のあいだだけであった。生まれ
が彼に喜ばしい希望をいだかせたのは、 ただマルファ・
しこんなことは皆、もう前に話しておいた。自分の子供
のおかげで頬
桁 を一つ見舞われたような始末だが、しか
フョードロヴィッチとアリョーシャのめんどうを見た、そ
り、たらいで行水を使ってやったりした。ついでイワン・
年のあいだその世話を焼き、自分で髪を 梳 かしてやった
ドロヴィッチを自分の手もとへ引き取って、ほとんど一
たとき、彼は三つになったばかりのドミトリイ・フョー
かったのである。アデライーダ・イワーノヴナが出奔し
しなかった。つまりそれを口に出すのを恥ずかしがらな
た。明らかにそれ以上、口数をききたくない様子であっ
は不明瞭ではあったが、しっかりした声でこうつぶやい
﹁天道様のお手違いができたのでござりますよ⋮⋮﹂彼
グリゴリイはしばらく押し黙っていた。
﹁どうして龍なんで⋮⋮どんな龍かな?﹂
とグリゴリイはつぶやいた。
﹁どうしてちゅうて⋮⋮あれは龍でござりますだ⋮⋮﹂
方をして問い返した。
﹁それはまた、どうしたわけかな?﹂と僧は 剽軽 な驚き
鈍い眼つきでじいっと僧のほうを見つめただけであった。
しいしい押し出したような言い方で、ただそれと同時に、
大きな声で口数をきいたわけではなく、一語一語を用心
で洗礼などしなくてもよい﹄と言いだした。︱︱︱それも
出していた家の中へはいるなり、彼は、子供には﹃てん
ル・パーヴロヴィッチまでが教父の資格でわざわざ顔を
ていた。僧たちもしたくを整え、客も集まり、フョード
と
いたばかりでなく、口をきかないためにわざと庭へ出た。
た。
ひょうきん
ちょうど春のことで、彼は三日の間じゅう菜園 畝 をおこ
人々は一笑に付してしまった。そして哀れな赤ん坊の
ほおげた
していた。三日目に幼児に洗礼を受けさせることになっ
洗礼はいうまでもなくそのままとり行なわれた。グリゴ
うね
たが、それまでにグリゴリイはもう何か心に思案を決め
た。そして浅いささやかな墓穴に土をかぶせた時、彼はひ
に納めて、深い憂愁の面もちでじっとそれを眺めてい
棺 口瘡 のために死んだときには、自分でその子を小さい
鵞
家を明けていたほどである。しかし二週たって、子供が
なかったばかりか、目につくのさえいとって、たいがいは
いた二週間というもの、ほとんどそれを見向こうともし
段邪魔をするでもなかったが、その病弱な子供の生きて
に対する自分の意見は変えなかった。それかといって、別
リイは洗礼盤のそばで一心に祈りを捧げたけれど、 嬰児 新しい信仰に改宗するほどの気持にはなれなかった。
﹃神
旨に傾倒し始めてかなり心を動かされたらしいが、その
近になって彼は、近所に信者があったため、鞭打教の宗
なくその書物を尊び、かつ愛着したのかもしれない。最
りわからなかった。しかし、わからないがために、こよ
く長年のあいだ読み続けたが、それはほとんどまるっき
リン﹄の 箴言 や教訓の写しを手に入れて、しんぼうづよ
んで読んだが、またどこからか﹃ 聖 き父イサーク・シー
まれで、 大斎期 の際くらいのものであった、 約百記 を好
縁の 眼鏡 をかけるのであった。声をあげて読むのはごく
めがね
ざまずいて、 土饅頭 に額のつくほど礼拝するのであった。
信心﹄の書物を 耽読 したことから、彼の人相にはなおさ
えいじ
そのとき以来長年のあいだ、彼は一度も自分の赤ん坊の
らに大きなもったいらしさが加わった。
かん
しんげん
き
ことを口にしなかった。マルファ・イグナーチエヴナも、
おそらく、彼は神秘的な傾向を持っていたのかもしれ
ヨ ブ
彼の前では子供のことを思い出さないようにした。そし
ぬ。ところで、六本指の嬰児の出生とその死亡に引き続
おおものいみ
て誰かと自分の﹃赤ちゃん﹄の話をするようなことがあ
いてまるでわざとのように、もう一つ奇怪な、思いもよ
らくいん
きよ
ると、その場にグリゴリイ・ワシーリエヴィッチが居合わ
らぬ、突飛な事件が重なって、彼自身が後日言ったよう
がこうそう
さなくても、ささやき声で話したものである。マルファ
に、彼の魂に﹃ 烙印 ﹄を捺 したのである。それはこうで
どまんじゅう
の気づいたところでは、その墓場の一件以来、彼はもっ
ある、 ちょうど六本指の赤ん坊を葬ったその日のこと、
こ
たんどく
ぱら﹃神信心﹄に凝 りだし、たいがいひとり黙々として、
マルファ・イグナーチエヴナがふと夜半に眼をさますと、
お
﹃殉教者伝﹄に読みふけったが、そのつど、大きな丸い銀
149
150
た。上がり段へ出てみると、うめき声は明らかに庭の方
がって着物を着た。それはかなり暖かい五月の夜であっ
ようだ、 しかも、﹃女らしいぞ﹄ と言った。 彼は起き上
は耳を澄ましていたが、どうもこれは誰かうなっている
めたのだ。彼女は 愕然 とし良人を呼び起こした。こちら
生まれ落ちたばかりの嬰児の泣き声らしいものを耳に留
しかしこの事件については特別に説明しなければならな
それは言いたくても、 もう口がきけないからであった。
さまであった。 彼女は何ひとこと物を言わなかったが、
は女のそばにころがっており、産婦は 気息奄々 たるあり
赤ん坊を生み落としたばかりのところであった。赤ん坊
ない宗教狂女が、邸内の湯殿へはいりこんで、たった今
メルジャシチャヤというあだ名で町じゅう誰知らぬ者も
がくぜん
から聞こえてくる。しかし庭は夜になると屋敷のほうか
い⋮⋮
ここで彼は明らかに、その声は 耳門 からほど近く、庭の
えているのには眼もくれず、黙ったまま庭へ出て行った。
泣いているのだと思いこんで、ヒステリイのようにおび
声らしく聞こえる、きっと死んだ赤ん坊が自分を呼んで
を持った。そして妻が、自分にはどうしても子供の泣き
だ後まで多くの信心深い町の老婆たちに、﹃二アルシン
タ・スメルジャシチャヤは恐ろしく背の低い娘で、死ん
憾 させた特別の事情があったのである。このリザヴェー
震
快なけがらわしい疑惑を、徹底的に裏書きして、彼の心を
ここに、グリゴリイが以前からいだいていたある不愉
二 リザヴェータ・スメルジャシチャヤ
きそくえんえん
ら錠をおろしてしまううえに、ぐるりを高い堅固な塀で
とも
取り囲んであるから、中へはいる口はないはずであった。
ちょうちん
中に立っている湯殿の中から漏れてくるのであって、疑
と少しっきゃなかった﹄などと感慨深そうに述懐された
グリゴリイは家へとって返すと、 提燈 を 点 して庭口の鍵
いもなく女のうめき声だということを確かめた。湯殿の
ほどである。二十歳になる彼女の健康そうに赤味を帯び
しんかん
戸をあけて中をのぞいた時、彼はその光景の前に立ちす
ただだっ広い顔は、全く白痴の相をしていた。その目つ
くぐり
くんだ。いつも街をうろつき回って、リザヴェータ・ス
151
ヴェータが帰って来るたんびに、むごたらしく責め折檻
た。いつも病気がちでじりじりしていたイリヤは、リザ
でいる。リザヴェータの母親はもうとうに亡くなってい
この町の町人で物持ちの家に雇人のようにして住みこん
リヤはひどい飲んだくれで、もう長年のあいだ、やはり
などがくっついていた。零落した宿なしで病身の父親イ
ものだから土や泥によごれて、木の葉や木っぱや、 鉋屑 に載っていた。そのうえ、いつも地面やごみの中に寝る
のように縮れて、大きな帽子かなんぞのように彼女の頭
ていた。非常に 濃 い髪の毛はほとんど漆黒で、 緬羊 の毛
彼女は生涯、夏冬ともはだしに麻の 襦袢 一枚で歩き回っ
きは柔和ではあったが、じっとすわって気味が悪かった。
をみだすことであるから、以後さようなことのないよう
ても若い娘を襦袢一枚でうろうろさせておくのは、風儀
報告のとおり 宗教狂女 だと納得はしたけれど、それにし
その美しい感情をひどく傷つけられた。なるほどそれは、
にこの町を視察したおり、 リザヴェータの姿を認めて、
こんなことがあった。当県の新任の知事が何かのついで
とつになって、はだしのまま立ち去るのであった。一度
れ、一つ残らずその場に脱ぎすてて、また 以前 の襦袢ひ
︱︱︱頭
巾 であれ、腰巻きであれ、外套であれ、長靴であ
入口などで、せっかく自分に恵まれた物を何から何まで、
いざその場を立ち去ると、きっとどこか、おもに寺院の
たいていおとなしく着せられるがままになっているが、
せたり、 長靴をはかせたりしたものだ。 しかし彼女は、
コロージワイ
じゅばん
した。しかし彼女は神聖な白痴、 宗教狂 として町じゅ
にと注意した。しかし知事が立ち去ってしまうと、リザ
かんなくず
めんよう
うの世話を受けて暮らしていたので、あまり家へは寄り
ヴェータはまたもや以前のまますておかれた。そのうち
こ
つかなかった。イリヤの主人夫妻や、イリヤ自身や、そ
に、とうとう父親も死んでしまった。そうすると彼女は
ずきん
の他、おもに商人や商家の内儀などといった、あわれみ
孤児になったからというので、かえって町の信心深い人
かわい
も と
深い多くの町の人たちが、リザヴェータに襦袢ひとつき
たちにとっていっそういじらしいものになった。 実際、
コロージワヤ
りというような見苦しい服装をさせておくまいと何度骨
彼女はみんなから 可愛 がられているようであった。子供
がいとう
折ってみたかしれず、冬になればきまって 外套 をはおら
152
したまま忘れていても、その金を一カペイカだって取ら
ことがなかった。たとえ彼女の前へ何千ルーブル放り出
てあっても、店の主人はけっして彼女を警戒するような
りこむことがある、そこには高価な品物や金などが出し
としなかった。彼女はよく、大きな店へはいりこんで坐
そして自分は黒パンと水とよりほかはけっして食べよう
いう奥さんも、むしろ喜んでそれを受け取るのであった。
金持ちの奥さんを引き止めて、それをやるのだが、そう
らの子供にやってしまう。でなければ、町でも指折りの
パンや巻きパンをもらっても、きっとそれを出会いがし
の慈善箱へ持って行って、投げこんでしまう。市場で輪
が金をやると彼女はそれを受け取るが、すぐお寺か監獄
かえっていろいろいたわって、小銭をやったりする。人
行っても、 誰も彼女を追い出そうとはしないばかりか、
ものであるのに。彼女が見知らぬ家へつかつかはいって
た。とかく子供、ことに小学生というものは腕白がちな
ですら彼女をからかったり、はずかしめたりはしなかっ
遊び疲れてしたたか酔っ払ったこの町の五、六人の紳士
月のある満月の夜、この町でいえばだいぶん遅い刻限に、
とがあった。
︵だいぶん以前の話だが︶明るくて暖かい九
見得も外聞もあったものではない。さてある時こんなこ
つらせて、ムムとうなるだけであった︱︱︱こんな風では、
も口をきくことができないで、ただときどき妙に舌をも
ど、どうもそれではつじつまが合わない。彼女はひと言
するのはただ見得にすぎないと断定する人もあったけれ
できていた。町の紳士連の中には、彼女がこんなことを
背丈こそ短かったが、体格は人並はずれてがんじょうに
にはそれがもう慣れっこになっていたのである。彼女は
な生活によく耐えてゆくと思って不思議がったが、彼女
牛部屋なりで泊ってゆくのであった。人々は彼女がこん
やって来た。しかし、それもほんの夜だけで、入口なり
へは、およそ一週一度ぐらい姿を見せたが、冬分は毎日
あった。 自宅 へは、つまり亡父が雇われていた主人の家
の籬が、 今日 でも随所にあるから︶菜園の中で寝るので
もなければよその家の 籬 を越して︵この町には塀がわり
まがき
れる心配のないことをよく知っているからであった。寺
の群れがクラブから﹃裏町﹄づたいに家路をたどってい
う ち
こんにち
へはめったに立ち寄らなかった。夜は寺院の入口か、さ
153
そのそばに立ち止まると、口から出まかせに 猥褻 な冗談
というわけである。 酩酊 した連中はげらげら笑いながら、
牛蒡 の
山
中に眠っているリザヴェータの姿を見つけた
板橋のほうへ抜けていた。さてこの一行が、籬の 蕁麻 や
ては川と呼んでいる、臭い細長い水たまりに掛け渡した
家々の菜園が続いていた。その路地は、この町で時によっ
た。路地の両側には籬が連なって、その後ろに隣接した
げら笑った。 そしてその中の一人などは、 フョードル ・
であった。一行はむろんこの突飛な意見を聞くと、げら
ひどい放蕩者でさえ、彼を見ると、 眉 をひそめるくらい
いたり、醜態の限りを尽くしていたので、この町で最も
あったが、しかも彼は帽子に喪章をつけたまま、飲み歩
の 訃報 を、ペテルブルグから受け取ったばかりのころで
れはちょうど、彼が先妻のアデライーダ・イワーノヴナ
その実一同にとっては全然 下種 下郎にすぎなかった。そ
げ す
を言い始めた。と、突然一人の若い紳士が、まるでお話
パーヴロヴィッチの尻押しをしにかかったほどであった
ふほう
にもならぬ 奇矯 な問題を考えついた。
﹃誰かこの獣を女と
が、他の連中は、やはりなお、並はずれの陽気さは失わ
いらくさ
して遇することができるだろうか。さあ、今すぐにでも
なかったけれど、いっそう頻繁にぺっぺっと 唾 を吐 いた。
やまごぼう
できる者があるかしら﹄云
々 、というのであった。人々
そしてやがて一同はその場を離れて先へ歩を進めた。そ
まゆ
はさもけがらわしいというような 傲然 たる態度で、そん
の後フョードル・パーヴロヴィッチは、自分もそのときみ
めいてい
なことはとうてい不可能だと答えた。しかしこの一行の
んなといっしょに立ち去ったことを断固として強調した
わいせつ
中に偶然居合わせたフョードル・パーヴロヴィッチがす
が、はたしてその通りであったか否か、現に誰ひとり確
ききょう
ぐ前へ飛び出して、女として遇することができる、大い
かなことを知っている者もなければ、かつて知っていた
うんぬん
は
にできる、しかも独特なある妙味さえある云
々 、と断言
者もないのである。しかしそれから五、六か月もすると、
つば
した。実際そのころの彼は、わざと道化の役を引き受け
リザヴェータが大腹をかかえて歩いているということを、
うんぬん
て、どこへでも出しゃばって、みんなをおもしろがらす
町じゅうの者がひどく憤慨して取りざたし始めた。そし
ごうぜん
のが楽しみであった。で、見かけは対等のつきあいでも、
154
う信じられているのである。むろん、当人はそのことを
ヴロヴィッチを目当てに流布されたもので、いまだにそ
た。しかしその風説はまがうかたなくフョードル・パー
ばかりの仲間は当時それぞれ町を引きあげてしまってい
てそんなことを言い触らすはずがなかった。自余の五人
から、たとえ何かそこに根拠があったとしても、けっし
ているような、相当の年配で分別ざかりの五等官である
の仲間で、それも家庭を営み、年ごろの娘を幾人も持っ
ち、ちょうどその時この町に残っていたのは、たった一人
こから出たものであろう?
例の酔っぱらいの一行のう
が、ぱっと町じゅうに広がった。このうわさはいったいど
ぬフョードル・パーヴロヴィッチだという奇怪なうわさ
た。ところがちょうどそのとき、その 凌辱者 はほかなら
は何者かと、さまざまに問いただしたり、 穿鑿 したりし
ていったい誰が犯した罪なのか、はずかしめを加えたの
はますます彼女を大事にかけて保護するようになった。
る町の人たち一般の同情を 殺 がなかったばかりか、人々
かしこうした事件や風説は、哀れな信心気ちがいに対す
働いた事実はまだ人の記憶に新しかったからである。し
の夜の前後に、彼が町を 徘徊 して三人ばかり追いはぎを
とを覚えていた。ちょうどその秋の初めごろまさしくあ
かにもまことしやかに思われた。人々はこのカルプのこ
以外の誰でもないと突張ったものである。この推測はい
の監獄を脱走して、 この町に身を潜めていた男である︶
時、町じゅう誰知らぬ者もない恐ろしいお尋ね者で、県
た。そして当の相手は﹃あのねじ釘のカルプ﹄
︵それは当
た。
﹃あの下
種 女の自業自得だ﹄と、彼は断固として言っ
ために喧嘩口論までして、多くの人の意見をくつがえし
そうした 誹謗 に対して主人を弁護したばかりか、主人の
のために敢然として立ったのは、このときである。彼は
まであったからである。グリゴリイが全力をあげて主人
りょうじょくしゃ
せんさく
たいして弁解もしなかった。彼はそんじょそこらの商人
ある裕福な商家の 孀 でコンドラーチエワという女は、ま
げ
す
ひぼう
や町人どもを相手に取ることを潔しとしなかった。当時
だ四月の末ごろからリザヴェータを自分の家へ引き取っ
そ
はいかい
の彼は鼻息が荒くて、自分が一生懸命お太鼓を持ってい
て、お産の済むまでは外へ出さないように取り計らった
やもめ
る官吏や貴族の仲間とでなければ、口もきかないありさ
155
をも顧みず、そこから飛びおりたものであろう。グリゴ
てはいあがって、 身体 に障 るとは知りながら、妊娠の身
フョードル・パーヴロヴィッチの家の塀へもどうにかし
て寝るために、 籬を越すことがじょうずであったから、
う説である。つまりリザヴェータはよその菜園へはいっ
しいことではあるけれど、自然な方法で行なわれたとい
た。が、何より確からしいのは、それがきわめてむずか
言うし、またある者は何か 精霊 が運び入れたのだと言っ
して残っている。ある者は誰か人に助けられたのだとも
堅固な庭の塀を乗り越えたかということは、一つの 謎 と
現わしたのである。ただならぬ体の彼女がどうして高い
出して、フョードル・パーヴロヴィッチの家の庭に姿を
日の夕方、突然、コンドラーチエワの家をこっそり抜け
が、結局その苦心のかいもなく、リザヴェータは最後の
ほどである。家人は夜の目も寝ずに彼女を見張っていた
町の人の気に入った。後になって、フョードル・パーヴ
定し続けた。彼がこの捨て子を引き取ったということは、
ろがっていたが、それでも一生懸命にすべての事実を否
チはなんら抗議を唱えるでもなく、むしろそれをおもし
と呼ばれるようになった。フョードル・パーヴロヴィッ
名されたが、父称は誰いうとなく、フョードロヴィッチ
供を育てることになった。洗礼を授けてパーヴェルと命
ねえだぞ﹄そこでマルファ・イグナーチエヴナはその子
だぞ。育ててやるがええだ、もうこれからさきゃ泣くで
てもこの子は、悪魔の息子と天使のあいだにできたもん
坊がおいらに授けてくれたのに違えねえだが、それにし
いらにとっちゃあ、ましてのことじゃ。こりゃあ家の赤ん
の子だよ︱︱︱孤児ちゅうもんは、みんなの親類だが、お
しつけるようにして、赤ん坊を彼女の膝へ載せた。
﹃神様
き上げて家へ連れ戻ると、妻を坐らせて、その乳房へ押
の引き明けに死んでしまった。グリゴリイは赤ん坊を抱
なぞ
リイはマルファ・イグナーチエヴナのもとへ駆けつける
ロヴィッチはこの孤児のために、苗字まで作ってやった。
もののけ
と、彼女をリザヴェータの介抱にやり、自分はちょうど
それは母親のあだ名の﹃悪臭ある女﹄から取って、スメ
さわ
おりよく近所に住んでいる、年寄りの産婆を迎えに飛び
ルジャコフとしたのである。このスメルジャコフが成人
からだ
出して行った。赤ん坊は助かったが、リザヴェータは夜
156
て、ひとまず前の続きに移ることにしよう。
語の進展につれて、おのずから明瞭になることを期待し
思われるから、スメルジャコフに関しては、このさき物
とに、あまり長く読者の注意を引き止めるのもいかがと
要が大いにあるのだが、こんなありふれた下男どものこ
いた。この男についても、何かといろいろ述べておく必
屋 に住んでいたのである。彼は料理番として使われて
傍
て、この物語の初めのころ、老僕グリゴリイ夫婦と共に、
して、フョードル・パーヴロヴィッチの第二の下男とし
とえばつい最近、この町のさる商人が、自分の命名日に
のにすぎないことを彼は百も承知していたのである。た
した﹄出まかせの、むしろその場の潤色に用いられたも
てて帰宅せよとの命令は、ただ単にいわば﹃羽目をはず
かった。ああしてぎょうさんに聞こえよがしにわめき立
の父の命令もわめき声も、彼にはいっこう恐ろしくはな
ておくが、
﹃枕も蒲団も引っかついで﹄家へ帰って来いと
もかく、町をさして急いだのであった。前もって断わっ
んとか解決がつくだろうという望みをいだきながら、と
た。それから彼は、今自分を悩ましている問題も道々な
はなれ
とは彼にはありえなかった。それどころか、恐ろしく心
し別段、棒立ちに立ちすくんだわけではない。そんなこ
のあいだひどく当惑して、その場に立ちつくした。しか
中から大声をあげて命令したことばを聞いて、しばらく
アリョーシャは、父が修道院からの帰りぎわに馬車の
がさめて、自分のこわした茶碗や皿を惜しがったものだ。
ちろんその食らい酔った商人もあくる日はすっかり酔い
日父が演じたのも、これと同巧異曲の一幕であった。も
たきこわしたものだが、これも同じく潤色のためで、今
物を引き裂いたり、家具や、果ては屋内のガラスまでた
突然、自分自身の食器を打ち砕いたり、自分や妻君の着
われたのに腹を立てたあげく、 客の前をもはばからず、
あまり飲み過ぎたため、もうウォトカはよしなさいと言
配はしながらも、彼はさっそく修道院長の勝手口へ行っ
だからアリョーシャは、老父も明日になったら自分を修
三 熱烈なる心の懺悔︱︱︱詩
て、父が上でしでかした一部始終を聞き取ったのであっ
157
人から渡された手紙で、何か用事があるからぜひ来ても
に対する恐怖であった。つまりさきほどホフラーコワ夫
う悩ましく感ぜられるのであった。それはまさしく女性
とそれを把握することができないために、それはいっそ
る別の 疑懼 の念が蠢
動 していた。しかも自分ではっきり
しかしこの時、彼の心中には、全く種類を異にしたあ
きたのである。
の意味で彼は、なんらの動揺もなしに前進することがで
屈なしに断然、彼の心に決定している公理であった。こ
ばかりか、侮辱しうる者がないと信じていた。これは理
ようとするものはない、否、侮辱しようとする者がない
固く信じていた。彼は世の中に誰ひとり、自分を侮辱し
ともかく、自分を侮
辱 しようなどと考えるはずがないと、
れぬことを見抜いていた。それに彼は父が、他の者なら
道院へ返してくれる、いや今日にも返してくれるかもし
一度か二度、あるいは三度くらいなものである。しかし
かったのである。もっとも、この女に会ったのはほんの
はじめて会ったその時からして、彼にはこの女が恐ろし
テリーナ・イワーノヴナという女なのである。そもそも
らしているのだ。彼が恐れていたのはまさしくこの、カ
道院へはいるすぐ前まで、ずっと女のあいだばかりで暮
が、しかしそうは言っても、ほんの幼少のころから、修
うまでもなく、彼は女というものをあまり知らなかった
一般的に女としての彼女を恐れたわけでもなかった。い
のか、そんなことがわからないためではなかった。また
いだすか、またそれに対してこっちからなんと答えたも
彼が恐れたのは、カテリーナ・イワーノヴナが何を言
を 疼 かせていったのである。
前中を通して、しだいしだいに悩ましさを増して彼の心
とで演ぜられた醜態などにもかかわらず、この感じは午
で相次いで起こったいろいろの事件や、今また院長のも
しゅんどう
ぶじょく
らいたいと、しつこく頼んでよこした、かのカテリーナ・
いつか何かの拍子で、二言、三言ことばをかわしたこと
うず
イワーノヴナに対する恐怖であった。この要求と、そこ
があった。彼女の姿は、美しく誇らかで威厳の備わった
く
にぜひ行かねばならぬことが、たちまち彼の胸に何か妙
娘として彼の記憶に残っていた。しかし彼の心を悩まし
ぎ
に悩ましい感じを起こさせたのである。そして修道院内
158
けて、ひとめ会って来たいような気がしてならなかった。
宿命的な会見をする前に、ドミトリイのところへ駆けつ
合は差し向かいで行なわれることになる。で、彼はこの
はそういう予感がしたのである。してみると、二人の談
が来ていないことはいっそう確実であった。なぜか彼に
ごろは父といっしょにいるに違いなかった。ドミトリイ
なさそうであった。兄イワン・フョードロヴィッチは今
イワン・フョードロヴィッチも、今は彼女の家へ来てい
彼の想像では、その女と非常に親密なあいだがらの兄
づくにつれて、背筋をぞっと寒けが走るように感じた。
持に対して敬意をいだきながらも、彼はその女の家に近
それをのみこんでいるうえに、そうした美しい寛大な気
すら寛大な心からそうしているのである。ところが、今
リイを救おうと、一心になっている、しかもそれはひた
ていた。彼女は自分に対してすでに罪を犯した兄ドミト
娘の目的が高潔なものに違いないことは、彼もよく知っ
いっそう彼の心中に恐怖が募ってゆくのであった。この
もそもこの恐怖の本体をつかむことができないために、
たものはその美貌ではなく、何か他のことであった。そ
によく知っていた。裏道といえば荒れ果てた垣根に沿っ
に決めた。彼は町内のそうした抜け道を五本の指のよう
らしたあげく、彼は裏道を通って道程を短縮しようと心
るにはずいぶん急がなくてはならない。かれこれ思い巡
とも限らないから、彼方へも此方へも間に合うようにす
を忘れないで、またしても気まぐれなことを言いださぬ
親も彼を待っていて、ことによると、まだ例の言いつけ
ので町内の距離はいいかげん大きいのである。それに父
のであった。小さい町のくせに、家がまばらに建っている
広場を通ったりなどしていたら、かなり道程が遠くなる
彼は女の家をよく知っていた。しかし、大通りへ出て
して歩き出した。
ら、彼は自分にとって恐ろしいその婦人のもとへ敢然と
な十字を切ると、すぐに何かにっこり一つほほえんでか
ついに彼はきっぱりと心を決めた。あわただしく習慣的
しい気がした。一分間ばかりその場にたたずんでいたが、
かなり遠方に住んでいるし、やはり今はおそらく留守ら
合わせておくこともできる。 しかし、 兄ドミトリイは、
そうすれば、この手紙は見せないで、何かちょっと打ち
159
手な着物を見せびらかしていた。しかし、この老婆と娘
が、一年ばかり前から老母の病気のために家へ帰って派
て、ついこのあいだまで将軍の 邸 などで暮らしていたの
よく知っていた。その娘はかつて都で小間使いをしてい
老婆で、この町の町人だということは、アリョーシャも
小家の持ち主というのは、娘と二人暮らしの足の 萎 えた
が四つあるゆがんで古ぼけた小家に付属していた。その
と境を接している隣家の庭の脇であった。その庭は、窓
ばを通り過ぎなければならなかった。それは父の家の庭
のに道程が半分くらい近くなる。一か所、父の家のすぐそ
した。こういう道を通って行きさえすれば大通りへ出る
みんな彼を知っているので、誰でも彼に向かって 挨拶 を
しなければならない。もっとも、よそといったところで、
と、よその籬 を踏み越えたり、よその庭を突き抜けたり
て、ほとんど道でない所へ通じているので、どうかする
わなかった。アリョーシャはすぐに籬のそばへ駆け寄っ
はしないかとの心配から、口に出してはひと言も物を言
いるが、明らかに彼は、大声に呼ぶどころか、人に聞かれ
いた。そして、しきりに合図をしながら彼を手招きして
ドロヴィッチが何か踏み台に乗って胸から上を現わして
隣家の庭の籬の向こうから、兄のドミトリイ・フョー
振り上げた⋮⋮と、実に思いもかけぬ人に出くわした。
それまで物思いに沈んで、うなだれていた頭をひょいと
の前まで来たとき、ふっとこの裳裾のことを思い出すと、
時に、すぐにまた忘れてしまった。けれど今、隣家の庭
ら聞かされたのであったが、いうまでもなく、聞くと同
のことならば何から何まで知っている例のラキーチンか
とより、この最後の事実については、ゆくりなくも、町
らに長い 裳裾 のついたものであった。アリョーシャはも
しなかった。そればかりか、その中の一枚などは、やた
の無心にまで来るくせに、自分の着物は一枚も売ろうと
まがき
は貧窮の極に達して、隣同士のよしみによって毎日のよ
た。
な
もすそ
うにカラマゾフ家の台所へ、スープやパンをもらいに来
﹁ああ、おまえのほうからこちらをふり向いてくれてよ
あいさつ
るほどになった。マルファ・イグナーチエヴナも、二人に
かった。でなかったら、もう少しでおまえを大声で呼ぶと
やしき
気前よく分けてやっていた。ところが、この娘はスープ
160
うに助けてくれた。アリョーシャは法衣の裾をからげる
がたくましい手で弟の 肘 をつかんで、飛び越えられるよ
籬を越えたものかと途方に暮れた。しかし、﹃ミーチャ﹄
アリョーシャのほうでも嬉しかったが、ただどうして
たところだ⋮⋮﹂
てくれてよかった。おれは今もおまえのことを考えてい
上がって来いよ!
ああ、ほんとにおまえが来
ドロヴィッチはあわただしくささやいた、
﹁さあ、ここへ
ころだったよ﹂と、さも嬉しそうに、ドミトリイ・フョー
いのに、ばかみたいに小さな声を出したのさ。さあ行こ
ら、急に口をきくことまで秘密にして、なんの必要もな
あとで話すが、それを秘密だと思いこんでいるものだか
こへ忍びこんで、ある秘密を見張っているんだ。わけは
つまの合わんことをしでかすものだよ。おれは内緒でこ
したのだろう。なあ、人間の本性なんて、こういうつじ
あげて叫んだ、
﹁なるほど、なんだって小さな声なんか出
トリイ・フョードロヴィッチは不意に思いきり声を張り
﹁なんで小さな声をするって? えい、くそ!﹂と、ドミ
るの?﹂
ひじ
早く!
と、町のはだし小僧のような身軽さで、ひょいと籬を飛
それまで黙っててくれ。お
う!
みさかえ
そら、あすこだよ!
び越した。
ど
れはおまえを接吻してやりたいんだ!
の
﹁さあ行こう!﹂有頂天なささやきがミーチャの 咽喉 を
漏れた。
この世の福に御
栄光 あれ
人のほかには誰もいないのを見て、ささやいた。それは
こいつをおれは、たった今おまえが来るまで、ここに
﹁どこへよ!﹂とアリョーシャも、ぐるりを見回して自分
小さな庭であったが、それでも、持ち主の家の建ってい
坐ってくり返してたのさ⋮⋮﹂
わが身の神に御栄光あれ⋮⋮
るところまでは、そこから五十歩以上もあった、
﹁ここに
庭は一町歩か、それとも、もう少し多いくらいの広さ
の立っているところがまるっきりがらんとした庭で、二
は誰もいやしないのに、なんだってそんな小さな声をす
161
な草地になっていて、夏になると十四、五貫の乾草が刈
てあるだけであった。庭の中央はがら 空 きで、ささやか
本かの 林檎 の樹と、楓 に菩
提樹 、 白樺 が各一本ずつ植え
であったが、樹木はぐるりにだけ四方の垣根沿いに、幾
て、そのぐるりを、同じく緑色の 床几 が取り囲んでいた
には木製の緑色のテーブルが地面へ掘っ立てになってい
て、用材からは湿っぽい臭いがしていた。 四阿 のまん中
し、すっかりもう朽ち果てて、床は腐り、床板はぐらつい
トという退職中佐によって建てられたものらしい。しか
しらかば
り取れるのであった。持ち主は春からさきを幾ルーブル
が、それにはまだ腰かけることができた。アリョーシャ
ぼ だ い じゅ
かでこの庭を賃貸ししていた。まだほかに 蝦夷苺 や す ぐ
は最初から兄の浮き立った様子に気づいていたが、四阿
かえで
りやグースベリの畑があったが、これらもやはり垣根の
へはいると、テーブルの上にコニャクの小びんと、杯が
りんご
近くであった。野菜畑も家のすぐ近くにあったが、これ
置いてあるのを見て取った。
こつぜん
だ雨露をしのぐことができそうである。この 四阿 がいつ
おれは酔っ払っちゃいないんだ、ただ﹃ 玩味 してる﹄だ
あずまや
は最近作られたばかりである。ドミトリイ・フョードロ
﹁こりゃあ、コニャクだよ!﹂とミーチャは笑いだした、
あ
ヴィッチは母屋から最も離れた庭の隅へ客をつれて行っ
﹁もうおまえは﹃また酔っ払ってる﹄とでもいうような眼
しげ
しょうぎ
た。すると、こんもり繁った菩提樹の木のあいだの、 す ぐ
つきをしてるな。幻影を信じちゃいかんよ。
にわとこ
えぞいちご
りや 接骨木 や 莢叢 やライラックの 叢 みの中から、 忽然 と
偽り多く空ろなる人を信ぜず、
あずまや
が現われた。黒ずんでいて、今にも倒れそうになってお
おのが疑惑を忘じたまえ⋮⋮
建ったかは知るよしもないが、言い伝えによると、なん
けだ。これはおまえのラキーチンの豚野郎の言いぐさだ
ふ
でも今から五十年ほど前に、当時この家の持ち主であっ
よ。あいつはそのうちに五等官ぐらいにはなるだろうが、
がんみ
たアレクサンドル・カルロヴィッチ・フォン・シュミッ
あずまや
り、壁は格子になってはいたが、屋根が 葺 いてあって、ま
がまずみ
して、古ぼけて、まるで残骸のようになった緑色の 四阿 、
、
、
、
、
、
162
しまうからさ、おまえは黙ってるんだぜ、おれが何もか
坐って、横からおまえの顔を見ながら、何もかも話して
まあ坐れよ、このテーブルの前にさ、おれはこうそばに
よく覚えとけよ!
今のところおれは話すのが愉快だ!
することじゃない。 惚れるのは憎みながらでもできる。
滅してしまったんだ。しかし、惚れこむっていうのは愛
る﹃卑しい女﹄に惚れこんでいる。そのためにおれは破
﹁おまえ一人っきりなんだよ、いや、もう一人おれはあ
却するほど興奮していた。
この最後の一句を発言する時、彼はほとんど前後を忘
おまえ一人っきりなんだものなあ!﹂
ほ・ん・とうにだよ⋮⋮おれが愛している人間といえば、
世界じゅうに⋮⋮本当に⋮⋮︵いいかい! いいかい!︶
ぶれるほどこの胸へ締めつけてやりたいんだよ。だって、
まあ 坐 れ。おれはね、アリョーシカ、おまえを抱いてつ
やっぱり ﹃玩味する﹄ 式の言い方はやめないだろうよ。
や、こわいにはこわいけど、いい気持なんだ。いや、い
もないのさ、だからおまえもこわがることはないよ。い
はなく、実際に落っこちてるんだよ。それでいてこわく
でも見たことがあるかい?
落っこちるような気持を経験したことがあるかい、夢に
始まるのだからさ。おまえは山のてっぺんから穴の底へ
はいよいよおれの生涯がおしまいになって、そしてまた
て、おれは明日にも雲の上から飛びおりるからさ、明日
ならないからだよ。ぜひおまえが必要だからさ。なぜっ
もかも話したかったんだ。なぜって、そうしなくっちゃ
日というもの!
ここへ 神輿 をすえてからもう五日目だよ︶。 この四、 五
だって、おまえを待ち焦がれていたんだろう? ︵おれが
おまえのことばかり考えて、この四、五日、いや現に今
以下次号ってやつをさ。いったいおれはどうして、こう
いとも限らないからなあ。さあ、すっかりわけを話すよ。
には⋮⋮ここには⋮⋮どんな意外な聞き耳が立てられな
すわ
も話しちゃうからな。だって、もういよいよ日限が来て
い気持というより、 有頂天なんだ⋮⋮ええ畜生っ、どっ
みこし
しまったんだからなあ。だが、いいかい、おれは実際そ
ちにしたって同じこった。強い心、弱い心、めめしい心
ところが、おれは今、夢で
それはこうだ、おまえ一人っきりに何
うっと話さなきゃならん、と考えたんだよ。だってここ
163
﹁お父さんのとこへ。しかしその前にカテリーナ・イワー
どこへ行くとこだい?﹂
だ、いま午後の四時まえ、なんて静かだろう! おまえ
たり、木の葉はどれも青々として、すっかりまだ夏景色
べきかなだ。御覧よ。太陽の光りはどうだ、空は晴れわ
︱︱︱ええなんだってかまうもんか! ああ自然は賛美す
まえがすぐに何もかものみこんでしまったことは、ちゃ
﹁待て待て、おまえはそれを知ってたんだな。それに、お
走った。
痛ましげな表情を面に浮かべながら、アリョーシャが口
﹁兄さんはほんとに僕を使いにやりたかったの?﹂こう
へ行くところだなんて﹂
たんだ。だのに、おまえは自分からあの女と親爺のとこ
それはほかでもない、おれの代わ
の一枚一枚で、おまえの来るのを待ちあぐねていたのは
んのためだろう、おれが心の 襞 の一つ一つ、いや、 肋骨 はなんのためだろう、おまえを待ち焦がれていたのはな
なんという符合だろう!
まえに手紙をよこすか、どうかしたんで、それで出かけ
﹁あの女のほうからおまえを呼んだんだろ、あの女がお
えこみながら指を額にあてがった。
ドミトリイ・フョードロヴィッチは立ち上がると、考
てくれ、悲しんでくれるな。泣くんじゃない!﹂
んとわかるよ。しかし、黙っててくれ、しばらく黙って
なんのためだろう?
るところだったんだろ?
うふ!
ノヴナのとこへ行こうと思って﹂
ひと
りにおまえをその親爺のところへやって、それからあの
けがないからなあ﹂
﹁なに、あの 女 のとこと親父のとこへだって!
女の、つまりカテリーナ・イワーノヴナのところへ行っ
﹁これが手紙ですよ﹂アリョーシャはポケットから手紙
第一おれがおまえを呼んだの
てもらって、それでもって親爺のほうも、あの女のほう
を取り出した。ミーチャは手早くそれに目を通した。
ろっこつ
もすっかりけりをつけようと思ってだよ、天使を使いに
﹁それにおまえが裏道を通って行こうなんて! おお神々
ひだ
やろうってわけさ。おれは誰だって使いにやれたのだけ
様!
弟に裏道を通らせてくださって、まるでお 伽噺 に
とぎばなし
でなきゃおまえが出かけるわ
れど、どうしても天使に行ってもらわなきゃならなかっ
164
の天使にはもう話したが、地上の天使にも話さなきゃな
うせ誰かには話さなきゃならないんだからなあ。天上界
今こそおれは何もかも言ってしまうつもりなんだよ。ど
ます。さあ、聞いてくれ、アリョーシャ、聞いてくれ、弟。
くしと出会わしてくだすったことをほんとに感謝いたし
あるばかな漁師に 黄金 の魚が手にはいったように、わた
ても、おれはいったい何を言ってるんだ?
なれるほど考え抜かなかったのは残念だよ!
だものなあ。ほんに、アリョーシャ、おまえが有頂天に
ことなんかありゃしない。いま世界は新しい道へ出たん
まえはいやにせいて気をもんでるんだよ。今は何も急ぐ
﹁一刻も早く⋮⋮ふむ。まあせくなよ、アリョーシャ。お
た。
ん
らない。おまえは地上の天使なんだよ。よく聞いて、判
え抜かなかったなんて!
き
断して、そして許してくれ⋮⋮。おれは誰か一段上の人
を言ったらどうだい?
かけることのできないようなことを頼んだとしたら、そ
してくれと、臨終の床の中ででもない限り、他人に持ち
て、もう一人のところへやって来て、これこれのことを
もその中の一人が、飛んで行って滅びてしまうに先だっ
いと考えたのである。ミーチャは一瞬のあいだテーブル
は自分の仕事が何もかも、今はここにあるのかもしれな
アリョーシャはしばらく待っていようと心を決めた。彼
これは誰の詩だったっけなあ?﹂
﹃人よ、気高き者となれ!﹄
この 文盲 のおれがこんなこと
おまえが考
それにし
に許してもらわなきゃならないんだ。いいかい、もしあ
あきめくら
る二人の人間があらゆる地上のきずなを断ち切って、ど
け う
の男はそれを 諾 いてやるだろうかどうだろう?⋮⋮もし
に肘をついて、 掌へ頭をもたせながら物思いに沈んだ。
こかまるで稀
有 な世界へ飛んで行くとする、否少なくと
それが親友か兄弟であったとしたら?﹂
二人ともちょっと沈黙に落ちた。
き
﹁僕は 諾 いてやります。けれどそれが何か話してくださ
﹁アリョーシャ﹂とミーチャが言った、
﹁おまえだけは笑っ
き
い、一刻も早く話してください﹂とアリョーシャが言っ
165
た
たりなんかしないね!
う
ざんげ
おれは⋮⋮自分の 懺悔 を⋮⋮シ
を話しているのだ。さっそく問題に移るよ。おれは自分
の魂をユダヤ人みたいなものにしやしない。が、待てよ、
もた
あれはどうだったけな⋮⋮﹂
子でうたい始めた。
ルレルの喜びの頒
歌 でもって切り出したいのだ。 An die
でもって! だが、 おれはドイツ語は知らない
Freude
んだ。ただこの An die Freude
だけ知ってるのさ。しか
し、おれが酔っ払ってこんなことを言うと思わないでく
﹁まとうものなく、人慣れず、
彼は頭を 擡 げて考えこんでいたが、不意に熱狂した調
れ。おれはちっとも酔っ払ってなんかいないんだよ。コ
ニャクはあるにはあるけれど、酔うには二本なくちゃな
心ちいさき野の人は
おちこち
あ。
岩屋の奥に身をひそめ、遠
近 の野をさすらいて
あか
遊牧の民は野を荒らし⋮⋮
だが、おれはこのびんの四半分も飲んじゃあいないの
岸にすてられ、果つる人!
悲しさよ、波のまにまによるべなき
森より森といかめしく走りゆきしか⋮⋮
さつお
サイリーナスは 紅 ら顔して
人 は槍と矢をもちて
猟
だからサイリーナスじゃない。サイリーナスじゃないが
ば
者 だよ。だって、もう永久に覚悟の 強
臍 が決まってるん
オリンピア 山を下りて、母のセレース、
ろ
つまずきやすき 驢馬 に乗り⋮⋮
だからなあ。いや、こんな地口は許してくんなよ。今日
さらわれし 愛 し娘のプロセルピンの
ほぞ
は地口どころじゃない、まだいろんなことを許してくれ
あとを追いしが、
シリヨン
なくちゃならないんだよ。 だが心配することはないよ、
心なき世はさみしくて。
いと
おれはへたに潤色を施してるんじゃない。まじめなこと
166
神を崇 むるけしきとてなく。
このあたり、いずくの寺も
よろこびて、むかうる人の一人とてなく、
身を寄するところもあらず、
は今どうか嘘をついたり、 空威張 りをしたりはしたくな
さ。嘘 を言っているのでさえなければなあ。いや、おれ
り考えているんだよ。この深い汚れに沈んだ人のことを
すだとは思わないでくれ。おれはまるで、このことばか
だり放蕩なまねをするだけの、将校の肩書きを持ったげ
不幸な目にさ!
こころ
からいば
どうか、このおれを、コニャクを飲ん
野の実り、甘き 葡萄 の房さえも
いものだ。おれがこの人のことを考えるというのも、つ
あが
うたげの席を賑わさず
まりは自分が同じような人間だからさ。
たな
うそ
血に染みし祭りの 壇 に
ぶどう
いけにえの残りのけぶり くゆるのみ
汚れのうちよりわが 魂 め
悲しき 瞳 もてセレースが
救いいだして立たんとし、
ふりさけ見れば、かなたには
しかし、ただどうしておれが大地と結び合ったものか、
昔ながら、母なる土と
すすりなきの声が突然ミーチャの胸からほとばしり出
それが問題なんだ。おれは大地に接吻もしなければ、大
汚れの底になずみたる
た。彼はアリョーシャの手を取った。
地の胸を切り裂こうともしない。おれに百姓か牛飼いに
とこしえに結び合いにき
﹁なあ、きょうだい、汚れの底なんだ。現におれは汚れ
でもなれっていうのかい?
人の姿の見ゆるのみ﹂
の底に沈んでいるんだ。 人間というものはこの地上で、
ながら、自分が悪臭と汚辱に足を突っこんだのか、それ
こうしておれは進んで行き
恐ろしくいろんな目にあうものだよ。恐ろしくいろんな
167
とも光明と歓喜の中へ踏み入ったのか、とんと見当がつ
かないのだ。こいつがどうもやっかいなんだよ、この世
とこしえのよろこび、
ありとある人のこころをうるおす、
く
の中のことといえばいっさいがっさいが謎なんだ!
しくもわきたつ力、
奇 なんだもの。どうせ無限の底へ飛びこむのなら、いっそ
か? けっしてけっして!
あまたの星を空にみたす
占星師にもえ知られぬ
お
れが深い深い 放蕩三昧 の底へはまりこんで行くようなと
いのちの杯をもやす。
思いきりまっさかさまに落ちるがいいんだ、しかも、そ
うるわしき自然の胸に
こんとん
んな恥ずかしい状態に落ちるのを喜んで、それを自分に
生きとし生けるものは喜びに酔いしれ、
ほうとうざんまい
きには︵おれにはそんなことよりほかに何もできやしな
ひとすじの草をも光りに向かわせ、
とって美的だと考えているのだからなあ。そして、こう
あらゆるもの、ありとある民草を
やみ
いのだ︶
、いつもおれは、このセレースの歌と﹃人﹄の詩
沌 の闇 混
に明るき時をつくり、
した屈辱のまっただ中で、おれは不意に、讃美歌をうた
その後 につき従えぬ。
だって、おれはカラマゾフ
いだすのだよ。たとえおれはのろわれたきたない下劣な
不幸なる人には友と
あと
人間にもせよ、神様の着てござる衣の端に接吻したって
萄 のつゆと、美の神の花の 葡
冠 を
かむり
いいはずだ。それと同時に、たとえ悪魔の後ろについて
虫には︱︱︱情欲を与え、⋮⋮
ぶどう
行っても、おお神様、わたしはあなたの子供です。わた
天使は︱︱︱神に向かう
きょうせい
を読んだものだ。しかし、それがおれを 矯正 しただろう
しはあなたを愛します、そして喜びを感じます。この喜
びなくしては世界も存立することができません。
168
ないね。そうら、おまえの目も光ってるじゃないか。も
ていて、みんなは笑うだろうけれど、おまえだけは笑わ
したよ、まあ存分に泣かせてくれ。こんなことはばかげ
しかし、もう詩はたくさんだ!
は人間を苦しめる謎が多すぎるよ。 この謎が解けたら、
のだよ。なんて神秘なことだらけだろう!
どい無教育者だけれど、このことはずいぶんと考えたも
べての矛盾がいっしょに住んでいるのだ。おれはね、ひ
だからなあ。美の中では両方の岸が一つに出会って、す
ついおれは涙をこぼ
う詩はたくさんだ。おれは今おまえに﹃虫けら﹄の話を
それこそ、 濡 れずに水の中から出て来るようなものだ。
それに、おれの我慢できないことは、心の
この地上で
してやるよ、あの、神様から情欲というものを授かった
ああ美が!
ぬ
虫けらの話をさ。
気高い、しかもすぐれた知能を持った人間が、ともすれ
マドンナ
の理想に終わることなんだ。もっと恐ろしいのは、すで
ば、 聖母 の理想をいだいて踏み出しながら、結局ソドム
に 姦淫 者ソドムの理想を心にいだける者が、しかも聖母
﹃虫には︱︱︱情欲を!﹄
おれはつまりその虫けらなのさ。これは特別におれの
の理想をも否定し得ないで、さながら純情 無垢 な青春時
かんいん
ことを言ったものなんだよ。われわれカラマゾフの一族
代のように、本当に、心から、その理想に胸を燃え立た
む く
はみんなそういう人間なんだ。おまえのような天使の中
せることだ。いや、人間の心は広大だ、あまり広大すぎ
あらし
にもその虫けらが巣くっていて、おまえの血の中に 嵐 を
る。 おれはそいつを縮めてみたいくらいだ。 ええ畜生、
何が何だかさっぱりわかりゃしない、ほんとに!
理性
巻き起こすんだ。うん、それは嵐だ。だって、情欲は嵐
美︱︱︱こいつは恐ろ
では汚辱としか見えないものが、感情ではしばしば美に
なんだから、いや、嵐以上だよ!
しい、おっかないものだぞ!
見えるんだ。ソドムの中に美があるのかしら?
はっきりと決まっていな
いから恐ろしいんだ、しかもはっきり決めることができ
が、おまえ、本当のところ、大多数の人間にとっては、こ
ところ
ないのだ。だって、神様は謎より他に見せてくれないん
169
のさ。さあ、これからが、本当の用談だよ﹂
間というものは自分の痛みより他には話したがらないも
いて、そしてその戦場が人間の心なんだよ。ところが人
なんだ︱︱︱それがこわいのだ。つまり悪魔と神が戦って
を知ってるかい?
美は恐ろしいばかりじゃない、神秘
のソドムの中に美があるんだよ、︱︱︱おまえはこの秘密
好きだったよ、︱︱︱そこには冒険がある、思いもかけぬ
だった。広場の裏の、暗い寂しい、曲がりくねった小路が
たっけ、よくあったっけ。だが、おれはいつも路地が好き
たよ。皆が皆というわけではないが、そんなこともあっ
足してお礼を言うよ。奥さん連もおれを 可愛 がってくれ
る、これはおれも認めなくちゃならない。しかもみな満
る。すると取るわ、取るわ、気ちがいのようになって取
かわい
はおれにとってはただ付属物だ、魂の熱源だ、道具だ。今
しても、
﹃あの事﹄のために金がいったのじゃないよ。金
けっしてそんなことはありゃしないのさ。もしあったと
いう金を使ったなどと言ったっけな。あれは豚の空想で、
爺は、おれが若い娘を誘惑するために、そのつど何千と
﹁あっちでおれはずいぶん放蕩をしたものだ。さっき親
ある時、町じゅう総出でピクニックをやったことがある
害な虫けらでは?
たのだ。これでもおれは 南京虫 じゃなかろうか、あの有
蕩を愛した、放蕩の恥辱をも愛した。そして残忍を愛し
間だったらこの路地の意味がわかるんだけど。おれは放
的な路地があったのさ。だが、おまえがおれのような人
そなえた、そんな路地なんかありゃしなかったが、精神
言っているのは 譬喩 なんだよ。あの町には、実際に形を
たとえ
ことがある、泥の中に隠れた鉱石がある。いや、おれが
日れっきとした女がおれの恋人であっても、あすは淫売
よ。七台の 三頭立橇 で出かけたんだ。冬のことだったが
四 熱烈なる心の懺悔︱︱︱逸話
がそれに代わっているのだ。おれはどちらも楽しませて
な、 橇 の中の暗闇にまぎれて、おれは隣りに坐っていた
ト ロ イ カ
なにしろ、カラマゾフだからなあ!
ナンキンむし
やるのだ。金は両手ですくって投げてやる、音楽だ、騒
娘の手を握りしめにかかったんだ、その娘にひとつ接吻
そり
ぎだ、ジプシイだ。必要があればそんな連中にも金をや
月たって、その娘はある官吏に 嫁 いで町を去ってしまっ
養っている虫けらの欲情を慰めたにすぎないのだ。五か
をよく見受けたものだよ。こんな遊戯は、おれが内心に
のに気がついたよ、温順な憤りの火に燃え立っているの
の娘の眼が広間の隅からじっとおれのあとを追っている
︵あの町では、やたらに舞踏会をやったものさ︶、よくそ
だの半口も口をきかなかったんだ。舞踏会などのおりに
ひと言も物を言わなかったんだ。五か月というもの、た
いたんだからなあ。ところが、その後おれは、その娘に
さ、なにしろ、おれは 花婿 としての値打ちを認められて
れが行って、結婚の申しこみをするものと思っていたの
まったんだ。可哀そうに、その娘は、すぐあくる日にもお
うとうおれに許したのだ。闇の中で、何もかも許してし
うな、優しい、しおらしいすなおなやつだったがね。と
を許させようと思ったのさ。それは官吏の娘で、 可哀 そ
げもなく、かえって得意になっているなどと、あきれな
かせてやるよ。しかしおれが、おまえに対して恥ずかし
まいね?
るために、わざわざおまえをここへ呼びこんだとは思う
さんだ、おまえはよもやおれが、こんなくだらぬ話をす
手の顔に泥を塗ったりはしなかったよ。だが、もうたく
るのは嫌いだったよ。そして一度だって裏切ったり、相
康を授けてやってください。おれは別れに際して 喧嘩 す
ができるくらいだよ。おお神様、あの可愛い娘たちに健
たけれど、いや、あのころの思い出で、一冊のアルバム
けらはもう頭をもたげて、魂の中へのさばり始めてはい
ク式のお愛嬌だよ。もっとも、この時分から、残忍な虫
さんだ。でも、これはそれだけの話さ、ポール・ド・コッ
と光ったぜ。おまえには、もうこんなきたない話はたく
なことは嫌いだ。おまえは顔を赤くしたね。眼がきらっ
欲望をいだいて、卑劣なことを愛するけれども、不名誉
かわい
た⋮⋮腹を立てながらも、それでもたぶんこのおれを愛
いでおくれよ﹂
はなむこ
したままで⋮⋮。今その夫婦は仕合わせに暮らしている
﹁兄さんは僕が赤い顔をしたので、そんなことを言うん
どうしてどうして、もっとおもしろい話を聞
けんか
よ。ところでおれは、そんなことは誰にも話したり、笑
でしょう﹂と、急にアリョーシャが聞きとがめた。
とつ
いぐさにしたりなんぞしなかったのだぜ、おれは卑しい
170
171
﹁だめなようです﹂
﹁おまえにはできるかい?﹂
﹁できるものなら、︱︱︱全然足を掛けないことです﹂
﹁じゃあ、全然足を掛けないことだね?﹂
ちばん上まで登ってゆきます﹂
す。いちばん下の段へ足を掛けた限り、いずれは必ずい
かし結局は五十歩百歩で、つまるところ同じことなんで
段目あたりに立ってるのです。これは僕の見方です。し
の段にいるとすれば、兄さんはどこか上のほうの、十三
て皆同じ階段に立っているのです。ただ僕がいちばん下
から、 彼の心の中にきざしていたらしい︶︱︱︱ ﹁誰だっ
やっきになって言った。
︵明らかに、この考えはだいぶ前
﹁いいえ、おおげさじゃありません﹂とアリョーシャは
﹁おまえが? そいつは少しおおげさだよ﹂
んと同じような人間だからです﹂
ば、兄さんのしたことのためでもありません。僕も兄さ
﹁僕が顔を赤らめたのは、兄さんの話のためでもなけれ
﹁うん﹂
﹁イワンが墓場ですって?﹂
から知っているのだ。しかしイワンは︱︱︱墓場だよ﹂
よ、イワンは何もかも知っている。おまえよりずっと前
明かすのがそもそもの初めだよ、もっともイワンは別だ
でおれは誰にも話したことはないんだから。今おまえに
いぼれは、その実この話は知ってやしないんだよ。今ま
んだけど。さっきでたらめを言っておれを決めつけた老
もっともたった一度っきりで、それも成立はしなかった
だが、 事実、 おれの悲劇の中にはそいつがあったんだ。
とか、なんとか、でたらめを言いおった、あのことなん
ぱだよ。それは、親爺がさっき、無垢の少女を誘惑した
やっぱり蠅のたかった、つまり卑劣なことだらけの原っ
おれの悲劇へ移ることにしよう。とはいっても、これも
あ、この忌まわしい、 蠅 のたかった原っぱから、いよいよ
れに言ったっけ⋮⋮いやもう言うまい、言うまい!
は、いつかはきっとおまえを取って食ってみせると、お
グルーシェンカのあばずれは人間学の大家だよ。この女
さ
﹁もう言うな、アリョーシャ、もう言うな。おれはおまえ
アリョーシャは異常な注意をもって聞き耳を立てた。
はえ
の手が接吻したくなった、そう、感激のあまりにさ。あの
172
だったよ。いつか二度も妻帯して、二度とも死別してし
たばかりか、このうえもなく親切な、愛想のいい爺さん
けさ。だが、この頑固親爺はなかなか悪くない人間だっ
わざと払わなかったんだからなあ。鼻っ柱が強かったわ
うにも良くないところはあったさ、上官に対する尊敬を
て来るわけにはいかなかったのさ。もっとも、おれのほ
がみんなおれの味方だったので、あんまり強く突っかかっ
れど、おれにも取るべき手段があったし、それに町の人
いし始めたんだ。そして何かと突っかかりそうにしたけ
も事実だ。ところが、大隊長の老中佐が急におれを毛嫌
妙に首を傾けたりしていたけれど、可愛がってくれたの
何か町の人の気に入るようなところがあったに違いない。
自身でもそんな気になっていたわけだ。しかしほかにも
だから、財産家だと思いこまれてしまったのだ。そして
しく優遇されたよ。おれが湯水のように金を使ったもの
たといってもいいありさまだった。しかし、町では恐ろ
だけれど、まるで流刑囚かなんぞのように、監視を受け
﹁おれはその戦列大隊で見習士官として勤務していたの
までしゃべり散らしたものだが、娘はただ笑っているば
で、その娘にもずいぶん露骨な、はっとするようなこと
ろんな女と全く純潔な友だちづきあいをしていたものさ。
もので、いわば友だちとしてだよ。実際、おれはよくい
といっても、別にわけがあったのじゃない。いや、潔白な
わなかった。おれはこの娘と仲よしになったんだよ︱︱︱
入りはしなかったが、それでいて、いつも朗らかさを失
たよ。二度ほど縁談があったけど、断わってしまって嫁
て、顔は少々粗野だったかもしれんが、眼の美しい女だっ
でなかなか悪くなかった︱︱︱背が高く、まるまるふとっ
アガーフィヤ・イワーノヴナと。それに器量もロシア趣味
他に見たことがないよ。アガーフィヤっていうんだがね、
ないほうだが、この娘くらい美しい性質の女性はついぞ
だいたいおれは思い出を語るとき、人のことを悪く言わ
まり中佐の姉娘のほうは、 はきはきした素朴さだった。
この伯母さんは無口な素朴さをそなえていたが、 姪 、つ
ていて、父親や、母方の伯母といっしょに暮らしていた。
た。おれがその町にいたころは、もう二十四、五にもなっ
うだが、その忘れがたみも、やはり飾りけのない娘だっ
めい
まったのだ。先妻のほうはなんでも平民出の女だったそ
173
会や舞踏会をやったものだ。ちょうどおれがその町へ着
暮らしをしていて、よく町じゅうの人を招待して、晩餐
はその町で第一流の名士の一人だったからなあ。豪勢な
は、どうして、なかなかそんなどころじゃない! 中佐
ときには遠慮せずにもらっていたがね。だが中佐のほう
だ親切ごころからしてやることなんで、しかし、くれる
たよ、それでいて賃金を請求したりはしなかったよ、た
けては立派な腕を持っていたからな。ほんとに器用だっ
ら可愛がられ、重宝がられていた。なにしろ仕立物にか
社交界へ肩を並べようなどとはしなかった。彼女は人か
常に自分から自分を殺すようにして暮らしていて、一般
うのは、彼女は父のもとにあって伯母さんといっしょに
うしたってお嬢さんと呼ぶわけには行かなかった。とい
おれを浮き立たせたんだよ。まだそのうえ、この娘はど
だぜ、ね。それにこの女は処女だったから、それがひどく
かりなんだ。たいがいの女は露骨なことを好くものなん
の催しまであった。おれは黙って飲み回っていたが、ちょ
しまい、どうかした保母たちの救済だと言って、活人画
た。令嬢はたちまち舞踏会やピクニックの女王になって
四方から令嬢を引っ張り 凧 にして御機嫌を取りにかかっ
が一人、それに婦人という婦人が、猫も杓
子 も加勢して、
たよ。一流の貴婦人たち︱︱︱将官夫人が二人と大佐夫人
たが︶時には町じゅうがまるで面目を一新した観があっ
しばらく滞在するだけで、ずっとというわけではなかっ
のだ。だが、その女学院出の令嬢が帰って来た︵ほんの
んな希望があるにしても、現金としては少しもなかった
たそうだ。とにかく親類があったというだけで、先にど
聞いたところによると、少しも持参金を持って来なかっ
でも将軍の家に生まれた人だったけれど、確かな筋から
もう亡くなっていたが、その後妻は、名門の出で、なん
ワーノヴナなんで、つまり中佐の後妻にできた娘なのさ。
とだった。この二番娘というのが、あのカテリーナ・イ
首都のさる貴族的な女学院を卒業したばかりだというこ
しゃくし
いて大隊へはいった時には、ちかぢかに中佐の二番娘が
うどその時分おれは町じゅうが騒ぎ立てるようなひどい
だこ
やって来るというので、町じゅうその 噂 でもちきりだっ
ことをやっつけたんだ。一度その令嬢がおれをじっと眺
うわさ
た。なんでも、美人の中でもずばぬけた美人で、こんど
174
にはそいつが両方ともないってことなんだ。おまえはお
高い、それに第一、知恵と教育のある淑女だのに、おれ
りは、気性のしっかりした、自尊心の強い、真から徳の
とは、この﹃カーチェンカ﹄が無邪気な女学生というよ
分でも気がついていた。だがそれより、もっと感じたこ
たいていの場合、おそろしく無作法者だった。それは自
たんだ、 今に 仇 を討ってやるから!
ど
おれはそのころ、
結んでいるじゃないか。ようし、と、おれは 肚 の中で思っ
こちらを見向きもしないで、軽蔑したように口をきっと
夜会の席だったが、話しかけてみたんだけれど、ろくに
の令嬢のそばへ近寄ったのは、それからかなり後のある
づきになるなんてまっぴらだといった 態 でさ。おれがこ
話だ。だがその時おれはそばへも寄らなかったよ。お近
めたことがあるんだ。それはある砲兵隊長のところでの
長がやって来て、小っぴどく油を絞ったのだ。それから
り、反対派の 陥穽 にひっかかったんだよ。で、直接師団
嫌疑で当局の不興を買っているということなんだ。つま
だ。それはほかでもない、おれたちの中佐が秩序 紊乱 の
紙から、自分にとってとても興味のある事実を知ったの
受け取ったころ、おれは突然、ある友だちがよこした手
やしない、あとまわしだ。ところがその六千ルーブルを
わからなかったんだ。だがそんなことはどうだってかま
まで、親爺との金銭関係がどうなっているか、さっぱり
いや、つい、この四五日前まで、というより恐らく今日
れにはなんにもわからなかったんだ。こちらへ来るまで、
したことにするからと言ってやった結果なんだ。当時お
けて、この後二度と再び無心をしない、
﹃総勘定﹄を済ま
送ってよこした。それはおれが正式の絶縁状をたたきつ
らいだ。ちょうどその時分、親爺がおれに六千ルーブル
てい
れが結婚の申しこみでもしようとしたと思うかい?
しばらくして、退職願いを出せという命令があったのだ。
はら
うしてどうして、ただ仇が討ちたかったばかりだ、おれ
まあ、その詳しいいきさつをおまえに話すのはやめにす
かたき
はこんな好漢なのに、あの女はそれに気づきおらん、と
るが、実際この人には敵があったのだ。そして急にこの
びんらん
いった肚なのさ。 が、 当分は遊興と乱暴で日を送った。
中佐とその家族に対する町の人の態度が、手の裏を返し
かんせい
とうとうしまいに中佐はおれを三日間の拘禁に処したく
175
合、その金がお父さんになければさっそく軍法会議にか
し当局がお父さんに四千五百ルーブルの金を請求した場
で、つけ足しておきたいことがあるんです。それは、も
かしそれについて、いわば﹁万一の場合に﹂といった形
うに、僕はこんなことにかけたら、墓石同然ですよ。し
せんよ、僕は誰にも話しやしませんからね。御存じのよ
からいったいお聞きになって?﹄
﹃心配することはありま
ひどくびっくりして、
﹃どうか脅かさないでください。誰
たわ﹄﹃そのときにあっても今はないんですよ﹄すると、
軍がお見えになったときにはちゃんとそっくりありまし
て? どうしてそんなことをおっしゃるの? 先だって将
を四千五百ルーブルなくなされたんですよ﹄
﹃なんですっ
とこういってやったのさ。
﹃あなたのお父さんはお 上 の金
ヤ・イワノーヴナとはいつも親しくしていたので、会う
の最初の 悪戯 が始まったってわけだ。おれはアガーフィ
たように冷たくなってしまったのだよ。このとき、おれ
突然、新任の少佐が大隊を受け取りにやって来たんだ。
うつぼなのさ。
の娘は隠しだてをしなかったよ。そこがまた、おれの思
れはあとでそれを、一から十まで聞いてしまったが、こ
を、つまりおれとの話をそのおり当人に話したのだ。お
に仕えてたんだ⋮⋮。それでもアガーフィヤはこの一件
妹カーチャを真から崇め、 鞠躬如 として小間使いのよう
るで潔白な天使のようにふるまったとのことだ。高慢な
その伯母とは、これは後の話だが、この事件に関してま
と、叫んだものだ。この二人の女、つまりアガーフィヤと
からもう一度、どこまでも秘密は神かけて守り通すから
て恐ろしくぷりぷりして出て行ったが、おれはその後ろ
う!
んだよ︶︱︱︱まあ、ひどい、なんて卑劣なかたなんでしょ
あ、なんて卑劣なかたでしょう! ︵ほんとにそう言った
あげますよ。 そして金輪際その秘密を守りますよ﹄﹃ま
ど僕に金を送ってきましたから、あの人に四千ルーブル
いたずら
けられて、それからあのお年で一兵卒の勤めをなさらな
事務の引き継ぎが始まった。と、老中佐が急に病気で、動
かみ
ければならんのです。そんなだったら、いっそお宅の女
くことができないといって、二昼夜というもの家の中に
きっきゅうじょ
よくもそんなことをおっしゃいますわね!﹄そし
学生さんを内緒で僕んところへおよこしなさい。ちょう
176
れ小僧から聞いたのだ。こいつは世界じゅうにも類のな
それを全く偶然にトリーフォノフのあと取り息子のよだ
あるのはいうまでもない。それが今度に限って︵おれは
期市の 土産物 まで持って来るのだ。土産に利子が添えて
帰って来てその金を耳をそろえて中佐に返したうえ、定
出かけて行って、何か必要な取り引きを済ますとすぐに
むじゃの、年をとった鰥 髭 なのだ。この男は定期市へ
はトリーフォノフという町の商人で、金縁眼鏡をかけた、
はその金を、最も手堅い男に貸しつけていたのだ。それ
暫時のあいだその姿を消すことになっていたのだ。中佐
この金はもう四年も前から、 長官の検閲が終わり次第、
おれが秘密にとうからかぎ出していた確かなところでは、
者のクラフチェンコも、全く病気に違いないと断言した。
閉じこもったきりで、官金の引き渡しをしないのだ。医
も 怪我 をしなかった。他の連中も駆けつけると、中佐を
抱きとめたため、銃は天井へ向けて発砲されて、幸い誰
げるように駆けこみざま、父に飛びかかって、後ろから
来たので、やっと危いところでそれを見つけたのだ。転
のことばを覚えていて、もしやと思って忍び足について
かかったのだ。ところが、アガーフィヤはおれのあの時
右足の長靴を脱いで、銃口を胸へ当て足で引金を探りに
の猟銃を取って火薬を 装填 して兵隊用の弾丸をこめると
えに行くのだと言って、自分の寝室へ駆けこみ、二連発
の署名を見たよ︱︱︱それから起き上がると、軍服に着換
で、中佐は署名をしたが、︱︱︱後でおれはその帳簿の中
内に官金を提出すべし﹄ という命令を持って来たのだ。
う騒ぎだ。そこへ突然、伝令が帳簿と﹃即刻、二時間以
をさせて、三人の女が総がかりで脳天を氷で冷やすとい
に閉じこもってしまったわけだ。タオルで頭にはち巻き
そうてん
い放埒息子なんだ︶
、今度に限って、トリーフォノフは定
とらえて銃を取り上げて、両手を捕まえていた⋮⋮これ
やもめ
期市から帰っても、なんにも返さないどころか、中佐が
はあとですっかり寸分たがえずに聞いたことだ。おれは
ひげ
飛んで行くと﹃わたしは、ついぞあなたから一文だって
そのとき家にいたのだ。ちょうどたそがれどきで出かけ
みやげもの
お借りした覚えはありません、それにお借りできるはず
るつもりで着換えもし、髪もなでつけ、ハンカチには香
け が
がありませんよ﹄という挨拶だ。そんな次第で中佐は家
177
いたが、しかし唇とそのまわりには、何かためらうよう
のだ。暗色の眼はきっとして、むしろ 大胆不遜 に光って
嬢は、はいってくるなり、まともにおれの顔を見つめる
た。もちろん、おれはすぐすべてのことを了解した。令
その後もまるで鉄の棒かなんぞのように黙っていてくれ
おれの言いなりになっていたから、 おれの言いつけで、
をしてくれたし、なかなか丁寧な老婆で、何事によらず
ていたが、もうだいぶの年の婆さんで、よくおれの世話
それにおれは、ある二人の官吏の後家さんの部屋を借り
だ。それで町では、これはなんの噂にものぼらなかった。
はいったのを、往来から見ていた者が一人もなかったの
妙なことがあるもので、その時あの女がおれのとこへ
リーナ・イワーノヴナが姿を現わしたのだ。
いて︱︱
︱おれの眼の前へ、しかも、おれの部屋へ、カテ
水までつけて、帽子を手にしたところへ、不意に扉があ
を見たかい?
い?
毒虫め、ちくりとおれの心臓を刺したんだよ。わかるか
こんだことがあった。ところが、その百足が、意地の悪い
おれはある時、 百足 にかまれて二週間ほど熱を出して寝
まず初手に浮かんだ考えはカラマゾフ式なものだったよ。
話すとすれば、 自分のことを棚へ上げたりはしないよ。
﹁その本当のことを話すよ、すっかり本当にありのまま
ながら答えた。
さることを知っています。﹂アリョーシャは心を波立たせ
﹁ミーチャ、僕は兄さんが本当のことを残らずお話しな
いてるのか、それとも眠っているのかい?﹂
りの筋肉がぴくぴく震えだした。おいアリョーシカ、聞
したように、声をとぎらせてしまった。口尻とそのまわ
だけ言ったが、あとが続かず、息をつまらせて、びっくり
した⋮⋮さあ、どうぞお金をくださいまし!⋮⋮﹄それ
ひと
ひと
ひと
美人だろう。だがあの時の美しさはそん
おれはじろりと相手を 一瞥 した。おまえはあの 女 むかで
な色がみえた。
な風の美しさではなかったのだ。あの 女 が美しかったの
だいたんふそん
﹃姉から聞いたのですが、もしわたくしが⋮⋮こちらへ
は、あの 女 がこのうえもなく高潔であるに引き替え、お
ひと
自分でいただきにまいりますれば、四千五百ルーブルの
れは一個の卑劣漢にすぎなかったからだ。あの 女 が父の
いちべつ
お金をくださいますそうですね、⋮⋮わたくしまいりま
178
ように、すぐあくる日にでも結婚の申しこみに乗りこん
誰にもそれを知らさない、いや誰も知ることができない
ころがまた、これをどこまでも高潔な方法でかたづけて、
に移るばかりだ⋮⋮。おれは息が止まる思いだった。と
だった。南京虫か 毒蜘蛛 のように、情け容赦もなく行動
れ出さないばかりだった。もはやなんの争いもなさそう
りとつかんでしまって悩ましさのために心臓が溶けて流
この考えは︱︱︱この毒虫の考えは、おれの心臓をしっか
められてしまっているのだ。おれはあからさまに言うが、
さいをあげて、生殺与奪の権を握られているのだ。追いつ
南 京 虫 に す ぎ な い お れ の た め に、 あ の 女 は身も心もいっ
の南
京虫 に等しいからなんだ。ところが、その卑劣漢で
牲 として、寛容の絶頂にあるに引き替え、おれは一匹
犠
ですよ、いったいどうなすったんです!
﹃あの四千ルーブルですって! ありゃあ冗談に言ったの
だ。
うな口上で、いきなり女をののしってやりたくなったん
突っ立っているあいだに、商人でもなければ使わないよ
うな眼つきでその女を見やりながら、相手が自分の前に
な一幕が演じてみたくなったのだ。つまり、あざけるよ
もや毒念が湧き返って、卑劣きわまる、豚か商人のよう
でちゃんと読めるのだ。そこで、おれの心の中にはまた
をつかんで放り出すということは、もう今からその顔色
かにそうだきっとそうするに決まっている。おれの襟髪
令嬢を眺めた。おれの心の声は嘘をつかなかった。たし
わくないから、と言ったらどうだろう!﹄おれはちらと
町じゅうに触れ回すがいい、おまえさんなぞちっともこ
ぎせい
でもよかったわけだ。なぜって、おれは卑しい欲望を持っ
ん、あんまり虫がよすぎますぜ。百や二百の金なら、こ
ナンキンむし
た人間ではあるけれど、心は潔白なんだからさ。ところ
ちらから喜んで差し上げもしましょうが、四千ルーブル
ひと
が突然その瞬間に、誰やらおれの耳元でささやくやつが
といえば、そう楽々おいそれと投げ出せる金じゃありま
どくぐも
あったんだよ。
﹃だが、あす結婚の申しこみに行ったとし
せんからね。ほんとにむだな御足労でしたよ﹄とさ、し
そりゃお嬢さ
ても、あの女 はおまえの前へ顔出しもしないで、御者に
かし、こんなことを言ったら、もちろん、おれは何もかも
ひと
言いつけておまえを邸から突き出してしまうだろうぜ、
179
けて、五千ルーブルの五分利つき無記名手形を取り出し
りと向きを変えるとテーブルに近寄って、引き出しをあ
心配するなよ、長く待たせはしなかったよ。おれはくる
がまるで火かなんぞのように額を焼いたのを覚えている。
れは窓に近寄って、 凍 てたガラスに額を押し当てた。氷
ちがいじみた恋と、間一髪をいれないものだった!
もってあの女を見つめたのだよ。しかしその憎悪が恋、気
その時ばかりは、三秒か五秒のあいだ、恐ろしい憎悪を
てもけっしてありはしなかった。ところが誓って言うが、
憎悪の念をもって眺めるなんてことは、どんな女に対し
本当にしないだろうが、こんな瞬間におれが相手の女を
この手品がやってみたくてたまらないのだ!
お
おまえは
生涯後悔の念に苦しむかもしれないが、とにかく、今は
せにもなって、いっさいを償って余りがあるだろう。一
に違いない。が、その代わり、思いきり悪がきいて腹い
なくしてしまっただろうし、令嬢は逃げ出してしまった
が、こんなことはおまえに話す必要はなかったんだ。そ
のだ。ただ軍刀に接吻しただけで、また元の 鞘 に納めた。
殺もしかねないものだよ。だが、おれは自殺しなかった
わかるかどうか知らんが、ある種の歓喜のためには、自
たが、おそらく嬉しさのあまりに違いない。おまえには
わからない、いうまでもなくばかげきったことではあっ
殺をしようと思ったんだよ。何のためか自分でもとんと
ど軍刀を 吊 っていたので、それを引き抜いてその場で自
てしまったんだ。あの女が飛び出した時、おれはちょう
辞儀をしたんだ!
額が地につくほどの、女学生式ではなく純ロシア式のお
物柔らかに、 静かに深くおれの足もとへ身をかがめて、
きなり、何も言わずに、突発的ではあったが、ほんとに
く青ざめて、ほんとに卓布のような顔をしていたが、い
とおののいて、一秒間おれをじっと見つめながら、ひど
したものだ。本当のことだよ!
しく腰をかがめて、相手の胸にしみとおるような会釈を
さや
そして急に飛び上がると、駆け出し
あの女は全身でぎくり
た︵それはフランス語の辞書にはさんであった︶。それか
れに今ああいう争闘の話をしながら、自分をいい子に見
つ
ら黙ったまま女に見せたうえ、たたんで渡した。そして
せようと思って、少しはごまかしもあるようだ。しかし
い
自分で玄関へ出る扉をあけると、一足さがってうやうや
180
を取り出して額の汗を 拭 った。それから再び腰をおろし
奮しながら一、二歩足を踏み出した。そして、ハンカチ
ドミトリイ・フョードロヴィッチは立ち上がると、興
れを知っているのはイワンと、それにおまえだけなんだ﹂
とのあいだにあった﹃事件﹄の全部なんだよ。今ではこ
んだ! さあ、これがおれとカテリーナ・イワーノヴナ
なんてものが、みんなどこかへ消えてなくなりゃあいい
それはどうだってかまわない。ほんとに人間の心の 間諜 三月たってからだ。あのことがあったすぐあくる日おれ
﹁おれが許婚になったのはすぐじゃない、あの事件の後、
なんですか、今でも許婚なんですか?﹂
あるんです。聞かせてください、いったい兄さんは 許婚 ﹁ちょっと待って、兄さん、ここに一つ大切なことばが
も言うのかい?﹂
﹁じゃあ、おれはどうだい?
ないんです﹂とアリョーシャが言った。
﹁その後半については、これまで少しも僕にわかってい
かんちょう
たが、それは前に坐っていたところでなく、反対側の壁
は自分で自分に言って聞かせた︱︱︱この事件はすっかり
いいなずけ
おれにはわかってるとで
ぎわの 床几 であった。だからアリョーシャは、すっかり
これでおしまいだ、けっして続きなんかないとね、結婚
ぬぐ
坐りなおして兄のほうを向かなければならなかった。
の申しこみに出かけるなんて、卑劣だとおれは思ったの
しょうぎ
前半を知ったわけなんです﹂
﹁ではこれで﹂とアリョーシャが言った。
﹁僕もこの話の
こっそりおれのところへ来て、何も言わずに紙包みを一
を訪問した、そのあくる日のことだが、あの家の女中が、
もっともあとにもさきにもただ一度きり、あの女がおれ
在していたのに、一言半句の便りもよこさなかったのだ。
だ。あの女はまたあの女で、その後六週間もその町に滞
﹁ね、前半だけはおまえにもわかったわけだ。それはた
つ置いて行ったのだ。その包みには何々様と当て名が書
五 熱烈なる心の懺悔︱︱︱﹃まっさかさま﹄
だの 戯曲 で、あちらで上演ずみだ。後半は悲劇で、これ
いてある。あけて見ると、五千ルーブルの手形のつり銭
ドラマ
から当地で演じられようとしているのさ﹂
181
り予想もしなかったからなあ。引き渡しはしたが、どっ
そんな金がそっくり中佐の手もとにあろうとは、誰ひと
したので、みんなはびっくりしてしまったのさ。だって、
食わしたほどだ。とにかく、中佐は無事に官金を引き渡
ものだからとうとう新任の少佐も余儀なくおれに 譴責 を
しようことなしに、おれはその残金でまた遊蕩を始めた
かと思って、捜してみたが︱︱︱なんにもない! そこで
は包みの中に、何かちょっと鉛筆で印しでもつけてない
一片の手紙もなければ一言の説明もしてないのだ。おれ
二百六十ルーブルくらいのものだった。しかも金だけで
ないが、おれの手もとへ返してよこしたのは、みんなで
まり損をしなければならなかったのだ。よくは覚えてい
れど、五千ルーブルの手形を売るのには二百ルーブルあ
なんだ。入用だったのはみんなで四千五百ルーブルだけ
救いの星でも見つけたように彼女に取りすがって、さっ
人は、親身の娘のように、カーチャを喜び迎え、まるで
で同じ週に死んだのだ。すっかり取り乱してしまった夫
とも一時に亡くしてしまったのだ。︱︱︱どちらも 天然痘 が不意に、最も近しい相続者に当たる二人の 姪 を、両方
してしまったのだ。あの女のおもな近親だった将軍夫人
ンナイトのような思いがけなさでもって、がらりと一変
と、あの人たちの事情は電光のような速度と、アラビヤ
これからはもっと簡単に説明しよう。モスクワへ行く
だけ書いてあったよ。
ずれお便りをします、お待ちくださいませ。K﹄とそれ
取ったんだ。青い透し入りの紙に鉛筆でたった一行﹃い
送りにも行かなかった︶、 おれはささやかな封書を受け
ても、その当日なんだが︵おれは会いもしなければ、見
ワへ立ってしまった。ところが、その出発の前、と言っ
けんせき
と病みついて、三週間ばかり床についていたが、突然、脳
そくあの女の名義に遺言状を書き換えてしまったのだ。
めい
の軟化症を起こして、五日目に亡くなってしまった。ま
けれどそれはさきのためで、当座の手当てとしてじかに
てんねんとう
だ退役の辞令を受けていなかったため、軍葬の礼をもっ
八万ルーブルわたして、さあこれはおまえの持参金だか
ほうむ
て葬 られた。カテリーナ・イワーノヴナは姉や伯母といっ
ら、どうなりとも好きなようにお使いと言ったとさ。実
とむら
しょに、父の 葬 いが済み次第、十日ばかりして、モスク
182
の足に踏まれる 毛氈 になります⋮⋮。わたしは永久にあ
たしません。わたしはあなたの道具になります、あなた
してもわたしはあなたの邪魔だてをするようなことはい
お恐れになることはいりません。どんなことをなさいま
にしても、どうぞわたしの良人になってください。でも、
わたしを愛してくださらなくてもかまいません。どちら
﹃わたしは気ちがいのように恋しております。あなたが
こみなんだ。自分から申しこんで来たんだよ。
見せてやろうか?
いや、ぜひ読んでくれ。結婚の申し
を肌身につけていて死んでも離さないよ、︱︱︱なんなら
た。それは今でもここに持っている。おれはいつもこれ
仰天したものだよ。三月するとかねて約束の手紙も届い
もちろんどうしたことかと思って、 唖 のようにびっくり
ぬけに四千五百ルーブルの金を郵便で受け取ったんだが、
へ行って自分の眼で観察したがね。ところでおれはだし
際ヒステリイ性の婦人だったよ、おれはその後モスクワ
だい?
のだ。おまえ、なんだってそんな目をして僕を眺めるん
情を説明してやって、イワンをあの女のところへやった
でできるだけ詳しく、 書簡箋 を六枚も使ってすべての事
のだ。これといっしょに、モスクワにいたイワンへ手紙
ければならなかったのに、つい、筆がすべってしまった
となどを言ったのだ!
は兵隊あがりの貧乏士官だ、と書いたことだ︱︱︱金のこ
手紙に、今のあなたは金持ちで持参金まであるのに、僕
書いたよ。ただ一つ永久に恥ずかしいと思うのは、その
けにはいかなかったのだ︶。おれは涙を流しながらそれを
書いた︵おれはどうしても自分でモスクワへ出かけるわ
ているとでも思うのかい?
は今おれが気楽だとでも思うかい。今日おれが気楽にし
今日になってもなおおれの胸を突き刺すのだ!
でどうしてもなおすことができないのだ!
伝える資格がないよ、おれのいつもの陋劣な調子は自分
しょかんせん
そりゃあ、イワンはあの女に 惚 れこんでしまっ
ほ
そんなことはじっと耐えていな
その時おれはすぐに返事を
おまえ
この手紙は
なたを愛しとうございます、あなたをあなた御自身から
たのさ、そして今でも惚れているよ。おれは、なるほど
おし
お救いしとうございます⋮⋮﹄アリョーシャ、おれはこの
世間の眼から見て、ばかなことをしたものだと、自分で
もうせん
数行の文句を、自分の陋劣なことばと陋劣な調子で語り
なく、ほとんど毒々しい調子で口走った。彼は笑いだし
ない﹂突然ドミトリイ・フョードロヴィッチはわれにも
﹁あの女の愛してるのは自分の善行で、けっしておれじゃ
けっしてイワンのような人じゃないと思います﹂
﹁でも僕は、あの女 の愛してるのは兄さんのような人で、
に、こちらであんなことをしでかした後でさ?﹂
うな人間を愛することがどうしてできるものか、おまけ
あの女がおれたちふたりを見比べて、こんな、おれのよ
ンを崇拝し、尊敬しているか知らないのかい? それに
ないんだ! あああ!
おまえはあの女がどんなにイワ
一つだけが、われわれ一同を救うことになるのかもしれ
も思ってるのさ。しかし、今となってはそのばかなこと
人だ、もう許婚の身でありながら、この町で、みんなに
のは誰なんだ?
脳 があるんだもの、なおさらだよ! だが、選ばれた
頭
ているのももっともなことだと思う。それにあれだけの
ると、あれが自然に対して、今ああいうのろいをいだい
んだ、ほんとに真剣なんだよ。しかし、イワンのこととな
れは朗読をしていないだろうか?
めいた口をきいたからって、どうしたというのだ?
に悲劇が含まれているのだ。だが、人間がちょっぴり朗読
る!
心のように真実なことも、自分でちゃんと知りきってい
だってことも、あの女のそうしたすぐれた感情が天使の
おれの魂なんか、あの女の魂に比べたら、百万倍も下劣
お
だが、おれは真剣な
選ばれたのはこの人非
こういうやくざなおれが
何者なんだ?
おれがそれをちゃんと知り抜いているということ
たが、一瞬の後、その眼がきらりと光った。彼はまっか
見られている中で、生来の放蕩を押えることのできない
ひと
になって力いっぱい 拳 でテーブルをたたきつけた。
ろくでなしだ︱︱︱しかもそれを許嫁のいるところでやる
あたま
﹁おれは誓って言うが、アリョーシャ﹂と、彼は自分自
んだ、許嫁のいるところで!
こぶし
身に対する激しい真剣な憤りを現わしながらわめいた。
れはいったいなんのためなんだ?
選ばれて、イワンがしりぞけられたんだ。ところで、こ
おれは神聖なる神にかけて、主キリストにかけて誓うが、
感謝のあまりに、自分で自分の運命と生涯とを手ごめに
それは一人の処女が
今おれはあの女の高潔な感情をあざけったけれど、この
﹁おまえが信じるか、信じないかどちらだってかまわん。
183
184
︱︱︱自分の気に入った、自分に相当したきたない路地の
て、価値のない者は永久に路地の奥へ隠れてしまうのだ
うちには運命の計らいで、価値ある者が相当の席につい
句だって、おれに 匂 わしたことはないのさ。しかし、その
し、イワンのほうからももちろん、そんなことは一言半
んな意味のことは一度だってイワンに話したことがない
しようとしているからだ!
人のお気に召さないでさ、お祝いひとつ言ってもらえな
底まで見通せるってね。そして変な話だが、イワンは夫
おまえはいい花婿を選んだ、わたしにはこのかたの肚の
れてさ。いいかい、カーチャにお祝いまで言ったのだよ。
によって堂々と行なわれたのだ。将軍夫人が祝福してく
がおれがモスクワへ行ったとき、聖像の前で盛大な儀式
﹁うん、おれは立派に祝福を受けた正式の許婚だ。それ
ありませんか?﹂
おれはこ
奥へ︱︱
︱そして汚物と悪臭の中に、満足と喜びを覚えな
かったのだよ。おれはモスクワでいろいろカーチャと話
不合理な話だ!
がら滅びていくのだ。おれはなんだかやたらにしゃべっ
し合って自分のことを潔く、精確に誠意をこめて打ち明
にお
たが、おれのことばはどれもこれも使い古されたもので、
けたのだ。あの 女 はじっと聞いていたが、
まど
ひと
それを出ほうだいに吐き散らしたようだけれど、しかし、
顔には愛 しき惑 い
いと
おれが今言ったとおりになるよ。おれは路地の中へうず
もれてしまって、あの女はイワンと結婚するのだ﹂
口には優しきことば⋮⋮
非常な不安をもってさえぎった。
﹁でも、これまで兄さん
いや、尊大なことばもあったよ。あの女はおれにその
﹁兄さん、ちょっと待ってください﹂とアリョーシャは
がはっきり説明してくれないことが一つありますよ。そ
おり、身持ちを改めるようにというおごそかな約束をさ
せたものだ。おれは約束をした。ところがだ⋮⋮﹂
れはね、つまり兄さんは婚約者なんでしょう、とにかく、
婚約者に違いないでしょう?
﹁どうしたのです?﹂
それだったら相手の婦人
が望んでもいないのに、縁を切るわけにはゆかないじゃ
185
う済んでしまってるのだとばかり思っていたのに﹂
僕はまた、兄さんはちょっと行ってみただけのことで、も
﹁では、ラキーチンの言ったのは本当だったのかしら?
シャは手を打って、悲しそうに叫んだ。
﹁じゃあグルーシェンカのところへですね!﹂アリョー
﹁路地へさ﹂
﹁それで、兄さんはどこへ行くんです?﹂
とが言えるもんか?﹂
のだ。でなくって、おれ自身どうしてあの女にそんなこ
﹁よくないからこそ、おまえを代わりにやろうっていう
﹁だって、そんなことがあっていいものでしょうか?﹂
れは行かないから、どうぞよろしくって﹂
﹁あの女にそう言ってくれるんだよ︱︱︱もうけっしてお
﹁どうするんです?﹂
チャのところへやって、それから⋮⋮﹂
おいてくれ︱︱︱そして、やはり同じ今日、おまえをカー
ぱりこんだのだ、今日という日にな、︱︱︱それを覚えて
﹁ところが、おれは、今日おまえを呼んで、ここへ引っ
つけてはどしどし 殖 やしていることも、情け容赦もない
それからあの女は金もうけが好きで、ひどい高利で貸し
の女に残すらしい例の老いぼれ商人のことも知っていた。
どく弱りこんで寝ているが、とにかくだいぶんの金をあ
がある。だが別に気にも留めなかったのさ。今病気でひ
出かけたのだ。前にもおれはあの女をちらっと見たこと
たのさ。だから、おれはグルーシェンカをぶんなぐりに
ことは、今でもわかってるよ。おれを脅かそうとしやがっ
頼んだということを、聞きこんだからだ。それが確かな
して、おれが閉口して手を引くように告訴してくれって
が、おれの名義になっている手形をグルーシェンカに渡
それは、親爺の代理人をしてやがるあの二等大尉のやつ
は最初、ただあの女をひっぱたきに行ってやったのだよ。
るのさ。どうしてそんな眼でおれを見るんだい?
もなくなってしまったんだよ。それはおれにもわかって
と同時に、おれはもう許婚でもなければ、誠実な人間で
だよ。ところが、グルーシェンカのところへ行き始める
るところでさ?
とができるもんかい?
ふ
おれ
おれにだって少しは廉恥心があるはず
しかも許嫁がいて、みんな見て
﹁許婚の男が、あんなところへ行くんだって? そんなこ
186
したのだ。まあ、こんな事
情 さ。ところが、ちょうどその
ないってことは、おれにもわかっている。時の循環が完了
だ。もうこれでおしまいなんだ、どうにも変わりようが
かったんだ、いったん感染したっきり、今だに落ちないん
しまったのさ。つまり、雷に 撃 たれたんだ。黒
死者 にか
ぐりに出かけたのだが、そのまま女の家に 神輿 をすえて
党 の詐欺師だって話も聞いていた。で、おれはぶんな
悪
ドミトリイ・フョードロヴィッチは、まるで 激昂 した
今でもやっぱり笑ってやがるんだ!﹂
あげてもいいわ﹄そういって笑ってやがるのさ。そして
をなんでもさせてくれるって言うのなら、お嫁に行って
あたしを打ったりなんかしないで、あたしのしたいこと
みならお嫁に行ってあげるわ。もしあんたが、けっして
は、こう言やがるんだ、
﹃あんたは乞食同様だけど、お望
て接吻したっきりだ︱︱︱全く本当のことだよ!
ペ ス
げっこう
あいつ
時、おれみたいな乞食のポケットに 故意 とのように三千
ように座を立ったが、不意に彼は酔っ払ったようになっ
る
ルーブルという金があったのだ。で、おれは女を連れて
た。彼の両眼は急に血走ってきた。
わ
ここから二十五 露里 あるモークロエ村へ出かけて、ジプ
﹁で、本当に兄さんはその 女 と結婚しようというんです
みこし
シイの男女を集めるやら、シャンパンを取り寄せるやら
か?﹂
ト
して、村の百姓や、女房や娘っ子たちにシャンパンをふ
﹁向こうがその気なら、すぐにもするし、いやだと言え
う
るまって、何千という金をまき散らしたものだ。三日た
ば、このままでいてやる。あいつの家の門番にだってな
たか
け
つと丸裸だったが、しかし 鷹 のような気分だったよ。と
るさ。ね、おまえ⋮⋮アリョーシャ⋮⋮﹂と彼は不意に
わ
ころで、その鷹がなんぞ思いを遂げたとでも思うかい?
