ヨーロッパ史における普遍主義

ヨーロッパ史における普遍主義
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
第1章
第1節
ヨーロッパの特質
分裂と統一、多様化と斉一化
ヨーロッパ史を考察する際に必ずぶつかる問題は「普遍主義 universalism」と「特殊主義
paticularism」のせめぎあいである。ヨーロッパはいつも激しく対立をくり返しつつ、その一方
でどこか共通する要素をもち、分裂に向かう一方で何かひとつのものにまとまろうとする力がは
たらく。これを空間軸で考えると、「分裂」の力と「統一」の力の拮抗である。また、これを時
系列に置き換えると、
「多様化」に向かう時と「斉一化」に戻ろうとする時の反復的交替である。
その「統一」と「斉一化」の基盤をなすものがギリシャ精神とキリスト教教義、そして西ヨーロ
ッパに特有の要素としての封建制である[注]。また、ヨーロッパの展開において見られる「分
裂」と「多様化」の基盤をなすものが人口膨張、経済活動、異文化接触である。
[注]この最後の「封建制」はヨーロッパの東半分では欠いているため、ヨーロッパ全体を考察
するときは抜いてもかまわないだろう。基本的に対等者どうしの軍務=庇護の契約を旨とする
「封建制」の経験の有無は今日においても民主主義か権威主義かの統治形態の差となって表われ
ている。単にスターリンが戦後、「鉄のカーテン」を引いたから“東欧”になったのではなく、
その歴史は遠い過去に遡る。
上記の図式から何がいえるかというと、ヨーロッパの出来事の歴史は単独のものではなく、つ
ねに相互に関連する出来事の重なりあいであり、ある場所で起きた事件は必ず他の場所に影響し、
ある場所の歴史は他の場所のそれとの関連において理解しなければならないということだ。たと
えば、ある場所での宗教的対立は必ず他所への影響を伴い、対立ゆえに亡命を余儀なくされた
人々は国を捨てるかもしれないが、また、彼らを拾いあげてくれる別の国が現れるのだ。こうし
て一か所での異変は他処へ何らかの影響を及ぼす。たとえば、ある処で産業革命がなされると、
その余波は必ず他の処へも及ぶ。なぜというに、ヨーロッパは古来、その気候や国土の違いから
国際的な分業を成し遂げてきており、それは貿易というかたちで相互を繋いできたからだ。経路
ぬきで人は移動しないものだ。自国の生命線とばかりある技術の独占を図ろうとしても、それを
貫き通すことは不可能だった。貿易の回路は何ぴとの前にも開かれており、国境を跨いた人の往
来を人為的に差し止めるのは不可能であったからだ。
第2節
「統一」と「斉一化」を生む条件
上記を理解するため、孤立した島嶼国家の日本のことを想定してみよう。ここでは交易や文化
1
交流はあったにしても大陸から隔てられているため、その往来は極めて間歇的なものにとどまら
ざるをえない。大陸で起きた政変の余波を受けることはなかった。便利な品が出現し、それが届
けられ、宮廷の人々の羨望の的となって珍重されることはあっても、社会の最底辺にまでいきわ
たるには時間がかかるし、そこにいたる前に次の珍品が到着する。つまり、交通手段が不完全な
時代において日本はいつも文化的なターミナルであって、その出発点であることはまず(明治期
まで)なかった。ヨーロッパにあって日本にないものといえば、一神教と独裁者、宗教的迫害と
政治的亡命であるといわれる。よって、異文化はつねに便利なもの、ポジティヴなものでありつ
づけ、流入して文化摩擦を起こすことはない。文化摩擦を生じる懼れのあるものはすぐに日本に
適合するよう改変されてしまう。すなわち、異文化の取捨選択・吸収・改変の裁量は日本側に任
されており、日本の歴史はこの細長い列島のうちだけの出来事として自己完結していると見なし
てかまわない。
ところが、ヨーロッパでそうはいかない。ヨーロッパの歴史はさまざまな小事件の集積体で終
わらない。たしかに、閉じられた小空間の集積であった時代がないわけではない。片田舎で外と
の交渉のないムラ社会のなかでは外部との連絡がないため、そこで起きる事件はそこに原因があ
