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ウィリアム・テンプルとシティ金融界 : 「教会は将来を
展望する」運動を中心に
吉田, 正広
愛媛大学法文学部論集. 人文学科編. vol.20, no., p.59-77
2006-02-28
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ウィリアム・テンプルとシティ金融界
「教会は将来を展望する」運動を中心に一
吉 田 正 広
はじめに
1943年4月にイヴニング・スタンダード紙に掲載された大変有名な風刺画が
ある(図1)。それは,当時人気の風刺画家デヴィッド・ロウによって描かれ
たもので,「キリスト教の目的」と記された書物を抱えたウィリアム・テンプ
ル(Primateと記されている人物)が,どう猛なブルドックを連れた上半身
裸の人物と対面している場面である。背景には,広大な私有地(r経済分野
economicfie1ds」と説明書きがある)があり,画面では裸の入物が「不法侵
入者は処罰されます」と警告した立て看板を指さしている。風刺画のキャプショ
ンには,「こら,旦那,あなたは私有地にいるのをご存じですが?」という文
が添えられている。この風刺画は,当時カンタベリー大主教ウィリアム・テン
プルが宗教的立場からシティ金融界,特に銀行の経済活動に対して一定の規律
を要請し,場合によっては銀行の国有化を肯定するような発言をしたことに対
するシティ金融界の批判的な態度を示したものであった。この風刺画は,アイ
アモシガーによるテンプルの伝記の中にも掲載され,最近のテンプル研究であ
るステイーヴン・スペンサーの著書の表紙にも掲載されるほど,テンプルの活
動を端的に示すものである。
テンプルはすでにヨーク大主教の時代にモールヴァン会議を計画し,戦後に
作られるべき新しい社会の基本的な秩序をどのようにすべきかにっいて検討し
ていた。1941年1月に3日間に渡って開催されたこの会議は,r産業キリスト
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者協会」Industrial Christian Fe11owshipの理事P・T・R・カークとテンプ
ルとの協力で開催されたもので,大きな影響力を有した。意見対立の中,テン
プルの強靱な努力で報告書が作成された。ジョン・ケントによると「モールヴァ
ン会議は,1926年以後背景に退いていた失業と貧困に対するアングリカンのラ
ディカルな態度が再燃したことを示すものであった」と評価されている1)。そ
の翌年1942年には,テンプルがカンタベリー大主教に即位するとともに,有名
な『キリスト教と社会秩序』(W.Temple,Cんr土8右1αη伽α兀∂Soc{α王σrder,
London,1942.)が出版され,14万部の売り上げを誇った。その年の9月に,
テンプルは産業キリスト者協会との協同で,一連の「教会は将来を展望する」
キャンペーンを開始した。このキャンペーンは特に,テンプルを中心とした教
会関係者がシティ金融界に対して辛辣な批判を展開し,そのことが大きな反響
を呼んだことで知られてい引先のイブニング・スタンダードの風刺画も,そ
の運動におけるテンプルとシティ金融界との対決姿勢を端的に示すものであっ
た。
本稿は,戦時期のテンプルがシティとどのような関係にあったのかを,特に,
一連のテンプルの活動およびその中での彼の演説を中心に検討する。史料とし
ては,1942年9月に産業キリスト者協会が実施した第一回目のロンドンのアル
バートホール集会の演説内容の概要を掲載したパンフレット『教会は将来を考
える」(肋θσん〃。んム。o為s Forωαrd,London1942.),および,1944年に出版
されたテンプルの演説集『教会は将来を考える』(W.Temple,τ佃0んurcん
ム。o馬8Forωαr∂,London,1944.)を取り上げる。後者は,1944年にマクミラ
ン社から千1」行きれたもので,1942年から1943年にかけてテンプルが様々な機会
に行った演説を収録したものである。これらは,戦争の中期以降におけるテン
プルの考え方の変化を見る上で手がかりとなるとともに,1944年10月26日に死
を迎えたテンプルの最晩年の見解を知るための貴重な文献である。さらにテン
プルの演説がいかに大きな反響を引き起こしたかを,タイムズ紙τ加乃mθs
の記事および投書によって確かめておきたい。これらの史料を中心として,こ
れまでの研究を活用しながら,シティとテンプルとの軋櫟について明らかにし
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ウィリアム・テンプルとシティ金融界
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ム石材εr8,London,1948,facing p.577.)
ておきたい。
I シティと対決するテンプル
一「教会は将来を展望する」キャンペーン
1942年9月26日におけるロンドンのアルバート・ホール集会を皮切りに,
1942年10月ユ4日のバーミンガムでの集会,1943年2月27日のレスターでの集会,
同年6月4日のエディンバラでの集会,そして最後に10月3日のロンドンでの
青年集会youth ra11y in L6ndonに至るまで,言十4回の集会が開催された。何
れも「教会は将来を展望する」と題する集会であった。スペンサーによると,
何れの会場もテンプルの演説を聴こうとする聴衆で満員であったと言われてい
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るヨ〕。
この一連の集会を主催した「産業キリスト者協会」は,第一次世界大戦後の
1919年に,労資問題についてイングランド教会が主導権をとるために設立され
た組織の一つであっれその指導者はリッチフィールド主教ケンプソーンJ.
