アメリカにおけるロシア系ユダヤ移民 ―社会的成功の原動力は何か― 法学部政治学科 4 年K組 久保文明研究会 12 期生 柳沼 久美子 目次 序章 第一章 ロシア帝国のユダヤ人 第一節 ロシアでの歴史 第二節 ロシアでの生活 1.居住地 ―シュテットル― 2.職業 第三節 アメリカへの移住要因 1.ツァーリズムとポグロム 2.社会経済的要因 第二章 アメリカでのロシア系ユダヤ移民 第一節 ロシア系ユダヤ移民の特徴 第二節 アメリカでの生活 1.居住地 ―テネメント― 2.職業 3.衣服産業の構造と状態 第三章 アメリカ社会のメイン・ストリームへ 第一節 社会的地位上昇のデータ 第二節 ドイツ系ユダヤ移民との比較 第四章 社会的成功の原動力 第一節 ロシア系ユダヤ移民における原動力 第二節 ユダヤ移民の原動力 終章 序章 今日、世界にはおよそ 1290 万人のユダヤ人が存在する。その実に 43%、550 万人がア メリカに集中している(1)。アメリカは「ユダヤ人の国」イスラエルをしのぐ世界最大のユ ダヤ人口を擁する国なのである。彼らはこの国の文化、学問、経済、芸術の各分野にあま たの優れた人材を輩出し続け、アメリカの発展に多大な貢献を果たしてきた。1995 年に出 版された Seymour Martin Lipset and Earl Raab らによる “Jews and the New American Scene”によれば、過去 30 年間のあいだにユダヤ人は全米のトップクラスの知識人 200 人 のうち 50%を、ニューヨーク市とワシントン特別区の一流大手法律事務所共同出資経営者 の 40%を占めている。1990 年度においては全米トップ 30 の大学において教授陣の 30% を占めている(2)。創造的活力に溢れた彼らの存在を抜きにしてアメリカは語れないのであ る。 しかし、そのユダヤ人も移民としてアメリカに移住してきており、他の移民と同様、ゼ ロからのスタートだったはずだ。それが、なぜ同時期の他移民よりも速いスピードでユダ ヤ移民が社会的地位上昇を遂げ、現在のような社会的影響力を持つに至ったのだろうか。 一体何が彼らの原動力になっているのだろうか。以上の点について明らかにするのが、こ の論文の目的である。 ユダヤ移民と一口に言っても、三つの移民の波があった。第一の波は、セファルディと 呼ばれるスペイン・ポルトガル・地中海系のユダヤ人である。アメリカへの組織的移民が 行われたのは 1654 年のことで、ブラジルから渡った 23 人のセファルディ系ユダヤ人がニ ュー・アムステルダム(3)に到着し、最初の入植を行ったとされている。アメリカ・ユダヤ 人社会の歴史はこのときに始まった。その後 1776 年までにアメリカのユダヤ人口は 1000 ∼2500 人に達した(4)。続く第二の波は、1820 年代で主にドイツからのアシュケナジィ系 ユダヤ教徒が登場する。ドイツから大量の移民が到着した結果、アメリカのユダヤ人口は 1880 年には 25 万人と増加した。そして第三の波が、19 世紀末に移住してきたロシア系ユ ダヤ人であり、1928 年には、ユダヤ人口は 420 万に上っていた(5)。 ここでは、二つの理由からロシア系ユダヤ移民を取り上げる。第一に、ロシア系ユダヤ 移民は三つの移民の波の中で最も多い 250 万人以上がアメリカに移住しており、 現在 2003 年におけるアメリカ・ユダヤ人を構成する割合は 9 割と言われる(6)。よってロシア系ユダ ヤ移民を通して全体的な今日のユダヤ人を検証することが可能になると考えた。第二に、 三つの波の中で一番極貧の生活を経験し、まさにアメリカでのゼロからの上昇を遂げたグ ループであるからだ。 先行研究としてユダヤ人に関する本は多く出版されているが、その経済的成功について の本は少ない。これまでユダヤ人たちは自分たちが成し遂げた経済的成功と蓄積した富に ついて、学問的な論議を行い、その成果を公表することを回避してきたのだった。そうし た行為が現実のアメリカ社会に潜むユダヤ人への偏見を目覚めさせることを恐れたからで ある。危惧を抱き続けたのは実業界の指導者ばかりではない。学者、ジャーナリストも根 強い恐れを抱き続けたのである。ユダヤ人大富豪の家族史を描いたベストセラー本の著者 が、比較的最近まで非ユダヤ人のジャーナリストによって占められてきた事実は、そのこ とを如実に物語っている。ユダヤ人の歴史家、ジャーナリストのほとんどは、近年までア メリカ・ユダヤ人の大富豪が果たした歴史的役割について、慈善事業家としての側面を除 き、全く無視するか、あるいは低い評価しか与えてこなかった。そうした中、チャールズ・ E・シルバーマンによる『アメリカのユダヤ人』は筆者自身がロシア系ユダヤ人であり、 18 世紀∼19 世紀にかけてのヨーロッパにおけるユダヤ人歴史やアメリカ社会におけるユ ダヤ人の地位変遷を自分の経験やユダヤ人の日記、手紙などの膨大な過去の資料から綴っ ている。1979 年に大企業デュポン社の会長兼代表取締役になったアービング・S・シャピ ロを具体例として取り上げ、ユダヤ人の経済的成功への野心と原因について述べている。 その原因として不動産、教育や節約といったユダヤ教観を挙げているが、経験や心理面の 視点から述べているため、具体的数字によるデータは少ない。さらにユダヤ人、と一括し ているためドイツ系とロシア系といった区別がされていない。Seymour Martin Lipset and Earl Raab らによる “Jews and the New American Scene”ではアメリカ・ユダヤ人の 移住の歴史を振り返り、成功要因について教育を重視するユダヤ教について触れている。 Marc Lee Raphael の“Profiles in American Judaism”では、1810 年∼1885 年、1885 年 ∼1937 年、1937 年∼1983 年の三つの時代に分け、それぞれのユダヤ人移住と社会建設の 歴史、イデオロギーやユダヤ人組織について 1886 年から 1983 年に至るまで詳細に記して いる。経済的成功よりも歴史の事実に照準があり、ユダヤ人を知る土台となる文献だ。ま た日本人による文献では、佐藤唯行氏の『アメリカ・ユダヤ人の経済力』 、 『アメリカ経済 のユダヤ・パワー』等がある。金融界・百貨店・メディア・不動産業などの各界における ユダヤ人の活躍ぶりについて具体的事例を挙げて検証している。成功要因よりも今日のア メリカ・ユダヤ人の経済的成功の事実を主に述べており、ユダヤ人も一括されている。 以上の点からこの論文のオリジナリティとして、三点挙げたい。第一点目は、今まであ まり触れられてこなかったユダヤ人のアメリカ社会における成功の原動力について取り上 げること、第二点目は、中でも第三の波で移住したロシア系ユダヤ移民に絞ること、そし て第三点目は、ドイツ系ユダヤ移民との比較を交えること、の三点だ。極貧であったロシ ア系ユダヤ移民が社会的地位を上昇させていった原動力は何だったのか、明らかにしてい きたい。 第一章では、ロシア系ユダヤ人の移民前のロシア帝国における歴史、生活、アメリカへ の移住に至った要因について、第二章ではロシア系移民の特徴と移住当初のアメリカでの 生活を、第三章では、社会的上昇を遂げたデータとドイツ系ユダヤ移民との比較、そして 第四章では、ロシア系ユダヤ移民とユダヤ人全体における社会的成功の原動力を適性・歴 史・環境・宗教といった観点から分析していく。 第一章 ロシア帝国のユダヤ人 今日 600 万人に及ぶ合衆国のユダヤ人の圧倒的多数は、1880 年代∼1910 年代の 40 年 間に洪水のように押し寄せたロシア・東欧系のユダヤ移民の子孫である。1881 年∼1920 年の間に 205 万人以上のユダヤ移民が入国した。その結果、アメリカのユダヤ人口は 25 万人から 350 万人へと 1300%もの増加を見せた。1880 年代に総移民数の 3.7%だったユ ダヤ移民は、1890 年代には 10.7%、1900 年代には 11.1%を占め、1910 年代にも 8.6%を 占めた。1881 年∼1910 年の 30 年間についてみると、ユダヤ移民の出身国はロシア帝国 112 万人(71.6%) 、オーストリア・ハンガリー帝国約 28 万人(18%) 、ルーマニア 6 万 7 千人(4.3%)となっている(7)。9 割以上がロシア・東欧系ユダヤ移民であったのだ。ロシ ア帝国内における 1897 年の最初の包括的国勢調査で、帝国内ユダヤ人総数は 521 万 5805 人とされている。その前後 33 年間(1881∼1914 年)にユダヤ人国外移住者は約 200 万人 であり、うち 75∼81%にあたる 156 万人が合衆国へ渡ったのであった。ロシア系ユダヤ 移民全体の 3 分の 1 以上が出国したのであり、まさに「民族大移動」の時期であったと言 える(8)。では一体なぜこの時期にロシアからアメリカへ渡るユダヤ移民が激増したのだろ うか。ロシアでの歴史を踏まえつつ、アメリカ移住の要因をこの章では探ってみたい。 