り、その小空間のなかで完結したであろうし、その場所でしか後世への影響は及ぼさなかった。
たとえば、古代ローマ都市が衰えてそれぞれの地区がバラバラになり荘園社会が出現した時がこ
れに該当する。小世界の独立性が保証されているかぎり、諸事件の拡大が進まないのは当然のこ
とだ。このことはなにもヨーロッパに限られたことではないだろう。しかし、小世界が地続き状
態で隣と接し、往来や土地侵入が容易なヨーロッパではそうした閉塞状態はあったとしても、長
くは続かないのである。
特に、閉塞状態のなかにあっても社会の上層(領主層や教会上層部、ブルジョワジー)となる
と、彼らはいつも他の世界に到る通路をもっているため、彼らのあいだでくりひろげられる事件
が小事件のまま完結することはなかった。彼らの関心は配下の農民や庶民の動静以上に、自分ら
の政略紛争や他世界の動向に振り向けられていた。領主間の私闘、国王家臣としての序列、十字
軍、聖俗間の争い、通商確保と自都市の繁栄、ギルド的独占の維持、異民族および盗賊との抗争
などがそれである。
都市の興隆とともに経済活動が盛んになり、通商関係がヨーロッパ規模で拡大するようになる
と、社会の上層に限らずあらゆる層が小世界に閉じこもってはいられない状態になる。荘園のな
かで小作農業に専心してきた小農民さえも貨幣経済の浸透のせいで農産物価格の乱高下や地代
徴収の負担の増減にナーバスになる。商工業者も価格動向や市場動向に神経を尖らす。聖俗の領
主層も収入・支出の不均衡を心配する。
特に 18 世紀の後半に産業革命が起きてからというもの、人間社会の変化の度合いは急激に進
み、小世界どうしを繋ぐ連絡口は量質ともに一挙に増大していく。人類史のなかで初めて社会の
天辺から底辺にいたるまで生活様式や人間関係が変革された時代だったといってよい。ヨーロッ
パは地理的特性も各地の国際分業を高める方向にはたらく。まず、気候や地質の違いがそれぞれ
の特産物を生みだす基盤であったことを挙げえよう。つまり、穀倉地帯、野菜栽培、果樹栽培、
2
牧羊、林業、水産業に向いた気候や土地の面での差異があったのである。
ヨーロッパの交通路は陸・海・河川と3つの経路が揃っている。とくに地中海の北岸沿いやス
カンジナヴィアを除けば全体的に勾配は緩やかであり、陸上交通にせよ河川交通にせよ、他の大
陸ほどに急所難所とはならない。全天候型の大型帆船[注:逆風を突いても前進できる帆船]が
発明され、蒸気船が出現してからはさらに水上交通は便利になり、陸路よりも水路のほうが好ま
れるようになる。これは、それまでもあった国際分業をさらにいっそう進化させる力となる。ア
ダム・スミスが『国富論』のなかで言った「スコットランドでぶどう酒をつくることは」は誰の
目にも愚行と映るようになる。それもこれも、交通の発達に基礎をおく国際分業の進展に発する
ことなのだ。
そして、ヨーロッパの三方が海洋によって囲まれていることがどの土地でも新技術の獲得を可
能とし、とりわけ軍事技術の独占が不可能になった。これがヨーロッパにおいて軍事的な覇権国
家が生まれにくかった事情を説明する。大国はつねに小国を併呑しようとするが、小国は小国ど
うして攻守同盟を形成し、大国に呑み込まれまいと抗う。「昨日の友は明日の敵」 ― 離合集散
はヨーロッパ史を貫く普遍的な政治原理である。
このことと関連し、もうひとつ別の原理がヨーロッパ史を貫く。それは絶えざる競争原理であ
り、東方に突出した国が誕生すれば西方ですぐに模倣が続き、傾いた天秤棒を元に戻そうとする。
そうした競争があればこそ、ヨーロッパ全体としての不断の政治=軍事的・経済的・文化的な発
達が保証される。
各民族間・各地域間・各国間におけるあまりにも頻繁な競争・対立・同盟の樹立はタテの関係
よりもヨコの関係の維持に、そして、特殊主義よりも普遍主義の維持に好つごうである。特殊主
義については章を改めて論じることにしたい。
第3節
中国との比較
長い歴史をもつ中国も統一と分裂をくり返してきた。しかし、そこにはヨーロッパとの比較に
おいて大きな違いが見いだせる。統一と分裂といってもその中核部分は移動せず、つねに中原地
