- アンコール遺跡群フォトギャラリー

Cambodia Journal
第2号
2009年11月
カンボジアジャーナル
カンボジアジャーナル第2号
[目次]
古き良きカンボジア 岩噌弘三 2
一枚の写真 波田野直樹 11
「東南アジア考古学特講」という名の大風呂敷-豊かさを求めて- 隅田登紀子 12
カンボジアの妖怪アープ
井伊誠 16
どのようにカンボジアと出会い、関わってきたかについての個人的な覚え書き
波田野直樹
22
アンコール日本人会の設立経緯とその活動 三輪悟 24
資料編 26
カンボジアの電気通信事情 1967 年度版(抜粋) 26
技術による経済協力の現況(外務省資料) 33
執筆者紹介(掲載順)
いわそ・こうぞう 元NTT職員、BHNテレコム支援協議会理事。シハヌーク時代のカンボジアで通信システム近代化支援に従事す
すみだ・ときこ 杉野服飾大学専任講師/杉野学園衣裳博物館学芸員。
いい・まこと 遺跡以外のカンボジアを旅する本『トーマダー』発行人・編集人。
みわ・さとる 上智大学アジア文化研究所共同研究所員。1999 年以降シェムリアップに住み、アンコールワット西参道修復に携わる。
はたの・なおき ウェブサイト「アンコール遺跡群フォトギャラリー」、カンボジア勉強会主宰。
1
カンボジアジャーナル
が大虐殺を行った意図については、3年前から日本人
も含む裁判官が任命されて準備が始まり、まだ開廷に
至っていないにも拘らず、日本政府が拠出した100
億円近くを使ってしまって問題になっている国際法廷
で明らかにされる可能性があるが、その根拠を明らか
にしょうとする出版物にまだ接していない。しかし当
時の社会情勢を知るものについては推定が可能なので、
私的な解明を「ある一つの推測」として試みる。
古き良きカンボジア
岩噌 弘三
1. はじめに
昭和40年(1965年)から2年間、いまのJI
CAの前身である海外技術協力事業団(OTCA)から
コロンボ計画の専門家としてカンボジアへ派遣された。
今のように「JICA専門家」ではなく、名刺の日本
語も仏語もともに「コロンボ計画専門家」と書き国籍
不明の形であった。なぜコロンボ計画専門家という肩
書かと言いますと、第2次世界大戦後の1950年に、
英国がコロンボで英連邦外相会議を開催し、大戦後の
復興計画をしました。そこで策定されたのが「コロン
ボ計画」で、日本も遅れて昭和29年(1954年)
10月6日に、この計画に加盟した。日本では毎年1
0月6日を「国際協力の日」として、関連の各種行事
を実施している。
2.赴任
当時は電電公社(今のNTT)に入社して10年目
であった。人事担当の係長から呼び出されて、カンボ
ジアへ行かないかと突然言われて驚いた。その頃は数
少ない欧米への短期出張に当たっても、社内放送で、
出発便と時刻がアナウンスされ、関係者は空港まで見
送りに行く時代であった。家内とも相談の上、比較的
簡単にOKの回答をした。当時の海外赴任の通例は、
まず本人が現地入りをして、勤務先、大使館、日本人
会との関係を確定し出来る限り早期に本来の仕事を軌
道に乗せ、居住家屋の確保をした後で、1-2か月遅
れて家族が到着するのがルールになっていた。
カンボジアの山岳民族のための多様な民族語放送施
設提供計画のために、ラオスとベトナムに接するカン
ボジア東北端のラタナキリ州を2007年に訪れるま
で、政府調査団への参加、中部地域電気通信網整備拡
充計画の策定など、数回に亘ってこの国で仕事をする
機会があった。
私の場合、5歳の長男、2歳の長女と生後2か月の
次男を抱えた家内に、家財を倉庫に納めて社宅を明け
渡して、当時週に1回のみ香港経由で飛ぶエールフラ
ンスのボーイング707号機で追って来させたが、飛
行機内でも長女が一人席にベルトで固定されて泣き叫
ぶのも、次男のためにどうにもならず、機内食も取れ
ずにやっとプノンペンに到着し、家内に可哀想なこと
をさせ、幼い子供連れの海外赴任の在り方を考えさせ
られた。
比較的最近のことは報道されているが、静かな平和
国家であった時代についてはあまり知られていないの
で、少しばかり話してみたいと思う。また、ポルポト
オリンピックスタジアムでの独立記念式典(1968)。伝統と権威の後ろ盾としてアンコールのイメージが採用されている。
かつての社会主義圏でのマスゲームを思わせる光景。
2
カンボジアジャーナル
3.日本との関係
KDDからは、送信と受信の専門家を、NTTから
は線路(ケーブルや配線)、搬送(多重通信)および
電話交換の3名を長期専門家として派遣し、さらに日
本から、クメール語とフランス語の両方を1台の機械
で送受できる「2ヶ国語テレプリンタ」を贈与したの
で、そのための短期専門家を複数回派遣し、電気通信
分野はすべてが日本の支援下にあった。しかし、ポル
ポト以降はNTTからの1人のみとなり、2007年
には通信に関するJICA専門家は途絶えることと
なった。
当時は組織的に援助を行っていました。医療セン
ターを首都の西約200 km の人口第2の都市である
バッタンの先のモンゴルボレー村に派遣医師数名とと
もに開設していた。また農業センターをその手前に、
畜産センターを首都北方約100 km のコンポン・チャ
ムのメコン川を渡った先に、それぞれ多くの日本人専
門家とともに設立して、3センターを中心とした活発
な協力を実施していた。2001年に、JICAの現
地事務所長に、現在の多様とも思える援助について方
針を尋ねたところ、「まあ、人材育成でしょうね」と
の総括的な方針がなさそうな回答を得た。
当時は、欧米から見ればカン
ボジアは遠くて魅力がなく、次
に述べる電気通信で例示するよ
うに日本のみが深く関与するこ
とができ、外国といえば何事で
も日本が表に出てきて目立った
存在であった。しかし、現在は
韓国が首都プノンペンへの証券
取引所の設立を援助したり、高
層オフイスビルを建築したり、
更に農業振興のために、農業セ
ンターの設立を援助すると大統
領が約束するなど、日本よりも
目立った存在になりつつある。
世界における韓国の積極性がこ
こでも見られて、日本人の活力
のなさが心配である。
放送については、当時は情報省の所管となっていて、
私たちの頃はNHKから番組関係の専門家が派遣され、
国民と触れ合うシハヌークのイメージはメディアを通じて繰り返し宣伝された。
技術面はゴーホンブーという日本で研修を受け日本人
女性と結婚した優秀な中国人系技術者に依存していた。
最近もNHKから専門家が派遣されていて、3年前に
現地でお目に掛った。赴任した年の12月に日本から
寄贈したTV放送局の開局式が、シアヌーク殿下の出
席の下に行われた。多量の勲章が貢献者に授与された
が、日本から派遣されていた江口専門家は既に帰国し
ていたので、急遽、事務局が私をいかにもその専門家
であるようにシアヌーク殿下に紹介して受賞させた。
なお、この国では勲章はそれを受ける名誉を授けるの
であって、勲章そのものにはお金を払うシステムに
なっていた。スタジオやテレビ塔を含む放送機材一式
を日本から贈呈したが、仏語の放送プログラムを提供
できず、プログラムはすべてフランスから提供された
ので、カンボジア国民はTV番組を見てTVシステム
はフランスから提供されたと信じていた。
電気通信分野の組織は、郵便・電報・電話を意味す
るPTTと呼ばれ、その本部は今のプノンペン中央郵
便局と同じ構内に、各種の電話交換機などの多様な通
信機器とともに設置されていた。日本人専門家もここ
に勤務していた。国際通信は1組の短波送信機と受信
機を使用して、時差に合わせて通信対地を切り替えて
提供されていた。まず10時から1時間は日本向け、
次いで香港、パリーと切り替えられた。日本向けは1
時間しか割り当てられていないので、予め申込をして
順次接続されたが、時間切れで通話できないことも多
く、翌日回しとなってしまうこともあった。しかも短
波通信はフェージングの影響で電波の強度が変わって
通話が途切れることもあり、電話交換手は通話をモニ
ターしながら、通話できなかった時間は実際の接続時
間から差し引いて料金請求していた。国内通信は、当
時の日本の町や村への市外通話に広く使用されていた
技術である、電柱の腕木に 2 本の裸銅線を張る方式に
依存していた。プノンペンとアンコールワットのある
シムリャップ(今のシェムリャップ、昔は地名を多分
現地語を基にした仏語で発音していたが、今はどこの
地名も仏語のスペルを英語読みされていて奇妙に聞こ
えます)までは、東京・名古屋間にほぼ相当する約3
20 km あるが、通話の増幅をしない裸銅線のみに依存
していても、通話は可能であった。
当時は、政府機関から多くの人々が日本に研修にで
かけ、日本人の奥さんを連れて帰るのが最大の成果で
あった。日本人からすると、研修に派遣されるくらい
の人々だから、定めし豊かな生活をし、将来性のある
人であろうと、多くの立派な美人が嫁いで行った。し
かし、カンボジアへ来て見れば官吏の給与は低く、こ
れらの女性の多くが、日本に一度帰国して美容師の研
修を受けて、プノンペンへ帰って美容院を開設してい
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カンボジアジャーナル
た。しかし、これらの人々の中から苦労の末に日本に
帰ってきて当時のマスコミでも盛んに話題にされた内
藤泰子さんと先のTV技術者のゴーホンブーの奥さん
の細川美智子さんの2人を除いて、全員がポルポトの
犠牲になってしまった。
差し込み暑くて仕方がなかった。日本とは反対に、日
が射さないが熱帯のために十分に明るい北側の部屋を
確保すべきでした。3ヶ月後に帰任された前任の北川
泰弘氏が住んでおられた北向きの部屋へ転居した。
女中を雇うのが一般的で、私たちは子守も雇った。
中国人とベトナム人である。雇用条件を話すときは、
日本人会のボーイをしている中国人に通訳をしても
らったが、その後は言葉が通じないままの生活であっ
たが、このような状態でも一緒に生活できる自信が付
いた。物価が安いので女中は多種類の料理を作り、私
たちがその中で多く食べた料理から、この家族はこの
ような傾向の料理が好きだと推定して、次第に料理の
傾向を変えていってくれた。残した料理を女中と子守
が食べていた。何事も手真似でほぼ通じた。女中部屋
は同じ階の薄暗い区画にあり、ベルを鳴らすと駆け付
けてくれる方式であった。日本人は若い家族が多かっ
たことと、子育てに手間が掛からないので、この機会
とばかりに出産が合い続いた。カルメット病院という
フランスの支援を受けた立派な病院があった。平和が
回復後、東海大学は日本の試験衛星を利用して、この
病院との間で遠隔診断の試験を行っていたが、短期に
終わった様子である。このようなときの最大の問題は
言葉の問題だと思う。昔は医師はすべてフランスへ留
学していたが、最近は米国留学もあるようである。
また、タイ湾の海に近く、首都プノンペンから10
0 km ほど南に、ボコールという山があり、山上にカジ
ノを持った保養地がありました。高冷地の適性を利用
して、東京農大を出たばかりの長男とともに、日本か
ら取り寄せた種をもとに新鮮で美味しい野菜類をプノ
ンペンに供給し、外国人からも感謝されていた磯村さ
ん一家があった。気の毒に、この一家のうち両親はポ
ルポトに殺害されたと聞いている。また、カンボジア
に長く暮らして林業関係で活躍され、カンボジア語に
も堪能だった人格者の只熊日本人会会長も犠牲になら
れたと聞いている。
私の在任時期は、商社の人々が多く活躍され、日本
人全体は百人には満たない数であったようである。日
本でNTTや通信機メーカの人々ばかり接していた私
にとっては、交際範囲を広めて視野を拡大する必要性
を学んだ。NTTのように巨大企業になると、毎晩飲
んでも組み合わせが変わるだけで同じ企業内の同類の
人間相手に過ぎない。多様な人々と接してこそ、人間
の幅が広がることを痛感した。学士会館の会合表示が
示すように、いずれの旧制高校もが、三水会、三木会、
十八日会、二十日会などを設立して、毎月、文科系と
理科系両方の幅広い同窓生が集まった勉強や懇談など
を続けてきたのも、バブルの発生まで見識の広い指導
者を生んできた一因だと思う。
長男は5歳で、現地では小学生として私立のジャン
ジャク・ロソーと名付けられた学校へ、契約したシク
ロという人力3輪車に乗せて通学させた。朝夕と昼食
時の往復であった。教室では、すでに通学中の住友商
事のお嬢さんの横に座らされて、彼女の通訳で助けら
れるシステムであった。毎月、通信簿が返され、成績
とクラスでの順位が記されていて、現地校への溶け込
み状況の進展が分かって有用であった。数か月過ぎる
と「おしゃべり」と注記されていて、一体なにを話し
ているのだろうと家内と共に不思議に思ったりした。
帰国後は街の英文看板を見つけては仏語読みしていた
が、数か月で忘れて終ったようである。次男をロンド
ンの小学校へ転入させたときも、学校の先生は中国人
は日本人と同じ言葉を話していると信じて、次男を中
国人の横に座らせました。英国では、多くの外国から
の転入児童のために、午後になると地域ごとに設けら
4.現地生活
1)家族生活
プノンペンで最も重要な長い大通りで、交通量、オ
フイス、レストランも多いモニボーン通りで、国営保
険会社が1-2階に入っていて、その上がマンション
になっているところを住居に選んだ。(現在、ダイア
モンド・ホテルとして転用)8階に南向きの幅広い部
屋であり、遠くまで広がる素晴らしい眺めを楽しめた
が、直ぐに空いていた理由が分かった。強烈な太陽が
プノンペンのオリンピックスタジアムにおけるドゴール歓迎式典(1966)。北朝鮮を思わせる人文字が躍る。
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カンボジアジャーナル
れた英語教育施設へバスで集められて語学教育を行っ
ていた。基本的な学科を午前に応用的な学科を午後に
配置して、教科配分を上手に行っていた。
時には、脳へ入るのではないかと心配して、飛び込ん
だが、特別な処置はして貰えなかった。北川氏は、そ
の寄生虫が皮膚の表面下に現れて皮膚を持ち上げたと
きに、そこを切開して取り出せばよいと簡単に言って
おられた。しかし、幸運にもその内に病状がなくなっ
た。帰国後、NTTで海外派遣者向けに、熱帯病につ
いて東大助教授に講演してもらった時に、この話をし
たところ「タイ国にあることは知っていたが、カンボ
ジアにもいましたか」と新発見とばかりに喜んでおら
れた。このフランス人の医師は、診断がつかない時に
は各種の病気を想定して多種類の薬を処方していた。
子供が発熱したときは、頭ではなく腹部を氷で冷やし
たので、家内は頭部に乗せ換えたりした。散髪屋で感
染して長男の頭部にひどい腫れものができた後は、散
髪後、直ぐに消毒するようにしていた。子供が次々と
麻疹(はしか)に掛り、熱帯のためか回復が1月も掛
かったりした。
長女が帰国して幼稚園に通ったときに、呼び出しが
あって家内が行ってみれば、色盲の恐れがあると言わ
れた。バナナを緑色に塗ったとのことである。現地で
は、バナナをマン(仏語の手のひら)という一房単位
で購入して台所に常時吊るしておいて気楽に食べてい
たが、緑色のままであり、木の上で熟させたので甘さ
も十分であった。日本のように早めに収穫して貨物船
内で熟させないので、新鮮な歯ざわりであった。一般
的に果物は品種改良が行われていなかったので、タイ
産に劣ることが多く、パイナップルにも砂糖をかけた。
日本の援助で上水道が完成していたが、水に砂が含ま
れて出てくるので、蛇口には濾過用のガーゼを被せて
いた。そのために、一本4円ほどのコカコーラなどを
ケース何段分も購入しておくのが普通であった。また
冷蔵庫に中国茶も冷やして置いた。
マラリアであったか、2回する必要のある1回目の
予防注射をして、2回目をしようとしたら、売り切れ
ていてできなかったこともあった。
現地産の通称シアヌーク米はパサパサしていたので、
もち米を混ぜて、内地米に近い風味を出すようにして
いた。また、練乳しかなく乳幼児用に牛乳がないので、
代わりに山羊の乳を毎日入手する努力をしていた。
3)市街状況
当時のカンボジアの人口は約700万人と言われ、
ポルポトが200万人近くを殺しても、いまは150
0万人になっている。農村は人口吸収余力が無いため
に、溢れた人間はプノンペンに集まり、政府予算の半
分は日本を最大とする外国による援助のために、なん
らかの手段で生きていける。静かな昔が全く想像でき
ないほどに雑踏と喧噪に満ちている。昔の地図を現在
の地図と比べると、メコン川の支流のトンレサップ川
と沼地に挟まれて拡張できない北方とは違い、平野を
利用できる東南に大きく拡大している。また、トンレ
サップ川に架かる日本の援助による通称「日本橋」の
先は行き止りで道路も作られず、全く役に立たない橋
であったが、ポルポトにより破壊されて日本が再構築
した橋の先には今はレストラン、ホテル、商店などが
連なっている。
アンコールワットへ家族で車で出かけた時も、ベト
ナム人の可愛く若い子守を連れて行き、どのような手
段かは忘れましたが大きなプールもあるシアヌーク殿
下の別荘に私たち一家のみが宿泊した。滞在1年を過
ぎると、公用旅券の旅行許可地欄に、赴任地のカンボ
ジア以外の近隣国を大使館で追加して貰えたので、子
供を女中と子守に任せて、家内とタイ、マレーシア、
シンガポールを旅行したが、マレーシア上空で激しい
雷雨に襲われた時に、揺れる機内で墜落すれば子供が
孤児になると恐ろしくなったこともあった。
赴任に当たっては、醤油の一斗缶(18リットル)
を持って行った。毎月、家内の姉に頼んで送っても
らった郵便小包には、味噌などの食料品、子供のため
の毎月発行される雑誌、現地で入手できない生活用品
が入っていて、正に慰問袋で、到着が待ちどうしく、
首を長くして待った。帰国に当たっては、プノンペン
港にベトナムからメコン川を遡上してきた日本の30
00トン級の貨物船が時々入国したので、私などより
古い人々は、船長の私的荷物として引越し荷物を託送
された様子であった。私は、そのような手段が見つか
らず、国際郵便小包は最大10 kg まで許されたので、
すべての帰国引越し荷物を約30個の国際郵便小包と
して発送した。ベトナム製の美術品で壊れてしまった
ものもあった。
また、「マルシェ」と呼んでいた白色の立派な建物
である中央市場は、その言葉の通りに生鮮食物が主体
で、4方向に延びる翼構造内で売られていた品物は、
それぞれ特化して整然としていた。いまの中央市場が
雑然として、中央部分が多数の貴金属店で占められる
ようになったのは、内戦の影響である。昔は、マル
シェからトンレサップ川までの間の1キロほどは、多
くの貴金属店、家具、機械、衣類、レストランなど、
ある程度以上のレベルの製品を扱う中国人の店が一杯
であった。それが内戦の被害を恐れて、すべてが中央
市場内に逃げ込んだと推定している。
2)医療
昔は自動車は極めて少なく、街路にはシクロという、
お客や荷物を前に乗せ、運転者は後ろから漕ぐ3輪車
が無数に市街を流していた。自宅から約500メート
ルにある中央市場やその先の中華街へ行くには、車は
自宅前の大通りに駐車させたまま、シクロを利用した。
多くの日本人が利用していた、近くの Dr リポールと
いうフランス人の診療所に専ら依存した。私が着任
草々にベトナム式のシャブシャブで半生の淡水魚を食
べて、その寄生虫が体内を駆け巡り首の付近に現れた
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カンボジアジャーナル
言葉は通じないので、腕で曲がる方向を示し、止まる
ときは「チョップ・チョップ(ストップの意味)」と
言いながら手を上下に振った。料金は現地人が払う何
倍かを適当に渡して、相手が不満な様子でなければ、
「それで良し」とした。
かく報じる内容にはあまり関心がなかった。
5)水祭と専門家への厚遇
毎年、新月を迎える10月の終りごろ(1966年
の記録では、10月27日から29日)に水祭が、王
宮の前のトンレサップ川で催され、昼間は各種団体な
どのボートレースが行われ、日没頃から船を多彩な電
灯照明で飾る船が次々と繰り出された。PTTも通信
にふさわしいデコレーションの船を参加させていた。
最後に中国製の花火がトンレサップ川上に華やかに打
ち上げられた。私たち専門家も、王様とシハヌーク殿
下連名の招待状を頂き参列したが、衣装に指定があり、
「スーツは完全な白で、ネクタイと靴は黒」とあり、
このためにのみ白色のスーツを新調した。同伴の日本
人婦人は、現地人にも好評の着物が多く見られた。
毎朝、通りや多くの美しい公園を、長い箒を持った
人々が清掃していた。静かで美しい街は、小パリーと
も言われ、日本への絵葉書には何時も「美しいプノン
ペン」の驚きを書いていた。
4)シハヌーク殿下の治世
政治の実権はシアヌーク殿下が完全に掌握されてい
ました。シヌーク殿下は多芸で、美人のイタリー系の
モニボン妃ともにお元気で、作曲をして音楽会で演奏
されたり、映画を自ら製作したりもされていました。
徳川時代の多芸な殿様や中国の昔の皇帝に通じるもの
があった。しばしば、ヘリコプターなどで地方視察に
出かけて、到着と同時に集まってくる地方民に多量の
お土産を配って、民衆と良好な関係を保つように心が
けておられました。また、比較的甲高い声で長い演説
をしておられるのが度々ラジオから流れていた。
王宮の前のトンレサップ川に直角に向かう広い道の
両側に儀仗兵が並んでいて、本来ならば、その中央を
胸を張って歩かねばならないのを、日本人の被招待者
は、慣れないことで気後れして、どちらかの側に近い
ところを大急ぎで歩いていた。この道の終端の川岸に
は、美しく彩色された屋根のついた特別な建物があり、
招待者はそこへ案内された。
当時、ベトナムでは米軍の国境線爆撃などが激しく
なっていて、日本からは心配する便りが度々送られて
きましたが、逆に私たちは、朝7時過ぎにNHKの短
波放送を15分ほど聞くのが、唯一のニュ-スのため、
ベトナム情勢の細かな進展も何も知らずに平和に暮ら
していた。国境線の存在は有難いものであると思った。
しかし、米軍がラオスではホーチミン・ルートが存在
するとして、かなり激しい空爆も行い、かつ山岳民族
のモン族を訓練して対北ベトナム戦に利用したのと大
きな違いである。いまも、これらのモン族が首都ビエ
ンチャンと北方約200 km の古都ルアンパバンの間の