第一節 ロシアでの歴史 ロシアのユダヤ人居住史は古く、紀元二世紀にはクリミア半島東端パンティカペリム、 タマン半島東のアナパ、ドニエプル河口のオルビアにユダヤ人社会がつくられていたとさ れる(9)。紀元 300 年頃、キリスト教の布教活動がこの地にも及び、紀元 989 年、キエフ公 国のウラジミル大公は、ロシア初のキリスト教徒となり、ギリシャ正教を導入した。その 後キエフ公国はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒など異教徒が住んでいたハザー ル王国を滅ぼし、住民の多くをキリスト教へと改宗させたのだった。十字軍の第二次遠征 が始まる 12 世紀中頃になると、ロシアのユダヤ人社会は西側のユダヤ人社会と接触する ようになり、1240 年のモンゴルのロシア征服によって交流は促進した。 ロシアのユダヤ人口は、この国がウクライナ地方、小ポーランド(10)などを併合するたび に増えていった。その最たるものが、プロシア、オーストリアと分けたポーランド分割で ある。1772 年の第一回に始まる三度の割譲で、ロシアは 90 万人のユダヤ人を取り込み、 世界の半数近いユダヤ人を支配下に置くようになったのである(11)。キリスト教徒とは異 質の存在であるユダヤ人は厄介者扱いを受け、1753 年までにロシアはユダヤ人 3 万 5 千 人を追放し、隔離地に囲い込む政策をとった。それは居留地(ペール・オブ・セツルメン ト)と称されたが、ポーランドの第一次分割と同じ 1791 年に設定され、第一次大戦まで 続いた。1801 年∼1825 年に即位したアレクサンドル一世は、1804 年にユダヤ人の権利の 章典を発布したが、反ユダヤ勢力に押されて取り消してしまった。次のニコラウス一世時 代もロシアの民族的純潔を考え、ユダヤ人に厳しい政策をとった。ユダヤ人が「有害な要 素であり、統制されるべき疫病である」という前提がツァーリズムの政策の基礎にあるの だった。 第二節 ロシアでの生活 1.居住地 ―シュテットル― ロシアでユダヤ人は帝国内の通常の臣民としてではなく、最下層の「異族人」の身分 に属するものとされ、 「賤民」であった。課せられた制限のうち特徴的なものは、隔離地、 ペール・オブ・セツルメントの存在である。そこは、ポーランド分割以前にユダヤ人が居 住していた地域を主要部分としてバルト海から東南ヘアゾフ海にいたる線の西側に当たっ ており、リトアニア 3 県、ベラルーシ 3 県、ウクライナの南西ロシア 5 県と南ロシアの 4 県がロシア・ペール、これにロシア領ポーランド 10 県が含まれていた。これは、全ロシ ア帝国面積の 4%に当たる(12)。ペールの東方に広がる内陸諸県への移動を禁止されていた だけではなく、ペール内部においてもキエフ、ニコラエフ、セヴァストポリなどの都市の 居住は禁止され、農村地域の居住も制限されていた。帝政政府はユダヤ人の宗教生活、共 同体生活、経済活動、財産権、教育などに制限を課し、12 歳以上のユダヤ人少年を 25 年 の兵役につかせる徴兵制度や特別税を課すことも行った。20 世紀初頭には 1000 か条以上 のユダヤ人に対する特別立法が存在したのだった(13)。ユダヤ人はシュテットルにかたまっ て生活を営んでいた。シュテットルとはイディッシュ語で「小さな都市」を意味し、都市 という行政上の区画外の郡部にある都市型集落で、住民の大部分がユダヤ人からなり、農 民を中心とする周辺の非ユダヤ人を相手に商工業を営んだユダヤ人の小さな町であった。 2.職業 1907 年に刊行されたアイザック・ルビノウによる分析『ロシアにおけるユダヤ人の経済 (14)によると 1897 年のペールにおけるユダヤ人有業人口 133 万人中の職業構成は、 的状態』 製造業従事者 38%、商業従事者 32%、農業従事者 3%となっている。63%が農業従事者 である非ユダヤ人に囲まれて、 ユダヤ人は著しく商工業化した特異な存在だったのである。 中には富を蓄積できた商人もいたが、大部分は貧しい零細商人であった。ユダヤ人の製造 業従事者はペール内で 50 万人を超え、家族まで含めると 175 万人が製造業で生活してい た。ロシア帝国内でユダヤ人は最も工業化が進展した民族集団だったのであり、中でも衣 服製造業従事者は 25 万人、すなわちユダヤ人製造業従事者の 47%を占めていたことが注 目される。 第三節 アメリカへの移住要因 1881 年∼1910 年の 30 年間にアメリカへのユダヤ移民がなぜ急増したのだろうか。こ れまでのロシア系ユダヤ人の歴史、生活等を踏まえてその要因について検証していく。 1.ツァーリズムとポグロム 帝政が崩壊に向かい、社会混乱が増すにつれてユダヤ人社会を囲む環境は悪化の一途を 辿った。それはポグロムとなって爆発する。ポグロムとはロシア語で暴行・掠奪・殺人な どを伴う攻撃を意味するが、とくにユダヤ人に対する集団的な掠奪・破壊・虐殺を意味す る言葉である。社会不安を反映してユダヤ人が身代わりになり、あるいはフラストレーシ ョンのはけ口にされ、1880 年代から 1920 年代までに三度大きいポグロムが発生した。そ のうちの一つ、第一番目のポグロムが 1881 年から 1884 年にかけてウクライナで発生した ものである。革命集団ナロドナヤ・ボルヤによるアレクサンドル二世暗殺事件にユダヤ人 女性ハシャ・ヘルフマンが関与していたことが引き金となった。アレクサンドル二世は農 奴解放を始め改革政治を展開し、ユダヤ人にも少年兵制度の廃止、都市や自治機関への参 加、ペール以外の地域への居住を許す例外規定の設置などを行っていた。しかし、この事 件はロシア政治に反動への逆転をもたらしたのだった。皇帝は同年 3 月 13 日に死亡した が、4月 27 日の復活祭のとき、ウクライナのエリザベツグラードでポグロムが発生し、 キエフ、オデッサなどへと波及、1884 年まで断続的に各地で起きた。襲われた地域は 100 ヶ所を越えたという(15)。次のアレクサンドル三世(1881∼1894 年)は、自分の家庭教師 ポビエドノスツエフを東方教会の最高会議議長に任命した。議長は西ヨーロッパの議会制 民主主義よりロシア型独裁を指向する人物で、ロシア正教会を核とした宗教上の統一をス ローガンとしたので、ユダヤ人にとっては改宗か追放あるいは死のいずれかを選択しなけ ればならない苦しい状況に陥った。 ポグロムに追い討ちをかけるようにして、1882 年 5 月にユダヤ人の公職と経済活動を 制限する臨時法、 『五月法』が導入された。これによってユダヤ人は都市やシュテットル外 部の農村地区に新たに居住することを禁止され、農村での土地の取得や賃貸、管理が禁止 され、日曜日やキリスト教祭日における商取引も禁止された。モスクワはユダヤ人居留地 ではなかったが、専門技術を身につけているため居住を許されていたユダヤ人職人 14000 人が追放された(16)。ノブゴロド、ヤルタなどでも同じ処置が講じられ、多数の人々が路頭 に迷うこととなった。ツァーリズムの厳しい政策が進むと同時に、ポグロムはガリチア、 ルーマニアにも広がり、90 年代末までにロシアを含む 3 地域からユダヤ人 100 万人が難 民となって流出していた(17)。ポグロムの最高潮は 1903 年∼1906 年キシニョフで起きたも ので 1905 年 10 月には 101 の都市で 3000 人の死者、一万人以上の負傷者が出ている(18)。 ロシア系ユダヤ移民の大量移住の原因としてツァーリズムによる抑圧政策の強化とポグ ロムが重大であったことは以上から言えよう。生命と財産が危険にさらされていたのであ る。実際、ロシア系ユダヤ移民のアメリカ移住の年々の変動は、抑圧とポグロムの変動を 反映していた。1882 年の移民数の小ピークは 1881 年に始まるポグロムを、1887 年のピ ークは五月法の施行につづく追放や制限措置を、1892 年のピークはモスクワ追放事件を、 1890 年代末からの増大はロシア国内で高まる社会的緊張に関連しており、1903 年∼1906 年の急上昇はキシニョフ・ポグロムに始まって第一次ロシア革命中に高まったポグロムの 大波を反映していた(19)。 2.社会経済的要因 実はロシア帝国内で多くのユダヤ移民を出したのはポグロムの激しかった南ロシアでは なく、経済的に最も貧しかった北西ロシアであった。アレクサンドル二世のもとで改革が なされ、資本主義化が急速な前進を開始し、ロシアは工業発展期を迎えていた。このロシ ア帝国の近代化の波のなかで、 ロシア系ユダヤ人の間で変化が三つ生じた。 第一の変化は、 人口の増加である。1897 年の国勢調査ではロシア帝国内ユダヤ人口は 521 万 5805 人、ロ シア帝国全人口の 4%にあたっていた。ジェイコブ・レスチンスキーの推定ではロシア帝 国内ユダヤ人口は 1825 年では 160 万人、1850 年では 235 万人、そして 1880 年 398 万人 となっており、70 年あまりで 3 倍以上に増えたことがわかる(20)。