弟の前へ立ちはだかって、その肩に両手をかけると、力
わ ざ
なんの、 遠くの方から拝ませもしおらんのだ。 曲線美、
いっぱいゆすぶった。
﹁おまえのような無邪気な少年には
エルスター
とでもいうのかなあ。グルーシェンカの悪党には、一つ
わからないだろうけれど、これはたわごとだよ、無意味
ひと
も言えない肉体の曲線美があるんだ。そいつが足にも、
得 なたわごとなんだよ。しかもそのなかに悲劇があるのだ、
え
左足の小指の先にまで現われているのだ。それを見つけ
187
町の人に知られたくないためだったのだ。この三千ルー
頼んだのだ。わざわざ県庁所在地からというのは、この
ナ当てに、郵便為替で三千ルーブル送って来て欲しいと
へ出かけて、モスクワにいるアガーフィヤ・イワーノヴ
る必要があったものとみえる︶、これから県庁所在地の 市 密にして︵何のためだかおれにはわからないが、そうす
おれを呼んで、さしあたり誰にも知らさないように、秘
すぐ前、その同じ日の朝、カテリーナ・イワーノヴナが
ちょうどおれがグルーシェンカをひっぱたきに出かける
れ、おれは泥棒なんだ、掏摸なんだ、掻っ払いなんだ!
り下がるはずがないだろう。ところが、今こそ聞いてく
カラマゾフは泥棒や、 掏摸 や、掻っ払いには、断じてな
だいた卑劣な人間かもしれないが、しかしドミトリイ・
いいかい、アレクセイ、おれは卑しい堕落した 煩悩 をい
﹁ミーチャ、あなたは不仕合わせな人ですね、ほんとに!
﹃どこにお金がありますの﹄って聞くだろうな﹂
で、当の兄は、よろしくと申しました﹄するとあの女は
自身でアガーフィヤ ・ イワーノヴナへお送りください。
ら、ここにあなたの三千ルーブルがあります。どうぞ御
ていいわけだよ。
﹃それでも兄は泥棒ではありません、そ
り使ってしまったのです﹄が、しかし、こう言い足したっ
物の常として衝動に打ち勝つことができないで、すっか
動物です。兄はあの時あなたの金を送らないで、下等動
は卑劣な好色漢です、欲情を押えることのできない下等
たら、おまえはこんな風に言ったってかまわないよ、
﹃兄
たら、あの女は﹃で、お金は?﹄って聞くだろう。そうし
えが行ってあの女 に、
﹃兄がよろしく申しました﹄と言っ
ましたってわけでね。そこでどうだろう、これからおま
ながら、いまだに持ってなぞ行かないでいるのさ。忘れ
ぼんのう
ブルをポケットへ入れたまま、おれはその時グルーシェ
でも、まだ兄さんが自分で考えているほどでありません
ひと
ンカのところへ出かけたのだ。そしてその金でモークロ
よ︱︱︱あまり絶望して、自分を苦しめないほうがよろし
す り
エ村へ出かけたわけだ。あとで、おれは、さも 市 へ飛ん
いよ!﹂
まち
で行ったようなふりをして、為替の受け取りも出さない
﹁おまえはその三千ルーブルが手に入らなかったら、お
まち
で、金は送ったから受け取りもすぐ持って来るとは言い
188
て彼
女 の友だちの上靴も磨いてやろうし、 湯沸 の火もお
もし 情夫 がやって来たら次の間へはずしてやるよ。そし
﹁あの女の亭主になるんだよ、配
偶 にしていただくのさ。
﹁あの 女 のとこへ行ってどうするんです?﹂
なったってかまうものか!﹂
シェンカのところへ行くんだ⋮⋮おれの一生なんかどう
だ。そのうちにあるいはやるかもしれないが、今はグルー
おれは自殺なんかしやしない。今はそんな元気がないん
れが拳銃自殺でもすると思うのかい?
その三千ルーブルがさ。それに第一、おまえはまだ丁年
﹁しかし、それがいつ手にはいるんだい、おまえのいう
て行ってお返しなさい﹂
う、それでつごう三千ルーブルになりますよ。それを持っ
兄さんだってやはり千ルーブルくらい出してくれましょ
だ、僕の金が二千ルーブルあるでしょう、それにイワン
﹁でも、どこでその金を手に入れるんです?
﹁あの女に三千ルーブル返してやるのだ。﹂
﹁どうするのです?﹂
は、どうするのがいちばんいいか知ってるかい?﹂
ま ぶ
あいつ
そこなんだよ、
こそう、使い走りだっていとやしないよ⋮⋮﹂
に達していないんだからなあ。いや、どうあってもぜひ
もう遅いんだ。おれはおまえに親爺のところへ行って来
ああそう
﹁カテリーナ・イワーノヴナは何もかもわかってくれま
今日、あの女のところへ出かけて、よろしくを言ってく
ひと
すよ﹂と、不意にアリョーシャは真顔になって、口を入
れなくちゃならんよ。金を持ってか、それとも持たずに
にだってわかりますもの﹂
てもらいたいんだ﹂
つれあい
れた。﹁この悲しい出来事の深い点をすっかり了解して、
か、とにかく、もうこれ以上のばすわけにはいかぬ。そ
﹁あの女はけっして許してなんかくれないよ﹂と、ミー
﹁お父さんのところへ?﹂
サモワール
許してくれますよ。あの人には立派な理性がありますか
ういうぎりぎりまで差し迫ってしまったのだ。明日では
チャは苦笑いをした。
﹁この中には、どんな女だって許し
﹁うん、あの女のとこより先に親爺のとこへ。そして三
ひと
ら、兄さん以上に不幸な人のあり得ないことは、あの 女 てくれることのできないようなものがあるのだ。おまえ
189
へ入れるこっちゃないんだ。つまり、これを最後に、も
さっぱりかたをつけて、この後おれの噂ひとつ親爺の耳
その三千ルーブル︱︱︱おまえに誓っておくが︱︱︱きれい
てもたくさんな罪障の償いになるというものだ。おれは
さえすれば、おれの魂を地獄から救い出して、親爺にし
千ルーブルのうち、たった三千ルーブルだけおれにくれ
産をもうけ出したんだからなあ。親爺がもしその二万八
爺は母の二万八千ルーブルを元手にして、十万からの財
おれに義務があるよ、なあ、そうじゃなかろうか?
ら、それはおれも承知だよ。しかし精神的には、親爺は
目はないさ。おれがありったけ引き出しちまったんだか
﹁まあ聞けよ、親爺は法律的にはおれに一文だって負い
﹁知っています﹂
てるかい?﹂
だよ。 なあ、 アリョーシャ、 絶望ってどんなものか知っ
﹁出してくれるはずはない、くれないことは承知のうえ
よ﹂
﹁だって、ミーチャ、お父さんは出してくれやしません
千ルーブルもらって来てくれるんだ﹂
親
の金を抜き出して百ルーブルの札にくずし、大きな封筒
それはこうだ、もう五日ほど前に、親爺は三千ルーブル
れだけじゃない、 もっと重大なことを聞かしてやるよ、
おれにお金を出してくるはずはないさ。しかしまだ、そ
いる当の親爺が、この危険を助長するために、わざわざ
よ。あの牝猫のさ。だから、あの女にうつつを抜かして
ぎだしおったのだ。親爺もあいつの気性を知ってるんだ
ま じ め に︵このまじめにという点に気をつけてくれ︶か
おれと不意に結婚するかもしれないってことをはじめて
んが、親爺は、グルーシェンカがほんとに冗談でなしに
三日前、いや、ひょっとしたらまだ昨日あたりかもしれ
だこんなことを知ってるんだ。ついこのごろ、ほんの二、
今はなおさらなんだよ。さっきの話のほかに、おれはま
﹁知ってるよ、出さないってことは百も承知さ。まして、
れやしませんよ﹂
﹁ミーチャ、お父さんはどんなことがあっても出してく
になるのだって﹂
爺にそう言ってやってくれ、この機会こそ神様がお授け
う一度だけ父となる機会を親爺に提供してやるんだ。親
、
、
、
、
190
にして、待ちあぐねているんだよ。親爺のほうから知ら
日、グルーシェンカがその金包みを取りに来るのを当て
いるんだからな。ところで、親爺はもう今日で三日か四
なことを、親爺はまるで自分と同じくらいに信じきって
ジャコフの他には誰ひとり知る者はない。この男の正直
けたのだ。こんな金が寝かしてあることは下男のスメル
なば﹄これはしんと寝静まった時こっそり自分で書きつ
が天使なるグルーシェンカへ︱︱︱もしわがもとに来たり
さえ、金のことはおろか、なんにも知らしてないんだか
﹁あいつさ。だがこれは絶対の秘密なんだよ。イワンに
﹁金包みのことを兄さんに話したのもあの男ですね?﹂
あいつが知らせる手はずなんだ﹂
﹁あいつだけだよ。もし女が老いぼれのところへ来たら、
﹁スメルジャコフだけが知ってるんですね!﹂
を知らないんだよ﹂
のだ。つまり、おれがここで何を見はってるかってこと
が、この男も、ここの家の母娘もおれの秘密は知らない
おれはまんまとこの男のところへはいり込んでいるんだ
れていて、昼間は松鶏を撃ちに出かけたりしているのだ。
フォマという男が借りてるんだよ。このフォマは土地の
せてやったので、あの女からも﹃行くかもしれない﹄と
ら。ところで、親爺は二、三日のあいだ、イワンをチェ
に入れて封印をべたべた五つも押した上に、赤い紐を十
いう返事があったそうだ。だからもしあの女が親爺のと
ルマーシニャへやろうとしているんだよ。森の買い手が
者で兵隊あがりの男なのさ。夜だけ、ここで夜番に使わ
ころへやって来るようなら、おれはあの女といっしょに
ろう!
なんでおれはこんな所に
文字にかけたものだ。どうだい、実に詳しく知ってるだ
なんかなれやしないだろう?
ついて。なんでも八千ルーブルとかで木を切り出させる
封筒にはこういう上書きがしてあるのさ、﹃わ
内緒で坐っているのか、何を見張っているのか、これで
ど
んだとさ。それで親爺は、
﹃手助けをするつもりで、行っ
く
おまえにも合点がいったはずだな﹂
て来てくれ﹄と、イワンを口
説 いているところだが、二、
ひと
﹁あの 女 を見張ってるんでしょう?﹂
三日はかかる用事なんだ。これはつまり、イワンの留守
ひきず
﹁そうだよ。ところで、ここのお 引摺 りの家の小部屋を
191
フョードロヴィッチの顔を見つめながら叫んだ。一瞬間、
シャは床几から飛び上って、逆上したようなドミトリイ・
﹁ミーチャ、兄さん、どうなすったの!﹂と、アリョー
て三千ルーブルもらって来てくれないか⋮⋮﹂
ンと差し向かいで酒を飲んでいるんだよ。ひとつ出かけ
だ。
﹁スメルジャコフもそう考えてるのさ。親爺は今イワ
だ。きっと来やしないよ!﹂と、突然、ミーチャは叫ん
﹁いや、あの女は今日は来ない。ちゃんと徴候があるん
るかと待ってるわけですね﹂
﹁それじゃ、お父さんは今日にも、グルーシェンカが来
にグルーシェンカを引き入れようという肚だよ﹂
に今ごろは酔っぱらっているだろうし。待ってるよ、三
そういきなり切り出すわけにもいくまいからさ!
﹁待ってるとも、多少時間のかかることはわかってるし、
ますね?﹂
﹁じゃ行って来ます。で、兄さんはここに待っててくれ
信じるよ。さあ行って来てくれ!﹂
おおきになるだろうか?
何か恐ろしいことのもちあがるのをみすみす見のがして
この画面を残らず見通しておいでになるのだ。 神様が、
おわかりだ。神様はおれの絶望を見ぬいていてくださる。
﹁うん、神慮の奇跡をさ。神様にはおれの胸の中がよく
﹁奇跡を?﹂
いに行ってもらおうとしているが、自分のしゃべってる
が言った。
﹁なるほど、おれはおまえに親爺のところへ使
の顔を見つめながら、ドミトリイ・フョードロヴィッチ
よ﹂こう、じっと、妙にきまじめな色さえ浮かべて、弟
﹁おまえこそどうしたんだい?
﹃よろしく申しました﹄っていう句を言ってもらいたいん
ましたと言ってくれるんだよ。おれはおまえにぜひこの
ナ・イワーノヴナのところへ行って、兄がよろしく申し
なっても、金を持ってなり、持たないでなり、カテリー
でも、しかし、いいかい、今日じゅうに、たとえ夜中に
時間でも、四時間でも、五時間でも、六時間でも、七時間
それ
アリョーシャ、おれは奇跡を
彼は兄が気ちがいになったのではないのかと思った。
ことはちゃんとわかっているよ。おれは奇跡を信じてる
だよ﹂
おれは気は確かなんだ
から﹂
192
て来たら⋮⋮今日でなくても、明日なり、明後日なり?﹂
﹁ミーチャ! でも、 不意に今日グルーシェンカがやっ
てくださることを信じます﹂
ろしいことの起こらないように、じょうずに取りさばい
もし奇跡が起こらなかったら、その時は⋮⋮﹂アリョー
﹁じゃ、おれはここに坐って、奇跡を待つことにしよう。
で邪魔をしてやる⋮⋮﹂
シャは思いに沈みながら、父のもとをさして出かけた。
狙っていて見つけ次第踏んごん
﹁でももしか⋮⋮﹂
﹁グルーシェンカが?
﹁もしかなんてことがあったら、打ち殺しちまうさ。指
に憎悪を感じやしないかと、ただそれだけが気になるん
かもしれん。ただ、いよいよの瞬間に親爺の顔を見て急
たら殺さないかもしれないし、また場合によっては殺す
﹁いや、おれにはわからない、わからない⋮⋮もしかし
﹁兄さん、なんてことを言うのです!﹂
﹁爺いをさ。女は殺さないよ﹂
﹁誰を殺すんです?﹂
とのあいだの壁には鏡がはめこんであるが、その 縁 はや
い骨に古ぼけた赤い絹まじりの布が張ってある。窓と窓
飾が施してあった。家具類は思いきり古風なもので、白
いちばん大きい部屋で、なんだか昔くさい造りの室内装
慣で食卓は広間に用意されてあった。それは家じゅうで
た。この家には別に本式の食堂があるのに、いつもの習
彼ははたしてまだ父が食卓に向かっているところへ行っ
六 スメルジャコフ
だ。おれにはあの 喉 団子や、あの鼻や、あのふてぶてし
はり白地に金をちりばめて、古くさい彫刻をごてごてと
をくわえて見ちゃいないよ﹂
い嘲
弄 が憎らしくてたまらないのだ。全体に虫が好かな
施したものである。もうあちらこちら裂けた白い紙張り
ふち
いのだ。それが心配なんだよ。こればかりは我慢がなら
の壁には、二つの大きな肖像画がもったいらしく掛かっ
のど
ないから﹂
ている︱︱︱一つのほうは、三十年ばかりも前にこの地方
ちょうろう
﹁ミーチャ、僕行って来ます。僕は神様が、そんなに恐
193
食卓に向かってコーヒーを飲んでいた。従僕のグリゴリ
のが好きであった。イワン・フョードロヴィッチもやはり
ヴロヴィッチは食後に甘いものを食べてコニャクをやる
済んでジャムとコーヒーが出ていた。フョードル・パー
た。アリョーシャがはいって行ったときには、もう食事が
晩、彼の身辺に居残って、控え室の腰かけの上で寝てい
があったけれど、たいていは下男のスメルジャコフが毎
室 へさげてしまって、まるきり一人で母家に寝ること
傍
れが癖になってしまったのである。彼はよく召し使いを
たり、肘椅子に腰かけて考えごとをするのであった。そ
か四時に寝につくので、それまでは部屋の中を歩き回っ
ル・パーヴロヴィッチは毎晩たいへん遅く、夜明けの三時
は、夜分部屋の中を明るくするためであった。フョード
前に燈明があげられたが、それは信心のためというより
面の隅には幾つもの聖像が安置されて、夜になるとその
りよほど以前に世を去ったある僧正であった。部屋の正
の総督をしていた、さる公爵で、もう一つのほうはやは
アリョーシャはリキュールを断わろうとした。
早く持って来い!﹂
行って取って来い、二番目の棚の右側にある。そら鍵だ、
ろう、すばらしいやつだぜ!
やらんか?
まえは精進を守ってるのだからな、しかしどうだ、少し
進の。熱くて、うまいぞ! コニャクはすすめないよ、お
ヒーを一杯やんな︱︱︱なあに、精進のコーヒーだよ、精
んでわめきだした。﹁さあ相伴をしろ、 ここへ来てコー
ヴィッチはアリョーシャのやって来たのをむしょうに喜
﹁ほら、来たぞ、来たぞ!﹂と、フョードル・パーヴロ
すぎないことを、たちどころに推察した。
でにはだいぶ間のある、ほんの一杯機嫌になっているに
彼はその笑い声から、父がまだ酔っ払うというところま
よく聞き慣れているかん高い笑い声を耳にしたのである。
シャは玄関へはいったばかりで、もうあの父の、前から
チは大きな声で笑ったり、にこにこしていた。アリョー
はしゃいでいるらしかった。フョードル・パーヴロヴィッ
はなれ
イとスメルジャコフが食卓のそばに立っていた。どうや
﹁なあに、どうせ出すんだ。おまえがいらなきゃ、わし
スメルジャコフ、戸棚へ
いや、それよりおまえにはリキュールをや
ら主人側も召し使いのほうも、目にみえてひどく愉快に
194
﹁いいえ、持って来ませんよ﹂アリョーシャも薄笑いを
が、ほんとに蒲団をかついで来たかよ? へ、へ、へ!﹂
そく蒲団と枕を持って帰って来いとおまえに言いつけた
せるんだぞ⋮⋮いや待て待て、さっき、わしは今日さっ
いつか、魚汁を食いに来んか。そのときは前もって知ら
名人だ。あ、それからまだ 魚汁 にかけてもな。ほんとに
のお手ぎわだよ。この男はコーヒーと魚饅頭にかけては
ておるわい。すばらしいコーヒーだて、スメルジャコフ
ていうぜ。温めなくていいかな?
﹁可愛いやつ! 感心感心! こいつはコーヒーを飲むっ
ましょう﹂
飲んだだけであった。
﹁僕はこの熱いコーヒーをいただき
の実、修道院長の台所で、パンを一切れにクワスを一杯
﹁もう済みましたよ﹂とアリョーシャは答えたものの、そ
か、どうだ?﹂
いや、まだ煮え立っ
ほくしながら、
﹁それはそうと、おまえ、食事は済んだの
らがやるよ﹂と、フョードル・パーヴロヴィッチはほく
が恐ろしく人づきの悪い黙り者であった。それも内気な、
であった。彼はまだやっと二十四、五歳の若者であった。
ヴァラームの驢馬とは、下男のスメルジャコフのこと
ら!﹂
しゃべりだしたのさ。そのまた話のうまいことといった
腹の皮をよるこったろうて。うちのヴァラームの 驢馬 が
びそうな話があるのだよ。 しかもおまえの畑なんだぜ。
う、さあこれでよしと。掛けな。ところで、おまえの喜
﹁いや、いや、今はただ十字を切ってやるだけにしとこ
ヴロヴィッチはもうそのあいだにも気持を変えていた。
アリョーシャは立ち上がった。しかしフョードル・パー
てやろう﹂
アリョーシカ、さあひとつわしが父としての祝福を授け
つい誘われてにっこりしてしまうのだよ、可愛くてな!
平気で見ちゃいられないわい、いや、こたえられないて。
わしはこれがこんな風にわしの顔を見て笑うと、どうも
ことはとてもできるこっちゃないわい。 でな、 イワン、
ろ?
ごうまん
ろ
ば
なあこれ、坊主、わしがおまえを侮辱するなんて
した。
はにかみやというわけではなくて、反対に彼は 傲慢 な性
ウハー
﹁な、びっくりしたろ、さっきはほんとにびっくりした
195
歌をうたったものである。これは厳重な 秘密裡 にこっそ
わりになるものを猫の死骸の上で振り回しながら、讃美
に敷布をひっかけて法衣の代わりにして、何か 香炉 の代
あとで葬式のまねをするのが大好きであった。そのため
うようにしていた。小さいころに彼は、猫を絞め殺して、
成長して、野育ちの子供らしく 隅 っこから世間をうかが
グリゴリイの言いぐさではないが、
﹃まるで恩知らず﹄に
とグリゴリイ・ワシーリエヴィッチの手で育てられたが、
はならないのである。彼はマルファ・イグナーチエヴナ
べておかなければならない。しかもちょうど今でなくて
れはさて、ここで、この男のことをたとえひと言でも述
質で、人をすべて軽蔑しているようなところがあった。そ
﹁なんでもありません。神様が世界をお 創 りになったの
みながら、グリゴリイが問いただした。
﹁どうしたんだ?﹂と、眼鏡ごしにいかつく子供をにら
意ににやりと笑った。
た。まだほんの二度目か三度目の 稽古 のおり、子供は不
書の講釈をしにかかった。が、それはすぐ失敗に終わっ
読み書きを教えた。そして子供が十二歳になったとき聖
でもこのことばを恨みに思っていた。グリゴリイは彼に
それはあとでわかった話だが、スメルジャコフはいつま
の湿気からわいて出たやつだ、それが手前なんだぞ⋮⋮﹄
うことがあった。
﹃うんにゃ、手前は人間じゃねえ。湯殿
しぬけに当のスメルジャコフに向かって、こんな風に言
ねんだよ。それでも手前は人間なのかい?﹄と、彼はだ
すみ
りと取り行なわれた。ある時、そういうお勤めをしてい
は初めの日でしょう。それだのにお日様やお月様やお星
むち
けいこ
るところを、グリゴリイに見つけられて、 鞭 でこっぴど
様ができたのは四日目じゃありませんか。はじめての日
こうろ
く 折檻 されたことがある。するとこの子供は片隅へ引っ
にはどこから明りが映したのです?﹂グリゴリイは立ち
ひみつり
こんでしまって、一週間ばかりというもの、そこから白
すくんでしまった。少年はあざけるように教師を見やっ
つく
い眼を光らせていた。
﹃このできそこないはわしやおまえ
た。その 眼眸 にはどこか高慢ちきなところさえうかがわ
せっかん
を好いていねだよ﹄とグリゴリイは妻のマルファ・イグ
れた。 グリゴリイはとてもこらえきれなかった。﹃そう
まなざし
ナーチエヴナに言い言いした。
﹃いや、誰ひとり好いてい
196
の程度もまちまちで、ときには軽く、ときには非常に激
襲ってきたが、その期間はさまざまであった。また発作
いということがわかった。発作は一月に平均一度ぐらい
医者を迎えて治療にかかったけれど、治療の見込みはな
の話を聞くと共に、急にこの子供のことを心配しだして、
なんだか無関心な眼で子供を眺めていた。ところが病気
卓へ出た甘いものを届けてやったりしたこともあったが、
一カペイカずつくれてやったり、機嫌のいいおりには食
は、一度も叱りつけるようなこともなく、出会うごとに
の子供に対する態度を一変したようである。それまで彼
ことを聞くと、フョードル・パーヴロヴィッチは突然こ
生の持病となった 癲癇 の兆候がはじめて現われた。この
た。ところが、ちょうどそれから一週間たって、彼の一
が、またもや幾日かのあいだ隅っこへ引っこんでしまっ
をなぐりつけた。子供は黙ってその折檻をこらえていた
ら、ここからだ!﹄とどなりざま、猛烈に教え子の 頬桁 ﹁どうだい?
て顔をしかめていたくらいである。
こりともしないばかりか、読み終わった時には、かえっ
子供は読みにかかったが、ひどく不満らしい様子で、に
出して与えた。
ル・パーヴロヴィッチは﹃ディカンカ近郷夜話﹄を抜き
まあ、こんなものでも読んでみろ﹂そう言ってフョード
係りにでもなったほうがましだろう。坐って読むがいい。
﹁さあ、読め、読め、庭をうろつき回っているより、図書
た。 彼はさっそく戸棚の鍵をスメルジャコフに渡した。
れど、彼が書物を読んでいるのを見た者は一人もなかっ
ころにはかなりたくさん、百冊あまりも書物があったけ
んでいる姿を見た。フョードル・パーヴロヴィッチのと
棚の辺をうろつき回って、ガラス戸ごしに本の標題を読
なっていたが、フョードル・パーヴロヴィッチは彼が書
いだ差し留めた。ところが、ある時、子供はもう十五に
また、どんなことにもせよ、物を教えることも当分のあ
ほおげた
烈であった。フョードル・パーヴロヴィッチはグリゴリ
パーヴロヴィッチが聞いた。
てんかん
イに向かって、子供に体刑を加えることを厳しく禁じた。
スメルジャコフは黙りこんでいた。
おかしくないかい?﹂と、フョードル・
そして子供に上の自分の部屋へ出入りすることを許した。
197
プの中を吟味したり、かがみこんでのぞいたり、一匙す
プをすすりにかかっても、 匙 を握ったまましきりとスー
ドル・パーヴロヴィッチに報告した。というのは、スー
コフが妙にだんだん気むずかしくなったことを、フョー
しまった。間もなくマルファとグリゴリイは、スメルジャ
である。こんな風で書棚はまたもとのように閉じられて
とは読まなかった。まるっきり退屈なものに思われたの
けれどスメルジャコフはそのスマラグドフも十ページ
本当のことばかり書いてあるぞ、読んでみろ﹂
を貸してやろう、スマラグドフの万国史だ。これならば
﹁ふん、勝手にしろ、この下郎根性め。まあ待て、これ
にやにやしながら 曖昧 な返事をした。
﹁嘘ぱちばかり書いてありますね﹂とスメルジャコフは
﹁返事をしろ、ばかめ﹂
てんでその必要を認めなかったのである。あとで人から
ず人づきが悪く、 誰とも、 交際するなどということは、
スクワへ行く前とほとんど変わりがなかった。相変わら
ころは、まるで去勢者のようであった。性質のほうはモ
似合わずひどく老けこんで、 皺 が寄り、黄色くなったと
た時にはすっかり面変わりがしていた。急にまるで年に
修業にやった。彼は数年のあいだ修業をして、帰って来
さっそく料理人に仕立てようと思い立って、モスクワへ
チはスメルジャコフのこうした新しい性分を聞き知ると、
だよ﹄とつぶやいたものだ。フョードル・パーヴロヴィッ
見るとグリゴリイは﹃へん、まるで御大身のお坊ちゃま
と思いきって口の中へ入れるという風であった。それを
に子細に検査をして、長いあいだ躊
躇 していてから、やっ
かりの方へ持っていくと、まるで顕微鏡でものぞくよう
のであった。何でも食物の切れをフォークにさして、明
ちゅうちょ
くって明りに透かして見たりするというのであった。
聞いたところによると、彼はモスクワでも始終しんねり
あいまい
﹁油虫でもおるのか?﹂とグリゴリイが聞く。
むっつりで押し通したとのことである。モスクワそのも
しわ
﹁きっと 蠅 でしょうよ﹂とマルファが口をいれる。
のもきわめてわずかしか彼の興味を引かなかったので、
さじ
潔癖な少年は一度も返事をしなかったが、パンであれ、
市中のこともほんの二、三しか知らず、その余のことは
はえ
肉であれ、すべての食物について同じようなことをする
198
ヴロヴィッチはまた少し別な見地から彼を眺めるように
ことができないくらいにふるまった。フョードル・パー
女に面と向かうといかにも四角ばって、ほとんど近寄る
を 軽蔑 する点では、 男性に対すると変わりなさそうで、
ドや、香水などに使ってしまうのであった。しかし女性
メルジャコフはその給料のほとんど全部を着物やポマー
パーヴロヴィッチは彼に一定の給料を与えていたが、ス
理人としての彼は実に立派なものであった。フョードル・
英国靴墨で鏡のように磨きあげるのが好きであった。料
念入りに服にブラシをかけ、気取った 犢皮 の靴を特製の
コートにワイシャツを着こんで、日に二度は必ず自分で
は、なかなか凝った 服装 をしていた。きれいなフロック
で帰って来た。その代わりモスクワから帰って来たとき
行ったことがあるけれど、黙りこくって、不満らしい様子
てんで見向こうともしなかったのである。一度、芝居へ
捜しにかかったが、ふと見れば、虹幣は三枚ともちゃん
になってはじめて気がついて、あわててポケットの中を
枚自宅の庭のぬかるみへ落としたことがある。あくる日
チは酔っ払っていたために受け取ったばかりの虹幣を三
いることであった。ある時、フョードル・パーヴロヴィッ
手がけっして物を取ったり盗んだりしないと信じきって
大な点は、彼がこの青年の正直さを絶対に信用して、相
ておいて、その場をはずしてしまった。しかし何よりも重
かった。でフョードル・パーヴロヴィッチも手を一つ振っ
腹が立ってまっさおな顔をしただけで、返事ひとつしな
しかし、スメルジャコフはこのことばを聞くと、ただ
なんなら世話してやるが﹂
ながら、こう言った。
﹁おまえ、嫁をもらったらどうだな。
のだろうな?﹂彼は新しい料理人の顔を流し目に見やり
﹁どうしておまえの発作はこうだんだん度重なってきた
ある。
な り
なった。スメルジャコフの癲癇の発作がますます烈しく
とテーブルの上に載っている。いったいどこから出て来
こうしがわ
なってきて、そういう日には食事の調理をマルファ・イ
たんだ?
けいべつ
グナーチエヴナが代わってしたが、 それがフョードル ・
こへ持って来てあったのである。﹁いやどうも、 おまえ
スメルジャコフが拾って、もう前の日からそ
パーヴロヴィッチにはどうにも我慢がならなかったので
199
だ何か 瞑想 とでもいうものがあるばかりだ、と言うに違
察したならば、そこには思考もなければ想念もなく、た
よくあった。骨相学者がもしこのときの彼の顔をよく観
考えこみながら、ものの十分間もたたずんでいることが
庭でも、また往来のまん中でも、ふと立ち止まって、何か
かった。ところでまた、彼はどうかすると、家の中でも、
子を見ただけでは、とてもそれを判断することができな
いるのか、そんなことを知りたいと思っても、相手の様
味をいだいているのか、また心の中で何を一番に考えて
誰かが彼の顔を眺めながら、いったいこの若者は何に興
としていた。口をきくこともまれであった。こんな場合、
の他人に対すると同様、白眼を向けて、いつもむっつり
のである。そのくせこの若者のほうは彼に対しても、赤
ばかりでなく、なんとはなしにこの青年が好もしかった
ドル・パーヴロヴィッチは単に彼の正直さを信じていた
やった。ここでつけ加えておかねばならぬのは、フョー
ヴィッチはそう言ってそのとき、彼に十ルーブルくれて
みたいな男は見たことがないぞ﹂フョードル・パーヴロ
物を放って、遍歴と修行のためにエルサレムをさして旅
のあいだこうした印象を蓄積したあげく、突然すべての
も自分ではむろんわかっていないのである。だが、長年
してゆくのである︱︱︱何のために、どうしてということ
からそれと意識しないで、いつとはなしに、それを蓄積
本人にとってなかなか大切なもので、おそらく彼はみず
その心の底に秘められているのである。こうした印象は
しかし、その代わり、彼が瞑想中に受けた印象は、深く
かと聞かれても、 おそらく何の記憶もないに違いない。
返るに違いないけれど、何をぼんやり立って考えてたの
がなんだか少しもわからないのである。実際すぐわれに
さめたように、相手の顔を見守るだろうが、その実、何
と突いたなら、彼はきっとぎくりとして、まるで夢から
ただ何か﹃瞑想﹄しているのである。もしこの男をとん
はあるが、 それもけっして考えこんでいるのではなく、
いる。いかにも彼は、何か物思いにふけっているようで
に木の皮の靴をはいてただひとり深い静寂の中に立って
中の道には、踏み迷った一人の百姓が、ぼろぼろの上衣
と題する傑作がある。それは冬の森の景色で、その森の
めいそう
いない。画家クラムスキイの作品のなかに﹃瞑想する人﹄
200
うに蓄積しているのに違いない。
では何のためとも知らずして、独自の印象をむさぼるよ
そうした瞑想家の一人であって、やはり同じように自分
瞑想家は民間にかなり多い。スメルジャコフもおそらく
たら、その両方が一時に起こらないとも限らぬのである。
れ故郷の村を焦土と化してしまうかもしれぬ。もしかし
立つかもしれないが、あるいはまた、不意に自分の生ま
気分になっていた。で、コニャクを傾けながらその一部
好きであった。このときも気軽で、愉快な、のんびりした
も、何かおもしろい話をして、わっとひと笑いするのが
ら食後のデザートに、たとえグリゴリイを相手にしてで
ちだしたのである。フョードル・パーヴロヴィッチは昔か
載されていた。この話をグリゴリイが食事のあいだにも
である。この美談は、ちょうどその日届いた新聞にも掲
キリストをたたえて、 従容 として死んでいったというの
しょうよう
の商人からある一人のロシア兵の話を聞いて来たのであ
イが、今朝早くルキヤーノフの店へ買い物に行って、こ
たのである。その話題は奇態なものであった。グリゴリ
ところが、このヴァラームの 驢馬 が突然口をきき始め
したのを見て顔をしかめた。ちょうどその時、扉のきわ
ないばかりか、いつもの癖で、罰当たりなことを言いだ
フョードル・パーヴロヴィッチが少しも身にしみて感じ
お賽銭もあがることだろうぜ﹄と言った。グリゴリイは
寺へ納めたがよい、
﹃それこそたいへんな参詣人で、さぞ
へ祭りこまねばならぬ、そして 剥 がれた皮はどこかのお
は
始終を聞き終わると、そういう兵士はすぐにも聖徒の中
る。なんでもその兵士は、どこか遠いアジアの国境で敵
に立っていたスメルジャコフが、不意ににやりと笑った。
七 論争
の捕虜になったが、即刻、残酷な死刑に処するという威
スメルジャコフはこれまでもよく食事のしまいごろに食
ろ ば
嚇のもとに、キリスト教を捨てて 回々教 に改宗するよう
卓のそばへ出ることを許されていたが、イワン・フョー
フイフイきょう
に強制されたにもかかわらず、彼は自分の信仰を裏切る
は
ドロヴィッチがこの町へやって来てからというものは、ほ
がえ
ことを 肯 んじないで受難を選び、 生皮を 剥 がれながら、
201
あいだには、自分の無分別な行為も償うことができるで
することができますし、またその良い仕事で長の年月の
のさきいろいろ良い仕事をするために、自分の命を全う
罪にはならないだろうと思います。そうしますれば、こ
の御名と自分の洗礼を否定したからといって、いっこう
りませんが、そんな危急な場合にはその兵士がキリスト
﹁その感心な兵士のしたことはなるほど偉いには違いあ
大きな声で思いがけないことを言いだした。
﹁今の話でございますが﹂と、スメルジャコフは、突然
みた。
と悟りながら、フョードル・パーヴロヴィッチが聞いて
つけると同時に、それがグリゴリイに向けられたものだ
﹁どうしたんだ、これ?﹂と、その薄笑いを目ざとく見
とんど食事のたんびに顔を出すようになった。
突然、口走った。彼は憎々しげに、ひたとスメルジャコ
﹁畜生です。 それだけのやつです!﹂ とグリゴリイが、
チはなおいっそうおもしろそうに叫んだ。
リョーシャを小突きながら、フョードル・パーヴロヴィッ
﹁公平に申しましてというのは何のことだい?﹂ 膝 でア
はいこじになって答えた。
ざいません︱︱︱公平に申しまして﹂と、スメルジャコフ
ことになるはずがありません。またあるべきものでもご
ありません。それにあんなことを言ったくらいでそんな
﹁羊肉のことですが、そんなことはけっしてあるはずが
がら、忍び笑いをしたものである。
﹁おまえの畑だ!﹂と彼はアリョーシャを席につかせな
うに喜んだのである。
チは、前にも述べたように、アリョーシャを見てむしょ
がはいって来たのである。フョードル・パーヴロヴィッ
﹁どうしてそれが罪にならないのか?
﹁畜生だなどとおっしゃることは少々お待ちください、グ
フの顔を見すえた。
ひざ
はありませんか﹂
え、そんな口をきくとまっすぐに地獄へ突き落とされて、
リゴリイ・ワシーリエヴィッチ﹂とスメルジャコフは落
ばかなことを言
羊肉のように 焙 られるぞ﹂フョードル・パーヴロヴィッ
ち着いた控え目な調子で口答えをした。
﹁それより、自分
あぶ
チが口を入れた。ちょうどこの時、そこへアリョーシャ
202
﹁煮出汁とり野郎だなんて、それもやはり少々お待ちく
うにぼやいた。
﹁この 煮出汁 とり野郎め!﹂とグリゴリイが吐き出すよ
ル・パーヴロヴィッチがどなった。
かり吹いていないで、証拠を言ってみろ!﹂とフョード
﹁そのことならもうさっき言ったじゃないか、 駄法螺 ば
したからとて罪などになるはずがないからです﹂
分の考えどおり行動する権利を持っているのです。そう
否定せよと強いられたとしましたら、わたしはこの、自
の敵の手に捕えられて、神の御名をのろい自分の洗礼を
でもよく考えて御覧なさい。もしわたしがキリスト教徒
目当てにやっておるんだよ、おまえに 褒 めてもらいたい
んだ。
﹁ちょっと耳を貸してくれ。あれはみんなおまえを
﹁イワン﹂と、突然フョードル・パーヴロヴィッチが叫
が発しているようなそぶりを見せるのであった。
もよく知っているくせに、わざとその質問をグリゴリイ
の質問に対して答えているだけだということは、自分で
た。しかしその実、ただフョードル・パーヴロヴィッチ
彼はいかにも満足そうにグリゴリイに向かってこう言っ
ワシーリエヴィッチ
ておるんです︱︱︱そうじゃありませんか、 グリゴリイ ・
は四分の一秒もかかりません︱︱︱わたしはもう破門され
りも、むしろ口をきろうと思った 刹那 に︱︱︱このあいだ
せつな
ださい、そんなきたない口をきかないで、よく考えて御
が、山々なのだ、褒めてやれよ﹂
?﹂
覧なさいグリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、だってわたし
イワン・フョードロヴィッチは父の有頂天なことばを
ら
が敵のやつらに向かって﹃そうです、もうわたしはキリ
まじめくさった様子で聞いていた。
だ ぼ
スト教徒じゃありません、わたしは自分の神様をのろい
﹁待った、スメルジャコフ、ちょっとのあいだ、黙って
し
ます﹄と言うが早いか、すぐさまわたしは、最高の神の
おれ﹂と、またしてもフョードル・パーヴロヴィッチが
だ
きによって特別にのろわれたる破門者となって、異教
裁 叫んだ。﹁イワン、もう一ぺん耳を貸してくれ﹂
ほ
徒と全然同じように、神聖な教会から追放されるに違い
イワン・フョードロヴィッチはまた思いきりまじめく
さば
ありません、ですからわたしが口をきる一瞬間というよ
203
けにグリゴリイが爆発したようにどなった。
﹁貴様は今でも﹃のろわれたる破門者﹄だぞ﹂とだしぬ
もってスメルジャコフを観察していたのである。
と父の顔を見つめた。が、それと同時に異常な好奇心を
るくせに﹄と思って、イワン・フョードロヴィッチはじっ
﹁ください﹂
﹃しかし、自分でいいかげん酔っぱらってい
ニャクをやろうか?﹂
だぞ、わしがおまえを嫌っとるなどと思わんでくれ、コ
﹁わしはおまえも、アリョーシャと同じように好きなん
さった様子をして身をかがめた。
とことも口をきかない先に、ただ言おうと心に思っただ
りません。なぜといって、まだわたしが敵に向かってひ
徒でないか?﹄と聞かれたとき、嘘をついたことにはな
敵のやつらから﹃おまえはキリスト教徒か、キリスト教
﹁そこで、もはやわたしがキリスト教徒でないとすれば、
チがせき立てた。
杯をぐいとあおりながら、フョードル・パーヴロヴィッ
﹁けりをつけんか、これ、早くけりを﹂と、好い機嫌で
なるわけです︱︱︱それに違いありませんね?﹂
られてしまうのです。そしてわたしには何の責任もなく
もう異教徒と同じ者になって、洗礼もわたしから取り去
りお話をしてしまったわけではありませんから、も少し
とのあいだでよろしいから待ってください、まだすっか
﹁グリゴリイ ・ ワシーリエヴィッチ、 まあほんのちょっ
ドル・パーヴロヴィッチがさえぎった。
﹁これ悪態をつくな、グリゴリイ、悪態を!﹂とフョー
のだ、もし⋮⋮﹂
するより前にもうちゃんと洗礼を 剥 ぎ取られているんで
て、わたしは、ただ否定しようと心に思っただけで否定
とやかくと詮議立てするどんな正義があるのです? だっ
を否定したという理由で、わたしをキリスト教徒なみに、
てしまっているとすれば、あの世へ行った際、キリスト
格を奪われてしまっているからです。もし資格を奪われ
けで、すでにわたしは神様からキリスト教徒としての資
へりくつ
﹁だのに、なんだって貴様はそんな 屁理屈 がこねられる
先を聞いてください。ところで、わたしがすぐ神様から
すからね、で、もしわたしがキリスト教徒でないとすれ
は
のろわれた瞬間︱︱
︱そのぎりぎりの一瞬間に、わたしは
204
そんなことをおっ
まえはキリスト教徒であったろう、などとおっしゃるわ
ね︶また神様にしても無理にダッタン人をつかまえて、お
すよ、
︵全然、罰しないというわけにもいきますまいから
ぴり、申しわけだけの罰をお当てになるだけだと思いま
人に何の責任もないということを 斟酌 して、ほんのちょっ
たダッタン人としてこの世へ生まれて来たからとて、当
そのダッタン人が死んだときには、汚れた両親から汚れ
な人間に罰を当てたりはしませんよ、万能の神様だって、
の取れないことを知っているぐらいの人だったら、こん
リゴリイ・ワシーリエヴィッチ、一匹の牛から二枚の革
と言って、とがめ立てするものはありませんからね、グ
からとて、なぜおまえはキリスト教徒に生まれなかった
ありませんか、けがらわしいダッタン人が天国へ行った
ぜと言って、否定しようにも否定すべきものがないでは
ば、わたしはキリストを否定することもできません、な
ゴリイ、泣くな、今すぐにわしらがこいつの屁理屈をた
えの言ってることは嘘だよ、まっかな嘘だよ、これグリ
なことを教わって来たんだ?
ぜ、おい、 悪臭い異教徒 、いったいおまえはどこでそん
いつはおおかたどこかのエズイタ派のところにいたんだ
い 驢馬 、おぬしゃなかなか理屈こきだな!
﹁アリョーシャ、 アリョーシャ、 どんなもんだい?
てて笑いだした。
ヴロヴィッチは杯をぐいと飲みほすと、かん高い声を立
して、じっとその場に突っ立っていた。フョードル・パー
まるで、だしぬけに額を壁にぶっつけた人のような顔を
の中から、何かしらあるものをつかむことができたので、
なかったけれど、それでもこのたわごとのようなことば
見つめていた。彼には今語られたことがよくはのみこめ
グリゴリイは立ちすくんだまま、眼をむいて弁舌者を
うかねえ?﹂
はら
だが、ごまかし屋、おま
イワン、こ
お
けにはいかないじゃありませんか?
たきつぶしてくれるからな、この驢馬先生、さあ返答を
ろ ば
しゃったら、神様がまっかな嘘をおつきになったことにな
しろ、たとえおまえが敵の前で公明正大だとしても、お
しんしゃく
りますからね、いったい天地の支配者たる神様が、たと
まえ自身は肚 の中で、自分の信仰を否定するのじゃろう、
スメルジャーシイ・エズイタ
えひと言でも嘘をおつきになるようなことがあるでしょ
205
の勝利を自覚していながら、敗れた敵をあわれむといっ
めらしくスメルジャコフがことばを続けた、それは自分
シーリエヴィッチ﹂と、くそ落ち着きに落ち着いてしかつ
﹁まあ、よく御自分で考えて御覧なさいグリゴリイ・ワ
るようにわめいた。
﹁ばかこけ、この罰当たりめが!﹂とグリゴリイがうな
﹁なんでごくあたりまえな罪です、じゃ?﹂
んよ、罪になるにしてもごくあたり前な罪ですよ﹂
ざいませんが、それだからとて別に罪にもなりゃしませ
﹁わたしが肚の中で信仰を否定したということは疑いご
生?﹂
そこのところをおまえはなんと思う、立派なエズイタ先
門者 になったと、 おまえの頭をなでてくれはせんぞ、
破
門者 になったとすれば、地獄へ行った時に、よくまあ
破
えは自分でも言っておるのじゃろう、ところでいったん、
そしてそれと同時に 破門者 になってしまうのだと、おま
じゃありません、今の時世で身分の上下を問わず、山を
リエヴィッチ、しかし考えてみれば、これはあなただけ
さるだけだってことになりますよ、グリゴリイ・ワシー
てもいないくせになんぞといえば、他人を悪口していな
ますよ、これはつまり、あなたが本当の意味の信仰を持っ
そっくり元のままでいることは御自分でおわかりになり
どなってみなすったところで、何一つびくともしないで、
もよござんすよ、そうすればすぐに、あなたがどれほど
ね、︶ せめて、 つい庭の外に流れている、 あの臭い溝で
しろここからじゃ海まではだいぶ道のりがありますから
命令して御覧なさいよ、海へとまで言わなくても︵なに
らっしゃるとしたら、ためしに一つ、あの山に向かって、
わたしをどなりつけなさるほど、立派な信仰を持ってい
わたしが不信心者で、あなたがひっきりなしにがみがみ
てね、 どうですかねグリゴリイ ・ ワシーリエヴィッチ、
その最初の命令とともに、猶予なく海へはいって行くっ
持っておれば、山に向かって海へはいれと言えば、山は
アナテマ
た調子であった。﹁まあ、 考えて御覧なさい、 グリゴリ
海の中へ押しこかすことのできるような人は一人だって
アナテマ
アナテマ
イ・ワシーリエヴィッチ、聖書にもこう言ってあるじゃあ
ありませんよ、例外があったところで、広い世界じゅう
けしつぶ
りませんか、人がもしほんの小さな、 芥子粒 の信仰でも
206
信心者だとしたら、あれほど万人に知れ渡ったお慈悲深
ませんよ、もしそうだとして、それ以外の人がみんな不
いるでしょうから、とてもそんな人は見つかりっこあり
どこかエジプトあたりの砂漠の中で、こっそり 隠遁 して
に一人か、多くて二人くらいなもんでしょうて。それも
﹁いいえ、スメルジャコフは少しもロシア的な信仰を持っ
信仰だろう?﹂
だ!
﹁賛成だな?
意した。
うな微笑を浮かべて、イワン・フョードロヴィッチは同
かく二人だけはあるとおまえは考えるんだな? イワン、
﹁じゃあ、その、山を動かすことのできる人間が、とに
はすっかり有頂天になって、金切り声で叫んだ。
﹁おっと待った!﹂と、フョードル・パーヴロヴィッチ
ているのですよ﹂
さえ流したら許していただけるだろうと、わたしは信じ
から、いったん神様を疑ったとしたところで、悔恨の涙
人もお許しにはならないでしょうか?
が、そのほかのことは嘘だぞ、まっかな嘘だぞ、なあこ
ちがあるぞ、ほんとに今日おまえにくれてやるわい、だ
﹁驢馬先生、おまえのこのひと言は金貨一枚だけの値打
ほほえんだ。
﹁ええ、その点は全然ロシア式です﹂とアリョーシャは
れこそロシア式だろう、全くロシア式だろう?﹂
人の隠者についての点だよ、あの一点だけの話だよ、あ
﹁わしが言うのはこいつの信仰のことじゃない、あの二
が言った。
全くロシア的な
そこんとこをよく覚えて書き留めといてくれ、実にロシ
ら、おばかさん、われわれ一同がこの世で信仰を持たな
アリョーシカ、ほんとだろう?
ア人の面目躍如たりだ!﹂
いのは心があさはかなからだ、なにしろ、暇がないから
いんとん
い御心の神様が、その砂漠にいる二人の隠者を除けた他
ていません﹂と、まじめな確固たる調子でアリョーシャ
おまえが賛成する以上、それに違いなし
の、全世界の人間を、ことごとくおのろいになって、一
﹁ええ、お父さんのおっしゃるとおりです、これは宗教
なあ、第一、いろんな用事にかまけてしまう、第二に神
こんなわけです
上の国民的な特質ですよ﹂と、わが意を得たりというよ
207
て、その時、眼の前の山に向かって、さあ動いて来て敵
というところまではいかないで済んだはずですよ、だっ
ありませんよ、しかし、それにしても、責め苦を受ける
がらわしい回
々教 へ転んだのは、全く罪深いことに違い
たとしたら、その信仰のための受難に甘んじないで、け
です、もしわたしが間違いのない正当な信仰を持ってい
そ、なおのこと、わたしにとって罪が軽くなるというもの
さい、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、一理あればこ
﹁一理あるにはありますがね、まあ、よく考えて御覧な
おいどうだ、きょうだい、一理あるだろうじゃないか?﹂
を示さなくっちゃならないような 土壇場 じゃないかい!
られないような場合で、しかも是が非でも自分の信仰心
前で神様を否定したのは、信仰のことよりほかには考え
十分に眠る暇もないからなあ、ところが、おまえが敵の
日が二十四時間やそこいらでは、悔い改めるはさておき、
様が時間をろくろく授けてくださらないで、せいぜい一
もしやしませんからね、こんな瞬間には疑いが起こるく
がどなったりわめいたりしてみたところで、山はびくと
う?
も立たないのに自分の生皮を 剥 がせる必要がありましょ
思われませんからね︶、何をすき好んで、そのうえ、役に
たいした 御褒美 があの世でわたしを待っているようにも
もわたしの信仰をあまり信用してくれなさそうですから、
わたしの声で山が動かなかったところをみると、天国で
きつけるものでないことを承知していますのに︵だって、
すか?
けの場合に、どうして疑いを起こさずにいられるもので
そうにないとしたら、わたしだってそんな恐ろしい命が
どなったところで、山がいっこう敵を押しつぶしてくれ
に向かって敵を押しつぶしてくれと、わざと大きな声で
場になって、そのとおりにやってみて、わたしがその山
ながら引き上げて行きますよ、ところが、もしその土壇
たように、鼻うたでもうたいながら、神の栄光をたたえ
どたんば
をつぶしてしまえと言いさえすれば、山は即刻動きだし
らいは愚かなこと、恐ろしさのあまりに、思慮分別もな
ごほうび
たとえ、もう半分背中の皮を剥がれながらわたし
は
それでなくても、とても天国へなどまともに行
て、敵のやつらを油虫かなんぞのように押しつぶしてし
くなるかもしれません、いや、分別を巡らすなんてこと
フイフイきょう
まったはずです、そうすれば、わたしは何ごともなかっ
208
を当てにして、何事もきれいに許していただけるものと、
悪いことでしょう?
ですから、わたしは神様のお慈悲
事にしようと思ったからとて、それがいったいどれだけ
あずかれないとわかったら、せめて自分の皮だけでも大
自分に何の得になることでもなく、たいして御褒美にも
は全然不可能です、してみれば、この世でもあの世でも、
いつを 籠絡 したんだい?﹂と、彼はイワン・フョードロ
えが珍しいのだとみえる、いったいおまえはどうしてあ
フは、食事のたんびに出しゃばりおるが、よっぽどおま
なり腹立たしそうに言いきった。
﹁このごろスメルジャコ
おらん﹂命令によって下男たちが出て行くと、彼はいき
﹁横着者めらが、 食事 のあとでゆっくりくつろがせもし
のところへ行きな、あれが慰めて、寝かしてくれらあな﹂
め し
どこまでもそう思っているのです﹂
ヴィッチに向かって、こう言い足した。
ろうらく
わりごろから急に苦い顔をしだした。顔をしかめて、ぐ
の御機嫌であったフョードル・パーヴロヴィッチが、終
討論はこれで終わったが、奇態なことに、あれほど上々
﹁他にも、もっと立派な人間が出てくるでしょうが、あ
﹁前衛に?﹂
立つべき人間でしょうね﹂
だの 下種 下郎ですよ、しかし時期が到来したら、前衛に
を尊敬する気になったんでしょうよ、なあに、あれはた
﹁どうもしやしませんよ﹂とこちらは答えた。
﹁勝手に僕
いとコニャクをあおったが、それはもうまるでよけいな
んなものも出てきますね、初めにあんなのが出て、それ
八 コニャクを飲みながら
一杯であった。
からもっといいのが現われるのです﹂
のろし
す
﹁さあいいかげんに出て行かんか、エズイタどもめ﹂と
﹁で、その﹃時期﹄はいつ来るんだね?﹂
げ
彼は下男にどなりつけた。
﹁もう出て行け 、スメルジャ
﹁ 狼火 があがったら、しかし、ことによると、燃えきらな
し
コフ、約束の金貨は今日じゅうに届けてやるから、おま
いかもしれませんね、今のところ民衆は、あんな 煮出汁 だ
えはもうさがっていいぞ、泣くな、グリゴリイ、マルファ
209
どうだってかまやせんわい、あんなやつのことをかれこ
わよく焼きおる、しかし、あんなやつなんぞ、ほんとに
のあらを外へ持ち出すようなこともない、魚饅頭も手ぎ
柄さ、それにいつも黙りこくって告げ口をせんし、内輪
しておるよ、だが、あいつは盗みをしおらん、そこが取
シカはなおのことだ、あいつはアリョーシカを小ばかに
する気になった﹄などと言っておるけれどさ、アリョー
まえにだって同じことだぞ、おまえは﹃勝手に僕を尊敬
もそうだが、わしという人間に我慢できないのだよ、お
﹁だがな、わしはちゃんと知っとる、あいつは他の者に
漏らした。
﹁思想をためこんでいるのですよ﹂とイワンは薄笑いを
んなとこまで考え抜くか、知れたもんじゃないぜ﹂
めはいつもなんだか考えてばかりいるが、いったい、ど
﹁なるほどな、ところでおまえ、あのヴァラームの驢馬
ね﹂
とりふぜいの言うことには、あまり耳を貸しませんから
︵ それはみんな腐敗から
cela c’est de la cochonnerie
出るの意 ︶いったいわしの好きなものがなんだか知っ
し、それはロシアということになるかもしれない、 Tout
や、ロシアをじゃない、このいろんな悪をだ⋮⋮、しか
に、わしがどんなにロシアを憎んでおることだか⋮⋮い
その、穴二つなんだ、全くロシアは豚小屋だよ、ほんと
穴二つ⋮⋮いや、どう言ったらいいのかなあ⋮⋮つまり、
分で自分をぶっておる、それでいいのさ、人をのろわば
百姓をぶつことをやめたけれど、百姓らは相変わらず自
い人の味方をするなあ、われわれはひとかど利口ぶって
まったら、ロシアの国もくずれてしまうのだ、わしは賢
があればこそ、しっかりしてるんだ。森を切り払ってし
る者がおるから、もったものだ、ロシアの土地は、 白樺 情してなんかやるには当たらん、今でもたまにぶんなぐ
う言っておるんだよ、百姓なんてものは 騙児 だから、同
んとぶんなぐってやらにゃならんのだ、わしはいつもそ
というと⋮⋮つまり、ロシアの百姓は一般にいうて、う
﹁ところで、あいつが一人腹の中で何か考えこんでおる
わしはその、とんちが好きなのさ﹂
かたり
れ言うがものはないよ﹂
とるか?
しらかば
﹁むろん、言うがものはありませんよ﹂
210
見物に出かけるかな、うん? アリョーシャ、おまえ顔を
う? 全くうめえことを言いおったて、ひとつわしらも
ますだよ﹄と、こうだ、なんというサード侯爵たちだろ
だで、あまっ子らもそれをあたりめえのように思っとり
明けの日には、若えもんが嫁にするってわけさ、だもん
にやらせますだ、ところが、今日ひっぱたいた娘っ子を、
におもしれえだ、ひっぱたく役目は、いつでも若えもん
くわえるとて娘っ子をひっぱたくが、何よりもいちばん
ことがある、するとその老爺の言うには﹃わしらあ罰を
通りがかりにモークロエ村で、一人の老爺に尋ねてみた
んよ、 おまえが途中で水をさすもんだから。 わしはな、
う一杯やったら、それでおつもりにするよ、どうもいか
﹁まあ待ってくれ、わしはもう一杯やるよ、それからも
﹁また一杯あけましたね、もうたくさんでしょう﹂
﹁それは本当らしいな、おまえが心からそう思っとると
﹁いいえ、ただの道化だなんて思いませんよ﹂
リョーシカ、おまえもわしをただの道化だと思うかい?﹂
本当にして、わしをただの道化者だと思っとるのだ、ア
ちゃんとわかるよ、おまえは世間のやつらのいうことを
だよ。だめだ、おまえは信じてくれんな、その眼つきで
じてくれるかい?
つらは進歩を妨げたんだからなあ、イワン、おまえは信
首を 刎 ねるくらいじゃ足りないぞ、なぜといって、あい
坊さんたちのことだよ、そうなった暁には、あいつらの
な御連中にはもう用なしじゃないか?
さ、しかし、もう神様がまるっきりないとしたら、あん
はもちろんわしが悪いのだからどんなとがめも受けよう
様があるものなら、ござらっしゃるものなら、そのとき
でくれよ、わしはついむらむらっとなってなあ、もし神
この考えがわしの心を悩ましとるん
おまえんとこの
赤くするのかい、何も恥ずかしがることはないよ、坊主、
いうことは、わしも信じるぞ、正直な眼つきで、正直な
は
さっき修道院長の 食事 に招 ばれて、坊さんたちにモーク
口をききおるからな、ところが、イワンはそうじゃない、
よ
ロエ村の娘っ子のことを話して聞かせなかったのは残念
イワンは高慢だ⋮⋮しかし、とにかく、おまえのお寺と
き
だったよ、アリョーシカ、わしはさっきおまえんとこの
はすっかり縁を切ってしまいたいもんだなあ。ほんとに
と
修道院長に、うんと悪態をついたけれど、腹を立てない
211
なんだよ﹂
﹁ちっとでも早く、真理が光りだすようにだ、そのため
﹁なんのために吹き飛ばすんです?﹂とイワンが言った。
れだけ造幣局へ流れこむことだろうな!﹂
き飛ばしてしまうといいのだ。そうしたら、金や銀がど
ばか者どもの眼をさますために、影も形もないように吹
ロシアじゅうの神秘主義を残らず引っつかんで、世間の
﹁大いに﹂
﹁じゃ、今の話がそれに似とるというのかい?﹂
うまい批評をなすったからですよ﹂
者が、どこかにいるっていう、あれについて、なかなか
コフの信仰、︱︱︱例の山を動かすことのできる二人の隠
﹁僕が笑っているのは、さっきお父さんが、スメルジャ
をまた笑っておるのだい?﹂
しかなことを言うんだぞ、まじめに答えるんだぞ!
何
﹁もしもその真理が光りだすとしたら、第一にお父さん
﹁ふん、してみれば、わしもロシア人で、どこかロシア
ういうことなら、アリョーシャ、おまえの寺もあのままに
ヴィッチはちょっと額をたたいて、急に体を反 らした、
﹁そ
て。いや、わしも驢馬だわい﹂とフョードル・パーヴロ
﹁おやおや!
ぞ! わしは今、まじめにならなくてはいけないのだ!﹂
かく、神様があるかないか言ってみい、ただ、まじめにだ
わしは請け合って、明日にでも取っちめてやるぞ、とに
かまえて見せてやれそうだぞ、ひとつ押えてみせようか、
哲学者にだって、同じような一面のあることを、とっつ
は
をまる裸に剥 ぎ取ったうえで⋮⋮それから吹き飛ばすで
しておこう、まあ、わしらのような利口な人間は暖かい
﹁そう、神はありません﹂
的な特性があるというわけかな、だが、おまえのような
部屋に陣どって、コニャクでもきこしめすとするさ、な
﹁アリョーシカ、神様はあるのか?﹂
しょうよ﹂
あ、イワン、ひょっとすると神様が、ぜひそうするよう
﹁神はあります﹂
こいつはおまえの言うとおりかもしれん
にお決めなされたのかもしれんて、ところでな、イワン、
﹁イワン、それでは、不死はあるのか、まあ、どんなの
そ
神はあるものか、ないものか、言ってみい。待て待て、た
212
﹁どんな風のも?﹂
﹁不死もありません﹂
いい﹂
でもよいわ、ほんの少しばかりでも、これっばかしでも
﹁きっと悪魔でしょうよ﹂と言って、イワン・フョード
﹁それじゃ、誰が人間を愚弄しおるのだ、イワン?﹂
﹁最後でもなんでも、無いものは無いのです﹂
これが最後だ!﹂
後にきっぱり言ってくれ、神は有るものか無いものか?
﹁神も不死もか?﹂
﹁あります﹂
﹁アリョーシカ、不死はあるのか?﹂
﹁絶対の無です﹂
も、まるっきり何もないというはずはないぞ!﹂
としたら、何かありそうなものじゃないか?
でなかったでしょう﹂
﹁神が考え出されなかったら、文明というものも、てん
へぶら下げて、絞り首にしてやっても、あきたりないぞ﹂
めに考え出したやつを、どうしてくれよう?
﹁そいつは残念だ、ちぇっくそ、じゃあ神なんてものを初
﹁いや、悪魔もありませんよ﹂
﹁じゃ、悪魔はあるのか?﹂
ロヴィッチはにやりとした。
﹁神も不死もあります﹂
﹁なかったかもしれんというのか? 神がなかったら?﹂
ひょっ
﹁そう、どんなのも﹂
ゼロ
﹁ふむ! どうやらイワンのほうが本当らしいぞ、やれや
﹁そうです、それにコニャクも無かったでしょうよ、が、
﹁つまり全くの 零 か、それとも何かあるのか?
れ、考えるだけでも恐ろしいわい、人間というものはど
それはとにかく、そろそろコニャクを取り上げなくては
﹁待て、待て、待ってくれ、な、もう一杯だけだ、わしは
何にして
れだけ信仰を捧げたことか、どれだけいろいろの精力を、
なりませんね﹂
誰がいったい、人間をこ
アリョーシャを侮辱したて、おまえは怒りゃせんだろう
イワン!
もう一ぺん、最
白楊の木
こんな空想のために浪費したことか、しかもそれが何千
年という長いあいだなのだ!
ぐろう
んなに 愚弄 しているのだ?
213
わしの可愛い可愛いアレクセイチッ
もない芝居を打たにゃならんので、 肚 の中ではじりじり
はら
なそうだが、あの人も聖人様のまねなんかして⋮⋮心に
クや!﹂
しているのだよ﹂
な、アレクセイ?
﹁いいえ、怒ってなんかいませんよ、僕はお父さんのお肚 ﹁でも、あの人は神を信じていられますよ﹂
なか
の中を知っています、お父さんは頭より心のほうがよっ
﹁なんの、これっぽっちも信じてるものか、おまえは知
あの人は自分の口からみんなにそ
う言っとるじゃないか、いやみんなといっても、あの人
らずにいたのかい?
ぽどいいのです﹂
ああ、しか
イワン、おまえも
﹁わしの頭よりも心のほうがいいだって?
もそう言ってくれるのが誰だろう?
たよ、だが、わしは気が立っていたのだよ、しかし、あ
リョーシャ、わしは今日おまえの長老に無礼なことをし
チはもう、ひどく酔いが回ってきたのである︶なあ、ア
﹁好い てやって く れ よ、︵フョード ル ・ パ ー ヴ ロ ヴィッ
いる、あの人にはどこかメフィストフェレス式なところ、
﹁いや、全くだよ、しかし、わしはあの人を尊敬はして
﹁まさか?﹂
ん﹄と言ったものだよ﹂
いる
のとこへたずねて来るお利口な連中にだけだけれど、県
の長老には、なかなかとんちがあるなあ、おまえはどう
というより、むしろ﹃現代の英雄﹄に出て来る⋮⋮アル
アリョーシカが好きかい?﹂
思う、イワン?﹂
ベニンだったかな、⋮⋮そんな風なところがあるよ、つ
﹁好きです﹂
﹁あるかもしれませんね﹂
とといったら、ひょっとわしの娘か女房が、あの人のと
︵ 信じては
知事のシュルツには明からさまに、
﹃ Credo
︶といっても、何を信じておるのか、わかりませ
︵
﹁あるとも、あるとも、 Il y a du Piron là dedans
あいつの中にはピロンの面影がある ︶あれはエズイタ
ころへ 懺悔 にでも行こうものなら、とても心配でたまる
ざんげ
まりなんだよ、あれは 助平爺 なのさ、あの人の助平なこ
すけべいじじい
だよ、ただしロシア式のさ、高尚な人間ってものはみん
214
皮を縒 ってしまったわい⋮⋮別しておもしろかったのは、
ひょんな昔話をやりだしたので、わしらはすっかり腹の
さんたちが持って行ってやるんだよ、 そのときにだよ、
んだことがある、リキュールつきのさ、リキュールは奥
めると思うかい⋮⋮ 一昨年 あの人がわしらを茶の会へ呼
まいと思うくらいなんだよ、第一あの人がどんな話を始
たのだ⋮⋮それは嘘だとなぜ言ってくれんのじゃ、イワ
とを言っていたのに、なんでおまえは止めてくれなかっ
かたづけてくれ、それはそうと、わしがあんな無茶なこ
だよ。さあ、もう一杯だけでたくさんだ、イワン、びんを
の男の話と混同してしまってな⋮⋮気がつかなかったの
いて⋮⋮ああ、別の男のことだったよ、わしは、つい他
なすった⋮⋮、いや、待てよ、これはあの人の話じゃな
と言うので、あの人が預かったんだよ、ところが後になっ
預かってください、明日うちで家宅捜索がありますから﹄
﹁その商人があの人を善人だと思って、
﹃どうぞ、これを
﹁何、盗ったのですか?﹂
から、六万ルーブルも巻きあげたことがあるんだよ﹂
い﹄だとよ、それに、あの人はジェミードフという商人
しも若盛りにはずいぶんいろんなまねをしてきましたわ
と言うのさ、それがまたなんの踊りだと思うね?
へ⋮⋮一日か二日でよいから、行って来てくれと、あれ
﹁わしはおまえに、どうか後生だから、チェルマーシニャ
まれてしまったのですね﹂
﹁だから僕はもう行きますよ、お父さんはコニャクに飲
でわしをばかにしておるのだ﹂
るのだ、のこのこわしのところへやって来て、わしの家
だ、ただ憎いからなんだ、おまえはわしをばかにしてお
﹁嘘をつけ、おまえはわしが憎くて止めてくれなんだの
﹁自分でおやめになると思ったものですからね﹂
おととし
あの人が一人の衰弱した女をなおした話だ、﹃足さえ痛
ン?﹂
て﹃あれはおまえさんがお寺へ寄進なさったのじゃ﹄と、
ほど頼んでいるのに、おまえは出かけてくれんじゃない
よ
くなかったら、わしがひとつ踊りを見せて進ぜるのだが﹄
こうだ、わしがあの人に、おまえさんは悪党だと言って
か﹂
﹃わ
やったら、わしは悪党じゃない、心が広いのじゃとおいで
215
だな、ほら、アリョーシャの眼つきを見い、晴れ晴れし
眼つきだ⋮⋮おまえは何か胸に一物あってやって来たん
その眼つきはうさん臭いぞ、どうも、人を小ばかにした
ながら、﹃だらしのない酔っ払いの 面 だ﹄と言っておる、
れはなんという眼つきだ?
おまえの眼はわしをにらみ
﹁何をおまえはそう、わしのほうばかりにらむのだ? そ
るといった、そんな程度にまで達していたのである。
も、急にふてくされて威張りださなければ承知しなくな
いが回って、それまでどんなにおとなしかった酒飲みで
老人は容易に静まらなかった。彼はもう、すっかり酔
としないのだろ、この意地悪めが!﹂
張りがしていたいのだ、そうだとも、それだから行こう
﹁なんの行くものか、おまえはここにおって、わしの見
﹁そんなにおっしゃるなら、明日にでも出かけますよ﹂
彼はそう言って、自分の手をちゅっと吸った。
なかの上玉だ!⋮⋮﹂
ことはない、いや、ばかにしたものではないぞ︱︱︱なか
しで跳ね回っとるだろうて、はだしの娘だからとて驚く
う、もうずっと前から見つけてあるんだよ、今でもはだ
て行くぞ、そしてあっちで一人いい娘っ子を見せてやろ
シニャへ出かけてくれ、わしも行くからな、 土産 を持っ
るという柄じゃないわい、ところで、どうかチェルマー
る、だがまあ、怒らないでくれ、わしはとても人に好かれ
んでくれよ、わしはおまえに好かれんのはよう知ってお
あ、イワン、こんな老いぼれの死にぞこないに腹を立て
く引っぱったようなずるそうな笑い声を立てながら、
﹁な
同じことを言うぞ﹂彼はすこし考えこんだが、不意に長
わい、イワン、びんをかたづけてくれんか、もう三度も
﹁うん、なあに、わしもな、よしよし、ああ、頭が痛い
同時に、まるで一時に酔いがさめてしまったように、ひ
みやげ
とるじゃないか、アリョーシカはわしをばかにしちゃお
﹁わしにとってはな﹂と、彼は自分の好きな話題に移ると
﹁兄さんをそんなに怒らないでください!
どく元気づいてきた、
﹁わしはな⋮⋮こんなことを言って
つら
らんぞ、な、アリョーシカ、イワンを好くことはないぞ﹂
辱するのをやめてください﹂とアリョーシャは語気を強
も、おまえらのような子豚同然なねんねにはわかるまい
兄さんを侮
めて言った。
216
ことはおまえたちにわかるはずがないて!
老嬢などと
が、もう興味の半ばをなしておるのだよ、いや、こんな
はぶきりょうな女というものがないのだ、女であること
ん、そこが肝心だ! 何よりも手腕だよ! わしにとって
け出せる︱︱
︱だが、自分で見つけ出す眼がなくてはなら
からんような、すこぶる、そのおもしろいところが見つ
よるとな、どんな女の中にも、けっして他の男には見つ
ておるのだ、まだ 殻 が脱けきらんのだ! わしの原則に
か! おまえらの体内には血の代わりに、まだ乳が流れ
うして、どうして、おまえらにこれがわかってなるもの
でなあ! 全体、おまえらにこれがわかるかしらん? ど
て見苦しいと思うことはなかったよ、これがわしの原則
が、わしにはな⋮⋮これまでの一生を通じて、女に会っ
でも︱︱︱ああ、わしはまるでつい今しがたのことのよう
足を接吻したりして、あげくの果てには、いつでも、いつ
して、あれの前で 膝 を突いてはいずり回ったり、あれの
どころあいを見はからってはだしぬけに精一杯ちやほや
て、甘いことばひとつかけることじゃなかったが、ちょう
もっとも、別なやり方ではあったがね、ふだんは、どうし
まえのおふくろをいつもびっくりさせてやったものだよ、
あそうだ!⋮⋮なあアリョーシャ、わしは亡くなったお
いか、人生の幸福に必要なのは全くこれなんだよ!
とした旦那がついてるなんて、うまくできておるじゃな
使いに主人があるように、いつもこんなげす女にれっき
ぼうとした気持にしてしまわにゃいかんて、いつも召し
が、と思って、はっとして嬉しいやらはずかしいやらで、
まあ、わたしのような卑しい女を、こんな立派な 旦那様 だんなさま
いう手合いの中からでも世間のばか者どもはどうしてこ
に覚えておるが、きっとあれを笑い転げさしてしまった
あ
れに気がつかずに、むざむざ年を食わしてしまったのか
ものだよ、その小さい笑い方が一種特別で、こぼれるよ
から
と、驚くようなところを捜し出すことがときどきあるの
うな、透き通った、高くないが、神経的なやつさ、あれは
ひざ
だよ、はだし女やすべたには、初手にまずびっくりさせ
そんな笑い方しかしなかったんだよ、そんな時は決まっ
ひけつ
てやるのだ︱︱︱これがこういう手合いに取りかかる 秘訣 て病気の起こる前で、あくる日はいつも、 憑 かれた女に
つ
なのさ、おまえは知らないかい? こういう手合いには、
217
して嬉しさの現われではなく、こちらは一杯食わされた
なってわめきだす始末だ、だから今の細い笑い声もけっ
辱したためしはないよ!
アリョーシャ、神かけてわしはあの﹃憑かれた女﹄を侮
行って、坊さんがたに御
祈祷 をしてもらったよ、しかし、
ごきとう
ことになるのだけれど、それでもまあ嬉しいには違いな
ある。それはまだ結婚したての、はじめての年だったが、
ぶたれましたね、あんな男に頬ぺたをぶたれる
けんまくで食ってかかったのさ、
﹃あなたは今ぶたれまし
一件のために、このわしをひっぱたきかねないばかりの
がったのだ、すると、あの牝羊みたいな女が、この頬桁
で、わしの頬
桁 を、それもあれの面前で、なぐりつけや
やって来おったので︱︱︱そいつが不意に、何かのはずみ
がこの町に住んでいて、あれをつけ回して、家へもよく
フスキイのやつが︱︱︱そのころそういう金持ちの好男子
ていうのは、つまりこれなんだよ!
なんか当たるもんか!﹄ところが、あれがこちらを見た
おまえの眼の前で 唾 をひっかけてやるけれど、なんの罰
などともったいながってるが、わしがそうら、こうして、
わしがはずすよ、おまえはこれを霊験いやちこなものだ
ら、見ておれよ、これがおまえの聖像だ、そら、こうして
はあれの迷信をたたきこわしてやろうと思ったのさ﹃そ
の部屋から書斎へ追っぱらう始末なんだよ、そこでわし
などにはことにやかましくて、その日にはわしまで自分
そのころあれは、ひどく祈祷に 凝 っていて、聖母のお祭
こ
いや、一度、たった一度きり
いさ、どんなものの中からでも特別な興味を捜し出すっ
たね、
時の形相といったら、どうも、今にもわしは取り殺され
あるときベリャー
なんて! あなたはわたしをあの男に売り渡そうとして
るのじゃないかと思ったよ、しかし、あれは飛び上がっ
ぶるぶる震えだして、床の上へぶっ倒れると、⋮⋮その
ほおげた
らっしゃるのでしょう⋮⋮ほんとに、よくもわたしの眼
て手を打っただけで、急に両手で顔をおおったと思うと、
とわたしのそばへ寄せつけやしない!
まま、ぐったりくずおれてしまった⋮⋮アリョーシャ、ア
つば
の前であなたをぶったものだ! もうもうけっして、二度
駆けて行って、あの男に決闘を申しこんでください﹄⋮⋮
リョーシャ! おまえどうしたんだ!﹂
さあすぐに追っ
そこでわしは、あれの心を静めるために、お寺へ連れて
218
に両手で顔をおおって、まるで足を払われたように、椅
び上がるなり、今の話の母親そのままに手を打つと同時
われたのである。アリョーシャはテーブルから不意に飛
れた女﹄の状態と全く同じものが、思いがけなく彼に現
じたのである。というのは、たった今父が話した﹃憑か
の時、急にアリョーシャの身にはなはだ奇怪な事態が生
もつかずに、しきりに口角から泡を飛ばしていたが、こ
ぴく震えだした⋮⋮酔っ払った老人はそれまでなんの気
え始めたのである。顔は赤くなり、眼は輝き、唇はぴく
が母親のことを話しだしたときから、だんだん顔色を変
老人はびっくりして飛び上がった、アリョーシャは父
だか腑 に落ちないでつぶやいた、
﹁なんでおまえはそんな
﹁なんでおまえの母親がそうなんだ?﹂彼は、何がなん
が、すっかりぬけ去っていたのである。
シャの母がとりもなおさずイワンの母であるという考え
が起こったのである。というのは老人の頭から、アリョー
し、その時、ほんの一瞬間ではあったが、実に奇態なこと
た。老人はぎらぎら光る彼の 眼眸 にぎっくりした。しか
ろしい侮辱の念を制しきれないで、思わずこう口走っ
憤 だと思うんですが、どうお考えです?﹂突然、イワンは
﹁けど、僕のお母さんが、つまりアリョーシャのお母さん
ワンに向かって、しどろもどろにつぶやいた。
れは自分の母親のことで、母親のことで⋮⋮﹂と彼はイ
いきどお
子の上へ倒れかかると、ヒステリカルに痙
攣 させながら、
ことを言うのだ?
いったいどの母親のことを言うのだ
まなざし
声は立てないが思いがけなくせき上げる涙に泣きくずれ
い⋮⋮あれはなんだよ⋮⋮やっ、こん畜生! そうだ、あ
ふ
てしまったのである。この恐ろしい、母親そっくりの類
れはおまえの母親だとも! ちえっ、畜生! いや、こい
つはついぞない、頭がぼうっとしていたんだよ、勘弁して
けいれん
似が、ことのほか老人を驚かしたのである。
﹁イワン! イワン!
くれ、わしはまた、なんだよ、その、イワン⋮⋮へ、へ、
早く水を持って来てやれ、まる
であれのようだ、寸分たがわずあれにそっくりだ、あの
へ!﹂そこで彼はふいと口をつぐんだ。酔余の、引きの
おまえの口から水を吹
時のこれの母親とおんなじだ!
ばしたような、半ば意味のない、薄笑いがにやりとその
あ れ
きかけてやれ、わしも 彼女 にそうしてやったんだよ、こ
219
ワンのほうへ駆け寄った。
が躍りこんで来たのである。老人はおびえあがって、イ
と扉があいて、広間へドミトリイ・フョードロヴィッチ
の音が起こって、狂暴なわめき声がしたと思うと、ぱっ
顔にひろがった。が、突然この瞬間に玄関で激しい 喧嘩 かかって行った。
にかん走ったわめき声を立てるなり、グリゴリイに飛び
た。これを見ると、ドミトリイは、叫ぶというより、妙
まで、この入り口を防いで見せるぞといった身構えをし
の前に立ちふさがると、大手を広げて、最後の血の一滴
る、正面の観音開きの扉を閉めきった。そして閉めた扉
けんか
﹁人殺しだ、人殺しだ! 助けてくれ、た、助けて!﹂と
﹁じゃあ、あいつはそこにいるんだな! そこへ隠しおっ
たな! どけ、畜生!﹂と、彼はグリゴリイを押しのけよ
すそ
イワン・フョードロヴィッチのフロックコートの 裾 にし
がみつきながら、彼はこう叫び続けた。
うとしたが、相手は彼を突き戻した。憤激のあまりかっ
ドミトリイ・フョードロヴィッチが部屋の中へ飛びこむな
フョードル・パーヴロヴィッチのさしずによってである︶。
である︵それは、もう二、三日も前から授けられている、
その前に二人は、彼を通すまいとして玄関でも争ったの
リゴリイとスメルジャコフとが続いて広間へ駆けこんだ。
ドミトリイ・フョードロヴィッチのすぐ後ろから、グ
ヴィッチが叫んだ。
﹁おれは今、あいつがこの家の方へ曲
﹁あいつはここにいるぞ!﹂とドミトリイ・フョードロ
来た。
たりとフョードル・パーヴロヴィッチの方へすり寄って
ていたが、まっさおになって、ぶるぶる震えながら、ぴっ
突入した。スメルジャコフは広間の反対側の端に突っ立っ
うに、ずでんと倒れた。彼はそれをはね越えて扉の中へ
リゴリイをなぐりつけた。と、老僕は足をすくわれたよ
と取りのぼせた彼は 拳 を振りかぶりざま、力まかせにグ
こぶし
いんとう
り、一瞬間立ち止まってあたりを見回している暇に、グ
がったのを、ちゃんと見とどけたんだ、だが追いつくこ
九 淫蕩 な人たち
リゴリイはいちはやく食卓を一回りして、奥へ通じてい
220
がらがらと砕ける音がした。それは、大理石の台に載せ
追って駆け出した。 三つ目の部屋で何かが床へ落ちて、
ワン・フョードロヴィッチとアリョーシャとは父の跡を
ち上がったが、まだ人心地がつかない様子であった。イ
ように駆け出した。グリゴリイはそのあいだに床から立
彼はドミトリイ・フョードロヴィッチのあとから転げる
﹁そいつを取り押えろ、取り押えろ!﹂とわめきながら、
彼のすべての驚
愕 はどこかへ飛んでしまった。
ドル・パーヴロヴィッチに異常な感銘を与えた。そして
この﹃あいつはここにいる!﹄という叫び声が、フョー
こにいる?﹂
んと知ってらっしゃるじゃありませんか!﹂とイワンが
﹁だって、あの女の来なかったことは、御自分でもちゃ
したようにぶるぶる震えていた。
は一時にわれを忘れてしまったのである。彼は心も 顛倒 かったので、ここへ来ていると意外な知らせを耳にした彼
ところへグルーシェンカが来ようなどとは思いもかけな
彼は息切れがしてことばをとぎらした。まさかこんな
いおった、あれが駆けこんだのを見たと⋮⋮﹂
ンカは、ここにおるんじゃぞ、あいつが自分で見たと言
﹁ワーネチカにリョーシェチカ、それじゃあ、グルーシェ
ドロヴィッチは腹立たしげに父をどなりつけた。
殺されてしまうじゃありませんか!﹂と、イワン・フョー
本当に
てあったガラスの大花びん︵あまり高価なものではない︶
叫んだ。
﹁なんだってあとを追っかけたりするんです!
で、ドミトリイがそばを駆け抜ける拍子に、ひっかけて
﹁しかし、あちらの戸口からはいったのかもしれん﹂
ど
倒したのである。
﹁あちらの戸口には 錠 がおりていますよ、それに自分で
とができなかっただけなんだ、さあ、どこにいる?
﹁おおい!﹂と老人はわめき声を立てた。
﹁誰か来てくれ
鍵を持っていらっしゃるくせに⋮⋮﹂
きょうがく
い!﹂
ドミトリイが突然、またもや広間へ現われた。もちろ
てんとう
イワン・フョードロヴィッチとアリョーシャがようや
ん、彼は裏口に錠のおりているのを見て取ったのだ。は
じょう
く老人に追いついて、むりやり広間へ連れ戻った。
221
き寄せざま、 激しい地響きを立てて床に投げとばした。
の鬢 に残っているまばらな髪をひっつかんで、ぐいと引
トリイは、両手を振りかざすと共に、いきなり老人の両
またもやドミトリイに飛びかかって行った。しかしドミ
たのだ!﹂そういうなり、彼はイワンの手をもぎ放して、
り声で叫び出した。
﹁あいつはわしの寝室で金を盗みおっ
つけると同時に、フョードル・パーヴロヴィッチが金切
﹁あいつを取り押えろ!﹂と、ドミトリイの姿を再び見
である。
のはいって来た口も、飛び出して行った穴もなかったの
きってあった。つまるところ、どこにもグルーシェンカ
トにはいっていた。どの部屋もやはり窓はすっかり閉め
たしてその鍵はフョードル ・ パーヴロヴィッチのポケッ
﹁誓って、あの 女 はここへなぞ来ませんでしたよ、第一
れが声をかけたら、逃げ出してしまったんだ⋮⋮﹂
こっちへとすべりこむのを、ちゃんと見届けたんだ、お
来なかったかい?
できるのはおまえきりだから、今しがたあの女はここへ
﹁アレクセイ! おまえだけは教えてくれ、おれに信用の
アリョーシャが厳然たる声で叫んだ。
﹁ドミトリイ! すぐここから出て行ってください!﹂と
た殺しに来てやる、手前たちにかばえるもんか!﹂
ドミトリイがわめき立てた。
﹁これで死ななかったら、ま
﹁それが当然なんだ!﹂と、ぜいぜい息を切らしながら
うところだったぜ!﹂とイワンが叫んだ。
﹁気でもちがったのじゃないのか、ほんとに殺してしま
た。
もうけっして、イ
おれはあの女が横町から 籬 のそばを
まがき
そして打ち倒れた父の顔を、いきなり二つ三つ靴の 踵 で
あの 女 がここへ来ようなどとは誰も思ってもいなかった
びん
とばしたのである。老人は鋭い声で悲鳴をあげた。イ
蹴 のです!﹂
ひと
ワン・フョードロヴィッチは、兄ドミトリイほどの腕力
﹁でも、おれはちゃんと見届けたんだがなあ⋮⋮してみ
かかと
はなかったけれど、両手で兄を抱き止めて、やっとのこ
ると、あいつは⋮⋮よし、すぐあいつの在所を突きとめ
ひと
とで父親からもぎ放した。アリョーシャも頼りない力を
てやる⋮⋮さよなら、アレクセイ!
け
振り絞って、前から兄に抱きつきながら、それに加勢し
222
て、間違いなく、
﹃よろしく申しました﹄と言ってくれ!
リーナ・イワーノヴナのところへ、これからすぐに行っ
ソップ 爺 に金のことはひとことも言うな、それよりカテ
た。
招きながら、やっと聞きとれるだけのしわがれ声で言っ
コフ、スメルジャコフ﹂と老人は、指でスメルジャコフを
﹁あれはここにおるぞ、確かにここにおる! スメルジャ
じじい
いいか、 よろしく申しましたと言うんだぞ、 よろしく、
耳をそばだてていた。彼にはまだ、グルーシェンカがほ
ど気は確かで、むさぼるようにドミトリイのわめき声に
して、肘椅子へ坐らせた。顔は血みどろになっていたけれ
そのあいだにイワンとグリゴリイとで老人を抱き起こ
てくれ!﹂
れ手ぬぐいが頭に巻かれた。コニャクの酔いと、激情
濡 は着物を脱がされ、寝室へ運ばれて、寝台に寝かされた。
スメルジャコフが水を取りに駆け出した。やがて老人
くしろ、スメルジャコフ!﹂
りつけた。
﹁おや、気絶した! 早く水とタオルだ! 早
からない爺さんだなあ﹂とイワンは、がみがみ父をどな
﹁あの女なんか来ているもんですか、ほんとにわけのわ
んとにどこか、家の中にいるような気がしてならなかっ
と、身に受けた 打撲 のために衰弱しきった彼は、頭を枕
そしてこの騒ぎのことも詳しく話し
たのである。ドミトリイ・フョードロヴィッチは、ふと
につけるが早いか、すぐに眼をつむって前後不覚になっ
よろしくってな!
出がけに、憎々しげにじろりと父をにらんだ。
てしまった。イワン・フョードロヴィッチとアリョーシャ
ぬ
﹁おれはおまえさんの血を流したからって、後悔なんぞ
は広間へ戻った。スメルジャコフはこわれた花びんの破
せて、じっとテーブルのそばにたたずんでいた。
だぼく
しないぜ!﹂ と彼はわめき立てた。﹁気をつけろよ、 爺 片を取りかたづけていたが、グリゴリイは陰気に眼を伏
空想があるんだからな!
﹁おまえも頭を冷やしたらどうだい、そして寝床へはいっ
じじい
め、空想に気をつけることだぜ、おれにだってやっぱり
うからのろってやら、もうとんと縁切りだ⋮⋮﹂
て寝たほうがいいよ﹂と、アリョーシャはグリゴリイに
おまえさんなんざ、おれのほ
そして彼は部屋を駆け出して行った。
223
かったものなら、ほんとに殺してしまったかもしれない
﹁勝手なことを言ってろ、おれがもし兄貴を引き放さな
した。
に道ならぬ仕打ちをしただよ!﹂とグリゴリイはくり返
﹁わしはあの人に行水まで使わしてあげただに⋮⋮わし
チは口をゆがめながら言った。
れた仕打ち﹄をしたよ!﹂と、イワン・フョードロヴィッ
﹁兄貴はおまえどころじゃない、親爺にさえ﹃道にはず
子で言った。
と、グリゴリイは一言一言を区切るように、ふさいだ調
﹁あの人はわしに、道にはずれた仕打ちをなさっただよ!﹂
らなあ⋮⋮それも頭を﹂
いるからさ、兄さんがずいぶんひどくおまえを打ったか
向かって言った。
﹁僕たちがここにいて、お父さんは 看 て
ンはどこにおる?﹂
﹁アリョーシャ﹂と、彼は不安そうにささやいた。
﹁イワ
たが、突然、その顔に激しい興奮の色が浮かんだ。
つめていた。それは何か思い出そうとしているらしかっ
開いて、長いこと無言のまま、じっとアリョーシャを見
陰に一時間ばかり坐っていた。と、不意に老人が眼を見
アリョーシャは父の寝室へはいって、枕もとの 衝立 の
なんだか頭が痛くなってきたんだ﹂
ここにおってくれ、おれは庭を少し散歩して来るからな、
今だってさせなかったようにさ。アリョーシャ、おまえ
﹁だが、 もちろんおれは人殺しなんかさせやしないよ。
アリョーシャはぎくりとした。
へ落ちて行くんだよ!﹂
﹁毒蛇が毒蛇を 呑 むまでのことさ、結局、両方ともそこ
はいまいましそうに顔をゆがめながらささやいた。
み
ぜ、あんなイソップ 爺 に手間暇がかかるもんか!﹂とイ
﹁庭ですよ、頭が痛むんだそうです、あの人が僕らの見
の
ワン・フョードロヴィッチがアリョーシャにささやいた。
張りをしていてくれるんです﹂
ついたて
﹁えい、とんでもないことを!﹂とアリョーシャが叫ん
﹁鏡を取ってくれ、そら、そこに立ててある﹂
じじい
だ。
アリョーシャは、 箪笥 の上に立ててある、小さな丸い
たんす
﹁何がとんでもないんだ?﹂と、やはり小声で、イワン
224
いのは、ただおまえだけだよ﹂
つより、イワンのほうが恐ろしいのだ、わしにこわくな
た一人の息子や、わしはイワンが恐ろしい、わしはあい
﹁イワンはなんと言っとる? アリョーシャ、わしのたっ
の辺にかなり目立って紫色の皮下出血ができていた。
眉 きこんだ。鼻がだいぶひどく 腫 れあがり、額には、左の
組み合わせ鏡を父に渡した。老人はしきりにそれをのぞ
お寺へも帰るがいいぞ⋮⋮今日言ったことは冗談だから
母マリヤの御像も、おまえにやるから持って行くがいい、
さえ眼に輝きだしたほどである。
﹁さっきわしが話した聖
自分の胸へしっかり押しつけるのであった。そのうえ涙
喜んだ。彼は歓喜のあまりアリョーシャの手をつかんで、
とはできないもののように、老人は 雀躍 りせんばかりに
はせん!⋮⋮﹂この際、これ以上嬉しいことばを聞くこ
﹁ならんとも、ならんとも、ならんとも、けっしてなり
は
﹁イワン兄さんだってこわがることはありませんよ、イ
怒るなよ。頭が痛い、アリョーシャ⋮⋮アリョーシャ、ど
い天使、ほんとのことを言ってくれ、さっきグルーシェ
ルーシェンカのとこへ飛んで行ったのか!
﹁いいや、いいや、いいや、わしはおまえの言ったことを
いかって?﹂とアリョーシャは痛ましそうに言った。
﹁まだ同じことを聞くんですか、あの女が来たんじゃな
こおど
ワン兄さんは腹を立てているけれど、お父さんを守って
うかわしの得心がゆくように、ほんとのことを聞かして
まゆ
くれますよ﹂
ンカはここへ来なかったのかい?﹂
信じているよ、今度はこうじゃ、おまえが自分でグルー
くれ!﹂
﹁誰も見かけた者がないのです、あれは嘘ですよ、来や
シャのとこへ行くか、それともほかでなんとかして、あ
グ
しませんとも!﹂
れに会ってな、あれがどっちにする気でおるか︱︱︱わし
﹁アリョーシャ、それで、あいつはどうしたんだ?
﹁でも、ミーチカはあれと結婚するつもりなんだよ、結
か、それともあいつか、どっちにする気でおるか、聞い
なあ、可愛
婚する!﹂
てみてほしいんだよ、早く、少しも早くな、そしておま
ひと
﹁あの 女 は兄さんといっしょになどなりませんよ﹂
225
はあいつのとこなんぞへ行っちゃならん、断じてならん
だろうよ、あれは嘘つきの恥知らずだよ、いや、おまえ
まえを接吻して、あんたのお嫁になりたいわ、って言う
えぎった。
﹁あいつはつむじ曲がりだからな、いきなりお
﹁いんにゃ、あれはおまえに話しはせんぞ﹂と老人がさ
リョーシャは当惑したようにつぶやくのであった。
﹁もし、あの 女 に会ったら、聞いてみましょう﹂と、ア
じゃ? できるか、できんか?﹂
えの眼で見て、ひとつ判じてくれるのだ、うん? どう
じゃないぞ、イワンにはなんにも言っちゃならんぞ﹂
していてくれ、わしが呼んだということは誰にも言うん
﹁来てくれるのなら、勝手に見舞いに寄ったような顔を
﹁まいります﹂
れるか?﹂
とき、おまえに一つ話したいことがあるのだよ、来てく
くわしのところへ来てくれよ、きっとだぞ、わしはその
れに会うかもしれんな⋮⋮しかし、あすの朝、間違いな
まえはもう行ってもいいぞ、ことによると、おまえ、あ
アリョーシャ、わしは一晩ゆっくり寝て考えるから、お
ひと
ぞ!﹂
なったじゃないか?﹂
ていたのだ、さっき逃げて行く時、
﹃行って来い﹄ってど
﹁あいつはさっき、どこへおまえをお使いにやろうとし
ないことですよ﹂
﹁いま気分はいかがです?﹂
もう少し考えてみなければならんから⋮⋮﹂
ぜひ、おまえに言わにゃならんことがあるけど⋮⋮まだ
をしてくれたな、あのことは死んでも忘れんぞ、あすは
﹁さようなら、わしの天使、さっきおまえはわしの味方
﹁承知しました﹂
﹁カテリーナ・イワーノヴナのところへです﹂
﹁あすはもう起きるよ、あすは、すっかりもうなおるわ
全くよく
﹁金の用だろう! 無心をしにだろう?﹂
い、すっかり!﹂
﹁それはまたよくないことです、お父さん、
﹁いいえ、金の用事じゃありませんよ﹂
庭を横切ろうとして、アリョーシャは、門ぎわのベン
びたいちもん
﹁あいつには金がないのだよ、 鐚一文 ないのだよ、さあ
226
ヴナのところへも、今晩もし留守だと、あすまた行くか
とアリョーシャは答えた、
﹁それにカテリーナ・イワーノ
﹁僕はあすホフラーコワ夫人のところへ出かけますし﹂
シャには、全く思いがけなかった。
想よく言いだした。こうした愛想のいい口調はアリョー
へん都合がいいんだがな﹂とイワンは立ち上がって、愛
﹁アリョーシャ、あすの朝、僕はおまえに会えたらたい
に帰ってもいい、と言ったことなどを話した。
が眼をさまして正気に返ったことと、自分に修道院へ寝
か手帳に書きつけていた。アリョーシャはイワンに、父
チに腰掛けているイワンに出会った。イワンは鉛筆で何
がない、などとそれを決める権利を持ってるものでしょ
でも、他人を見て、誰は生きる資格があって、誰は資格
﹁兄さん、じゃもう一つ聞きたいんですがね、人間は誰
に引き止めておいて、ドミトリイを家へ入れないことだ﹂
よ、あの女は、獣だぜ、いずれにしても、親爺は家の中
が、たいしたこともなしに、立ち消えになるかもしれん
﹁はっきりしたことを言い当てるわけにはいかんよ、だ
とアリョーシャが叫んだ。
恐ろしい事件は、どんな風に結末がつくんでしょうね?﹂
﹁兄さん!