地域に残存している。本来、共産主義で反米であった
現在のラオス政府とは相容れられない中のために、こ
こは危険で殺害された外国人旅行者もあり、現在でも
外国人にとって首都と古都の間は地上の旅行ができず
に空路に頼っています。ラオスで北の方へ旅行するに
は、先ず現地人に車をルアンパバンまで回してもらっ
て、ここから地上を北上する。
フランス人が作った基準でしょうが、協力に来てい
る外人は仏語の「エキスペール」として特別扱いされ
ることが多く、自動車のナンバープレートは赤地に白
文字であり、多くの人が乗っていた白色の車体に映え
た。いまは、日本の援助で再建されたトンレサップ川
を渡る通称「日本橋」を利用して、陸路で北部のラオ
ス方向やアンコールワットへ行くことができる。しか
し、当時は橋の先の道路がなく、プノンペンから6k
m北西のところで、フェリーで川を渡る必要があった。
トラックを含む多量の車が順番待ちをすることもあっ
たが、赤色のナンバープレートの車は優先的にかつ無
料で乗せてもらえた。専門家が使う乗用車は、無税で
母国から持ち込むか、外国へ発注して無税輸入ができ
た。帰国に当たっては、改めて輸入税を払って現地で
売却でき希望者が殺到した。奇妙に思ったのは、カン
ボジア人役人が少し長期に海外での研修を受けると、
自分の身の回りの品として、無税で車を輸入する制度
を作ったことです。このようなことも、クメールルー
ジュの反感をもたらした原因に含まれたのであろう。
シアヌーク殿下が、私たちが働いているPTTの自
動電話交換機の部屋へ突然視察に来られたことがあっ
た。最初、仏語で挨拶を始められたが、私たちが日本
人であることに気付かれて、「日本人ならば英語の方
がよいだろう」と言われて、直ぐに流暢な英語に切り
替えられたのには、驚いた。
6)交通事情
週に1便の日本からのエールフランス機が、自宅の
上空を下降して行く音を聞いた途端に、車で飛び出し
た。当時は道路も空いていて約十分で空港へ到着して、
日本からの客が丁度タラップを降りてくるタイミング
であった。空港には通常タクシーもなく、迎えもなく
て途方に暮れている現地事情を知らない日本人旅行者
をプノンペンまで案内し、食事を提供し目的地への長
距離バスに案内したこともあった。航空機の発着が全
く無い日もあった。外で遊ばせるところがないので、
子供たちを空港へ連れて行って、滑走路が見えるレス
ニュースとしては、前記のNHK短波放送以外に、
AKPと称して謄写版でA4版の裏表に仏語で印刷し
た10枚余りの国営官報兼情報紙を配達契約して毎日
読むのが一般的であった。KDDの専門家宛てには本
社から日本の新聞が送付されて来ていましたので、K
DDの方々が読まれたあとで、だいぶん遅くなってか
らNTT家族に回して頂いていたが、日本のことを細
6
カンボジアジャーナル
トランで時間を過ごしたこともあった。屋外で子供が
遊べるところがなく、アパートのテラスで家鴨を飼っ
たりもした。1980年代の末に、アフリカのウガン
ダの首都での重要な交差点で交通信号が青に替るのを
待っていたら、警官が故障だから渡れと合図した経験
の後に、プノンペンを訪れたところ、どこの信号も正
常に機能しているのを見て、ポルポトに痛めつけられ
た国でもアジアは違うのだと痛感した。
ジアに暮らしていた人のアンコール観光は、太陽光の
強い午後はホテルで昼寝をして、涼しくなってから観
光を再開していた。観光客は僅かの外人のみで、閑散
とした雰囲気のことが多く、年間200万人と言われ
る現在の観光客に比べて、主要なホテルはあまり大き
くない白亜の「グランドホテル」程度しかなかった時
代である。
北東へ40 km ほどのところに、紅色砂岩で構築され、
細かな彫刻で女神が多数彫刻されている小規模ながら
素晴らしい芸術的な遺跡のバンテアイ・スレーがある。
バンコックからITU(国際電気通信連合)専門家の
長井淳一郎氏が来訪された時に、地元のPTT局長が
普通の乗用車で行けると言ったので、この局長も案内
人として、NTTから供与されていたトヨタクラウン
で出かけた。ところがジャングルの中の砂の多い道で、
タイヤが砂にめり込み前進できなくなった。ジャッキ
で後輪を持ち上げ、車内の床に敷かれていたマットを
取り出して、そこへ入れて発車しようとしても失敗し、
あがく毎に深みに陥ってしまった。喉はカラカラとな
り、次第に夕刻は近づき、このままジャングルで遭難
することになるのかと悲嘆にくれていた。2~3時間
以上も過ぎたでしょうか、軍のジープが通り掛った。
幸運にも、車の前部にスチール・ロープのウインチが
取り付けられていて、それを使って悪路から引き出し
てもらって命拾いをした。当時はそれほどにバンテア
イ・スレーは観光の対象外となっていた。
鉄道は、シアヌークビル港からプノンペンと、プノ
ンペンからタイ国との国境であるポイペットの間に存
在した。帰国前に一度は経験しておこうと、短距離を
乗車して、そこから引き返す列車に乗車したことも
あったが、内戦ですべてが消滅した。
利用率の低い鉄道に比べて長距離バス網は発達して
いて、中央市場に隣接した発着場は喧噪を極めていた。
便数も行き先も多かったので、地方への郵便物をバス
の運転手に託す方がPTTよりも早くて確実と言われ
た。バスは多くの乗客を最大数取り込むために、通路
はなく各列5人坐りで、乗降ドアは全ての列の右側に
設けられ、ドアが多数並んでいた。1975年過ぎに、
英国の鉄道で、このようにズラリとドアが並び通路の
ない客車を見たことがある。バスの屋根の上には荷物
がうず高く積まれていた。乗用車が後ろから近づくと、
後方に乗っている助手は身を乗り出して前方から対向
車が来ないかを確認して、バスを安全に追い越すタイ
ミングを手振りで教えてくれた。郊外の道路は、一時
停車や万一のハンドル操作にも安全なように、十分な
幅の非舗装の路肩が取ってあった。居眠りで舗装から
外れて反対側の非舗装の路肩まで行ってしまい、ザー
ザーと音がして慌てて本来の道に戻したこともあった。
プノンペンを離れると交通量が少なくなるので、建設
コスト低減のために、少しばかり長い橋では1車線に
絞り込まれていた。万一、両方から接近した時は上り
優先であり、標識も立っていた。
9)フランスの影響
日本人からすると、フランスの優れた影響を感じて、
日本も学ぶ必要があると思ったものも多かった。しか
し、ポルポトによりインテリや指導者が抹殺されたた
めに、完全な断絶が発生して、いかにもアジア的な状
況に戻ってしまっているのは残念なことである。
-プノンペン市内では、少なくとも1軒の薬局は終
夜開店していて、夜間に閉店する薬局は、開店してい
る薬局名とその場所を記したボードを、暗闇でも分か
るように照明付きで店の表壁に表示していた。
7)日本の文化政策
日本の伝統文化、工芸品、近代産業、最新交通機関
など多方面に亘って日本を紹介する仏語の素晴らしい
16ミリフイルムが多数大使館に送られて来ていた。
投映機とこれらのフイルムを借りてきて、職場や住ま
いの近隣の街角で夜に投映して、現地の人々に日本を
知ってもらうことも熱心に行ったこともあった。外務
省が宣伝臭の無い優れた映画を多数作っていたことに
敬意を感じ、かつ日本人として誇らしく思った。
-すべての申請書には、「私はこの下に署名しま
す」と書いてサインすれば、それで有効であった。そ
の後、3年暮らした英国や4年のマレーシアでも役所
がどこにあるかを知らず仕舞いであった。日本は人間
を信用せず且つトラブルを恐れて、役所の証明書を要
求して役所の巨大化と住民の不便をもたらしている。
英国では郵便局は役所の出窓の役割を果たしていてパ
スポートの申請もできた。また英国では、運転免許関
係の役所は、イングランドとは別の西のウエルズにあ
り、ロンドン地区住民を対象とする税務所機能は北の
スコットランドにあって、すべてを郵便で処理して、
首都の巨大化を防ぎ地方振興を行っていた。
8)アンコール観光
カンボジア全体で昼寝の習慣があった。政府は職員
の負担軽減のため、勤務時間は朝7時から連続して午
後1時30分までであった。その後に帰宅して遅い昼
食をとり、続いて昼寝をとった。遅い昼食と昼寝を
取った後の夕食のためにあまり食欲がなかった。一方、
商店、事務所などの民間は、正午に一旦店や事務所を
閉じ、夕方5時頃から再開していた。従って、カンボ
-市外の道路のカーブしたところは、夜でもヘッド
ライトでカーブの存在が認識できるように密着して白
杭を立て、どちらの方向に曲がっているかが分かるよ
7
カンボジアジャーナル
うな表示もなされていて、夜間でも安全に高速運転が
できた。
と同時に海外留学ができたのに対して、高校卒業後に、
1年間英語の補習事業を受けないと外国の大学に合格
できなくなった。この反省をもとに、約10年前にマ
-市外に設置された高さが50 cm 余りの道路標識は、
レーシア政府は英語教育の強化政策を打ち出した。1
1 km ごとに立てられ、頭の赤い部分には、その道路の
5年ほど前に訪れた当時のブラジルは豊富な資源に恵
起点からの距離を、その下の白い部分には、その場所
まれ巨大な面積を持ちながら全体的には貧しく見えて
よりも先の方の主要対地とそこまでの距離を1個のみ
不思議に思った。それはポルトガル語という狭いチャ
表示し、これら数個の対地を順次繰り返し、進行する
ネルでしか世界が見えないからだと思った。日本が国
と共に対地を変えていた。例えば、現在の走行地から、
際競争で次第に遅れを生んでいるのも、日本での細事
静岡、浜松、名古屋、京都、大阪の地名とそこまでの
の報道にばかりに一生懸命になっているマスコミの責
距離がそれぞれ一個の標識上に表示され、これが繰り
任が大きいと思う。宇宙開発でも日本人が関係した時
返されながら、その対地表示が次第に先に進むような
のみ大きく報道し他の時は全く報道しないので、最も
形式である。日本は、高速道路標識を集中していて、
大切な一連の発展は分からず仕舞いであり、ピアノ・
1か所に多数表示するので、必要な情報の読み取りが
コンクールで2人が1位になっても、日本人のみが1
困難である。
位のような報道で他の人は中国人とチラリと報道する
5.言葉
のみで、男性か女性かも報道せず、オリンピックで日
本人が3位に入賞した時に1位と2位について報道し
観光地のアンコールワットのホテルでは、英語も通
ないこともあった。私は日本の新聞は日本地方紙だと
じると言われていたが、仏語が全てであった。高校時
評価し、情報鎖国の国だと言っている。世界の一流英
代に日仏会館に少し通い、NTTでは将来の海外派遣
文紙誌を読んでいる人たちとの競争力の差を憂いてい
に備えて、英語の試験で選抜して、仏語とスペイン語
ます。
の10名ほどのクラスを作り、週に3回夕方2時間ず
つの語学研修が行われ、2年ほど参加していた。しか
6.国内諸事情
し、現地では全く役に立たず、いつも仏和と和仏の辞
1)プノンペンから約200 km 南で、ベトナムにごく
書を手に持っていた。1年過ぎないうちに、その必要
近い海辺にケップという保養・海水浴場があった。海
がなくなり、2年目には全く不自由がなくなった。N
は砂と言うよりはドロに近かったが、シアヌークビル
TT時代に東大助教授だった先生から、テキストなし
のように体を指す虫がいないのと、海産物に恵まれて、
で頂いたテープが聞き取れないままであったのを、帰
「フリュイ・ド・メール(海の果物)」という、海老、
国後に聞き返すと、どうして、このように簡単な内容
蟹、貝などを大皿に盛って出す料理が有名で、そのた
が聞き取れなかったのかと驚いた。自宅では、学者一
めに、わざわざプノンペンから正露丸持参で出かける
家のベトナム人を家庭教師にして学び、別の日にはフ
人々もあった。2001年に郷愁に駆られてこの地を
ランスが支援する現地の教室へ家内と夜に通った。日
訪れたが、クメールルージュの支配下にあったとかで、
本でも使用されている有名なテキストに「クリスマス
侘びしくさびれて昔の面影は全くありませんでした。
が近づくと、日が次第に短くなる」とあったのが、現
地人には全く分からずに質問を繰り返していた。その
2)プノンペンと唯一の海港シハヌークビルを結ぶ国
後に暮らしたマレーシアの首都クアラルンプールでは、 道4号線は、米国と国交のあった時代に米国が寄贈し
一年中、朝7時15分に夜が明け、しかも太陽は真直
た立派な道路であったが、当時は十分な保守ができて
ぐに昇るので直ぐに明るくなった。
いなくて、泥道になっている部分もあった。キリロー
ムという松林の美しい景勝の地などの森林地帯などを
一方、仏語が国内のどこでも通用したので、国内が
通り、シハヌークビル近くになると、正に熱帯のジャ
安全であったこともあるが、私たち日本人専門家のみ
ングルの中に道を切り開いた光景であった。道の両側
で、前記のラタナキリやラオス国境、その後ポルポト
には非常に高い木々が足の踏み入れる余地も無いほど
の拠点となった宝石の産地のパイリンなど、どこへで
に生い茂り、木々の間をツタが密接に絡み合っている
も何一つ心配なしにドライブできた。いまは、プノン
素晴らしい景観の道路であった。しかし、2001年
ペンの大通りにある立派な商店で仏語はもとより英語
にこの道路を走って驚いた。ポルポトが完全に伐採し
すら通用しない。多くの学者が殺された国で優れた外
て材木としてタイ国へ売却してしまったのである。
国語辞書を編集することは困難であろう。また、各種
広々と見渡せる荒地がどこまでも広がっていた。残酷
の文献や図書の翻訳も不可能であろう。折角、仏語が
なことである。マレーシアのように、パーム油が採取
普及していたのに、1500万の人間しか話さないカ
できるパーム椰子を積極的に植樹すれば、大きな輸出
ンボジア語の社会としてしまい、世界と通じる窓口を
産業に成長させられるのではないかと思った。200
民族主義のために狭くしてしまったのは残念なことで
1年に、国道4号の中間付近で小規模に植樹されてい
ある。マレーシアでも社会で優れた能力を発揮する中
るのを見たが、積極化を期待する。
国人よりも優位に立つために導入されたマレー人優先
政策により、教育を従来からの英語でなく、できる限
シハヌークビルは海港とはいえ、当時は出入りの船
りマレー語で行う方向へ進んだために、以前は高校卒
も少なく、近くの海水浴場は白砂に水は青く透明な汚
8
カンボジアジャーナル
れの全くない美しさであった。訪れる人は外国人が主
体で少なく、ガレージ付きの1個建てのコテージが適
当な間隔をおいて海岸に平行に1列に建てられたプラ
イバシー十分な海辺であった。
低く雨の心配のない12月が最適の季節と言われてい
たが、日本からの観光客は冬の出発のために、汗を拭
き拭きの観光でつらそうであったが、現地に暮らして
いる日本人は涼しい顔をしていた。
3)タイとの国境に近く、ポルポトの本拠でもあった
と言われるパイリンは宝石の産地である。最も有名な
のはジルコンで、取り出された時は地味な黄色がかっ
た石に過ぎないが、加熱によって無色透明となり、研
磨して安価なダイアモンドの代品として利用される。
量的にははるかに少ないがサファイアもとれた。現地
では、宝石を含んだ泥水を竹のザルですくって選別し
ていた。プノンペンの自宅へもこれらの宝石を売りに
きたが、中央市場に面した「メコン」という高級宝石
店に持参すると、希望の装身具に加工してくれた。
雨期末には、空中から見るとカンボジアは水害に見
舞われるのかと思わせるほどに田圃など地上に溢れて
いるが、乾期に入るとこの水がどんどん蒸発する。水
による気温の上昇を抑制していた機能が低下し、2月
頃から気温の上昇が始まり、地上のあらゆる場所がカ
サカサに乾燥する4月にピークに達する。エアコンを
購入する資金がなかったために、子供には汗疹ができ、
私たちも寝苦しくて眠れなかった。2時間ほどの間隔
で、水のシャワーを浴びて濡れたままで寝て、水の蒸
発熱で体温上昇を緩和することを一晩繰り返す苦しい
期間があった。
7.気象
8.飲料
昔は乾期と雨期が明確に区分できた。5月になると
雨期が始まるが、乾期中にすべてが乾いてしまった熱
い地上に雨が降るために、水蒸気の多いムーとした不
愉快な状況から始まりまる。朝のうちに降雨が始まり、
次第に降雨の時刻は後ろの方へずれて行く。雨期にな
ると太陽のない曇り空となり、砂漠のようになってし
まう乾期末よりは気温も下がり過ごしやすくなる。降
雨はスコール式で短時間で止むが、9月頃から降雨は
次第に夕方に近づき、昼間のように激しくない代わり
に降雨時間が長くなる。昼間の強烈な太陽の影響と、
それがない夜間の違いと考えられる。10月になると
少し鬱陶しいような降り方をしながら、最後には降ら
なくなる。これで乾期の到来である。2001年の1
月に激しい夕立を経験したが、昔は、そのような心配
がなかったので、自動車のワイパーを、盗難と劣化の
防止のために、どの自動車からも外して、車のトラン
クなどに翌年5月まで収納した。
フランスの旧植民地だけあって、各種の飲み物が経
験できた。まず到着の夜に中華料理店で先任者から勧
められたのが、それまで経験したことのない、へネ
シー・コニャックのソーダ割であった。ウイスキーで
のハイポールよりも爽やかで不思議な高級な飲み物で
あった。後日NTTのバンコック事務所へコニャック
をお土産に持参したところ、日本流に、コニャックグ
ラスに入れて、そのままに飲んでおられるのを見て気
の毒になった。フランス人は、熱帯地方での美味しい
飲み方を発明していたのです。フランス人はカンボジ
アではヘネシーを、ベトナムではマルテルを、それぞ
れ最高のコニャック酒として現地人に信じ込ませて、
上手に市場分割し独占していた。
ビールには大瓶の青島ビールとベトナム系の小瓶の
33(トラント・トロワ)があった。最近はインフレ的
表示の1桁多い333になってしまった。地方へ行く
と、電気が全くないか、夜間のみ給電のために、電気
冷蔵庫がなく、ビールを注文すると、布で包んで解け
難くしていた氷を、中国式の強力な包丁で四角柱状に
割った大きな1片を縦向きに入れたグラスが運ばれて
きた。注文した冷やしていないビール瓶から、客がこ
のグラスに少しずつ注いで冷やしながら飲むスタイル
であった。
自動車で郊外や都市間の道路を高速で走っていると、
「あそこから雨」という境が前方に明確に分り、そこ
へ突っ込むと、一挙にザーと滝のように雨がフロン
ト・ガラスに当たり出した。一般に農村部の婦人は黒
い衣装をまとっていたが、傘など役に立たず濡れるま
まにスコールの道を歩き続けて、短時間で終わる降雨
の後もそのままに歩き続けると、目的地までに着物が
乾いた。スコールが滝のように激しく降っていたため
に、自宅前に車を停止させてもドアが明けられず、降
雨が静まるのを待っていたこともあった。PTTの職
員も傘を持っていない人が多く、朝の内に降雨がある
と途端に出勤率が大きく低下した。
9.ポルポトの一見不可解な行動
これを理解するには、昔のカンボジアの社会構造を
十分に知る必要がある。一般の日本人や西欧人は経験
しない状況が、その裏に存在したので、まずそれを説
明する。
11月の乾季を迎えると、「待ってました」とばか
りに結婚式のシーズンであった。PTTの職員の多く
は出身地の農村部で式を挙げ、日本人専門家夫妻の出
席を期待する。暑くても女性は着物で出席すると非常
に喜ばれた。カンボジア料理が振舞われ、ランボンと
いう音楽で、日本の盆踊りのような踊りを踊った。
1. フランスがインドシナ3国を支配していた時は、仏
人を表面に出さず、カンボジアの政府役人と警察官に
は、すべてベトナム人を充て間接支配をしてした。
2. 独立後のプノンペンでのカンボジア人は、ベトナム
人に代わっての政府の役人と警察官、それに前述のシ
クロの運転手が大部分であった。政府の役人は、頭の
アンコールワットの観光も、一年で気温がもっとも
9
カンボジアジャーナル
良い子供が生まれてきて、かつ実家が豊かな中国人と
結婚したいとの希望を持っていた。日本人女性も当然
それ以上の対象であった。
したかったのでしょう。
しかし、目を背むかせる激しい拷問をしながら、多
数の人々に殺して行ったことについては、「何故に、
何を」自白させようとしたかについては推定ができま
せん。
3. プノンペン市内の商業は完全に中国人が支配してい
た。
4. プノンペン市内の、マッチ工場、自動車の整備工場
など機械に関する職業は完全にベトナム人が独占して
いた。(ベトナムが自由社会に復帰した直後に、大阪
市労働組合からハノイ空港用に寄贈した古い市バスが、
運転席はもちろん、乗客が乗降する自動ドアまでも反
対側に付け替えて機能させているのを見て、非常に驚
き、ベトナム戦争で捕獲した武器をすぐに修理して反
撃に使用できたのも当然と思った)
また、手網を静かにトンレサップ川に沈め、10秒
も待たずに、それを挙げると小魚がピチピチと跳ねて
いて、見ていた日本人を驚かせたほどに、魚資源は豊
かであったが、仏教徒のカンボジア人は殺生をしない
との噂もあり、漁業はベトナム人が行っていた。
5. 多くの中国人にとっては、ここで生まれ育っても、
カンボジア語の知識は全く不要で、日本人クラブで勤
務していた中国人の女性なども仏語と広東語で何ひと
つ不自由していませんでした。私たちのレポートや役
所などへ提出する書類もすべて仏語であった。
6. 旧仏領インドシナ3国の間では、ベトナム、カンボ
ジアさらにラオスと民族間の優劣が明確で誰でもがそ
れを認めていた。シアヌーク殿下が「最近、外国の
ジャーナリストの中に、カンボジアがラオスの下であ
ると言うけしからん人間がいる」と発言されたことも
ありました。
親しく共に暮らし、帰国に当たっては涙を流して別
れを惜しんでくれた若いベトナム人の子守や、明るく
忠実で有能だった中国人の女中が、このような悲惨な
処遇の先に殺害されたことを想像すると、心が痛む思
いで一杯です。
【岩噌弘三 いわそこうぞう】
昭和4年(1929 年)5月6日生れ、滋賀県出身。
第三高等学校、京都大学工学部電気工学科卒。
1955 年、日本電信電話公社入社。技術局、施設局、研究所、
ロンドン駐在事務所などに勤務。この間、1965 年から2年
間コロンボ計画専門家としてカンボジア勤務。
1981 年、日本電気株式会社入社。この間 1983 年から4年間
マレーシア通信省コンサルタント。
1992 年から 1997 年まで(財)日本 ITU 協会専務理事。
1998 年から BHN テレコム支援協議会(NPO)理事。