人口増加はペール内の 限られた地域のユダヤ人人口の過密を招き、出移民増加への圧力となったのである。 第二の変化は、都市化の発展である。19 世紀末のユダヤ人は農村的な多数派人口の中で 都市・小都市に居住する特異な存在であった。1897 年ペールでは 49%が都市(ゴロド) に、33%がシュテットルに、計 82%が都市型集落に居住していた(21)。19 世紀前半は一万 人以上のユダヤ人人口をもったのは、三都市にすぎなかったが、その 50 年後、19 世紀後 半にはペール内の農村地域やペール外の諸都市から追放されたこともあってオデッサで 14 万人、ヴィリニュスで 6 万人、キシニョフで 5 万人、など 10 倍以上の大都市へと発展 し、ユダヤ人は高度に都市化した集団へと変容していった(22)。1881 年∼1897 年における ユダヤ人増加率の推定は北西ロシア、南西ロシアとも 10%なのに対し、南ロシアは 61% という高率を示している。国外移住の前提条件として南ロシアやポーランドといった工業 地帯への国内移住が増大しつつあったことを示している(23)。 第三の変化は、ロシア系ユダヤ人におけるプロレタリア化の進行である。農業的職業か らの排除によって商業従事者が増加し、ペールには平均ユダヤ人1人に対して非ユダヤ人 が 9 人しかいないため非ユダヤ人顧客に対するユダヤ人商人の比率が高くなり、競争が激 化してユダヤ人商人の状況は全般的に悪化していった(24)。多くが工業的職業に転化するこ とを余儀なくされ、19 世紀末には工業的な民族に転換し、ユダヤ人の「勤労者化」 、 「生産 者化」の現象が進行したのである。手工業の場合、1898 年彼らは親方 52%、職人 28%、 徒弟 20%から構成されており、ルビノウはこのうち職人と徒弟の合計約 24 万人(48%) を「賃金労働者」に規定している(25)。1888 年のユダヤ人問題調査委員会は「ユダヤ人の 90%が貧困と劣悪な状況のなかにある大衆」とし、彼らをプロレタリアートと呼んだのだ った。 19 世紀後期のペールにおいては、資本主義化進行のなかで人口増加、都市部への集中に よってユダヤ人の経済活動の伝統的構造である商業が崩れ、工業地域への国内移住が見ら れるようになり、 「勤労者化」を通じて製造業者が増大し、賃金労働者化も進行した。そし てこのような過程の先端にあった職業グループが高いアメリカへの移住性向を示していた のである。アメリカに到着したユダヤ移民の職業統計(1901∼1906 年)をみるとロシア 系ユダヤ人の間で 38%を占めていた製造業従事者がユダヤ移民の間では 63%をも占めた (26)。商業従事者は 8%、農業従事者は 1.3%と低い移住性向を示している。大半が製造業 従事者であった理由は、腕に技能をもつ彼らはアメリカでも製造業において働ける場合が 多かったからである。 以上ロシア国内における二つの要因からアメリカを選んだと言えるが、アメリカが国と してユダヤ人を支援している点も重要だ。1881 年、アメリカのジェームズ・ガーフィール ド大統領はユダヤ人虐殺を非難する中で、ロシアのユダヤ人の扱い方について一連の抗議 の口火を切った(27)。それから第一次世界大戦までの間は、アメリカ政府は頻繁にロシアの ユダヤ人に同情を示し、ロシア政府への批判を鮮明にしたのだった。アメリカの外交姿勢 がユダヤ人に魅力的であったのは言うまでもない。 第二章 アメリカでのロシア系ユダヤ移民 アメリカに行くために、密出国を助ける非合法のネットワークに頼り、伝染病の有無を 調べる医療検査と列車、船を乗り継いだ長旅とを経験したロシア系ユダヤ移民はアメリカ に到着してどのような生活を送ったのであろうか。移民生活当初の居住地、職業などから ロシア系ユダヤ移民の暮らしぶりをはかる。 第一節 ロシア系ユダヤ移民の特徴 ロシア系ユダヤ移民は先に渡米していたドイツ系ユダヤ移民とは著しく異なっていた。 ドイツ系ユダヤ移民は中産階級化し、改革派ユダヤ教を奉じ、英語を習得して急速なアメ リカ化を遂げ、アッパーイーストサイドなどの優雅なアパートメントに住んだ。これに対 してロシア系ユダヤ移民はイディッシュ語を話す正統派のユダヤ教徒で、極貧であった。 2 つの種類のユダヤ人はそれぞれ「アップタウン・ジュー」 、 「ダウンタウン・ジュー」と 呼ばれるようになっていた。ただし、ロシア系ユダヤ移民が居住したロワーイーストサイ ドにはイタリア人、シリア人、スロヴァキア人、アイルランド人など他の移民族も混合し て住んでいた。 ロシア系ユダヤ移民は個人単位の移住ではなく、 家族単位の移民であった。 成年男子が最初に渡来し、しばらく働いたあと妻や子供たちの渡航費を送金することもあ ったが、多くは家族一緒だった。移民委員会の調査によれば、ニューヨーク市衣服労働者 のあいだで夫が妻を故郷に残している者の割合は、ロシア系ユダヤ移民の場合、滞米 5 年 以下の者は 43%だったのに対し、5∼9 年の者は 6.1%、10 年以上の者は 1.4%にすぎなか った(28)。ほぼ 5 年間で故国から妻を呼び寄せ、家族生活を再建したのである。こういった 家族の絆が深いのも特徴である。リベラルの人は少なく、極端に正統派的な者や急進主義 の革命志向者に分かれていた。 第二節 アメリカでの生活 1.居住地 ―テネメント― 行商人として米国中に広がっていたドイツ系ユダヤ移民と異なり、窮乏の底をついてい たロシア系ユダヤ移民は東部・および中西部の大都会に定着した。ニューヨークでは、ロ ワーイーストサイドに集中して居住した。マンハッタン島の南東部を占め、北はヒュース トン街および東 10 番街、西はバワリー、東と東南はイースト・リヴァーに囲まれた地域 である。ユダヤ人地区が成立したのは、ドイツ系ユダヤ移民がロワーイーストサイドに卸 売り商店を開き、衣服工場を建てたときに始まったとされる。そしてロシア系ユダヤ移民 が 1882 年に同地区に引き付けられ、以後彼らの居住区が膨張していったのだった。ドイ ツ系ユダヤ移民は北方に移住していった。ロワーイーストサイドは典型的なスラム状況を 呈した。最大の特徴は人口過密にあった。当時、そこはインドのボンベイを除けば最も人 口密度の高い都市空間であったといわれる。1910 年の統計によれば一エーカー当たり、 730 人の住民がひしめいていた計算となる(29)。 ロシア系ユダヤ移民労働者がニューヨークで住んだのは、ほとんどがテネメントと呼ば れる共同賃貸住宅であった。相互に独立に生活し、かつ家屋内で炊事する三家族以上の住 居として賃貸され、廊下、階段、裏庭、トイレなどについて共同の権利を分有するような 家屋と定義される。家賃は世帯の平均月額 13 ドルに対して、ロシア系移民の住んだテネ メントは 17 ドルと高かった(30)。密集した劣悪な地区において高い家賃にも苦しんだのだ。 低賃金と頻繁な失業のために家賃滞納による追い立てがしきりに起こった。そのためロシ ア系ユダヤ移民の世帯では 48%が下宿人をおいて家賃の重圧を軽減しようとしたのであ る。彼らが下水溝も整備されておらず、悪臭が漂い、過密で不潔な住居に耐えてニューヨ ーク市の中心部に近い同地区に住み続けた理由は、雇用の確保であった。移民たちの主な 職場は大都市中心部に集中しており、公共市街交通が未整備かつ高料金であった当時にあ っては、職場へ徒歩で通える距離に居住する必要があったからだ。テネメントの多くが住 居でもあり、家内仕事の場として利用されていた。 2.職業 1905 年のニューヨーク州センサス原票に基づいて、ロワーイーストサイドの 3711 軒の ユダヤ人世帯(住民数 2 万 1406 人)を調査したガットマンによると(31)、20 歳以上の男性 有業者 5990 人の中では労働者が 73.2%を占めた。内訳は不熟練労働者 7.1%、衣服労働 者 45.2%、熟練労働者 20.9%だった。1900 年代初頭のロシア系ユダヤ移民は労働者、と くにロシア帝国でも従事していた衣服労働者として生計を立てていた。ユダヤ人コミュニ ティが拡大するにつれて労使ともユダヤ人から構成される「ユダヤ人職」が発展した。こ れには二つのタイプがある。一つめのタイプは、ユダヤ人だけに奉仕する職業である。宗 教上のコウシャーといわれる清浄肉のための屠殺業、ユダヤ・パンの製造などはユダヤ人 によってされる必要があった。ヘブライ語、イディッシュ語の出版需要のために、ユダヤ 人熟練印刷工の職も増大した。二つめのタイプは、市場に向かって開かれている産業であ り、衣服産業を典型としてタバコ製造、建築、金属加工などがあり、ユダヤ人雇主がユダ ヤ人労働者を雇う場合が多かった。 こうしてユダヤ人コミュニティは一つの経済圏を形成した。 多くのユダヤ人労働者が 「ユ ダヤ人経済」の内部にあり、ユダヤ人が必要とする物品の多くはその「経済」内部で購入 することができた。ロシア系ユダヤ移民は他移民とは違い、労使関係において宗教、文化、 歴史をともに分かち合うユダヤ人同士であることが多かったのである。 3.