A.Kempthorneと従軍牧師のカークP.T.R.Kirkであり,また,最も著名
な提唱者は,やはり従軍牧師を務めたスタッダート・ケネディG.A.
Studdert−Kemedyであった。産業キリスト者協会は,信仰復興運動や野外集
会を多く組織したと言われている。テンプルもこの組織に関わり,特に1926年
の炭坑ストライキの時に,深く関与している彗〕。
このr産業キリスト者協会」の性格付けについては,1942年のアルバート・
ホール集会で演壇に立ったブリストル主教ウッドワードC.S.Woodwardが
詳しく述べている。ウッドワードは,「産業キリスト者協会」の議長としての
立場で,集会が同協会の主催で開催されたことを明らかにした後,協会の歴史
とその主張点について論じている。最初に,モールヴァン会議の開催が同協会
の努力の賜であったことを確認し,モールヴァン会議の決議は同協会が20年来
主張してきたことと密接に関連していることを確認する。そして協会の設立は,
カークの理想によるものであり,その組織は,フレデリック・テニスン・モー
リス,チャールズ・キングズリー,トム・ヒューズなどキリスト教社会主義者
の,また彼らの後を次いだキリスト教社会同盟theChristianSocia1Union,
ウェストコット主教,スコット・ホランド,エドワード・スチュアート・卜一
ホット,チャールズ・ゴアなどの後継者を自認するとしている。そして,「産
業キリスト者協会」は,社会問題や労資問題,経済問題だけにかかわったわけ
ではなく,設立以来福音伝道の組織であったことを確認する。組織としては,
建設労働者伝道団Navvy Missionから出発し,福音伝道の第一の仕事を一時
も見失ったことはないとしている。その伝道活動は,主要な工業中心地におい
て工場や事業所を毎日訪間し,労働者に福音を説く活動であり,ブリストルで
は1000回目の「食事時間集会」が行われたばかりであることが報告された。ウッ
ドワースは,アルバート・ホールに集まった聴衆に,協会への資金援助を強く
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訴え,正規の会員になることを勧めている一〕。
さて,ここでアルバート・ホール集会全体の様子を確認しておくと,カンタ
ベリー大主教ウィりアム・テンプルが「教会の特別な任務」と題して演説を行っ
た後,ヨーク大主教シリル・カーペットが「住宅建築と言十画化」について論じ,
ブリストル主教C・S・ウッドワードが「産業キリスト者協会」の議長として
協会の概要を説明し,E・C・ナイト=ブルースがr新秩序における教育」と
題して学校における宗教教育の重要性を訴えている。そして最後に,労働党所
属の国璽尚書スタッフォード・クリップスが「キリスト教の挑戦」と題して,
教会も犠牲をする用意があるかどうかを問うている。なお,本稿では大きな反
響を引き起こしたテンプルの演説を中心に検討する。
II テンプルのアルバート・ホール演説
最初にテンプルは,「教会は,社会秩序の基準となるべき諸原則を宣言する
権利と義務を有している。教会がそのような権利を有しているのは,教会に委
託された啓示において,教会は人と人の運命に関する知識を有しているからで
ある。その知識は,啓示に依存するとともに,人間の行為に関するすべての諸
問題を明らかにする」と述べ,教会の発言権を主張する。
テンプルは,「労働組合,雇用主連盟あるいは国民国家のような法人組織の
行動を規制する諸原則を定める教会の権利,すなわち,人々の団体生活の秩序
を教会が管理すべきであるという考え方」に対して異議が申し立てられている
ことを承知した上で,教会の発言権を個人と集団とで区別することはまったく
擁護できず,人問の生活は社会の中で営まれることを強調する。「人問の本性
と運命に関して教会が持っ理解力の結果,いかなる種類の社会構造が人間にとっ
て健全であり,健全でないかについて明言する資格が教会に与えられている」
と主張する。そして,教会には社会秩序の規準となるべき諸原則を宣言する義
務があるのは,社会に対する教会の義務でも,教会の指導を要求する人民の権
利でもなく,「それは何よりもまず神への義務であり,福音の完全性を証明す
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る義務から,また人間生活への祝福から生じる」とする;㌧
次にテンプルは,社会秩序において少なくとも二つの問題が,教会の判断に
挑戦していると言う。第一は,社会の交わりfe11owshipの崩壊であり,「当分
の間,確実に,戦争の圧力のもとでわが人民全体が一つになっている。しかし,
平和時にはそうではなく,戦争という特別な緊急事態が過ぎ去れば,われわれ
の交わりを再生するための手段が実施されなければ,1日来の分裂の種が発生し,
実を結ぶ」と懸念すポ〕。第二は,利潤動機の問題である。「企業だけでなく
産業の秩序全体を支配している主要な動機は利潤動機である。・…・・利潤動機は
単純に悪とは言えない。利潤動機にはふさわしい地位があるが,第一位ではな
