完全版 - 凸版印刷株式会社

7
G A L A.net
シ リ ー ズ 1 C O L O R S
w w w. t o p p a n . c o . j p / g a l a
スペシャリストに聞く色の世界
プリンターズリソース
vol.7 Oct.28, 2003
PRINTER'S RESOURCE
これまでプリンターズ・リソースでは6回にわたり、色をテー
マにしたデバイスや技術をレポートしてきた。インキ、スキャ
ナー、カラーフィルム、デジタルカメラ、カラーマネジメント
システム(CMS)などがそれである。
しかし、そのような現場に密着した色の問題を扱うたびに、
私たちが突き当たるのは、色を扱うことの困難さである。
そこで今回は、あえて印刷の現場から離れ、色の本質を追
究し続けるアカデミズムの世界を訪ねることにした。
お話をうかがうのは、武蔵野美術大学造形学部の千々岩
英彰教授。千々岩教授は色彩心理学が専門であるが、同時
に産業界における様々な色彩学の応用分野でも活躍されて
いる。果たして現在の研究は、色の本質をどこまで解明でき
千々岩英彰(ちぢいわひであき)
武蔵野美術大学造形学部教授
日本大学芸術学部非常勤講師
1938 年、佐賀県生まれ。61 年、東京教育
大学教育学部卒業。69 年、東京都立大学
大学院博士課程修了。専門は色彩心理学。
日本色彩研究所研究員を経て。79 年より
武蔵野美術大学教授。
日本色彩学会理事、評議員を歴任し、日本
デザイン学会評議員、日本小児科医会理
事を在任中。
おもな著書に『人はなぜ色に左右されるの
か』
(97 年、河出書房新社)
、
『図解・世界
の色彩感情事典』
(99 年、河出書房新社)
、
『色彩学概説』
(2001 年、東京大学出版会)
ているのだろうか。
など。
*
凸版印刷(以下凸)
:印刷現場では、様々な場面で色を扱う
ことの難しさに突き当たります。たとえば、カラーの校正刷り
『色彩学概説』
ひとつでも、顧客の意図が工場に伝わらない、あるいはその
逆のケースはよく見られます。また、校正をする際の照明等
の環境が違い、それがトラブルとなるケースもあります。
千々岩教授(以下千々岩)
:そうですね。そういうことは印刷
関係で、私たちの脳に入ってくるものだからです。そういうと
現場だけでなく、日常生活のなかでもあることです。私もスー
ころから色彩学は、ニュートン(2)以来の物理学の分野から、
パーなどで買い物をすることがあるのですが、陳列されてい
心理学や大脳生理学の分野に広がっていったのです。
る棚で見たときおいしそうに見えたお刺身が、レジに持って
いくと全然違う色に見え、思わずそっと棚に戻しに行くなど
凸:つまり色は感覚のひとつなので、見る人によってそれぞ
ということもあります。これは、売場では照明に工夫をしてお
れ感じ方が違う。それが、私たち印刷業界のように色を扱う
いしく見せようとしているのですが、レジではそれが行われて
者の難しさなのですね。
いないことでおこる現象です(1)。
千々岩:たしかにそう言われてきましたし、私も長い間そう考
色は、現実には単一で存在していることはほとんどなく、
周辺にある色との関係や、そこを照らしている照明の色との
えてきました。十人十色などという言葉があるように、色は
人それぞれによって感じ方が違うものの代名詞のように言わ
(1)生鮮食品売り場に使われる蛍光灯は、通常の蛍光灯より赤みが強く、暖色系よより鮮やかに見せる。そのため精肉・鮮魚・果物・野菜などの各種生鮮食品を生き生きと見せることができる。
(2)アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton)
1642 年 12 月 25 日生 1727 年 3 月 20 日没 数学者・物理学者・天文学者。イングランドのリンカンシャー州に生まれ、1661 年ケンブリッジ大学に入学。2項定理の一般化 (1664)、光学の研究、反
射望遠鏡を発明 (1668)、ニュートン環の発見 (1675)、光の粒子説を唱える。運動の法則、万有引力の法則から惑星と月の運動や種々の力学現象を説明する『プリンキピア』を出版 (1687)、光学研究
をまとめて『光学』を刊行 (1704) など、物理学に多くの功績を残す。
© 2 0 0 3 T O P PA N / G A L A
GALA.net / PRINTER'S RESOURCE vol.7 Oct.28, 2003
1
no.7
1 – COLORS
スペシャリストに聞く色の世界
れてきたものです。ですから研究者も、主にこの差異の方に
注目して研究してきました。
同じ色を赤く感じるか青く感じるかという、見え方の問題。