衣服産業の構造と状態 ロシア系ユダヤ移民の生活を詳しく知るため、 「ユダヤ人経済」の中核を構成し、ロシア 系ユダヤ人労働者の半分を雇用した衣服産業の構造と状態について述べたい。20 世紀初頭 ニューヨーク市の衣服産業は、全国既製服の約半分、婦人服の場合は 4 分の 3 を占めた大 産業であり、1910 年マンハッタンでは 41 万 4000 人の工業労働者のうちの 21 万 4000 人 (52%)を占めていた(32)。さらにほぼ 9 割がユダヤ人の手中にあり、労働者の 70∼80% もユダヤ人によって占められていた。ユダヤ人労働者は悪名高いスウェットショップ状況 に苦しんだ。スウェットショップは「汗をたらして働く仕事場」という意味で、低賃金、 長時間労働、不衛生な状態での仕事場を意味する。工場とは区別された小仕事場であり、 これは下請け制度に関連していた。衣料材料が配分され、加工をするような零細仕事場の 状況がスウェットショップであった。分業によるタスク制度が導入されると競争はますま す激しくなり、労働時間は無制限になった。忙しいシーズンには深夜まで働いて職場の服 地束の上で仮眠をとることもあった。朝 5 時から夜 9 時まで 1 日 15∼16 時間の労働はざ らであったのだ。作業は季節的変動が大きく、雇用は不規則であり、労働者は周期的な失 業に苦しんだ。経費を切り下げて季節的変動に対応するために下請け業者は家庭の内職に 仕事を出したりもした。下請け制度は次第に工場制度に道を譲ったが、 「大量生産方式」に より生産量の増加、コストの低下が生じ、一部の熟練工の賃金は上昇したものの、過半数 の労働者の賃金には低下が生じた。ロシア系ユダヤ移民が高い比率で衣服産業にはいって きた第一の理由は、彼らの職業的伝統にあった。1899 年∼1909 年に入国したロシア系ユ ダヤ移民の場合、衣服製造労働者は 50%近くに及んだ。ロシアとアメリカとのあいだに職 業的伝統が継続していたのである。第二の理由は、農場労働を主とすることが稀だったロ シア系ユダヤ移民は他の民族に比較して肉体的労働の経験に乏しかった。他の移民は鉄 道・道路・トンネルなどの建設労働、鉱山労働に従事したが、彼らは強度の肉体的重労働 を必要としない衣服産業についたのだった。第三の理由は、故国でシュテットルの職人だ った彼らにとって「自分自身のボス」でいられるスウェットショップ制が伝統や志向に合 致していたのだった。そして最後の理由は、ユダヤ人雇主のもとで働くことでユダヤ教の 土曜日の安息日と祭日を遵守することができたからだった。ユダヤ人の共同体的絆がやは り大事にされていたのだ。厳しい仕事ではあったが、同人種の「家庭的」な雰囲気が下請 け業者や小製造業者の職場には存在していた。 第三章 アメリカ社会のメイン・ストリームへ これまで見てきたようにロシア系ユダヤ移民はアメリカへ希望を求めて移住したものの、 移住初期はスウェットショップで朝から夜まで働き、賃金は低く、高い家賃のために下宿 人を何人も住まわせるなど厳しい生活を強いられていた。それにも関わらず、ロシア系ユ ダヤ移民は一世代で労働者階級を脱し、急速な社会的上昇を遂げていったのである。1900 年に連邦委員会が報告したように、 「これら赤貧のユダヤ人の経済的な向上は、驚くべき速 さでやってくる」 。1899 年∼1905 年の間にアメリカへ入国した移民たちの入国時における 平均所持金額は 22.78 ドル、これに対してロシア系ユダヤ移民のそれは 20.43 ドルであっ たことが判明している(33)。しかし、ニューヨークでは 15∼25 年以内に半数以上の者が中 産階級入りしている。 アメリカ社会のメイン・ストリームに入ったと言えるロシア系ユダヤ移民のデータを示 すと共に、なぜ同時期に来住した他移民と違って上昇していくことができたのだろうか、 似通った境遇からなぜ彼らは今日のアメリカで裕福なエスニック集団として成功を収める ことができたのであろうか、考察していきたい。 第一節 社会的地位上昇のデータ ユダヤ人は全員が裕福な暮らしをしているわけではないが、他の人種的宗教集団よりは 平均してよい生活をしているといえよう。19 世紀後半から移住してきて一世代で労働者階 級を抜け出し、中産階級化していった。合衆国移民委員会はニューヨーク市の衣服産業労 働者について、アメリカ滞在期間と週賃金との関係を調査し、滞米期間が長くなれば賃金 も高くなることを示した。週 12.5 ドル以上の者は滞米年数 5 年以下の者では 30%にすぎ ないのに、5∼9 年の者では 57%、10 年以上の者では 68.6%となっている(34)。滞米 5∼9 年になると熟練のある程度の上昇、雇用序列上の昇進が生じ、それと共に住居・食事の改 善、半耐久消費財購入の形で彼らの消費支出は上昇傾向を示した。妻や子供の稼ぎに頼る 割合も減少し、文化的・教育的活動や娯楽への支出が増大していった。ヒスパニックなど の新しい移民の流入もロシア系ユダヤ移民の地位を押し上げていた。最近のデータでは 1984 年にアメリカのユダヤ人家庭で年収 2 万ドルを超えないものは 6 戸のうち 1 戸に満 たない、すなわち 16%ほどである(35)。一方、非スペイン語系の白人家庭では、2 戸に 1 戸、50%も占めている。収入ピラミッドの高い方ではユダヤ人家庭の 41%が 5 万ドル以 上の収入を得ており、非スペイン語系白人家庭の 10%に比べて 4 倍の比率である。 このような中産階級入りを果たした全体的な上昇だけではなく、経済的成功を収める企 業家も続々と現れた。 『フォーブス』が提供している「全米で最も富裕な 400 人の長者番 付」には 23∼26%のユダヤ系移民が毎年載っており(36)、具体的には、後に RCA(Radio Corporation of America)の総帥となるデービッド・サーノフ(1891 年∼1971 年)や 11 歳から被服産業で働き始めたウィリアム・フォックス、20 世紀フォックス社の創業者など 多数いる(37)。医者や弁護士といった専門職でのユダヤ移民の割合も 40%と高い(38)。 知的・文化的な領域においてもトップに立っている。1975 年にアメリカの全大学でユダ ヤ人は教職員の 10%、同時にエリート大学の教鞭者の 20%を占めており、24%の聖公会 派、17%のカソリック教授たちに比べて 50%近くのユダヤ人教授がトップランクの諸大学 で教鞭をとっていた。ユダヤ人は非ユダヤ人教授の同僚に比べると学術ジャーナルなどに 論文を発表することがかなり多い。20 以上の論文を発表した学術エリートの 24%に上っ ている。ジャーナリズムの世界でも 1936 年には WASP が圧倒的に優勢であったが、1970 年頃のアメリカには 1748 紙の日刊紙が存在し、そのうちの 3.1%をユダヤ人の社主が所有 していた。これを総発行部数でみると、全体の 8%をユダヤ人所有の新聞が占めていたこ とになる(39)。ちなみに 8%のうち半分以上を占めていたニューハウス社の創業者は新聞王 と呼ばれたサミュエル・J・ニューハウス(1895∼1979 年)で、ロシア系ユダヤ移民の移 民二世としてニュージャージー州、ベイヨンで育っている。他にナショナル・レヴュー誌 のウィリアム・バックレー、アトランティック誌のウィリアム・ウィットワースなどの例 外はあるにせよ大部分の教養雑誌はユダヤ人の手で編纂されている。ディセント誌のアー ビング・ハウィ、ニューヨーカー誌のウィリアム・ショーン、パブリック・インタレスト 誌のアービング・クリストルおよびネイサン・グレイザーなどが挙げられる。アメリカの ノーベル科学賞受賞者の 30%、全米科学アカデミーの会員としても 30∼40%を占めてい る。極貧生活からアメリカ社会への目覚しい進出である。 第二節 ドイツ系ユダヤ移民との比較 ここで社会的成功要因を述べる前にロシア系ユダヤ人とドイツ系ユダヤ移民との比較を しておきたい。ドイツ系ユダヤ移民はおおよそ 17 万人、ロシア系ユダヤ人は 250 万人近 くが移住している。 1.居住と職業 ドイツ系ユダヤ移民は、国中に散らばったことでアメリカ文化に融けこむことが容易に なった。ドイツ系ユダヤ移民が移住した時期は 1820 年代からでアメリカが地理的にも経 済的にも拡張期にあった時だった。彼らは拡張ルートに従い、東部、中西部、極西部さら に南部を、行商人として扇形に広がっていった。行商には資本や技術もいらなかったが、 郵送販売が発明されるまで行商は都会の商品を地方に普及させる主要な方法であり、重要 な経済的需要を満たしていた。しかし、行商生活の不安定さや孤立感、肉体労働の苦しさ は否めず、チャンスがあり次第一定の場所に定住して店を出すか、他のビジネス、例えば 衣料産業、投資銀行家、大手の小売商などを確立することが彼らの目標であった。ジョセ フ・セリグマン、マーカス・ゴールドマン、ソロモン・ロエブなどがドイツ系ユダヤ移民 として挙げられる。あらゆる大きさの都市や町において商業ビジネスを打ち立てたドイツ 系ユダヤ移民のため、1860 年代までに 160 を下らないユダヤ人コミュニティが存在する ようになった(40)。 