い。利潤動機の支配が及ぼす弊害は,配当の形であれ,賃金の形であれ,それ
が単純に利己心の表現であるということではない。利潤動機の優先が,実際に
一般的利益に損害を加えるような経済生活秩序を生み出す場合があるというこ
となのであるτ〕」。
さらにテンプルは,社会の中の部分的利益よりも一般的利益を優先するため
には,土地と貨幣という二つの問題を徹底的に考察しなくてはならないとして,
以下詳しく論じている・この部分が後に経済界から大きな反響を呼び起こすこ
とになる。
生活には,自然によって供給される空気,光,土地,水という4つの前提条
件があり,空気と光について所有権の請求は不可能であるが,土地と水につい
ては違う。「不幸にも,土地と水の二つの場合には,所有権の請求が可能であ
り,われわれは,土地の所有者や,そこを流れる水の所有者たちによってなさ
れた請求を尊重する傾向にあった。彼らの請求は,それらの所有者たちの個人
的利益に一般的利益を従属させるような仕方で行われたのであ乱私自身は,
問題を処理する正しい方法が土地の国有化によってであると完全に納得してい
るわけではないが,土地と水に関して共同社会COmmunityの優先的な利益を
強く主張する必要があると確信している」。テンプルはこのように述べ,土地
については国有化まで主張するわけではないが,共同社会の利益の優先性を主
張している昌〕。
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その際テンプルは,「財産権とは管理権すなわち財産管理人の権利であり,
決して排他的な利用権ではない」という財産権に関する「古いキリスト教の伝
統」を再評価する。そして,土地と建物両方に地方税がかかる現行の制度を
「全くの倒錯topcy」であると批判する。すなわち,現行の制度では,地主が
自らの財産を放置して社会に損害をもたらすような荒廃状態に置くと,地方税
は減額され,他方で,土地建物を改良して社会に奉仕すれば,地方税は増加さ
れる。しかし,「もし地方税が土地自体に課税され,その上に建っ建物には課
税されないならば,〔地主が〕最大の収益をあげるためには財産をできる限り
良好な状態にするような誘因が常に働くことになる」と期待する。そして,公
的所有の利益と民間主導による経営の利益とを組み合わせることを提案した
『アスワット報告』σ硫ωαtt地pOrtに賛成する旨を明らかにしている。テン
プル’
ヘこのような課税形態変更の提案に関連して,必要なのは,人びとに奉仕
の精神を期待することではなく,「最大の社会奉仕となるような行動を利己心
自体が促進するように,生活を組織化すること」であるとしているヨ〕。
その後,テンプルは貨幣の問題に言及する。当時,テンプルに対する反論が
もっとも多かったのが,この貨幣に関するテンプルの見解に関してであ私有
名なこの部分はそのまま引用しておこう。テンプルは次のように述べている。
貨幣について述べると,われわれは,半世紀ないし1世紀前に普及して
いたものとは大変異なった方法で取引される手段を使って,取引を行って
いる。多数の民間銀行が存在していた時には,そのような信用発行制度は
おそらく適切なものであったろう。しかし,銀行合同に伴って,今やわれ
われは,貨幣あるいは貨幣の機能を果たす信用という普遍的に必要なもの
が,事実上独占の段階に到達している・また,普遍的に必要ではあるが独
出として支配されているようなものが存在する場合,そのような独占は国
家によって接収されるべきである,というのが第一の政治原則であるよう
に私には思える。近代世界においては新規信用の私的な発行は,貨幣の私
的な鋳造が過去において考えられていたのとまったく同じように考えられ
るべきであると思われる。銀行は顧客が預金した額にまで貸し出し権限を
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制限されるべきであり,一方で,新規信用の発行は公的当局の役目とすべ
きであ孔このように言うことは,わが国の諸銀行ないし銀行家たちを非
離することでは決してない。銀行家たちは,彼らに委託されたシステムを,
無類の公正さと能力と公共精神を持って運営してきたが,そのシステムは
変則的な状態となり,その結果,異常事態が長期に持続した時にしばしば
生じるように,われわれの下僕であるべきものがわれわれの主人となった
のであるユ□〕。
このようにテンプルは,現在の信用発行制度は,銀行合同以前の時代に適合的
な信用制度であり,銀行合同を経験して,銀行が独占段階に達した場合には,
信用発行は国家に独占される必要性があると訴えた。そのために,貸し出しを
預金の範囲内に抑えるよう市中銀行に要請するのである。
この後テンプルは,人間社会における罪を克服するのは大変困難であり,社
会生活の外的な再編成によって正義や善意が確立されると考えてはならないと
して,人間社会における罪の克服の困難さを強調する。「生活秩序の何らかの
外的な再編成によってわれわれは正義ないし善意のいずれかを確立することが