くちに言えば、﹃よろしく言って﹄ほしいからなのさ﹂
とあの 女 に⋮⋮その⋮⋮なんだよ⋮⋮いや、つまりひと
ひと
もしれません⋮⋮﹂
うか?﹂
妙にどぎまぎした。
い!﹂突然イワンは、にやりと笑った。アリョーシャは
ところへ行くんだね?
も普通だよ、だが、権利という点では、誰がいったい希
然な、他の理由のもとに、人間の心で決定されるのが最
この問題は資格などを基礎に置くべきでなく、もっと自
﹁なんだってここへ資格の決定なんかもちこむんだい!
いったい、お父さんとミーチャとの、あの
﹁じゃ、これから、やっぱりカテリーナ・イワーノヴナの
﹁おれはどうやら、さっき兄貴のどなったこともすっかり
望する権利を持っていないだろう?﹂
例の﹃よろしく、よろしく﹄か
読めたし、以
前 からのことも幾分わかってきたような気
﹁しかし他人の死ぬのを希望するってわけじゃないでしょ
ま え
がするよ。ドミトリイがおまえを使いにやるわけは、きっ
227
を持ちだしたのは、
﹃毒蛇が二匹で呑み合ってる﹄と言っ
に嘘をつく必要はないじゃないか、おまえがそんなこと
れ以外の生き方がないんだからね、なにも、自分で自分
の人がそんな風な生き方をしている、というよりは、そ
﹁他人の死ぬことだってしかたがないさ、それにすべて
う?﹂
感づいた。
一歩接近して来たのは、きっと、何か魂胆があるのだと
した。アリョーシャは、兄が自分から進んで、こっちへ
二人はついぞこれまでにないような、強い握手をかわ
ながら、つけ足した。
一〇 女二人が
ういうことなら、おれのほうからも一つ聞きたいね、お
アリョーシャは、先刻ここへはいったときより、さら
そ
まえはこのおれも、ミーチャと同じようにあのイソップ
に激しく打ち砕かれ、押しひしがれたような気持になっ
た、おれのさっきのことばから思いついたのかい?
の血を流しかねない︱︱︱つまり殺しかねない人間だと
爺 て父の家を出た。彼の理性もやはりみじんに砕けて、ち
じじい
思ってるかい?﹂
たあらゆる悩ましい矛盾の中から、一つのだいたいの観
ぢに乱れているようであったが、同時に彼は、そのばら
まさかそんな⋮⋮﹂
念を組み立てるのが空恐ろしいように思われた。何かほ
そんなことは僕は、夢に
﹁いや、それだけでもありがたいぞ!﹂とイワンはにや
とんど絶望そのものと境を接しているような、あるもの
﹁何を言うのです、イワン!
りとして、﹁おれはいつでも親爺を守ってやるよ、 しか
が感じられた。こんなことは、ついぞこれまでアリョー
ばらになったものをつなぎ合わせて、今日一日に経験し
し、希望の中にはこの際、十二分の余裕を残しておくぞ。
シャの心には覚えのないことであった。そうしたいっさ
それにドミトリイだって
じゃ、明日までさようなら、おれを責めないでくれ、そ
いのもののうえに山のようにそびえ立っているのは、あ
も考えたことがありません!
して悪者あつかいにしないでなあ﹂と彼は微笑を浮かべ
228
のほうへ一歩接近して来たけれど、彼にはなぜか、その
イワンは、アリョーシャが久しく望んでいたように、自分
ばかりか、何か 謎 のようなものが現われたのである。兄の
の事件に関係の深い人がまだほかにもあるらしい。それ
アリョーシャがこれまで考えていたよりは、はるかにこ
ろしい災厄に待ち伏せられているのである。そのうえに、
兄ドミトリイだけであった。彼はもはや疑いもない、恐
人、本当に恐ろしく不幸な人と感じられるのは、ひとり
て、彼は 相対峙 せる二人を見たのである。だが、不幸な
自身がその目撃者であった。みずからその場に居合わし
う宿命的な、解決しがたい疑問であった。今や、彼は自分
ている事件が、どういう結末に終わるだろうか? とい
の恐ろしい女を巡って、父と兄とのあいだにもちあがっ
母というのは、姉のアガーフィヤだけの伯母に当たって
ていることはアリョーシャも知っていた。その一方の伯
便利な家を一軒借りていた。彼女が二人の伯母と 同棲 し
濃くなっていた。 彼女は大通りに面した非常に手広で、
はいって行ったのはもう七時ごろで、薄暮の色がかなり
アリョーシャがカテリーナ・イワーノヴナの住まいへ
イワーノヴナに伝えてくれと言いつけている⋮⋮。
それに、兄は、たったいま突発した事件を、カテリーナ・
り、 どんな堕落の 淵 へも 躊躇 なく飛びこむに違いない。
はもはや自分を不正直者と決めてしまって、絶望のあま
問題がきっぱりと決定してしまったから、兄ドミトリイ
りいっそう、心苦しいように思われた。三千ルーブルの
た。だが、彼女に伝言を伝えることが、明らかに先刻よ
に、自分から進んで、彼女のもとをさして急ぐのであっ
なぞ
あいたいじ
接近の第一歩が、妙に薄気味悪く感じられるのであった。
いた。これは彼女が女学院から父の家へ戻って来たとき、
ちゅうちょ
ところが、あの二人の女のことはどうであろう? 奇態
姉とともにいろいろ世話をしてくれた、例の無口な女で
ふち
なことであるが、さきほどカテリーナ・イワーノヴナの
あった。もう一人の伯母は、貧しい生まれでありながら
どうせい
ところを指して出かけたとき、ひどく当惑を覚えたにも
おつにすましてもったいぶった、モスクワの貴婦人であ
うわさ
かかわらず、今は少しもそんな気配がなかった。それど
る。人の噂 では、この伯母たちは二人とも万事につけて、
ひ と
ころか、まるでこの 婦人 の助言でも当てにしているよう
229
ずれの音などが聞こえてきた。どうやら二、三人の女が
物音がして、誰か女の駆け出す足音や、さらさらいう衣
見つけたのだろう︶。と、急に、何かどやどやと騒々しい
いるらしかった︵ことによったら、窓からでも彼の姿を
とき、広間のほうでは確かに彼の来たことをもう知って
間使いに、自分の来訪を取り次いでくれるように頼んだ
アリョーシャが玄関へはいって、扉をあけてくれた小
分のことを詳しく知らせてやらなければならなかった。
あった。彼女はこの人に毎週二通ずつ手紙を書いて、自
気のためにモスクワに残っている恩人の将軍夫人だけで
カテリーナ・イワーノヴナが信服していたのは、今、病
世間体のためにのみ 姪 に付き添っているだけであった。
カテリーナ・イワーノヴナの言うがままになって、ただ
がら、せかせかした急ぎ足ではいって来た。それと同時
笑を浮かべて、両手をアリョーシャのほうへ差し出しな
上がって、カテリーナ・イワーノヴナが喜ばしそうに微
がついて思わず眉をしかめた。しかしその瞬間に 帷 りが
い。アリョーシャは来客の中へ飛びこんで来たなと、気
そのままになっている、どうも誰かを供応していたらし
いったガラス皿 、それから菓子を盛ったもう一つの皿が、
み余した茶碗が二つと、ビスケットや、青い 干葡萄 のは
り、長椅子の前のテーブルの上には、チョコレートを飲
たらしい長椅子の上には、絹の婦人外套が投げ出してあ
中は幾らか薄暗かった。つい今しがたまで人の坐ってい
ラス箱さえすえてあった。たそがれどきのことで部屋の
くさんあった。そればかりか、窓ぎわには魚を放ったガ
ブルの上には花びんやランプが置かれて、 花卉 の類もた
か き
駆け出したらしい気配である。アリョーシャは自分の来
に、女中が火をともした 蝋燭 を二本持って来て、テーブ
めい
訪がどうしてこんなに騒ぎを引き起こしたものだろうと、
ルの上に置いた。
さ、お掛けに
わたし今日一日じゅう、あなたのこ
とば
ほしぶどう
奇異に感じた。しかし、彼はすぐ広間へ通された。それ
﹁まあ、よかったこと。とうとうあなたもいらしてくだ
ざら
は少しも 田舎臭 くない、優雅な家具調度で豊かに飾りつ
さいましたわね!
ろうそく
けられた、大きな部屋であった。長椅子や大小のテーブ
とばかり神様にお祈りしていましたの!
いなかくさ
ルがたくさんに配置され、壁には絵が掛けてあり、テー
230
アリョーシャはけっして自分がおおげさな見方をしてい
驚嘆したのであった。 それは少しも疑いのないことで、
の高さと、遠慮のない打ち解けた態度と、自信の強さに
ることができた。彼はそのとき、思い上がった娘の気位
んでいたが、いろいろのことをはっきりと、よく見分け
り話しかけたのであった。アリョーシャはじっと黙りこ
からしまいまでドミトリイ・フョードロヴィッチにばか
を察して、彼に 不便 をかける気持から、そのときは始め
リーナ・イワーノヴナは、彼がひどく 狼狽 している様子
二人のあいだに、どうもうまく話が続かなかった。カテ
紹介したときのことである。しかしそのときの会見では、
彼女の切なる望みによって、はじめて弟を連れて行って
た。それは三週間ばかり前のことで、兄のドミトリイが、
たときも、アリョーシャは激しく心を打たれたのであっ
カテリーナ・イワーノヴナの美貌には、この前に会っ
なってくださいまし﹂
は幸福でいられないかもしれませんよ⋮⋮﹂
でしょう、けれど、あの人といっしょになっても、始終
﹁そうじゃありません、たぶん、兄さんは永久に愛する
だな?﹂
は、おれがとても永久にあの女を愛しきれまいと思うん
を天にまかせるということがないのさ、じゃあ、おまえ
てもあのとおりなんだよ、ああいう風な女は、けして運
﹁そのとおりなんだよ、弟、ああいう女はいつまでたっ
れど⋮⋮しかし、平和な幸福ではないかもしれませんよ﹂
﹁兄さんはあの女と結婚すれば、幸福になるでしょうけ
とんどむきつけに言ってしまった。
しつこく彼に尋ねたとき、アリョーシャはこの感想をほ
を見てどんな印象を受けたか、 腹蔵なく言ってくれと、
じられた。この訪問のあとで、ドミトリイが自分の 許嫁 でいて、長くは愛し続けられなさそうな、あるものが感
いかにも自分の兄が夢中になって打ちこみそうな、それ
見した。しかし、その眼の中と、美しい唇の輪郭とには、
いいなずけ
るのでないと思った。彼は、その大きな黒い熱情的な眼
アリョーシャはそのときこんな意見を述べながら、まっ
ろうばい
の美しいこと、ことにそれが彼女の青白い、というより
かになった。そしてつい兄の頼みにつりこまれて、こん
ふびん
はむしろ薄黄色い面長な顔によく似合っていることを発
231
だの悲劇的関係が、彼女にとって少しも秘密でないばか
り、ひと言その声を聞くなり、彼女の愛する男とのあい
れているのであった。アリョーシャは彼女を一目見るな
敢で高潔な精力と、何か明朗な力強い自信となって現わ
アリョーシャを驚かした﹃誇りと 驕慢 ﹄が、今はただ勇
一本気な熱しやすい真心とが輝いていた。前にあれほど
ある。 今の彼女の顔には、 偽りならぬ率直な善良さと、
ないと思ったほど、彼の驚きはなおさら大きかったので
したら、あのときの考えはまるで間違っていたかもしれ
たカテリーナ・イワーノヴナを一目見た時には、もしか
うことがあっただけに、いま自分のほうへ駆け出して来
の意見を述べ立てたことを恥ずかしくも思った。そうい
からである。それに自分などが偉そうに、婦人について
分の意見がわれながら恐ろしくばかげたものに思われた
しく思った。なぜならば、それを口外すると同時に、自
な﹃ばかげた﹄意見を述べたのを、自分ながらいまいま
ノヴナは急に眼を輝かしながら叫んだ。
﹁ちょっとお待ち
も知ってますのよ、何もかも!﹂と、カテリーナ・イワー
もそうだろうと思いましたわ、今はわたし、もうなんで
﹁兄さんがおよこしなすったんですって、まあ、わたし
です⋮⋮﹂
しながら、口ごもった。
﹁僕は⋮⋮兄の使いでまいったの
﹁僕がまいりましたのは⋮⋮﹂と、アリョーシャは 狼狽 らですの、ほかには誰もそんなかたはありませんもの!﹂
今本当のことが伺えるのは、ただあなたお一人きりだか
﹁わたしがこんなにあなたをお待ちしていましたのは、
見てとったのである。
に法外な、ほとんど有頂天に近い興奮状態にあることを
彼女が何かしら激しい興奮、おそらく彼女としては非常
である。それはともかく、最初のことばを聞いただけで、
たちまちにして征服せられ、引きつけられてしまったの
重大な故意の罪を犯しているような気がし始めた。彼は
れていた。アリョーシャは急に、自分が彼女に対して
溢 あふ
りか、彼女はもういっさいのことを、何から何まで知り
になってね、アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたし、
ろうばい
抜いているのだろうと直感した。とはいえ、それにもか
どういうわけで、そんなにあなたをお待ちしていたかっ
きょうまん
かわらず、彼女の顔には未来に対する信仰と光明が満ち
232
人をどんな風に御覧になっていますの?
そして、今日
結構でごさいますとも!︶いったいあなたは、今のあの
いません。
︵ええ、ええ、どんなにぶしつけなことだって
お聞かせくださいませんか。ぶしつけなお話だってかま
どうか、それをありのままに、飾りっ気なしに、話して
御自身が最近あの人からお受けになった印象なんですの。
いませんの、わたしの知りたいと思いますのは、あなた
たしがあなたからお伺いしたいのは事実の報告ではござ
さん、いろんなことを知っているかもしれませんわ。わ
ると、わたしのほうがあなたなどよりずっとずっとたく
てことを、あらかじめお話ししておきますわ、もしかす
れませんのね?﹂
ぬことばでなしに、ひょんなことが口から出たのかもし
たのかもしれませんわね、間違って、言わなければなら
﹁もしかしたら、ひょいと何の気なしにそんなことを言っ
﹁そうですよ﹂
のとおりの言い回しで?﹂
﹁よろしくって!
によろしく申し上げてくれって言いました﹂
う二度とこちらへ足踏みをしませんって⋮⋮で、あなた
﹁兄はあなたに⋮⋮よろしく申し上げてくれ、そしても
いちばん肝心なところを聞かせてくださいませ!⋮⋮﹂
だろうと思ってましたわ!︶︱︱︱どうぞ、ありのままに、
な風でございまして?
お伝えしてくれって言いつけたのです、忘れないように
﹁いいえ、兄はこの﹃よろしく﹄ということばを、ぜひ
あの人がそう言ったんですのね、そ
あなたがお会いになってから後の、あの人の様子はどん
あの人と話し合うよりか、いいに違いないと思いますわ。
お伝えしてくれって、三度も念を押したのです﹂
これはきっと、わたしが自分で
だってあの人はもう、わたしのところへは来ないつもり
﹁アレクセイ・フョードロヴィッチ、どうぞわたしを助
カテリーナ・イワーノヴナはかっと赤くなった。
望んでいるか、これでおわかりになったでしょう?
けてください。今こそ、ほんとにあなたのお力添えが必
でいるんですもの、ね、わたしがあなたにどんなことを
あ今度は、あの人が何の用であなたをお使いによこしな
要なのです。わたし、自分の思っていることを申してみ
さ
すったのか︵わたしきっとあなたをお使いによこしなさる
233
﹁そうですよ、そうですよ!﹂とアリョーシャは熱心に
うことにはならないでしょうか⋮⋮﹂
のことばに力を入れたのは、ただの空威張りだったとい
行ったのではなくって、急な坂を駆け下りたのです。そ
です! しっかりした確かな足どりでわたしから離れて
しながらも、自分で自分の決心を恐れていらっしゃるの
却していらしたのかもしれませんわね。きっと、決心は
したということになりますわ、もしかしたら、前後を忘
に念を押したのでしたら、きっとあの人は興奮していら
らその﹃よろしく﹄を忘れないで、わたしに伝えるよう
けれど、あの人が特別このことばに力を入れて、ことさ
しまいなんです⋮⋮何もかもがおしまいなのです!⋮⋮
えるように念を押さなかったとしますと、もうそれでお
まり特別このことばに力を入れて、このことばをぜひ伝
言ってくれって、あなたに言いつけたのでしたら、︱︱︱つ
ね。ようござんすか。もしあの人が何気なしに、よろしく
いかどうか、それだけをおっしゃってくださいませんか、
ますから、あなたはそれについて、わたしの考えが正し
金なんか送らなかったのです、けれどわたしは黙ってい
いってことは、とうの昔に知っていますわ。あの人はお
モスクワへ電報で問い合わせて、あのお金の届いていな
﹁ずっと前から知ってますわ、 はっきり知ってますわ。
た。
じなんですか?﹂と言い足したが、急にことばを打ち切っ
た。
﹁だって、あなたはいったい⋮⋮あの金のことを御存
に救いの道が開けたのかもしれないというような気がし
望みがわきあがってくるのを覚えて、ほんとに兄のため
は躍起になって叫んだ。そして彼は、自分の心に 一縷 の
したって同じことだと言っていました﹂とアリョーシャ
なっては、名誉も何も失ってしまったのだから、どちらに
ちばんひどく兄は苦に病んでいるのです。兄はもうこう
﹁話したどころじゃありませんよ、きっとそのことをい
たにお話ししませんでして?﹂
は何かお金のことを、三千ルーブルのお金のことをあな
の人を救うことができます。ね、それはそうと、あの人
ません!
﹁で、もしそうなのでしたら、あの人はまだ滅びてはい
いちる
ただ絶望しているだけですから、わたしはあ
相づちを打った。﹁僕自身にも今はそう思われるのです﹂
234
あの人も神様にはちっとも恥じないで、何もかも打ち明
対して恥じることだけはさせたくありませんの。だって、
対して恥じるのはしかたがありませんけれど、わたしに
んでしたわ。そりゃあね、他人に対してや、自分自身に
この一週間のあいだ、ほんとに心配で心配でたまりませ
どうしたらいいだろうか? と、そのことばかり思って、
みを、 あの人に恥だなどと思わせないようにするには、
めているのです。わたしは、あの三千ルーブルの使いこ
ものを見抜こうとはしないで、ただ女としてわたしを眺
ちだってことを、信じてくれないのです。わたしという
ところがあの人は、わたしがそのいちばんに忠実な友だ
ことを、悟ってくれるようにしむけることでございます。
いいか、また誰が自分にいちばん忠実な親友かっていう
ます、それは、あの人が、結局自分は誰の手へ帰ったら
いて、わたし、たった一つ目当てにしていることがあり
要るってことは、先週わたし聞きましたの⋮⋮それにつ
ましたの。あの人に、お金の 要 ったこと、そして今でも
彼は先刻の騒動を残らず物語った。金の無心にやられた
シャのほうも、やはり声を震わせながら言った。そして
た出来事を、お話ししなければなりません﹂とアリョー
﹁僕はあなたに、たった今、兄と父とのあいだに起こっ
めどなくその眼からほうり落ちるのであった。
彼女は涙ながらこの終わりのことばを言った。涙は止
でしょうねえ?﹂
には、今になってもそれだけのことがしてもらえないん
いで打ち明けたのじゃありませんか、どうして、わたし
レクセイ・フョードロヴィッチ、あなたには何も恐れな
を心配してるんですもの! だって、あの人は、ねえ、ア
それだのに、あの人は、わたしに対する身の潔白なんか
の許嫁だってことを忘れてしまったってかまいません!
こまでもあの人を助けたいと思います、わたしがあの人
しの心を知らずにいられるんでしょうね?
う?
どうして、あの人にはわたしの本心がわからないのでしょ
どうして今まで知ってくれないのでしょう? どうして、
い
けているじゃありませんか。それだのに、わたしがあの
こと、そこへ兄が飛びこんで来て父をなぐったこと、そ
わたしはど
あんなことまであったあとだのに、どうしてわた
人のためになら、どんなしんぼうだってするってことを、
235
ができるものですか! ええ、あれは情欲というもので、
て、カラマゾフが、いつまでもあんな情欲に燃えること
かしませんよ。
﹂不意に彼女は神経的に笑いだした。
﹁だっ
てるのでしょうか? けれど、兄さんはあの 女 と結婚なん
とでも思ってらっしゃるの? あの人もやはり、そう思っ
﹁まあ、あなたはわたしがあの 女 を大目に見てゆけない
低い声でつけ足した。
んはそれからあの 女 のところへ行きました⋮⋮﹂と彼は
てに念を押したことなどを物語ったのである⋮⋮﹁兄さ
のあとで兄が特別にもう一度﹃よろしく﹄ということづ
いて、誰かに呼びかけた。
﹁こちらへいらっしゃいな、こ
レクサンドロヴナ!﹂と、突然、彼女は次の部屋の方を向
ばを本当になさらないのでしょう? アグラフェーナ・ア
びっくりなすったのでしょう、たぶんこのわたしのこと
しを御覧になるの?
知っていますわ。どうしてあなたそんな眼をして、わた
しっかりしていて、しかも高尚な娘さんだということも
てことも知っていますが、またあの人がほんとに親切で、
れな 女 ですよ、わたしあの 女 がずいぶん誘惑的な人だっ
娘さんは、ほんとに気まぐれな中にも、とりわけ気まぐ
リーナ・イワーノヴナは異常に熱くなって叫んだ。
﹁あの
たぶんわたしの申しあげることに
かた
けっして愛じゃありません、兄さんはけっして結婚なんか
こにいらっしゃるのは、お友だちのアリョーシャなのよ、
かた
しませんよ、だってあの女 がお嫁になりませんもの⋮⋮﹂
もうわたしたちのことはすっかり知ってらっしゃるんで
ひと
と、突然またカテリーナ・イワーノヴナは奇妙な薄笑い
すから、さあこちらへ出て来て、御挨拶をなさいな!﹂
かた
を漏らした。
﹁あたしカーテンの陰で、あなたが呼んでくださるのを、
かた
﹁でも、兄は結婚するかもしれませんよ﹂アリョーシャ
今か今かと待ってましたのよ﹂と言う、すこし甘ったる
かた
は眼を伏せたまま、悲しげな調子で言った。
いくらい優しい女の声が聞こえた。
えんぜん
とば
﹁いいえ結婚なんかしませんったら!
と、 帷 りが上がって⋮⋮ほかならぬ当のグルーシェン
あの娘さんはほ
んとに天使のような 女 ですよ、あなたはそれを御存じで
カが嫣
然 と笑いこぼれながら、テーブルへ近づいて来た。
かた
すの? あなたそれを御存じですの?﹂と、不意にカテ
236
がしなやかで静かで、その声のように甘ったるすぎるほ
ずぬけて背の高いほうであった︶、肉づきはよくて、動作
ヴナよりは少し低かった︵カテリーナ・イワーノヴナは
は相当、背が高いほうであったが、カテリーナ・イワーノ
されるようなロシア的な美貌の持ち主なのである。彼女
いほどの美人である︱︱︱つまり、夢中になって男から愛
かにこの女は美しいには違いない、非常にと言ってもい
い女に似たり寄ったりの﹃ありふれた﹄美人なのだ! 確
しい女で、たとえ美人であるにしても、世間一般の美し
至極ありふれた、単純な一人の女︱︱︱善良そうな愛くる
なのだ。しかも、今、彼の面前に立っているのは、一見、
兄イワンが半時間前に﹃獣﹄だと口をすべらせた、あの女
離すことができなかった。これがあの恐ろしい女なのだ、
の視線は女のほうにぴったり吸いつけられたまま、引き
アリョーシャは身内がぎくんと震えたように覚えた。彼
た。彼女は子供のような眼つきをして、何かしら子供のよ
心を打ったのは、その子供らしく 天真爛漫 な表情であっ
いであろう。この顔の中でいちばん強くアリョーシャの
まって、長くその印象を心にたたみこまずにはいられな
いぼんやりした男でも、その顔を見ては、思わず立ち止
眼とは、どんなに雑踏した人なかを散歩している気のな
のように黒い眉と、 睫 の長い灰色がかった空色の美しい
た。しかし、実にすばらしい、房々した暗色の髪と、黒 貂 が、少し前へ突き出た下唇は二倍も厚くて、はれっぽかっ
はこころもちそりかげんなほどである。上唇は薄かった
ていた。顔の輪郭は、どちらかといえば広いほうで、下
頤 ど白く、頬には上品な薄ばら色の紅潮がほんのりとさし
顔はまさしくその年ごろに相応していた。色が抜けるほ
肩をあでやかにくるんだ。彼女は二十二であったが、その
ショールで、乳のように白いむっちりした首と幅の広い
がら、そっと 肘椅子 へ腰をおろすと、高価な黒い毛織の
ひじいす
どなよなよしていた。彼女はカテリーナ・イワーノヴナ
うに喜んでいる様子であった。実際、彼女はさも嬉しそ
てん
したあご
のような、力強い、大胆な足どりとは反対に、しずしずと
うにテーブルへ近づいたが、その様子はちょうど、今に
まつげ
近づいて来た。その足が床に触れてもまるで音を立てな
も何か嬉しいことがあるだろうと信じきって、子供のよ
てんしんらんまん
かった。彼女は見事な黒絹の衣裳をさらさらと鳴らしな
237
も、それはその誇張された釣り合いの中にも感ぜられる。
ミロのヴィーナスの形を思わせるかもしれない。もっと
うな乳房が感じられた。ことによったら、この体は後日
た肩や、はちきれそうに盛り上がった、処女のそれのよ
を持っていた。ショールのかげには幅の広いむっちりし
なことであった。そのくせ、彼女は力に満ち 溢 れた体
躯 女の肉体の動作が柔らかくしなやかで、猫のように静か
なく感じていたに違いない、あるものがあった。それは
できなかったけれど、おそらく無意識のうちにはそれと
感得した。なおそのうえ、彼にはとても理解することが
たせるようなところがあった︱︱︱アリョーシャはそれを
いうような風であった。彼女の 眼眸 には人の心を浮き立
うな好奇心をいだきながら、じりじりして待ち受けると
こんでいる礼儀作法に対する俗悪な観念を立証するだけ
あって、彼女の育ちの卑しいことと、幼いころからしみ
のしぐさであった。もちろん、それは、ただ悪い習慣で
に甘ったるい調子をつけるのを、美しい話術だと心得て
そういうぐあいに、ことばや音声を引き伸ばして、いや
のであった。 彼女がそんなことをするのは、 明らかに、
に、残念なような気持で、自分で自分に問いかけてみる
ろうと、妙に不愉快な感じを覚えながら、なんとはなし
引き伸ばしたりして、自然な物の言い方ができないのだ
かも心のなかでは、この女はどうしてあんなにことばを
ほとんど、うっとりさせられていたくらいであるが、し
シャはそんなことを考えていたわけではなかった。彼は
つかの間のものだというのである。もとより、アリョー
結局、それは、ロシア人に特有な稲妻のようにはかない
まなざし
ロシア女性美の鑑識家はグルーシェンカを見て、かよう
のことであった。それにしても、アリョーシャにはその
たいく
な的確な予想を発表することができるであろう。つまり、
俗な発声と語調の抑揚とは、子供らしく天真爛漫な嬉し
あふ
この 溌剌 たる青春の美も、三十という年配になれば、そ
そうな顔の表情や、おだやかな、まるで 嬰児 に見られる
はつらつ
の調和は失われ、そろそろ下り坂になって、顔の皮膚はた
ような幸福そうな眼の輝きに対称して、ほとんどあり得
えいじ
るみ、眼のまわりや額にはいちはやく 小皺 が寄って、み
べからざる不合理なもののように感ぜられた。カテリー
こじわ
ずみずしさのない赤ら顔になってしまうであろう、︱︱︱
﹁アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたしたちははじ
を、幾たびも、夢中になって接吻するのであった。
合っている安楽椅子にかけさせて、そのえみを含んだ唇
ナ・イワーノヴナはすぐさま彼女をアリョーシャと向き
る、嬉しそうなえみをたたえながら、歌でもうたうよう
しゃいますわ﹂グルーシェンカは、やはり例の 愛嬌 のあ
せんでした。ほんとにお優しい、立派なお嬢様でいらっ
﹁あたしのような者でも、あなたはおさげすみになりま
だすったんですのよ⋮⋮﹂
間違いではございませんでしたわ。グルーシェンカはわ
ちゃんと結果を予想していたのです。そして、やっぱり
うにって、懇々と止めましたの、ですけれど、わたしは、
とを決心しましたとき、家の者はそんなことをしないよ
そんな風に虫が知らせたんですの⋮⋮。わたしがこのこ
り、何もかもすっかり解決がつくだろうと思いましたの。
のかたと御いっしょだったら、どんなことでも、すっか
から、こちらへ来てくだすったんですのよ。わたし、こ
すけれど、ちょっとお頼みしてみたら、このかたのほう
かったものですから、こちらから出向こうと思ったんで
をしていた。
シャは顔を赤らめて、眼に見えぬくらいかすかに身震い
ていると、心が晴れ晴れして来ますわね⋮⋮﹂アリョー
顔を御覧なさいな、ほんとにこんな天使のような顔を見
ほらね、アレクセイ・フョードロヴィッチさん、この笑い
接吻してあげてよ。そうら、もう一度⋮⋮もう一度⋮⋮
たようになってますけど、もっともっとはれあがるほど
し、あなたの下唇を接吻しますわ、あなたの下唇ははれ
のようなかたをさげすむなんて!
魅力のある、魔法使いのようなかたのくせに!
﹁まあとんでもない、 そんなことをおっしゃるなんて、
あいきょう
めて会ったんですのよ﹂と彼女は有頂天になって言った、
たしに何もかも打ち明けて、御自分の考えも残らず聞か
﹁まあ、あなたはこんなに可愛がってくださいますけど、
にことばを引っぱった。
せてくだすったんですのよ、このかたは、まるで天使の
ひょっとしたら、あたし、まるっきりこんなにしていた
さあ、もう一度わた
あなた
ように、ここへ飛んで来て、平和と喜びを持って来てく
﹁わたし、 このかたに会って、 このかたのことが知りた
238
239
ひと
それで、その 男 が
こちらへ来れば、グルーシェンカはまた幸福になれるん
て来たんですのよ、そして永久に!
﹁値打ちがないですって?
ですの。でも、この五年間というもの、この方はずいぶ
だく値打ちなんかない女かもしれませんわ﹂
ちがないですってさ!﹂とカテリーナ・イワーノヴナは
ん 惨 めだったんですものね。だけど、誰がこのかたをと
うってつもりに、あんまり早くなりすぎたのです。一人
ほんとに軽薄な男のために、何もかも犠牲にしてしまお
ね、不仕合わせだっただけなの、このかたはつまらない、
ですのよ、アレクセイ・フョードロヴィッチさん。ただ
ライドの高い御気性よ!
全く、この人はそのとき、身投げしようとまで思いつめ
嘆き悲しんでいるところへめぐりあわしたんですの⋮⋮
どこのかたが、可愛い男にすてられて、身も世もあらず
いったほうが穏当なんですわ。このお爺さんは、ちょう
のかたのお父さんとか、お友だちとか、いっそ保護者と
りきりじゃありませんか。それもどちらかといえば、こ
このかたにそれだけの値打
またしても、 同じように熱した声で叫んだ、﹁ねえ、 ア
がめられましょう?
の男のかたがありましたの、 やっぱり士官でしたけど、
ていたんですもの、だから、あの爺さんはこの人の命を
あの足腰の立たないお爺さんの商人ひと
このかたはその人を愛して、いっさいのものをそれはも
救ったんですわ、命を!﹂
みじ
レクセイ・フョードロヴィッチ、このかたはずいぶん気
れましょう?
誰がこのかたの愛情を鼻にかけら
まぐれで、わがままですけれど、その代わり、とてもプ
う、ずっと前、五年ばかりも前のことですのよ、ところ
﹁お嬢様、あなたはずいぶんあたしをかばってください
この人は高尚で、寛大なかた
が、その 男 はすっかりこのかたのことを忘れて、結婚し
ますわね、でも、何かにつけて、あんまり気がお早すぎ
ひと
てしまいましたの、今では 鰥 になって、今度、こちらへ
ますわ﹂とまた、グルーシェンカはことばを引っぱるよ
やもめ
来るという手紙をよこしたのですって、︱︱︱ところがね、
うに言った。
ひと
どうでしょう、このかたは今でもその 男 を、ただその男 ﹁かばうですって? まあ、あなたをかばうなんてことが
ひと
ひとりを愛しているのです。これまで、ずっと愛し通し
240
めた。彼は急に顔を赤くした。その間じゅう彼の心は妙
うだ﹄という考えが、ちらりとアリョーシャの頭をかす
るのが気持よさそうであった。
﹃すこし有頂天が過ぎるよ
たが、どうやら、彼女はそんな風に自分の手を接吻され
ながら、この﹃お嬢様﹄のすることをじっと見守ってい
たまま、神経的で、ひびきの高い、美しい笑い声を立て
な手を、三度までも接吻した。相手はその手を差し出し
ンカの、まことに美しい、少しふっくらしすぎるくらい
一度!﹂そして彼女は有頂天になったようにグルーシェ
ますわよ。外側も内側もね、ほうらね、もう一度! もう
くれた手なんですよ。さあ、わたし今、この手を接吻し
はわたしに幸福を持って来て、わたしをよみがえらせて
の、ふっくらした小さな美しい手を御覧なさいよ、これ
いな、ねえ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、まあそ
ルーシェンカ、天使さん、あなたのお手を貸してくださ
できるものでしょうか、そんなだいそれたことが?
ていらして、その人が現にあなたと結婚することになっ
でしょう︱︱︱あなたがもうずっと前から、他の人を愛し
しゃるんじゃありませんか、あなたはそうお約束なすった
﹁でも、そのあなたが今では、あの人を救おうとしてらっ
時、迷わしてみただけなのよ﹂
ドロヴィッチだって、 ただからかい半分にちょっとあの
まな女ですからね、あの 可哀 そうなドミトリイ・フョー
悪い女かもしれませんものね、あたしは 肚 の悪いわがま
嬢様、あたしは、あなたの 眸 に映ってるよりか、ずっと
にはおわかりになっていないらしゅうございますわ、お
﹁でも、あなただって、やっぱりあたしの気持が、本当
いんですもの!﹂
ちっとも、わたしの気持をおわかりになってくださらな
イワーノヴナは少し驚いたようにこう言った、
﹁あなたは
恥をかかせるつもりだとお思いになって?﹂カテリーナ・
﹁まあ、わたしがこんなことをしたからって、あなたに
かしがらせないでくださいな﹂
グ
に落ち着かなかった。
てるってことを、あの人に打ち明けて、眼をさましてお
かわい
ひとみ
﹁お嬢様、アレクセイ・フョードロヴィッチさんのいらっ
あげになるって⋮⋮﹂
はら
しゃる前で、そんな風に接吻なんかして、あたしを恥ず
かしませんわ﹂と、やはり嬉しそうな無邪気な表情をし
﹁違いますのよ、お嬢様、あたし、なんにもお約束なん
くこう言った、
﹁でも、あなたはお約束なすったのに⋮⋮﹂
カテリーナ・イワーノヴナはちょっと顔色を変えて、声低
﹁それじゃ、わたし、勘違いをしていたんですわね﹂と、
せんでしたわ﹂
にお話しになっただけなんで、あたしお約束なんかしま
した覚えはありませんわ、それはあなたが御自分で勝手
﹁まあ、違いますってば。あたし、そんなお約束なんか
にあの人が気の毒にでもなったら︱︱︱その時どうしよう
考えてみただけでもね!
ら、あの人がこのあたしのために、どんな苦労をしたかと
﹁ええ、さっきはね!
これだけのことをつぶやいた。
ていましたわ⋮⋮﹂カテリーナ・イワーノヴナはやっと
﹁さっきおっしゃったことは⋮⋮なんだかまるきり違っ
こんなに気の変わりやすい女ですの⋮⋮﹂
て、あの人に言わないとも限りませんわ⋮⋮ね、あたし
帰って行って、今日から家に落ち着いてしまいなさいっ
うく考えてみますと、急にまた、あの人が好きになるか
とに何かお約束をしたかもしれませんけど、今また、よ
そのとおりにしてしまう性分なんですの。さっきはほん
な女なんですからね、あたし、こうしようと思うとすぐ
あたし、あなたに比べたら、こんなに恥知らずな、気まま
どうぞその可愛らしいお手をお貸しくださいまし﹂彼女
ばか女には愛想をおつかしになったでしょうね。お嬢様、
う、こういう気性がおわかりになっては、あたしのような
んてお優しくて、気高いおかたでしょうね!
﹁まあ、ほんとにお嬢様は、あたしなんかと比べると、な
﹁わたし、ほんとに思いもかけませんでしたわ⋮⋮﹂
ほんとに家へ帰ってから、急
あたし気の弱いばかな女ですか
たまま、静かにすらすらとグルーシェンカがさえぎった、
もしれませんわ、あのミーチャが、︱︱︱前にだって、あ
はしとやかにこう言って、 うやうやしげにカテリーナ・
かしら?﹂
の人が好きになったことがありますのよ、まる一時間ぐ
イワーノヴナの手を取った、
﹁ねえ、お嬢様、あたしこう
たぶんも
らい気に入ってたことがありますわ。だから、これから
﹁そうらね、これでおわかりになったでしょう、お嬢様。
241
242
にするかもしれませんわ、 相談や約束なんかしないで、
かりあなたの奴隷になって、なんでもお気に召すとおり
しにもあることで、事と次第によっては、あたし、すっ
はしなくちゃなりませんわ、それ以上は神様のおぼしめ
も接吻しなければ勘定が済みませんわ。さあ、それだけ
度接吻してくださいましたけれど、あたしなら三百ぺん
たとおんなじように接吻しますわ、あなたはあたしに三
してあなたのお手を取って、先刻あたしにしてくだすっ
﹁ねえ、お嬢様﹂と不意に彼女は、恐ろしく物柔らかな
さえていた。
もするように、二、三秒のあいだ、その手をそのままさ
も、唇のすぐそばまで持って行くと、不意に何か思案で
子で、そろそろとそれを唇のほうへ持って行った。しか
シェンカは﹃可愛いお手﹄に 恍惚 となっているような様
ナ・イワーノヴナの心をかすめた。そのあいだにグルー
に無邪気すぎるのかもしれない﹄という希望がカテリー
朗らかな喜びの色がうかがわれた⋮⋮。
﹃この女はあまり
い回しではあるが、
﹃奴隷のように﹄望みのままになると
彼女はおずおずした希望をいだきながら、あの奇妙な言
ワーノヴナはけっし てそ の手 を引っこめ はし なかった。
の手をそっと自分の唇へ持って行った。カテリーナ・イ
彼女は接吻の﹃勘定を済ます﹄という変な目的で、そ
愛い、おきれいな、とてもたまらないようなお嬢様!﹂
このお手、なんて可愛いお手でしょう!
の手に接吻なさいましたけれど、あたしはしなかったっ
﹁じゃね、よく覚えておいてくださいな、あなたはあたし
テリーナ・イワーノヴナは不意にぶるっと身震いをした。
﹁御随意に⋮⋮いったいあなた、どうなすって?﹂とカ
おかしそうに笑いだした。
やめにしようと思いますわ﹂こう言って、彼女は、さも
せっかくあなたのお手をいただきましたけれど、接吻は
甘ったるい声をひっぱるように言った、﹁ねえ、あたし、
こうこつ
神様がお決めになったとおりにいたしましょうね。まあ、
いう、グルーシェンカの、最後の約束に耳を傾けたので
てことをね﹂ふっと、彼女の眼の中で何やらきらりと光っ
ほんとにお可
あった。彼女は一心に相手の眼を見つめていた。その眼
たものがあった。彼女は恐ろしく 執拗 にカテリーナ・イ
しつよう
の中には相も変わらず、信じやすそうな、単純な表情と、
243
﹁売女なら売女でもいいわよ、あなただって 生娘 のくせに、
という筋が震えていた。
わめき立てた。すっかりゆがんでしまった彼女の顔の筋
﹁出てお行き、 売女 !﹂とカテリーナ・イワーノヴナは
おききになるなんて﹂
ことでしょう、あなたのお身分でそんなはしたない口を
﹁まあ、恥ずかしげもなく、お嬢様、なんて恥ずかしい
﹁けがらわしい、出ておいで!﹂
が大笑いすることでしょうよ!﹂
ど、あたしのほうはまねもしなかったって、さぞあの人
ますわ、︱︱
︱あなたはあたしの手を接吻なさいましたけ
﹁それでは、あたしミーチャにもさっそく電話してやり
び上がった。グルーシェンカもゆっくりと立ち上がった。
ナ・イワーノヴナはこう口走ると、かっとなって席を飛
﹁失礼な!﹂と不意に何か合点がいったらしく、カテリー
ワーノヴナの顔を見つめた。
げるわ!
あたし、道々あんたにとてもいいお話を一つ聞かしてあ
﹁可愛いいアリョーシェンカ、送ってってちょうだいよ!
アリョーシャは哀願するように両手を合わせた。
﹁帰ってください、すぐに帰ってください、お願いです!﹂
で送ってちょうだいな!﹂
を取りながらこう言った、
﹁アリョーシャ、あたしを宅ま
﹁じゃ、帰りますわ﹂グルーシェンカは長椅子から外套
駆けこんで来た。皆は彼女のほうへ駆け寄った。
それに続いて小間使いが、叫び声を聞きつけて、部屋へ
この瞬間、カテリーナ・イワノーヴナの二人の伯母と、
に帰りますよ、今すぐ帰って行きますよ!﹂
いけません!
﹁一歩も出ちゃいけません!
にそれを抱き止めた。
飛びかかって行こうとしたが、アリョーシャが一生懸命
カテリーナ・イワーノヴナは一声高く叫ぶと、相手に
今のはね、あたし、あんたのために、わざと
何も相手になさいますな、この人はすぐ
ひと言もおっしゃっては
お金欲しさに夕方になると色男のところへいらっしゃっ
一芝居うって見せたのよ、送ってってちょうだいな、あ
ばいた
たじゃありませんか、その器量を売りにいらっしゃった
とで、ああよかったと思うに決まってるのだから﹂
きむすめ
じゃありませんか、ちゃんと知ってますよ﹂
244
のために息をつまらせた。一同は彼女を取りまいて、さ
れた。彼女はしゃくりあげて泣きながら、時おり、 痙攣 カテリーナ・イワーノヴナはヒステリイの発作に襲わ
その家を飛び出してしまった。
横を向いた。 グルーシェンカは声を立てて笑いながら、
アリョーシャは両の手をもみ合わせながら、くるりと
アリョーシャは扉のほうへ後ずさりした。
で⋮⋮!﹂
わ、 処刑台 へ の せ て、 首 切 り 役 を 使って、 大 ぜ い の 前
﹁あんなやつは 笞 でひっぱたいてやってもあきたりない
しれない。
できなかった。あるいは抑制しようとしなかったのかも
彼女はアリョーシャの前で、自分を押えつけることが
むち
わぎ立てた。
﹁だけど、 まあ!﹂ と突然、 彼女は手を打って叫んだ、
い、あの日の出来事を話して聞かせたんだもの!
い
﹁だから、わたしが言わないことじゃないのよ﹂と年上
﹁あの人が! ほんとにあの人がそれほど恥知らずな、不
をするんでしょうね!
嬢様、あなただってその器量を売りにいらしたじゃああ
だ
のほうの伯母が言った、
﹁そんなむやみなことはしないよ
人情な人間になりさがったものだろうか?
とをなんにも知らないけれど、世間ではあれは人間のく
りませんか﹄だって!
けいれん
うにと、あれほど止めたんだのに、⋮⋮あんたがあまり
の人は、あの恐ろしい、永久にのろってものろい足りな
ずだって言ってますよ、あんまりあんたはわがままが過
レクセイ・フョードロヴィッチ、あなたの兄さんは悪党
だって、あ
向こう見ずなものだから!⋮⋮ほんとになんということ
ぎるんですよ!﹂
ですよ﹂
あの女は知ってるんだわ!
ア
﹃お
﹁あれは虎だわ!﹂とカテリーナ・イワーノヴナが声を
アリョーシャは何か言いたかったが、言うべきことば
が見いだせなかった。彼の胸は痛いほど締めつけられた。
あんたは、ああいう女たちのこ
振り絞って叫んだ、
﹁なぜあなたはわたしを引き止めたん
です?
﹁帰ってください、アレクセイ・フョードロヴィッチ!
アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたしあの
女を思うさまひっぱたいてやったのに、ひっぱたいて!﹂
245
もうお昼御飯の時からおあずかりしてありましたので﹂
ホフラーコワさまからおことづけの手紙でございますの、
﹁お嬢様がこれをお渡しするのをお忘れになりましたの、
後ろから女中が追いかけて来た。
彼女と同じように彼も泣きだしたくなった。と、不意に
アリョーシャはよろめくようにしながら往来へ出た。
分で自分をどうしていいのかわからないのですから!﹂
く思わないでね、許してちょうだい、わたしはまだ、自
生ですから、いらしてちょうだいね、どうぞわたしを悪
わたしは恥ずかしい、わたしは恐ろしい!
三つにわかれているから、もしかするとおまえを見のが
の家のそばにしようかな?
でおまえを待っていようかと考えてみたんだよ、あの女
﹁は、は、は!
がったアリョーシャは驚いてこう言った。
﹁あ、あなたはミーチャ兄さんですね!﹂ひどく震え上
めいた、﹁財布か、命か!﹂
彼の方へ飛びかかって来た。そしてたけだけしい声でわ
へかかると同時に、 その人影がふっとその場を離れて、
か人影らしいものがちらついた。アリョーシャが四つ辻
どに四つ辻があって、その四つ辻のひともと柳の下に何
いや、あすこからは、道が
と思ってさ。さあ、ほんとのことをぶちまけてくれ、お
あす⋮⋮後
アリョーシャはばら色の小さい封筒を機械的に受け取
すかもしれない、そこで、結局、ここで待ち受けること
おれはどこ
ると、ほとんど無意識にポケットへ押しこんだ。
に決めたんだよ。だって、どうせ修道院へ行くのにはも
思いがけなかったかい?
れを油虫みたいにたたきつぶしてくれ⋮⋮それはそうと、
う他に道はないから、おまえはきっとここを通るだろう
町から修道院までは一 露里 とほんの少ししかなかった。
おまえはどうかしたのかい?﹂﹁なんでもありませんよ、
一一 さらに一つの滅びたる名誉
この時刻では人通りも途絶えた道を、アリョーシャは急
兄さん⋮⋮僕ちょっとびっくりしただけです、ああ、だ
エルスター
ぎ足に歩いて行った。もうほとんど夜になって、三十歩
けどドミトリイ兄さん!
さっきお父さんの血を流した
前方の物のあや目もわからなかった。ちょうど道の中ほ
246
今は⋮⋮こんなとこで冗談なんか言うんですか⋮⋮﹃財
して⋮⋮のろいのことばまで吐いて来たくせに⋮⋮もう
である︶。兄さんは危うくお父さんを殺すような目に会わ
今急に心の中で何かぷつりとちぎれたような気がしたの
もうずっと前から泣きだしそうになっていたのであるが、
ばかりなのに︵そう言って、アリョーシャは泣きだした。
ないか!
うでおれのいちばん好きな、たった一人の可愛い弟じゃ
ら、あれがそうなんだ、あの人間だ、あれこそ世界じゅ
うだ、まだおれの愛している人間があるじゃないか、そ
が急に、おれの上へ飛んで来たような気がしたのだ。そ
音が聞こえて来たのさ、︱︱︱ありがたいことに!
ていることはない! ってな、すると、そこへおまえの足
はこの柳の下に隠れて、おまえを待っているうちに、ふ
だろう! 雲はどうだい、それになんという風だ! おれ
﹁まあ、よせ、この夜の景色を見ろよ、なんという暗い晩
﹁いいえ、そうじゃないけど⋮⋮僕はその⋮⋮﹂
かい? おれの分際に不釣り合いだというのかい?﹂
﹁それがどうしたというんだい?
はほんの冗談で、胸の中は⋮⋮やはり正気なんだよ⋮⋮
たんだよ、ばかなまねをして済まなかったよ、︱︱︱あれ
れで、
﹃財布か命か!﹄なんて、気ちがいみたいにどなっ
の浮き立つように、おどかしてやろう﹄と思ったのさ。そ
またひょいとばかな考えが浮かんで、
﹃ひとつ、おれの心
首っ玉へかじりついてやれ、と考えたんだよ。ところが、
愛くて可愛くてたまらなくなったのだ。ええっ、あれの
そう思うと、おれはその瞬間に、おまえが可
何か
布か命か﹄なんて!﹂
いと考えたんだよ︵正真正銘の話だよ!︶、この期におよ
ええ、そんなことは、まあどうだっていいや、だが、あす
いけないっていうの
んで、おれは何をくよくよして、何をいったい待っている
こでどんなことが起こったのか聞かしてくれ、あの女は
はだぎ
んだ? ここに柳の木はあるし、ハンカチもあれば 襯衣 何と言った?
あれは躍起になっ
さあ、おれを押しつぶしてくれ、ぶんな
もあるから、おれは 繩 をすぐになうことができる、おま
ぐってくれ、情け容赦はいらんぞ!
なわ
けにズボン吊 りがあるぞ︱︱︱何もこのうえ、世の中の荷
て怒ったろうな?﹂
つ
やっかいになって、この卑劣な体で大地の神聖をけがし
247
行っていたのですよ﹂
﹁グルーシェンカがカテリーナ・イワーノヴナのとこへ
﹁二人にって、そりゃ誰と誰だ?﹂
したよ﹂
よ、ミーチャ、あすこで⋮⋮僕たった今、二人に会いま
﹁いいえ、そんなことはありません⋮⋮まるで違います
に見えた⋮⋮が、今まで憤りに燃えてものすごかった顔
はさらにひどく凝結して、ひとしおけわしくなったよう
歯を食いしばっていたが、一つところを見すえていた 眸 りはむしろものすごくなってきた。彼は渋面をつくって、
れて、さすがにその顔はしだいに沈んできた、というよ
リョーシャにもよくわかっていた。しかし話の進むにつ
了解して、いっさいの事実の要点をつかんだことは、ア
ひとみ
ドミトリイ・フョードロヴィッチは愕
然 とした。
が、異常な急速度をもって、さっと一変したと見る間に、
がくぜん
﹁そんなはずがあるもんか!﹂と彼は叫んだ、
﹁おまえは
彼はそれをよどみなく流
暢 に話したわけでもなかったが、
を残らず話した。彼は十分間ばかり話し続けた。むろん、
へはいって行ったそもそもから、親しく目撃した出来事
アリョーシャは自分がカテリーナ・イワーノヴナの家
のとこへ行くなんかって?﹂
た。
みあげる笑いにさえぎられて物を言うこともできなかっ
おりに腹をかかえて笑いくずれながら、長いあいだ、こ
声をあげて、腹をかかえて笑いだした。事実、彼は文字ど
は矢も 楯 もたまらないという風に、いかにも自然な笑い
が一度に開いて、不意にドミトリイ・フョードロヴィッチ
いっそう思いがけなく、それまできっと結ばれていた唇
肝心なことばや肝要なしぐさをかいつまむようにして、
﹁では、その手を接吻しなかったんだな! じゃ、接吻せ
グルーシェンカがあの女
ただのひとことで自分自身の感情をまざまざと伝えるよ
ずに、それなり駆け出したんだな!﹂彼は妙に病的な喜
たわごとを言ってるんだよ!
うにしながら、すべてを手に取るように説明した。兄ド
びをもってこうわめいた。その喜び方は、もしその天真
たて
ミトリイは不気味なほど身じろぎだもせず、じっと眼を
爛漫さがなかったら、あるいは無礼な喜び方と言われて
りゅうちょう
すえて、無言のまま弟を見つめていたが、彼がすべてを
248
もしかたがないかもしれない、
﹁それじゃ、あれはあの女
や、四大州じゃない、五大州だよ! ほんとになんという
た!
めにあわしてやればいいんだ、おれも同意見だよ、もう
てあいつを処刑台へのせろって?
高潔な動機から、恐ろしい侮辱を受ける危険をも物とも
女学生のカーチェンカそっくりだよ、父を救おうという
思いきったやり方だろう!
これは世界の四大州を発見したようなものだ、い
を﹃虎﹄だとどなったのかい? いや全く虎だよ! そし
ずっと前からその必要があったんだ! だがなあ、おい、
せず、卑しい乱暴な士官のところへ平気で出かけて行っ
いや、自尊心
それはちょうど、あの時の
処刑台はいいとしても、まず初めにすっかり快くなって
た、あの時のカーチェンカそのままだ!
そうだとも、そんな
おかねばならないよ、しかし、おれにはあの 傲慢 の女王
だ、向こう見ずだ! 運命に対する挑戦だ、無際限な挑戦
ごうまん
の心理がわかるよ、あの女の面目がその﹃お手﹄の中に
たのだな! おれは、どれすぐに⋮⋮ようし⋮⋮あいつ
特の喜びがあるんだよ! で、あいつは家へ帰ってしまっ
とのできる、あらゆる毒婦の女王なのさ!
より一倍の 天狗 だったんだよ。それがさ、御亭主の官金
で、例のモスクワにいる将軍夫人の実の妹なんだが、姉
というのは、これもどうして、なかなかのわがままな女
伯母さんがあの女を止めたんだってね?
ところで、あの
アリョーシカ、おれ
こういうような心持ちなんだ!
のところへ一走り行って来るぜ!
費消という罪で、領地から何からいっさいがっさいすっ
だ!
を責めないでくれ、あの女はほんとに絞め殺してもあき
てしまうと、今まで大威張りでいた夫人が急に調子を低
あいつはこの世で想像するこ
たりないやつだよ⋮⋮﹂
くして、それ以来、とんと頭もようあげなくなったのさ、
躍如たりだ、毒婦めが!
﹁じゃ、カテリーナ・イワーノヴナは!﹂とアリョーシャ
じゃ、その人がカーチャを止めようとしても、耳をかそう
あの伯母さん
は悲しそうに叫んだ。
ともしなかったわけだね、あの女の肚では、
﹃何だってわ
その中に独
﹁あの女のこともわかったよ、すっかり肚の中までわかっ
たしに征服できる、何もかもわたしの勢力範囲にあるの
てんぐ
たよ、今までにこんなによくわかったことは一度もなかっ
249
て丸めこんで見せる﹄ってわけさ、だから自分でうぬぼ
だから、もしその気にさえなれば、グルーシェンカだっ
またとあるものですか!﹂アリョーシャが何より心を痛
言ったんですよ、ねえ、兄さん、これよりひどい侮辱が
そりと色男のところへ忍んでいらしたでしょう?﹄って
そんなことのあろうはずはなかったけれど。
れて、空威張りをやってのけたまでだもの、誰を恨むこ
があってだと思うかい?
﹁そうか!﹂と、ドミトリイ・パーヴロヴィッチは急に
めたのは、兄がまるでカテリーナ・イワーノヴナの屈辱
グルーシェンカに惚れこんだのだよ、いや、グルーシェ
おそろしく顔をしかめて、手の平で額をぴしゃりとたた
で、あの女がわざと、進ん
ンカにではない、自分の空想に惚れこんだのだ、自分の
いた。 彼は先刻アリョーシャから、 この侮辱のことも、
ともできないじゃないか?
夢に惚れこんだのだ、なぜって、それはあの女の空想で
﹃あなたの兄さんは悪党です!﹄とカテリーナ・イワーノ
を、喜んでいるように思われることであった。もちろん
あり、あの女の夢であったのだもの、惚れこまずにはい
ヴナがわめいた話も、いっしょにすっかり聞いたくせに、
でグルーシェンカの手を接吻したのは、何かずるい目算
られないさ! だが、おいアリョーシャ、いったいおまえ
やっと今それに気がついたのである。
それは違うよ、あの女は全く
どうしてあの連中のところから逃げ出して来たんだい?
したために、どんなにカテリーナ・イワーノヴナを侮辱
﹁兄さん、あなたは、あの日のことをグルーシェンカに話
は!﹂
とき、おれはぐでんぐでんに酔っ払っていて、ジプシイ
うそう、モークロエ村で話したんだっけ、なんでもあの
ああ、そうだ、話した話した、やっと思い出したよ! そ
日﹄の出来事をグルーシェンカに話したかもしれないよ、
﹁そうだ、実際、おれはカーチャの言う﹃あの恐ろしい
したことになるか、そのことに少しも注意を払わなかっ
の女たちは歌をうたっていたっけ⋮⋮だが、おれはさめ
わ、 は、
たようですね。たった今グルーシェンカは、あの人に面
ざめと泣いていたんだ、あのとき泣きながら、おれはひ
法衣の裾をからげて駆け出して来たのかい?
と向かって、
﹃あなただって、立派な器量を売りに、こっ
250
しない!
おもしろくもなんともないよ、おまえはおま
かし、もうたくさんだ、むだ口をきくことなんかありゃ
ら、おれは喜んで悪党よばわりに甘んじますってな、し
か、あの女にそう言ってくれ、それで腹が 癒 えるものな
も、どちらにしても、やはり悪党に違いないんだ! どう
不意に彼は陰気な声でこう言った。
﹁泣いても泣かなくて
﹁そうだよ、おれは悪党だ! 紛れもない悪党だ!﹂と、
彼は伏し目になって物思いに沈んだ。
を!﹄ってわけか、みんな女はそんなものさ!﹂
よ! あのときは泣いたくせに、今は⋮⋮今は﹃胸に剣
生! 今から思えばこうなっていくのが当然だったんだ
えばたしか自分でも泣いていたようだよ⋮⋮しかし、畜
たよ、あのときあれは何もかもわかってくれて、そうい
してグルーシェンカだって、おれの気持をわかってくれ
ざまずいてカーチャの面影に祈りを捧げていたのだ、そ
党だ、折り紙つきの悪党だよ!
うな風であった︶おまえも知っているように、おれは悪
しは何かに縫いこんで首にぶら下げているとでもいうよ
あって、胸の上のポケットの中へでも 蔵 っておくか、ない
いた。それはまるで、破廉恥というものが 正 しくそこに
ロヴィッチは変な顔つきで、自分の胸をとんと 拳 でたた
︵﹃そらここだよ﹄と言いながら、ドミトリイ・フョード
こで今、 恐ろしい破廉恥なことが覚悟されていたのだ、
ろ、じっとおれを見るんだ、いいか、そらここだよ、こ
ドミ トリ イ ・ フョー ドロ ヴィッチが 言った。﹁おれを見
あるんだ、おまえにだけ!﹂と、不意に引っ返して来た
﹁待ってくれ、アレクセイ、もう一つ白状したいことが
うとは、どうしても信ぜられないという風であった。
姿を見送っていたが、兄がこうだしぬけに行ってしまお
足早に町の方角へ歩き出した。アリョーシャはその後ろ
目になって頭をたれたまま、まるで振り切るようにして、
だが、覚えておいてく
こぶし
え、 おれはおれの道を行くことにしよう、 おれはもう、
れ、現在この瞬間、そらここに、このおれの胸の中にお
まさ
いよいよこれが大詰めという瞬間までは、二度と会いた
れが持っている破廉恥に比べれば、以前に犯したどんな
い
かないんだよ、さようなら、アレクセイ!﹂こう言って
ことだって、今、または今後しでかすかもしれんどんな
しま
彼は固くアリョーシャの手を握りしめると、やはり伏し
251
が現に遂行せられようとしているが、それを中止しよう
陋劣なことだって、物の数ではないんだよ、その破廉恥
んだって、なんだって、おれはさっぱりわからないんだ、
まった。アリョーシャは修道院をさして歩を進めた。
﹃な
こう言って不意に歩き出すと、今度は本当に行ってし
兄さんはいったい何を言ってるんだろうな?﹄それが彼
と、決行しようと、今のところ、まだおれの自由なんだ、
そこを覚えといてくれよ!
には奇態に感ぜられた。﹃そうだ、 明日はぜひ兄さんに
いや、結局おれは中止しな
いで、決行するに違いないと思ってくれ、さっきおれは、
会って、問いただしてやろう、無理にでも問いただして
ないからなあ!
彼は修道院を 迂回 すると松林を抜けて、まっすぐに庵
何もかもおまえにぶちまけたけれど、このことだけは話
とができるんだ。思いとどまりさえすれば、あすにでも、
室へたどりついた。庵室へはこの刻限になると誰も入れ
やるんだ、いったいあれは何を言ってるんだか?﹄
失墜した名誉の半分だけは確かに取戻すことができるの
ないことになっていたが、彼にはすぐに扉をあけてくれ
せなかった。おれだって、別にそれほど面の皮が厚くは
だ。しかし、思いとまるまい、おれは筋書を完全にやり
た。長老の部屋へはいった時、彼の胸は打ち震えた。
﹃何
うかい
とおすよ。さあおまえ、証人に立ってくれ、おれは前もっ
のために、何のために自分はここを出て行ったのだろう!
ところで、おれはまだ思いとどまるこ
て、ちゃんと意識してこう言っておくからな! 暗黒と
また何のために長老は自分を﹁娑婆﹂へ送り出したのだ
あふ
何も説明など必要がない、時節が来れば自然
滅亡だ!
ろう?
ちまた
ここには静寂と霊気が 溢 れているのに、かしこ
にわかるよ、けがらわしい路地と極道女か!
は擾
乱 と暗黒の 巷 で、一歩そこへ足を踏み入れたが最後、
しんぼち
庵室には 新発意 のポルフィーリイとパイーシイ神父が
じょうらん
ばよ! おれのことなんぞ神様に祈らないでくれよ、お
混迷の中に行き暮れてしまわなければならぬ⋮⋮﹄
じゃ、あ
れはそんな値打ちがないのだ。それに必要もないよ、い
や、全然必要がないのだ!
居合わせたが、この神父は今日は終日、ほとんど一時間
おれはちっともそんなこと
をして欲しいと思わんよ! さあ行け!⋮⋮﹂
252
なことを言いだしたのである。あまつさえ彼らは、こうし
んど 涜神罪 と言って過言でないなどと、全く見当はずれ
れこそ聖秘礼としての懺悔の神聖をけがすもので、ほと
悔﹄を 楯 に、長老制度の反対者が攻撃の気勢をあげて、そ
一同を祝福して、退出させるのであった。この衆僧の﹃懺
たり、訓戒を与えたり、 改悛 をすすめたりして、最後に
あった⋮⋮長老はそれをおのおの解決したり、和解させ
のであった。なかにはひざまずいて懺悔告白する者すら
いのあいだに起こった争いなどを、声高らかに 懺悔 する
に犯した罪や、罪深い 妄想 や思考や誘惑、さてはめいめ
内の衆僧が長老の庵室へ参集して、各自今日一日のうち
いつもは晩の勤行の後、安らかな眠りにはいる前に、院
行なう常例の晩の法談さえできなかったとのことである。
だと聞いて、はっと驚いた。今日は、弟子たちを相手に
アリョーシャは、長老の病気がだんだん険悪になる一方
おきに、 ゾシマ長老の容態を見にやって来たのである。
いているばかりか、むしろわざとらしい技巧をもって行
なわれるべきことであったが、実際はほとんど誠実を欠
意の服従から有益な指導を仰ぐ目的で、自由に誠実に行
向きもあるということである。むろん、これはすべて任
して目を通すという習慣に、非常な不満をいだいている
一に長老の手へ渡されて、受信人よりも先に長老が開封
ていることで、修行僧が肉親から受け取った手紙まで第
ことは、アリョーシャも知っていた。その他にも彼の知っ
りさえした。実際、こんなことがたびたびあったという
らえるために、仲間同士であらかじめ打ち合わせをした
おまえもうまくばつを合わせてくれ﹄などと話題をこし
出る前に、﹃おれは今朝おまえに腹を立てたというから、
る。また人の噂では、寺僧のなかには、懺悔の集まりへ
だなどと思われたくないために出席するだけだからであ
者が、おれはむほんをくわだてているとか、高慢な人間
不承やって来るのであった。それというのもたいていの
僧の多くは長老のもとへ集まるのを苦痛に思って、不承
とくしんざい
かいしゅん
もうそう
た懺悔は、なんら良き結果をもたらさないばかりか、か
なわれることがあった。けれど、寺僧の中でも年長の経
ざんげ
えって人々を罪悪と誘惑に導くのみであると言って、僧
験深い人々は﹃修行のために誠心をもって、この壁の中
たて
正管区長にまで問題をもちだしたほどであった。実際、衆
253
分間ばかり眼をさまされて、自分の祝福を皆に伝えてく
いだ、もっとも、そんな必要もないけれど、さきほど五
に伝えた。
﹁もう、眼をおさましするのもむずかしいくら
パイーシイ神父はアリョーシャを祝福した後、小声で彼
﹁衰弱が加わって、 嗜眠 状態に陥っておいでなさる﹂と
る﹄とこんな風に考えて、自説を主張するのであった。
ら、いささかの罪悪も黙許することはできないわけであ
修道院の中でも、やはり防ぎきれるものではない。だか
俗世間の中にある。 罪悪や悪魔は俗世間ばかりでなく、
要はなかったのである。こういう人の安住すべき場所は
でないも同然で、そもそも修道院などへはいって来る必
をわずらわしく思って不平を鳴らすような者は、修道士
すものであることがわかるはずである。ところが、それ
や難行が有益なもので、自分たちに偉大な利益をもたら
へはいって来たほどの人には、疑いもなくこうした服従
パイーシイ神父は出て行った、長老は、たとえ一日二
よい⋮⋮﹂
楽のためではないぞ、このことをよく胸に刻んでおくが
修行と見るべきで、けっして軽薄な無分別や浮き世の歓
帰るとしても、それは長老がおまえに授けられた一つの
ろう?
について、何か見抜いておられることがあってのことだ
は、どういうわけであろうな?
について、当分のあいだ浮き世へ出ておれと言われたの
かわかっているかな?
であった。おまえは自分がどんなに心にかけられている
たぞ。それがいかにも愛情に 溢 れた、心配らしい言い方
らんほうがよい﹄と、こんな風におまえのことを言われ
のだ、あれのいるべき場所はあすこだ、当分はここにお
上げたところ、
﹃わしもそうさせるために祝福してやった
たかと尋ねられたから、今、町へ行っておりますと申し
しょせん ひ ん し
しかし、アレクセイ、たとえおまえが俗世間へ
おおかたおまえの運命
けれど、長老がおまえの一身上
あふ
れと頼まれ、また皆には、夜の 祈祷 の際、自分のために
日は生き延びるとしても、 所詮 瀕
死 の状態にあるのだと
しみん
祈ってもらって欲しいとの御伝言であった。明日はも一
いうことはアリョーシャにとって、もはや疑いもない事
きとう
度、ぜひ聖
餐 を受けたいと申しておられる。それから、ア
実である。アリョーシャは父をはじめとしてホフラーコ
せいさん
レクセイ、おまえのことを思い出されて、もう出て行っ
254
もしないで、固い革張りの幅の狭い長椅子の上へ横になっ
リョーシャはただ長靴を脱いだだけで、ほとんど着換え
長 老 が 今 朝 ほ ど 客 を 迎 え た 次 の 間 へ 引っ返 す と、 ア
あった。
に、身動きもせず眠っていた。その顔はあくまで平穏で
はほとんど聞き取れぬくらい穏かに呼吸しながら、静か
る人に向かって額が地につくほどのお辞儀をした。長老
の寝室へはいって行くと、そのままひざまずいて、眠れ
きた自分を深く責めないではいられなかった。彼は長老
町へ出て、たとえしばらくでもその人を忘れることので
ている人が死の床に打ち 臥 しているのを修道院に残して
て来た。そして、彼は、世界じゅうの誰にもまして愛し
ていようと心に固く決心した。彼の胸は愛情に燃え立っ
歩も出ないで、長老の臨終までそのかたわらに付き添っ
約束はしてあるけれど、明日はけっして修道院の外へ一
ワ母娘や、兄や、カテリーナ・イワーノヴナなどと面会の
の若い娘からよこしたものであった。
朝、長老の前で彼をからかった、あのホフラーコワ夫人
と署した自分あての手紙がはいっていた︱︱︱それは、今
れから少し 躊躇 したのち封を開いた。その中にはリーズ
ちょっと当惑したけれど、とにかく祈祷をすました。そ
色の小さな封筒がポケットにあるのに気がついた。彼は
ノヴナのところの女中が追っかけて来て彼に渡したばら
祷をしているうちに、ふと、さきほどカテリーナ・イワー
らかな眠りを彼にもたらすのであった。今もこうして祈
みで満たされていた。そうした歓喜の情はいつも軽い安
る。彼の就寝の前の祈祷は、たいてい神に対する賛美の
分の魂を訪れた喜ばしい歓喜の情を 渇仰 したばかりであ
うことではなく、いつも神に対する賛美嘆称の後で、自
祷の中で彼が神に願ったのは、自分の惑いを解いてもら
彼はひざまずいて長いあいだ祈祷をした。その熱心な祈
代わりに体に掛けただけであった。しかし寝につく前に、
ていた。彼はただ自分の法衣を脱いで、それを上掛けの
かつごう
た。彼はもう久しいあいだ毎晩枕だけ持って来て、この椅
﹃アレクセイ・フョードロヴィッチ﹄と彼女は書いてい
ふ
子の上で寝ることに決めていた。今朝、父が大きな声で
た。﹃わたしはこの手紙を誰にも内緒で、 お母様にさえ
ちゅうちょ
どなった例の蒲団は、もう長らく敷くのを忘れてしまっ
255
年になるまで待ちましょう、そのころまでには、わたし
たしたちの年のことでしたら、それは法律に定められた
必ずお寺を出てくださるという条件つきなのですよ、わ
分の心の中であなたを選んだのでございます、 けれど、
て、年とったら御いっしよにこの世を終わりたいと、自
を愛し続けていきますわ、わたしはあなたと一つになっ
スクワ時代から愛していましたの、そして一生涯あなた
ら︱︱
︱あなたが今とはまるで別人のようでいらして、モ
シャ、わたしはあなたを愛しています、まだ子供の時分か
まっかな顔をしているのですもの、おなつかしいアリョー
本当のことを申しますが紙まで今のわたしと同じように、
ね、紙は顔を赤らめないと申しますが、それは嘘ですわ、
とを、どんな風にあなたにお話ししたらいいのでしょう
らないのです、けれど、わたしの申し上げたいと思うこ
人よりほかには、︵当分のあいだ︶、誰にも知らしてはな
は、もう生きていられません、このことはわたしたち二
分の心の中に生まれ出たことをあなたに申し上げないで
ことかってこともわかっています。けれど、わたしは自
秘密にして書いています、そして、それがどんなに悪い
のお顔を眺めているあいだに、また我慢ができなくなっ
ああ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたしがあなた
んな顔をしてお目にかかったらいいのかわかりませんわ、
したわね、明日あなたがいらしてくださるとき、わたしど
﹃わたしの秘密はもうあなたのお手に握られてしまいま
わ﹄
ますの、ほんとにもう泣きださないばかりでございます
をしましたのよ、そして今でもやっぱりお祈りをしてい
ますわ、わたし今ペンを取る前に聖母様の御像にお祈り
らしてしまいましたでしょう⋮⋮けれど誓って申し上げ
かりしてるんですもの、今朝だってあなたをすっかり怒
いうことです、わたしはいつも笑ったり、ふざけたりば
時、わたしのことをどんな風にお思いになるだろうかと
ことがございますの、それは、この手紙をお読みになる
でしょう、けれど、ただ一つ、どうしても考えつかない
﹃わたしがどんなに考えたかおわかりになってくださる
いことでございます﹄
りできるようになりますわ、そんなことは言うまでもな
もきっと丈夫になって、一人で歩いたり、ダンスをした
256
でしょう! アリョーシャ、 わたしを 軽蔑 しないでちょ
たわ、まあ、ほんとになんということをしてしまったの
﹃とうとう、わたしあなたに恋ぶみを書いてしまいまし
御覧になってくださいましな⋮⋮﹄
をちっとも御覧にならないで、お母様の方か、窓の方を
ですから、はいっていらしても、しばらくはわたしの顔
わたし今でも、それを思うと体じゅうがぞっとしますわ、
たは、あんな長い着物を着てらっしゃるんですもの⋮⋮
ら、きっと笑いだすに違いないんですから、だって、あな
にしてください、わたしの眼があなたのお眼に出会った
からあまりまっすぐにわたしの顔を御覧にならないよう
わたしのところへはいってらっしゃるとき、お願いです
ら、もしわたしを可哀そうだとお思いになったら、明日
本当にしてはくださらないかもしれませんわね、ですか
いやなひやかしやだとお思いになって、この手紙だって
ら、どういたしましょうね? きっと、あなたはわたしを
て、今朝とおんなじに、ばかみたいに笑いだしたりした
す、あなたの道をもってあの人たちを救いたまえ、主よ、
導きたまえ、すべての道はあなたの御手のうちにありま
荒れ狂う人たちを救いたまえ、あの人たちを正しい道に
さきほどの人たちすべてをあわれみたまえ、あの不幸な、
ると胸さわぎは急にぱったりとやんでしまった。﹃主よ、
紙を封筒へ納めてから、十字を切って、横になった。す
そうなほほえみを浮かべるのであった。彼はゆるゆる手
ある。しかし一瞬の後またもや同じように静かな、幸福
した。そのほほえみが彼には罪悪のように思われたので
楽しそうなほほえみを漏らした。彼はぎくりと身震いを
う一度読み返してしばらく考えていたが、不意に静かな
アリョーシャは 驚愕 をもって読み終わった。そしても
といらしてちょうだいね! リーズ﹄
﹃二伸、アリョーシャ、ただね、きっと、きっと、きっ
再会の時まで、リーズ﹄
﹃わたし今日はきっと泣きますわ、さよなら、 恐 ろ し い
あなたの手の中にあるのです﹄
わたしのたぶん永久に滅びてしまった名誉の秘密は、今
きょうがく
うだい、もしあたしたいへん悪いことをして、あなたを
あなたは愛でいらせられます、あの人たちすべてに喜び
けいべつ
苦しめているようでしたら、どうぞお許しくださいまし、
、
、
、
、
257
を授けたまわらんことを!﹄アリョーシャはこうつぶや
きながら十字を切ると、おだやかな眠りにおちていくの
であった。
258
く苦行者たちでいっぱいになった。そのうちに夜が明け
になった。勤行が終わったとき、長老は誰も彼もに別れ
離れた。多くの人々が修道院の方からもやって来るよう
を告げたいと言って、一人一人に接吻した。庵室が狭い
第四篇 破裂
と彼はアリョーシャに言った。
﹁ひょっとしたら、今日一日の寿命がないのかもしれん﹂
かのようであった。
うかがわれた。眼つきは楽しげに愛想よく人をさし招く
でいたが、晴れ晴れして、ほとんど喜ばしそうにさえも
た。意識は全く確かで、顔にはかなり疲労の色が浮かん
かけたいと言いだしたが、しかも非常な衰えを感じてい
こされた。長老は眼をさますと、床を離れて安楽椅子に
朝まだき、まだ夜のあけないうちにアリョーシャは起
あった。
いる人々を、なつかしげに見回しながら冗談を言うので
いくらいになりましたよ﹂彼は身の回りに寄り集まって
も、物を言うよりは黙っているほうがかえってむずかし
言う癖がついてしまって、今のように弱っているときで
で物を言い通したわけです。それで、もうすっかり物を
説教をしてきました。つまり、長年のあいだ、大きい声
ていた。
﹁わしはな、皆さんもう長年のあいだ、皆さんに
た。その声は弱々しかったが、まだかなりにしっかりし
のわきに立っていた。長老は根気の続く限り説教を続け
アリョーシャはまたもや安楽椅子にすわりなおした長老
ので、 先に来た人は、 あとから来た人に席をゆずった。
それからすぐに 懺悔 をすることと聖
餐 を受けることを
アリョーシャは長老がそのときに言ったことを、多少
一 フェラポント長老
所望した。彼の懺悔を聞く相手はいつもパイーシイ主教
は覚えていた。長老の話ははっきりとして、その声も、き
せいさん
であった。この二つの聖秘礼ののち、聖油塗布の式が行
わめてしっかりしていたが、話そのものはかなりに、と
ざんげ
なわれた。司祭たちが集まって来て、庵室の中はようや
259
ことを自覚しなければなりませんのじゃ。なぜと申すに、
れからさき、暮らせば暮らすほど、いっそう痛切にこの
いるはずで⋮⋮。したがって 僧侶 たる者が部屋の中にこ
誰よりも、またこの世の中の誰よりも劣るのだと認めて
どころか、ここへまいった者は誰しも、自分が俗世間の
の人たちより清いというわけはありませんのでの、それ
て、この部屋の中に閉じこもったからといって、俗世間
神の子たちを愛してください。われわれがここへまいっ
説いた︵このことはアリョーシャの記憶による︶、﹁また
﹁皆さんどうかお互いに愛し合うてください﹂と長老は
たかったのであろう。
ち、さらにまた、生きているうちに自分の真情を吐露し
りではなく、自分の喜びや法悦をあらゆる人たちに分か
しかった。しかも、それはただ単に教訓をするためばか
臨終に際して、もう一度、すっかり言ってしまいたいら
が、 どうやら、 自分の生前に話しきれなかったことを、
りとめのないものであった。彼はいろんなことを話した
て、絶えずおのれに懺悔をなさるがよい。おのれの罪を
ことができるでしょう⋮⋮。誰もが自分の心をいましめ
よって全世界を征服し、涙をもって世界の罪を洗い去る
ものです。そのときこそ、あなたがたはめいめいに愛に
て限りなく、宇宙的な、飽くことを知らぬ愛に感激する
ものですからの。かくてこそ、われわれの心は、はじめ
の世の誰しもが当然かくあるべきはずの道をゆくだけの
すなわち、僧侶は何も特殊な人ではなく、ただ単に、こ
はなく、地上のすべての人のふむべき最高の道なのです。
人的に罪があるからです。この自覚は何も僧侶ばかりで
のあらゆる人間、すべての個人に対して、一人一人が個
一般に世界的罪悪というものによってではなく、この世
世のあらゆる人々に対して、罪があるからです。しかも、
り、なんです、われわれは一人一人、疑いもなく、この
れわれの 隠棲 の目的が達せられるというものです。つま
人の罪に対して義務を負うていると自覚した暁には、わ
つけて、いっさいの罪、あらゆる人類の罪、世界の罪、個
とばかりではなく、自分はあらゆる人々の前に、万事に
いんせい
もしもそうでなかったならば、ここへ来るいわれはない
恐れずに、罪を感じたときにも、ただ悔い改めて、けっ
そうりょ
わけですからの。自分は俗世間の誰よりも劣るというこ
260
と。それからそこで付け加えてください、
﹃主よ、わがか
いたまえ。御身に祈ることを欲せざる者をも救いたまえ﹄
され、
﹃主よ、誰にも祈ってもらえぬあらゆる人たちを救
にはな。だからこういう人たちのために祈っておやりな
な人はたくさんいるのじゃから、ことに今のような時世
ません。なんとなれば、そういう人たちの中にも、善良
善良な者のみではなく、邪悪な者をすらも憎んではなり
せん。無神論者、悪の伝道者、物質論者をも、その中の
もの、 誹謗 するもの、中傷するものをも憎んではなりま
ではありません。またこちらを排斥するもの、 侮辱 する
に対してばかりでなく、大きな者に対しても高ぶるもの
うですが︱︱
︱けっして高ぶってはなりません。小さな者
して神に誓いをかけてはなりませぬ。くり返して言うよ
多くの者は、彼のことばに驚いて、そこに 暗澹 たるもの
あった。人々は感激しながら耳を傾けていた。もっとも、
していたが、しかもなお、法悦に浸っているかのようで
するかのように、すっかりことばをとぎらせて、 喘 いだり
と切れ切れなものであった。どうかすると、彼は力を集中
すなわち、アリョーシャが後に書きとどめたよりも、ずっ
それにしても、長老のことばは、ここに記したよりも、
くこれを振りかざすように⋮⋮﹂
神を信じて、信仰の旗をしっかと握っていてください。高
銀を愛して、これをたくわえたりしてはなりません⋮⋮。
利をむさぼるようなことがあってはなりません⋮⋮。金
ことなく福音を説いてやってください⋮⋮。彼らから高
を奪って行くのですからの。どうか人民どもに、たゆむ
八方から、あさましいやつどもがやって来て、羊の群れ
ぶじょく
かることを祈るは高慢のためではござりませぬ。わが身
を認めていた⋮⋮。アリョーシャはたまたま、庵室をほ
ひぼう
みずからも、誰にもまして忌まわしい者でござりますか
んのちょっとのあいだ離れたとき、庵室の中と、庵室のあ
あえ
ら⋮⋮﹄と、どうか神の子を愛してください。羊の群れ
たりに集まっていた僧侶たちが一様に興奮して、近づき
あんたん
を外来の者に奪わせるようなことがあってはなりません
つつあるものを待ち受けている 様 にいまさらながら驚い
さま
ぞ。もしもなまけていたり、思いあがっていたり、なおは
た。この期待は、ある人たちのあいだではほとんど不安
どんよく
なはだしきは 貪欲 の果てに居眠りでもしていたら、四方
261
ないから、死んだ者として、教会でそのあとを弔っても
ツクへ勤めに行ったが、もう一年ほども、何一つ便りが
て、ワーセンカという息子が、遠くシベリヤのイルクー
う下士官の妻がいたことであった。彼女は長老に向かっ
た平民の女の信者の中に、町の者でプローホロヴナとい
うのは、昨日、長老に謁見して、祝福するためにやって来
にもこの場合にふさわしい消息を伝えていた。事件とい
である。夫人はアリョーシャに一つの興味のある、いか
に当てたホフラーコワ夫人の奇怪な手紙を携えていたの
り呼び出したからであった。ラキーチンはアリョーシャ
ら帰って来たラキーチンが、一人の僧を通じて、こっそ
イ主教であった。アリョーシャが庵室を出たのは、町か
ていた。中で最もいかめしい顔をしているのはパイーシ
が、いとも厳格な主教たちさえも、この考えにおそわれ
一方からみるとほとんど軽はずみなものとも考えられた
とが起こるだろうと期待していたのである。この期待は
誰も彼も、長老が 瞑目 するとただちに何かしら大きなこ
に近く、またある人たちにとっては厳粛なものであった。
しめることができるでしょう﹄などと書いてよこしてい
母さんが受け取ってから三週間すると、
﹃お母さんを抱き
に、ロシア内地へ帰国の途上にあること、この手紙をお
こしたこの手紙の中で、自分がいま、ある役人といっしょ
りではなく、ワーシャは途中、エカテリンブルグからよ
ら待ちに待っていた便りを渡された。しかも、そればか
お婆さんがわが家へ帰ったかと思うと、もうシベリアか
字どおりに、それどころか、それ以上に的中したのです﹄
ホフラーコワ夫人は感激して付け加えている、
﹃予言は文
らよい﹄と付け足した。
﹃ところが、どうでしょう?﹄と
ない。まず、おまえも自宅へ帰って、それを待っていた
ちに母親のところへ帰って来るか、手紙をよこすに相違
子のワーシャは間違いなく生きている。だから近々のう
コワ夫人の手紙のことばによる︶、慰めて、﹃おまえの息
て、﹃まるで未来記でも見ているかのように﹄︵ホフラー
で、長老はお婆さんの無知からきたことだと許してやっ
わざは魔術にもひとしいものだと言った。が、そのあと
どとは、もってのほかのことだととどめて、かようなし
な面持ちで、はっきりわかりもしないのに供養をするな
めいもく
よいだろうかと尋ねた。この質問に対して、長老は厳粛
262
教に手紙を読んで聞かせ、ほんの記録として報告するほ
アリョーシャは元の席に帰ったとき、ただパイーシイ主
アリョーシャに伝える前にパイーシイ主教に伝えたので、
を頼んだ。ところが、この坊さんはラキーチンの頼みを
しつけなことを幾重にもお詫び申し上げる﹄との言づて
ものだと、パイーシイ主教様に申し上げて、かようなぶ
に大事なことで、一刻も報告を猶予することができない
チンがぜひともお話いたしたいことがあり、しかも非常
チンは彼を呼び出すようにと僧侶に頼んだとき、
﹃ラキー
は、みんながこのことを知っていたからである。ラキー
仲間の人たちに話すことは少しもしなかった。というの
行に筆者の興奮が感ぜられた。しかし、アリョーシャは
紙の終わりで、詠嘆していた。手紙は走り書きで、一行一
みんなに知っていてもらわなければなりません!﹄と、手
とアリョーシャに熱心に頼んで、﹃このことは誰も彼も、
奇跡﹄をすぐに修道院長やその他一同の者に伝えてくれ
ホフラーコワ夫人はここに新しく実現された﹃予言の
た。
もちろん、この﹃奇跡﹄は一時間をいでずして、修道院
のことは、話を聞いていた人々も実によく見抜いていた。
もほとんど自分の釈明を信じていなかったのである。こ
わけをするかのように、用心深く付け足したが、自分で
かもしれんのだから﹄と頼んだ。彼はまるで良心に申し
それにまた、今度の事件でも、自然こんなことになった
世間の軽はずみなために起こる話はずいぶん多いのだし、
い、﹃もっと、はっきり事実がわかるまでは、なにしろ、
︱︱︱もうしばらくこのことは誰にも言わないでもらいた
パイーシイ主教はまたもや苦い顔をして、 一同の者に、
んなことを!﹂ と周囲にいた僧侶たちもくり返したが、
﹁われわれもこれからそんなことを見るのだろうか、そ
かりしていたらしく、不意に口をすべらした。
﹁われわれもそんなことを見るだろうか?﹂と彼はうっ
浮かべた。
もったいぶって、熱中しているように、急にほほえみを
えることができなかったのである。彼の眼は輝き、唇は
読むと、苦い顔をして、心の中のある種の感情を全く押
容易に人を信用しない僧侶でさえもが、
﹃奇跡﹄の消息を
しゅんげん
かに、なすことがなかった、ところが、この 峻厳 にして、
263
偉大な苦行者であった︵この人のことはすでに長老ゾシ
ラポント長老はここでの最年長者で、精進と沈黙を守る
みなみならぬ、すさまじい印象を引き起こした。このフェ
向こうにある離れの庵室に訪れたが、この会見は彼にな
日、彼はこの修道院のフェラポント長老を、蜜蜂小屋の
いいのかほとんどわからないというところにあった。昨
問題は彼が今、ある種の疑惑に包まれて、何を信じて
大胆なことをなさるのです?﹄と尋ねたものである。
長老に向かって、熱心に、
﹃どうしてあなたがたはそんな
お辞儀をすると、﹃病気のなおった﹄令嬢を指しながら、
彼は昨日、ホフラーコワ夫人のわきに立って、長老に
である。
ル﹄の使いで、つい昨日ここの修道院へやって来た僧侶
オブドルスクの、 小さな修道院から、﹃聖シリヴェスト
して、この実現された奇跡に心をうたれたのは、極北の
間の人たちの多くにも、知れ渡ってしまった。誰にもま
じゅうにも、また、 弥撒 のために修道院へやって来た世
沈黙の苦行者のために建てられたもので、この人の事跡
に、百五歳までも生き延びたヨナという偉大なる精進と
暮らしていた。この庵室は遠い昔︵前世紀ではあったが︶
垣のすみの、ほとんどくずれかかった古い木造の庵室に
り多いくらいであったが、いつも蜜蜂小屋の向こうの真
いたからである。彼は七十五歳くらい、あるいはそれよ
た。つまり、彼がまぎれもないキ印のようにふるまって
が、庵室の規則によって、それほど煩わされはしなかっ
老のところへは行かなかった。彼は庵室に暮らしていた
たのであった。フェラポント長老は一度としてゾシマ長
しかし、このキ印だということが多くの人々を魅了し
者が非常に多かったからである。
がらも、偉大なる義人とし、苦行者として、 崇 めている
来る世間の人たちにも、彼を正真正銘のキ印だと思いな
の寺の多くの僧侶が衷心から彼に同情を寄せ、この寺に
者であった。彼が危険であったというのは、主として、こ
どひとことも物を言わなかったが、きわめて危険な反対
革だと見なしていた︶。彼は沈黙を守って、誰ともほとん
ミ サ
マ、ことに長老制度に対する反対者として少しく述べて
については、ここの修道院はもとより近在にまでも、多
あが
おいたが、彼はこの制度をもって、有害にして軽率な改
264
三日に一度ずつ運ぶのであったが、自分のためにこんな
あった。パンはすぐ近くの蜂小屋に住んでいる蜂飼いが、
物は三日にパン二斤だけで、そのほかには何もないので
世間の人の 噂 では ︵この噂は事実であった︶、 彼の食
た。
燈明の番人としてここへ置かれたかのような格好であっ
されていたからであった。そこでフェラポントはこの
点 にはやはり寄進にかかる燈明が、 永劫 に消ゆることなく
は人々の寄進にかかるたくさんの聖像があって、その前
室は祈祷堂にかなりに似かよっていた。つまり、そこに
室に住まわしてもらうようになった。もっとも、この庵
七年ほど前にこの百姓小屋にも等しいような、寂しい庵
る。フェラポントはついに長いあいだの願いがかなって、
くのきわめて興味のある物語が今に至るまで伝わってい
いた、︱︱︱というのは、フェラポントが天の精霊と交わ
いだに限っていたが、かなり、奇怪なある噂が伝わって
たるにすぎなかった。これはきわめて無知な人たちのあ
位というものを何も持っていなかった。単に一介の僧侶
て頼んでも、けっして説明をしてくれなかった。彼は僧
あいだにはさむのであった。そのあとでは、なんと言っ
大きな 謎 でもかけるようなことばを、何か一つ必ず話の
ことであった。そんな場合には、たいてい、相手の者に
外から来た人と長いこと話しこむこともきわめて珍しい
うで、奇妙で、いつも粗暴なくらいであった。もっとも、
ることがあっても、その話しぶりは簡単で、ぶっきらぼ
ことがあった。何かの拍子で参詣の人々とことばを交え
がら起きようともせぬ彼の姿を、参詣の人々は見受ける
をついたまま、脇目もふらずに、一日じゅう祈祷をしな
彼は祈祷式にはまれにしか出なかった。ときおり、 膝 ひざ
労をとってくれる蜂飼いとも、彼はやはりめったにこと
りを結んで、 この精霊だけを話し相手にしているので、
えいごう
ばをかわさなかった。この四斤のパンと、それに、日曜
そのために、人間に対しては、いつも沈黙を守っている
とも
日ごとに規則正しく、夜の祈祷式のあとで院長から送ら
というのであった。
なぞ
れる聖餅と、︱︱︱この二つが一週間の彼の食物の全部で
オブドルスクの坊さんは蜜蜂小屋へたどりつくと、蜂
うわさ
あった。コップの水は日に一度とりかえられた。
気が通り過ぎた。オブドルスクの僧は苦行者の前に身を
大きな 楡 の老樹が、かすかにそよいでいた。夕暮れの冷
にある低い小さなベンチに腰をかけていた。その上には、
に遅くなっていた。フェラポントはこのとき庵室の戸口
室へ近づいたとのことであった。すでに、時刻はかなり
ところによると、坊さんは激しい恐れをいだきながら庵
僧はあらかじめ注意を促した。後になって当人が話した
たら、何一つ聞き出せないかもしれませんよ﹄蜂飼いの
いうので、話をなさるかもしれませんが、またことによっ
て進んで行った。
﹃ひょっとしたら、よそから来た人だと
であった︶
、フェラポントの庵室の立っている一隅をさし
飼いに教えられて︵これもやはり非常に気むずかしい僧
していた。彼は O の母音に強い力点をおいて物を言って
いて、大きな眼は灰色に輝いているが、目立って飛び出
はまっ黒であった髪の毛は、頭にもあごにも房々として
はまだすっかり 胡麻塩 にはなりきっていなかった。もと
士のようであった。これほどの年になっていながら、彼
たれていることは確かであった。体格などは、まるで力
とであった。その 体 の中に、まだなみなみならぬ力が保
顔も痩せてはいるが、元気らしく、生き生きしているこ
力強い背の高い老人で、 腰も曲がらずにしゃんとして、
が寄っていたのにもかかわらず、 見かけたところでは、
ポントが疑いもなく極度の精進をして、しかもかなり年
何にもまして、この哀れな僧を驚かせたのは、フェラ
な?﹂
オー
ごましお
からだ
投げ出して、祝福を乞うた。
いた。その昔、囚人ラシャといっていた粗末な地の、長
にれ
﹁おまえさんはわたしを自分の前へ、同じようにうつぶ
い赤茶けた百姓外套を着け、太い 繩 を帯にしている。首
なわ
せにさせようというのかな?﹂とフェラポントは言った、
﹁わたしにも祝福を授け、 自分でも祝福を受けてから、
坊さんは立ち上がった。
と、彼は外套の下に、三十斤の錘をつけているとのこと
シャツが、外套のかげからのぞいていた。人の話による
いだことがなく、まっ黒になっている厚地の麻で作った
と胸とは、すっかりむき出しになっていたが、幾月も脱
そばへ来てすわるがよろしい。いずれからまいったのか
﹁起きなよ!﹂
265
266
くつ
進はどんな風に守っているかの?﹂
﹁おまえさんはわけのわからん人だでのう! ときに、精
僧は口ごもった。
ストルは丈夫かえの?﹂
ことがある。しばらく滞在していたものじゃ。シリヴェ
﹁ああ、おまえさんのシリヴェストルのところへ行った
客は隠者を観察しながら、つつましく答えた。
に満ち、しかも、幾分おびえたような 眼 つきで、遠来の
のお使いでまいりましたので﹂そわそわして、好奇の色
﹁オブドルスクの小さな修道院から、聖シリヴェストル
はいていた。
ラオジキアの会議集にも、﹃四旬節の最終の木曜を慎し
ともござります。と申しますのは、神聖木曜についての
物とお酒を飲んで、ときによっては、干ものを食べるこ
杯だけいただきまする。神聖木曜にはバタのつかない食
二時過ぎにはじめてパンを少々と水を飲み、 葡萄酒 を一
と同じで神聖土曜にも二時過ぎまで断食をいたしまして、
す。神聖金曜には何一つ食べることができません。それ
ません。これは第一週について申したとおりでございま
さえも、制限がありまして、毎日食べるわけにはまいり
だ生の野菜を食べるくらいのものでござりますが、それ
曜の晩まで、六日間というものはパンと水ばかりで、た
つくことになっております。神聖週間には、月曜から土
つくのでございます。日曜には、乾魚とお粥がスープに
﹁わたくしのほうの食事は昔の行者のしきたりで、この
まざるは、四旬節のすべてをけがすに同じ﹄と申してあ
であった。形のほとんどくずれかかった古い 沓 を素足に
ようになっております。 四旬節について申しますると、
るからでござります。わたくしどものほうでは、こんな
め
月曜、水曜、金曜には、全く食事をとりません。火曜と
風にいたしております。しかし、あなた様と比べました
えんばく
ぶ ど う しゅ
木曜には、同宿のもの一同に白パンに蜜入りの汁、それ
ひきわり
ら、これくらいのことがなんでございましょうの!﹂と
いちご
に苺 か塩漬けの玉菜、それから 碾割 の燕
麦 がつくことに
そうめん
坊さんは急に元気づいて言うのであった、
﹁なぜかと申し
えんどう
なっております。 土曜日には、 白スープと 豌豆 の 素麺 、
ますると、あなた様は年じゅう︱︱︱復活祭にさえもパン
かゆ
それにどろどろのお 粥 が出ます。これにはみんなバタが
267
けがらわしいやつらは、そんなに精進することはいらん
つまり、 悪魔に結びつけられておるのでな。 このごろ、
ここのやつらは自分のパンを見すてようとはせんのじゃ。
もはいって、 そこで蕈か苺で命をつなぐわ。 ところが、
りませんから、そんな物から顔をそむけて、森の中へで
﹁さよう、さよう、わしはあいつらのパンなど少しもい
﹁蕈?﹂と坊さんはびっくりして問い返した。
は尋ねた。
んど Х のように発音しながら、だしぬけにフェラポント
﹁では、 蕈
は?﹂Г の音を喉 から押し出すように、ほと
偉大なご精進でございますよ﹂
分にも当たるくらいでございますよ。実に驚き入ったる
ろ、わたくしどもの二日分のパンは、あなた様の一週間
と水ばかり召し上がっていらっしゃるからです。なにし
わしが院長のところから出て来ると、一匹の悪魔がわし
﹁見えると言うたでないか。ちゃんと見え透いておるわ。
ねた。
﹁あなた様⋮⋮お見えになりますかな?﹂と坊さんは尋
れて歩いておるのじゃ﹂
ら下げておるが、当人はいっこうそれに気がつかずに連
をくわせており、またある者は首にかじりつかせて、ぶ
しをこわがっている。ある者はよごれきった腹の中に巣
中からのぞかせていたが、悪魔め、眼ざといもので、わ
ちょっと顔だけのぞかしておる。またある者はかくしの
たのじゃ。ある者は胸の所に抱いて衣のかげに隠し、ただ
が、それ以来少しも出かけんのじゃ。そのときに悪魔を見
﹁わしは去年の神聖金曜に修道院長のところへまいった
恐る問い返した。
﹁あいつらとは誰のことでございます?﹂坊さんは恐る
のど
などと言いおるが、そういうやつらの考えは、まことに
をよけて、戸のかげへ隠れるのが見えたのじゃ。そいつ
ゲー
高ぶってけがらわしいものじゃ﹂
がなかなか大きなやつで、背の高さ三尺もある。太くて
グルーズジ
﹁おお、さようでございますよ﹂と坊さんは嘆息した。
長い茶色の 尻尾 をしておったが、その先がちょうど、戸
フ
﹁あいつらのところで悪魔を見たかの?﹂とフェラポン
のすき間へはいったのじゃ。わしもまんざらばかではな
しっぽ
トが尋ねた。
268
ら、わしは十字架で三たびも十字を切ってやった。見る
はさんでやった。すると、 吠 え立てて、もがきだしたか
いから、いきなり戸をばたんと閉めて、そいつの 尻尾 を
、ときには金
燕 翅雀 、ときには山雀の形をして﹂
霊はまた別な鳥の形をして降りて来るのじゃ。ときには
﹁精霊が来ることもあるし、神霊が来ることもある。神
﹁鳩の形をした精霊でございますか?﹂
しっぽ
と、踏みつぶされた 蜘蛛 のように息絶えてしもうた。今
﹁山雀を御覧になって、どうして精霊だということがお
﹁なんという恐ろしいことばでございましょう!