一方、ロシア系ユダヤ移民は 1900 年代前後の都市化と産業化が頂点に達した時に移住 してきた。彼らは行商人になるにも貧しすぎた。1900 年に到着した移民全体について一人 当たり 15 ドルを所持していたことと比較すれば、ロシア系ユダヤ移民は平均 9 ドルしか 持っていなかったのだ(41)。そこで彼らは衣料工場などに飛びついたが、人口過密なユダヤ 貧民街を大都市に作り出していったのだった。 2.宗教 ドイツ系ユダヤ移民は居住をよりよい地区、アッパーイーストサイドなどへ移っていく につれてシナゴーグと呼ばれるユダヤ教会にもお金をかけて建築するようになった。と同 時に祈祷文と礼拝形式にも急激な変化が起こった。礼拝の長さは極端に縮められ、エルサ レム神殿の復興、ダビデ王時代のような王政復古への伝統的な祈りは放棄された。オルガ ン音楽が導入され、祈祷の主要語としてヘブライ語の代わりに英語が用いられるようにな った。そして、家族席で男女共に座れるように差別が取り払われ、男性礼拝者がショール と帽子を身に付けることを禁じる規則が作られたのだ。この点は伝統との最終的な訣別を 意味し、最も意味の深いことであった。なぜならそれは、ユダヤ教とプロテスタント礼拝 の目に見える不要な相違を取り除いたからである。ドイツ系ユダヤ移民はアメリカ社会に 受け入れられようと同化への意欲が高いことを示している。反対にロシア系ユダヤ人は正 統派ユダヤ教であり、アメリカに移住してからも伝統を貫いていった。 ロシア系ユダヤ人はユダヤ教会に限らず、ユダヤ食用のコシェー肉、公衆浴場、イディ ッシュ語新聞の発行など移住前の生活やユダヤの伝統を崩すことなくその地域にユダヤ社 会をつくり上げたといえる。ユダヤ人街は異国風の活気と強烈さに溢れていた。アメリカ に社会に同化したドイツ系ユダヤ移民にとってはロシア系ユダヤ移民の強烈な信心深さ、 貧しさ、急進主義は反ユダヤ主義を起こさせるのではないかと震え上がらせた。しかし、 ロシア系ユダヤ移民の支援をいち早く開始したのもドイツ系ユダヤ移民であった。移民住 宅、無利子ローン貸付会、孤児収容所など衣食住の面倒を見、多岐に渡ってロシア系ユダ ヤ移民を“向上”させ、アメリカ社会への定着を試みたのだった。 第四章 社会的成功の原動力 これまで見てきたようにロシア系ユダヤ移民はドイツ系ユダヤ移民より極貧の生活にも 関わらず、急速なスピードで中産階級入りを果たし、地位を上昇させていった。この社会 的地位上昇の原動力、要因は何なのだろうか。ロシア系ユダヤ移民についての要因を第一 節で挙げ、続く第二節でドイツ系も含めたユダヤ移民全体についていえる要因について述 べていきたい。以下に挙げる要因①∼⑦はユダヤ人の適性、歴史、環境、宗教といった視 点で分類できる。 第一節 ロシア系ユダヤ移民における原動力 ① 天職の不動産業 ―機会の利用― ロシア系ユダヤ移民が社会的上昇の階段を登る一番の要因・原動力になったのがこの不 動産業との出会いだと思われる。ロシア系ユダヤ移民は手近にある機会を何であれ利用す ることに長い習練を積んでいた。生計を立てるためには麻薬売買などの犯罪すらもやって のけたし、数種にまたがって仕事をする器用さも持ち合わせていた。アメリカの都市化と 工業化は、ユダヤ人が長期にわたって持っていた小売業と卸売業を拡大させた。住宅の需 要増加と都市の住民、なかでもユダヤ人の居住地から居住地への頻繁な移転が、大工や電 気工、不動産関係者に仕事の機会を創り出していた。20 世紀初めの土地需要の増加によっ てロワーイーストサイドからブラウンズビルにかかる土地価格は一区画の値段を二年間に 50 ドルから 3000 ドルに高騰した(42)。1920 年までにニューヨーク市の建設業者や開発業 者の 40%がロシア系ユダヤ移民になっていたが、大工やペンキ屋、あるいは店主や衣料品 製造業者出身であり、少ない資本金で一軒の家屋を買うことから始め、徐々に増やしてい き、自前の建設業者へとなったのだった。資本金を貯める方法は前述したが、自宅に下宿 人を置くことであった。1911 年の調査では、ニューヨーク市内のロシア系ユダヤ移民世帯 の 56%が少なくとも一人の下宿人を置いていた。あるロシア系ユダヤ移民主婦は下宿人を 家におくと、彼女の料理が評判になり、その評判を聞いて人が集まってくるのでレストラ ンを経営すると繁盛した。彼女は産婆としても働き、夫も衣服工場に仕事を持っていたの で毎週いくらか貯金できた。ニューヨーク到着後 8 年経った 1911 年、夫は小さな貯金で ビルを買うことを提案した。そして小さな不動産物件を次々に買っていき、1920 年までに その夫婦は裕福になっていた、ということが実際に起きていたのである。 不動産業はロシア系ユダヤ移民にとって理想の天職であった。理由として主に二つ挙げ よう。第一に、不動産業はロシアで長い間禁止されてきた土地所有への欲求を満たしてく れるからだ。土地を所有することは蔑まれてきた自分たちが「自由の国アメリカ」で「尊 敬に値する市民」 になったことを宣言する行為であり、 同時に流浪の歴史に終止符を打ち、 アメリカを安住の地として定めたことの決意表明に他ならなかった。ただし、感情的愛着 だけで土地を求めたのではなく、権力者によって容易に奪われてしまう土地そのものに本 質的な価値があるのではなく、土地が生み出す利潤こそに価値があるという認識をロシア 系ユダヤ移民は体得していた。この点の認識は他の移民とは異なるところだった。1915 年の研究で、ハーバード大学と MIT 大学の学者たちは、 「ユダヤ人は不動産所得に異常に 飢えている」と報告している(43)。移住前は不動産を持つことができた時でさえ、ロシア系 ユダヤ移民はそれをせず、なんらかの固定資産に投資することは差し控えていた。彼らの 世界では、どんな時でも逃げ出せるように資本をできるだけ流動的なものにしておきたが ったのである。資本の流動性への要求は強いものであり、現在も専門職を好むように、ユ ダヤ人の行動を規定しているとされる。 第二に、不動産業のいくつかの特殊性はロシア系ユダヤ移民にとって魅力的であったの だ。製造業とは違い、多額の設備投資は必要なく、卸売業のように仕入れた商品の在庫を 常に抱え込むリスクを負う必要もなかった。知的専門職のように高い学費を払いながら何 年も高等教育機関で学ぶ必要もなかった。さらに、通常、借入金で仕事に着手するため、 自己資金もわずかで済んだのだ。何よりもエリート度の高い産業に存在したようなユダヤ 人を排除する社会的障壁が、この業界には存在しなかったのである。サンフランシスコの 不動産開発業者ウォルター・ショレンスタインがいうように「不動産の仕事は会社組織と しては成り立ちにくいので」 、完全に開かれていたのである。事実それは興行性のある活動 であり、大きなリスクと同時に大きな報酬を伴う仕事である(44)。ショレンスタインの公式 によれば「個人こそが鍵を握っている」のであり、さらに「ユダヤ人は自分に賭けるのが 好き」なのである。不動産業は貧しいユダヤの移民家庭に育った野心的な若者にとって文 字通り理想的な天職となった。1920 年までにニューヨーク市内の不動産開発業者、建設業 者の実に 4 割までを彼らが占めるようになっていた(45)。 ビジネス雑誌『フォーブス』が毎年 10 月に特集として掲載している「全米資産家最上 位 400 人の長者番付」の 2000 年版では 400 人中 64 人、16%がユダヤ人であった(46)。対 照的に黒人、ヒスパニック系、イタリア系、東欧系のキリスト教徒はほとんど登場しない のだ。この 16%という数値はユダヤ人がその人口比、全米総人口の 2%強を大幅に上回る 経済力の持ち主であることを示す証拠といえる。2000 年度では 1990 年から 1993 年の深 刻な不動産不況に遭い、後退しているものの 1985 年度版をみるとわかるようにユダヤ系 資産家最上位 20 組のうち、10 組までを不動産業が占めている(47)。1985 年の長者番付 400 人中ユダヤ人は 26%を占めており、これがピークの年とされている。不動産業ではシカゴ のプリッカー家、ロサンゼルスのイーライ・ブロード、同じくドナルド・ブレンが有名で ある。プリッカー家は複合企業「マーモン・グループ」の社主でハイアットホテル・チェ ーンなど 100 以上のホテルを所有し、個人資産額は 55 億ドルとされる。イーライ・ブロ ードは短期企業貸付の「サン・アメリカ」の会長であり、住宅建設の「カウフマン&ブロ ード」の社主でもある。個人資産額は 52 億ドルである。ドナルド・ブレンは太平洋岸諸 州で不動産経営管理を行う「アービン・アパートメント・コミュニティーズ」の社主であ り、カリフォルニア州オレンジ郡最大の土地所有者でもある。個人資産額は 40 億ドルと される。残り 10 組のうち 5 組が渡米前に行っていたエスニック・ビジネス(被服の製造 と小売、穀物取引、蒸留酒製造など)で資産を築き、さらに 4 組は化粧品やマスメディア、 残りの 1 組が古くから WASP に支配されていた「伝統的基幹産業」である石油業であった (48)。