7. バーにしても、勤務するホステスの人種に応じてク
ラスが3段階に分かれていた。日本人は中国人のホス
テスがいるバーへ行くのが普通であった。カンボジア
人のホステスには、お客をもてなす気持ちが著しく欠
けていた。
8. 料理にしても、どこでも食べられる中華料理に続い
て、ベトナム料理があったが、カンボジア料理を食べ
させるレストランは簡単には見つからなかった。
要するに、プノンペンはカンボジア国の首都であっ
たにも関わらず、そこの主役はカンボジア人ではなく、
外国系の人間たちであった。カンボジア人にとっては、
外国人に占拠され繁栄している首都であったのでしょ
う。
そこで、素朴な愛国者は、カンボジア人の首都にす
るには、まずその時のプノンペンの主役である中国人
とベトナム人を首都外に追放し、適切な処理の方法が
無いので全てを殺戮し、同時に主役と密接な関係で甘
い汁を吸っているカンボジア人高級官僚やインテリも
同列に扱う必要があると考えたのでしょう。
完全に住民を追い出したプノンペンに、新たにカン
ボジア人を住ませて、カンボジア人が支配する首都に
10
カンボジアジャーナル
やがてクメール・ルージュが国内を支配する時代がやっ
てくる。
写真に写っている人々のうち、ポル・ポト後に消息
がつかめたのはひとりだけだった。彼はベトナムに脱
出して生きのび、のちに郵便電気通信省次官にまで上
りつめる。ちなみに1975年以前のPTT職員のう
ち、1979年に生存していたのは一割強にすぎない。
写真は冗談の飛び交うなごやかな雰囲気の中で撮ら
れたにちがいない。それは彼らの表情から読みとれる。
しかしこの写真が撮られてから三年後、カンボジアは
内戦の時代に入り、さらにその五年後、あのポル・ポ
ト時代が到来する。
自分たちの過酷な明日を知らずに微笑む彼らをずっ
と未来の方向からみつめる私は、彼らの視線にさらさ
れてたじろぐ。どう声をかけたらいいかわからない。
一枚の写真
波田野直樹
ここに一枚の写真がある。
撮られたのは1966年11月2日、場所はプノン
ペンにあったPTT(Post Telephone and Telegram)
の局舎内。
PTTは当時のカンボジアの中央官庁のひとつであ
る公共土木電気通信省の一部局で、郵便、電話、電信
を管轄していた。現在は郵便電気通信省(略称MPT
C, Ministry of Posts and Tele Communications)と
なっている。
写真は日本製の電話自動交換機の設置作業中のひと
こま。写真に写っている人たちはPTTの若手スタッ
フである。当時のエリートといっていいだろう。日本
からやってきたコロンボ・プラン専門家が彼らの先生
となり、その指導の下
でたちおくれていた国
内外の通信網を近代化
し増強するための事業
が進められていた。
1966年11月と
いうと、サムロート蜂
起の少し前である(サ
ムロート蜂起は196
7年4月)。国内では
1963年に地下活動
に転じたサロト・サル
が北東部の森の中で少
数の仲間とともに潜伏
しながらも具体的な勝
利への展望を描けない
でおり、隣国ベトナム
では第二次インドシナ
戦争(ベトナム戦争)
が拡大して米軍は増派
につぐ増派を重ねてい
た。
北ベトナムはカンボ
ジア領内に基地を置き、
米軍はこれをたたこうとして空爆を繰り返していた。
シハヌークビルに到着した中国からの援助物資はカン
ボジア領内のベトナム軍へとカンボジア国内を運ばれ
ていた。戦争は確実に忍び寄っていたのだ。中国では
この年の8月18日、天安門広場に紅衛兵が登場して
文革がはじまった。こういう時代、プノンペンはあく
までも平和だったようである。
日本は1960年頃から1970年までカンボジア
に対してさまざまな技術援助を行った。しかしこうし
た技術援助活動はロン・ノルによるクーデターの起き
た1970年に途絶する。その後内戦ははげしくなり、
※この文章はシハヌーク時代のカンボジアに派遣され
て電気通信分野の技術協力にたずさわった北川泰弘さ
ん、岩噌弘三さん、坂下隆義さん(いずれも元電電公
社職員)からうかがったお話、お借りした資料等に触
発されて書いた。掲載した写真は岩噌弘三さんが撮影
したものであり、文中のデータは北川さんが作成した
資料をもとにしている。
【波田野直樹 はたのなおき】
1948 年生まれ。『カンボジアジャーナル』の編集発行人。
ウェブサイト「アンコール遺跡群フォトギャラリー」、カ
ンボジア勉強会主宰。
11
カンボジアジャーナル
象なのである。考古学という学問の裾野はとてつもな
く広い。だからこそ、いろいろな学問から理論が援用
され、様々なモノを研究していくことが可能となる。
「東南アジア考古学特講」という名の大風呂敷
-豊かさを求めて-
クラスを構成するにあたり、私は考古学の懐を借り、
その大きな大きな風呂敷をまずは広げることにした。
科目名にある「特講」は、その名のとおり特殊な講義
である。内容はより自由であっていい。目標は、東南
アジアを知ること。受身の知識だけではなく、考古学
のフィールドワークで求められるような、目前にある
事象を客観的に捉え、自分で情報収集し、考えること
を「東南アジア」の国を通じて学んでもらいたいと
思った。そして、この風呂敷がどんなに大きな風呂敷
であったとしても、積極的に東南アジアという他者を
通じて自己を見つめることのできるクラス構成を目指
した。
隅田 登紀子
はじめに
2007年から、私は大学で東南アジア考古学を教え
はじめた。私の勤める大学は学園創立の1926年以
来、83年に渡り、日本における洋装教育のパイオニ
アとして国内外に多くの人材を排出してきた。
この大学の教養科目に東南アジア考古学のクラスを設
置してはという話が上がった。大学からの要望として
は、国際的な教養を身につけることのできる
科目を目指して欲しいとのこと。科目を開講
するにあたって、私は科目を選択科目として
位置づけること、そして対象年次を卒業年次
の4年生として欲しいとお願いした。
本学の科目構成は3・4年次のコース内容に
関わらず、卒業時にはどの学生も服を作るこ
とのできる知識と技術が身に付くようになっ
ているため、大学4年間で得られる知識と技
術が非常に明確である。そして、4年間の学
生生活は、朝から晩まで服飾の世界にどっぷ
りと漬かることになる。そのため、入学段階
から将来に対する目的意識の高い学生や、服
飾に関する素養を持った学生が多い。私が4
年次目の開講を依頼した理由がここにある。
つまり、大学の最終年次には自分自身のこと
や社会、世界のことに目を配る余裕が少しで
き、自分が必要とするものがある程度クリア
になっているのではないかと考えたからであ
る。少しでも、東南アジアのことを知っても
らうために、また日本から世界へ目をむけることがで
きるような授業を考える手探りの日々がはじまった。
図 1 配布資料 1(世界地図)
本文では2007年から3年目をようやく向かえたク
ラスの試みを学生の感想を織り交ぜながら、記したい
と思う。
1.大きな風呂敷を広げる
この科目における私の役割は、学生たちを東南アジア
考古学のエキスパートや東南アジア地域の専門家とし
て養成し、世に送り出すことではない。むしろ、まず
は彼らの思考や資質を総合的にとらえ、心に東南アジ
アの国々の種をまくことであると考えている。そして、
科目名にあるとおり、考古学という学問をそのエッセ
ンスとすることを忘れないようにしている。
考古学の研究対象は物質文化(注1)である。つまり、
「人の営みから生まれでたモノすべて」がその研究対
図 2 配布資料 2(東南アジア)
12
カンボジアジャーナル
2.東南アジアってどこ?
クラスで最初に行うことは、学生に世界地図の白地図
(図1)を渡し、「東南アジア」といわれる地域を丸
で囲ませる。次にざっくりとした東南アジアの国々の
国境の入った白地図(図2)を渡し、国名(正式なも
のでなくてもいい)を記入させる。皆一様に学校教育
で学んできた内容である。また、日常生活で耳にする
ことがある国名もあるだろう。しかし、この地域に含
まれる国とその場所を過不足なくぴったりと言い当て
ることのできる学生はそれほど多くはない。
やはり蓋を開けてみると、中国やインドまでその範
囲に入れてしまっている人、また島嶼部であるインド
ネシアやブルネイ、マレーシア、シンガポールの位置
が明確でないなど、各人が東南アジアに対する自分の
意識の曖昧さを改めて認識するのである。そして、各
自この地図2枚は、東南アジアへの最初の一歩として、
クラス終了時まで大切に保管しておいてもらい、時あ
るごとに見なおして欲しいと伝える。
初回の授業を受講した学生達の感想は、東南アジア
に対する自分自身の認識についてのものが多く、次の
ような感想に代表される。 「初回の授業を受けて最
初に思ったことは、今まで自分がいかに他国に目を向
けず狭い世界で生きて来たのだなということでした。
東南アジアの地図を渡された時も全くわからない自分
がいて、とても恥ずかしいなと思いました。(一部
略)正直この授業を取った時わたしは漠然と考古学に
興味があって取ったのですが、授業を受けてみて私の
持っている考古学のイメージとは違いもっとひらけた
印象を受けました。曖昧な表現になるかもしれません
が、考古学はもっと良い意味で固いイメージがあった
のですが、なぜだかこの東南アジアの考古学(の授
業)についてはそのような印象を受けませんでした。
それは、更なる可能性が見えてきて非常に興味深いな
と思いました。」
なぁと思います。こうして聞かれると自分は公用言語
すら知らなかったことには驚きました。名前と場所を
知っているだけで自分の知っている国のように勘違い
していて実のところは言語すら知らなかった。世界の
国々全てについて知るのは難しいですが近隣国くらい
はきちんと知っておきたいと思いました。また自分の
知っているつもりだった東南アジアの国々のイメージ
と本来の国の姿とのギャップがあり、もっときちんと
正しい姿を学んで間違ったイメージを直していきたい
と思います。」と感想を述べている。
これらの作業を通じて、学生達は東南アジアについて
語る同じテーブルにつくことになる。学生達が最初に
抱いた東南アジア諸国のイメージと、実際の姿が少し
近づく。様々な要素が絡み合い、育んでいくその姿に、
一歩近づく瞬間である。
図 3 発表シート(各自自由形式作成)
3.東南アジアの多様性
東南アジアの国々の場所と名前を確認すると、次は
各国の基本的な概要を調べる。国の正式名称、首都名、
略史、人口、宗教、言葉、民族構成、気候・風土など
の情報を共有することを目的とする。学生達は各自担
当の国を決め、これらの項目を含む発表資料を作って
きてもらう。特に資料内容に制限を設けず、学生の判
断に任せてみた。すると、各自、様々なスタイルで発
表シートをまとめてきた。図3は、ミャンマーを担当
した学生のシートである。パワーポイントで発表スラ
イドを作る人が多いなか、手書きで、その手作り感が
かえって斬新だった。色の配色はミャンマーのイメー
ジだそうだ。
実際にシートを作成してみた学生は、「東南アジアに
属する国の細かな情報について勉強しましたが、自分
が思っている以上に国々について知らないことがわか
りました。まだまだ深く調べられるところがあった
毎回、各国の基礎情報を踏まえ、数あるテーマのなか
から「国家」(注2)や「植民地化」(注3)というもの
について考えることにしている。それは、現在の東南
アジアだけでなく、世界の国々を理解する上でも、歴
史上これらの国がどのように語られ、どのような過程
を経て国が成立したかということを知っておいたほう
が、より理解しやすいと考えたからである。
実際に、このテーマだけで一つの講義を行なうことが
できるほど大きなテーマであることは重々承知の上で
ある。むしろ、学生へ問題提起するということに重き
を置き、自分の意見とこれらのテーマに関する言説と
を比較しつつ、共に考え、ディスカッションする。
特に、国家の三要素について自分の考えを述べ、次に
国家に関する言説についていくつか事例を挙げ、自分
の考えと比べてみる。そして、東南アジア諸国の植民
地化の歴史的背景についてタイとカンボジアの事例を
挙げながら、過去から現在へと目を向けながらテーマ
を広く扱う。
学生達は、これら2つのテーマを通じて様々なことに
思いを馳せていることが以下の感想から分かる。今回
13
カンボジアジャーナル
投げかけた内容は思いのほか反響が大きいものだった。
「今回の授業を受けて国家のあり方について考えさ
せられた。自分はあまり国家について考えたことがな
い。思えば日本は豊かで今は平和でもあるし、国家の
三要素もあるしで、何も深く考えたことがなかったの
だ。しかし世の中には土地がなくても国家であるとい
う国?もあると聞いて、世界中で様々なことが起きて
いるのだなと改めて思った。国家とはと、考えれば考
える程深く色々な要素が見えてくる。」
「自分の中での国の概念を深く考えるきっかけになり
ましたのですごくよかったと思っています。」
「東南アジアのタイ以外の国が他の、特にヨーロッパ
の国に支配されたのは凄く悲しかったです。私も先祖
の時代の話し(韓国)はずっと聞いてきたのでその悲
しさや苦しさは分かるきがしました。」
「少しですが東南アジアについて知れました。私は日
本人として、アジア人として生まれ育ってきましたが、
なぜか欧米人に負けている気がしていました。一方、
東南アジアはエギゾチックなイメージと、言い方は悪
いですがどこか神がかり的な部分が多いのかなぁと感
じていて、最先端をいくというよりは自分たちのスタ
ンスを持っていると思っていました。大切な事はそこ
までの過程や、背景を知るという事だと気付けまし
た!今は日本だけの狭い視野で生きていますが世界を
知り、世界でも通用するような人になれるように頑張
ります!」
「アルバイト先のミャンマー人の友人からたくさん話
を聞かせてもらい、より詳しく学ぶ事ができました。
その人は兄弟9人に両親がいますが、イギリス、アメ
リカ、オーストラリア、日本と家族みんながミャン
マーからの難民だそうです。自分の国に帰れず、彼ら
が母国であるミャンマーのことを「バカな軍事政権の
国」と呼んでいたのはとても残念でした。」
8」の関連イベントがあちこちで行なわれた。私たち
が見学した東京国立博物館東洋館の特集展示では、イ
ンドネシアのイカットやワヤンを取り扱う展示がおこ
なわれたり、大倉集古館では「インドネシア更紗のす
べて」という展示が行われたりした。また、本学の衣
裳博物館でも、インドネシアのテキスタイルを取り
扱った「布と暮らす人たち」という展示を行なったた
め、「衣」を中心としたケーススタディを行うことが
できた。
今年は、「メコン交流年2009」でもあり、様々
なイベントが都内で開催される。そこで、伝統芸能を
中心に東南アジアの精神文化について学んでいる。前
半は、都内のガムラングループの「音工場 OMORI」の協
力を得てインドネシアの伝統芸能であるワヤンやガム
ラン、バリ舞踊などについて学び、後半はカンボジア
の伝統芸能スバエク・トムについて学ぶ。また、年末
から年始にかけて「アンコール・ワット」展が開催さ
れることに合わせて、アンコール王朝の建造物や彫刻
などの精神文化についても考えてみたいと思っている。
5.「豊かさ」とはなにか
私は最後の授業でいつも学生に「豊かさ」とはなにか
と問うようにしている。実は、この問いにこれといっ
た答えは用意されていない。等身大の今の自分自身に、
ちょっと立ち止まって聞いて欲しいと思うからこそ、
毎年同じことを私は学生に問う。そして自分も考える、
「豊かさ」とはなにかと。
一年間を通じて東南アジア考古学を共に学んだ彼ら一
人ひとりの答えには、今の世を理解することのできる
鍵があるのではないかと、いつも学生たちに教えられ
る私自身がいる。
世界中には様々な境遇の人が生活をしている。当たり
前のことだが、日常生活の中でこのことに気づく時は
少ないように思う。感想を述べている学生達のように、
「気づく=思いを寄せる」ということの大切さをこの
回の講義を通じて感じてもらえればいいと思う。
4.各論
各国の基礎情報、国の成り立ちを考えたあとは、
「考古学」の概念のもと、衣、食、住、娯楽、信仰・
宗教、芸術についてケーススタディを行なっていく。
毎年、新しい内容をできるだけ取り込むよう努力をし
ている。幸いなことに、東京という土地柄は最新の学
術情報も入手しやすく、また東南アジアに関する何ら
かのイベントや、活動グループも多いく、話題には事
欠かない。
実際に私が「豊かさ」について意識して考えはじめる
ようになったのは、大学院時代に受けた坪井善明先生
の国際協力の授業である。考古学一色に染まっていた
私にとって、その授業そのものが衝撃だった。人生の
中で自分の専門以外の学問について短期間に、しかも
広範囲に学んだのは、おそらく最初で最後、この授業
だけなのではと思うくらい私の中では印象的な授業
だった。政治学、経済学、社会学、そして文化人類学
等多岐にわたって「国際協力」の舞台で必要とされる
基本的な知識を幅広く求められた。世の中の広さと同
時に自分がいかに狭い視野で自分の研究に望んでいる
かということを真正面から突きつけられた。もっと広
い視野で物事に挑むこと、そして人間の営みには様々
な要素が絡み合っているということを毎週のように感
じた。当時の自分にとって、1 週間がこの授業中心に
回っていたといっても過言ではなく、当時の経験は今
の自分を支えてくれる良い思い出の一つとなっている。
だからといって、自分と同じ経験を自分の学生に求め
ているわけではない。何度も言うが、私の授業では、
学校教育の現場で与え続けられてきた受身の知識だけ
例えば、昨年は「日本インドネシア友好年200
14
カンボジアジャーナル
ではなく、それらを以って自分で考えることの大切さ
や現場から物事考えることの大切さを「東南アジア」
の国々から学んでもらいたいと思っている。私の役割
は、大学で東南アジア考古学の研究者を養成すること
ではなく、東南アジア考古学という名の種をまくこと
だと思っている。
世界遺産アンコールワット展のお知らせ
シハヌーク・イオン博物館、プノンペン国立博物館所蔵
のアンコール王朝最盛期の美術工芸品を中心に 67 件を公
開。出品作品の中には、2001 年に上智大学アンコール遺
跡国際調査団がバンテアイ・クデイ遺跡で発見した世界
初出品作品 11 件のほか、三島由紀夫が戯曲の題材にした
といわれる「閻魔大王の像」など、日本初公開品も多数
含まれています。ベールに包まれたその歴史に触れ、ア
ンコールワットに息づく神々の息吹を感じてください。
(パラミタミュージアムの企画展示案内より転載)
種をまき始めて、今年で 3 年目。芽は出ているのだろ
うか、それともまだ眠ったままなのか・・・。願わく
は、彼ら自身が歩んでいく人生のなかで何かのきっか
けとなっていればと思うまでである。
最後に私の「東南アジア考古学の大風呂敷」から巣
立った学生が、学年の終わりに私に宛てたクラスの感
想をご紹介して終わりとしたいと思う。教師として未
熟な私が自分で、このような感想文を紹介するのは非
常に気恥ずかしい限りだが、これが授業を行う私の支
えであり、この声を聴きたくて教育の現場に立ってい
るのだなと実感する日々である。
「この一年間、大変お世話になりました。東南アジア
考古学の授業は、私のインスピレーションを膨らませ、
視野がどんどん広がっていきました。私の大好きな映
画のセリフに“人の価値は何を禁じ、何を否定し、拒
み、排除するかでは決まらない。何を受け入れ、何を
創造し、誰を歓迎できるかで決まる”というのがあり
ます。先生をはじめ、私の尊敬する方々は皆そうであ
ると思います。私もそんな人になれるように今後の人
生をオリジナリティたっぷりに織り成していきたいで
す。」
「一年間、東南アジア考古学の授業を受けて、すごく
視野を広げることができました。この授業を受けるま
で、アジアという地域にほとんど関心がなかったのに、
今はアジアが気になって仕方ないくらいです。久しぶ
りに、本気でもっと知りたいと思えることに、たくさ
ん出会えました。この授業は毎回新しい発見があって、
一番わくわくする授業でした。先生に教えてもらって、
本当によかった!!ありがとうございました。」
注1 濱田耕作『通論考古学』 大鐙閣 1922
注2 萩原能久 「ラビリンスワールドの政治学」 『法学
セミナー』 日本評論社 1995
注3 笹川秀夫『アンコールの近代-植民地カンボジアにお
ける文化と政治』中央公論出版社 2006
北川香子『カンボジア史再考』連合出版 2006
【隅田登紀子 すみだときこ】
杉野服飾大学専任講師/杉野学園衣裳博物館学芸員(専
門:考古学/博物館学)
大好きなカンボジアや東南アジアの人たちに何かできるこ
とはないかと日々考える毎日
1975 年 岡山県生まれ
1995 年 初めてカンボジアを訪れる
1997 年 奈良大学文学部文化財学科卒業
2000 年 上智大学大学院修了(地域研究修士)
15
〔2009 年の開催予定〕
12月27日(日)~2010年1月18日(月)
日本橋三越本店(東京都中央区日本橋室町 1-4-1)
〔2010 年~2011 年の開催予定〕
2 月 4 日(木)~3 月 22 日(月・祝)
山梨県立博物館(山梨県笛吹市御坂町成田 1501-1)
3 月 26 日(金)~4 月 13 日(火)
大和香林坊店(石川県金沢市香林坊 1 丁目 1 番 1 号)
4 月 20 日(火)~5 月 30 日(日)
岡山県立美術館(岡山県岡山市北区天神町 8-48)
6 月 5 日(土)~7 月 4 日(日)
群馬県立近代美術館(群馬県高崎市綿貫町 992-1 群馬
の森公園内)
7 月 10 日(土)~8 月 29 日(日)
福岡市博物館(福岡県福岡市中央区大濠公園 1-6)
10 月 19 日(火)~12 月 5 日(日)
熊本県立美術館(熊本県熊本市二の丸 2)
12 月 11 日(土)~2011 年 1 月 23 日(日)
大分県立芸術会館(大分県大分市牧緑町 1-61)
※都合により、スケジュールや展示作品は変更になる場
合があります。
カンボジアジャーナル
う性質のものだ(※2)。具体的には人間の腑、出産
時に産婦の体から出る血液やへその緒、後産、アマガ
エルやヒキガエル、オタマジャクシ、田にいるカニ、
残飯などを食らうとされる。身体から抜けた首は太陽
の光に弱いため、夜明け前に必ず胴体に戻り、再び