明るいか暗いかという、イメージの問題。またあるいは、好
き嫌いという感情の問題。さらには、宗教や文化の価値観に
よる善悪の問題にまで広げると、色の感じ方は民族、国家に
よっても違うものだ、というのが一般に受け入れられてきた
「好きな色」
(NEDO・提案公募研究
H. CHIJIIWA 1997)
考え方です。
ところが、私たちがこの 14、5 年調査してきたデータでは、
必ずしもそうはいえないのではないか、という結果が出てきて
・男女全体
・上位 70%まで
・複数回答
いるのです。最近では、色の感じ方というのは、個人の性格
や資質、あるいは訓練などによる差異はわずかで、むしろ我々
の遠い先祖から受け継がれてきた体験、DNA のようなものに
刷り込まれたものではないか、と私は考えているくらいです。
「孤独をあらわす色」では黒か灰色などというように、これも
平成 7 年から 8 年にかけて、20 ヵ国、60 のデザイン系の
70%程度が同様の答えをしているのです。私が、DNA に刷
大学で 5,375 人の学生を対象に、色彩に関する調査を行いま
り込まれたものと感じたのは、このような結果によるのです。
した。これは大変大規模な調査で、日本政府の予算で行われ
では、
違いがあった部分にも注目してみます。
「太陽の色は」
たものです。調査は、質問票と色見本帳を与えるという形で
という質問では、日本人に赤という回答が多くありました。こ
行われました。この結果は、
『図解 世界の色彩感情事典』
(河
れは、日本の歌や詩に「真っ赤な太陽」という言葉が多く使
(3)
出書房新社、1999 年)にまとめられています 。
われてきたことが原因かもしれません。世界の大勢は、黄色
結論を先に申し上げると、全体として大きな差異はなかっ
です。日本人でも「赤く見えますか」と尋ねれば、赤いとい
た、ということです。もちろん細かなところでは様々な違い
う人は少ないでしょう。実際に日本でも、若年層から黄色と
があり、それはまた、それぞれの国の文化や社会の在りよう
いう答えが増えてきています。これは西洋文化の影響もある
がうかがえて、大変興味深いものです。しかし全体として際
かもしれませんが、日本人が色そのものを見る傾向になって
だった違いがあるか、ないかと問われれば、それはなかった
きているのではないかと思われます。
という答えになります。数字でいうと、約 7 割は共通の感じ
方をしているのです。
また「優雅さをあらわす色」という質問では、日本人の多
くが赤紫に近いピンクを挙げています。それに対して、欧米
まず好きな色では、1:青、2:赤、3:黒、4:白という順
では黒が大勢です。このことからうかがえるのは、
日本人の
「優
番でした。国によってこの順位は違っていますが、4 つの色
雅」観には成熟した年輩の女性というイメージがあるのに対
が上位にくる点ではほぼ一致しています。緑も上位にきてい
し、欧米ではパリッとした中年の男性というイメージが強いと
ますが、人間の目には赤・青・緑に感じる視細胞があるため、
いうことです。これは、
「スーツの色は」という質問の答えか
こうした色には本来敏感に反応します。しかし、これが同時
らも説明することができます。欧米では、スーツの色は黒と
に好む色に挙げられているというのは、人間の奥深いところ
いう答えが多いからです。日本でも最近、黒あるいはチャコー
に備わっている何かがあるのではないかと思えるのです。
「晴れた日の空の色は」という質問でも、ほぼ 70%が「う
すい青」と答えています。また「危険をあらわす色は」では赤、
ルグレイのスーツが流行ですが、黒に優雅さを感じるという
のは、欧米の色彩感であることがわかります。これは「重厚」
という質問でも、同じような傾向が現れました。
(3)特殊法人・新エネルギー産業技術総合開発機構(NEDO)からの依託研究。日本、中国、台湾、韓国、シンガポール、ラオス、バングラディッシュ、インド、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、
アメリカ、ブラジル、ロシア、フィンランド、ドイツ、オランダ、フランス、イタリア、ポルトガルの 20 ヵ国・地域で実施。
© 2 0 0 3 T O P PA N / G A L A
GALA.net / PRINTER'S RESOURCE vol.7 Oct.28, 2003
2
no.7
1 – COLORS
スペシャリストに聞く色の世界
男性、女性ということでは、
「家庭を表す色」という質問
でも興味深い結果が出ています。日本ではピンクという答え
が多いのですが、欧米の一部からは青という答えも出てきま