以上よりユダヤ人大富豪のうち半数が不動産の開発・投資により資産を形成していた ことがわかる。不動産業は 19 世紀末から 1980 年代に至るまでアメリカ・ユダヤ人最大の 蓄財源であったのだった。 ② 帰国率の低さ 1908 年から 1925 年の帰国率は、イタリア系移民は 55.8%、ルーマニア系移民は 67%、 日系移民は 40%に達している(49)。一方のロシア系ユダヤ移民は 5.2%であった。他の移民 は出稼ぎ的意識が強く、結婚資金や故郷で農地を手に入れるための金稼ぎができると帰国 してしまったのに対し、ロシア系ユダヤ移民は法的差別を受け、賤民だった本国に戻る気 は毛頭なかったのである。新天地アメリカで成功するという不退転の決意を胸に秘めてい たのであった。 移民は、 くつろげる我が家にいる立場から軽蔑される外国人になるという、 多数派から少数派への苦しい移行を経験しなくてはならなかったが、イタリア人やポーラ ンド人に比べて、アメリカ社会への調整の過程でさほど傷つかずに済んだともいえる。本 国にいても主流に入れなかったロシア系ユダヤ移民にとってアメリカへ来ることは地位の 上昇でこそあれ、下落ではなかった。生活が事実いかに困難であろうと以前より自由であ り、将来にも楽天的であった。 ③ 都市的・商工業的背景 第二章第二節の2でも触れたようにロシア系ユダヤ移民は 82%が都市型集落に居住し、 3 分の 2 のユダヤ人は仕立工や靴職人、大工など何らかの職を身に付けて商工業の技術を 蓄積してきた(50)。とくにロシア帝国内における衣服製造業には 25 万人、ユダヤ人製造業 従事者の 47%を占めており(51)、もともと高度な技術を擁していたのだった。このことは 20 世紀のアメリカで急速に発展した都市化・産業化の流れにユダヤ人が適応することを可 能にさせたのである。都市化により自給自足の農場とは異なり、人々は生産者から消費者 へと変化し、産業化はコストを大幅に下げ、急成長下の消費物資の需要を満たすことを容 易にした。そこで、ロシア系ユダヤ移民はロシア帝国でも従事していた衣服製造の術をア メリカでも活かしていき、他移民との差別化を図ったのである。対照的に、イタリア系移 民の 4 分の 3 は、農民出身の手に職のない労働者であり、都市的生活環境への適応力をロ シア系ユダヤ移民ほどには持たなかったのである(52)。 第二節 ユダヤ移民の原動力 次に、ドイツ系、ロシア系含めたアメリカのユダヤ移民全体についていえる環境とユダ ヤ教観による原動力について述べる。 ④ 周辺性 ユダヤ人は伝統的なユダヤ人の社会から離れたものの、キリスト教徒の世界では完全に 受け入れられなかったからこそ、一つの文化に固執する先入観や懐疑的な敵意からも解放 されて創造力の源になったという周辺性の考えがある(53)。しかし、ロシア系ユダヤ移民は もともと熱心なユダヤ教正統派であり、ユダヤ教の伝統を遵守した生活を送っているので ユダヤ人社会から離れた存在とは言えないだろう。イギリス系ユダヤ人の政治哲学者で歴 史家であるサー・イザイア・ベルリンが述べているように(54)、ユダヤ人の周辺性の結果は そのための疎外ではなく、その先にある社会の受容への強烈な欲求であり、ユダヤ人はそ のために隣人を執念と言えるほどの注意深さで研究したのであると示唆している。習慣の わからない部族のなかに居を構えた一群の旅人にロシア系ユダヤ移民を例えると旅人には 自分が歓迎されているかわからないのでホストの考え方や行動の仕方をすべて学ぼうとす る。その過程において、ユダヤ人の異邦人たちはその部族の権威になる。彼らはその言語 や習慣を分類し、その部族の辞典や百科事典を編纂し、その社会を外部から解釈するので ある。ここから時流を探知し、変化する個人や社会情勢の持つニュアンスの違いに早く注 目する力が発達するのだ。批評力、分析力、観察・分類・解釈の能力をこうして身につけ ていった。具体例を2つ挙げる。一つ目は、映画産業初期の大御所の一人、かつては衣服 産業で働いていた東欧系ユダヤ人サミュエル・ゴールドウィンだ。彼は映画館の前列に座 り、映画を見るよりも観衆の反応を見るためにスクリーンに背を向けて座ったという。大 衆をつぶさに観察し、時流を嗅ぎわけ、社会情勢のニュアンスを見分けていたのだった。 二つ目の例は 1980 年代のウォール街で企業乗っ取り屋として恐れられたロシア系ユダ ヤ移民アーウィン・ジェイコブズ(1941 年∼)である。彼は少年時代、ミネアポリスで中 古の麻袋の売買に携わった父を手伝っていた。穀物が一度穀物エレベーターの中に収納さ れると袋は不要となる。アーウィンはこの使用済み袋を安く買い求め、破れ目につぎ当て を施した後に、新品の袋よりも安い値段で飼料業者へ売り歩いたのであった。これは、ロ シア系ユダヤ移民のエスニック・ビジネス、廃品回収業の一形態である。彼は、他の同業 者が捨てた袋の中に価値を見出したのである。アーウィンはこの父の商売から「他人が見 落としたところに価値を見出す術を学んだ」と述懐している(55)。 ⑤ 教育・節約 教育を重視する宗教的・歴史的伝統が挙げられる。幾多の迫害に遭い、その度に逃避行 を繰り返してきたユダヤ民族は身ぐるみを奪われるような迫害を受けたとしても、頭の中 の知識だけは人が生きている限り、誰にも奪われることはない。その知識をもとに頭脳を 使ったニュービジネスを考案して生き延びていくことができると歴史的に考えるようにな った。宗教的には、ユダヤ教徒にとって無学なことは恥とされ、ユダヤ教の聖典を読めな いことは罪とみなされ、来世では永遠の罰が定められていると信じられていたのである。 そのため識字率は高く、ヘブライ語、イディッシュ語、ロシア語、ポーランド語などの読 み書きもできる者が多かった。ロシア系ユダヤ移民は識字率だけではなく、教育水準・勉 学への傾倒も比類ないものであった。ただし、ニューヨークにおける 1908 年の調査では、 ドイツ系移民の子供たちは最も成績がよく、次にアメリカ生まれの子供たち、そしてロシ ア生まれのユダヤ人、その次にアイルランド系、イタリア系移民の子供たちという順にな っていたのでロシア系ユダヤ移民学童が他の諸民族の学童に比べて飛びぬけて優秀だった というわけではない(56)。一つロシア系ユダヤ移民学童の特徴として言えるのは、多くが非 常に勉強熱心であり、その理想主義、知識の渇望が教師たちを魅了したことである。欠点 としては肉体を犠牲にしての精神の過剰な発達、 極度にラディカルな思考、 過剰な感受性、 体育への無関心が挙げられている。 子供たちが専門職を得るために必要な長期の学問への費用を捻出するため、節約を欠か さなかった。ユダヤ人は未来に焦点をあてているのであり、現在よりも未来を期待してい る度合いが他の移民よりも高い。この視点の置き方は、メシヤ到来に重きをおき、贖いは 歴史の外でよりも歴史の中で起こるという信念を持つユダヤ教の世界観に補強されている (57)。他の移民集団の若干を特徴付けていた運命主義と対照的に、ユダヤ人はつねに世界を 人間の統制の受けやすいものと考えてきた。神と人は創造行為においてパートナーである とみなしているのだ。この思考により、教育や節約に重点を置くのであろう。未来は自分 次第なのである。 教育と節約の結果、1915 年のロードアイランド州プロビデンスにおいてロシア系ユダヤ 人男子の中に占める高卒者の占める割合が、既に 21.9%に達していた。他の移民集団全体 の平均値 11.9%、アメリカ生まれの白人の平均値 13.8%を上回る数値であった(58)。ロシ ア系ユダヤ移民の教育水準の高さは社会的地位上昇において土台になったことは言うまで もない。現在でもユダヤ人の 60%以上が大卒で、非スペイン語系白人の 3 倍に達している。 高校男女を対象にした進路調査でも全体では 50%が大学進学希望でうち 20%が専門職の 資格取得あるいは大学院への進学を希望していたが、ユダヤ人の 83%が大学進学希望、そ の半数以上が専門職の資格取得あるいは大学院への進学を希望している(59)。進学への意識 が高いといえよう。 ⑥ 親子関係 ⑤に挙げたような未来に期待する考えは一方で、子供の将来のために自分の快楽や幸福 を犠牲にさせるようになる。ユダヤ人の親は伝統的に、子供を従属物はおろか、別の存在 というよりも自分の分身と考えてきた。ロシア系ユダヤ移民の公式に従えば、子供たちは 両親のナハス(60)である。子供の成功と功績は両親の成功と功績になる―子供の失敗は親の 失敗になる。とくに息子は幼少の頃から家庭生活の中心になる傾向がある。子供たちは思 春期が終わるまでは壊れやすい、保護を必要とする生き物とみなされるので外部の人間に は、ユダヤ人の両親は子供を甘やかすと見えた。アングロアメリカの伝統に基づいて育て られたキリスト教徒は子供にさほど依存しないために、子供の要求にもそれほど動かされ なかったのでユダヤ人の許容度を甘やかしと見たのだが、ロシア系ユダヤ移民の親たちは 子供が望むようなやり方で業績を上げるよう褒美をあげていたのである。