できるなどと考えてはならない。今や,富を求める無限の食欲さに表わされた
罪は,集塵主義化された社会における権力のレバーを握って操作することに容
易に表現されうる。なるほど,社会のある特定の秩序化は利己主義を提案し促
進するように思えるが,その一方で,それとは別の組織化は交わりを提案し促
進する。しかしながら,後者のような組織化であっても,人の罪と利己心によっ
て悪用される可能性がある。そして,社会分野における教会の第一の義務とは,
市民たちに対して,彼らの個人的な行為と同じく彼らの市民としての行為も神
の裁きの下にあり,したがって,彼らは市民としての行為に関しても神に責任
を負っており,また,彼らは自分たちの個人的生活と同じく社会的生活をキリ
ストにおける神の購いの愛に従属させた時に初めて真に繁栄する,ということ
を告げることである川」。交わりを促進するように再編成された社会において
も悪の可能性があるからには,市民としての行為にも神への責任が伴うことを,
教会は常に市民に告げなくてはならないのである。
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このような中で,教会の行なう「聖餐式Eucharist」には特別な意味が与
えられること一になる。「われわれは,聖餐式の意味を新たに認識しなくてはな
らない。そこではわれわれは,神の贈り物に対して為された人間労働の成果を,
すなわちすべての経済的な富を代表するパンとぶどう酒を,神に捧げる。神自
身の恩寵と力を注ぎ込まれて完全な交わりの中で分かち合われたパンとぶどう
酒を,われわれは神から受け取る。われわれの最も高貴な礼拝行為は,真にキ
リスト教的な社会秩序である。しかしわれわれは聖餐式のそのような側面にこ
れまで盲目であった。われわれの感受性を取り戻す必要がある。礼拝がもう一
度,生活の聖化COnSeCratmとなり,生活全体が 友情や家族と同様に産
業や商業が 礼拝の当然の結果COrOllaryとなる時,われわれの教会は再
び真に生き,社会はわれわれの夢の実現されたものとなるであろう川」と述
べている。
最後に,「ここに一つの大変狡滑な危険が存在する。これは撃退されなくて
はならない。その危険とは,われわれが神をわれわれの目的の手段に利用し,
われわれの計画の道具にしようと試みることである。それは全くの大失敗であ
る。われわれは,神の名によって,このような事業に献身している。その際わ
れわれは,この事業は神の意志であると信じ,またこの事業を通じて,神の聖
なる愛の片割れである交わりの中に神の民を引き入れることで,神が賛美され
ることを望んでいる川」と述べ,神を目的の手段とすることなく,産業キリ
スト者協会が現在行っている事業の成功を通じて神を賛美することを祈ってい
る。
皿 テンプルの演説に対する反響
それでは,アルバート・ホールでのテンプルの演説に対してどのような反響
が生じたのであろうか。そこで,土曜日に行われたアルバート・ホール集会後
の9月28日のタイムズ紙を観てみると,第2面(国内記事の欄)左上のトップ
記事として,「教会と社会生活 利潤動機に関するテンプル博士 サー・
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S・クリップスの呼びかけ」と題する詳しい記事が掲載されている。この記事
では,テンプルの演説の内容が大変詳しく,また正確に紹介されている。テン
プル以外の論者たちにっいてもその要点が紹介されている川。
また,同日の第5面に記載された「教会と社会」という評論記事では,テン
プルの演説が行われたアルバート・ホール集会についての論評がなされている。
この記事は最初に,ハリファックス卿が,その集会の数日前に放送されたラジ
オ演説の中で,社会復興の仕事にはキリスト教的な基盤が与えられねばならず,
「もしわれわれがこのような任務に専心しなければ,われわれはキリスト者と
しての称号を持つ資格はない」と力説したことを踏まえ,その延長線上にこの
集会を位置づけている。そして,土曜日のアルバート・ホール集会は,「わが
国の国民教会の指導者たちに覚悟ができており,大聴衆の熱烈な支持がこの国
全体のキリスト教徒の感情であること」を証明し,さらにはイングランド教会
主催の集会にその他の宗派の代表たちが参加したことは,キリスト教信仰の本
質的な部分を共有する人びとの間で,宗派の違いが社会事業の阻害要因では無
くなったことを示していると,タイムズ紙はコメントしている。さらに,「教
会が社会改革に乗り出すとテンプルが表明した教会の主張に,異議を唱えるも
のはほとんどいないであろう。『御心が行われますように,天におけるように
地の上にも』〔マタイ福音葺6。ユO〕という祈りは,スラム住宅や失業,栄養
不良,宗教に適切な地位を与えない教育などを黙認することとは相容れない。
もし未来の市民たちが神を知らずに成長することを許されるならば,われわれ
の国民生活を再建する試みが成功するはずはないからであるユ≡〕」。以上のよう
に述べることで,タイムズ紙は,教会が社会改革に乗り出すことに好意的な評
価をしている。