「人間」としての生活を送るという。
カンボジアの妖怪アープ
井伊 誠
カンボジアで古くから語り継がれてきた「反人半妖」の
アープ。日中は人間と同じ姿をし、人間と同じ生活をしてい
るが、夜になると首が抜け、血肉を貪るという。アープの目
撃情報を追い、国内各地に眠るアープの「現場」を歩いた。
カンボジア人の日常生活を取り巻く複雑な霊的存在
には、上座部仏教の要素が入っているもの、ヒン
ドゥー教やバラモン教に起源を発すると考えられるも
の、土着のもの、これらが融合したものなどがあると
考えられ、アープはそのひとつとされる。
夜になると現れる「半人半妖」の抜け首
ところで、このアープが生み出された背景には、ど
んな民間信仰や慣習があり、人々の暮らしにどのよう
な影響を与えてきたのだろうか。国内各地に散在する
アープの「現場」を歩いた。
村が暗闇に包まれ、その闇が音をかき消したかのよ
うに森閑とした夜。ある家で、寝床に入っていた女性
の首がズッズッズッと動きだし、血の滴る腑とともに
胴体から分離する。
周囲の人々は寝静ま
り、そのことに気づ
かない。分離した首
は長い腑を垂らし、
ぼんやりとした緑の
光を発しながら夜な
夜な宙を舞い、獲物
を探し求めて村の中
をさまよう。カンボ
ジアで古くから語り
継がれてきた半人半
アープを取り上げたビデオCD。バッタ
ンバン州で実際に起きた事件をもとにし 妖の抜け首アープで
ているという。(C)FCI Production
ある。
キエンスバイにおけるアープの「目撃」情報
首都プノンペンからバイクで三〇分ほどのカンダー
ル州キエンスバイ郡プレークアエン村。この村で生ま
れ育ったアヴィーさんは幼い頃、アープを「目撃」し
た。
「そのアープは竹でできた壁の小さな小屋のような
家に夫、五人の子どもと一緒に住んでいました。昼間
はふつうの人間と同じで、野菜を育てたり魚を捕った
りしているのですが、夜になると首が抜けてアープに
なるんです。私も子どもの頃、夜に用を足そうとして
祖母と一緒に戸外へ出たとき、宙を舞う緑の光を見ま
した。祖母が『アープの光だ』というので、とても怖
くなりましたが、祖母は経が唱えられるのでアープを
恐れず、私を連れてすぐ家に帰ったんです」
アープは映画やテレビドラマ、出版物に取り上げら
れたり、目撃情報が新聞で報道されたりすることもあ
り、カンボジアでは広く知られた存在だ。アープを題
材とした映画としては、一九七〇年代に上映された
「コーン・ウーイ・ムダーイ・アープ(我が子よ、母
はアープ)」、「プルーン・チェッ・アープ(アープ
を焼き尽くす炎)」(二〇〇四年)、「アープ」(二
〇〇五年カンボジア国際フィルム・フェスティバル出
品作品)などがあり、ビデオ CD となって市販されてい
る。
プレークアエン村では、今まで洗濯物を干す紐に腑
をひっかけて動けなくなっているアープ(その後、腑
のねじれを解きアープは逃げていった)、牛糞の上に
いたカエルを貪り食うアープ、正体をさらさないよう
に髪の毛で顔を隠したアープなどが「目撃」されてい
る。
同村に住むある中年の女性は、目の前で歯をむき出
しにしたアープを直視したショックで寝込んでしまい、
古くからの言い伝えによると、地域によっては夜、
静まり返ってから宙を舞う青い光が目撃されるが、そ
ういった光はアープの放つ光だと信じられている(た
だしこの光を「プリアイの光だ」と認識する人もいる。
プリアイというのは人間を苦しめると考えられている
悪霊の一種で、火の玉や火花の形で宙を舞ったりする
と言われている)。その光量は常に一定しているわけ
ではなく、蛍の光のように青白い光をちかちかと点滅
させながら宙をさまよい、獲物を見つけると大きく明
るい光を放ってそれを食らうという。
アープが好んで口にするのは汚く生臭いと認識され
ているもので、その生臭さは「人間界に下りて来た神
が感じる匂いで、神は我慢ができず帰って行く」とい
16
映画「アープ」(2005)あらすじ
カンボジア北西部のバッタンバン州に愛し合う二人の
男女がいた。村で祭りが行われたある夜のこと。女性は
村の悪者どもに暴行され、彼女の恋人は刺殺されてしま
う。そのとき、村の別の場所ではアープが出現し、村人
を騒がせていた。村人の投げた竹槍でひん死の状態に
なったアープは、暴行を受けた女性に憑依する。以降、
この女性はアープとなり、自分の恋人を死に追いやり、
自分を暴行した男たちに対する復讐を開始する。
そんなとき、首都プノンペンから遺跡の調査にやって
きた学生グループがある女性の家にホームステイする。
ホームステイ先の家主はアープの女性で、その秘密を
知ってしまった学生たちは、次々とアープに命を狙われ
る。
カンボジアジャーナル
仏教寺院でお祓いを受けたが回復せず、とうとうキエ
ンスバイ郡を出てクラチェ州に引っ越してしまったと
いう。アヴィーさんが付け加える。
一九三八年、フランスのパリで出版された『クメー
ル族の慣習(邦題:カムボヂァ民俗誌)』によると、
アープとは生まれながらの妖術者か、または男性に恋
情を催させる方法を研究した挙げ句になるものが多く、
相手を呪い殺す恐ろしい力を持っている。「話によれ
ば、夜中に彼女は皮膚から抜け出し、頭と腸だけで飛
んで廻り、その跡には青味がかった跡が残るといふ。
彼女はそこここに止まつては、がつがつと大便を漁り、
しまひには寝てゐるものの尻にまで吸ひつく。以前に
はこの妖術者は澤山ゐたが、今では殆ど婆を消し
た。」(前掲書)
「アープは日光に弱いため、夜明け前、そうですね
だいたい午前四時までには胴体に戻ると言われ、首が
分離しているときに胴体が失われてしまったら、アー
プは命を落とすと考えられています。もし生命の存続
が危うくなった場合、アープは死に瀕している人間を
探し、その人に憑依することで危機を脱しようとしま
す。憑依された人は死の淵から甦り、アープとして生
まれ変わるそうです」
仏教研究所発行の『クメール語辞典』では、スナエ
ムックは「この知識を有する人間を滅びさせ、消失さ
せる悪しき知識」と定義されており、阿部年晴によれ
ば、一般に「(のろいによって)のろわれた者は、適
切な儀礼的措置を受けないかぎり不幸に見舞われる。
しかし、のろいをかけた者も、もはや幸せで平穏な生
活を送れないばかりか、周囲の人々にとって危険な存
在に転化したと見なされる。したがって、のろいがか
けられると、軋轢は当事者間にとどまらず、共同体全
体の問題となる」という。
このアープの憑依に関し、プノンペン市内の郵便局
で働くカンポート州出身の女性は次のように話す。
「アープが高齢になって死が迫ってきた場合、同じ
集落に住むおとなしくて若い女性を見つけ、アープの
魂を存続させるためその人に憑依するんです。取り憑
かれた人はそのことにすら気づかないため、憑依を防
ぐ術はありません」。
一般にアープが出没するのは都市部から離れた地域
で、その実体はアープが姿を現す土地の住人だとされ
る。つまり、アープはその土地の人々がよく知る人物
ということになる。通常、アープはその正体を隠すた
め人間に近づこうとはしないが、自分に危害を加えた
り怒らせたりするような人物に対しては、呪術を用い
て相手に腹痛を起こさせたり、精神や意識を混乱させ
たりして復讐を果たすと信じられている。アープの復
讐を恐れる人々は、日中、アープと疑われる人物が何
かを買いに来たり、借りにきたり、または依頼しに来
たりしたら、「彼女」の望みを叶えようと努める。こ
のように、アープの存在が信じられている地域では、
アープは人間に危害を加える恐ろしい存在として認識
されているが、それとは対照的に、アープを題材とし
た笑い話も各地で語り継がれている。
カンボジア南東部のコンポンスプー州ソムラオント
ン郡プニアイ村。遠く西方にキリロム国立公園の山々
を臨むこの小さな農村で、アシュラムと呼ばれる伝統
的な施療院を営むクルークマエがいる。六歳からシェ
ムリアップ州のプノンクーレン山に籠って修行を続け、
二〇〇五年からプニアイ村でアシュラムを開いたソロ
ノム師である。師によると、人がスナエを学ぶ理由は
大きく三つに分けることができる。
アープ発生の背景を探る
カンボジアの歴史、呪術、宗教、慣習、霊的なもの
に対する信仰、伝統遊戯、祭祀などについてまとめた
仏教研究所発行の『カンボジアの伝統と風俗習慣』の
なかで、著者のミエイポン氏はタケオ州キリヴォン郡
に住む三人のクルー・クマエ(呪術師、呪医)に対す
るインタビューを元にし、アープについて記述してい
る。それによると、アープ発生の背景にはスナエ(ス
ナエムック)と呼ばれる呪術の取得がある。スナエと
は標的とする人間に愛情や恋愛感情を抱かせることの
できる呪術で、この呪術をかけることをクメール語で
は「ダック・スナエ」、かけられることを「トロー
ウ・スナエ」と言う。同書によると、このスナエを取
得した女性が長期間に渡って呪術の実践を重ねること
で、スナエの威力が体内に染み渡りアープへ変貌する。
では、人はなぜアープへと変貌を遂げる可能性のあ
る呪術スナエを学ぶのか。そもそもスナエとはいかな
る性質の呪術なのだろうか。
17
「第一の理由は、生計
を立てる職業のためです。
例えば小売業を営んでい
る人がいるとします。ス
ナエによって多くの人を
魅了することができれば、
その人は一定した顧客を
得て、商売を繁盛させる
ことができるでしょう。
第二の理由は権力者に取
コンポンスプー州でアシュラムを り入るためです。権力者
営むソノロム師
に気に入られたり、権力
者の注意を引きつけたり
するのにスナエを利用するのです。もうひとつの理由
は、男女間の愛が関係しています。ある女性がある男
性に好意を寄せていたとします。しかし、男性はその
女性に好意を抱いていない。スナエを取得すれば、こ
うした男女がいかにいがみ合っていようが、お互いに
好意を抱かせることができるようになるのです」。
このスナエを長期間に渡って学んだ女性が、汚れた心
のまま怒りの心情を持ちスナエを悪用し続けると、精
神が分離してアープを生み出すという。とはいえ、ソ
ロノム師によればスナエを取得した人間がすべてアー
プになるわけではない。
カンボジアジャーナル
「呪文や呪術というのは、使用者の精神次第です。
使用する人間の精神が良質であれば、たとえスナエを
取得したとしてもアープへと変貌することはありませ
ん。アープというのは言い換えるならば、スナエを取
得した人間で、かつ行いの悪い者だと言えます」。
なのです。従って、呪術はどうやって学ぶのか、奥義
書のようなものが存在するかどうかは明らかではあり
ません。それにどのように首が抜けるのか、なぜ抜け
るのか、何かが不足した結果そうなるのか、考えても
答えに達しません。奇術師が口から刃物を飲み込んで
も平然としているのと同じように、通常では考えられ
ないことだからです。ひとつ言えるとすれば、その呪
術を身につけた人間のみ可能であるということでしょ
う」。
一方、首都プノンペンのソンパウミアッ寺院の老僧
ミアッポン師(七九歳)は、スナエを学ぶ人間を指し
て「怠け者で行いが悪く、思考の働かない人間だ」と
断じる。
この僧侶によると、ポルポト時代(一九七五〜一九
「仏教の教えに因果応報というものがありますが、
七九)以前、アープの目撃者は現在よりも多かったが、
スナエを学びアープとなるような人物はそういうこと
同時代に命を失った人のなかには呪術を操る高齢者も
を考えず、自分の欲望のために人を苦しめるのです。
多かったため、呪術スナエの伝達は断絶しつつある。
いかにして人を恐れさせるか、不安に陥れるか、悩ま
加えて、七〇年代以降、開墾や違法伐採、商業伐採、
せるか、そういったことばかりを考え、働こうとしな
非伝統的な焼畑などにより広大な面積の森林が失われ
い怠け者なのです。腹が減れば人に危害を加えて恐れ
た結果、悪しき呪術
させ、食物を供え
アープに後産が侵されるのを防ぐために置かれた刺のある植物(使用後に廃棄されたも の取得に適した静謐
させる。そういう
の)。プレイベーン州ソムラオン保健行政区内の集落にて撮影。
な空間が減少したこ
人間がスナエのよ
とも影響し、アープ
うな、私たち僧侶
やその目撃件数も少
がデーレチャーン
なくなったという。
ビチアと呼ぶ誤っ
た知識を学ぶので
アープと関連する産
す」。
後の伝統慣習
デーレチャーン
ビチアというのは、
自己の利益のため
に衝突し合う動物
のごとく、同じ人
間の幸福を破壊す
る悪しき知識のこ
とで、このような
知識を学ぶ人間は
社会に不適合だと
老僧は指摘する。
現在もカンボジア
では、自宅のそばに
保健センター(病
院)がなかったり、
あっても出産施設が
整っていなかったり、
または信用問題や情
報不足、家庭の経済
問題といったさまざ
まな事情により、昔
と同様、伝統助産師
に介助されながらの
自宅出産が主流と
なっている地域があ
る。こうした地域では、古くから伝えられてきた出産
や産後の伝統慣習が残っており、そのなかにはアープ
と関連するものもある。
こうした人間に
危害を加える呪術
は忌み嫌われており、取得しようとした事実が発覚し
た場合、殺害や殴打の対象となることもあるという。
人里離れた地で行われる悪しき呪術の伝授
では、こうした「悪しき呪術」はどのようにして人
から人へ受け継がれてきたのだろうか。コンポン
チャーム州プレイチョー郡出身で、一九九二年から出
家生活を送る僧侶(三〇代)は、次のように説明する。
「古くから、人間がアープを生じさせる呪術の取得
者であり、実践者でもあると言われてきました。つま
り、人間がアープの創造者であって実践者でもあるわ
けです。こうしたアープを生み出すような悪しき呪術
の習得は、家族や近所の人間に知られないよう、例え
ば奥深い森の中のような人里離れた静かな土地で行わ
れていると聞きます。だから、悪しき呪術の修練とい
う事実を知る者は、学ぶ者自身と教える師の二人だけ
18
NGO国際保健協力市民の会(SHARE)が二〇〇七年
一月に行った調査「カンボジア農村地帯の母親の保健
行動〜プレイベン世帯調査結果から」によると、プレ
イベーン州のソムラオン保健センター区では自宅出産
が圧倒的に多く、全体の九五・二パーセントを占める。
同保健センター区で伝統産婆として出産介助に当たっ
てきたニンさん(五六歳)によると、この地域では後
産を土の中に埋める慣習がある。「土の中に埋めるの
は、イヌやアヒル、ニワトリなどの動物や、アープ、
ベイサーイ、クマオイといった霊的な存在に後産を侵
害されないようにするためです。昔から後産というの
は、新生児のプオーン(妹、または弟)にあたると考
カンボジアジャーナル
えられてきました。新生児のプオーンにあたる後産を
侵害された場合、産婦と新生児の人生に悪い影響が生
じると言われているのです。それを防ぐため土の中に
埋め、地表に棘のあるもの(植物など)を置いて後産
を守るのです」。
広く東南アジアに見られ、子宮を象徴するココヤシの
殻や瓢箪に入れ、安全なところに埋める地域もある。
そしてそれは、子どもの健康と幸せを守ってくれると
信じられていることが多い。
血なまぐさいものを好むアープは後産を貪りにくる
と言われているが、棘のあるものを置くと、首から垂
れた腑が引っ掛かるのを恐れ、アープは後産を埋めた
場所に近寄らなくなると考えられている。仮に腑が
引っ掛かって逃げられなくなってしまったら、太陽光
に弱いアープは日の出とともに絶命するという。
人生の通過儀礼を通してカンボジア人の誕生から死
までを詳述した『クメール人の人生の流れ』では、
アープはカンボジア人の出産時の「敵」と位置づけら
れている。同書によると、アープとは年老いた村の女
性で、汚らわしく最も怠惰な人間であるという。また、
アープについて注目すべき点として「第一に年老いた
女であること、第二に酒を飲んだり不潔であったり、
怠惰であったりするが故に人々から尊敬されていない
人間であること」の二点を挙げる。年老いた女という
のは、もう子をもうけることのできない女性であり、
不潔であるという点により、アープは生臭いもの、血、
特に出産後に晩出される後産を好んで食べると信じら
れるようになった。同書によると、この二つの点はお
互いに強く関連しており、もう人並みに子を生むこと
のできなくなった老女が産婦にひがみの感情を抱き、
アープとなって新生児の象徴と見なされる後産を食ら
うのだと解説する。
一方、Eisenbruch によれば後産は新生児の「魂の起
源となる世界」であると考えるクルークマエもいる。
そのクルークマエによると、後産を埋める場所は慣例
によって定められており、それを侵すと母親や新生児
に危害が及ぶ。血に飢えた悪霊が後産を食らって新生
児の母親を攻撃し、危害を加えられた母親は精神障害
を抱えて余生を過ごすことになるという。後産が無事
なら子どもも無事だが、乱された場合、子どもは「前
世の母のスコン」という病気を患うと信じられている。
スコンというのは、悪霊ベイサーイが引き起こすと言
われている病気で、この病気にかかると高熱を出して
引きつけを起こし、意識不明になったり命を落とした
りする。
こうした後産に関する慣習はカンボジアの近隣国で
も見られる。例えば、バリを中心としたインドネシア
では、子どもとともに体外に排出される羊水や血液、
後産、へその緒は誕生した子どもの「四きょうだい」
と考えられており、フィリピンのミンダナオ島に住む
ブキドノンと呼ばれる人々は、後産を赤ん坊の「きょ
うだい」と見なし、立派な布で包んだ後、動物の手の
届かない家の階段やストーブの下に埋める。すぐにそ
れは土になるが、その霊は空に昇り、赤ん坊のモリ
ン・オリン(人間の守護霊)になるという信仰がある。
後産を生まれた子どものきょうだいと見なす考えは
19
日本でもかつて、子どもの健やかな成長や立身出世
などを願って後産を胞衣壷と呼ばれる土器に納めたり
胞衣皿という皿で挟んだりして土中に埋める風習が
あった。これを胞衣納めといい、埋められた胞衣壷や
胞衣皿が各地で出土している。胞衣を埋める各地の事
例は恩賜財団母子愛育会編『日本産育習俗資料集成』
(第一法規、一九七五年)や文化庁『日本民俗地図』
(国土地理協会、一九七七年)、各都道府県が刊行し
ている『民俗地図』に集約されており、それらによる
と、胞衣を埋める習俗は第二次世界大戦後まで何らか
の形で行われていた。
アープに絡む人々の猜疑心
それでは、ある人物をアープと見なす「アープ疑
惑」は、何から生じるのだろうか。人々の話では、重
要な根拠のひとつはアープが放つ緑の光らしい。ある
村でアープが放つと思われる緑の光の目撃が続く。光
の行く先を追ったところ、ある人物の家にたどり着い
た。その家の住人に中高年の女性がいた場合、彼女は
アープだと疑われることがある。また、夜になるとよ
く緑の光が灯っているので、あの家の住人はアープな
のではないかという疑惑が生じることもあるようだ。
さらにアープの顔を「見た」人物によって、特定の人
物がアープと認定されることもあるらしい。このよう
な場合、自身の正体が明かされるのを恐れたアープが
目撃者に危害を加え、事実上の口封じをしたり、アー
プによって呪い殺されたりすることもあると聞く。
前出の三〇代の僧侶が、幼い頃、自宅のそばで発生し
たアープ疑惑についてこう語る。 「私がまだ出家す
る前のことなので、二〇年以上前の話ですが、生まれ
故郷のコンポンチャーム州プレイチョー郡にある老婆
の家でアープが放つような青い光を見たことがありま
す。その後、老婆が亡くなると、青い光が目撃される
アープを題材とした笑い話
◇ある村に二人の妻をもつ男がいた。一方の妻は色白で、
もう一方は色黒だったが二人ともアープであった。ある
夜、三人が寝静まってからのこと。二人のアープの首が
抜け、家の外へ食い物を探しに行った。ふと目を覚まし
た夫は、そのことに気づくと二人の妻の胴体の位置をす
り替えた。すると、夜明け前に戻ってきた首は自分の体
を間違え、白い肌の首は黒い体に、黒い肌の首は白い体
に戻ってしまったとさ。
◇夜になり、あるアープの首が抜けた。その首は夜明け
前に胴体のところへ戻ってきたのだが、体と合体すると
きに向きを間違え、顔が背中のほうに向いてしまった。
向きを間違えてくっついてしまったアープは、自分自身
がアープであることを隠すため、その日の日中はまった
く外出せず家のなかでおとなしく過ごした。次の夜、首
がまた抜けるのを待ち、正しい向きに直したとさ。
カンボジアジャーナル
ことはなくなりました。彼女がアープだったかどうか
は不確かで、あくまでも疑惑が生じただけですが、お
そらく呪術に長けた人物がその家にいたと思います。
村人の大部分がその光を見ているからです」。
が報道されたことがある。
「メーモットでアープとの疑いにより、村人たちが
衝突し合ったり、傷り、村人たちが衝突し合ったり、
傷害・殺人事件が発生したりした例は報告されていま
せんが、コンポンチャーム州チョムカールー郡では、
アープだ、トモップ(人を呪い殺すことができる呪術
師)だ、という疑いが殺人事件に繋がったという新聞
報道を読んだことがあります。二、三年前の話ですけ
どね。でもそういう事件が発生するのはごくまれのこ
とですよ」。
コンポンチャーム
州メーモット郡の中
心部でバイクタク
シー業を営む男性に
よると、ある人物の
依頼を拒否した後、
拒否した人間に災い
がもたらされた場合
もアープ疑惑が生じ
ることがある。
「例えばある人にプ
ロホック(十二ペー
ジ参照)など、何か
を所望されたがあげ
メーモットゴム園内にある「アープを斬
なかったとします。
り殺した橋」
おしゃべりの最中に
失言をしてしまい、
ある人を怒らせてしまった場合でもいい。その後、プ
ロホックをあげなかった人、失言をした人の体調が悪
くなったりしたら、プロホックを所望した人や失言に
対して怒った人はアープだったんじゃないかと疑われ
る場合があるんです」。
こうした事件は最近でも報道されており、例えば二
〇〇八年十一月二八日付けの英字紙カンボジアデイ
リーは、カンボジア北部のストゥントレン州シェムパ
ン郡にて、アープやトモップだと疑われた 47 歳の男性
が村人によって銃殺された事件を伝えている。
以上のような事例や人々の考え方から判断する限り、
一定の条件を満たす人間に対するある種の差別的な感
情がアープ疑惑発生の源となる可能性も否定できない
が、取材の過程でそのような話を聞くことはなかった。
アープと疑われた母とアープ婆さんと呼ばれる娘
クノンクロプー集落には、周囲の人々から「ジェ
イ・アープ(アープ婆さん)」と呼ばれる女性がいる。