﹁人間のことばじゃ﹂
で?﹂
ほ
はきっと隅のほうで腐れかかって、臭いにおいを放って
わかりになります?﹂
ろで方丈様﹂と坊さんはしだいしだいに大胆になってき
﹁どのようなことをあなた様に申しますので?﹂
かわらひわ
おるはずじゃが、それが皆の眼にはいらんのじゃて。鼻
﹁物を言うので﹂
た。
﹁今日はこんな知らせがあった、今にばか者がやって来
つばめ
がきかんのじゃ。わしは、もう一年も行かん。おまえさ
﹁どんなことを言うのでございましょう。どんなことば
﹁あなた様のことがかなりの遠方まで、たいへんな 噂 が
て、つまらんことを聞くじゃろうと。おまえさんはいろ
く も
んはよそから来た者じゃによって、打ち明ける次第じゃ﹂
立っておりますのは、本当のことでございましょうか?
んなことを聞きたがるのう﹂
とこ
なんでも、あなた様が、精霊と絶えず交わりをつづけて
﹁まあ、恐ろしいことを、方丈様﹂と坊さんは首を振っ
うわさ
いらっしゃるとか⋮⋮﹂
た。その小心な 眸 の中には、疑わしげな色がうかがわれ
ひとみ
﹁飛んで来るのじゃ。よく﹂
た。
﹁さて、おまえさんはこの木が見えるかの?﹂しばらく
ど
んな形をしておりますやら?﹂
黙っていたフェラポントはこう聞いた。
﹁どんなにして飛んでまいるのでございましょう?
﹁鳥のようにな﹂
269
﹁はい、方丈様﹂
ていた。オブドルスクの僧は何にもまして、精進に重き
フェラポントのほうに、より多く彼の心は親しみを感じ
﹁霊魂とイリヤの光栄の中じゃ! 聞いたことがないの
﹁生きたままでございますか?﹂
﹁だって、つかんで連れて行かれるので﹂
ますまいに?﹂
﹁キリスト様であったなら、なにも恐ろしいことはあり
えるのだ。恐ろしい、おお、恐ろしい!﹂
なるように、まざまざと見えるのじゃ、それでわしは震
お手を差しのばされて、その手でわしを捜しておいでに
あれが夜になると、ちょうどキリスト様が、わしの方へ
﹁夜はよくあることじゃ。あの二本の枝が見えるかの?
いだきながら黙っていた。
﹁いったいどのような絵で?﹂坊さんはむなしい期待を
と別の光景じゃ﹂
てしまったのである。この修道院に一日、滞在するうち
で、他の多くの者の尻馬に乗って、有害な改革だと決め
制度なるものに対して、非常な先入観をいだいていたの
はこの修道院へ来る前から、噂に聞いていただけの長老
心から喜んで信じたいような気持がした。おまけに、彼
単に 譬喩 としてばかりでなく、 直接の意味においても、
戸のすき間に尻尾をしめつけられた悪魔のことは、ただ
妙なことを言ったり、変なことをしたりするものである。
心気ちがいというものは、まだまだこれどころではない
が含まれているかは知るよしもなかった。それにまた信
ように見られぬでもなかったが、その中にいかなる意味
と考えていた。もとより、彼のことばはばかげたものの
苦行者が、
﹃奇跡を見る﹄のもけっして怪しむに足りない
をおく人であったから、フェラポントのような偉大なる
にれ
﹁おまえさんの眼には 楡 じゃろうが、わしの眼から見る
か? かかえて連れて行かれるのじゃ﹂
に、彼は早くも、長老制度にあきたらない軽率な同宿の
ゆ
オブドルスクの僧は、この会話ののち、同宿の者の一
二、三の人の、不平がましい内緒話を 嗅 ぎつけた。その
ひ
人いる指定された庵室へ帰って来た。彼はひどく懐疑の
うえ、彼は生まれつきが、何ごとにつけても非常な好奇
か
念をさえ寄せていたが、それでもゾシマよりはもちろん、
270
シイとヨシフ、それに 新発意 のポルフィーリイがいるば
リョーシャはすぐに駆けつけた。長老のわきにはパイー
い起こしたので、そばへ呼んでくれるように言った。ア
もう目をつむろうとして、急にアリョーシャのことを思
マ長老はまたしても疲れを感じ、再び床に横たわったが、
また、今はそれほどの騒ぎではなかったのである。ゾシ
なって、いっさいのことを思い起こしたのであった⋮⋮。
し、彼は今、そんな人にはさほどの注意を払わずに、後に
を傾け、誰にでも何か聞いていたのを思い出した。しか
いる群集の中へいちいち首を突きいれ、話という話に耳
おしよせる僧侶の中にはいって、あちこちにかたまって
ルスクの客僧が、長老のぐるりや、その庵室のほとりに
アリョーシャはあとになって、好奇心に燃えるオブド
の疑惑を呼び起こしたのであった。
新しい﹃奇跡﹄についての消息は、彼の心のうちに極度
であった。だからこそ、ゾシマ長老によって実現された
心をいだいて、すぐにどこへでも首を突っこむ人間なの
かして、歓喜の情をよびおこした。彼は町の用事を早く
を聞かしてやろうという約束は、アリョーシャの心を動
最後のことば、しかも自分に対する遺言と思われるもの
ぐに、このことばに従った。しかし、師のこの世における
アリョーシャはこの場を離れるのがつらかったが、す
へ行くがいい﹂
愛してくれるで。しかし、今は約束した人たちのところ
えに言いのこすのじゃ。なぜというて、おまえはわしを
ことばはおまえに言うのじゃ、ね、アリョーシャ、おま
言わずに死ぬようなことはないんじゃから。この最後の
はな、おまえのそばで、この世における最後のことばを
﹁それ。ぜひとも行きなさい。心配しないがよい。わし
れからほかの人にも⋮⋮﹂
﹁いたしました⋮⋮お父さんと⋮⋮兄さん二人と⋮⋮そ
今日行くと約束はしなかったか?﹂
﹁おまえに用のある人がありはせんか?
アリョーシャはどぎまぎしていた。
﹁家の人たちがおまえを待っておるじゃろうな、おまえ?﹂
昨日、誰かに
かりであった。長老は疲れ果てた眼を見開いて、じっと
かたづけて帰って来ようと、急いでしたくをした。ちょ
しんぼち
アリョーシャを見つめていたが、いきなり問いかけた。
271
服することができないのだ。はたしてこれは十九世紀に
かりと彼らの眼の前に立っていて、地獄の門もそれを征
くらいだ。ところが、その全体は、昔と同じように、しっ
かり見落としておる。その盲目さかげんは驚異に価する
彼らは部分部分のみを解剖して、全体というものをすっ
たものは、影も形も残らんことになってるのだ。しかも、
赦のない解剖分析の結果、むかし神聖なものとされてい
さいの尊いことを解剖したのだ。世間の学者のなした容
して、ことに現代に至って、聖書に約束されておるいっ
だした︶。つまり、世界の科学は、一つの大きな力に結合
る︵とパイーシイは何一つ前置きなしに、いきなり言い
﹁おまえはな、たゆまず思い起こさねばならぬことがあ
ときのことであった。
銘を与えるのであった。それは二人が長老の庵室を出た
えたが、そのことばはきわめて強い、思いもよらない感
うどそのとき、パイーシイ主教が彼に門出のことばを与
耐えてゆくのは力に及ばぬかもしれぬでな。いや、もう
なにせ、おまえは若いから、世の中の誘惑が激しゅうて、
のことばも、 やはり忘れずにおってくれるじゃろうな。
出すときに、おまえの門出のために衷心から与えたわし
り出して行かねばならんからだ。この偉大なる日を思い
というて、おまえは、臨終の長老のお 指図 で、世間へ乗
シャ、このことは特によう覚えておくがよろしい。なぜ
はいずれもかたわのような醜いものばかりだ。アリョー
できなかったのではないか。種々の試みもあったが、それ
とその品位に相当するすぐれたお姿を、 創 り出すことが
も、かつてキリストによって示されしもの以外に、人間
おるからだ。その証拠には、彼らの知恵も、彼らの情熱
しかも今もなお、そのとおりの人として生活をつづけて
においては、キリストの面影を宿しておるによってじゃ、
を否定して、反旗をひるがえす人でさえもが、その本質
じように厳然と生きておるのじゃ。つまり、キリスト教
のを破壊する無神論者の心の動きの中にさえ、以前と同
こう言ってパイーシイ主教は彼を祝福した。修道院を
さしず
つく
及ぶ長いあいだ、生きておらなかったものか、また現に
よい、行きなさい﹂
それどころか、あらゆるも
今でも個々の心の動きのうちに︱︱︱民衆の動きの中に生
きておらんものだろうか?
272
自分に託された若い魂に、われながらこれ以上堅固なも
知性に、世の誘惑と闘うべき武器を与え、遺言によって
明している。彼はできるだけ急いでアリョーシャの若い
らぬこの議論は、パイーシイ主教の情熱に富んだ心を証
彼の聞かされた思いがけない学者らしい議論は、ほかな
のかもしれない﹄アリョーシャはふと考えた。たった今、
﹃たぶん、お二人のあいだに、それくらいのことがあった
したかのようであった。
︱︱︱まるでゾシマ長老が死に面して、この人に遺言でも
る新しい指導者だ、 ということがやっとわかってきた、
よらない親友で、また、暖かい気持で自分を愛してくれ
て厳重冷酷であったこの主教が、今にしてみれば思いも
しているうち、アリョーシャは、急に今まで自分に対し
出て行くとき、この思いもかけないことばを思いめぐら
﹁お父さんは?﹂
き、彼はひどく喜んだ。
対して、イワンはもう二時間も前に外出したと答えたと
︵グリゴリイは病気をして離れに寝ていた︶、彼の質問に
れにしても、マルファが彼のためにくぐりをあけながら
う言えなかったんだろう﹄と彼はひとり決めをした。そ
日は興奮して何か別のことを言うつもりだったのに、よ
こっそりはいる必要はないんじゃないかな? きっと、昨
何かこっそり話したいことがあるにしても、なにも僕が
リョーシャは不意に気がついた、
﹃お父さんが僕ひとりに
﹃いったいどういうわけなんだろう?﹄と今になってア
含めたことを思い出した。
に見つからないようにそっとはいって来いと、強く言い
そばまで来たとき、彼は昨日、父親が、なるべくイワン
アリョーシャはまず最初に父のところへおもむいた。
﹁もうお起きなすって、コーヒーを召し上がっていらっ
かき
のを想像しえないくらいに、堅固な 牆 をめぐらそうとし
たのである。
しゃいますよ﹂とマルファはなんだかそっけない調子で
アリョーシャは中へはいった。老人はスリッパをはき、
こう答えた。
二 父のもとにて
273
無愛想に見やるのであった。
をよく承知していたので、はいって来るアリョーシャを
表情を、顔全体に付け加えていた。老人は自分でもそれ
なかったが、なにかしら特に意地悪そうないらいらした
点 のように幾つもできていた。別に眼に立つほどでは
斑
鼻もまた、一晩のうちにひどく腫れあがって、打ちみが
く紫色に腫 れあがったので、赤い布を巻きつけてあった。
しい様子をしていた。額は昨夜のうちに、打ちみが大き
きをして、元気を出してはいたが、それでも疲れた弱々
心にかかっているのは勘定書きではなかった。彼は早起
昼の物を買いに出かけて行ったのである︶。しかし、彼の
中に、彼はたった一人きりであった︵スメルジャコフは
すために、何かの勘定書きに眼を通していた。この家の
い、別にそれほどの注意も払わずに、ただ気をまぎらわ
古ぼけた上着をひっかけ、たったひとりで、食卓に向か
えのほうはどうだえ?
いのでな﹂と彼は子細ありげに言った、
﹁ところで、おま
﹁赤いほうがよろしい。白いのをしていると、病院くさ
裁よくなおした。
るかもしれぬ︶。それから、また額の赤い布もちょっと体
た。
︵おそらく、これでもう今朝から四十ぺんくらいにな
風で、鏡をのぞいて自分の鼻を心配そうに眺めるのであっ
あいだに彼は立ち上がって、いかにも気にかかるような
彼は意地悪そうな気持を見せながら言いだした。その
ていたんだ﹂
だが、わしもおまえがのこのこやって来るだろうとは思っ
だぞ。そんな心配をしてもらわなくてもよかったのにな。
に来いとは言ったけれど、あんなことはみんなでたらめ
﹁いいよ。それに昨日、わしが自分のほうから、おまえ
﹁お気分はいかがかと思いまして﹂
あって来たのか?﹂
は
﹁冷やしコーヒーだ﹂と彼はするどい調子で叫んだ、
﹁別
﹁たいへんお悪いんです、ことによったら、今日は、お
み
にすすめはすまい。わしはな、アリョーシャ、今日は自
かくれになるかもしれません﹂とアリョーシャは答えた。
し
分からお精進をして、スープも肉もとらないんだ。だか
しかし、父はそれをろくろく聞こうともしなかった。そ
おまえの長老はどんなだ?﹂
ら、誰も呼ばずにおいたのだよ。いったい、何か用でも
274
てたんだ? 三週間も前にそう言ったんだよ。あれはま
﹁もう、かなり前に言ったことだ。おまえはなんだと思っ
アリョーシャは聞いた。
﹁いったい、兄さんが自分でそう言ったんですか?﹂と
を見つめた。
は恨めしそうに言って、口をゆがめながら、アリョーシャ
している。そのためにここに暮らしているんだよ﹂と彼
いつは、一生懸命にミーチカの嫁さんを横取りしようと
﹁イワンは出て行ったよ﹂彼はいきなり言いだした、
﹁あ
てしまっていた。
ればかりではなく、自分の発した質問すらもすぐに忘れ
なってくるのは金じゃがな。だから、今こうやって、上
そばへ寄りついてはくれなくなる。さあ、ここで必要に
きたならしくなるから、 女子 どもが好きこのんでわしの
間でいたいものだ。しかし、そうなると年をとって︱︱︱
男の仲間だが、まだこれからさき二十年くらいは男の仲
続けた、
﹁今のところ、わしもまだようやく五十五だから
て、隅から隅へと部屋を歩き回りながら、彼はことばを
作った大きな 脂 じみた外套のポケットに両手をつき入れ
なおさら大切になっていくんでの。﹂ 黄色い夏の麻布で
もわしには大切なんだ。わしが長生きをすればするほど、
心得ておいてもらいたい。だからさ、一カペイカの金で
け長く暮らすつもりですよ。このことは、おまえたちに
﹁お父さん、なんですか! なんだってそんなことをおっ
だろう?﹂
世界に生きておりたいからだ。このことを心得ておいて
らいましょう。なぜというに、わしは最後まできたない
なんだぞ、アレクセイさん、このことを心得ておいても
あぶら
さか、こっそり、わしを殺そうと思って、ここへ来たん
へ上へと蓄めこんでおるのじゃ、それも自分一人のため
しゃるんです?﹂とアリョーシャはひどく口ごもった。
もらいましょう。きたない世界のほうがいい気持だ。き
おなご
いったいなんのためにやって来たん
﹁あいつは金をくれとは言わん、それは本当だ。しかし、
たない世界のことを誰も悪く言うけれど、誰だって、そ
じゃあるまいな?
それにしても、わしからは 鐚一文 取れるわけじゃないん
の中に生きているんだ。ただ、みんなが内緒でこそこそ
びたいちもん
だから。わしはな、アレクセイさん、この世にできるだ
275
な教育というほどのものさえないくせに。ただ、黙って
にたいした学者じゃないがな、⋮⋮それどころか、特別
てはおったがな。イワンは 法螺 ふきだよ、なにもそんな
ここでうまいことを言ったよ。むろん、みんな酔っ払っ
それでいい、これがわしの哲学なんだよ。昨日イワンが
に気があるなら供養してもらおうが、気が向かなんだら、
はないと思うんだ。それだけのことなんだ。もしおまえ
の考えでは、ひとたび寝入ったら、もう眼をさましっこ
そんなところへ行くのは身分にかかわることだよ。わし
ある人間が、よし天国というやつが本当にあるとしても、
このことは心得ておいてもらいましょう。それに身分の
おまえの天国へなんか行くのはわしの性に合わんがな。
が、わしを攻撃するのだ。ところでな、アレクセイさん、
も、この正直ということのために、世間の汚れたやつら
とするのに、わしは公然とするだけの違いなんだ。しか
え。それは昨日のことのためですよ、行って横におなり
﹁お父さんはほんとにいらいらしていらっしゃいますね
れがあいつの胸算用なんだ! 本当にイワンは悪党だ!﹂
の裕福な花嫁を自分のものにしようという 肚 なんだ。こ
ミーチカがグルーシェンカと結婚したら、イワンは兄貴
金でも残すと思っとるのかい!︶ また一面から見ると、
しもわしがグルーシェンカと結婚せなんだら、あいつに
のところへ来る邪魔をしようと思っとるんだ。
︵へん、も
ようとしておるのだ。こうして、グルーシェンカがわし
して、ミーチカをつついて、グルーシェンカと結婚させ
これがこわいもんだから、わしが結婚せんように見張り
ら、なんでもできるからな、アレクセイさん。イワンは
結婚してみせる。金を持った人間は、ただ気さえ向いた
あに、グルーシェンカとは気さえ向いたら、すぐにでも
れたことばかり言いおる。本当にイワンは悪党だ!
かの拍子で物を言うことがあると、なんだか妙にひねく
な
人の顔を見ながら、にこにこしているんだ︱︱︱それがあ
になるほうがいいでしょう﹂とアリョーシャが言った。
はら
いつの奥の手なんだ﹂
﹁それ見ろ、おまえがそう言っても﹂はじめて頭に浮か
ら
アリョーシャは黙って聞いていた。
んだことか何かのように、 老人はいきなり言いだした、
ほ
﹁なんだって、あいつはわしと話をせんのだろう? なに
けに靴の 踵 で顔を 蹴飛 ばすなんかということは、法律上
といったところで、年寄りの親父の髪をつかんで、おま
まえのようになっているが、しかし、いくら今の時世だ
は、親
父 やおふくろを旧式な人間に見られるのがあたり
かと迷っておるのだ。もちろん、流行を追う今の時世で
へ打ちこんでやろうかと思ったが、今またどうしたもの
﹁ときにな、わしは今日、あのミーチカの強盗を 牢 の中
んですよ﹂とアリョーシャはほほえみを浮かべた。
﹁意地の悪い人間じゃなくて、ひねくれてしまった人な
きは、わしは全く意地の悪い人間だからな﹂
きだけ、わしもいい気持になるのじゃが、そのほかのと
はきっと腹を立てたに相違ない。おまえと話していると
﹁わしはもしもイワンがそれと同じことを言ったら、わし
たんだ!
んだな。わしはあの女の性質をすっかり見通してしまっ
かっておるのだよ、︱︱︱なんでも反対反対と出かけたい
いに来るだろう、⋮⋮人間というやつはこんな性質を授
つけたら、きっとあいつを捨てて、わしのところへ見舞
しの目に合わせたということを、今日にもあの女が聞き
ない。ところで、もしも、あいつがこの弱い老人を半殺
ら、あの女はさっそくあいつのほうへ走って行くに相違
﹁もし、わしがあの悪党を牢の中へ入れたことを聞いた
しきったような調子でささやいた。
彼はアリョーシャのほうへかがみこんでいかにも信用
とを考えたもんだからな⋮⋮﹂
にはしておらんのだが、わしも自分で一つおもしろいこ
﹁イワンがわしをとめたのでな。なに、イワンなど問題
かかと
ろう
ゆるされておらん。しかも場所は当の親の家じゃないか、
コーヒーに杯の四つ一くらい落としたら、なかなか味の
おやじ
それに、もう一度やって来て、今度こそ本当に殺してや
いいもんだで﹂
と
ると、証人のおる前で広言するとは何事だ。わしの了簡
﹁いいえ、結構です、ありがとう。それよりこのパンをも
け
ひとつで、さっそくあいつを取っちめて、昨日のことを
らって行きましょう、くださるでしょう﹂と言って、ア
冷やし
理由にして、今すぐにでも牢に打ちこんでやれるんだが﹂
リョーシャは、三カペイカほどのフランスパンを取って、
ところで、コニャクでも飲まんか?
﹁では、告訴する気はないんでしょう、ね?﹂
276
277
﹁もうたくさんだ、一杯ぐらいでは、くたばりはせん﹂
へしまいこんだ。
み干すと、また戸棚に鍵をかけて、それを元のポケット
彼は鍵を取り出して、戸棚をあけ、杯へ一つついで飲
からな、⋮⋮わしはちょっと戸棚から出してくる⋮⋮﹂
静かな気持にしてくれない。しかし、ほんの一杯きりだ
﹁おまえの言うとおりだ。気をいらいらさせるばかりで、
こみながら、おずおずと言った。
あがらないほうがいいでしょう﹂と彼は父の顔をのぞき
法衣のポケットに入れた、
﹁それにお父さんもコニャクは
のは、 おまえがあいつを愛しているからだ。 もっとも、
やはりぐしゃりというんだ。おまえのミーチャといった
足を載せたらぐしゃりといったが、おまえのミーチャも、
はゆうべ、スリッパで油虫を何匹も踏みつぶしてやった。
つなんぞは、油虫のように踏みつぶしてくれるわ。わし
ちもよくわかっているだろう。ところで、ミーチカのや
にも遺言なんか残して死にはせん。このことはおまえた
やるかなんぞのように思っていやがる。だが、わしはな
るで精神の違うやつだ。まるでわしがあいつに遺産でも
どうしてあんなやつが生まれたのかしら? あいつは、ま
ると、わしはわが身のために心配したかもしれん。しか
おまえがあれを愛しておるからって、びくびくするわし
し、イワンは誰も愛しはせん。あいつは人間の仲間じゃ
﹁そら、お父さんはずっと人が好くなりましたよ﹂とア
ないんだ。イワンのようなやつは、人間じゃない、風に
じゃないんだ。もしもイワンがあいつを愛しているとな
よ。しかし、相手が悪党だったら、わしも悪党になるん
舞い上がった 埃 だ。風が吹き過ぎると、埃も飛んで行っ
リョーシャはほほえんだ。
だ。イワンはチェルマーシニャへ行かんが、︱︱︱いった
﹁ふむ!
もしグルーシェンカが来た
わしはコニャクを飲まんでもおまえが好きだ
い、どういうわけだろう?
てしまう、⋮⋮昨日、おまえに今日やって来いと言いつ
けたとき、ひょいとばかな考えが浮かんできたよ。実は、
ほこり
とき、わしがあれに大金をやりゃせんかと、探ろうとし
ているんだ。どいつもこいつも悪党だ!
おまえの手を通して、ミーチカの考えを探ろうと思った
それにわしは
イワンというやつがさっぱりわからん。まるでわからん。
﹁僕⋮⋮僕、兄さんに聞いてみましょう⋮⋮﹂とアリョー
ろうか、え?﹂
ことはきれいにあきらめてもらいたいのだ、承知するだ
シェンカは連れて行かないのだよ。いや、いっそあれの
あいだ⋮⋮いや、あわよくば三十五年だ。そして、グルー
かりここから姿を隠してしまうだろうよ、五年くらいの
やったら、あの恥知らずの乞食みたいなやつだから、すっ
のさ。もしも今わしが千か二千かの金をあいつに分けて
れば、あんな顔色の悪いお嬢さんというものは、やくざ
つのような極道者や悪党を好くもんだ!
﹁そのとおりだ、ああいう優しいお嬢さんがたは、あい
しょうよ﹂
﹁あの人はどんなことがあっても兄さんを見すてないで
ろうか? おまえ昨日あの女のところへ行ったろう⋮⋮﹂
しているが、いったい、あの子はミーチャと結婚するだ
をミーチャはいつも一生懸命に、わしからかくすように
がいい。ところで、あの 許嫁 のカテリーナさん、あの女
いいなずけ
シャはつぶやいた、
﹁もし三千ルーブルすっかり耳をそろ
な代物だ、普通じゃないんだからな⋮⋮ああ! もしも、
と昨日そんなばかな考えが頭に浮かんだまでのことだ。
く必要はない!
﹁ばかを言え!
わしはもう考えなおしたんだ。 ちょっ
今となっては聞くに及ばん。なにも聞
くらいには、女を泣かせてみせるんだが、畜生め!
ぶりがよかったからな︶、それこそ、わしもあいつと同じ
ら︵なぜといって、二十八時代のわしは、あいつより男
わしにあいつの若さと、あの年ごろのわしの顔があった
わしに言わせ
えておやりになったら、あるいは兄さんも⋮⋮﹂
何一つくれてやるものか、 鐚一文 だってやりはせん。わ
にかく、グルーシェンカは手に入れさせはせんぞ、手に
当てにするだろうから。それにおまえもわしのところに
やる。あいつに何も言っちゃならんぞ、でないと、また
になってきた。
最後のことばとともに、彼はまたすさまじいけんまく
わだ!﹂
と
しは自分でも金がいるんだから﹂ と老人は手を振った、
入れさせるものか⋮⋮あんなやつ、へしつぶしてくれる
おったって、なにもすることはないんだから、もう帰る
びたいちもん
﹁それよりも、 あんなやつは油虫のように踏みつぶして
278
279
﹁おまえももう帰れよ、ここにおったところで、今はな
鳴らしながら、またもや戸棚に鍵をおろすと、またその
﹁もうこれでおしまいだ!﹂とつぶやいて、 喉 をくっと
のど
んの用事もありはせん﹂と彼は鋭い調子で言いきった。
鍵をポケットにしまいこんで、それから寝室へおもむい
﹁なんだってそんなことをするんだ?﹂と老人はいささ
肩に接吻した。
りに落ちてしまった。
て、ぐったりと床の上に横になると、そのまますぐに眠
いとま
アリョーシャは 暇 を告げるために彼に近づいて、父の
か驚いた様子で、
﹁また会えるじゃないか、それとももう
るんだぞ! 明日は、きっと来い、よいか、来るんだぞ、
今日のようなやつじゃなくって、特別のをな。きっと来
るといい、魚のスープを食べにな。魚
汁 をこさえるから。
と、彼は後ろから声をかけた、
﹁いつかまた近いうちに来
の⋮⋮﹂と老人はわが子を見つめた、﹁おい、ちょっと﹂
﹁うん、わしもやはりなんの気なしに⋮⋮わしもただそ
に⋮⋮﹂
﹁けっしてそんなことはありません。僕はなんの気なし
うにいこじになったということを痛感するのであった、
うちに元気を回復して、夜が明けるとともに再び石のよ
らなかったろう﹄アリョーシャは二人の敵同士が昨晩の
そらく昨日グルーシャと会ったことを、話さなければな
ら、心の中で考えるのであった、
﹃そうでなかったら、お
父のところを出て、ホフラーコワ夫人の家に向かいなが
くてよかったわい﹄アリョーシャはまたアリョーシャで、
﹃やれやれ、お父さんがグルーシェンカのことを聞かな
三 小学生の仲間に
明日は!﹂
﹃お父さんはいらいらして、意地が悪くなっている。きっ
会えないとでも思うのかえ?﹂
アリョーシャが戸の向こうへ出て行くが早いか、彼は
と何か考えついて、そのことを思いつめているのに相違
ウハー
また戸棚に近づいて、さらに杯に半分ほどつぐのであっ
ない。ところが、兄さんのほうはどうだろう?
兄さん
た。
280
た。みんな学校の帰りで、背に小さな 背嚢 を負った者や、
で、九つから十二くらいまで、それより上の者はなかっ
眼にはいったのである。みんな年のいかない子供ばかり
き、小さな橋の手前で一固まりになっている、小学生が
へ出ようと思って、広場を通り抜けて横町へ曲がったと
通しているので︶、大通りと並行しているミハイロフ通り
小さな 溝 を隔てて︵この町は至るところ溝川が縦横に貫
いしたことではなかったが、 彼に強烈な印象を与えた。
彼の身の上に起こったのである。それは見たところはた
わけに行かなかった。 途中で思いもよらない出来事が、
しかし、アリョーシャは長くこんなことを考えている
出す必要がある⋮⋮﹄
ああ、どうしても今日の間に合うように、兄さんを捜し
それに、もちろん、何かたくらんでるに相違ない。⋮⋮
にいらいらした意地の悪い気持になっているに相違ない。
もやはり、昨夜のうちに気分を持ちなおして、同じよう
あった。青白い弱々しげな顔をして、黒い眼を光らせて
学生で、背の格好から見ると、まだ十になるかならずで
う一人の子供が立っていた。やはり、鞄を肩にかけた小
の群れからおよそ三十歩ばかり隔てた垣根のわきに、も
二つ持っているものもあった。溝川の向こうには、こっち
はてんでに石を一つずつ持っているのである。なかには
眺めているうちに、ふと気がついてみると、一同の子供
た。そばへ寄って、彼らのばら色をした元気のいい顔を
供たちの方へ曲がって行って、話の仲間にはいりたくなっ
そこで、今もいろいろと心配ごとがあったが、急に子
あった。
りも好きであったが、十か十一くらいの小学生も好きで
できなかった。もっとも、彼は三つくらいの子供が何よ
かなるときでも、子供のそばを平気で通り過ぎることが
の相談らしい。アリョーシャはモスクワ時代このかた、い
一群は元気のいい調子でがやがや話し合っていた。何か
のはいった長靴をはいている者までが交っていた。この
みぞ
革の鞄を肩にかけている者、短い上着を着、小さい外套
いる。彼は注意深く試験でもするように、六人の子供の
はいのう
を着ている者などがおり、またなかには、よく親に甘や
群れを眺めていた。彼らは明らかに友だち同士で、今し
ひだ
かされた金持の子供がことに好んで誇りとする、胴に 襞 281
肝心なのである。アリョーシャにはこれが本能的にわかっ
そしてまるっきり対等の態度をとること、これが何より
ようがないのである。まじめで実際的な話を始めること、
子供の信用を得るためには︱︱︱これよりほかに話の始め
を始めた。全く 大人 がいきなり子供の︱︱︱特に大ぜいの
でもなく、いきなりこうした実際的な注意をもって会話
アリョーシャは別に前々から用意した技巧を 弄 するま
れでは出すのにめんどうじゃないの?﹂
が出せるからさ。ところが君は右の肩にかけてるが、そ
の肩にかけて歩いたものだよ。それは右の手ですぐに本
﹁僕が君たちと同じような鞄をかけてた時分、みんな左
い上着を着た姿を見回しながら話しかけた。
の渦を巻いた血色のいい一人の子供に近づいて、黒の短
見ただけでも察しがついた。アリョーシャは白っぽい髪
生からあまり仲がよくないのだということは、ちょっと
がた、いっしょに学校から出て来たばかりであるが、平
の向こうにいる子供のかくしは、用意の石ころでいっぱ
リョーシャに当たって、かなり強く彼の肩を打った。溝
こっちの群れを目がけて投げつけたが、今度はうまくア
ただけであった。 溝の向こうの子供はすぐにまた一つ、
がけて石を放ったが、うまく当たらずに、石は地面を打っ
すぐにまた 復讐 をした。彼は溝の向こうにいる子供を目
しかし、 左ききのスムーロフは言われるまでもなく、
が叫んだ。
﹁スムーロフ、やっつけろ、くらわしてやれ!﹂と一同
たのである。
うずで力がはいっていた。それは溝の向こうの子が投げ
び過ぎてしまった。しかし、その投げ方はなかなかじょ
で来て、ちょっと左ききの子供にさわったが、そのまま飛
ちょうどこのとき、一つの石が大ぜいのまん中へ飛ん
子が口を入れた。
﹁こいつは石を投げるんでも左なんだよ﹂ともう一人の
かの五人の子供は、しげしげとアリョーシャを見つめた。
ろう
ていた。
いであった。それは、三十歩あいだを隔てていても、外
ふくしゅう
﹁だって、こいつは左ききなんだよ﹂活発で丈夫らしい
套のかくしがふくらんでいるので察しられた。
おとな
十一ばかりの別な男の子が、すぐにこう答えた。そのほ
ぐるいに応戦を始めた。両方から絶え間のない戦いが続
はばったり倒れたが、すぐにまた 跳 ね起きて、死にもの
出た。そのなかの一つが向こうの子供の頭に当った。彼
やれ!﹂すると、六つの石が同時に群れの中から飛んで
らは笑いながら叫んだ、﹁さあみんな一時にやるんだぞ、
ラマゾフじゃないの、カラマゾフじゃないの?﹂と子供
﹁あれは君を、君をわざと狙ったんだよ。だって君はカ
やっつけろ、スムーロフ、やりそこなったらだめだぞ!﹂
くって、君を狙って投げてるんだよ。さあ、またみんなで
てるんだよ﹂と、子供は叫んだ、
﹁今あいつは僕たちでな
﹁ああ、また君の背中へ当てやがった。あいつは君を知っ
先にからかったんだろう?﹂
﹁でも、どういうわけなの?
つ、ひどい目に合わしてやればいいんです⋮⋮﹂
だと言って、先生に言いつけなかったけれど、あんなや
人で一人の者にかかっていったら、あの子を殺してしま
﹁みんな何をするんだ!
泣きながら坂をのぼって、ミハイロフ通りをさして行っ
いる子供の胸に当たった。彼はきゃっと悲鳴をあげると、
そう猛悪になってきた。やがて一つの石が溝の向こうに
どうせ君たちのほうから
けられた。見ると、こっちの子供らのかくしにも、用意
こうしてまた石合戦が始まったが、今度は前よりいっ
うじゃないの!﹂アリョーシャは叫んだ。
た。すると、大ぜいの者は﹁やあい、こわくなって逃げ
は
の石がいっぱいにつめてあった。
彼はおどり出て、身をもって溝川の向こうの少年をか
出しやがった。やあい、ばか野郎!﹂と 喊声 をあげた。
六
ばおうとして、飛んで来る石に向かって突っ立った。三
﹁あいつがどんなに卑怯なやつか、あんたはまだ知らな
恥ずかしくないのかえ!
人の子供はちょっとのあいだ、投げるのを控えた。
いんですね、あいつは殺したって足りないやつです﹂と
かんせい
﹁だって、あいつから先に始めたんだもの!﹂赤いシャ
短い上着を着た少年が眼を光らせながら言った。仲間で
﹁あれがいったいどんな子だって?﹂とアリョーシャは
いちばん年上の者らしかった。
ツを着た少年が、腹を立てて、子供らしい声でどなった、
ひきょう
切りつけて、血を出したんですよ。クラソトキンはいや
﹁あいつは卑
怯 なやつだ。さっきクラソトキンをナイフで
282
283
﹁あのね、ひとつあいつにこう聞いて御覧、おまえはぼろ
たちはすぐに引き取った。
﹁あんたの方を見てる、あんたの方を見てる!﹂と子供
たの方をじろじろ見てる﹂
ちょっと、あいつまたじっと立って待ってますよ。あん
すぐあいつを追いかけて聞いて御覧なさい、 ⋮⋮ほら、
フ通りへ?﹂と前の少年がことばをついだ、﹁そしたら、
﹁あなたもやっぱりあちらへ行くんでしょう、ミハイロ
いた。
子供たちはばかにしたように、互いに顔を見合わせて
聞いた、
﹁告げ口やだとでもいうの?﹂
て、不意打ちに君を切るかもしれんよ、あのクラソトキ
つは君だって恐れやしないから、いきなりナイフを出し
﹁気をつけなよ﹂と子供たちは後ろから注意した。
﹁あい
た。
て、のけ者にされている子供の方へまっすぐに進んで行っ
アリョーシャは橋を渡って、垣根に沿うた坂道をのぼっ
だした。
﹁聞いて御覧、開いて御覧よ!﹂と子供たちはまた笑い
るよ⋮⋮﹂
ちがあの子をそんなに憎むのか、あの子に直接聞いてみ
てるのに相違ないんだもの。それよりは、どうして君た
だって、君たちはこの糸瓜でもって、あの子をからかっ
ロフが大きな声で警戒した。
﹁いやだって言ったら、君はぶんなぐられるよ﹂とスムー
た。
を、子供たちはアリョーシャをじっと見つめるのであっ
すると一時にどっと笑った。アリョーシャは子供たち
て聞くんですよ﹂
見すえていた。子供は体に合わない無格好な、ひどく時
うことを見てとった。大きな黒い眼は恨めしそうに彼を
い弱々しい、痩せて青白い、細長い顔をした子供だとい
の前に立っている少年が、まだ九つを越さない、背の低
た。ぴったりとそばへ寄ったとき、アリョーシャは自分
少年はじっとその場を動かないで、彼を待ち受けてい
ンのように⋮⋮﹂
へちま
ぼろになった風呂場の 糸瓜 が好きかって、ね、そう言っ
﹁いや、 僕はそんな糸瓜のことなんぞ聞きゃしないよ、
284
﹁僕、あっちで聞いて来たんだが、君は僕を知ってて、わ
年は叫んだ。
﹁僕だってスムーロフの頭へ当ててやったんだ!﹂と少
アリョーシャが言った。
﹁だけど、石が一つひどく君に当たったじゃない?﹂と
彼はいきなり眼を光らせながら言いだした。
一人であいつらをみんな負かしてやる﹂
﹁僕は一人きりだけど、相手は六人もいるんだ⋮⋮僕は
自分のほうでも力を抜いて先に口をきった。
ら推して、彼に自分をなぐる気がないことを知ったので、
げにその顔を見守った。少年はアリョーシャの眼つきか
アリョーシャは彼から二歩ばかり前に立って、いぶかし
た両方のかくしには石ころがいっぱいにつまっていた。
その上からインキを塗ったあとが見える。ふくれあがっ
右のほうの靴は、親指にあたる爪先に大きな穴があいて、
出して、ズボンの左の膝には大きなつぎが当たっていた。
代のついた外套を着ていた。あらわな手を両袖から突き
はふり返って彼の方を見ただけで、そのまま向こうへ行
にちょっと応戦の身構えをした。 しかし、 アリョーシャ
が飛びかかってくるに相違ないと思ったらしく、ついで
シャを見送りながら叫んだが、今度こそ必ずアリョーシャ
も変わらず憎々しげな、いどむような眼つきで、アリョー
﹁やあい、坊主のくせに絹の 股引 をはいてる!﹂少年は相
からね。じゃ、さよなら!﹂
てたけれど、僕は君をからかう気なんか少しもないんだ
ちにいる子供たちは、しきりに君をからかってるって言っ
君を知らないんだから、君をからかいもしないよ。あっ
﹁じゃ、僕行こう﹂とアリョーシャは言った、
﹁ただ、僕は
げに眼を光らせた。
のように、その場を動こうともせずに、またもや恨めし
叫んだ。しかも、今もなおなにかしら待ち受けているか
﹁うるさいよ!﹂だしぬけに子供は 癇癪声 を張り上げて
とアリョーシャは質問をすすめた。
﹁僕、君を知らないけれど、君は本当に僕を知ってるの?﹂
子供は沈んだ眼つきをして彼をながめた。
かんしゃくごえ
ざと僕を狙って投げたんだってね?﹂アリョーシャはこ
きかかった。が、三歩とも踏み出さないうちに、少年の
ももひき
う聞いた。
285
ところが、アリョーシャがうまく身をかわしたので、石
げつけた。しかも、今度は顔のまん中を狙ったのである。
が、少年は死にものぐるいになって、またしても石を投
は本当なんだね﹂とアリョーシャはふり返って、言った。
子供たちが、君はいつも不意打ちばかりすると言ったの
﹁君はうしろからそんなことをするの?
あっちにいた
のポケットにある石の中で、最も大きなものであった。
役げた石が彼の背中を強く打った。しかも、それは少年
どまる一分間ほどかかったが、少年はじっと立ったまま
のところをしっかりと巻きつけた。そのあいだ、ほとん
流れてきた。アリョーシャはハンカチを取り出して、傷
を深さ骨に達するほど歯を立てられて、血がたらたらと
前と同じ隔たりをおいて突っ立った。指は爪のすぐそば
げた。少年はついに、指を放して後ろへ飛びのくと、以
をもぎとろうとしながら、痛みに耐えかねて叫び声をあ
うともしなかった。アリョーシャは精いっぱい自分の指
かみついて、しっかり食いついたまま、十秒間ほど放そ
ひじ
は彼の 肘 に当たった。
かかってこないのを見ると、まるで小さな野獣のように、
な風で、そればかりを待ち構えていた。が、彼が今度も
びかかってくるに相違ないと思って、黙々と、いどむよう
少年は今度こそもうアリョーシャが、きっと自分に飛
いうんだろう?﹂と彼は叫んだ。
少年はきっとして彼の顔を見つめた。
い、何をしたというの?﹂
う、ね?
んひどくかんだじゃないか。でも、これで気がすんだろ
﹁さあ、これでいい﹂と彼は言った、
﹁ね、御覧、ずいぶ
かな視線を向けた。
待ち受けていた。ついにアリョーシャはその方へおだや
すっかり夢中になってしまって、いきなりおどり上がっ
﹁僕はまるで君を知らないし、会ったのも今がはじめてな
君に僕が何をしたと
て、自分のほうからアリョーシャに飛びかかった。こち
のに﹂アリョーシャはやはり落ちついた調子でこう言っ
﹁よく君は恥ずかしくないねえ!
らが身をかわす暇もないうちに、両手で彼の左手を握り
た、
﹁しかし、僕が来もしないってはずはないだろう。君
さあ、今度こそ教えてもらおう、僕がいった
しめて、首をかがめたと思うと、いきなりぎゅっと中指に
286
れにしても、今はそんな暇はないのである。
思議な 謎 を解かなければならないという気になった。そ
るらしかった。彼はおりを見てこの少年を捜し出し、不
送っていた。少年はやはり声をあげて、泣き泣き走ってい
向きもしないで、遠く走って行く少年を、長いあいだ見
て行った。そしてやはり歩調をゆるめずに、後ろをふり
はそのあとを追って、静かにミハイロフ通りの方へ歩い
いきなりアリョーシャのそばを駆け出した。アリョーシャ
返事の代わりに、少年は不意に大きな声で泣きだして、
て、どんな悪いことをしたというの?﹂
いだろう。僕がいったい、何をしたというの、君に対し
がなんのわけもなしにあんなに僕をいじめるって法はな
﹁あのおかたは今日お亡くなりなさいます﹂
ておやりなすったのです!﹂
くださいましたか、あのおかたは母親に息子を取り戻し
﹁みんなにひろめてくださいましたか、みんなに見せて
﹁ええ拝見しました﹂
と夫人は早口に、いらいらしているように言いだした。
わたしの手紙を御覧になりまして?﹂
﹁あなた、あなた、あなたは新しい奇跡のことを書いた
て控え室まで駆け出した。
もかなりにまれであった。彼女はアリョーシャを出迎え
大きかった。しかもなお夫人がこの郡へ来ることは、今
それにこの郡にある領地が、夫人の三つの領地の中では
ていたが、この町にも先祖から伝わった家を持っており、
なぞ
ほどなく彼はホフラーコワ夫人の家に近づいた。それ
ません!
なければ誰かほかの人と、このことを話したくてたまり
わたしはあなたと話したくてたまりません!
﹁そうですってね、聞きましたわ、知ってますわ。ああ、
は夫人の持ち家で、この町でも最も美しい立派な石造の
わ。ですけれど、わたし、長老様にどうしてもお眼にか
四 ホフラーコワ家にて
二階建てであった。ホフラーコワ夫人はたいていは、自
かれないのが、残念でたまりません!
町じゅうのもの
いいえ、やはりあなたと、あなたに限ります
あなたで
分の領地のある他の県と、自宅のあるモスクワに暮らし
287
う! 今あちらへあなたの兄さんが、といっても、あの昨
すっかりまごついてしまいましたわ。どうしたのでしょ
おかたでしょう、︱︱︱まあ! アレクセイさん、わたし
それに、あなたの御兄弟のドミトリイさんはなんという
の人の立場だったら何をしでかしたかわかりませんよ!
ね
ちもすっかり⋮⋮ C’est tragique
︵ ほんとに悲慘です
︶わたしがあの人の立場にいたら、︱︱︱わたしがあ
聞きました、⋮⋮そして、あの⋮⋮ 売女 の恐ろしい仕打
の。わたしは昨日あの人のところであったことを詳しく
﹁わたし、すっかり存じてますわ、すっかり知ってます
僕にくれぐれもおっしゃったのです﹂
う。 あの人が今日ぜひたずねてくれるようにと、 昨日、
だ、
﹁じゃ、僕はお宅であの人に会わしていただきましょ
﹁えっ、それは好都合でした!﹂とアリョーシャは叫ん
いらっしゃるのを御存じ?﹂
れど、今⋮⋮あなた、カテリーナさんが今、ここへ来て
が大さわぎをして、誰も彼も待ち受けているのです。け
聞くが早いか、もうさっそくヒステリイを始めるんです
り起こすんでしょう! あなたがおいでになったことを
え、いったいどういうわけで、リーズはヒステリイばか
ん肝心だということさえ忘れてるじゃありませんか。ね
とですの。まあ、わたしともあろう者が、これがいちば
し上げなければなりません。しかも、いちばん肝心なこ
に詳しく、お話ししますが、今はちょっと別なことを申
待ちかねていましたの! 第一わたし、あんなことを見
りませんか。わたし、あなたを待ちかねていましたの!
しながら、かえってそれを楽しんでいらっしゃるじゃあ
ようとしてらっしゃるのです。しかも自分でそれを承知
二人ともなんのためだかわからないことで、命まですて
まさかと思うような、恐ろしいおとぎばなしですよ。お
なに恐ろしいことでしょう。 あれはあなた破裂ですよ。
あいだにどんなことが始まってるでしょう、まあ、どん
あなた、本気になさらないでしょうけれど、今お二人の
るんですよ。そのお二人の話が実にたいへんなんですよ。
ばいた
日の恐ろしい兄さんじゃありませんよ、も一人のほうの
からね﹂
ているわけに行きません。まあ、このことはあとですぐ
イワンさんが、あの人といっしょにあちらにいらっしゃ
288
てい ました の!
早く夜が明けて、ヘルツェンシュトゥ
など、夜通し体が悪くって、熱に浮かされながらうなっ
はたいへんに体 が悪いんですよ、アレクセイさん、昨晩
て、ちっとも不思議はありませんよ。もっとも、あの子
のために、わたしまでヒステリイを起こしたからといっ
﹁ちっとも不思議はないよ、リーズ、おまえの気まぐれ
は思ったものの、そこまでは見分けがつかなかった。
ら、このすき間から自分をのぞいているのに違いないと
た。おそらくリーズは例の肘椅子から身を乗り出しなが
であった。アリョーシャはすぐにこのすき間に気がつい
間はかなり小さかったが、まるで 罅 のはいったかのよう
屋にいるリーズのかん高い声が聞こえてきた。そのすき
あたしじゃなくってよ﹂不意に戸のすき間から、次の部
﹁母さん、 今ヒステリイを起こしてるのはお母さんで、
ておあげなさいな︱︱︱﹃昨日のことがあったあとで、あ
今はいってらしたアレクセイ・カラマゾフさんにそう言っ
かたいへん気のきいたことが言いたかったらね、母さん、
しゃるんでしょう。もし名誉回復のために、さっそく何
﹁まあ、母さんてば、なんてそんな間の抜けたことをおっ
んだからね﹂
たじゃないの。あれは、おまえに番兵を言いつかってる
はいって来て、このかたのいらっしゃったことを知らせ
﹁嘘 を言ってますね、リーズ、ユーリヤ︵
て言ったのは、そんなことのためじゃないわよ﹂
ちっとも知らなかったのよ。あたしがこの部屋へ来たいっ
﹁母さん、あたし、アレクセイさんのいらしったことを、
を引っぱって来てくれと申しましてね⋮⋮﹂
そのまま発作を起こしましたの。そしてこの部屋へ椅子
と、アレクセイさん、この子はすぐに大きな声を立てて、
ひび
ベが来てくれればいいがと、どんなに待ち遠しかったか
んなにさんざんひやかされたのもおかまいなしに、今日
︶が
しれませんわ。ところがあのお医者様は、どうも手当て
ずうずうしく家へ来る気におなんなすったということ一
下女
がしにくい少し経過を見なくちゃならんとおっしゃるん
つで、あなたは自分の間抜けを証明していらっしゃいま
うそ
ですの。いつ来てみても、なにもわかりませんの一点張
すね﹄って⋮⋮﹂
からだ
りなんですからね。あなたが家のそばまでいらっしゃる
289
の恐ろしいいつまでたっても際限のないヘルツェンシュ
と、おまえの病気と、あの恐ろしい、夜通しの熱と、あ
﹁まあ、リーズ、おまえの気まぐれと、うわついた気持
﹁いったい、母さん、どうなすったの?﹂
当に不仕合わせですわ!﹂
いかたなんですよ、ああ、アレクセイさん、わたしは本
いんですよ。このかたはね、わたしにはなくてはならな
わたしはこのかたの来てくだすったのが、たいへん嬉し
たい、誰がこのかたをひやかしてます? それどころか、
ておきますが、しまいには容赦してはおきませんよ。いっ
﹁リーズ、あんまり言いすぎますよ。本当に、前から言っ
ンカチは血に染まっていた。ホフラーコワ夫人は悲鳴を
アリョーシャは子供にかまれた指を解いて見せた。ハ
て、それがしくしく痛んでたまらないものですから﹂
れいな小ぎれをくださいませんか。ひどく 怪我 をしまし
リョーシャが話をさえぎった、
﹁何か指を巻くような、き
﹁僕、折り入ってお願いがあるんですが﹂といきなりア
何もかもみんなつまらない気がするじゃありませんか﹂
でしょう! しょっちゅう、こうして眼をふさぐたびに、
られるでしょうか?
ゾシマ長老は明日まで大丈夫でしょうか、え、生き延び
悲劇でなくって喜劇かもしれませんわ。ところで、あの
とても見ていられないんですよ。 でも、 もしかしたら、
け が
ああ、本当にわたしはどうしたん
トゥベと⋮⋮まあ、何よりもいやなのは、いつまでも、い
あげて、眼を細めた。
しかし、リーズは戸のすき間からアリョーシャの指を
そのうえに、まだい
奇跡までがね!
見るやいなや、いきなり力いっぱい戸をあけ放してしまっ
つまでも果てしのないことです!
ためにどんなに驚かされ、どんなショックを受けたかわ
た。
﹁あらまあ、なんという傷でしょう、本当に恐ろしい!﹂
かりません! おまけに、あそこの客間では、とても見て
﹁はいってらっしゃい、あたしの方へはいってらっしゃ
ろんなことがあるじゃないの?⋮⋮それからまた、あの
いられないような悲劇が起こってるでしょう。いえ、た
い﹂ と彼女は命令するような力のこもった声で叫んだ、
アレクセイさん。わたしはあの奇跡の
まりませんわ、わたし、前からあなたに言っておきます、
わかりません﹄と言うに決まってるわ。水を、水を! 母
たのヘルツェンシュトゥベなんか来たって、
﹃どうしても
﹁お母さんは、あたしを殺してしまうつもりなの。あな
人は叫んだ。
﹁ヘルツェンシュトゥベを呼んで来ましょうか?﹂と夫
与えたのである。
くりしてしまった。アリョーシャの傷が恐ろしい印象を
早くさ﹂と彼女は神経質に叫んだ。彼女はすっかりびっ
てよ。早く、早く水を、母さん、うがい茶碗へ⋮⋮ねえ、
いわ、じっとそのまま、⋮⋮そうすると、痛みが止まっ
冷たい水の中に浸して、そのままじっとしてるほうがい
のに水がいるわ! 水がいるわ! だけど、それよりは、
こんな怪我をなすったの! まあ、何より先に傷を洗う
出てだめになってしまうじゃないの!
あなた、どこで
んな時に、黙ってぽかんと立ってらっしゃるの? 血が
﹁もう冗談どころじゃないんだよ! まあ、なんだってこ
な恐ろしい怪我をなすったんですの?﹂
るじゃありませんか。ですけれど、どこであなたはそん
クセイさんは御自分の不幸を、立派にこらえてらっしゃ
んなに心配することはありませんよ。御覧なさい、アレ
﹁すぐ持って来るから、そんなに騒がないでおくれ、そ
ゼがあるのよ⋮⋮﹂
母さんの寝間の右側にある戸棚よ、あそこにびんとガー
存じでしょう、あの薬のびんがどこにあるか。ほら、お
にあるわ、あるわよ、あるの、あるのよ⋮⋮母さん、御
濁った薬があったでしょう。なんといいましたっけ! 家
ガーゼを!
﹁お母さん、後生だからガーゼを持って来てくださいな、
を浸した。
水を持って駆けこんで来た。アリョーシャはその中へ指
母と子の驚き方にびっくりしてこう叫んだ。ユーリヤは
﹁こんなことなんでもありませんよ!﹂アリョーシャは
さ、母さん、でなければ、あたし死んじまってよ!⋮⋮﹂
ばかりを待ちかまえていた。
それからあの切り傷につける、気持の悪い
さん、後生だから、御自分で行って、ユーリヤをせき立
ねえ早くってば
ホフラーコワ夫人は出て行った。リーズはただ、それ
に合ったことなんかないんですもの?
ててちょうだい。あの女は鈍くて、用を言いつけても間
290
291
あ、今度は第二の話ですが、その前に聞いておかなくて
にはきっと何かいわくがあるに相違ないんですもの。さ
たしにすっかり話して聞かしてちょうだい、だって、それ
ど、その生意気な小僧のことはぜひとも探り出して、わ
もやはり坊やなのねえ、すっかり坊やなんだわ! だけ
に叫んだ、
﹁そんなことをなさるところを見ると、あなた
に対して、何かの権利でもあるかのように、腹立たしげ
掛かり合うなんて!﹂と彼女はまるで自分がアリョーシャ
﹁まあ、そんな着物を着たままで、ちっぽけな子供たちに
は両手を打った。
正確に、はっきり物語った。聞き終わったとき、リーズ
小学生との謎のような遭遇を大急ぎで、簡単に、しかも、
なに貴いかをアリョーシャは本能的に悟ったので、例の
母夫人の帰って来るまでの時間が、彼女にとってどん
お話ししますから。さあ!﹂
えてちょうだい。そのあとでわたしまるで違ったことを
なた、そんなお怪我をなすったのか、それをまっ先に教
﹁まず第一に﹂とリーズは早口に言いだした、
﹁どこであ
に返してちょうだい、返してちょうだい!﹂
ろうと思って、ゆうべ夜っぴて後悔したのよ。さ、すぐ
にあるわよ。あたし、どうしてあんなばかなことをした
しゃるだろうとは思ってたの。あの手紙はこのポケット
﹁嘘おっしゃいよ、持ってるくせに。あたし、そうおっ
﹁僕は今あの手紙を持っていないんです﹂
ませんから。あたしはもう⋮⋮﹂
今すぐよ、だってお母さんが今にも帰って来るかもしれ
あたしが昨日あなたに上げた手紙を返してちょうだい。
にとりかかってよ。アレクセイさん、今すぐあの手紙を、
おいで、さあ、あれも行ってしまったから、わたし用事
かけらを穴蔵から出して、別のうがい茶碗に水を入れて
かくなってしまいますものね。ユーリヤ、大急ぎで氷の
を入れ替えなくちゃなりませんわ。でないと、すぐに暖
﹁それはあなたが指を水の中へつけてるからよ。もう水
﹁できますとも、今はそうたいして痛くありませんから﹂
じめに話さなくちゃだめなの﹂
ることができますか?
はその傷が痛んでも、思いきってつまらないお話しをす
つまらないことといっても、ま
はならないことがありますわ。アレクセイさん、あなた
292
なばかなことをしたのは、あなたに済まないと思います
娘と思わないではいられないでしょう!
はいつまでもあなたを愛します。これまでに僕は落ち着
そして法律で決められた時が来たら結婚しましょう。僕
から僕はまた学校へはいって試験を受けるつもりです。
にそう思いました︱︱︱これは本当にこのとおりになるに
けれど、手紙だけはぜひ持って来てちょうだい。もし本
いて考えてる暇がなかったんですけれど、それでもあな
﹁僕あっちへ置いて来たんです﹂
当に今持ってらっしゃらないとすれば、今日にでも来て
た以上の妻を見いだすことはできないと思いました。そ
相違ないって。なぜって、僕はゾシマ長老がおかくれに
ちょうだい、きっとよ、きっとよ!﹂
れに長老も僕に結婚せよとおっしゃいましたし﹂
﹁でも、あなたはあんなばかなことを書いた手紙を読ん
﹁今日というわけにはどうしてもいきません。なにしろ、
﹁だって、わたしかたわよ。肘椅子に乗せて引っ張って
なったら、すぐに寺を出なければならないんです。それ
寺へ帰りますと、もう二日三日、ことによったら四日ば
もらってるのよ﹂とリーズは頬をかすかに赤らめながら
で、あたしをほんの小娘⋮⋮ちっぽけな、ちっぽけな小
かり、こちらへはまいりませんからね、だって、ゾシマ
笑いだした。
あたし、あん
長老が⋮⋮﹂
﹁あなたはわたしを侮辱なさるのね?﹂
﹁それはあなたをすっかり信用したからです﹂
﹁どうしてですの?﹂
﹁僕は少しも笑いやしません﹂
たは思う存分、あたしのことを笑ったでしょう?﹂
﹁四日ですって、そんなばかげたことを!
なたはそんなにいつもいつも、のろいんでしょうね。ど
母さんだわ、かえって好都合だわ。母さん、どうしてあ
そんなばかなことを言いだすんですもの!⋮⋮あら、お
質らしく、言いだした、﹁あんな冗談をまじめにとって、
﹁あなたは気が違ったんじゃなくって?﹂とリーズは神経
れまでにはよくなると思いますよ﹂
﹁僕は自分であなたを引っぱって歩きます。しかし、そ
ねえ、あな
﹁どういたしまして、僕はあの手紙を読んだとき、すぐ
293
なんなすったのね﹂
さん、あなたはたいへん気のきいたことを言うようにお
かってたら、本当にわざとそうしたかもしれないわ。母
知るわけがないじゃありませんか。もしそれが前からわ
﹁だって、この人が指をかまれて来ようなんて、まるで
ら、おまえわざとあんなことをしたんじゃないの﹂
わたしさんざん捜したんじゃないの、⋮⋮ことによった
で別なところへガーゼをしまいこんでるんだもの、⋮⋮
と、⋮⋮だってしかたがないじゃないの、おまえがまる
い だ か ら、 そ ん な 声 を。 わ た し は そ の わ め き 声 を 聞 く
﹁まあ、リーズ、そんな声を立てないでおくれ︱︱︱お願
うユーリヤが氷を持って来たわ!﹂
いの。おそろしいじゃないの?﹂
の人がお嫁さんをもつなんて、考えてもおかしいじゃな
て言うんですもの、おかしいわね、母さん。ほんとにこ
んかできやしないわね。だって、この人は結婚したいっ
じゃなくって?
傷なんですとさ。ねえ、この人やはり赤ん坊だわ、そう
すってさ。そして、これはね、その中の一人にかまれた
うでしょう、この人は途中で 餓鬼 どもと 喧嘩 をしたんで
したわ、だけどこれはいい薬よ。ところで、お母さん、ど
ラード液だわ。アレクセイさん、今やっと名前を思い出
﹁さあ、はやくガーゼをちょうだい。これはただのグー
なんかたくさんだわ﹂とリーズはおもしろそうに叫んだ。
﹁たくさんだわ、母さん、ヘルツェンシュトゥベのこと
ら、わたしとしてしんぼうがしきれないんですよ﹂
﹁気のきいたことでもどうでもいいけれど、まあ、リー
リーズはずるい眼つきをしてアリョーシャを眺めなが
ほら、も
ズ、アレクセイさんの指といい、そのほかのことといい、
ら、絶えず小気味悪く、かすかに笑うのであった。
うしてそんなに手間がとれるんでしょうね!
どんな気持がするとお思いだえ! ああアレクセイさん、
﹁え、どうして結婚なんてことを、リーズ、なんだってお
そんなこ
ねえ、そんなことをする子供に結婚な
けんか
わたしを困らすのは一つ一つの事柄じゃありません、ヘ
まえはそんなことをだしぬけに言いだすの?
き
ルツェンシュトゥベなんかのことじゃありません。みん
とを言う場合じゃありませんよ⋮⋮それに、その子供は
が
な全体ひっくるめてです。みんないっしょにです。だか
294
ないの﹂
ひょっとしたら、 恐水病にかかってるかもしれないじゃ
だって、あんなに痛がってらっしゃるんですもの﹂
な、 この人は今すぐいらっしゃるわけにいきませんわ。
﹁まあ、母さん!
ぐおまえはそんなばかなことをもちだすんだもの。とき
りあわてて、恐水病の子供なんて言いだしたけれど、す
﹁さあ、もうたくさんよ、リーズ。全くわたしもあんま
尋ねた
﹁ときにあなたは水がこわくありませんの?﹂リーズは
﹁もうたいしたことはありません﹂
できませんわ。今でも痛みますの?﹂
したねえ、アレクセイさん。わたしには、とてもうまく
なるんですよ。まあ、リーズは、じょうずに包帯をしま
としたなら、今度はその子供が、手近の人をかむように
言ったみたいだわね。もしその子供に狂犬がかみついた
﹁いないって、なぜ?
んて、そんな御心配には及びませんよ。あなたはまっす
レクセイさん、カテリーナさんのあとでここへ寄ろうな
﹁母さん、早くこの人を連れて行ってちょうだいな。ア
思ってますからね﹂
僕はどっちにしろ今日は、できるだけ早く寺へ帰ろうと
テリーナさんに会いたいわけがあるんですよ。なにしろ、
るだけお話ししましょうよ。だって、僕は今、とてもカ
またここへ帰って来ますよ。そしたらあなたのお気に入
﹁なんですか? なあに、僕はあっちの用をすましたら、
は?
﹁なんですって、あなたいらっしゃるの?
とアリョーシャは言った。
﹁けっして痛がってはいません、平気で行けますよ⋮⋮﹂
あなた一人であっちへいらっしゃい
﹁あら、お母さん! 恐水病の子供なんているものなの?﹂
に、カテリーナさんはあなたのいらっしたことを聞くと、
ぐにお寺へいらっしゃい。そのほうが本当ですよ。わた
まるでわたしがばかなことでも
さっそくわたしのところへかけつけてらしったんですよ。
し眠たくなっちゃったわ。 ゆうべちょっとも寝なかった
じゃあなた
あなたを待ちこがれていらっしゃるのよ、たまらないほ
もんですから﹂
じゃあなたは?﹂
ど⋮⋮﹂
295
﹁まあ、リーズ、そんな冗談を言うもんじゃなくってよ。
﹁じゃ、わたしもおまえを。ところで、アレクセイさん﹂
げるわ﹂
にするのはつらいですね。アレクセイさん!
せるのがこわくてなりません。ああ、神経質の女を相手
れがひどすぎますよ、わたし、この子の気をいらいらさ
しょう、アレクセイさん。この子は今日あんまり気まぐ
﹁リーズ、おまえは気でも違ったのかい。さあ、まいりま
てってちょうだいよ、この人はお化けだわ!﹂
﹁五分でもって! ねえ、お母さん、早くこの人を連れ
シャはつぶやいた。
ほどここにいます。もしなんなら、五分でも﹂とアリョー
﹁僕にはわかりません、どうしてこう⋮⋮僕はもう三分
んだ。
でも、本
うよ﹂
出されなかったら、しまいまでじっとすわっていましょ
たしはあなたといっしょにはいって行って、もしも追い
いると、強情を張りなさるって。恐ろしいわねえ!
るのに、御自分では一生懸命にドミトリイさんを愛して
い狂言ですよ!
ましょう、本当に恐ろしいことです。ひどく突拍子もな
覧なすったら、御自分であすこの様子がおわかりになり
幕を上げるつもりもありませんよ。けれど、はいって御
しは、あなたに何もほのめかす気もありませんし、この
めかしいものものしい調子で早口にささやいた、
﹁今わた
アリョーシャといっしょに部屋を出ながら、夫人は秘密
やす
でも、本当に寝 んだらどう!﹂とホフラーコワ夫人は叫
当にこの子はあなたのそばにいるうちに、眠くなったの
わ
あの人はイワンさんを愛してらっしゃ
かもしれませんよ。まあ、よくそんなに早く、この子に
五 客間における破裂
でしたわ!﹂
しかし、客間ではもう話が済んでいた。カテリーナは
眠気をつけてくださいましたわね、本当にいいあんばい
﹁あら、まあ、お母さんはたいへん愛想のいいことが言
思いきったような風をしていたが、ひどく興奮してい
ごほうび
えるようになりましたわね。 御褒美 にあたし接吻してあ
296
かえってイワンの競争を喜んでいる、そのほうがいろい
に、昨日ドミトリイが不意に彼に面と向かって、自分は
争が恐ろしくてたまらなかった。そうこうしているうち
は二人とも愛していたので、二人のあいだのこうした競
が、しかも実に不思議なことに思えてならなかった。彼
で、このことはアリョーシャには、ひどく心配ではあった
を、ほのめかされていたのであった。ついこのあいだま
ミーチャの手から﹃横取り﹄するつもりでいるという噂
から、兄のイワンがカテリーナに思いを寄せて、実際に
ているからであった。一月ほど前から彼はいろんな方面
彼を悩ましていた一つの不安な謎が、解決されようとし
アリョーシャにとって一つの疑惑が、いつのころからか
リョーシャは心もとなくのぞきこんだ。というのは、今
うとしていた。彼の顔はいささか青ざめていたので、ア
人がはいって来たのであるが、イワンは席を立って帰ろ
た。ちょうど、そのときアリョーシャとホフラーコワ夫
テリーナはイワンを愛しているのに、何かの 戯 れのため
カテリーナのところでの恐ろしい場面を夢みていた。カ
けに﹃破裂、破裂﹄と叫んだからである。彼は夜通し例の
く自分で自分の夢に答えるつもりであったろう、だしぬ
朝の夜明けごろ、うつらうつらしているうちに、おそら
やうく彼を震えあがらせるところであった。つまり、今
ホフラーコワ夫人の言った﹃破裂﹄ということばは、あ
会って、いきなり別な考えが彼の心を打った。たった今、
のであった。ところが、昨日グルーシェンカの騒ぎに出
考えが、どういうわけか、絶えず彼の心に浮かんでくる
しても、現在のままの兄を愛しているに相違ないという
イを愛している、いかにこのような愛が奇怪に見えると
日の夕方までであった︶。おまけに、︱︱︱彼女はドミトリ
のとばかり思いこんでいた︵しかし、この信念もただ昨
ナ自身も熱情的に、 執拗 に兄ドミトリイを愛しているも
のみならず、彼はつい昨日の晩まで、てっきりカテリー
んなことは自暴自棄な最後の手段としか思えなかった。
しつよう
ろな点において自分のために都合がよいと言ったのであ
に、何かの﹃破裂﹄のために、いたずらに自分を欺いて、
何やら感謝の念でも現わしたさに、兄ドミトリイを愛し
たわむ
グルーシェンカ
しかしアリョーシャには、こ
る。どうして都合がよいと言うのか?
と結婚するためなのか?
297
いたのである。彼が客間にはいったとき、こうした動揺
の中で、イワンに関してこういう風な考えを形づくって
はずがないのである。アリョーシャはどういうわけか、心
服することもできないし、また屈服しても幸福になろう
た︶
。しかし、イワンはそうではない。イワンは彼女に屈
相違ない︵それはアリョーシャのむしろ望むところであっ
も、いつかは彼女に屈服して、しかも幸福を感じ得るに
たしかにドミトリイは、たとい長い月日を要するとして
男であって、 けっしてイワンではないのだと直感した。
ところが、彼女に支配できるのは、ドミトリイのような
リーナのような性格は、何かを支配せずにはいられない、
であろう? アリョーシャは一種の本能によって、カテ
しかし、もしもそうだとしたら、イワンの立場はどう
が含まれているのかもしれん!﹄と考えたのである。
だ、ことによると、実際にあのことばには、十分の真実
聞いて、アリョーシャは心をうたれたのであった。
﹃そう
今ホフラーコワ夫人があけすけに、しつこく言ったのを
ているように見せかけて、わが身を苦しめているのだと、
ばであった。してみると、イワンの眼から見て、ドミト
兄が父とドミトリイのことで、憤慨しながら言ったこと
﹃一匹の蛇が他の一匹を 咬 み殺すのだ﹄とは、昨日イワン
ということは、彼にも本能的にわかっていた。
り、その解決のいかんによっては、非常な結果を生ずる
の兄の運命から見ると、この争いは実に重大な問題であ
考えずにいるわけにもいかなかったのである。今、二人
中でこういって自分を責め立てるのであった。といって、
ういったような考えや臆測をした後で、必ず彼は、心の
ら? いったい、どうしてこんな結論ができるのか?﹄こ
んかに愛だの女性だのということが少しでもわかるかし
に、自分で自分を責めるのであった。
﹃いったい、自分な
あいだ、どうかして、こういう考えが浮かんでくるたび
自分の考えを恥ずかしがるような気味で、この一か月の
ついでにいっておくが、アリョーシャはこういう風に
たらどうだろう?﹄と。
していなかったらどうだろう、二人とも愛していなかっ
て、彼の心に忍びこんできた。
﹃もしも、この人が誰も愛
が、またもや不意に、おさえることのできない力をもっ
か
と想像が彼の頭をかすめていった。するとまた別な考え
298
和が訪れるわけはないではないか?
な意味があるのだ。もしそうだとすれば、この場合、平
とに相違はないが、何心なく出ただけに、いっそう重大
なんの気なしに、イワンがうっかり口をすべらせてのこ
たときからではなかろうか?
それどころか、か
もとより、このことばは
かもしれない。ことによると、イワンがカテリーナを見
リイは蛇なのである。おそらく、ずっと前からそうなの
裂﹄ということばが出たが、しかしこの﹃破裂﹄という
さと混乱とに満たされているのである。 たった今、﹃破
る。ところが、今は何事も正確な目的の代わりに、 曖昧 て自然なやり方で、おのおのに助力を与えることができ
ぬ。こうして目的の正確なことを確かめてこそ、はじめ
た必要であるかということを、正確に知らなければなら
的を立てて、それぞれの人にどんなことが望ましく、ま
に救済に取りかかるのである。このためには確固たる目
が現われるだけではないか?
のが 混沌 としている中では、最初の一句からして、もう
ことばをなんと解釈したらいいのか?
あいまい
えって、一家のうちに、憎しみと、恨みとの、新しい根拠
シャにとっては、二人のうち誰に同情したらいいのか?
彼にはのみこめないのである。
はいったら、誰しも途方に暮れてしまうであろう。とこ
人に何を望んでやったらいいのであろう?
が心から信用しているこのおかたの御意見が聞きたいの
﹁ちょっと! ちょっと待ってください? わたしは自分
口に嬉しそうに話しかけた。
このあらゆるも
一人一人の者に何を期待してやったらいいのか? とい
カテリーナはアリョーシャの姿を見るやいなや、席を
ろが、アリョーシャの心は暗々裡に葬られることをいさ
です。奥さん、あなたも行かないでいてください﹂と彼
こんとん
うことが大きな問題であった。彼は二人の兄を両方とも
立ってもう帰りじたくをしているイワンに向かって、早
ぎよしとしない。なぜといって、彼の愛というものが実
女はホフラーコワ夫人に向かって、言うのであった。彼
それにしても、アリョー
愛してはいるが、この恐ろしい矛盾の中にあって、一人一
行的な性質のものだからである。消極的な愛は、彼には
女はアリョーシャを自分のそばへ坐らせた。夫人はその
この迷宮に
不可能なことであった。ひとたび愛したとなると、すぐ
299
自身わたしのある一つの動作を止めてくだすったんです
わたしの動作を覚えていらっしゃるでしょう。あなた御
したに相違ありません、⋮⋮アレクセイさん、あなたは
を現わし、あれと同じことばを吐き、あれと同じ動作を
とがもう一度くり返されたら、わたしはあれと同じ気持
ますの、それはね、もしも今日、いますぐあれと同じこ
せんけれど、たった一つよくわかっていることがござい
かたがわたしのことを、なんとお思いになったか存じま
けれど、あのかたは御覧になったのですよ。昨日このお
すわね。イワンさん、あなたは御覧になりませんでした
であったかということも、よく御存じでいらっしゃいま
を御自分で御覧になりましたわね。わたしがどんな様子
レクセイさん、あなたは昨日のあの⋮⋮恐ろしい出来事
シャの心は、またもや彼女のほうへ引き寄せられた。
﹁ア
その声はいいしれぬ苦しみの涙に震えていた。アリョー
友だちばかりです﹂彼女は熱しながら、こう言った。が、
わたしの親しいお友だちばかりですわ、わたしの大切なお
﹁ここにいらっしゃる皆さんは、世界じゅうにまたとない
向かい側のイワンと並んで腰をおろした。
まだすっかり言ってしまわないんですの。わたしの考え
肝心なことを申しておりませんの。 昨夜考えたことを、
﹁ちょっと待ってくださいまし、奥さん、わたしはまだ
夫人は叫んだ。
﹁そのとおりですわ!
ドミトリイを愛してはいないのだ!﹄
ある﹄と彼は考えた、
﹃それに⋮⋮それに、この人はもう
は心の中では、震えていた。
﹃この娘は、正直で、真心が
彼女の声は震え、 睫 には涙が光っていた。アリョーシャ
ないで、かえって、憎んだでしょうよ、⋮⋮﹂
りずっと愛しているのでしたら、可哀そうになんかなら
もしも、わたしがあの人を愛しているのでしたら、やは
るしとしては、あんまりたいしたものじゃありませんね。
わたし、あの人が 可 哀 そ うになりました。これは愛のし
人 を愛してるかどうか、 自分でもよくわかりませんの。
できません。それにわたし、今となっては、本当に あ の
ますけれど、わたしはいかなるものとも妥協することは
の眼は急に輝きだした︶。アレクセイさん、はっきり申し
ものね⋮⋮︵こう言いながら、 彼女は顔を赤くした。そ
まつげ
、
、
そのとおり!﹂とホフラーコワ
、
、
、
、
、
、
300
イさんにも、今わたしの二人の親友の眼の前で、この決
シャなどと呼び捨てにしました︶︱︱︱わたしはアレクセ
アレクセイさん、わたし、ついうっかりして、アリョー
﹁でも、あたし、アリョーシャにも︵あら、御免なさい、
かりした声で、イワンはこう言った。
﹁そう、僕は賛成しています﹂静かではあったが、しっ
くださいましたの、⋮⋮このかたはよく御存じですのよ﹂
の点においてわたしに賛成して、わたしの決心を 褒 めて
のたった一人のお友だちですけれど、このかたもすべて
のよくわかるかたで、世界じゅうにまたとない、わたし
永久に変わることのないわたしの相談相手で、人の気持
ます。イワンさんは優しい、親切な、鷹
揚 な心を持った、
ん、どんなことがあっても、一生涯この決心を押し通し
たしはもうどんなことがあっても、この決心を変えませ
しれません、それはわたしにも感じられますけれど、わ
は恐ろしいこと︱︱
︱わたしにとって、恐ろしいことかも
何より大事なことは名誉と義務です。それから、もう一
﹁この事件ですって、アレクセイさん、今、この事件で
言い足した。
とは何も知らないんです⋮⋮﹂彼はなぜかしら、口早に
分でもわかってますけれど、しかし、僕はこの事件のこ
むしろよけいあなたに幸福を望んでいます!
なたを愛しています、 僕は今自分自身に対するよりも、
よ﹂とアリョーシャは顔を赤らめながら言った、
﹁僕はあ
﹁あなたは僕にどうしろっておっしゃるかわかりません
のね、わたし前からそう思っていましたわ!﹂
いると、わたしも落ち着いて、あきらめられるんですも
ら感じていましたの。あなたのおっしゃることを聞いて
成さえあれば、わたしは気が安まるに相違ないと、前か
に苦しんでいますけれど、あなたの決心と、あなたの賛
きわまったかのように言うのであった、
﹁わたし、こんな
の熱した手でアリョーシャの冷たい手をとりながら、感
本当にわたしの可愛い弟なんですものね︶﹂と彼女は自分
おうよう
心が間違ってるかどうか、遠慮なく言っていただきたい
つ、なんと言っていいか、わかりませんけど、義務より
ほ
んです。わたし、虫が知らせたんでしょうか、あなたが、
も、もっと高いものがあるんです。心の中に、こういった
それは自
わたしの可愛い弟のアリョーシャが︵だって、あなたは
301
れど、そうしたら、わたしのところへいらっしってもか
もなんなすったら、それは今にも必ず起こることですけ
す。もしあの人があの女といっしょになって、不幸にで
は死ぬまで、たゆむことなく、あの人を見張るつもりで
へでも、お望みの町へ越して行きます。けれど、わたし
りませんの。いいえ、どういたしまして。わたしはどこ
るさく顔を出して、あの人を苦しめようというのじゃあ
にもあの人の後を追っかけ回して、あの人の眼の前へう
にほとばしったような調子で言うのであった、
﹁でも、な
の!﹂と彼女はやるせなげな、いたいたしい感激が、急
わ! 今からけっして、けっして、見すてないつもりです
げに言いだした︶ わ た し は や は り あ の 人 を 見 す て ま せ ん
とのできない 売女 と結婚なすっても、︵と彼女は重々し
が、あの⋮⋮わたしにはどうしても、どうしても許すこ
きます。わたしはもう決心しました。たとい、あのかた
行くのです。でも、何もかも一言で言い尽くすことがで
てます。そしてこの感情がわたしをぐんぐん引っぱって
ような押えることのできない感情があることは、わかっ
たらいいでしょうね︶、あの人の幸福の道具になります、
だもうあの人の幸福の手段になるばかりです︵どう言っ
からせてあげたいのです。わたしは、⋮⋮わたしは、た
そむいてしまったことを、一生のあいだに、よくよくわ
しているのに、あの人が間違った考えをもって、わたしに
が一度約束したことばを守って、一生涯あの人に忠実に
どい目にあったんですもの。わたしはあの人に、わたし
て、あの人がわたしにそむいたおかげで、昨日あんなひ
せます、︱︱︱それは少なくとも、あの人の義務です。だっ
だ、
﹁わたしはあの人の神になって、あの人にお祈りをさ
せるつもりです!﹂彼女はのぼせているかのように叫ん
もかも、わたしに打ち明けるように、是が非でもしてみ
の本心をわかってくだすって、なんの遠慮もなしに、何
どうしてもやり遂げます。あの人が、しまいにはわたし
もわかっていただきたいんです。わたしは、この目的を
てまでもあの人を愛していることを、最後にはあの人に
たしが本当の妹だということを、︱︱︱一生涯を犠牲にし
ですわ、それはもういつまでも、そのとおりですの。わ
を迎えます。⋮⋮もちろん、ほんの妹というだけのこと
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
ばいた
まいませんわ、わたしお友だちとして、妹としてあの人
、
これがわたしの決心な
で同じことです。そしてあの人にこのさき一生涯のあい
器械になります。これは一生涯、本当に一生涯、死ぬま
なただったから正しいのです。僕はなんと理由をつけた
のです。ほかの女だったら、嘘になったでしょうが、あ
ぎれなものになったでしょうが、あなただったから違う
だ、それを見ててもらいます!
女自身も、それに気がついたので、なんとなくその顔は、
も、ただの空
威張 りにすぎないような点も多かった。彼
かったし、ただ昨日の 癇癪 のなごりにすぎないような点
のである。おとなげなく感情に走りすぎたような点も多
りにも性急に、あまりにも露骨なものとなってしまった
えを話しするつもりであったろう。しかるに、結局、あま
と品位を保って、もっと巧妙に、もっと自然に、自分の考
彼女は息を切らしていた。おそらく、彼女はもっともっ
くださいました﹂
﹁そうです、そのとおりです﹂話の途中に口を出された
意見を述べた。
夫人も、こらえきれなくなって、不意にかなりに正当な
しいことを言うまいと決心していたらしいホフラーコワ
うものの意味なんです!﹂見受けたところ、さし出がま
う?
しかも、ほんのこの一瞬間というのは、どんなときでしょ
﹁でも、それはただこの一瞬間だけじゃありませんか⋮⋮
かってます﹂
があり、それゆえにまた正しいということは、ようくわ
らよいかわかりませんが、あなたがこのうえもなく真心
急に暗くなり、眼つきも悪くなってきた。アリョーシャ
のが不服だったらしく、イワンは急に一種の熱をもって、
イワンさんはこの決心に賛成をして
はすぐに、それに気がついて、同情の念が心の中でかす
さえぎった、
﹁全くそうです、しかし、ほかの人であった
のでございます!
かに動くのを感じた。ちょうどそのとき、兄のイワンも
ら、この一瞬間も、要するに昨日の印象にすぎないかも
何もかも昨日の侮辱、︱︱︱それがこの一瞬間とい
そばから口を出した。
しれません、 ほんの一瞬間にすぎないかもしれません。
かんしゃく
﹁僕はただ自分の考えを述べただけです﹂と彼は言った、
しかし、カテリーナさんのような性格のおかたは、この
からいば
﹁これがもし、ほかの女であったら、ごつごつして、きれ
302
303
あろう。
てやろうという気持を、隠すつもりさえもなかったので
らかに、わざとらしかったが、わざと冷笑的な調子で言っ
彼は一種の悪意を示して、きっぱりと言い放った。明
苦痛をあきらめさせてくれるでしょうよ⋮⋮﹂
て、十分な満足をあなたに与えて、そのほかいっさいの
を征服してしまったのですから、この気持は最後に至っ
にもかくにも、自暴自棄的なものですが、あなたはそれ
に、この企ては、あの意味では、誇らかなものです。と
いう楽しい思いに満たされるようになりますよ。たしか
には、きっぱりした、誇るべき企てを永久に果たしたと
のうち、この苦しみはだんだんに柔らいでいって、つい
手柄や、悲しみに包まれて、つらいでしょうけれど、そ
たの生活は、今のうちこそ、自分の感情や、自分自身の
むことのない義務になるのです。カテリーナさん、あな
に変わることのない、つらい、苦しい、おそらく、たゆ
ただの約束にすぎないようなことが、このかたには永久
一瞬間は、ついに一生涯に及ぶはずです。ほかの人には、
﹁明日、モスクワへ!﹂不意にカテリーナの顔が曲がっ
言った。
すわけにはゆきません⋮⋮﹂イワンはだしぬけに、こう
ないかもしれません、⋮⋮これは残念ながら、考えなお
へ向けて出立して、永久にあなたを見すてなければなら
﹁あいにく、僕はひょっとすると、明日あたりモスクワ
は、わたしもよく承知してますからね﹂
お二人がけっしてわたしを⋮⋮お見すてなさらないこと
から、いっそう気丈夫ですの、⋮⋮だって、あなたがた
ね、あなたやお兄さんのようなお友だちのそばにいます
を考えたので、頭が変になってるからですの。わたしは
と、彼女は泣きながら続けた、
﹁これは昨夜いろんなこと
﹁いいえ、なんでもありません、なんでもありません!﹂
から立ち上がった。
なり、さめざめと泣きくずれた。アリョーシャは長椅子
伺いたくてたまらないんですの!﹂とカテリーナは叫ぶ
さい!
﹁アレクセイさん、あなたもなんとかおっしゃってくだ
ですよ!﹂とホフラーコワ夫人は叫んだ。
わたしはあなたがなんとおっしゃるか、それが
﹁まあ、とんでもない、それはみんなたいへんな勘違い
たしには、あなたを失うのは、何よりの不幸なのですの
をお考えになるわけはありませんわ。それどころか、わ
おした、
﹁あなたのような親しいお友だちが、そんなこと
のいい世慣れたほほえみを浮かべながら、彼女は言いな
りません。むろんそんなことはありませんわ﹂急に愛想
﹁おお、けっしてあなたを失うのが仕合わせなのではあ
る女に変わったのである。
起こったかのように、ひどく満足そうな様子までしてい
急にすっかり落ち着き払って、何か急に嬉しいことでも
れたように泣いていた、はずかしめられた哀れな少女が、
然 たらしめたのであった。今しがた、心をひきむしら
呆
だに、彼女は恐ろしい変調をきたして、アリョーシャを
に、きれいに涙を拭き取っていた。つまり、一瞬のあい
かり変わってしまった。もう泣いたあとも残らないまで
ね!﹂と彼女は叫んだが、その声は一瞬のあいだにすっ
てしまった、
﹁でも⋮⋮、でもなんて運がいいんでしょう
とって、かけがえのないおかたなんです、⋮⋮さあ、今
ぞ信じてくださいまし。あなたというおかたはわたしに
しいのはただこれだけです、しつこいようですが、どう
とに、こんな嬉しいことはありません! ですけれど、嬉
しゃれば、すっかり説明してくださいますものね。ほん
今になれば、楽に書けますわ。あなたが向こうへいらっ
で言い尽くせるものじゃありませんものねえ、⋮⋮でも、
い、⋮⋮だって、こんなことはどんなにしたって、手紙
れほどつらい思いをしたか、とてもお察しはつきますま
しい手紙をどんな風に書いたらいいかわからないで、ど
にあることでございますわね。昨日も今朝も、この恐ろ
はほどよくして。もっとも、こんなことはあなたのお胸
ち明けてありのままを話してくださいまし。伯母のほう
だけるからですの。どうか、アガーシャにはすっかり打
アガーシャ︵
を、今の恐ろしい身の上を、あなたの口から伯母さんや
がモスクワへいらっしゃいましたら、今のわたしの境遇
︶に、すっかり伝えていた
︵彼女はいきなりイワンに飛びかかって、両手を取るやい
すぐにも、ちょっと家に帰って、手紙を書きましょう﹂と
メガフィヤ
なや、 熱情をこめて握りしめた︶。 わたしが仕合わせだ
彼女はだしぬけにことばを結んだかと思うと、今にも部
ぼうぜん
と申しましたのはね、こういうわけなんですの。あなた
304
305
フラーコワ夫人は叫んだ。なんとなく皮肉な、腹立たし
たいと言ってらしたアレクセイさんの御意見は?﹂とホ
﹁でも、アリョーシャさんは?
ぐに、いま嬉しいと言ったのは、まるきり別なことで、反
とあんなことをおっしゃったのです!
しいとおっしゃるじゃありませんか、︱︱︱あなたはわざ
﹁兄さんがモスクワへ行くと言うと、あなたはそれを嬉
﹁え、なんですって?﹂
げな調子がその声の中に感ぜられた。
対に、友だちを失うのが残念だなどと弁解し始めるじゃ
屋を出て行くかのように、一足ふみ出した。
﹁わたし、それを忘れていませんわ﹂と急にカテリーナ
ありませんか、︱︱︱あれはわざと芝居をなすったのです
あなたがぜひとも聞き
は立ち止まって、
﹁あなたはなんだって、今の場合に、わ
ね、⋮⋮まるで舞台に立って、喜劇をなすったも同然で
それからまたす
たしをそう邪
慳 になさいますの?﹂熱した、つらそうな
す!﹂
じゃけん
調子で、彼女はとがめるように言いだした、
﹁わたし、自
おっしゃることは、そのとおりに実行いたします、︱︱︱
わたしこのかたの断定が必要なんですの!
