J.マシア 『命の重み』 ―生命操作の時代における科学技術と人間を考え

J.マシア
『命の重み』
―生命操作の時代における科学技術と人間を考えるー
―生命倫理への問いー
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まえがき
自分の誕生日に思ったのですが、生きているということは何と不
思議なことでしょうか。生き物の中で人間という動物は生きてい
るだけではなく、生きている実感を持ち、生きていることに気づ
き、一体自分が生きているこの命とはなんだろうかと問いかける
ものです。
生物学は命の仕組みを研究します。哲学や倫理学は生きる意味を
問い、いかに生きるべきかを探求します。
命とは何かと言うのは、哲学者たちが尋ねもとめてきた問題の中
で、もっとも説きがたい謎を含むものです。生きるとは当たり前
のようで、生きるとは何かとたずねられたら返事にこまります。
古今東西の知者が探究しても回答が見出されなかったこの問題、
いや問題というよりもこの謎は筆者の考察で解き明かされると思
い上がりたくはありません。だからと言って問わなくてもよいと
か、問いを発しても回答が出ないから、問わない方が良いとあき
らめたくはありません。回答のない根本的な問いのばあい、回答
が見出さらなくとも、問いを見つめているのと見つめていないと
では、自分の生き方が変わるのです。
私は命への問いを求め続けたいものです。
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特に、現代の生命操作の時代において科学技術の発展のため助か
る命が増える一方傷がつくいのちもあるのですが、この時代だか
らこそ命を大切にする社会を創って生きたい望みにかられて命の
重みについて考えたいのです。
大学の講義でとりあつかってきた「生命と倫理」に関する考察を
別な本で(『生命哲学』教友社、2003 年)集めたことがあるので
すが、今回、難しい話はさしおいて、生命尊重、生と死について
考えていることをずばり述べることにし、講演などの原稿をその
まま載せることにしました。
今回集めた話しはさまざまな機会に講演や授業や雑誌などで取り
上げた話題を記載したものですが、話しを聞いてくださった方々
のための記録から始まったこの企画は「命への問い」を追及し、
命の重みを一緒に考えてくださる方々のために参考や刺激になれ
ば幸いです。話したままに乗せたものが多いので、重複するとこ
ろもあるかもしれないのですが、ここに載せた断片がきっかけと
なって、読者が自分でより深く生と死をみつめ、または命の重み
を考えることによってより自分らしい生き方をみいだすための助
けとなるように願っている次第です。
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第1講.
いのちを尊ぶ
Respecting life
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いのちを大事にする社会を築きたい
難しい話は別な機会にまわしましょう。今、講演という場でえらそ
うなことを言わずに、皆さんと関心を共にしてわかりやすくいのち
について話し、いのちに対する私たちの共通な気遣いを分かち合い
たいと思います。
まず、ごく日常的な場面を思い浮かぶことから始めましょう。幼
稚園を訪ねてみます。その庭で子供たちに野菜を作らせています。
これはとてもよいことだと思います。土と接していのちを育てる
ことは大変よい勉強です。それを作っているあいだ、自分で育て
るいのちに対して関心をもつことを子供たちが学ぶに違いありま
せん。そして、新しいいのちが芽生えたときの不思議さに感動を
覚え、なるほど、自分の腕の力だけで出来上がったのではないと
感じるでしょう。そのように子供たちはいのちに対する責任と同
時にたまものであるいのちに対するありがたみを学びます。
私たちはこのことを子供たちに教えたいだけではなく、大人もい
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のちへの責任と感謝をもつ世の中を作っていきたいものです。い
のちの未来はわたしたちの手にあるのです。
これからお話する内容はいのちを尊び、それを育てるという狙い
でまとめてみました。簡単な話しかしませんが、簡単といっても、
その課題と取り組んでいくのは大変なことだとわかっていただけ
るのではないかと思います。だから、私から教えるというよりも、
皆さんと一緒に考え、ご一緒に命を大切にするように互いに励ま
し合うという調子で話しをすすめていきたいわけです。
最近いのちの問題に関する話題、たとえば、生殖補助医療や幹細
胞の研究から臓器移植医療や脳死判定に至るまでの話が新聞をに
ぎわしています。生命に関する諸科学が著しく進歩し、技術の発
展も伴ってその応用がますます盛んに行われるようになってきま
した。しかし他方では、そうした科学技術の応用によって人間の
生命が脅かされるのではないかという懸念も指摘されています。
現在、生命をめぐって倫理上の問題が山積みにされているので
すが、それは大きく四つに分けられます。
まず、人間が生まれる過程においてそのいのちをどのように見
守るかという問題です。
次は、病気になったり治ったりする過程において、いのちをど
のように見守るかという問題です。
第三は、人間の臨終の近づくとき、患者をどのように見守るか
という問題です。
そして第四は、人間だけではなく動物や植物をも含めたすべて
の生物、また自然環境をどのように見守るかという問題です。
この四つの問題はただ単に医師や看護関係者や倫理学者だけの
問題ではなく、社会全体が取り組むべき問題ではないでしょうか。
前述の問題は専門的知識を必要とする複雑な問題であり、私た
ち素人にはどうにもならないことだという人がいるかも知れませ
ん。しかし、それは決して専門家にのみまかせてはならない問題
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だと思います。問題が複雑であることは、もちろん私も認めます。
たとえば重度の障害をもって生まれた未熟児に対して、どのよう
な治療が相応しいのか、どの程度まで治療を施すべきか、あるい
はどの時点でそれ以上の過剰な医療手段を使わないで、寿命に任
せてもよいのかといった問題は、たしかに私たちにとって困難で、
簡単には解決できません。
しかし、私たち一人ひとりがこうした問題について普段からど
のような考え方をもっているかによって社会に大きな影響が与え
られるのではないでしょうか。つまり、私たちが普段日常生活の
中で、命についてどう思っているのか、いのちをどのように大切
にしているのかということがきわめて重要で、この意味でこそい
のちの未来は私たちの手にあり、私たちに任せられていると強調
したいのです。
子供の教育から始めなければならない
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以前私が住んでいた学生寮のそばに、小学校がありました。あ
る日この小学校で次のようなことがありました。グラウンドに沿
っている道路のすぐそばにいろいろな木が植えてありました。大
きいものや小さいものと、色とりどりで、もっとも小さいものは
ついこのあいだ植えられたばかりの三十センチ程度の木でした。
ある日の四時ごろ、三年生の児童が数人グラウンドであそんでい
てその中の一人が一本の木を引き抜こうとしたのですが、それが
できませんでした。しかし、もう一人の子供が「こうするんだ」
と言って力を入れて引き抜きました。私は窓からこれを見ていた
のですが、たまたまそこへ子供を迎えに来た主婦が通りかかり、
「あっ、ヨっちゃん、力あるわね」と言ったのです。私はその言
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葉を聞いて背筋が寒くなる思いで、こんなことがあってよいのだ
ろうかと、びっくりしてしまいました。
そのようなとき、一言だけでも、「この木も生き物ですよ」と
言って注意してくれたらよかったのにと思われてなりません。
「それも生き物ですよ」と言うのと、「あっ、ヨっちゃん、力あ
る わ ね 」 と 言 う の で は 、 全 く 違 う こ と で す 。
こういうところに、生命を操る時代において生命と倫理を大切
にする私たちの役割があるのです。これこそ、私が、今、言いた
い最も大きなポイントです。その点を見のがして難しいことを並
べ立てたとしても、何の役にも立ちません。普通の母親が小学校
へ行って木を根こそぎにしている子供を見て、「生き物だから大
事にしなさい」とは言わないで、「ヨっちゃん、力あるわね」と
言うとすれば、これからの私たちの社会、私たちの文化における
価値観はどうなっていくのでしょうか。
もう一つの例をあげておきましょう。私は電車の中で小学生の
会話を聞くのを楽しみにしています。時々、その話を聞いてびっ
くりさせられることもありますが、その反面、ずいぶん勉強にな
る事も多いのです。このあいだ電車の中で女の子二人と男の子一
人のグループを見かけました。女の子は虫かごをもっていたので
す。どうも、最近、東京では虫も少なくなったので、私たちはか
なり非人間的な生活を送っているのではないかと思いますが、と
にかくその女の子は幸いにも虫を取ることができて、それを大事
にもっていたのです。
ところが、隣の男の子は細長い小さな棒をかごに突っ込んで虫
を殺そうとしていました。女の子はそれをやめさせようとし、も
う一人の女の子は「かわいそうじゃない」と抗議しま した。
これはどこにでも見られるような場面で、ありふれた光景です
が、私は平然と虫をいじめ殺そうとしていたこどもと、「かわい
そう」と言ったこどもを見て、その背後にある彼らの家庭環境を、
垣間見た思いがします。ある家庭ではいのちを大事にする気持ち
が育てられ、他の家庭ではそうではないかもしれません。そうし
た子供が後に受験勉強をして大学へ行って、医師や研究者になり、
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研究所で「いのち」をあつかったり、先端の科学技術にかかわっ
て実験をしたりするでしょう。すると、その結果はどうでしょう。
そこで大きな問題が横たわっているような気がしてなりません。
問題は科学技術にかかわるかどうかではないのです。先端の技術
を医療に応用するかしないかということではないのです。それよ
りも、するのだったらどのようにそれをするのか、生命を扱うな
ら ば ど の よ う に 扱 う の か と い う こ と な の で す 。
ここにこそ、私はこの種の問題を扱うため専門家の集まりで討
論するだけではなく、むしろ家庭や一般市民の集まりの場、一般
のひとびとが主体となって考えていくような場をどんどん作って
いくことが必要ではないかと思います。
後に生まれる世代のことを考えよう
先ほどの例で、どうしていのちの未来が私たちの手にあるのか
という点について、簡単な例をあげて、述べてみました。ここで、
私は、重要な問題をできるだけ分かりやすくするためにそうした
例をあげたのですが、もう一つの例を上げてみましょう。
以前私が、住んでいた学生寮の庭に焼却炉がありました。(今
だったらもちろんそんなものを使わないで燃えるゴミと燃えない
ゴミの分別し決まった日に出しますが)。ある日、一人の大学一
年生が、くずかごを四個かかえてごみを燃やしに行きました。た
またま通りかかった三年生の先輩が彼を叱って、「プラスチック
などの物は燃やさないで」と。「公害を出すからいけないよ。紙
だけ燃やしてプラスチックなどは不燃物のポリバケツに入れてお
いてよ」と言っていました。一年生は「はい、わかりました」と
言ったのですが、それを見ていた四年生が三年生に向かって、
「まあ、あれくらいはいいんじゃない。君はとやかく言う必要は
ないよ」と口出しをしました。それに対して三年生は、「いや、
しかし先輩、地球の空気をこれ以上よごしたらどうなるのですか」
と反論。それに先輩が、「君もエコロジストになったのか。まあ、
しかし宇宙の空気がだめになるという話は核戦争になるという話
と同じなのだなあ。どうせおれたち生きているあいだは大丈夫な
のだからさ」と答えてしまいました。
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この会話の一部始終を私は庭に面している部屋の窓から聞いて
いました。どうも私の印象では、一番公害を出していたのはあの
四年生ではないかと思います。僅かのプラスチックを燃やしてい
た一年生は小さな公害を出していたのでしょうが、公害の話も核
戦争の話もバカにして、どうせ自分たちが生きているあいだは大
丈夫だと考えるその利己的な考え方のほうが、はるかに危険では
ないかと思います。こうした考え方を持つ人は社会に悪影響を及
ぼし、いわば精神的な公害を人類にばらまいているにちがいあり
ません。
要するに、私たちが今、何をしているかということだけではな
く、私たちがどのような考え方をいだいているのかということが
非常に大切なのです。その結果いのちの問題について言えば、私
たちがどのような考え方をもっているかによって、いのちが脅か
されたり大切にされたりします。この意味でいのちの未来は私た
ちの手にあると言えます。
マスコミなどでこれらのことが論じられるときに、「生命操作」
という言葉をよく使います。人間は神を演じてよいのか、生命を
どこまで操作してよいのかという疑問が新聞に大きく取り扱われ
ます。しかし、私の意見では、生命の操作よりも世論の操作のほ
うが危険ではないかと思います。
現代の社会においては、いのちをいともたやすく操る可能性がま
すます大きくなってきました。これはごく最近まで考えることも
できなかったほどの速度と広がりを示しています。では、新聞の
小見出しなどでよく使われる「生命操作」という言葉について考
えてみましょう。
新聞にはよく現代が「生命操作の時代」とか言われて、生殖補
助医療や幹細胞の研究やその他のバイオテクノロジーの先端技術
関係の話が載っているのですが、現代という時代は大きな進歩の
時代であると同時に、いのちが種々の形で脅かされている時代で
もあります。
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人間はますます生命というものを操る多くの方法を発展させま
したが、そうした生命操作の仕方が、それを作った人間の手にお
えないものになってしまうのではないかという懸念が大いにあり
ます。たとえば、体外受精や代理妊娠などのような医療技術の発
展が、人間の進歩であるか、それとも進歩でない発展であるかは
その技術の使いよういよっては違うでしょう。その発展の反面、
今までなかった新しい形での人権侵害や差別などの問題が生じて
くる可能性があるのです。
人間は生命を操作しようとしますが、その人間自身もまた操作
の対象になってしまうことがあります。例えば、マスコミ、世論、
ものの考え方もいろいろな形で操作されています。
こうした操作に対して警戒を強める必要があるということが、
しばしば強調されてきました。特に前世紀の70年代以来から、
人間の操作に対する意識の改革が必要であるということがよく言
われてきました。
操り人形の例え
いきなり日本語で「生命操作」とか「人間操作」とか言っても意
味が通じにくいので、古い例え話を使ってわかりやすく述べてみ
ましょう。
それは人形芝居に出て来る操り人形の例えです。その操り人形
たちは意識を持っていて、芝居の筋を理解し、互いに話し合って
います。ただその人形たちには背中に糸がついていて、誰かが上
から操っているということに気づいていなかったようです。ある
とき人形のひとつが相手の背中についている糸に気づき、それを
指摘します。そして自分も同じように糸に操られているもとを相
手から知らされます。自分が自由に踊っているつもりでいたので
すが、結局踊らされていたのだということに気づきます。そのと
きから人形たちは、操られているということを意識するようにな
ります。
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この例えは、さまざまの形で操作されていることに気づかない
で、自由でないのに自由なつもりでいるという現代人の悲劇を表
すのにふさわしいと思います。
こうした観点から、マスコミや政治家による操作から解放され
て、もっと意識的に、もっと自由に、あるいはもっと人間らしく
生きていこうとする運動のことを、「意識の変革」と呼びます。
40年前から流行になった「バイオ」
科学技術だけが発展して、倫理が乗り遅れればとりかえしのつ
かないことが起こりかねません。生命(ギリシャ語でバイオ)と
倫理(ギリシャ語でエチケ)という二つのことばを会わせて生命
倫理という用語(英語で bioethics)が20世紀の七十年代あたり
から用いられるようになりましたが、最近かなり定着しています。
でも、バイオエシックスや生命倫理というラベルには、私はこ
だわりたくありません。私はいのちについて考えたいのです。人
として生まれ、成長し、病気になり、そして死んで行く人間が目
の前にいます。このプロセスを大切にして、その時々の問題を科
学者や法律家だけに任せるのではなく、私たち自身でも考えよう
ということを問題にしなければならないと思います。
こうした倫理は技術(technique)よりも芸術(art)であると言
われていますが、生命倫理の問題を考えるときにも、技術として
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の倫理しかもたないならば、ものたりないのです。そこに、芸術
としての倫理が必要とされるのです。技術としての倫理は法律に
似ていてイエスかノーの二者択一で終わってしまうことが多いの
ですが、価値観の多様化している現代では、芸術に例えられるよ
う な 価 値 判 断 を も っ た 倫 理 が 大 切 で し ょ う 。
医師と哲学者は血縁関係で結ばれています。哲学の伝統はソク
ラテスまで遡りますが、彼は結論よりそこに至る路を大切にし、
たえず質問を続けることによって問題提起を明確にするように務
めました。
医学の伝統はヒポクラテスまで遡りますが、彼は治療より先に
診断を大事にしました。薬で症状を消し、苦痛を一時的に緩和し
ても原因がわからなければどうにもならないのです。
未だかつてなかった新しい技術の応用に対して二種類の極端な
反応の仕方があると思います。たとえば、遺伝子治療の話が話題
になりはじめたころ、ある人は「これはすばらしくて、遺伝病の
問題をなくすための魔法のランプだと思ったのに対して遺伝子操
作はどんな結果を産むかわからないので、歯止めをかけるべきだ」
という人もいました。つまり、ブレーキかアクセルかという両極
端しかないような考え方でした。それよりもプラス面とマイナス
面を計りながら慎重に進んでいくほうがよいのではないでしょう
か
。
人工授精、遺伝子組み換え、クローン技術などといったことが
可能となってきた今日「人が神を演じていいのか」ということが
よく問われますが、神学の視点から言えば、「神を演じてはいけ
ない」とは言いません。それは、人間は神の創造に協力するよう
に呼ばれているというのが聖書の教えだからです。とはいえ、も
ちろん、無責任なことをしても、自然を破壊しても良いというこ
とではありません。神を演じるということは、神自身から人間に
与えられた使命であり、神ではない人間はその責任を果たして演
じなければならないのです。
食べることと生きること
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前述した生命科学とか生命倫理とかいう言葉を繰り返せば、話が
難しく聞こえますが、実は生命尊重の課題はちゃんと食事を取る
という簡単なことから始まるのではないかと思います。そんなこ
とを言われたらみなさんは面食らうでしょうか。科学と倫理の話
から急に食事の話しに切り替えるのはいったいどこにねらいがあ
るのでしょうか。それは簡単に説明しましょう。「美味しく、楽
しく、正しく食べる」ことはいのちを大切にするための第一歩で
す。
言い換えれば、いのちを大切にし、いのちへの選択を見直すため
には食事のとり方からはじめなければならないということで
確かに、東西の修行の歴史を振り返ると、古代から「断食」の伝
統があります。断食はいろいろな形で行われ、それぞれが意味づ
けを与えられていました。たとえば、体を清め、心を整え、瞑想
に集中するための節制や、貧しい人々に施しを与えるための節約
などはそうですが、しかし、「美味しく、楽しく、正しく食べる
ことの「精神性」もあります。本当はこれを「霊性」や「心性」
や「スピリチュアリティ」と呼ぶよりも、「心身生(cuerpoespiritualidad ) と 呼 ぶ べ き で し ょ う 。
ところで、最近ファスト・フッドの風潮があります。(ちなみ
にこのカタカナの言い方はあいまいに二つの意味を重ねることが
できます。一つは英語の first 第一で、もうひとつは fast(早い)
です。とにかく、最近の若者たちは、スペインでも日本でも同じ
ですが、早く出来上がった食事をチェーン店で急いで召し上がり
ます。それは変な食事の取り方で、次の特徴をもっています。1)
急いで食べること、2)一人で食べること、3)常に栄養のバラ
ンスが悪いということです。
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そこで、その傾向を正すためにお勧めしたい点は三つあります。
1)ゆっくりと美味しく食べること、2)人と一緒に会話をしな
がら楽しく食べること、3)おふくろの味を再発見して栄養のバ
ランスを取る、ということです。
最近のファースト
ように思われます。
フッドの風潮はちょうどそれを妨げている
その傾向に反対して食事を味わいたいものです。
ところで、味と言うものを考えれば食事習慣と文化について考
えさせられます。日本人の友達をスペイン料理屋に連れていくと、
「生ハム」の味と「フミヤ地方(Jumilla)のワインの勢いで会話
がはずむのです。私のふるさとムルシア(Murcia)のことを聞か
れると、料理の味の説明から、文化や歴史の話しに映ってゆきま
す。食事の味こそ旅の楽しみ。食事しながら歴史を語り、いのち
を語ります。共に食事を味わうことから文化の理解がはじまると
思います。
地中海あたりの天候のよい地域では、室内よりも歩道へと広が
るテラスで食事をするとよいです。「地中海文化では道の広場が
応接間に当たる」と和辻哲郎は『風土』の中で言っていました。
まさにその通りです。内と外の区別がなくなります。古代から地
中海周辺は諸文化の交差点になっています。混血の結婚も多いし、
ごった混ぜのなべ料理も美味しいです。混血から得られる収穫も
あります。かえって純粋なものだけでは視野が狭くなります。実
験室で蒸留した水には味はなく、岩から谷へ流れ出てくる清流の
水は美味しいです。ただし、このごろ流行っているペット・ボトル
ではそれを飲みたくないものです。
食事と文化、または食事といのちとの関係に関する私自信の関心
が高まってきたのですが、日本人やスペイン人の特殊性を探ろう
と思えば、食事の摂り方についての考察からはじめなければなら
ないと思うようになりました。
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私は日本で生活しながら、日本のことについても自分の国スペ
インについてもいろいろと考えさせられることがあるのですが、
最近私は、特に次の四点について考えさせられてきたわけです。
1) 日本人の食生活のあり方は、最近そうとう変わってきていま
す。スペインもそうです。それは良い面とそれほどよくない面も
もっていますが、惜しくも忘れられたもの、失われたものが多い
のではないでしょうか。そのため私たちの「生活の質」が貧弱に
な っ て し ま う お そ れ は な い で し ょ う か 。
2) 各地域の伝統的な料理の仕方にはそのよさと生活の知恵が蓄
積しているので、その伝統を忘れたくありません。
3) ある地域に特有と思われる料理の中には、昔よそから持ち込
まれたものが少なくないのですが、違うものが混ぜ合わせられる
ことによって新しいよさが生まれることに気づきたいです。
4) 犯罪が起こるたびに、「いのちを大切にしよう」という声が
聞こえるのです。いのちを大切にすることが確かに大切ですが、
食生活を大切にする子どもの躾からはじめなければならないでし
ょう。美味しく、楽しく、ゆっくり、人と一緒に食べることは犯
罪を予防することに繋がると思います。
子供のしつけと食事
このようなことを最近私は考えてきました。ところで、私の肩書
きが「生命倫理」の教師だと聞くと、堅苦しく感じる方がいるで
しょう。それに、イエズス会の宗教者であるといわれれば、なお
固い話しを予想するかもしれません。しかし、私にとって、生命
倫理の話も宗教の話も食事から始まることが多くて、食事の話し
に密着しているものです。食事と同じように、創り方の原則を知
っているだけでは足りないのですが、倫理もそうです。自分で作
ってみて、人と一緒に食事を味わう必要があります。質素なもの
でも感謝の気持ちでいただくことは、いのちの源と繋がることだ
と確信しています。いのちへの道を選ぶことが出来るように、食
事の摂り方を見直すことから始まる「精神性」に立ち返る必要が
あります。そしてこのような生命尊重のための教育は幼児期から
始まらなければならないと思います。日常の経験として、たとえ
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ば、子供に「もったいない」という言葉と「いただきます」とい
う言葉の意味を具体的に体験させることは大切です。「今、美味
しく食べているこの魚は、しばらく前に海で泳いでいたのだよ。
猟師さんがそれを獲って、運送屋さんからその魚を売る人まで、
多くの人のおかげで今食べることができるのだ。それを買うお金
はお父さんやお母さんが働いて稼いだ。それをお母さんやお父さ
んが心をこめて料理し、ようやくお袋の味ができたのだよ」など
など。
このような話が家庭の中で、近所付き合いの中で、そして学校の
中で、自然に行われるようになれば、いのちを大切にする感覚が
育つでしょう。
そして後に大人になり、生命に関するいろいろな問題に取り組む
ときになると、その取り組み方は子供のときから身に付けた食事
の摂り方と、人間関系のあり方につながるでしょう。
以上の話しを生命倫理の講義で取り上げたとき、聴講していた社
会人の主婦の方が、次の感想を書いてくださいました。「あと十
年もすれば、うちの子供たちは次の世代を産み育てるという現実
に直面しています。そのとき、彼らの前にはさまざまな技術が提
示され、私が経験することもない選択を迫られることになるでし
ょう。そのとき、どのような考え方をしめしたらよいのかという
ことを、この講義を通して考えさせられました。子供を育ててい
く過程の中で起こると予想される問題を、どのように受け入れる
のかを彼らに伝えることができるように願っています。そして次
の世代が生み出していく新しいいのちを迎え入れ、愛するおばあ
ちゃんになりたいものです」と。
私はこの方の感想を読みながらつくづく思ったのですが、生命
倫理の課題は、教育と精神性の課題であり、その実現はもっとも
日常的なところからはじまるので、これからはいっそう、食事の
摂り方を大切にしたいものだと確認しました。
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世界市民としての責任
前述したとおり、生命科学技術の応用によって人間の体と自然
環境や社会環境に影響を及ぼす問題は多く引き起こされています。
それは専門家の助けなしに扱われないのですが、専門家だけにま
かせるわけにはいかないのです。生命の未来に対する責任は文化
や思想や宗教を問わず私たちみんな世界市民として感じているは
ずです。この意味で生命の未来に対して責任を感じ、生命と倫理
への問いを追求し続ける課題は私たち皆の手に任されているとこ
の 話 し の 最 初 か ら 繰 り 返 し て き て い ま す 。
では、こうした課題に取り組むとき、どのような倫理の物差し
でそれをあつかったらよいのでしょうか。ここに私がたびたび繰
り返しているブレーキとアクセルのたとえがまた登場してきます。
人によって様々な倫理観があるかと思います。倫理のことを車
に例えると、ブレーキをかける役割だと思う人が多いかもしれま
せん。それに対して倫理なんかいらないと思う人はアクセルを踏
むでしょう。そこで、両極端の態度すなわちアクセルかブレーキ
かというジレッマを超えて、「ギアーとハンドル」の操作にたと
えられる倫理が求められていると思います。その倫理は、解答を
出す技術(テクニック)ではなく、それを作り出す芸術(アート)
だと言えます。現代フランス哲学者リクールが言うには、実践的
智慧(まさにギアーとハンドル)を使わなければ現代科学技術の
応用からくる挑戦に答えるような「責任の倫理」は成り立たない
のです。
私は単なる「歯止めの倫理」をもって外から科学者に対して制
限を加えるというやり方では現代の生命倫理の諸問題を扱うわけ
にはいかないと思っております。むしろ科学者と倫理学者または
諸宗教の貢献も含めて様々な世界観をもっている人々の協力によ
って人類の未来に向かって考える必要がある時代だと言いたいの
です。
そして、そのように一緒に考えるに当たって、行政と教育の側
から果たされるべき役割があります。行政の側からのガイドライ
ンー(規制、合意の整備)なども必要なわけですが、具体的な場
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での市民の関わり方(市民運動、ボランッティア)などが大切な
役割を果たすし、家庭と教育の現場においていのちを大事にする
態度を育てることも欠かせないのです。
日本の場合はちがうのか
ともすれば、日本の生命倫理は欧米の考え方を輸入するばかり
ですが、日本から輸出できることも、たくさんあると思います。
たとえば、欧米では脳死や臓器移植の問題を簡単に割り切ってし
まうのですが、日本はむしろ抵抗感を示します。しかし、その抵
抗感の中にある健全なものは欧米では失われていることなので、
欧米人にとって参考になります。また、日本人の墓参りの習慣か
らも、欧米人が学びうるところがあると思います。一方、欧米で
は、宗教家が医療者や家族と一緒になって死に向かう患者のケア
に関わります。このような命への関わり方についての問題のほう
が、脳死や臓器移植などについての問題を語るよりも大切なこと
だと思います。日本も欧米も互いに補い合ったら良いと思います。
1983年2月20日の『ル。モンド』日曜版は、一面全部を
さいて医学者三人と倫理学者一人の四人の識者による議論にあて
ました。 その中で、妊娠中絶後の胎児から採取した組織の実験
から得られる、免疫学などのための成果について、リヨン大学の
教授が詳述していました。それに対して、イエズス回神父で『エ
チュード』誌の執筆者としても著名フェルスピーレン
(Verspieren)が、倫理上の立場から問題点を指摘していました。
日本では、たしかに前と比べればいくらかそうした討論はとき
どきマスコミで伺えますが、なんといっても基礎的な議論を避け
て通りがちな雰囲気もあるのではないかという気がします。たと
えば脳死などに関する論争をみても、賛否両論を併記することに
終始する場合が少なくないようです。いろいろな問題を一つの風
呂敷の中に包み込んで差し出し、その風呂敷包みを全面的に「肯
定」するか「否定」するかどちらか、と返事を求める人が多いよ
うです。
私は『ル・モンド』誌の記事を読み、専門家たちがオープンに、
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微妙なニュアンスを含む問題を論議していることにつくづく感心
させられました。とかく甲論乙駁、実りのある対話がなされにく
い日本では、欧米にみるようなガラス張りの議論から学ぶところ
は多いのです。
日本では生命倫理が遅れていると一昔いわれたのですが、だか
らといって、あわてて特定の文化圏から、あるきまった型のバイ
オエシックスを輸入すればそれでよいとも思えません。むしろ日
本と東洋の伝統のうちにある人間学と医学の深い結びつきを再発
見しながら、他の文化圏の生命倫理を批判的に取り入れると同時
に、現代日本の先端技術に対する根本的な疑問を投げかける必要
があるのではないかと思います。そして、日本の先端技術の発展
が倫理から離れて一人歩きしてしまわないうちに、科学基礎論的
な論議を重ねていくことが求められていると思います。科学基礎
論と倫理基礎論とが互いに刺激し合い、科学者と倫理学者が自ら
の果たすべき社会的役割を自覚するようになって始めて彼らは人
類の未来と、人間の人間らしい生存のための重大な貢献をなしう
るようになるでしょう。
しかし、そうした基礎論的な議論をさけて何もかも規律で解決
しようとするのではないかという懸念があります。日本の場合、
形のととのった規定さえ出されれば、それで安心してしまって、
それ以上問題の核心に迫ろうとしないきらいがあるような気がし
ます。あるいは規定づくりの委員会が作られても、密室の中で現
状をすこしも反映しない規定づくりが行われるのではないかとい
う心配もあります。先端技術の現場と臨床の現場にたずさわる
人々が、現場の経験に基づいた倫理上の問題意識を持ちよって、
問題の所在やそれらの問題の解決や方向付けという基本的な問題
が、開かれた場で十分に論議尽くされなければ、社会の中に生き
る私たちの生命観、死生観、倫理観はそのうちにどうなってしま
うのだろうかという懸念を消し去ることができないのです。
心身合一
22
ここまで命についていろいろと述べてきましたが、命とは肉体的
な命だけに限らなければ、単なる心だけのものでもありません。
このことを考えるために、まずひとつのエピソードからはじめま
しょう。牧師と医者が一緒にドライブに出かけて事故に会いまし
た。ふたりとも気を失ったまま救急車で病院にはこばれました。
しばらくして同じ時間に目を覚ましました。牧師は言いました。
「私は死ぬほどの怪我をしています。早く医者を呼んでくださ
い」。一方、時を同じくして医者も言いました。「私は死ぬほど
の怪我をしているからすぐ牧師を呼んでください」。
この話は冗談半分に宗教と医療の関係を端的に物語っています。
キリスト教が医療に関わってきた歴史は長いです。そのもっとも
初期から信仰と医療の接点が見られました。特に、伝道、すなわ
ち福音宣教の場で、医療が大切にされました。しかし、それは伝
道のためという、単なる打算によって行われたのではなく、キリ
スト教がその教えの中に持っている癒しの問題、人間が心身とも
にすこやかであるようにとの信仰の営みとしてなされてきたので
す。
そういった立場から私は五つほどの疑問を提示したいと思いま
す。
イ)たまものとしてのいのちに対する感謝の念が失われてはい
ないでしょうか。
ロ)技術の発達がすべての問題を解決できるとの考えを生みだ
し、自然に手を加える時の人間の態度が無責任になってはいない
でしょうか。
ハ)医療において、たとえ一時間でもよいからと言って無理な
延命が重視されすぎてはいないでしょうか。
ニ)心と身体が極端に分離され、病人よりも病気だけを看る医
療がなされてはいないでしょうか。
23
ホ)医療が消費社会の不正な構造に巻き込まれてはいないでし
ょうか。
哲学者は医学者と仲良くする
「哲学」という言葉を聞くと堅苦しく感じるかもしれませんが、
茶の間での日常会話の中でもわかりやすい形で哲学というものを
再発見する必要があると思います。私は哲学畑から来たものです
から、医学について偉そうなことを話すことはできませんが、医
学専門の人々との共通な点もあります。それは哲学も医学も人間
そ の も の を 扱 っ て い る と い う こ と で す 。
周知のように、古代ギリシャの有名なヒポクラテスの頃から、
医学者と哲学者は非常に仲良くしていました。しかし、この伝統
は残念ながら、ヨーロッパの近代の頃から絶たれてしまいます。
その頃から極端に体と心、肉体と精神、病気と病人というふうに、
本来切り離せないものを割り切って切りはなしてしまう考え方が
支配的になってきました。
しかし、医師と哲学者はどちらも人間を扱うのですから、非常
に近い関係にあるものです。医師は肉体を、哲学者は精神的なこ
とを扱えばよいと考えると、人間というものを肉体と精神とに極
端に分けてとらえることになります。医学においても肉体的な面
だけでなく精神的なものがどれほど大切であるかということはよ
く知られています。哲学者のほうでも、精神的なことだけ考えて、
人間が肉体をもっていることを忘れると、宙に浮いた思想をもて
あそぶことになります。こう考えると、哲学と医学は血縁関係に
あるということがわかります。
そこで現代の医療と人間について思考することを勧めます。こ
こで思考するということとは人間の問題を考えるという意味での
哲学です。医療技術の進歩に伴い、倫理上のいろいろな問題が生
じてきました。人間のいのちがかかわっているような問題、たと
えばいのちのはじまり、いのちの終わり、医師と患者の関係、自
24
然環境の保護、こういった問題に医学者と哲学者が一緒に取り組
むことが急務だと思います。それだけではなく、もっともっと一
般市民にわかりやすい形で話し合う必要があると思います。
人間は選択する動物
これから生命科学と倫理についてお話するに当たって度々このテ
ーマを繰り返すことがあるでしょうが、人間は極端な選択をする
ことができる動物であるということです。私たちは命への選択を
するのでしょうかそれともいのちを抹殺するほうに流されてしま
うのでしょうか。その選択肢の前に私たちは立たされているので
す。その選択への招きについて考えましょう。
私たちは命をたすけるのか、命を破壊するのか、どちらの方を選
ぶ か 、 こ の よ う に 私 た ち は 問 い か け た い で す 。
「選ぶこと」、これはこの一連の話しをつらぬいている問題提起
です。
命に関する問題は山積しています。命に関するする諸問題と取り
組むにあたって生命科学や医療制度や行政などの役割が多いです
が、政治家や科学者だけに任せっぱなしでは解決にならないでし
ょう。命への道を選ぶことができるように一般市民が教育の課題
にかかわることこそ必要とされていますが、ポイントは人間の選
択です。
このごろ選択肢が増えましたが、選択が複雑になったことも事実
です。なぜかと言えば、この選択を助けるどころか、社会がこの
選択を難しくするからです。
そこで、家庭と地域社会の中で 一般市民が主人公となる教育の課
題を主張しなければなりません。
現代において命が脅かされていることも、助かっていることも事