子供たちが溺愛 されていたのは確かであり、それは反対に、高度の期待と一番以外は受け入れられないと いう厳しい基準が伴っていたことを意味する。親たちが子供にかける野心には謙虚さは微 塵もなかったのである。自営業の父親は子供に跡を継がせたかったが、大抵母親は医者や 弁護士の専門職になることで出世するのを望んでおり、高度の教育こそが身を立てる方法 だと考え、母親の意見が通ることが多かった。しかし、子供全員が母親からの愛情と期待 を受けていてもトップをとれたわけではない。期待に応えられず、子供の精神が病んでし まうことはなかったのであろうか。5 つの大都市圏内での精神衛生や精神病の研究による とユダヤ人はプロテスタントやカソリックよりも“軽度”または“中ぐらい”の神経症の 率がやや高めであるといえ、重大な機能不全の精神病者の率は相当に低いという(61)。実は 子供たちにとっては、これは逆にプラスに働いているのである。愛情や世話の行き過ぎが もたらすリスクは、それらが少なすぎる場合に比べてはるかに小さい。息子たちの若干が 母親の献身でつぶされるとしても大部分は学校やキャリアで成功するのに必要な強力なエ ゴを発達させるのだ。事実、ユダヤ人学生はクリスチャン学生より自信が強く、リーダー シップ、学術能力、オリジナリティで自分を平均以上と位置づける学生が多い。こうして ロシア系ユダヤ移民の子供たちは親の愛情と期待を背負って熱心に専門職への道を歩んだ のである。 ⑦ ユダヤ人社会ネットワーク 新たに事業を立ち上げようとするものにとり、資金調達は極めて切実な問題である。こ の点に関して、小口の事業資金を無利子で貸付ける制度がユダヤ人社会の中に存在した。 その代表が 18 世紀のヨーロッパに起源を持ち、19 世紀末、ロシア系ユダヤ移民が移住す ると共に続々と全米各地に設立された「ヘブライ人無利子貸付協会(Hebrew Free Loan Society )」であった。商才に長けた日系や中国系は母国から無尽や互助会といった同胞同 士の資金調達システムを持っていたが有利子であり、出資者も借り手と同じく貧しい移民 であるのに対して、 「ヘブライ人無利子貸付協会」は無利子で、出資者は借り手と異なり、 アメリカですでに成功を収めていた比較的裕福なドイツ系ユダヤ移民などであった。さら に、日系の宗教色を持たない団体と違ってこの協会はユダヤ教の教えに乗っ取って設立さ れた宗教的慈善団体であった。1927 年時に全米で 509 存在した「ヘブライ人無利子貸付 協会」のうち、実に 427 までがユダヤ教会堂の中に設置されていた事実からも明らかであ る。協会設立背景には、貧しい同胞に無利子で金を貸すことを宗教的義務と定めたユダヤ 教律法の規定、そして同胞が貧困の悪循環を断ち切り、商売で身を立てられるよう援助す ることこそ最高の慈善行為と称えた中世のユダヤ教賢者マイモニデス(1135∼1204 年) の教えがあったのである。1892 年に設立された「ヘブライ人無利子貸付協会」のニューヨ ーク支部が創設以来、1 世紀の間に数十万人の借り手に対して総額 1 億 800 万ドルもの貸 付を行い続けてきた事実からも明らかである。貧者救済に加えて雇用斡旋部と職業訓練学 校をも運営し、小事業を発足させようとする者を援助していた(62)。 とくにロシア系ユダヤ移民コミュニティは家族生活の上に立脚していたのであり、家族 を最小単位としつつ、移民たちはランズマンシャフトと呼ばれた同郷集団の網の目を打ち たて、多くの種類の諸組織を作り出していった。宗教的にはシナゴーグと宗教学校、慈善・ 相互扶助団体、教育機関、労働団体が設立され、活気に満ちたエスニック・コミュニティ が成立した。具体的には老齢者を保護した「ヤコブの娘たちの家」 、孤児を収容した「ヘブ ライ孤児院協会」 、 「ヘブライ収容保護協会」 、身体障害者を受け入れた「聾唖者教育協会」 、 到着するユダヤ移民の援助をするための「ヘブライ移民協会」 、などが挙げられる。 「ヘブライ人無利子貸付協会」の他にもう一つ移民に密着していたのは故国の同じ町や 地域からきた移民たちからなる団体、ランズマンシャフトだった。ユダヤ人は国としての ロシアやポーランドに対して強い忠誠心を感じることは稀だったが、かつて住んだ小さな 土地に対しては強烈な愛着をよせ、 ノスタルジーにかられて同郷者団体を作り上げていた。 1914 年にニューヨーク市内には 534 のランズマンシャフトがあった。機能としては、病 気や死亡、失業に対する相互扶助組織だった。第二の機能はユダヤ人墓地の一区画を購入 することだった。生活の必要に迫られて異邦人のあいだで過ごすとしても、ユダヤ人はユ ダヤ人のあいだで永遠を過ごすことを望んだのである。第三の機能として、非公式的な雇 用斡旋機関としても役に立ったのである。ボスは自分の企業に同郷者を雇おうとしたから である。こういったネットワークはロシア系ユダヤ移民にとって苦しみを分かち合える憩 いの場であり、ドイツ系ユダヤ移民なども含めてユダヤ移民全体で社会的上昇を目指して いける支え、原動力だったのである。 以上①∼③が、特にロシア系ユダヤ移民について、④∼⑦がユダヤ移民全体について言 えるアメリカ社会で地位を上昇していくことのできた要因であると考える。 終章 現在のアメリカにおけるユダヤ人の社会的影響力がどのようにして得られていったのか を探るため、今日のアメリカ・ユダヤ人 9 割を占める 1900 年代前後に移住したロシア系 ユダヤ移民を通して検証してきた。ロシア系ユダヤ移民が移住当初の窮乏した生活から中 産階級へと上昇を遂げていき、 アメリカ社会のメイン・ストリームまで上り詰めた原動力、 要因は何だったのかという論文の目的の答えとして 7 点を列挙した。①天職の不動産業と の出会い、②帰国率の低さ、③都市的・商工業的背景、④周辺性による視点、⑤教育・節 約、⑥親子関係、⑦ユダヤ人社会ネットワーク、の 7 点である。この中で、ロシア系ユダ ヤ移民にとくに限って言えるのは①∼③の要因だろう。数字の扱いに長けたユダヤ人の不 動産業における適性も関係するが、3 点ともロシアでの土地所有を認められず、土地獲得 への情熱が強かったことや賎民扱いを受けていたことなど移住前の生活や歴史が大きく関 係している。 行商人として全国に散らばったドイツ系ユダヤ移民とは背景が異なっている。 第二節で挙げた④∼⑦の要因は 2000 年以上の長い迫害・流浪の歴史からくるユダヤ人 の宿命、周辺性といった環境要因と教育・親子関係などのユダヤ教観によるものである。 これらは第一、第二の波でアメリカに移住したセファルディやアシュケナジィのユダヤ移 民にも共通していえることである。ロシア系ユダヤ移民を成功させた原動力は①∼⑦の順 に重要度が高い順であるとの見方もできる。 夏にアメリカを旅行した際、黒くて長い帽子を被って正装に身を包んでいたユダヤ教徒 を見かけ、強烈な印象と共に興味を抱いた。どこの国・社会に行っても流されることなく、 ユダヤ教を遵守し、迫害を恐れて自ら多く語らないユダヤ人はベールに包まれた存在とな りやすい。そしてアメリカ・ユダヤ人の経済力のみが誇張され、ねたましさを生んでしま ったのだろう。アメリカのユダヤ人は成功者であり、果ては世界制服まで狙っているのだ とユダヤ人陰謀説を説く本すら出版されている。日本でもとりわけ 1987 年以後、アメリ カ国内のユダヤ人団体から抗議が相次ぐなか、反ユダヤ主義的出版物のブームが、日米摩 擦の火種にもなった。しかし、この論文でも触れたようにロシア系ユダヤ移民は最初から アメリカで富を掴んでいたわけではなかった。衣服産業労働者という立場で貧困に耐えつ つ、上昇していったのだった。自分の身と財産の安全を保障するために努力していたので ある。ユダヤ人のアメリカでの進出が目覚しかったために「サクセス・ストーリー」と特 別視してしまうが、その土台には少数者に対しても競争と共存の機会を等しく提供したア メリカの自由な土壌があって初めて可能であったといえよう。ユダヤ移民の社会的成功要 因には挙げなかったが、規制の少ない自由競争社会であることと実利重視の拝金主義的風 土というアメリカ的特質(63)がユダヤ移民に合っていたことも前提としていえる。『アメリ カの民主主義』を執筆したアレクシス・ド・トクヴィルもこのアメリカ的特質に合ったユ ダヤ人は水を得た魚のようにアメリカで生き生きと暮らしていると述べている。 多くの移民の中でも成功例として語られるアメリカ・ユダヤ人は、中産階級になった現 在でも一方では常に再び迫害や虐殺の歴史がアメリカでも繰り返されてしまうのではとい う緊張状態に置かれている。中産階級以上のアメリカ・ユダヤ人でも、毎日ユダヤ人迫害 の記事が載っていないことを朝刊で確認し、安心することが日課だという。ユダヤ移民に 限っても他の人種に対する不信感はまだ拭えず、アメリカ文化への同化の枠にはまってい ないことを考慮するとヒスパニック、黒人、日系人、など益々移民が増えているアメリカ で多人種が共存していくにはアメリカ人としての自覚・信念を持たせる国歌斉唱や国への 祈り、そして移民それぞれの歴史・文化・宗教を踏まえた相互理解が必要だと強く感じた。 <注釈> (1)佐藤唯行 (2)同上 「アメリカ・ユダヤ人の政治力」PHP 研究新書 2000 年 p48 p48 (3)現ニューヨーク (4)丸山直起 「アメリカのユダヤ人社会―ユダヤ・パワーの実像と反ユダヤ主義―」 ジャパン (5)丸山直起 タイムズ 1990 年 p20 「アメリカのユダヤ人社会―ユダヤ・パワーの実像と反ユダヤ主義―」 ジャパン タイムズ 1990 年 p24 (6)佐藤唯行著「アメリカ経済のユダヤ・パワー」ダイヤモンド社 (7)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク 山川出版社 (8)同上 1995 年 2001 年 ―移民の生活と労働の世界― p208 」 p20 p22 (9)滝川義人「ユダヤを知る事典」東京堂出版 1994 年 p88 (10)リトアニア (11) 滝川義人「ユダヤを知る事典」東京堂出版 (12) 野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク 山川出版社 (13) 同上 (14) 同上 1995 年 1994 年 p89 ―移民の生活と労働の世界― 」 p33 p42 (15) 滝川義人「ユダヤを知る事典」東京堂出版 1994 年 p91 (16)同上 (17)同上 p92 (18)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク 山川出版社 1995 年 ―移民の生活と労働の世界― 」 p37 (19)同上 (20)同上 p39 (21)同上 (22)同上 p40 (23) 同上 p42 (24) 同上 p46 (25)同上 p45 (26)同上 p49 (27)シーモア・M・リプセット著 上坂昇、金重紘訳 「アメリカ例外論」明石書店 1999 年 p234 (28)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク ―移民の生活と労働の世界― 山川出版社 1995 年 p91 」 (29)佐藤唯行著「アメリカ・ユダヤ人の経済力」PHP 新書 (30)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク 1995 年 山川出版社 (31)同上 p70 (32)同上 p75 1999 年 ―移民の生活と労働の世界― 」 p97 (33)佐藤唯行著「アメリカ経済のユダヤ・パワー」ダイヤモンド社 (34)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク 1995 年 山川出版社 2001 年 ―移民の生活と労働の世界― p208 」 武田尚子訳「アメリカのユダヤ人」 p165 (36)佐藤唯行著「アメリカ・ユダヤ人の経済力」PHP 新書 (37)同上 2001 年 p90 (35)チャールズ・E.シルバーマン著 明石書店 p116 1999 年 p94 p21 (38)佐藤唯行著「アメリカ経済のユダヤ・パワー」ダイヤモンド社 2001 年 (39)佐藤唯行著「アメリカ・ユダヤ人の経済力」PHP 新書 (40)チャールズ・E.シルバーマン著 明石書店 2001 年 (41)同上 p51 (42)同上 p188 (43)同上 p189 (44)同上 p191 1999 年 p136 武田尚子訳「アメリカのユダヤ人」 p43 (45)佐藤唯行著「アメリカ・ユダヤ人の経済力」PHP 新書 1999 年 p122 (46)佐藤唯行著「アメリカ経済のユダヤ・パワー」ダイヤモンド社 2001 年 (47)佐藤唯行著「アメリカ・ユダヤ人の経済力」PHP 新書 (48)同上 p102 (49)同上 p204 p208 1999 年 p14 p101 (50)Seymour Martin Lipset and Earl Raab “ Jews and the New American Scene “ Harvard University Press 1995 p19 (51)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク 山川出版社 1995 年 ―移民の生活と労働の世界― 」 p51 (52)佐藤唯行著「アメリカ・ユダヤ人の経済力」PHP 新書 1999 年 p203 (53)Seymour Martin Lipset and Earl Raab “ Jews and the New American Scene “ Harvard University Press 1995 p12 (54)チャールズ・E.シルバーマン著 明石書店 2001 年 武田尚子訳「アメリカのユダヤ人」 p211 (55)佐藤唯行著「アメリカ経済のユダヤ・パワー」ダイヤモンド社 (56)野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク 2001 年 ―移民の生活と労働の世界― 」 p216 山川出版社 1995 年 p130 (57)チャールズ・E.シルバーマン著 明石書店 2001 年 武田尚子訳「アメリカのユダヤ人」 p195 (58)佐藤唯行著「アメリカ経済のユダヤ・パワー」ダイヤモンド社 (59)チャールズ・E.シルバーマン著 明石書店 2001 年 (60)同上 p195 (61)同上 p201 2001 年 p214 武田尚子訳「アメリカのユダヤ人」 p165 (62)佐藤唯行著「アメリカ経済のユダヤ・パワー」ダイヤモンド社 2001 年 p217 (63)Seymour Martin Lipset and Earl Raab “ Jews and the New American Scene “ Harvard University Press 1995 p7 <第一次資料> PRISCILLA FISHMAN ‘THE JEWS OF THE UNITED STATES’ THE NEW YORK TIMES BOOK CO. LEE O’BRIEN ‘ American Jewish Organization & Israel’ Institute for Palestine Studies J.Sarna, ‘Secret of Jewish Community’ Commentary Oct. 1994, 5 Seymour Martin Lipset and Earl Raab “ Jews and the New American Scene “ Harvard University Press 1995 Marc Lee Raphael “ Profiles in American Judaism “ Harper & Row, Publishers, Inc. 1984 http://www.brtable.org http://www.foreignaffairsj.co.jp/ http://www.nationaljournal.com/ http://www.adl.org/adl.asp http://www.hrw.org/ <第二次資料> 佐藤唯行 「アメリカのユダヤ人迫害史」集英社新書 2000 年 佐藤唯行 「アメリカ・ユダヤ人の経済力」白水社 佐藤唯行 「アメリカ・ユダヤ人の政治力」PHP 研究新書 佐藤唯行 「アメリカ経済のユダヤ・パワー」ダイヤモンド社 2001 年 ツヴィ・ギテルマン著 1999 年 2000 年 池田智訳「葛藤の一世紀―ロシア・ユダヤ人の運命―」サイマル 出版会 1997 年 滝川義人「ユダヤを知る事典」東京堂出版 1994 年 野村達朗「ユダヤ移民のニューヨーク 1995 年 ―移民の生活と労働の世界― 」山川出版社 ラビ・リー・J・レヴィンジャー著 邦高忠二・稲田武彦訳「アメリカ合衆国とユダヤ人 の出会い」創樹社 1997 年 チャールズ・E.シルバーマン著 武田尚子訳「アメリカのユダヤ人」明石書店 2001 年 沼野充義編 「ユダヤ学のすべて」新書館 1999 年 テオドール・ヘルツル著 佐藤康彦訳 「ユダヤ人国家―ユダヤ人問題の現代的解決の試 み―」法政大学出版局 1991 年 丸山直起 「アメリカのユダヤ人社会―ユダヤ・パワーの実像と反ユダヤ主義―」ジャパ ン 1990 年 タイムズ 手島佑郎 「ユダヤ人はなぜ優秀か―その特性とユダヤ教―」サイマル出版会 1979 年 市川裕監修 「図説ユダヤ人の 2000 年―歴史篇―」同朋舎出版 五十嵐武士編 1996 年 「アメリカの民族体制」東京大学出版会 2000 年 シーモア・M・リプセット著 上坂昇、金重紘訳 「アメリカ例外論」明石書店 年 Newsweek April 1.2002, April 3.2002, May 20,2002 1999
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