残念だとおっしゃっても、やはり兄さんの出立が嬉しい
﹁あなたがどんなに、兄さんというお友だちを失うのが
い顔をしながら、心の底から驚いて叫んだ。
﹁舞台ですって? なぜですの? いったい、それはどう
ね、アレクセイさん、これほどまでにわたしは、あなた
と、当人に面と向かって言ってらっしゃるようなもので
このかた
のおことばを聞きたくてたまらないのです、 ⋮⋮でも、
すよ⋮⋮﹂もう全く息を切らしながら、アリョーシャが
分で言ったことは間違いなくいたしますわ!
あなたはどうかなすって?﹂
言った。彼はテーブルのそばに突っ立ったまま、腰をか
いうことですの?﹂カテリーナは顔をまっかにして、苦
﹁僕は今まで、こんなことを考えたこともありませんで
けようともしなかった。
の御意見はどうしても必要なんですの。 それどころか、
した。こんなことは想像もできません!﹂不意に悲しそ
﹁いったいあなたは何を言ってらっしゃるんですの。わ
このかたの
うにアリョーシャは叫んだ。
306
んとなくヒステリックなものが、その声にひびいていた。
﹁本当のことって何ですの?﹂カテリーナは叫んだが、な
り本当のことを言う人がいないんですからね﹂
いなくちゃなりませんね、⋮⋮だって、ここでは誰ひと
ですが、しかし、誰か一人くらい本当のことを言う人が
な大胆なことが言えるのか、われながら不思議なくらい
けだと、そう思ったんですよ。全く僕はどうして今こん
しら⋮⋮そもそもの初めから、⋮⋮ただ尊敬しているだ
はり、あなたを、少しも愛していなかったのではないか
しゃらなかったのかもしれないし、⋮⋮兄さんだって、や
イ兄さんを⋮⋮最初から、 ⋮⋮ちょっとも愛していらっ
﹁ふっと、そんな気がしたというのは、あなたはドミトリ
た。
シャは相変わらず、とぎれがちな震え声でことばを続け
り、それでも、すっかり言ってしまいましょう﹂アリョー
うのは、よくないってことは僕も知っていますが、やは
と、そんな気がしたんです、もちろん、こんなことを言
﹁そう、僕自身でもよくわからないんです⋮⋮僕はふっ
たし、わかりませんわ⋮⋮﹂
いきなり、かみつくように言った。イワンはだしぬけに、
かり顔の色をなくして、憤りのために唇をゆがめながら、
きちがいです、それきりの人です!﹂カテリーナは、すっ
﹁あなたは⋮⋮あなたは⋮⋮あなたは、ちっぽけな信心
た。
アリョーシャは急にことばを切って、黙りこんでしまっ
自分で御自分を説き伏せていらして⋮⋮﹂
です、⋮⋮なぜそうなったかと言いますと、あなたが御
たの愛が、発作的なものだからです⋮⋮偽りの愛だから
さるのかと申しますと、それはドミトリイに対するあな
めてらっしゃるからです、⋮⋮ところが、なぜ苦しめな
していらっしゃるために、かえって愛する兄さんを苦し
てもらうのです。なにしろ、あなたはイワン兄さんを愛
ワン兄さんの手を取らせ、そうして二人の手を結びつけ
まず、あなたの手を取ろうとして、そのあとでまた、イ
してあげましょう、︱︱︱そして、兄さんがここへ来たら、
ぶやいた、
﹁今すぐドミトリイをお呼びなさい︱︱︱僕が捜
飛び下りるかのように、あわただしくアリョーシャはつ
﹁じゃ申し上げましょう﹂思いきって屋根の上からでも
307
人の心には侮辱として刻みつけられているんだ。この人
たんだ。実際、ドミトリイと最初に会ったことさえ、この
えず受けていた侮辱の恨みを、僕に向けてもたらしてい
さ。はじめて会ったとき以来ずっと、ドミトリイから絶
寄せたのは、ひっきりなしに 復讐 をしたいためだったの
の友情を必要としないからね。この人が僕をそばへ引き
ちだったこともないんだ。気位の高い婦人は、僕なんか
いなかったんだよ。また僕は一日だって、この人の友だ
でちゃんと承知していたんだ。ところが、僕を愛しては
ど、僕がカテリーナさんを愛してるってことは、御自分
りゃしないよ。一度も、口に出して言ったことはないけれ
た。
﹁カテリーナさんはけっして僕を愛したことなんかあ
ことのできないほど力強い、露骨な感情の表われであっ
な表情を浮かべた。それは若々しいまじめさと、押さえる
はいまだかつてアリョーシャの見たことのないような妙
﹁おまえは勘違いしてるよ、アリョーシャ﹂と言って、彼
子を手にしていた。
声を立てて笑いだしたかと思うと、席を立った。彼は帽
ぎたのです。こんなことはまるっきり言う必要がないう
はあまり若すぎたので、あまりひどく、あなたを愛しす
いっさいのことはプライドから来ているのです、⋮⋮僕
しなければならない場合もあります。しかし、とにかく、
ぶん屈従しなければならないところもあり、自分を卑下
ぼれから起こるのです。ええ、むろん、その中にはずい
いからにすぎません。これというのも、皆あなたのうぬ
自分の御立派な貞操を頭において、兄貴の不実を責めた
りません。兄貴があなたにとって必要なのは、いつも御
あなたはすぐに愛想をつかして、すててしまうに相違あ
いでになります。 もしも、 兄貴の身持ちが改まったら、
おいでになりますね、あなたを侮辱する兄貴を愛してお
じみた要求なんです。あなたは今のままの兄貴を愛して
に募っていくというものです。これがあなたの気ちがい
兄貴の侮辱が激しくなるにつれて、あなたの愛もしだい
でになったんですから、そのことは御承知を願いますよ。
リーナさん、あなたは本当に、兄貴ひとりを愛しておい
だ。もう僕はここを去ってしまいます。しかしね、カテ
この兄貴にたいするおのろけばかり聞かされたわけなん
ふくしゅう
はこういう心を持った人なんだよ! 僕はいつもいつも、
308
許しましょうけれど、今は握手には及びません。
ら、今あなたを許すことができないのです。あとでまた
せん。あなたはあまり意識的に僕をお苦しめなすったか
すからね。さようなら、僕はあなたの握手を必要としま
会えないという、この一つだけでもずいぶんひどい罰で
ひどい罰を受けてるんですからね。もう永久にあなたに
いきませんよ。 なぜって、 僕はあなたより百倍以上も、
ら、カテリーナさん、あなたが僕に腹を立てるわけには
きません、何もかも言ってしまいました、⋮⋮さような
のがいやなんです。しかし、もうこれ以上言うことがで
永久のお別れなんです、⋮⋮僕は破裂をそばで見ている
て、またと再び帰って来ないんですからね、⋮⋮これが
知しています。しかし、僕は遠いところへ行ってしまっ
やな思いをさせないで済むということは、自分がよく承
としてもより多く威厳が備わるわけだし、あなたにもい
えに、黙ってあなたのそばを離れてしまったほうが、僕
ならない⋮⋮﹂アリョーシャは半ば気が違ったもののよ
もう一度ここへ来なくちゃならない、帰って来なくちゃ
の悪い物の言い方をするなんて⋮⋮兄さんはどうしても、
とんでもない言い方をしました。あんな間違った、意地
悪いんです、 僕が始めたのです。 イワンは意地の悪い、
叫ぶのであった、
﹁けれど、これは僕の間違いです、僕が
も帰って来ない!﹂再び心の中に悲しい思いを浮かべて、
てらっしゃいよ、イワン! だめだ、だめだ、もうとて
﹁イワン﹂と彼は度を失ったように後ろから叫んだ、
﹁帰っ
を出て行った。アリョーシャは手を打った。
い。イワンは女主人にさえ挨拶をせずに、そのまま部屋
シャも、けっしてそんなことを信じ得なかったに違いな
意外な事実を証明したのであった。以前ならば、アリョー
よって自分もシルレルを暗記するほど読んでいるという
彼は無理に作り笑いを浮かべながら言い足した。これに
﹁あなたは何も悪いことはないんですよ。あなたは天使
カテリーナは不意に次の部屋へ出て行ってしまった。
うに叫び続けた。
御身の感
︵
Den Dank, Dame, begehr ich nicht.
謝を余は求めず、夫人よ!
︶﹂
309
れはあまりよくないところ、つまり、居酒屋であったこと
も不体裁きわまることをしでかしなすったんですの。そ
があの熱しやすい性質にまかせて、非常に間違った、しか
︱︱ええ、一週間前のことでしたの、︱︱︱ドミトリイさん
ぎわに何事もなかったかのような風であった。
﹁一週間︱
かって話しかけた。その声は静かに落ち着いていて、ま
があるんですけど﹂と彼女はいきなりアリョーシャに向
﹁アレクセイさん、わたしあなたに一つたいへんなお願い
百ルーブル札が二枚あった。
ナがいきなり引き返して来た。 その手には虹色をした、
シャはいっそう悲しくなってきた。ところへ、カテリー
夫人の顔に喜びの色が輝いているのを見て、アリョー
ますからね⋮⋮﹂
ワンさんを行かせないように、できるだけの方法を講じ
かって、さも嬉しそうに早口にささやいた、
﹁わたし、イ
コワ夫人は悲しそうな顔色をしているアリョーシャに向
のように、見事な振舞いをなすっただけです﹂ホフラー
いいかわからないんですの。で、わたしはこの相手のこ
とができません。気力がないんですの、⋮⋮どう言って
ないような仕打ちです!
きのドミトリイさんでなければ、とても思いきってでき
こんなことはほんの腹立ちまぎれの⋮⋮夢中になったと
い出すたびに、義憤を感じないではいられません、⋮⋮
イさん、わたしは あ の 人のこのけがらわしい行ないを思
いて取り合わないんですって。失礼ですけれど、アレクセ
あたりの人に加勢を頼んだりしても、みんな笑って見て
だそうですの。そしてお父さんの代わりに謝ってみたり、
うろ父親のそばを駆け回りながら、大きな声で泣いたん
いるのだそうですが、この子はその様子を見ると、うろ
は小さな男の子がありましてね、ここの小学校へ通って
往来を引き回したんですって。すると、この二等大尉に
しい姿で、二等大尉を往来へ引きずり出して、長いこと
手の 髯 を引っつかんだのだそうです。そして、この見苦
けか、この二等大尉に腹を立てて、大ぜいのいる前で相
出会いなすったのです。ところが、あの人はどういうわ
ひげ
なんですが、いつかお父さんが何かの事件で、代理人に
とを調べてみましたところ、非常に貧しい人だというこ
わたし、もうこの話をするこ
お頼みなすった例の予備二等大尉に、ドミトリイさんが
、
、
、
310
の家へはいるんですの︱︱︱まあ、わたしどうしてこんな
て中へはいりこんでくださいな。つまり、その、二等大尉
どうかあの人のところへ行って、なんとか口実を見つけ
たですから、わたし一つお願いしたいことがありますの。
︱︱︱ねえ、アレクセイさん、あなたは類のない親切なか
かりません、わたしなんだか頭がごたごたしてしまって、
たんですけれど、⋮⋮わたし、なんと言ったらいいかわ
いんですって!
わたしはちらとあなたを見て⋮⋮考え
れど、どうしたわけか、このごろちっとも収入の道がな
していて、どこかの書記を勤めていたこともありますけ
るらしいんですって、もうずっと前から、この町で何か
せな家族をかかえて、なんでも恐ろしい貧乏に陥ってい
のお 内儀 さんという︵たしかそんな話でした︶不仕合わ
できませんわ。この人はいま病身な子供たちと気ちがい
のですが、どんなことがあったのか確かなことはお話し
です。何かで勤めのほうで失敗があって、免職になった
とがわかりました。名字はスネギーレフというのだそう
どうかわたしのためにこの役目を果たしてくださいまし。
らっしゃるのです、⋮⋮後生ですから、アレクセイさん、
湖水通りの、カルムィコワという町人の持ち家に住んで
にまとめてくださるに違いないんですもの。あの人はね、
たらいいんですけれど、あなたのほうがずっとじょうず
のお腕前におまかせしますから⋮⋮わたしが自分で行っ
けっしてあの人自身じゃありません。とにかく、あなた
ですよ、 わたしですよ、 ドミトリイの 許嫁 の妻ですよ、
助のつもりにすぎないんですもの。そして名義はわたし
だった風ですもの︶。ほんの同情のしるしなんですの、補
はありません︵だって、その人は本当に告訴するつもり
れは告訴してくれないようにと、示談のための賠償金で
んな風にしたものでしょうね?
けていただきたいんですの、⋮⋮もしだめでしたら、ど
めてくれると思います、⋮⋮納めてくれるように説きつ
ここに二百ルーブルありますから、その人はたしかに納
した︶︱︱︱うまくこの扶助金を渡してくださいませんか、
いことでございます︱︱︱︵アリョーシャは急に顔を赤く
か み
にまごついてばかりいるんでしょう。そうして気をつけ
ところで、今、⋮⋮今わたしは少々疲れましたわ。じゃ、
いいなずけ
ね、よござんすか、そ
ながらうまく︱︱︱ええ、これはあなたでなければできな
311
たかのように言った、﹁おおわたしはあの人が大好きで
たですわ﹂夫人は半ばささやくような声で、感きわまっ
です。でも、ほれぼれするような、親切な、肚の大きいか
﹁ずいぶん高慢な人ですわね、自分で自分と闘ってるん
に立ち止まらせた。
た。玄関へ来たとき、夫人はまたもやさっきと同じよう
コワ夫人はその手を押えて、自分で部屋の外へ連れ出し
はどうしてもなれなかったのである。しかし、ホフラー
がいっぱいになっていたので、このまま部屋を出る気に
せよ、一口でも物を言わずにはいられなかった。彼は胸
分で自分の罪を責めて謝罪をするか、⋮⋮まあ、何にも
らなかったが、一言も口をきく余裕がなかった。彼は自
てしまったので、アリョーシャは、口がききたくてたま
彼女は不意に身をかわして、またもや 帳 のかげに隠れ
これでおいとまいたします⋮⋮﹂
方ですわ﹂
いう場合には、わたし女に反対します、わたしは男の味
﹁女の涙なんか当てになるもんじゃありませんよ。こう
りませんか!﹂とアリョーシャが叫んだ。
﹁でも、あの人はまた侮辱を受けて、泣いていたじゃあ
ませんよ⋮⋮﹂
しがここを立たないのも、たぶん、これがためかもしれ
これについていろいろ段取りを決めていましたの。わた
あの人を愛してらっしゃるんですものね、わたしたちは
いばかりだのに、 イワンさんは世界じゅうの何よりも、
兄さんのほうは、あの人なんか見るのもいやだといわな
んと結婚しますようにってね、⋮⋮だって、ドミトリイ
を思いきって、あの教育のある、立派な青年のイワンさ
いうのは、あの人が、あなたの大好きなドミトリイさん
つのことばかり、願ったり祈ったりしてるんですの。と
リーズまでが仲間にはいって、この一月のあいだある一
何から何まで嬉しいんですの!
しまってよ﹂戸のかげからリーズの細い声が聞こえた。
﹁母さん、母さんはそのおかたを悪くして、堕落さして
とばり
す、ときには、たまらないくらいに、⋮⋮わたしはいま、
たは御存じないでしょうが、実はわたしたちはみんなで、
﹁いいえ、これというのもみんな僕がもとなんです、僕
アレクセイさん、あな
︱︱︱わたしと、 あの人の伯母さん二人と、 ︱︱︱それに、
﹁誰のこと、それは誰のことなの?﹂とリーズが叫んだ、
うなるでしょう!﹂
ことを言っちまったんです、⋮⋮いったい、これからど
いるというような気がしたんです、それであんなばかな
リョーシャはことばを続けた、
﹁あの人はイワンを愛して
けか﹂まるでリーズの声など耳にはいらないように、ア
﹁僕 は あ の と き の 様 子 を 見 て い る う ち に、 ど う し た わ
の声がまた聞こえた。
﹁母さん、どうして天使のような振舞いなの?﹂リーズ
わ﹂
らわたし十万べんでもこのことばをくり返してあげます
うな振舞いをなすったのです、全く天使ですよ。なんな
﹁それどころじゃありません、あなたはまるで天使のよ
くり返すのであった。
まで隠しながら、 なんと言われても気が安まらないで、
い羞
恥 の念がこみあげてきて、アリョーシャは両手で顔
は実に悪いことをしました!﹂自分の行為に対する激し
リイや女の涙なんかには反対します。ユーリヤ、駆け出
はこういう場合、いつも女に反対します。あんなヒステ
よ。これはぜひそうなければならないんですよ。わたし
の人がヒステリイを起こしたのは本当に好都合なんです
ヒステリイというのは、おめでたいことなんですよ。あ
ます⋮⋮いま行きます⋮⋮ところでね、アレクセイさん、
してあげるから、ああ。本当にたいへんだ!
今すぐ帰って来て、おまえに話していいことだけは聞か
ら、大人のことをすっかり知るわけに行かないんですよ。
寿命を縮めないでおくれ。おまえはまだ年が若いんだか
﹁リーズ、後生だから、そんな大きな声をしてわたしの
しなのよ、あの人じゃなくって!﹂
声で叫んだ、
﹁お母さん、ヒステリイが起こったのはわた
﹁まあ、どうしたんでしょう?﹂とリーズは心配そうな
をもがいて⋮⋮﹂
しゃいます。ヒステリイでございましょう、しきりに身
﹁カテリーナ様が御気分が悪いそうで⋮⋮泣いていらっ
ちょうどこのとき、小間使いが駆けこんで来た。
しゅうち
﹁母さんはきっとあたしを死なす気なんだわ。あたしがい
してそう言っておいで。ただ今すぐ飛んでまいりますっ
いま行き
くら尋ねたって、返事一つしてくださらないんですもの﹂
312
313
は、あの人の罪なんですよ。でも、イワンさんは出て行
て。だけど、イワンさんがあんな風にして出て行ったの
におまえのところへ帰っていらっしゃるんだから﹂
分間でもアレクセイさんを引き留めないでおくれ、すぐ
しゃい。リーズ、何か用はなくって?
ホフラーコワ夫人はやっとのことで、駆け出した。ア
後生だから、一
きはしませんよ。リーズ、後生だから大きな声を立てな
いでちょうだい!
リョーシャは出て行く前に、リーズの部屋の戸をあけよ
おやまあ、大きな声をしてるのはお
まえじゃなくてわたしだったのね、まあ、お母さんのこ
﹁どんなことがあってもだめよ!﹂ とリーズは叫んだ、
うとした。
ときに、ア
とだから堪忍しておくれ。だけど、わたしは嬉しくって、
嬉しくって、嬉しくってしようがないわ!
﹁今はもう、どんなことがあってもだめよ!
どうでしょう!
ていただきたいの﹂
お仲間入りをしたの!
そのまま、
レクセイさん、あなた気がおつきになって?
戸の向こうからお話しなさい。あなたはどうして天使の
いい! わたし、あの人はとても物知りの学者だとばか
﹁ひどくばかげたことをしでかしたからですよ!
さっきイ
ワンさんが出ていらっしたときの、男らしい様子ったら
り思ってたのに、だしぬけにそれはそれは、熱烈な若々
ズさん、さようなら!﹂
ドイツ語の詩をおっしゃったところなんか、まるで、ま
るであなたそっくりの立派な態度でした!
すぐ帰って来ますが、僕には、とても悲しい悲しいこと
﹁リーズさん、僕にはほんとに悲しいことがあるんです!
リーズは叫んだ。
リー
わたしそれ一つだけは、聞かし
しい露骨な調子で、あんなことをおっしゃるじゃありま
﹁あなたはよくまあ、そんな帰り方ができますわね﹂と
るであなたそっくりでしたわ。だけど、もう行きましょ
があるんです!﹂と言って、彼は部屋を駆け出して行っ
あのおっしゃったことといい、態度と
せんか。全く世慣れない、ういういしい調子でした、ま
う、行きましょう。アレクセイさん、あなた大急ぎであの
た。
それにあの
頼まれたところへいらっしゃい、そしてすぐ帰ってらっ
314
六 小屋における破裂
と彼は不意に決心したが、その決心に対しては微笑だも
しなかった。
のか、この事件について、何が僕に解釈がつくのか?﹄彼
か? ﹃いったいあんなことについて、自分に何かわかる
どんな世話を焼いたのか?
んなことがあろうとも、是が非でも、捜し出さなければ
身を隠すかもしれないという懸念さえも起こったが、ど
感もしていたのだ。 兄は今、 ことさらに自分を避けて、
と決心したが、しかも、きっと兄は留守だろうという予
カテリーナの頼みは湖水通りとのことであったが、ちょ
は顔を赤らめながら、心の中で百度もくり返すのであっ
ならなくなったのである。時は過ぎて行った。それに修
た、﹃ああ、 恥ずかしいくらいはなんでもないんだ、 そ
道院を出たときから、瀕
死 の長老を思うの念は一分間も、
うど兄のドミトリイはその道筋の、湖水通りから遠くな
れは僕にとって当然の罰だ。︱︱︱やっかいなのは、僕が
一秒間も、彼の念頭を去らなかったのである。
事実、彼にはいまだかつて、めったに経験したことも
必ず新しい不幸を生む元になるということだ、︱︱︱長老
カテリーナの頼みについて、ただ一つかなりに彼の興
い横町に暮らしていた。アリョーシャはとにもかくにも、
様が僕をお寄こしなすったのは、みんなを仲なおりさせ
味をそそることがあった。二等大尉の息子の小さな小学
ないような、なみなみならぬ悲しみがあった。彼は出しゃ
ていっしょにするためだった。ところで、ところで、こ
生が、声をあげて泣きながら、父のそばを駆け回ったとい
二等大尉のところへ行く前に必ず兄の家へ寄ってみよう
んな一致のしかたでいいものか?﹄ここで、彼は急にま
う話をカテリーナから聞かされたとき、ふっと、アリョー
ばって、﹃愚かなことをしでかした﹄のだ、︱︱︱しかも、
た﹃二人の手を結び合わす﹄と言ったことを思い出して、
シャの胸に、ある考えがちらついたのだ、それは、さっ
愛に関したことではないの
またもや恥ずかしくなってきた。
﹃僕は全く誠意をもって
き、
﹃いったい、僕がどんな悪いことをしたっていうの?﹄
ひんし
したんだけれど、これから先はもっと利口になることだ﹄
315
老夫婦とその息子は、いぶかしげにじろじろとアリョー
ドミトリイは留守であった。家の人たち︱︱︱ 指物師 の
て歩きながら食べた。これでやっと元気が出てきた。
所からとって来たフランスパンを、かくしから取り出し
曲がったとき、彼は空腹を感じたので、さきほど、父の
元気づいた。さて、兄ドミトリイの家をさして、横町へ
いのだ、と肚 を決めた。覚悟が決まると、彼はすっかり
いのだ、どんなにしても、どうせ成るようにしかならな
ようなことはよして、ただなすべきことだけをすればよ
末﹄ばかり気にして、後悔の念に自分で自分を苦しめる
晴れてきたので、彼はたった今自分のしでかした﹃不始
くして、本筋に関係のない想像をしているうちに、気が
ほとんどそれに違いないと思いこんでいた。かくのごと
ところが、今アリョーシャは、なぜということもなしに、
二等大尉の子供ではあるまいか? という疑いであった。
と問い詰めたとき、自分の指へかみついた小学生が、その
ことを幾度も幾度もくり返して尋ねたとき、一人のほう
さんで、しかも二人とも 聾 らしかった。彼が二等大尉の
女主人と娘が暮らしていたが、娘といっても、もうお婆
中庭からの入り口は玄関に通じていた。玄関の左側には
ん中に、 牝牛が一匹、 ぽっつり寂しそうに立っていた。
た三つしかなかった。泥だらけの中庭があって、そのま
た。一方に傾いた古い小さな家で、窓は往来へ向いてたっ
ついに彼は湖水通りにあるカルムィコワの家を見つけ
は考えた、﹃それはまあ、結構なことだ﹄
さんを好いて、味方になっているんだ﹄とアリョーシャ
そうな様子をして、彼の顔を見つめた。
﹃してみると、兄
わざと、ざっくばらんな風を見せた︶、家の人たちは心配
じゃありませんか?﹄と聞かれたとき︵アリョーシャは
ないでしょうか、またフォーマのところにかくれてるん
てとった。
﹃じゃ、グルーシェンカのところにいるんじゃ
人が前から言い含められて、こんな返事をするのだと見
強い質問に対して答えるのであった。アリョーシャは老
はら
シャを見まわした。﹃もう今日で三日も家へはお帰りに
がやっと下宿人のことを尋ねているのだなと悟って、ま
さしものし
なりません。ひょっとしたら、どこかへ行っておしまい
るで物置小屋のようなものの戸口を、玄関ごしに指さし
つんぼ
になったのかもしれませんよ﹄老人はアリョーシャの根
316
で、アリョーシャはドアをあけて 閾 をまたいだ。彼のは
た。
﹁いったい、誰?﹂と腹立たしそうな大声で誰かがどなっ
十秒くらいたったろうかと思われるころであった。
ると、 返事の声が聞こえたが、 それもすぐではなしに、
たほうがいいだろう﹄と考えて、彼は戸をたたいた。す
待っているのかしら。しかし、まあ、ドアをたたいてみ
ら、それとも僕の来たことを聞きつけて、戸のあくのを
うことを知ってたので、
﹃みんなそろって寝ているのかし
テリーナのことばによって、二等大尉に家族があるとい
向こうが妙にひっそりしているのに気がついた。彼はカ
ルに手をかけて、戸をあけようとしたが、ふっと、戸の
純然たる物置小屋であった。アリョーシャは鉄のハンド
て見せた。 全く二等大尉の住まいはなんのことはない、
り息苦しく、それほど明るくはなかった。テーブルの上
たうえにぴったり閉めきってあるので、部屋の中はかな
張った小さな窓は、三つとも、いずれもどんよりと曇っ
しかった。かびの生えたような青い小さなガラスを四枚
造りの四角のテーブルは、その片隅から移されたものら
まん中の窓のそばにある、飾り気のない、不細工な、木
ベンチと椅子をつなぎ合わして仕立てたものであった。
た。この仕切りの向こうにもベッドがあったが、これは
いものをつるして、少しばかり仕切りをしたところがあっ
はすかいに繩を引いた上にカーテンとも敷布ともつかな
つ見えるだけであった。それから手前のほうの片隅には、
右側のもう一つの寝台には非常に小さな枕が、たった一
の枕が四つ並べられて、小山のように積み重なっている。
かっていた。左側の寝台には、大きいのから順々に 更紗 にも、寝台が、一つずつ据えてあって、編み物の夜着がか
︶の小びんなどが載っ
サラサ
いった小屋はかなりに広かったが、ごたごたした道具や
には食べ残された卵子の目玉焼きのはいっている焼き鍋
しきい
家族の人たちで、足の踏み場もないくらいであった。左
や、食いさしのパンや、底のほうにほんのちょっぴり残っ
だんろ
手には大きなロシア風の 暖炉 があった。暖炉から左側の
ている 地 上 の 幸 福︵
ウオトカ
窓にかけて、部屋いっぱいに 繩 が渡されて、色とりどり
ていた。
なわ
なぼろが下がっていた。両側の壁のそばには、右にも左
、
、
、
、
、
317
さずに、主人公がアリョーシャと話し合っている間じゅ
おそろしく高慢なまなざしであった。婦人はまだ口を出
あった。 ひどく物問いたげな、 しかも、 それと同時に、
シャの心を打ったのは、このあわれな婦人のまなざしで
だということを表わしていた。しかし、何よりもアリョー
るしく落ちこんだ頬は、一目見ただけでもその女が病気
い女が坐っていた。顔はひどく痩せていて黄色く、いちじ
左側の寝台に近い椅子には、 更紗 の着物を着た品のい
が、なんということもなしに、一目見るなり、アリョー
りであった。
︵この比
喩 ︱︱︱ことに﹃糸瓜﹄ということば
いたが、この鬚はささくれ立った 垢 すりの糸
瓜 にそっく
をして、髪の毛も赤く、まばらな 顎鬚 も赤みがかかって
た。あまり背が高くなく、痩せこけて、弱々しげな体格
が坐っていて、玉子焼きをたいらげているところであっ
見つめていた。テーブルの向こうには四十五ばかりの男
つつましい表情を浮かべながら、じっとアリョーシャを
しく、 気立てのよさそうな眼はなんとなく落ち着いた、
サラサ
う、大きな鳶
色 の眼を高慢らしく、物問いたげに動かし
シャの心にちらついて、彼はこれを後になって思い出し
あか
あごひげ
ながら、話し合っている二人を見比べるのであった。左
た︶部屋の中に誰もほかに男のいないところから察する
へちま
の窓側の婦人のわきには赤い巻き毛の、かなりに器量の
に、この男が戸の中から﹃いったい、誰?﹄と叫んだもの
ゆ
悪い、若い娘が立っていた。身なりは粗末ながら、小ざっ
らしかった。しかし、アリョーシャがはいったとき、彼
ひ
ぱりしていた。彼女はアリョーシャのはいって来るのを、
は今まで腰かけていたベンチから、いきなり飛びあがっ
とびいろ
気むずかしげに眺めた。 右側には同じく寝台のそばに、
て、穴だらけのナプキンであわてて口のあたりを拭きな
せむし
もう一人の女性が腰をかけていた。やはり二十歳ばかり
がら、アリョーシャのほうへ飛んで来た。
よ
の若い娘ではあったが、見るもあわれな 佝僂 で、あとで
﹁お坊さんがお寺からお布施をもらいに来たんだわ、 選 な
アリョーシャの聞いたところによると、両足が 萎 えてし
りに選 ってこんなところへ!﹂左の隅に立っていた娘が、
よ
まった 躄 だとのことであった。この娘の松葉杖は一方の
大きな声で言った。すると、アリョーシャのそばへ飛ん
いざり
隅の寝台と壁のあいだに立てかけてあった。ひときわ美
318
んで仕えていた人が、急に奮然と立って気骨を示そうと
︱︱︱いかにも臆病らしい色を浮かべていた。長いこと忍
高慢な様子と、それと同時に、︱︱︱奇妙なことであるが、
て酔っ払ってはいなかった。その顔は何かしら、非常に
た今、飲んだということははっきりしているが、けっし
ていて、せかせかして、いらだたしそうであった。たっ
はこの男を見たのであった。この男は、なんとなく角ばっ
アリョーシャはしげしげと相手を眺めた。はじめて彼
ますか、⋮⋮この内まで?﹂
た、
﹁どういうわけであなたはお越しなすったんでござい
すが﹂彼は再びアリョーシャのほうをひょいと振り向い
違いですよ! ところで、私のほうからも、お伺いしま
﹁そうじゃないよ、ワルワーラさん、それはあなたの勘
かわして、興奮して、妙にちぎれちぎれな調子で答えた。
で来た男は、いきなり、ぐるりと 踵 で、娘のほうへ身を
﹁それはよく承知しておりまする﹂そんなことを聞かな
シャは答えた。
﹁僕は⋮⋮アレクセイ・カラマゾフです⋮⋮﹂とアリョー
がって、まるで子供のように足がつき出ていた。
の方がすっかり皺くちゃになっているので、裾がつり上
色をした 格子縞 で、きわめて薄っぺらな地であった。下
いた。ズボンはすっかり流行おくれの、思いきり明るい
いたが、それはつぎはぎだらけで、しみがいっぱいついて
彼は非常に粗末な、 南京木綿 か何かの地味な服を着て
引きさがったくらいであった。
飛びついたので、こちらは思わず機械的に、一歩あとへ
を回してアリョーシャのほうへぴったり食いつくように
ことで質問を放ったとき、彼は全身を震わせながら、眼
いるように、しどろもどろになったりした。
﹃この内﹄の
うになったり、ときには待ちきれないで、びくびくして
にも、何かしらキ 印 らしいユーモアがあって、意地悪そ
じるし
している人のようなところがあった。もっと適切にいう
くとも、客の何ものかはよく知っていたと悟らせるかの
かかと
と、相手をなぐりつけたくてたまらないのに、相手の者
ように、 男はすぐにさえぎった、﹁ところで、 私はスネ
ナンキンもめん
からなぐりつけられはしまいかと、極度に恐れている人
ギーレフ二等大尉でございますが、それにしても、どう
こうしじま
のようであった。彼のことばにも、かなり鋭い声の調子
319
でござりましたが、身持ちのよくないために、恥をかき
﹁ニコライ・スネギーレフと申し、昔は露国歩兵二等大尉
た。
が、前と同じように膝と膝とがすれ合うほど接近してい
ような椅子をとって、アリョーシャの真向かいに坐った
に据えて、やがて、自分がかけるために、もう一つ同じ
何も張ってなかった︶、それをほとんど部屋のまん中の辺
れは全く木ばかりで造った、 よくよく不細工な椅子で、
いながら、二等大尉はすばやく空の椅子をつかんで︵そ
つでございますよ、
﹃どうぞその場に﹄なんかと⋮⋮﹂言
あ、どうぞ、その場に。これは昔の喜劇の中でよくいうや
﹁そういうわけなら、ここに椅子がございますから、さ
ら⋮⋮﹂
があるんですが⋮⋮。おさしつかえございませんでした
実のところ、たったひとことあなたに申し上げたいこと
﹁なあに、 僕はちょっとお寄りしてみただけなんです、
のです⋮⋮﹂
いう子細があってお越しになったかお伺いいたしたいも
きないような境遇におりますので﹂
ね?
てわたしなんぞに好奇心をお起こしなすったのでしょう
らっしゃるようでございますね。それはそうと、どうし
受けしたところ、あなたは現在の問題に興味を持ってい
す。これは神様のお力でなることでございますよ。お見
て、いつの間にかスロヴォエルスを言い始めていたので
スで話したことなんかなかったのですが、急に落ちぶれ
たことなんかなかったのでして、長いことスロヴォエル
﹁誓って申しますが、何気なくなんですよ。いつも言っ
すか、それとも、ことさらに?⋮⋮﹂
を浮かべた、
﹁しかし、何気なくお使いになるおことばで
﹁いかにも御もっともです﹂とアリョーシャはほほえみ
して⋮⋮﹂
ヴォエルスはたいてい落ちぶれてから口癖になるもので
かりで話をするようになったもんですからね。このスロ
と申すに、わたくしは後半生に至ってスロヴォエルスば
ソフといったほうがわかるくらいでございますよ。なぜ
スネギーレフというより、むしろ二等大尉スロヴォエル
御覧のとおり、お客様をおもてなしすることもで
ましてね、それでもやはり二等大尉なんでして。しかし、
320
た。
﹁あの例の事件?﹂と二等大尉はじれったそうにさえぎっ
﹁僕は⋮⋮あの例の事件のことでまいったのです⋮⋮﹂
ていた。体のぐあいがよくないらしく、燃えるような 眸 外套に、もっと古ぼけた綿入れの 蒲団 をかけて横になっ
アリョーシャの眼にはいった。子供は、さっきと同じ古
あって、 その上に横たわっているさきほどの敵の姿が、
ふとん
﹁僕の兄貴のドミトリイとあなたがお会いなすった件に
から判断すると、熱が高いらしかった。今はさっきとは
はつぶやいた。
﹁いったい、糸瓜とは何のことですか?﹂アリョーシャ
のように細くなった。
合わせてしまった。彼の唇は何か妙にひき締まって、糸
出して来たので、今度は本当にアリョーシャと膝を突き
すり糸瓜の一件じゃございませんかね?﹂彼は急に乗り
ございませんか?
にしろ向こうは六人、こっちは一人ですから、僕が見か
ぜいの子供を相手に石の投げっこをしてたんですが、な
﹁ええ、そうです。さっきあなたの坊ちゃんが往来で、大
でございますか?﹂
び上がらんばかりにして、
﹁それはあなたの指をかんだの
﹁え、なんだ、指をかんだと?﹂二等大尉は椅子から飛
た。
だぞ﹄とでも言いたそうに、アリョーシャを見つめてい
違って、恐れるさまもなく、
﹃もう家にいるんだからだめ
ひとみ
ついてです﹂とアリョーシャは不細工に口を出した。
あの例の一件じゃ
﹁それはね、父ちゃん、僕のことを父ちゃんに言いつけ
ねて、そばへ寄って行きますとね、坊ちゃんが僕にまで
﹁会ったとはなんでございますか?
に来たんだよ!﹂片隅のカーテンのかげから、聞き覚え
石を放るじゃありませんか。二度目のが僕の頭に当たり
あか
のあるさきほどの子供の声が叫んだ、
﹁僕さっき、その人
ました。 で、 僕が何の恨みがあるのかと聞きましたら、
へちま
の指をかんでやったんだ!﹂
いきなり飛びかかって来て、ひどく僕の指をかんだんで
つまりなんですか、 糸瓜 の一件、垢 カーテンがさっと引かれたかと思うと、聖像の飾って
すけれど、僕にはさっぱりわけがわかりません﹂
しょうぎ
ある片隅に、 床几 と椅子とをつないでこしらえた寝台が
321
﹁僕はけっして言いつけに来たのじゃありません。ただ
上がった。
てやりますよ!﹂二等大尉はもうすっかり椅子から飛び
﹁今すぐ、ぶんなぐってやります! 今すぐ、ぶんなぐっ
いた。その顔の線はことごとく、引っつりながら躍って、
彼は急にことばを切って、苦しそうな息づかいをして
よもや五本の指までは要求なさらんでしょうね?⋮⋮﹂
の復讐の御希望が十分に達せられるだろうと存じますが、
にでもなっているらしかった。
眼には恐ろしい、挑戦的な色が浮かんでいた。彼は夢中
それに今かげんが悪いよ
ありのままを話しただけです、⋮⋮坊ちゃんをなぐって
いただきたくはありません!
は、まるで今にも飛びかかりそうな様子をして、急にア
すぐそうして欲しいとおっしゃるんですか?﹂二等大尉
ど、なぐりつけると思ってらしったんでございますか?
とっつかまえて、今すぐあなたの前で、御満足のゆくほ
思いでしたか?
ことを後悔しています。それは僕がよく承知しています。
くり返した、
﹁しかし、僕の兄のドミトリイは自分のした
やっと、何もかもわかりました﹂と彼は考えこみながら
兄弟として、僕に飛びかかったわけなんですね⋮⋮僕は
お父さん思いなんですね、だから、父親を侮辱した者の
えた、﹁つまり、坊ちゃんは︱︱︱気だてのいいおかたで、
﹁僕 は やっと 何 も か も わ かった よ う な 気 が し ま す﹂ ア
リョーシャの方へ振り向きながら、言うのであった、
﹁い
だから、兄がお宅へ来ることが、いや、それよりも、あの
うですし⋮⋮﹂
や、あなた様の指のことは全くお気の毒です。はい。し
時と同じところであなたにまた、お目にかかることがで
リョーシャはずっと坐ったまま、声低く、悲しそうに答
かし、イリューシャをなぐる代わりに、今すぐお眼の前
きたら、みんなの眼の前で兄はおわびするはずです⋮⋮
﹁じゃあなたは本当に、わたしがあれをなぐるとでもお
で、そこにあるナイフでもって、十分あなたの気の済み
もしお望みとあらば﹂
いったい、わたくしがイリューシャを
ますように、わたくしの指を四本、ずばりと切り落とし
﹁すると、なんですか、人の鬚 を引っこ抜いたあげく、お
ひげ
てはいかがでございましょうね。指を四本なら、あなた
322
﹁しますとも、むろん、兄は膝をつきますとも﹂
いしたら、そのとおりにしてくださるでしょうかね?﹂
町の広小路で、わたしの前へ 膝 をついてくださいとお願
酒屋︱︱
︱屋号は﹃都﹄と申しますが、そこでか、または
﹁そんなら、もし、わたくしがあのかたに、前と同じ居
うにしましょうし、お望みどおりのことをいたします!﹂
﹁いいえ、どういたしまして、兄はなんでもお気に入るよ
でしょう?﹂
ぼしをした⋮⋮とでもいうんでございますね、ね、そう
わびをして、それでもう何もかもおしまいにして、罪滅
かしそうな人をばかにしたような顔をして、思いがけな
意に、窓のそばに立っていた娘が父に向かって、気むず
んたは恥っさらしなことばかりなさるんですもの!﹂不
さいよ。どこかのばか者がやって来れば、すぐもう、あ
﹁まあ、たくさんだわ、ばかなまねはいいかげんにしな
は叫んだ。
﹁ええ、それはおっしゃるとおりです!﹂アリョーシャ
らね⋮⋮﹂
うな人間は、誰かに愛してもらわなくちゃなりませんか
すった大きな事業でございますよ。実際、わたくしのよ
これこそ、わたくしのような人間に、神様が定めてくだ
︱みんな一つ腹のなんでございますよ。もしわたくしが
りますのが、わたしの家族で、娘が二人に息子が一人︱︱
うぞ十分に紹介の労をとらしてくださいまし、あれにお
う、お兄さんの寛大な心をお察しする気になりました。ど
りになりました、ああ、胸にしみるです!
あって、﹁この子はどうもああいう性分でございまして
その眼つきは、大いにわが意を得たりというような風で
んだ。号令でもかけるような口ぶりであったが、しかも
ことをついでにしまいまで言わしておくれ﹂と父親は叫
﹁まあ、ちょっとお待ち、ワルワーラさん、言いかけた
くこう叫んだ。
ひざ
﹁ああ、胸にしみました! あなたはわたくしの涙をお絞
死んだ日には、誰があれらを 可愛 がってくれましょう?
ね﹂と彼はまたアリョーシャのほうを向いた、
すっかりも
また、わたくしの生きているあいだ、あれらを除けて、誰
かわい
が、こんないやらしい親爺に目をかけてくれましょう!
323
﹁ありとある自然のうちに
ましな﹂
んや、まずもって、あなたの御手を接吻させてください
んね。ところで、今度は失礼ですが、家内を紹介いたし
いや、これは女性にして、彼女にしなくちゃなりませ
ていた妻の顔は、急になみなみならぬ愛想のよさを示し
にさわって、背を向けた。高慢らしく、物問いたげにし
までするのであった。窓ぎわの娘はこの光景を見ると 癪 と言って、彼は妻の手に、うやうやしく、優しく接吻
たた
何ものをも頌 うるを欲せざりき。
ましょう。これがアリーナ・ペトローヴナと申し、年は四
た。
しゃるのですから、 お立ちにならなければなりません。
を引き起こした、
﹁あなたは婦人に引き合わされていらっ
には思いがけないくらいの力で、いきなりアリョーシャ
い。カラマゾフさんだよ﹂と彼は客の手を取って、この男
フョードロヴィッチ・カラマゾフさんだよ。お立ちなさ
へ ん な 顔 を す る の は よ せ よ。 こ の お か た は ア レ ク セ イ ・
しい者でございますよ。おい、アリーナさん、そんなに
家の人は足のない婦人だなんて言いますけれど、足はちゃ
い、家の人はどうしてあなたを立たしたのでしょうね?
もチェルノマゾフです⋮⋮さあ、おかけなさいな。いった
﹁まあカラマゾフでも何でもいいけれど、わたしはいつで
いますからね﹂と彼は再びささやいた。
よ⋮⋮なにしろ、わたくしたちは素姓の卑しい者でござ
﹁カラマゾフさんだよ、お母ちゃん。カラマゾフさんだ
︶さん、さあおかけなさいまし﹂と彼女は言った。
黒んぼ
しゃく
十で、足のない婦人でございます。いやなに、歩くこと
﹁よくいらっしゃいました、チェルノマゾフ︵
この人はね、母ちゃんや、あのカラマゾフとは違うんだ
んとありますよ。 ただまるで 桶 のように脹 れあがって、
いや
は歩きますが、ほんの少しばかりなんでして。素姓の 賤 よ。わしをその⋮⋮ふむ! その弟さんで、品行の正し
体が痩せてしまったのですよ。以前はどうしてどうして、
は
い、おとなしい立派なおかたなんだ。失礼でございます
とても太ってましたけど、今はもうまるで針でも飲んだ
おけ
が、アリーナさん、失礼でございますが、ねえ、母ちゃ
324
内がまいりましてね。﹃アレクサンドルさんは気性の立
愛してやらなけりゃなりませんよ。そのころ、補祭の家
んけど、愛してくれる人があったら、こちらもその人を
のです。なにも、あなた、何と比べるわけじゃありませ
は、いろんな立派なお客様がたくさんお見えになったも
らね。まだ、わたしたちが軍人のお仲間にいました時分
が通り過ぎてしまうと また、がやがや始まるんですか
た、﹁まるで雲が湧き上がってるようなものですよ。 雲
なさいまし﹂と母親は両手を広げて、二人の娘を指さし
﹁まあ、あなた、家は今どんなことになっているか御覧
﹁道化者!﹂窓のそばの娘はだしぬけに言う。
ンカチで顔を隠した。
こんでいた佝
僂 の娘が、いきなり言ったかと思うと、ハ
﹁父さんてば、よう、父さん!﹂今まで椅子に坐って黙り
た。
姓の卑しい⋮⋮﹂二等大尉はまたもやそばから口を出し
﹁わたくしどもは何分にも素姓の卑しいものでして、素
ように痩せてしまいましてね﹂
ばいけません。なにしろ、お宅の空気は新鮮でないので
風口でもつけるか、さもなければ戸をあけるかしなけれ
しょうか?﹄と聞きましたの。と、
﹃うむ、こちらでは通
な婦人が外の空気を吸っても、よろしいものでございま
たんですよ、 そこでわたしは、﹃閣下、 いったい、 高尚
ね、本当の将官様がこちらへ復活祭をかけていらっしっ
ると、つい先だって、今のようにここに坐っていますと
このことばかり気になってたまらなかったんですよ。す
かないか!﹄と言ってやりました。それからというもの、
なに聞いてみろ、わたしの体の中にきたない空気がある
い空気を吸ってるじゃないか﹄
﹃じゃ、将校さんがたみん
たしはきれいな空気を吸ってるけれど、おまえはきたな
たんだ?﹄するとまた、向こうでこう言うんですよ、
﹃わ
︱そこでわたしは、
﹃ええ、この意地悪め、誰を教えに来
まえなんぞは牢へ放りこんでやらなくちゃならない﹄︱︱
で、鼻もちならないわ﹄すると、向こうの言うには、
﹃お
拝してくれる相手があるのに、おまえなんか一人ぼっち
たしはね、こう言ってやりましたの、
﹃ひとは、誰でも崇
の申し子だ﹄なんて言うじゃありませんか。だから、わ
せむし
派なおかたですのに、ナスターシャさんといえば、地獄
325
まえはけっして一人ぼっちじゃないよ。みんなおまえを
好いているんだよ、みんなおまえを尊敬しているよ﹂と
わたしは一人ぼっちの寂しい身の上です。いったい、な
したよ。 どうか許しておくれ、 母さんを許しておくれ、
てくれることですの。昨日も 林檎 を持って帰ってくれま
は、イリューシカが学校から帰って、わたしを可愛がっ
気に入らなかったんですの?
ニコライさん、いったい、わたしがお
しまいます﹄って。まあ、ね、自分の母親をそうとがめ
んかしませんよ。わたしは靴を注文して、よそへ行って
やりますの、﹃わたしはあなたがたの空気を濁したりな
よりはましじゃありませんか!
わたしのせめての楽しみ
と⋮⋮そんなやつうっちゃっておおきよ、 ねえ、 父ちゃ
﹁父ちゃん、父ちゃん!
こうつぶやいた。
﹁ええ、よくわかりました﹂こちらはへどもどしながら
いた。
ら、いたけだかになって、アリョーシャのほうを振り向
たでしょう?﹂彼はだしぬけに哀れな低能を指さしなが
﹁さあ、あなた、御覧になったでしょう? お聞きになっ
がひらめいたように感ぜられた。
涙を拭いてやった。アリョーシャには彼自身の眼にも涙
しくなで始めた。それから、ナプキンを取るなり、顔の
てのひら
いったい、あの人たち
彼はまた妻の両手に接吻しながら、両の 掌 でその顔を優
すからね﹄とおっしゃるんですよ。しかも誰にきいても、
皆そう言うじゃありませんか!
死人の臭い
んだって、みんなわたしの空気がそんなにいやになった
ん!﹂不意に床の上に起きなおって、燃えるような眼で
に、私の空気が、どうだったんでしょう?
のでしょう?﹂
父親を見つめながら、少年は叫んだ。
だから、わたし言って
と言って、哀れな狂女は、いきなり声をあげてすすり
﹁もう、たくさんだわ、そんな道化たまねをして、ばか
ないでおくれ!
泣きをし始めた。涙はとめどなく流れるのであった。二
げた芸をしてみせるのは、もういいかげんにしたらいい
りんご
等大尉はまっしぐらに妻の方へ駆け寄った。
じゃありませんか。そんなことはなんの役にも立つじゃ
いったい、父ちゃんはその人
﹁母ちゃんよ、母ちゃん、およしよ、およしったら! お
326
ぶりますから、いっしょに出かけましょう。あなたにひ
お帽子をかぶりなさい、わたくしも、このシャッポをか
わたくしもおまえさんの言うことを聞きましょう。さあ、
はおまえさんが憤慨なさるのも無理のない話だ。だから、
﹁全くもっともな話だ、なあワルワーラさん、今度こそ
すのであった。
やはり同じ片隅から、どなりつけた。彼女は床まで鳴ら
ワルワーラは、もうすっかり癇癪を起こしてしまって、
あるまいしよ⋮⋮﹂
きなり、通りへ引っ張り出した。
こういって、アリョーシャの手を取って、部屋からい
せんので⋮⋮﹂
おともいたしましょうかな、切りをつけなければなりま
とも至極なんでございますよ。 さあ、 カラマゾフさん、
まして、わたくしのことを道化呼ばわりしたのも、もっ
を道化と言った娘も、やはり生き身の天使なんでござい
﹁ところで、いまじたんだを踏みながら、わたくしのこと
間の世界へ天
降 りましたんで、⋮⋮でも、おわかりにな
したが。︱︱
︱これは生き身の天使でございますよ⋮⋮人
申しますんでございますよ。紹介するのを忘れておりま
ている娘は、わたくしの娘で、ニイナ・ニコライヴナと
この部屋を出てからにいたしましょう。その、そこに坐っ
な﹂
たくしはおもしろいことをお聞かせしたいと思いまして
ておりませんで。まあ、ゆっくり、まいりましょう。わ
際、いろんな意味で申しましても、あんまりせいせいし
﹁空気が澄んでおりますな。わたしのお屋敷の中は、実
七 清らかなる外気のうちに
りますかしら⋮⋮﹂
﹁実は僕も、 たいへんな問題があるんですけれど⋮⋮﹂
とことまじめに申し上げたいことがございますが、まあ、
﹁ほら、あんなに体じゅう震わせて、まるで 痙攣 でも起
とアリョーシャが言った、
﹁さて、どういう風に切り出し
あまくだ
こしているようだわ﹂とワルワーラは腹立たしげにこと
ていいか迷っているんです﹂
けいれん
ばを続けた。
327
しのところなぞ、のぞいて御覧になることもなかったは
はずはございません。用がなかったら、けっして、わたく
﹁あなたがわたくしに用件のあることを、知らずにいる
ちゃん!
てるのを見ると、 倅 はいきなり飛びかかって来て、﹃父
も混っていたわけなんです。わたくしがそんな目にあっ
たちが学校から出て来ましてね。その中にイリューシャ
その、あなたのお兄さんのドミトリイさんが、あのとき、
小学校の生徒の言うことなんでございますよ。ところで、
あだ名を取っているんでございますが、これは主として、
のことを申していますので。わたくしの鬚は糸瓜という
は、もう少し厚かったのでございますよ、︱︱︱自分の鬚
しょう。御覧なさいまし、この 糸瓜 もつい一週間前まで
今ここであのときの様子を詳しく申し上げることにしま
あの席では、すっかりお話ができなかったものですから、
子供のことをちょっとお話しいたしましょう。さきほど
うも受けとれませんでしてね。それはそうと、ついでに
にいらっしただけなんでございましょうか?
﹁僕誓ってもいいです、﹂とアリョーシャは叫んだ、﹁兄
も忘れはいたしません⋮⋮﹂
忘れられないんでございますよ、けっして、これから先
の顔が、 今でもありありと見えるようでございますよ。
るじゃございませんか、⋮⋮わたくしは、その時のあれ
お兄さんにとびついて、その手に、え、その手に接吻す
ちょうだい﹄とわめいたのです。それから、小さな手で
くそう言ってどなるじゃありませんか、
﹃堪忍してやって
ちゃんなんだから、堪忍してやってちょうだいよ!﹄全
してよ、これは僕の父ちゃんなんだから、ねえ、僕の父
き放そうとして、 敵に向かって、﹃放してください、 放
わたくしをつかまえて、抱きしめながら、一生懸命に引
父ちゃん!﹄とわめくんでしてね! そして
せがれ
ずですからね。それとも実際に、子供のことを言いつけ
わたくしの鬚を引っぱったんでございますよ。何という
は十分にこのうえもない誠意をもって、あなたに 悔悟 の
それはど
わけもなしに、ただお兄さんが暴れだしたところへ、おり
念を表わすはずです。あの広場で膝をついてまでも⋮⋮
へちま
悪しくわたくしが行き合わせたものですから。居酒屋か
無理にそうさせます。でなかったら、もう僕の兄じゃあ
かいご
ら広場へ引きずり出されたときに、ちょうどそこへ生徒
328
シャを連れてすごすごと帰りましたが、家の系図にまで
じゃございませんか! わたくしは、そのとき、イリュー
こう申されたんでございますよ。いや、全く義侠的精神
くざ者でも、得心のいくように相手になってやる!﹄と、
見つかったら、決闘を申しこめ。そしたら君のようなや
と、
﹃君も将校なら、おれも将校だ、もし相当の介添人が
すからね。この鬚を引っぱり回していた手を放しなさる
その高潔なお心を、立派にお示しになったのでございま
心を証明させていただきましょう。お兄さんはあのとき、
このうえもなく 義侠的 な、いかにも軍人らしい高潔なお
に。いや、そういうわけなら、わたくしにもお兄さんの
となんですね。そんならそうとおっしゃればよろしいの
に出たことでなくって、あなたの立派な情愛から出たこ
﹁ははあ、ではまだ御計画中なんですね。あの人から直接
りません!﹂
許してくださったときでございます。働くわけにはまい
わたしを殺してしまわないで、かたわ者にするくらいで
しょうか? おまけに、なお始末が悪いのは、お兄さんが
そのときはどうなるでしょう?
兄さんに決闘を申しこんで、さっそく殺されでもしたら、
なたにお尋ねしたいんですけれど?
らわかりませんのでね。わたくしはこのこと一つだけあ
わたくしが死にましたら、こういう子供はどうなるのや
つで、指一本にも当たらないような子供でしてね。もし
シャのことは何も申しません。なんといってもやっと九
婦人の権利を求めるとか申して承知しません。イリュー
ブルグへ行くと申して、何でもネヴァ川の岸で、ロシア
くらいでございますが、女学生でして、もう一度ペテル
人は足痿えの 佝僂 、もう一人は足も達者で、利口すぎる
婦人が坐っておりますが、一人は足 痿 えの阿
呆 、もう一
わたしのお屋敷で、何を御覧になりました?
家内の者はどうなるで
もし、わたしがお
あほう
三人の貴
残るほどのそのときの光景は、永久にあの子の心に刻み
りませんが、それでも口だけはやはり残っています。いっ
な
つけられたのでございますよ。いいえ、どういたしまし
たい、そのときに、誰がこの口を養ってくれるでしょう?
せむし
て、わたくしたちは貴族のまねをするわけじゃございま
それとも、イリューシャを学校から下げて、毎日乞食し
ぎきょうてき
せん。御自分でも考えてみてくださいまし。あなたは今
329
等大尉は続けた、
﹁ところが、わが国の法典をひろげて御
﹁またあの人を裁判所へ訴えようかとも思いました﹂と二
を輝かせながら、またもや叫んだ。
なたの足もとにひざまずくでしょう﹂アリョーシャは眼
﹁兄さんはあなたにおわびしますよ。広場のまん中であ
を言っても、もうしかたはございませんがね﹂
これだけの意味があるのです。こんなばかばかしいこと
さんに決闘を申しこむということは、わたくしにとって、
に歩かそうとおっしゃるんでございましょうか? お兄
も考えました。もしも、あの老人がわたくしを寄せつけ
あれもおまえを寄せつけないはずだ﹄。 そこで、 わたし
ソノフ老人のことを﹃うちの商人﹄と申されますので︶、
うちの商人にもそういっておいたから︵あのかたはサム
たら、わたしのところでは鐚
一文 だってとれないんだよ、
しゃるには、
﹃おまけに、わたしが一生おまえを追っ払っ
さし金じゃございませんか?
ざいますよ。つまり、あのかた御自身と、フョードル様の
怯 なまねをしたのか、神様ばかりはようく御承知でご
卑
手から出たことか、そしてたれのいいつけでわたくしが
ひきょう
覧なさいまし、わたくし個人の受けた侮辱に対して、相
なかったら、たれからもらえるのか?
びたいちもん
と。なにせ、わ
それから付けたりにおっ
手の者からたいした賠償もとれないんじゃございません
かりでなく、わたくしの証文を 楯 にとって、裁判ざたに
めに、わたくしを信用してくださらないようになったば
ざいますからね。あなたのお父さんはある別な事情のた
たくしにもうけさしてくれるのは、あのお二人きりでご
どなり散らすじゃありませんか、
﹃大それたことを考える
ルーシェンカ
もしもあの人を訴えでもしたら、わ
グ
もんじゃないよ!
しようとしてらっしゃるんでございますよ。こんなこと
か? それに、そこへもってきて、アグラフェーナ︵
たしがわきから手をまわして、あの人がおまえをなぐっ
のために、わたくしも、黙ってしまったわけでして。ま
︶様が、わたしを呼びつけて、いきなり
吹聴 し
たのは、おまえの い ん ち きのせいだと、みんなに た、あなたも、わたくしの内を御覧になったわけなんで
たて
てやる。そしたら、おまえがあべこべに、裁判所へ引っ
す。ところで、ちょっと、お伺いいたしますが、あの子
ふいちょう
ぱられるんだよ﹄って。しかし、このいんちきがたれの
、
、
、
、
330
﹁ときに、御承知でしょうが、坊ちゃんは御自分から先に
んでございますよ﹂
なったりして、帰って来るなり、あのとおり病みついた
が当たったとかで、あざができて、今日は泣いたり、う
て、胸をやられたんですが、心臓のちょっと上の辺に石
﹁いや、もう当たりましたんでございますよ、頭でなく
で来たら、頭なんか割れるかもしれません﹂
で坊ちゃんを殺してしまうかもしれませんよ。石が飛ん
たですよ。なにしろ子供で、分別もありませんから、皆
が御覧になったら、どうでしたろう? それこそ危なかっ
学校の友だちと石の役げっこをしてるところを、あなた
のです、それが今になってよくわかってきました。でも
をカラマゾフの一族として、お父さんのあだ討ちをした
へん気が立っていたようですから。あの坊ちゃんは、僕
﹁ええ、ずいぶんひどいんです。それに、坊ちゃんもたい
しいことにわたるのが気がひけたものですから﹂
か? お屋敷の中で、あの子のいる前では、どうにも詳
はさきほどひどくあなたのお指をかんだんでございます
皆がからかいだすと、イリューシャの心の中にけなげな
みんないっしょになると、よく残酷になるものでしてね。
は天使のようでも、いっしょになると、わけても学校で
供らは、なかなか残酷なものでしてね、一人一人のとき
あれを 糸瓜 と言ってからかいだしたことです。学校の子
といいますのは、あの出来事のあとで、学校の子供らが、
じゃ特にこの話をはっきり説明させていただきましょう。
いますよ。あなたはこのことを全部御存じないんですね。
ますね!
﹁怒り!﹂と二等大尉は引き取った、
﹁全く怒りでござい
納まるでしょうからね⋮⋮﹂
へやらないほうがいいですよ、⋮⋮そのうちに、怒りも
に続けた、
﹁当分のあいだ、気が静まるまで、全然、学校
﹁僕はあなたに御忠告しますが﹂とアリョーシャは熱心
ら、またやっかいなことが起こるかもしれません⋮⋮﹂
ます。そのクラソトキンというのは、ここの役人ですか
﹁そのことも聞きましたが、どうも危ないことでござい
とかいう子供の横腹を、ナイフで突いたそうですよ⋮⋮﹂
たんでしょう。子供らの話によると、さっきクラソトキン
へちま
ちっぽけな子供ですが、大きな怒りをもって
みんなに食ってかかるんですよ。あなたのために憤慨し
331
があれの頭にしみこんで、永久にあれを打ち砕いたんで
という真理を一時に試したんでございますよ。この真理
広場で、お兄さんの手を接吻したとき、その瞬間に真理
ません。ところが、うちのイリューシャときたら、例の
かかっても、そんな深いところまでわかるもんじゃあり
すからね。金持ちなんかには、どうしてどうして一生涯
は、もう九つくらいの年から浮き世の真理をわきまえま
らさげすまれていても、気高い貧乏人の子供というもの
あなたがたのじゃなくて、手前どもの子供で、︱︱︱人か
ざいませんですよ。全く、手前どもの子供は︱︱︱つまり、
あ神様お一人と、それからわたくしのほか、知る者はご
いたとき、あの子がどんなつらい思いをしましたか、ま
うだい。父ちゃんを堪忍してやってちょうだい﹄とわめ
んの手に接吻しながら、
﹃父ちゃんを堪忍してやってちょ
めに、真実のために奮い立ったのです。あのとき、お兄さ
に皆を向こうにまわしました。父親のために、真理のた
かしく思うところでしょうが、あれは一人で父親のため
い子供なら、いいかげんに降参して、自分の父親を恥ず
精神が、むらむらと湧き起こってきたのです。普通の弱
ます、︱︱︱まあ、悲しさをまぎらわすために、なけなしの
してね、︱︱︱わたくしは母ちゃんをもかなり愛しており
んだんでございますよ。母ちゃんもやっぱり泣きだしま
まいました。罪の深い男で、ただ憂さ晴らしのために飲
の日は少々飲みましたので、たいていのことは忘れてし
られていないことは、わたくしによくわかりました。次
ように見せかけていましたが、おさらえなんぞに気をと
窓の方にもたれかかって、学校のおさらえでもしている
一生懸命にわたくしを見つめていましたが、だんだんと
たといってもいいくらいでした。ただ、隅っこの方から、
子はあまりわたくしに口をききませんでした。黙ってい
とばかり言い通したのです。その日一日というもの、あの
﹁その日、あれは熱を出しましてね、一晩じゅう、うわご
めて自分の左の掌を打っていた。
まざと現わそうとでも思ったかのように、彼は右手を固
理﹄がイリューシャの心を打ち砕いたありさまを、まざ
のように、 熱心に述べるのであった。 述べながら、﹃真
二等大尉はまたしても興奮のために、前後を忘れたか
ございますよ﹂
332
母ちゃんやお嬢さんたちが口を出しますので。そのうえ
わたくしのお屋敷では何一つ話ができんのです。すぐに
い、どうしたんだ﹄と聞いても黙ってるんです。それに
なってしまって、その顔色ったらございません。
﹃いった
にあれが学校から帰って来たのを見ますと、まっさおに
まったじゃないか﹄とはやし立てましてね。三日目の日
い、それで、おまえはそのそばをかけずり回って、あや
瓜をつかまれて居酒屋から引っぱり出されたんだ。やあ
んでございますよ。
﹃やい、糸
瓜野郎 、おまえの親父は糸
朝っぱらから子供たちが学校で、あれをからかっていた
く覚えていませんでした。ところが、ちょうどその日は
ましたんで、イリューシャのことはその日はそんなによ
んの酒飲みなんでございますよ。それで、横になってい
ていましてね、またいちばん人のいい連中がまたいちば
れわれ仲間では酒飲みがいちばん善人ということになっ
わたくしをばかにしないでくださいまし、ロシアで、わ
金をはたいて飲んだのでございますよ。あなた、どうか
に、あの子が、
﹃父ちゃん、父ちゃん︱︱︱﹄と言いだしま
胸の病気があるもんでございますから。ところが、不意
ぞ細くって、冷とうございますんで、なにしろ、あれは
いておりました。あれの手はまことに小さな手で、指な
ものとおり、わたくしは、イリューシャの手を取って歩
が、閑静な見晴らしのいいところでございますよ。いつ
です。あの石のところから牧場が始まるんでございます
がっているあの、すてきに大きな石のところまで行くん
から、あの道の 籬 のそばに、たった一つ淋しそうにころ
と同じ道を、散歩に連れ出していたんですよ。家の木戸
で毎晩あの子をつれて、今あなたとこうして歩いている
た。ちょっとお断わりしておきますが、わたしはそれま
暮れがたに、わたくしは野郎を連れて散歩に出かけまし
ないよ﹄と言って、その場を濁しときましたよ。その日の
ワルワーラさん、わしのすることが理屈にかなうはずは
かと、まぜ返し始めたんですよ。﹃全く、そのとおりだ、
理屈のかなったためしはないじゃありませんか?﹄なん
もう、﹃この道化者、一度だってお父さんのすることに、
へちまやろう
お嬢さんたちはもう事件のあった当時に、すっかり聞き
す。わたくしが、
﹃なんだい?﹄と言いながらよく見ると、
まがき
つけてしまったのでございますよ。ワルワーラなんぞは
333
だい。僕は大人になったら、決闘を申しこんで、あいつを
ちゃん、それでもやっぱり、仲なおりをしないでちょう
てやったんです。あれはじっと聞いておりましたが、
﹃父
たった今あなたにお話ししたことを、あっさりと聞かし
しこむわけにはいかないんだよ﹄と答えて、わたくしは、
ばかにするんだもの﹄
﹃イリューシャ、あいつに決闘を申
だ、それで、あいつから十ルーブルもらったんだなんて
んだもの、父ちゃんは臆病だから決闘を申しこめないん
闘を申しこんでください。だって、学校でみんなが言う
くしの手を取って接吻しながら、
﹃父ちゃん、あいつに決
ると、あれはぶるぶる身震いして、いきなり両手でわた
があっても、あいつから金なんぞもらいやしないよ﹄す
もんか、イリューシャ、もうこうなったら、どんなこと
いつから十ルーブルもらったなんて﹄
﹃そんなことがある
で皆が言うんだもの、父ちゃんが仲なおりのために、あ
つと仲なおりしちゃいけないよ、父ちゃん。だって学校
がないよ、イリューシャ﹄とわたしは言いました。
﹃あい
ときね、父ちゃん、ひどい目にあいましたね!﹄
﹃しかた
あれの眼が光ってるじゃありませんか。
﹃父ちゃん、あの
あれが組じゅうの者を向こうへまわして、自分から腹を
とおり、もう、あの子を学校へはけっしてやりますまい。
かったばかりなんでございますよ。あなたのおっしゃる
い目にあって帰って来るってことは、やっと一昨日、わ
にまで言ったんでしょうよ。ところで、学校から、ひど
昼も夜もこのことばかり考え通して、きっと、うわごと
さな頭にちゃんとできてるじゃございませんか。あれは、
しょう、この二日のあいだに、こんな段取りが、あの小
てやるんだ⋮⋮﹄って。どうでしょう、あなた、どうで
んだけれど、勘弁してやる、ありがたく思え!﹂って言っ
頭の上にサーベルを振り上げて、
﹁いますぐにでも殺せる
に飛びかかって、倒してやるんだ。そしてね、あいつの
サーベルであいつのサーベルをたたき落として、あいつ
人になったら、あいつを打ち据えてやるんだ。僕、自分の
いことだ﹄とこう言い聞かせますと、
﹃父ちゃん、僕、大
ん。で、
﹃たとい、決闘になっても、人を殺すのはいけな
ら、ひとこと本当のことを教えてやらなければなりませ
まあ、それでも、やはり、わたしは父親でございますか
殺してやるんだ!﹄と言うんです。眼を光らせましてね。
うよ。僕らのことを誰も知らない町へ引っ越しましょう﹄
ちゃん、ほかの町へ、ほかの、いい町へ引っ越しましょ
イリューシャ、この町はどうもあまり感心しないよ﹄
﹃父
この町は本当にいやな所だねえ、父ちゃん!﹄﹃そうだ、
︱唇はやはり前のように震えてるじゃありませんか、
﹃こ
ていましたが、﹃父ちゃん﹄とまた言いだしました。︱︱
手出しなんかできるものか⋮⋮﹄それからしばらく黙っ
したらここへ帰って来るんだ。そしたら、誰だって僕に
うすると、皇帝陛下が僕に御褒美をくださるから、そう
るよ。僕は軍人になって、みんな負かしてやるんだ。そ
わたしが言いますと、﹃父ちゃん、 僕うんと金持ちにな
シャ、金持ちより強いものは世界じゅうにないんだ﹄と、
界じゅうで誰よりも強い?﹄って。
﹃そうだよ、イリュー
ことを聞くじゃありませんか。﹃父ちゃん、 金持ちが世
で散歩に出たときのことですが、イリューシャがこんな
たまらなかったんでございますよ。それからまた、二人
うことを聞いたとき、わたしはあれのことが気になって、
立てて、胸がいっぱいになってみんなに 喧嘩 を売るとい
ががらりと変わってしまいました。朝、あれはまた例の
一昨日の夕方のことでしたが、昨日の晩になると、様子
らわして、慰めてやったと思って安心しました。これは
おしゃべりしました。いいあんばいに、あれの気をまぎ
でございますからね。 まあ、 こんなことを、 長いこと、
の子供というものは馬といっしょに生まれるようなもの
くというのが嬉しいんですね。御承知のとおり、ロシア
何よりも自分の家に馬があって、自分がそれに乗って行
ね﹄こう言いますと、あの子は夢中になって喜びました。
にはいかないんだよ。そんな風にして行くことにしよう
から世話をしてやらにゃならんから、みんなで乗るわけ
やはりそばについて歩いて行こう。だって、うちの馬だ
よ。ときどき、おまえだけは乗せてやるが、父ちゃんは
う。そしておまえとお父さんはそのそばを歩いて行こう
んと姉ちゃんは馬車へ乗せて、上からおおいをしてやろ
して買おうかだの、いろんな空想を始めました。
﹃母ちゃ
どんな風にして他の町へ行こうかだの、馬と馬車をどう
あの子の悲しい思いをまぎらすおりがきたのを喜んで、
を少しためりゃいいんだから﹄ と言って、 わたくしは、
けんか
﹃うん、越そう! そうしよう。イリューシャ、ただお金
334
のです。ああ、これはいかん、何か新しいことがあるん
気がついてみると、あれの指が私の掌の中で震えている
たので。ところが、やはり黙っているじゃありませんか。
した。やはり昨日の一件に話をもっていこうと思いまし
して旅立ちの用意をしたものかな﹄とわたくしが申しま
ようでございました。
﹃なあ、イリューシャ、どんな風に
しておりましても、なんだか二人とも気が滅入ってくる
がしました。あたりはだんだん薄暗くなって、ぶらぶら
よと吹いて来て、夕日はかげり、いかにも秋らしい感じ
たが、黙りこんでいて、口をきかんのです。風がそよそ
夕方、わたしはあの子の手を取って、散歩に出かけまし
をしておりました。 ひどく沈みこんでおりましたので、
学校へ出かけましたが、帰って来た時には沈んだ顔つき
はまるで引きつけたように、しゃくりあげて泣きながら、
顔は、たちまちずぶぬれになってしまいました。あの子
ございますよ。その暖かい涙がほとばしって、わたしの
が流れるのでなくって、まるで小川がほとばしるようで
しみに襲われてやりきれなくなると、もうそのときは涙
つまでも 肚 の中で涙を押えているものですが、非常な悲
御承知でしょうが、無口でいても、気位の高い子供は、い
たくしの首筋に抱きついて、じっとしめつけるのでした。
の子はいきなりわたしに飛びかかって、小さな両手でわ
吹いて来まして、砂を吹き上げました。⋮⋮それで、あ
見せて立っているんでございますよ。そのとき、 疾風 が
はやはり黙って、そっぽを向きながら、わたしに横顔を
おまえ、どこにしまったんだえ?﹄と聞きましたが、あれ
げようじゃないか。お父さんが繕ってやるよ。いったい、
はやて
だな、と、わたしは思いました。そのうちに、ちょうど
身震いをして、一生懸命にわたくしを抱きしめるじゃあ
うね!﹄そこでわたくしももらい泣きをしましたんです
はら
今と同じようにこの石の所までやって来て、わたしはそ
りませんか。わたくしはじっと石の上に坐っておりまし
こ
の上に腰をかけました。すると、空には 紙鳶 がどっさり
た。﹃父ちゃん﹄とあの子がわめくのでございます。﹃父
た
上がっていて、ぶんぶんうなったり、ぱたぱた音を立て
こ
ちゃん、あいつは父ちゃんになんて恥をかかしたんだろ
た
こ
たりしていました。ちょうど 紙鳶 の時節なものですから。
た
﹃おい、イリューシャ、おれたちもひとつ去年の 紙鳶 を上
335
336
﹁ああ、どうかしてあのお子さんと仲なおりがしたいも
気づけたが、胸は涙に震えるばかりであった。
報告もしないだろうと思った。それがアリョーシャを元
を﹃語り﹄もすまいし、今、自分に話したようなことを
にあったとしたら、けっしてこの男は自分にこんなこと
自分を信用していると感じた。誰か他の人が自分の立場
調で結んだのであった。しかし、アリョーシャは、彼が
彼は長談義を、元のような恨めしげな、キ 印 らしい語
せんでございますよ!﹂
心のいくように、あの子をなぐるわけにはとてもいきま
してくださいまし。とんでもありません。あなたの御得
ます。どうか、アレクセイ様、お兄様にようくお礼を申
御覧くだすって、出勤簿につけてくだすったろうと存じ
とき誰も二人を見た者はございません。ただ神様だけは
しも、
﹃イリューシャ、イリューシャ﹄と申します。その
ました。
﹃父ちゃん、父ちゃん!﹄とあれが言えば、わた
よ。二人は石の上に坐って、抱き合ったまま震えており
くあの人ひとりの名なんです!
の名でもありません。ほかの誰の名でもありません、全
ません。けっしてそんなことはありません。また弟たる僕
ひとりの名で、あの人を捨てたドミトリイの名ではあり
僕にお頼みなすったからです、⋮⋮もっとも全くあの人
この扶助金をあの人の名であなたにお届けするようにと、
もかも聞いたので、たった今、⋮⋮ほんの今さっき⋮⋮
けになった侮辱を聞き、あなたの不仕合わせな境遇も何
いくらいです。なぜと申しますと、あの人はあなたがお受
持っています。いや、打ち明ける義務があると言ってもい
僕はあの人の受けた侮辱を、あなたに打ち明ける権利を
ですが、あなたもきっとお話をお聞きになったでしょう。
妻をもはずかしめたのです。それは実に気高い令嬢なん
頼まれているんです。あの僕の兄のドミトリイは 許嫁 の
び続けた、
﹁ようござんすか! 僕はあなたにことづてを
るで別のことです。ようござんすか﹂アリョーシャは叫
﹁しかも、今申し上げようと思うのは別のことです。ま
﹁いや、全くでございますよ﹂と二等大尉はつぶやいた。
あの人はぜひとも納め
いいなずけ
んです!﹂と彼は叫んだ、
﹁もし、あなたがうまく取り計
ていただくようにと、拝まぬばかりに頼みました、⋮⋮
じるし
らってくだされば⋮⋮﹂
337
僕、誓って申しますが、ぜひともあなたはこれをお納め
いは全然ありません。で、これがその二百ルーブルです。
知る者がありませんから、とんでもない噂が立つ気づか
きつけてくれと僕に頼んだんです。このことは誰ひとり
ブルという金を納めていただくように、ぜひあなたを説
知していますから、自分を妹だと思って、この二百ルー
です、⋮⋮あの人はあなたがお困りになっているのを承
それですから、まあ、妹が兄を助けるというようなもの
を受けた時でした︵つまり侮辱の程度が同じわけです︶。
ことを思い出したのも、自分であなたと同じような侮辱
んじゃありませんか、⋮⋮ですから、あの人があなたの
だって、あなたがたお二人は、同じ人間から侮辱を受けた
なたくさんなお金を、二百ルーブルという大金を!
﹁これをわたくしに、わたくしに、わたくしに!
表情が彼の顔にちらついた。
らくは、返事もできなかった。何かしら、まるで違った
とがなかったのである。彼は紙幣を手にしながら、しば
なにたいへんな金をもらおうなどとは、想像さえしたこ
たからである。誰からにもせよ扶助金を、しかも、こん
も思わなかったし、こんな成り行きを予想だにしなかっ
のためばかりらしかった。彼は、こんな風なことは夢に
かった。彼は身を震わせたが、今のところは、ただ 驚愕 た。二枚の紙幣は二等大尉に恐ろしい印象を与えたらし
な石のところに立っていたが、あたりには誰もいなかっ
し出した。二人はそのとき、ちょうど籬 のほとりの、大き
まがき
にならんといけませんよ。⋮⋮でないと、⋮⋮でないと、
あ! わたくしは、もう四年ばかりも、こんな大金を見た
には兄弟というものもあるわけじゃありませんか、⋮⋮
んという理屈になってきますからね!
れはいったい本当に、本当にでしょうか?﹂
れに、
﹃妹から﹄とおっしゃるんでございますね、⋮⋮そ
ことがございませんよ、︱︱︱まあ、これはこれは!
ま
こん
きょうがく
世界じゅうの人はみんなかたき同士にならなくちゃなら
あなたは気高い心をもったおかたですから、⋮⋮ぜひと
﹁誓って申します、僕が今言ったことはみんな本当です!﹂
そ
もお納めにならなければなりませんよ、ぜひとも!﹂
とアリョーシャは叫んだ。二等大尉はちょっと顔が赤く
しかし、世の中
と言って、アリョーシャは新しい二枚の虹色の札を差
338
う一人⋮⋮﹂
人と、それにあの人がかなりに親しくしている奥様がも
知ってるのは、僕たちばかりですよ。僕とあなたとあの
も! それに、けっして誰も知る者はいないんですもの。
は命にかけても誓いますが、そんなことはありませんと
﹁いや、いや、なあに、そんなことはありませんよ! 僕
せんか、もしわたくしがこれを受け取りましたら、え!﹂
わたくしを見下げた男だとお思いになるんじゃございま
けなさいますけれど、 心の中ではですね、 肚の底では、
なたは﹃妹の贈り物﹄だからと申して、わたしを説きつ
わりながら、ひとことひとこと急 きこむのであった、
﹁あ
しょうか?﹂彼は両手を伸ばしてアリョーシャの体にさ
になって、わたくしが卑屈な人間にならないでございま
いでございましょうか?
くしがこの金を受け取りましたら、卑屈な人間にならな
﹁ところでね、あなた、お伺いしますけれど、もし、わた
なった。
つまり、あなたの眼から御覧
かし、 それでも、 こちらの薬種屋で売っている鉱泉を、
﹃どうにもわからん﹄とおっしゃるんでございますよ。し
間ばかりも可哀そうな親子の者を診 てくださいましたが、
から、わたくしどもへおいでくださいまして、まる一時
医者のヘルツェンシュトゥベ様が、御親切なおぼしめし
を療治してやることができるんでございます。いつかお
ニイノチカ︱︱︱あの佝僂の天使、つまり、わたくしの娘
して、現在、わたくしはこの金でもって、
﹃母ちゃん﹄と
な﹃妹﹄から、真心こめて、贈られたということは別と
口に言うのであった。﹁この金が非常に尊敬すべき神聖
からと、そればかりを心配しているように、思いきり早
分の言いたいことを、すっかり言わしてもらえなかった
ばを続けた。彼は前後をも忘れたかのように、まるで自
がら、ほとんど野性的なくらいに有頂天になって、こと
ないからなので﹂二等大尉はしだいしだいに取り乱しな
にとって、どんな意味を持っているか、あなたは御存じ
ぜといって、今この二百ルーブルというお金がわたくし
ただかなくてはならない時が来たんでございますよ。な
せ
﹁奥様なんかどうでもいいです! ねえ、アレクセイ様、
母ちゃんの処方に書いてくださいましてね、これはたし
み
どうぞ聞いてくださいまし。全くもう何もかも聞いてい
339
ずつなのでございますよ。あなた、どうしてまあ、手前
を使わせるようにとのことでした。しかも毎日朝晩二度
で、ニイノチカのほうは何かの薬を熱く沸かして、お湯
今もって、そのままにしておくような始末です。ところ
りません。わたくしはその処方を聖像の下の棚へ載せて、
たしますが、どうしても四びんくらいは飲まなければな
やはり処方してくださいました。鉱泉は三十カペイカい
かにききめがあるとのことでした。それらの薬湯の素も
いらしいんでございますよ。
くしどもが、あれの世話をしてやるのが、あれにはつら
ような眼つきが、言いたそうにしているんですよ。わた
すから﹄と、まあ、こんなようなことを、あれの天使の
りあげることになります。わたくしはやっかい者なんで
をいただくと罰があたります、それではみんなの物を取
うなところを取るじゃありませんか。
﹃こんなよいところ
その中でも、あれはいちばん悪い、犬にしかやれないよ
るのを忘れていましたが、毎晩毎晩、右半身が全体にず
チなんでございますよ。わたくしはこのことをお話しす
できましょう?
れるのでございますから。あれがいなかったら、あれの
うな優しい心で、わたくしどものことを神様に祈ってく
役に立たないどころじゃございません。あれは天使のよ
わじゃありませんか﹄︱︱︱ところが、どうしてどうして、
﹃わたくしはそんなことをしていただく値打ちはありま
きずき痛んで、 それはそれは苦しむんでございますよ、
優しいことばがなかったら、それこそ、わたくしどもの
あの小屋
まるで嘘のような話ですけれど、あの神様のお使いはわ
家は地獄も同然なのでございますよ。あれはワルワーラ
どもで、そんな療治ができるものでしょう?
たくしどもに心配をかけまいと、一生懸命に我慢をして、
の心までも、慰めてくれました。しかし、ワルワーラの
せん、わたくしは何の役にも立たない、つまらないかた
他の者が眼をさまさないようにと、うめき声さえ立てな
ことも、やはり悪く思わないでくださいまし。あれもや
で、女中もなく、手伝いもなく、道具も水もなしに何が
いんでございますよ。わたくしどもは食べ物も手当たり
はり天使ですけれど、ただはずかしめられたる天使なん
ところが、ニイノチカはひどいレウマ
次第に、なんでもかまわず口に入れるんでございますが、
340
い、というような始末なのでございます。それにまだ帰
使ってしまいましたので、あれはもう帰ろうにも金がな
ございます。ところが、わたくしどもがその金を取って
ブルグへ帰るつもりで、それを旅費に取っておいたんで
た金なので、九月︱︱︱といって、つまり今ごろはペテル
おりました。それは子供に 稽古 などしてやって、もうけ
のことでしたが、そのころは十六ルーブルの金を持って
でございますからね。あれがここへまいりましたのは夏
﹁ねえ、 あなた、 わたくしとイリューシャの空想は、 今
駆られて、 われを忘れたように早口にしゃべりだした、
二等大尉はまたもや、ふっと脳裡に浮かんできた空想に
﹁待ってください、 アレクセイさん、 待ってください﹂
ばずにはおられなかった。
て、また彼がこの幸福を受けることを承諾したので、喜
アリョーシャは彼にこうした幸福を与えることができ
ますので。ああ、しかし、これも、空想です!﹂
えるし、みんなに食べ物のぐあいもよくすることができ
けいこ
れもしないと申すわけは、わたくしどものために懲役人
すぐ実現できるかもしれませんよ。小さな馬と 幌馬車 を
ほ ろ ば しゃ
のような働きをしているからでございます。 なにしろ、
買って、あの子がぜひとも 黒駒 にしてくれと申しますか
く ろ
やくざ馬に馬具や 鞍 をつけて、こき使うようなありさま
ら、 黒駒 を買うことにして、 一昨日、 計画したように、
して聞いたのでは、 もしわたくしがそちらへ行ったら、
くら
なんでございますからね。皆の者の世話をする、洗濯を
ここを立つんでございます。K県にはわたくしの知り合
きて、涙っぽい女で気ちがいなんでございますよ!
その事務所で書記に使ってくれるとか言っているそうで
は
ういうわけでございますから、この二百ルーブルがあれ
す。全くあの人のことだから、使ってくれないとも限り
く ろ
する、 雑巾 がけをする、床を掃 く、母ちゃんを床の上に
いの弁護士、幼な友だちがいますが、ある確かな人を通
ば、女中も雇えますし、ねえ、アレクセイさま、可愛い
ません。ですから、わたくしは母ちゃんと、ニイノチカ
ぞうきん
寝かしてやる︱︱︱ところが、そのお母さんは気ちがいと
者どもの療治にかかることもできるし、女学生をペテル
を載せて、⋮⋮イリューシャを御者台に坐らせて、自分
こ
ブルグへやることもできるんでございますよ。牛肉も買
341
も自分の金を持っていますから、兄弟だと思って、親友
入り用なだけ送ってくださいます。それに、あなた、僕
は叫んだ、﹁それにカテリーナさんはまだ幾らでも、 お
﹁間に合いますとも、間に合いますよ!﹂とアリョーシャ
ら、これだけの間に合うんだがなあ!﹂
あ、もしここで倒された貸金を手に入れることができた
は歩きながら、みんなを引っぱってまいります、⋮⋮あ
﹁あなた、どうなすったんです!﹂アリョーシャはなぜ
思議であった。
かったが、絶えず唇を動かしている様は、なんとなく不
うに、唇をもぐもぐさせるのであった。声は少しも出な
をして立っていたのである。そして、何やら言いだしそ
尉は首をのばして唇を突き出しながら、興奮した青い顔
一目見るなり、急に彼はそのまま立ちすくんだ。二等大
ほどに彼は喜んでいたのである。しかし、相手の様子を
じっと、穴の明くほど、狂気じみた眼で相手を見つめな
だと思って、お入り用なだけ取ってください。それは後
よい御了見でした!
がら、それと同時に、唇にはほほえみを浮かべているら
かしら、不意にぎくりとした。
救われますよ、しかも、誰よりもいちばんあのお子さん
しく、 切れ切れに、 つぶやいた。﹁わたくしは⋮⋮あな
で返してくださればいいのですから⋮⋮︵あなたは金持
のためになることです、︱︱︱では、なるべく早く、冬に
た⋮⋮ねえ、いかがでございましょう、今すぐちょっと、
﹁アレクセイ様、⋮⋮わたくしは⋮⋮あなた﹂二等大尉
なって、寒くならないうちにいらっしゃい。そしてあち
わたくしは手品をお目にかけようと思いますが!﹂いき
ちになりますよ、金持ちに!︶そのうえ、あなたがほか
らへいらしっても、僕たちに手紙をくださいよ。僕たち
なり早口に、しっかりした声でささやいた。話はもう、少
は、山から身投げしようと決心した人のような風をして、
はいつまでも親友でいようじゃありませんか、⋮⋮いい
しも途切れなかった。
の県へ行こうと考えつかれたのは、実にこのうえもない
え、これはけっして空想じゃありません!﹂
﹁どんな手品です?﹂
そうしたら、あなたがたはきっと
アリョーシャは相手を抱きしめようとしていた。それ
342
﹁わかりましたか、わかりましたか?﹂まっさおな顔を
と握りつぶしてしまった。
く引っつかんで、 皺 くちゃにしながら、右手でしっかり
のほうへ差し出して見せたかと思うと、いきなり荒々し
し指で、角のところをつまんでいた二枚の紙幣を、相手
彼は今まで話をしている間じゅう、右手の 拇指 と人さ
は金切り声を立てた。
﹁ほら、御覧ください、これです!﹂不意に、二等大尉
相手はすっかり恐れをなして、叫んだ。
﹁いったい、どうしたのです、どんな手品なんです?﹂と
アリョーシャを見つめていた。
がめて、左の眼を細くして、まるで吸い付くかのように
相変わらずささやくのであった。彼は口を左のほうへゆ
﹁ええ、手品です、ちょっとした手品です﹂二等大尉は
ふり返って、アリョーシャに手を振って見せた。またも
した。が、まだ五足と行かないうちに、不意に彼はまた
れから急に身をかわしたかと思うとまっしぐらに駆け出
彼は両手を宙へさし上げながら、叫ぶのであった。そ
瓜 は自分の名誉を売り物にしないって!﹂
糸
﹁あなたを使いによこした人に言ってやってください、
らざるプライドを示していた。
の前に仁王立ちになった。その全体の様子は名状すべか
不意に、ひょいと、彼は後ずさりして、アリョーシャ
れがあなたの金なんです! これはあなたの金なんだ!﹂
﹁これがあなたの金ですよ! これがあなたの金です! こ
てた。
うして、息を切らしながら、踏みつけるたびにわめき立
色を浮かべながら、靴の 踵 で紙幣を踏みつけ始めた。そ
と言って、急に彼は右の足を上げて、荒々しい憤怒の
かかと
して、夢中になりながら、彼はアリョーシャに向かって
や五足と走らないうちに、もう一度ふり返ったが、これ
おやゆび
叫んだ。やがて、いきなり 拳 を振り上げると、皺くちゃ
が最後であった。この時はゆがんだような笑いのかげも
へちま
になった紙幣を力いっぱい砂の上にたたきつけた。
﹁わか
なく、顔は涙にぬれて震えていた。涙ぐんで、とぎれが
しわ
りましたか!﹂紙幣を指さして見せながら、彼は再び金
ちなむせび泣くような声で、彼は早口に叫んだ。
こぶし
切り声で叫んだ、﹁まあ、このとおりでござい!﹂
343
﹁あんな恥ずかしい思いをして、その報いに金なんかを
もらったら、うちの子になんと言いわけができるのか!﹂
こう言うなり、彼はまっしぐらに駆け出して、今度はも
うふり返ろうともしなかった。アリョーシャは言い知れ
ぬ悲しさを覚えながら、後姿を見送っていた。ああ、あの
人も最後の瞬間まで、自分が紙幣をもみくちゃにして地
べたへ放り投げようとは、夢にも考えなかったろう。ア
リョーシャにはそれがよくわかっていた。彼は走りなが
ら、一度も後をふり返らなかった。けっしてふり返らな
いだろうということは、アリョーシャもよく承知してい
た。彼は二等大尉の後をつけて、声をかけようという気
にはならなかった。その理由も彼にはよくわかっていた。
相手の姿が見えなくなったとき、アリョーシャは二枚の
紙幣を拾い上げた。紙幣はただ、皺くちゃになって、砂
の中にめりこんでいるばかりで、アリョーシャが広げて
皺を伸ばしてみると、破れたところもなく、まるで新し
い物のように、ぱりぱりしていたほどであった。彼は皺
を伸ばして、それをたたむと、ポケットに入れて、頼ま
れたことの結果を報告するために、カテリーナのもとを
さして歩き出した。
344
でもなったら!﹄
こういううちにも、夫人はひどく驚いたような風をし
ていた。 そして、﹃これはもうたいへんなことです、 た
Pro et contra
いへんなことです!﹄ と一言一句につけ加えていたが、
第五篇 なりません。みんなあの人の部屋に控えて、お待ちして
すけれど、ヘルツェンシュトゥベのほうはまだお見えに
えにやりましたの。伯母さんたちはもういらっしってま
シュトゥベも迎えにやりましたし、二人の伯母さんも迎
始めなさいましてね。いま熱が出ましてね、ヘルツェン
てね、あの人は床について眼をつりあげて、うわごとを
て、 やがて、﹃恐ろしいほど、 ひどい衰弱に襲われまし
ヴナのヒステリイは、あげくのはてには卒倒するに至っ
へんな騒ぎが起こったのであった。カテリーナ・イワーノ
ラーコワ夫人であった。夫人はあわてていた。かなりたい
アリョーシャをまず最初に出迎えたのは、やはりホフ
あなたが出ていらっしゃるとすぐに、あの子は昨日も今
んでも許してやりますわ。まあ、どうでございましょう、
てもくれました。ですから、わたしはあれのことならな
たしを妙にびっくりさせましたの、ですけれど、喜ばし
とに口をあてんばかりにしてささやいた、
﹁リーズは今わ
﹁アレクセイさん、リーズはね﹂と、夫人はほとんど耳も
むのであった。
行って、そのそばで自分が来るのを待っていてくれと頼
ちそれをさえぎってしまった。どうかリーズのところへ
がないからと言って、口を切りだしたかと思うとたちま
分のほうに起こった出来事を話しかかったが、夫人は暇
しそうに、夫人のことばを聞き終わった。今度は彼が自
んかでなかったかのようであった。アリョーシャは心苦
まるで今までにあったことは何もかもたいへんなことな
いますの。何か起こるでしょうよ、なにしろ、あの人は
日も、あなたをからかったとか言って、ひどく後悔しだし
一 婚約
もうまるで覚えがないんですからね。まあひどい熱病に
345
こんなことを申しますの︱︱︱﹃あの人はわたしの 幼馴染 子なんですものね︱︱︱そうお思いになりません? 今も
の子を大目に見ていますの、だってそりゃ本当に利口な
の、悪く思わないでいただきたいの。わたしはいつもあ
ことなら、あの子のことを腹を立てないでいただきたい
たの御意見を尊重しております。ですから、もしできる
なんです。あの子はね、アレクセイさん、たいそうあな
はどうしたことかまじめなんですの。それこそ大まじめ
たしをからかってばかりいるんですよ。ところが、今日
ていられるように、あの子ったらもう、しょっちゅうわ
ありません。いつも冗談なんでございます。あなたも知っ
らかったからって、一度もまじめに後悔したことなんか
くりしてしまいましたの。今までにあの子がわたしをか
さんばかりに心から後悔するものですから、わたしびっ
わ、ただちょっと、ふざけただけですの。けれど、涙を流
ましてね。でもあの子は、からかったんじゃありません
はもう失礼しますわ、わたしびっくりしてしまって、な
ができませんの。それにもう忘れてしまいましたわ。で
て聞かせましたので、わたしはどうしてもうまくお話し
ど、あの子はこのことで何かたいへん奇抜なことを言っ
たから。むろん、梅なんてばかばかしいことばですけれ
ていました。だって、なんだかごちゃごちゃしていまし
のように﹄と言うのですけれど、言い方はもう少し違っ
夢のように覚えてるわ﹄って。︱︱︱つまり﹃ う めを ゆ め
ねえ、あの子は言いますの、
﹃お母さん、わたしあの梅を
の木は人間と違って、長いあいだ変わらないものですわ
しすることなんかありませんわね。アレクセイさん、梅
はりあるんですから、別に、何も過去のことにしてお話
こと、家の庭に一本の梅の木がありましたの。今でもや
もしろい話がございますわ。あの子のごく小さい時分の
からね。たとえば、ついこのあいだも梅の木のことでお
に思いがけないことを、ひょいひょいと言いだすんです
も、何よりも感心なのは、あのことばなんですの。本当
おさななじみ
よ︱︱
︱おまけにいちばんまじめなお友だちなのよ。それ
んだか気が変になりそうですの。ねえ、アレクセイさん、
⋮⋮﹄あの子はこういうことにかけ
なのにわたしは?