幼い頃、亡き父とともにクノンクロプー集落に移り住
んだクオンナートさん(七六歳)だ。彼女がジェイ・
アープと呼ばれるようになったのは、伝統産婆をして
いた亡き母と関係がある。
同州メーモット郡トリアク村に住むクルークマエの
父親によれば、このような疑惑によってアープと見な
された人物は、村八分のような扱いを受けることもあ
る。
「ある人がアープだと疑われた場合、同じ村の住人
に追放されることもあれば、疑われた人が自分から出
て行くこともあります。疑われた人物が村に留まった
としても、村人たちは怖くてその人物の家を訪ねなく
なるでしょうね」。
アープ疑惑によって生まれた地名や名称も存在する。
そのうちの一つが国道七号線沿いのメーモットゴム園
内に架けられた「アープを斬り殺した橋」である。地
元の人によると、この橋はフランス植民地時代(一八
六三〜一九五三)、ゴム園内を通行する車のために架
橋された水路橋だが、木製の床版が崩壊して以来、橋
としては機能していない。ゴム園内のクノンクロプー
集落に住む古老が「アープを斬り殺した橋」の由来に
ついてこう話す。 「五〇年、六〇年くらい前の話です。
ある人物がその橋のところでアープを目撃し、斬り殺
したそうです。以来、その橋は『アープを斬り殺した
橋』と呼ばれるようになったと聞いています。斬り殺
されたアープは七四歳だったと伝えられ、家族もいた
そうですが、その後、夫と子がどこへ姿を消したのか
は定かではありません」。
メーモット郡警察に勤務する警察官によると、現在
でもこのような疑惑によって発生した殺人や傷害事件
「アープ婆さん」と呼ばれるクオンナートさん
20
カンボジアジャーナル
「ある日、同じ集落に住む四十代の女性が出産する
ことになり、母が呼ばれてその介助に行ったんです。
子どもは母胎からなかなか出ず、産婦の出血はひど
かった。やっと出てきた子はまだ七ヶ月で、産婦とと
もに死んでしまいました。この出来事があってから、
村人たちは母がアープだと疑うようになり、私は娘だ
ということで、いつの日からかジェイ・アープと呼ば
れるようになったんです」。
アープ否定派の言い分
アープはカンボジアでは広く知られているとはいえ、そ
の存在に対して否定的な人々もいる。カンダール州コット
ム郡プレークトメイ村に住む男性(70 歳)が眉間に皺を
寄せながら語気を強める。
クオンナートさんの母は、村一番の伝統産婆として
知られ、たとえ逆子であっても、発育が後れて首の垂
れたような子であっても、無事に出産介助することが
できる優秀な産婆だったという。だがある日、一件の
死産と産婦の死に立ち会ったことで、彼女にアープ疑
惑が襲いかかる。アープは出産の敵と考えられており、
かつ、人に憑依すると信じられていることを示すひと
つの事例である。クオンナートさんは一人っ子であっ
たため、母のアープが娘に「遺伝」したと見なされた
のかもしれない。
「人に呪いをかけたり何かを手に入れたりするため
に呪術を学ぶような人間がいる場所にはアープがいる
んです。他人の人生をめちゃくちゃにするお前は何者
なんだ! 私は『盗むな、奪うな、騙すな』といった道
徳に従って生きてきたんです。それに私は仏に仕える
身。私がもし本当にアープだったら、仏に仕えること
はできません! それでも疑うというのなら、有能な
クルーを連れてきて私がアープかどうか彼に診断して
もらえばいい」。
「私はアープを見たことはないし、信じてもいません。年
寄りたちがアープについて話しているのを耳にするが、あ
んな民間信仰には嫌気が指します。うちの家の階段のとこ
ろに植えてあるサボテンは、アープの侵入を防ぐためなん
かではなく、家を美しく飾るためのものです。確かに私た
ちの国カンボジアにはアープがいると言われているが、す
べての地域にいるわけではないし、私の集落にもいませ
ん」。
プノンペン市チャムカーモン区に住む男性は、子どもの
しつけの一環にアープが利用されていると指摘する。
「アープが実際にいるかどうかはわかりませんが、田舎で
は夜、出歩いてなかなか家に帰ろうとしない子どもに対し
『アープが出るから家に帰ってきなさい』といって脅かし
たりするんです」。
プノンペン市内で日本語を学ぶ 20 代の男性もアープの
存在を否定する。
「アープ? あれは彗星とか流れ星とかをアープの光だと
勘違いしているだけ。アープなんていませんよ」。
「人にアープのことを尋ねるときは、十分気をつけ
なさい。私たち人間は外見から誰がアープで誰がアー
プではないのか、見分けることはできないんだから。
もし私にしたような質問を本物のアープにぶつけたり
したら、そのアープに危害を加えられるわ。特に地方
に住んでいてビンロウを嗜むような高齢の女性はアー
プの確率が高いから注意しなさい。ここはプノンペン
だから安心だって? そんなことはないわ、アープは
地方だけじゃなくって、プノンペンにもいるって言わ
れてるんだから、プノンペンだからといって安心して
はいけないわよ!」。
「今では周囲は静かになった」という彼女の言葉か
ら察すると、母親に対する疑惑が生まれた当時、さま
ざまに飛び交う憶測や噂、疑いによりこの親子の心は
大きく引き裂かれたに違いない。
アープに対する人々の思考の輪郭を描ければという
思いから、各地に眠る「アープ目撃情報」を掘り起こ
していたところ、取材の過程でプノンペン市内に住む
ある人物から釘を刺された。
カンダール州コットム郡の子どもたち(9歳)が描いたアープの絵
21
カンボジアジャーナル
【遺跡以外のカンボジアを伝える本トーマダー5号より転載
(一部加筆修正)】
どのようにカンボジアと出会い、関わってきたか
についての個人的な覚え書き
参考・引用文献
『クメールの風俗習慣と伝統』ミエイポン著、仏教研究所、
2001 年(原文はクメール語)
波田野 直樹
『カムボヂァ民俗誌』グイ=ポレ、エヴリーヌ=マスペロ・
著、大岩誠、浅見篤・訳(生活社)
はじめてカンボジアに行ったのは 1999 年 11 月だった。
それまでカンボジアには関心があったものの危険な場
所だと思っていてずっと躊躇していたのが、クメール
ルージュの崩壊で治安が改善されているとわかってき
たのがひとつのきっかけだった
(その経緯は拙著『アンコール遺
跡への旅』に書いた)。
最初に訪れたのはシェムリアッ
プで、目的は遺跡だけだった。カ
ンボジアの現代文化にもカンボジ
アの人間にも特に関心はなかった。
帰ってきてからカンボジアで撮っ
た写真を展示するウェブサイト
2000 年 9 月頃の「アンコー
「アンコール遺跡群フォトギャラ
ル遺跡群フォトギャラリー」
トップページ
リー」を作った。2000 年 1 月のこ
とだ。しばらくすると yahoo に登
録され、それからはアクセスが増えていった。
阿部年晴「のろい」『世界大百科事典』(平凡社)
カンボジアの国土面積に対する森林面積比は 1980 年には
76%であったが、その後、69%(1990 年)、40%(1995 年)
と減少を続けていると報告されている(FAO、農林水産省,
1995)。
アンチュリアン、プリアプチャンマラー、スンチャーン
ドゥップ「人生の通過儀礼を通して見たカンボジア人の人生
の流れ」Hanuman Tourism、2007 年(原文はクメール語)
Maurice Eisenbruch ”The Cry for the Lost Placenta:
Cultural Bereavement and Cultural Survival among
Cambodians who Resettled, were Repatriated, or Stayed
at Home”
河合利光「後産の力 ブキドノン族におけるキョウダイの守
護霊」園田学園女子大学論文集 24, 1990 年
川口宏海「胞衣壷考」大手前女子学園研究集録第9号, 1989
ウェブサイトをはじめると会ったことのないひとた
ちからのメールが届くようになった。メールはヨー
ロッパからが多く、アメリカに住んでいるカンボジア
人からのもあった。メールの中身は私のウェブサイト
に対する好意的な評価とはげましであり、それからは
カンボジアに行って写真を撮ってはウェブサイトに載
せるというサイクルができあがった。
しかしカンボジア人の知り合いはいなかったしカン
ボジアについての知識も経験もごくわずかだった。そ
こでウェブ上で日本に住んでいるあるカンボジア人を
探し出してメールを送り、会って食事をした。彼から
駒場の留学生会館でカンボジア関係のイベントがある
ので来ないかと誘われて数日後に駒場に行った。そこ
にはおおぜいのカンボジア人とひとにぎりの日本人が
いた。にぎやかな中でだれひとり知らない私は近くに
いたカンボジア人に話しかけてみた。遺跡の名前の意
味について知っている人はいないだろうか、と。しか
し誰も知らない。彼らのあいだを私の質問が流れてい
き、ひとりのカンボジア人が私の前に現れた。それが
当時上智大学の大学院にいたニム・ソティーヴンだっ
た。彼は私の最初のカンボジア人の友人になった。
ソティーヴンとの出会いをきっかけとしてカンボジ
アの友人の輪が広がっていった。あとから日本にやっ
てきたケオ・キナルやティン・ティナをはじめとして、
王立芸術大学考古学部卒業生のネットワークに私は入
り込んでいった。それからは日本でもカンボジアでも
私はいつもおおぜいのカンボジア人の中で、ひとりだ
けの、年齢のかけはなれた、専門家ではない日本人
だったが、彼らは私に敬意をもって接してくれた。年
【井伊 誠 いいまこと】
遺跡以外のカンボジアを旅する本「トーマダー」発行人・
編集人。趣味はバイクでカンボジアの田舎道を走ること、
ほどよく冷えたタイガービールの時間、カンボジア人の
ギャグに突っ込みを入れること。
IFL(Institute of Foreign Languages)にてクメール語の
基礎を学んだ後、カンボジア人の暮らしをテーマとして取
材活動を開始。2006 年 11 月、プノンペンにて雑誌「トーマ
ダー」を創刊。
[email protected]
22
カンボジアジャーナル
長者を尊重するカンボジアの文化が彼らにそうさせた
のだと思う。カンボジアをおとずれた私を彼らはいろ
いろな場所に連れて行き、いろいろな体験をさせ、い
ろいろな人物に引き合わせ、いろいろな本音を語った。
彼らを通じて私はカンボジアの(ごく一部であるにし
ても)生の姿に触れることができたと思う。彼らが私
に引き合わせた人々の中でもっとも印象に残っている
のは彼らの王立芸大時代の先生である畏友アン・チュ
リアンである。このほぼ同じ年齢の知的な人物の経歴、
人柄、感情に私は今も深いシンパシーを感じている。
その後、上智にいたカンボジア人たちが私をカンボ
ジアをフィールドとする日本人研究者に出会わせてく
れることになった。もっともはやい時期に知り合った
のは三輪悟さんであり、亡くなった荒樋久雄さんと知
り合った。私はおずおずと日本人研究者とのかかわり
をもちはじめた。
その間もウェブサイトは増殖をつづけていた。カ
バーする遺跡サイトの数と掲載する写真数が増えてい
く一方で、サイト上でコミュニケーションにかかわる
いくつかの試みをはじめた。ブログはまだなかったか
らインターネット上の日記サイトで日記を書いた。ま
たカンボジアに住んでいる日本人の何人かにも日記を
書いてもらうように頼み、ウェブサイトにリンクした。
以前から関心があったインターネットラジオもどき
も作った。カンボジアにかかわりのある人のところに
出向いてインタビューして録音し、編集してサイトに
載せる。インタビューした相手でもっとも印象に残っ
ているのは沢田教一の妻、サタさんである。ビデオカ
メラで撮った映像もサイトに置いたし、遺跡画像をジ
グソーパズル化して遊べるソフトとか、インターネッ
ト上に現れたさまざまなしくみをこころみた。
こうしたウェブサイト上の試みの中から初期のカン
ボジアに関心を持つひとたちとのネットワークがひろ
がっていった。またはじまったばかりの mixi でもコ
ミュニティを作り、そこで知り合ったひとたちもいる。
ウェブサイトの性格は先に述べたように最初は遺跡
の写真の展示であり、それゆえに「フォトギャラ
リー」という名前になったのだが、その後はいわば写
真による遺跡ガイド、さらには(おこがましいけれど
も)カンボジアについての包括的な情報を提供する
ウェブサイトを目指すようになっていった。私は専門
家ではないので他人に教えるというスタンスではなく、
自分が知った情報のシェアといいうような意識だった。
カンボジアに対する関心ははじめアンコール遺跡に
限られていたが、その後カンボジアの通史へ、そして
近現代史へ、社会と人間へと拡大していった。これは
ある対象に深い関心を持つとき誰にでも必然的に起こ
る現象だろう。特に関心を持つようになったのは近現
代史だった。カンボジアに行き、本を、読み、カンボ
ジアにひとびとと交流する中で、なにか書きたいとい
う気分が高まっていった。
私が昔から実践してきた表現手段のひとつは文章を
書くこと=本を書くことだったが、幸運なことにカン
ボジアについても本を書く機会がめぐってきた。まず
遺跡ガイド本を書き、その後に旅行記スタイルの二冊
を書いた。通算で五年くらいかかり、すんなりと書け
たものはひとつもない。自分の知識経験を書くという
より、自分が知っていく過程の記録といってよかった。
カンボジア勉強会という小さな集まりをはじめたの
は 2004 年で、それまで主にウェブ上でやってきたこと
以外になにかリアルなことをやってみたいと思ったの
がきっかけだった。カンボジアに関係のある人を招い
て話を聞くという単純な発想だが、ウェブサイトで小
さな案内を出すと初回はたしか 40 人以上も集まって驚
いた。その後は毎回十数人から二十数人程度で推移し
ている。基本的に隔月で開催しているのでゲストを探
すのに骨が折れるし、やっていて意味があるのかどう
か自問することもあるけれども、少なくとも現在は継
続していて、この原稿を書いている 2009 年 11 月の開催
が 30 回目になる。
この勉強会を通じて以前にもまして多くのカンボジ
アにかかわる人たちと出会うことができた。カンボジ
アにかかわるNGO関係者と知り合うようになったの
もこの頃だと思う。
カンボジアについてのミニコミ的な雑誌を作るとい
う夢を以前から持っていたが、それが具体化したのが
2009 年8月に創刊号を出した『カンボジアジャーナ
ル』である。カンボジア勉強会とおなじで、やる意味
があるのかどうかわからないけれど、雑誌の編集・発
行が好きなのでやっている。
こうしてふりかえってみると、自分のカンボジアへ
の関心は本来たいしたものではなく、ちょっと行動が
人との出会いを生み、そこから教えられ、導かれて思
いもしなかったところまでやってきたという気がする。
写真、ウェブサイト、インターネットラジオ、書籍、
勉強会、ミニコミ誌、どれもたいしたものではないけ
れども、さまざまなメディアや場を生み出すのはおも
しろい経験だった。
カンボジアとの出会いは私にこれまでいろいろなこ
とを教えてくれ、育ててくれ、やらせてくれた。しか
し自分がこれからカンボジアとのかかわりの中でどう
するかということになると、先がみえない。いろいろ
課題がある。迷路に入ったような状態がここ数年つづ
いている。そこから抜けだせるのか、抜けたら何があ
るのか、私になにができるのか、まだわからない。
【波田野直樹 はたのなおき】
1948 年生まれ。『カンボジアジャーナル』の編集発行人。
ウェブサイト「アンコール遺跡群フォトギャラリー」、カ
ンボジア勉強会主宰。
興味の対象はカンボジア、沖縄、ヴェネツィア。電子ガ
ジェット大好き。インターネットに代表される電子的な
ネットワーク、そこでのひととひととのつながりについて
も深い関心を寄せている。
23
カンボジアジャーナル
アンコール日本人会の設立経緯とその活動
三輪 悟
<アンコール日本人会の設立>
2008 年 2 月 16 日初の総会(出席 66 名)が開催され、
シェムリアップに活動拠点をおくアンコール日本人会
(=Angkor Japanese Association)が設立された。役
員は、会長、副会長(2 名)、総務(2 名)、会計、広
報の計 7 名で構成され、加えて監査役 1 名が決まった。
なお在カンボジア日本国大使が名誉会長、領事が名誉
アドバイザーとして位置づけられており、当初より在
カンボジア日本国大使館との緊密な連携を持ち始まっ
た。総会には田辺領事に参加頂き、篠原大使のメッ
セージを読み上げていただいた。筆者は初年度、二年
目と続けて副会長を務めさせていただいている。
そもそもの始まりは 2007 年暮れだったという。忘年
会に集まった某在住日本人らが酒飲み話の中で発案し、
発起人となり話が進んだと聞く。実は筆者は発起人で
はない。会員になろうと思い申し込んだところ、請わ
れて結論的に副会長になった経緯がある。「アンコー
ル日本人会」という名称は総会(2/16)で決定された
ものである。名称をどうするかで、議論があり意見が
分かれたが、多数決(下記)により決まった。
アンコール日本人会
28 票
アンコールワット日本人会
シェムリアップ日本人会
4票
21 票
総会の後、意見交換会(4/5、20 名)、臨時総会
(4/26、33 名)を経て、趣意書、会則、年次計画、予
算(案)がまとまった。会則等につき、カンボジア日
本人会(プノンペン)の資料を最大限参照させていた
だいた。趣意書中に(第一意として)「活動拠点を
シェムリアップにおいた、日本人のための会」とあり、
会の性格を表している。将来の「領事館設立」「補習
校設立」「NHKプレミアム放送受信」など具体的な
目標も記された。
<2008 年度の活動概要>
2009 年 4 月 4 日の総会で報告した 2008 年度の年次活
動報告資料を基にすると、年間を通じた役員会などの
打ち合わせを含めたイベント総数は 71 回であった。ま
たのべ動員総数は約 1500 名であった。
年間を通じて行なった季節イベントで「盆踊り」
(10/11、350 名)と「餅つき」(1/17、50 名)につい
ては、日本の伝統文化を在留邦人が再認識し、またカ
ンボジア人に紹介する意味において大きな意義があっ
た。特に盆踊りに関連して、計 20 回もの打ち合わせを
重ね、イベント総数に対して約 3 割を割いた数値的事
実は特記すべきである。実感としても非常に大きなエ
ネルギーを割いた。盆踊りは「日カンボジア友好年」
記念事業の認定も受け、12 月 23 日付けクメール語紙ラ
スメイカンプチアと英字紙カンボジアデイリーに大使
館が掲載した年間イベントの一つとして写真入りで掲
載された。
各月で行なう予定である勉強会については、3 回開催
した。7 月に第一回目(7/12 講演会「アンコール遺跡
を護る-過去・現在・未来-」(56 名)、7/13 現地見
学会(55 名)、講師:三輪悟)を行なった。第二回
(9/20 座談会(27 名)、話者:大塚めぐみ)、第三回
(1/24 勉強会「トンレサップ湖の生態系を巡る現状と
課題-漁業問題を中心に-」(32 名)、1/25 現地見学
会(26 名)、講師:松本清嗣)と必ずしも各月の開催
ではないが、他の行事との調整もしながら臨機応変に
予定を組み立てた。
また会員同士がざっくばらんに飲み食いできる場と
して「集まる会」を月一回を想定し、計 4 回開催
(11/29、12/21、2/1、2/22)した。ただし、この会に
は後半思うほど人は集まらず反省点を残した。
<2009 年度の活動の変化>
2009 年 4 月 4 日の総会を持ち、新役員人事が決定さ
れた。二年目は更に内容を充実させることを目指して
いる。5 月 4 日「情報配信」サービス(開始)の告知
メールを会員宛に配信した。イベントやプロモーショ
ンの情報を広く告知したい方の利用を呼びかけている。
特記すべきイベントとして 5 月 30 日には日本国特命
全権大使篠原勝弘閣下の講演会(92 名)を開催した。
同講演はビデオ撮影を行ない、今後の「アンコール日
本人会ビデオライブラリー」構想の第一歩となった。
また大使ご自身による校正を受けた講演録を会員宛に
配信(8/15)した。もちろん大使の許可を頂いた上で
の配信である。
会員の方が目に見えるメリットを求める傾向がある
ため、6 月に「会員宛得点サービス」制度を設けて、告
知(6/26)を行なった。生活の中でのお得感を出すた
めである。「集まる会」については既に一度開催
(6/27)しているが、今年は初年度の状況を踏まえて、
年に 2 回程度に抑えて開催の予定である。7 月には鬼一
二三先生の勉強会(7/4)を行なった。同月「NHK
ワールドプレミアム」放送が見られる状況となったた
め、お知らせ(7/9)を流し、待ちわびていた会員へ伝
えた。今年の盆踊り(10/31)は「日メコン交流年」記
念事業の認定を受けている。11 月に予定した勉強会は
イベント過多との判断より見送ることとした。1 月には
餅つき大会が予定されている。決まったシナリオが無
い半面、役員たちはより良い方法を模索し、時に悩み
ながら運営を行なっている。
<在留邦人数と会員数>
2008 年 10 月 1 日(現在)の在留邦人数は、日本大使
館の調査データによると、カンボジア全国に 827 名で
ある。内訳は、プノンペン:612 名、シェムリアップ:
151 名、バッタンバン:15 名、シハヌークビル:15 名、
その他:34 名であった(以上、統計による)。
24
カンボジアジャーナル
なお筆者の推測の域を出ないが、在留届を提出して
いない、つまりデータに漏れている在留者数(全体の 2
割と推測)も入れると、総勢 1000 名くらいがカンボジ
アに滞在していると考えられる。うちシェムリアップ
には、180-200 名位いるのではないだろうか。2009 年 9
月現在の会員数は家族会員を含めて約 100 名である。
会の設立前の筆者の予想では「日本人の父母が集ま
り、子供たちの教育問題の検討が先にあり、補習校が
でき、その後に日本人会が出来るのが自然な流れでは
ないか」とずっと考えていた。しかし結論的にはその
逆になった。つまり、2008 年 2 月にアンコール日本人
会が設立された後、同年 9 月に有志母親らより声が上
がり、翌 2009 年 1 月に補習授業校設立の趣意書が完成
した。補習授業校の生徒は 14 名(2009 年 4 月現在)で
ある。
【三輪悟(みわ さとる)】