しかし,翌日9月29日のタイムズ紙は,「金融・商業欄」の「シティ・ノー
トー大主教と銀行」と題する記事で,テンプルの演説に批判的にコメント
している。まず最初に,貨幣ないし信用が独占段階に達し,その独占を国家が
収容すべき段階にあり,銀行家に委託されたシステム全体が主客転倒した異常
な状況に陥っているとテンプルが言及したことに対して,「二つの根拠はいず
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れも,戦時期の情況においては奇妙である。新規信用の量だけでなく,新規信
用の配分や,新規信用の供給機能への報酬に対して当局が統制したことはこれ
までまったくなかった。明らかに大主教は,現在の状況ではなく,戦後の状況
を考えていたのである川」と述べ,テンプルの問題提起に反論している。
タイムズ紙は,テンプルが銀行業務の国有化を示唆し,銀行の貸出業務を預
金総額内に制限すべきこと,新規信用の創造を公的当局に限定すべきことを提
案したことに対して,次のように批判を展開する。「預金者相互の債務の相殺,
すなわち,以前の借り手がローンを返済した場合にのみ貨幣を貸し出すことに,
銀行事業が自らの活動を限定することを想像するのは可能である。また,国有
化された単一の銀行業務を想像することも可能である。大主教によって提唱さ
れた諸原則に基づいて経営される諸銀行が,政府信用のみを取り扱う一つない
し複数の機関と共存するようなシステムを想像することは容易ではない。提案
のような公的当局によって新規信用が創造されたと仮定すれば,政府信用は,
支出されて諸銀行に預金の形態で預けられた時に,〔市場に〕出現することに
なる。大主教の提案によれば,その結果,これらの諸機関〔諸銀行〕はそれ
〔政府信用〕を再貸し出しする権限を与えられたことになる。それとも,諸銀
行は預金増加を受け入れる権利をまったく否定されるべきであると本当に思っ
ているのだろうか。おそらく,大主教の答えは,国家によって創出された信用
を銀行が再貸し出しすることに反対はしないということであろう。彼が反対す
るのは,銀行がそれを基礎にして,銀行の創造した追加信用から構成される巨
大な構造を築き上げることなのである川」。
さらに,テンプルにとっては,「追加信用の支出と分配」に銀行が関わるこ
と自体が「信頼できない事項」であったが,rもし銀行が,信用の分配におい
て,提案された公的当局の代理店として行動し,何らかの公的計画の優先順位
に応じた諸目的に従って,信用を割り当てたり回収したりするとすれば,いか
なる場合にも,それらの諸機関が自らの意思で預金債務と利潤を拡大する余地
はほとんどありえないことになる。おそらく,新規信用と既存の銀行預金とを
区別する時に大主教が第一に考えているのは,社会の必要のために新たな貨幣
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吉 田 正 床
を供給することに対する報酬は,貯蓄の支配権すなわち手持ちの貨幣を人々に
手放させるために必要な,利子によって支配されてはならないということであ
る。政府は,利子を払わずに,あるいは少なくとも大変低い利子で,新規貨幣
を調達できなくてはならないということである川」。
さらにタイムズ紙は,信用に関する「現在の統制」システムは,銀行が自ら
の利益のために自由にできるものではなく,現金準備とイングランド銀行預け
金の固定的な維持を通じて,銀行自身が制約を受けている現状を説明し,テン
プルの批判が的はずれであることを以下のように明らかにしている。「理論的
には,その国に必要な新規信用が,例えば,歳入融資WayS and meanS ad−
VanCeSや大蔵省紙幣の印刷によって提供されてならない理由はない。実際に
は,少なくともこれまでのところ,世論は,政府が自らの信用を直接活用でき
なくてはならないという考え方に対して,嫌悪感を表している。なぜなら,政
府は信用を無駄に使うことが知られているからである。あらゆる信用創造のき
わめて重要な条件は,信任。onfidenceである」として,信用に対する国家統
制の強化を懸念する姿勢を示している。さらにr金利の問題(銀行の収益金が
戦前の水準を超えた場合,100%の超過利得税EPTが課されるので,今や金
利は実際には従属的事柄である)を別にすれば,〔テンプルによって〕提案さ
れた機能分割には,諸銀行が政府の代理人として行動する現行の信用取り決め
と異なるところはほとんどない。現在の銀行の信用創造能力は、預金者が銀行
に預けた額によって制限されてはいないが,実際には厳しい制約を受けてい乱
それは第一に,銀行の現金準備によって,またイングランド銀行から現金を人
手する能力によって制約されている。(預金に対して維持すると決めた割合
ratioにおけるわずかな変更を除けば)銀行の現金総額とイングランド銀行に
預けられた銀行信用の総額は,銀行による統制の範囲外にあ乱第二に,貨幣
供給がいかに増大しようとも,もし借り手が借りようとしなければ,銀行は信
用を流通させることはできないので,銀行の信用創造能力は制約される。イン