わたしはね、もう今まで二度、気が変になって、療治して
、
、
ては、たいへんにまじめで、記憶も確かなのです。けれど
、
、
346
不思議に思っていらっしゃるくらいよ﹂
え、 かえっておまえがそんなことを気にしているのを、
てはいらっしゃらないんだから安心しておいでな。いい
さんを、お連れ申して来ましたよ。だけどちっとも怒っ
な失礼なことを申し上げたあのおかたをね、アレクセイ
ほうへ寄って行きながらこう叫んだ。
﹁さあおまえがあん
してやってくださいましな。リーズや﹂と夫人は戸口の
ろへいらっして、いつもなさるようにしてあの子を喜ば
もらったことがありますのよ。それでは、リーズのとこ
かたへお渡しなすって、そしてその気の毒な士官さんて
泣いちゃったわ。どうだったの、あなたそのお金をその
ぐんですもの⋮⋮でもわたし聞いているうちにすっかり
してましたけれど、⋮⋮だって、お母さんは先ばかり急
し残らず聞きましたわ。お母さんの話はひどくごたごた
や、その将校が侮辱を受けたという恐ろしい話も、わた
あの貧乏な士官さんのところへお使いにいらっしたこと
かりわたしに聞かしてくれましたの。それからあなたが
ねえ、何を思い出したのか、二百ルーブルのことをすっ
しているそのことよりほかには、興味を持っていないか
ない他のことを話し始めた。まるで、今のところでは話
ときの癖として彼女は、ひどく早口に、それとは関係の
彼女は何かを恥じているようであった、いつもそういう
まり悪そうに見ていたが、 不意にぱっと顔を赤くした。
アリョーシャははいって行った。リーズはなんだかき
﹁ Merci, maman
︵ ありがとう、お母さん
りくださいな、アレクセイさん﹂
かし、話し始めるやいなや、全くどぎまぎするのをやめ
アリョーシャはテーブルについて、話しを始めた。し
めている様子が、はっきりわかった。
を見ながら、直接には興味のない世間話をしようとつと
かった。またリーズのほうでも、彼があらぬかたばかり
渡さなかったのがやはり何よりも気にかかっているらし
すがね﹂とアリョーシャは答えたものの、彼もまた金を
﹁実はね、金は渡さなかったのです。話すと長くなりま
かた、いまどんな風にしてて?﹂
のようであった。
てしまって、今度はリーズに心をひかれた。彼はまださっ
︶おはい
﹁アレクセイ・フョードロヴィッチさん、お母さんったら
347
て、その人をそのまま逃がしてしまったのね! まあ、あ
﹁してみると、あなたはお金をやらなかったのね、そうし
んだ。
リーズは手を打って、やむにやまれぬ心のままにこう叫
たときの場面を、 あますところなく話し終わったとき、
ることができた。彼が、あの不幸な人がお金を踏みつけ
リョーシャは暖かい気持で、イリューシャの風貌を物語
リーズは彼の話を聞いて、かなりに感激させられた。ア
以前のモスクワ時代へ急に帰ったかのような感じがした。
てい、愉快な、おかしな話であった。いま二人は、二年
た小説を二人で作ったりしたものであるが、それはたい
を好んだ。どうかすると、いっしょに空想して、まとまっ
か、何を読んだとか、子供の時分の思い出などを話すの
のところへ行くのが大好きで、どんなことが起こったと
彼は昔も、モスクワで、リーズが子供のころ、リーズ
れていたので、うまく詳しく物語ることができた。
きの激しい、なみなみならぬ印象と、強い感情に支配さ
です。僕は今どういうわけで急にあの人が憤慨して、金
ね。あの人は苦労もして、たいへん気だてのいい人なん
﹁それはねえ、あの人は臆病な、気の弱い人なんですから
﹁どんな失敗ですの?
都合になりましたよ﹂
失敗をやったのです。でも、失敗したのが、かえって好
と、彼は彼女の前に立ち止まって続けた。
﹁僕はあのとき
がらアリョーシャは言いだした。
﹁ねえ、リーズさん﹂ふ
明日は受け取ってくれますよ﹂物思いにふけって歩きな
の人は明日になれば全部受け取ってくれますよ。きっと
ルは、やはりあの人たちの手にはいるんですからね。あ
﹁そんなことはありませんよ。だって、その二百ルーブ
ないの?﹂
の人たちは食べるものもなくって、死にかけているじゃ
﹁どうしてですの、なぜそのほうがいいんですの? 今そ
がり、心配そうに部屋の中を行き来した。
たんですよ﹂と言って、アリョーシャは 椅子 から立ち上
﹁いいえリーズさん、僕が追っかけなかったほうがよかっ
どうして好都合でしたの?﹂
す
なたはその人の後を追っかけてつかまえるのが本当だっ
を踏みにじったのかしらんと、いろいろ考えてみました
い
たわ﹂
348
り正直すぎるほど喜んだものですから、それがいまいま
ぼうして受け取ったでしょう。ところが、実際はあんま
顔をしかめながら受け取ったとすれば、そのときはしん
りを見せず、ほかの者と同じように気どったまねをして、
とい、喜んだとしても、それほどじゃなく、そんな素振
それを隠そうともしなかったので、腹を立てたのです。た
たしの眼の前で、あまり金のことを喜んで見せたうえに、
がなかったのかもしれませんね⋮⋮第一に、あの人はわ
の人の立場になってみたら、そうするよりほかにしかた
立てていたんじゃないかと思います。⋮⋮しかし⋮⋮あ
になってみると、あの人はそのときいろんなことに腹を
たりしようとは、思っていなかったからです。それで今
けれど、それはつまり最後の一瞬まで、金を踏みにじっ
そんなぐあいだったものですから、きっと自分の屈辱を
は僕を抱きしめて両手でさわったりしてたんですからね。
きしめようとするじゃありませんか。なぜって、あの人
て、脅していたと思ったら、金を見るやいなや、僕を抱
をゆるしたからです。初め、さかんに僕に食ってかかっ
から僕を友だちあつかいにして、あまり早くから僕に気
ところで腹を立てたおもな理由は、あの人があまり早く
あの人はひどく恥ずかしがりやの貧乏人の仲間なんです。
すぐに僕が憎らしくてたまらなくなったのです。つまり、
たことが、 急にきまり悪くなってきたのです。 それで、
け出して見せると、今度は、その胸の中をひろげて見せ
した⋮⋮そうしてほとんどすっかり胸のなかを僕にさら
の町で周旋してもらえるとかいう勤め口のことも話しま
ていたのです。⋮⋮娘たちのことも話しました⋮⋮ほか
僕が失敗をやったのです。それもとてもたいへんなのを
しくもあったのです。ああ、リーズさん、あの人は正直
のことなんですよ!
ね。僕はいきなりこう言ってやりましたよ。もしもほか
感じたに違いありません。ところへ、ちょうどそのとき、
しい力のない声をして、おまけに恐ろしい早口なんです。
の町へ行く費用が足りなかったら、まだそのうえにもら
ないいかたですよ。こんな場合、やっかいなのは実にこ
そして始終妙にひひと笑ったり、泣いたりしてたんです
えるし、僕だって自分の金の中からお好きなだけ差し上
あの人は話してる間じゅう、弱々
よ⋮⋮本当にあの人は泣いてたんです、それほど嬉しがっ
349
なく都合よくいったとさえ思っていますよ⋮⋮﹂
はり好都合にいったのです。僕のつもりではこのうえも
れはたとい、みんないやらしいことであったにしろ、や
たので、あの人はそんなことを予感したのです。⋮⋮そ
ありません。なぜって、あの人の喜び方があまり激しかっ
やはり予感していたらしいことです。これはもう間違い
踏みにじろうなどとは、夢にも思ってなかったにしても、
ころで、何よりもいけないのは最後の瞬間まで、 紙幣 を
した。それに自分でもよくその気持がわかりますよ。と
言っていいかわからないけど、僕は自分でよく見受けま
聞きましたよ。長老が僕に聞かしてくれたのです。どう
るのがとてもつらいことなんですよ⋮⋮僕はこんな話を
いる人間には、みんなに恩人のような顔をされるのを見
かというわけですね。ねえ、リーズさん、見下げられて
えたのです。なぜおまえまでがおれを助けに飛び出すの
げますからね⋮⋮すると、これが急にあの人の胸にこた
金なんです。よしまた、今非常な誇りを感じているとし
ところが、あの人にしてみればこの金はたいへん必要な
くなどとは、 夢にも考えなかったことでしょうからね。
金を踏みにじるとき、まさか僕が明日もう一度持って行
て、立派に自分の潔白を証明したんですし、⋮⋮それに
んよ。だって、もうあの人は金を投げつけて、踏みにじっ
て、無理に受け取らせることくらい楽なことはありませ
たのです。ですから明日、この二百ルーブルを持って行っ
く非常に勝ち誇った気持で、意気揚々と引き上げて行っ
人は今、
﹃自分を殺した﹄という気持でいながら、とにか
を投げつけて、踏みにじったかもしれません。でもあの
ところへやって来て、︱︱︱さっきと同じようにあの 紙幣 くのはて、あくる日の明けがたごろには、さっそく僕の
しょう、必ずそうなるに違いない。そうして泣いたあげ
したらきっと自分がはずかしめを受けたと思って泣くで
じらないで持って帰ったとしても、家へ帰って一時間も
﹁そのわけはね、リーズさん、あの人がたとい金を踏みに
さ つ
﹁どうしてですの、どうしてこのうえないほど都合よく
ても、一面自分がどれだけの助力を失ったかということ
つ
いったんですの?﹂リーズは非常に驚いたような眼つき
もまた、今考えずにはおられますまい。夜などはますま
さ
でアリョーシャを見つめながら、叫んだ。
350
﹁ところで今、何より大事なことは、たとい僕たちから金
たしにはとてもそんなことを考えつけませんわ⋮⋮﹂
く、人の心の中がなんでもおわかりになるのねえ⋮⋮わ
も知ってらっしゃるんでしょうねえ?
アリョーシャ、どうしてあなたはそんなになんで
﹁ええ、全くだわ、わたし今急にすっかりわかってきて
ず手をたたいた。
お若いのに、よ
言うとき、もうまるで夢中になっていた。リーズは思わ
アリョーシャは﹃必ず受け取るに違いありません!﹄と
もちかけたら、必ず受け取るに違いありません!﹂
わたしたちの悪かったことはお許しください﹄と言って
証明なさいました。さあ、もう取っていただけましょう。
誇りの高い人です、もうあなたは御自分の潔白なことを
うどそこへ僕がはいって行くのです。そして﹃あなたは
やって来て、わび言でもしたい気持になるでしょう。ちょ
ん。そして明日の朝になったら、さっそく僕のところへ
す強くそのことを考えて、夢にまで見るに相違ありませ
なの。だけどあなたは、本当にあなたは!
で自分のことばを押えた。
﹁わたし、こんなおかしい小娘
を言っただけよ﹂と彼女は激しく情をこめて、すぐ自分
しますわ⋮⋮あら、怒らないでね、わたしちょっと冗談
どでもなかったの、だけど、だけど今は一だん高く尊敬
かったわよ⋮⋮いいえ、してはいたんだけれど、それほ
だから⋮⋮あのね、わたし今まであなたを尊敬していな
でもありませんわ!
﹁ええ、そんなことむろん、なんでもありませんわ、なん
ん、なぜって⋮⋮﹂
まずかった⋮⋮しかし、そんなことはなんでもありませ
﹁いや、より高い地位⋮⋮というのは少し僕の言い方が
い!﹂
さん、でも、それからどうなんですの、話してちょうだ
﹁﹃より高い地位﹄ですって、うまいわねえ、アレクセイ
のです⋮⋮﹂
対等ではない。むしろ、より高い地位にいると思わせる
夢中になって、アリョーシャはことばを続けた。﹁いや、
ねえ、アレ
御免なさい、アリョーシャ、後生
を受け取っても僕たちと対等の位置に立っているという
クセイさん、わたしたちの考えには、いえ、つまり、あ
よ!
自信を、あの人に吹きこむことなんです﹂相も変わらず
351
うなところはないかしら⋮⋮だって、あの人の心を高い
ことにしますわ、⋮⋮あの不仕合わせな人を卑しめたよ
なたの考えには⋮⋮いいわ、いっそわたしたちのという
てやる必要がある。またある者は、病院に寝ている患者
間てものは子供のように、しじゅう気をつけて世話をし
ズさん、長老が一度おっしゃったことがあります︱︱︱人
げるなんてことはちっともありません!
じ人間じゃありませんか。世間の人はみんな、あの人と
ころなんかあり得るでしょう。僕らだって、あの人と同
まあ、考えて御覧なさい。この場合、どうして見下げたと
へ来る途中、そのことについてはもう考えておきました。
きっぱりした調子で、アリョーシャは答えた。
﹁僕はここ
よ﹂ すでにこの質問あるを予期していたもののごとく、
﹁いいえ、リーズさん、少しも見下げてなんかいません
るに違いないと、決めてしまったじゃないの、え?﹂
んじゃなくて?
さん、わたしなんて幸福なんでしょう!﹂
﹁あら、そんなこと本当にしなくってよ!
が、あなたは別です﹂
短いし、時とすると物を見る眼がないんですからね、だ
ができてない気がしています。時とすると、ひどく気が
も喜んで見てあげますよ。しかし、僕はまだ本当に準備
﹁そうです、見てあげましょう、リーズさん、僕はいつで
うにして、わたしたちは人を見てあげましょうね!﹂
﹁まあ、アレクセイさん、偉いわね、病人にしてやるよ
のように看護してやる必要さえあるって⋮⋮﹂
実はね、リー
ところからでも見下ろすようにして、いろいろ解剖した
同じ人間じゃありませんか。ええ、僕たちだってあの人
﹁そう言ってくださるので、僕もたいへん嬉しく思いま
今あの人がきっとお金を受け取
と同じことです。けっしてすぐれてはいません。たとい
すよ、リーズさん﹂
え?
仮りにすぐれていても、あの人の境遇に立ったら、あの
﹁アレクセイさん、あなたはなんという立派なかたでしょ
アレクセイ
人と同じようになってしまいます。ところがあの人の心
うね、だけど、どうかするとまるで 衒学者 のようだわ⋮⋮
ペダント
はけっしてあさはかではない、かえって非常に優しいと
でもよく見てると、けっして衒
学者 じゃないのね。戸口を
ペダント
ころがあります⋮⋮いいえ、リーズさん、あの人を見下
352
分の口から男の手を離しはしたが、やっぱり放してしま
﹁御承知だったのですって、まあ本当に!﹂と彼女は自
とはよく知っていたのですよ﹂
しそうに叫んだ、
﹁僕だってあの御手紙がまじめだってこ
﹁ああ、リーズさん、よくしてくれましたね﹂と彼は嬉
て、あわてて、三たび接吻した。
かったのであろう。不意に彼女はアリョーシャの手を取っ
と、彼女は片手で眼を隠した。白状するのが恥ずかし
じゃなくって、わたしまじめに書いたのよ⋮⋮﹂
ことを白状しなければならないのよ。昨日の手紙は冗談
だい、ありがとう。あのね、わたしあなたにたいへんな
めながらリーズはことばを続けた。
﹁お手を貸してちょう
﹁いらっしゃいな、アレクセイさん﹂しだいに顔を赤ら
ち聞きしてはいないと報告した。
アリョーシャは立って戸をあけて見た。そして誰も立
的なあわてた調子で、だしぬけにリーズはささやいた。
うだい、お母さんが立ち聞きしてやしなくって?﹂神経
見て来てくださらないこと、⋮⋮そっとあけて見てちょ
ズは仕合わせらしい眼つきで優しく相手を眺めた。
﹁嘘よ、アリョーシャ、かえっていいことだわ﹂とリー
と不意にアリョーシャは笑いだした。
﹁いったい僕が信じてたのは悪いことなんでしょうか?﹂
うよ!﹂
うね!
きってらっしゃるんでしょう。どうしたということでしょ
たは、わたしがあの手紙をまじめに書いたものと、信じ
分のお嫁さんに決めて、安心してるんですもの!
ありませんわ。そうじゃなくって!
﹁アリョーシャ、あなたみたいな冷淡な、ひどいかたは
から﹂彼もまた顔を赤らめながら、あわててつぶやいた。
んですよ、だが、どんなにしていいかわからないもんだ
﹁僕はいつだって、あなたのお気に入りたいと思ってる
いたからである。
いって、アリョーシャもやはり、非常に心を取り乱して
けれど、彼女のとがめだては不公平であった。なぜと
してあげれば、﹃よくした﹄なんて﹂
かすかな笑い声を立てるのであった。
﹁わたしが手を接吻
だってあんまり勝手じゃなくて、︱︱︱ええ、そ
あな
勝手にわたしを自
おうとはしないで、ひどく赤い顔をしながら、楽しげな
353
が、急に彼女は笑うのをやめて、すっかりまじめな、と
だから漏れて聞こえた。
﹁おまけにそんな着物で!⋮⋮﹂と言う声が笑いのあい
た。
リーズはいきなり吹き出して、両手で顔を隠してしまっ
ぐあいになってしまいましたね⋮⋮﹂
僕思わず接吻してしまったんです⋮⋮しかし実際、妙な
ね⋮⋮あなたが僕を冷たいなどとおっしゃるもんだから、
のしたこと、ひどくばかげたことだったかもしれません
﹁もし間違っていたら御免なさい⋮⋮ひょっとしたら、僕
アリョーシャはすっかりまごついてしまった。
たの?﹂とリーズは叫んだ。
﹁どうなさったというの? いったい、あなたどうなすっ
てその唇のまん中へ接吻した。
取ったまま、じっと立っていたが、いきなりかがみかかっ
アリョーシャはやはり自分の手のなかに、彼女の手を
小さい時分から知っている。次には、あなたは僕の持っ
のことをもうよく考えてみました。まず、あなたは僕を
よりほかには僕を選んでくれる人もありません。僕はこ
あなた以上の妻を 娶 ることもできなければ、またあなた
れに長老もそうしろとおっしゃるのです。ところで僕は、
ちゃなりません、それは自分でよくわかっています。そ
然お寺を出ます。いったん世間へ出た以上、結婚しなく
﹁お待ちなさい、リーズさん、僕は二、三日のうちに断
すもの!﹂
しあなたに愛していただくだけの値打ち一つもないんで
アリョーシャ、わたしも本当に嬉しいわ。だって、あた
よく気のつくかたが、どうしてわたしなんかを⋮⋮ああ、
をお選みなすったの? あなたみたいな賢い、考え深い、
どういうわけであんたはこんなばかを︱︱︱病身なばか娘
くりをつけた。﹁それよりわたしの聞きたかったのはね、
たなくちゃなりませんわ﹂と彼女は不意にこう言ってく
いけないんですもの。わたしたちはまだまだ長いこと待
めと
いうよりはむしろいかつい顔つきになって、
ていない多くの能力を持っている。あなたの心は僕の心
く
﹁ねえ、アリョーシャ、わたしたちは接吻はまだまだ控
より快活です。第一、あなたは僕よりはるかに 無垢 です
む
えなくちゃならないわ。だって、まだそんなことしては
354
浮かんでくる人は、 自分で苦しむことのできる人です。
僕にはどうもうまく言い現わせませんが、こんな質問の
はしないかってね︱︱︱この質問が殉教者的なのです⋮⋮
な風に解剖するのは、つまりあの人を卑しめることになり
きましたね︱︱︱僕たちがあの不仕合わせな人の心をあん
﹁それはね、リーズさん、さっきあなたはこんなことを聞
﹁殉教者のようですって? それはどういうわけ?﹂
なかには殉
教者 の考えをもっていられるのだからね⋮⋮﹂
面 こそ小さな女の子のように笑っていられるが、心の
表
さい、僕はそのほうが嬉しいくらいですよ⋮⋮あなたは
もね⋮⋮いや、かえって笑ってください、ふざけてくだ
り、ふざけたりするのが何でしょう⋮⋮僕のことにして
ら、あなたにはそれがわかりませんか! あなたが笑った
ものに⋮⋮だって、僕だってやはりカラマゾフなんだか
からね。僕はもういろんなものに触れました。いろんな
﹁ねえ、僕は知っていたんですよ⋮⋮あなたが僕を⋮⋮
なおらないのねえ!﹂
﹁ああ、なんていやな人だろう、どうしてもそのくせが
﹁いいえ、本当にはしませんでした﹂
のことあなたは本当にしたの?﹂
なたは嫌いだ、昨日の手紙は嘘だと言ったでしょう、あ
をかぶって欲しいのよ⋮⋮ところで、さっきわたしがあ
綿入れのチョッキを着て、鼠色をした柔らかい毛の帽子
﹁わたしはね、 鼠 がかった青いビロードの背広に、白い
を着ますよ﹂
﹁僕着物のことまで考えなかったが、あなたの好きなの
ことなんですもの﹂
ね、わたしにとっては、このこと、それはそれは大事な
おつもり、どんな着物を?
リョーシャ、あなたはお寺を出たら、どんなものを着る
たかのような弱々しい声で、リーズは言った。
﹁でも、ア
笑っちゃいや、怒らないで
あなたは安楽椅子に坐っているうちに、いろんなことを
愛してらっしゃるらしいことを、⋮⋮だが⋮⋮あなたが
うわべ
考え抜いたんですね⋮⋮﹂
嫌いだとおっしゃるのを、わざと本当にしたような振り
ねずみ
﹁アリョーシャ、手を貸してちょうだい、どうしてそんな
をしたんです。だって、そのほうがあなたには、都合が
じゅんきょうしゃ
に引っこめるの?﹂嬉しさのあまり、力が抜けてしまっ
355
ことになる。つまり、あなたはばかなつまらない小僧っ
はわたしを愛してもいなければ、なんとも思っていない
れは全くありそうなことなんですもの︶、つまり、あなた
気でそれを出してお渡しになったら︵あなたとしてはそ
昨日の手紙を返してくださいと言って、もしあなたが平
らっしゃったとき、実は、判じ物をしてたのよ。わたしが
しあなたが好きでならないの。さっきあなたがここへい
たいちばんいいことでもあるのよ、アリョーシャ。わた
﹁あら、そんなこと悪いことだわ!
リーズはうっとりとして、彼を見つめているのであっ
を赤くした。﹁これは一生涯誰にも渡しゃしませんよ!﹂
ね﹂不意に強い情をこめてこう言い足すと、彼はまた顔
す。僕にとって、これは非常に大切なものなんですから
て、﹁あなたに手紙を渡すまいと思って嘘をついたんで
﹁あるいはそうかもしれません﹂とアリョーシャは笑っ
のくせに嘘をついたのね、あなたは!﹂
﹁え?
﹁ただしあなたには渡しゃしないから、そこから御覧﹂
方から彼女に見せた。
アリョーシャは笑いながら手紙を取り出して、遠くの
子で⋮⋮そしてわたしの一生は滅びてしまうと思ったの
た。
いいんでしょうからね⋮⋮﹂
︱︱︱ところが、あなたは手紙を庵室へ置いてらしったの
﹁アリョーシャ﹂と彼女はふたたびささやいた。
﹁ちょっ
悪くもあるし、ま
で、わたしすっかりせいせいしたのよ、だって、あなた
と戸口をのぞいて見てちょうだい、お母さんが立ち聞き
じゃ、あなたはさっき嘘をついたのね。坊さん
は返してくれと言われるのを感づいて、わたしに渡さな
うじゃない?﹂
いほうがよくはないのじゃないかしら、なぜそんな卑し
﹁よろしい、僕見てあげましょう。しかし、見たりしな
してやしなくって?﹂
﹁おお、ところがそうでないんです、リーズさん。だっ
いことでお母さんを疑うのです!﹂
ねえ、そ
て、手紙は今ちゃんと持ってるんです、さっきだってや
﹁なぜ卑しいことなの? どんな卑しいこと? 娘のこと
いように庵室へ置いてらしったんでしょう?
はり持ってたんです。ほら、このかくしに、ね﹂
356
娘を持ったとしたら、わたしはきっと娘の話を立ち聞き
ん、わたしが自分でお母さんになって、わたしのような
た。﹁前もってお断わりしておきますわ、 アレクセイさ
とも卑しいことじゃなくってよ﹂とリーズはまっかになっ
を心配して立ち聞きするのはお母さんの権利だわ、ちっ
立ち聞きするなんてよくないことだわ、もちろん、わた
︱︱︱わたしいっそ本当のことを言っちまうわ、もちろん、
後生だから、のっけから喧嘩なんかするのよしましょう、
﹁まあ、なんという見下げようでしょう! アリョーシャ、
じゃありませんね⋮⋮﹂
﹁じゃあ、なさいとも。だが、僕には何もそんな後ろ暗い
だけど、わたしやっぱり立ち聞きしますわ﹂
しのが間違っていて、あなたのおっしゃることが本当よ。
でも、それは間違ってい
してやるわ﹂
﹁まさかねえ、リーズさん?
ますよ﹂
よ。そればかりか、あなたの手紙をみんな開封して、すっ
さっそく、あなただって、こっそり監督してあげること
え、アリョーシャ、よござんすか、わたしは結婚したら
現在生みの娘が若い男と一間にとじこもるなんて⋮⋮ね
るんだったら、そりゃ卑しいことに相違ないでしょうが、
りゃしないわ!
その反対の根本の問題についても、あなたに服従するの
﹁それはそうなくちゃならないわ。ところでね、わたしは
しなくっても、僕は義務の命ずるとおりに行なうから﹂
ですよ。根本の問題については、もしあなたが僕に一致
﹁僕は、喜んでそうしますよ。だけど、根本の問題は別
んなことも前にちゃんと決めておかなくちゃならないわ﹂
﹁アリョーシャ、あなたはわたしに従うつもりなの? そ
ことがありませんからね﹂とアリョーシャは笑いだした。
かり読んでしまうわよ⋮⋮前もって御承知を願っておく
はもちろんだし、万事につけてあなたに譲歩するつもり
なにも卑しいことなんかあ
わね⋮⋮﹂
でいますわ。このことは、今あなたに誓ってもいいわ︱︱
﹁まあ、どうしましょう!
﹁も ち ろ ん、 そ う し た い の な ら し て も 結 構⋮⋮﹂ と ア
︱ええ、万事につけて、一生涯﹂とリーズは熱情をこめ
これが世間なみのお話しを立ち聞きす
リョーシャはつぶやくように言った。﹁だが、 いいこと
357
を見ると、あなたはやはり僕を愛していてくださるんで
シャは沈んだ調子で言った。
﹁それに気がつかれたところ
﹁そうです、リーズさん、秘密な悲しみです﹂アリョー
悲しみかもしれないわ、ね?﹂
みがあるようにも見えてよ︱︱︱ことによったら、秘密な
ることは知ってますけれど、そのほかに何か特別な悲し
してらっしゃるの。いろんな心配があなたにおありにな
はどうしてこの二、三日︱︱︱昨日も今日も浮かない顔を
よ。⋮⋮ところで、アレクセイさん、いったい、あなた
でしょう。今、あなたはいわばわたしの神様みたいな人
だって、それが卑しいことだってあなたはおっしゃるん
はわたしにもわかっています︶、でもやはりしませんわ。
しはひどく立ち聞きしたくてたまらないんですが︵それ
るのに、わたしはそうでないんですもの。もっとも、わた
せん。だって、あなたがどこまでも正しくていらっしゃ
とをしませんわ。あなたの手紙も一通だって読みゃしま
たの話を立ち聞きなんかしません、一度だってそんなこ
そればかりでなく、わたし誓って言うわ、けっしてあな
て叫んだ。
﹁わたしそれを幸福に思うわ、幸福に思うわ!
ほかの人までも、自分といっしょに巻き添えにしてるん
ことばをついだ。
﹁お父さんだってそうなのさ。そうして
﹁兄さんたちは自分で自分を滅ぼしてるんですよ﹂彼は
た。けれど、なんの意味だかはわからなかったのである。
アリョーシャは少し驚いた様子でこのことばに注意し
が嫌いなの﹂と不意にリーズは言った。
﹁わたしあなたの兄さんのイワン・フョードロヴィッチ
にこう言った。
﹁ええ、兄さんたちもね﹂とアリョーシャは憂わしそう
や、お父さんがあなたを苦しめなさるんでしょう?﹂
﹁わたしわかったわ、きっと、まだそのほかに、兄さん
のです﹂
てないんです。僕自身もうまく話せないような気がする
とアリョーシャは困った。
﹁それはまだ今は、はっきりし
﹁それはあとで言います、リーズさん、︱︱︱あとで、⋮⋮﹂
子でこう言った。
してもよくって?﹂とリーズは物おじるような哀願の調
﹁いったいどんな悲しみなの? 何か心配してるの? 話
すね﹂
358
まりに思いがけない彼のこのことばには、一種神秘的な、
言った。だが、アリョーシャはそれに答えなかった。あ
おっしゃるのよ?﹂リーズは低い声で用心深そうにこう
﹁信じてないんですって、あなたが? まあ、あなた何を
よ﹂
﹁ところがね、僕は神を信じてないかもしれないんです
﹁ええ、言ったわ﹂
たでしょう、僕が坊さんだって?﹂
僕は坊さんでしょうかね!
あなたは今さき、そう言っ
んなのかしら、はたして坊さんだろうか? リーズさん、
ということだけが、わかっているんです、⋮⋮僕は坊さ
それさえわからないくらいです。ただ僕もカラマゾフだ、
なんです⋮⋮この力の上に神の精霊が働いてるかどうか、
のです︱︱︱それは大地のように凶暴な、 生地 のままの力
その中には大地のようなカラマゾフ的な力が動いている
です。先だってパイーシイ主教も言われたことなのだが、
を引き止めてしまったわね。今わたし、あの人とあなた
のところに行っておあげなさい。わたしすっかりあなた
女は十字を切った︶。早く生きていられるうちに あ の か た
﹁さあ、もういらっしゃい、では、御機嫌よう! ︵と彼
アリョーシャは彼女を接吻した。
接吻してくださらない、わたし許すわ﹂
涯いつもいっしょにいましょうね。ちょっと、わたしを
﹁ええ、いっしょにね、いっしょにね!
さん。これからさきいっしょにいることにしようね⋮⋮﹂
るのです⋮⋮僕はあなたのところへ来ますとも、リーズ
しかも、僕は今、たった一人でとり残されようとしてい
さったらなあ!
神的に結びついているか、それがあなたにわかってくだ
見すてようとしているのです。僕がどんなにこの人と精
しまおうとしているのです。世界の第一人者がこの土を
﹁ところがね、今そのうえに、僕の大切な友だちが行って
う余地もなかった。
じ
あまりにも主観的なあるものが感じられたのである。こ
のためにお祈りすることにするわ。アリョーシャ、わた
き
れは彼自身にさえはっきりとはわからないけれども、も
したちは幸福でいましょうね?
これから一生
あなたにわかってくださったらなあ!
う前から彼を苦しめているものだということはなんら疑
ね、幸福になれますわ
、
、
、
、
359
の体にとって、それがいちばんいけないことなのですか
た。
﹁でないと、あの人はまた興奮しますよ、今もあの人
言わないようにしてくださいよ﹂とアリョーシャは言っ
﹁ただね、お願いしておきます、あの人にはそんなこと
ですわ!﹂と夫人は彼に食ってかかった。
たことですわ、ばかげたことですわ、全くばかげたこと
思って、わたしそれを当てにしていますのよ⋮⋮ばかげ
わ、あなたはつまらないことを空想なさらないだろうと
れは子供らしいばかげたことですわ、無意味なことです
﹁アレクセイさん、なんて恐ろしいことでしょうね。あ
けていたのであることを悟った。
と同時に、アリョーシャは、彼女がわざとここで待ち受
コワ夫人が眼の前に控えていた。最初のひとことを聞く
の口へ出るやいなや、どこから来たのか、当のホフラー
拶をしないで家を出ようとした。だが、戸をあけて階段
へ寄らないほうがよいと思ったので、夫人には別れの挨
リーズの部屋を出たアリョーシャは、母夫人のところ
﹁なれますとも、リーズさん﹂
ね?﹂
﹁そりゃあね、アレクセイさん、それに違いありません
なくちゃならないんですからね﹂
話はまだずっと先のことでしょう、まだ一年半から待た
﹁どうしてまた﹂とアリョーシャは言った。
﹁だってあの
てしまいますから、そのおつもりで﹂
ないの。第二に、わたしはあの子を連れてこの町を立っ
これからはもうけっしてあなたに家へ来ていただきたく
考えることもできないことですわ。何よりまず、わたし
﹁こんな場合、まじめな話なんてあり得ないことですわ、
ぱり言った。
じめにあの人と話したのですよ﹂とアリョーシャはきっ
﹁いいえ、それは違います、まるで違います。僕は、ま
うございますね?﹂
のお心づかいからだったのですか、そう解釈してよろしゅ
だすって、逆らいだてしてあの子をいらいらさせまいと
たのも、たぶんあの子の病的な体のぐあいに同情してく
知しましたわ。あなたが今あの子のことばに同意なすっ
﹁分別のある若いおかたの、分別のある御意見、確かに承
らね﹂
360
しても、びっくりしてしまいました。今わたしはちょう
みんなばかばかしいことには相違ありませんが、それに
しは言いようのないほど不仕合わせな女なのですからね。
度となく、喧嘩したり別れたりなさるわ。けれど、わた
けどね、その一年半のあいだに、あなたとリーズは幾千
らないのです﹂
ナさんの容体はどうなんです、僕それが聞きたくてたま
﹁いいえ、そんな必要はありません、それよりカテリー
い、今ここで!﹂
手紙、いったいどんなのですか、ちょっと見せてくださ
その場に立っていられないくらいでしたの。昨夜の恐ろ
わたしはすっかり聞いてしまいましたが、本当にじっと
何までみんな階段の上で起こってるじゃありませんか。
みると、ちょうどそこへあの芝居の大切な場面が何から
ち受けしようと思って、わざわざこの階段のとこへ来て
あどうしたというのでしょうね、わたしがあなたをお待
イ、あの子がソフィヤの役割でございます。おまけにま
一年半たってからのことでしょうが、すべて偉大で神聖
手紙の一件でしょう。もっとも、それはまだ、これから
ううちの馬車に乗せて帰してしまったうえに、突然あの
者でも迎えにやろうかと思ったくらいですもの。とうと
あたし見当がつかなくて困ったくらいなんです。別の医
たのほうへ手当てをしてあげたり、介抱したりするのに
もうすっかりびっくりしてしまって、かえって、あのか
すからね。ヘルツェンシュトゥベも来るには来ましたが、
ただ吐息をついて、わたしに威張りちらすばかりなんで
気がつかれないんですよ。 伯母さんたちは来ていても、
﹁やっぱりうなされながら寝てらっしゃいます。まだお
しい熱病だって、さっきのヒステリイだって、もとはと
形
娘の恋は母親
﹁知恵の悲しみ﹂の人
いえば、みんなここにあるのですもの!
なものの御名をもって誓いますから︱︱︱今おかくれにな
ど大詰めの幕のファームソフ︵
の死です。もう 棺 にでもはいってしまいそうですよ。あ
ろうとしている長老様のお名をもって誓いますから、ど
︶のようでございます。そしてあなたがチャーツキ
あ、それからもう一つ用事がありました。これがいちば
うかその手紙をわたしに見せてください、母親に見せて
かん
ん大事なことなんですの。あの子が差し上げたとかいう
361
アリョーシャは階段から往来へ駆け出してしまった。
で失礼します﹂
きいろんなことを御相談しましょう、しかし今日はこれ
ん。僕、明日また来ますから、もしお望みなら、そのと
﹁いいえ、見せません。あの人が許しても僕は見せませ
さい! わたし自分の手に取らないで読みますから﹂
ください! もしなんなら指でしっかりつまんでてくだ
なかったであろう。
﹃たとい恩師が自分のいないうちに亡
としているのか、おそらく自分にもはっきりとはわから
なことなのか、またこれから兄を捜し出して何を言おう
てきたからである。それにしても、その出来事とはどん
ろうとしているのだという信念が、刻一刻と大きくなっ
ら恐ろしい出来事が避けがたい力をもって、まさに起こ
服したのであった。なぜなら、彼の心の中では、何かし
のドミトリイに会いたいという願いがすべてのものを征
い兄のドミトリイを、是が非でも今すぐに捜し出したい
つうまい工夫をこらし、明らかに自分を避けているらし
は一つの考えがひらめいた。というのは、なんとかひと
ズにまだいとまごいをしているとき、ふっと彼の脳裡に
事実、彼には余裕がなかったのである。さらに、リー
はいりこみ、例の四
阿 にまず落ち着こうというのであっ
︱︱︱すなわち、昨日のように例の垣根を乗り越えて庭に
彼の計画は兄のドミトリイの不意を襲うところにある
になるのだ⋮⋮﹄
つまり、そうするのが、結局、恩師のことばに添うこと
責の念のために、一生苦しむことはなくて済むであろう。
いもせずに、見て見ぬふりをして家路を急いだという自
くなられても、自分の力で救えるかもしれないものを救
という願いであった。時刻ももう早くはなく、午後の二
た。﹃もしも兄がそこにいなかったとしたら、 フォマに
二 ギターをもてるスメルジャコフ
時を過ぎていた。アリョーシャは一生懸命に、あの修道
も家主のお婆さんにも言わずに、じっと隠れたまま、晩
あずまや
院で今やこの世を去ろうとしている﹃偉人﹄のもとへ駆
までも 四阿 で待っていることだ。兄が以前どおりグルー
あずまや
けつけようとあせっていたのであるが、しかも一方、兄
362
に腰をおろして待ちにかかった。あらためて四阿を見回
四阿には誰もいなかった。アリョーシャは昨日と同じ席
すぐに兄に知らされるというおそれがあるからであった。
ないか、でなければ、兄を捜して尋ね回っていることを
を聞くかもしれない、そうすれば自分を庭へ入れてくれ
わせたなら︶、 あるいは兄の味方をして、 その言いつけ
家主の老婆にしろ、フォマにしろ︵もしもこの男が居合
どりついた。彼が誰の眼にも触れたくないと思ったのは、
ほとんど同じ場所の垣根を越して、こっそり四阿までた
すべては何の故障もなく好都合にいった。彼は昨日と
く実行にとりかかろうと決心したのである⋮⋮。
日じゅうに修道院には帰れなくても構わぬから、さっそ
詳しく自分の計画を何かと考えることもなく、たとい今
ことだ⋮⋮﹄とはいうものの、アリョーシャはそれほど
れあの四阿に姿を現わすということは大いにありうべき
シェンカのやって来るのを見張っているとすれば、いず
たのであった。きっとそのベンチに今坐ったに違いない。
あるのを見た、といおうか、ちらりとそれが眼にはいっ
前にあたる灌木のあいだに、低い緑色の古びた腰掛けが
い出した︱︱︱きのう兄と別れて 四阿 を出るとき、左手の
はずの 灌木 のかげに誰かがいる。アリョーシャはふと思
なのか、とにかくどこか二十歩以上とは隔たっていない
きた。前からいたのか、それともたった今、来たばかり
どこか非常に近いところで、ギターを 弾 く音が聞こえて
に彼が座についてから十五分とたたないうちに、不意に
安な未知に招来される一種のわびしさであった。わずか
る。ついに非常にわびしい気持になってきた。それは不
うなくだらない考えが、そっと彼の頭に忍びこむのであ
ちょうど同じ席へ腰をおろしたのだろうなどといったよ
ここへはいって来て、なぜほかの場所へ坐らずに昨日と
に経験する、なんの役にも立たない、たとえば自分は今
しい、丸い形がついていた。いつも人を待つ退屈なとき
ブルの上には、前の日に杯からこぼれたコニャクの跡ら
と、不意に一人の男ら
ひ
したが、なぜかしら昨日よりはずっと古ぼけたものに見
だがいったいそれは誰だろう?
かんぼく
える。 おそろしくぼろ家のように思われた。 もっとも、
しい声が、自分でギターで伴奏をしながら、甘ったるい
あずまや
天気は昨日と同じように、澄み渡っていた。緑色のテー
363
カプレット
ルジャコフらしい﹄とアリョーシャは考えた。
﹃少なくと
いとしき人を慕いつつ
つきぬ力にひかされて
例のあの娘らしい⋮⋮﹄
着物を着て、マルファのところへスープをもらいに来る
相違ない。モスクワから帰って来て、長い 裳裾 のついた
もすそ
も、声がよく似ている。女のほうはきっとこの家の娘に
あわれみたまえ、ああ神よ
﹁わたし、詩ならどんなのでも大好きよ、うまくできて
声で対
句 をうたい始めた。
いとしき人と、このわれを
を歌わないの?﹂
さえいれば⋮⋮﹂と女の声が話を続けた。
﹁どうして続き
男の声がまた歌いだした。
いとしき人と、このわれを
声がとだえる。 中音 も野卑なら、歌の節回しも下品で
して、長いこと宅へ来てくださらなかったの? きっと
﹁パーヴェル・フョードルヴィッチさん、あなたはどう
言った。
してはいるが、ひどく気取った調子で、甘ったるくこう
いとしきひとと、このわれを
いとしきひとと、このわれを
みめぐみたまえ、ああ神よ!
すごさせたまえ、すこやかに
世にたぐいなきよきひとよ
テノール
あった。と、今度は別の女の声が、なんとなくおどおど
わたしたちを卑しんでいらっしゃるんだわねえ﹂
いとしきひとと、このわれを
あるが、あくまでその強い尊厳を保とうとするような調
﹁前のときのほうがよかったわね﹂ と女の声が言った、
﹁いいえ、とんでもないことです﹂と男の声が丁寧では
子で答えた。察するところ、男のほうが 上手 で、女のほ
﹁あのときはあなた、﹃いとしきひとよ、すこやかに﹄っ
うわて
うから機嫌をとっているらしい。
﹃男のほうはどうもスメ
364
甘ったれた調子になってきた。
御存じでいらっしゃるんでしょう?﹂女の声はいよいよ
しゃるんでしょうね?
﹁何事によらず、どうしてあなたはそんなに賢くていらっ
よ、マリヤさん﹂
ほんとにどうして何もかもよく
しませんからねえ。詩なんて大事なものじゃありません
たら、われわれは言いたいと思うことも満足には言えや
いつけであろうと、韻を踏んで話をすることにでもなっ
する人が世の中にありますかね?
よ。まあ、考えて御覧なさい、一体全体、 韻 を踏んで話を
﹁詩を作ったりするなんて、全くばかげきったこってす
﹁あら、そんなことないわ、わたし、詩が大好きなのよ﹂
は吐き出すように言った。
﹁詩なんてばかばかしいもんでさあ﹂とスメルジャコフ
はきっとお忘れになったのね﹂
またたとい 政府 の言
て歌ったでしょう。あのほうが優しくっていいわ。今日
ぴ りなんて言うのです? 普通に話すとおり、 少 しと言っ
話されるじゃありませんか。いったい何のために ち ょ っ
言うし、あなたのお母さんなぞも、やっぱりずけずけと
の、背が二アルシンと ち ょ っ ぴ りしかなかったなんかと
万にも、あの女は雀の巣のような頭をして歩いていただ
いたかったくらいですよ。よく市場なんかでぶしつけ千
に済むものなら、まだ 胎 の中にいるうちに自殺してしま
子宮でいいとして、僕はこんな世の中へなんか出て来ず
宮を破ったんだ﹄なんてとがめるんです。まあ、子宮は
自分の誕生をのろうからといって﹃おまえはあの女の子
噂なんですよ。グリゴリイ・ワシーリエヴィッチは僕が
ワシーリエヴィッチのおかげで、この町から出て行った
すりを言われたことがありました。それもグリゴリイ・
ですよ。モスクワでも面と向かって、そんな風に当てこ
闘を申しこんで、ピストルでどんとやっつけてやりたい
だから根性が曲がった悪党だなんかって言うやつには決
のことをスメルジャシチャヤの腹から生まれた父なし児
いん
﹁小さい時分からあんな貧乏くじさえ引き当てなかった
たらよさそうなもんじゃありませんか。きっと哀れっぽ
おかみ
ら、僕はまだまだいろんなことができたはずなんですよ。
く言いたいからでしょうが、それはいわば百姓の涙です、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
はら
もっともっといろんなことを知っていたはずですよ! 僕
、
、
365
﹁そんな必要は少しもありませんよ。十二年に、フラン
﹁じゃ、敵がやって来たとき、誰が国を守りますの?﹂
いますよ﹂
に兵隊なんてものがすっかり消えてなくなればいいと思
驃騎兵になんぞなりたいと思わないばかりか、あべこべ
﹁僕はね、マリヤ・コンドゥラーチェヴナさん、陸軍の
よ﹂
きっとサーベルを抜いてロシア全体をお守りなさること
あって御覧なさい、そんな言い方をなさりはしないから。
﹁でも、あなたが陸軍の見習士官か、若い 驃騎兵 ででも
ヤ・コンドゥラーチェヴナさん﹂
気がしたものです。ロシア全体を僕は憎みますよ、マリ
うのを聞くと、まるで壁にでもがんとぶつかったような
はまだほんの子供の時分から、この﹃ちょっぴり﹄と言
は無教育なために感情を持つことができないんです。僕
間に対して何か感情を持つことができますか? やつら
百姓の感情です。いったいロシアの百姓が教育のある人
いてるのに、ロシアの極道は乞食くさい臭いをぷんぷん
い極道どもですよ。ただ 外国 のやつはエナメルの靴をは
も外国人も似たりよったりですよ。どちらもしようのな
﹁よかったら話しますがね、女好きなところはロシア人
たし、きまりが悪いんだけれど﹂
まれのいい外国人にそっくりよ。こんなこと言うの、わ
﹁それに、あなた御自身がまるで外国人のようですわ。生
﹁そりゃあね、めいめい好き好きがありますからね﹂
男を眺めたのに違いない。
は優しい声で言ったが、そう言いながら、ものうい眼で
えたくないと思うような人がありますのよ﹂と、マリヤ
な若いイギリス人を三人くらい束にして来ても、取りか
すか?
﹁じゃ、外国の人はロシア人より偉いとおっしゃるんで
国の様子もがらりと変わっていたでしょうにねえ﹂
のろまな国民を征服して、合併してしまってでもいたら、
ばよかったんですよ。あの利口な国民がこのうえなしに
きにフランス人たちがこの国をすっかり征服してしまえ
あちら
わたしはロシアのハイカラな人の中には、どん
スの皇帝ナポレオン一世が︵今の陛下のお父さんですが
させていながら、自分ではそれを少しも悪いと思わない
ひょうきへい
ね︶
、ロシアへ大軍を率いて侵入して来ましたが、あのと
366
いっても、どこの下男よりも劣った人間で、何一つでき
持ちからいっても、知恵からいっても、貧的なことから
ないんです。ドミトリイ・フョードロヴィッチなんか、身
ろに相当の金さえあれば、とうにこんなところにいはし
ますがね、そこはあの人の思い違いですよ。僕はふとこ
のです。僕を 謀叛 でも起こしかねない人間だと思ってい
﹁しかし、あの人も僕をけがらわしい下男のように扱う
するっておっしゃったじゃありませんか?﹂
﹁だって、あなたはイワン・フョードロヴィッチを尊敬
ちといっしょに気がふれていますがね﹂
われたとおりですよ。もっともあの人も、三人の息子た
ければだめだ、昨日フョードル・パーヴロヴィッチの言
ところが違うだけです。ロシアの人間は、ぶんなぐらな
ようね。ああ、もしも、娘にも見せてもらえるものだっ
て射ちあうなんて、ほんとにたまらないわ。まるで絵の
将校なんかが、どこかの女の人のためにピストルを持っ
﹁とても恐ろしくって、勇ましいからよ。とりわけ若い
﹁どうして﹂
きなりマリヤが言った。
﹁決闘って、ほんとにおもしろいものでしょうね﹂とい
に金を使い果たしたかわかったものじゃない﹂
らですよ。ほんとにどれだけなんの役にも立たないこと
う?
んですよ。いったい、あの男のどこが僕より偉いんでしょ
すれば、その若様は、のこのこ出かけて行くに相違ない
がら、しかも、一流の伯爵の息子に決闘を申しこんだと
ろがドミトリイ・フョードロヴィッチが 素寒貧 でありな
すかんぴん
もしないくせに、みんなから 崇 められている。僕なんか
たら、わたしどんなにそれが見たいでしょう﹂
だって僕よりは、比べものにならんほどばかだか
は、よしんばただの料理人にしろ、うまくゆきさえすれ
﹁それはね、自分のほうが狙う時はいいでしょうが、こっ
むほん
ばモスクワのペトロフカあたりで、立派な 珈琲 兼料
理店 ちの顔のまん中を狙われる時には、それこそひどく気持
あが
を開業することができます。なぜって、僕には特別な料
の悪い話でさあね。その場から逃げ出すくらいが落ちで
レストラン
理法の心得がありますが、それはモスクワでも外国人を
すよ、マリヤさん﹂
カフェー
のけたら誰ひとりできる者はいないんですからね。とこ
367
が鳴りだして、例の裏声が最後の一連を歌い始めた。
いうように、しばらく黙っていたが、やがてまたギター
しかるに、スメルジャコフは返事をするにも及ばぬと
﹁ほんとに、あなたも逃げ出しなさるの?﹂
顔がすこし丸すぎるうえに、ひどい 雀斑 であった。
まだ若くて、顔立ちのいい娘であるが、惜しいことには
シンほどもある裳裾のついた淡い水色の着物を着ていた。
りこの家の娘マリヤ・コンドゥラーチェヴナで、二アル
ていた。ギターはベンチの上に置いてあった。女はやは
遠くへ行って住みましょう
どんなに骨が折れようと
スメルジャコフはゆっくりとベンチから立ち上がった。
はできるだけ落ち着いて尋ねた。
﹁ドミトリイ兄さんはもうじき帰るの?﹂とアリョーシャ
そばかす
楽しい暮らしをしたいもの
続いてマリヤも席を立った。
一語一語を離して、ぞんざいな調子でスメルジャコフが
花の都に暮らしたい
答えた。
﹁ドミトリイ・パーヴロヴィッチのことなんか、わたし
おりしも思いがけないことが起こった。アリョーシャ
﹁いや、僕はただ知ってるかどうか、ちょっと聞いてみ
もうもう悲しむこともない
がだしぬけにくさみをしたのである。ベンチの方の人声
ただけなんだよ﹂と、アリョーシャは言いわけをした。
が知ってるわけがないじゃありませんか。もしあの人の
はぴたりとやんでしまった。アリョーシャは立ち上がっ
﹁わたしはあの人の居どころなんかちっとも知りません
さらに悲しむこともない
て、その方へ歩み寄った。男ははたしてスメルジャコフ
し、べつに知ろうとも思っていませんよ﹂
見張りでもしていたのなら格別ですけど!﹂と、静かに
であった。彼は晴れ着を着飾り、頭にはポマードをつけ
﹁でも、兄さんはたしかに、うちの出来事をなんでもお
さらに悲しむ気もないよ
て、すこしく髪をうねらし、足にはエナメルの靴をはい
368
トリイ・フョードロヴィッチもそんな風にして、よく四
たマリヤがことばじりを引きながら言った。
﹁それにドミ
もんですか﹂アリョーシャの謝罪にすっかり気をよくし
﹁あら、わたしなんかがあなたに腹を立てる道理がある
も早く兄を捕まえたかったものですから﹂
ださいね﹂と彼はマリヤに向かって言った、
﹁僕は少しで
たんだ。どうぞだから、そのことで僕をとがめないでく
﹁僕は横町から編垣を越えて、いきなり 四阿 の方へ行っ
アリョーシャを見つめながら尋ねた。
んと 掛金 をかけておいたんですよ﹂と、彼はじろじろと
なりました。だってね、門の戸は一時間ばかり前に、ちゃ
﹁しかし、あなたは今どうしてここへはいっておいでに
手を眺めた。
スメルジャコフは静かに眼をあげて、ふてぶてしく相
が来たら知らせるって、約束したそうじゃないか﹂
たんだよ。それにアグラフェーナ・アレクサンドロヴナ
まえが兄さんに知らせることになってるって、僕に話し
﹁そりゃあ、あの人の気性としてはそのくらいのことは
た。
﹁どうして殺すなんて?﹂とアリョーシャはびっくりし
なすったくらいですよ﹂
言いましてね。二度ばかりは殺してしまうなんて脅かし
たかとか、何かほかに知らしてくれることはないかとか
はどんなあんばいだかとか、誰が来たかとか、誰が帰っ
さけ容赦もなくわたしをいじめなさる。お父さんのとこ
の人はいつでもここで旦那のことをしつこく尋ねて、な
だけですが﹂とスメルジャコフが新たに口を出した、
﹁あ
﹁わたしはただほんの知り合いとしてここへ遊びに来る
マリヤが舌たらずな調子で言った。
﹁あのかたわたしたちには何もおっしゃいませんわ﹂と
用件があるものですから﹂
えていただきたいんです。実は兄にとって非常に重大な
ひとも自分で会うか、それとも兄が今どこにいるかを教
﹁僕は今一生懸命に兄を捜しているところなんです。ぜ
るんですのよ﹂
かけがね
阿へいらっしゃいますから、わたしたちがちっとも知ら
なんでもありませんよ。昨日あなたも御覧になったじゃ
あずまや
ないでいますのに、もうちゃんと四阿に坐ってらっしゃ
369
﹁あなたにわたしがお知らせできる、たった一つのこと
ちょっと言っておくんですがねえ⋮⋮﹂
た、
﹁僕が今兄に会うことができさえしたら、そのことも
んの口先だけのことでしょうよ﹂とアリョーシャが言っ
﹁いや、そんな臼へ入れてなんかというのは、それはほ
おっしゃいましたわ﹂とマリヤが口を添えた。
﹁このあいだもこの人に﹃ 臼 へ入れて 搗 き殺すぞ﹄って
りませんからね﹂
ん。ほんとに何をしでかしなさるやら知れたものじゃあ
するには、警察へでも訴えるよりほかしかたがありませ
なりません。もうこれ以上恐ろしい思いをしないように
おかんぞとおっしゃって。わたしあの人が恐ろしくって
かれるようなことがあったら、第一に貴様を生かしては
サンドロヴナを邸へ通して、御婦人がこちらで泊って行
ありませんか。もしもわたしがアグラフェーナ・アレク
らね。ですけども、ぜひお願いしておきますが、わたし
まして、居間に横になって休んでいらっしゃるんですか
たもんですから、旦那は一時間ほど前ひとりで食事をす
ワン ・ フョードロヴィッチが昼飯にお帰りにならなかっ
向かいで坐っておいでかもしれませんよ。なぜって、イ
時分、その料理屋でイワン・フョードロヴィッチとさし
あるような口ぶりでしたよ。もしかしたら、ちょうど今
りの文句で言いましたが、どうやら打ち合わせでもして
がたお出かけになりました﹄と宿の人たちが、このとお
いませんでした。
﹃ええ、いらっしたのですが、つい今し
たが、ドミトリイ・フョードロヴィッチは家にいらっしゃ
のことでした。わたしがまいりましたのは八時ごろでし
に食事がしたいから、広場の料理屋までぜひ来てくれと
まいりましたが、手紙はなくてただ口上だけで、いっしょ
フョードロヴィッチのお使いで、 湖水街 のあの人の家へ
ところで、わたしは今日、夜の明けないうちにイワン・
オーセルナヤ
はですね﹂と、何かしら考えついたようにスメルジャコ
のことも、わたしのお話ししたことも、必ずあの人に言
つ
フが不意に言いだした。
わないでくださいまし。でないと、わたしは 理由 もなく
うす
﹁わたしがここへ出入りするのは隣り同士の心安だてか
殺されてしまいますからね﹂
わ け
らです。別に出入りをして悪いわけもありませんからね。
370
にするから、安心しておいで﹂
﹁大丈夫だよ。僕はその店へ偶然ゆき合わしたような風
コフが後ろから念を押した。
﹁どうかおっしゃらないでくださいまし﹂とスメルジャ
これからすぐに行ってみよう﹂
﹁ありがとう、スメルジャコフ、それは大切な知らせだ。
どくわくわくしながら叫んだ。
﹁それは大いにありそうなことだ﹂とアリョーシャはひ
﹁確かにあそこですよ﹂
﹁広場の﹃都﹄だな?﹂
﹁そのとおりですよ﹂
と、アリョーシャは早口に問い返した。
﹁イワン兄さんが今日ドミトリイを料理屋へ呼んだって?﹂
ワンは一人きりで食事をしていたのである。
一分間の後、アリョーシャは兄と並んで坐っていた。イ
迎えに駆け出して行くから⋮⋮﹂
るんだ。かまわずに玄関からはいっておいでよ、僕が今
﹁だって、ちょうどいいあんばいに僕は別室に陣取って
いだけです﹂
服装ではいって行ってもいいかどうか、それがわからな
﹁ええ、いいのくらいじゃありませんよ、でも、こんな
にありがたいんだが﹂
わけに行かないかえ、どうだい?
﹁アリョーシャ、おまえは今すぐにここへはいって来る
て、兄のイワンが窓から下を見おろしながら呼びかけた。
のそばへ近づいたばかりのとき、不意に一つの窓があい
び出してもらうという手もあった。しかし、彼が料理店
そうしてくれると実
﹁あら、あなた、どこへいらっしゃいますの? 今わた
くぐり
し耳
門 をあけてさしあげますわ﹂とマリヤが叫んだ。
三 兄弟相知る
﹁いや、こちらが近いですよ、また垣を超えてゆきます﹂
この知らせは非常にアリョーシャの心を打った、彼は
もっとも、イワンが陣取っていたのは別室ではなかっ
みなり
まっすぐに料理店をさして急いだ。彼の 服装 で料理店に
た。それはただ、窓のそばの 衝立 で仕切っただけのとこ
ついたて
はいるのは妙であったが、階段のところで尋ねてから呼
371
﹁魚
汁 か何かあつらえようかね。まさか、おまえもお茶ば
こになかった。
めであろうと考えた。ところが、兄ドミトリイの姿はそ
ンがここへ来たわけは、ただドミトリイに会う約束のた
かないということもよくよく知っていた。だから、イワ
がないということも、概して彼が料理屋というものを好
シャは、イワンがこの料理屋へほとんど一度も来たこと
ていて、オルガンのうなり声が聞こえていた。アリョー
や、ビールの口を抜く音や、玉突きのひびきが沸きたっ
料理店につきものの騒々しい音︱︱︱ボーイを呼ぶ叫び声
飲んでいるだけであった。それに反して、他の部屋では、
職の軍人らしい老人がただ一人、隅っこのほうでお茶を
があちこちと絶えず動き回っていた。お客といっては、退
部屋で、横のほうの壁ぎわにはスタンドがあり、ボーイ
人からは見えなかった。その部屋は、入口から取っつきの
ろにすぎなかったが、それでも中に坐っていると、はたの
から最初の何年かは、おまえのことなんかてんで思い出
だったかどうかさえ覚えていないんだ。モスクワへ出て
も仲よしになれない年ごろなんだな。僕はおまえが好き
たんだな。十五と十一という年の違いは、兄弟がどうして
えが十一のときまでは覚えてる、そのとき僕は十五だっ
﹁何もかも僕は覚えてるよ、アリョーシャ、僕はね、おま
注文した。
イワンはボーイを呼んで魚汁と茶と桜ん坊のジャムを
いよ。僕は今でも好きなんです﹂
﹁そんなことをよく覚えていますね?
て、桜ん坊のジャムが大好きだったじゃないか?﹂
えてるかな、おまえは小さい時分にポレーノフの家にい
﹁桜ん坊のジャムはどうかえ?
は愉快そうに答えた。
よ、僕すっかりおなかが 空 いてるんです﹂とアリョーシャ
﹁魚汁をください、そのあとでお茶もいただきましょう
る。
す
かりで生きてるわけでもあるまいからね﹂と弟をつかま
しもしなかったよ。その後おまえ自身がモスクワへやっ
ジャムもくださ
ここにあるんだよ。覚
えたことに、ひどく満足したらしい様子でイワンが言っ
て来た時だって、たった一度どこかで会ったきりだったっ
ウハー
た。彼自身はもう食事を終わって茶を飲んでいたのであ
372
そのために僕はおまえに近づかなかったんだ。ところが、
ようなものがあった。それがどうにも我慢ができなくて、
おまえの眼の中には何か絶え間のない期待、とでもいう
だおまえがどんなに僕を見ていたか、 よく知ってるよ。
になるのがいちばんいいようだ。僕はこの三か月のあい
に別れたかったんだ。僕の考えでは、別れる前に近づき
た自分の腹の中をおまえに知ってもらって、それを 土産 ﹁とても。一度じっくりとおまえと近づきになって、ま
か?﹂
﹁それでは、兄さんはそんなに僕に会いたかったんです
るじゃないか﹂
したいものだと考えていると、そこへおまえが通りかか
ふとどうかしてあれに会えないかしら、しんみり別れが
僕は明日立とうと思うんでね、今ここに坐っていながら、
けど、今まで一度もおまえとしんみり話したことがない。
け、それにまた、僕はこちらへ来てもう四か月にもなる
﹁怒ったりなんかしないでしょうね?﹂とアリョーシャ
﹁いったい、それはなんだい?﹂とイワンが笑った。
今朝からのことですよ﹂
るものをつかんだような気がするんです。それも、つい
とって謎だけれど、しかし、やっと僕は何か兄さんのあ
うは、イワンは 謎 だというんです。今でも兄さんは僕に
さんは、イワンのやつは墓だといってるけれど、僕のほ
﹁好きですとも、イワン。あなたのことをドミトリイ兄
シャ?﹂
どういうわけか僕を好いててくれるようだな、アリョー
待するような眼つきが好きになったんだよ⋮⋮おまえも
きが、ちっともいやでなくなった。いや、かえってその期
もさ。で、しまいには何か期待するようなおまえの眼つ
と、またその当人が、おまえのような小僧っ子であって
ういうしっかりした人間なんだ。その立場が何であろう
た足つきで立ってるじゃないか?
うことはまじめなんだよ。だって、おまえはしっかりし
僕が好きなのは、そ
とうとうしまいになって、僕はおまえを尊敬するように
も笑いだした。
みやげ
なった。やつは相当にしっかりしてるぞというような気
﹁で?﹂
なぞ
がしてきたんだ。いいかい、いま僕は笑ってるけど、言
﹁つまり、兄さんだっても、やはりほかの二十四くらい
しない!
た以上、それを征服しつくすまではけっして口を離しは
しかし、三十にもなれば、たとい飲み干して
の青年と同じような青年だということです。つまり、同
しまわなくっても、きっと、杯をすててしまう。行く先
とをさ。ところが、おまえは僕の腹の中を見抜いたよう
んだ。つまり、僕が二十四歳の嘴の黄色い青二才だってこ
で会ったあとで、僕はそのことばかり心の中で考えてた
﹁おまえは本当にしないだろうが、さっきあの女 のところ
されるよ!﹂イワンは愉快そうに熱中した調子で叫んだ、
﹁どうしてどうして、それどころかかえって暗合に驚か
うです、たいして気にさわりもしないでしょう?﹂
それからあとのことは、もう自分でも望むところはない
決めてしまったんだ。けれど、これもやはり三十までで、
自問自答したものだ。そして結局、そんな絶望はないと
るような絶望がいったいこの世の中にあるのかしら、と
ほとんど無作法といってもいいほどの生活欲を征服し得
の情も、 心の中でよく僕は、 自分の持っている熱烈な、
ないんだ︱︱︱生に対するいっさいの幻滅もあらゆる嫌悪
には僕の青春がいっさいのものを征服してしまうに違い
などはどこだか分からないけれど、だが、三十の年まで
に、いきなりそのことから話しだすじゃないか。ここに
だろうと、そんな風な気がするんだ。肺病やみのような
ど
じように若々しくて、元気のいい、可愛い坊ちゃんです。
くちばし
僕は坐ってるあいだ、どんなことを考えてたか、おまえ
洟 ったれの道学者先生は、こういった生活欲を何かと
鼻
いわば、まだ 嘴 の黄色い青二才かもしれませんよ!
にわかるかえ?︱︱
︱たとい僕が人生に信念を失い、愛す
下劣なもののようにいう、詩人なんて連中はことにそう
ひと
る女に失望し、物の秩序というものを本当にすることが
なんだ。この生活欲は性質からいうと幾分カラマゾフ的
は な
できなくなったあげく、すべてのものは秩序のない、 呪 だね。それは事実だ。いずれにしてもこの生に対する渇
のろ
われた悪魔的な 混沌 だと確信して、人間の滅亡のあらゆ
望はおまえの心中にだって潜んでいるよ。必ず潜んでい
こんとん
る恐ろしさをもってたたきつけられたとしても︱︱︱やっ
るよ。しかし、どうしてそれが下劣だというんだ?
求
ぱり僕は生きてゆきたいよ、いったんこの杯に口をつけ
373
374
眠っている。その一人一人の上に立っている墓石は、昔
墓場ということが肝心なんだ!
そこには貴い人たちが
承知している。だがその墓場は何よりもいちばんに貴い
いっても、行く先がただの墓場にすぎないことは、百も
パへ行きたいのだ、ここからすぐ出かけるつもりだ。と
なかなか料理がいいぞ。僕はね、アリョーシャ、ヨーロッ
まえの魚
汁 が来た、うんとやってくれ、うまい魚汁だよ、
重しているある種の人間的な功名心が尊いんだ。さ、お
なくなっていながら、しかも古い習慣から感情の上で尊
んだ。そして今ではもうとうにそれを信じようとさえし
何のためともわからない、好きになる誰彼の人間が尊い
ばっこい若葉が尊いのだ。青い空が尊いのだ。時には全く
いとしても、僕にとっては春の芽を出したばかりの、ね
論理に逆ってでも生きるんだ。たとい物の秩序を信じな
からな、アリョーシャ。生きたいよ。だから、僕はたとえ
心力というやつはわが遊星上にはまだまだたくさんある
嬉しいんですよ﹂とアリョーシャは叫んだ、
﹁人はすべて
もそんなに兄さんが生きたいとおっしゃるのが、とても
ら愛したいって、それはすばらしいことばでしたね。僕
﹁わかりすぎるぐらいですよ、兄さん。衷心から、真底か
した。
ともわからないかい?﹂そう言ってイワンは急に笑いだ
シャ、僕のこのナンセンスがわかってくれるかい、それ
の若々しい力を愛するばかりなんだ⋮⋮なあ、アリョー
く、ただ衷心から、真底から愛するばかりなんだ。自分
葉や青い空を愛するんだ。ここだよ!
分の感動に酔おうというわけだ。僕はねばっこい春の若
よって幸福を感ずるためにほかならないんだ。つまり自
が泣くのは絶望のためではなく、ただ自分の流した涙に
物でもないことも真底から確信しているんだ。それに僕
れが皆とうの昔からただの墓場にすぎず、それ以上の何
とを今からちゃんと承知しているが、それと同時に、そ
げ、その墓石に 接吻 をして、その上に泣き伏すだろうこ
くちづけ
日の熱烈な生活を物語っている。自己の功績、自己の真
何よりもまだ地上で生を愛さなければならないと思いま
理知も論理もな
理、自己の戦い、自己の科学に対する燃ゆるがごとき信
す﹂
ウハー
念を物語っている。僕はきっといきなり地べたへ身を投
375
﹁生の意義以上に生そのものを愛するんだね?﹂
﹁断然そうなくっちゃなりません。あなたのおっしゃる
とおり論理より前にまず愛するのです。ぜひとも論理よ
り前にですよ。それでこそはじめて意義もわかってきま
す。そのことはもう以前から僕の頭の中に浮かんでいた
んですよ。兄さん、あなたの事業の前半はもう成就もし、
獲得もされました。今度はその後半のために努力しなけ
ればなりません。そうすればあなたは救われますよ﹂
﹁もうおまえは救いにかかっているんだね。ところがね、
ひん
僕は案外、 滅亡に 瀕 してなんかいないかもしれないよ。
ところでおまえのいわゆる後半というのはいったいなん
だね?﹂
そせい
﹁つまり、あなたの死人たちを 蘇生 させる必要があると
いうのです。たぶん、彼らはけっして死んではいないの
かもしれませんよ。さあ、お茶をいただきましょう。僕
はこうしてお話をするのが、とても嬉しいんですよ。イ
ワン﹂
﹁見たところ、おまえは何かインスピレーションでも感
しんぼち
じているらしいな。僕は、おまえのような⋮⋮ 新発意 か
︵ 信仰告白 ︶を聞くの
ら、そんな Profession de foi
が大好きなんだ。おまえはしっかりした人間だね、アレ
クセイ、おまえが修道院を出るっていうのは本当かい?﹂
﹁本当です。長老様が世の中へ僕をお送りになるのです﹂
﹁じゃ、また世間で会えるね。僕が三十そこそこになって、
そろそろ杯から口を離そうとする時分に、どこかで落ち
合うことがあるだろうよ。ところで親父は自分の杯から
七十になるまで離れようとしないらしい。いや、もしか
すると、八十までもと空想してるのかもしれない。自分
でもこれは非常にまじめなことだと言ったっけ。もっと
も、ただの道化にすぎないがね。親父は自分の肉欲の上
に立って、大磐石でもふまえたような気でいるんだ⋮⋮
が、三十を過ぎたら、それより他には立つ足場がないだ
ろうからね、 全く⋮⋮それにしても七十までは卑劣だ、
三十までがまだしもだよ。なにしろ、自分を欺きながら
も﹃高潔の影﹄を保つことができるからね。今日ドミト
リイには会わなかったかな?﹂
かいこう
﹁ええ会いませんでしたよ、ただスメルジャコフには会
いました﹂と、アリョーシャは下男との 邂逅 を手短かに
376
﹁ああ﹂
﹁兄さんは本当にそんなに急に立つんですか?﹂
で言った。
今はもうその必要もない⋮⋮﹂と、イワンは進まぬ調子
うでもいい。僕はドミトリイには本当に会いたかったが、
﹁ああ、やつのことで。しかし、あんなやつのこと、ど
か?﹂とアリョーシャが聞いた。
﹁兄さんはスメルジャコフのことで苦い顔をするんです
イワンは苦い顔をして考えこんだ。
い足した。
ないでくれって頼みましたっけ﹂と、アリョーシャは言
﹁ただね、自分の話したことをドミトリイ兄さんに言わ
しく耳を傾け始め、何やかやと問い返しさえした。
兄に話した。イワンは急に、ひどく気がかりになったら
﹁そうさ、あのことだよ。一度できれいさっぱりと身を引
ろで⋮⋮﹂
﹁それは、さっきあのカテリーナ・イワーノヴナのとこ
事をかたづけたのは、おまえが現に証人じゃないか﹂
その仕事がかたづいたから出かけるのさ。さっき僕が仕
ええ、まっぴら御免だぜ。僕には僕の仕事があったんだ。
ただのとは、まさかおまえも考えてやしなかったろうな。
か月のあいだ兄貴の美しい 許嫁 を横取りしようとしてい
というのさ。また、僕がドミトリイを妬 いてるのだの、三
わけにはいかないよ。仕事がかたづいたから出かけよう
も勝手にしろだ。僕は全くあの人たちの番人をしている
今おまえはそれを考えてるんだろう?
﹁弟殺しについてカインが神様に答えたことばかえ? え、
るように言ったが、不意に妙な苦笑を浮かべた。
でもいうのかい?﹂とイワンはいらいらした声で断ち切
ドミトリイ
しかし、どうと
﹁じゃ、ドミトリイやお父さんはどうなるんです? あの
いてしまったよ。それがいったいどうしたというんだ?
や
騒ぎはどうかたがつくんでしょう?﹂と、アリョーシャ
ドミトリイに僕がなんの関係があるんだ?
リーナ・イワーノヴナに用があっただけの話さ。それを、
なんかの知ったことじゃないんだ。僕はただ自分自身カテ
いいなずけ
は不安そうに言いだした。
そのことが僕になんの関
僕がいったい、ドミトリイの番人だと
﹁またおまえのお談義かい!
係があるんだ?
377
おまえも知ってのとおり、ドミトリイが勝手に何か僕と
た。さっき僕はいやに感激してしゃべったけれど、外へ
でいたんだ︱︱︱それが急にすっかり清算がついてしまっ
アリョーシャが口を出した。
申し合わせでもしたような行動をとったんだ。僕が兄貴
もせいせいした気持なんだよ!
﹁それに、僕があの人をちっとも愛していないなんてこ
出るなりからからと笑っちゃったよ︱︱︱おまえ本当にす
に坐って食事をしているうちに、はじめて自由になった
とが、僕にわかるはずはなかったじゃないか、へへ! と
に少しも頼みもしないのに、勝手に兄貴のほうでいやに
自分の時を祝うために、すんでのこと、シャンパンを注
ころが、はたしてそうでないってことがわかったよ。あ
るかい、いや、これは文字どおりの話なんだよ﹂
文しようとしたくらいなんだ。ちぇっ、ほとんど半年もの
の人はひどく僕の気に入ってたんだよ。さっき僕が演説
もったいぶって、あの女を僕に譲って祝福したまでの話
あいだずるずると引きずられていたが、急に一度で、全
めいたことをしゃべったときでも、やっぱり気に入って
﹁今でもなんだか愉快そうに話してますね﹂と、実際に
く一度ですっかり重荷がおりたよ。ほんとにその気にさ
たんだよ。そして実はね、今でもひどく気に入ってるん
じゃないか。全くお笑いぐさだよ。いやいや、アリョー
えなれば、こんなに造作なくかたづけられようとは、昨
だ。けれど、あの人のそばを離れて行くのが、とてもせ
ばかに愉快そうになってきた兄の顔をじっと眺めながら、
日までは夢にも考えなかったからね﹂
いせいするんだよ。おまえは僕が 駄法螺 を吹いてるんだ
シャ、おまえにはわかるまいけれど、僕は本当に今とて
﹁それは自分の恋についての話なんですか、イワン?﹂
とでも思うかえ?﹂
さっきもこうしてここ
﹁そう言いたければ恋と言ってもいいさ。なるほど僕は
﹁ううん、でも、ことによったらそれは恋ではなかった
ら
あのお嬢さんに、あの女学生に、すっかり 惚 れてたのさ。
のかもしれませんよ﹂
だ ぼ
あの人と二人でかなり苦労したもんだ。そしてあの人も
﹁アリョーシャ﹂と、イワンは笑いだした、
﹁恋の講釈な
ほ
ずいぶん僕を苦しめたよ。いや本当にあの人に打ちこん
378
今どうしてるね? 僕の帰ったあとでどうだったい?﹂
まま永久に離れ去ってしまったわけだ。ときにあの人は
よ。でも、まあそのほうがいいさ。立ち上がって、その
をしても、永久にそれを悟ることができないかもしれん
ところが、ことによったら、あの人は今日のような経験
ためには、 十五年、 二十年の歳月を要するってことだ。
に苦しめている僕を愛しているということを自分で悟る
リイをちっとも愛していないで、かえって自分でこんな
だ。しかし、ただ何より大事なことは、あの人がドミト
きあの人に言ったことは、みんな間違いのない真理なん
に言い張るのであった。
﹁ドミトリイは羽目さ。僕がさっ
ミトリイを愛してたのじゃない﹂と、イワンは愉快そう
さ! そして自分でも僕を愛していたので、けっしてド
を愛してるってことは、あの人も自分で承知しているの
に羽目のそばに坐ったようなもんだ。おお、僕があの人
だ⋮⋮。だが、あの人はずいぶん僕を苦しめた! 本当
れてた⋮⋮あのお礼におまえを接吻しようと思ってたん
きもさ、飛び出して口を入れたね、恐れ入るよ! あ、忘
んかよせよ! おまえには少し変だよ。さっきも、さっ
入ってならないんです﹂
意にアリョーシャが言った、
﹁それに僕はなんだか気が滅
﹁いいえ、兄さん、飲まないほうがいいでしょう﹂と不
いや、僕が今どんなに嬉しいかわかってくれたらなあ!﹂
を注文しようかね。僕の自由のために飲もうじゃないか。
﹁あれはわざと言ったんだよ。アリョーシャ、シャンパン
て﹂
しょう、あの人はついぞ兄さんを愛したことがなかったっ
﹁でも、兄さんはさっきあの人にこんなことを言ったで
は行かない。何も今さら顔を出すにも当たるまいからな﹂
テリイをお授けになったのだ。僕はもう二度とあすこへ
いうやつはあってもいいだろう。神様は好んで女にヒス
リイで死んだものは、一人もないからね、ヒステリイと
﹁だって、調べてみなくちゃならないよ、ただ、ヒステ
﹁そうではないらしいんです﹂
﹁ホフラーコワが嘘をついたんじゃないか?﹂
ろうとまで付け足した。
まだ意識がはっきりしないで、うわごとを言っているだ
アリョーシャはヒステリイの話をして、彼女は今でも
379
僕とおまえとのために与えられた時間は、出
が出立するからって、どうしておまえはそんなに心配す
とだけでも、とうに出立していたはずなんだ。しかし、僕
はあの親父がいやでたまらなくなったんだ。僕はそのこ
しょに食事をしたくなかったからなんだよ。それほど僕
が今日、ここで食事をしたというのはね、ただ親父といっ
あるいは本当に朝になるかもしれないな。ところで、僕
﹁朝? 何も僕は朝と言ったわけじゃないよ⋮⋮けれど、
﹁じゃ、明日の朝はどうしても出立するんですか?﹂
かなり前から僕にも気はついてたよ﹂
﹁ああ、おまえはずっと前から気が滅入ってるようだね、
の人たちにはあることが必要だろうが、われわれ 嘴 の黄
﹁そんなら、自分でも何のためかわかってるだろう。ほか
﹁いいえ、そんなことのためじゃありません﹂
かえ? そうなのかえ? そんなことのためなのかえ?﹂
かえ?
外国の話かえ?
ことや、ドミトリイのことを話しに来たというのかえ?
だ?
言って御覧、僕たちはなんのためにここへやって来たん
んなにびっくりしたような眼つきをするんだい? さあ、
ざここへやって来たんだろう?
ないか?﹂とイワンは笑いだした、
﹁だって、なんといっ
﹁僕とおまえとは、あんなことにはまるっきり無関係じゃ
うんです?﹂
﹁明日出立なさるというのに、どうして永劫だなんて言
不滅だ!﹂
たい、何のためにこの三か月のあいだ、あんなに何か期
騒ぎだした現在なんだからな。おまえにしたって、いっ
それが、ちょうど老人たちがみな急に実際問題について
ロシアはただ永遠の問題ばかり取りあげている。しかも
いちばんわれわれの気にかかるところなんだ。いま若き
ず最初に永遠の問題を解決しなければならない。これが
くちばし
ナポレオン皇帝のことでも話しに来たというの
ロシアの因果な国情の話ででもあるの
カテリーナ・イワーノヴナに対する恋や、親父の
なんだっておまえはそ
るんだ?
色い連中にはまた別のものが必要なんだ。われわれはま
たって、自分のことは大丈夫話し合う暇があるからなあ、
待するような眼つきで、僕を眺めていたんだ? つまり
えいごう
発までにまだどのくらいあるかわかりゃしない。 永劫 だ、
自分のことは⋮⋮いったい僕たちはなんのためにわざわ
380
えんだ、
﹁でも、兄さんは今僕をからかってるんじゃない
﹁あるいはそうかもしれません﹂とアリョーシャはほほ
しょう、え?﹂
の三か月の注目も、結局はこんな意味になってしまうで
だろう︱︱
︱なあ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、君
然信仰を持っていないのか?﹄と尋問するためだったの
僕に﹃おまえはどんな風に信仰してるのか、それとも全
だよ、ただ別々の端から出発するだけの違いだ。こんな
もちだす。ところが結局は同じような問題に帰着するん
したり、全人類を新しい組織に変えようなどという話を
じない連中は社会主義だの、無政府主義だのをかつぎだ
あるかとか、不死はあるかとかいう問題なんだ。神を信
う?
だ。料理屋の一分間をぬすんでどんな議論を始めると思
いに知り合いになることはありゃしない。ところがどう
いたというのだ?
といってもある種の連中に限るんだ
ところで、ロシアの子供は今までどんなふるまいをして
ちっぽけな子供なのさ。ただ新
発意 でないだけのことさ。
見て御覧、僕もやっぱりおまえとちっとも変わりのない、
せるようなことはしないよ。アリョーシャ、まっすぐに
期待をもって僕を一心に見つめていた 可愛 い弟を悲しま
﹁僕がからかうって!
り同じように、静かな探るようなほほえみをうかべなが
題なんです。また、そうなければならないのです﹂やは
問題は、現代のロシア人にとって、何よりも第一番の問
から兄さんのおっしゃったように、別の端から出発した
﹁ええ、神はあるか、不死はあるかという問題と、それ
うじゃないか?﹂
ただ永久の問題ばかりを話題にしているんだ。ねえ、そ
風に非常に多くの最も才能あるわが国現代の少年たちが、
それは決まって宇宙の問題なのさ、つまり、神は
でしょうね?﹂
がね。たとえば、この薄ぎたない料理屋へやつらが集まっ
らアリョーシャはこう言った。
僕は三か月のあいだもあんなに
て、隅っこに陣取るだろう。この連中は生まれてこのか
﹁ねえ、アリョーシャ、ロシア人たることも、ときには
かわい
た、ついぞ知り合ったこともなければ、これから先もいっ
あまり感心しないが、しかし、今ロシアの少年たちが没
しんぼち
たんここを出てしまえば、四十年たったからって、お互
﹁うまいところへ持って来ましたねえ﹂アリョーシャは
年に限っては、とても好きなんだ﹂
もっとも僕はたった一人アリョーシャというロシアの少
頭しているぐらいばかばかしいことも想像ができないな。
ある老人の無神論者が、もし神がないとすれば、案出し
で冗談を言うってとがめられたけど。そら、十八世紀に
﹁冗談を言うって?
んでなければ⋮⋮﹂
﹁ええ、もちろん、もしもいま兄さんが冗談を言ってる
した。﹁おまえにはちょっと意外だろう、え?﹂
たら神を認めるかもしれないんだよ﹂とイワンは笑いだ
るとはたしておまえの眼が燃えだしたっけ。しかし今は
たのは、わざとおまえをからかうためだったんだよ。す
﹁僕は昨日、親父のとこで、食事のときあんなことを言っ
ませんか?﹂とアリョーシャは探るように兄を眺めた。
は昨日お父さんの前で、神はないと言いきったじゃあり
﹃別の端﹄からだってかまわないでしょう。けど、兄さん
﹁どちらからでも、 お好きなほうから始めてください、
はあるから始めようかな、どうだい?﹂
うかといえば、人間が神を 創 ったのか、それとも神が人
的で、賢明で、人間の名誉たるべきものなんだ。僕はど
するんだ、値するのだ、それほどこの考えは神聖で、感動
悪 な動物の頭に浮かんだということが、実に驚嘆に値
性
え︱︱︱神は必要なりという考えが、人間みたいな野蛮で
というのが不思議でも奇態でもなくって、そのような考
と言ったろ。ところが、実際に人間は神とい
l’inventer.
うものを考え出したんだ。しかし、神が本当に存在する
なければならない、
そりゃあ昨日だって長老のところ
﹁さあ、言ってくれ、どっちから始めたものか、ひとつ
不意に笑いだした。
神
おまえと意見を交換することをけっして避けはしないよ。
間を創ったのかということはもう考えまいと、とうから
おまえに命令してもらおう、神から始めようかな?
で、僕はまじめに話してるんだ。僕はおまえと親密にな
決めているんだ。だから、もちろん、この問題に関して、
つく
S’il n’existait pas Dieu il faudrait
りたいのだよ、アリョーシャ、僕には友だちがないから、
ロシアの小僧っ子たちが夢中になっている近来のいっさ
しょうわる
ひとつどんなものか試してみたいのさ。それにもしかし
381
382
きっているように、神はユウクリッドの幾何学によって
本当に地球を創造したものとすれば、われわれにわかり
ただし書きがあるんだ。というのは、もしも神があって、
︱僕は率直簡明に神を認容するってね。しかし、ここに
とだね、そうだろう? だから、こう明言しておくよ︱︱
ているかを、おまえに説明することができるかというこ
本質、つまり僕がどんな人間で、何を信じ、何を期待し
たらいいんだ!
問題は、いかにすれば一刻も早く僕の
ろで、いったい僕とおまえとは今どんな問題を取りあげ
らね。だからすべての仮設は避けることにしよう。とこ
教授はどうかすると、このロシアの小僧っ子と同然だか
教授の中にさえそんなのがあるよ。だってロシアの大学
ね。いや、小僧っ子ばかりではなく、どうかすると大学
にロシアの小僧っ子どもに原理化されてしまうんだから
だ。なにしろ、あちらで仮設となっているものは、すぐ
理はみんなヨーロッパ人の仮設から引き出したものなん
いの原理を詮
議 だてすることもやはり御免だ。そんな原
てことなのさ。そんなことは三次元の観念しか持ってい
けないのは神のことだ︱︱︱神はありや、無しや?
が、こんなことはけっして考えないことだよ。何よりい
われにできるものか。アリョーシャ、おまえに忠告する
現世以外の事物を解釈するなんてことが、どうしてわれ
はユウクリッド式の、地上的のものなんだ。それなのに
はこんな問題を解釈する能力がひとつもない、僕の知恵
てたまるものかとね。僕はおとなしく白状するが、僕に
さえ理解できないのに、僕に神のことなんかが理解でき
よ。そこで僕はもうあきらめたんだ。これくらいのこと
などと大胆な空想をたくましゅうする者さえもあるんだ
よったら、どこか無限のうちでは一致するかもしれない
はけっして一致することのない二条の平行線も、ことに
いうことだ。ユウクリッドの法則によると、この地上で
クリッドの幾何学だけで作られたものではなさそうだと
より、もっと広義にいえば、全存在はだね、どうもユウ
いるものが昔も今もあるんだ、つまり、全宇宙、という
それも最も著名な学者の中にすら、こんな疑いを持って
せんぎ
地球を創造し、人間の知恵にただ空間三次元の観念だけ
ない人間には、どうしても歯の立たない問題なんだ。そ
なん
を与えたのだ。 ところが、 幾何学者や哲学者の中には、
383
いと言ってるわけじゃないよ、いいかい。僕は神の創っ
を認容することができないのだ。何も僕は神を承認しな
ということは知っているけれど、それでいて断じてそれ
この神の世界を承認しないのだよ。この世界が存在する
てるようだろ︱︱︱ね? ところが、いいかね、僕は結局
こしらえてあるね。ともかくも、僕はいい傾向に向かっ
どうもこのことについては、いろんなことばがしこたま
の道、といったようないろんな数限りないことを信ずる。
おり、それ自体が﹃神に通じ﹄またそれが神であるところ
久の調和をも信ずる。また宇宙がそれに向かって進んで
も意義も信じ、われわれがやがては融和するとかいう永
れには少しもわからないけれどね。それから人生の秩序
く、おまけに神の英知をも目的をも承認する︱︱︱われわ
れで僕は、神は承認する。進んで承認するばかりではな
だけはもう大まじめでおまえに打ち明けたんだよ。僕は
質なのさ、アリョーシャ、これが僕のテーゼなんだ。これ
と言ったとしても、やはり許容しないよ。これが僕の本
れを自分の眼で見たとしても、自分で見て、﹃一致した﹄
ようとは思わないんだ!
も僕はこれを許容することができないんだ、いや許容し
まあ、すべてがそのとおりになるとしてもだね、それで
すばかりでなく、進んでそれを弁護するというんだ︱︱︱
って、人間界に引き起こしたいっさいのことを単に許
贖 らげ、すべての人の悪行や、彼らによって流された血を
べての人々の胸に満ちわたり、すべての人々の 憤懣 を柔
もたとえようのない高貴な現象があらわれて、それがす
界の終局において、永久的調和の 刹那 において、なんと
知能のいとうべき造りごととして消え失せ、ついには世
しく、まるで原子のように微細な人間のユウクリッド的
たとい平行線が一致して、そ
せつな
た世界、神の世界を承認しないんだ、どうしても承認す
このおまえとの話を、わざとこのうえもないばかげた風
ふんまん
るわけにはいかないんだ。ちょっと断っておくが、僕はま
に始めたけれど、とどのつまり告白というところまで漕
あがな
るで赤ん坊のように、こういうことを信じてるんだよ︱︱
ぎつけてしまったよ、だっておまえに必要なのはただそ
い
︱いつかはこの苦しみも 癒 えて跡形もなくなり、人間的
れだけなんだからな、おまえにとっては神様のことなん
しんきろう
予盾のいまいましい喜劇も、哀れな 蜃気楼 として、弱々
384
﹁まず第一にだ、ロシア式に 則 るためなのさ。こうした
兄を見つめながら尋ねた。
んか始めたんです?﹂と、アリョーシャは物思わしげに
﹁どうして兄さんは﹃このうえもなくばかげた風に﹄な
この長口舌を終わった。
イワンは不意に思いもかけないある特別の情をこめて、
て生きているかということだけ知ればいいんだからね﹂
かどうだっていい、ただおまえの愛する兄貴が何によっ
た。
度として彼がこんな笑い方をするのを見たことがなかっ
子供のようにほほえんだ。アリョーシャは今までに、一
いんだよ﹂と不意にイワンは、まるで小さなおとなしい
もしかしたらおまえに治療してもらうつもりかもしれな
ら引きおろそうとはけっして思わないよ、それどころか、
リョーシャ、僕は何もおまえを堕落させて、その足場か
そのために話をここまで漕ぎつけたんだから。なあ、ア
﹁それはね、 むろん説明するよ、 何も秘密じゃないし、
のっと
問題に対するロシア人の会話というものは必ず、このう
むほん
えもなくばかげた風に運ばれるからな。第二には、やは
﹁兄さんは何のために﹃世界を許容しない﹄のか、その
け、僕にとってはいよいよ都合がよくなってくるんだ﹂
を運んでしまったから、ばかばかしく見せれば見せるだ
鈍はむきで正直者だ。僕は自暴自棄というところまで事
まかしたり、隠れたりしたがる。賢明は卑劣漢だが、愚
愚鈍というやつは簡単でずるくはないが、知はどうもご
な。僕はいつか何か物の本で、﹃恵み深きヨアン﹄︵ある
できないところを、遠きものなら愛し得ると思うんだが
ないんだ。僕の考えでは隣人であればこそ愛することが
愛することができるのやら、僕にはどうにも合点がいか
イワンは話しだした、
﹁いったい、どうして自分の隣人を
﹁僕は一つおまえに白状しなければならないんだよ﹂と
四 謀
叛 わけを話してくださるでしょうね?﹂とアリョーシャが
一人の聖者なのさ︶の伝記を読んだことがあるんだ。な
りばかげているほど、事実に接近することになるからだ。
言った。
385
の愛に等しいようなものさえありますよ。それは僕自身
には実際、多くの愛が含まれていて、ほとんどキリスト
障害になると言っておられました。しかし、人間性の中
の顔は愛に経験の浅い多くの人にとっては、時おり愛の
とアリョーシャが口を入れた、
﹁長老様もやっぱり、人間
﹁このことはゾシマ長老がよく話しておられましたよ﹂
てしまうのさ﹂
でも顔をのぞけられたら、愛もそれきりおじゃんになっ
の相手に身を隠していてもらわなくちゃだめだ。ちょっと
のためだよ。誰かある一人の人間を愛するためには、そ
観念に強制された愛からだよ、自分で自分に課した苦行
うのは痩せ我慢からだよ、偽りの感激のためだよ、義務
やったというのだ。でも、聖者がそんなことをしたとい
なんともいえぬいやな臭いのする口へ、息を吹きかけて
れて抱きしめながら、何か恐ろしい病気で腐れかかって、
と頼んだものだから、この聖者は旅人を自分の寝床へ入
んでも一人の旅人が飢え 凍 えてやって来て、暖めてくれ
な苦悩、僕の人格を下げるような苦悩、たとえば空腹と
理由によるんだ。それに苦悩にもいろいろある。屈辱的
か僕がその男の足を踏んづけたとか、そういったような
か、僕が愚かしい顔をしているとか、でなければ、いつ
と思う?
