数学遊戯

数学遊戯
98E13028 高橋 聡
98E13034 濱田 俊輔
1.はじめに
継子立については文献研究を中心に行った。
我々が普段から当たり前のように学んで
いる数学はいったいいつ日本に伝わり、誰
によって研究され、今に至ったのかを考え
てみると、受験勉強のとき、歴史で見かけ
た「関孝和」の名が浮かんだ。関孝和といえ
ば和算の大家として数々の業績を残した人
物であるが、関孝和について次々と調べて
いくうちにある 1 つの数学遊戯(問題)に
出くわした。
数学にはいろいろな法則性、規則性など
驚くべきものがたくさんあるが、この数学
3.研究内容
ま ま こだ て
遊戯の『継子立』は読めば読むほど、不思
議で不可解で、この研究をしてみようと思
い立ったのである。
『継子立』は吉田兼好の『徒然草』
(随筆・
じんごうき
鎌倉時代)、吉田光由(数学家)の『塵劫記』
(和算書・江戸時代)に出てくる問題で、
関孝和はこの『継子立』を完全に数学的に
解決した人物である。関孝和はその解決方
(1) 関孝和について
1 )関孝和について
関孝和はさむら
いの内山永明の 2
番目の子として、
上州藤岡(現在の
群馬県)で生まれ
た。孝和は、内山
家から関家の養子
となり、やがて、
幕府勘定方吟味役
となった。
孝和の生まれ育つ寛永年間には,日本人
の書いた始めての数学書が出版され,江戸
初期の和算のスタートを切ったときであっ
た。
出版されたものの中で、吉田光由による
じんごうき
『塵劫記』(和算書・江戸時代)は当時の数
さんだつのほう
法(計算方法)を『算脱之法』という著書
の中で述べている。
我々は、関孝和について調べるとともに、
『継子立』の仕組みについて詳しく研究す
る。
2.研究方法
関孝和についてはインターネットの閲覧
による情報収集、文献調査・研究を行い、
学者を大いに刺激した。いうまでもなく,
孝和も大いに刺激を受け,進んで中国の書
物をも研究した。この中国の書物から学ん
てんげんじゅつ
だ 天元術(代数学)に創意改良を加えて算
木を用いて計算する独自の代数学を創始し
たのである。
2)関孝和の業績について
ここでは、関孝和の業績として、孝和が
著した書物をあげる。
○発微算法…代数をもちいて筆算で解く方
法を示した。
○三部抄…・・簡単な幾何学的図形や方程式
の作り方、取り扱い方など三
編を著した。
○七部書…・・方程式の解法と解の吟味、問
題の正誤の吟味、魔方陣と円
陣の作り方、面積、体積を求
める問題、回転体の体積に関
するものなど七編を著してい
る。その七編のうちの一つに
『算脱之法』がある。この『算
脱之法』が『継子立』の解法
である。
○開方算式…三部抄、七部書にも方程式に
ついて載せてあるが、ここに
は、方程式について全部まと
まっている。おそらく、三部
抄、七部書では十分でなかっ
たからと思われる。
○括要算法…円周率や球の体積などを著し
ている。ちなみに孝和は円周
率を13桁まで計算した。
3 )関孝和と江戸時代の数学
日本では、江戸時代、そろばんを使って
算数を勉強していたのだが、そろばんを使
う算数では、解けないような難しい問題が
たくさん出てくるようになった。そこで、
孝和はもっと他に良い方法はないかと研究
を重ねるうちに、中国で発明された数学に
天元術というものがあることを知った。
天元術とは、算木というものを並べて、
方程式をたて、それを解く方法である。こ
の算木は非常に興味深いものである。(し
かし、ここでは取り扱わない)
てんげんじゅつ
そこで、多くの人が天元術を研究したが、
まだたくさんの不便な点があった。孝和は
算木を並べて方程式をたてる代わりに筆算
を使う方法を考え出した。
この方法により方程式が自由に使えるよ
うになった。この孝和の考えが日本の数学
を発達させるものとなり日本の数学に偉大
な功績を残した。
4)天元術、和算の起源
さんがくけいもう
よ う きさんぽう
中国の算書のうちで算学啓蒙と揚輝算法
が孝和の数学に大きく影響したものである。
算学啓蒙は 1300 年頃に出版されたこと
は明らかであるが、中国では明の時代の数
学者で本書の存在を知っていた人はいなか
った。
540 年後の 1840 年頃(秦の時代)に、
朝鮮の復刻本によって中国に復刻された。
すなわち、この算学啓蒙に発した天元術は
540 年もの間、中国ではまったく埋もれて
いて、その間に我が国で目覚しい発展を遂
げたのである。
揚輝算法は揚輝による発見であるが揚輝
の生没年などはまったく分からない。この
揚輝算法にしても中国では知られていなか
ったが、孝和が朝鮮の復刻本を写し取り今
日に伝わったのである。
我が国の天元術、和算はこの算学啓蒙と
算法記の二書から起こり、これを理解する
のにどんなに孝和が苦心したかは想像に絶
するものがある。
5)孝和と建部兄弟
孝和の弟子には、建部賢明(兄)と建部
賢弘(弟)の二人がいたが、兄賢明は16
歳のとき、弟賢弘は13歳のときに孝和を
師に仰いだ。2人が孝和の弟子であったこ