グランド銀行は,商業銀行の債務拡大を抑制する場合,常に大蔵省と緊密に協
力して仕事をしている。戦後には特別な信用機関設立の必要性が生じるかも知
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ウィリアム・テンプルとシティ金融界
れないが,しかし,既存の信用機関を十分に活用しないのは無駄に思える川」
と。
そしてこの問,記事以外に,タイムズ紙の投書欄においてもテンプルの演説
は大変大きな反響を呼び起こした。
9月29日火曜日のタイムズ紙には,テンプルの発言を厳しく批判する投書が
寄せられた。その論調は,教会は政治や経済の問題から距離を置くべきである
という議論である。「銀行業および配当率に関する本来の理論が,教会に委託
された啓示の一部であると理解できるのだろうか」と,テンプルに疑問を投げ
かけ,教会は道徳的行為を扱うべきであって経済問題に口出しをすべきでない
というものであった。また,後にタイムズ紙上で反批判にさらされることにな
る,スチュアート氏J.HendersonStewartは,「一般に承認された自らの領
分のなかで教会が行うべきことは十分にある川」と述べている。
翌9月30日付けのタイムズ紙には,これらに対するテンプルの反論が掲載さ
れた。その中でテンプルは,「政治行動への提案を含んだ私の演説部分に関す
る 必要な要約にもかかわらず 貴紙の正確な報告に感謝申し上げます」
と述べながらも,次のように反論している。「私は政治についてのみ語り,宗
教について語っていないとしばしば非難され,また,この批判が現在繰り返さ
れているので,貴紙の紙面を通じて私は次のことを申し上げたい・私の演説の
主要部分 私の判断では最も重要な部分 は,社会生活と社会構造に対
する罪の悪影響について論じ,社会の構成員が満足するような形で社会を秩序
づけることは神の導きと強さへの信頼以外には不可能であることについて論じ,
また,罪と罪の社会的結果からわれわれを解放する手段である礼拝における思
想と意向thoughtandintentionの方向性について論じた川」と。そして,
演説の詳しい内容は,産業キリスト者協会によってパンフレットとして出版さ
れ,初版は品切れであるが,再版予定であることを明らかにしている。
さらに10月1日のタイムズ紙では,「教会は将来を展望する」運動の主催者
の1人であるカークが,掲載された長文の書簡においてテンプルの見解を擁護
している。
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その書簡の中でカークは,9月30日火曜日のタイムズ紙に現れた批判的な投
書は,イエスの集会の意味にっいてありきたりな誤解を示していると反論する。
その投書の執筆者は,「教会は個人道徳への影響力を通じてのみ「社会改革と
自らかかわる』ことを許されるべきであると考えるか,教会はそれ自身の限定
された領域に留まって,今や人間の自然的生活が深刻で非自然的な挫折に至っ
てしまった現世とは関係を持たない方が良いと考えるかの,いずれかである。
彼らは,教会の任務の本質にっいてのまったくの無知をさらけ出している」。
そして,「教会は神学すなわち実在に関する教義を持っている。また,教会は
目的についての教義 人は神との交渉および交わりのために創造された
を持っている。人間のすべての自然的目的は,この最終的な目的と正しい関係
になくてはならない。しかし現代世界は,間違った諸目的を追求することによっ
て,神に対する人間の探求を混乱させている。ここに教会が発言する権利があ
る。キリスト教信仰に照らして,政治・経済分野における社会の現在の目的が
人問の真の本姓と人間存在の目的に一致しているか否かを判断する資格が教会
に与えられているのは,このような根拠に基づいている。イングランドで今日
起きているのは,ここ数世紀間無視されてきた,世俗的人道主義secu1arhu−
maniSm,すなわち,労働,商業trade,貨幣および社会諸関係に関する神学
の任務を再開することである呈呈〕」と主張している。そしてこのような誤解を
説くために「産業キリスト者協会」は啓蒙活動の用意があることを力説した。
その一方で,同日に掲載されたアレンC.K.A11enの投書は,テンプルに対
する批判の典型的なものであった。「カンタベリー大主教は,教会に委託され
た啓示は,社会問題について発言する権利を教会に与えたと主張する。銀行業
や配当率などに関する本来の理論が,かの啓示の一部であるとわれわれは理解
してよいのだろうか。純粋に世俗的な事柄について非常に異論の多い意見に特
別な権威をまとわせることほど,平信徒の意見を教会から遠ざけるものはな
い川」。このアレンの投書に対しては,10月6日付けのタイムズ紙の投書欄に
おいて,名指しで反論がなされている。それによると,「アレン博士の手紙は,
教会を政治から引き離すべきであるという最もありふれた議論を述べている。
一72一
ウィリアム・テンプルとシティ金融界
彼は『われわれは,銀行業および配当率に関する本来の理論が,教会に委託さ
