封建制と倫理観

封建制と倫理観
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
「封建制」は日常用語としてわれわれもしばしば使う。この用語は一般に古めかしいイメージ
があり、たとえば「キミは封建的だ」というと、相手から怒りを誘発しかねない。つまり、良い
意味をもたないのだ。この語はもともと中国語に由来する。中国の封建制と日本の封建制、そし
てこの「封建制」に対比される西欧の‘feudalism’いずれも似ているように見えて、ずいぶん
と違いがある。この辺の事情を考察してみよう。
「封建」なる語はもともと中国の郡県に対立する概念として用いられていた。中央政府が地方
を支配するために官吏を派遣して長官を任命し、これをつねに監督するのが軍県制度である。任
に堪えないと判断されたときは簡単に更迭された。封建制度は天子の一族または功臣を領主に封
じ、土地人民を与えて世襲的に支配させ、平時には貢物を納め、戦時には援軍を出す義務を負わ
せる制度を称したものである。殷・周の時代、特に周公が建てた西周の統治組織が代表的なもの
といわれる。秦国は封建を排して郡県を用い、漢代初に封建と郡県を併用したが、武帝のころか
ら以後は実質的に純然たる郡県に統一した。宋代以後は「士大夫」の社会となるが、農村が基盤
となった官僚の社会であった点では何ら変わらない。中国の社会では儒教的な「礼」が軌範とな
り、忠節と秩序の源となったのだが、戦乱の時代においては無視されることが多々あった。
以下は、日・欧の「封建制」の説明である。西欧の‘feudalism’に相当する語を翻訳する必
要が生じたとき「封建」が当てはめられることになったが、これは明らかに誤訳である。誤訳が
そのまま残ったため、後になって面倒な論争を惹き起こすことになった。周の「封建制」と西欧
および日本の「封建制」では似て非なるところ大である。まず中国では中央政府があって、地方
統治のために給地・給民つきで一族を配するというのは、これは氏族制のやり方である。天子か
ら見て封建臣下が気に食わないときは中央政府の命令ひとつで簡単に更迭できた。西欧と日本の
封建制は中央権力と無関係に自然発生的に形成されることを特徴とする。
西欧と日本ではそもそも中央権力が存在しないか無力であるかのどちらかであり、それで治安
維持のために形成されたのが封建制であり、主君が簡単に臣下を任免できるはずがない。理屈上
はできるが、これをやると、他の臣下に悪影響を与え、主君に対する忠義立てに支障を生じかね
ない。主君への忠義の基本は御恩と尊崇であり、この紐帯に瑕が生じると、家臣の側に隙あらば
謀反の念が生まれかねない。それでも、後述するように、主君と家臣の間の関係がほぼ平等に近
い欧州に較べ、日本の臣下は独立性が弱いのは否定できない。
封建制との絡みで重要なのは倫理観である。この封建制が典型的に展開したのが西欧と日本で
ある。ユーラシア大陸の西端と東端に分かれ、相互的な交渉がなかったにもかかわらず、そこに
住む住民の倫理観には似た面が少なくない。そこでこれについて試論のかたちで以下、述べてみ
る。
キリスト教徒は一にして完全なる神だけを神事、対極にある人間を不完全な存在として人間全
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体に不信感をもっている。キリスト教の普及は 8~10 世紀の異民族侵入によるヨーロッパ全体の
混乱・不安・恐怖を背景にしている。その意味で‘feudalism’の拡延と軌を一にしている。異
民族の劫掠には凄まじいものがあり、一部落、一部族の全滅の恐怖すらあった。こうしたなかで
人々は神による救済を求め、信仰に走ったのである。このような混乱状態がなければ封建制の成
立もキリスト教の普及も考えにくい。
人々は相互の安全を求めヨコの連携をもとうとする。弱者は強者に身を委ね、農民は武人に保
護を求めた。こうしてタテに伸びた網状組織=巧守同盟が封建制度であり、領主と農民の庇護・
奉公の関係を示す領主制(荘園制)である。この意味で封建制と領主制は発生史的に同一の起源
をもっている。封建制と領主制の中間形態が屯田制(ドイツに見られる)である。すなわち、有
事に武器をもって戦い、平時には鋤をもって農耕に従事するのである。
キリスト教は異教徒との戦いは許したが、キリスト教徒どうしの戦い(私闘)を禁じた。だが、
それは守られなかった。異民族侵入の恐怖がなくなると、武人どうしの争いは尽きることがなか
ったのである。身の安全を守るために合従連衡はあたりまえのことであった。そこまではわが国
の戦国時代の封建制にも見られるところである。
彼我で違うのは、ヨーロッパの封建制において主君と家臣の結ぶ契約が対等のもので双務的で