とは、賢明の書いた「建部氏伝記」に記さ
れている。どちらかといえば、数学に秀で
ているのは弟賢弘のほうで、孝和の業績を
今日に伝えたのは、ひとつに賢弘の力であ
ると兄賢明の伝記に記されている。
弟賢弘の残した業績は多くのことが上げ
られるが、将軍徳川吉宗の命で日本地図を
作るなど、一概に、孝和同様にすばらしい
ことをしてきたといえることは間違いない
といえる。
ままこだ て
(2) 『継 子立』 に つ い て
☆問題
十五人の先妻
ま ま こ
の子ども
(継子)
と十五人の継母
じ っ し
の子ども
(実子)
の合わせて三十
人を池のまわり
に輪になって並
べる。ある人から数えて十人目ごとの人を
輪からのけていく。二十九人までのけて、
残ったひとりに家を継がせることにした。
「あまりにも片一方(先妻の子ども)ばか
りのけられている。今度は、私から数えて
ください。」
継母は先妻の子ども一人、自分の子ども
十五人であったからか、その提案を承知し
てのけていくと、継母の子ども十五人が皆
除かれ、先妻の子が残ったという。
1)継子立の本質
『継子立』では継子が一人になって他が
すべて実子になったときに継子が言った言
葉を実行すると次のようになる。
継子から数えて十番目十番目に当たるも
のを取り去ると、最後には数え初めの継子
が残ることになる。ということは 16 人な
ら、十番目に当たる人を除き去っていけば
数え初めの人が最後に残ることになるが
20 人の場合には成立しない。
この問題が成立するためには並べる人数
(総数とする)と取り去るときの第何番目
だつすう
の数(脱数とする)を決定しなければなら
ない。しかし、この問題は総数を定めて脱
数を決定することは不可能である。脱数を
定めてこれに対する総数が決定されるので
ある。
ままはは
継母は、自分の
実の子どもが最後
に残るように三十
人の配列に工夫し
て並べた。(右図
参照)十人ごとに
のけていき十四人
をのけたところこ
の十四人は全部先妻の子どもであった。次
の十番目も先妻の子どもになるように並ん
でいたが、ここで、ただ一人残っていた先
妻の子どもは次のように提案した。
2)継子立の歴史
『継子立』は 1159 年の平治の乱で殺さ
れた藤原通憲が作ったらしいがその出典は
明らかでない。吉田兼好の『徒然草』
(随筆・
鎌倉時代)に書かれている『継子立』の他
にも鎌倉末期の作と思われる『二中歴』巻
13 に数字だけ書かれた『継子立』に類似し
たものがある。
そして、吉田光由(数学家)の『塵劫記』
(和算書・江戸時代)においても書かれて
おりこれによって『継子立』は有名になっ
たのである。
3)西洋の継子立
西洋においても『継子立』に似た問題が
古くからあり、最も古いもので4世紀の初
めにさかのぼるものもあるらしいが、日本
に伝わったという証拠は今日発見されてい
ない。
この問題を『ジョセハスの問題』または
『トルコ人とキリスト教徒の問題』と呼ん
でいる。
15人のキリスト教徒と15人のトルコ
人が同船した船が難破したとき、船長は1
5人を犠牲にして海に投じなければならな
いと宣言した。
・
・
そこで、 キリスト教徒はトルコ人を海に
落とすため次のように円に並べた。
45213112231221 (人数)
キトキトキトキトキトキトキト(人種)
そして、9番目9番目に当たる人を海に
投ずることにした。つまり、この順で選ば
れるのはすべてトルコ人という結果になる。
『ジョセハスの問題』は日本の『継子立』
とは少し意味の違う点がある。『ジョセハ
スの問題』は全員の場所の決定が主である
が『継子立』は関係する人の人数すなわち
「何人と何番目」が重要になってくる。こ
の点で『継子立』のほうが『ジョセハスの
問題』よりはるかに深みのあるものとなっ
ている。
(3 )算脱之法(継子立の解決方法)
(2)の 1)でも述べたように、『継子立』の
問題で注目すべき点は十六人の子どもから、
十番目、十番目を除いていくと数え始めの
子どもが最後に残るということである。二
十人の子どもの場合には成立しない。この
問題が成立するためには、ならべる数(総
数とする)、取り去るときの第何番目の数
(脱数とする)
を決定しなければならない。
しかし、この問題は総数を定めて、脱数を
決定することは不可能である。脱数を定め
て、それに対する総数が決定される。
1 )数学的解法
いま、総数nと脱数mを与える。まず「n,
mを与えたとき、最後に残る石(この説明
では石をならべることにする。)は数えはじ
めの石から何番目にあたるか」を考えてみ
る。
最後に残る石は、数えはじめの石から第
Nn 番目に当たるとすれば、第一回の終りに
は、m番目の石が一つ取り除かれるから、
n−1個の石が残る。そこでm+1番目に
当たる石が、つぎの数えはじめの石になる。
ゆえに最後に残る石は、この新しい数え
はじめの石から数えて Nn-1 番目になるか
ら、最初に数えた数えはじめの石から数え
て、(Nn-1+m)番目になる。