れた啓示の一部であると理解できるだろうか』と問う。その前提は,純粋に技
術的で,それゆえに教会が扱うことのできないいくっかの経済行為が存在する
ということであり,また,教会が扱うべき別の道徳的行為が存在するというも
のである。これは単純に見て,真実ではない。実際,あらゆる経済行為は,技
術的側面を持っとともに道徳的ないし政治的な側面を持つ。従って,もし教会
がすべての道徳的諸問題に発言しなくてはならないとすれば,教会はすべての
経済的な決定についても発言しなくてはならなくなる川」と反論している。
もう一っテンプルを擁護する立場の典型的な議論として,エドフ二ズ氏
Ra1ph Edwardsの投書を見ておこ㌔「今や,カンタベリー大主教は,『教会
を積極的な政治に引き入れる』として糾弾されているが,もし教会が個人の生
活に対して,また個人を通じて社会に対して,何か効果的な影響力を行使しよ
うとするのであれば,教会は不可避的に政治にかかわらなくてはならない。・・・…
ウェブスターの『辞書』によれば,政治とは何よりもまず,『道徳の保護と改
善によって市民の権利を保護すること」とある。もし政治的・社会的諸問題が
個人の私生活から切り離されて,道徳性や倫理性と無関係であるならば,教会
はそれらの諸問題を放置するように命ぜられるのが正当であろ㌔しかし,そ
のようなことは,この世における人問の活動を間違った恣意的な区分に従属さ
せることになる。また,歴史的には,教会は決して政治加ら距離を置いてきた
わけではなかった。Henderson S七ewart氏が哀愁を込めて回顧した時期にお
いては,教会は利潤動機と私的富を是認し,教会指導部はそのかなりの分け前
を受け取った。〔それよりも〕初期の時代においては,教会の態度は大変異なっ
ていたのであり,おそらく現在,教会はそのような態度に逆戻りしてい乱大
主教への批判を考えてみると,受け身の政治passivepolitiCs一すなわち教
会が既存の社会経済秩序を是認すること は同じ反論を招きかねないと考
えられるのではないだろうか呈日〕」。
一73一
吉 田 正 広
おわりに
戦時期のカンタベリー大主教ウィリアム・テンプルは,ナチス・ドイツとの
戦争を宗教的に正当化すると同時に,市民や兵士の信仰上の在り方について国
民に直接働きかけていた。ドイツとの戦争を戦っていたその真っ最中に,テン
プルは「産業キリスト者協会」の活動の一環として,「教会は将来を展望する」
運動を始めたのである。この運動は,イングランド教会の最高位の聖職者が,
シティの銀行家に対して辛辣な批判を呈し,しかも戦時下にもかかわらず,タ
イムズ紙を中心に大きな反響を呼び起こしたことで知られている。ユ942年9月
26日にアルバート・ホールで行われた集会で,テンプルは,教会は社会問題に
積極的に発言する権利と義務を持っていることを高らかに宣言したのである。
しかもその際,土地と貨幣という経済生活の根幹にあるテーマについて,単に
経済問題そのものとしてではなく,キリスト教信仰との密接な連関の中で論じ
たのである。特に土地の国有化,銀行の国有化など,当時の労働党左派のr社
会主義的な」政策目標となっていた諸政策にも言及し,しかも,聖餐式におけ
るバンとぶどう酒の意味を社会問題との密接な関連のもとで理解したのであ孔
このテンプルの演説は,タイムズ紙を初めとする新聞報道を通じてかなり大
きな反響を引き起こしたのである。集会の演説を伝えたタイムズ紙の記事自体
が,かなり詳しいもので,テンプルの活動や演説に対する高い関心を示してい
たと言えよう。しかしながら,タイムズ紙の経済欄は,テンプルの演説に対し
て,当初かなり辛辣な批判を投げかけていた。特に金融シス÷ムに対するテン
プルの理解の仕方そのものに対して批判的であった。そして,演説の詳しい内
容が掲載されたあと,数多くの投書がタイムズ紙に寄せられた。その後,ユ0月
6日付けの国内ニュース面においてそれらの投書の内容を要約した言己事が掲載
されたが,そのこと自体,テンプルの発言に対する反響の大きさを意味してい
た。批判の論調は,教会は信仰上の事柄に専念すべきであって経済問題や政治
には距離を置くべきであるというのがその主旨であった。しかし,この考え方
一74一
ウィリアム・テンプルとシティ金融界
には投書において再び反論がなされ,テンプルの立場を支持する多くの投書が
タイムズ紙に寄せられたのである。
最後に,!0月1日のタイムズ紙に掲載されたある聖職者の投書をここで紹介
しておきたい。
拝啓
大主教の演説に対する批判において,J,Henderson Stewar七氏は,
「一般に承認された自らの領域のなかで教会が行うべきことは十分にある」
と述べた。しかしこれは,ヒトラーと彼の仲間たちによって利用された主
張そのものではないか。1934年にヒトラーは次のように述べた。「われわ
れは単に,この世の事柄にかかわるべき政治と,来世の事柄にかかわるべ
き宗教との明確な区分を行っただけである」と。この教義が実際に承認さ
れれば,マルクス主義者が言うように,宗教を麻薬dopeに変えてしまう。