す。ピンクというのは日本だけでなく、アジア全体に見られ
る答えです。どうやらアジアでは家庭に母性的なもの、欧米
では父性的なものを見る傾向があるようです。
とくに面白かったのは、
「地味な色は」という質問でした。
日本では地味というと、灰色、あるいは黒などのように暗い
色が多くなります。ところが他の国々では、うすい灰色や白
などのように淡い色を挙げているのです。つまり彩度が低い、
派手でない色です。これは日本の際だった特徴です。日本で
は地味という言葉は色だけでなく、人柄にも用います。つま
色彩感情空間
(千々岩英彰 , 1997)
りそこには、ある種の価値観が入っているわけです。派手な
人というのは、どこか信用がおけない。だが地味な人は、控
色の連想・意味・イメー
ジを 20 ヵ国・地域の学
生に答えさせた結果から
得られた各概念と色の布
置を示す。
えめで日本人に好感が持たれる。そういう社会的な価値観が、
色の「地味」にも影響しているようです。また日本には、茶
道などから生まれた「わび」
「さび」などの文化もあります。
したがってこの場合の地味な黒や灰色などは、決して悪いイ
メージではない、といえます。どうやら日本人は、総じて色に
役割を持たせる傾向があるようです。
違いの部分について多くを語りましたが、全体の 70%は
共通した感じ方をしています。この調査の成果として、この
ことが確認できたことは非常に重要なことです。多くの予算
をかけて出た結果としては、つまらないもの、と感じられる方
もあるかもしれませんね。しかしこのことは、現在私たちを取
り巻いているインターネットなどのように、情報がグローバル
に展開される世界にあって、ビジュアルアートを共有できる
基盤があるということを示しているのです。その意味で非常
に大きな成果ということができます。
違いの部分ではなく、共通する部分について研究を進める
と、やがて色に対する快適性などを客観的に数値化すること
も可能になります。知覚的様相を色相、彩度、明度で表すマ
ンセル色立体のように、色彩の感情効果量を立体で表すこと
もできるかもしれません。
色彩の感情効果については、すでに 19 世紀のはじめゲー
テが優れた考察を残しています。ゲーテ(4)の『色彩論』(5)
というと、ニュートンの理論に対して誤った批判をした、とい
うことばかりが知られています。しかし、この『色彩論』の
第 1 部「教訓的部分」で述べられた、生理的・心理的作用
は今日でも価値を失っていません。今回の調査では、図らず
もこのゲーテの著述を裏付ける結果が出たといえます。
しかし、違いの部分をしっかりと認識することも重要です。
好きな色で最上位となった青は、キリスト教世界では非常に
重要な色です。欧米では国旗などにも、多く青が用いられて
「もっとも地味な感じ」(NEDO・提案公募研究 H. CHIJIIWA 1997)
・男女全体
・上位 70%まで
います。これもやはりキリスト教に由来するものです。つまり
キリスト教世界では、青は信仰の強さをあらわす色、あるい
はキリスト教に対する帰依をあらわす色なのです。
(4)ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)
1749 年 8 月28日生 1822 年 3 月 22日没 詩人、
小説家、
劇作家。フランクフルトに生まれ、
ライプチヒ、
ストラスブールなどの大学に学んだのちシュトルム・ウント・ドラングの芸術運動に参加。
「若きウェ
ルテルの悩み」で一躍名声を博し、詩、小説、戯曲などに数々の名作を生んだ。政治家としても活躍するかたわら、自然科学も研究。十年以上断続的に研究していた『色彩論』第一巻は、1810 年刊行。
(5)ゲーテはプリズムを手にした機会に、ニュートンの誤謬を確信。生理的色彩から自然現象、美術作品や工芸まであらゆる色彩現象を包括的に研究し、
「色彩論」に集大成する。
「色彩論」はニュートン
主義的機械論が全盛だったゲーテの時代に真価が見過ごされていたが、19 世紀末の R・シュタイナーや 20 世紀初頭のハイゼンベルクらの評価、その後の科学のパラダイム転換などにより、ますます
注目されるようになった。近代では「知覚心理学」や「色彩心理学」の分野で脚光を浴びている。
© 2 0 0 3 T O P PA N / G A L A
GALA.net / PRINTER'S RESOURCE vol.7 Oct.28, 2003
3
no.7
1 – COLORS
スペシャリストに聞く色の世界
このことで、最近ある出来事がありました。柔道着のカラー
化問題です。カラー化といいましたが、欧米が主張したのは