それが礼儀でもあるようにね︶どうして認めたがらない
を苦悩者として認めるのを喜ばないものなのだ、
︵まるで
僕ではないから。それに、人間というやつはあまり他人
してわかるもんじゃない。だって、他人は他人であって
しても、どの程度まで苦悶しているのか、他人にはけっ
からね。よしんば僕が深い苦悶を味わうことができるに
ストは神であった。けれど、われわれは神じゃないんだ
にあり得べからざる一種の奇跡なんだよ。なるほどキリ
僕の考えでは、人類に対するキリストの愛は、この地上
質がそういう風にできているのか、という点にあるんだ。
のためにこんなことがおきるものか、それとも人間の本
多数の人間も僕と同じなんだ。問題は、人間の悪い性質
理解することだってできないよ、そして数えきれない大
こご
だって知っていますよ。イワン⋮⋮﹂
いったようなものなら、慈善家だって許してくれるけど、
それはたとえば僕の体にいやな臭いがあると
﹁でも、 今のところ、 僕はまだそんなのを知らないし、
386
しかし、それも見物するというまでで、けっして愛する
報謝を乞うのだったら、 まだしも見物していられるよ。
破れたレースをつけて出て来て、優雅な踊りをしながら
もしも舞踊劇の舞台でのように、乞食が絹の襤
縷 を着て、
ら隣人も愛し得るが、そばへ寄ってはほとんど不可能だ。
合ならまだまだ隣人を愛することもできる。遠くからな
をしないで、新聞紙上で報謝を乞うべきだ。抽象的な場
なみのある乞食は、断じて人前へ顔をさらすようなこと
けっしてその人の悪意からではない。乞食、ことにたし
その人の恩恵を取り逃がしてしまうことになる。それは
はまるで似ても似つかないからというのだ。そこで僕は
慈善家が空想していたような理想のための受難者の顔と
してくれない。なぜかというと、僕の顔を見ると、その
のになると、きわめて少数の場合以外には、けっして許
少しく高尚な苦悩、たとえば理想のための苦悩なんても
とするか、おまえにはちゃんと察しがつくだろうよ。で、
だからいま僕がどういうわけで子供のことばかり話そう
好きかえ、アリョーシャ? わかってるよ、好きなのさ。
から、今のところまだ全く 無垢 なのだ。おまえは子供が
の 果実 を食べている。ところが子供はまだ何も食べない
とく﹄なってしまった。そして今でも引き続きやはりそ
からだ。大人は知恵の実を食べて、善悪を知り、
﹃神のご
いばかりでなく、彼らに対しては天罰というものがある
ことを話したくない理由は、彼らが醜悪で愛に相当しな
ていないように思われるんだがね︶第二に、僕が大人の
︵もっとも僕には器量のよくない子供というものはけっし
いやつでも器量のよくないやつでも愛することができる。
一、子供はそばへ寄っても愛することができる。きたな
これはもちろん、僕にとって不利益なんだけれどね。第
しまうけれど、 しかしまあ、 子供のことだけにしよう。
めておこう。これは僕の論拠を十分の一くらいに弱めて
このみ
というわけにはいかないもんだ。いや、こんなことはも
もし、子供までが同じように地上で恐ろしい苦しみを受
ろ
うたくさんだ。ただ僕はおまえを僕の見地へ立たして見
けるとすれば、それはもちろん、自分の父親の身代わり
ぼ
さえすればよかったんだ。僕は一般人類の苦悩について
だ、知恵の実を食べた父親の身代わりに罰せられるんだ
む く
話したかったのだが、今はむしろ子供の苦悩だけにとど
387
しむなんて法はないじゃないか。まして罪なき子供が!
む人間の心には不可解だ。罪なき者が、他人の代わりに苦
︱︱︱でも、これは あ の 世の人の考え方で、この地上に住
﹁兄さんは変な顔をして話をしますね﹂とアリョーシャ
そしていやに気が滅入ってきた﹂
まえにはわからんだろうな? ああ、なんだか頭が痛い、
ろで、僕がなんのためにこんな話をもちだしたのか、お
﹁あの国ではね、 トルコ人やチェルケス人が、 スラヴ族
こう言ったら驚くかもしれないがね、アリョーシャ、僕
持った別な生き物の観があるよ⋮⋮。僕は監獄へはいっ
の反乱を恐れて、いたるところで暴行をするそうだ。つ
が不安そうに注意した、
﹁なんだか気でも違った人のよう
ている一人の強盗を知っているが、その男は商売のため
まり、家を焼く、人を切る、女子供に暴行を加える、囚
もやはり子供が好きでたまらないんだよ。それに注目す
に、毎晩毎晩あちこちの家へ強盗にはいって、一家族を
人の耳を塀へ釘づけにして一晩じゅう打っちゃっておい
ですよ﹂
みなごろしにするようなこともよくあるし、時には一時
て、朝になると首を絞めてしまう︱︱︱などという、とて
べきことは、残酷で情欲や肉欲の旺盛なカラマゾフ的人
に幾人もの子供を斬り殺すような場合もあった。ところ
も想像もつかないありさまなんだ。実際よく人間の残忍
﹁話のついでだけれど、モスクワであるブルガリヤ人か
が、監獄へはいっているうちに、奇態なくらいに子供が
なふるまいを﹃野獣のようだ﹄などというけれど、これ
物が、どうかすると非常に子供を好くものだよ。子供が
好きになったのだ。やつは獄窓から庭に遊んでいる子供
は野獣にとっておそろしく不公平で、侮辱的な言いぐさ
ら、こんな話を聞いたよ﹂弟のことばが耳にはいらない
を眺めるのを、自分の日課のようにしていた。一人の小
だよ。だって、野獣はけっして人間のように残忍なまね
本当に子供でいるあいだ、つまり七つくらいまでの子供
さい子供などは、うまく手慣づけられて、いつもその窓
はしないものだ、あんなに技巧的で芸術的な残酷なまね
ように、イワン・フョードロヴィッチはことばをついだ、
の下へやって来て、大の仲よしになったほどだ⋮⋮とこ
は、おそろしく人間ばなれがしていて、まるで別な性情を
、
、
、
388
生懸命あやして、赤ん坊を笑わせようとしていたんだが、
ころで、この連中が一つ愉快なことを思いついてね、一
コ人が群がっている、といった光景を想像して御覧。と
母親の手に抱かれていて、あたりには侵入して来たトル
だよ。それは、まず一人の乳飲み子がわなわなと震える
ころが、もう一つ非常に僕の興味をそそる場景があるん
いうのが、おもなる快感を形づくっているわけだな。と
先で受け止めて見せるやつもある。母親の面前でやると
飲み子を空へ放り上げて、母親の眼の前でそれを銃剣の
ぐり出すという辺から始まって、ひどいのになると、乳
だそうだ。まず母親の胎内から、 匕首 でもって子供をえ
のトルコ人どもは、変態性欲をもって子供をさいなむん
があったにしろ、考えも及ばないことだ。とりわけ、そ
じゅう釘づけにしておくなんて、たとい虎にそんな能力
裂くといったことしかできないものだ。人間の耳を一晩
なんかはできっこないよ。虎だって、ただかむとか引き
や心に似せて創り出したものだったら、さぞかしおまえ
や結構結構、大いに愉快だよ。しかし、人間が自分の姿
た、
﹁おまえはうまく僕のことばじりを押えたもんだ。い
なかなかうまくことばをそらすね﹂とイワンが笑いだし
﹁おまえは﹃ハムレット﹄の中のポローニアスみたいに、
﹁そんなことをいえば、神様だって同じことですよ﹂
を作っただろうと思うんだがなあ﹂
れを創り出すとしたら、きっと人間そっくりの形に悪魔
﹁僕は、もし悪魔というものが存在しないで、人間がそ
リョーシャが尋ねた。
﹁兄さん、何のためにそんな話をするんです?﹂と、ア
は非常に甘いものが好きだって話だ﹂
いかにも芸術的じゃないか?
いて、小さな頭をめちゃめちゃに砕いてしまうんだ⋮⋮
その芸術家は顔のまん中を狙って、ズドンと引き金を引
を取ろうと思って、小さな両手を伸ばす、と、いきなり
ん坊は嬉しそうにきゃっきゃっと笑いながら、 ピストル
ついでながら、トルコ人
とうとういいあんばいに赤ん坊が笑いだしたのさ。その
の神様は立派なもんだろうな。ところで、いまおまえは、
あいくち
那 、一人のトルコ人がピストルを取り出して、赤ん坊
刹
何のためにあんな話をもちだしたかって尋ねたんだね?
せつな
の顔から五、六寸のところから狙いを定めた。すると赤
389
ので、ロシア人と同様、国粋的なもので埋め合わせをし
よく知らないけれどね。その代わり外国の連中は別なも
なぐってはならぬという法律でもできたのか、その辺は
ないようだ。人情が美しくなったのか、それとも人間を
なさそうだ。外国では今はあんまりなぐったりなんかし
のになってしまって、われわれから奪い去ることができ
れど、しかし笞とか棒とかいうやつは妙にロシア的なも
夢にも考えない。われわれはこれでもヨーロッパ人だけ
的なんだよ。わが国では耳を釘づけにするなんてことは
なぐる。それも多く 笞 や棒でなぐる、しかもそこが国民
だ。おまえも知ってるとおり、ロシアではずいぶんよく
には、あのトルコ人よりも一段すぐれたやつさえあるん
らな。ところが、僕はロシア種もだいぶ集めた。その中
の中へはいってるんだが、こんなのはみんな外国種だか
派な収集ができたよ。例のトルコ人ももちろんその収集
の逸話をノートに取って集めているんだ。もうだいぶ立
ので、新聞や人の話から手当たり次第に、そういう種類
実はね、僕はある種の事実の愛好家で、同時に収集家な
利でも持っているように考えていたのさ。なぜって、リ
後悔する者なんかありはしない。それどころか立派に権
はそんなことをしながらも、誰ひとり悪かったと思って
れば食物さえほとんど与えなかったのだ。羊飼いの仲間
しかも雨が降ろうが寒かろうが、ろくに着物も着せなけ
て七つくらいの年にはもう羊飼いに追い使ったくらいだ。
らは子供に何一つ教育を施さなかったばかりか、かえっ
が、子供は羊飼いのあいだで、野獣のように育った。彼
飼いは仕事に使おうと思って、その子供を育てたわけだ
に住んでいるスイス人の羊飼いにくれてやったのだ。羊
かの私生児で、まだ六つくらいの子供のとき、両親が山
キリスト教にはいったんだそうだ。そのリシャールは誰
ルという二十三になる青年で、死刑の間ぎわに悔悟して
悪党を死刑にした話が書いてあるんだ。それはリシャー
の五年ばかり前にスイスのジュネーヴで、ある殺人犯の
いパンフレットを持っている。これにはつい最近、ほん
かけたようだがね。僕はフランス語から訳したおもしろ
会で宗教運動が始まったころからは、そろそろ移植され
的なものなんだ。もっともロシアでも︱︱︱ことに上流社
むち
ているよ。それはロシアではとても不可能なほど、国民
390
牧師だの各キリスト教団体の会員だの慈善家の婦人だの
なんかしないからねえ。ところが牢へはいるとさっそく、
受け、死刑を宣告された。あちらの連中は感傷的な同情
を剥 いだんだ。リシャールはたちまち逮捕されて裁判を
をしていたが、結局、しまいにある老人を殺して持ち物
ては、もうけた金を酒代にして、ならず者のような生活
野蛮人はジュネーヴの町で日雇い稼ぎをして金をもうけ
が固まると、自分から進んで泥棒に出かけたのだ。この
と青年時代を送ったが、やがて、すっかり成人して体力
檻 されたくらいなんだ。こんな風にして彼は少年時代
折
食べさせてもらえなかった。彼が豚の餌を盗んだ時には
いから、何か食べたくてたまらなく思ったが、それさえ
書の中の 放蕩息子 のように売り物の豚に与える 餌 でもい
ル自身の証言によると、そのころこの少年は、まるで聖
養ってやる必要さえないと思ってたんだからね。リシャー
シャールは品物かなんぞのようにもらい受けたのだから、
主の御胸に死ななければならぬ。おまえが豚の餌食をう
主の御胸に死ぬがいい、 おまえは血を流したのだから、
のお胸に死ぬることができます﹄﹃そうだ、リシャール、
たが、今こそわたしにも神のお恵みが授かりまして、主
少年時代から青年時代へかけて、豚の餌を喜んでいまし
﹃そうです。わたしはお恵みを授かりました! わたしは
たのだ!﹄当のリシャールは感きわまって泣くばかりだ。
だ。
﹃おまえはわしの兄弟だ、おまえにはお恵みが授かっ
獄へ押しかけ、リシャールを抱いたり接吻したりするん
ぎを始めた。上流の人や教養のある人たちが、どっと監
だした。ジュネーヴの町じゅうの慈善家や徳行家が大騒
した﹄とやったわけさ。するとジュネーヴじゅうが騒ぎ
の心をお照らしくださって、お恵みを授けてくださりま
ないならず者でしたが、やっとおかげさまで神様が自分
自分から裁判所当てに手紙を書いて、﹃自分はしようの
罪を自覚するにいたったのだ。 そこで、 リシャールは、
り、すかしたりされた結果、ついに当人は厳かに自分の
は
えさ
といった、いろんな連中がこの男を取りまいて、監獄の
らやんだり、豚の口から餌を盗んでぶたれたりした時に
ほうとうむすこ
中で読み書きを教えて、しまいには聖書の講義まで始め
︵これは全くよくないことだ、 盗むということはどうし
せっかん
たんだ。そうして、説教したり、さとしたり、おどした
坐らせ、ただこの男にお恵みが授かったからというだけ
としての接吻を浴びせた後、刑場へ引き出して断頭台へ
から﹄こうして連中は兄弟リシャールに、むやみに兄弟
い、なぜならば、おまえにも神のお恵みが授かったのだ
とリシャールに向かってわめく、﹃主の御胸に死になさ
だ。 やがて刑場につくと ﹃さあ、 死になさい、 兄弟!﹄
車の後から、徒歩や馬車で、刑場さしてついて行ったの
んな連中がぞろぞろと、リシャールの乗せられた囚人馬
ぜといって、おまえは主のおそばへ行くのだから!﹄こ
﹃そうだ、 これはおまえにとって何より幸福な日だ、 な
くり返す。 すると牧師や裁判官や慈善家の婦人たちは、
といって、わたしは主のおそばへ行くのだからです﹄と
ら絶え間なしに、
﹃これはわたしの最もよき日です。なぜ
て最後の日が来た。衰え果てたリシャールは、泣きなが
たのだから、どうしても死ななければならないよ﹄やが
たのはおまえの罪ではないとしても、おまえは血を流し
たって許されていないからな︶、少しも神様を知らなかっ
しているのかわからないで、打つという動作に酔ってし
百姓はそれを打つ、猛烈に打つ、ついには自分でも何を
が、ぬかるみに車輪を取られて引き出すことができない。
描写によると、力にあまる重荷をつけられた弱々しい馬
ことで、ロシア式といってもいいくらいだ。この詩人の
ところを歌ったのがある。あんなのは誰の眼にも触れる
は、 百姓が馬の眼を︱︱︱ ﹃すなおな眼﹄︱︱︱を 鞭 で打つ
接的で最も手近な快楽となっている。ネクラソフの詩に
ロシアでは人をなぐって痛めつけるのが、歴史的な、直
のがある。ほとんどこの話に負けないくらいのがあるよ。
しかし、くり返して言うが、ロシアにもやはり独自のも
いって、 首を切り落とすなんてことはばからしい話だ。
たからといって、またその人がお恵みを授かったからと
点にある。ロシアではある人間がわれわれの兄弟になっ
のだ。リシャールの一件のおもしろいところは国民的な
めだといって、新聞雑誌の無料付録として配布されたも
慈善家の手でロシア語に翻訳され、ロシア人民教化のた
パンフレットはロシアの上流社会に属するルーテル派の
むち
の理由で、いとも親切に首をはねたというわけさ。いや
まって、力まかせに数知れぬ笞 の雨を降らすのだ。
﹃たと
むち
実にこの話は外国人の特性をよく現わしているよ。この
391
392
のを見て、
﹃このほうがよくきくだろう﹄なんて喜んでい
きこんであるんだ。親父さんは棒っ切れに節くれがある
を笞 で折檻している︱︱︱このことは僕の手帳に詳しく書
士とその細君が、やっと七つになったばかりの生みの娘
ることができるからね。現に知識階級に属する立派な紳
うに 鞭 をくれたんだよ。ところが、人間でもやはりなぐ
こうダッタン人がわれわれに説明して、それを忘れぬよ
馬というやつは打つために神様から授かったものだ、と、
ど如実に現われている。もっとも、これは高が馬の話だ。
行く、︱︱︱その光景がネクラソフの詩の中に恐ろしいほ
しい足どりで、ひょいひょいと飛び上がりながら引いて
ないで体を斜めに向けるようにして、妙に不自然な見苦
引き出す。そして全身をぶるぶる震わせながら、息もし
る。こちらは夢中になって身をもがき、やっとのことで
うな﹃すなおな眼﹄の上を、百姓はぴしぴしと打ち始め
痩せ馬が身をもがくと、やるせない動物の泣いているよ
い手前の手に負えなくっても、 引け、 死んでも引け!﹄
る。民衆はその折檻者が無罪になったからといって、歓
に動かされて別室へ退き、やがて無罪の宣言が与えられ
現代の恥辱であります﹄とわめきたてる。陪審員はそれ
ありませんか。こんなことが裁判ざたになるというのは、
庭的事件です。父親が自分の娘を折檻したまでの話じゃ
を弁護しようと思って、
﹃これは通常ありがちの簡単な家
心だ﹄などと言っているが、この弁護士が自分の依頼者
る︱︱︱ロシア人は弁護士のことを﹃弁護士はお雇いの良
件が裁判ざたになることもある。すると弁護士が雇われ
時には、そういった鬼のような残酷な所業のために、事
まいには、それもできないで、ぜいぜいいうようになる。
ん、お父さん、お父さん!﹄と泣きわめいているが、し
現われて愉快になってくる。子供は一生懸命に﹃お父さ
て十分間となぐりつけるうちに、だんだん﹃ききめ﹄が
に募っていくのだ。一分間なぐり、五分間なぐり、やが
を重ねるたびに、しだいしだいに激しくなって、級数的
いっていいくらい、熱していく人がある。これが笞の数
とに情欲といっていいくらいに︱︱︱字義どおりに情欲と
むち
るのさ。そして現在に血をわけた娘を﹃やっつけ﹄にか
声をあげるという段取りでな。ちぇっ、僕がその場に居合
むち
かるのだ。僕は正確に知ってるが、なかには一つ打つご
も、博愛心に富み、教養の豊かなヨーロッパ人でござい
のだ。他の有象無象に対するときは、最も冷酷な虐待者
性質がある。それは子供の虐待だ。しかも、子供に限る
ま一度はっきり断言するが、多くの人間には一種特別な
﹃名誉ある官吏で、教養ある紳士淑女﹄なんだよ。僕はい
女の子が両親に憎まれた話というのがある。その両親は
集めてるんだぜ、アリョーシャ。五つになる小っちゃな
ろいのがあるよ。僕はロシアの子供の話をうんとうんと
かし、子供のことなら、僕の収集のなかにもっとおもし
やったんだのに!⋮⋮実にすばらしいポンチ絵だよ。し
の名誉を表彰するために奨励金支出の議案でも提出して
わせなかったのは残念だよ!
かに用便を教えなかったというだけの理由にすぎないの
便所の中へ閉じこめるのだ。それもただ、その子が夜な
は、実に寒々とした厳寒の季節に、その子を一晩じゅう
て、もっとひどい技巧を 弄 するようになった。というの
しまった。しかるに、やがてそれにもいや気がさしてき
しまいには、いたいけな子供の体が一面、紫色になって
やらわからないで、ただむしょうに打つ、たたく、 蹴 る、
がありとあらゆる 拷問 にかけるのだ。自分でも何のため
野獣なのだ。で、その五つになる女の子を教養ある両親
な病気︱︱︱足痛風だとか、肝臓病だとかに取っつかれた
を放たれて抑制を知らない野獣、 淫蕩 のためにいろいろ
れる犠牲者の泣き声に情欲的な血潮をたぎらす野獣、鎖
獣が潜んでいる。それは怒りっぽい野獣、責めさいなま
僕がいたら、その冷酷漢
といった顔をして、いやに 慇懃 で謙
遜 な態度を示すけれ
だ︵いったい天使のような、無邪気にぐっすり寝入って
いんとう
ど、そのくせ、子供をいじめることが大好きなんだ。こ
いる、五つやそこいらの子供が、そんなことを知らせる
ごうもん
の意味において子供そのものまでが好きなのだ。つまり、
知恵があるとでも思っているのかしら︶、 そうして、 も
この親は夜よなかにき
け
子供のがんぜなさが、この種の虐待者の心をそそるのだ。
らしたきたない物をその子の顔に塗りつけたり、むりや
ろう
どことして行く所のない、誰ひとり頼る者もない小さい
りに食べさせたりするのだ。しかも、これが現在の生み
けんそん
子供の、天使のような信じやすい心︱︱︱これが虐待者の
の母親のしわざなんだからね!
いんぎん
忌まわしい血潮を沸かすのだ。あらゆる人間の中には野
393
394
られたものか、説明ができるかい!
この不合理がなく
おまえは、いったい何の必要があってこんな不合理が創
が説明できるかい。僕の弟で、親友で、神聖な 新発意 の
んだよ︱︱
︱え、アリョーシャ、おまえはこの不合理な話
おな涙を流しながら、
﹃神ちゃま﹄に助けを祈ったりする
引きむしられたような胸をたたいたり、邪気のないすな
暗い寒い便所の中でいたいけな 拳 を固めながら、 痙攣 に
いるのかも理解することができない、小っちゃな子供が、
おまえにわかるかい、まだ自分がどんな目に会わされて
聞きながらも、平気で寝ていられるというんだからな!
たないところへ閉じこめられた哀れな子供のうめき声を
たよ。なんでも現世紀の初めごろ︱︱︱農奴制の最も暗黒
よく調べてみなければ、どちらで読んだか忘れてしまっ
読んだばかりなんだ。
﹃書
記 ﹄だったか﹃古
事 ﹄だったか、
話なんだが、つい近ごろ、ロシアの古い話を集めた本で
に意味はない、ただ好奇心のためなんだ。非常に特殊な
﹁もう一つ、ほんのもう一つだけ話さしてくれ。これも別
アリョーシャはつぶやいた。
﹁大丈夫です、僕もやっぱり苦しみたいんですから﹂と
か。もしなんなら、やめてもいいよ﹂
ね、アリョーシャ、なんだか人心地もなさそうじゃない
だけのことだ!
いはしない、僕がいうのはただ子供だけのことだ、子供
のさ。立派な縁者や知友をたくさんもった、きわめて富
しんぼち
スタリナー
認識する必要がどこにあるんだ?
裕な地主であったが、職を退いてのんきな生活にはいる
さてその現世紀の初めごろ、一人の将軍があった
アルヒーフ
おや、僕はおまえを苦しめてるようだ
ては人間は地上に生きて行かれない、なぜなら、善悪を
な時代のことさ、それにしても、かの農奴解放者万々歳
けいれん
認識することができないから︱︱︱などと、人はよく言う
だ!
げても、この子供が﹃神ちゃま﹄に流した涙だけの価も
と共に、ほとんど自分の家来の生殺与奪の権を獲得した
こぶし
けれど、そんな代価を払ってまで、ろくでもない善悪を
ないではないか。僕は大人の苦悩のことは言わない。大
もののように信じかねない連中の一人であった︵もっと
認識の世界全体をあ
人は禁断の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にす
も、こんな連中はその当時でも、あまりたくさんはいな
えじき
るがいい。みんな悪魔の 餌食 になってしまったってかま
395
てて、一晩じゅう牢の中へ押しこめた。翌朝、未明に将
と命じた。で、人々はその子供を母の手もとから引った
か﹄と将軍は子供をふり返って、﹃あれをつかまえい!﹄
ざいますと申し上げると、﹃ああん、 貴様のしわざなん
これこれで子供が石を投げて御愛犬の足を痛めたのでご
うしておれの愛犬は 跛 を引いてるのか?﹄とのお尋ねに、
ちに、誤って将軍の秘蔵の愛犬の足を傷つけたんだ。
﹃ど
でやっと九つになる男の子が、石を投げて遊んでいるう
馬に乗ってるのさ。ところが、ある時、召し使いの子供
に百人ばかりも犬番がついていたが、みんな制服を着て
だ。この家の犬小屋には何百匹という猟犬がいて、それ
の居候か道化のように扱って、威張り散らしていたもの
地に暮らしていて、近隣の有象無象の地主などは、自分
よ。さてこの将軍は、二千人からの農奴のいる自分の領
かったらしいがね︶。しかし、時にはそんなのもいたんだ
﹁銃殺に処すべきです!﹂青白いゆがんだようなほほえ
処すべきではないかえ? 言って御覧よ、アリョーシャ﹂
かな?
で⋮⋮どうだろう?
その将軍はなんでも禁治産か何かになったらしい。そこ
前で、子供をずたずたに引き裂いてしまったんだ!⋮⋮
して狩り立てたのだ。犬どもはたちまちに、母親の眼の
は﹃かかれ!﹄と叫んで、猟犬を残らず放したのだ。そ
勢子どもがどなるので、子供は駆け出した⋮⋮と、将軍
﹃それ、追え!﹄と将軍が下知をする。
﹃走れ、走れ!﹄と
しさにぼうっとなって、口さえきけないありさまなのだ。
供はすっかり丸裸にされて、ぶるぶる震えながら、恐ろ
いの 日和 だった。将軍は子供の着物を 剥 げと命じた。子
い、どんよりした、寒い秋の日のことで、猟には持ってこ
のだ。やがて、子供が牢から引き出されて来た。霧の深
そのいちばん先頭には悪いことをした子供の母親がいる
道徳的感情を満足させるためには、銃殺にでも
この将軍は銃殺にでも処したもの
は
軍は馬にまたがって、本式の狩猟のこしらえでお出まし
みを浮かべて、兄を見上げながら、アリョーシャは小声
ひより
になる。まわりには居候や、犬や、犬飼いや、 勢子 など
で言った。
びっこ
が居並んでいるが、みんな馬に乗っている。ぐるりには、
﹁大出来だ!﹂とイワンはなんだか有頂天になってどなっ
せ こ
召し使いどもが見せしめのために呼び集められている。
396
解などすまいと決心したのだ。何か理解しようと思うと、
いうものにとどまるつもりだ。僕はもうずっと前から理
は、何一つ理解しようとも思わないよ。僕はただ事実と
ているように、イワンは語をついだ、
﹁それに今となって
﹁僕にはなんにもわからないのだ﹂とうわごとでも言っ
﹁兄さんは何を知っているのです!﹂
われは知っているだけのことしか知らないんだ!﹂
かったら世の中には何一つ起こりっこないんだよ。われ
もないことを足場にして立っているんだから、それがな
もないことが必要以上に必要なんだよ。世界はその途方
だ。﹁ねえ、 新発意 先生、 この地上においてはその途方
﹁それそれ、その﹃しかし﹄だよ⋮⋮﹂とイワンは叫ん
﹁僕は途方もないことを言いました、しかし⋮⋮﹂
アリョーシカ・カラマゾフ!﹂
かにだって、そんな小悪魔が潜んでいるじゃないか、え、
んな隠者があったもんだ!
そうらね、おまえの胸のな
た、
﹁おまえがそういう以上はな⋮⋮いや、どうもたいへ
す不幸に陥ることを知りながら、自由を望んで天国から
彼らには楽園が与えられていたのに、自分たちがみすみ
を感ずるのだ。つまり、人間自身が悪いのだよ。もともと
なっているのか、さっぱりわけがわからずに、深い屈辱
のようなやつだから、なんのためにすべてがこんな風に
ことにする。僕はわざと論題をせばめたのだ。僕は南
京虫 浸している一般人類の涙については、もう何も言わない
とばかり例にとったんだ。この地球を表面から核心まで
﹁さあ、聞いてくれ、僕は鮮明を期するために、子供のこ
く沈んできた。
イワンはちょっと口をつぐんだが、その顔は急にひど
長老なんかに譲りはしないよ﹂
から、僕はおまえを見のがしたくないのだ。あのゾシマ
話を運んできたんだ。おまえは僕にとって大切な人間だ
﹁もちろん、言うとも、言おうと思えばこそ、ここまで
して言ってくれませんか?﹂
シャは緊張した調子で悲しそうに叫んだ、
﹁いいかげんに
﹁なんだって、兄さんは僕を試すのです?﹂とアリョー
しんぼち
すぐに事実を曲げたくなるから、それで僕は事実の上に
火を盗んだ。だから、何も哀れむことはないわけだ。僕
ナンキンむし
とどまろうと決心したわけだ﹂
397
だけぐらいしかわからないのだ。しかし、これはユウク
がら、絶えず流動して平均を保っていく︱︱︱ということ
さいのことは、直接に、簡単に、事件から事件を生みな
ては、ここにはただ苦痛があるのみで、罪人はなく、いっ
の貧弱な、地上的な、ユウクリッド式の知恵をもってし
一斉に知る時に、僕もその場に居合わせたいのだ。地上
で見届けたいのだ。つまり、万人がすべてのことがらを
分を殺したものを 抱擁 するところを、ちゃんと自分の眼
ところや、殺されたものがむくむくと起き上がって、自
ためじゃないんだからね。 牡鹿 が獅
子 のそばにねている
この馬の骨かわからないやつの未来の 調和 を 培 ってやる
ハーモニイ つちか
リッド式の野蛮な考えだ。僕にもこれがわかっているか
におけるすべての宗教は、この希望の上に打ち建てられ
限の中のどこかで与えられるというのではいやだ。ちゃ
くば僕は自滅してしまう。しかも、その応報もいつか無
それが何になる?︱︱︱僕には応報が必要なのだ。さもな
るんだ?
に現われているからだ。いいかえ、すべての人間が苦し
は、僕の言わなければならないことが実に明瞭にその中
ほどあるけれど、僕は子供だけを例にとった。というの
決できないのだ。何度でもくり返して言うが、問題は山
をどう始末したらいいのだろう?
し し
ら、そんな考え方で生きていくのは不承知なんだ! いっ
ているのだ。 しかし僕は信仰しているのだ。 ところが、
んと、この地上で、僕の眼の前で行なわれなくてはいや
まなければならないのは、苦痛をもって永遠の調和をあ
おじか
たい、罪人がなくなって、すべてが直接に簡単に、事件
また例の子供だ、いったいわれわれはそんな場合、子供
だ。僕は自分で見たいのだ。もしその時分に死んでいた
がなうためにしても、何のために、子供がそこへ引き合
ほうよう
から事件を生んでいく、という事実が僕にとって何にな
ら、よみがえらしてもらわなくてはならない。なぜって、
いに出されるのだ、お願いだから聞かしてくれないか?
この問題が僕には解
僕のいない時にそれが現われたんでは、あんまり 癪 にさ
何のために子供までが苦しまなけりゃならないのか、ど
またこの事実を知ってるからって、いったい
わるじゃないか。実際僕が苦しんだのは、何も自分自身
ういうわけで子供までが苦痛をもって調和をあがなわな
しゃく
の体や、自分の悪行や、自分の苦行を肥やしにして、ど
398
つて生ありしものとが声を合わせて、
﹃主よ、なんじのこ
く一つの賛美の声となって、生きとし生けるものと、か
わけではないよ!
もしも、天上天下のものがことごと
いか。おお、アリョーシャ、僕はけっして神を 誹謗 する
まだ九つやそこいらのものを、犬で狩り立てたんじゃな
が、しかも、その子供はまだ大きくなってはいないんだ、
いろんな悪いことをするだろうなどと言うかもしれない
また 剽軽 な連中は、子供もやがて大きくなれば、どうせ
あの世に属するもので、僕なんかにはとてもわからない。
関係があるというのが真理ならば、その真理はまさしく
してもし、子供が父のあらゆる悪行に対して、父と連帯
かし、子供とのあいだに連帯関係があるはずはない。そ
連帯関係は僕にもわかる。応報の連帯関係はわかる。し
らなければならないんだ?
人間同士のあいだの罪悪の
骨かわからないやつのために、未来の調和の肥やしにな
ういうわけで、子供まで材料に入れられて、どこの馬の
くてはならないのか、とんとわけがわからないんだ。ど
とわが胸をたたきながら、あがなわれることのない涙を
な調和は、あの臭い牢屋の中で小さな挙を固めて、われ
て、より高き調和などは平に御辞退申し上げるよ。そん
あるあいだに僕は急いで自分自身を防衛する。したがっ
僕はその時にもそれを叫びたくはないのだ。まだ時日の
正しかりき!﹄ と叫ぶことができるかもしれない。 が、
の姿を見ながら、一同と共に、
﹃主よ、なんじのことばは
実際に自分の眼で、わが子の仇敵と抱き合っている母親
か、あるいはそれを見るためによみがえってくるかして、
リョーシャ、ことによったら、僕はそれまで生き長らえる
るあいだに、自分自身で早急に方法を講ずる。ねえ、ア
することができないのだ。で、僕はこの地上に生きてい
ころが、またここへコンマがはいるよ。僕はそれを容認
致が到達され、いっさいのことが明らかになるのだ。と
かりき!﹄と叫ぶ時には、それこそもちろん、認識の極
涙ながらに声をそろえて、
﹃主よ、なんじのことばは正し
息子を犬に引き裂かした暴君と抱き合って、三人の者が
かということも、僕にはよくわかる。また母親が自分の
ひょうきん
とばは正しかりき。なんとなれば、なんじの道の開けた
流して、
﹃神ちゃま﹄と祈った哀れな女の子の一滴の涙に
しんかん
ひぼう
ればなり!﹄と叫んだとき、全字宙がどんなに 震撼 する
399
からだ。この涙は必ずあがなわれなくてはならない、さ
はこの涙があがなわれることなしに打ちすてられている
すら値しないからだ!
を許すわけにはいかないのだ!
ないのだ。たとい、子供自身が許すといっても、その暴君
にされたわが子の苦痛は、けっして許す権利を持ってい
無量の苦痛だけを許してやるがいい。しかるに八つ裂き
なぜ値しないかといえば、それ
もなければ調和などというものはあり得ない。ただ、何
もしも誰もが許す権利を持っていないとすれば、いった
めに必要だというなら、僕は前もってきっぱり断言して
が真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすた
これ以上苦しむことを欲しないのだ。もしも子供の苦悶
あるんだ。僕は許したいのだ、抱擁したいのだ、人間が
になるんだ! 第一、地獄が存在していてどんな調和が
者が苦しめられてしまった暁に、地獄なんかが何の助け
暴虐者のための地獄など、何になるんだ。すでに罪なき
われるというのか? でも、僕には復讐なんか用はない、
らば、できるだけ早くお返しするのが義務なんだよ。だ
場券だけを急いでお返しする。僕が潔白な人間であるな
ふところぐあいに合わないんだよ。だから僕は自分の入
ているから、そんな入場料を払うことは、どうも僕らの
とする。それに調和というやつがあまり高く値踏みされ
ない苦悶と、 癒 やされざる不満の境にとどまるのを潔し
終始したい。たとい僕の考えが間違っていても、やるせ
ないというのだ。僕はむしろ報復されない苦悶をもって
は欲しくない、つまり、人類に対する愛のために欲しく
すという権利を持った人間がいるだろうか?
いどこに調和があり得るのだ?
もしもそうならば︱︱︱
によって、何をもってあがなおうというのだ? いった
おく︱
︱
︱いっさいの真理もそれだけの代償に値しないと。
から僕はそれを実行するのだ。ねえ、アリョーシャ、僕
僕は調和
いったいこの世界に許
それぐらいなら、母親がわが子を犬に引き裂かした暴君
いそれは可能なことであろうか?
母親だっ
ふくしゅう
と、抱擁などしてくれなくってもいいんだ!
は神様を承認しないわけではない、ただ﹃調和﹄の入場
復讐 によってあがな
て、暴君を許す権利はないのだ! もしも、たって望むな
券をつつしんでお返しするだけのことだよ﹂
い
ら、自分だけの分を許すがいい、自分の、母親としての
例のいたいけな拳を固めて自分の胸を打った女の子でも
したら、そのためにただ一つのちっぽけな生き物を︱︱︱
える目的をもって、人類の運命の塔を築いているものと
が最後において、人間を幸福にし、かつ平和と安静を与
に返事をしてくれよ︱︱︱いいかい。仮りにだね、おまえ
だよ。さあ、僕はおまえを名ざして聞くから、まっすぐ
﹁謀叛などで生きて行かれるかい、僕は生きて行きたいん
かったんだが﹂ と、 イワンはしんみりした声で言った、
﹁謀叛? 僕は、おまえからそんなことばを聞きたくな
小声で言った。
﹁それは 謀叛 です﹂と、アリョーシャは眼を伏せながら
ころが、 この人を基礎としてその塔は築かれるのです。
らです。兄さんはこの人のことを忘れていましたね。と
はあの人に代わって、自分で自分の 無辜 の血を流したか
人を許すことができるのです。それというのも、その人
すよ。その人ならばいっさいのことに対して、すべての
だろうかと言いましたね?
今、許すという権利を持ったものが、この世の中にいる
は急に眼を輝やかしながら、こう言いだした。
﹁兄さんは
﹁いや、できません。けど、兄さん﹂と、アリョーシャ
うな考えを、おまえは平気で認めることができるかい?﹂
甘んじて、永久に幸福を享受するだろうなんかというよ
のいわれもない血潮の上に打ち建てられたような幸福に
むほん
いい︱
︱︱是が非でも苦しめなければならない、この子供
この人に向かってこそ、
﹃主よ、なんじのことばは正しか
﹁ああ、それは﹃罪なきただ一人﹄と、あの手の血のこ
む こ
ところが、それがいるんで
のあがなわれざる涙なしには、その塔を建てることがで
りき、 なんとなればなんじの道は開かれたればなり!﹄
らずに言ってくれ!﹂
とだろう!
と叫びもすることでしょう﹂
﹁いいえ、承諾するわけにはいきません﹂と、アリョー
しなかったよ。それどころか、どうしてこの人を引合い
さあ、偽
シャは小声で答えた。
に出さないのかと、長いあいだ不思議に思っていたんだ
どうしてどうして、この人のことを忘れは
﹁それからね、世界の人間が、いたいけな受難者のなん
その建築の技師となることを承諾するかえ?
きないと仮定したら、 おまえははたしてこんな条件で、
400
よ。だってたいていおまえたちは論争のときには、何よ
りも先にまずこの人をかつぎ出すじゃないか。ときには、
アリョーシャ、笑っちゃいけないよ、僕はいつか一年ば
かり前に劇詩を一つ作ったんだ。もしも、僕につき合っ
てもう十分間ほど暇をつぶすことができるなら、一つお
まえに話して聞かしてもいいんだけれど﹂
﹁兄さんが劇詩を書いたんですって?﹂
﹁ううん、どうしてどうして﹂と、イワンは笑いだした、
﹁今までに、かつて二行と詩なんか書いたことはなかった
んだが。その劇詩はただ頭の中で考えて、今もなお覚え
ているというだけの話だ。しかし、熱心に考えたものだ
よ。おまえは僕の最初の読者、いやいや、聞き手なんだ。
全く作者にとってはたった一人でも聞き手は取り逃がし
たくないもんだからな﹂とイワンは薄ら笑いをもらした。
だけれど、おまえに聞いてもらいたいんだよ﹂
﹁僕の劇詩は﹃大審問官﹄というんだ。ばかばかしい物
﹁僕は喜んで聞きますよ﹂とアリョーシャは言った。
﹁話そうか、どうしようかな?﹂
401
五 大審問官
﹁ところで、これには、前置きを省くわけにはいかない
んだよ、つまり、文学的序文というやつをな、ふん﹂と
さて、舞台は十六世紀に起こったことになっ
イワンは笑った、
﹁それにしても、たいした作者になった
ものだ!
ているんだが。それはちょうどあの、︱︱︱もっともこん
なことはおまえも学校で習って、ちゃんと知ってる話だ
が、︱︱︱詩の中で、天上界の力を地上に引きおろすこと
が流行した時代なんだ。 ダンテのことは言わずもがな。
フランスでは裁判所の書記や修院の坊さんが、マドンナ
や、聖徒や、キリストや、神様御自身までも舞台へ引っ
ぱり出して、いろんな芝居をやらせたものだ。当時はそ
ノ ト ル・ダ ム
ド
パ
リ
れがすべて至極単純に取り扱われていたものだ。ユゴオ
︶という外
題 の教化的な演劇が、人民のために無
げだい
jugement de la très sainte et gracieuse Vierge Marie
いとも神聖にして優しき、処女マリヤのねんごろなる
de
Paris
のなかには、 ルイ十一世の時
の Notre-Dame
代に王子誕生祝賀のため、 パリの市会議事堂で Le bon
︵
裁判
いる、実にすさまじい罪人の一群れがある。その連中の
の苦難を目撃するのだ。その中に、火の湖に落とされて
地獄の中の苦難の中を遍歴する。そして聖母が罪人やそ
描写に満ちている。 聖母が大天使ミハイルに導かれて、
いうのがあるが、それはダンテにも劣らぬ大胆な場面の
ア語からの翻訳だが、︶小劇詩に、﹃聖母の苦難の道﹄と
して、ある修院でできた︵と言っても、むろん、ギリシ
れがダッタン侵入時代のことなんだからな、その一例と
には創作にまで手を出す者があったけれど、しかも、そ
りそうした物語の翻訳をやったり、写本をとったり、中
﹃詩﹄が世上に現われたものだよ。ロシアの修院でもやは
る天国の力を必要に応じて活躍させた、いろんな小説や
こうした演劇のほかにも、作中に聖徒や、天使や、あらゆ
同じような劇が、やはりときどき演ぜられていたんだが、
ル大帝以前の昔には主として旧約聖書から題材を取った
みずから舞台に現われて、 そのいわゆる bon jugement
を宣告することになっているのだ。ロシアでもピョート
料で公開されたことが書いてある。この劇では、聖母が
属したことだったろうよ。僕の劇詩でも、キリストが舞
ても、そのころに現われたとしたら、これと同じ部類に
るなんじは正し﹄と叫ぶのだ。ところで、僕の劇詩とし
人たちは地獄の底から主に感謝して、
﹃主よ、かく裁 きた
すべての 苦患 を中止するという許しを得る。すると、罪
毎年神聖金曜日から三位一体祭までの間の五十日間は、
哀願してくれと頼むのだ。そこで、結局、聖母は神から
神の御前にひれ伏して、あらゆる罪人の平等なる赦免を
すべての天使、すべての大天使に向かって、自分と共に
ができようぞ?﹄聖母はすべての聖者、すべての 殉教者 、
して尋ねる、
﹃彼を苦しめた者どもを、どうして許すこと
しない、神はその子キリストの釘づけにされた手足を指
るんだ。聖母は一心に哀願して、かたわらを離れようと
えと哀願する。この聖母と神との対話が非常に興味があ
たすべての罪人に対していっさい平等に 憐憫 をたれたま
身を伏せて、地獄に落ちたすべての人︱︱︱彼女の目撃し
で聖母はそれを見て驚き悲しみながら、神の御座の前に
ことができず、ついに﹃神様にも忘れられる﹄罪人もあ
くげん
れんびん
さば
じゅんきょうしゃ
るのだ、︱︱︱実に深刻な力強い表現じゃないかよ。そこ
なかには、火の湖の底深く沈んで、もはや浮かび上がる
402
403
の感激をもって彼の出現を待っている。おお、さらに大
だ。だが、しかし、人類は以前と同じ不変の信仰と不変
スト自身もまだ地上に生きているころこう言った時から
しますその父のみ知りたもう﹄と予言者もしるし、キリ
を知らず、神の子みずからも知らざるなり、ただ天にま
してから、もう十五世紀もたっている。
﹃われその日と時
らん﹄と言って、みずからの王国へ再び出現すると約束
で、通り過ぎてしまうのだ。彼が﹃われすみやかに来た
台へ出て来るが、なんにも言わずに、ただ現われるだけ
して彼を待ち彼を 愛 しみ、相も変わらず彼に望みをつな
の涙が天国のキリストのもとまで昇って行って、依然と
に残った人々は、さらに熱烈に信じ続けて行った。人類
邪気が不敵にも奇跡を否定し始めたのだ。しかし、信仰
星が﹃水の 源泉 に落ちて水は苦くなりぬ﹄だ。これらの
た。﹃燃
火 のごとき﹄︵つまり教会のごときだ︶大いなる
うどそのころ、北方ゲルマニヤに恐ろしい邪教が現われ
真実さを疑う者が、人類の中に現われだしたのだ。ちょ
悪魔も居眠りをしてはいなかったから、これらの奇跡の
ば、 聖母の訪れを受けたような人々もあった。 しかし、
ともしび
きな信仰をもって待っているのだ。なにしろ人間が天国
いで、神のためには苦しみかつ死ぬべくあこがれていた
みなもと
からの 証 しを見なくなってから、もう十五世紀もたって
のだ、⋮⋮こうして幾世紀も、幾世紀も人類が信仰と熱
いつく
いるんだよ。
情をもって、﹃おお、 主なる神よ、 とくわれらに現われ
あか
あまくだ
たまえ﹄と祈念したため、広大無辺の慈悲をもたれたキ
まだこの地上に生きている義人や、殉教者や、気高い隠
あか
信ぜよ胸のささやきを
リストは、ついに祈れる人々のところへ 天降 ってやろう、
くだ
天よりの 証 し今はなければ、
胸のささやきを信ずるよりほかないわけだよ!
者たちを訪れたということは、それらの人たちの伝記に
という御心になったのだ。その前にも彼は天国を 降 って、
ともその当時にも、多くの奇跡があったのは事実だ。奇
も見えている。わが国でも、自分の言いぐさの真実を深
もっ
跡的な治療を行なった聖者もあったし、その伝記によれ
404
く信じきっていたチュッチェフがこんな風に歌っている。
ちろん、このキリスト降臨は、彼がかつて約束したよう
違っている。けっして、東から西へと輝きわたる、稲妻の
に天国の栄光につつまれて、最後に出現したのとは全然、
十字架の重荷に悩まされ、
ような出現ではないんだ、キリストはほんの一瞬間でも
隷 のすがたに身をやつし、ああ、生みの地よ、
奴
いいから、わが子らを訪れてみようと思ったのだ。そし
しもべ
主キリストは、汝が土のいやはてまでも、
て、いたずらに異教の 輩 を焼く炬火の爆音のすさまじい
こで、キリストはほんのちょっとでも、人類のところへ
それは実際そのとおりだったに違いない、全くだ。そ
民衆の中へ現われたのだ。彼は南方の市の﹃熱き 巷 ﹄へ
だを歩き回ったときと同じ人間の姿をかりて、もう一度、
リストは、十五世紀前に三十三年のあいだ、人類のあい
土地を選んだわけなのだ。きわまりない慈愛をもったキ
みめぐみ
降ってやろうという御心を起こしたんだよ、暗い罪に陥っ
降臨したが、それはちょうど、﹃華麗なる火刑の庭﹄で、
やから
福 をたれたまいつつ、ゆかせたまいぬ
祝
て、苦しみ悩みながらも幼児のように彼を愛慕している
ちまた
人類のところへさ。僕の作はスペインのセヴィリヤを舞
︵
ほとんど百人に近い異教徒が、 ad majorem gloriam Dei
神の栄光を大ならしめんがため ︶ 国王をはじめ、
たいまつ
朝臣や、騎士や、僧正や、艶麗な女官や、その他セヴィ
台にとって、神の栄光のために日ごとに国内に 炬火 が燃
えて、
リヤの全市民の眼の前で、大審問官の僧正の指揮のもと
に、一挙に焼き殺されたあくる日であった、キリストは
華麗なる火刑の庭に
不思議なことに、︱︱︱キリストだとすぐに感づいてしま
こっそりと、人知れず姿を現わしたのだが、人々は︱︱︱
う、 ここが僕の劇詩の中ですぐれた部分の一つなんだ、
おぞましき異教の者の焼かれたる
恐ろしい宗教裁判のときのことを扱ったものなんだ。も
405
んだのだ。と、たちまち眼から 鱗 でも落ちたように、盲
せ、さすれば、あなた様を拝むことができまする﹄と叫
が群集の中から、
﹃主よ、わたくしをおなおしくださりま
だった。と、その時、幼少からの盲目であった一人の老人
端に触れただけで、すべてのものを 癒 やす力が生ずるの
をさし伸べて祝福を与えたが、その体どころか、着物の
こたえるような愛におののく。キリストは人々の方へ手
り、その輝きが人々の上に照り渡り、彼らの心はそれに
太陽はその胸に燃え、光明と力とはその眼からほとばし
たたえながら、黙々として群集の中を進んで行く、愛の
ついて行くのだ。彼は限りない憐憫のほほえみを静かに
取り囲み、しだいに厚い人垣を築きながら、その後ろに
と押し寄せたかと思うと、たちまちにしてそのまわりを
ろがさ。民衆は不可抗力に引きずられて、彼の方へどっ
︱︱︱つまり、どうして人々がそれを感づくかというとこ
た。彼は憐憫の眼でそれを見守っていたが、その口は静
ち止まって、棺は寺の入口へ︱︱︱彼の足もとへおろされ
と彼の方へ両手を差し伸べながら、叫ぶのだ。葬列は立
しゃいますならば、この子を生き返らせてくださいませ﹄
は、主の足もとへ身を投げて、
﹃もし主キリストでいらっ
死んだ子供の母のけたたましい叫び声が聞こえる。彼女
眉をひそめながら、それを眺めている。すると、その時、
が聞こえた。棺を迎えに出た寺僧は、けげんな顔をして
ぞ﹄と、悲嘆にくれた母に向かって、群集の中から叫ぶ声
かたが、あなたの子供さんを生き返らせてくださいます
眠っていた。その幼い死骸は花に埋まっている。
﹃あのお
には、ある有名な市民の一人娘で、七つになる女の子が
に送られて寺院へかつぎこまれるところだった。その棺
た。ちょうどその時、 蓋 をしない小さな白い 棺 が泣き声
ろう?﹄彼はふと、セヴィリヤ寺院の入口に立ち止まっ
﹃これはキリスト様に違いない、キリスト様でなくて誰だ
少女よ、われなんじに言
かん
人には主の顔が見えるようになった。民衆は泣きながら、
かに、あの﹃タリタ・クミ﹄
︵
︶をいま一度くり返した。すると、娘は棺
ふた
彼の踏んで行く土を接吻する。子供たちは彼の前に花を
う、起きよ
い
投げて、歌をうたいながら、
﹃ホザナ!﹄を叫ぶ。
﹃これは
の中で起き上がって坐ると、びっくりしたような眼を大
うろこ
キリスト様だ、キリスト御自身だ﹄とみんながくり返す。
406
て彼の顔は暗くなった。 その白い濃い眉はひそめられ、
へおろされて女の子がよみがえったのを見たのだ、そし
た。彼は何もかも見てしまったのだ、キリストの足もと
正は群集の前に立ち止まると、遠くから様子を眺めてい
警護の士などが、かなりの距離をおいて続いていた。僧
の後ろからは陰気な顔をした補祭や、奴隷や、﹃神聖な﹄
な大僧正の袍
衣 ではなく、古い粗末な法衣であった。そ
焼いたときに、人民の前で着ていたような、きらびやか
光がひらめいている。彼の着物は、昨日ローマ教の敵を
眼は落ちくぼんでいるが、その中にはまだ火花のような
老人で、背の高い腰のしゃんとした人で、顔は痩せこけ
官である僧正が通りかかる。それはほとんど九十に近い
と嗚
咽 が起こる。この瞬間、寺院の横の広場を、大審問
中へ入れてあったものだ。群集のあいだには動揺と叫喚
白ばらの花束が握られていたが、それは彼女と共に棺の
きく見開いて、にこにことあたりを見回す。その手には
ばへ近寄って、明かりをテーブルの上に載せると、口を
じっとキリストの顔に見入っていた。とうとう静かにそ
は入口に立ち止まると、しばらくのあいだ、一分か二分、
来た。彼はたった一人きりで、扉はすぐに閉ざされた。彼
が手に明かりを持って、そろそろと牢屋の中へはいって
深い闇の中で、不意に牢獄の鉄扉があいて、老大審問官
が訪れた。空気は﹃月桂樹とレモンの香に 匂 って﹄いる。
暮れて、暗くて暑い、
﹃死せるがごとき﹄セヴィリヤの夜
きたてて来ると、その中へ監禁してしまった。その日も
の古い建物内にある、陰気で狭苦しい丸天井の牢屋へ引
福しつつ通り過ぎて行く。警護の者は 囚人 を神聖裁判所
りに老審問官の前にひれ伏す。彼は無言のまま一同を祝
でただ一人の人間のように、いっせいに土下座せぬばか
者はキリストに手をかけて引き立てて行く。群集はまる
に し い んと墓場のように静まり返った沈黙の中で警護の
いたので、さっと警護の者に通路をあけた。そして、急
られ、戦々恐々として彼の命に服することに慣らされて
おえつ
眼は不吉な火花を散らし始めた。彼はその指を伸ばして、
きった。
﹃そこに御座るのはキリストかな? キリストか
にお
めしうど
警護の士に向かい、かの者を召し捕れと命令した。彼は
な?﹄しかしなんの答えもないので、すぐにまたつけ足
ほうい
それほどの権力を持ち、群集はあくまでも従順にしつけ
、
、
、
407
も、なぜおまえはわしらの邪魔をしに来たのだ? おま
は何一つ言い足す権利も持っていないのだ。それにして
れにおまえは、もう昔、言ってしまったことよりほかに
の言うことがわかりすぎるくらいわかっているのだ。そ
おまえは何を言うことができよう?
わたしにはおまえ
した、
﹃返事はしないがいい。黙っておるがいい。それに
も、おまえが現代のリアリズムに心酔していて、幻想的
︵ 矛盾 ︶じゃありませんか﹂
pro quo
﹁じゃ、そうしておくさ﹂とイワンは笑いだした、
﹁もし
考え違いなんですか。なんだか本当にはなさそうな、 qui
はただでたらめな 妄想 なんですか、それとも何か老人の
たアリョーシャは、ほほえみながら、こう尋ねた、
﹁それ
いったいそれは何のことです?﹂ずっと黙って聞いてい
それとも贋
物 か、そんなことはどうでもよい、とにかく、
らぬ、また知りたくもない。おまえは本当のキリストか、
う気ちがいじみた観念になっているかもしれない。それ
の老人はもう九十という年なんだから、いいかげんにも
と考えたいというんなら、まあ、そんなことに
pro quo
しといてもいいよ、 ほんとに﹂ と彼はまた笑った、﹁そ
もうそう
えはわしらの邪魔をしに来たのだ。それはおまえにもわ
なことには全然我慢することができないで、それを
明日はおまえを裁判して、邪教徒の極悪人として 火烙 り
に囚人の風貌だって老人の心を打ったはずだからな。い
qui
かっておるはずだ。しかし、おまえが明日どんなことが
にしてしまうのだ。すると今日おまえの足を接吻した民
や、ことによったら、それは九十になる老人の 臨終 のき
わしはおまえが何者かは知
衆が、明日は、わしがちょっと合い図をしさえすれば、お
わのうわごとかもしれない。幻想かもしれない。おまけ
起こるか知っておるかな?
まえを焼く火の中へ、われ勝ちに炭を 掻 きこむことだろ
に昨日火刑場で百人からの異教徒を焼き殺したため、ま
にせもの
おそらく知って
ひあぶ
う、おまえはそれを知っておるのか?
だ気が立ってるのかもしれないよ、しかし、僕にとって
めしうど
いまわ
いられるであろうな﹄と彼は片時も 囚人 から眼を離そう
か
としないで、考えこむような風に、こう言い足したのだ﹂
だろうが、でたら
も、おまえにとっても、 qui pro quo
めな妄想だろうが、それはどうせ同じことじゃないかな、
﹁僕にはなんのことだかよくわかりませんよ、 兄さん、
408
いたかっただけの話さ﹂
腹の中にしまっていたことを、すっかり吐き出してしま
しまいたかっただけの話だ。九十年のあいだ、だまって
要するに、老人は自分の腹の中を、すっかり吐き出して
る権利をもっておるのか?﹄と大審問官はキリストに尋
て来たあの世の秘密を、たとい一つでもわれわれに伝え
ものを読んだことがある。
﹃いったいおまえは、自分が出
いているのだよ。僕は自分でもこの派の神学者の書いた
なくとも、ある時期までは邪魔をしてもらいたくはない﹄
のこ出て来ることだって、よしてもらいたいものだ、少
手に握られているのだ、だから、今ごろになって、のこ
に任せてしまったのじゃないか、今はいっさいが法王の
も僕の意見ではね。
﹃もうおまえはいっさいのことを法王
本質が含まれているといってもいいくらいだ、少なくと
んなら、その中にローマン・カトリックの最も根本的な
足す権利を持っていないと断言しているじゃないか。な
キリストは昔言ってしまったこと以外には、何一つ言い
もね﹂と、イワンはまた笑いだした、﹁老人は自分から、
﹁そりゃあ、そうなくっちゃならないよ、どんな場合で
を見つめながら、一言も口をきかないのですか?﹂
﹁で、囚人はやっぱり黙っているんですか?
は急にこう言い足したのだ、
﹃ああ、この事業はわれわれ
のか﹄と、物思わしげな薄ら笑いを浮かべながら、老人
が 今、 お ま え は 彼 ら の
と、よく言っていたのはおまえではなかったか、ところ
ではないか、あの当時、
年も前から、おまえにとっては何より大切なものだった
ら。しかも、人民の自由は、まだあのころから、千五百
犯すものだ。なぜならば、それは奇跡として現われるか
伝えようとしていることは、すべて人民の信仰の自由を
自由を、人間から奪わないためだ。おまえが、今新しく
おまえがまだこの地上におったころ、あれほど主張した
とばに、何一つつけ足すことができないためだ。それは、
や、少しも、もっていない。それはおまえが前に言ったこ
ねておいて、 すぐ自分で彼に代わって答えたのだ、﹃い
相手の顔
と、こう言うのさ。こんな意味のことを少なくともエズ
にとって高価なものについた﹄いかめしい 眼眸 で相手を
自由な
まなざし
姿を見たのではない
われなんじらを自由にせん
イタ派の連中は、口で言うばかりではなく、本にまで書
409
﹁けっしてそうじゃないんだ、彼はついに自由を征服し
ているんですか?﹂
さえぎった、
﹁老人は皮肉を言ってるんですか、あざけっ
﹁僕は、またわからなくなりましたよ﹂とアリョーシャが
な自分ではなかったのか﹄と言ったのだ﹂
まえが望んだのはこんなことではなかったのかい、こん
れど、それを成し遂げたのはわれわれなのだ。そしてお
ごろにわれわれの足もとへそれを置いてくれたのだ。け
みずから進んでわれわれに捧げてくれた。そして、ねん
なったと信じておるのだ。しかも、その自由を、彼らは
今、いつにもまして、現に今、自分たちが完全に自分に
となげないというような顔をしておる、しかし、人民は
はつつましやかにわしを見つめたまま、憤慨するのもお
完成したといっても本当にはしないだろうな? おまえ
やっと今は完成した。立派に完成した、おまえは立派に
のあいだ、われわれはこの自由のために苦しんできたが、
はおまえの名によって、この事業を完成した。十五世紀
見つめながら、彼はことばを続けて、
﹃だが、今われわれ
﹁﹃恐ろしくて、しかも賢明なる精霊が﹄と老人は語り続
﹁そこが老人の言おうとした肝心な点なんだよ。﹂
のことでしょう?﹂と、アリョーシャは聞いた。
﹁注意や警告を飽くほど受けた、というのはいったい何
れわれの邪魔をしに来たのだ?﹄﹂
あげるというわけにはいかぬ。なんのためにおまえはわ
もちろん、今となっては、その権利はわれわれから取り
り解いたりする権利をわれわれに授けてくれた。だから、
行った。おまえはその口から誓って、人間を結びつけた
の世を去るときに、自分の事業をわれわれに引き渡して
まったではないか。しかし、仕合わせにも、おまえがこ
間を幸福にすることのできる唯一の方法をしりぞけてし
を飽くほど聞かされながら、それに耳をかさないで、人
リストに向かって言ったのだよ︱︱︱おまえは注意や警告
ると思うか?
と反逆者にできあがっておるのだが、反逆者が幸福にな
考えることができるようになったからだ。人間はもとも
は審問のことを言ってるんだよ︶、はじめて人間の幸福を
柄だと思っているのさ。﹃なぜなら、 今 ︵もちろん、 彼
おまえはよく警告を受けた︱︱︱と彼はキ
て、人民を幸福にしてやったのを、自分や仲間の者の手
410
荒野でおまえと問答をしたことがあるだろう、書物に書
けるのだ、﹃自滅と虚無の精霊︱︱︱偉大なるあの精霊が、
荒野でおまえに発した、三つの問いに匹敵するようなも
たところで、力と深みにおいて、かの強くて賢い精霊が
たとする。そうしたら世界じゅうの知恵を一束にしてみ
試みた
こと
いてあるところでは、 それがおまえを
のを考え出すことがはたしてできるかどうか、それはお
哲人、詩人などを呼び集めて、さあ三つの問いをくふう
とする。そのために世界の賢人︱︱︱政治家、長老、学者、
入れるため新たに考案して書き上げねばならなくなった
てしまったとして、再びこれを元どおり書物の中へ書き
精霊の三つの問いが、書物の中から跡かたもなく消失し
中に奇跡が含まれているのだ。もし仮りにこの恐ろしき
なわれる時があるとすれば、それこそあの三つの試みの
ろう? もしいつかこの地上で、本当に偉大な奇跡が行
ることば以上に、より真実なことが何か言い得られるだ
否 定 せ ら れ た あ の、 書 物 の 中 で
に、この三つの問いの中にいっさいのことが想像されて、
た今日になってみれば、もはや抜き差しならぬほど完全
よくわからなかったのだけれど、それから十五世紀を経
を測り知ることはできないから、その当時こそ、それは
三つの形態が現われているからである。もちろん、未来
地上における人間性の歴史的矛盾をことごとく包含した、
史が、完全なる一個のものとなって凝結しているうえに、
か。なぜなら、この三つの問いの中に人間の未来の全歴
知を向こうに回している、ということがわかるではない
断しても、移りゆく人間の知恵でなくて、絶対不滅の英
の問いだけから判断しても、その実現の奇跡だけから判
しかし、
になるのだそうだ。 それは本当のことかな?
まえにだってわかりそうなものではないか?
して作り出してくれ、しかし、それは事件の偉大さに適
予言されて、しかもその予言がことごとく的中している
この三つ
その精霊が三つの問いの中でおまえに告げて、おまえに
合しているのみならず、ただ三つのことばでもって、三
ことが、よくわかるではないか。
と呼ばれてい
つの人間のことばでもって、世界と人類の未来史をこと
﹃いったいどちらが正しいか、自分で考えてみるがよい
試み
ごとく表現していなくてはならぬ、という問題を提出し
411
︱︱︱おまえ自身か、それともあの時おまえに質問をした
て勝利を博するのだ。そしてすべてのものは、
をもって、地の精霊がおまえに反旗を翻し、おまえと戦っ
人民の自由を奪うことを欲しないで、その申し出をしり
しておるに違いないぞ
と言った。ところが、おまえは
か、とそのことばかりを気づかって、絶えず戦々恐々と
うしておまえが手を引いて、パンをくれなくなりはせぬ
従順な羊の群れのように、おまえの後を追うだろう、そ
がこの石をパンに変えることができたら、人類は上品で
き出しになって焼け果てた荒野の石を見よ。もしおまえ
由ほど耐えがたいものは他にないからである! このむ
て恐れている。なぜなら、人間や人間社会にとって、自
人間は、その約束の意味を悟ることができないで、かえっ
空手で出かけようとしている。しかし生来単純で粗野な
うとしている、しかも自由の約束とやらを持ったきりで、
れぬが、こういう意味だった。
け短縮することができるはずなのだ。なぜならば、彼ら
この新しい塔の建築を差し止めて、人類の苦痛を千年だ
に落成することはあるまいが、それにしても、おまえは
築かれるのだ。もっとも、この塔も以前の塔と同じよう
い建築ができる。そしてさらに恐ろしいバビロンの塔が
の寺を破壊するのだ。おまえの寺の跡には、やがて新し
おまえに向かって暴動を起こす。そしてその旗がおまえ
らに善行を求めよ!
をおまえは知らないのか。
ただ飢えたる者があるばかりだ、と公言するだろうこと
知恵と科学の口をかりて、犯罪もなければ、罪障もない、
まえは知らないのか。長い年月の後に、人類はおのれの
ものなり
に似たるものこそ、天より火を盗みてわれらに与えたる
この獣
ものか? 第一の問いはどうだろう、ことばは違うかもし
ぞけてしまった。おまえは、もし服従がパンで 購 われた
は千年のあいだ、自分の塔のために苦しみ通したあげく、
おまえは世の中へ行こ
ものならば、どうして自由が存在し得るか、という考え
われわれの所へ帰って来るに違いないからだ!
そのと
と書いた旗を押し立てて、人々は
食を与えよ、しかる後われ
と絶叫しながら、その後に従って行くのをお
だったのだ。そのときおまえは人はパンのみにて生くる
き彼らは再び地下の墓穴の中に隠れているわれわれを捜
あがな
ものにあらずと答えたが、しかし、この地上のパンの名
412
火を取って来てやると約束した者が、嘘をついたのです
わたくしどもに食物をください、わたくしどもに天国の
るからだ︶
。彼らは捜し出したらわれわれに向かって、
し出すだろう︵われわれは再び迫害を受け、苦しめられ
したが、何度もくり返すようだが、はたしてあの無力で、
いことも悟るだろう。おまえは彼らに天上のパンを約束
値な暴徒にすぎないのだから、けっして自由になり得な
いに決まっているから、また彼らは無力で、不徳で、無価
ことのできるのは、彼らに食を与える者のみで、われわ
の塔を落成さしてやるのだ。なぜなら、それを落成さす
からついて行くにしても、天上のパンのために地上のパ
し幾千万の人間が、天上のパンが欲しさに、おまえの後
上のパンが地上のパンと比べものになるだろうか?
永久に不徳な、永久にげすばった人間の眼から見て、天
れはおまえの名をもって、彼らに食を与えてやるからだ。
ンを捨てることのできない幾百、幾千万の人間は、いっ
と絶叫するだろう。その時、はじめてわれわれが彼ら
しかしおまえの名をもってと言うのは、ほんの出まかせ
たいどうなるというのだ?
は、立派な、力強い幾万かの人間だけで、その他の弱い、
それともおまえに大切なの
よ
にすぎないのだ。そうとも、われわれがいなかったら、彼
らは永久に食を得ることができないのだ!
けれどもおまえを愛している幾百万の人間、いや、浜の
彼らが自由
であるあいだは、いかなる科学でも彼らにパンを与える
砂 のように数えきれない人間は、すぐれた力強い人間
真
まさご
ことはできない。結局、彼らは自分の自由をわれわれの
いや、われ
われには弱い人間も大切なのだ、彼らは不徳漢で反逆者
の材料とならなければならぬというのか?
もかまいませんから、どうか食べ物をください
ではあっても、最後にはかえってこういう人間が従順に
わたくしどもを奴隷になすって
ようになるだろう。つまり、自由とパンとはいかなる人
なるのだ。彼らはわれわれに感嘆して、神とまで 崇 める
足もとに投げ出して、
間にとっても、両立しがたいことを、彼らはみずから悟
に至るだろう。なぜならば、われわれは彼らの先頭に立っ
という
るだろう。実際どんなことがあっても、けっして彼らは自
て、彼らの恐れている自由に甘んじて耐えて、彼らの上
あが
分たちのあいだで、うまく分配するということができな
413
うべな
してわれわれはまた彼らを欺くが、もはや断じておまえ
はキリストの御名によるのだ、と言って聞かせる。こう
ストに従順なものだから、おまえたちの上に君臨するの
かしわれわれは彼らに向かって、自分たちもやはりキリ
自由になることを恐ろしいと感じだすに違いない!
しないのだ。この共通な崇拝の要求が、この世の初まり
どうしても、
ずくことのできるような者を捜し出すことにあるのだ。
を求めるだけではなく、万人が信服してその前にひざま
らの哀れな被造物の心労は、めいめい勝手な崇拝の対象
な、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。これ
打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るよう
を自分たちのそばへ近づけはしないのだ。この偽りのな
から、各個人および全人類のおもなる苦悩となっている。
に君臨することを諾 うからだ。かくして、結局、彼らは、
かにわれわれの苦悩がある。しかもわれわれは偽らざる
崇拝の共通ということのために、彼らは互いに剣をもっ
し
を得ないのだ。荒野における第一の問いはこういう意味
て 殺戮 し合った。彼らはおのおのの神を創り出して互い
というのだ。これは世界の終わるま
おまえたちの神を崇めな
でなければ承知
を持っているのだ。おまえは自分が何にも増して尊重し
に招き合っている。つまり、
すべての人といっしょ
た自由のために、これだけの物を拒否したのだ。さらに、
いか、そうしなければ、おまえたちもおまえたちの神も
さつりく
この問題のうちには、この世界の大きな 謎 が潜んでいる
死あるのみだぞ!
なぞ
のだ。 おまえがもし ﹃地上のパン﹄ を受け入れたなら、
拝すべきか?
も、ひざまずくだろうから。おまえはこの人間性の根本
まった時でも、やはり同じことだ。彼らは偶像の前にで
でこのとおりだ。神というものが地上から消え失せてし
になったのだ。自由になった人間にとって、最も苦しい、
の秘密を知っていたろう、いや知らないはずはない。と
何人を崇
しかも絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇むべき者
ころが、おまえはすべての人間を無条件で自分の前にひ
個人および全人類に共通な永遠の悩み、︱︱︱
を捜し出すことである。しかし、人間という者は議論の
ざまずかせるため、精霊がおまえにすすめた唯一絶対の
という疑問に対して、回答を与えること
余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく
414
その時こそは、おまえのパンを捨てても、人間は自分の
人間の良心を支配する者が出現した暁には、 ︱︱︱おお、
なものはないからだ。が、もしその時、おまえのほかに、
ざまずくに決まっている。なぜといって、パンほど確実
だから、パンさえ与えれば、人間はおまえの足もとにひ
で、おまえにはパンという絶対的な旗幟が与えられたの
の良心を安んずることのできる者に限ることだ。ところ
のだ。それにしても、人間の自由を支配し得るのは、彼
ていて、この苦しみほど人間にとって切実なものはない
うとして、その相手を捜し出すことにきゅうきゅうとし
けられている自由の賜物を、いちはやく誰かに譲り渡そ
り、人間という哀れな生き物は、生まれ落ちるとより授
行なったではないか!
わしがおまえに言っておるとお
るがよい。何事によらず、例によって、自由の名をもって
それからさきにおまえはどんなことをしたか、考えてみ
だ、しかも天上のパンの名をもって拒否したではないか。
旗幟︱︱
︱つまり地上のパンという旗幟︱︱︱を拒否したの
なったと同じ結果になってしまった、しかも、それが誰
え、おまえの行為は全然人類を愛することなくして、行
い、人間の力にはそぐわぬ代物を取って与えた。それゆ
ありとあらゆる異常な謎のような、しかも取り留めもな
は人間の良心を永久に慰める確固たる根拠を与えないで、
れほどまた悩ましいものもないのだ。しかるに、おまえ
ては、良心の自由ほど愉快なものはないのだけれど、こ
のであることを忘れたのか?
の認識界における自由の選択よりは、はるかに高価なも
にとって、安らいのほうが時としては死でさえも、善悪
を増してやったではないか!
自由を支配するどころか、かえっていっそう彼らに自由
う。ところが、実際はどうであったか。おまえは人間の
を選んだに相違ない。これは確かにそのとおりだったろ
せずに、こんな地上にとどまるよりは、むしろ自殺の道
とえ周囲にパンの山を積まれても、生くることを楽しと
に生きるかという確固たる観念がなかったら、人間はた
の神秘はただ生きるということに存するから。何のため
それは、むろん人間とし
それとも、おまえは人間
良心を 籠絡 する者について行くに違いない。この場合に
かといえば、人類のために一命を役げ出した人なのだ!
ろうらく
おいてはおまえも正しかったのだ。なぜなら、人間生活
415
と、とても解決のできない問題を課したため、人間は困
ようになる。というのは、おまえがあまりに多くの心労
至る。 そして
と叫ぶ
れば、ついにはおまえの姿やおまえの真理を排斥するに
自由というような、恐ろしい重荷が人間を圧迫するとす
こんなことを考えはしなかったか、︱︱︱もしも、選択の
おまえの姿が彼らの前にあるだけなのだ。だがおまえは
ければならなくなった。 しかも、 その指導者としては、
意志によって何が善で何が悪であるかを、一人で決めな
これからさき、確固たる古代の 掟 を捨てて、自分の自由
いて来るために、人間に自由の愛を求めたのだ。人間は
でそそのかして 俘 にした人間が、自由意志でおまえにつ
王国の負担を多くしてやったではないか。おまえは自分
自由を多くして、その苦悩によって永久に、人間の心の
おまえは人間の自由を支配しようとして、かえってその
ことをしなかった。それはもちろん、おまえは神として
ぞけ、かかる術策に引っかかって下へ身を投げるような
だ
し、天なる父に対するおまえの信仰のほども知れるわけ
の時おまえは自分が神の子かどうかを知ることができる
に受け止めてもらう人の話が本にも書いてあるから、そ
なら、下へ落ちて身を粉砕しないように
子か否かを知りたいなら、試みに下へ飛んでみよ。なぜ
えを宮殿の頂きに立たせて、
例を作った。あの恐ろしくも、おぞましい精霊が、おま
おまえは第一も第二も第三も拒否して、みずからその先
ないのだ。その力というのは、奇跡と神秘と政権である。
にすることのできる力は、この地上にたった三つより
俘 ない反逆者の良心を、彼らの幸福のため永久に征服して、
か?
がすすめられたのは、はたしてこんなことであったろう
真理はキリストの中にはない
しかし、おまえはそれを聞くと、そのすすめをしり
、中途で天使
もしも、 おまえが神の
ここに三つの力がある。つまり、これらのいくじ
惑と苦痛の中にとり残されたからだ。実際、これ以上に
の誇りを保って、立派にふるまったに違いない。しかし
とりこ
残酷なことはとてもできるものではない。こうしておま
人間は︱︱︱あのいくじのない反逆者の種族はけっして神
とりこ
えは自分で自分の王国の崩壊する根本を作ったのだから、
ではないからな。おお、もちろんあの時、おまえがたった
おきて
誰も他人をとがめることはできない。とはいえ、おまえ
416
信仰を失い、おまえが救うためにやって来た土に当たっ
たのなら、神を試みたことになって、たちまちすべての
一足でも前へ進み出て、下へ身を投ずる構えだけでもし
して、果ては 祈祷師 の奇跡や、 巫女 の 妖術 まで信ずるよ
ことができないから、自分で勝手に新しい奇跡を作り出
らなかったのだ。人間というものは奇跡なくして生きる
ろ奇跡を求めているのだから、︱︱︱この 理 をおまえは知
ことわり
て粉砕し、おまえを誘惑したさかしい精霊を喜ばしたに
うになる。そして相手が百倍もひどい悪党で、邪教徒で、
ようじゅつ
違いない、わしはそれを知っていたのだ。が、くり返し
不信心者であっても意としないのだ。おまえは多くの者
で神と共に暮らすだろう、そんなことを当てにしていた
べての人間も自分の例にならって、奇跡を必要としない
み、地の果てまで伝えられることを知っていたので、す
のだ。おまえは自分の言行が書物に記録されて、時の窮
自由な心の決定にのみ頼って行くようにはできていない
い、根本的な、苦しい精神的疑問の湧き起こった瞬間に、
のような生死に関する恐ろしい瞬間に、︱︱︱最も恐ろし
跡を否定するようにはできていないのだ。いわんや、そ
考えることができたか?
い。あんなやつらをおまえは自分と同じ高さまで引き上
う十五世紀も過ぎたのだから、よく人間を観察するがよ
違いないからだ。まあよく観察して判断するがよい。も
は天性彼らは暴徒にできあがっていても、やはり奴隷に
しおまえは人間をあまりに高く見積りすぎたのだ。それ
心に奴隷的な歓喜を呼び起こしたくなかったのだ。しか
自由な愛を渇望したが、恐ろしい偉力によって、凡人の
由な信仰を渇望したから、おりなかったのだ。おまえは
たしても人間を奇跡の奴隷にすることを潔しとせず、自
時、おまえは十字架からおりて来なかった。つまり、ま
と、ひやかし半分にからかった
十字架からおりてみろ、そうしたらおまえが神で
こ
て言うが、いったいおまえのような人間がたくさんにい
が、
み
るだろうか? このような誘惑を持ち耐える力がほかの
あることを信じてやる
きとうし
人間にもあるなどと、おまえは本当にただの一分間でも
のだ。けれども、人間は奇跡を否定すると同時に、ただ
げたのだ。わしは誓って言うが、人間はおまえの考えた
人間の本性というものは、奇
ちに神をも否定する。なぜならば、人間は神よりもむし
417
それは赤ん坊か小学生の自慢だ。それは教室で騒動を起
て、それを誇りとしているがそんなことはなんでもない。
だ。今彼らはいたるところで、われわれの教権に反抗し
くて済んだわけだ。人間というものは弱くて卑しいもの
るかに愛に近かったに違いない。つまり人間の負担も軽
くのものを要求もしなかったろう。そしてこのほうがは
えがあれほど彼らを尊敬さえしなかったら、あれほど多
おまえのなすべきことといえるだろうか?
もしもおま
らである。 これが人間を自分の身より以上に、 愛した、
れはおまえがあまりにも多くのものを彼らに要求したか
彼らに対して同情のないものになってしまったのだ。そ
んなに人間を尊敬したために、かえっておまえの行為は
まえのしたと同じことが人間にできると思うのか?
あ
いったいお
千人ずつあったといっておる。しかし、それほど多くの
ての人を見たが、その数はあらゆる種族を通じて一万二
者はその幻想と 譬喩 の中で、最初の復活に参与したすべ
れた、今の人間の運命なのだ!
由のためにあれだけの苦しみを忍んだ後で彼らに与えら
えに、不安と惑乱と不幸と︱︱︱これがおまえが彼らの自
分にその 復讐 をするに決まっているからだ。かかるがゆ
冒涜を耐え忍ぶことのできないもので、結局、自分で自
そう不幸に陥るだろう。それは、人間の本性がとうてい、
ばは神を 冒涜 するものとなり、それによって彼らはいっ
がこんなことを言いだすのは絶望に陥った時、そのこと
なく自分たちを冷笑するためだと自覚するだろう。彼ら
流しながら、自分たちを暴徒として創った者は、疑いも
徒にすぎないことを悟るだろう。やがては、愚かな涙を
最後まで反抗を持続することのできない、いくじない暴
より、はるかに弱くて卑劣なものなのだ!
こして、教師を追い出すちっぽけな子供なのだ。しかし
者がいたとしても、それは人間ではなくて神であったと
ふくしゅう
ぼうとく
今にそんな子供らしい喜びは終わりを告げて、それに対
いってもいいくらいだ。彼らはおまえの十字架を耐え忍
いなご
おまえの偉大なる予言
して彼らは高い支払いをしなければならない。彼らは寺
び、荒れ果てた不毛の広野の幾十年を、 蝗 と草の根によっ
ゆ
院を破壊して地上に血を流すことだろう。しかし、結局
て露命をつないできたのだから、 もちろん、 自由の子、
ひ
はこの愚かな子供たちも、 自分らは暴徒とはいっても、
418
きなかったとて、弱い魂を責めるわけにはいくまい。そ
う? そのような恐ろしい賜物を、受け入れることがで
ぶことができなかったからとて、彼らになんの罪があろ
の耐え忍んだことを、他の弱い人間が同じように耐え忍
る。あとの人間はどうなるのだ?
そうした偉大な人々
はわずか数千人の、しかも神ともいうべき人間だけであ
とができるだろう。しかし、考えてもみるがいい。それ
となった子として、大威張りでこれらの人々を指さすこ
自由な愛の子、おまえの名のために自由と偉大なる犠牲
類を愛したことにならぬのだろうか?
とであっても大目に見て許してやったのが、はたして人
減らしてやり、弱い彼らの本性を、たといそれが悪いこ
が優しく人間の無力を察して、情をもって彼らの重荷を
ているかどうか、ひとつ聞かせてもらいたい。われわれ
を喜んだのだ。われわれがこんな風に教えたのは間違っ
ろしい贈り物を、ついに取りのけてもらえる時が来たの
れる者ができ、それほど彼らに苦痛をもたらしたあの恐
ると民衆は、再び自分たちを羊の群れのように導いてく
て、それを奇跡と神秘と教権の上にすえつけたのだ。す
ただ一つの神秘あるのみだ、すべての人間は自分の良心
ものは良心の自由なる判断でもなければ、 愛でもなく、
れは神秘を伝道して、彼らに向かって、いちばん肝要な
からないことだ。しかし本当に神秘だとすれば、われわ
だとすれば、それこそ神秘で、もはや、われわれにはわ
る者のもとへ来たのにすぎなかったのか?
必要もない。 それともわしが今、 誰と話をしているか、
のだから。それにわしは、何もおまえに隠しだてをする
欲しくはない、わしのほうでもおまえを愛してはいない
怒るのなら勝手に怒るがよい、わしはおまえの愛なんか
じっと見抜くように、黙ってわしを見つめておるのだ?
やって来たのだ?
は、今ごろになってなんのためにわれわれの邪魔をしに
いったいおまえ
れともおまえは、ただ選ばれたる者のために、選ばれた
にそむいてまでも、この神秘に盲従しなければならない
知らないとでも思うのか?
仮りにそう
と教える権利を持っているわけだ。実際われわれはその
ることは、何もかもおまえにわかっているはずだ。それ
わしが今言おうと思ってい
どうしておまえはそのやさしい眼で
とおりにしてきた。われわれは、おまえの事業を訂正し
419
その完成はまだまだ長く待たねばならぬし、まだまだこ
期の状態にあるけれど、とにかく緒についてはいるのだ。
れの罪ではない。この事業は今日に至るまで、ほんの初
を十分に完成することはできなかったが、それはわれわ
一の王者だと宣言したのだ。もっとも、いまだこの事業
ローマとシーザーの剣を取って、われわれこそ地上の唯
すすめた最後の賜物だったのだ。われわれは彼の手から
のだ。それは地上の王国を示しながら、やつがおまえに
らおまえが憤然としてしりぞけたところのものを取った
ているのだ。ちょうど八世紀以前、われわれは彼の手か
世紀のあいだもおまえを捨てて、やつといっしょになっ
れの秘密だ! われわれはすでにずっと前から、もう八
間はおまえでなくてやつ︵悪魔︶なのだ。これがわれわ
れぬ。それなら、聞かせてあげよう。われわれの仕事仲
と、おまえはぜひわしの口からそれが聞きたいのかもし
まえにわれわれの秘密を隠そうとは思わぬ。ことによる
はおまえの目つきでちゃんと読める。しかし、わしはお
宙を併合しようと努力した。そして、これらの人々も無
な征服者は、さながら旋風のように地上を 席捲 して、宇
からである。チムールやジンギスカンというような偉大
い者ほど、人類の世界的結合の要求をより激しく感じる
不幸になってゆくのだった。というのは人にすぐれて強
れらの国民は高い地歩を占めれば占めるほど、いっそう
持った偉大なる国民が多くあったにはあったけれど、こ
常に世界的に結合しようと努力している。偉大な歴史を
してかつ最後の苦悩だからである。全体としての人類は
ある。なぜというに、世界的結合の要求は、人間の第三に
の人が世界的に一致して、 蟻塚 のように結合する方法で
い換えれば、 崇 むべき人と良心を託すべき人と、すべて
ているいっさいのものを満たすことができたはずだ。言
三の勧告を受け入れていたなら、人類が地上で捜し求め
物をしりぞけたのだ?
ることができたのだ。どうしておまえはこの最後の贈り
だ。ところが、おまえはまだあの時にシーザーの剣を取
がては人類の世界の世界的幸福を企てることができるの
ありづか
せっけん
おまえがこの偉大なる精霊の第
の地球も多くの苦しみをなめなければならないが、しか
意識にではあるが、やはり、人類の世界的結合の要求を
あが
し結局、その目的を貫徹してわれわれは皇帝となり、や
420
だから、彼らはついに人肉啖食で終わるのは当然なのだ。
れわれの力をかりずして、バビロンの塔を建て始めたの
くだろう。まさしく人肉啖食だ。なぜなら、彼らは、わ
の放
肆 きわまりなき時代が、まだこのうえに幾世紀も続
行った。おお、人類の自由な知恵と、科学と、 人肉啖食 われわれはもちろん、おまえを捨ててやつの後について
でなくしては、 人類を支配することができないからだ。
を支配し、かつ、人類のパンをその手に把握している者
定することができるのだ。なぜというのに、人類の良心
そ、はじめて、世界的王国を建設して、宇宙的平和を設
表現したのだ。全世界とシーザーの紫色の 袍 をとってこ
に服従したとき、はじめて彼らは幸福になれるのだとよ
彼らがわれわれのために自分の自由を捨てて、われわれ
では、それが随所に行なわれている。おお、われわれは、
者もなくなるのだ。これに反して、おまえの自由の世界
になって、もはや反逆を企てる者も、互いに殺傷し合う
ではないか。ところが、われわれのほうでは万人が幸福
すに違いない。しかし、おまえ自身もこの反旗を翻した
う。そしてついには、おまえにそむいて自由の反旗を翻
へ移してしまっている。まだこれからも移してゆくだろ
くたびれて、自分の精神力や情熱をまるで見当違いの畑
者になり得る強者の多くは、もはやおまえの出現を待ち
ことではない、これらの選ばれた者どもや、選ばれたる
ほう
しかし、最後には、この獣が、われわれのもとへはい寄っ
く皆の者に言い聞かしてやろう。ところで、どうだろう、
うか?
じんにくたんしょく
て、われわれの足をなめまわしながら、血の涙を注ぐこ
われわれの言うことは正しいだろうか、正しくないだろ
挙げる。そして、その杯には
とを悟るに違いない。それは、おまえの自由のおかげで、
ほうし
とだろう。そこで、われわれはその獣にまたがって杯を
だろう。しかし、その時になって、はじめて平和と幸福
どれほど恐ろしい奴隷状態と混乱に落とされていたかを
いや彼ら自身でわれわれの言うことが正しいこ
の王国が人類を訪れるのだ。おまえは自分の選ばれた者
思い出しさえすれば十分だからな。自由だとか、自由な
と書かれている
ども以外にはないのだ。ところが、われわれは、すべて
知恵だとか、科学だとかは、彼らをものすごい渓谷に連
神秘
の者をいこわせることができる。まだまだそれくらいの
421
足もとへはい寄って、こう叫ぶのだ、
あなたがたは正
の他のいくじのない不仕合わせな者たちは、われわれの
し、頑固であっても弱い者は互いに滅ぼし合うだろう、そ
せるため、彼らのうち 頑強 で獰
猛 な者は自殺してしまう
れこんで、恐ろしい奇跡や、解きがたい神秘の前に立た
の群れを散り散りにして、不案内な道へ追いやったのは
ないようにしたのは第一誰なのか、それが聞きたい。羊
らはいつまでも不幸なのだ。だが、これを彼らに知らさ
解するに違いない! この理に合点のゆかぬあいだは、彼
んな意味を持っているかも、彼らは理解し過ぎるほど理
悟っているからである。永久に服従するということがど
くしどもを自分自身から救ってくださいまし
彼らの本来の性質たるいくじのない動物としての幸福を
れわれは彼らに穏やかなつつましい幸福を授けてやる。
どうもう
しゅうございました。あなたがたのみがキリストの神秘
誰だ?
われわれは彼ら自身の得たパンをその手から取り上げる
授けてやるのだ。おお、われわれは最後に彼らを説き伏
がんきょう
を持っていらっしゃいます。でありまするから、わたく
度こそ永久に服従することだろう。その時になって、わ
と、石をパンに変えるというような奇跡などは何も行な
せて、けっして誇りをいだかないようにしてやる。つま
でも、羊の群れもまた再び呼び集められて、今
しどもはあなたがたのところへ帰ります。どうか、わた
わないで、再び彼らにそれを、分配してやる、彼らはパ
り、おまえが彼らの位置を高めるために、彼らに誇りを
そこで、
ンを受け取る時に、このことをはっきり承知しているけ
おまえたちはいくじなしで、ほんの哀れな子供のような
教えこんだからだ。 そこでわれわれは彼らに向かって、
れをわれわれの手から受け取るということなのだ!
ものだ、そして子供の幸福ほど甘いものはないと言い聞
れど、彼らが喜ぶのはパンそのものよりも、むしろ、そ
ぜならば、以前われわれのいなかったころには、彼らの
かせてやる。すると、彼らは臆病になって、まるで巣に
な
得たパンがその手の中で石ころになってしまったが、わ
ついた 牝鶏 に雛 が寄り添うように、恐ろしさに震えなが
ひな
れわれのところへ帰って来てからは、その石がまた彼ら
ら、われわれのほうへ身をすり寄せて、われわれを振り仰
めんどり
の手の中で元のパンになったことを、悟りすぎるくらい
422
れを愛するようになる。どんな罪でもわれわれの許しさ
ら、罪を犯すことを許してやると、子供のようにわれわ
らに罪悪をも許してやる。彼らは弱々しい力ない者だか
戯を催してやるようなものだ。もちろん、われわれは彼
ない踊りの生活を授けてやる。ちょうど子供のために遊
暇なときには彼らのために子供らしい歌と合唱と、罪の
るのだ。むろん、われわれは彼らに労働を強いるけれど、
身も軽々と、歓楽や、笑いや、幸福の子供らしい歌へ移
かし、われわれがちょっと合い図さえすれば、たちまち
し、その眼は女や子供のように涙もろくなるだろう。し
れの怒りを見て、哀れにも震えおののいて、その心は 臆 たわれわれを、誇りとするに至るだろう。彼らはわれわ
の群れを 鎮撫 することのできる偉大な力と知恵とを持っ
も、同時にわれわれを 崇 め恐れて、荒れさわぐ数億の羊
ぐに違いない。彼らはわれわれのほうへ詰め寄りながら
率する十数万の者は除外されるのだ。すなわち、秘密を
うすべての人類は幸福になるだろう。しかし、彼らを統
ことができるからだ。かくてすべての者は、幾百万とい
うに自分で勝手に解決するという恐ろしい苦痛を免れる
れによって大きな心配を免れることもできるし、今のよ
決を彼らは喜んで信用するに違いない。というのは、そ
るとわれわれはいっさいのことを解決してやる。この解
に何もかも、彼らはわれわれのところへ持って来る。す
しい良心の秘密も、それから︱︱︱いや、何もかも、本当
く喜ばしくわれわれに服従してくるのである。最も悩ま
て、許しもすれば、とがめもする。こうして彼らは楽し
も、すべては彼らの従順であるか従順でないか、したがっ
情婦と 同棲 することも、子供を持つことも、持たぬこと
に何一つ隠しだてをしないようになる。彼らが妻の他に
われをますます崇めるようになる。したがってわれわれ
して自分たちの罪を引き受けてくれた恩人として、われ
あが
え得て行なえばあがなえる、とこう彼らに言い聞かせて
保持しているわれわれのみは、不幸に陥らねばならぬの
ちんぶ
やる。罪悪を許してやるのは、われわれが彼らを愛する
だ。何億かの幸福な幼児と、何万人かの善悪の知識のの
どうせい
からだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で
ろいを背負うた受難者ができるわけだ。彼らはおまえの
おく
引き受けてやるのだ。そうしてやると、彼らは神様に対
423
へやって来るそうだ。再びすべてを征服して、選ばれた
いからだ。人の話や予言によると、おまえは再びこの世
ても、とうてい彼らのごとき人間に与えられるはずはな
いくのだ。なぜといって、もしあの世に何かがあるにし
の幸福のために、永遠の天国の報いを 餌 に彼らを釣って
ないだろう。しかも、われわれは秘密を守って、彼ら自身
して、 棺 のかなたにはただ死以外の何ものをも見いださ
名のために静かに死んでゆく、静かに消えてゆく。そう
る。しかしあとで眼がさめたから、気ちがいに仕えるこ
へ︱︱︱偉大なる強者の仲間へはいろうと思ったこともあ
いという渇望のために、おまえの選ばれたる人々の仲間
たことがあるのだ。 わしも
をもって人間を祝福したが、わたしもその自由を祝福し
草の根で命をつないだことがあるのだぞ。おまえは自由
ないぞ。いいかえ、わしもやはり荒野へ行って、いなごと
言ってやる。いいかえ、わしはおまえなんぞを恐れはし
て、
数の埋め合わせ
をした
と
る人や、誇りと力を持った者たちを連れてやって来るそ
とが嫌になったのだ。それでまた引き返して、
けんそん
お ま え
人々の群れに投じたのだ。つまり、
にわしの言ったことは実現されて、われわれの王国は建
ごうまん
さあできるものならわれわれをさばいてみろ
うだ、けれどわれわれはこう言ってやる︱︱︱彼らはただ
の仕事を訂正した
かん
自分を救ったばかりだが、われわれはすべての者を救っ
わしは 傲慢 な人々のかたわらを去って、 謙遜 な人々の幸
えさ
てやった、とな。またこんな話もある。やがてそのうち
福のために、謙遜な人々のところへ帰って来たのだ。今
ほうき
ぱ
にいくじのない連中がまたもや 蜂起 して、獣の上にまた
かんぷ
設されるだろう。くり返して言うが、明日はおまえもそ
を手にした 姦婦 の面皮を引っ 剥 がし、
そ の 紫 色 の マ ン ト を 引 き 裂 い て、
の従順な羊の群れを見るだろう。彼らは、わしがちょっ
秘密
るということだ。もっとも、その時はわしが立ち上がっ
と手で合い図をすれば、われがちにおまえを焼く炬火へ
がって、
て、罪を知らぬ何億という幸福な幼児を、おまえに指さ
炭を 掻 きこむことだろうよ。それはつまり、おまえがわ
か
して見せてやる。彼らの幸福のために彼らの罪を一身に
れわれの邪魔をしに来たからだ。実際、もし誰か、最も
を裸にす
、
、
、
引き受けたわれわれは、おまえの行く手に立ちふさがっ
醜い体
、
424
ものを解釈していいものでしょうか!