1974 年東京生まれ
1997 年上智大学のアンコール遺跡国際調査団に参加し、初
めてカンボジアへ
1999 年日本大学大学院修了(建築学)、5 月より現地駐在
2008 年 2 月アンコール日本人会設立の際、副会長となり
2009 年度も継続
現在、上智大学アジア文化研究所共同研究所員
<将来展望>
日本人会が発足して 1 年半が経過したが、この間在
カンボジア日本国大使館との連携は非常にスムーズで
あった。これを象徴する事実として、大使、公使、参
事官、領事、医務官、警備官といった方々がシェムリ
アップに出張してくださった。大使館がアンコール日
本人会の発足と運営を暖かかく見守ってくださったお
陰で、公共性を広くアピールすることが出来た。シェ
ムリアップの日本人社会にとって、2008 年 2 月の会の
発足は、歴史上初めての出来事であり、画期的な出来
事であった。
今後も大使館とは現状以上の密で堅固な関係を構築
することが望ましい。またカンボジア日本人会(プノ
ンペン)との関係構築も期待される。そして補習校と
の連携も更に深めていきたい。
アンコール日本人会、アンコール補習授業校ともに
活動が始まったばかりでまだ流動的な側面は否めない。
今後も定住する邦人が増え、滞在期間が長期化するに
つれ教育問題への関心の高まりは至極当然の動きであ
る。点として存在していた日本人が線や面として繋が
りを持ち活動したときに、如何なる新しい価値を生み
出せるのか、これは未知への挑戦だといっても良い。
アンコール日本人会は会員の皆様方が主人公になる
べく、参加型の性格をもつ場になることを提唱したい。
メリットを求める、というよりは、メリットを生み出
すべく各人が提案する場、であって欲しい。あくまで
主体者は会員である。より多くのさまざまな異業種の
方々の参加が好ましい。広く門戸を開けてお待ち申し
上げます。
入会申し込み等のお問い合わせは、アンコール日本人
会([email protected])までご連絡ください。
(本稿は筆者個人の見解であり、文責は全て筆者個人
にありますこと、末尾ながら注記させていただきま
す。)
25
カンボジアジャーナル
資 料 編
敗戦後の日本が海外に対しておこなった初期の技術援助のひ
とつが対カンボジア援助でした。ここでは対カンボジア技術
援助のひとつとして電話・通信網の近代化支援に携わった当
時の日本電信電話公社スタッフの報告書(抜粋)と、その背
景となったコロンボプランについての一般情報を掲載します。
1960年代の日本が行っていた海外援助の様子が垣間見ら
れる資料です。
172,511 平方キロ(日本の約 1/2)
(3)気候
熱帯モンスーン気候圈に属す。雨季 6 月~10 月、乾季 11 月
~5 月(このうち 11 月から 1 月までは梢々涼しく、観光シーズ
ンになっているが、2 月ないし 3 月から暑くなり 4 月が最も暑
い。年平均 27 度)
(4)言語
カンボジア語が公用語(これはクメール語とも云いモン・ク
メール語系)
官吏など指導層の間ではフランス語もかなり広く通用して
いる。
カンボジアの電気通信事情 1967 年度版(抜粋)
[解説]
ここに掲載するのは日本電信電話公社海外連絡室が 1967 年に
刊行した『カンボジアの電気通信事情』の抄録です。同時代
の記録として関係者の了解をえて掲載します。なお本書の大
部分を占める技術支援に関する専門的内容は割愛しました。
(5)宗教
仏教が国教。トマユ(Thommayut)およびモハニカイ
(mohanikay)2 派がありずれも小乗仏教、僧侶約 6 万人。
はしがき
1.2 略史
激動の東南アジアの真中で中立路紳を維持し、シアヌーク
国家元首の統率のもとで奇蹟的な平和を保つている国カンボ
ジア国は公社にとつても非常に関係の深い国である。すなわ
ち、公社は昭和 35 年以来同国に計 11 名の職負をコロンボ計
画による電気通信技術専門家として派遣し、12 名の同国 P&T
職員を研修生として受け入れた。
同国に対する技術協力が他国に対する協力と異々る点は、
公社の職員が専門家として P&T の中枢に入り込み、単なる技
術指導や訓練のみ々らず、一国の将来の電気通信方式の将来
を決する基本的計画に対するコンサルタントとして過去 8 年
間にわたつて P&T 幹部の絶大なる信用のもとに活躍してきた
ことである。従つて現在のカンボジア国の電気通信は日本人
専門家のアドバイスに頼り切つて経営され、電電公社の技術
や経験かそのまま生かされているのである。
今後の問題は如何にして同国の電気通信が彼等自身の手で
達営できるようにするか、ということである。これ迄も P&T
駈員の技術レベル向上のため、技術指導教室を始めいろいろ
の試みが派遺専門家によつて試みられた。これからも同じ地
道な努力が継続的に続けられぬ限りこの目的は達成されない
であろう。
本書はカンボジア国の国情、通信事情これまでの技術協力
の経過を帰国専門家の手によってまとめたものである。今後
の同国に対する電気通信技術協力の参考賢料となれば幸甚で
ある。この紙上をかりて私たち専門家の現地での活動を支援
して頂いた海外協力事集団、外務省、郵政省、日本電信電話
公社国際電信電話会社、カンボジア国に進出中の商社、製造
会社の関係者各位に厚く御礼申し上げます。(昭和 43 年 2 月)
(1)古代-近代
・クメール族の「フーナン」王国 1~6 世紀
・その一部「チェンラ」による国の統一のち分裂 7、8 世紀
・アンコール諸王の時代 9~15 世紀
・シヤム(タイ)、安南(ヴイェトナム)による侵略、内政干渉
16~19 世紀
・両者による併合から免かれるためフランスの被保護国とな
る 1864 年
・ウドンからプノンペンに遷都 1867 年
(2)現代
・シアヌーク国王即位〔19 才〕1941 年 4 月
・日本軍による「独立」付与(日本政府による承認はなかつ
た) 1945 年 3 月 1O 日
・フランスとの暫定協定(保護国の再確認)1946 年 l 月 7 日
・憲法制定(公布) 1947 年 5 月 6 日
その後政争相つぎ、シアヌーク国王も自ら政冶に関与するよ
うになり「平和的クーデター」(1952 年 6 月)や国民議会解散、
戒厳令施行(1953 年 1 月)などを行なって次第に政権を掌握
し、その基礎の上に「独立十字軍」を起し、ついに独立を確
保。1953 年 11 月 9 日
・ジュネエーヴ協定(第 1 次インドシナ戦争)1954 年 7 月 2l 日
・父スラマリットに王位を譲り、Sangkum(「人民社会主義共
同体」挙国的国民運動)を創設しシアヌーク殿下が自ら総栽と
なる。1955 年 3~4 月
・国連加盟 1955 年 12 月
・中立法制定(公布)1957 年 11 月 4 日
・中共承認 1958 年 7 月 17 日
・スラマリット王崩御 1960 年 4 月
・「国家首席」設置(憲法改正) 1960 年 6 月
・タイと断交 第 1 回 1958 年 I1 月・第 2 回 1961 年 10 月
・Placheachon(「人民党」)弾圧 1962 年 5 月
・南ヴイェトナムと断交 1963 牟 8 月
・米国の経済軍事援助拒否 1963 年 l1 月
・貿易国営化(SONEXIM-国営輸出入会社-創設) 1964 年 3 月
・銀行、保険国営化 1964 年 7 月
・「インドシナ人民会議」開催 1965 年 7 月
・米国と断交 1965 年 5 月
1 一般事情
1.1 地誌
(1)人□
5,748,842 人(1962 年 5 月調査)。この大部分がクメール(カ
ンボジア)族であり、他に華僑約 30 万人、華僑系カンボジア
人約 20 万人、ヴイェトナム人約 50 万人、チヤム族(フライ
系)約 10 万人、その他少数民族約 5 万人。
(2)面積
26
カンボジアジャーナル
極左分子についてはシアヌーク首席は最近これに「クメール・ヴイェ
トナム」という名称を付したが、発生的には第一次インドシナ戦争の
際にヴイェトナムがカンボ領内に残して行つた共産主義分子を中心と
する勢力で、Pracheachon(人民党)を組織した。しかし同党は 1955
年の選挙で 3%の得票しかなく、Sangkum 体制の下で逼塞していた。更
に 1962 年スパイ事件で首謀者ノン・スウオン(Non Suon)以下数名が
逮捕され、軍事裁判で死刑を宣せられ、同党は壊滅したと見られてい
たが、1961 年初め若干の州で同党系分子か庭動した模様で
ある。なお、Non Suon はシアヌーク首席の命により死刑の執行を免
かれ、目下、獄中にある。この他左翼的傾向を持つ知識人(官吏、
ジャーナリスト、教師など)も漸次増加しつつあるが、Pracheachon
との関係はない模様であり、シアヌーク首席も左翼分子の行動には常
に注意しているようである。
左翼分子の側でもシアヌーク首席の指導力に挑戦する気配はなく、内
外政策の上にその主張を織込むことに努めているものと見られる。し
かし、シアヌーク首席の方で「社会主義」的政策を採り入れ、外交面
では親中共、親ソ態度を採り入れているので、左翼分子がイニシアテ
イヴをとつて活動する余地は余り大きくない。
・シアヌーク国家首席第 6 次中共訪問及び初めての北鮮訪間
(予定していたソ連、東欧諸国訪問を中止) 1965 年 9~10 月
1.3 政治
(1)政体
立憲(1947 年 5 月 6 日憲法公布)の君主国であるが、1960
年 4 月先王崩御いらい王位は空位で王后陛下が王制の象徴と
なっている。シハヌーク殿下は国家首席(1960 年 6 月憲法改
正による)として強大な権力を一身に集め政治指導を行なつ
ている。任期 4 年の議員 77 名よる国民議会と任期 4 年、議員
24 名の王国議会があり、その上に最高顧問会(枢密院に当
る)がある。またこの他にシアヌーク首席の最高顧問が 2 名
ある。この他年 2 月開催される国民会議や時おり行なわれる
民衆接見を通じてシアヌーク首席が親しく国民と接触し、ま
た官吏の専横汚職などが抑制される仕組みになつている。
シアヌーク首席はまた Sangkum 総裁としても政権を実質的
に掌握している。Sangkum(正式には Sangkum Reastr Niyum、
人民或は民衆社会主義共同体-「民社同盟」とでも訳すべき
であろう)は 1955 年 4 月創設された挙国的国民組織で「王国
社会主義」或は「仏教社会主義」を指導理念とし、政治はも
とより、国造りのための各種組織的活動や人づくりのための
青年運動などにおける推進力となっている。経済開発におい
ても Sangkum を中心とした自力更生が強調されている。
Sangkum の一員となるためには政党に属しないことを要する。
1.4 外交
(1)各国との国交
イ. 在カンボジア各国公館
(西側諸国)
○大使館を置いているもの
豪州、英国(但、臨時代理大使)、フランス、西ドイツ
○大使を派遣しているが他国に常駐し、大便館も実館がない
もの
アルゼンチン(在タイ)、オーストリア(在インドネシア)、
デンマーク(在マレイシア)、イスラエル(在ビルマ)、イタリ
ア(在南ヴイェトナム)スウェーデン(在中共)、スイス(在
インドネシア)
〇その他
ベルギー(在マレイシア)及びオランダ(在タイ)は公使を
派遣している。最近。スペインが代理公使を派遣した(常駐)。
(AA 諸国)
○大使館
日本、ビルマ、インド、インドネシア、フイリピン、シンガ
ポール、UAR、ラオス(但し臨時代珊大使)
○大使を派遺しているが他国または常駐し、実館がないもの
セイロン(在中共)、パキスタン(在ビルマ)、レバノン(在パ
キスタン)
○その他
トルコ(在タイ)が公使(兼任)を派遣
(東側諸国)
○大使館
ソ連、チェコスロヴアキア、ポーランド(但、臨時代理大使)
ブルガリア(同)。ユーゴスラビア、北鮮、中共。
○大使を派遣しているが実館がないもの
アルバニア(在中共)、ハンガリー(在インド)、ルーマニア
(在インドネッア)、モンゴル(在中共)、キューバ(在中共)
○その他
C.I.C(国際監視委員会)代表部。インド、カナダ、ポーラン
ド(インドが議長国)国連開発代表。
(利益代表)
カンボデイアが断交している下記 5 国のカンボジアにおける
利益代表国は夫々カッコの中に示すとおりである。
米国(豪州)、南ヴイエトナム(日本)、タイ(ビルマ)
なお、ヴイェトコン(FNL 一南越民族解放戦線)は政府ではな
いので、国交関係とは別の問題であるが、便宜上ここに付記
すると、カンボジアにはヴイエトコンの代表は常駐している。
但し 1965 年 3 月 9 日「インドシナ人民会議」で採択された決
議に基づき「同会議で決議された事項を実施するため」の常
設事務局が近い将来、プノンペンに設置される模様であるが、
(2)政情
内政は現在のところ安定している。Sangkum による国民統
合はシアヌーク首席の指導力によつて相当強固である。
Sangkum 員の中には嘗ての政党メンバーであつた政治家も多
く、傾向または政見の上で若干の相違もあり、経済財政々策
上の意見の相違とともに、時々の内閣の構成分子の上にそれ
が反映するが基本的な点では大した変化はない。「社会主
義」的政策が漸次増加しているが、この「社会主義」はマル
キシズムに基づいたものではなく、いわんや共産主義ではな
い。反シアヌークあるいは反 Sangkum 勢力としては「クメー
ル・セレイ」(注 1)分子と極左分子(注 2)とがあるが、いず
れも国民の支持を得ていない。
(注 1)
「クメール・セレイ(「自由クメール」の意)はソン・ゴク・タン
(Son Ngor Thanh)、サム・サリ(Sam Sary)らに率いられる反シアヌー
ク運動で、南ヴイエトナム及びタイ領に数百名の武装勢力を有し、国
境地帯で破壊活動をしかけている。ソン・ゴク・タンはコーチシナか
Kampucha Krom(クメール
族)出身、1945 年に日本軍に使われ、のち一時首相にもなったが共
和主義者で最近はシフヌーク首席の親中共政策を外交的自殺行為とし
て非難している模様。サム・サリは純粋のカンボジア人で Sangkum の
創設にも参画(大臣にもなつた政治家であるがオポチュニストと云わ
れ、1956~57 年頃シアヌーク首席の内外政策に反対し、外国勢力と
結んでシアヌーク打倒を策し、ソン・ゴクタンに合流した。最近死亡
したとも伝えられる。
「クメール・セレイ」はタイ領内に放送局を有し、反シアヌーク的宣
伝を行なってきたが、1965 年頃から武装侵入も敢てするようになっ
た。同年春頃まで南ヴイェトナム側から侵入していたが、ヴイエトナ
ムが同地帯を制圧するや一部はタイ領に移され西側からカンボジアに
破壊活動をしかけるようになり、1966 年 3 月頃は南ヴイェトナム側
からの侵入、破壊活勣も再開された。特にタイ国軍としばしば共同で
活動している模様であり、カンボジア側が国境事件についてタイ政府
を非難するのにたいし、タイ側は「それはクメール・セレイ」の仕業
でありタイ政府は関知しない旨言明することが多い模様である。カン
ボジア側では帰順してくる「クメール・セレイ」分子などからの情報
に基づき南グイェトナム及びタイ政府が「クメール・セレイ」分子を
利用し、かつ米国もこれを援助していると見てこれら諸国を強く非難
している。
(注 2)
27
カンボジアジャーナル
そうなれば、その事務局内にヴイエトコン代表が常駐するこ
とになる可能性がある。
ロ. カンボデイアの在外公館
(西側諸国)
○大使館
フランス、豪州(1966 年 4 月に初めて専任大使か任命され
た)。
○兼任
アルゼンチン(在国連)、英固(在仏)、イタリア(在仏)。
○その他
オランダ(在仏)に公使(兼任)を派遣。
(AA 諸国)
○大使館
日本、ビルマ、インド、インドネシア、フイリピン(日本大使
が兼任)、ラオス(但、臨時代理大使)、シンガポール(ビルマ
大使が兼任)、UAR。
○兼任
パキスタン(在 UAR)
その他 香港に総領事館
なお、セネガルに総領事館を置いている。
注=カンボデイアが 3 大陸会議に参加したとの理由でアルゼ
ンチン側から撤回を求められた。
(東側請国)
○大使館
ソ連、チエコスロヴイキア、ユーゴースラビア、中共。
○兼任
モンゴル(在中共)、北鮮(在中共)、ブルガリア(在ユーゴ)、
ハンガリー(在ユーゴ)、ポーランド(在ソ連)、ルーマニア
(在チエコ)、キューバ(在国連)。
(その他)
国連に常駐代表部を置いている。
(利益代表)
下記の国交断絶中の 3 国の夫々に訟けるカンボジアの利益代
麦国はカツコの中に示すとおりである。
米国(フランス)、南ヴイェトナム(豪州)、タイ(インドネシ
ア)
るだけ多く、敵は出来るだけ少くなく」という外交方針を採
り、前記の相互主義の原則に大きくはずれない程度で多くの
国と友好関係を維持し増進することに努めているが、この方
針で進む々らば或は「中共寄り」という国際関係の中でのカ
ンボデイアの位置が少々中心に近い処に戻つてくる可能性も
ある。
(2)外交政策の基調
「独立、中立並びに領土保全」の確保が外交目標である。
歴史的にかつまた最近においても独立が保たれず、或いは隣
国からしばしば侵入を受けてきたカンボデイアとしては他の
国の場合と異なり、先ずこの基本的な目標の達成が必須のこ
とである。「中立」は元来 1 つの手段であるが、1954 年ジュ
ネーヴ協定(軍拳面で制約を受け国際管理委員会の管理を受け
る)を経て、1957 年 7 月 17 日中共を承認し、同年 11 月 4 日
中立法を制定してからはその「中立」の立場を維持すること
が外交政策の基本となつた。
1963 年 11 月米国の経済、軍畢援助を拒否し、1964 年末北
鮮と外交関係を樹立し(北鮮、韓国とも総領事館を置かせてい
たが前者のみ大使館昇格)、1965 年 5 月米国と断交し 1966 年
4 月北越通商代表部の政府代表部への昇格を容認したこと。
その間シアヌーク首席が 6 回も中共を訪問し、中共から各種
経済援助、軍事援助も受けるに至つたことなどの点からカン
ボデイアは「左傾」している。あるいは「中共寄り」で呼ば
れる。しかしシアヌーク首席をはじめカンボジア政府首脳者
は、依然「中立」の立場を維持しているともいい、かつ信じ
ている。「中共寄り」であることは自認するが、中共の「衛
星国」という云い方には強く反溌する。シアヌーク首席の説
明によれば、カンボデイアを「中共寄り」にさせるのはその
外交が相互主義の原則によつているからであると云う。即ち、
友好的な態度で臨む国にたいしては友好的態度で、そうでな
い国にたいしてはそのように対処する。最近に「味方はでき
28
(3)最近の外交関係の推移
1965 年はアジアにかける米中の対立を背景としてヴイェト
ナム戦争の直接間接の影響がカンボデイアにも愈々迫つてき
た年であり、そのためにカンボデイアが国際関係で極めて微
妙困難な事態にしばしぱ遭遇した年でもあつた。先ず 3 月プ
ノンペンでシアヌーク首席の提唱にかかる「インドシナ人民
会議」が開催され、ラオス、カンボデイアについては国際会
議の開催を要求する決議が採択されたが、ヴイエトナムにつ
いては南越民族解放戦線や北越祖国戦線など(ならびに出席は
していなかつたが周恩来主席から数通の電報を打込んできた
中共)の強硬論がシアヌーク首席の抱いていた妥協案(南ヴ
イェトナム、カンボジア、ラオスの中立化と国際監槐の強
化)を圧殺し去り米国軍の撤退が決議で要求された。
「カンボデイアの中立と領土保全を保障するための国際会
議」開催については米国も同意し英国がその実現のために努
力したが中共が反対し、シアヌーク首席は南ヴイェトナム代
麦を如何にするかと云う難題を持出してこの会議開催を実際
上阻止して了つた(4~6 月)。
4 月末、Newsweek 誌の王后陛下侮辱記事と米、南越空軍機
によるカンボデイア領爆撃が直接の原因となつてシアヌーク
首席は 5 月 3 日米国との断交を宣言し、通商領事関係は存続
させる意向であつたが米国側はこれを拒否し、全面的断交と
なつた。
対米断交后、シアヌーク首席の言辞の中には反米帝国主義
(者)の語調が急激に強くなり、5 月 17 日国民議会開会式の
演説では非協力、非暴力の反米帝国主義斗争と国連本部の移
転を提唱した。
従来、タイとの間では言論戦、宣伝戦が主であり、実際の
衝突事件は殆んどなかつたが、5 月頃からタイ領に移つた
「クメールセレイ」武装分子がカンボデイア領に襲撃してく
るようになり、少数(陸軍 28,000 名)で装備旧式のカンボデ
イアは軍事的脅威を痛感するに至つた。この点を改善したの
が中共からの軍事援助であり、6 月に 28,000 名分の重軽装備、
武器修埋工場などを更に I1 月に軍用機などの供与を受けた。
他方フランスからも軍用機(「カイレーダー」10 機、8 月)、
車両(トラツク、ジープ各 50 台、11 月)を貰つた。
中共との関係はかくして益々緊密化して行つたが 9 月から
10 月にかけてシアヌーク首席が第 6 次の中共訪問を行なつた
際の超国賓待遇は同首席を大いに喜ばせた。また同首席は 10
月初めて北鮮を訪問し、その急速な経済開始振りに強い印象
を受けた模様である。なお中共がかねてカンボジアに供与し
た各種工場(綿紡、セメント、ベニア板、製紙)の成績が必ず
しも挙らずコスト高となつていたのにたいし、中共は更めて
専門家を次々に派遺しその改善に努めるとともに援助を追加
することも約束し、1966 年 4 月李先念副総埋を長とする政府
使節団が来「カ」し協定を締結した。
シアヌーク首席が北鮮訪問中、10 月 8 日起つた「平壌事
件」(ソ連訪間の延期を突如ソ連側から申入れた)はカンボデ
イア、ソ連関係を急速に冷たくさせたが、その後、ソ連側の
努力も奏効し約半年後には両国関係は旧に復した。シアヌー
ク首席としてもソ連との関係まで悪化したままにしておいて
は中ソ対立に巻込まれる惧れもあると悟つたと見られ、対ソ
関係改善には柚極的に応じたものであろう。
1965 年との通じ、南ヴイェトナム並びにタイとの関係は極
めて悪かつた。タイとの間の事態は前述のとおりであるが、
年末に再び大規模な国境事件があり 1966 年に持越されたはか
カンボジアジャーナル
りでなく、北部(Oddar meanchey 州)と南西部(Koh kong 州)と
で殆んど併行的に事件か続いた。南西郡での事件はタイ側に
よれはカンボデイア側が仕掛けたものとのことであつたが、4