ただし、(Nn-1+m)が n より大きくな
れば n を引く。n より小さければ、そのま
まにする。このことを等余式を使って書け
ば、次のようになる。
Nn≡Nn-1+m (mod n)
ここで n=1なら、mのいかんにかかわ
らず、N1=1である。ゆえに
N1≡1
N2≡N1+m (mod 2)
N3≡N2+m (mod 3)
… …
Nn≡Nn-1+m (mod n)
が成立する。
たとえば脱数m=10 とすれば
N2≡1+10 (mod 2) N2=1
N3≡N2+10 (mod 3) N3=2
N4≡N3+10 (mod 4) N4=4
(N4=0としない)
N5≡N4+10 (mod 5) N5=4
N6≡N5+10 (mod 6) N6=2
N7≡N6+10 (mod 7) N7=5
N8≡N7+10 (mod 8) N8=7
N9≡N8+10 (mod 9) N9=8
N10≡N9+10 (mod 10)N10=8
N11≡N10+10 (mod 11)N11=7
N12≡N11+10 (mod 12)N12=5
N13≡N12+10 (mod 13)N13=2
N14≡N13+10 (mod 14)N14=12
N15≡N14+10 (mod 15)N15=7
N16≡N15+10 (mod 16)N16=1
その時の上級4を下級にする。この手続き
を続けると次の表になる。
ここで下級が1となったとき、そのとき
の上級が求める石数になる。上表では2と
16 である。
以上のように、計算はとても面倒で、孝
和は脱数を9まで、総数を 5 箇所しか計算
しなかったが、我々は孝和の弟子・建部賢
弘の計算した表を以下に示す。建部賢弘は
脱数を30まで、総数を7箇所も計算して
いる。
せいげんすう
以下の表で、総数=正限数+1である。
最後に残る石を数え初めの石とするため
には Nn=1でなければならない。
脱数m=10 とすれば、上記の計算のよう
に N2=1、N16=1に対応する総数 2 と
16 のときに、数え初めの石が最後に残る。
2)簡単な方式
1)で考えた法則をここでは簡単な法式で
示す。また 1)と見比べることができるよう
に十脱の場合を計算する。
上級には自然数を書く。これが並べる石
の数となる。中級には脱数を書く。下級の
最初は1とする。この1と 10 との和を次
の上級2で割った残り1を次の下級にする。
この1と 10 との和を次の上級3で割った
残り2を次の下級にする。この2と 10 と
の和を次の上級4で割れば割り切れる。割
り切れる場合は残り0を次の下級にせずに,
たとえば5番目に当る人を取り去る場
合を考えてみよう。
このとき、脱数5の正限数2,5,11,14…
に1を加えて、3,6,12,15…人をまる
く並べて、5 人目 5 人目に当る人を取り
去っていくと、数え初めの人が残ること
になる。
していくことの必要性も感じた。
現時点で今回の『継子立』をどのように
教材にしていくか考え出すことはできてい
ないが、この研究を教員になったときに利
用しない手はないと思う。いつかこの研究
が役に立つときがくるだろうと確信してい
る。
4 .おわりに
5.参考文献
今回,我々は,関孝和の研究した『算脱
之法』の一部を抜粋して、
『継子立』の仕組
みを数学的に考えてみた。
数学の歴史は古く、中国,朝鮮と渡り、
日本へ伝えられた。そして関孝和のような
数学者などにより思考、考察が重ねられ現
在に至っている。あらためて考えさせられ
たことは、不断の努力と研究をしていくこ
とにより、新しい発見がなされたり、内容
を把握できたりするということである。こ
れは,いつの時代も変わりないことである。
現代は技術の進歩が進み,コンピュータ
で難解な計算もできてしまう。しかし、関
孝和の行った『継子立』の研究ではすべて
自分の頭で考え地道な努力により,出てき
た結果である。
関孝和の人生は数学に捧げたものだった
のだろう。
今回の『継子立』の研究は我々自身が不
思議だ、楽しそうだ、と感じたことから始
めたものである。ある事柄に対して不思議
だ、楽しそうだと興味をもち、その気持ち
を大切にその事柄に取り組むことのよさを
感じたような気がする。
では、子どもたちが不思議だ、楽しそう
だと興味をもつような算数、数学とはどの
ようなものだろう。ひと言で言える問題で
はないが、関孝和のような人物が研究を重
ねたその結果を我々が享受し、理解して、
それらを授業に生かしていけるように研究
1)平山諦、関孝和、恒星社厚生閣、1974
2)平山諦、東西数学物語、恒星社厚生閣、
1973
3)佐藤健一、江戸庶民の数学、東洋書店
pp.187、1994
4)数学教育7月号、明治図書、pp.62−65
5)http:www.joho-gakushu.or.jp/kids/
sansu/data/tensai04.htm/
6)http://isweb2.infoseek.co.jp/~tombow/
gakusya/seki.htm