そんな、そんな風に自由という
果にはなっていません、それに誰が兄さんの自由観なん
けっして非難じゃありません⋮⋮、兄さんが期待した結
かになって叫んだ、﹁兄さんの劇詩はイエスの賛美です、
﹁しかし⋮⋮それはばかばかしい話ですよ!﹂と彼はまっ
が、突然、その場から飛び上がりざま口をきった。
さえぎろうとする衝動をかろうじて押えていたのである
まいには異常な興奮を覚えて幾度も躍起に兄のことばを
黙々としてずっと聞き入っていたアリョーシャは、し
た時、不意ににやりとした。
それがはたして
り熱して、酔ったようになって話を続けたが、語り終わっ
てくれるぞ。 Dixi
︵ これでおしまいだ ︶﹄﹂
イワンは口をつぐんだ。彼は話しているうちにすっか
ば、それはまさしくおまえだ。明日はおまえを焼き殺し
われわれの炬火に焼かれるにふさわしい者があるとすれ
ら自身が地主になろうとしているのです⋮⋮これっくら
ば、未来の農奴制度というべきものですが、それには彼
する最も単純な希望があるにすぎないのです⋮⋮、いわ
りません⋮⋮、権力と、卑しい地上の幸福と、隷属に対
想で、そこにはなんの神秘もなければ、高遠な憂愁もあ
て 邁進 するローマの軍隊にすぎません。それが彼らの理
マ法王をいただいた、未来の世界的王国の建設に向かっ
のじゃありません⋮⋮、彼らはただ頭に皇帝を︱︱︱ロー
のではありません!
ことを言われてますけれど、兄さんの考えてるようなも
イタ派のことは知っていますが、彼らはずいぶんひどい
のです?
のろいを背負った、秘密の保有者とはいったいどんなも
は、いったい何のことですか? 人類の幸福のために何か
しゃる審問官のような奇怪な人物はとうていあり得るも
審問官や、エズイタ思想です!⋮⋮それに兄さんのおっ
まいしん
僕らはエズ
まるで違いますよ、全然そんなも
いつそんな人がありましたか?
のではありません。自分の一身に引き受けた人類の罪と
正教の解釈でしょうか⋮⋮それはローマです、いやロー
いが彼らのもっているすべての考えですよ、おそらく彼
か信じるものですか!
マも全体を尽くしたものではありません、それは嘘 です、
らは神だって信じてはいないでしょう。兄さんの言う苦
うそ
それはカトリック教の中でもいちばん良くないものです、
425
ころで、なかなか貴重な報告だぜ。そこで一つおまえに
﹁いや、そいつは、おまえが﹃まるで違う﹄と言ったと
と、アリョーシャはあわてて言いなおした。
ますよ⋮⋮しかし、むろん違います、まるで違いますよ﹂
たか、兄さんと同じようなことを言われたことさえあり
﹁いいえ、いいえ、反対に、パイーシイ神父はいつだっ
ないかな?﹂
い?
そいつはパイーシイ神父にでも教わったことじゃ
のみを目的とする権力の希望にすぎないと思ってるのか
に、近世のカトリック教の運動の全部が、けがれた幸福
でもいいよ! むろん、幻想さ、だがな、おまえは本当
せ上がるじゃないか、おまえが幻想と言うんなら、それ
﹁まあ、待てよ、待てっ﹂とイワンは笑って、
﹁いやに逆 しめる審問官はただの幻想ですね⋮⋮﹂
のような連中のためではない、こういうことを悟ったの
大なる理想家﹄が、かの調和を夢みたのは、こんな 鵞鳥 ビロンの塔を完成する巨人が出て来ようはずはない、
﹃偉
かもわからないのだ、こういう哀れな暴徒の中から、バ
ないからだ。全く彼らは自分の自由をどう処置していい
笑の対象物となってしまう、ということを認めざるを得
に到達した時には、自分以外の数億の神の子が、ただ嘲
ない、ということを大悟したのだ。それは、意志の完成
到達するという精神的な幸福はそれほど偉大なものでは
なかったのさ。ところが、一朝、忽然として意志の完成に
して狂奔したのだが、人類を愛する念には生涯変わりが
な完全なものになるために、自分の肉体を征服しようと
ないか、彼は荒野で草の根を食いながら、みずから自由
僕の老審問官のような人があったと想像してもいいじゃ
している、こういう連中のなかにも、せめて一人ぐらい、
のぼ
聞きたいのはね、どういうわけでおまえのいうエズイタ
で、彼は引っ返して⋮⋮賢明なる人々の仲に加わったわ
けだが、そんなことはあり得ないというのかえ?﹂
がちょう
や審問官たちは、ただ物質的な卑しい幸福のためのみに
団結したというんだい?
﹁誰の仲間へ加わるのです、賢明なる人とは誰のことで
なぜ彼らのなかには、偉大な
る憂愁に悩みながら、人類を愛する受難者が一人もいな
すか?﹂ アリョーシャはほとんど激情にかられながら、
かつごう
ね、けがれた物質的幸福をのみ 渇仰 いというのだい?
426
れが老人の秘密の全部です!﹂
です、兄さんの老審問官は神を言じていやしません、そ
るのはただ、無神論だけです、それが彼らの秘密の全部
そんな神秘だの秘密だのというものもありません⋮⋮あ
こう叫んだ、﹁彼らにはけっしてそんな知恵もなければ、
ておくためなんだ。だが、注意して欲しいことは、この
と、この哀れな盲人どもに、自分を幸福なものと思わせ
にする必要がある、つまり、せめてそのあいだだけなり
どうかしたはずみで、自分らの行く手に感づかないよう
入れて、人間をば故意に死と破壊へ導き、しかも彼らが
作られた、未完成な試験的生物﹄を、幾らかしのぎよい
だけが、いくじのない反逆者どもを︱︱︱﹃ 嘲笑 のために
分の生涯の日没ごろになって、あの恐ろしい精霊の勧告
いう病を、癒 やすことができなかったのだよ。やっと自
を棒に振ってしまいながら、それでも人類に対する愛と
いだろうか。彼は荒野における苦行のために自分の一生
しかし、それは彼のような人間にとっても苦しみではな
本当に彼の秘密はただその中にのみ含まれているのだよ、
ついたってわけだね、 いや、 本当にそのとおりなんだ、
﹁そうだとしても、かまわんよ!
動の指導者のあいだに、今までけっして絶えたことがな
こう断言する︱︱︱こうした﹃唯一人者﹄は、あらゆる運
する本当の指導的な理想を生むに十分じゃないか、僕は
もエズイタ派もみんな引っくるめて︶ローマの事業に対
た一人でも頭に立っていたら、ローマの事業︵その軍隊
むに十分じゃないか?
こんな人物が現われたら︱︱︱その一人だけでも悲劇を生
のみの権力に渇している﹄軍隊の頭に、ほんの一人でも、
幸ではなかろうか?
熱烈にキリストの理想を信じていたのさ!
虚偽もキリストの名のためだという点だよ。老人は生涯、
やっとおまえも気が
境遇におくことができる、ということをはっきりと確信
い。ことによったら、ローマ僧正のあいだにも、この種
しつよう
そればかりか、こんな人がたっ
もしもあの﹃けがれた幸福のため
これでも不
したのだ。それを確信すると同時に、賢明なる精霊、恐
の唯一人者がなかったとも限らないからなあ。それどこ
い
ろしい死と破壊の精霊のさしずに従って進まねばならぬ
ろか、こうして非常に 執拗 に、非常に自己流に人類を愛
ちょうしょう
ということを悟ったのだ。このために虚偽と詐欺を取り
427
﹁兄さんは、もしかしたら自分がメーソンかもしれませ
のようだね、さあ、こんなことはもうたくさんだよ﹂
どうやらおまえの批評にたたきつけられてしまった作者
そうと、 こんな風に僕が自分の思想を弁護していると、
いし、牧者も一人でなくちゃならないからな⋮⋮それは
分割者と見るからだ、羊の群れも一つでなくちゃならな
むわけは、彼らを自分の競争者、つまり、自分の理想の
ような気がする、カトリック教徒がメーソン組合員を憎
かこんな秘密に類したものがあるんじゃないか、という
らないはずだよ、僕はなんだかメーソンの基礎にも、何
めなんだ、これは必ず存在する、また存在しなければな
らを幸福にするためなんだ。つまり彼らを幸福にするた
を不幸ないくじのない人間どもから隠すのは、つまり彼
は秘密結社として存在しているかもしれない、この秘密
ずっと前から秘密を守るために組織された同盟、もしく
かもしれないのだ、しかもそれはけっして偶然ではなく、
的﹄老人の大群集の形をとって、今も現に存在している
しているこののろうべき老人は、同じような﹃唯一人者
あけ放しながら、囚人に向かって、
﹃さあ、出て行け、そ
うであった。と、彼は扉 のそばへ近づいて、それをさっと
はぎくりとした。なんだか唇の両端がぴくりと動いたよ
をそっと接吻したのさ。それが回答の全部なのだ、老人
ま老人に近づいて、九十年の星霜を経た血の気のない唇
らいたくてたまらないのだ。が、不意に囚人は無言のま
苦しい恐ろしいことでもかまわないから、何か言っても
らしく、ただじっと聞いているばかりだ。老人は、どんな
の顔を見つめたまま、何一つことばを返そうとも思わぬ
のだ。見ると囚人は始終しみ入るように、静かにこちら
るかを待ち設けていた。彼には相手の沈黙が苦しかった
口をつぐんでから、しばらくのあいだ囚人がなんと答え
﹁僕はこんな風に完結させたいと思ったのさ、審問官は
とも、もう完結してるんですか?﹂
す?﹂と、不意に彼は地面を見つめながら尋ねた。
﹁それ
た。﹁それで、 兄さんの劇詩はどんな風に完結するんで
彼には、兄が冷笑的に自分を眺めているように感じられ
その声はもう非常に強い悲しみを帯びていた。そのうえ
さんは神を信じていないのですよ﹂と彼は言い足したが、
とびら
んね!﹂と、不意にアリョーシャは口をすべらせた、
﹁兄
428
はおまえに言ったとおり、三十まではこうしてだらだら
なんて、思ってるのかい? とんでもないこったよ! 僕
事業を訂正しようとしている連中の群れへ投じるだろう
におまえは僕がエズイタ派の仲間へ走って、キリストの
んだってそうおまえはきまじめにとるんだい? ほんと
分別な学生のとりとめもない劇詩にすぎないんだよ、な
じゃないか、これまで二行の詩も書いたことのない、無
﹁だって、アリョーシャ、こんなものはほんのでたらめ
いだした。
も?﹂とアリョーシャは憂わしげに叫んだ。イワンは笑
﹁そして兄さんも老人といっしょなんでしょう、兄さん
元の理想に踏みとどまったんだ﹂
﹁例の接吻が胸に燃えさかっていたのだけれど、やはり、
﹁で、老人は?﹂
はしずしずと歩み去るのだ﹂
ても!﹄と言って、
﹃暗い巷 ﹄へ放してやる。すると囚人
してもう来るな⋮⋮二度と来るな⋮⋮どんなことがあっ
﹁どんな風に逃げ出すんです?
そのときは⋮⋮﹂
だ。ひょっとしたら、逃げ出せるかもしれんが、しかし
﹁まあ、そうかもしれんな⋮⋮、しかし、ただ三十まで
ですね、ね、ね?﹂
﹁それは 淫蕩 に溺 れて、堕落の中に魂を押しつぶすこと
﹁カラマゾフの力さ⋮⋮カラマゾフ式の下劣な力なのさ﹂
﹁どんな力が?﹂
もうひややかな嘲笑を帯びた声でイワンが言った。
﹁なんでもしんぼうすることのできる力があるさ!﹂と、
すよ、とてもしんぼうしきれたものじゃありません!﹂
いるために出かけて行きます⋮⋮でなかったら自殺しま
くのです?
にそんな地獄を持ちながら、兄さんはどうしてやってゆ
なんです?﹂アリョーシャは痛ましげに叫んだ、
﹁胸や頭
ゆくのです、どうしてそういうものを愛してゆくつもり
はどうなんです!
﹁じゃ、粘っこい若葉や、立派な墓や、青空や、愛する女
いんとう
おぼ
兄さんのような考えを持っていたんでは、とても
どうして逃げ出すんで
いいえ、兄さんはきっとああいう仲間には
それじゃ兄さんは何をあてに生きて
と生きのびるんだ、そして三十が来たら杯を床へたたき
す?
ちまた
つけるまでさ!﹂
429
﹁僕はね、アリョーシャ、ここを去るに当たって、世界
アリョーシャは黙って兄を見つめた。
ぞ﹂
ごとしさ、それにミーチカのこじつけもなかなかうまい
たら、
﹃すべてが許されてる﹄かもしれないよ。 綸言 汗の
はゆがんだような薄笑いを漏らした、
﹁ああ、ことによっ
細工に飛び出して、あの文句をくり返したっけな﹂と彼
句をもちだしたんだな⋮⋮、あのとき、ドミトリイが不
﹁あ、おまえは、昨日ミウーソフが腹を立てた、例の文
な顔になった。
イワンは眉をひそめたが、急に不思議なほどまっさお
か、そうなんですか、そうなんですか?﹂
か? 本当にすべてのことが許されているというのです
﹁それはあの﹃すべてが許されている﹄というやつです
﹁こいつもやっぱりカラマゾフ式にやるさ﹂
だめです﹂
を思い起こしたためにそれを愛するということになるん
を愛するだけの気力が僕にあるとしたら、それはおまえ
語調で言いだした。﹁もしも、 本当に粘っこい小さい葉
﹁なあ、おい、アリョーシャ﹂とイワンはしっかりした
た。
二人は外へ出たが、居酒屋の戸口のところで立ち止まっ
だから﹂
リョーシャ、出かけようよ、僕にもおまえにももう時間
み出したな! でも、まあ、ありがとう、さあお立ち、ア
りながら、叫んだ、
﹁おまえはその接吻を僕の劇詩から盗
﹁文学的 剽竊 だぞ!﹂と、イワンは急に一種の歓喜に浸
まま静かにその唇に接吻した。
アリョーシャは立ち上がってそばに近寄ると、無言の
ろうね、え、え、そうだろう?﹂
どうだい、おまえはこの定義のためには僕を否定するだ
許されている﹄ という定義は否定しないよ、 ところで、
ついたよ、可
愛 い隠者さん。だがね、
﹃いっさいのことが
かわい
じゅうでおまえだけは親友だと思っていたんだが﹂と、突
だ。 おまえがこの世界のどこかにいると思っただけで、
ひょうせつ
然思いがけない真情をこめてイワンが言った、
﹁今となっ
もう僕にはたくさんだ。そしたら僕は人生に全く愛想を
りんげん
てはおまえの胸にも、僕をいれる場所がないことに気が
430
やって来るんだから。それにおまえが、その時分に、ど
リカからでもやって来る。覚えておいてくれ、わざわざ
もう一度おまえのところへ話しに来るよ⋮⋮たとえアメ
たくなった時には、僕はどこにおまえが住んでいようと、
をしておこう。三十近くなって、﹃杯を床へたたきつけ﹄
だろう?
ところで、僕のほうからも一つおまえに約束
くなったよ、言うべきことは言ってしまったんだ、そう
らいらした調子でこう言い足した、﹁もう話すこともな
どうか二度と僕に口をきかないでくれ﹂と、急に彼はい
ら、 ドミトリイのことについても、 特に頼んでおくが、
言わないようにしてくれ。くれぐれも頼んだぞ。それか
うことがあっても、この問題については、もうなんにも
きっと立ちそうなんだが︶、 まだどうかしておまえに会
さんだよ。 つまり、 もし僕が明日立たないで ︵しかし、
へ、僕は左へだ、︱︱︱それでたくさん、ねえ、もうたく
と思ってくれてもいい、でも、もうこれで、おまえは右
き飽きしたろうな?
なんなら、これは恋の打ち明け話
つかさないでいられる。しかし、おまえはこんなこと飽
こんなことは、これまでについぞ見たことのないことで
れに、後ろから見ると右肩が左肩より少し下がっている。
が妙にふらふらしながら歩いて行くのに気がついた。そ
がら、しばしのあいだ、たたずんでいた。ふっと、イワン
にかすめ過ぎたのであった。彼は兄の後ろ姿を見送りな
とき、憂いに閉ざされたアリョーシャの頭を、矢のよう
く趣を異にしていた。この奇妙な印象は、ちょうどその
行った時の様子に似てはいたが、その性質においては全
うど昨日兄ドミトリイが、アリョーシャのそばを離れて
ずに、思う方をさしてずんずん歩き出した。それはちょ
イワンは不意に身をかわすと、もうふり返ろうともせ
うだ、じゃ行けよ⋮⋮﹂
いよ、さようなら、もう一度接吻してくれ、そうだ、そ
が引きとめてたからだといって、腹を立てるかもしれな
てるんだからね、おまえの帰らないうちに死んだら、僕
の
もしれない。 さあ、 もうおまえの Pater Seraphicus
ところへ行ったほうがよかろうぜ、もう今は死にかかっ
だ。しかし、実際に七年か、十年も別れることになるか
んとに愉快だろうからな。いや、ずいぶん大げさな約束
ペ ー タ ー・セ ラ フィカ ス
んなになっているかを、ちょっと見に来るだけでも、ほ
431
何かしら新しいあるものが、彼の心のうちにわきあがっ
であった。自分にもはっきりと説明することのできない、
にあたりは、急にたそがれて、無気味に思われるくらい
さんばかりにして、修道院を指して急いで行った。すで
ある。が、彼もくるりと身を転ずると、ほとんど駆け出
疑惑に包まれるのであった。
トリイのことを忘れはててしまったのかと、少なからぬ
引き返したりなどはしないとまで決心していた兄のドミ
たとい今夜じゅう修道院へ帰れなくとも、断じて中途で
がいらっしゃるのだ。こ
うだ、ここに Pater Seraphicus
の人が僕を⋮⋮悪魔から永久に救ってくださるのだ!﹄
えることだろう?⋮⋮ああ、もう庵室だ!
た、
﹃イワン、イワン兄さん、可
哀 そうに、今度はいつ会
﹃ Pater Seraphicus
︱︱︱兄さんはこんな名まえをどこか
ら、⋮⋮﹄こんな考えがアリョーシャの頭に浮かんでき
りであった。
そうだ、そ
まわりに、ざわめきだした。彼はほとんど走らないばか
風が吹き起こって、松の老い木がものすごく、彼の身の
にも憂愁におそわれることがあったから、こんな場合に
チには突き止めることのできない点であった。これまで
ことであった。しかし、奇態なのは憂愁そのものではな
家に近づくにつれて、それがしだいに大きくなっていく
きたのである。しかも、何よりも不思議なのは、一歩一歩
と、フョードル・パーヴロヴィッチの家へと帰途につい
イワン・フョードロヴィッチはアリョーシャに別れる
六 いまださほどに明らかならず
その後、彼は生涯のあいだにいくたびか、この時のこ
それが頭をもたげたからとて何も不思議はなかった。な
ていた。彼が庵室の森へはいった時、また昨日のように
とを思い出して、イワンに別れを告げたとき、どうして
にしろ明日は、自分をここへ引き寄せたあらゆる物を振
くて、どうしても憂愁の原因がイワン・フョードロヴィッ
た。不思議なことに、急に耐えがたい憂愁が彼を襲って
急に、︱︱
︱午前中、ほんの数時間前にはどんなことがあっ
り切って、今や新しい、全然未知な方向へ急に転じて、ま
かわい
ても捜し出さなければならぬ、 それを果たさぬうちは、
432
て沈黙を守って、物を言うのもたいぎだと思っていたの
んな話をしたためかしら?
もう何年も社会全体に対し
もない、ではアリョーシャと別れたためかしら、またあ
にしてもどうもいやな気がする⋮⋮だが違うぞ、これで
らわしい 閾 をまたぐのも今日がいよいよ最後だが、それ
好かなくなってしまったからなあ、もっとも、あのけが
彼は肚 の中で考えた。
﹃どうもそうらしい、もう全く虫が
たら父親の家に対する嫌悪の情ではないかしら?﹄こう
悩ましているのは、全然、別なものであった。
﹃もしかし
鬱 が、彼の心にあったけれど、それでもこの瞬間、彼を
憂
たのである。事実、こうした新しい未知の世界に対する
についても、われながら、何一つ確かな説明ができなかっ
あまりに多きにすぎるのみで、その期待についても希望
者を対象とするかも知らず、人生から期待するところの
るのだが、いろいろの希望はあってもはたしていかなる
たもや以前と同じ全くの孤独な道へ出発しようとしてい
いでいるけれど、なんだか妙に気持がいらいらして、ま
に、話か仕事に夢中になっていて長いあいだ気がつかな
えば、よくあることだが、何か眼の前へ突き出ているの
かに突っ立っているといったあんばいなのである。たと
感じがするのであった。つまり何かしら人か物かがどこ
ているために、なおいまいましく 癪 にさわる、そういう
この憂愁は、どこか偶然的で、全然外部的な趣をそなえ
みたが、それはなんの役にも立たなかった。何よりも第一
イワン・フョードロヴィッチは﹃もう考えまい﹄として
ることができないのだ。もう考えないほうがいい⋮⋮﹄
くさするくせに、どんなにもがいても、とんと思い当た
そうでない。みんなそうでない。
﹃胸が悪くなるほどくさ
ろう、いや必ずあるに違いない。しかし、これもやはり
たことは疑いもない事実である。もちろんそれもあるだ
リョーシャごとき人間に対しては肚の中で見くびってい
かったいまいましさかもしれない。しかもイワンは、ア
に対して、うまく自分の胸中を言い現わすことのできな
はら
ゆううつ
に、不意にあんな意味なことを並べ立てたためかもしれ
るで苦しくさえなる、そのうちにやっと気がついて、そ
しゃく
ん﹄実際、それは若い無経験と若い虚栄心との、若い悔
の邪魔物を取りのぞくのだが、それはたいていの場合つ
しきい
恨の情かもしれない。つまりアリョーシャのような小僧
433
き通して、すぐに反射的に憎悪の念をよびさましたので
を話した時、何かしら暗い忌まわしいものが彼の胸を突
先刻アリョーシャがこのスメルジャコフに出会ったこと
と、すべてが急にぱっと照らし出されて、明瞭になった。
でたまらなかったのだ、ということに気がついた。する
のスメルジャコフが潜んでいた。それがなんとも不愉快
チはそれを一目見るなり、自分の心の底には、この下男
て、夕涼みをしていたのだ。イワン・フョードロヴィッ
門そばのベンチに、下男のスメルジャコフが腰をかけ
知したのである。
た時、自分の心を苦しめ悩ましていた原因をたちまち察
らおよそ十五歩ばかり離れたところから、ふと門を眺め
らだたしい気分で、父の家までたどりついたが、 耳門 か
やがてイワン・フョードロヴィッチは恐ろしく不快ない
棚へかたづけ忘れた書物とか、 そんなような物である。
置き忘れた品物とか、床の上へ落ちたハンカチとか、書
まらないばかげた物で、︱︱︱どこかとんでもない場所へ
けたのは彼自身であったが、いつも相手の考えの妙に不
ようになった。この下男に、自分と話をするように仕向
せたが、後には彼を非常に独創的な人間だとさえ考える
はスメルジャコフに対して、不意に一種特別な同情を寄
たためかもしれない。当時イワン・フョードロヴィッチ
チがこの町へ帰って来た当初とは全然反対な事態が生じ
経過をとってきたのは、最初イワン・フョードロヴィッ
自身でも気づき始めた。こうした憎悪がこれほど険悪な
ほとんど憎悪に近い感情が、日一日と募ってくるのを彼
日は取りわけひどくなったのである。この人間に対する
はこの男がひどく嫌いになってきた。それがこの二、三
それはこうである、近ごろイワン・フョードロヴィッチ
えた。
んだろう﹄と、彼に耐えがたい 憤懣 を覚えながらこう考
ないやくざ者が、どうしてこんなにおれの心を騒がせる
にまた頭を持ち上げたのである。
﹃いったいこんなくだら
り家路につくと同時に、この忘れられていた感覚が不意
心の底に残っていたため、アリョーシャと別れて、ひと
ふんまん
あった。それからは話に夢中になってスメルジャコフの
条理なというよりは、妙に不安定な点に一驚を喫するの
くぐり
ことはしばらく忘れられていたのだが、それでもやはり
434
た。そもそもこれから嫌悪の念がきざし始めたのである。
ン・フョードロヴィッチはそれがひどく気に食わなかっ
尊心が、まざまざと顔をのぞけ始めるのであった。イワ
合でも底の知れぬ自尊心、それもはずかしめられたる自
によって同じ調子ではないけれど、とにかく、どんな場
ているらしかった。そして、あれやこれやと、その時々
ては全く第三義的のもので、彼は全然別なものを要求し
星は興味ある問題ではあるけれど、スメルジャコフにとっ
月や、星でないことを悟った。なるほど、太陽や、月や、
フョードロヴィッチは間もなく、問題はけっして太陽や、
う問題についても話し合ったものである。しかしイワン・
ろうか、この事実をどう解釈すべきだろうか、などとい
なかったのに、どうして最初の日に光がさしていたのだ
また例の、太陽や月や星は、やっと四日目にしか創られ
点がいかなかった。彼らは哲学的な問題も語り合ったし、
なに絶え間なくしつこく騒がせているのか、さっぱり合
であった。そして何が、いったい﹃ 瞑想者 ﹄の心を、こん
いっそういちじるしくなるのであった。だが、彼は別に、
なれしさであった。 しかも、 それが日を経るにつれて、
りありと示すようになった、一種特別な忌まわしいなれ
を起こさせたのは、最近スメルジャコフが彼に対してあ
チを極度にまでいらだたせて、その心に激しい嫌悪の情
ことがあった。しかし、ついにイワン・フョードロヴィッ
口をつぐんでしまって、まるで別なことへ話題を転ずる
非常に熱心に何かを尋ねている最中に、突然ぴったりと
たが、それがなんのためかは説明はしなかった。そして
考えているらしい遠まわしな質問を持ちかけるのであっ
はいつも、何かを聞き出そうとするもののように、前から
支離滅裂なことにむしろ驚かされるくらいであった。彼
かりか、不用意のうちに現われる彼の希望の 茫漠 として
とうてい正確に突き止めることはできなかった。それば
いったいそれが落着すればいいと自分で思っているのか、
の話をするときに、ひどく興奮した様子を見せたけれど、
とについても語り合った。もっとも、スメルジャコフはこ
て、いろいろめんどうなことが続いた時、二人はそのこ
めいそうしゃ
その後、家庭内にごたごたが起こって、グルーシェンカ
無礼な態度をとるというわけではけっしてなく、いつも
ぼうばく
が現われたり、兄ドミトリイの騒ぎがもちあがったりし
435
の身ぶりを見ただけで、イワン・フョードロヴィッチは
間に、スメルジャコフがつとベンチから立ち上がった。そ
にして、耳門をくぐり抜けようと思ったのだが、その瞬
彼は今無言のまま、スメルジャコフのほうを見ないよう
て来たのである。嫌悪と腹立たしさにじりじりしながら、
かったが、このごろになってようやくその真相がわかっ
に募ってくる嫌悪の原因を長いあいだ悟ることができな
が、イワン・フョードロヴィッチは、自分の心にしだい
風な調子で、いつも話をするようになったのである。だ
の人間どもにはとうていわかりっこないのだ、といった
て、自分たち二人だけにはわかっているけれど、まわり
のあいだに取りかわした密約というようなものでもあっ
ように思いこんでいるらしかった。そして、いつか二人
ヴィッチとがある事情について、共同関係でも持っている
ものか、スメルジャコフは、自分とイワン・フョードロ
非常にうやうやしい口のきき方をしていたが、どういう
う起きたかい?﹂と、自分でも思いがけないくらい静か
﹁どうだい、お父さんはまだ寝てるかい、それとも、も
とばが口をついて出てしまったのである。
たのだが、自分ながら意外なことには、まるきり別なこ
ないぞ、ばか野郎!﹄そうどなりつけてやりたいと思っ
﹃どいてろ、やくざ野郎、おれは貴様なんぞの仲間じゃ
ていた。イワン・フョードロヴィッチは身震いをした。
も言っているように、薄笑いを浮かべて、またたきをし
には、何か御相談ごとがあるらしゅうござんすな﹄とで
らぬところを見れば、お互いに利口なわたくしどもの中
眼はちょうど、
﹃いかがですな、通り過ぎておしまいなさ
らました前髪をじっとにらんだ。こころもち細めた左の
れいに 櫛 で梳 き上げた両鬢 や、小さい冠毛のようにふく
はスメルジャコフの去勢僧のように痩せこけた顔や、き
の震えるほど腹が立ってきた。憤怒と憎悪をもって、彼
いで、こうして立ち止まったことを考えると、彼は身内
のさきそう思ったように、さっさと通り過ぎてしまわな
びん
たちどころに、彼が何か特別な相談を持ちかけようとし
に、すなおに彼はこう言った。そして、やはり全く思い
と
ているんだな、と推察した。イワン・フョードロヴィッチ
がけなく、うっかりベンチへ腰をおろしてしまった。こ
くし
はちらと相手を見て立ち止まった、そして自分がつい今
なほとんどいかついくらいな 眼眸 で彼を見つめた。
両手を背後へ回したまま、その前に立って、自信ありげ
ことは後になってもよく覚えていた。スメルジャコフは
の一瞬間、彼はほとんど恐怖に近いものを感じた。その
﹁なんのために僕がチェルマーシニャへ行くんだ?﹂イ
が言っているように思われた。
えさんが賢い人間ならばね﹄そう細められた彼の左の眼
たのか、おまえさんにはわかってるはずだよ、もしおま
て、なれなれしくにっこり笑った。
﹃なぜこちとらが笑っ
﹁どうして、あなたは、チェルマーシニャへお出かけにな
れそうにないと気がつくと、われながらいやな気がした。
せないあいだは、どんなことがあってもこの場は離れら
はなみなみならぬ好奇心をいだいていて、それを満足さ
きらぼうな荒々しい調子でこう言ったが、不意に、自分
ドロヴィッチは一生懸命におのれを抑制しながら、 ぶっ
﹁どうして僕に驚いてしまうんだい?﹂イワン・フョー
意味に動かすのであった。
足を一歩前へ踏み出して、エナメル塗りの靴の爪先を無
とらしく眼を伏せながら、彼はこうつけ加えると、右の
驚いてしまいますよ﹂ちょっと口をつぐんでから、わざ
ないよ﹄とでも言っているようだ︶
﹁若旦那、あなたには
きつけて、しゃんと体をまっすぐにしたが、しかし依然
スメルジャコフは前へ踏み出していた右足を左足へ引
立たしそうにどなった。
はおとなしい態度から、荒々しい気勢に転じながら、腹
いって言うんだ?﹂とうとうイワン・フョードロヴィッチ
﹁やい、こん畜生、もっとはっきり言え、貴様はどうした
ごまかすだけだとでもいった様子であった。
わないわけにいかないからつまらないことをもちだして
重要なものとは思っていないらしい。これはただ何か言
こうゆっくりと言ったが、自分でもこの答えをたいして
それをお頼みになったのではありませんか﹂ついに彼は
﹁フョードル・パーヴロヴィッチのほうから、あなたに
メルジャコフはまたちょっと口をつぐんでいた。
まなざし
﹁まだおやすみでございます﹂ と彼は 急 かずに言った。
ワン ・ フョードロヴィッチはちょっとめんくらった。 ス
りませんので?﹂と、不意にスメルジャコフは眼を上げ
せ
︵﹃口をきいたのはおまえさんのほうが先で、こちとらじゃ
436
437
ように、こう言った。そして、最後のことばといっしょ
かりません﹂突然、彼はしっかりと、一語一語を分ける
恐ろしゅうございます、自分でもどうしたらいいのかわ
﹁イワン・フョードロヴィッチ、わたくしの境遇は全く
スメルジャコフはあたかもその瞬間を捕えた。
立ち上がろうとして身を動かした。
ヴィッチには少なくともこう感じられた、とうとう彼は
ないか、ここで拝見していますぜ﹄イワン・フョードロ
ているといった風であった。﹃おまえさんが怒るか怒ら
ジャコフは彼の前に突っ立ったまま、何かを待ちもうけ
にも立ち上がって、怒りだしそうだと思ったが、スメル
でいた。イワン・フョードロヴィッチは、自分がもう今
またもや沈黙が続いた。二人は一分間ばかり黙りこん
ちょっと話のついでに⋮⋮﹂
﹁いえ、別にたいしたことではございませんよ⋮⋮ただ
顔を見つめていた。
として落ち着きはらって薄笑いを浮かべたまま、相手の
薄暗くなりかかりますと、︱︱︱いえ、それよりもっと早
おっしゃいますので、ところがまた一方では、そろそろ
だ﹄︱︱︱と、まるでわたくしの罪かなんぞのようなことを
かった?
朝はまたさっそくわたくしに飛びかかって、﹃なぜ来な
を持っていらっしゃらないのかもしれませんよ︶、あくる
ら︵ことによったら、あの 女 はまるっきり、そんな考え
フェーナ・アレクサンドロヴナがお越しにならなかった
過ぎまでのべつに続くのでございますよ、そしてアグラ
のだ?﹄と、これが夜半の十二時ごろまで、いや十二時
﹃どうだ、 あれは来なかったか?
くしにつきまとって、のべつに聞き通しなさいますんで、
ら、フョードル・パーヴロヴィッチは、すぐにまたわた
チのことでございますよ、今にもお目ざめになりました
たのお父様と、お兄様のドミトリイ・フョードロヴィッ
はことばを続けた。﹁わたくしの申し上げますのはあな
のようになっていらっしゃいますよ﹂とスメルジャコフ
﹁どちらもまるで気まぐれなかたがたで、まるで赤ん坊
どうして来なかった?
いったいいつ来るの
どうして来なかった
にため息をつくのであった。イワン・フョードロヴィッ
い時もございますが、︱︱︱今度はお兄さんが刃物を持っ
ひと
チはまたすぐに腰をおろした。
438
しまおうかと思うことがございますよ、若旦那、わたし
たくしはときどき、恐ろしさのあまり、いっそ自殺して
いえ、一時間一時間に、激しくなっていきますので、わ
しゃるのです。 こうしてお二人のお腹立ちが日一日と、
かったのを、まるでわたくしの罪かなんぞのようにおっ
ろうか?﹄と、どちらも、あの御婦人がお見えにならな
ますので、
﹃どうして来なかった、もうすぐやって来るだ
ヴィッチが同じように、うるさくわたしをおせめになり
ら夜が明けて朝になると、今度はフョードル・パーヴロ
貴様を打ち殺してくれるぞ﹄とおっしゃいます、それか
へ来たことをおれに知らせなかったら、誰よりまっ先に
出汁 とり野郎、もし貴様があの女を見のがして、ここ
煮
て隣りへお見えになりましてね、﹃気をつけろよ、悪党、
に続いたことがございます、そのときは屋根裏からおっ
も二日も続くかもしれません。一度、三日間ぶっつづき
作なのですよ、幾時間も、いえ、ことによったら、一日
﹁長い 癲癇 の発作でございますよ、おっそろしく長い発
﹁何の長い発作なんだ?﹂
に長い発作が起こりそうですしね﹂
御存じないのでございますよ、若旦那、明日もまた確か
ち殺してくれる!﹄と、それよりほかには、言うことも
といえば、
﹃悪党め、もしあの女を見のがしたが最後、打
おしまいになったのですよ、そのころから、もうなんぞ
しを自分の召し使いに、いわばリチャルドの役に決めて
もなかったのでございます、ただあの人が勝手にわたく
たくしは初めから黙っていて、一口もことばを返す元気
たくしのほうから掛かり合ったのではございません、わ
し
はもうあのお二人にはつくづく 匙 を投げましたよ﹂
こちましたんで、やんだかと思うとまたぶり返して、三
だ
﹁じゃ、なんだって掛かり合いになったんだい? なんだっ
日のあいだはどうしても人心地に返ることができません
てんかん
てドミトリイに内通を始めたんだ?﹂とイワン・フョー
でした。そのとき、フョードル・パーヴロヴィッチがヘ
ルツェンシュトゥベという、この町の医者を呼んでくだ
さじ
ドロヴィッチはいらだたしそうに言った。
﹁どうして掛かり合いにならずにいられましょう?
さいまして、頭を氷で冷やしていただきました、それか
そ
れに、すっかりほんとのことを申しますと、けっしてわ
439
﹁何か小細工をしているな、 ちゃんと見え透いてるぞ、
と見つめていた。
イワン・フョードロヴィッチは長いあいだ、彼をじいっ
行く用事も毎日ございますからね﹂
でなければ、穴蔵へおっこちるかもしれません、穴蔵へ
裏からおっこちないものでもありませんよ、もし屋根裏
﹁屋根裏へは毎日上がりますからね、明日にもまた屋根
ないか﹂
﹁それに、そのときは屋根裏からおっこちたっていうじゃ
はまいりません﹂
﹁そりゃあ、全くの話ですよ、前もって知るってわけに
ドロヴィッチがこう尋ねた。
いらいらしたような好奇心を浮かべて、イワン・フョー
えは明日発作が起こるなんて言うのだい?﹂一種特別な、
知ることはできないっていうじゃないか、どうしておま
﹁でも癲癇っていう病気は、いつごろ起こるか、前もって
危うく死にそうでしたよ﹂
らまだ何か手当てをしていただきましたっけ⋮⋮本当に
ら、不意に飛び上がった。
﹁なんだって貴様は自分の命の
﹁えい、畜生!﹂イワンは憤りのために顔をゆがめなが
いになることでしょうから﹂
るわけにはまいりませんよ、御自分でも恥ずかしくお思
ても、病人をつかまえて﹃なぜ知らせなかった﹄と責め
ナ・アレクサンドロヴナが旦那のところへお見えになっ
わたくしが病気で寝てさえいれば、たとえアグラフェー
れに対して十分な権利を持っているはずでございますよ、
たくしは自分の命を助けるためにやることですから、そ
人には別にむずかしいことではありませんからね︱︱︱わ
のまねごとをするとしましても、︱︱︱それは経験のある
﹁もしわたくしが、それをやるとしましても、つまりそ
上げると、にやりと一つ薄笑いをして、こう言った。
引っこめて、その代わりに左足を前へ出してから、顔を
先でこそこそ 悪戯 をしていたが、今度は右足を元の所へ
コフはじっと地面を見つめたまま、またしても右足の爪
でもするつもりじゃないのか? え、おい?﹂スメルジャ
た。
﹁どうだおまえは明日から三日のあいだ、癲癇のまね
あったが、なんとなくおどしつけるような調子で彼は言っ
いたずら
第一おまえの言うことはどうもよくわからん﹂と低くは
440
まず第一番にわたくしがやられるのです、しかし何より
﹁蠅 かなんぞのようにたたき殺しておしまいなさいます、
ても、おまえじゃないよ!﹂
貴はおまえなんか殺しゃしないよ、もし誰かを殺すにし
は腹立ちまぎれにすぎんさ、それっきりのことだよ、兄
ことばかり心配してるんだ!
と、念入りに戸締まりをなさるのでございます、それで
御存じないかもしれませんが、旦那はこのごろ夜になる
るでどこへもおいでになりませんでしたから、おおかた
階の居間へ引っこんでおしまいになりますし、昨日はま
ます、もっとも、あなたはこのごろでは、毎日早く、二
から、部屋の内側から扉に鍵をおろしておしまいになり
那はこの三、四日、夜になると、いえ、早い時には宵の口
そんな兄貴のおどし文句
恐ろしいことが別にありますよ︱︱︱つまり旦那に対して、
グリゴリイ・ワシーリエヴィッチが行っても、声が確か
る
はえ
何かばかなことでもしでかしなすった場合に、あの人と
にそうだとわからないあいだは、けっして扉をおあけに
ぐ
謀 のように思われるのが恐ろしいのでございます﹂
共
る
なりません、ところで、グリゴリイ・ワシーリエヴィッ
ぐ
﹁どうしておまえが 共謀 のように思われるんだ﹂
チはあんまり来ませんから、今のところお居間のお世話
ぐ る
﹁わたくしが 共謀 のように思われるわけは、例の合い図
をするのは、わたくし一人でございます︱︱︱これはアグ
もんちゃく
を、ごく内々でお知らせしたからですよ﹂
当にこいつめ、はっきり言わんか?﹂
なると、わたくしは旦那の言いつけで、 傍屋 のほうへさ
旦那が御自身でお決めになった手はずです、しかし夜に
ラフェーナ・アレクサンドロヴナの 悶着 が始まって以来、
﹁すっかり白状しなければなりません﹂いやに子細らしく
がってやすみますが、 それでも夜半ごろまでは寝ずに、
本
落ち着いてスメルジャコフは引っぱるような物の言い方
ときどき起きては庭を見回って、アグラフェーナ・アレ
そして誰に知らせたんだ?
をした。
﹁実は、わたくしとフョードル・パーヴロヴィッ
クサンドロヴナのおいでを待ち受けていなくてはなりま
﹁合い図ってなんだ?
チとのあいだに、一つ秘密があるのです、御承知でもご
せん、なにしろ旦那はこの二、三日というもの、まるで
はなれ
ざいましょうが︵たぶん御承知でございましょうね︶、旦
441
ちょっと間をおいてもう一つずっと強く、どんとたたく
いました、それは初め二つは早目にたたいて、それから
起った時のために、もう一つ別の合い図を教えてくださ
のでございます、それから、もしなんぞ変わったことが
思って、そっと扉をあけてやるわい﹄と、こうおっしゃる
たたくのだ。そうすれば、わしはすぐ 彼女 が来たのだと
たたいて、それから今度は早い目に三つとんとんとんと
いてもよい、だが、はじめの二つはこんな風にゆっくり
間の戸口へ走って来てたたいてもよし、庭から窓をたた
遅くまで見張りをしろ、もし、 彼女 がやって来たら、居
い。
﹃だから貴様はかっきり十二時までは、いや、もっと
ど遅くなってから、裏道を通ってお見えになるに違いな
おっしゃってですが︶こわがっているから、夜もよっぽ
リイ・フョードロヴィッチを︵旦那はいつもミーチカと
から、旦那のお考えでは、あの女はお兄さんを、ドミト
気ちがいのように、あの女を待ちきっておいでなんです
度たたくのほうの合い図は﹃急用です﹄というわけなの
ナがおいでになりました﹄ということで、もう一つの三
くほうの合い図は﹃アグラフェーナ・アレクサンドロヴ
お知らせしなければなりません、こういう風に五度たた
ましたらわたくしはすぐ戸を三つたたいて、ぜひそれを
トリイ・フョードロヴィッチが近くへ姿をお見せになり
に部屋の中へ閉じこもっていらっしゃるときでも、ドミ
アレクサンドロヴナがおいでになって、旦那といっしょ
がっておいでになりますから、 たとえアグラフェーナ ・
旦那はたいへんドミトリイ・フョードロヴィッチをこわ
るということを旦那にお知らせしなければなりません、
もわかりませんから、あのかたが近くへ来ていらっしゃ
ミトリイ・フョードロヴィッチもやはりおいでになるか
かお知らせになる場合の用心でございます、それに、ド
レクサンドロヴナが自身でお見えにならないで使いで何
いう手はずでございます、これは、アグラフェーナ・ア
す、そこで、わたくしは中へはいって、お知らせすると
れ
のでございます、すると旦那は何か急な事があったので、
でございます、これは旦那が御自分で幾度もまねをして、
あ
わたくしがぜひ旦那にお目にかからなくちゃならないの
よく説明して教えてくだすったのでございます、こうい
あ れ
だとお察しになって、やはりすぐ扉をあけてくださいま
442
立てることをひどく恐れていらっしゃいますので︶、そっ
とも疑ったり、声を立てたりなさらないで︵旦那は声を
たくしと旦那と二人きりでございますから、旦那はちっ
うわけで世界じゅうにこの合い図を知っておるのは、わ
ぞ﹂
と思ったら、貴様が入れないようにしなけりゃあならん
﹁もし、兄貴がその合い図を利用して押し入りそうだな
くためにでございますよ﹂
何もかもお知らせしている、ということを信じていただ
け
と扉をあけてくださいます、この合い図が今はドミトリ
﹁そりゃ、わたくしにしても、お兄さんが 自暴 になって
まいと思いましたところで、もしわたくしが発作で倒れ
や
イ・フョードロヴィッチに知れてしまっているのでござ
おられることは承知していますから、無理にもお通しす
貴様が告げ口をした
いますよ﹂
﹁どうして知れてしまったんだ?
くそ
どうして貴様はまた、発作が
ていましたら、なんともしかたがないではございません
か﹂
どうしてそんな大それたことをしたん
だ?﹂
﹁ちぇっ、勝手にしろ!
のじゃないか?
﹁恐ろしいからでございますよ、それにどうしてわたく
起こることに決めてやがるんだ、本当に 糞 ! いったい
ドミトリイ ・
﹁どうしてあなたをからかうなんて、そんな大それたこ
しがあの人に隠しおおせるものですか?
してるんじゃないか?
とができましょう、第一こんな恐ろしいことを眼の前に
貴様はこのおれをからかっているのか、どうだ?﹂
か? そんなことをしたら貴様の両足をたたき折ってや
控えていて、冗談どころじゃございませんよ、なんだか
フョードロヴィッチは毎日のように、
﹃貴様はおれをだま
るからっ!﹄ておどしなさるじゃありませんか、そこで
癇 が起こりそうな気がします、そんな気がするのでご
癲
何かおれに隠してるんじゃない
わたくしはあの人にこの秘密をお知らせしたのです、つ
ざいます、恐ろしいと思うだけでも起こりますよ﹂
てんかん
まりそれで、わたくしの奴隷のような服従を見ていただ
明日貴様が寝こめば、グリゴリイ
﹁ちぇっ、畜生め!
うそ
いて、わたくしがけっして 嘘 を申すどころか、かえって
443
ぬようにしまっておりますが、何かの草から採った強い
イグナーチエヴナはある 浸酒 を知っていていつも絶やさ
はずいぶんおもしろいことをするのですよ、 マルファ・
さきほどそんな相談をしていました、なんでもその療治
イグナーチエヴナが療治をすることになっておるのです、
人はなにしろ昨日からかげんが悪くて、 明日マルファ・
れないようにするだろうとおっしゃいますけれど、あの
シーリエヴィッチがお兄さんのおいでを聞きつけて、入
ていうわけにはまいりませんよ、それにグリゴリイ・ワ
合い図をグリゴリイ・ワシーリエヴィッチに知らせるなん
﹁どんなことがあっても、旦那のお許しがない以上、あの
れならけっして兄貴を入れやしないぞ﹂
が見張りをするよ、前からあれにそう言っといたら、あ
フョードロヴィッチを入れないようにするなぞというこ
れば、あの夫婦が何か物音を聞きつけて、ドミトリイ・
もしマルファ・イグナーチエヴナが明日本当に療治をす
まって頭痛がするのでございます、こういうわけでして、
が、マルファ・イグナーチエヴナは眼をさました後でき
ヴィッチは眼をさませば、いつも病気がなおっています
すり寝こむのでございますよ、グリゴリイ・ワシーリエ
そのままそこに倒れてしまって、かなり長いあいだぐっ
そうして二人とも、 酒のいけぬ人が酔っ払ったように、
いつも少々残しておいて、自分でも飲むのでございます、
もっとも、すっかりではございません、そんなときには
えながら、 びんに残っている浸酒を病人に飲ませます、
がるまでこするのでございます、そして何かお 呪 いを唱
かり病人の背中じゅうを、からからになって赤く 腫 れ上
は
やつで、あの 女 はその秘法を知っているのでございます、
とは、どうもおぼつかない話でございますよ、きっと寝
てんかん
何もかもわざとのよう
まじな
グリゴリイ・ワシーリエヴィッチは年に三度ほど 中風 か
こんでしまいますから﹂
しんしゅ
なんぞのように、腰が抜けてしまいそうなほど痛むので
﹁なんというばからしい話だ!
ひと
す、そんなときこの浸酒で療治します、なんでも年に三
に、重なり合うじゃないか、貴様は 癲癇 を起こすし、グ
ちゅうぶう
度くらいのものでございます、そのおりマルファ・イグ
リゴリイ夫婦は覚えなしに寝てしまうなんて!﹂とイワ
ぬ
ナーチエヴナはこの浸酒で手拭いを 濡 らして、半時間ば
444
アグラフェーナ ・
﹁じゃ、なんのために兄貴が親
爺 の所へやって来るんだ、
せるなんて、そんなことがあってよいものですか﹂
わたくしがあの人の手引きをして、旦那の所へ踏みこま
でかしなさるのでございますよ、本当にめっそうもない、
しでかそうとお思いになれば、何もかもそのとおりにし
のためにそんなことをいたしましょう⋮⋮あの人が何か
チのお考え一つで、どうともなるというやさきに、なん
う⋮⋮それに、何もかもドミトリイ ・ フョードロヴィッ
﹁どうしてわたくしが、そんな段取りなんかしくみましょ
に彼はこう口をすべらして、険しく 眉 をひそめた。
とそんな段取りにしくもうってんじゃないかい?﹂不意
ン・フョードロヴィッチは叫んだ、
﹁ひょっと貴様がわざ
ル・パーヴロヴィッチのところに、三千ルーブルのお金
ないかとお思いになって。そのうえお兄さんはフョード
んよ︱︱︱もしやあの女が自分に隠れてはいりこんでやし
なって、部屋の中まで捜しにいらっしゃるかもしれませ
う心をお起こしになって、昨日のように我慢しきれなく
ば、あの疑ぐり深い御性分のことですから、もしやとい
いらっしゃいましょうし、もしわたくしが病気でもすれ
はございますまいよ、お兄さんはただ腹立ちまぎれにも
ざいましょう、わたくしの肚の中などを 詮索 なさること
﹁なんのためにいらっしゃるかは、御自分で御承知でご
貴様の 肚 の中が知りたいんだ﹂
が親爺の所へあばれこむんだ、さあ言ってみろ!
ないんだ、あの女が来もしないのに、なんのために兄貴
僕は
それもこっそりやって来るなんて?
を入れた大きな封筒が、 ちゃんと用意してあることも、
はら
アレクサンドロヴナはけっしてここへやって来やしない
やっぱり御存じになっています、その封筒を三つとも封
まゆ
と、貴様自身言ってるじゃないか﹂と、イワン・フョード
印をした上に紐 でゆわえて、
﹃わが天使なるグルーシェン
せんさく
ロヴィッチは憤りのために顔色を変えて語をついだ、
﹁貴
カへ、もしわがもとに来たりなば﹄と御自分の手でお書
く
おやじ
様の口からもそれを聞くし、僕もここに滞在しているあ
きになったのですが、それから二、三日たってまた﹃ひ
ご
ひも
いだにちゃんと見抜いてしまったんだが、親爺はただ夢
な鳥へ﹄と書き添えられました、これがそもそも疑わし
じ
を見ているだけで、あの 淫売女 はけっしてやって来やし
445
あるのだ﹄と御自分の口からわたくしにおっしゃいまし
爺はまだちょうど三千ルーブルだけおれに支払う義務が
分のものかなんぞのように思っていらっしゃいます、
﹃親
のうえ、お兄さんはその三千ルーブルの金を、まるで自
て、いちじるしくはっきりした調子でこう説明した。
﹁そ
いましょう﹂スメルジャコフはどこまでも落ち着き払っ
にお困りになっているか、あなたは御存じないのでござ
らっしゃいますよ、イワン・フョードロヴィッチ、どんな
﹁でも、あのかたは今、非常にお金の入用に迫られてい
てたまるものか!﹂
に親爺を殺すようなことがあるが、強盗なんぞに出かけ
ばかが夢中になったことだから、グルーシェンカのため
なんてはずはない、昨日のような場合には、 癇癪 もちの
ような男じゃない、おまけに、そのついでに親爺を殺す
ほとんどわれを忘れてどなった。
﹁ドミトリイは金を盗む
﹁くだらないことだ!﹂イワン・フョードロヴィッチは
いのでございますよ﹂
トリイ・フョードロヴィッチにしろ、また弟さんのアレ
ワン・フョードロヴィッチ、そうなさった暁には、ドミ
頭に入れてから、ひとつお考えになって御覧なさい。イ
の人と結婚するはずはありませんよ。これだけのことを
から、ドミトリイ・フョードロヴィッチのような裸一貫
います、それに御当人もなかなか利口な 女 でございます
に、それは悪くない分別だと言って、笑ったそうでござ
サムソノフという商人が、あのかたに向かってあけすけ
わたくしの聞きましたところでは、あの御婦人の旦那の
心でおられるかもしれないと思うからでございますよ。
そんな浮いたことより、いっそ奥様になりたいという下
けっして来られないと申しましたのも、 もしかしたら、
ならないともかぎりませんし。わたくしはあの御婦人が
ますよ、それに旦那のほうだって案外その気におなりに
ドル・パーヴロヴィッチをまるめこんで結婚してしまい
えなられるなら、わけなくあのかたを︱︱︱つまりフョー
ラフェーナ・アレクサンドロヴナは、自分でその気にさ
さいまし、これはほとんど間違いのない話ですが、アグ
かんしゃく
た、それにイワン・フョードロヴィッチ、もう一つ確か
クセイ・フョードロヴィッチにしましても、旦那がおか
ひと
な真理があるのですよ、ようく御自分で判断して御覧な
446
どういうつもり
フをさえぎった。
﹁そんな事情があるのに、チェルマーシ
﹁じゃ、なんだって貴様は﹂と、彼は突然スメルジャコ
くりと震えたようであった。彼は急に赤くなった。
イワン・フョードロヴィッチの顔が妙にゆがんで、ぴ
リイ・フョードロヴィッチにはよくわかっております﹂
分け前が手にはいるわけなんで⋮⋮これはみんなドミト
ヴィッチにでさえ、遺言状がこしらえてありませんから、
のあれほど憎んでいらっしゃるドミトリイ・フョードロ
はめいめい四万ルーブルずつのお金が渡りますよ、旦那
お父さんがお亡くなりになれば、さっそくあなたがたに
ねえ。ところが、まだそんなことにならない今のうちに、
産という財産を残らず自分の物にする下心なんですから
何もかもいっさいがっさい、自分の名義に書き換えて、財
フェーナ・アレクサンドロヴナが旦那と結婚なさるのは、
ることじゃございませんぜ、なぜと言いまして、アグラ
くれになったからとて、ただの一ルーブルだってもらえ
ヴィッチはベンチから立ち上がった。それからすぐに耳
恐ろしい悪党だ!﹂こう言って、突然イワン・フョードロ
﹁どうやら貴様は大ばか者らしいぞ、そして、もちろん、
人とも沈黙に落ちた。
な表情で眺めながら、スメルジャコフはこう答えた。二
光るイワン・フョードロヴィッチの眼を、思いきり露骨
捨てて、どこかへ行ってしまいますよ⋮⋮﹂ぎらぎらと
ら、こんなことに掛かり合うよりは⋮⋮いっそ何もかも
でございますよ、わたくしがあなたの立場におりました
﹁わたくしはあなたがお気の毒になって、ああ申したの
ロヴィッチが問い返した。
れを押えながら、険しく眼を輝かしてイワン・フョード
﹁何がおっしゃるとおりなんだ?﹂と、かろうじておの
をうかがいながら言った。
かに分別くさい調子で、とはいえ、じっとイワンの顔色
﹁全くおっしゃるとおりです﹂と、スメルジャコフは静
ドロヴィッチはやっとの思いで息をついだ。
門の中へはいってしまおうとしたが、不意に立ち止まっ
ニャへ行けなどと僕にすすめるんだ?
であんなことを言ったのだ?
て、スメルジャコフのほうをふり向いた。何かしら変な
僕が行ってしまったあと
で、たいへんなことが起こるじゃないか﹂イワン・フョー
447
た。後になって彼は、どんな必要があってそんなことを
しげに、一語一語を分けるように、大きな声でこう言っ
が、明日の朝早く立つんだ⋮⋮それだけだ!﹂と彼は憎々
﹁僕は明日モスクワへ立つよ、もし望みなら話してやる
無言のまま耳門のほうへ 踵 を転じた。
ヴィッチは黙ったまま、しかし何やら思い惑った様子で、
ジャコフにとって無事に経過した。イワン・フョードロ
して、全身を後ろへ退いた。しかし、その瞬間はスメル
ともその同じ 刹那 にそれを見てとって、思わずぎくりと
おどりかかりそうなけんまくであった。こちらは少なく
握りしめた︱︱︱そして次の瞬間には、スメルジャコフに
けなく 痙攣 でも起こしたように、 唇 をかみしめて、 拳 を
ことが起こった。イワン・フョードロヴィッチは思いが
チがとっさにどなった。
からず、急に声を張り上げて、イワン・フョードロヴィッ
その、何か事件のあった場合にさ?﹂なんのためともわ
﹁チェルマーシニャだったら呼んでくれないのかい⋮⋮
が読み取られた。
しなさったことはございませんか?﹄というような意味
何かおっしゃることはございませんか、もう何も言い残
ン・フョードロヴィッチをみつめている眼
眸 には、
﹃もう
し、それはもはや臆病で卑屈らしい表情であった。イワ
その顔全体が極端な注意と期待を表わしていたが、しか
のなれなれしい投げやりな表情が一瞬にして消え失せて、
と、今度は相手のほうに何か同じような変化が生じた。あ
またもやすばやくスメルジャコフのほうへ向きなおった。
イワン・フョードロヴィッチはもう一度立ち止まって、
こぶし
スメルジャコフに言ったのか、われながら不審でならな
﹁チェルマーシニャへおいでになっても⋮⋮やっぱりお
くちびる
かった。
知らせしますよ⋮⋮﹂と、スメルジャコフはあわてたよ
けいれん
﹁それが何よりでございますよ﹂こちらはそれを待ちか
うに、ほとんどささやくような声でつぶやいたが、しか
せつな
まえているように、こう相づちを打った、
﹁ひょっとなん
し依然として、じっとイワン・フョードロヴィッチの顔
まなざし
ぞ変わったことがありました場合には、こちらから電報
をまともに見つめていた。
くびす
でお呼びするようなことがあるかもしれませんけれど﹂
448
﹁だがおまえがチェルマーシニャ行きをすすめるところ
をみると、モスクワは遠くてチェルマーシニャは近いか
ら旅費が惜しいとでも言うのか、それとも僕がむだな大
回りをするのが気の毒だとでも言うのかい?﹂
﹁全くおっしゃるとおりでございます⋮⋮﹂と、またし
ても忌まわしくにたにた笑いながら、ひきちぎれたよう
な声でスメルジャコフがつぶやいた。そして痙攣するよ
うな身ぶりで、すばやく後ろへ飛びのく身構えをするの
であった。しかし、イワン・フョードロヴィッチはスメ
ルジャコフがびっくりしたくらいだしぬけにからからと
くぐり
笑いだした。そしてなおも笑い続けながら、足早に 耳門 をくぐってしまった。このとき誰か彼の顔を一目見たも
のがあったら、彼が笑いだしたのはけっして愉快であっ
たがためでないことを、確かめたに違いない。それに彼
自身もこの瞬間にどんなことを心に思っていたのか、そ
れは、とうてい説明することができなかったのであろう。
彼はさながら痙攣にかかっているような身ぶりと足どり
で歩いて行った。
七 ﹃賢い人と話す興味﹄
物の言いぶりもやはり同じようであった。広間へはい
るなり、フョードル・パーヴロヴィッチにぱったり出会
うと、 彼はいきなり手を振りながら父に向かって、﹃僕
は二階の部屋へ帰るんで、お父さんの所へ行くのじゃあ
りません、さようなら!﹄とわめきざま父にさえ顔をそ
むけるようにして、そばを通り過ぎてしまった。この刹
那、老人はたまらなく憎らしかったということは、さも
ありそうなことであるが、これほど露骨な憎悪の表現は、
フョードル・パーヴロヴィッチにとっても実に意外であっ
た。実際、老人は至急、彼に話したいことがあって、わ
あいきょう
ざわざ広間まで出迎えたところだったのである。それが、
はしごだん
こういう 愛嬌 を浴びせかけられたので、老人はあいた口
あざわら
もふさがらず、突っ立ったまま、中二階をさして 梯子段 を上って行くわが子の姿を見えなくなるまで、 嘲笑 うよ
うな顔つきで見送っていた。
﹁あいつはいったいどうしたというんだ?﹂と、彼はイ
ワン・フョードロヴィッチの後ろからはいって来たスメ
449
にはいるものはなかった。
暗い窓の外をのぞいて見たが、
﹃夜﹄のほかには何一つ眼
ぬかと、胸をわくわくさせて待ち構えながら、ときどき
き回って、約束の五つのノックの合い図が今にも聞こえ
そして愛欲に取りのぼせた老人は、一人で部屋の中を歩
よう。 半時間の後には家はすっかり戸締まりができた。
るから、それをここにくだくだしくくり返すことは避け
つまり彼が待ちに待っている例の女客のことばかりであ
ロヴィッチに哀訴したような、うるさい質問が始まった。
そこで、今しがたスメルジャコフがイワン・フョード
早く、なんぞ変わった話はないのか?﹂
まえもサモワルを出しといて、さっさと出て行け、さあ
﹁ええ勝手にしやがれ! 怒るやつには怒らしとくさ。お
逃げ口上でこうつぶやいた。
すったのやら、さっぱりわかりませんよ﹂と、こちらは
﹁何かに腹を立てていらっしゃるのでしょうが、どうな
ルジャコフに向かって尋ねた。
だ、この世にまたとないほどひどい侮辱を自分に加えた
けでと聞かれたら、あの下男が憎らしくてたまらないの
ようなことであった。
スメルジャコフを打ちのめしてやりたくなる、と言った
もたまらず、階下へおりて扉をあけ放して 傍屋 へ行って、
ば、もう十二時を過ぎたような時刻なのに、突然、矢も 楯 ろの欲望が目ざめて、彼を苦しめるのであった。たとえ
た。かてて加えて、奇態な、まるで思いもかけぬいろい
も自分の心が、すっかり混乱してしまったような気がし
恐ろしく入り乱れたものであったからである。彼自身に
のではなくて、何かしらひどく取りとめのない、しかも
ぜならば、彼の頭の中にあるのは、思想と名づくべきも
で、それは非常にむずかしいこととなるに違いない。な
れに、たとえ今何かを読者に物語ろうとしてみたところ
の霊魂についてはやがて語るべき順番がくるだろう。そ
それに今はそんな霊魂に立ち入っている時ではない。こ
今は彼の思想の推移を細々と伝えることもよしておこう。
はこの夜たいへん遅く、二時過ぎに床についた。しかし、
しかし、もし誰かにどういうわ
たて
もう非常に遅い時刻ではあったが、イワン・フョード
やつだ、というくらいのことよりほかには、何一つ取り
はなれ
ロヴィッチはまだ眠らないで物思いにふけっていた。彼
450
ささやいたことを、はっきり覚えているので、このとき
やすやすと別れることができるものか﹄と自分に自分で
けるものか、おまえはいま空威張りをしているが、そう
た時でさえ、肚の中では﹃なあに、でたらめだ、なんで行
に向かって﹃明朝モスクワへ立ちます﹄と立派に広言し
ことはほとんど考えようともしなかった。彼はけさ彼女
が憎くてたまらなかった。カテリーナ・イワーノヴナの
リョーシャさえも憎らしかった。ときには自分自身まで
胸を刺 すのであった。彼は、先刻の会話を思い出すと、ア
をしようとでも思っているように、憎々しい毒念が彼の
して頭が痛み、 眩暈 がする。なんだかまるで誰かに 復讐 に今急に肉体的な力まで喪失したような感じがした。そ
い、いまいましい臆病な気持に魂をつかまれて、そのため
う。いま一方から見ると、彼はこの夜、一種説明しがた
立てて理由らしいものを示すことはできなかったであろ
などという感じをいだかなかったが、ただどういうわけ
ル・パーヴロヴィッチに対しては、その瞬間、なんら憎悪
も卑劣きわまる行為だと考えたのである。当のフョード
んでいた。深い深い魂の奥底で、自分の生涯じゅうの最
を彼はその後、生きている間じゅう、
はむろん、彼自身にもわからなかった。この
んなことをするのか、何のために耳を澄ますのか、それ
じっと耳を澄ますのであったが、しかし、何のためにこ
胸をおどらせながら、しばらくずつ、五分間ばかりずつ、
であった、しかも一種奇怪な好奇心を覚えて、息を殺し、
をしたり歩いたりする物音に、一心に聞き耳を立てるの
がら、フョードル・パーヴロヴィッチが下の部屋で身動き
あけて梯子段の上まで出て、下の方へじっと耳を傾けな
透き見されるのが恐ろしく気になるように、そっと扉を
きどきふいと長椅子を立っては、ちょうど自分の様子を
さました事実が一つある。それはほかでもない、彼はと
ふくしゅう
彼女のことを忘れてしまったのがなおさら奇怪に感じら
か、ひどく好奇心を動かされたのである。いま父は下の
めまい
れた。彼は後になって、深くこのことに驚いたのである。
部屋でどんな風に歩き回っているのだろう、今一人きり
さ
だいぶたってから、この夜のことを思い出したとき、イ
で何をしているだろう、などと考えてみたり、今ごろは
卑劣な行為と呼
ふるまい
ワン・フョードロヴィッチの心に激しい嫌悪の念をよび
451
ながら驚いたくらい、自分の身内に突然ある異常な精力
なったばかりの七時に眼をさました。眼を開くと、われ
こんでしまったが、しかし朝は早く、まだやっと明るく
彼はたちまち深い眠りに落ちて、夢も見ずにぐっすり寝
う、 激しい希望をいだきながら床についた。 はたして、
かり心身の疲労を覚えたので、一刻も早く眠りたいとい
チも寝についた時分、イワン・フョードロヴィッチはすっ
がしんと静まり返って、もうフョードル・パーヴロヴィッ
階段の下り口へ出て見たのであった。二時ごろ、あたり
とのために、イワン・フョードロヴィッチは二度までも
に違いない、などと想像してみるのであった。こんなこ
まって、誰か戸をたたきはせぬかと、待ちに待っている
定めし、暗い窓をのぞいては、不意に部屋の中で立ち止
作にも、なんとなくそわそわして、性急なところはあっ
ン・フョードロヴィッチは下へおりた。そのことばにも動
毎日の問いを発したのは、もう九時過ぎであった。イワ
ちらになさいますか、 階下 へおおりになりますか?﹄と
へあがって来て、
﹃お茶はどちらで召し上がりますか、こ
はできあがった。マルファ・イグナーチエヴナが彼の所
えていなかったのである。やがて鞄とトランクの荷造り
として、 鞄 の荷造りに取りかかろうなどとは、夢にも考
えている。少なくとも、朝眼をさましたとき、第一着手
く時、出発のことなど考えてもいなかったことをよく憶
フに︶明日出発すると言いはしたものの、ゆうべ床につ
ノヴナと、アリョーシャと、それから後でスメルジャコ
ワン・フョードロヴィッチは前日、
︵カテリーナ・イワー
たほどであった。全くその出発は 唐突 であった。実際イ
とうとつ
の汪
溢 するのを感じて、いちはやく 跳 ね起きて着換えを
たけれど、ほとんど嬉しそうな様子をしていた。愛想よ
かばん
済ました。それから靴を引き出すと、さっそく、荷造り
く父に挨拶をして、ことさら体のぐあいまで尋ねながら、
た
に取りかかった。肌着類はちょうど昨日の朝、洗濯屋か
父の返事を待たずに彼は、一時間の後には、これっきり
し
ら残らず受け取ったばかりであった。イワン・フョード
モスクワへ立ってしまうから、馬をよこすように使いを
は
ロヴィッチは万事が好都合に運ばれ、こんな急な出発に
やって欲しいと、一気に申し出た。老人は息子の出発を
おういつ
何の支障もないことを考えて、にやりと薄笑いを浮かべ
452
が、今日はぜひともチェルマーシニャへ寄ってくれい、ほ
﹁なあに、明日の間には合うよ、でなきゃ明後日のな、だ
の﹂
ですから、やっとぎりぎりに間に合うくらいなんですも
里もあるのに、モスクワ行きの汽車は晩の七時に出るん
﹁どうしてそんな、とてもだめですよ、鉄道まで八十露
んだから﹂
ぜい十二 露里 そこそこでもうその、チェルマーシニャな
宿場からほんのちょっと左へ折れるだけなんだよ、せい
ルマーシニャへ寄って行ってくれないか、ワロヴィヤの
つくだろう、なあ、おまえ、どうか頼むからひとつチェ
んて⋮⋮だがまあ、どっちにしても、今すぐだって話は
﹁なんだと、おまえ! 変なやつだぜ! 昨日話さないな
して、急にひどくあわてだした。
に、ちょうどいいあんばいに自身の大切な用件を思い出
ふりを見せずにこの知らせを聞き終わった。その代わり
悲しむという儀礼上の要求さえ忘れて、みじんも驚いた
が、一つありがたいことは、この男がこちらの者でなく
れもやはりちょっとした商人で、わしは前から知っとる
スツキンがやって来たことを知らせてくれたのだよ、こ
木曜日に、不意にイリンスコエの坊さんが手紙で、ゴル
ち打ちのできる者が一人もないのだ。ところが、先週の
承知せんというやつで、こちらの商人で、この親子にた
で、自分が値をつけたら、どんなことがあっても取らにゃ
よ、このマスロフというのが親子とも十万 分限 のやりて
なにしろ、ここの人間には、今とても売れ口がないのだ
はここの者じゃないんだ︱︱︱そこにいわくがあるのだ、
たけれど、一万二千ルーブル出すと言いおったよ、それ
ルより出しおらんのだ、去年ついた買い手は破談になっ
切らしてくれと言うんだが、たった、たった八千ルーブ
あるんだ。ところで、マスロフという商人の親子が木を
チェフとジャーチキンの二区にまたがって、淋しい所に
もそうしちゃいられないんだ⋮⋮。な、あの森はベギー
な、大事な用だからな、しかしこちらの都合が⋮⋮どう
分で飛んで行ってるところなんだが、なにしろとても急
エルスター
んのちょっとの手間で親を安心させるというものだよ!
て、ポグレキウォの人間だってことなのさ、つまりマス
ぶげん
もしここに仕事さえなかったら、もうとっくにわしが自
453
なんか着こんで、まるでどん百姓のようだが、肚の中と
が、そのゴルスツキンというのは、見かけは紺の袖無し
なお人好しだよ、それでいて学者だから驚くて。ところ
ないんだ、人間ならまだしも、 鴉 にだってだまされそう
平気で預けてみせるよ、しかし眼力というものが少しも
の人になら今すぐ二万ルーブルの金を、受け取りなしに
見る眼というものがないからなあ、人は好いもので、あ
﹁とてもあの人にゃできない相談だよ、あの坊さんには
りませんか、その人が談判をしてくれますよ﹂
﹁それじゃあ、その坊さんに手紙を出したらいいじゃあ
してみてくれないか⋮⋮﹂
いうことだから、おまえひとつ出かけて、その男と談判
さんの手紙では、その男がもう一週間しか 逗留 しないと
ルーブルで買うと言ってるのだよ、な、いいかえ?
坊
この町の者じゃないからな。そこで、あの森を一万一千
ロフなんか眼中においてないってわけなんだ、なにしろ
ときは、つまり何も言うことはない、あいつは本当のこ
ろしとるが、その髯を震わしながら腹を立てて物を言う
ちゃならんのだ、あいつの髯は赤くてよごれてちょろちょ
きをしておるからな。いいか、あの男はまず 髯 を見なく
えてやるわい、わしはもうだいぶ前からあの男と取り引
わしがあの男の、つまりゴルスツキンの癖をすっかり教
﹁いや、待て、そうでない、おまえでも役に立つぞ、今
僕には眼力なんかありませんから﹂
﹁そんなんじゃあ、僕なんかなんの役にも立ちませんよ、
はと思うのさ﹂
で買うというのも、本当か嘘か、それを突き止めないで
ているんだ。そんな風だから、今度も一万一千ルーブル
んしていて、三日に一ぺんはきまって亭主野郎をなぐっ
でたらめなんだよ、女房が死ぬどころか、今でもぴんぴ
などと言いおったが、その実そんなことは根も葉もない
んかも、女房が死んだから、今二度目のをもらっている
くのかと、不思議になるような嘘をつくんだ。一昨年な
とうりゅう
きたら、まるっきり悪党なんだ、これがお互いの不仕合
とをしゃべっているんだ、まじめに取り引きをする気が
からす
わせというのさ、つまり、恐ろしい嘘つきなんだ、これ
あるんだ。ところが、もし左の手で髯をこうなでながら、
ひげ
が問題なのさ、どうかすると、何のためにあんな嘘をつ
454
よ。それに、またといって、なかなか買い手はつきゃせ
じゃないか、この三千ルーブルは全く目つけものなんだ
千ルーブルと一万一千ルーブル︱︱︱三千ルーブルの開き
れよりうえ負けちゃいかんぞ、まあ、考えてもみろ、八
で、千ルーブルくらいは負けてやってもいい。しかし、そ
いいんだよ。初め一万一千ルーブルで頑張ってみたうえ
をよこしてくれ、ただ﹃嘘ではない﹄と書きさえすりゃ
あいつと談判をして、うまくいきそうだったらすぐ手紙
リャガウイなんて言っちゃいかんぞ、怒るからな、もし
なくてリャガウイだ、しかし、おまえあいつに向かって
くれ、男はゴルスツキンだが、本当はゴルスツキンじゃ
当てた手紙をおまえにことずけるから、そいつを見せて
︱︱︱つまり髯さえ見ていればいいのさ、わしがあの男に
ぞ、あいつの眼では何もわかりゃせんぞ、悪党だからな
してやがるのだ、あの男の眼はけっして見るのじゃない
笑っているときは、つまり 瞞着 しようと思って悪企みを
ように髯を見るんだ、髯が震えてたら本当なんだから﹂
言っとるかどうかさえ、見抜きゃいいんだ、今も言った
力をそなえておるからなあ、ただあの男が本当のことを
からんと思うのかい?
ないて、おまえだけだよ、賢い人間は、それがわしにわ
が、こんなことにかけては、アリョーシャじゃしようが
なくなりゃあせんよ。アリョーシャをやってもいいのだ
のかい?
おまえは今どこへ行こうってんだ、ヴェニスへでも行く
本当に!
おまえたちはどいつもこいつも不人情なやつばかりだよ、
﹁まあさ、親爺の言うことも聞いてくれ、恩に着るぞ!
い﹂
﹁ちょっと、そんな暇がないんですよ、堪忍してくださ
うがないよ﹂
いかもしれんからなあ、わしがわざわざ出かけてもしよ
けるさ。しかし、まだ今のところでは、坊さんの思い違
まんちゃく
んし、今さしずめ金には困り抜いてるんだからなあ、も
﹁お父さんは自分からあのいまいましいチェルマーシニャ
森の売り買いこそしまいが、眼
なあに、おまえのヴェニスは二日のあいだに
いったい
しまじめな話だという知らせさえあれば、その時はわし
へ、僕を追い立てるんですね? え?﹂と、イワン・フョー
一日や二日どうだというんだい?
が飛んで行って片をつけるわい、なんとかして暇を見つ
455
の用意に使いを出したりして、 前菜 とコニャクを出させ
老人はただもう有頂天になって、手紙を書いたり、馬
ヤの宿場まで送ってくれるよ⋮⋮﹂
がよい、坊さんが自分の馬をつけて、おまえをワロヴィ
まえの邪魔はせんから、ヴェニスへでもどこへでも行く
けをわしに届けてくれるからなあ、それから後はもうお
てくれ、そうすれば、やっこさんがすぐおまえの書きつ
決めてくれ! 話がついたら一筆書いて、坊さんに渡し
﹁途中でとはなんだ、今決めるがいい、な、いい子だから
うよ﹂
﹁わかりませんよ、行くかどうか、まあ途中で決めましょ
すぐに今一筆書いてやるからな﹂
﹁じゃあ、行ってくれるんだな、行ってくれるんだな!
ただ薄笑いのほうだけを取りあげたのである。
けには気づかないで、あるいは気づくことを欲しないで、
フョードル・パーヴロヴィッチはその無気味なものだ
ドロヴィッチは無気味な薄笑いを浮かべながらどなった。
んだ。
イワン・フョードロヴィッチは旅行馬車の中へ乗りこ
行くがいい!﹂
来てくれよ、わしはいつでも歓迎するよ、じゃ、達者で
くり返した。
﹁いつかまたやって来るだろうな? 本当に
﹁じゃ、御機嫌よう、御機嫌よう!﹂と彼は玄関口から
退いた。
を差し出した。老人もたちまちそれと悟って、急に身を
かに接吻を避けるつもりで、とっさに、握手のために手
へ近寄った。しかしイワン・フョードロヴィッチは明ら
ヴロヴィッチも少し騒ぎ出して、接吻するつもりでそば
関までわが子を送り出すとはじめて、フョードル・パー
げんおれには飽きたろうな﹄と彼は肚の中で思った。玄
ヴィッチもすぐそれに気がついた。
﹃だが、親爺もいいか
からないようにさえ見受けられた。イワン・フョードロ
はさらに見えなかった。むしろなんと言っていいのかわ
にも出さなかった。しかし、別れを惜しむといった様子
ドミトリイ・フョードロヴィッチのことなどは、おくび
オードブル
た。 彼は 悦 に入ると、 きまって口数が多くなるのだが、
﹁あばよ、イワンや、あんまり悪うは言わんでくれよ!﹂
えつ
このときはなんとなく控え目にしているようであった。
456
めいめいに十ルーブルずつやった。彼がすっかり馬車の
リイも
見送りに出た。イワン・フョードロヴィッチは
家内の者は皆、スメルジャコフも、マルファもグリゴ
父は最後にこう叫んだ。
を通り過ぎただけで、実際のところ、彼は百姓の答えを
一、二分もたってから考えてみると、それはただ耳もと
その百姓の答えがひどくおもしろいように思われたが、
心がさわやかになった。 で、 御者に話しかけてみると、
どを、むさぼるように見入るのであった。と、急に彼は
というのは本当のことでございますね﹂じっとしみ入る
﹁してみると、賢い人とはちょっと話してもおもしろい
とを覚えていた。
的な微笑までついて出た。彼はその後長いあいだこのこ
にことばが飛び出してしまったのである。おまけに神経
口をすべらした。ちょうど昨日と同じように、ひとりで
と、いかにも唐突にイワン・フョードロヴィッチはこう
﹁なあ、 おい⋮⋮チェル マ ーシ ニャへ 行く ん だよ⋮⋮﹂
なおしに駆け寄った。
ちょっと話してもおもしろいんだ?
て、ひたすらワロヴィヤをさして急いだ。
﹃なぜ賢い人は
考えた。駅はただ馬を換えるだけでいちはやく通り過ぎ
てしまった。
﹃まだまだあの連中の時代だろうさ﹄と彼は
ほえんだだけで、静かにそのなつかしい幻影を吹き消し
ノヴナの姿が、彼の頭をかすめたが、彼はただ静かにほ
れわたっていた。ふとアリョーシャとカテリーナ・イワー
は清く澄み、しっとりとしてすがすがしく空は美しく晴
しまったが、それでいて非常に好い気持であった。空気
少しも聞いてはいなかったのである。彼は口をつぐんで
じゅうたん
膝かけの絨
毯 を
ようにイワン・フョードロヴィッチをみつめながら、ス
もりであんなことを言いおったのだろう?﹄ふとこんな
中に落ち着いた時、スメルジャコフが
メルジャコフがしっかりした調子で答えた。
ことを考えた時、彼は息の止まるような思いがした。
﹃し
あいつはなんのつ
馬車がごとんと一つ揺れると、走り出した。旅人の心
かもおれはなんのために、チェルマーシニャへ行くんだ
もうろう
は 朦朧 としていたけれど、 彼はあたりの野らや、 丘や、
なんて、わざわざやつに報告したんだろう?﹄やがてワ
かり
木立ちや、晴れわたった空を高く飛び過ぎる 雁 の群れな
457
あ、おまえおれの親父のフョードル・パーヴロヴィッチ・
﹁じゃ、ミートリイ、おまえに一つ頼みがあるんだがな
が行きますだよ﹂
﹁なんで行かんことがあるもんですか、このミートリイ
誰か、明日町へ行くものはないかね?﹂
﹁大至急でつけてくれ、ところで、おまえたちのうちで
﹁間に合いますよ、馬をつけましょうかな?﹂
車には間に合うか?﹂
﹁チェルマーシニャ行きは取りやめだ、おい、七時の汽
玄関へ出た。
りを見回して駅長の細君の顔を見ると、急に引っ返して
るように命じた。彼は駅舎へはいったが、ちょっとあた
ルマーシニャへ向けて立つことに決めた。彼は馬をつけ
で、十二 露里 の 田舎道 を私設の駅逓馬車に乗って、チェ
馬車から降りると、 たちまち御者の群れに包囲された。
ロヴィヤの宿へ着いた。イワン・フョードロヴィッチは
のない闇に閉ざされ、 心は深い悲しみにうずき始めた。
歓喜の代わりに彼の魂は、今までかつて経験したこと
ろなんかふり返ることじゃない!﹄
い世界へ行くんだ、新しい土地へ行くんだ、けっして後
去って、音もさたも聞こえなくしなければならぬ。新し
えてなくなれだ、もちろんこれまでの世界も永久に葬り
てモスクワへ向かった。﹃これまでのことは何もかも消
午後の七時にイワン・フョードロヴィッチは汽車に乗っ
ございます、ちゃんとお寄り申しますよ﹂
とミートリイも笑いだした。
﹁どうも、旦那、ありがとう
﹁へえ、 全くくださる気づけえはござりましねえとも﹂
活に笑いだした。
ろうからなあ⋮⋮﹂とイワン・フョードロヴィッチは快
﹁じゃ、これが 駄賃 だ、たぶん親爺はよこしゃしないだ
と以前から存じ上げておりますだで﹂
ますだよ、フョードル・パーヴロヴィッチ様なら、ずっ
﹁なんの行かねえことがござりましょう、お寄りいたし
いなかみち
カラマゾフの家へ寄って、おれがチェルマーシニャへ寄
彼は夜は夜っぴて、とつおいつ物思いにふけっていたが、
エルスター
らなかったことをそう言ってくれないか、行ってくれる
列車は遠慮なく走って行った。ようやく夜明けごろ汽車
だちん
だろうかね?﹂
458
を聞きつけたのである。それは一種特別な奇妙な叫び声
女は落ちるところこそ見なかったが、その代わり叫び声
くその物音を聞きつけたのはまだしも幸いであった。彼
もマルファ・イグナーチエヴナが庭に居合わせて、さっそ
いちばん上の段から下まで転げ落ちたのである。それで
てしまった。スメルジャコフが何かの用で穴蔵へ行って、
ちまちフョードル・パーヴロヴィッチの心を混乱に陥れ
このうえもなく不愉快な事件が家内にもちあがって、た
に、すべての家人にとってこのうえもなくいまいましく、
りちびりとコニャクを傾けたほどである。ところが不意
あいだ彼はみずからを仕合わせ者のように感じて、ちび
出してしまうと、非常な満足を感じた。まる二時間もの
一方フョードル・パーヴロヴィッチは、わが子を送り
た。
﹃おれは悪党だ!﹄と彼は肚の中でささやいた。
がモスクワの市街へかかったとき、彼は突然われに返っ
かった。発作はときどきやむこともあったけれど、すぐ
助けをしたほどであった。しかし病人は意識を回復しな
くりしてしまって、途方に暮れた面持ちで、自分でも手
ル・パーヴロヴィッチも現場に居合わせて、ひどくびっ
と運び出すことができた。この騒ぎのあいだ、フョード
困難であったから、近所の人に手伝ってもらって、やっ
済んだが、ただ彼を穴蔵からこの 娑婆 へかつぎ出すのが
言ったように、
﹃神の御加護で﹄別にそんなこともなくて
るだろうと思ったのに、マルファ・イグナーチエヴナの
と手か足をくじいて、体じゅう打ち身だらけになってい
がいているところを発見したのである。初めみんなきっ
ぴくぴくと 痙攣 させながら、口の端に泡を吹いて身をも
かったが、とにかく、人々は彼が穴蔵の底で、体じゅうを
起こったものか︱︱︱その辺の事情はついに知るよしもな
に、生来の癲癇持ちであるスメルジャコフにその発作が
るのが当然である。それとも反対に、墜落と 震盪 のため
しんとう
ではあったが、もうずっと前から聞き覚えのある 癲癇 持
にまたぶり返してきた。で、また去年やはり誤って屋根
けいれん
ちが発作を起こして卒倒する時の叫び声であった。彼は
裏からおっこちたときと同じようなことがくり返される
しゃば
階段をおりる途中で発作を起こしたのだろうか? それ
のだろうと人々は推測した。それで、去年氷で頭を冷や
てんかん
ならば、もちろんそのまま、覚えなしに下まで転げ落ち
459
おとし水のよう﹄ だし、 鶏肉はからからに焼き過ぎて、
スープなどはスメルジャコフの料理に比べると、
﹃まるで
食事はマルファ・イグナーチエヴナの手で調えられたが、
ういろんな災難を忍び通さなければならなかった。第一、
ドル・パーヴロヴィッチはその後ひき続いて、一日じゅ
はグリゴリイ夫婦の部屋の並びの部屋であった。フョー
ようと言った。病人は 傍屋 の一室へ寝かされたが、それ
今日の薬がきかなかったら、明日また別な処方をしてみ
のところ、まだはっきりしたことはわからないが、もし
だから、
﹃恐ろしい結果にならないとも限らぬ﹄しかし今
年配の上品な医者であった︶、これはなかなか激烈な発作
診察して︵この人は県内でも最も慎重で丁寧なかなりな
た。医者はすぐに駆けつけてくれた。彼は慎重に病人を
ロヴィッチは医者のヘルツェンシュトゥベを迎いにやっ
けることになったが、夕方になってフョードル・パーヴ
ので、マルファ・イグナーチエヴナがその世話を引き受
したことをふと思い出した。まだ穴蔵に氷が残っていた
リイが彼女を見張っているかもしれないから、耳を鋭く
て、ときどき聞き耳を立てるのであった。どこかでドミト
のように打ち続けた。彼はがらんとした部屋を歩き回っ
取っていたからである。こらえ性のない老人の胸は早鐘
なさいました﹄という、ほとんど伝言に近い情報を受け
から、
﹃あの女が今日こそ間違いなく行くと言って約束を
に待ち設けていたからである。今朝ほどスメルジャコフ
ちょうどこの夜グルーシェンカの来訪を、ほとんど確実
ひどく不安な期待に胸をふさがれていた。 そのわけは、
を切りあげると、ただひとり母屋へ閉じこもった。彼は
フョードル・パーヴロヴィッチはできるだけ早くお茶
寝こんでしまったというのであった。
リゴリイが、おりもおり、とうとう腰が立たなくなって、
た。それは、もう一昨日あたりからぶらぶらしていたグ
だ。それから夕方になると、また一つの心配がもちあがっ
とつさせていただいたわけでないからと抗議を申しこん
をとっていたのだし、またわたしにしても料理の 稽古 ひ
た小言に対して、鶏はそれでなくてももともと非常に年
けいこ
とてもかみこなせる代物ではなかった。マルファ・イグ
澄ましていなければならなかった。そして彼女が戸をた
はなれ
ナーチエヴナは主人の手きびしい、けれど道理にかなっ
460
たいたら︵スメルジャコフは女にどこをどうたたくかと
いう例の合い図を教えておいたと、もう一昨日、フョー
ドル・パーヴロヴィッチに報告した︶、できるだけ早く扉
をあけてやって、一秒もむだに玄関で待たせないように
することが肝心だ、でないと、彼女が何かに驚いて逃げ
1字下げ
﹁作者より﹂は大見出し
1字下げ
﹁第一篇 ある家の歴史﹂は大見出し
3字下げ
﹁一 フョードル ・ パーヴロヴィッチ ・ カラマゾ
出すようなことになったら、 それこそたいへんである。
フョードル・パーヴロヴィッチはずいぶん気がもめたけ
フ﹂は中見出し
割り注
割り注終わり
割り注
﹁四 三男アリョーシャ﹂は中見出し
3字下げ
﹁三 再婚と腹違い﹂は中見出し
3字下げ
﹁二 長男を追い立てる﹂は中見出し
3字下げ
れど、彼の心がこれほど甘美な希望に浸ったことは、こ
れまでついぞないことであった。今度こそ彼女は間違い
なくやって来ると断言することができるのではないか!
後註
ページの左右中央
ページの左右中央
3字下げ
461
3字下げ
割り注終わり
﹁六 何のためにこんな人間が生きているのだ!﹂
3字下げ
﹁五 アーメン・アーメン﹂は中見出し
3字下げ
﹁五 長老﹂は中見出し
﹁第二篇 お門違いな寄り合い﹂は大見出し
﹁七 野心家の神学生﹂は中見出し
は中見出し
3字下げ
﹁サムソノフという﹂は底本では﹁サムリノフ
1字下げ
﹁一 修道院に着く﹂は中見出し
3字下げ
という﹂
割り注終わり
﹁八 醜態﹂は中見出し
割り注
3字下げ
﹁フョードロヴィッチに﹂は底本では﹁フョード
ロヴッチに﹂
﹁二 老いたる道化﹂は中見出し
3字下げ
3字下げ
割り注
割り注終わり
割り注
﹁四 信心の薄い婦人﹂は中見出し
割り注終わり
﹁三 信心深い女たち﹂は中見出し
3字下げ
462
1字下げ
割り注終わり
割り注
﹁五 熱烈なる心の懺悔︱︱︱﹃まっさかさま﹄﹂
3字下げ
﹁かけた、﹂は底本では﹁かけた。﹂
﹁四 熱烈なる心の懺悔︱︱︱逸話﹂は中見出し
は﹁グリゴリイ・ワシリーエヴィッチ﹂
﹁グリゴリイ ・ ワシーリエヴィッチ﹂ は底本で
﹁七 論争﹂は中見出し
3字下げ
﹁六 スメルジャコフ﹂は中見出し
3字下げ
は中見出し
﹁第三篇 淫蕩な人たち﹂は大見出し
3字下げ
﹁一 従僕の部屋にて﹂は中見出し
﹁答えた。
﹂は底本では﹁答えた﹂
3字下げ
﹁二 リザヴェータ・スメルジャシチャヤ﹂は
中見出し
ルビの﹁コロージワイ﹂は底本では﹁コロジー
3字下げ
﹁山牛蒡の﹂は底本では﹁山午蒡の﹂
割り注
﹁出て行け﹂は底本では﹁出け行け﹂
﹁八 コニャクを飲みながら﹂は中見出し
3字下げ
﹁三 熱烈なる心の懺悔︱︱︱詩﹂は中見出し
割り注終わり
ワイ﹂
3字下げ
463
﹁ぶたれましたね、﹂は底本では﹁ぶたれました
割り注終わり
割り注
割り注終わり
割り注
3字下げ
﹁二 父のもとにて﹂は中見出し
3字下げ
﹁一 フェラポント長老﹂は中見出し
3字下げ
3字下げ
﹁三 小学生の仲間に﹂は中見出し
3字下げ
﹁四 ホフラーコワ家にて﹂は中見出し
ね ﹂
﹁九 淫蕩な人たち﹂は中見出し
割り注
割り注
﹁お父さん、﹂は底本では﹁お父さん ﹂
﹁一〇 女二人が﹂は中見出し
割り注終わり
割り注終わり
3字下げ
3字下げ
3字下げ
﹁一一 さらに一つの滅びたる名誉﹂は中見出
﹁カテリーナは﹂は底本では﹁カテーリナは﹂
﹁五 客間における破裂﹂は中見出し
1字下げ
割り注
し
﹁第四篇 破裂﹂は大見出し
464
割り注終わり
割り注
﹁六 小屋における破裂﹂は中見出し
3字下げ
割り注終わり
割り注
割り注終わり
﹁二 ギターをもてるスメルジャコフ﹂は中見
3字下げ
割り注終わり
割り注
割り注終わり
割り注
﹁一 婚約﹂は中見出し
﹁七 清らかなる外気のうちに﹂は中見出し
3字下げ
割り注終わり
割り注終わり
割り注
﹁三 兄弟相知る﹂は中見出し
3字下げ
出し
割り注
3字下げ
割り注
割り注終わり
﹁五 大審問官﹂は中見出し
3字下げ
﹁四 謀叛﹂は中見出し
﹂は大見出し
Pro et contra
1字下げ
﹁第五篇 3字下げ
465
割り注
割り注終わり
﹁あった。﹂は底本では﹁あった。 ﹂
﹁七 ﹃賢い人と話す興味﹄﹂は中見出し
3字下げ
んか、﹂
割り注終わり
﹁グリゴリイも﹂は底本では﹁グリゴイリも﹂
割り注
割り注
﹁スメルジャコフが﹂は底本では﹁スルメジャ
コフが﹂
割り注終わり
割り注
割り注終わり
﹁粉砕しないように﹂は底本では﹁紛砕しない
﹁六 いまださほどに明らかならず﹂は中見出
3字下げ
割り注終わり
割り注
ように﹂
し
﹁ございませんか﹂﹂は底本では﹁ございませ
底本:
「カラマゾフの兄弟 上巻」角川文庫
1968(昭和 43)年 8 月 30 日改版初版発行
1975(昭和 50)年 10 月 30 日改版 11 版発行
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2009 年 11 月 21 日作成
2012 年 1 月 11 日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。
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