実です。どっちの見方をするか人間の選択です。
ひとむかし前なら分娩のとき危なかった母親も胎児も今は助かり、
25
幼児死亡率がいちじるしく低下しました。これはありがたいこと
です。
同時に無責任な生命操作も行われてしまうということは毎日のよ
うに新聞に出ています。これは残念なことです。やはり、選択を
迫られます。
命を助ける方向、命を破壊する方向、どちらの方向に私たちがい
くのでしょうか。
さて、「助かる」ということの意味を考えましょう。
試験に受かったものは「助かった」と言うし、困った時にお金を
借りて「助かった」と言う者もいれば、交通事故で命拾いしたか
ら「助かった」と言う者もいます。「助かる」というのは、ずい
ぶん広い意味で用いられる動詞です。
産婦人科に通っていたある方は、「あなたは生殖医療以外に助か
る方法がない」という一言で診断の結果を聞かされ、気を悪くしま
した。本人は説明してくれました。「『あなたは子どもを産みた
ければ生殖医療以外に方法はない』と言われれば納得しますが、
そこまでして生みたいかどうか、そこから先は私の選択でしょう
し、その方法を選んだら自分の生き方として助かるかどうかはまた
別な問題でしょう」。
なるほど、そういう風に言われて私は「助かる」という言葉の重
みを思い知らされました。
次に「治ること」と「助かること」について考えましょう。
個人的なことで恐縮ですが、私の父親は 71 歳のときに眼科から次
のように言われました。「左眼を失いたくなければ手術が必要で
す」。外科専門の眼科を紹介されて入院しましたが、土壇場にな
って外科医が躊躇った。父には糖尿病に加え腎臓と心臓の問題も
ありました。手術をすれば、その後で長い時間仰向けのまま寝た
きりでなければならなかったのです。さまざまな問題が併発する
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ことが予想されました。場合によっては相当な危険性もあると言
われました。「その覚悟で手術を受けたいと思われれば引き受け
ますが、よく考えてください」と、外科医はちゃんと断りました。
父は母と相談した上で決めました。「左眼を失うことを選びます」
と。それから 86 歳で亡くなる日まで右目だけで本を読み続けたの
です。時々その選択のことを思い出して、父が次のように言うの
を耳にしたことがあります。「あのとき眼は助からなかったが、自
分は助かった(スペイン語で「助かる」は「救われる」salvarse
と同じ動詞です)」。
父が亡くなる数日前に発した言葉もまた、「助かる」ことの意味
に つ い て あ ら た め て 考 え さ せ て く れ た の で す 。
一緒に晩ご飯を食べた後のことでした。その日母親は憂鬱に襲
われ、自分たちの死の近づくことをさびしそうな口ぶりで話題に
しました。そこで父は、皿洗いを手伝いながらさりげなく言いま
した。「お迎えが来たとき心配しなくてもよい。連れて行かれる
ままにさせておこう」。(スペイン語で言っていたのは、「来さ
せてください、連れて行かせてください(déjala llegar, déjate
llevar
)
。
」
眼が助からなくても自分の生き方が助かったと言っていた父は、
この世での命を失っても「助かる」という確信に支えられていた
にちがいないと思います。
選択肢は多いが、物差しはひとつ
ところで、先にお話した奥さんは、「あなたはこうする以外に助
からない」という言葉をお医者さんから言われたのですが、その
ことの背後には「方法」、すなわち「治る方法」しか考えていな
いような見方があったのではないでしょうか。しかし、「治る方
法を選ぶ」ことと「生き方を選ぶこと」とは必ずしも同じではな
いと思います。
これから三つの具体的なケースをご紹介しましょう。三つとも異
なった選択肢を示しますが、同じ一つの物差しを持ちながらそれ
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ぞれの異なった結論に至った方々のケースです。
90年代に私は自分のふるさと、南スペインの町ムルシアの教会で
手伝いをしていました。最初の対外受精児(1978年に英国で)
が生まれてから 15 年以上経ち、不妊治療のことが教会の中でも話
題になることが普通になっていましたが、私が接した人の中にも、
たまたま不妊の問題を抱えている方が何人かいました。その中に
私の親類もいました。中でも三組の夫婦のことを思い出すと、参
考になると思います。三組とも教会の生活に積極的に関わってお
り、福音の価値観をもって日常生活を営もうとしている人々でし
た。この三組とも、共同体の中で相談し、熟慮のうえで決断をす
るにあたって、「いのち」への道を選んだ人々だったと思います。
では、手短にその三組の夫婦の決断を述べておきます。
A 夫婦の場合には、婦人に不妊の原因となる卵管閉塞の問題があっ
て、体外受精を勧められました。最初は教会の公文書には反対意
見が表されているということで戸惑うところがありましたが、こ
れは信仰の問題でも罪の問題でもないし、良心的に自分たちで判
断できると理解した上で、配偶者間の体外受精という方法を選び
ました。余剰胚の扱いのことで引っかかったので、作った受精卵の
全部を母体に戻すことにしましたが、三つ子が生まれる結果とな
りました。ふたりとも喜んでその命を迎え、育て続けています。
B 夫婦の場合、夫の方に不妊の原因があり、精子の受精能力が足り
ず、顕微鏡受精という方法を勧められ、試してみたがうまくいき
ませんでした。配偶者外の体外受精や精子提供による人工授精が
勧められたのですが、夫婦で話し合ったところ、第三者からの精
子の提供にひっかかるところがありました。様々なことを検討し
たあげく、養子で子供をもらうことを考え始めました。発展途上
国の貧しい夫婦が子供を授かっても生まれてくる子供を育てるこ
とができないという問題を聞いて、この夫婦は海外に渡り、そこ
から養子縁組みで三人の子供を引き取りました。二歳と三歳の男
児と五歳の女児のこの三人は皆、血縁上の兄弟姉妹です。この夫
婦のことは町の新聞で話題になり、周囲から大いに評価され、励ま
されました。
C 夫婦の場合、検査を受けても不妊の原因は不明でした。不妊治療
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を受け続けて、様々な試みをしましたが上手くゆかなかったのです。
また体外受精を勧められ、相当の期間病院に通い続けたのですが
それも結果が出ず、夫婦生活を病院のペースに合わせることに疲
れたあげく、自分たちの不妊の現実を受け止めることにしました。
劣等感は感じなかったし、周りからおかしく思われたわけでもあり
ません。生活面の余裕があったため孤児の施設でボランティアと
して手伝うなどしています。
このように、三組の夫婦は重い決断をしましたが、異なった三つ
の選択肢は唯一の物差しに照らされて選ばれたことに注目された
いと思います。というのは三組とも命への道を選ぶという基準に
照らされていたからです。
ところで、現代の日本社会においてはどのような選択が可能でしょ
うか。子供が生まれないことで周囲から奇異の目に曝され、養子
として引き取られた子供がいじめの対象となるといった懸念はな
いでしょうか。または「あなたにはこうする以外に道はない」と
いう風潮によって私たちが縛られていることもあるのではないで
しょうか。
選択肢を隠し、選択を難しくする社会
先から私は「選択」という言葉を繰り返してきましたが、現代私
たちが生きている世の中では、いのちへの道を選ぶことを難しく
させる時代の風潮があって、それは無意識のうちに私たちの中に
染み込んでいます。いくつかの例をあげましょう。
例えば、多くの機械に繋がれている患者で、回復の見込みが無い
ときには延命装置をはずすかそれとも延命措置を続けるかという
二者択一を迫られる親族が決断に困ることがあるでしょう。しか
し最初から過剰医療を使わないという選択肢があったのに、あたか
も過剰医療を使うのは誰もが通る道になっているかのように考え
られてしまって、それ以外の選択肢がまったく見えなくなってし
まいます。
29
もう一例。出生前診断を受けて検査の結果が陽性であった場合に、
障害のある子どもを生むか生まないかで苦しむ方がいます。しか
し、そうした診断を受けるのが当たり前のようになってしまうと、
出生前診断を受けずに生まれてくる者を迎えるという選択肢もあ
るにもかかわらず、それが視野から消えてしまいます。
更にもう一例。安楽死に関する法令化をめぐって議論が激しくな
り、極端な賛否両論が打ち出されます。「患者を苦しませるのか、
死なせるのか」という白黒の形でのみ問題提起がなされることに
より、苦痛緩和と人間的なケアを中心とする医療を応用すること
によって自然に死を迎えるという選択肢があるのに、それが見え
なくなってきます。
最後の例を挙げましょう。独身で妊娠している女性が子供を産み
たいと願っていながら、育てられるかどうか自信が持てず、生む
かどうかで悩んでいます。そういったときに中絶することがあた
かも当たり前のようになっている世の中では、他の選択肢(たとえ
ば社会からのサポートとか養子の可能性など)が見えなくなって
きます。
以上は体験談から始まって現代社会の具体例を観察することから
考えさせられたことですが、これによってふたつの点を訴えたか
ったわけです。1)いのちへの道を選びたいといった大きな動機
付けをもって行動をするときには、多くの選択肢があることに気
づき、二者択一に惑わされず絶えず代案を捜し求めたいというこ
とです。2)そういった選択肢が見えないようにしてしまうのは
現代社会のあり方であって、なにもかも二者択一しかないような
形で私たちに押し付ける時代の風潮に気づき、だまされないよう
にしたいということです。
多くの選択肢があること、しかしながら歪んだ社会の中でその可
能性が見えなくなっていること、このふたつのことに気付くよう
にしたいものです。
では、ここまでいろいろな実例をあげて選択することについてお
30
話してきましたが、選択する時の基準と方法について付け加える
必要があると思います。そこでまず聖書に基づいた基準について
考えましょう。
聖書に基づいて命を考える解き、次のように話をまとめたいと思
います。つまり、基本的な基準は「感謝すること」と「責任を持
つこと」というこの二つのキーワードでまとめ、基本的な課題は
次の五つの動詞でまとめたいのです。それは、「尊ぶ」、「見守
る」、「迎える」、「癒す」、「見取る」という言葉です。
神学の立場から行われる基調講演などで、「人間の尊厳」という
言葉を決り文句にして生命倫理を禁止事項中心に語るのを時々耳
にするのですが、私は聖書に基づいて生命尊重を広い視野で捉え
た上で、生命倫理各論を積極的に位置付けることができると考え
ています。
創世記 2, 5-6 (雨をいただき、地を耕す) と 4, 10-12(カインの
犯 罪 ) を 引 き 合 い に 出 し て お き ま し ょ う 。
次のように書かれています。「地にはまだ野のいかなる灌木もな
く、野のいかなる草も萌え出ていなかった。神が地に雨を降らせ
ず、大地に仕える人が存在していなかったからである。」
このように灌木のない状態、言い換えれば緑がない大地につい
て書かれてあります。どうして緑がないのかと言えば、二つの理
由が挙げられています。一つは雨が降らないことです。もう一つ
は大地を耕す人間がいないからです。この二つの点を合わせて考
えましょう。天から雨がふり、人間が大地を耕すという二点です。
雨は人間のはからいで作ることのできないものです。雨はいただ
いた賜物のです。大地を耕すのは人間の働きです。この二つが合
交わって緑と実りが生まれ、大地が潤うのです。
こういったところから生命と倫理を考える為の示唆を受けたい
と思います。ここに人間の手で行われる二つのしぐさを想像しま
す。人間の手は合掌する手であり、仕事する手でもあります。天
からいただく雨、いただきものに対して合掌して感謝するのです。
そ し て 大 地 を 耕 し て 手 を 使 っ て 働 く の で す 。
ところで、従来の訳では「耕す」となっていた言葉は最近の岩
波書店から出版されている『創世記』(月本昭夫訳)では「大地
31
に仕える」となっています。それに関して訳者の次の注釈があり
ます。「ヘブライ語の動詞アーバドは〈仕える〉〈働く〉が原意。
大地の支配者は同時に大地に仕える存在でもある」と説明されて
います。
このように理解すると、大地を耕すということは人間に与えら
れた使命であり、そうして実らせる責任は人間に委ねられていま
す。手で合掌するだけでは足りないのです。手で働かなければな
らないのであす。
ところが、ここまでで話が終ればきれい事になってしまいます
が、実は合掌したり、働いたりする人間の手は人を殺す手でもあ
ります。それは同じ『創世記』4,10-12 に出てくるカインとアベル
の話を読めばわかります。「神は言った。何ということをしてく
れたのか。声がする。あなたの弟の血が大地から私に叫んでいる。
口を開けて、あなたの手から弟の血を受け取った大地によって今
や、あなたは呪われる。あなたが大地に仕えても、もはや大地は
あなたに産物をもたらさない。」
このように『創世記』の2章と4章から引用した二つの個所を
読んで、聖書の生命観における重要な点がそこに表されているこ
とに気がつくのではないでしょうか。
いのちとは、「いただきもの」であり、「預かりもの」であり、
「壊れやすいもの」なのです。そして、「合掌する手」、「働く
手」、「人殺しする手」、これが象徴的に人間の姿を表している
のです。
従って、頂いたいのちに対する私たちの態度は次のようにまと
められましょう:
イ)いただきものに対して「感謝」すること。
ロ)課題や使命として、与えられた与りものに対してそれを実ら
せる「仕事」に取りかかること。
32
ハ)壊れやすいものに対する「気遣い」をもっていのちを見守る
こと。特に人間の心の中には善・悪の両面がありますが、悪が打
ち勝っていのちがお粗末にされることがないように気をつけたい
のです。
もう少し難しい話をしましょう。さきほど述べた聖書に基づいた
生命観を物差しにして、幹細胞(本書で後にこれをとりあつかう)
をめぐる議論を捉えなおすと、次の結論が導き出せます。
1) 胚性幹細胞に関する最近の研究の成果として、発生の過程お
よび生命の仕組に関して新しい発見が行われるたびに感謝をもっ
てそれを歓迎します。
2) すべての生命の発展と人間の健康を促進するために医療開発
に積極的にかかわるべきであり、再生医療のために期待される幹
細胞の研究を進めるべきです。
3) 生命の萌芽である胚を大切にし、胚性幹細胞樹立やクローン
胚作成などを含む研究および実験は、倫理的な配慮と社会的な制
御のもとで行われるべきであり、生命尊重が傷つかないように注
意を払うべきです。
では、このように、聖書に基づいた基準を述べた上で、聖書に
基づいて生命倫理の課題を考えるための五つのキーワードを思い
出しましょう。
イ)「尊ぶこと」は、「いのち」の源を尊び、いただいた賜であ
る「いのち」を大切にしてありがたく思う心を持ちたいものです。
私たちは生かされて生きていることに対して十分に感謝している
でしょうか。学生に「最近、生きている実感があったのはいつか」
と質問すると、「実感がない」という返事から実際の体験をあげ
る人までさまざまな感想がある。しかし、自分より大きいものに
生 か さ れ て い る と い う 実 感 が あ る で し ょ う か 。
ロ)「見守ること」は、全ての生き物を大切にし、「いのち」を
33
育て、「いのち」を見守る使命を感じたいものです。私たちは環
境破壊に対して十分に敏感でしょうか。
ハ)「迎えること」は、新しく産まれてくるいのちの誕生を迎え
たいのです.
産まれるものは周りから迎えられて産まれるように私たちは十分
に協力しているのでしょうか。
ニ)「癒すこと」は、傷付くいのちを癒し、それに気がつくよう
につとめたいのです。「皆疲れきっており、人間関係がドライに
なりすぎている時代」、「健康を害する生活が多い世の中」、
「犯罪が生まれる土壌を造る社会」などに対して私たちは癒す役
割 を 十 分 に は た し て い る の で し ょ う か 。
ホ)「看取ること」は、死に向かっていく「いのち」を看取り、
死を受け入れる心の準備したいのです。私たちは自分の死を受け
入れ、死を迎える者を看取ることができるのでしょうか。
ところが、現代社会のあり方はこの五つの課題と取り組むことを
難しくしてしまっています。現代社会のあり方というと、家庭と
学校のあり方、世論の操作と洗脳、技術の応用、市場の動かし方、
管理社会の仕組みなどを含みます。このような問題に対して誰も
無関心ではいられません。政治家や専門家だけにまかせっぱなし
ではいけないのです。「いのち」お未来は私たち皆にかかってい
るのです。
「命への選択」を学ぶ「場」と「方法」
ここまで「いのちへの道を選ぶこと」についてお話しました。
これから、選ぶ方法と選ぶことが育つ場について考えましょう。
先ず、選ぶ方法の要素を項目別に挙げておきましょう。五つの
要素です。覚えやすくするためにキーワードで表しましょう。心
と、手と、目と、耳と、足といったものです。
1)
34
「心」という字で表したのは心の態度、基本的な姿勢のこ
とです。たとえば、いのちへの道を選ぶに当たっていのちを大切
にしたいという態度を日頃持っているのと持っていないとでは選
択の仕方がずいぶん違ってきます。
2)「手」という字で表したのは手に入れる情報です。いのちへ
の道を選ぶに当たって正しい情報を持っているのと持っていない
とでは選択の仕方がずいぶん違ってきます.
3)「目」という字で表したのはものの見方や考え方です。たと
えば、男性は女性を、女性は男性をどの目でみているのか、異性
に対してどのようなものの見方を持っているか、判断力がそだっ
ているのと育っていないとでは、選択の仕方が違ってきます。具
体的に言うと、女性を遊びの対象としてしか見ていない人と尊敬
を持って女性を尊厳のある人間としてみているのとでは選択の仕
方が違ってきます。
4)「耳」という字で表したのは人の言うことに耳を傾けること、
他人から助けを得ること、相談相手の助けを得ることです。相談
するのとしないとでは選択の仕方が違ってきます。
5)「足」という字で表したのは足を動かすことすなわち決断す
ることです。
1から4までの四つの要素をふまえた上で、最終的には自分で責
任を持って決断しなければならないことがたびたびあります。そ
れにはそれなりの孤独が伴います。多くの場合100パーセント
の確実性がなくても良心にしたがって責任を持って自分で判断し、
決断しなければならなくなります。このように自己決定で切る能
力が育っているのと育っていないとでは選択の仕方が違ってきま
す。
このように、五つの要素のありようによって命への道を選ぶと
き選択の仕方が違ってきます。
35
では、このように前述した要素を理解した上で、次の質問に移
りましょう。どのようにしてこの五つの要素が教育されるのでし
ょうか。どの場でそれが育てられるのでしょうか。それは全部学
校に任せられるのでしょうか。
教師が一生懸命になっても家庭の中でこの教育が始まっていなけ
れば無理でしょう。ですけれども家庭だけでも間に合わない面も
少なくないでしょう。そして、家庭と学校でよい教育をしていて
も、地域社会の影響、仲間の影響、マスコミの影響、それぞれの
場での影響も考えなければならないでしょう。良い影響もあれば、
良くない影響もあるでしょう。教育は多くの場で行われています.
そして自己教育という面も忘れてはいけないでしょう。
そのためにまた図面にでも書いてみましょう。図面の縦の軸に
前述した五つの要素をのせて、横のほうで家庭、教育、学校、仲
間などというふうに当人の成長に影響を与えるそれぞれの場をあ
げましょう。そしてその枠組みの中で生命と性に関する教育を巡
っていくつかの例をあげてみましょう。
1) 生命と性に対する態度。
これは学校で教えるより先に家庭の中で学ばなければならないで
しょう。具体的にお父さんとお母さんはどのように互いに大切に
し合っているかによって子供の心のあり方が育ちます。学校で行
われる生命と性教育の授業もそうした姿勢を育てるために工夫す
るでしょう。たとえば、セックスについての話し合いの中で多く
の次元、多くの側面からセックスを捉えさせ、生殖行為としての
性、人間的なふれあいとしての性、快楽の伴うものとしての性、
売買春の取引として行われる性などについて生徒に考えさせます。
2) 正しい情報は家庭で始まって学校で行われるはずの性教育に
おいて学ばれます。
性教育と言えば整理学的なものを教えるだけでは足りないのです。
そうかと言って、規範を教えるだけでもたりません。これをして
は行けない、これをすべきであるといったような形で禁止事項を
教えるだけでは足りません。それよりも、性的関係、性的営み、
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性的生活について心理学的にも社会学的にも正しい情報を与えた
方が役に立つでしょう。例えば、女性と男性のそれぞれの精神的
な感じ方について考えさせるとか、現代社会における性の風潮に
ついて考えさせることがあげられます。一例:自分たちが接する
性情報にはどのようなメッセージが含まれているのでしょうか。
もう一例:性犯罪、いわゆるセクハラとかレイプについて社会批
判的に考えさせること。もう一例:性感染症の問題について考え
させること.もう一例。つまらないことや細かすぎる点と思われ
るかもしれないのですが、避妊について扱うときも正しい情報を
得させることが大切でしょう。たとえば、射精以前に精子が出て
いるという事実を知らなかった男の子はコンドームをつけるつも
りでいたのに最初から装着していなかったので効果はなくて後に
避妊の失敗で中絶の問題がおこってしまいました。もう一例:低
用量ピール承認によって避妊の選択が広がったし、女性が主体的
に避妊することがより簡単になったのですが、避妊を女性だけに
任せる傾向でよいかという疑問が出ています。とにかくこのよう
な具体的なところまで取り扱う必要があるでしょう。このことを
タブーにするどころかかえってあつかうべきでしょう。
3) ものの考え方を育てることが学校教育で大切です。
例えば、自分にとって性とはどういう意味をもつのか、性交を求
める時どのように相手を見ているのか、どの動機をもつのか、相
手から快感を得たいだけなのかそれとも相手に快感を与えて喜ば
せたいのか、二人の人間が互いに安心し合える関係の中でプライ
バシーを明け渡し、アイデンティティを解体し合える絆を結ぶの
はいったいどの意味を持つのかなどのような疑問を出して考えさ
せたいものです。 そして、性的ないとなみに関して後ろめたさ
がある時、それは健全ものなのか、それとも狭い教育の結果とし
ての不健全な後ろめたさなのかをも考える必要があるでしょう。
時々宗教関係のところで性に関する偏ったものの考え方の影響が
みられ、伝統的な性道徳について是正を試みても、なかなか乗り
越えられないものを多く抱えています。教師個人の価値基準がバ
ラバラで、生徒はどこに指標を見いだして進めばいいのかがわか
らずウロウロしている現状だと思います。教師自身の中には、避
妊はうしろめたいものであると考える人がいます。それについて
私のある知り合いの人は次のように言っていました。「つまり、
37
私個人の倫理観がどこで形成されたかというと、親からの教育、
高校時代の教育、結婚講座をはじめとする教会での考え方、現在
共に職場で働くミッションスクールの教師との話しあいなどです」
と言っていました。その場でいまだに強調されるのは、「十代の
娘には純潔教育」「結婚生活の場では、荻野式とビリングスメソ
ッドを中心とする産児制限のみを認めた性のあり方」です。そし
て「産児制限のための有効で信頼のおける人為的手段」に対して
は絶対にNO!というものです。教会内のこの風潮はよくない」
は思いますが、このことについて直接意見を求める人は少なく、
なんとなくうしろめたいという気持ちを助長するものになってい
ます。もっと開かれた態度をもっている教師自身、従来の教育に
よって「形成された倫理観」と「現実の生活」との隔たりから目
をそらさずに行こうとするのは簡単ではないでしょう」と。
4) 相談相手は大切です.
親でも担任の先生でも仲間でもない第三者からの助け手の役割は
大切です。
5) 自分で判断し、決断する習慣をどのように身につけるかとい
うことは学校教育においても家庭教育においても大切です。
このことは特に性における自己決定を育てるため大切です。その
ために自分の身体について正しい把握の仕方をもって、自分の性
と相手の性を正しく理解し、健康と性に関する自分の権利と相手
の権利を大切にして決定できるように教育されて、はじめて良い
選択できるようになります。
私が今日の話で「選択することという言葉を繰り返してきました。
「いのちへの道を選択すること」、この点にこれほどこだわって
いるのには訳があります。というのは生き物の中で人という種に
おいて選択するということは特別な位置をしめているからです。
このことは今日の話の一番のポイントで、一番後に述べることに
しました。
では、全ての生き物がもっている二つの指向性を思い出し、生命
と性に関する考え方を見直してみましょう。イ) 生き物は生命
の存続を求め、他の生命との繋がりをもとめ、生命の流れがつづ
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くようにという指向性をもって生きています。ロ)全ての生き物
は自分の欲求を満たすようにし、自分のニーズに満足させようと
します。そのために他の生き物と支え合うこともあれば、自分の
都合良く他の生き物を利用することもあります。いや利用だけで
はなく、他の生き物を食べて生きていきます。生き物はともに生
きるが、ともに利用しあうのですねえ。
ハ)ところが、脳が複雑に発展した生き物、特に人という種の場
合、前述した命の指向性に反するように見える行動をすることが
あります。この生き物における互いの利用のしかた、使用のされ
方は複雑になってきます。二つの例をあげましょう。自分を犠牲
にして弱いものを助けることができると思えば、逆に相手を破壊
してしまう行動もすることができます。戦争することも、和解と
平和を造ることもできます。他の動物に見られるような形でセッ
クスをすることもできれば、自分も相手も破壊し合うような形で
セックスをすることもできます。マーザーテレサのようなことも
できればブッシュ大統領のようなひどいことをすることもできま
す。
そこで、ともに生きることへの問いかけと命への道を選択するこ
とへの問いかけがどんなに重要であるかがわかります。
39
第二講
命の環境を守る
Environment
Ethics
命を大事にするというとき、それは人間だけではありません。
動物も植物も、そしてこの地球の生存に対して責任を感じて積極
的に環境の保護に関わらなければならないでしょう。生命倫理は
環境倫理も含みます。
ところで、人間が開発した技術によっていのちの環境を守るよ
うになるでしょうかそれともそれを破壊する危険性が生じるでし
ょうか。科学技術は諸刃の剣です。
20世紀の映画史の中にはチァップリンの『モダーン・タイム
ス』が大きな位置を占めています。21世紀の幕が開いて十年経
った今日、あらためてその作品のメッセージを思い出し、科学技
術と機械文明に対する私たちの態度を決める必要があると思いま
す。私は絵が下手ですが、書きたい漫画があります。アイディア
を出して学生に募集し、次の漫画を注文しました。人の頭、立っ
た髪の毛、耳からCDロムが入る、目からフロッピーディスクが
入る、頭骸骨のいろいろな所に穴が開いていて、そこからカード
40
が入る、沢山のカード、オレンジ・カード、地下鉄や電車のカー
ド、クレジット・カード・・・つまり、カード人間です。どうも、
チャップリンを蘇らせてこのテーマで映画をつくってもらいたい
ものです。いや、スペインの画家ダリとピカソも蘇らせればぴっ
たりの秀作を創造してくれるのでしょう。とにかく、環境破壊死、
自分の体を機械化し、生命全体を脅かす人間になってしまっては
居ないだろうかと言う問題を訴えたいものです。
とにかく、デジタルの時代においてアナログである人間の心が失
われないように考えたいと思います。
南北の矛盾
—つけがまわってくるー
まず、ぜひ勧めたい映画があります。『ダーウィンの悪夢』と
いう映画をぜひ御覧になってください。生態系の宝庫で「ダーウ
ィンの箱庭」と呼ばれたビクトリア湖の近辺を対象にするドキュ
メンタリーです。その湖に巨大な肉食魚が放たれたことがきっか
けにあの地域の状況は一変しました。この魚を加工輸出する工場
もできたし、まわりの住民の生活はめちゃくちゃになりました。
稼ぎの労働者、アルコール、売春、エイズ、食べることがなく道
に眠る子どもたち、魚を運ぶ東欧の輸送機が往路には武器を運ん
でくること等が描かれています。それを通して工場の国際競争力
を称賛する欧米政治家と経営家。そして、タンザニア政府の情け
ない立場。グローバリゼーションの奈落を深海の悪夢のように描
くこの映画をぜひ御覧になってください。そしてそれを背景に最
近のヨーロッパに置ける移民問題のニュースを分析するようにお
進めします。
実はモロッコとスペインの国境を無理に超えようとしていた
人々の問題が生じた時、日本の報道機関であまりとりあげられな
かったのは気になっています。2005 年にフランスでの放火事件等
が日本も世界中にトップニュースになったのですが、私は一歩離
れて考える必要があると思います。そうしなければ、数日後問題
がおさまったところまたニュースにならなくなり、解決したとい
う印象が与えられます。
41
今ここで『ダ^ウィンの悪夢』を勧めたのは訳があります。いわ
ゆる移民問題は決して受け入れるか受け入れないか、多く受け入
れるか少なくうけいれるかと言う問題だけではありません.根が
深い問題です。ひとむかし(とはいっても半世紀以上ですが)植
民地時代が終わったとさけばれましたが、それに続いたのは別な
かたちでの植民地化でした。南北問題の矛盾が叫ばれてから五十
年以上経っています。政治的な支配に経済的な支配がつづいたし、
地域紛争がつづいた背景に発展国の利益関係があったし、移民の
問題はここ三十年間国際的に大きくなりました。国境を閉めよう
と言う者も、無条件に受け入れようと言う者もはたして問題の根
が深いことに気付いているのでしょうか。グロバリセーションの
つけが回って来ていると私は強く訴えたいです。そして北と南の
間の矛盾今だかつてない水準までなってしまっているのです。南
アメリカに対する米国の無責任、アフリカに対するヨーロッパの
無責任、東南アジアに対する日本の無責任...これこそ考えな
ければならないのです。
問題を表面的にみたばあい、移民問題を懸念している人々と、
移民は欧米社会に溶け込むべきだという立場の人々の間の溝とし
て捉えられるかもしれません。しかし、前述したように問題の根
が深いです。移民の自国に置ける問題も、受け入れ国で育った移
民の二世の問題も真剣に考えなければならないのですが、この二
つの問題は国際的な次元をもっており、政治と経済のグロバリセ
ーション及び現代の新しい植民地化と無関係ではありません。さ
らに、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争等によって解決され
るどころかますます悪化した「諸文明の衝突」に対する「諸文化
の出合い」への道が見いだされないままです。
とにかく、ダーウィンの悪夢をぜひみてください。そして二回
や三回でも見た上で討論して考えようとうったえなければならな
い必要性を私はつくづく感じています。
古代の神話を思い浮かぶ
42
英語でいうサージェリー(surgery)の語源はギリシャ語から派
生しています。ヘイル(jeir) は手、エルゴン(ergon)は術で、ま
さに日本語の手術と同じです。つまり、外科手術は手で行われる
術なのです。ギリシャ神話に出ている人物ですが、ケイロンとい
う者の名前も同じ語源をもっています。ケイロンは森に住む怪獣
であったケンタウルス属の中で一番賢くて、医療の術を学んだそ
うです。医師の保護者アスクレピオスが癒しの術をケイロンに教
えました。しかし、ゼウスは人類が最終的は不死になってしまう
のではないかとおそれて稲妻でアスクレピオスを殺したのです。
哀れにと思ってアポロンがゼウスに頼み込んだので、アスクレピ
オスを星のあいだに住まわせるようになり、医術の神になったわ
けです。彼の主な神殿はアルゴスにあったのですが、紀元前30
0年頃アスクレピオス信仰がローマに入って盛んになりました。
考えてみれば、他の術と同じように医療にもまたある両義性が
つきまといます。使いようによっては人間のためにもなれば、人
間にこの上もない害悪を与えることにもなりうるのです。
もう一点あげましょう。それはよく知られているキメラの話で
す。キメラは口から火を吐き、胴体はライオンで、尻尾は蛇とい
う怪獣でした。現在キメラ・マウスから始まってありとあらゆる
遺伝子組み替えの話が新聞をにぎわしていますが、雑種のことは
決して神話だけのものではなくなっています。そこにもまた人間
のためになりうるもの(例えば、ヒト DNA に入った豚からの臓器
移植)も予期できれば、取り返しのつかない結果も懸念されてい
ます。改めて科学技術が諸刃のつるぎであることを忘れてはいけ
ないでしょう。
ここで、再び神話に立ち戻って考えてみましょう。技師ダイダ
ロスはクレタの王ミノスのため迷宮を造ったので有名です。後に
彼自身も迷宮入りになってしまったのですが、そこから逃げ出し、
島から脱出するために翼をつくりました。その息子イカロスが手
伝いました。しかし二人とも飛びだってからむすこが親の注意に
そむいて高く飛んでしまったので、太陽の熱で翼を張り付けてい
た蝋がとけて海に落ちて溺れてしまいました。ここにまた科学技
術の限界が現れたのです。息子イカロスが翼をつくる技術を身に
つけていたのですが、父ダイダロスとは違ってそれ安心して使え
るだけの知恵が欠けていたのです。現代文明においてわたしたち
43
は多くの知識とそれに基づく技術を備えてはいるのですが、責任
をもってそれ使いこなす知恵がたりるのでしょうか。
疑問を出す必要
哲学者は遠慮しすぎて先端技術と現代文明に対する批判を十分
に行っていません。哲学者たちは難しいことを言わないと学会の
雰囲気に会わなくなるので、市民から離れてしまいます。哲学者
たちは「お前は学者らしくない」と言われるのをおそれて無理に
科学に気兼ねし過ぎます。しかし、ソクラテスのように規制のア
カデミーから嫌われる役が必要でしょう。そして、科学技術のも
たらした進歩により、人間性が開花するという面ばかりでなく、
脅かされるという面もあることは、あえて指摘しなければならな
いでしょう。
では、この脅威からの解放を、どのように求めればよいのでし
ょうか。この問題に対して様々な答え方が与えられています。あ
る人々はロマン主義的とでも言える形で科学技術の成果を否定し
ます。他の人々はその正反対の態度で、より高次の進歩を達成し
てこそ救いの道があると主張します。両方の主張を聞きながら思
うのですが、根本的な疑問を出すチャップリンやソクラテスが現
れてはくれないでしょうか。
とにかく、二十世紀後半を振り返ると、そこに公害、資源の浪
費、伝統文化の破壊、数知れない生物の種の喪失、生態系の破壊
などが注目されます。やっと地球を守る環境倫理が叫ばれるよう
になりました。こうした問題に対する人々の態度を次のように五
つのグループに分けることができましょう。
イ)極端な消費主義
この立場をとる人々は、問題があることを知ってはいますが、
問題の原因をなくそうとはしません。技術の発展とそれによって
得られる利益のためなら、どんな犠牲を払ってもかまわないと主
44
張します。そうした態度を決めつけている人に向かって、環境問
題や生態系破壊の問題を告発しても、通じないでしょう。彼らは
いうでしょう、「贅沢を言うな。進歩には犠牲が付き物だ。現に
こんな便利になっているではないか」。そして、儲けと功利主義
の論理を通そうとするでしょう。
ロ)極端な自然主義
これとは逆に、ロマンチックとでもいえる態度もあります。先
の楽観主義に対する悲観主義ともいえるでしょう。進歩に対して
懐疑的で近代の後戻りの態度で、「自然に帰れ」というかもしれ
ません。ただ、このスローガンをつかっても、現代の交通機関や
情報機関や電気道具などをやめてもよいと徹底するかどうか疑問
です。あるいはもうすこしひかえめに、「昔は今ほど便利ではな
かったが、満ち足りた生活をしていたではないか」というかもし
れません。そうかといって「車をやめて歩こう」とまで言うかど
うか疑問です。
ハ)常識的な妥協
(イ)の立場についていけないし、そうかといって、(ロ)の
立場のように昔に戻るわけにもいかないので、そこで、現実的に
考えようとする人々が出てきます。こうした立場から、行政上の
措置と法的規定によって徐々に現状を改善して行こうとはします
が、それ以上この問題の根本にふれようとしません。何らかの規
定を設けたり、マニュアルで何かを定めたりすることによって、
技術の一人歩きが避けられると同時にその恩恵に預かれるだろう
と思っているかもしれません。
たとえば、公害の問題に対しては、廃棄ガスを規制するとか、
環境の整備に力を入れるとかいう程度にとどまります。この立場
に行政の長所と短所がみられます。長所は異なった主張を調整し
て社会的な合意が得られようにと努力しているところです。短所
はいつのまにか、政治家とともに、前述した(イ)の立場の方か
ら利用されてしまうことです。
45
ニ)理想主義的な技術者
専門家としての理想に徹する人々もいます。彼らは問題をよく
把握して、その解決案として、(イ)のような現状維持の態度も、
(ロ)のような極端も避けると同時に、(ハ)の物足りなさによ
く気がつきます。そして、単に行政上の多少の措置だけに頼るこ
ともせず、もっと徹底的に、科学技術の引き起こした問題には科
学技術によって解決されるべきだという信念をつらぬこうとする
のです。科学技術のよりいっそうの進歩が問題を解決してくれる
だろうと主張します。例えば、廃棄ガスの問題に対しては、「車
なんかやめて、歩け」というのではなく、「公害を出さない自動
車の実用化をめざそうではないか」というのです。
しかし、問題は、こうした(ニ)の立場の人々は(ハ)の立場
の者と同じように(イ)の立場すなわち、企業と政治家に利用さ
れがちであるということです。というのは、(ニ)の立場から提
唱されている案を実行に移すためには、膨大な研究費と資本がい
るからです。そこで、つまるところ、政治家や資本家に利用され
てしまい、科学技術の専門家の理想が達成させられなくなるおそ
れが十分にあります。
ホ)ソイクラテス。
古代の哲学者の名前を借りてこの五番目の立場を表すことにし