あったこと、権利・義務にともに制約があって無制限ではなかったこと、一人の家臣が複数の主
君に従うようなこともあった。契約違反の場合は家臣の側からでも主従関係を解除できたのであ
る。日本では主君の権限が強く、家臣の側から契約を解除はできなかった。主君と仲たがいした
場合はその場を去る(「逐電」という)しかなかった。
日本には「二君にまみえず」という格言があるくらいで、複数の人物に忠義だてすることは考
えられない。今の日本でも、パート労働は別として一人の人間が二社に身を置いたり、二つのク
ラブに所属したりすることは考えられない。この「二君にまみえず」の原則は立派に生き残って
いるのである。
そこで、西欧のフューダリズムで二君に仕えている場合、面倒なことが起こる。主君どうしが
仲たがいして戦争が不可避となったとき、両方から従軍の召集がかかったらどうするか。じっさ
い、こうしたことは頻繁に起きた。英仏百年戦争のノルマンディ、ブルターニュの諸侯たちはイ
ギリス王とフランス王の両方に忠誠を誓っていた。どちらに味方したらよいか?「勝てば官軍」
ということもあるが、じっさい、どちらが勝つかは予測できない。こうしたとき、「正義」の観
念が国際関係に不可欠の倫理的軌範として生みだされた。「正義」がどこにあるかを見定め、こ
れに従うことが徳行であった。強者ではあっても邪な主君に味方することは必ずしも得策ではな
い。
この「正義」こそ、キリスト教倫理であった。日本では自分の所属する小集団――昔はムラ
に対して、今日は会社に対して――への義理だてが「徳」とされてきたが、キリスト教徒はこの
超越的な存在=神のもとでの「正義」をつねに考えていたのである。ヨーロッパ人の倫理観は一
元的で確乎不動のものである。こうした倫理観を成文化したものが法律であり、倫理道徳と法律
が矛盾することはない。日本では明治以降、西洋の文物が採り入れられたとき法律も入ってきた。
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そこで元々から日本にある道徳観と西洋風の法律がしばしば衝突することになった。
日本の諺をみると、矛盾するものが多い。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と「君子危うきに
近寄らず」、
「義を見てせざるは勇なきなり」と「長いものには巻かれろ」は矛盾する。また、
「犬
も歩けば棒に当たる」には正反対の二つの解釈がある。つまり、日本ではその場かぎりの生活訓
のようなもので、ご都合主義的に使われることが多い。この矛盾対立を武人間の道徳と庶民の道
徳の違いとみることもできよう。
しかし、封建制を共有した日欧においてその道徳観が似ているケースがないわけではない。そ
れは主として戦法ルールのかたちで表われる。
滅私奉公の精神
軍指揮における上下関係の重視
宣戦布告の原則
一騎打ち勝負の推奨(流血惨事の回避)
背後から相手を襲ってはならない
敗者(降伏者)への穏便な措置
非戦闘員の不迫害原則
戦場で相手方による死傷者回収を容認
日欧の倫理観には共通する要素がある。たとえば、ルールを守れば、相手もこちら側の意を汲
み取ってくれるところがある。日露戦争の二百三高地争奪戦の最中、夕闇が迫ると軍ラッパが鳴
り、それで銃砲撃は停止する合意があり、その後は戦場に残された死傷者回収が始まる。その間
は双方ともに攻撃を手控えた。これは武士道と騎士道が交叉した瞬間である。
上記のすべてが興味ある主題であり、語りはじめると長くなるのでここでは割愛したい。封建
社会における戦法と対極の位置にあるのが中国の伝統的な兵法である。すなわち孫子、韓非子、
諸葛孔明などの兵法を頭において考えると、日中の兵法において倫理観の違いがよく理解できる。
日本の武士道を基礎において中国(その直接的影響を受けた朝鮮半島も同じ)での身の処し方を
すると大変なことになる。いかなる場合にも、彼地では損得勘定と「勝つ」ことが至上命令であ
り、そのためにはルール遵守などはそもそも考えられない。姦計や裏切りは日常茶飯事である。
「武士の情け」や憐憫の情をかけると、とんでもない逆襲を食らうはめになる。「三国志演義」
や「水滸伝」を読めばその辺の真髄がつかめる。日本では敵の家来を召抱えることもあるが、中
国では全員(一家郎党とも)殺害するか、追放ないしは奴隷にするかしかない。へたに召抱える
と謀反を起こされかねない。諸葛孔明は頻繫に《再雇用》し、それゆえに「有徳の士」の誉れを
受けることになったが、その一方で残忍な所業もけっこうおこなっている。
(c)Michiaki Matsui
2014
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