方が変動の中心でありつづけた。ヨーロッパでは文化の核心部分は常に移動しながら、分裂の後
でも統一に向かっていく。つまり、最初はギリシャとローマの地中海世界が、次いでガリア=ロ
ーマ地区が、次いでフランドル、北欧、そしてイギリスがという具合に。
ところが、中核(中原)の周辺異民族の侵入支配の後に漢民族支配が戻ることがあっても、周
辺異民族が文化変容の中核となることはない。漢民族支配が回復しても、以前の文化を継続する
というよりも断絶の度合いが強い。
ここでは文化を技術に絞って考えてみよう。中国で誕生した技術は数多くある。そのなかに鋳
鉄・磁針・火薬・製紙・印刷術といった世界で遍く知られているものがある。また、意外にも
11 世紀には機械時計さえも出現している。造船技術や航海技術においても他文明に圧倒的に優
越している。しかし、いずれも以後の持続的発展を停止している。たとえば、鄭和の遠征隊数百
隻(15 世紀初)には木造船体の長さが 120 メートルに達するものも含まれていた。これでは 1
3
万トン(排水トン)を超すのは必至である。そして、乗組員総数は 2 万 8 千にも及ぶ。この大艦
隊はインド洋を越えて東アフリカまで達した。このようなことまでできるのに、なぜ中国人は喜
望峰を回ってヨーロッパにまで達しなかったか、これはミステリーとされる。
中国の技術の持続的発展の停止を解くカギはその高度の中央集権化、そして、長期にわたる内
治の平和にある。中央集権は覇権達成には好つごうだが、いったん覇権を掌握し敵や競争相手が
姿を消してしまうと、権力維持のための方策は無用となり、皇帝の声ひとつで軍隊の解散、新技
術開発の停止、兵器廠の閉鎖が決まってしまう。しかも、この強大な国家は自給自足で間にあう
だけの沃野をもち、従順な農民がいたし[注:現今は違うが]、海外に発展する必要を感じなか
った。当然のことながら、軍事技術も停滞する[注]。
[注]1840 年前後のアヘン戦争時の清朝が配備した大砲のなかには 1601 年製の砲が見られた。
要塞を制圧した英海軍がこれを確証している。
既述のように、中国の文化の中心は中原地方である。秦の国がここを軸に中国を統一して以来、
その中核としての位置は一度として失っていない。中国の長い歴史を通じてこの地域だけは分断
されたことがない。ヨーロッパに比して、中原という中核部分をずっと保持してきたことが、中
国が時々分裂状態に陥ったり異民族支配に服したりしても、国家再統合の求心力の温存につなが
った。
中国の海岸線は単純で入り組んでいない。海岸線に沿った島嶼も少ない。台湾と海南島がある
が、狭すぎてそこが中原地方に換わる文化的中心または、それに匹敵するほどの求心力をもちえ
ない[注:私はイギリスと日本を想定しているのだ]。このことも中国の文化的統一(漢字・法
制・宗教・文化)の持続力の保持につながる。また、広い国土で緯度の違いや土壌、水利の違い
などにより特産物を各地で産出するが、いつ、どんな場合にも中原地方を中核とした経済的な結
びつきは失われなかった。
これらは中国に居住する人びとにとって幸せであると同時に、競争と刺激のなさに直結し、文
化的停滞の基底的条件をなす。科挙制や税制が長く続いたわりに、支配的宗教の交替は激しい。
これもヨーロッパとの大きな違いである。
中国の長期に亘る安逸の夢を破ったのは、ヨーロッパ列強が大砲と巨艦をもって威嚇的な態度
で出現したことと、急速に近代化を遂げた日本の侵入(日清戦争と日中戦争)とであった。なか
でも日本が与えた衝撃は強烈であった。周辺の、未開の国と侮っていた日本[注]から挑戦を受
けたことによって初めて中国は長期の安逸の夢に耽っていた事実を痛切に感じるのである。
[注]中華思想に浸る今の中国人もスローガンなどで「小日本」が掲げるが、これは自らのコン
プレックスを如実に表わしている。
(次章
http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/universalism_2.pdf)
(c)Michiaki Matsui
2014
4