ました。なぜかといえば根本的な疑問を出すからです。彼らはま
だ問題が残っていると主張するのです。この立場から言えば問題
は技術だけにあるのではなく、人間自身の問題や社会構造の問題
にまで深く掘り下げて行かなければならないということです。中
途半端な解決は長い目で見ると解決にはなりません。政治経済を
指導する人たちがこれらの問題を真に人間の問題として捉えなお
していくようにと、この第五番目の立場から訴えるのです。
豊かさはいったい何を意味するか
46
二つの問題、つまり生命の操作と世論の操作の問題が日本にお
いて注目されています。現代の世界で豊かな国として認められて
いる日本において、いのちというものがどこまで大切にされてい
るのか、どのように脅かされているのかということを考える必要
があるでしょう。
平和が続き、科学が飛躍的に発達するにつれて、人間の寿命も
著しくのびました。この平均寿命の延びには乳児の死亡率の低下
が大きく貢献しています。日本では昭和二十五年には乳児死亡率
は六十三・三七%でしたが、昭和五十七には七・三%に減少しま
した。また、妊娠期間中の診断はここ数年めざましい発展をとげ、
超音波などを用いて胎児の診断ができるようになりました。
産婦人科・小児科の医療技術の発展によって生命の誕生を守る
ための最高の条件が整っているといえるわけですが、実際にはど
のようにまもられているのでしょうか。技術的・経済的な豊かさ
にめぐまれた反面、人間の生命の大切さを忘れた心の乏しさとい
う暗い面が現代の日本にみられるようです。このようにして現代
の科学技術を優先する時代の中にあっても、人間らしさというも
のを求め続けたいと思います。特に現代の風潮を支配しがちな効
率主義や能率中心の考え方に対して疑問を出しつづける必要があ
ると思います。
すべての動物の尊重と人間の尊厳
人間の尊厳というときに他の動物を大事にしなくてもよいとい
うことでしょうか。いいえ、生命倫理の主張は人間の尊厳だけで
はなく、動物や植物をふくめて生態系の保存と地球の未来に対す
る責任を強調しているのです。だがしかし、地球上に人間が肉体
的に残るだけではなく、文化面での有意義な人間らしい人間生存
を保証しなければならないのです。
生物学と医学などの発展によって人類は人間ばかりでなく、動
物、植物、そして環境まで作り変えて改善することが出来るよう
になった一方、「改善」ではなく「改悪」とでもいえることも可
47
能にったのです。果たして人類はこれからよりよい世界を造って
いけるのでしょうか。そのためには個人や個人が属している団体
だけではなく、人類全体、そして後に続く世代に対する責任を持
つような倫理が必要でしょう。
わたしたちがそういった倫理をもち、それを後の世代に受け継
いでもらわなければ、山積する問題をただ後世に引き渡すだけで、
そうした問題と取り組むための能力と知恵を伝えることができな
かったことになってしまうでしょう。こうして、倫理の領域を人
間だけではなく、環境や地球に対する義務まで広げることが20
世紀後半でますます主張されるようになりました。特に七十年代
の始めから、人権だけではなく、生態系を構成する動物と植物、
つまり生命圏全体に対する責任が問われるようになりました。生
命倫理の名付け親ポッターは1971年に『未来への架け橋』と
いう本でそれを訴えました。彼が言うように、生物学上の事実と
人間的な価値はもはや分離することができません。地球上に住ん
でいるわたしたちは、互いに全ての生き物や全てのものと依存し
合っているのです。こうした考え方を背景にして、倫理学をうち
立てるとき、人間と自然との関係についての私たちの捉え方を大
分見直さなければならなくなります。
種々の自然観
自然と人間との関係について次の三種類の考え方の類型がみられ
ます。
まず、人間が自然を支配する態度です。この見方をすると、人間
のほうがより優れていると考えて、自然を所有物として征服して
しまうことが起こってきます。このような態度をとると、科学技
術の発展に対して楽観的すぎることになる、あるいは、むしろ、
それに拍車をかけることになるのです。こうした立場によれば、
無条件の科学技術の進歩の結果として、自然の資源が底をついた
り、生態系の荒廃をもたらしたりする環境破壊と公害などの問題
が出てきます。この態度をとる人が倫理問題に直面する時、せい
48
ぜい歯止めのための規制作りぐらいしか考えないでしょう 。
それから、もう一つは、自然の一員として自然に共感する態度で
す。この場合、自然との調和が強調されるのですが、同時にすべ
ての生き物と人間との間の連続性が注目され、場合によって自然
は変えるべきではない、という極端な見方をして消極的な倫理観
しか生み出されないのです。
そして、三番目に、人間は自然に従うと同時に自然を司ると思
っている立場です。従うといっても、何もしないで、自然のまま
にしておくということではありません。確かに人間を含めた全て
の生き物にはそれなりの目的や方向性があるのですが、人間には
さらにそうした方向性を把握する能力とその方向に向かって自然
を変えてゆく力が与えられているのです。なお、宗教的な裏付け
をもつ場合の態度は、積極的な倫理観を生み出します。その場合
には、人間が神を演じてはいけないというのではなく、神を演じ
るという使命を帯びた人間は責任を持ってそれをはたさなければ
ならないということです。
このように考えると生命倫理(バイオエシックス)は環境倫理
(エコエシックス)を含むと言わなければならないでしょう。そ
して、その実現のため未来に向かう見方や考え方がもとめられて
います。残念なことにこのことはなかなかまれなことのようです。
しかし、人間はまさに現在をこえて未来を想像する能力を備えて
いる存在です。それは人間の特徴といえます。過去への反省や批
判をふまえたうえで未来に向かって計画を立てて行くのは人間で
す。「あとの世代はどうでもよい」といってしまうと、それは人
間自身の自己否定になるのです。
ある学校で、校舎の改築に伴う授業料の値上げについて議論さ
れていました。 生徒たちは言いました、「どうせわたしたちの
在学中に壊れないだろうから・・・」と。エネルギー問題にして
も、核戦争にしても、「まあまあ、自分が生きている間は起こら
ないだろう」と楽観してしまってよいのでしょうか。公害を起こ
しているのは大きな企業だけではありません。自分の家庭で当た
り前のように台所の古い油を流しに捨てている人もいます。この
49
ように身近な日常的な所から始まって、大企業の在り方はもちろ
んのこと、国際関係の次元まで、未来予測の上に立つ倫理がどう
しても必要なのです。私たちは人類にとってふさわしい生存の仕
方とはいったいどのようなものであるか、と問い続けなければな
らないと思います。
人為とは自然の反対語ではない
二十年前に、和辻哲郎の『風土』をスペイン語に訳していたこ
ろ、私は日本文化、とくに造形芸術にあらわれた自然観というも
のに強く心を引かれたことがあります。そうしたところから生命
と文化について考える為の示唆を受け、生命倫理の分野において
日本から提言できるところがすくなくないと思うようになりまし
た。特に日本の伝統に根ざした自然観や生命観から学ぶところが
あると思います。
では、『風土』を訳していたころのことを思い出し、二つの考
えが浮かんできます。
一つは自然に対する畏敬、とくに絵画や文学の分野などにおけ
る自然にたいする感謝といった感受性ゆたかな芸術家の態度です。
他の一つは造形芸術における自然の扱い方、自然に手を加えると
きの、その行き届いた行い方です。
この二点の中では一番目の方がよく知られているかもしれませ
ん。確かに、日本の伝統には、自然に対するすばらしい感じ方、
受け止め方があり、その背後に自然に対する畏敬や感謝があるの
です。
第二の、自然に手を加えるときの方法に関しては、和辻哲郎が
庭を引き合いに出して説明しています。日本の庭園はヨーロッパ
の、たとえばウェルサイユ宮のそれにみられる幾何学的デザイン
とは違いますが、かといって、自然そのままではありません。自
50
然のままに放置されれば、雑草がはびこって庭ではなくなってし
まいます。
日本の庭をつくるときにも、自然に対して相当に人間の手が加
えられています。ただその手の加え方がウェルサイユの庭のそれ
とは違います。この相違をみて、西洋は合理的で日本は合理的で
ないと人は言うかもしれませんが、和辻に言わせれば、そうでは
なくて、東洋には東洋なりの別な合理性があるのです。
この二つの示唆をうけて、生命倫理と文化または環境保護の倫
理を考えることができよう。もともと倫理は技術よりも芸術であ
ると言われています。最近の生命操作に関する技術を前にして、
技術と人間の関係または技術と自然環境の関係を見直す必要があ
ります。
技術としての倫理はどちらかと言えば法律に似ています。しか
し、芸術としての価値判断はより幅広くて、より融通が聞くもの
です。一応の枠組みや物差しがありますが、それと同時に、芸術
作品を作るときと同じように状況判断の為に余裕があります。さ
らに、自然に対して人為的に手をくわえるとき、自然のうちにふ
くまれている技術を発見し、それに会わせて自然に手をくわえま
す。このような見方をすると両極端がさけられます。一方、人為
的に自然を破壊することが避けられます。他方では、自然と調和
する形で人為的な手が加えられるとき、芸術作品ができ、よりよ
い自然になってゆきます。
地球の救い
「いのちへの道を選択」したい生命倫理が大切にしようとしてい
るのは人のいのちだけではなく、動物と植物を含めて自然環境の
すべてです。そこで,あらためて地球の救いと人間の解放を同時
に 求 め る 倫 理 の 立 場 か ら 考 え た い と 思 い ま す 。
現代用語辞典を参考にしてみたら、「エコ」で始まる言葉はいろ
いろあることに気づきます。たとえば、エコロジーキャンプ(生
態学的視点に立つキャンプ)、エコロード(生態系に配慮し,環
51
境に対する影響を減らすべく設計された道路)、エコラベル(環
境保全運動のマークがついた製品)、エコトピア(地球温暖化防
止 実 験 都 市 ) な ど が あ り ま す 。
日本では早くも六十年代あたりからエコエシックス(地球倫理)
という言葉を用いて今道智信先生は生命倫理と環境倫理と社会倫
理の互いのつながりについて述べていました。後に 90 年代におい
てやっと生命倫理が流行になり,環境問題のことを語り始めたあ
る倫理学者たちはあたかもゼロから始まるように環境倫理を話題
にしましたが、やはり日本では学閥的にして壺形式の学問のあり
方のため研究と思想の連続性や継続性は難しいようです。しかし、
私は地球倫理に関する早い時期からの今道先生の業績は忘却に任
せたくありません。それは現代においてますます有意義になって
きたのです。
最近の英語圏の倫理関係の学術雑誌の目次などを見ればわかるよ
うに、二つの新語として eco-justice (地球倫理と社会倫理の密接
な関係を強調する用語)と eco-feminism(地球倫理と女性解放運
動の密接な関係を強調する用語)がよく論文のタイトルやキーワ
ードに注目されるようになりました。それは社会倫理が求める人
間解放運動と、女性に対する差別をなくし,その人権を主張する
女性解放運動は自然環境保全運動と深く繋がっていることをあら
わしており、倫理や神学の側からこの動きを無視するわけには行
かないと思います。
医科学技術は望ましい成果を約束すると同時に新しい危機にも私
たちを直面させます。私たちは科学技術のおかげで新しい農業の
あり方を発展させることだけではなく、新しい生命形式を生まれ
させることさえできるようになっていきます。どこまで加入して
いけばよいのだろうかという疑問は生じます。そこに倫理の問題
は避けられない所以があります。
ところで,倫理の問題は個人だけの問題と間違えてはなりません。
それは社会の問題であり、そうした倫理上の問題を取り上げると
き、 イ)科学と思想の専門家、ロ)政治家と行政関係者、ハ)
52
一般市民、この三つのグループの協力によって議論される必要が
あります。
今農業の分野において起きている諸問題はプライベートなことで
はなく,社会的及び国際的次元をもつ問題です。食料生産のため
に先端技術を使うことによって大きな利益が得られるのですが,
それだけがその生産の目的ではないはずです。理想的に言えば、
環境を保護しながら,人間の健康の為になることを目指すと同時
に得られた利益が世界的に正しく分配されることは一番のぞまし
いですが、これはユトピアだけでしょうか。実際に先端技術の商
品化はこの理想の達成を難しくします。
そこで,専門家と行政と一般市民を交えた社会的な対話と協力へ
の道を見出さなければなりません。そうでなければ人類の未来は
あやぶまれます。私たちはますます自然をコントロールすること
ができるようになりますが,コントロールする者を誰がコントロ
ールするのでしょうか。
たとえば、遺伝子生物学の成果を応用し,遺伝子組み替え食品を
作成することによって飢餓問題などに貢献すると同時にそれが一
人歩きしてしまって小数の利益の為になってしまうだけではなく、
人と自然の調和までも脅かすことにもなりかけないのです。その
問題をどのようにして避けることができるでしょうか。もう一例
をあげましょう。遺伝子組み替えに発展させると同時にさまざま
な動物と植物の種が死滅することをどのように避けることができ
るでしょうか。そしてまた生態系全体の危機をどのように乗り越
えましょうか。このような未解決の疑問を無視するわけにはいき
ません。
倫理の課題は現在の人類と社会の為にだけではなく,地球全体と
未来の世代のために考え,行動の指針を与えることです。生きて
いけるためにわれわれは食べなければなりません。そのため農業
に発展させなければなりません。そして昔風の農業ではなく,科
学技術によって発展した産業によって実をもたらす農業でなけれ
ばならないのです。そこで,農業の現代化された発展と人間の生
53
活と食料問題から切り離して考えられないわけです。
農業こそ自然全体及び社会全体に対してケアーする関心と責任が
同時に感じられる場です。医療の場合 40 年前からキュー(cure)
とケアー(care)の統合が叫ばれてきましたが,農業と産業にお
いても技術的な面と人間的な社会的な面を同時に念頭においてお
く必要があります。先端技術に対して人間はその使用者になるか
それともその奴隷になるかと言ったまさに「いのちへの選択」の
前にわれわれ立たされています。もちろんある程度まで自然をコ
ントロールすることを否定するわけには行きません。いやそれは
必要でさえあるとも言ってもよいですが、それはあくまでも人間
のためのものであり,人間がそのためにあるのではありません。
農業において先端遺伝子組み替え技術を用いることによってわれ
われは貧困と飢餓の問題を解決する糸口を見出すこともできるし,
人間の苦しみを減らそうと思えばできるわけです。しかし、この
目標が達せられるためには技術によって開発される富は公平に分
配されなければならず、社会正義の視点からふさわしい分配が無
け れ ば 経 済 成 長 は 人 間 の た め に は な り ま せ ん 。
とにかく技術の応用には両義性がともないます。楽観的に考えれ
ば、遺伝子工学によっていのちを大切にし,森を守り,安全な食
料を開発し、遺伝的に組替えられた植物と動物を育て,発展途上
国で種々の病気や感染を避け,栄養問題を処理し、水の給養など
を促進させることができると言えましょう。しかし、誰が,どの
ように,どの投資の仕方で、どのような分配の仕方でそれをする
のかが肝心です。だから、先から繰り返してきたように、科学と
思想の専門家と政治家と行政と一般市民が真の討論を行いつづけ
る必要があります。そうしなければ、政府は大企業と手を結び、
環境問題および人間の健康の問題と社会正義の問題を省みず、大
きな利益を求めて無条件にしかも識別する慎重な判断をせずに、
「いのちへの選択」ではなく、「多くの人にとって死への選択と
繋がってしまう利益への選択」をしてしまう危険性が多いように
思われます。
要するに、人間の行動には予想出来ない結果がありうるので,責
任をもって先端技術の応用に踏み切る前にその方向性についてよ
く考えておかなければならないのです。そうした討論をするとき
には専門家に任せっぱなしではダメだと思います。一般市民がそ
54
の討論に積極的にかかわり,教育の場と市民政治討論の場,いや,
日常の会話や家庭及び地域社会内での話し合いの中でこれらの問
題を頻繁に取扱う必要があると言いたいわけです。そのようにし
てはじめて盲目的な経済社会の流れによってではなく,市民の手
によって未来社会が築き揚げられることが可能になります。この
ようにいのちへの選択を可能にするには生物学者と倫理学者,ま
たは科学者と神学者が対立するよりは手を繋いで政治・経済社会
のあり方を人間のためになるように協力したいものです。
なお、この見方をさせる宗教観について最後にひとことを付け加
えたいと思います。感謝の祭儀の中で供え物を捧げるときの祈り
には次の大切な言葉があります。神に向かってこう祈られる、
「大地の恵みと労働の実りをお受け入れください」。「大地の恵
み」とは環境倫理のキーワードであり,「労働の実り」とは社会
倫理のキーワードであると言えましょう。礼拝の場で「大地の恵
み」と「労働の実り」を捧げる共同体は天の国を仰ぎながら祈る
共同体であるばかりではなく、生活の中で天の国を築き上げてい
こうとする共同体であり、自然保護と社会正義を同時に大切にす
る共同体でもあります。
さらに、これを支える神概念として「父でも母でもある命の源な
る神」という神の捉え方を勧めたいと思います。キリスト教神学
では長いあいだ中世哲学の「最高の存在者としての神」と近代観
念論の「絶対者なる神」のイメージの偏りすぎがあったと思うの
ですが,東洋の諸宗教との出会いによって再発見される「いのち
の源としての神」のイメージを、ヨハネ福音書にあるように、再
評価し,それに立ち帰ったら生命・環境・正義を統合的にとらえ
られ、それを守る地球倫理への道が開かれ,いのちへの選択を可
能にするでしょう。
お正月に環境と平和を考える
どこかの教会の司祭館で耳にした話です。お正月の説教の準備で
こまっていたといいます。「『聖書と典礼』の手引きを見ても思
うのですが、どうもこの日にはテーマがありすぎる」と。「世界
平和の日」、「神の母」、「新年」、「新世紀」、「教皇のメセ
55
ージ」などなど、どこから手を付けたらまとまるのか、どのよう
にしたら信者を疲れさせないで話せるのかわかりません」と。
そこで提案がありました。「お正月の雰囲気の中で、いのちの
源を思い出すに最もふさわしい聖書箇所は、創世記の始まりとヨ
ハネ福音書の序文ではないか」と。
私が最近しばしばこの提案を思い出すのは、「創造の信仰」に
ついて、ベルギーの神学者ゲシェ(A. Gesché)の『神が考えさせ
る』(Dieu pour penser)という三部作(1994年発行、「神
と悪」、「神と人間」、「神と宇宙」をそれぞれのテーマとする)
と、フランスの神学者ランベール著(D. Lambert, Sciences et
theologie)の『科学と神学』(Science et théologie、1999
発行)を 読みながらずいぶん考えさせられたからです。
この二つの書物とも広い展望をもち、創造の信仰の見直しから、
現代社会の中で生きるキリスト者の信仰のもち方に関する豊富な
示唆を与えてくれます。かなり専門的なものなので、簡単にダイ
ジェストしてしまうにはためらいますが、ともかく、その一部を
私の読書ノートから紹介してみましょう。
まず、人間と自然との関わりを見直す時がきています。世界を
支配する態度から、それを尊重し、大切にして世話することに切
り替えなければならないのです。不思議なことに、人間と世界の
関係を表すために「新約」という言葉を使っているのは、神学者
ではなく科学者たちです。
一昔前、フォイエルバッハを引き合いにして「世界について思
弁を巡らすより、世界を変える」ことが強調されていましたが、
今、私たちはもう一つの転機を迎え、「世界を感想する」態度へ
と切り替え、感嘆する余裕を取り戻す必要があるといわれていま
す
。
西洋の伝統では、哲学者たちは、一体自分が「どこから来て、
どこに行くのか」を問い続けましたが、「どこにいるのか」とい
う質問を怠ったのかもしれません。「世界」、「大自然」そして
「宇宙万物」が人間の住まう場であることを再確認しなければな
らないでしょう。
56
「神なしの世界」を見て、嘆いている神学者たちは、ともすれ
ば「世界なしの神」を抽象的に語っているのではないでしょうか。
現代人は「父を殺した」世代であると心理学者たちが言うので
すが、「母なる大地をも殺してしまっている」とも言えるのでは
ないでしょうか。そこで、自然との和解を考える必要があるでし
ょう。
創造への信仰から「無償性」という言葉の意味を教わります。
効率や能率を重んじる社会を目覚めさせるのは信仰だと言えまし
ょ
う
。
創造への信仰から詩的な表現を新たに見いだすことができるで
しょう。十六世紀頃からカトリック神学の中で象徴と比喩が大分
失われたのですが、メタファー(隠喩)的な表現なしに神と信仰
を語ることができないのではないでしょうか。それを学ぶには論
理学だけにとらわれず新しい目で自然を眺めなければならないで
しょう。それを妨げるのは近代西洋の人間中心主義ですが、ちょ
うど人間を人間自身から救い出すためにも人間と自然の関係を見
直すことがもとめられているのです。
創造とは決して「ものを制作する」というイメージで語れませ
ん。そうかといって汎神論的に神からいっさいが派出するような
イメージも聖書の信仰にあわないのです。むしろ神は創造によっ
て御自分とは違うものを存在させ、宇宙万物という「場」を整え、
それを創造性に満ちたものにします。現代科学が述べている「偶
然性」や「不確実性」はまさにそういった「創造性」に関係して
います。
一昔前まで、神学者たちは哲学者にしたがって、よく「因果関
係」の話をして創造論を科学と統合させようとしましたが、今は
科学者も神学者も「因果」のカテゴリーをそれほど使いません。
宇宙からはじまるその創造性のダイナミズムは動物、特に高等
動物において著しく、人間の場合には意識と自由意志の不思議さ
のうちに現れます。したがって、人間の特徴を評価するのに、決
して人間を大げさに自然や動物から離れさせる必要はありません。
57
このように人間が住まう場であり、キリストの受肉の下準備で
ある自然界を見る目を育て直し、自然との和解を行う必要がある
とゲシェーは力説します。そのために現代科学が提示する宇宙の
イメージが多いに役立つとランベールは言います。社会科学が大
切にされたように自然科学も神学によって、もっと大切にされな
ければなりません。一昔前まで科学と宗教の対立があったのです
が、今は両方とも自分の限界を自覚しています。
人間は自然を必要としています。住むため、食べるため、感想
するため、愛するため、生きるために必要なのです。そして、神
はもともとその必要がなくても自然と人間の共同作業を望まれま
した。つまり、神は創造者を創造されたのです。神は被造物を創
造されたとき、「自ら自分たちを創造し続けるように」定めまし
た。創造主は決して時計屋のようではなく、見事な創造の冒険に
取り組んだ発明家だったといっても過言ではないでしょう。その
極みとして、自由意志という、素晴らしくも恐ろしい特徴を私た
ちにくださったのです。
以上、つれづれのままに書き写した示唆は、お正月の黙想にふ
さわしいのではないかと思います。
抽象的なこと思えるかもしれませんが、結局、最近の世界にお
ける三つの具体的な問題とつながっています。戦争と生命操作と
環境破壊です。
このことに気づかせたのは、聖心会 M. Keenan(キーナン)の
講演でした。正義と平和評議会の一員であるこの修道女は、19
98年11月4日、アメリカ・カトリック大学で、『自然との調
和』という題で話し、2000年に向かう準備の一端としてヨベ
ルの意味を考えるよう訴え、ゆとりをもって人間と環境世界との
関係を見直すことが緊急課題であると述べました。「生態系を大
切にすることは、単に今どき流行の話題とか、他と同列に置かれ
るような一つの課題にとどまるものではありません。むしろ自然
の中で人間を正しく位置づけることこそ、今私たちを悩ませてい
る諸問題、すなわち戦争と暴力、生命操作と科学技術の独り歩き、
58
経済と政治のグロバリセーションなどに取り組むための枠組みな
のである」と。
安息ということ
世界の教会がこのような問題意識に目覚めて来たのは、ここ三
十年たらずのことです。1972年に、教皇パウロ六世はストッ
クホルムで行われた「環境についての国際会議」にあてたメッセ
ージでその関心を表しました。翌年、正義と平和評議会は『新し
い創造‐環境問題に関する考察‐』を表した。80年代にはいろ
いろの司教会議が似たような声明を出しています。
ヨハネ・パウロ二世は、1990に世界平和の日のメッセージ
『神との平和、宇宙万物との平和』の中で同じことを強く訴えま
した。
さらに、1998年の回章『信仰と理性』の中でも、現代の緊
急な課題を挙げられる時、教皇は環境保護と地球倫理に触れまし
た(同98番と104番)。
そのとき教皇も三つの方面の問題を密接に結びつけました。す
なわち、1)社会正義や人権擁護の問題、2)生命尊重の問題、
3)環境保護の問題、です。そして、1999年の四月に教皇が
世界美術家に向けた手紙で、教皇は、「美の神秘こそ超越への鍵
であり、生活を味わい、未来を夢みることへの招きでもある」と
述べました。
一言で言えば安息日の深い意味を思い出させるということなの
ではないでしょうか。
ともすれば休むことに対して変な罪悪感を覚えがちな者には、
最も必要な。いわば「お正月の神学」であると言えましょう。
技術文明の錯覚
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いのちを脅かしている現代の科学技術文明に対する私の根本的
な疑問をまとめておくことにしたいと思います。
まず、功利主義的な生命観への疑問です。
十九世紀からの産業革命に続いて、二十世紀半ば以降の生命科
学革命と二十世紀末からのIT(情報技術)革命が私たちに迫っ
ています。最近では、いのちの諸問題をめぐってこの三つの革命
が重なってきた印象が強いです。
例えば、遺伝子の研究と実験には情報技術が用いられ、その成
果を使いたい製薬企業などは早めに特許を確保するために焦って
います。その結果として、一言で言えば、生命の商品化、生命の
機械化、生命の計量化という事態が引き起こされてしまっていま
す。
つまり、生命を単なる取引の対象や商品の一つに変えている社
会の流れが目立ち、生命を一定の値段で売買できる商品としか見
ない風潮が高まってきたのです。先端技術が引き起こした多くの
問題には、このような功利主義的な生命観が背景にあります。
教皇ヨハネ・パウロ二世がたびたび述べているように、生命の
問題とは、社会的かつ文化的問題です。
医療倫理、経済倫理、政治倫理は三つの異なった分野であるか
のように取り上げられますが、これらに関する研究や教育は互い
に密接に結びついています。生命の問題は同時に経済・政治・文
化の問題でもあります。現代という技術時代の危機とは、生命の
危機であると同時に文化の危機でもあるといわなければならない
のです。
例えば、最近期待の大きいヒトゲノム研究の利用法に関しては、
種 々 の 倫 理 上 の 問 題 が 指 摘 さ れ て い ま す 。
その一つは、研究を推進する力の背後にある利潤追求の動機で
す。実際、解読された情報によって病気の治療法を研究するのは
製薬企業であり、研究者は有用性を見込めるあらゆる遺伝子情報
60
を可能な限り特許出願し、製薬企業に売り込もうとしているので
す
。
日本も、こうしたゲノム解読競争で米国や英国に遅れまいと必
死です。日本の国会でさしたる議論もないままに成立したクロー
ン技術の利用に関する法律も、この問題と関係が深いです。
ヒトゲノム研究計画は多くの遺伝病に関する情報を提供すると
同時に、診断のための正確な遺伝子テストの実施を可能にすると
期待されています。
だが一方で、そうした遺伝病を治療するための治療学的方法が
それほどの進展が期待できるかどうかは保証できません。もし判
断基準が経済的なコストにあるだけだとすれば、出生前診断をし
て胎児に疾病の可能性があるという否定的な結果が出た場合に妊
娠中絶をするケースが増えることは残念ながら確かです。
優生学的なメンタリティーの影響も懸念されます。
経済的な功利主義に加えて、そのような場合の判断に影響を及
ぼす、ものの見方にも変化が生じていることが注目されます。先
進工業国に暮らす多くの人々は、遺伝子工学を用いて、できるだ
け“完璧な子ども”--フランス語流にいえば「ア・ラ・カルト」
(お好み)の赤ちゃん--を選べる日が来るのを期待しているよ
うです。
さらに、こうしたものの見方は、政策決定にも影響を与えるこ
とがありうるのです。新しい技術の助けを借りて、行政官僚が優
生学的な判断を下す恐れがあるということです。
例えば、アメリカ連邦議会技術評価局は、すでに二十五年ほど
前に当時の先端技術の発展について、次のように報告していた。
「遺伝子の性質を特定し、改変する新しい技術は社会的な制御の
方法(例えば、「患者の隔離」)のかわりに、科学技術的な方法
によって優生学的な目標を実現することを可能にしている」(一
九八八年の同局報告書より)。この記述はナチスの優生政策の背
後にあった功利主義的な論拠を思い起こさせます。だが、優生学
的なものの見方がナチス以前からすでに一般に広まっていたので
61
す
。
二十世紀初頭、米国、英国、ドイツで優生学の大きなうねりが
起こり、知能障害やアルコール依存症、癲癇などの病気の人々に
対して強制的に不妊手術を施すことを認める多くの法律が成立し
ました。一九二七年、アメリカ連邦最高裁が、知能障害の人々に
対する強制的な不妊手術をしても合憲であるとの判断を下したと
きには、背景にやはり優生学的な考え方があったはずです。
このようなメンタリティーは今も多くの人々に残っています。
日本の文化においても、日本の政治家が規範とする考え方のなか
にも、そのような思想が存在していることに、私たちは気づく必
要があるでしょう。
以上の指摘のうえで、次に七つの疑問の形で生命操作の時代に対
す る 哲 学 者 の 懸 念 を ま と め た い と い 思 い ま す 。
一.どうして病院などの医療の場が市場のようになってしまう
のでしょうか。
機械が壊れると修理に出し、必要な部品を取り替えますが、人
間が体調を崩したときの治療はそれとは違います。体は機械では
なく、医療は単なる修理ではありません。患者も医師もこのこと
を理解するだけでは足りず、病院制度のあり方自体を相当に考え
直す必要がありはしないでしょうか。
二.どうして末期患者は実験台のような状態に置かれてしまう
のでしょうか。
延命とは文字通り「命を長引かせる」ことですが、著しく発達
した現代医療では、人為的な手段によって患者の命を長引かせる
ことがますます可能になっています。しかし、どんな場合でも無
理をして延命を図るべきかどうかについては、疑問が多いです。
回復の見込みがなく、患者にとって負担でしかないような過剰医
療は、それをする必要も義務も意味もないのです。
三.どうして臓器を部品のようなものとみなしてしまうのでし
ょうか。
62
生命倫理の立場から臓器移植を考えた場合、理論的には認めら
れても、実際の方法に関して多くの疑問が出ています。必要な条
件を満たしたうえで慎重に行われた場合でも、またそれが無償の
愛の行為であると認められた場合でも、なお医療資源の公正な分
配の問題が残り、人間観・死生観の点においても疑問が避けられ
ないのです。さらに、病院のあり方と医療に対する不信、行政側
の効率主義、技術者の焦り、医療機関の経営などへの疑問も多い
です。何よりも臓器の部品扱いに対する抵抗が生じるのは当然だ
と思われます。
四.どうして性の営みを遊びにすぎないものとしてしまうので
しょうか。
性の営みは人格全体に浸透しているものであるから、肉体と精
神を割り切って捉えることはできません。禁欲を強調する極端な
道徳主義も、性行為を遊びに過ぎないとみなす極端な快楽主義も、
人間学的に見て一面的であるといわなければなりません。この両
極端を避けて、性の営みに関する統合的な捉え方をし、性の次元
における人間の成熟とは何かを考え直す必要があります。
五.どうして受精卵と胚を商品化するのでしょうか。
受精時に行われる決定的な飛躍は、人間の心が成立する過程の
始まりだということにあります。どの時点で心が成立するかとい
う論争は別にして、この過程を初めから大切にすることが重要で
す。どの時点から一人の人間の命が始まるのかに関して種々の説
があっても、最初からその命を守ることが大切なのであり、胚を
対象にする無責任な操作をすべきではないのです。
六.どうして妊娠の過程を製作所の作業のように考えるのでし
ょうか。
体外受精が盛んになった時代においても、逆説的ではあるので
すが、中絶の問題が深刻です。生殖医療をめぐる議論の中で、
「どのような方法で不妊を乗り越えるのか」という質問と、「産
むかどうか」に惑う話の両方をよく聞きますが、そういった問題
提起に先立って、より根本的な問いがあります。すなわち、生ま
63
れるすべての者が「待ち望まれて」生まれるようにするにはどう
すればよいのかという、社会全体に投げかけられる問いです。
七.どうして子宮を、産む機械にすぎないかのように扱かって
しまうのでしょうか。
妊娠期間に起こる母胎と胎児の間の相互の働きかけは重要で、
そのとき母親の身体に起こる大きな変化と、胎児に対する母親の
心理的な状態の影響などを十分考慮に入れた場合、「代理出産」
ということは単に「子宮を貸してあげる」程度のことだとはいえ
なくなります。代理出産を依頼した人からの「生まれてくる子ど
もが障害児なら中絶してほしい」という要望に対して、代理母と
なった人が「私は産む約束をしただけだ」と答えたというケース
が繰り返し生じています。その場合、依頼者も代理母もその子ど
もと無関係であるかのように反応しましたが、生まれてくる子ど
ものことは一体だれが考えてくれるのでしょうか。
以上の七つの疑問はほんの数例にすぎません。読者一人ひとり
が、これらの延長線上で考えを進め、解答に努めることを自らの
課題にしていただけるようにすすめます。
第二講
生まれる命を迎える
Nascent Life
64
65
煮込み料理は下火でじっくり時間をかけて煮込むとおいしくなり
ますが、「インスタントの時代」にはなかなかそのゆとりがない
ようです。立ったままで、急いでコーヒに軽食をグーと飲み込む
こともよくみかけます。電子メールになれたら時間をかけて万年
筆で封筒に住所を書いたり切手を貼ったりするのは面倒なことに
なります。
私は、長く海外に出ていたら、日本に戻ると最初の印象は、ひと
ことで言えば「やはり、みんな走っている、走りっぱなしの社会
だ」という印象でした。こんな時代、こんな社会の中でいったい、
生きものというものは時間がかかって成長していくことがわかる
のでしょうか。
幼稚園のこどもに先生が教えていました。植えたばかりの小枝を
ひっぱってみなさい、早くのびるように、と。子供がひっぱった
ら、根こそぎにされてしまったのです。そこで先生が教えてあげ
て、「ご覧なさい、生きものだからのびるには時間がかかります
よ。早くのびるように引っ張ってもしようがありません」。
本章では人の命のはじまりも終わりも一瞬間におこることではな
く、時間がかかる過程(プローセス)であるということについて
考えようとしております。
生命の誕生をめぐっていろいろな問題が話題になっています。た
とえば、体外受精とか、出生前診断などです。そのようなことが
議論されるとき「どのような方法で不妊を乗り越えるのか」とか
「産むか産まないか」とかいうような問題提起をよく耳にします
が、それに先だってもっと根本的な問題があると思います。つま
り、産まれるすべてのものが「まちのぞまれて」産まれるように
どうすればよいのかという問いです。この章をつらぬいているの
はまさにこの問いです。
66
生きものはロボットとは違う
知り合いの家庭を訪問して驚いた話を聞かされました。お母さ
んは三才の子供にデパートで小さなカブトムシの入ったかごを買
って上げていたそうです。一昔前だったら子供達は庭で編みを使
ってカブトムシを取ったりしたのですが、この頃の大都会のアパ
ート生活では庭もないし、隣の公園にいっても公害で虫が減った
ようです。とにかく、デパートで売るのです。
あの子供は喜んで虫かごとあそんだりしました。そして鉛筆か
何かで刺していじっていたら、かごの中の虫が死んでしまいまし
た。その時あの子供は、かごを手に、「お母さん、電池をとりか
えてちょうだい」と言ったそうです。
この話を聞いてびっくりしたというよりも、恐ろしく思ったと
言ったほうが正確でしょう。
まず、生きものを機械と間違えることはおそろしいことです。
それから、電池をとりかえれば元に戻るということになれたら、
死というものがわかるでしょうか。
さらに、この子供が大きくなったら、電池がきれたら機械が止
まり、インクが切れたらプリンターがはたらかなくなり、電気が
切れたらパソコンも動かないと同じように、人間の誕生も死も一
瞬間に起こる機械的なことだと考えてしまってもふしぎではない
でしょう。
そして、もしこの子供が将来お医者さんになればどうなるでし
ょうか。もしかすると、病人よりも病気だけを見、心身よりも肉
体だけを見、体の部分を機械の部品のように見、臓器を部品のよ
うに見、生殖医療において胎児をモノ扱いしてしまうのかもしれ
67
ません。じつにおそろしいことですが、そんなモノの見方や価値
観を育てた責任は誰にあるのでしょうか。
子供の成長には動物と遊んだり植物を植えたりする事も大事だ
ろうと思います。そうすることによって生きものにとって時間の
経過というものがどんなに大切であるかの実感がわいてくるでし
ょう。
もう一例を挙げましょう。自分の手で時間をかけて何かをつく
ることも出来合の品物を買うよりも値打ちがあるときがあります。
ある子供が母の日にプレゼントしたいと考えたとします。子供は
デパートに友達と一緒に行って、決まり切ったプレゼントを買う
のです。それもよいことかもしれませんが、もしその子供が、簡
単なものでもよいから、自分の手で作ったものを母にプレゼント
するならば(例えば、植木鉢で自分が作った一輪の花)、そのプ
レゼントのもつ価値は、どれほど大きなものでしょうか。心のこ
もったプレゼント以上に価値のあるプレゼントが他にあるのでし
ょうか。残念ながら消費中心の時代には、自分とものとのこうし
た大事なかかわりかたよりも、画一主義のほうが支配的ではない
でしょうか。
もう一例があります。大都会で育ったある子供が「ミルクはど
