ペトロの手紙一 1:13~16 「聖なる方にならって」 鶴見教会牧師 高松

2012 年 10 月 21 日 礼拝説教(要約)
ペトロの手紙一 1:13~16 「聖なる方にならって」
鶴見教会牧師
高松牧人
「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与
えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(13 節)。私たちに与えられたキリストに
よる救いの恵みがどんなにすばらしく、尊く、確かなものであるかを述べた後に、ペト
ロは「だから」と続けます。大いなる恵みをいただいた私たちには、それにふさわしい
歩みがあるはずだというのです。
「心を引き締め」というところは、原文では「心の腰に帯を締め」という言葉です。
当時の服装は、上から下まで一枚の布で体全体を覆っているようなものでした。そうい
う服を着ている人が、何か活動をしようと思えば、裾をたくし上げ、しっかりと腰に帯
をしめなければなりません。いつでも自由に動くことができる準備をしておく必要があ
ります。これは、主の御言葉に即応答できる姿勢をいつもとっておくようにということ
です。主イエスも言われました、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人
が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしてい
なさい」(ルカ 13:35~36)。私たちを取り巻くさまざまな声や情報の中で、神の御心
にかなうことは何なのか、たえず尋ね求め、動くことができるようにしておかねばなり
ません。
「身を慎んで」という単語は、もともと「酒に酔っていない」という言葉です。つま
り、目覚めていて冷静であることを指す言葉です。現代日本のように、宗教に対する無
理解と不信感が蔓延しているところでは、信仰に生きるというのは、まるで何かに取り
憑かれて酔っているかのように思う人々も少なくありません。しかし聖書が言うことは
反対です。神を畏れ、神の変わらざる言葉に支えられていることによって、私たちは本
当の意味で自分を見失わず、目覚めた歩みができるのです。
心を引き締め、身を慎むことと並んで、主イエス・キリストの救いを待ち望むことが
勧められています。私たちを取り巻く現実は、冷静に見れば見るほど厳しく楽観をゆる
さないものがあります。けれども、そこでなお私たちは絶望することなく立つことがで
きるのです。この世界は、そこにすでに御子イエス・キリストが来てくださったところ
であり、主が私たちの罪と死の力に勝利してくださったこと、その主が再び来て救いを
完成してくださることを知っているからです。人間の栄光と力に酔いしれるとき、私た
ちはこの世界の現実が見えなくなります。しかし、神のご支配を仰ぎ望むとき、この世
界と人間の現実を冷静に見据え、なすべき務めを果たすことができるのです。
ペトロはさらに「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる
者となりなさい」
(14~15 節)。この手紙の読者たちは、かつてはまことの神を知らず、
神でない神々の奴隷となっていたのでした。私たちも皆そうではなかったでしょうか。
自分の利益と欲望のために神々を造り、そのような神々のもとで引きずりまわされてい
たのです。しかし、今や私たちは、主イエス・キリストによって買い取られ、主イエス・
キリストのものとされ、神の子とされました。神のみこころを第一とするという意味で、
従順な子とされたのです。
主イエス・キリストに贖われ、罪ゆるされて、従順な子とされた私たちは、さらに、
聖なる者となるように召されているのです。レビ記に繰り返し記されているように、
「あ
なたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と命ぜられています。
もちろん「聖なる者」となるといっても、私たちが修練を積んで完璧な人間になれる
とか、ならねばならないということではありません。厳密な意味で、聖なるお方はただ
一人、イエス・キリストだけです。しかし、聖なる主イエス・キリストに召された者と
して、私たちはそのお方に倣い、召された召しにふさわしく歩みだすことができるし、
歩みだすことが求められているのです。パウロの手紙にも、ヨハネの手紙にも、終わり
の日に、私たちは御子に似たものとされるという驚くべき約束があります。このことも、
終わりの日を待ち望む私たちキリスト者の地上の生活が、聖なる方に倣い、たえず聖化
されていく歩みであることを語っています。
私たちは、何かよい行いによってではなく、あるがままに、主イエス・キリストの恵
みによって救われました。放蕩息子がそのままで父の懐に迎えられたように、徴税人ザ
アカイのところに主イエスが来られたように、私たちは無条件に救われたのです。それ
は確かに福音のとても重要な中味です。けれども、それが福音のすべてなのでしょうか。
福音は、主の恵みのもとに召し出された私たちに対する新たな変革への招きのメッセー
ジを含んでいるのではないでしょうか。
私たちは、あるがままに召され受け入れられました。そして、キリストの者とされた
私たちは新しく生まれ、新たに造り変えられていくのです。
「わたしたちの『内なる人』
は日々新たにされていきます」(コリント二 4:16)とあるとおりです。いつまでたっ
ても、同じような愚かさや失敗を繰り返す私たちであるかもしれません。自分では何一
つ進歩していないように見えるかもしれません。けれども、聖なる方を見上げ、聖なる
方に倣い、聖なる方と共に歩む中で、造りかえられていくのです。終わりの日に向かっ
て、聖化されていく恵みが与えられているのです。主イエス・キリストの来られる時、
救いの完成にあずかる日を待ち望みつつ、日々変えられていく願いと喜びを持ちながら、
信仰の旅路を歩む者たちでありたいと思います。