デジタル技術で育った若い人は、その文化的背景から違っ
ているかもしれません。私たちはカラーの画像を見るというと、
青です。つまり格闘技というスポーツで戦う色というのは、
写真集や画集のような静止画をじっと見てきました。しかしコ
欧米では青なのです。対して日本の白というのは、神道から
ンピュータで育った若い人たちには、そういう体験は少ない
きているものです。ですからこの問題をあまり先鋭化させる
でしょう。しかもコンピュータゲームのように、動く画像が非
のは、得策ではないことを私は柔道界に説明したことがあり
常に多い。
こうなると色や形も、
一瞬のうちに見たものがイメー
ます。日本人は色に役割を持たせる傾向が強いといいました
ジとして残っているにすぎないわけです。ですから、色や調
が、これは多かれ少なかれ世界中にあるものだということが
子の微妙な差異になかなか感覚が及ばないかもしれません。
できます。
最後に、私自身大変多くの示唆を与えられた本を紹介し
ます。これは、セミール・ゼキ(7)というイギリスの大脳生理
学者が著した『脳は美をいかに感じるか』
(日本経済新聞社、
2002 年)という本です。絵画をモチーフにしているという点
でも大変面白く読める本ですが、同時に大脳生理学の分野で
色がここまで研究されている、ということがよくわかる好著で
もあります。色について興味をお持ちの方には、是非お薦め
します。
人間の目の網膜には色を感じる部分があるのですが、実は
脳にも網膜がある。人間は脳で色を見ているのだということ
が、この本によって非常によくわかります。しかし現在の研
究では、その先の全体像を捉えている中枢がどこにあるのか
まだわかっていないようです。
凸:柔道着のカラー化に、そういう深い背景があるとは意外
私はこうした研究に触れるにつけ、
色を感じるということは、
でした。色を使うに当たって、考えなければならない重要な
個人の資質や能力ではなく、もっと人間存在の本質的な部分
要素ですね。
にその秘密が隠されているように思えてなりません。と同時
印刷の現場では、近年コンピュータなしでは仕事ができな
に、そうならば色を感じる能力にそれほど個人差はないとい
い段階になっています。そのなかで私たちにとって大きな問
うことになります。もしそういうことで引け目を感じている人
題は、モニタの存在です。これは原稿と印刷物との間に、コ
がいたら、是非自信を取り戻してもらいたいものです。
ンピュータがシミュレートした画像が存在するということです
が、色をマッチングさせることが非常に難しいのが現状です。
また、こうしたデジタル技術で育ったオペレーターは、アナ
ログ時代とは違った感覚を持っているようです。
千々岩:現代の色再現の現状は、ほとんど色相、彩度、明
度の 3 要素で行われています。しかし実際には、テクスチュ
アや透明、光沢など 14 もの要素(6)があるのです。そもそも
モニタなどの光源色では、とくにテクスチュアや光沢などが
表現しづらい傾向があります。そういう意味で、カラーマッ
チングの難しさはついて回るものでしょう。しかしテレビなど
の画像を見ていますと、その再現技術は格段に進歩していま
す。いずれこうした問題も、技術の進歩によって解決される
のではないでしょうか。
参考文献
『色彩学概説』(財)東京大学出版会 千々岩英彰 著
『図解・世界の色彩感情事典』 河出書房新社 千々岩英彰 著
(6)例えば、アメリカ光学協会(The Optical Society of America, OSA)は、色相、明度、彩度のほかに、大きさ、形、光沢、テクスチャ、透明度などの属性を上げた資料を発表している。
(7)セミール・ゼキ(Semir Zeki)
ロンドン大学神経生物学教授。視覚脳に関する研究の開拓者。英国王立協会のフェローで、
米国哲学会会員。著書に『脳のヴィジョン』
(A Vision of the Brain、
河内十郎訳、
医学書院、
1995)などがある。
PRINTER'S RESOURCE
vol.7
発行
凸版印刷株式会社
東京都千代田区神田和泉町1番地 〒101-0024
2003年10月28日発行
http://www.toppan.co.jp
© 2 0 0 3 T O P PA N / G A L A
発行責任者
樋澤 明
企画・編集・制作
凸版印刷株式会社 GALA
TEL.03-5840-4411
http://www.toppan.co.jp/gala
取材:坂田雅章
文:福井信彦
編集:浅野正樹
デザイン:福田大
イラスト:酒本康平
GALA.net / PRINTER'S RESOURCE vol.7 Oct.28, 2003
4