のようにして作られるの」という質問をしていたそうです。その
子供はおそらく牛を見たことがなかったのでしょう。これは、
少々大げさな例ではありますが、先ほど言ったようにインスタン
ト時代においては「ものごとの発生」への興味が薄らいで、「時
間がかかるなりゆき」よりも、「お金さえ出せばボタンをおすと、
自動的に品物が手に入る」という考え方が広がっていきます。そ
して、瞬間に生きる生き方とともに「たこつぼ」のようにものご
とをとらえる見方も当然になってしまうのです。
結局、本書で私は生命に関する諸問題にふれていますが、解決
があるかないかの鍵は元々教育に溯るのではないかと思います。
ある子供は受験勉強によって、多くの単語を覚えはしたものの、
しゃべるかというと、かならずしもそうではありません。他の子
供はとなりの外国人の子供と遊びながら英語のしゃべれるように
68
なったのです。言葉も「生き物」に似ていますので、生きた環境
でそれを学ぶのは一番よいのです。知識偏重で情操教育がおこた
ってしまっているところにさまざまな悲劇や犯罪の由来がありま
す
。
ある子供が音楽の天才になるように遺伝的な準備がそなわって
いても小さい時から楽器や歌などをやらなければ音痴のままに終
わってしまうでしょう。芸術だけではなく、倫理に対する感覚も
小さいときからそだたなければ後で無理でしょう。それをそだて
るにはたくさんの禁止事項や厳しい戒めよりもいきた体験や生き
た例や模範を見せたり、それをものがたったりするほうが良い道
徳教育でしょう。
先ほど(第一章で)上げた幼稚園の先生は一本の木を引っ張る
ことによって延びるどころかだめになるという具体的な体験をさ
せました。そのように生きものの成長について教え、命を大事に
取り扱うことを身に付けさせていたのです。
珍しい民芸品を人に見せる時、その民芸品の値段や、それが作
られた材質については、良く人は尋ねます。しかし、その民芸品
がめずらしいものとして人の目に止まるまで、どれほどの「手間
がかかったのか」とか、これほど心を打つものは、どれほど心を
込めて作られたのだろうかとたずねる人は少ないかもしれません。
時間がかかって作られたものは時間をかけてゆっくり見て味わう
ゆとりがないのでしょうか。
生と死そして時間
では、生命の始まりと終わりに置ける倫理上の諸問題の話に入
りますが、そこにもまず、生まれることも死ぬことも「時間がか
かるなりゆき」であるということを強調することから始めたいと
思います。
27年前に私が初めて生命倫理の本を著したとき『バイオエシ
ックスの話』という題をつけたのですが、副題は「体外受精から
69
脳死まで」というふうになりました。そう「なった」というのは、
私が別な副題のほうがよいと思っていたからです。確かにあのこ
ろ毎日のように体外受精と脳死の話題が新聞をにぎわしていたの
で、そうした副題の方が本の売れ行きにとってよかったのかもし
れません。私が考えていたように「出産と死の前後」というタイ
トルにすれば販売のため具合がわるかったでしょう。しかし、私
の関心事は体外受精や脳死といった二つの「終点」よりも、そこ
にいたる「なりゆき」またはその後に続く「なりゆき」でした。
それを明確にしてみたのは『続。バイオエシックス』(5章6章)
においてでした。そのとき、「生まれくる過程」と「死に行く過
程」(「死に臨む」)というふうにその章の題を付けました。さ
らに、『生命の未来学』において生まれることも死ぬこともプロ
セス(過程)であり、体外受精や脳死の是非を論じるよりも、
「生命の誕生を迎えること」(4章)と「死を位置づけること」
(2章)を力説し、「脳死の問題に対していささか関心を失いつ
つある」ともことわりました。「死の判定をめぐる問題よりも、
死に至る過程においていかにすれば患者に相応しいケアを与えら
れるかということが、緊急な課題であると考えている」からです。
スペインの文学者と思想家ミゲル・デ・ウナムーノ( 1864-
1936)は次のように書いています。「愛する二人は、苦悩という
強力な大槌が、彼らの心をうち砕き同じ悲しみという容器の中で
混ぜ合わせるまでは、自己放棄をもって愛し合うには、つまり、
もはや肉体の融合ではなく魂の誠の融合をもって愛し合うには至
らない。愛から二人は肉の結晶を、子供をえた。そして死のうち
に生をうけたその子供が病気になり死んでしまったとしよう。彼
らの魂は悲しみ故に結合し、二人は絶望のうちに抱擁をするので
ある。その時、肉の子の死から、真の精神的な愛が生まれたので
ある。人間は、同じ苦悩を一緒に味わった時にのみ、共通の苦悩
という軌につながれながら石だらけの畑をある期間耕した時にの
み、精神的な愛によって愛し合うからである」(著作集3『生の
悲劇的感情』156ページ)。
数年前のことですが、私がスペインに行く際、友人から気のき
いたおみやげをもらいました。出発は八月の終わりごろだと知っ
ていた彼は月下美人の開花を写真で見せようと考えたのです。そ
れで、彼は花を植えていつ咲くかを見守っていました。いよいよ
70
今晩だろうとわかったとき、彼は家族と一緒にその花が咲く過程
を写真で連続的にうつすために一晩寝ないで見張っていたのです。
翌日私に月下美人についての話を添えて十枚ほどの写真をくれま
した。
それは単なる土産程度のものではなかったのです。多いに得る
ところがありました。なるほど、「手間暇がかかる」ものとのか
かわりかたこそ大切な人間の心のふれあいを育てることになりま
す。
身分証明書にはその人の生年月日が記載されています。そして
死亡証明書にはその人の死が確認された日付と時間が書いてあり
ます。しかし、誕生も死も一瞬間に起こる出来事ではありません。
そこにいたるまでの成り立ち・なりゆき・過程こそ重要なのです。
この考え方は人命の始期についても死期についてもあてはまる
のです。
「線をひく」という考え方から二つの極端が出てきます。つま
り、その線に抵触さえしなければ何でもゆるされるというのと、
その線を一歩踏み外せば、どんな例外も認める余地はない、と言
うことになってしまいます。
「ヒト」の「受精卵・胚」に関して言えば、どの時点から「一
人の人間」や「心のある個人」だと言えるのかという問題の結論
は、なかなか線を引いてみいだすことができません。それゆえ、
その取り扱いについて慎重な判断が必要とされます。
一人の人間の存在はどの時点で始まり、どの時点で終わるのか、
線を引いて答えにくいのです。せいぜい言えることは、「少なく
ともこの時点より前ではない」とか「この時点より後ではない」
ということぐらいです。しかし、ヒトはしばしば、いざ事に対処
しようとするとき、はっきりした線を引くことを好むようです。
ある一線を定めさえすれば、問題はほぼ解決すると考えがちです。
しかし、生命の始まりにおいても、終わりにおいても、そう簡単
には割り切れない問題があると、そのように私は思います。
人の生命がいつ始まるのかということがよく問題になるのは中
71
絶などを論じるときです。そして、人の生命がいつ終わるのかと
いうことがよくとりあげられるのは脳死などを論じるときです。
私はこの二つの問題、生まれる事、死ぬことが過程(プロセス)
であることを二十数年前からの拙著『続・バイオエシックス』お
よび『生命の未来学』で強調しつづけてきました。死に関して言
えば、いわゆる「死ぬ瞬間」(death)よりも、「死に向かってい
く 過 程 」 ( dying ) に 注 意 を 向 け る 必 要 が あ る と 思 い ま す 。
母胎の内から分娩をみることができれば
人が産まれてくるいのちの神秘を、象徴的に表している寓話が
あります。子宮内のすべての細胞たちに人間と同じような意識が
あったという擬人化した話です。細胞たちは、母親の子宮に着床
した受精卵を看て、はじめてたいそう驚きました。しかし、一週
間、一ヶ月と日毎の大きくなっていく胚に、細胞たちは非常な関
心と愛着を示し、やがて愛情を抱くようになりました。ところが
九ヶ月経ったころのことです。子宮内で急に地震のような妙な動
きがはじまり、細胞たちが見つめている中を、あの赤ちゃんは暗
いトンネルを通ってどこかへと消え去りそうでした。細胞たちは
あわてて引き留めようとしました。彼らがいくら必死になっても、
どうすることもできず、別れを惜しんで泣き出してしまいました。
やがてトンネルの扉が戸締まり、闇と沈黙が周囲をおいました。
細 胞 た ち は 死 を 偲 び 、 葬 儀 を 行 い ま し た 。
このように赤ちゃんの誕生は、このたとえ話でもわかるように、
子宮内から看れば死であり、外部では希望あふれる誕生となるの
です。つまり産まれるということは新たな存在への再生を意味し
ます。後に各成長段階に応じ、新しい存在へ生まれ変わっていく
ためにいくつもの別れを経験しなければならないでしょう。やが
て最後の別れである死が訪れ、死を経て人は永遠の生命に生まれ
変わるのです。誕生が死であれば、死もまた誕生です。人が一生
の間、生まれ変わりながら成長していくということは各段階にお
ける別れであり、創造の継続でもあると思います。そして死は終
わりではなく、新しい創造であると言えましょう。
人間的な営みとしての性
72
人間の場合、性の営みは人格全体に浸透しているものですから、
ここまでが肉体的でここから精神的というように割り切ってとら
えることはできません。だからこそ、人間のほうから人為的に性
の営みに介入するとき、心理面にもさまざまな影響がおよぼされ
るのです。特に最近可能になってきたいろいろな操作の仕方によ
って生殖活動に呼び起こされる変化は、人間全体の営みとしての
性の在り方にも、当然影響を及ぼします。
たとえば不妊について考えると、これは肉体的な問題だけでは
なく心理的な問題をも伴うことがあります。技術的にどうすれば
不妊を解決できるかということはもちろん問題ですが、もともと
不妊の受け止め方という心理的な問題もあります。似ていること
は避妊についても言えます。ある避妊方法の成功率だけ考えて行
うと、ほかの問題を無視してしまうことにもなりかねません。つ
まり、肉体的に安全かどうかだけではなく、精神的にも具体的に
そのカップルに合うかどうかの問題が残ります。言うまでもなく、
男性のエゴだけでこの問題を考えるわけにはいきません。ですか
ら、不妊の問題も当事者の夫婦がどのようにそれを受けとめ、ど
のように話し合っているかということが大切です。もしこういっ
た側面を見逃してしまうと、技術上の成功だけが果たして人間に
とって成功かどうかは疑問です。
ところで私たちの文化の中で、愛と性はどのようにとらえられ
ているのでしょうか。今よくあるのは二つの極端だと思います。
その一つは子供たちが週刊誌などから、どのようにすれば快楽が
得られるかということを教わるということです。他は道徳教育で
歯止めをかけることだけ押しつけられるときのことです。「いい
んじゃないか」という風潮の中に巻き込まれている若者たちに向
かって、社会が「だめだ」とか「いけない」とか言って引き締め
ようとすすめる人がいますが、あまり効果があがらないというの
が実状です。この両極端を避けて、性の営みに関する人間学的な
捉え方が必要だと思います。たとえば、人間にとって性という面
で成熟していくとはどういう意味をもつのかということを教えな
ければならないでしょう。そして、人間関係および人間同士のコ
73
ミュニケーシオンにおいて、性の役割を位置づける必要もあるで
しょう。
これに関して、次の仮説を考えることができます。仮にすべて
の子供が体外受精の方法でうまれる時代が来て、また完全な避妊
方法ができて、避妊に失敗したから中絶するというようなことが
全くなくなる時代が来たとします。しかしそのような時代になっ
たからといって、何をしてもよいということになるのでしょうか。
たとえば、妊娠中絶などの問題がなくなったからといって、い
つでも誰とでも性的関係を結んでよいということになるのでしょ
うか。もし、しないほうがよいという理由として、「妊娠する心
配があるから、これ以上深入りするな」ということしかなければ、
それだけでは足りないのです。いや、妊娠する心配があるかどう
か、社会から認められているかどうかではなく、人間として互い
に大切にし合っているかどうかというように倫理への視点のおき
方を根拠づける必要があるでしょう。
したがって、「妊娠の心配があるから注意しなさい」という消
極的倫理を押しつけるのではなく、「どのようにすれば自分と相
手を大切にし、責任がもてる関係が結ばれるのだろうか」という
積極的な問いを提供したほうがよいと思います。このように、私
たちは性や愛情も含めて人間としての成熟を考えていくべきでは
ないでしょうか。肉体的な接し方だけではなく、男性と女性の在
り方や言葉によるコミュニケーシオンの在り方などを含めて、単
なる性の倫理よりも性の人間学が現在最も必要とされているので
はないでしょうか。
文化の未来への懸念
現在すでに何千人もの体外受精児が生まれているのですが、こ
の事実よりも、こうした技術の結果、何千万人もの人に対する生
命観や人間観に及ぼす影響のほうがはるかに重大な意義を持つと
思います。
74
全部計画どおりコントロールできて、何も偶然がなく、男か女
か前もってすべてわかっていたほうが、果たして人間にとって一
番よいことなのでしょうか。
昔ヨーロッパでは、赤ちゃんは「こうのとり」がつれてくると
いわれていましたが、あれは単なる子供向けの説明だけではあり
ません。あの愚話の背後には、子供は授かり物だという意識があ
り、それを詩的に表したのが「コウノトリの話」だと思います。
詩的なものが人生から消え去ってしまってよいのでしょうか。も
ちろん、今ここで、こういう話をすると、わたしは理想主義にす
ぎないと言われてしまうのかもしれません。でも、そういう理想
主義的な面を完全に消え去らせてはよいのでしょうか。たとえば
男女関係の中で、そういう面を全部省いて、単なる肉体的な満足
感だけを得ようとしても、それさえ得られないかもしれません。
これは倫理の問題ではなくてわたしたちの文化の問題だとわた
しは言いたいのです。快楽至上主義の文化の中で、いったい人間
はどうなっていくのでしょうか。生命観、恋愛観、死生観はどう
なるのでしょうか。それを考えないで、ただ性の乱れを引き締め
ようとするだけでは不十分です。したがってもっと広く高い次元
から、倫理よりも人間学的な立場からここでとりあつかっている
よ う な テ ー マ を 見 る 必 要 が あ る と 思 い ま す 。
本書で限られた枚数で大きな問題を含むいくつかの生命倫理の
話題にふれていますが、そうした例のどれをとって見てもその全
ての話題に共通する一つの矛盾にぶつかります。つまり、人間が
開発した技術が、人間をもっと人間らしく生きられるようにする
どころか、非人間化がますますおしすすめられようとしているの
ではないかという疑問からのがれられないのです。
今の日本は豊かになったのですが、しかし、本書で取り上げて
いるような問題への対応の仕方にはいろいろと日本でかけている
ところがすくなくないのではないかと思います。日本は本当に豊
かになったのかそれとも貧しくなったのかわからなくなります。
確かに生命を守ろうと思えば、現代の日本ほどそれが出来る手段
と条件が整った時代と国は今ままでなかったでしょう。けれども、
現代の日本においてこそ生命が脅かされている場合が少なくない
ことも事実です。しかも、その脅威は経済的な豊かさと技術的な
75
豊かさの背後に隠されていることが多いのです。その隠れている
現代社会の矛盾や貧しさに勇気を持って目を向ける必要がありま
す。というのも華やかな経済・技術の進歩に目を奪われている間
に、私たち人間の未来が確実に脅かされ、力の弱い一人一人の人
間の尊厳が見失われないように見張っていきたいものです。
始まりつつある命の歩み
受精のときに行われる決定的な飛躍のなぞは、人間の心が成立す
るための過程の始まりです。今ここで、どの時点で心が成立する
かという論争は別にして、この過程を始めから大切にすることが
必要なのです。どの時点から一人の人間の命が始まるか、という
ことに関して意見の相違がみられます。カトリック教会の公式な
文書では、科学的にも哲学的にも定義するのではなく、「最初か
らその命を守ることにする」という「より安全な立場」が取られ
ています。
そうした文書には、たとえば、次のような三種類の発言がうか
がわれます: イ)信仰、ロ)倫理、ハ)科学、それぞれの観点
から行われている発言です。
イ)信仰の観点からみて「胎児は生まれ出る前から神の愛の対
象である」と言われています(『いのちの福音』44;エレミヤ
1,5)、
ロ)倫理一般の観点から考えて、「始まりから死に至るまでの
人間のいのちには神聖な価値がある」と言われています(『いの
ちの福音』2)。
ハ)科学の観点を参考にして、「受胎のときから、受精卵の中
にはその生命体が将来何になるのかという遺伝的な仕組みがある
ことがあげられています(同 60)。
この三の発言はそれぞれ異なったレベルのものです。イ)と
76
ロ)に関して言えば、知識や具体的なデータが変わっても、その
ような発言の内容が変わらないものです。それに対して、ハ)の
場合には、新しいデータや考え方の発展によって変化があり得る
し、神学者の間でも賛否両論もありえます。というのも、あたら
しいデータや考え方の発展によって同じ原則に基づいても、異な
った結論を出すことがあり得るからです。
この点について教皇ピオ十二世が 1957 年に述べたことが参考に
なります。教会がどの時点で人が死んだと考えるのかと聞かれて
教皇は答えました:「具体的なケースにおいてどのようにその事
実を確認するかということについて話すのは教会の役割ではあり
ません」。教会はいのちを「始めから終わりまで」守るようにと
言いますが、その始めや終わりの生物学的な規定については、科
学者の貢献を参考にしなければなりません。言い換えれば、教会
はいのちを始めから守るべきだと言い、その始まりについて定義
するよりも最初から守るという慎重な態度を取っているわけです。
(1957 年 11 月 24 日 Mendel 研究所員がローマで会議を開いたと
き の 教 皇 演 説 。 Documentation Catholique, 1957, n.1267,
col.1605。ヨハネ・パウロ2世も1989年12月14日教皇庁
立科学アカデミに向かって行った演説の中で、同じ線で脳死と臓
器 移 植 に つ い て 述 べ ら れ ま し た 。 使 徒 座 議 事 録 ( Acta
Apostolicae Sedis ) 、 1 9 9 0 年 7 6 6 ペ ー ジ ) 。
さらに、避妊と中絶の違いについても『命の福音』(1995
年)の中で「 避妊と中絶はあきらかに別な次元のものであり、同
一視されるべきではない」ということが指摘されています。教皇
は避妊に対して否定的な意見を表しますが、避妊と堕胎はそれぞ
れ別な次元の問題であることを明記しています(同 13)。教皇ヨ
ハネ・パウロ2世は避妊を拒否するための根拠付け方を変えよう
としてきました。ごく小数の一部の神学者たちは、避妊を中絶と
同一視してしまい、「(『殺すなかれ』)に反するもの」とみな
してしまっていましたが、教皇は彼らの論理には決して荷担され
ませんでした。教皇は避妊を拒否されるのは夫婦愛の本来の在り
方をゆがめるかぎりにおいてです。
このように考えますと、避妊の問題について考える「物差し」
77
は夫婦の愛情と相互尊重が傷つかないようにということです。
避妊をめぐる論争の中で二つの極端な考え方が伺われます。一
つは自然という言葉を狭義に捉え、人工的なものはすべて不自然
とする立場です。他の極端は、安全性や効率のみを考慮に入れて
人工的手段によるいろいろな副作用を無視してしまう考え方です。
前者は「自然の摂理」というスローガンを掲げ、後者は「安全性」
というスローガンを掲げているのですが、わたしはそれに対して
「視点の置き方」を変えて、「健全」という言葉を広く深い意味
で使いたいものです。それぞれの夫婦にとってどの方法が肉体的
にも精神的にも一番健全であるかということを物差しにしたうえ
で責任のある結論を出すことをすすめたいのです。なぜなら人工
的手段によらないで、自然的方法と呼ばれている方法は場合によ
っては、非常に不自然になってしまうこともあるし、逆に人工的
と呼ばれている方法は人工的であるという理由だけで人間の尊厳
に反するとはかぎらないからです。この誤解を招きやすい「自然」
や「不自然」あるいは「自然的」や「人工的」という言葉よりも、
それをさけてわたしはむしろ「何が真に肉体的にも精神的にもっ
とも健全であるのか」ということをケース・バイ・ケースで検討
するように勧めます。
避妊と中絶の境界線の移動
この二つの問題の混在のためたびたび誤解が生じます。それを
すっきりさせるために学会で次のようなことを仮説の形で提言し
たことがあります: a) 生殖医療技術にともなう b)倫理上
の諸問題を, c)慎重に取り扱うため、d)「ヒト」の個体発生
における, e) 連続性の中で、f) それぞれの決定的期間,
g)す
なわち、受精の過程、着床の過程、 脳形成の過程などの h) 境
界線について再考する必要があるということです。
a)
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「生殖医療技術」は体外受精、出生前診断、遺伝子操作、
クローンなどを含めます。
b) 「倫理上の諸問題」は受精卵の扱い、先天異常児の扱い、代
理母、妊娠中絶などなどです。
c) 「慎重に」というのは、両極端(大げさな「歯止め」と技術
だけの無責任な「一人歩き)を避けたいからです。
d」 「ヒト」の個体発生は、「ヒト」という「種」の発生の過程
(精子と卵子の結合から始まる過程)を指すのです。
e) 「連続性」は生物学的には強調されています。「線引き」の
考え方では命を扱うわけにはいきません。
f) 「決定的な期間」というときには特に着床の重要な境目を念
頭においておきますが、そこに重要な境目があると言っても、それ
は「一点」や「一瞬」に決まるものではなく、一定の時間がかかり
ます。だから「期間」という言葉を使いました。
g) 「受精の過程」に関して言えば、受精は一瞬に起こるもので
はありません。着床も脳の形成も過程であって、「一点」や「一瞬」
に起こるものではなく、ひとつの「区域」や「期間」に渡って行な
われる過程を指します。
h) 境界線について再考する必要があります。たとえば、妊娠の
過程への人為的介入は次のように区別されうるのです:イ)受精を
妨げるもの、ロ)着床をさまたげるもの、ハ)中絶、です。
この最後のポイントを詳しく述べてみます。次のように四つのこ
とを区別できるのではないかと思います:
イ)受精を妨げること
します)。
79
(「避妊1」と呼ぶことに
ロ)着床を妨げること
(「避妊2」と呼ぶこと
にします)。
ハ)着床した胚の発達を止める中絶
ニ)胎児(fetus)の命を断つ中絶
。
倫理上の立場から「堕胎」という言葉を注意深く使いたいのです。
どの中絶でもかならずしも堕胎という概念の枠に入るわけではない
のです。たとえば、子宮外妊娠が起こったので、やむを得ず胎児を
中絶する場合はその一例ですが、伝統的な神学でもそれは「医療上
の理由による間接的な中絶」と呼ばれていました。私はこのような
場合に「堕胎が許される」という言い方を使いたくないのです。む
しろこれは堕胎ではないと言った方が適切ではないかと思います。
健全な性教育
性教育が必要だという声が多いのに、「性教育」という言葉を
耳にするだけで神経質になる教育者がいるようです。そのように
反応する教師は別な言い方で言われれば納得していただけるでし
ょうか。たとえば、健全な性教育を考えようではないかと言えば
ついていけるでしょうか。とにかく、このテーマについて普段、
開けっぴろげに話すことがないのですが、大変重要に思われるの
で 、 こ れ か ら 遠 慮 な し に 述 べ た い と 思 い ま す 。
夏休み中いろいろな研修会がおこなわれるのですが、場合によ
っては最近の話題をとりあげ、一時感心が湧くのに、後に日常の
教育課程の中でそれを生かさず、一発花火に終わるのではないか
という懸念があります。
私は数年前にあるカトリック学校で生命と性について研修会を
行うために呼ばれて大変有意義な仕事だと思って一生懸命準備し
たことがあります。研修会でみなさんと一緒に研究したり話し合
80
ったりしているあいだ教師たちが示した興味と反応に感心したし、
私自身も学んで帰った実感でした。カトリックでなかった大部分
の先生たちが生徒指導に関する自分達の経験を生かした提言で話
し合いに参加し、多くの具体的な提案を示し、健全な性教育を見
直すための示唆が多かったです。私は、指導するよりも、多くの
ことを学んで帰ったと言うのはたしかにお世辞ではありません。
ところが、後になってわかったのですが、数年経っても学校の
方針が何も変わらなければあの研修会でがんばったのはたいした
意味がなかったのではないかという反省をせざるをえないのです。
実は、その研修会から数年後新幹線であの学校の先生にぱった
り会いました。「おひさしぶり」。「お元気ですか」。「あのと
きお世話になりました」と言われて、「いや、私こそみなさんか
ら教わりましたよ」と私は答えました。そして「あの後、お宅の
学校で性教育はどうなったでしょうか」とたずねてみました。
「いや、実はむずかしいのですよ」。「どうしてですか」。「う
ちの校長は性教育という言葉を聞くだけで怒るのですよ」と。
その話を聞いて私はがっかりしました。やはりあの校長は大学
の教授をしている神父の話を先生たちに聞かせてあげればそれで
すむと思ったのでしょうか。それで安心して責任を果たしたつも
りになり、いわゆる「ありがたいお話」を聞かせれば問題が解決
すると思い込んだのでしょうか。そうだったらミッション・スク
ールをやめた方が良いと私は思いました。
とは言っても、例の校長先生の意見に納得できなくても、その
心配がわからないでもないのです。きっと二つのことが気掛かり
になっているに違いないと思います。一つは性教育という名のも
とで単に生徒の好奇心をあおるようなセックスの話に終わってし
まうのではないかとおそれているかもしれません。それならたし
かに健全な性教育にはならないでしょう。あるいは、カトリック
の教えと会わないことが生徒に教えられるとこまるから気になる
かもしれません。この点に関する誤解も少なくないので例の研修
会で詳しくそれをとりあげ、教会の教えを正しく理解し、極端な
道徳論におちいらないように気を使って説明したつもりですが、
昔風の伝統的な教科書の癖を取り除くのは簡単ではないかもしれ
ません。
81
性教育を行うに当たって「総合的な人間学」の観点に立って行え
ば、誤解が避けられ、健全な性教育ができるのではないかと思い
ます。それは、つまり、性の諸次元を念頭におき、多くの観点
(例えば、生理学、心理学、社会学、哲学など)から人間にとっ
ての性の意味を考える捉え方をめざすことです。
このように広い視野にたって性をとらえたいと思います。性教育
は、もちろん学校で教えるより先に家庭の中で学ばなければなら
ない面が少なくないです。具体的にお父さんとお母さんはどのよ
うに互いに大切にし合っているかによって子供の心のあり方が育
つことが多いでじょう。学校で行われる生命と性に関する教育は
その姿勢を育てるために工夫されます。たとえば、セックスにつ
いての話し合いの中で多くの次元、多くの側面からセックスを捉
えさせ、生殖行為としての性、人間的なふれあいとしての性、快
楽の伴うものとしての性、売買春の商売として行われる性などに
ついて生徒に考えさせます。
いわゆる説教してあげることにとどまらず、正しい情報は家庭
で始まって学校で行われるはずの性教育において学ぶことは大切
です。性教育と言えば生理学的なものを教えるだけでは足りませ
んが、そうかと言って、規範を教えるだけでもたりないのです。
これをしてはいけない、これをすべきであるといったような形で
禁止事項を教えるだけでは足りないのです。それよりも、性的関
係、性的営み、性的生活について心理学的にも社会学的にも正し
い情報を与えた方が役に立ちます。
例えば、女性と男性のそれぞれの精神的な感じ方について考え
させるとか、現代社会における性の風潮について考えさせること
があげられます。ちなみに、自分たちが接する性情報にはどのよ
うなメッセージが含まれているのでしょうか。あるいは、性犯罪、
いわゆるセクハラとかレープについて、または性感染症の問題に
ついて考えさせることなど社会批判的に考えさせることも有意義
な話し合いへの手がかりとなるでしょう。
82
そして、つまらないことや細かすぎる点と思われるかもしれま
せんが、避妊について扱うときも正しい情報を得させることが大
切です。ある青年は避妊方法を怠り、後に避妊の失敗で中絶の問
題がおきたとします。その中絶の責任の一部は性教育がたりなか
ったところにあると言わなければなりません。
とにかくこのような具体的なところまで恐れずに取り扱う必要
があります。カトリック学校だからこのことをタブー視にするど
ころかかえって教育の一部として扱うべきだと思います。
さらに、情報だけではなく、ものの考え方を育てることが学校
教育で大切です。例えば、自分にとって性とはどういう意味をも
つのか、性交を求める時どのように相手を見ているのか、どうい
った動機をもつのか、相手から快感を得たいだけなのかそれとも
相手に快感を与えて喜ばせたいのか、二人の人間が互いに安心し
合える関係の中でプライバシーを明け渡し、アイデンティティを
解体し合える絆を結ぶのはいったいどういった意味を持つのか。
こういった疑問を出して生徒に考えさせたいです。
性的ないとなみに関して後ろめたさがある時、それは健全なも
のなのか、それとも狭い教育の結果としての不健全な後ろめたさ
なのかをも考える必要があると思います。時々教会の中で性に関
する偏ったものの考え方の影響がみられます。
ミッション・スクールなどでの問題ですが、教師個人の価値基
準がバラバラで、生徒はどこに指標を見いだして進めばいいのか
がわからず、ウロウロしている現状です。神父やシスターの中に
は、避妊はうしろめたいものであると考える人が少なくないでし
ょう。
それについて私のある知り合いの人は「信徒としての自分を考
えればよくわかる」と言っていました。その人は次のように言っ
ていました。「つまり、私個人の倫理観がどこで形成されたかと
いうと、クリスチャンの親からの教育、高校時代のシスター方の
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教育、結婚講座をはじめとする教会での神父の考え方、現在共に
職場で働くシスター方との話しあいなどです」と言っていました。
そして、そのように述べてくれていた手紙で次のように言い続
けました。「教会関係の場でいまだに強調されるのは、〈十代の
娘には純潔教育〉。〈結婚生活の場では、荻野式とビリングスメ
ソッドを中心とする産児制限のみを認めた性のあり方〉です。そ
して、産児制限のための有効で信頼のおける人為的手段に対して
は絶対にだめというものです。教会内のこの風潮はよくないです
が、このことについて直接意見を求める信徒は少なく、なんとな
くうしろめたいという気持ちを助長するものになっています。も
っと開かれた態度をもっている信徒の教師自身、従来の教育によ
って〈形成された倫理観〉と〈現実の生活〉との隔たりから目を
そらさずに生きることは簡単ではないでしょう」。
このように一人の信徒から私が受けた手紙で考えさせられまし
た。たしかに偏った教え方をしてしまった私たち司祭や修道者や
カトリック教育者が反省すべきところが多いのではないかとつく
づく感じます。
以上は思いきって性教育について最近考えていることを述べま
したが、本書の第一章から主張している「いのちへの道を選択す
る」というテーマとのむすびつきに留意したいと思います。前に
たびたび述べて来ましたように、人間において「選択する」こと
は重要な特徴です。性の営み方においても健全な性の在り方を選
ぶかどうかが大切です。
そこで三種類の選択の例をあげておくことにしましょう。
1) 生殖に関する選択。
夫婦は何人の子供を設けるか、誕生と誕生のあいだにどの間隔を
おくか等を自分たちが責任を持って判断し、決めます。そこで両
極端な選び方もあり得ます。例えば、多くの子供を産み過ぎると
いうことも、絶対に産みたくないという選び方があり得るのです
84
が、両者とも無責任と言えます。責任を持って親になるかどうか
と言う選択を人間が迫られています。
2)快楽に関する選択
人間の性の営みは生殖のためだけではなく、それに伴う快楽を味
わい、相手とともに遊ぶ面もさまざまな形で生かすことができま
す。しかしそこでどの方向に持っていくかが問題となります。た
とえば、互いの絆を強めることもできれば、相手を自分の快楽の
ための道具にしてしまうこともできます。人間関係においてどの
ように快楽を位置付けるかと言う選択ともとりくまなければなら
ないのです。
3)人格的な関係に関する選択。
人間の性の営みは生殖や快楽に終わらないで、相手との人格的な
出会いを作り、その絆をつよめるものでもあります。しかし、そ
の営み方によって愛するものたちが互に高め合うこともできれば
互に破壊し合うこともできます。どの方向にその関係をもってい
くかはまた人間の選択です。
このように〈選択〉の問題を性の営み方に当てはめることがで
きるのではないかと思います。
私は講義ではこのことを分かりやすく説明するために「性にお
ける三つの P」というスローガンで表すのです。それは
procreation(人間的な生殖の在り方すなわち新しい命の創造のた
め に な る 神 と の 協 力 ) 、 pleasure ( 性 の 営 み に 伴 う 快 楽 ) 、
personal relationship(性の営みによってむすばれる人格的なき
ずな)です。この三つのことの統合こそいのちへの道を選択する
健全な性の在り方とつながります。
ところで、職員室で次の会話が聞こえました。
A 教員は言う、「うちの学校は性教育を取り入れるべきだ」。B
教員が反論する、「いや、うちの学校にはそんなものはいらない
よ。授業が週刊誌と間違えられると困るよ」。C 教員は付け加える、
「だけど、性が乱れているからしつけは必要だ」。
この会話には、性教育に関する典型的な誤解が現れています。
一つは、性教育を単なるハウ・ツー(how to)と捉えることです。
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つまり、生物学的なハウ・ツーの説明に快楽的なハウ・ツーをつ
け加えるのが性教育だと思いこむことです。もう一つは、その逆
の極端で、性に関する禁止事項をしつけることだけに終わってし
まうことです。
日本カトリック司教団の21世紀へのメッセージ『いのちへの
まなざし』は、その両極端を避け、「社会問題としての性の倫理」
を捉えています。人間は人格的存在で、「豊かでトータル(全的)
な存在である」とし、この人間から、「〈性〉だけを分断し、た
とえ合意にもとづいていたとしても、〈性〉をお金で交換可能な
商品に卑しめること」への懸念を表し、「次世代を担う子供たち
のためにも、あまりにも非人間的な今日の〈性〉の文化に対して
創造的な挑戦をしていかなければならない」と訴えています。
(25-26番)。
性の問題にこだわりすぎるのはよくないですが、人がこれを気
にするという事実も無視するわけにはいきません。性に関する悩
みは年齢や身分を問わず生涯伴われるものだからです。そこで、
相談室の現場からの例をあげましょう。
青年 D は修道生活を志していましたが、決断に踏み切れないで
いました。
「私は確かに呼ばれてはいるという確信をもつようになったの
ですが、異性に強く引かれているので、どうも独身生活にむいて
いないのではないかという気もします。修道者を見ると感心はす
るのですが、やはり私は凡人で煩悩があるのですよ」。
このように語るその人に、私は答えました。
「煩悩がないのが条件だとしたら、だれもこの道に入れません。
むしろ、人を愛することができないならば、この道には入らない
ほうがよいというべきです。そして、修道者らしい愛し方におい
て成熟していくことが一生涯の課題となるでしょう」。
86
もう一例は修道者 E のことです。この人は、忠実に誓願を守り、
それに反する行為は一切していないのですが、性的な問題に悩ん
でおり、そのことで長上と相談しました。この修道者の性的な指
向は異性に対してではなく、同性に向けられていたのです。相談
を受けた長上は話を聞き始めたとたんに大会を勧めるようなこと
をほのめかしたと言います。E は困って私のところに質問に来まし
た。
「同性愛の傾向をもっているという理由だけで修道生活はあき
らめるべきでしょうか」。
私は答えました、「いいえ、そんなことないですよ。異性に引
かれないということが決して入会の条件だということは決してあ
りませんし、同性にひかれているということが大会の理由になる
というようなこともありません。異性であろうと同性であろうと、
ひかれるということがあるでしょうが、この道に呼ばれていれば、
この道にふさわしい振る舞い方によって、自分がもっている〈愛
する能力〉を方向付け、性的な存在として成熟していくように神
の助けのもとで努めていけばよいのではないでしょうか」。
要するに、結婚している人も、何らかの事情で結婚しなかった
人も、そして、神から呼ばれて修道生活の道を歩む人も皆、例外
なく何らかの形で性の悩みがあることを素直に認め、それぞれが
成熟するための道を探し続けなければならないのです。
家族の中でも孤独があれば、結婚前の若者同志のつきあいの中
でも孤独がある。そして、その原因には人と人とがうまく関わり
をもてない社会状況があることを指摘しなければなりません。
この現状をよく見つめている司教団文書『いのちへのまなざし』
は、狭い「性の倫理」の捉え方を避け、広い視野に立って現代社
会における人間関係のゆがみを告発しようとします。そのため、
性の問題を、揺らぐ人間関係という枠組みの中で取り上げ、「切
り離された性」(25-27番)と「性の本来の意味と力を取り
戻すために」(28-31番)という二つの項目で扱っています。
「その場限りの肉体的コミュニケーションを志向した不特定多
数との性行為や、結婚における互いへの誠実を踏みにじる不倫行
87
為が、テレビや映画、週刊誌、コミック誌などによって無責任に
奨励され、その商業主義によってさらに加速しています」(26
番)・・・「性の交わりを通して、愛する喜び、愛される喜びを
深く確かめ合うことのできる男女は、どんな厳しい人生の試練に
直面しても、それをくぐり抜けていくことのできる勇気をくみ取
ります」(28番)・・・「性に本来の意味と力を取り戻す為に、
社会の現実に抵抗してでも、不断の心のこもったコミュニケーシ
ョンを取り戻すことが先決です」(29番)と訴えているのであ
る。