究極的にはそれは宗教を完全に抹殺してしまうであろう。
敬具
G.W.Butterworth
The Rectory,Caterham,Sep.29呈冒〕
この投書は,宗教と政治をはっきり分けて教会が信仰上の問題に専念すること
で政治や経済との関わりを断つことの意味を,明確に物語っていよう。第二次
世界大戦期にイングランド教会が今一度社会的な影響力を行使しえた理由の一
端が,ここにあるのではないだろうか。実際タイムズ紙の論調を見ると,この
後10月5日付けの同紙経済欄において,「銀行信用と銀行現金」と題するトッ
プ記事が掲載されているが,その記事ではテンプルに対する批判がかなり後退
しているように読み取れる。この記事は,具体的には銀行の信用供与が銀行の
現金準備率によって規制されていることを強調し,テンプルの見解にも一定の
合理性があるような言い方をしている。「銀行は,貸し出し能力においては顧
客の預金額に限定されている。銀行の現在の信用拡張能力は,預金者が銀行に
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吉 田 正 広
預ける額によって制限されてはいない。ここに二つの命題がある。いずれも,
カンタベリー大主教による先週の演説に関する記事から生まれたものであ乱
その二つは相互に相容れないというのがその主旨である。しかしながら,その
両方を承認することが可能ではないだろうか。第一のものは,銀行の資産が負
債と一致するという意味では明らかに正しい。しかし,また,第二のものも正
しい。実際に銀行の貸し出し能力を規定しているのは,予想される顧客の現金
需要に応じるために現金を供給する能力である川」と。
経済界や保守党など様々な方面からの批判にさらされても,テンプルが活動
を続け,彼に対する支持がとぎれず,また,テンプルの見解をまったく無視し
えなかったのは,まさにナチス・ドイツとの「正義の戦争」を遂行する中で,
あるいはナチス・ドイツの国家理念と対抗するために,キリスト教信仰を重視
せざるをえなかった戦時期のイギリス社会の要請があったと理解しうるのでは
ないだろうか。
1)John Kent,W王〃αmτemρ王ε=Cん〃。ん,8亡α亡εαπd Soc{εむ如月r批α加,j880−j950,
Cambridgo,1922,p.!6ユ.
2)Stephen Spencer,W〃土αmτemρ王e=λ0α〃加g亡。 Proρんεcツ,London,2001,p.101.
3)Matthew Grim1ey,α抜θηs〃ρ,Com肌砒π伽,α棚肋召C舳rcん。ゾ五π8Jαπdj〃ろerα王
ληg王土。αη丁加。r{es oゾ肋ε8亡α勿うε亡ωε召η亡加Wαrs,Oxford,2004,pp.118−1!9.
4)珊εC舳rcん工。o冶8Forωαrd,London,1942,pp.12−14.スタッダート・ケネディの
著作も,r産業キリスト者協会」を19世紀末以来のキリスト教社会主義者の延長線上
に位置づけている。Gera1d Studdert−Kemedy,Dog−Co脆r D舳。ぴαcγ肋e∫π一
dus亡r{αj Cんr≡就{απFe〃。ωs励ρ,London,ユ982,pp.4−5.
5) τ乃θ0ん阯rcんLoo々s Forωαrd,1942,pp.1−2.
6) ∫6土d.,pp,2_3.
7) ∫b圭d.,pp.3_4.
8) ∫ろ…d.,pp.4−5.
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ウィりアム・テンプルとシティ金融界
9) ∫ろ{d、,P.5.
lO) ∫ら{d、,PP,5−6.
11) ∫ろ{d.,p.6.
12)∫ろ土d、,p.7.
13)〃d.
14ジThe Church and Socia1Life一一Dr.Temp1e on the Profit Motive一一Sir S.Crippsls
Ca11II,Tんε乃mθs,Sep.28.1942,p.2.
15)’’The Church and SocietylI,乃妃.,p.5.
16)11City Notes:Archbishop and the Banks−1,丁加乃mε8,Sept.29,p.7.
17)〃d.
18) ∫6{d.
19)乃妃.
20)アんe T{mθ8,Sept.29,p.5.
21)1’Re1igion an〔1Po1itics=The ArchbishopIs Speech:A Rep1y to Critics’1,肋θ乃肌εs,
Sept.30.1942,p.5.
22)丁加乃m2s,October1.1942,p.5.
23)∫舳.
24)丁加乃mεs,October6.1942,p.2.
25)乃棚.
26)τ加乃mεs.October1.1942,p.5.
27)IICity Notes:Bank Credit and Bank Cash1’,τ加乃㎜ε8,October5.1942,p.7.
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