30年以上むかしの話だが、京阪三条の駅前からバスに乗って北のほうに上がって行った場所でフリッツ・ラング(写真上)の傑作 「M」(‘31)を見た。私の記憶では「発明会館」という施設だと思ったのだが、京都にそういう名称の会館は存在しない。川端一条のあ たりに当時「発明センター」というのがあったらしく、今は京都技術科学センターと名を変えている。その記憶違いだろうか。当時は、ビ デオもDVDもない時代だから自主上映が盛んだった。自主上映団体も数多くあり、もっぱら公共施設を会場としていた。滋賀県下でも公 立の会館や県立美術館などで自主上映があった。 ところで、「M」はトーキー初期の作品である。ドイツ映画は10年代から30年代前半に秀作を多く生み、美術 や演劇の世界と同様にドイツ表現主義と称される芸術運動の渦中にあった。当時、ドイツは第一次大戦に敗北し て巨額の賠償金を請求され、経済も国民も疲弊しきっていた。出口のないトンネルのように将来が展望できない 時代の中にあって、漠然とした不安や恐怖、絶望が映画に色濃く反映された。「カリガリ博士」(‘20)、「巨人 ゴーレム」(‘20)、「吸血鬼ノスフェラトゥ」(‘22)、「ドクトル・マブゼ」(‘22)、「プラーグの大学生」 (‘26)といった映画史上屈指の秀作が世に問われた。それは、あたかも来るべき時代の暗黒(=ナチスの登場) を予言しているようであった。 幼女を誘拐しては殺害するという猟奇的な連続殺人犯に扮するペーター・ローレ(写真下)が不気味だ。前髪 を垂らした童顔、ぎょろっとした眼が離れているという特異の風貌は一度見たら忘れられない。かれはこの映画 で世界的に注目されるが、ユダヤ系のためヒットラーが政権をとるとドイツを離れた。英国時代のヒッチコック が「暗殺者の家」(‘34)の悪役に起用してから、アメリカに渡ってジョン・ヒューストンの「マルタの鷹」 フリッツ・ラング (‘41)、マイケル・カーチスの「カサブランカ」(‘42)、フランク・キャプラの「毒薬と老嬢」(‘44)など多く の名画に出演、ドイツなまりの強烈な印象を与え、以後ハリウッドの名物男となった。 変質者の殺人犯は、犯行のときに必ず口笛を吹いており、これを通りがかった盲目の風船売りが聞いている。風船売りの老人が男とすれ 違いざま、背中にチョークで「M」と書く。英語でいうところの「マーダラー」、ドイツ語でも殺人犯の頭文字がM。これがタイトルの意 味である。町中が不安におののき、ルンペンや闇の犯罪集団までが「商売上がったりだ」と落ち着かない。風船売りの情報から「M」の刻 印を押された変質者を官民ともに追い詰めて行くのである。ここでは、明らかに口笛という音を重要な素材としており、トーキーにしか撮 れないテーマを狙ったのだろう。当時、ドイツを震撼させた大量殺人事件(デュッセルドルフの吸血鬼)に材をとったといわれ、それをヒ ントにして社会的に不穏な空気が漂う時代のムードを表現したといえよう。そういう意味で、ラングの意図したとおりの作品に仕上がっ た。 ヒッチコックがローレを使ったということは「M」を見たからに違いない。かれは多様なスリラーを撮ったが、本質的に猟奇の人だと いうのが私の見方だ。おそらくラングに惹かれたのではないか。ヒッチが来日したとき、猟奇を代表するような江戸川乱歩と意気が合った のも頷ける。 ドイツでは1933年、ヒットラー率いるナチスが第一党となり、小党と連立して政権奪取に成功する。ナチス政権下では情報相のゲッペル スが映画を統括することになり、ラングに対してファシズム啓蒙映画製作に協力してほしいと要請する。しかし、ユダヤ系のラングは賢明 にもその手に乗らず、危険を察知して国外に脱出する。それまで、ラング作品の脚本を書いてきた夫人のテア・フォン・ハルボウは非ユダ ヤ人だったので、夫と袂を分かちナチスへの協力を承諾した。 ハリウッドに渡ってからのラングは周囲の期待というプレッシャーもあって奮闘するが、ドイツ時代の精彩を欠いた。それはハルボウの 台本がラング映画のバックボーンを成したからだとする見方がある。一理あるかも知れない。この時代、ナチスを嫌って多くの優秀な映画 人が国外に脱出している。ドイツ劇壇・映画の名優コンラート・ファイトはユダヤ人であることをカムアウトして米国に亡命し、「カサブ ランカ」などの反独映画で憎々しいナチスの将校を演じて母国に抵抗したが、実は純粋のドイツ人だったことがのちにわかっている。こう して、ドイツ映画は空洞化する。ベルリン陥落後、再びドイツ映画が国際的に注目されるのは70年代の ニュー・ジャーマン・シネマの誕生を待たねばならなかった。 ラングが渡米したのと前後してヒッチコックも英国からハリウッドに渡る。スリラーの新旧の巨匠が同時代 にハリウッドにいたというのは興味深い。前述したようにヒッチはラングの作品からなにがしかの影響を受け ているはずだ。しかも、ふたりの興味は健全なところにはなく、明らかに猟奇の方向に向いている。ラングよ りも後輩のオーストリー出身の名匠オットー・プレミンジャーに「バニー・レークは行方不明」(‘65)という サイコ・サスペンスの佳作があり、ドイツ趣味が色濃く出た作品だった。これなどもやはりラングの影響があ ると思う。プレミンジャーと同世代のオーストリー組にビリー・ワイルダーがおり、かれもスリラーを撮って いるが、きわめて健全である。ワイルダーの場合は傑作喜劇「お熱いのがお好き」(‘59)の中の女装趣味にド イツ的な嗜好を読み取ることができる。また、ラングと同時期にドイツから渡米したロベルト・ジオドマクは 「らせん階段」(‘46)という古色蒼然としたスリラーがあり、私はあまりの古めかしさに閉口した覚えがあ ペーター・ローレ る。 戦後もラングは「飾り窓の女」(‘44)、「スカーレット・ストリート」(‘45) 、「口紅殺人事件」(‘56) などを撮るが、出来不出来 が激しかった。しかし、50年代にフランスのヌーベル・バーグの批評家たちが、映画監督をスタジオの要請に従って無節操に映画を量産す る単なる職人監督と、独自のスタイルを有したアーティストとしての「映画作家」を区別し、ラングやヒッチ、ジョン・フォード、ハワー ド・ホークスなどを後者に分類した。フランスではジャン・ルノワールは後者に位置づけられたが、わが国で一等人気の高かったジュリア ン・デュヴィヴィエは前者に区分され無視された。こうして、ラングはカリスマ性を帯び、ヌーベル・バーグの代表選手であるジャン・ リュック・ゴダールは自作の「軽蔑」(‘63)でフリッツ・ラングにフリッツ・ラング自身を演じさせたのである。
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