司教団文書は、性の営みにおける「愛情」と「快楽」と「生殖」
といった三つの側面のあいだにバランスをとろうとしてきたカト
リックの伝統を受け継いで、「人間の全体の営みに関わる性」を
正しく捉えることの必要性を強調します。そして、性をタブー視
したり、罪悪視したりするようなことがないように注意を促すと
同時に、快楽の面からだけ性を捉える消費主義社会の弱点も指摘
しています。
人によっていろいろな見方があるので、このような高い次元で
のものさしでは足りないという人もいるかもしれず、また、きめ
細かい禁止事項の目録を求める人もいるでしょう。
しかし、この点でも、今のメッセージは、1984年に同司教
団が出した教書『生命、神のたまもの』と同じく一貫した考え方
で「倫理の物差し」を提供することに努めているのです。
『生命、神のたまもの』では、「性の倫理に関するさまざまな
問題に解答を与える前に」、理解すべき基本原則として次の三つ
があげられていました。
a) 性と愛において、自分自身を本当に大切にするには何をす
ればよいのか、という自己への忠実の原則。
88
b)性と愛において、相手を本当に大切にするには何をすればよ
いのか、という他者への誠実の原則。
c) 愛において、生まれてくる生命と、その生命が育てられる
社会を本当に大切にするには何をすればよいのか、という社会へ
の責任の原則。」(『生命、神のたまもの』20ページ)。
このように、性の倫理に関して細かい禁止事項を述べるのでは
なく、問いかけとして、原則が示されていることが注目されます。
今回の『いのちへのまなざし』も似た調子で、「生殖から切り
離された〈性〉を手放しで肯定し、生まれてくる子供たちに対す
る責任を無視した生き方が、人間のいのち、人生の真の充実にな
るかどうか」が真剣に問われていると指摘する(『いのちへのま
なざし』27番)。
さらに、性と家族計画についての誤解を避ける必要があるとして、
次のように訴えます。
聖書に基づいたカトリックの立場は、「『人間を男と女に創った』
(創世記1.27)といわれるように、「性を、最初から神の祝
福のもとに捉える」ものですが、「それは、性を生殖から切り離
すものでも、また生殖との関連においてのみ評価するというもの
でもありませんでした」(28項)。
したがって、「避妊を容認するメンタリティ」も、「子どもが多
ければ多いほどよいといった姿勢」も、わたしたちは責任ある選
択とは考えません・・・また、いのちの誕生は、神のみ心に属す
ることであると同時に二人の男女の良心的な決断によるものです
から、この分野で、政府など公的機関が、夫婦にゆだねるべき選
択と決断に介入することは、さけるべきことだとわたしたちは訴
えます」(同30項)。
これらの点について、教会の現場で私は質問を受けることがあり
ますが、どうも誤解が多いように思われます。避妊と中絶を同次
元であるかのように受け止めてしまう信者もいれば、受胎調節に
関する教会内の意見の相違を見て戸惑う人もいるのです。
そこで、これらの問題に関する教会の教えの要点を七つにまと
89
めておくことにします。その中の1から6までに関して言えば、
教会内の意見の一致と倫理学者の主流の合意があって、急進的な
人であれ、保守的な人であれ、この六つの点を一致して認めてい
ますが、7番目の点についてだけはカトリック倫理学者のあいだ
賛否両論の余地があると言えましょう。
1.「性」はよいものであり、生殖のためだけではなく、夫婦
の一致と愛情を表現し、それを養うものです(『現代世界憲章』
49項参照)。
2.子どもは親の愛の実りとして生まれるべきです(教理省
『生命のはじまりに関する教書』 2章,1;教皇医パウロ・6世の
回章『フマネ・ヴィテ』 8 項; 教皇ヨハネ・パウロ2世回章『い
のちの福音』 23 項参照)。
3.子どもを産むことは責任をもって行い、「主義(メンタリ
ティ)としての避妊一辺倒」と「子供が多ければ多い程よい」と
いう両極端の態度を避けるべきです(『フマネ・ヴイテ』18 項;
『命の福音』 97 項参照)。
4. 子供を何人産むか、またどの間隔で産むのかを決めるのは、
(政府などではなく)親です(教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的勧
告『家庭』第三部;『家庭憲章』、1983参照;『いのちの福
音』 91 項参照)。
5. この選択を行うに当たって、家庭状況、すでに産まれている
子供の教育、夫婦の間柄と絆を強めること、経済状況、人口問題
などを念頭に置いておかなければならないのです。(『家庭憲章』
3;『生命のはじまりに関する教書』,序文、3)。
6.何らかの形で受胎の調節を行わなければならないでしょう
が、その時の基準はエゴイズムではなく、正しい価値観に基づく
ものであり、調節の方法として中絶を選ぶべきではありません。
(『フマネ・ヴイテ』 18 項; 『いのちの福音』 91 項)。なお、
90
避妊と中絶は明らかに別な次元のものであり、同一視されるべき
ではありません。教会は、避妊に対して否定的な意見を表すが、
避妊と中絶がそれぞれ別な次元の問題であることを明記していま
す(『いのちの福音』13 項)。教会では避妊を拒否するのは、夫
婦愛の本来の在り方をゆがめるかぎりにおいてです。
7. 具体的にさまざまな方法を識別するとき、教会は慎重にでき
るだけもっとも自然なやり方に合うような方法を学ぶように勧め
きました。
以上の、1から6までは、教会内での意見の一致とカトリック
倫理学者の主流における合意があり、急進的な人であれ保守的な
人であれ、共通に認めていることですが、7だけは、倫理学者の
あいだに賛否両論があり、教会内でも誤解の多いところです。
そこで、日本司教団は、司牧の場において柔軟な対応の余地を
残す慎重な表現にとどめながら、カトリック教会が、自然的な方
法を勧めていることについて、「それは、女性の健康や相手の身
体的状況を気遣う中で、夫と妻相互の尊敬と愛情が深められ、そ
して、自然を司る神のみ心によって、ふさわしい時期に、子ども
に恵まれるようにという思いからです」と説明し、「その意向に
反する人工妊娠中絶はもちろんのこと、自分たちの幸せのみを追
求する自己中心的な判断は避けるべきだと考えます」(『いのち
へのまなざし』31項)と述べることに留めております。
性的志向と差別
2002年 12 月 18 日にホランダの参院議会において同性同志
の結婚を認め、そのようなカップルが子供を養子縁組でもらうこ
とを承認する法律が可決されました(賛成者49名、反対者26
名)。このニュースがきっかけに同性愛問題に関してここ十数年
間だいぶ高まってきた議論はなお激しくなりました。一方レスビ
アンとゲイの権利を主張する運動が強くなりますが、他方では逆
の極端まで走って同性愛の傾向の人々をその傾向をもっていると
いう理由だけで差別扱いする反応も少なくないのです。教会の中
でもこの問題を落ち着いて取り上げることは容易ではありません。
枚数の少ない原稿で微妙な問題をわかりやすく扱うことが困難
91
ですが、まず、箇条書き程度で幾つかの基礎的な点を思い起こし
ておくことにしましょう。
同性愛者という言葉は、場合によって差別用語にもなりかねな
いから、要注意。正確に言えば「同性に対する性的な傾向
(inclination)をもっている者」は人間であり、人間としての尊
厳と権利の主体であり、差別の対象にしてはいけないものです。
 倫理学者たちはニュアンスに対して気を使いながら次の区別を
し て い ま す 。 そ れ は 「 同 性 に 引 か れ る 傾 向 ( homosexual
inclination or attraction ) と 、 そ う し た 傾 向 の 表 現
(homosexual expression)と、性器的(genital)な表現すなわ
ち肉体的な関係を結び、性の営みを行うことによる表現
(homosexual genital expression)と、その他の表現(愛情、友
情)を区別せねばならぬということです。
性役割は自分が社会で期待されている「男らしさ」、「女らしさ」
を表現し、自己確認するための振る舞い方ですが、そのように行
動することによって社会に承認されると同時に自分の性的アイデ
ンティティ(すなわち内面化された性役割による自己同一性)が
確認されます。
生物学的な見地からみた性(セックス)と社会的・心理的な見
地からみた性(ジェンダー)をふくめた人間全体の在り方として
の性を指すためにセクシュアリティという語が用いられます。
 性的指向は人間が異性に引かれて(heterosexual)性的欲望が生
じ、性的行動をおこすのか、それとも同性に引かれて
(homosexual)そうなるのかを表すために使われる専門用語です。
同性愛への傾向は複雑な起源に由来します。生物学的な要因
(遺伝的なものや、発生的なもの、または脳神経的なもの)と環
境の種々の影響による要因に関する人間科学的な研究は発展をみ
せてはいてもまだその現象を解明しきれないのは原状です。
教会公文書において同性愛の問題にふれている発言を参考にす
るとき次の点が注目されます。
「性的な存在」であるということは人間にとって決して付随的な
ものではなく、生物学的にも心理的にも霊的にも人の生き方の全
92
体に影響を与えることであり、性的指向の現れがその人の性だけ
ではなく、その存在全体にかかわるものです。(教理省、Persona
humana,1975, n.1 参照)。
「全体的な存在である人間から、〈性〉だけを分断し、たとい合
意に基づいたとしても、〈性〉をお金で交換可能な商品に卑しめ
ること」に反対して日本カトリック司教団は「次世代を担う子供
たちのためにも、あまりにも非人間的な今日の〈性〉の文化に対
して創造的な挑戦をしていかなければならない」と言っておりま
す(『いのちへのまなざし』25-26)。
性の営みの本来あるべき姿は「互いに与え合い、愛情の実りとし
て子供を産むために創造の業に預かる正式な夫婦」において実現
されます。(マタイ19,4-6;『現代世界憲章』、49-5
1;『いのいちへのまなざし』、 27-30)。
性的指向(orientation, inclination, 傾向)そのものは決して
倫理上の悪(罪)ではなく、それは単に本来方向づけられている
はずの目標に向かっていないものだというだけのことです。( 教
理 省 、 Persona humana, n.8; 同 省、 Letter to the Bishops of
the Catholic Church on the Pastoral Care of Homosexual
Persons, 1986, n.3)。
教会はある行為に関してそれは客観的に認められるべきではない
ものだといっても、その行為を行った行為者が罪を犯しているか
どうか裁かない(Persona humana, 8-9; Humanae vitae, 29; そ
して、伝統的に言われてきたように「内面について教会さえも判
断しない」 “De internis neque Ecclesia”)のです。
司牧的な配慮として教会はこの問題への対応として次のように勧
めています。イ)悩んでいる人に対して包容力をもって受け容れ
ること、ロ)困難を乗り越えて行くために助けること、ハ)社会
的 な 差 別 な ど を 克 服 す る よ う に 。 ( Persona humana, 8;
Catechism, 2358)。
生まれてくる子供のことを考えて、その尊厳を大事にしたいため
教会は同性関係にむすばれている人が体外受精の方法で子供を儲
ける事に対して反対しているのは「生まれて来る子供がその人格
の実現の為のもっとも相応しい環境の中で正式な夫婦の子供とし
て生まれる権利をもっている」と思っているからです。
93
( Bioethics Committee of the English Bishops, In Vitro
Fertilization: Morality and Public Policy, 1986, nn.16-17)。
なお、『カトリック要理』の限界も使役しておきましょう。
教会刷新や現代世界との対話をめざした公会議(第二バチカン
公会議)当時、急進派的言明を部分的であるにせよ公文書に入れ
ること自体画期的であっただろうし、歴史的連続性からも第一バ
チカン公会議(1869-1870)の神学を完全に排除するこ
とは不可能であったでしょう。保守派と急進派の言明が併記され
るのは、当時としてぎりぎりの妥協だったのです。
同 じ こ と は 9 2 年 に 著 さ れ た 『 要 理 』 ( Catechism of the
Catholic Church)についても言えますが、『要理』の場合、第二
バチカン公会議の表現を使いながらも、第一バチカン公会議の神
学を蘇らせようという反動の波が強く影響を与えたので、なおさ
ら現代の諸問題を取り扱うためにはその『要理』で間に合わない
わけです。私見では同性愛に関する箇所について特にこのことが
言えると思います。
とにかく、それを断片的に引用すれば、次のところを力説できま
す。つまり、「同性愛の傾向の要因が説明されていない・・・そ
の傾向をもつことは多くの人々にとって悩みのもとになる・・・
その人々を尊重と慈しみをもって受け容れるべきである・・・そ
の人々に対して差別を行ってはいけない・・・その人々は無償の
友情によって助けられることがある・・・」等のような言明があ
ります(Catechism, 2357-2359)。
しかし、聖書の引用のしかたは批判の的になるでしょう。『要理』
で引用されている四カ所(創世記19,1-29;ローマ書1,
24-27;1コリント6,10;1テモテ 1,10)はこの
問題を取り上げるためにふさわしくないと聖書学の見地から指摘
さ れ て い ま す 。 ( W. Moberly, The Use of Scripture in
Contemporary Debate about Homosexuality, Theology 誌、London,
2000 年、7-8月号、251-258; R. B. Hays, The Moral
Vision of the New Testament, Harper and Collins, N. York
1996)。
それよりもガラテヤ3,28(「もはやユダヤ人もギリシャ人も
なく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない」)のほうを引用
したとすればよかったのに。
94
さらに、公会議以前の教科書の用語を用いて同性同志の性行動は
どんな場合でも認められるべきではないということを強調するた
め intrinsically disordered(本質的に本来の秩上から外れたも
の)という言葉が用いられています。保守派はこの言葉を大罪と
いう意味で受け止めるでしょうし、急進派はここで「罪」という
言葉が用いられていないし、断罪の言明がないということに意味
を見出すでしょう。(これを裏付けるには避妊のことを例にとる
こ と が あ る で し ょ う 。 Casti Connubii (1930) に お い て 「 罪 」
(grave sin)と言われていたことは Humanae vitae (1968)におい
て単なる「秩上から離れる」(disorder)と呼ばれたことがあげ
られます)。
いずれにせよ、このような公文書にみられる屈折した姿勢を正
すのはこれからの二十一世紀の刷新の課題として残っていると言
えましょう。
そこで、教会野現場で相談を受けるときの戸惑いがあります。
自分の性的なアイデンティティのためなんの問題も感じない人も
いれば、自分が選んだのではない自分の性的指向のため相当苦し
んでいる人が少なくないことを見逃すわけにはいきません。特に
信仰者で、教会共同体の支えを大事にしているからこそなお悩む
人々に私も教会現場で出会ったことが多くあります。
しかし、相談などの現場でこの問題にかかわることにはそれな
りの困難が伴います。米国でその仕事に長年関わってきた Nugent
神父とシスターGramick は1999年に教理省から注意を受け、こ
れからその仕事にかかわることを禁じられました。教理省の立場
を弁明しようとしていた Hickey 枢機卿と Bevilacqua 枢機卿など
によればこの二人の司牧者の態度と書物にはあいまいさがあった
ことがあげられていますが、シスターグラミックが書いた報告書
を読むと秘密の中で行われたその調査においてどんなに正当な手
続きが欠けており、どんなに自分の人権が踏みにじられたことに
おどろくのです。(これに関して米国司教団認可済みに顕わされ
ている資料は Origins 誌、1999,135-139,140-
144、418-420;2000年、62-66で参照)。
95
これとは対照的にロス・アンジェレス枢機卿 Mahoney は聖書に
もとづいた結婚観を支持しながらも次のように注意しました。
「われわれはこうした結婚観を守るからといって決して同性愛者
を差別の対象にしてはならないし、正式な結婚が認められなくて
も事実上共住しているカップルに法的に保証される権利を否定す
るわけにはいかない」と。(Origins 誌、2000年、466-6)
7)。
ちなみに、司牧的に特に注目に値するのは『同性愛の子供を持
っている親へ』米国司教団が当てた手紙です(邦訳はカトリック
中 央 教 義 会 の ホ ー ム ペ ー ジ 参 照 http://www02.sonet.ne.jp/~catholic/senken/children.html)。
2000年行事の中でもっとも画期的なこととして注目された
のは3月12日の回心の典礼でした。その中で教皇が行った教会
の謝罪は大変有意義なもので、キリスト教以外にも全世界に大き
な反響を引き起こしました。「ときにはキリスト者たちは人々の
平等を認めず拒否したり排他的な態度をとったりした」ことが
「人間の尊厳を傷ついた人々のための祈り」の中で唱えられ、そ
のためのゆるしが求められました。説教の中で教皇は「過去の過
ちを認めることは現在での責任へとわれわれの良心を目覚めさせ
る」ともおしゃいました。
教皇にならって同3月15日に Mahony 枢機卿は四旬節のメッセ
ージの中で、同性愛の人々に向かって「教会が彼らの正しい主張
を支持しなかった」ことのために謝罪しました。
このことは大げさに思われる人もいるかもしれないのですが、
次のような例を思い起こすとよいでしょう。たとえば、5世紀の
テオドシウス皇帝や6世紀のユスティニアヌス皇帝の法典におい
て同性愛者は焼かれて死刑にされるに値する犯罪者とみなされて
いました。同じ懲罰は1265年のカスティリャの法典と153
2にカロルス5世が定めた刑法で決められていました。そして、
1478から1834までのあいだスペインの宗教裁判に同性愛
96
という理由で訴えられたケースが多かったのです。そんな昔まで
溯らなくても前世紀の前半の倫理神学の教科書を見るだけでもわ
かるようにどんなに片寄った先入観で同性愛のことが取り扱われ
て い た か お ど ろ く ほ ど で す 。 ( J. Vico Peinado, Liberación
sexual y ética cristiana, San Pablo, Madrid 1999, p.458 )
この問題に関するその他の誤解をとくことを別な機会にまわし 、
いまここでむすびとしてヨハネ・パウロ2世の言葉を心にとめて
おくことにしましょう、「若い世代が性と愛といのちの全体を受
け容れ経験するのを助けずに、人間のいのちの真の文化を築くこ
とができると考えるのは幻想です。人間全体を豊かにする性は愛
のうちに自己を与えるように人格をはぐくむことで、そのもっと
も深い意味をあらわします」(『いのちの福音』97番,『家庭』
37番)。
緊急避妊
読売新聞(2004 年 10 月 26 日)で「公正労働省は個人輸入される
経口妊娠中絶薬について」見解を表明したと報道されていました。
たまたまその頃緊急避妊についての問い合わせを受けたこともあ
って取り上げることにしました。前から気にしていた避妊と中絶の
区別に関する誤解が多いことに気づき、ここで要点だけを簡単に
まとめ誤解を無くしたいと思います。
緊急避妊法(英語で EC という省略で知られている Emergency
contraception のことですが)とは、図らずも避妊せずにセックス
してしまったとか、コンドームの破損や脱落とか、レイプにあっ
た場合とか、腟外射精の失敗などによって妊娠する可能性が高い
のに、どうしても妊娠を回避したい場合には一時的に使用される
避妊法です。性交後 72 時間以内に薬をのむことによって妊娠を避
ける方法なので、その薬のことを緊急避妊ピルまたは翌朝ピルと
呼ばれるようになりました。できるだけ早く内服を開始すると避
妊効果が高くなるのですが、性交後 72 時間以内に薬を 2 錠内服し、
最初の内服の 12 時間後に再度 2 錠内服します。この方法は 1997
年にアメリカ合衆国政府が安全性と有効性を認めてその使用につ
いても許可しました。
97
この方法は緊急処置として使われるものであって、決して通常の
避妊として常用することは勧められていないのです。
1960 年に Yale 大学でサルに estrogen を試みとして与えられると
いう実験が行われ、着床を妨げる効果が始めて確かめられました。
70 年代にはいってから飲む避妊薬を組み合わせで施すことが試み
られました。現在この方法を使うとき etinilestradiol、0.2mg.
と levonorgestrel 1mg を二回に分けて与えられます。その一回と
二回の間 12 時間の間をおきます。そしてこれは避妊せず性交した
後の72時間以内に飲めば、失敗率は2%や3%だけだと言われ
ています。
緊急避妊ピルをのむと絶対に妊娠しないわけではありません。し
かしかなりの避妊効果があります。いろいろな文献を総合すると、
この方法によって妊娠してしまう危険が平均 75%も減ります(文
献により避妊効果は 55〜94%です)。これは 25%の人が妊娠する
ということではありません。妊娠しやすい時期に無防備にセック
スをした人が 100 人いたとして、普通なら 8 人が妊娠するところ
がこの方法を使うと 2 人しか妊娠しないということです。つまり
この方法を使っても妊娠してしまう危険率(失敗率)は 2%だとい
うことです。
IUD(子宮内避妊器具)は緊急避妊としても使えます。それは避妊
せずの性交の後 120 時間経っても効果があります。見方によれば
排卵後の五日目までその効果があります。この方法の機能は着床
を妨げることです。緊急避妊としての失敗率は 1%以下になります。
ただ専門家がつけなければならないし、性交による感染病に対する
効果はないし、どの女性にでも会うわけではないといったマイヌ
スの点が指摘されています。
前述した Levonorgestrel は 70 年代から研究されてきました。最
初は使う量によって周期への副作用などが恐れる心配がなく、
1993 年から Yuzpe の方法に対する代案になりうることが明らかに
なりました。
98
緊急避妊が勧められないのは妊娠が確認した後からです。なぜかと
いえばそのときに効果がないからです。
インターネット時代には情報を手に入れるのは簡単だと思われま
すが、「誤報」も少なくなく、特に医療に関することなら「なまの
声」で顔と顔を合わせて施し方を丁寧に説明する必要があること
を忘れてはならないでしょう。
避妊に関して言えば、これはセクスのあり方及び人間関係のあり
方に関係するものであり、人間的生殖と健康にかかわる問題でも
あります。これは教育の問題、社会の問題、医療に携わる者の問題
でもあります。認識不足の問題を乗り越えなければならないので
す。または認識があっても、必要な手段が簡単に手に入らなければ
こまります。
2000 年にスペインで63756件の妊娠中絶があったと伝えられ
ています。緊急避妊によって中絶の数が減ると予想しているので、
緊急避妊を促進する連盟には生殖健康と家族計画にかかわってい
る八つほどの国際協会が一緒に力を入れようとしています。
マドリードにはカウンセリングを加えながらただで緊急ピルを提
供している 14 ヶ所の青年健康相談センターがあります。その中の
一つ尋ねてカウンセラー室で記録を見せてもらったことがありま
す(もちろんプライバシーのため当人の名前や個人データを省い
た後ですが…)、典型的だと言われた次の二つのケースを知って
考えさせられました。
A さんは 16歳。母親から度々こう言われていました。「気をつけ
て無責任に性交をするな。するのったら産む覚悟でなければ…」。
ある日のこと、一年ぶりにあった恋人から誘われてホテルで止ま
り、初めての性交がありました。終わってからそれとなく彼は言い
ます。「ああ、割れたかなあ、コンドームは」。彼女は心配になりま
した。彼は安心させて「妊娠したら、すぐ結婚してあげるから」。
でも、今自分が母親になるときではないし、準備が出来ていないの
です。おまけに大学に行きたいのに。母親に話すのは怖い。きっと中
99
絶させてくれないだろう…」。そこで、友だちにうちあけたら、
青年健康相談センターに行くように勧められ、緊急避妊ピルをも
らいました。法律的には微妙な問題がありました。というのは、
未成年だったら医療の場で親の承認がなければならないことにな
っているからですが、緊急避妊に関してこの法律を最近次のよう
に広く解釈できるようになっています。つまり、人格の中心と人
権にかかわる問題で、未成年であっても自分で自分にとって重要
なことに関する判断する能力があると「熟した未青年」だと医師
が把握し,判断した場合、本人のプライバシーをまもるため、親と
相談せずにピルを施しても良いことになっています。今述べたケ
ースの場合、後に中絶してしまうことが避けられました。
B さんは 18 歳。祭の時友だちと一緒に遅くまでさわいでから友だち
の家でとまりました。避妊せずの性交を断りたいのに断りきれな
い状況になってしまいました。アルコホールの影響のもとに性交
がありました。このようなことで困っているときは次の周期がく
るかどうか不安のうちに待つよりは緊急避妊をしたほうが良いと
友だちから勧められました。そして、青年健康相談センターに行
ってピルもらったので、中絶が避けられました。
ところで,ここで述べている緊急避妊のピルは RU486 という名前で
知られている別なものと間違えてはいけません。これは妊娠 49 日
以内に妊娠中絶をひき起こすために使われているものであり、入
院を必要とするものです。これは緊急避妊とは違って中絶をひき
おこすものである以上その倫理的な評価は言うまでも無く違うわ
けです。
それとは違ってここで取り上げている緊急避妊は着床以前の段階
で用いられるので、中絶ではなく,着床を妨げる避妊法とみなされ
ています。
前述したように、緊急避妊ピルはセックスの後にできるだけ早く
内服を開始すると効果が高くなります。
緊急避妊ピルの明らかな作用機能について種々の結果が指摘され
ています。受精卵が受精してから卵管の中を運ばれて子宮の粘膜
100
の上にたどり着くまで 6〜7 日かかるので、その間に子宮内膜を変
化させて妊娠しにくくしたり、排卵を遅らせたり、卵管の動きを
悪くすることなどによって着床まで至らず妊娠しにくくなると考
えられています。
とにかく,ここで強調したいのは、この薬は中絶薬ではなく,着
床を妨げるものである以上、妊娠を予防する成果をもたらすとい
うことです。しかし、着床過程にはいって妊娠しはじめていた場
合には緊急避妊ピルの効果はないので、レープなどのような場合,
またはそれに当たるような緊急の場合,一日も早く飲むように勧め
られているのです。
現在緊急避妊ピルはヨーロッパの多くの国で市販されています
が、決して常用すべき方法ではないということは当事者によく説
明しておかなければならないことが強調されています。つまり、
緊急避妊は望まない妊娠や中絶を防ぐためだけには必要な方法だ
ということです。図らずも避妊手段をとらずにセックスしてしま
った場合や避妊に失敗した場合にはできるだけ早期に緊急避妊法
に精通した産婦人科医に相談することが勧められます。
ところで、スペインでは宗教関係医療施設は板ばさみに合った。
スペインのカトリック医療施設で産婦人科の問題にかかわってい
る医師などを中心に緊急避妊について研究が行われたが、神のヨハ
ネ病院会をはじめ、カトリック医療施設でピルを施すに当たって
どのような指針に従えばよいのかということを検討するためのマ
ニュアルが作らレ,現在それを正式に著す前に実験的に参考に使わ
れています。
私自身はその課題の議論及びマニュアルに関する倫理上の検討に
かかわったとき、カトリック医療施設が立たされている板ばさみ
の 状 態 を 身 近 に 感 じ る こ と が で き ま し た 。
教会の指導に文字通り従えば緊急避妊ピルを与えてはならない
ことになってしまいます。一方、行政から伝わる国の厚生省の方針
に従えば、無条件にルチーンとしてピルを機械的に与えなければ
ならなくなります。そこで、カトリック施設は教会に対しても国
の行政に対しても疑問を出す羽目になります。行政に対しては、
101
ピルを与えたるときカウンセリングなどを伴って必要な指導で与
えるべきだと言います。そして、教会に対しても、疑問を出さな
ければならないのです。ちなみに、その方針を狭くとらえる司教
たちに向かって「ピルを与えなければ、困っている女性たちの中
絶がふえるから必要な条件を満たした上で与えた方が良いのでは
なかろうか」と言わなければならない。これは慎重な立場だと私
は思うが、カトリック医療施設としては結局、行政の側からも、
一部の司教たちからも、風当たりの強さに悩まされル結果となる。
幸いに前述したマニュアッルが出来て、慎重に両極端を避けなが
らピルを与える方向で問題が落ち着きそうになっている。
そ こ で 、 責 任 の あ る 慎 重 な 選 択 は 難 し い で す 。
最期に結論的なことを手短にまとめよう。「選択する」ことが貴
重になっていますが、慎重な選択を次のように勧めたいのです。
イ)緊急処置があるからと言って安易にその用途だけに頼りたく
ありませ。日ごろの教育の場で、人間関係のあり方と健全で正し
い性教育を行うことに力を入れる必要があります。
ロ)緊急避妊は緊急として使ってもよいし、中絶を避けるために
こそ使うべきである時が現在の社会状況では少なくないわけです。
ハ)しかし、緊急避妊は通常の避妊方法と間違えてはなりません。
あくまでも緊急処置です。
ニ)着床を妨げ、緊急避妊のために用いられるピルというものと
着床の後で中絶を惹き起こすためのものを区別して見分けなけれ
ばならないのです。
生殖医療の問題点
1997年2月24日、クローン羊ドリーが生まれた。その直
後に、早速アメリカ合衆国のクリントン大統領が、発言し、クロ
ーン技術が人間に応用されてしまうことに対して懸念を表明し、
クローン研究に公費(連邦助成金)の使用を禁ずると宣言した。
倫理問題に対する大統領の性急ともみえる熱い関心に対して、こ
れは果たして本音なのかと首を傾げたジャーナリストは少なくな
かった。
102
2000年の八月二十三日、同じクリントン大統領は、ヒト胚
の幹細胞の研究利用に青信号を出し、そのための連邦基金創設を
決定した。どうも倫理上の問題に関する政治家の発言には一貫性
を求めるのは無理のようである。
それとは対照的に、教皇庁生命アカデミーは一貫した立場を示
し、学問と信仰の観点からこれらの問題をとりあげて、人間の命
を、その始まりから終わりまで守ろうとしてきている。クリント
ン発言の翌日の八月24日には、ヒト胚幹細胞の利用に関する注
意を促したのである。
世界初めの試験管ベビー
1978年イギリス生まれルイーズ・ブラウンは、精子と卵子
をそれぞれ取り出して、人為的に受精させ、卵子をまた子宮に戻
す方法で生まれた世界初めてのいわゆる試験管ベビーだった。
彼女が10才になったとき、世界中ですでに10000人も
〈試験管ベビー〉として生まれた人がいた。彼女が15才になっ
たとき、さらに25000人になった。
日本では、1983年に東北大学での初めての出産以来、98
年末までの間、体外受精で合計44711人が生まれたと、日本
産婦人科学会は発表している。同学会によると、この方法で一年
間に生まれる子どもの数は10000人を超えているそうである。
体外受精に関して、78年の時点では人々の反応が大きく二つ
に分かれていた。一方は「これは自然の摂理に反するのではない
か」というもの、他方は「この技術は不妊症で悩んでいる人への
朗 報 で あ る 」 と い う 両 極 端 の も の で あ る 。
二十年以上たった今では、賛成者さえもそれほど楽観的ではな
く、また反対者も自らの立場を再検討している。
というのは、治療目的(therapeutic)で行われるものと、治療
以外の目的(non-therapeutic)で行われる無責任な生命操作とは、
103
区別する必要性があることがますます明らかになってきたからで
ある。
一般倫理の観点から言えば、不妊治療が認められるための条件
は、安全性のほかに、
1)配偶者間の関係を重要視すること、
2)親と子の関係を大切にすることと、
3)生まれてくるこどもの尊厳を傷つかないこと、
の三点であり、これらは厳守されなければならない。
こうしてみると、生殖補助医療における「自然主義」と「技術
万能主義」という両極端を避けるため、不妊の治療というものと、
治療の領域を超える無責任な操作とでもいうべきものを区別する
必要があるだろう。
ここでとりわけ注意しなくてはならないのは、生まれてくる子
供のことが十分に考慮されているかどうかである。
ひょっとすると、生まれてくる子どもも、その子を産む母親自
身も、単なるモノ扱いにされてしまうことになりかねない。さら
に、その子どもに対する社会の受け入れ方も考えなければならな
いだろう。それに、その子どもたちたちに生まれた方法を告げる
か否かは、未解決の問題である。
科学者と司教たちの合同研究
米国のカトリック司教中央協議会の「科学と人間的価値に関す
る委員会」の主催で、12人の専門の科学者と5人の司教が、三
泊四日の研修会を行い、で「ヒト胚幹細胞」の諸問題に関して徹
104
底的に研究した(アメリカ誌、1999年10月9日)。同研修
会の結論はそうした技術を用いていわゆるクローン人間を作るこ
とは安全性が問われるばかりでなく、倫理的にも認められるべき
ではないという点で意見が一致した。ところが、他の体細胞とは
違って胚性幹細胞の取り扱いのほうが微妙な問題を含むというこ
とも強調された。そして、受精後の発生過程においてどの時点か
ら厳密な意味で一人の人間に備わっている絶対的な権利が主張で
きるのかということについて議論が続いているので、慎重にその
研 究 を 見 守 る 必 要 が あ る こ と も 確 認 さ れ た 。
幹細胞は繰り返し自己複製し、種々の組織を作り出すことがで
きるそのため治療使用の可能性が期待されている。ヒト胚性幹細
胞は体の全ての組織や期間に分化する能力を持つ培養細胞である。
ES 細胞と呼ばれるのは初期胚から分離されるものである。EG 細胞
と呼ばれるのは中絶胎児の卵巣から得られるものである。
この点に関して教皇庁生命アカデミーの文書は興味がある。同
アカデミーの声明によると「幹細胞の研究のためにヒトの受精卵
を生産し、それを利用することは、非人道的で必要でもないこと
である」とし、「最近、成果も報告されている、大人の幹細胞を
研究し、それを治療上の目的のために用いてもさしつかえがない
が、治療的クローニングという方法で複製した受精卵から、幹細
胞を得ることを認めるべきではない」と断言している。
教会公文書の含み
1987年に教皇庁教理省は、1987年の『生命のはじまり
に関する教書』の中で、体外受精に関する否定的な意見を表し、
教皇自身も1995年の回勅『いのちの福音』の中で、その見解
を支持している。それはおそらく単なる不妊治療だけではなく、
種々の無責任な生命操作を予想したうえでの判断であろう。
このような見解をわきまえておくと同時に、正当な理由による
例外を認めるための余地があることも、司牧者は理解する必要が
あると思う。
教理省の前述の文書は、次のように述べている。
105
「これらの人為的な介入に歯止めをかけるのは、決して人為的
なものはいけないという理由によるものではない・・・それが人
間の尊厳にかなっているかどうかという観点から、倫理上の評価
がなされるべきである」(序文、3番、邦訳16ページ)。
そして、微妙な意味合いを含む指摘をしている、「技術的な手
段が、夫婦の営みを助けるかはまたはその自然な目的を助けるた
めのものであれば、倫理的に認められ・・・その方法が夫婦の営
みを代替して行われるのならば、それは倫理的に認められない」。
(同上、2,2,6,邦訳54ページ)。
これらの発言を手がかりにして相当な柔軟性をもって司牧の現場
で具体的なケースの相談に応じることができるのではなかろうか。
実際、不妊治療の目的で配偶者間の接合子を用いる、夫婦の愛
の営みの延長として体外受精の方法でこどもをもうけた信徒のい
くつかの事例を私自身も知っており、それに関する相談に応じた
こともある。そのようなときには慎重さと同時に柔軟性が司牧者
には求められる。
クリスマスの意味と人間の誕生
教皇ヨハネ・パウロ2世の回章『いのちの福音』の冒頭には、
大 変 有 意 義 な 一 言 が 述 べ ら れ て い る 。
「クリスマスは、あらゆる人間の誕生の意味も余すところなく
解き明かしています」。
イエスの誕生が普通でなかったというにとどまる不十分である。
むしろ、普通の誕生である私たち一人一人の誕生の深い次元が、
イエスの誕生によって初めて照らし出されるのである。いいかえ
れば、イエスの誕生だけではなく、私たち皆が、ある意味では、
「聖霊によって生まれた」と言うことさえできるのである。
生まれてくる子どもは、親から由来するものであると同時に、
別な面から見ると、心身ともに神から恵まれたものであると言わ
なければならない。
106
このように教皇は、クリスマスの奥義と聖母のイメージに照ら
して生殖医療の問題点を位置づけるための大きな枠組みと方向付
けを与えたのである。
卵子と精子の商品化
遺伝材料の他者への提供/寄贈(donation)は、少なからぬ倫
理的問題を生みだした。たとえば、次のようなことである。生ま
れてくる赤ちゃんの性質を自由に選ぶのは倫理的か? 配偶子
(精子や卵子)を提供して対価を受けとるのは倫理的か? 誰が
生まれてくる子どもの親とみなされるべきか? 生まれてくる子
どもの福祉にどんな影響がありうるか? 人体の一部(臓器など)
やその生成物(血液など)に対価を払うことは倫理的に認められ
るか? 配偶子の提供に応じるのは経済的な動機をもった社会の
貧しい人々である可能性が高いと思われるが、このように配偶子
の提供が搾取的になってしまってよいのだろうか?