月 3 日に始まつた北部(Preah Vihear 州)Preah Vihear 寺院地
区へのタイ軍並びに「クメールセレイ」の襲撃は或はタイ側
が報復的ないし、牽制的作戦として行なつたものとも考えら
れる。
ヴイェトナム戦争との直接の関連としては、米国その他の
ジヤーナリズム、或いは時には官辺筋、軍当局などが「ホー
チミン・ルート」がカンボデイア領を通つているとか、北越
第 325 帥団の戦斗指揮所が北東部(Rattanakiri 州)Bokes 付近
にあるとか云つてカンボデイアを非難したのにたいし、カン
ボデイア政府は Washington Post、Newyork Times などの特派
員の来「カ」を慫慂し、これらによる現地視察記事は概ねカ
ンボデイア側の主張を裏付けた。また中共からの援助の武器
がヴイェトコンに横流しされているとの非難にたいしては、
C.1.C をしてシアヌークビル港を査察せしめ、その事実無根
を立証せんとした。また C.I.C をして南ヴイェトナム国境地
帯を恒常的に監視せしめんとし、その人員器材の増強を債請
し、目下英国がその実現に努力している模様である。
しかし、C.1.C の強化が早急に実現しない場合、カンボデ
イアにとつて厄介な問題が起る可能性があるのは「エスカ
レーション」ないしは「追跡権」問題とヴイェトコンヘの物
資補給を巡る間題である。
ヴイェトナム戦争が、カンボデイアヘも「エスカレート」
しそうな気配が 1965 年来、急に高まつたが、カンボデイア側
は政府声明、国民大会決議など種々の方法をもつて米側の態
度を強く非難し声を大にして、その危険を国際的に訴えた。
幸にして実際には事件が起らなかつたが 1966 年 4 月~5 月に
至り、米軍当局者が再び「追跡権」の行使を意味する言辞を
表明した模様でカンボデイア側を再び緊張せしめつつある(4
月 3 日、南ヴィエトナム、タイニン省方面からカンボデイア
領に侵人した事件と、5 月 3 日略々同様の事件-但し後者は
越境砲撃の模様)。
ヴイェトコンヘの物資の補給については従来密輸出による
米、その他がヴイェトコンに(南ヴイェトナム政府軍側にも)
流れている模様であつたが、1966 年 3 月にはカンボデイア政
府が関与して米 2 万トンがヴイェトコンに供給されたとの噂
が広まつた。
上記以外の諸国との関係を概観すれば先ずフランスとの関
係は引続き極めて良好で、シアヌーク首席は「ドゴールのフ
ランス」に敬意と期待を示しており、フランス側も軍事、経
済、技術面での援助を漸増し、文化面でも従来同様の活動を
続けている。
アジア、アフリカ諸国との間では特に日本、ビルマ、シン
ガポール、セネガルと良好な関係にあり西欧ではスイス、
オーストリア、両中立国はもとより、英国、豪州、イスラエ
ルとも比較的良好である。
特に英国にたいしては寧ろカンボジア側から接近し、また
豪州についてはヴイェトナムに派兵しているにも拘らず親密
化し専任大便を派退するに至つた。シアヌーク首席がカンボ
ディアは必ずしも中共とばかり親しくしているのではないと
云つて最近引合いに出すのはフランス、豪州、日本である。
北鮮はカンボディアにたいし、韓国総領事の追出しを要請
していると伝えられるが、シアヌーク首席はこれには応じて
いない。しかし北鮮との関係は緊密化の傾向にある。
北越は 3 月、文化大臣 Hoang Minh Giam を長とする使節団を
送り、文化面よりも寧ろ経済或は政策面の問題をカンボディ
ア政府と行なつたと見られ、1 つの現れとしては北越通商代
麦郡が政府代表部に昇格(4 月 11 日)された。一般的に云つて
北越との関係も益々緊密化しつつある模様である。
最近関係か悪化したのはインドネンアである。軍事政権に
よる「右旋回」にカンボディア指導層が好感を持つていない
ことが背景にあると思われるが直接の原因はジヤーナリスト
協会事務局会議開催をめぐる問題であり要するに最近のイン
ドネシア、中共関係悪化の 1 つの波紋である。
1.5 経済
カンボディアの経済は 63 年末の米国援助拒否後財政難物価
の漸騰はあつたが、主要輸出品である米の豊作に支えられて
まずまず順調な発展をとげ金外貨準備高も漸増してきた。し
かし、1966 年に入り前年の旱害、異常降雨による、米、メー
ズ不作の結果輸出計画が大巾に修正され、このため 66 年の貿
易収支は当初計画において 2 億リエルの出超であつたものが、
約 9 億リエルの入超が見込まれるにいたり輸入計画の縮少に
より入超額を 2 億リエルに押えるよう努力している。
このような輸入計画の縮小は必然的に関税収入の減少とな
り窮乏化しつつある国家財政に悪影響を及ぼすこととなろう。
(1)財政および金融
国家予算は歴年に従い毎年々頭の国民議会で審議され可決
された上で実施にうつされる。
金融振関は 1 つの中央銀行と 2 つの国営商業銀行があり、
銀行業務は完全に国有化されている。
表-1 財政収支表
単位百万リエル(1リエル 10 円)
支出
歳入
過不足
1961
4,887
4,887
1962
5,300
4,400
△900
1963
5,600
4,917
△683
1964
6,245
4,475
△1,770
1965
6,364
4,324
△2,040
1966
7,000
49,31
△2,068
国家財政は 1962 年より毎年赤字となつているこの赤字の大
部分は国家銀行借入金、募債、外国借款などにより補てんし
ている。赤字の原因は国家建設のための財政投資の増大によ
るところが大である。
表-2 金外貨準備高、通貨発行高、商業銀行預金残高
単位百万リエル
金外貨準備高
通貨発行高
商業銀行預金
残高
1961/12
3,758
2,903
1,472
1962/12
3,395
3,297
1,923
1963/12
3,277
4,219
1,166
1964/12
3,200
4,784
721
1965/9
3,850
5,217
1,129
1965/12
3,667
4,801
714
1966/2
3,679
5,213
560
カンボジアはメコン河の思恵を受け、広大な平野と肥沃な
地味に恵まれ、国民の 80%が農業に従事しており、米、とう
もろこし、胡椒が主要農産物である。また全土の 1/2 が森林
で林産資源にも思まれており、特にゴムは米についで当国の
29
カンボジアジャーナル
重要産品であり、米及びゴムは輸出産品の大宗で全輸出の
表-4 主要国別輸出入実績 単位百万リエル
70%を、その他一次産品全体では全輸出の 90%を占めている。
1961
1962
1963
1964
鉱産物など地下資源は極めて乏しく、工業は一部国営工場
フランス
699
658
692
435
があるのみで未だ極めて初期の段階である。
639
493
887
680
○米
作付面積約 2,300 (千ヘクタール)、生産量約 2,500 (千トン)、
輸出量約400(千トン)
○とうもろこし
作付面積約 130(千ヘクタール)、生産量約 200(千トン)、輸出
量約 130(千トン)
○ゴム
作付面積約 45(千ヘクタール)、収穫可能面積約 30(千ヘク
タール)、生産量約 40(千トン)、輸出量約 38(千トン)
○木材
生産高約300(千立方米)
○工業
工業面での開発は遅れており、近代的工業と云えるものは
中共贈与の紡績、紙、合板、セメント工場かあり、1962 以来
稼動しているが、機械設備の不備、工場生産計画の誤りなど
のため、経営状態が悪く、円滑な経営が行なわれなかつたた
め、現在中共より多数の技術者が来訪し調整を行なつている。
このほかチエツコよりの借かんによる砂糖、トラクター組立、
タイヤ工場も技術的問題から本格的生産開始に時聞を要した
が、現在一応操業を開始した。
1968 年に建設が開始された主な工場は中共援助のッタンバ
ン第 2 紡績工場、ガラス工場、仏と合併のシハヌークビル石
油製精工場、カンポットの肥料工場、その他バッタンバンの
ジュート工場である。今後の政策としては生産コストが当該
産品の価格を国際価格なみに留めさせるような工業を出来る
だけ民営で推進すると云うことであるが、この成否は華僑資
本がどの程度工業資本として土着するかにかかつている。
当国では大規模工場の大部分は国営であり、その他華僑資
本の中小企集がある。
米国
464
212
484
79
346
327
87
86
66
106
西独
146
47
139
60
191
103
93
93
134
126
香港
436
371
459
248
517
338
306
271
255
541
シンガポール
282
226
318
209
346
353
274
409
255
541
日本
470
46
546
32
547
67
465
138
503
192
中共
85
25
186
121
245
53
343
218
403
215
(註)上段は輪入、下段は輸出。なお、輸入額には援助物資も
含まれている。
表-3 による如く 1963 年迄赤字であつた貿易収支が 1964
年よりは黒字に転じている。これは輪入額に計上されている
外国援助が滅少したためである。また表-4 に見られる如くカ
ンボデイアの対日入超が目立つており、このためカンボディ
ア側は貿易バランスの改善を我国に強く要求しており、毎年
1 月の貿易取極め延長交渉は難行しついに最近は、6 カ月延長
という変則な状態をくり返えしていたが、最近はこの協定が
切れたままになつている。
また貿易面での中共の伸長はめざまししいものがあり最近
は外貨不足により、この傾向が更に増大している。
表-5 Phnom Penh における平均物価指数
1956 年
表-3 輸出入統計 単位百万リエル
輸出
726
710
(4)物価および国民所得
物価は若干上昇しており、とくに輸入品の価格の上昇はは
げしくこの影響により表-5 にみられる如く外国人にたいする
物価指数は 1963 年に比し 20%以上増大している。
また国民所得は表-6 に見られるように順調に増加している
が、農業国であるために農産物の豊凶に影響されるところが
大きい。
(3)貿易
1963 年 11 月 10 日の経済改革の後貿易は国営化され国営貿易
公社(SONEXIM)が設立され、その下部機構として輸入品販売公
社(SONAPRIM)農産物収買公社(SORAPA)なども発足し除々に
国営貿易の実をあげつつある。
しかし長年にわたつてこの国の経済を牛耳つてきた華僑の
潜在力は大きく流通面におけるこの力を排除するにはなお相
当の時日を要するものと思われる。
輸入
1965
フランス
l963 年
1966 年
勤労者
216
300
316
1961
3,395
2,220
△1,175
中堅層
206
303
322
1962
3,582
1,902
△1,680
外国人
225
332
411
1963
2,751
3,116
△635
1964
2,863
3,063
200
1965
3,850
3,690
87
(註)1949 年を 100 とする
表-6 国民所得
輸入
30
輸出
1959
420(百万ドル)
88(ドル)
1963
744(百万ドル) 120(ドル)
カンボジアジャーナル
1.6 わが国との関係
c.地理的分布状態
プノンペン市 88名
バッタンバン州トウルサムロン 13名
(日カ友好実業センター)
バッタンバン州モンゴルボレー 7名
(日カ友好医療センター)
コンポンチャム州トンレベット 16名
(日カ友好愛畜産センター)
ボコール(磯村農園) 4名
(1)両国関係の推移
1951 年 9 月 8 日 カンボデイア、日本との平和粂約に署名
1952 年 4 月 28 日 日本との平和条約発効(米国を含む 11 ヶ国
及び日本、批准書寄托)
1953 年 6 月 2 日 カンボデイア、平和条約批准書寄托
1954 年 3 月 27 日 在カンボデイア、日本公使館開設
1954 年 11 年 10 日 対日賠償請求権を放棄
1955 年 3 月 15 日 在カンボディア日本公使館、大使館に昇格
1955 年 12 月 19 日 日本、カンボディア友好条約調印
1959 年 3 月 2 日 対カンボディア経済技術協力協定署名
1960 年 2 月 10 日 日本とカンボディアとの間の貿易取極署名
1.7 教育
カンボジアの技術者のレベル、また、これからの若手技術者
にどの程度期待をかけうるかを知るには、この国の教育の実
態を理解しておくことが必要である。以下、文教政策、教育
制度等について説明する。
(2)日本、カンボディア友好条約調印
1955 年 12 月 9 日 東京で調印
1956 年 8 月 21 日 効力発生(プノンペンで批准書交換)従つ
て、1966 年はその 10 周年に当る。
(3)経済技術協力関係
イ)対カンボデイア経済技術協力協定調印
1959 年 3 月 2 日 署名
同年 7 月 6 日 発効
援助総額 15 億円(約 420 万ドル)
援助内容 プノンペン市水道工事、農業畜産医療センター建
設 なお、上記 3 センターについては我国から向う 3 年間の
継続運営のため 1966 年度 1 億 6000 万円の器材供与を申し入
れ 10 月から実施。
ロ)コロンボプランによる専門家派遣(1966 年 8 月現在)22
名
ハ)日本青年海外協力隊(1966 年 11 月現在)9 名
ニ)青年技術者(1966 年 5 月 6 日現在)1 名
(4)貿易関係
1960 年 2 月 10 日、日本とカンボディアとの間の貿易取極署
名(同 2 月 15 日発効、1 年有効)。
その後 5 回にわたり有効期間の延長を行なつてきたところ、
1966 年の第 6 回目延長に際しては日本側大巾出超の改善を求
めて同取極の規定に拘らず「カ」側は 6 ヶ月間のみの期間延
長に応じた。
1962
1963
1964
1965
日本の輸出
546
(16.2)
547
(15.0)
465
(13.3)
503
(14.4)
日本の輸入
32
(0.9)
67
(1.9)
138
(4.0)
192
(5.5)
514
(15.3)
480
(13.7)
327
(9.3)
311
(8.9)
バランス
(1)文教政策
独立するまではフランスの植民地政策上、若干の小学校があ
つただけで、中等教育以上の学校の存在が認められなかつた。
このため 85%という高い文盲率を示していたが、独立後、初
等中等教育、成人教育に重点をおいた政策を強力に進めて来
たおかげで、今日では 15%に下がり、ほとんどの人がクメー
ル語(カンボジヤ語)を読むことができるようになつている。
独立後教育に対するカンボジヤ政府の態度は積極的であつて
文教予算は国防費を上廻り国家予算の約20%を占めている。
義務教育制度はまだとられていないが、国立学校の授業料、
教材費は無科である。文教予算は主に学校の新設、人件費に
使用されているので質的な充実までには到つていない。
「国民の生活レベルを向上させ低開発国の汚名を返上するに
は国民の教育レベルを高めることにある」とこの国の為政者
は教育重点政策を強力におし進めている(第 1、第 2 図参照)。
(単位 100 万リエル、 カツコ内の数字は米ドルによる表示で
単位 100 万ドル) 出所:カンボデイア通関統計
(5)在留邦人状況 1966年11月15日現在
a.総数 128 名
b.内訳
大使館(含家族)19名
CP専門家(含家族) 56名
日本青年海外協力隊 9名
一般邦人(含家族) 44名
31
カンボジアジャーナル
(2)教育制度
カンボジヤの学校制度はほとんどフランスの学校制度を踏
襲している。従つて初等教育 6 年、中等教育前期課程 4 年、
後期 2 年、大学予科 1 年となつている。学年の呼び方は大学
予科を除いて高学年から低学年の方に上から順番に第一学年、
第二学年と呼び最低学年は第 12 年となる。従つて、わが国の
小学校 1 年生が 12 年生、中学 1 年生が 6 年生、高校 1 年生が
3 年生、高校 3 年生が 1 年生に当る。大学予科を終了すると卒
業試験兼大学入試に相当する国家試験バカロレアがありこれ
をパスして初めて中等教育が終つたことを認められ、同時に、
どこの大学でも入ることが許される訳である。 中等教育前
期 4 年の課程のみを有する学校をコレージュと呼び、これに
後期 2 年および大学予科 1 年を加えた 7 年制の学校をリセと
呼ぶ。これらの学校の増加の様子を第 3 図に示す。学校の教
師は独立前はほとんどフランス人であつたが、現在ではカン
ボジヤ人の占める割合がかなり高くなつている。しかし、中
等教育以上では、まだ、フランス人の存在が大きなウエイト
を占めている。これらフランス人教師はほとんどフランス政
府のカンボジヤに対する経済文化援助ともいいうる形の援助
によつて派遣されたものである。従つて給料は本国政府より、
宿舎、バカンスの帰国旅費は現地政府より支給されているよ
うである。
大学については総合大学が 1965 年に 9 校を数えるに到つた
が、それ以前は単科大学として法科、医科、理科、文科の 4
大学があるのみであつた。
ここで注意したいのは単科大学を意味する英語の College
と中学校であるフランス語のコレージュの混同である。カン
ボジヤの場合コレージュ卒業といつても中学卒業であるので
研修生受け入れの際には注意する必要がある。
これらの他に仏教大学、美術学校、工業学校、商業学枝、
農業学校、師範学校などの専門学校がある(第 4 図参照)
(3)教育内容
PTT(郵電省)の新規採用者はおよそ中学校(レージュ卒)
であり、彼等の理数科のレベルはかなり低い。教科書はフラ
ンス本国で使用するものをそのまま使用しているが、理解の
程度は浅く特に応用問題には弱い。これは教育方法に欠陥が
あるものと思われる。とに角、小学校 3 年がフランス語の時
間があり中学教育以上では教科書はほとんどフランスのもの
を使用しているので、フランス語の勢力は当分衰えるとは思
われない。日常の生活で彼等の話している言語はカンボジヤ
語であるが、領収書をはじめ社会生活に必要な紙に書かれた
ものはほとんどフランス語である。近年英語の授業も多くな
つているが、日常ほと
んど使用されないので
特殊な立場にある以外
はわが国の英語教育と
似ており忘却させる率
の方が大きいようであ
る。
(4)外国留学
最近の順向としてほ
開発援助の意味あいを
もつて色々外国から留
学生の受け入れ申し出
があり、第 1 表は様々な
国に政府招請留学生と
して 1967 年に出かける
人数を示している。こ
のほか私費留学生もお
り、また、技術援助の
一環として招かれてい
る研修生はかなりな数
に登つている。
2.5 放送事業
○ラジオ放送
経済文化がおくれ、中央地方の往米の少ないこの国では国民
にとつてラジオは唯一の娯楽であり、社会の窓であり教育で
ある。政府もこの点を重視し、輸入関税に対して特に優遇措
置をし、更にラジオ用の乾電池には輸入の確保はもとより国
32
カンボジアジャーナル
内生産も始めているほどである。地方では電力のないこの国
でもトランジスターラジオが安値で輸人できるようになつた
ので中央からかなり離れた農山村にまで行きわたつている。
ラジオの管轄はプロクラムの制作、および送信機の保守とも
情報省となつている。
国内放送は朝 5 時 50 分に始まり 9 時から 2 時間、16 時から 1
時間の休みがあるだけで夜 l1 時まで放送している。プログラ
ムはニュース、音楽、現代および古典演劇などが主である。
そのほか国会や国民会議があるときは会議場から直接中継を
行なつている。ことにシアヌーク元首の施策説明の演説など
では 2 時同も 3 時間にも及ぶことかあり、この意味からもラ
ジオは政府与党の PR と国民の意識統一に大きな役割をなして
いる。
送信所はプノンペン郊外のストメンチエイにあり中波およ
ひ短波で放送している。バッタンバン州などタイ国に近い州
でば夜間数多いタイ側の放送が混信してブノンペンの放送が
聴取困難となるので、バッタンバンにサテライトを置きプノ
ンぺンの短波を受け中波になおして放送している。なお海岸
地方に対しても同様にボコールの山上にサテライト局を設け
て中継放送をしている。
このほか国際放送として 2~3 ケ国語で近隣国を対象に放送
している。
放送局の設備は主として中共製で中共の援助によるもので
ある。
技術指導のため中共の技術者が 2~3 名派遣されている。
このほか、1966 年初めにはフイリップ社製の 2 台の送信機
が入り現在使用中である。上記の通り、国内向けには中波お
よび短波の 2 周波を用い。また国際放送は第 1 プロとして、
仏、英、カンボジア語で 1 日約 10 時間、第 2 プロとして仏、
英、タイ、ベトナム。ラオス、北京、広東、カンボジアの各
国語で日本、インド、中国の方向に約 4 時間ニュースを素に
放送している。
技術による経済協力の現況
(わが外交の近況(第 12 号)昭和 43 年 10 月 外務省)
[解説]
シハヌーク時代に行われた対カンボジア支援の枠組みである
コロンボプランについて 1968 年当時の状況がわかる外務省資
料を以下に掲載します。カンボジアについての言及もありま
す。
1 概 観
○テレビ放送
テレビ放送は 1959 年シアヌーク元首の発案で 5 ケ年計画と
は別に計画されたものであるが、当時はタイ国以外は近隣国
でテレビ放送を行なつている所はなかつたのを見ても国家の
近代化への手段として、また国の威信を高める上でいかにこ
れを重要視していたかがわかる。テレビについては現在 NHK
から派還されている金子専門家が担当しているので詳しくは
報告が帰国後なされるわけであるが、現在プロクラム制作、
設備の保守とも情報省に属している。I 週 3 日各回 3 時間程度
の放送をしているが、プロ制作、運官経費などに大きな制約
があつて国民の要望に充分応えていない。
プログラムは主としてニュース、映画フイルム、楽団演奏、
演劇などが主であるが、映画フイルムの場合は主としてフラ
ンスのものが多く吹き替えなしで放送していたが、最近はカ
ンボジア語をスーパーインポーズしている。設備は日本電気
製の 5KW 送信機、カメラ 2 台、スタジオ装置、野外中継用テ
レビカー 1 台および 100 mアンテナ塔などで、1966 年 2 月 7
日にシアヌーク元首の臨席の下に開局披露式が行なわれた。
一方、隣国ベトナムからのテレビ放送が連日 18 時頃から