だが、私の意見では、これらの問題の背後にある大きな倫理的
問題は、生命がますます単なる商品とみなされるようになってい
るという事実である。
配偶子売買というビジネス
米国では年間3万人を超える赤ちゃんがAID(非配偶者間人
工授精)で生まれている。卵子の提供はさらに複雑で、提供者に
とってリスクも多く、決して好ましいものではないが、これも以
前より一般化している。英国の「ヒト受精・胎生医療局」(19
90年のヒト受精・胎生法に基づいて設置された組織で、新たな
人工生殖技術の開発を監視し規制する)によれば、利他的な配偶
子の提供は勧められるべきであり、提供者は費やした時間や不便
に対する最低限の補償以上にいかなる対価も受けとるべきではな
い。その理由は、対価を支払うことによって、提供者に不適切な
動機(つまり金銭的な利益だけを求めるといったようなこと)を
107
促しかねないからだ。英国では、精子の提供者には約15ポンド
(約2万7千円)が支払われる。スペインでは、精子の提供者に
は1万ペセタ(約6,600円)、卵子の提供者には10万ペセ
タ(66,000円)が支払われる。
近年、インターネットの発達によって、ウェブ上での配偶子の
売買が広まっており、提供者は誰でも参加できる市場でもっとも
高い落札者に商品を売ることができる。実際、卵子や精子を売っ
たり「寄贈」したりすることが商売になりつつある。スーパーモ
デルの卵子や精子を15万ドルも出して買う人もいる。ある精子
銀行では、提供者を知能指数135以上の科学者だけに限ってい
る。健康で若い、アイビーリーグの精子提供者は、精子の「寄贈」
に対して最高5万ドルまで支払われる。こうした新しい流行から、
買い手の側は市場で最高の遺伝子を手に入れようと競い合い、売
り手の側はもっとも高い値段で売ろうとする風潮が生まれてくる。
配偶子、特に卵母細胞が不足しているといわれる。そのため、
さまざまな方法で卵子の提供が勧められている。たとえば、治療
や不妊手術を無料にするかわりに予備の卵子を提供してもらう、
といったことがしばしば行われる。時には、輸卵管結紮(けっさ
つ/妊娠しないように輸卵管を縛ること)の際に卵子を採取する
こともある。
だが、「不足」、「予備の」、「入札」、「売買」といった言
葉の使い方に注目してみよう。こうした言葉の使い方こそがまさ
に、生命を単なる商品とみなす考え方を示していないだろうか?
提供者は単に自分の体の生成物を売っているのではなく、自分自
身の遺伝材料を売っているのだということを考慮しなければなら
ない。
優れた遺伝子?
もう一つの問題はこうだ。子孫の性質を強化するために配偶子
提供者を選んでもよいのだろうか? 被提供者が頭のいい、ある
いは美しい提供者を選ぶことは大いにありうる。実際、より優れ
た性質を選ぶことはこれまでの精子提供における目的の一つであ
108
った。親の中には、より賢くて魅力的な子どもをうみだす方法を
探している人もいる。
移植のための臓器売買について多くの倫理的問題が議論された
ように、配偶子売買の倫理についても大いに関心が寄せられてき
た。もし、配偶子の購入者が結果に満足できなかったらどうなる
だろう? 誰が責任をとるのか? その親は子どもにどんな態度
をとるだろう? スーパーモデルの配偶子から生まれた子どもが、
それほど可愛く、スタイルがよくなかったとしたら、親は困るだ
ろうか? 科学者の精子から生まれた子どもが知的障害をもって
いたり、知能指数が平均を下回っていたりしたら、親は裏切られ
たと感じて補償を求めるだろうか? たとえ、ある人が遺伝子的
に平均より賢くなる素質をもっていたとしても、実際にはそれほ
ど賢くならない場合もあることを忘れてはならない。物を言うの
は「素質」だけでなく、環境も大切なのだ。
一言で言えば、子どももまた単なる商品とみなされる危険があ
る、ということだ。子どもとは本来、自然の生みだす奇跡であり、
親は子どもをあるがままに、無条件に愛すべきだ。一人ひとりの
人間が、値段がつけられないほど大切で、昔から言うように「か
けがえのない」存在なのだ。この表現が現代では忘れられていな
いだろうか? 遺伝子や子ども、生命を金銭的価値に置き換える
のはもう止めるべきではないだろうか?
米国で1988年に行われた調査によると、人工授精を行った
医者の72%が、被提供者の指定にしたがって提供者の選別をお
こなったと回答している。身長を指定した人は90%、体型が8
2%、知能指数が57%、運動能力などの専門能力が45%だっ
たという(米国議会技術評価局、『米国における人工授精の実施
状況:1987年度調査より』ワシントンD.C.政府印刷局、
1988年、40-73ページ)。
もう一つ付け加えるなら、世の中には世話しなければならない
孤児や、望まれずに生まれて養子縁組を待っている子どもが大勢
いるのだ。本当に家庭を必要としている子どもを引き取って育て
109
るかわりに、卵子や精子に何万ドルも支払う理由とは、いったい
何なのか?
最後に二人の生命倫理学者の言葉を紹介したい。
ポール・ローリツェンはこう述べている。「ひとたび出産が性
行為と切り離されてしまえば、出産というプロセスを、産出者が
産出したものに権利を持つような産出行為とみなすことにもなり
かねない。こうした状況においては、目的を手段に優先させるこ
とが難しくなる。ある人の目標を達成するにあたって効率的であ
ることだけが、意志決定の基準となってしまいがちだ」(「親で
あるとは、どれほどのことか?」『ヘイスティング・センター・
レポート』20号、1990年3-4月、38-46ページ)。
G.C.メイレンダーはこう述べている。「我々は、子孫の
『質の管理』を樹脂してしまえば、はたして子どもたちを我々が
うみだす生産物としてではなく、我々自身と同じ尊厳をもった存
在とみなし、人間の平等性を擁護することができるのだろうか。
私には疑わしく思われる。出産のことを単なる生殖
( reproduction ) と み な し 、 そ れ を ( 神 の ) 創 造 へ の 協 力
(procreation)とみなさないということは人間の命に関する新し
い考え方の変遷へと導く。おそらくもっとも危険なのは、子ども
を、それをうみだす者(親)と等しい尊厳をもった存在と考える
ことが困難になるかもしれないということだろう」(『身心と生
命倫理』ノートルダム大学出版、1995年、80-88ペー
ジ)。
不妊手術
18997年、スウェデンで、強制的不妊手術の問題が暴露され
た。1997年にマシュエー・ザレンバという新聞記者が、六万人の
女性を代弁して告発し、大きな社会的な衝撃を与えた。
110
大変な騒ぎになったが、手術を受けさせられた女性の現状がやっ
と明らかになったのはようやく最近のことである。
ナジ政権ばかりでなく、民主主義を誇りにしている国で、こんな
ことが平気に行われているとはだれにも信じられなかった。当時
の福祉大臣マルゴット・ワルストロムは、記者会見の席で、「こ
れは実に野蛮なことで、早速調査委員会を作り、必要な賠償まで
準備しなければならない」と述べた。
そして、つい最近の2000年三月28日に政府に提出された答
申を見ると、驚くべきことに、1935年から1996年までの
間、二十三万人もの女性が国の社会制作の一環として不妊手術を
受けたことが明らかにされている。
政府諮問機関の委員長グスタフ・アンドレンが福祉大臣宛に出し
た報告書によると、この問題は過去のことではなく、1996年
まで続いていたと言う(エウr・パイス誌、マドリッド2000
年、3月29日)。
優生思想と社会制作
しかし、この問題はススウェデンだけに起こったのではない。フ
ランス、カナダ、米国、スイス、アーストリア、フィンランドや
デンマークなどにも似たようなことがあったと伝えられている。
たまたまスェデンの例が暴露されたので、実態が明らかにされる
よ
う
に
な
っ
た
の
で
あ
る
。
事実、1934年と1941年に、スウェデンで、諸政党の合意
によって可決された法律は、公衆衛生という美名のもとに、人種
の純粋化および障害者などの差別とつながる優生思想に基づいて
不妊手術を強制的に受けさせることを可能にした。
1940年代の終わりごろ、多少の避難の声が世論から上がった
が、政府も議会も知らん顔をした。前述の委員会の調査によると、
111
1975年に不妊手術はすでに六万三千件にまで上っており、そ
の半数程度は当事者の同意なしに行われた。
1976年にようやく当事者の同意を必要とする法律が決められ
たが、不妊にする理由は、相変わらず人種差別的な偏見に基づい
ていたので、スウェデン国内の小数民族(たとえば、ラッポニア
やジプシー)などの中に被害者が少なくなかったそうである。
さらに、未婚の母とか、アルコホル依存者、癌患者とか、心身障
害の女性とか、貧困状態の女性もその多くの被害者が多かった。
小子化への傾向
ところで、これとは対照的に、六十年代から最近にかけてスゥエ
デンでは、当事者の同意による不妊手術が増えてきたと言う。し
かし、この場合は、優生学的な動機や人種優位の思想よりも個人
的な理由(例えば、家族計画)のほうが注目されるようになった。
少子化への傾向は裕福な社会においてこそ強まってきたのである。
一方、この傾向は家庭や教育のあり方に種々の影響を与えてい
る。この点で対照的な両極端が目立つ。
確かに、本人の同意なしに行われた不正に対しては告発しなけ
ればならないであろう。しかし、問題はそこだけにあるのではな
い。同意さえあれば何でもよいといった「自己決定権」の過度な
主張にも問題があるのである。
前者の場合は、女性が被害者であったが、後者の場合は、生まれ
なかった子供も被害者の数に数えられるからである。そして、第
一世界のこのような傾向が、第三世界に波紋することもある。
こうした事態を憂慮しつつ、最近五十年間、教会が事あるごとに
不妊手術に対して懸念を表してきたことは不思議ではない。
教皇ヨハネ・パウロ二世は、回勅『いのちの福音』(1995
年)で次のように述べている。「避妊、不妊手術、人工妊娠中絶
は多くの場合、確かに出生率の急激な低下の原因です。〈人口爆
発〉の状況があるところでは、いのちに対して同様の方法や攻撃
112
を使ってみようという気にさせられるのは無理もありません」
(16番)。
南米での事態
ところで、前述した国々はすべて北半球にあるため、ともすれ
ば〈前進国病〉ではないかと思われるかもしれない。しかし、南
半球に目を向けると、ペルーのような事態にも目を止めないわけ
にはいかない。
例えば、1996年からペルー政府によって強制的な不妊手術
企画が実施されている。建前として当事者の同意で行われること
にはなっており、その名称も AQV(Anticoncepción quirúrgica
voluntaria)すなわち、「当事者の同意で行われる手術による避
妊」である。
しかし、実際の現状を見ると、農家の貧しい女性に対して微妙
なかたちさまざまな圧力がかけられている。
「健康の祭り」と称する集会に招かれ、うまく言いくるめられ
ているのではないかと告発しているのは、女性弁護士ジゥリア・
タマヨである(ビダ・ヌエバ 誌、マドリッド、1999年10月
9日)。
そして、という医師ペルーのアヤクチョ地方の医師会長エクト
ル・チャベスが米国議会の前で証言したところによると、この貧
しい地方の医師たちに対して官僚の側から圧力がかかり、不妊手
術の十分な数を行っていなければ医師開業の契約を失うことまで
脅かされていたというのである。
一人の農家の女性が、非衛生的条件で、手術を受けてから死んだ
ことがきっかけとなって、この問題に対して教会も関与するよう
になり、司教団は断固とした批判を行った。残念ながら報道機関
は、政府の味方となって厚生省を弁護する側に回った。
113
前述した弁護士は、集めた資料に基づいて、人権を無視された
243件に関してそれを証明できると言っている。その中の10
2件は、当事者の証言によって裏付けられている。タマヨ氏に言
わせれば、これらは単なる医療ミスにとどまらず、拷問にさえた
とえられるものなである。
正当な理由による例外
以上のようなニュースを聞いて、ショックを受けると同時に、社
会からの圧力に対して個人をまもる必要がますます感じられてく
る。人権を無視した社会政策に対する教会の予言的な告発に当然
共鳴するようになるであろう。
ただし、誤解を避けるために、前述のような強制的な不妊手術の
場合と、十分な理由があってやむをえず不妊手術を受けようと責
任を持って決める夫婦の場合とを混合しないように注意する必要
がある。
このことをここで付け加えるのは、私自身が教会の現場で受けた
相談を念頭においているからである。
以前、すでに二人の子供をもうけている夫婦のケースに出会った
ことがある。妻はやむなく二回とも帝王切開を行った。そこで、
医師からもう二度と妊娠しないようにと勧められた。だが、夫婦
ともにもう一人子どもがほしかったので、妻は三度目の妊娠をし、
幸いなことに、無事出産した。
その後、私のもとに夫婦が相談にきて、これから不妊手術を受け
ることを考えていると、うち明けた。彼らは教会の発言を知って
いる信徒だったので、迷っていた。
私は、二人を安心させる必要を感じ、教会の強い発言は、前述
114
したような政府による人権無視に対するものであって、決してこ
の夫婦が悩んでいた問題に当てはまるたのではないのだ、と説明
した。
教会の使命とは
確かに、教皇パウロ六世(在位1963-1978年)は、回章
『フマーネ・ビテ』(1968)を出されたとき、女性を傷つけ
るような避妊方法について厳しい発言をされたが、教皇が懸念し
ていたのは、快楽主義的な文明の在り方、男性中心的な考え方、
そして貧しい人々を搾取する第一世界の態度といった、三つの大
きな問題であったことを忘れてはならない。
ブラジル人大司教ヘルデル・カマラは、当時、パウロ六世に情報
を送り、米国政府の指示を受けている多国籍企業が南米などで、
何万人もの女性に対して、本人の同意なしに不妊手術を施す計画
を堂々と進めていることを知らせていた。
もし、当時、聖座が避妊や不妊についての何の疑問も抱かないよ
うな楽観的すぎる発言をしたとすれば、どのように利用されたか
わからない。しかし、そうした発言をそのまま先の例のような夫
婦に当てはめるのは行き過ぎだといわなくてはならないだろう。
社会の不正に対して教会が行う予言的な役割と同時に、一人一人
に対して教会が行うべき「助け」と「いやし」の使命も、司牧の
現場で欠かすことができないのである。
願望と技術の独走
子供が欲しいという願望を持つのは悪いことではなく、親とし
てそのような気持ちを持つことは当然です。
生殖の過程を技術的に操作できるようになったことも、一概に
悪いとは言えません。不妊の問題で悩んでいる方にとって、自然
115
に出来ないことを実現させるために技術の助けを借りることは当
然でしょう。しかし、助け手である者が助けるという役割の領域
を逸脱してしまうなら、それはゆゆしきことでしょう。言い換え
れば、技術というものが絶対視されれば、親子関係も家族関係も
危険に曝されるのではないでしょうか。
演劇の舞台には主役とわき役とがいます。わき役を演じている
者が主役となってしまえば、劇は成り立たないでしょう。どのよ
うな指揮系統においても、従うべき者が指揮者のように振る舞え
ば、事は上手く進まないのです。この例えをここで「願望」と
「技術」にあてはめたいと思います。つまり、この両方ともわき
役であると言いたいのです。
子供が欲しくもないのに妊娠するということは道理に合わない
のです。けれども子供が欲しいからという理由だけで妊娠するの
もまた問題です。子供が欲しいと望んでいる夫婦には、子供を生
むにあたって計画を立て、生まれてくるその子供を育てる意図を
持ち、家庭を作ってゆきたいという意志があるはずです。ペット
を欲しがるのと同じように子供を欲しがるとすれば、それはわき
役が主役になったことを意味します。
技術の助けによって不妊の問題を乗り越えることができるので
あれば、それを使うことで非難される理由はありません。しかし、
生まれてくる子供のことや、親子関係のこと、また夫婦関係のこ
とへの配慮なしに、技術的な操作によって治療を逸脱するような
領域に踏み込めば、まさにわき役が主役になってしまったと言わ
ざるをえません。
次に、こうした逸脱行為のいくつかの例を検討することにしま
しょう。
祖母は母親か、母親は姉か
116
46 歳のX婦人は離婚してから十年経っていました。彼女に 25 歳
の娘がいました。X婦人は子どものいない未亡人のYさんと再婚
しました。これからはじまる新しい家庭を作るにあたって、ふた
りともの子どもが欲しいと思っていたのですが、X婦人はもう閉経
をむかえていました。生殖補助医療のクリニックで相談したとこ
ろ、彼女の年齢では体外受精医療の対象者になりえないと言われ
ました。そこで、夫の精子と自分の娘の卵子の提供を受け、第三
者の女性に代理母を依頼する方法を選んだのです。X婦人の娘の
細胞は、50%が母親の遺伝子であり、卵子を提供すれば、子ども
の 25%の遺伝子はX婦人と同じということになるのではないかと
かんがえたらしいです。このようにすれば、生まれてくる子ども
はX婦人とY夫との遺伝的繋がりを保つことができるという理由
でこの方法が選ばれました。
このケースを伝えたあるマスコミは、次のようなパズルめいた
質問をしていました。この子どもにとってX婦人は母親であると
同時に祖母であると言えるでしょうか。そして、卵子を提供した
お嬢さんはこの子の姉であると同じに遺伝的には母親と言えるで
しょうか。さらに、子宮を貸し、妊娠期間に自分の胎の中で育て、
お腹を痛めて生んだ代理母を含めて数えると、この子には三人の
母親がいると言えるでしょうか。
私はそのような質問よりもむしろ、次の根本的な疑問を投げか
けたいと思います。果たしてこの子どもの幸せを考えてその方法が
選ばれたのでしょうか。一体、誰がこれから生まれてくる子ども
の立場に立ってものを考えてくれるのでしょうか。
実はこのケースにはもう一つの皮肉めいた結末があったようで
す。X婦人は結局、夫の浮気が原因で再び離婚したのです。しか
もY夫の浮気の相手は、卵子提供をしたX婦人の娘でした。
七つ子
117
1997 年 11 月、アメリカ。アイオワ州で七つ子が誕生しました。
七つ子の親となったこの夫妻は、一人目の子どもをもうけるため
に排卵誘発剤を用いていました。そして二人目が欲しいと願って
同じ方法に頼ったのです。妊娠途中で七つ子だと分かり、医師から
減数手術をすすめられたにのですが、この夫妻は危険を承知で、
すべての子を産むことを望みました。そして帝王切開によって、7
人全員が無事に生まれました。この例はハッピーエンドでしたが、
似たようなケースでは大抵減数手術が行われることが多くありま
す。「減数手術」という言葉が技術専門用語であるかのような印
象を与えますが、はっきり言えばこれは「選別的な中絶」であり、
多胎児の中からの数人を殺すことに他ならないのです。そもそも、
多胎妊娠を引き起こした技術が問われなければならないのではな
いでしょうか。多胎妊娠の場合、早産、未熟児、さらには一部の胎
児がなくなり、しょうがいが生まれる可能性が高くなり、母親が妊
娠中毒症になる危険も大きいです。そして母子が受ける影響だけで
はなく、何よりも気になるのは多胎妊娠とわかると、中絶を選ぶ親
が少なくないことと、胎児の一部を「減収手術」によって中絶させ
ることを勧める医療側の決断です。難しい決断であることを認め
たとしても、そもそもこの問題を引き起こしたのは医療技術の一人
歩きではないかと思います。
人工受精や対外受精を行うにあたって精子を選別する方法が開
発されたことにより、男女産み分けの可能性が開かれました。し
かし「できるようになった」この技術は、果たして「使ってもよ
い」技術でしょうか。当初、この技術は倫理的に認められうる場
合にのみ、例外的措置として用いられました。精子を選別する産
み分け技術は、伴性劣性遺伝病を避ける目的に限ると言われてい
ました。しかし現在では、事実上、「女の子が欲しくない」また
は「女の子が欲しい」などの理由でこの技術が利用されるように
なりました。
ヒトの精子にはX染色体を持つX精子とY染色体を持つY精子
があります。X精子が受精すると女の子、Y精子が受精すると男
の子が誕生します。しかし、ただでは差別の多くて、特に女性の立
118
場が低い社会の中ではなお差別の原因を無制限に増やしてよいも
のでしょうか。
もう一例。夫死後二年、保存精子で出産
夫を無くした女性が、医療機関に凍結しておいた夫の精子で人口
授精し子どもを出産したことが、2002 年 6 月に日本で発表されま
した。男児は遺伝上、亡夫の子どもですが、死亡後は夫婦関係が
消滅するので法律上は夫の子として認められません。戸籍上は
「父親不在」となります。フランスでは 80 年代から問題とされた
ていますが、法律的に亡くなった夫が父親と認められるにはいたっ
ていないのです。英国では、亡夫を父親と認められるためには生前
の夫の文書による同意が必要とされます。このケースをめぐる議
論では「亡夫の子どもを産みたい」という願望を強調した者もい
れば、「凍結保存が特別ではなくなった以上この問題も避けられ
ない」という指摘をする者もいました。私見では、『願望』と
「技術」が一人歩きするとき、一体誰が当事者である子どもの幸
せを考えてくれるかと問いかける必要があると思います。
以上に挙げた例はどれも大げさなケースばかりだと思われるで
しょうが、いずれも実際にあったことで、マスコミで報道された
ものです。しかし、そのような極端なケースがあったからと言っ
て、不妊治療一般に対して否定的な態度を取るのもまた極端でし
ょう。私はここで両極端を避けたかったわけです。世界で初めて
試験管ベビーが生まれたときには、ふたつの極端な反応がありま
した。ひとつは自然の摂理に反するから絶対にいけないという立
場でした。もうひとつは、不妊の問題に対する万能薬であるとい
う楽観主義的な意見でした。現在であればむしろ、この技術の長
所と短所を見極めた上でこれを用いるべきだというバランスの取
れた意見が主流となってきました。最初の試験管ベービーであっ
たルイーズ・ブラウンの両親に祝いの電報を送ったルチアニ枢機
卿(後に皇ヨハネ・パウロ一世)は、まさにその立場に立ってい
ました。彼は親に対してはおめでとうございますと言い、助け手
となった医療技術にも感謝を表し、同時に「どうかこれからこの
方法を使うに当たって、人間の尊厳が傷つくことがないように」
という但し書きをも付け加えたのです
119
中絶は個人だけの問題ではない
七つ子の中絶のことを新聞で読んで思ったのですが、非常に例
外的なこのケースについて考えるとき、まず母親を攻めることを
さけたいと思います。そして医療の限界と社会の責任を強調した
いです。排卵誘発剤を使用するとき、そこから生じうる結果を十
分に考えなければ無責任だと言えましょう。こうして例外的な中
絶の理由として、母胎への危険性と経済上の困難があげられまし
たが、この二つの理由は同列に並べられるものではないと思いま
す。もし生みたいと本人が決断した場合、育てるための助けを社
会は差し伸べるべきです。こうした点を考えないで本人だけを攻
めることのないようにしたいものです。いのちの問題は、個人的
な問題であるだけではなく、大きな社会問題でもあるからです。
要するに、中絶は個人だけの問題ではない。中絶におけるふた
つの大きな社会問題があると思います。一つは、中絶の社会的な
原因の問題です。それから、もう一つは文化の問題です。つまり、
私たちの文化における中絶に対する一般の見方の変化、その背後
にある生命観の問題が問われていると思います。したがってむず
かしい倫理上のジレンマに直面している本人に対し、必要な思い
やりをしめしながらも、同時に社会に向かって生命尊重に対する
責任をもっと呼び起こす必要があるでしょう。
生殖に関する新しい技術が応用されるにあたり、生まれてくる子
供のことが本当に十分考えられているのでしょうか。もしかする
と、生まれてくる子供も生む女性もモノ扱いされてしまう心配が
ありはしないでしょうか。そして、生まれてくる子供の人権が無
視されないということが十分に保証されているのでしょうか。
「子供がほしい」という願望の背後にあるものは、全部良いも
のなのでしょうか。ある医師は、「子供がほしいと言っている親
の願望をかなえてやりたい。そのための技術を備えているのだか
ら、やってあげてもよいのではないか」と言いました。この考え
方の妥当な面を認めても、やはり生まれてくる子供のことを、本
当に大切にしているのだろうかという疑問が残ります。そうする
と、まだ声なき者の人権はどうなるものでしょうか。まだ生まれ
ていないのですから、本人に聞くわけにもいかないのです。
さらに、その子供に対する社会の受け入れ方も考えなければな
120
らないでしょう。それから、子供たちに新しい技術を使って生ま
れたことを告げ知らせるべきでしょうか。「告げてもらう権利」
があると主張するひともいます。でもその場合、子供への精神的
な影響はどうなるのでしょうか。告げたほうがよいかどうかは、
わかりません。つまり、子供の立場と長期的な結果を考えないで
技術のみが先行しているとすれば、その点が一番問題なのではな
いでしょうか。
また今の日本では、ある子供が養子縁組でもらわれたなどという
わけで、結婚問題などでいろいろ差別されることがありますが、
体外受生の場合など、この出生の秘密をあきらかにするかどうか
の問題は、当然新しい差別を生むことにつながるのではないでし
ょうか。
胎児への思い
追い詰められた女性たち
すでに二人のこどもを生んでいたAさんは、三回目に妊娠したと
わかったとき嬉しかったのですが、一緒に住んでいた姑はよい顔
をしませんでした。両方の間に挟まれた主人は母に対して強くも
のが言えなかったのです。結局、堕したくないのに、堕すような羽
目になりました。心に傷が残り、やっとそれを打ち明けてくれたの
は長年経ってからのことです。信仰者なのに、教会の中でそのこ
とについて今まで話せなかったのは残念なことで、この人は癒さ
れる機会があのころありませんでした。
Bさんの相談は特に辛かったです。Bさんは主人の強い圧力で子
供を堕すということを妊娠の途中で私に打ち明けましたが、その時
の本人のことばは切実でした。「私は堕したくないし、堕すべきで
はないと思います。でも、やむを得ず悪いと思いなが堕します。
どうしようもありません」と。張りつめた沈黙が流れてから「あ
なたは今こうして打ち明けてくださったのですが…」と私は言い
始めました。すると本人が私の言葉を遮って「いいえ、神父さん、
何もおっしゃらないでください。『堕してください』とも言えな
121
いでしょうし、『生んでください』とも言い辛いでしょうから、何
も言わないで、聞いてくださっただけでいいのです。私はこれから
神さまの前で決断します」と言いました。私は「はい、わかりま
した。あなたの気持ちを尊重して今話してくださったことについ
て触れないことにします。ただあなた自身について一つだけ言わせ
ください。今どんなにあなたが悩んでいるかを一番分かっている
神様は、これからもあなたを見捨てることはないのです」。長い
あいだあの方に会わなかったし、その後どうなったかわからなか
ったのですが、久しぶりに彼女が現れたとき、感謝したいと言っ
てきました。もちろん私は立ち入った質問はしなかったのですが、
本人のほうから切り出しました。「あの晩、私は罪悪感を持ちな
がら堕すつもりでいたので、おろした後で教会から離れるつもりで
したが、『どんなことがあったとしても神様はあなたを見捨てら
れない』とおしゃってくださり、救われました」。そう言って
「あの胎児のために祈ってくださいますか」と言った。そこで私
は、「いいえ、あの胎児のためではなく、あなたのためにあの胎児
に祈ったほうがよいでしょう。あの胎児こそ、今のあなたの守護
天使なのです」と言いました。
Cさんは初めての妊娠のとき嬉しさと不安を同時に感じました。
主人は別の女性との関係があったらしく、夫婦のあいだに亀裂が
できていました。そのような時期に妊娠となるとこれからどうな
るのかと心配でした。自分の親と相談しても姑と相談しても同じ
ことを進められます。離婚するのだったら今生まないほうがよい
と思ったそうです。生みたいとも思うし、生むべきであると思って
いる彼女は、たまたまそのころ教会に通い始めていたのですが、
教会でこの悩みを打ち明けて話す自信がありません。彼女は聖堂
で長い時間ひとりで祈り、神様の前で重い決断をします。その後、
色々なことがありました。幸いなことに夫婦の仲は回復し、家族
は洗礼を受けるようにもなりました。ゆるしの秘蹟を受けるとき
励ましの言葉をいただいたのですが、長年経っても心にある傷が癒
されていなかったと言います。最近、神のみもとにもどった胎児
を偲ぶ祈りに参加して、やっと心の平安を取り戻せたと言ってお
ります。
122
Dさんは中絶の後、そのことを友だちの女性に打ち明ける必要が
あるのではと感じていました。同じ教会に通っている友人に話し
たところ、その日以降、その友人が自分から離れていったような
印象を受けました。信者でない友達に話すと、「そんなこと心配し
ないで。あなたはやむを得ずやったのだから。よくあることよ」
と言われて、結局どちらからも癒されませんでした。彼女は最近
になって、色々な事情で子どもを失った方々が共に集う祈りに参
加して、やっと心の平安が得られました。神さまに向かって胎児
の取次ぎによって祈り、無名の手紙を祭壇に備えました。
E さんは高校二年生で、年上の社会人との関係で妊娠しました。最
初は生みたいと思ってはいましたが、相手からも自分の家族から
も堕すように勧められ、そうすることになりました。堕した後、
落ち込んでしばらく学校を休んでいました。彼女の面倒をよく見
てくれた校長先生は彼女が立ち直るように手伝おうとしました。
学校にも出られるようにしたかったのですが、一部の教員から強
い反対がありました。不思議なことには、一番厳しかったのはそ
のミッション スクールで勤めていた一部の無宗教の教員でした。
「うちの学校に限ってこんなことを...」と言いながらその高
校生を見捨てた教員たちは、本人が立ち直ることよりも名門校の
看板を大切にしていたようです。それに対して宗教者の校長先生
が反対できなかったのもなさけないことだと私は思いました。
以上に挙げた例の大部分は、既婚者の女性でした。教会の現場で
相談を受けるという具体的な経験からの話でした。皆それぞれの
異なった事情でしたが、共通な点は「胎児への思い」でした。ちょ
うどそこから小見出しをつけたわけです。ところで、それとは対照
的な現象があります。2002 年の夏、新潟で開催されたカトリック
医療関係学生セミナーで、人工妊娠中絶に関するアンケート結果
が発表されました。
身近に人工妊娠中絶を経験した人がいるかという質問に対して2
6%「はい」と答えていました。心の傷を受けたかという質問に
対して95%は「はい」と答えました。ところで、「どんな問題で
心の傷を受けたか」と言う質問に対して圧倒的に多かった(77%)
123
のは「パ-トナとのこと」でした。私はこのアンケートを大学の
一年生と二年生に紹介し、意見を求めたところ、多くの女性は男
性の「無責任」とか「避妊の負担は女性だけにかかる」とか、
「相手を引き止めるために肉体的な関係を持ったが、後で相手から
見捨てられた」とか言うようなコメントをしました。
前述した「胎児への思い」はこのアンケートに表れた「相手への
思い」と対照的かもしれませんが、両方の場合に困難な立場にい
るのは「追い詰められた女性たちではないか」と考えさせられま
す。
X高校性は年上のパートナーとの交際で妊娠しました。相手は妊
娠のことを告げられると「お金が目的なのか」と言いました。そ
して彼女は、自分がまだ高校性で経済的にも社会的にも無理という
ことでそのパートナーの大人と一緒に病院へ行き、中絶手術を受
けました。親の承諾もなく、家族や学校に自分が妊娠したことが
知られることもなかったのです。パートナーの社会人は、女子高
校生と愛情のない交際をし、自分の欲望を発散するためだけに彼
女を利用したと思われます。信用のできないところで中絶してか
ら後遺症が残るかもしれません。肉体的にも精神的にも傷ついて
いるのはその女性であり、その上パートナーの裏切りで悩みます。
人生のどん底においやられます。周りの支えがなければ立ち直る
ことは難しいです。心の傷は一生涯残ります。
私が倫理の講義で中絶や自殺の問題を取り上げるときの共通な
視点があります。それは命を粗末にすることを避けたいと同時に、
命を絶つような状況に追い込まれてしまった人間に対する心遣い
です。中絶すべきでないと思いながら、したくないのに中絶をし
なければならないような状況に追い込まれた女性は、胎児と共に
自分も被害者です。自殺をするような状況に追い込まれてしまっ
た人間も、その遺族も被害者です。その人々とともに痛みを感じ
る私たちの側から、その状況に対してできることがないのだろう
かと次ぎのように問いかけられます。
自殺について
1)どのようにその社会的な原因をなくすことができるのでしょ
うか。
124
2)自殺をしようとしている人間をどう助けたらよいのでしょう
か。
3)自殺したものの遺族をどう助けたらよいのでしょうか。
中絶について。
1)中絶の社会的な原因をどうなくしたらよいのでしょうか
2)産むか産まないかを迷っている者をどう助けたらよいのでし
ょうか。
3)中絶が起きた後のいやしや心のケアのため何をすればよいの
でしょうか。
中絶体験者に心のケアを
米
国
で
広
が
る
プ
ロ
グ
ラ
ム
人工妊娠中絶を体験した女性には心のケアーが必要である。精
神科医と司牧者が手を組んで、そうしたプログラムが、最近米国
などで広がってきている。
その発端は1983年、ブィッキ・ゾーン(Vicky Thorn)さん
がミルウオーケィの大司教 ウィクラーンド(R. Weakland)大司
教 に 心 配 事 を 打 ち 明 け た の が 始 ま り だ っ た 。
彼女の親友の女子高校生で二回ほど婚外異性関係により妊娠し
た。一回目は、子どもを産んで養子に出したが、二回目は中絶し
た。しかし、その後、鬱状態になり、自らを攻め、罪悪感にさい
なまれるようになった。
このようなケースを前にして教会は、一体どのような援助を差
しのべることができるのだろうかと、ゾーンさんは考え込んでし
まったのである。
そして、ウィクラーンド大司教と相談した結果として「ラケ
ル・プロジェクト」という癒しのプログラムがスタートすること
になったのである。現在、 百以上の教区でこのプログラームが
行われている。ラケルという名は、聖書にヒントを得たものであ
125
る(エレミヤ 31, 15 マタイ 2,18 参照: 「ラケルはその子らの
ために嘆いた」)。
霊的な癒し
精神療法が盛んな米国であるが、中絶後の精神的な痛手から立
ち直るために必要とされる心の癒しは、単なる療法以上のもので
あろう。
「中絶後の療法により、自分の身に起こったことを理解できる
ようになるかもしれないが、深く癒されるには霊的な助けも要求
される」。
これは、ロサンジェレス大学バークレー佼・イエズス会神学部
のブレシュケ(J. Bretezke)教授の言葉である。彼はこの癒しの
プログラームを、現教皇が中絶体験女性に向けて語った言葉によ
って裏付けている。
教皇が言う。「起こったことをよく理解し、それに誠実に向き
合うようにしてください。・・・・決定的にすべてが失われたの
ではないことがやがてわかるでしょう。そして、今は主のもとで
生きるあなたの子供に、ゆるしを求めることができるでしょう」
(『「いのちの福音』99番参照)。
「心の癒しには心理学者と司牧者の協力体制のほか、女性の心
情を理解できる女性の関与が必要です」と、カリフォルニアのオ
ークランド教区の女性信徒モニカ・ロズマンさんは言う。
彼女は、同教区で「生命尊重への奉仕」というプロジェックト
をコーディネートしている。このような癒しのプログラムは、
After the Choice すなわち「中絶する選択をした後」と呼ばれて
いる(America 誌、1999年、11月六日、14-19ページ)。
その取材記事によると、四十歳前後の数人の女性が聖書の集い
で話し合っていたが、性に関する話題が出てくると、妙な雰囲気
になり、話しが行き詰まってしまった。指導者は最初戸惑ったが、
126
やがて原因がわかった。実は、このグループの参加者の四分の三
ほ ど の 人 が 中 絶 体 験 者 だ っ た の で あ る 。
「この体験の記憶がつきまとって離れないのに、それについて
話す場がないので、楽になれないのです」とモニカさんは言う。
教会の外でこの話題について話せば、「それは何でもない、忘れ
てください」というばかりの世間の声にぶつかる。といって、教
会の中でそのテーマに触れると、「犯罪者よばわりされそうで、
恥ずかしくて口を開けないのです」。
「このように両極端の声しか聞こえないのは残延なことだ」とモ
ニカさんは強調する。そうした体験の精神的な傷跡で悩んでいる
人々には、まず、自分の身に起こったことを見つめたうえで悲し
みを隠すことなく、痛みを乗り越えるための癒しを見出すことが
必要なのだ、と言うのであう」。
ゆるしこそ癒し
カトリック心理学者の女性テレーサ・バークさん(Theresa
Burke )は、臨床の場でこの問題と取り組んできた結果、精神治
療と霊的な癒しを結びつける方法を結びつけることの必要性と方
法を見出したと言う。罪悪感で悩んでいる人は、往 にして、自
分を責め過ぎ、嫌悪する自己イメージを裏返しに神に投影して、
罰を与える神のイメージに束縛される。そのため自分自身をゆる
すこともできず、神からの癒しを信じ切ることもできないのであ
る。
このような人たちのために、バークさんは15週間・十五段階
にわたるプログラームを企画した。参加者は毎回二時間半ほど分
かち合いや聖書の黙想をする。さらに、音楽やイメージやシンボ
ルを使って、悲しみの表現と神の慈しみの受容に努める。最初の
五回の間は、まだ中絶の問題にふれず、心の下準備をし、8回目
あたりから霊的な要素を増やし、最後に「ゆるしの秘蹟」にあず
かる機会も設けると言う。
127
このプローグラムの参加者の一人は、次のように述べている。
「以前、わたしは中絶をしたということを自分自身に向かって
さえも言えませんでした。思い出すたびに、何とも言えない憂鬱
な気持ちになったのです。でも、今は、神の慈しみを受け容れる
ことによって、神の御もとに帰った子どもの名を呼ぶことができ
るようになりました。すると、子を失った悲しみを受け容れるよ
うになり、同時に、天国にいる子どもの取り次ぎによって、今、
自分が力をもらっていることを実感できるようになったのです」。
このプログラームに協力した司祭は言う。「ゆるしの秘蹟がこ
れほど有意義な形で行われるのはまれなことです。受ける人も、
司祭も、神の慈しみを深く体験することができました」。
出生前診断
一昔前だったら生まれるまで待たなければ、赤ちゃんの健康
状態について知ることはできませんでした。現在では、妊娠して
いる女性が出生前診断を受ければ、自分の胎内の子についての情
報を得ることができ、赤ちゃんが母親のおなかにいるときから治
療を受けることさえできます。その一方で、胎児診断は、障害者
の切り捨てや男女生み分けにつながる恐れも高まってきました。
胎児も患者だということにきづきたいです。
胎児に対する治療は主に二つがあげられます。一つは内科的治療
で、母親を通して薬物を与えることです。もう一つは子宮内で外
科的治療を行うことです。こうした治療の可能性が開発されたこ
とは歓迎すべきことです。
さらに、生まれつきの遺伝性疾患などについての研究のおかげで、
胎児が私たちと同じ人間であることがますます意識されるように
なりました。これも注目されることです。
妊娠中の女性の腹部にカテーテルを挿入し、胎児の膀胱閉塞を治
128
療することははじめて成功したとき、人びとは驚き、その成果を
生かしたいと考えました。ただ、そのためにどの程度の臨床実験
が必要であるかという点については、まだ明確な見通しを立てる
ことができません。そして、治療の方法がまだ開発されていない
病気を診断できるということは、場合によっては、胎児の出産を
あきらめるという結果にもつながりかねないという懸念が生じて
きました。
羊水診断はここ30年間、広く行われるようになりましたが、十
年ほど前から二つの新しい方法が導入されています。その一つは、
母胎血清マーカーテストです。これは妊婦の血清を分析し、その
中に含まれている三種類のタンパク質やホルモンなどの度合いを
調べ、それによってダウン症のような染色体異常や二分脊椎のよ
うな神経管不全の障害のある子どもが生まれる確率が計られます。
ただ、これは確率だけで、後に羊水検査で確認する必要がありま
す。
これは簡単な方法ですので、採用されやすく、それだけに胎児の
障害の発見を目的としたふるい分け検査となる危険性があります。
さらに、検査結果を誤解し、「確率」という曖昧なことだけに左
右されてしまう恐れもあります。
もう一つは受精卵着床前の診断です。それは、ここ十数年間発展
してきた遺伝子研究を体外受精の技術と結びつけた結果として生
まれた方法です。体外受精でできた受精卵の遺伝子を調べ、遺伝
病があるかどうかを判定する「受精卵遺伝子診断」のことで、こ
れによって異常でないとわかった受精卵を母胎に戻せば、遺伝病
の子どもの出産を避けることができるのです。
この診断は母胎への着床前に診断ができるので、着床後の中絶よ
りましだと言う者もいます。しかし、その一般的な実地が及ぼす
社会的な影響を見逃すわけにはいかないのです。障害者団体から
は、「いのちの選択は認められない」「生まれてきて良いいのち
と悪いいのちがあるような診断法はいのちの選別だ」という反対
の声が、当然あがっています。
129
出生前診断を受けた人で、胎児が障害をもって生まれる可能性が
高いと言われ、子供をあきらめたというケースが少なくありませ
ん。そして、産むことを選ぶ場合でも、その決心に当たっては相
当に苦悩することも多いです。予防医学という言葉の流行に伴う
錯覚に対しは注意が必要です。
当初、出生前診断が行われたのは、すでに重度の障害をもった子
供を出産した経験があるなどの特殊な事情がある場合に限られて
いました。
当時の出生前診断は、基本的には、もう一人別の子供を持とうと
決心した両親を安心させる目的で行われたために、医学は個人の
枠内にとどまっていました。(もちろん、それでも問題はなくか
ったわけでもありません。というのは障害者の中絶とつながる場
合もあったからです)。その後、欧米では妊娠した多くの女性た
ちが出生前診断を受けるようになり、次第に普及しました。その
結果、医師は妊娠中絶を勧めてしまうという傾向が一般的になっ
てきました。これに対しては、自分に託された人々を治療し、そ
の苦しみを和らげて使命を与えられている医師たち自身が、一つ
の生命を抹殺する決定を下すようなことがあってはならないと言
わなければならないでしょう。さらに、出生前に実地される種々
の検査の中には、実際に治療に役立っているものも幾つかありま
すが、ほとんどの場合は、胎児に治る見込みのない異常が見つか
っても治療はできず、確認することしかできません。場合によっ
ては、その確認が、胎児をあきらめることへの勧めにつながって
しまうこともあります。
今私たちの社会で差別が起きていると自覚するのは大切です。あ
る種の人間は生かしておかないほうがいいと考える人々が増えて
います。このことが障害者に対する見方に大いに影響し、この見
方が社会的圧力となって堕胎を容易にしているのです。
生まれてくる子どもが重度の障害者だと承知のうえで、それでも
産むというのは、現代の文化的雰囲気の中では、相当な動機付け
がないかぎりなかなか難しくなってしまっています。
130
胎児の重度異常が判明すれば中絶してしまうことや、子供の生み
分けが、次第に普通のこととして受け入れられているというのは
残念ながら事実です。そのため、先天性の重度の障害者は、「医
学のミスや予防の失敗」と見なされるようになってしまいます。
事実、羊水検査が行われ始めていたころ、「先天性異常児、生ま
ない診断」という見出しを見かけ、新聞報道の在り方に驚いたこ
とがあります。
しかし、ある人と同じような障害をもつ人間の存在を否定する決
定がくだされるとすれば、はたしてその人の利益と尊厳を擁護す
ることはできるだろうか。
法律を決めるとき、なし崩し的に「改正」が行われていくことが
あります。英国では、「すでに生まれている障害者の人権は最大
限守りたい」と言いながら、「これから障害者が生まれてくるこ
とは防ぐ」対策をとっていますが、これは矛盾としか思えません。
出生前診断によって行われる胎児の差別的な選別は、私たちの社
会や文化のゆがみを見え隠れします。それは障害者が生まれない
ほうがよいと考えてしまう、差別的なものの見方です。
新聞における読者の投書欄を見るとこの問題に関してはどんなに
人の考えが揺れ動いているかがわかります。
乙武さんの『五体不満足』は、確かに大きな反響をひきおこし
ましたが、五体満足の子がほしいという人も多ければ、そんな事
を言うのは障害者にとって差別であると抗議する人も多いです。
そこで、私たちは根本的に問わなければならないのは、「いの
ちの選択」の背後にある考え方です。つまり、多くの人は不幸な
子供を産まない方がよいと言うときに、障害イコール不幸と考え
ています。はたして障害イコール不幸とみなしてしまってよいの
でしょうか。
131
人間の尊厳を脅かす差別が行われないようにするためには、大
きな社会変革が必要であり、自分たちとは「違う」人々とともに
生きる術を学ぶことが必要とされます。
障害をもっている方の尊厳と人権を尊重し、その人に対する見
方を変えていく必要があります。障害をもっている人を受け入れ、
自分とは違うものとともに生きることを学ばなければならないの
です。
世界障害者年(1981年)に発表された教皇庁文書を引用し
て、日本カトリック司教団は訴えています。「一つの社会、一つ
の文明の質は、その中の最も力無い仲間がどれだけ尊重されてい
るかによって量られる」 (『いのちへのまなざし』55項)。
1998年の六月に、全国の産婦人科医によってつくられている
日本産婦人科学会の理事会が、警告に違反して非配偶者間の体外
受精を行った産婦人科クリニック院長に対し厳しい態度で臨み、
除名処分を決めました。同学会は、生命倫理に対する深い関心を
も っ て い る こ と を 印 象 づ け た か に 思 わ れ ま す 。
確かに、そのニュースだけ読んだ人なら、日本の産婦人科学会
は倫理観に厚くて、人間の尊厳を守ることを第一に考えていると
思ったかもしれません。しかし、本音はどうだったのでしょうか。
学会が怒ったのは、非配偶者間の体外受精に問題があるからで
はなく、むしろ、その医師が他の医師に先立って独走したからで
はないのでしょうか。
実際、同学会は、重い遺伝性疾患をもつかどうかを看る着床前
診断の臨床応用に青信号を出すことを決めたのです。非配偶者の
体外受精に関して懸念をあらわしたのに、急いで着床前診断によ
る「命の選択」を認めたということは矛盾としか思えないのです。
い っ た い 本 音 は ど こ に あ る の で し ょ う か 。
なお、同学会は、2001年2月17日に、夫婦以外の第三者
から提供された卵子を使った配偶者体外受精を認めることにしま
した。
132
日本で生命倫理を考えるに当たって、この問題を見逃すわけに
はいかないでしょう。
遺伝子組み替えをめぐって
遺伝子に関する科学の進展がいちじるしいのですが、そこには光
と陰があります。生き物についての認識が深められ、新しい治療
法への道が開けたことは歓迎されますが、他方では新しい差別も
生じるのではないかと心配になります。
1997年11月11日にユネスコによって「人ゲノムおよび
人権に関する国際宣言」が採決されました。たしかに人間の進歩
であって、生物に関する認識が深められ、新しい治療の方法を開
発することはのぞましいのです。しかし、その反面に、治療でき
ない病気の発見が早めに行われると、かえって困難な状況が生じ
ることもあります。そこで人間の尊厳を尊重する意志が強くなけ
れば、生まれ出る前に胎児が差別の対象になってしまうことにも
なりかねないのです。そのようなときに、健常で強いものによっ
て弱者切り捨てが行われてしまうおそれがあるのです。
ただ遺伝子科学技術の領域は広いもので、それはすべてけっし
て危険なものとは言えません。 たとえば、動物実験で確かめら
れたように健常な遺伝子を組み替えることによってある遺伝病に
対する治療の可能性があらわれましたが、まだ十分な成果が得ら
れていないのです。こうした研究を続けなければならないでしょ
うが、その対象は「身体細胞」に限るべきであって、「性殖細胞」
にふれてはいけないのではないかという意見があります。なぜか
といえば未来世代に対する責任があって、これから生まれて来る
ものの尊厳をも守りたいからです。
さらに、予防医学の考え方を慎重にあつかわなければならない
ということも指摘されています。場合によっては優生学のように
乱用されるおそれがあるからです。具体的に言うと、障害者の尊
133
厳とその人権を尊重し、障害者に対する社会の偏見をなくす必要
があります。
出生前診断は最初のころ特定の場合に限るものでしたが、最近
「予防医学」という美名のもとに一般化されるようになって、異
常が発見されれば、中絶をすすめる傾向が出ています。それは障
害者が生まれないほうがよいと考えてしまっている差別的なもの
のみかたです。出生前診断によって行われる胎児の差別的な選別
においてわれわれの社会や文化のゆがみがあらわれます。障害を
もっているものを受け入れ、自分とは違うものとともに生きるこ
とを学ばなければならないと思います。「ある社会またはある文
明の質は、そこにおける最も弱い構成員に対して示される敬意に
よって測られる」(これは、世界障害者年のための教皇庁文書か
らの引用であるが、それは1981年4月4日に発表された)。
要するに知識にそれを応用するための智慧が伴わなければ予想
できない恐るべき結果になることにもなりかねないということで
す。
ヒトゲノムの遺伝的特質を検査することで、ある人の将来につ
いて何らかのことがわかり、異常の原因を解明し、発病を予測で
きる場合があります。たとえば、身体的または精神的「欠陥」か
ら引き起こされる種々の障害を、ある程度正確に予測できるよう
になってきています。ただ、予測ができても、現時点ではほとん
どの場合、異常あるいは病気に関するこの知識は何の力にもなら
ないのです。そのため非常に困難な状況が引き起こされてしまい
ます。それが障害者の排除につながり、選ばれた子供だけが誕生
を認められるような社会体制が作られてしまうこともあるかもし
れません。このように、「強者や正常者」と思われるものが「弱
者や病者」を差別することがあれば、それは人種差別と同じよう
に非難されるべきことでしょう。
二十年前に科学者たち自身が、ある生物の遺伝子を他の生物に
挿入することで、挿入された生物は病気になるかもしれず、それ
が破壊的な伝染病を引き起こす結果になるかもしれないことを恐
れたのです。彼らは科学者としての責任を自覚していたので、厚
134
生当局と政治家たちに規制の急務を訴えることができました。こ
うして、安全基準が設定され、倫理的・法的秩序の観点から規制
されることとなりました。その後、これは「遺伝子工学」と呼ば
れるようになり、ある程度まで警戒する必要があっても、人類の
健康に貢献する素晴らしい道具の一つとなる面も現れてきました。
さらに、出生前に実施される種々の検査の中には実際に治療に
役立っているものもいくつかあるのですが、ほとんどの場合は、
胎児に治る見込みのない異常が見つかってもそれを治すことがで
きないので、ただそれを確認することぐらいしかできません。場
合によっては、その確認に胎児を諦めることへの勧めが伴ってし
まうこともあります。
当初、出生前診断が行われたのは、すでに重度の障害をもった
子供がいるなどの特殊な事情がある場合に限られていました。だ
から当時の出生前診断は、基本的には、もう一人別の子供を持と
うと決心した両親を安心させる目的で行われたために、医学は個
人の枠内にとどまっていました。その後、多くの妊娠した女性た
ちが出生前診断を受けるようになり、それは次第に集団的な規模
になってきました。かつては重度の異常児を出産する可能性のた
めに普及したのですが、いまは「予防」の観点が受け入れられて
普及しています。医師は妊娠中絶を薦めてしまうのが一般的にな
ってしまうきらいがあります。
生まれてくる子供が重度の障害者だと承知のうえで、それでも
生むというのは、現代の文化的雰囲気の中では、相当な動機付け
がないかぎりできないことでしょう。このような決心には苦しみ
が伴うに違いありません。しかし、思いもよらぬ富の発見につな
がる道でもあるということは多くの両親が証しているところです。
以上のことを考え合わせれば、ある程度一般化されていても実
際は治療が目的ではないような出生前検査に対しては、非常に慎
重にならざるを得ません。特殊な問題を提起している「血清型」
検査(ダウン症候群の検診に用いられる)だけでなく、その他に
も計画的に実施されている種々の検査が、これに相当します。妊
娠している女性たちにとって非常に危険なのは、ある複雑なから
くりに知らぬ間に巻き込まれてしまうことです。胎児の重度異常
135
が判明すれば中絶してしまうことと男女の生み分けすることが、
次第に普通のこととして受け入れられてしまっています。すべて
の新たな出生前検査の方法が、この基準とこの集団的実践をます
ます受け入れやすいものにしています。そのため、子供や大人や
先天性の重度の障がい者は、次第に「医学のミスや予防の失敗」
と見なされるようになってしまいます。これが、障害者を社会に
受け入れるための真の政策の実現にとって、非常に大きな妨げと
なっています。その一方、ある人と同じような障害をもつ人間の
存在を否定する決定がくだされるとすれば、はたしてその人の利
益 と 尊 厳 を 擁 護 す る こ と が で き る で し ょ う か 。
子供の生み分けと障害者の排除とが、一体となって強化されて
います。人間の尊厳と人権を尊重するためには、そういった事態
の進展に対して反対する声を上げる必要があるでしょう。そのた
めには、堕胎につながりがちな出生前診断の在り方をあらためる
だけでなく、障害者に対する見方を変えなければならないでしょ
う。
再生医療の光と陰
「臓器の修復」」とか「組織の再生」といった言葉が、最近の医
療におけるキーワードとなっておりますが、それは同時に新たな
生命倫理の問題の表れでもあります。特にデリケートなのは、幹
細胞を治療目的で用いる場合の問題です。幹細胞とは、自分自身
を再生させるだけでなく、種々の分化した細胞をも再生させる能
力を持っている細胞であり、いくつかの種類の組織や器官へと分
化させることが可能です。この幹細胞については30年以上も前
から研究が進んでいましたが、1998年に研究は新たな段階に
入りました。つまり、ヒトの胚から幹細胞をつくりだす方法が発
見されたのです。
幹細胞を分離するためにはヒトの胚を破壊しなければならない
ため、ここ数年、米国では激しい議論がたたかわされてきました。
2001年8月9日、ブッシュ大統領は、胚性幹細胞研究への連
邦政府の予算支出を認める決定を下したが、対象となるのは、す
でに得られた幹細胞列を用いる研究に限られています。
136
この新技術にはあいまいさがあります。胚の研究と利用は、
人々を助け、その苦痛を和らげることを目的としていますが、そ
の一方で、研究者や病院、製薬会社の利益追求がその原動力とな
っていることも確かです。研究者が幹細胞の医学的利用法を研究
するにあたって多大なインセンティブ(誘因)となっているのは、
利益を追求する製薬会社に彼らの知見を売ることができるという
現実です。こうして、「エスカレート」が容易に予想されます。
胚細胞の供給にあたって、余剰の胚に限って利用してよいという
条件は、やがて、クローン技術を用いて研究用のヒト胚細胞を作
製するというところまで、許可条件が拡大されうるのです。
確かに、幹細胞研究者たちが掲げる見通しは、多くの臨床的な
恩恵の可能性を期待させる。だが、胚細胞の研究は、こうした恩
恵を実現するための唯一の道ではありません。他にもさまざまな
代替案が示されてきました。たとえば、非胚性の成人幹細胞の利
用です。いずれにせよ、市場の関心がどれだけのスピードで動い
ているかを知れば、次のような問いを避けて通ることはできない
でしょう。「すばらしき新世界」へと突き進む競走に、私たちは
どこでブレーキをかけるのでしょうか? 生命の商品化はどこま
で進むのでしょうか?
確かに、胚性幹細胞の発明は再生医療のためになることが期待
されています。同時に、懸念を表すため(例えば、企業の焦り、
不十分な公の議論のため社会の理解が得られにくいなど)の理由
もあるのですが、歯止めをかけるよりも、必要な公的な監視と制
御のもとで研究を行うほうがのぞましいと思います。
体幹細胞(Adult stem cells)の樹立と効率などが確立されれ
ば、ES 細胞よりも adult stem cells を使うほうがのぞましいと
言われていますが、そのために ES 細胞を対象にする研究を続ける
必要があるでしょう。 現在の時点で研究者たちは安全性と効率
などを確認する過程の途中にあります。公的な監視と制御および
各施設の倫理委員会などが見守る中で多くの異なったチームが研
究を進めたほうが望ましく思われます。そして、企業の利益や研
究者の名誉などによって倫理基準が無視されないために行政の側
からの指導が必要でしょう。
137
平成13年3月29日に発表「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関
する倫理指針」は三つの省(文部科学・公正労働・経済産業)に
よって合同で出されたことは画期的だと思います。生命倫理の諸
問題(生殖医療、移植医療、再生医療など)に関する行政の一貫
した取り組み方および「学会」・「行政」・「法令化」などの役
割を統合することが必要とされています。
幹細胞研究は私たちに、初期の胚をどう位置づけるかという問題
を突きつけます。この問題に対する答えは、中絶の問題と同様に、
二つの極端の立場から導かれます。ある人々は、初期の胚とは単
なる細胞塊に他ならない、と主張します。の人々は、それはすで
に尊厳も権利も備えた一人の人間である、と主張します。確かに
厳密に言えば、初期の胚はすでに一人の人間であるとは言い難い
のですが、それが単なる物体でも所有権の対象でもないことも、
認めざるをえないのです。5日目の胚(この子宮への着床を控え
た胚を、学術的には「胚盤胞」という)が人間としての地位を得
られないにしても、それは確かに一人の人間への道をたどりつつ
あるのであって、単なる物質的な生成物ではありません。初期の
胚の破壊を殺人とまでは言えないのですが、この破壊は一つの道
徳的問題を提示します。つまり、初期の胚は、人間生命への発展
途上の形態の一つであり、それが何であるかによってではなく、
それが何になりうるかによって、敬意をもって扱われなければな
らないわけです。
私はこの微妙な問題を取り扱うとき学問的な正確さと倫理的な
誠実さを合わせる必要があると思っています。
そして、胚の位置づけに関して慎重に考えなければならないで
しょう。生物学的に見て、着床以前の胚(blastocyst、胚盤胞)
は生命の萌芽ではありますが、まだ一人の人間ではないのです。
着床以前の胚に対する尊重(礼意を失わないこと)と胎児の尊厳
(人の尊厳を冒さないこと)に対する尊重を同一視すべきではあ
り ま せ ん 。 ( カ ト リ ッ ク 倫 理 学 者 シ ャ ン オ ン 著 を 参 照 : Th.
138
Shannon, “Human embryonic stem cell therapy”, Theological
Studies 62(2001) 811-824)。
胚性幹細胞の樹立に対して反対を表したバチカンの Academy of
Life の意見の背後にある心配がわからないこともないのですけれ
ども、胚性細胞をめぐる議論の中心に「胚の位置づけ」の問題を
置くと、かえって逆の効果をもたらすのではないかと思います。
言い換えれば、「人の命が始まっているから、受精卵の滅失が認
められない」というよりも、「人の命がまだ始まっていないにし
ても、受精卵に対する礼意を失うべきではない」といったほうが
よいように思われます。したがって、受精卵を研究用途するとき、
それに伴うべき法的な条件と公的な監視と制御のために必要な制
度の整備が緊急課題であると言えましょう。
なお、胚の位置づけに関して神学の立場から意見を述べるのを
求められることがありますが、まず、カトリック教会の公文書な
どにみられる発言の解釈について誤解をさける為に、次の点に留
意したいです。
1)教会は命の始まりについて科学的な定義も哲学的な定義も
しておりません。
2)「線引き」の考え方が乱用されることを恐れて、教会は慎
重な立場として「受精のときから守る」という「安全第一の態度」
(または)を勧めているだけです。(「安全区域」:「理由なし
に安易に介入すべきではない」。しかしレープやそれに当たる場
合、着床以前の処置をとるべきであるとカトリック倫理学者が勧
めます。
3)「受精の瞬間」という言い方は日常用語で、専門用語では
ありません。「受精」は一瞬におこる出来事ではなく、「時間が
かかる process すなわち過程」であり、20時間以上かかります。
このように「胚の位置づけ」に関する議論をクリアしたうえで、
社会正義の観点をもう一度力説したいと思います。
139
というのは、ES 細胞の研究から再生医療のための良い結果が期
待されますが、それが実現した暁には「誰の為になるのか」とい
う問題が残るのです。医療制度における公正な分配と医療制度の
在 り 方の 再検 討は ES 細 胞に 関する 議 論よ りも 多く の public
policy の課題を含んでいます。
前述したように、一人の人間の生命がいつ始まるのかという問
題は、本論の主な課題になるべきではありません。大切なのは、
科学者や投資家が及ぼす政治的圧力の影響の下で、政府が現在、
設けようとしている基準に対して、一般市民がもっと積極的に関
心を持ち、情報を得ることです。生命倫理に関する決断において、
経済的な理由が及ぼす強い影響力に、制限を設ける必要がありま
す。技術に対して過度の信頼が寄せられている一方で、連帯は十
分に考慮されていません。著名な女性のカトリック倫理学者、L.
S.カーヒルは、こう書いています。「バイオテクノロジーの社
会的役割に関する意志決定への、より広範な市民のより注意深い
参加は、医学界と経済界が結びつきを強めつつある現代において、
生命を癒し、人間的なものとするという医学の伝統的な目標を保
持する上で、絶対的に不可欠である」と。 (『アメリカ』誌、
2001-Ⅲ-26)
胚の位置づけの問題に加えて、正義の問題についても考える必
要があることを強調しておくことも重要です。たとえば、誰がそ
の研究から利益を得るのでしょうか? 現在の保健医療体制にお
いて疎外されている人々は、恩恵を被るのでしょうか?(米国で
は4600万人が健康保険に加入しておらず、基本的な保健医療
を継続して受けられない状態にあります。4000万人が貧困の
うちに暮らしており、その5人に1人は子どもです)。
さらに、私たちの生命観や技術との関係を見直す必要がありま
す。私たちは生命を軽んじるようになっていないでしょうか?
生命の商品化に賛成するようになっていないでしょうか? 新た
な法による規制は、初期の人間の生命や生殖の過程そのものに対
して払われるべき敬意を、(「科学的かつ合法的に」)余計に損
なうだけではないでしょうか? 初期の人間の生命も生殖の過程
140
も、ますます商品化され、技術による管理に従わされていないで
しょうか。
その上、研究者、行政と市場(株式市場や製薬会社など)-言
い換えれば技術、医学、政治とビジネス-の間の関係というデリ
ケートな問題もあります。これは、日本で特に関心の的となる問
題に違いありません。最近、医療行為が原因で引き起こされた病
気(薬害エイズやヤコブ病など)を思い出すとよいです。私たち
は、人間の健康を商品化しようとする企業の圧力に、屈しようと
しているのでしょうか? 近年の研究の進展や発展は、「進歩」
なのでしょうか、それとも退歩なのでしょうか?
最後にフェミニストの学者の意見を紹介したいと思います。S.