23 時ごろまで 2~3 局受信出来、英語放送ではあるが内容が
豊富なため、ほとんどの受像機のアンテナはサイゴンを向き
当局の頭を痛めている。
33
わが国の政府べースの技術協力は、受益国との直接交渉を通
ずる二国間方式によるものと、国連その他の国際機関を通ず
る多数国間方式によるものとに大別できる。
二国間方式による技術協力は、一九五四年わが国がコロン
ボ・プランに加盟し、技術専門家の海外派遣および海外から
の技術研修員の受入れを行なったことに始まる。その後、協
力の規模は、対象地域、協力形態および協力のための予算額
のいずれにおいても拡大されてきた。すなわち、対象地域に
ついては、当初南および南東アジアのいわゆるコロンボ・プ
ラン地域を対象としていたが、現在では、コロンボ・プラン
地域の拡大に伴い、アジアの全地域、中近東、アフリカ、中
南米等のほとんどすべての低開発地域に拡大されている。協
力形態についても、現在では、研修員の受入れ、技術専門家、
日本青年海外協力隊の派遣、機材の贈与、海外技術協力セン
ターの設置・運営、開発調査の実施等多岐にわたっており、
さらに一九六六年度より医療協力が、一九六七年度より農業
協力および開発技術協力が総合的に実施されることとなった。
またこれを予算の面からみても、技術協力が開始された昭和
二九年(一九五四年)度の経済技術協力に関する外務省予算は、
わずか一、三〇〇万円にすぎなかったが、一三年後の昭和四
二年(一九六七年)度には、約六一億二〇〇万円(補正後)、昭
和四三年(一九六八年)度には約六五億二、五〇〇万円(前年度
比四億二、三〇〇万円の増加)と、逐次増強の方向に向かって
いる。
昭和二九年(一九五四年)度から昭和四二年(一九六七年)度末
までの実績をみると、研修員受入数九、三二四名、専門家、
日本青年海外協力隊派遣数一、五八三名、海外技術協力セン
ターについては二八カ所にのぼっている。また、国連の支持
を受けて進められているメコン河開発計画についても、わが
国は一九五九年以来二七件の調査を行ない、積極的に協力し
ているが、その他の開発調査についても、昭和三二年(一九五
七年)度から昭和四二年(一九六七年)度末までに一〇九の調査
団を派遣した。
以上の政府ベースの技術協力の大部分は、その予算が外務省
予算に計上され、その実施は、一九六二年政府べースの技術
協力の総合的実施機関として、外務省の監督下に設置された
特別法による特殊法人「海外技術協力事業団」に委託されて
いる。
なおこのほか、通商産業省の開発調査の実施、民間機関の研
修員受入れに対する補助等、また、文部省の海外からの国費
留学生の受入れ、理科教育専門家の派遣等、国内他省庁も独
自にあるいはまた海外技術協力事業団に協力すること等によ
り技術協力を行なっている。
賠償契約による技術協力については別項を参照されたい。
つぎに、多数国間方式による技術協力としては、国連の通常
技術援助計画および開発計画(UNDP)、国連専門機関および国
際原子力機関を通ずるものと、アジア生産性機構を通ずるも
のとがある。昭和四二年(一九六七年)度わが国は、国連開発
計画に対し約一一億五、五六〇万円の拠出を行ない、また、
アジア生産性機構に対し合計八、〇七八万円の分担金、拠出
金を支出し、積極的な貢献を行なっている。
カンボジアジャーナル
入れ一三八名、専門家新規派遣三八名を予定している。
2 コロンボ・プラン協議委員会会議
(ニ) 日本青年海外協力隊の派遣
昭和四〇年(一九六五年)度に発足した日本青年海外協力隊に
関しては、ラオス、カンボディア、マレイシア、フィリピン、
インド、ケニア、タンザニア、モロッコ各国政府との間に協
力隊派遣に関する取決めを締結し、昭和四三年(一九六八年)
三月末までにラオス八一名、カンボディア一二名、マレイシ
ア五六名、フィリピン七二名、ケニア三〇名、インド二二名、
タンザニア三〇名およびモロッコ一〇名合計三一三名を派遣
した。隊員の活躍ぶりは受入国国民に強い感銘を与えている。
なお、昭和四三年(一九六八年)度には、前記の国々に加え他
のアジア、中近東、アフリカ等の諸国へ新規に三二〇名の隊
員の派遣を予定している。
コロンボ・プラン協議委員会の第一八回会議は、一九六七年
一一月二一日から一二月八日までラングーンにおいて開催さ
れ、わが国からは高瀬駐ビルマ大使が、政府代表として出席
した。
本会議の主要点は次のとおりである。
(1)援助規模
一九六六-六七年度の域外六カ国による対コロンボ・プラン
域内諸国援助支出額は、前年とほぼ同じ規模の二八億ドル(グ
ロス)水準にとどまり、返済および利子支払いの増加を考える
とむしろ純援助額の減少であるとされ、援助額の増大が域内
諸国より希望された。
(2) 国際機関または外国政府と協力して実施しているもの
(イ) 国連関係機関の技術援助計画に対する協力
国連は、通常技術援助計画および開発計画による技術援助計
画により、また国連の各専門機関および国際原子力機関は、
独自の援助計画により、または、国連開発計画の実施機関と
なり、わが国に研修員を派遣している。わが国は、この場合、
わが国における研修に必要な付帯経費を負担して、研修の便
宜を供与しているが、この種の受入研修員の総数は、一九六
八年三月末までに六七五名に達している。また、国際原子力
機関からは、上述のわが国が付帯経費のみを負担して受入れ
る研修員のほか、わが国が経費全額を負担する研修員を一九
六八年三月末までに八〇名受入れている。
国連関係機関の募集する国連技術援助専門家についても、わ
が国はこれら専門家の募集につき斡旋を行なっており、一九
六六年(暦年)中に、八五名の日本人専門家が海外二〇数カ国
の国連開発計画(UNDP)案件に従事した。
(2)技術協力
一九六六-六七年度に技術協力は、かつてない水準に達し、
一、四五三名の専門家が域内国に派遣きれ、五、九五六名の
研修員が訓練を受けた。
(3)訓練
域内技術者訓練の拡大と技術者指導員訓練の重視が強調され
た。
(4)農業問題
本会議の特別議題である「域内の農業生産増大のための資源
のアヴェイラビリティーおよびその利用」については、農業
生産増大のための短期施策、農民の近代技術採用、およびそ
のための訓練、普及、農産物価格の安定と価格関係の確立、
農業研究の必要性が強調された。
(ロ) 外国政府の訓練計画に対する協力およびわが国技術専
門家の派遣斡旋
低開発国政府は、それぞれの訓練計画により、みずから経費
を負担してわが国に自国研修員を派遣しており、わが国は、
この場合にも付帯経費を負担して研修の便宜を供与している。
この種の受入研修員の総数は、一九六八年三月末までに一、
一〇八名に達している。また、専門家についても、わが国技
術者の派遣の斡旋方を要請してくることがあり、これに対し、
わが国は要請に応じて専門家を斡旋するほか、低開発国政府
の雇用するわが国専門家の給与がわが国の技術協力計画によ
り派遣された専門家の給与に比べて不利な場合には、その差
額を補填するなど、積極的に協力している。
なおこのほか、わが国が米国と協力して昭和四〇年(一九六五
年)三月までに、二、二〇七名の研修員を受入れた日米合同計
画があった。
(5)第一九回会議の開催
コロンボ・プラン協議委員会の第一九回会議は、韓国政府の
招請により、ソウルで開催されることとなった。また第一九
回会議の特別議題として、「貿易振興」が採択された、
3 わが国の専門家派遣及び研修員受入れの状況
(1) わが国が単独で実施しているもの
(イ)アジア諸国
わが国のアジア諸国に対する二国間技術協力は、わが国がコ
ロンボ・プランに加盟した一九五四年に開始され、二国間技
術協力の中核をなしている。一九五四年以来一九六八年三月
末までこの地域への援助実績は、累計で研修員受入れ三、七
一七名、専門家派遣九五〇名にのぼっており、昭和四三年(一
九六八年)度計画では、研修員受入れ九四一名、専門家新規派
遣一四四名程度を予定している。
4 わが国のその他の技術協力の実施状況
(ロ)中近東およびアフリカ諸国
中近東およびアフリカ諸国に対する技術協力は一九五七年か
ら実施されている。一九六八年三月末までの実績は、累計で
研修員受入れ六八九名、専門家派遣二〇二名を数えている、、
また、昭和四三年(一九六八年)度計画では、研修員受入れ一
六五名、専門家新規派遣六八名を予定している。
(ハ)中南米諸国
中南米諸国に対する技術協力は、一九五八年から、中近東お
よびアフリカ諸国に対する技術協力計画と同様に、わが国独
自の計画として始められた。一九六八年三月末までの実績は、
累計で研修員受入れ四八二名、専門家派遣一一八名を数えて
いる。また、昭和四三年(一九六八年)度計画では、研修員受
34
(1)機材供与
機材供与による技術協力は、昭和三九年(一九六四年)度より
実施され、本計画は、低開発国が経済的、社会的開発・発展
のために必要とする技術または知識の一層の開発あるいは伝
達、普及、教育・訓練等の促進を図るためわが国が派遣中の
専門家および日本青年海外協力隊の現地における業務をより
効果的にし、また、わが国で研修を受けて帰国した帰国専門
家のフォローアップとして帰国研修員の修得せる技術、知識
を実際に活用せしめるため、「人と機材」とを結びつけた技
術協力の効果的実施を目的としている。
昭和四二年(一九六七年)度には、東南アジア諸国を中心に約
四、六〇〇万円相当の機材を次のとおり供与した。
カンボジアジャーナル
ブータン(農機具)、ビルマ(同時通訳装置)、ネパール(農機
具)、パキスタン (農機具)、シンガポール(ラジオ、テレビ職
業訓練機材)、タイ(語学研修用機材)、イラク(漁業研究用機
材)、シリア(家畜衛生研究用機材)、ケニア (船舶用エンジン、
漁網)、エル・サルヴァドル(自動車機械科用機材)、ボリヴィ
ア(灌概用ポンプ)
(4) メコン河下流域総合開発調査
インドシナ半島を貫流するメコン河は全長四、二〇〇キロ
メートル、全流域面積は日本領土の二倍以上に達する七九万
五、○○○平方キロメートルにわたる国際河川であり、一九
五七年に設立されたカンボディア、ラオス、タイ及びヴィエ
トナムの四カ国政府によって構成されるメコン河下流域調査
(2) 海外技術協力センターの設置・運営
調整委員会を中心とし、多数の国及び機関からこれまでに一
億ドル以上にのぼる援助を得て強力な国際協力の下に流域開
海外技術協力センターは、低開発国の技術者を現地において
発が進められている。
訓練することを主たる目的として、わが国がこれら諸国と協
力して各国に設置する施設であり、わが国の低開発国に対す
わが国はラオスのナムグム・ダム建設に対し六六年五月米、
る技術協力の大きな柱の一つとなっている。
加等八カ国とともにアンタイドグラントの形で約二、四〇〇
万ドルのナムグム開発基金を設立し、世銀を管理者として本
昭和三三年(一九五八年)度にセンター設置予算が初めて計上
計画の実施を計っている。
されて以来、この計画の実施はかなりの進捗を示している。
爾来昭和四三年(一九六八年)三月までに、インド-小規模工
わが国からは本計画に対し四〇〇万ドルの資金協力を行なっ
業(通産省予算によるもの)、パキスタン-農業(外務省予算に
ており、同時にラオスに対する技術協力として三〇万ドルに
よるもの、以下同じ)、タイ-電気通信、イラン-小規模工業、 及ぶ同ダムの実施設計を無償で行なった。
アフガニスタン-小規模工業、セイロン-漁業、タイ-
更にカンボディアのプレクトノツトダム建設に対してもわが
ヴィールス研究、ブラジル-繊維工業、インド-水産、イン
国は六六年他国の拠出額と見合う形で応分の拠出を行なう旨
ド-農業(第一次四カ所)、ガーナ-繊維、パキスタン-電気
の意思表示を行なっている。
通信、ケニア-小規模工業、タイ-道路建設、インド-農業
わが国の技術協力は一九五八年に始まり、以来主流、支流に
(第二次四カ所)、カンボディア-農業、畜産および医療の三
おける水資源開発計画調査において四億八、八○○万円の協
センター、フィリピン-家内・小規模工業技術開発、メキシ
力を行なってきた。昭和四二年(一九六七年)度においてはメ
コ-電気通信、シンガポール-原型生産、韓国-工業の二八
コン河開発計画調査費(外務省予算)をもってカンボディアの
センターの設置、運営に関し、それぞれ相手国政府との間に
大湖沿岸開発計画の調査を実施し、また、本流サンボール計
協定が締結され、これらセンターの大部分は、すでに正式開
画については五次にわたる現地調査に引き続いて、総合報告
所し訓練・研究等の業務を行なっている。しかし、これらセ
書作成のための作業を進めており、本年(一九六八年)末まで
ンターのうち、パキスタン農業、タイ電気通信、イラン小規
に完成する予定である。
模工業、アフガニスタン小規模工業、セイロン漁業、タイ・
ヴィールス研究、インド水産、インド農業(第一次)の一一セ
(5)アジア・ハイウェイの調査
ンターは、協定による協力期間および協力期間延長分を含め
アジア・ハイウェイ計画は、エカフェを中心としてうちださ
て四~五年の協定に基づく協力を終了し、相手国政府にその
れた構想で、トルコ国境からインドネシアに至るまで、アジ
運営の責任が引き継がれている。これら引継センターのうち、 ア大陸の一四カ国を横断する国際道路網を完成しようとする
インド農業センター四カ所のうちの二カ所については、イン
ものである。現在はメコン河開発と同様に、一九六五年に設
ド側の希望により農業普及センターとしてさらに三年間協力
立された通過国を構成メンバーとするアジア・ハイウェイ調
することとなり、昭和四三年(一九六八年)三月、そのための
整委員会を中心に、各国の協力により建設がすすめられてい
協定が成立した。
る。わが国は一九六二年に全面的な支持を表明、一九六四年
昭和四二年(一九六七年)度予算に設置費が計上されたウガン
及び一九六五年度にはそれぞれ東パキスタンのブリガンガ橋
ダ小規模工業技術訓練センターについては、現在設置協定に
架設計画、カルナフリ橋架設計画に対し調査団を派遣したが、
つき交渉中である。
一九六六年度には、東パキスタンのゴライ橋架設計画及びイ
なおこのほか、わが国民間とラオス政府が協力し設置した農
ンドネシアのスマトラ・ハイウェイ建設計画の調査を実施し
業牧畜実習センターに対して、わが国政府は専門家および協
た。また一九六七年度にはアジア道路建設調査費(外務省予
力隊員を派遣し、また機材を供与し、協力している。
算)一、八○○万円をもってタイ、ラオス間を結ぶノンカイ・
ヴィエンチャン架橋建設計画の調査を実施した。
(3)開発調査
これら調査は、開発調査と同じく海外技術協力事業団に委託
開発調査は、低開発諸国が農林・水産業、牧畜業、鉱工業、
して実施されている。
電気通信、道路、橋梁、港湾、河川開発などの分野で経済開
発計画を策定するに当り、政府ベースの技術協力の一環とし
(6)医療協力
て、相手国政府の要請に応えて必要な技術的経済的調査を行
低開発諸国特にアジア及びアフリカの諸国には各種伝染病、
なうために、わが国専門家チームを現地に派遣し、報告書を
結核、癩、栄養障害などが多いことにかんがみ、これら諸国
提出して勧告を行なうものである。
と協力して各種疾病対策の樹立、医師看護婦等の養成、病院
これらの調査を要する経費は、一部の現地経費を除き、全額
や診療所、研究等の医療設備の拡充等の協力を行なうことは、
わが国が負担し、昭和三七年(一九六二年)度から投資前基礎
これら諸国の経済社会開発にとって極めて有益であると考え
調査費(外務省予算)、海外開発計画調査費(通産省予算)によ
られるので、医療協力は、昭和四一年(一九六六年)度より独
る委託を受けて海外技術協力事業団により実施されている。
立して制度化されたもので、従来、診療団派遣、専門家派遣、
昭和三七年度から四一年(一九六六年)度までの調査団派遣実
あるいは機材供与等ばらばらに行なわれていた協力を一本化
施は表一、表二のとおりであり、これまでに一〇九件の調査
したものである。
団が派遣されたが、うち六〇%は東南アジアの諸国に対するも
昭和四二年(一九六七年)度においては、七億三、〇五〇万円
のであった。
の予算が認められ、このうち同年度中東南アジアを中心に次
昭和四二年(一九六七年)度においては投資前基礎調査委託費
のような協力を行なった。
一億一、○○○万円、海外開発計画調査委託費九、五〇〇万
ヴィエトナム(チョウライ病院脳外科病棟建設、チョウライ、
円の予算をもって、表三、表四のとおり一九件の調査団を派
サイゴン両病院に対する医療機材供与および医師派遣)、フィ
遣した。
リピン(コレラ、ポリオ・ワクチン供与)、タイ(ガン・セン
35
カンボジアジャーナル
ター等に対する機材供与および医療専門家派遣)、ビルマ
(ヴィールス・センターに対する機材供与および研修員受入)、
イラン(ポリオ・ワクチン等の供与および専門家)、エティオ
ピア(寄生虫研究用機材供与および専門家派遣)、その他各国
への調査団、専門家の派遣、医療機材の供与および各国から
の医師、看護婦等の研修員の受入。
(7) 理科教育海外協力
昭和四一年(一九六六年)度より開始された本計画は、主とし
て東南アジア、中近東、アフリカの諸国の理科教育振興のた
め、中、高等学校教員の指導者を派遣し、同時に指導に必要
な機材を供与するもので、その予算は文部省に計上されてい
るが、海外技術協力事業団が委託を受けて実施している。昭
和四二年(一九六七年)度には、ビルマ、パキスタン、フィリ
ピン、およびマレイシアの諸国に対し、四名の専門家が派遣
され、同時に機材が供与された。
(8)農業協力
農業協力は、低開発国の経済発展に占める農業の重要な役割
にもかんがみ、従来研修員の受入れ、専門家派遣、模範農場
または農業技術訓練センターの設置、機材供与、開発調査等
の形で行なわれていた、農業面の技術協力をプロジェクトと
してとらえて、これを地域的又は総合的に行なうべく、昭和
四二年(一九六七年)度に予算措置(四八、○○○万円)がとら
れた協力形態であり、主として東南アジア諸国の農業開発に
貢献せんとするものである。
昭和四二年(一九六七年)度には、インドネシア(西部ジャワ食
糧増産)、マレイシア(プライ河下流域の排水干拓)、フィリピ
ン(ミンドロ島およびレイテ島の米増産)、カンボディア(とう
もろこし開発)、ラオス(タゴン地区灌漑)の五プロジェクトの
調査を行ない、今後のこれらプロジェクトに対する農業協力
の具体的計画の策定を行なった。これらプロジェクトについ
ては、昭和四三年(一九六八年)度より協力地域の灌漑工事等
の実施設計、パイロットファーム又は訓練センターの設置(専
門家派遣及び機材供与等)の具体的協力を行なうこととなった。
(9)一次産品開発技術協力
低開発国の輸出品の大部分を占め、その生産性の向上と価格
の安定・流通機構の確立が重要視されている一次産品の開
発・流通面の改善を図るべく技術協力を行なうための協力は、
昭和四二年(一九六七年)度(予算九、二〇〇万円)より開始さ
れた。
昭和四二年度においては、インドネシア(とうもろこし)、カ
ンボディア(とうもろこし)、タンザニア(一次産品一般)、タ
イ(一次産品一般)、の四件の調査団を派遣し、今後の協力方
法の具体策を調査し、あわせて実施に必要な準備を行なった。
昭和四三年(一九六八年)度より専門家派遣・機材供与等によ
り具体的協力を行なう予定である。
『カンボジアジャーナル』他のご紹介
『カンボジアジャーナル』
『カンボジアジャーナル』は年 4 回発行の見込みです。発
行日・内容とも流動的で発行部数は最大でも 100 部まで。
主にカンボジア勉強会の参加者(実費配布)と寄稿者に配
布します。書店での販売は行いません。
11 月下旬よりウェブサイト『アンコール遺跡群フォトギャ
ラリー』から pdf 版をダウンロードできるようにする予定
です。
[バックナンバーと今後の予定]
□カンボジアジャーナル創刊号(2009 年 8 月 15 日発行)
特集「カンボジアの変容をみつめて」
□カンボジアジャーナル第 3 号
2010 年 2 月中旬発行予定。内容は未定です。
[カンボジアジャーナル以外の情報発信]
ウェブサイト『アンコール遺跡群フォトギャラリー』
アンコール遺跡を中心とするカンボジアのさまざまな風物
を主に写真で紹介するサイトです。
http://www.angkor-ruins.com/
カンボジア勉強会
http://www.angkor-ruins.com/benkyokai/
ほぼ2ヶ月に一度、東京・上野で土曜日の午後に開催され
ている集まりで、カンボジアにかかわりのある方を招いて
話を聞いたり、参加者が情報交換をするといった内容です。
テーマ、開催場所および開催日時については『アンコール
遺跡群フォトギャラリー』で告知しています。
次回(第 31 回)は 2010 年 2 月の予定です。
<これまでのカンボジア勉強会の内容の一部>
[第 1 回] 2004 年 6 月 12 日、早稲田奉仕園にて。参加 35
名。(1)アンコール遺跡バーチャルツアー 「コー・ケー」
(波田野直樹)(2)やさしいカンボジアの歴史(ニム・ソ
ティーヴンさん)(3)カンボジアの旅・写真・生活(遠藤俊
介さん)
[第 2 回] 2004 年 8 月 7 日、早稲田奉仕園にて。参加 45 名。
(1)おいしいカンボジア(中田淑子さん)(2)カンボジア古
典舞踊と解説(山中ひとみさん<クメール古典舞踊家>)
(3)対人地雷・学習ノート(宇野章則さん)
[第 3 回] 2004 年 10 月 16 日、早稲田奉仕園にて。参加 25
名。(1)クメール遺跡に魅せられて(飯田和美さん)(2)カ
ンボジアで小学校を作るには~S.C.C.のケースをもとに
(大河内聡さん)(3)カンボジアでの生活をふりかえって
(井出美和子さん)(4)アンコール遺跡とカンボジアのト
リビア(波田野直樹)
[第 4 回] 2004 年 12 月 18 日、早稲田奉仕園にて。参加 25
名。(1)ポイペトの素顔(高橋健二郎さん)(2)カンボジア
人と宗教(上東明子さん)(3)クメール・ルージュ勉強
ノート(波田野直樹)
http://www.angkor-ruins.com/benkyokai/index.htm
『カンボジアジャーナル』第2号
2009 年 11 月 14 日発行
編集・発行 波田野直樹
[email protected]
36
カンボジアジャーナル第2号
2009年11月14日発行(不定期刊)
編集/発行 波田野直樹 [email protected]
非売品