ホランドはこう述べています。「彼らは、ES(胚性幹)細胞研
究が人々の苦痛を和らげるのに役立つだろう、との見通しを述べ
ます。誰の苦痛を? 誰を犠牲にして? そのような治療法は、
豊かで保険によくカバーされている人以外には、法外な値段のも
のとなってしまうでしょう。貧しい人々(その多くが女性だ)、
有色人種の大部分はそうした治療法から閉め出される一方で、彼
女たちの卵子は利益を求めて商品化されるという事態も起こりう
るでしょう」。
(『ヒト胚性幹細胞に関する議論』83ページ)
受精卵の選別
受精卵選別の問題に関する議論は最近スペインのマスコミをに
ぎわしてきました。私はコミリャス大学(マドリード)の生命倫
理研究所に移籍して直後からこの技術が引き起こす倫理上の疑問
を投げかけられて,たびたび問い合わせを受けたことがあります。
この技術は、周知のとおり、生殖補助医療と出産期医療と遺伝
学研究といった三つの科学技術発展の合流によるものです。体外
受精の方法で作られたいくつかの受精卵の中からどれを母体にも
141
どすかを決める前に,その受精卵の遺伝子検査をおこない、異常の
ないものを移植するという選別です。
この技術の長所としてあげられるのは、着床前に受精卵(胚)
の段階で、遺伝病や染色体異常のある胚を除去するので、羊水分
析などの診断とちがって、遺伝病や染色体異常判明後に妊娠中絶
手術をすることがさけられるという点です。
しかし、このようないわゆるデザイナーベービーの作成には、
倫理上の問題が指摘されています。というのは、見方によればし
ょうがい者差別とつながるいわゆる「いのちの選別」ではないか
と危ぶまれて厳しい批判を受けているからです。
一方、場合によっては、その方法を使うことこそしょうがい者
を大切にすることとつながるのではないかという主張もあります。
ここで、その方法の長所と短所を慎重に検討しながら考えたい
と思います。
先ず、一番容認しやすいケースをとりあげることから始めまし
ょう。最近バレンシア(スペイン)の生殖補助医療研究所の「番
待ち」で並んでいる X 夫婦のケースです。このカップルはすでに
しょうがい児の子供を生み育てています。その子が生まれる前に
妊娠三か月の母親は出生前診断を受けた際、胎児に障害をもって
生まれる可能性が多いとわかった段階で医師から中絶をすすめら
れました。もちろん勧められたといっても医師は建前として「ど
うされますか、うみますかそれともあきらめますか」といった言
い方にとどめていたらしいが、親戚を含む周りのふんいきは中絶
を勧めるほうでした。
しかし、この夫婦は「私たちはぜひこの子供を産みたい」と言
いつづけました。夫も妻も就職先を変えたり、家の中を改築した
りして、障害児を迎える条件をととのえたうえで、その誕生を迎
えました。そして産まれた子供を愛して育てて来ています。
ところが、もう一人の子供がほしくて、兄弟姉妹がいる家庭の
中でしょうがい児が育った方がよいと思い、二番目のこどもを望
142
んでいました。それは親としての自分達ののぞみでもあり、しょ
うがいをもって生まれた長男のためにもよいと考えたのです。
ただ、二番目の子供もしょうがいをもって産まれる可能性があ
るといわれた時点で躊躇った。そこで、出生前診断を受け、結果
が陽性であればその子をあきらめるようにと勧められましたが、
今回もこの夫婦は「私たちはしょうがいのある胎児を中絶するよ
うなことを絶対にしたくない」とことわりました。
それに対して、専門家の友達からもう一つの方法があると知ら
されました。それは受精卵診断と選別です。この方法を使えば中
絶も避けられるし、選別した受精卵を移植するからしょうがいを
持つ子供が産まれないのです。X 夫婦はその方法を選ぶことにして、
現在「番待ち」です。
この方法を選んだからといってこの夫婦は差別行為となるよう
な「命の選別」をおこなったと批判してよいのでしょうか。
この夫婦はいのちへの道を選択する人々であるにちがいありま
せん。彼等は二回とも中絶を勧められたにもかかわらず、それを
否定し、しょうがいのある胎児を向かえ、愛情をもってよろこん
でそだててきています。長男のためにも兄弟姉妹がいたほうがよ
いと思って二番目の子を願っているが、二人のしょうがい者を抱
えて育てられるかどうか心配です。したがって受精卵診断の方法
を選んだわけです。この場合遺伝上の問題のない受精卵を選んで
それを母体にもどすことは必ずしも「命の選別」とは言えないの
ではないでしょうか。いや、それは命の味方をして選択するとさ
え言えるかもしれません。すくなくともこの点に関して倫理上の
議論において柔軟性をもって考える余地があるのではないかと思
います。
ところで、前述したケースにはあまりにも良い条件ばかりがと
もなう理想的状況を前提にしていると言えば、そのとおりです。
しかし、受精卵診断を乱用してそれを男女産み分けのためとか、
いわゆる「好みの赤ちゃん」(デザイナーベービ)をもうけるた
めとか優生学的な考え方などに促されて利用されてしまうことも
十分に考えられます。
143
さらに、しょうがい者の差別の問題に関して言えば、ただでさ
え差別の多い私たちの社会では受精卵選別はますます優生学的風
潮を促進させることとつながるのではないかと懸念されても無理
もないのです。
遺伝子工学を用いて、できるだけ“完璧な子ども”--フラ
ンス語流にいえば「ア・ラ・カルト」(お好み)の赤ちゃん--
を選べる日が来るのを期待している人がいるようです。
二十世紀初頭、米国、英国、ドイツで優生学の大きなうねりが
起こり、知能しょうがい者やアルコール依存症、癲癇などの病気
の人々に対して強制的に不妊手術を施すことを認める法律が成立
しました。
一九二七年、アメリカ連邦最高裁が、知能しょうがいの人々に
対する強制的な不妊手術をしても合憲であるとの判断を下したと
きには、背景にやはり優生学的な考え方があったはずです。
このようなメンタリティーは今も多くの人々の考え方の中に残
っています。 遺伝学の進歩が人類に大きく貢献することができ
ると期待するのは当然ですが、このようにして得た新たな知識を
具体的に応用しようとするとき、私たちは責任をもってそれを行
うことができるのでしょうか、それとも人間の尊厳が侵されるよ
うな事態を引き起こしてしまうのでしょうか。
今、私たちの社会で差別が起きていると自覚するのは大切です。
ある種の人間は生かしておかないほうがいいと考える人々が増え
ています。このことがしょうがい者に対する見方に大いに影響し、
この見方が社会的圧力となって中絶を容易にしているのです。
生まれてくる子どもが重度のしょうがい者だと承知のうえで、
それでも産むというのは、現代の文化的雰囲気の中では、相当な
動機付けがないかぎりなかなか難しくなってしまっています。
胎児の重度のしょうがいが判明すれば中絶してしまうことや、
子供の産み分けなどが、次第に普通のこととして受け入れられつ
つあるというのは残念ながら事実です。そのため、先天性の重度
144
のしょうがい者は、「医学のミスや予防の失敗」と見なされるよ
うになってしまいます。
そこで、前述した診断は私たちの社会や文化のゆがみを隠す口
実になるおそれがあってもふしぎではありません。それはしょう
がい者が生まれないほうがよいと考えてしまう、差別的なものの
見方です。
新聞における読者の投書欄を見るとこの問題に関してはどんな
に人の考えが揺れ動いているかがわかります。
乙武さんの『五体不満足』は、確かに大きな反響をひきおこし
ましたが、五体満足の子どもがほしいという人も多ければ、そん
な事を言うのはしょうがい者にとって差別であると抗議する人も
多い。
そこで、私たちが根本的に問わなければならないのは、特定の
選択の背後にある考え方です。 人間の尊厳を脅かす差別が行わ
れないようにするためには、大きな社会変革が必要であり、自分
たちとは「違う」人々とともに生きる術を学ぶことが必要とされ
ます。
しょうがいをもっている方の尊厳と人権を尊重し、その人に対
する見方を変えていく必要があります。障害をもっている人を受
け入れ、自分とは違うものとともに生きることを学ばなければな
らないのです。
世界しょうがい者年(1981年)に発表された教皇庁文書を
引用して、日本カトリック司教団は次のように訴えたことがある。
「一つの社会、一つの文明の質は、その中の最も力無い仲間がど
れだけ尊重されているかによって量られる」 と(『いのちへの
まなざし』55項)。
前述した受精卵診断のもう一つの用途は論争を引き起こしてい
145
ます。重病をもっている長男のために免疫の問題のない骨髄細胞
移植することができるような子供を産むために体外受精をおこな
い、受精卵診断を行った上で、そうした目的のために適切だと分
かった受精卵を母体に戻すということです。
先に生まれたこどもに骨髄移植や臍帯血肝細胞移植で助かる遺
伝病が存在し、次に生まれる赤ちゃんの HML(免疫システム)を調
べたうえで、着床前遺伝子診断(PGD)を利用して着床前に合わせ
るという操作は技術的に可能になりました。
不妊治療では、体外受精した複数の受精卵のうち、病気の子供
の白血球型と一致する受精卵だけを選び、母親の子宮に着床させ
ます。生まれた子供のへその緒や骨髄が、病気の子供の治療に有
用となります。
現在バレンシア(スペイン)の生殖医療センターに、そうした
方法で妊娠を目指して待っている五つのカップルがいます。その
中の三組は遺伝病の伝達を防ぐ目的で受精卵診断を申し込んでい
るのですが、骨髄提供の適否を調べる診断で受精卵に害がないこ
とを確認したいのはその他の二つのカップルの願いです。それを
容認するためスペインの場合生殖医療に関する法律を緩和する必
要があります。
すでに米国において2003年にそのことがおこなわれていま
す。米国イリノイ州シカゴの「生殖遺伝学研究所」は 2004 年5月
5日、重い血液の病気を持つ小児患者の治療のため、患者に移植
可能な白血球型(HLA)の遺伝子を持つ胚(はい)(受精卵)
を着床前診断で選別し、骨髄提供者として出産することに成功し
たことを明らかにしました。(日本では五月六日の読売新聞で
2004 年に報道されています)。
英国の場合、英国の受精・胎生学局は2004年3月21日、
病気の子供に骨髄移植などの治療を受けさせるため、次に生まれ
る子供が骨髄提供者になれるかどうかの受精卵診断と、受精卵の
選別を認めると発表しました。(毎日新聞04年5月9日)。
146
英国ではこれまで、血液病の子供を持つ親が、受精卵診断の規
制が緩やかな米国に渡って治療を受けた例があり、同様な事情の
家族は緩和決定を歓迎しています。一方、生命倫理団体は「完ぺ
きな人間をつくろうとするのは誤りだ」と批判している。(ロン
ドン共同通信、毎日新聞 2004 年 7 月 22 日)。スペインの場合そ
れを可能にするために先に生殖医療に関する法律を改訂しなけれ
ばならないので、現在それを巡って議論されています。
反対派が言うには、人間を単なる手段としてつかってはいけな
いと主張し、この方法をもちいると産まれる子供が単なる医療資
源としてのぞまれるのはいけないと言う。賛成派からみれば、む
しろ弟によって救われた兄がありがたがり、弟も大きくなったら
よろこぶのではないかと言います。
確かに一概いけないとはいいきれないのですが、どこまでが正
しい利用か、どこから乱用か、見分けがつかなくなるおそれもな
いわけではありません。
以上のことを念頭においておけばこの技術の応用に関して慎重
派になりたくなるのも当然ですが、同時に基礎研究としてのこの
技術の長所も無視できないのです。日本産科婦人科学会が会告で
規定している着床前遺伝子診断の目的は重篤な先天性遺伝病の予
防だけではなく、体外受精後の妊娠率を少しでも向上させること
でもあります。なぜかと言えば、通常の体外受精の後の着床及び
妊娠率が低い大きな理由の一つが胚の染色体異常だと指摘されて
いるからです。
したがって倫理上の問題に対する敏感さをうしなわないように
気をつかいながらも、極端に科学技術の発展に対して大袈裟な歯
止めをかけることもさけたいものです。
147
第4講和
傷む命をいやす
Cure and Care
148
癒しを学ぶ
機械が壊れると修理に出し、必要なら部品を取り替えます。人
間がからだを壊すと、その直し方が違います。からだは機械では
ありません。医療は単なる修理とは違います。患者も医師もこの
ことを理解しないと、とんでもない医療の在り方になってしまい
ます。
病人も医師も「癒しとはなにか」ということについて学ぶ必要
があると思います。この第二章に載せる断片は健康と病気を根本
から考え直すためのものです。
何のための医療
医療の目的は、いったい何でしょうか。病気を治すことだけで
しょうか。病気に伴う苦痛を和らげることだけでしょうか。医師
の使命は患者の生命をあくまでも引き延ばすことなのでしょうか。
もし、この二つの質問のどちらにも「はい」と答えるとすれば、
どんな医療もどんな医師も、完全な成果をあげられないというこ
とになります。なぜならば、ある患者を一つの病気から救ったと
しても、他の病気で遅かれ早かれ死んでしまう運命は避けられな
いからです。
医療技術が著しく発展した現代において私たちはあらためて医
療の目的と限界、さらに医師の使命について考えなおさなければ
ならないでしょう。患者はみんな人間です。そして、人間は医師
をふくめてみんな患者です。医師の使命は治せる病気を治し、病
気が治せないときには患者の苦痛を緩和し、そして人間的なケア
ーを与えることです。病気の苦痛に対して医療はお手上げであっ
ても医師はお手上げではないのです。技術的になにもできないの
と人間的になにもできないのとでは全くちがいます。
痛んだり悩んだりするのは肉体だけではなく、患者-その人間
全体-なのです。だとすれば、苦痛をやわらげて病気を治すこと
ができても人格全体の治癒が得られないかぎり、いたみの根本は
149
なくならないでしょう。そこで単なる cure に対して care の必要
性が強調されているところです。pain に対する cure だけではな
く、suffering に対する care が必要なのです。そして pain に対
する cure の可能性が医療技術によって増大すればするほど、
suffering に対する care を怠らないように注意する必要があるで
しょう。
肉体的な苦痛だけでなく精神的な痛みに対して care を与えるこ
とも、古代からの良い医学が伝統的に心がけたことです。その伝
統が忘れられたのは、肉体と精神をあまりにも区別してしまい、
医療があたかも肉体だけを対象にするものであるかのように考え
てしまったからです。薬剤と技術に頼りすぎる現代の医療の問題
がそこにあります。場合によって病気をなおしたりすることだけ
に技術的に専念するあまり、患者に精神的な痛みを与えたりする
ことさえがあります。肉体的な苦痛を緩和する薬を機械的に与え
るだけでは足りません。痛みに対するケアーのために患者その人
間全体と関わらなければならないでしょう。
健康を祝して
スペイン語で「乾杯」のことは salud といいますが、似ている
単語は saludo すなわち挨拶です。この二つの語はともにラテン語
の salus に 由 来 し 、 救 い と い う 意 味 を も っ て い ま す 。
英語でしたら health すなわち健康と、whole すなわち全体と、
holy すなわち聖なるものといった言葉は、語源でつながっていま
す。
健康とは、まず、自分自身の精神と肉体との調和や一致が保た
れていることです。そして次に、日常生活で挨拶をかわしあう他
の人々とのおだやかな協調や一致が保たれることです。さらに、
最終的には、すべてのいのちの源である何者か(神や仏など)と
畏敬と感謝の念を抱きながら一致を保つことが、健康であるため
の要因であると言えましょう。そういった健康観にもとづく健康
150
法にたよることによって、医療で治せないと言われた自分のガン
を治した人もいます。
ちょっとした病気の症状が現れただけで仕事が全く手につかな
くなるということは、日常生活でだれでもが経験することでしょ
う。場合によっては、大きな病気よりも、ちょっとした風邪や熱
のために何もできなくなることがあります。その逆に、慢性の病
気を持っていても、その病気やそれに伴う症状を充分にわきまえ
たうえで、いたみや苦しさに耐えて病気とつきあいながら通常の
ペースで仕事を続けている人もいます。やはり、病気とのつき合
い方を覚える必要もあるでしょう。残念ながらそれを時々妨げる
のは病院の在り方なのですよ。私が体験した大学病院の待合室で
のことを思い出します。
初めて大きな病院で診察を受けたときに考えさせられました。
朝早く予約の機械の前に並びました。もうすでに私より早い時間
に行った人がいて、座れないので立って並びました。壁に大きな
字で細かく説明があります。どこで並んだら、どのように機械か
ら番号札をとったらよいのかなど、なんでも完璧に書いてありま
す。時間がちかづくと係りの方がマイクでまた細かい説明をしま
す。説明はゆきとどいています。それに対して文句は言えません。
しかし、初めてきた人間の立場にたってみますとやはり不安で
す。年輩の方が杖にたよって曲がった背骨で列にちかづき、「こ
こで並んだら大丈夫でしょうか」とききます。となりの人が親切
に安心させるのです。「はい、そうです」。むこうは、「実は初
めてなのですから・・・」。それに先の人がまた、「はい、私も
昨日初めてきたので、同じく戸惑いましたが、やはりここで並ん
だら大丈夫ですよ」と言いました。それを言われて年輩の方が安
心して感謝しました。やはり、いくらゆきとどいた案内が書かれ
ていても「人は人を必要とします」。人に安心させるその一言は
何ものにも変えられません。
薬と機械にたよりすぎる「迷信」
151
乾燥した気候になれている私は当然日本の湿気からの影響は避
けられません。このあいだ風邪気味で耳が悪くなって不調になり
ました。ごく普通のことですから、あまり心配しませんでしたが、
一週間たってもなおらないので、同僚からすすめられて授業の合
間に診療所によりました。当番の先生は気をつかって「もし突発
炎症であれば大変ですから今すぐちゃんとした検査を受けたほう
がよい」といって大きな病院へ紹介状を書いて送らせました。そ
の病院で診療を受けて、おどかされました。かなり悪い状態です
ので、今日から十日間点滴でホルモン治療を受けたほうがよいと
言われました。あまり考える余裕がなくて承諾してしまいました。
翌日また検査を受けてもう一度診察でした。「いかがですか」
「実は昨日先生が耳の掃除してくださってからすっきりしました
が、その後、授業があったのでまた教室の冷房でやられてもうい
ちど詰まって耳なりもしました」。「いや、それは冷房と関係な
い。あなたは突発炎症ですから治療をつづけなければならない」
と。私はまた脅かされて言われるまま二日目の点滴をうけました。
その後のこと。その夜、眠れなくて、心臓の不規則を感じまし
た。わたしは決心しました。翌日先生にこの治療をことわりまし
た。
しかし考え込んだのです。もし心臓に副作用があったというこ
とをあの先生に言ったら、きっと心臓科のところでまた別な検査
を受けさせられるのではないかと心配しました。そして睡眠に悪
影響があったといったら、また眠るための薬をほどこしてしまう
のではないかと心配して、先生から聞かれたとき「いいえ、なん
の支障もありません」と答えました。そしてお願しました。「忙
しいから毎日点滴を受けに来ることが出来ないのですが、他の方
法がありませんか」。「はい、のみ薬ですが、もっと時間がかか
ります」。「それでは、そうさせてください」。薬局で薬をいた
だいてその説明書を読んでずいぶん強いホルモン剤だと分かりま
した。そして飲まないでゴミ箱にすてることにしました。
一週間薬を飲まないでいました。次の診察の予約の日がきまし
た。その日の当番の先生は別な方でした。とても親切にわたしを
安心させました。あなたは突発炎症の可能性があるだけで、突発
炎症だという診断じゃないのです」。そして、ありがたいことに
はわたしの国や気候について質問してくれました。「おそらくひ
152
さしぶりに日本にもどって気候の影響を受けているでしょう」。
まあ、しかしこのあいだ与えられた薬は突然やめると支障が出る
から数日のあいだ飲みつづけて、また最後の検査を受けにきてく
ださい」と。もちろんわたしはその薬を飲んでいないということ
を言いませんでした。
また一週間立ちました。予約の日に検査を受け、診察にいった
ところまた最初の日と同じく気持ちがよくない医師が当番でした。
「もう耳鳴りも詰まりもありません」とわたしはいったら、「い
や、しかし検査の機械がごまかされないのです。あなたの耳は悪
いのです。点滴にすればよかったのですが、まあ薬をのみつづけ
てください」。わたしは黙って「はい、ありがとうございました」
といって薬をもらったのですが、またゴミ箱に捨てました。
また検査の日がきました。今度、曜日が違うのでまた気持ちの
よい医師があたりました。「やはりもう治りました」と言ってく
れます。わたしは「薬を飲んでいない」と言わないで「長くかか
るとほかのお医者さんから言われましたが」と言ったら先生は
「いや、突発炎症じゃないからだいじょうぶです。ただあなたは
日本の気候になれていないので注意してください」。さすがと思
ったのですが、「人を見て法を説け」とお釈迦様が言ったように、
「人をみて治療をする」というのは本来の医療ですなあ、と思い
ました。
どうも K 病院で最初の日に私を看た医師は診断せずに治療をほ
どこし、薬と機械だけにたよっていたようです。悪く考えればそ
のほうが病院の経営にとって都合がよいかもしれません。
当然、カルテがみたい
「カルテなどの診療情報の活用に関する検討会」は1998年6
月18日に報告をまとめましたが、その中でカルテや看護記録、
処方箋、検査記録などの診療情報を患者に提供すべきだという意
見を述べ、このことを医療従事者に義務づける法律を制定するよ
うに勧めています。これは世界的な動きであってリスボンの世界
153
医師会で認められた通り患者が請求する場合には開示すべきです。
医療現場のほうからの抵抗感はまだ強くあるようです。日本医師
会はまだ早いとか、まず環境整備をやってから体制を整えたいと
言いました。その結果、妥協案として当分のあいだ診断病名、治
療経過、投薬記録などを記載した文書をカルテのかわりに患者に
提供するということが提案されたのです。
患者の権利の立場から見れば一日もはやく情報開示ができるよ
うに要求しつづけなければならないと思います。理由は単なる無
駄な投薬をさけ、医療資源を節約するためだけではありません。
もともと医師と患者の関係の在り方に関わる問題で、今の病院制
度(特に大きな病院)がそれを妨げている場合が多いのです。
医療側は口実として「情報開示は治療効果に悪影響をおよぼす」
ことをいうでしょうが、それに対しては、あえてその危険があっ
ても医療の主人公は患者自身であるということは、特に日本にお
いて強調し続ける必要があります。
さらに、患者当人だけではなく、遺族もカルテをみたいのも当
然です。いろいろな医療事故や薬害の真相を解明するためにも必
要なことだと思います。
誰に白羽の矢を立てるか
数年前に、米国の研究者が、アフリカのケニアの田舎で医療活
動に従事しているケニア人を対象にして意識調査を行い、とぼし
い医療資源の分配の仕方について次のように訪ねました。
「重病人が二人緊急入院してきました。ひとりは若く、一人は
老人です。薬も設備も看護人も不足しているので、同時に二人の
世話をすることはできません。
どちらの世話を優先させたらよいのでしょうか」と。
この質問を受けたケニアの多くの人々は、「老人を優先的に救う」
と当然のように答えました。これは、米国の基準からすると、大
変驚くべき答えだったようですし、おそらく米国のみならず、生
154
産性と効率を重視する現代日本でも、若い人を救うという答えが
出るのではないでしょうか。
そこで米国の研究者はケニア人たちにその理由を聞いたところ、
彼らはこう答えたのです。「長い年月生きて多くの人と接してき
た老人は、貴重な智慧の積み重ねをもっています。そのような智
慧は一朝一夕に身につくものではありません。もしその智慧がな
くなったら、もう一度その智慧に出会うためには長いあいだ待た
なければならないでしょう。そのような智慧を持った人を失うこ
とは私たちの村にとって大変な損失です。だから私たちは若い人
よりも老人のほうを先に救いたいのです」と。
私はこのレポートを読んで、最近聞いた話を思い出しました。
コンピューターのプログラミングという仕事は、若い人びとの
持つ新しいエネルギーと新しい知識を次から次へと要求します。
急速に進歩する新技術を吸収するという精神的圧力から、これに
たずさわっている技術者たちは、三十代でその仕事の停年を迎え
なければならないことが多いと言われています。
知識の発達のみを重視して、英知を軽んじる現代は、いったいど
こへ向かっているのでしょうか。生産力と生産効率ばかりを重ん
じる現代人は、先に述べたケニアの村人たちが大切にしているも
の、人間が生きて行く上で本当に大切なものを失いかけているの
かもしれません。
障害者と生き甲斐
1983年5月23日にロンドンで開かれた体外受生と生存の
質に関する学会の場で、英国の国立ダウン症候群障害児センター
所長ブリンクワース(Brinkworth) 氏が次のような報告をしまし
た。氏は自分自身ダウン症候群の娘を持っており、心理学者とし
て20数年間障害児の世話にあたってきたかたです。彼は次の印
象的なケースを紹介しています。
ある重度の障害者がいたとします。その方が自分の体でコント
155
ロールできるところといえば足の指だけで、生まれてこのかた食
事も身の周りの世話も人の手を借りなくてはできませんでした。
彼は献身的な看護人のおかげで足の指でタイプライターを打つこ
とを習い、その方法で人とコミュニケーションをしています。ブ
リンクワース氏は彼を訪ねて、「あなたにとってそうした体の状
態でいるのは、やはり大変なことでしょうね」と言いました。す
ると彼はほほえんで、足の指でタイプを打ちました。「いいえ、
別に大変ではないのですが、ほかの人にとってはじゃまのようで
すね」と。氏が何といったらよいものかとまどっていると、さら
に、彼はタイプを打って次ぎの文章を書きました。「私は私です。
私は一生涯私であり続けます。私にとって私であるということが
何を意味するかを、私は良く知っています。しかし、あなたにと
ってあなたであるということがなにを意味するかはわかりません。
私にとって私であるということが何であるかということが、あな
たにどうしてわかるでしょうか。氏はこれを読んで大きなショッ
クを受けました。
氏は報告の中で次のようなコメントを述べました。「もしこの
障害者が生まれる前に体内診断で障害のあることがわかり、私た
ちが意見を求められたとする。もしかすると私たちは、この子供
は幸せになれないだろうとか、生まれないほうがよいだろうとか、
答えてしまったかもしれません。しかし、あの足の指で打たれた
言葉を目の前にして、人の幸福について外から誤った判断を下し
てはならないということをつくづく思い知らされました」と。
いったい何が治療なのか
最近体外受精などをめぐっていろいろ論じられていますが、不妊
の治療というものと、治療の領域を超える無責任な操作というべ
き も の を 区 別 す る 必 要 が あ る と 思 い ま す 。
その一例として、1986年の9月、フランスにおいてジャッ
ク・テスター(J.Testart) という教授が出した問題を取り上げて
みましょう。9月10日のル・モンド誌にテスター教授の発言が
載っていますが、それは非常にショッキングなものでした。この
テスター教授は生殖医療技術の研究に加わり、フランス最初の試
156
験管ベビー誕生にかかわったのですが、彼は「透明なる受精卵」
という本を出して、自分が今まで行ってきた研究に自分のほうか
らストップをかけて、これから生まれてくる、あるいは生まれて
くる可能性のあるこどもの同一性にかかわるような操作をいっさ
いしないことを発表しました。彼は動物の受精卵の研究や卵子の
研究はいろいろ行うが、人間のアイデンティテイーにふれるよう
な操作をいっさいしないということを発表して、大きなセンセー
シォンを巻き起こしました。それは生物学者が公に、人類の未来
に対して不安を表明し、自分が今までやってきた研究に自分から
すすんでストップをかけるということでした。
このことをもし倫理の分野の中から誰かが言ったとしても、別
にだれも驚かないでしょう。しかし倫理学者ではなく、科学者、
また実際にその方面の実験にたずさわってきた生物学者が、人類
の未来に対して責任を感じ、そうした方面の研究を中止すると言
い出したということは、非常にショッキングなできごとでした。
インタビューに答えて彼はいろいろな疑問をあげましたが、そ
のひとつは1986年4月、オーストリアで開かれた「体外受精
に関する国際学会」のことです。そこで多くの学者が、動物の生
殖に関する彼らの研究の成果を発表していた中で、ひとりがヤギ
とヒツジを混ぜた受精卵にどういう生命操作を行ったかとか、そ
ういう方法で得られたヒツジたちにどういう特徴があったかとか
について発表しましたが、彼はその前置きで次のように言ったそ
うです。
「ここに集まっている医師たちはヒトの受精卵に関する操作の
乱用を懸念しており、クローンなどが人間の場合に行われること
を懸念しているという声明文を発表しましたが、もしそうした操
作を行うつもりがないなら、どうして今日ここで動物の受精卵に
関する私の研究成果を詳しく発表するように私に依頼したのでし
ょうか」と。
上述のテスター教授はこの言葉を引用して、「たてまえとして、
私たちはこのことを動物について行っていて、人間については例
外的なものであるというのですが、本音はちがうのではないか」
157
と言っています。私のような外部のものが倫理の立場からそのよ
うなことを言えば、「倫理学者はやかましく言うな」と、簡単に
片づけられてしまうのでしょうが、内部で実際に実験をやってい
た生物学者が、本音はこうであり、私たちはこれからどこへ行く
のだろうかと心配して、自分はもうこれでやめたと言えば、やは
り効き目が違っています。一躍有名になるほどセンセーショナル
なことです。
この操作によって、人類はこれからどうなっていくのだろうか、
そのことはどこまで考えられているのだろうかという疑問を、も
っと出し続ける必要があるのではないかと思います。
私は前にバイオエシックスについて本を出したとき、体外受精
について賛成ないし反対とかいうことにあまり意味がないと繰り
返し述べました。賛成しても反対しても、根本問題について考え
ていなければ結局同じではないか、賛成とか反対とか言うよりも、
生まれてくる子供のことを私たちは本当に考えているのだろうか
という根本的質問を出すことこそ重要であると述べたのです。
告知の問題
死を迎えつつある患者にどこまでその病気の実態について知ら
せるべきでしょうか。当人がそれを受け入れる準備ができている
かどうか問わず、どんな場合でも、告知すべきだというのはひと
つの極端です。知る権利とか知らせる義務とかを強調し過ぎるあ
まり、人間よりも抽象的な規範を重んじることになってしまうの
ではないでしょうか。
もちろん、逆の極端もあり得るのです。それは苦痛を緩和し、
生きる力をなくさせないため、どうしても患者に嘘を言うべきだ
という主張です。
この二つの主張は正反対の立場であるかのようにみえるが、実
は同じ考え方に基づくものです。両方とも原則論に留まり、例外
なしの倫理になってしまいます。そこではその両極端を避けるに
158
は実践的智慧が助けとなります。フランス哲学者リクールが言う
ように、「それぞれのケースにふさわしい行動の仕方を見出すの
が実践的知恵だが、それは決して各個人の勝手で主観的な判断に
任せてしまうということと取り違えてはいけない」のです。
このように、実践的智慧はただ単に抽象的な原則を具体的なケ
ースにあてはめるだけのものでもなければ、単に例外をうまく正
統化するためのものに還元してしまってもいけないのです。それ
以上の智慧の働きです。というのも実践的智慧というものは具体
的な状況を前にしてそれを二つの方面からくる光で照らすからで
す。ひとつは状況の現実から来る光であり、もうひとつは人間に
生きる目標や動機などを与える基本的な価値基準の光です。
告知の問題に関して言えば、高次の価値観に照らし、状況によ
っては異なった結論を出すことが考えられます。たとえば、わた
したちは苦痛を緩和すべきだと認めながら、場合によって痛みと
いうものは人生の中でそれなりの位置をしめることができ、必ず
しも人間の幸福と相容れないものだと言いきれないという見方を
したとします。そうした見方から告知すべきだというケースもあ
れば、すべきでないというケースもありうるのです。そのわけは
私たちの都合でもなく、ただ単に患者を悩ませないためでもない
のです。より高次の動機に基づくのです。つまり、患者の尊厳を
大事にし、患者がその尊厳にふさわしい形で人生を全うできるよ
うに、何をすれば一番好ましいのかという問いに答えて、判断す
るというわけです。その判断の結果は時と状況によって肯定的な
「イエス」にも否定的な「ノー」にもなりうるということに留意
したいのです。
では、こんど別な仮定を立ててみましょう。仮に私たちは狭い
見方をしているとします。たとえば、幸福と苦痛の関係について
は両方相容れないものだと考えたとします。そうすると結論は告
知せず患者に嘘を言うべきだということになってしまいます。
あるいは、もうひとつの狭い考え方の例もありうるのです。か
りに私たちは真理を知る権利およびそれを伝える義務を絶対的な
ものにしたとします。そうすると、どんな弊害が生じても告知す
べきだという結論になってしまいます。つまり、今挙げた二種類
の狭い考え方は基本的には同じであって、両方とも例外を認める
ための余地はないからです。従って、狭い意味での「イエス」と
159
いったにしても「ノー」 と言ったにしても、それは絶対的であ
って、人よりも規範や原則を重視しているということになってし
まうのです。
それとは異なり、こうした実践的智慧の判断のしかたでは、私
たちは同様な価値基準では、場合によって、人と時によって異な
った、あるいは正反対の結論さえも出すことが考えられます。
もちろん、告知すべきだという結論を出した場合でも他の問題
が残ります。例えば、いつ、誰に、どのようにそれをすればよい
のかという問題です。
臨床実験の条件
臨床実験について同意するに当たって四つの質問について考え
ておきたと思います。
イ)ある実験はその対象になっている当人自身のためになるか
どうか。(だとしても、本人の自由な同意がもちろん欠かせない。
ロ)ある実験は本人以外の特定の人のためになるかどうか。
(なった場合、被験者の受ける損害と、他人が受ける利益とのか
ねあいを考えると同時に先と同じく自由な同意が必要です。)
ハ)特定の人のためになるかどうかは別として、一般的に医療
の発展と人類のためになるかどうか。(ここでも同意の問題をな
お ざ り に し て は な ら な い で し ょ う 。 )
ニ)学者の興味本意の実験が行われてしまっているかどうか。
特に第三者からの冷静な判断は科学技術者がそれを嫌った場合で
も必要でしょう。
たしかに法律的な決まりや厚生省や学会などからの guidelines
は必要でしょうが、日本の場合、どうも気になることがあります。
文書で書いた決まりがあれば書いてあるとおりにするけれども、
書いた規則や前例がなければ動きがとれないという両極端が生じ
やすいということです。
160
さらにもうひとつの注意がいります。ある技術がただし書きの
条件つき」の形で承認されるときです。それは作為的に用いられ
ることがあります。例えば、国会である議案を抵抗なしに通過さ
せるために、色々の付帯条件をつけることがよくあります。そし
て人々が問題を忘れたころ、 人々が問題を忘れたころ、修正案
を続々と通過させることにより、元の議案の付帯条件は、なし崩
し的に消されていきます。日本の優生保護法がたどってきた歴史
は、その典型的な一例です。
エイズ
エイズの予防という今日的な問題をカトリック神学の立場から
取り上げた研究が 2000 年公にされ、大きな注目を浴びている。J.
F.キーナンをはじめとする 35 名の専門家の協力によって編集さ
れた『カトリック倫理学者とエイズの予防』という書物である
( J.F.Keenan, ed., Catholic Ethicists on HIV/AIDS
Prevention,
Continuum,
New
York,
2000. 1 ) 。
今回は、その読後感とともに、そこに示されたデータを参考に
しながら、問題提起をしてみたい。
驚くべき現状
2001 年、6 月 25 日からニューヨークの国連本部で開催された国
連エイズ特別総会において、感染予防や治療対策に関する政治宣
言が採択された。この会議で発表された情報には、実に驚かされ
る。
現在、ラテン・アメリカ、カリブ海地域、南アフリカや東南ア
ジア、中央アフリカでのエイズの拡大が注目を集めている。特に
中央アフリカの多くの国では 15 歳から 49 歳の人口の 20%がエイ
ズに感染している。
161
感染症エイズは、急激な免疫機能の低下をもたらすが、ここに
10 年間、世界で 5800 五千八百万人以上が感染し、そのうち 2200
万人以上が死亡した。患者の 70%は、サハラ砂漠以南のアフリカ
8 カ国に集中しており、ボツワナやジンバブエでは、成人の 30%
が感染している。この状態が続くと、近い将来に南部アフリカの
平均寿命は 30 歳まで下がるだろうともいわれている。
国際社会の対応の遅れ
エイズの最初の症例は1981年に報告されている。1983
年には、エイズを引き起こすウィルス(HIV)が発見された。
1985年には、エイズを治療するための抗体試験が認可された。
1987年には、最初のHIV治療法が認可された(AZTとい
う名前で知られている)。
エイズは過去 20 年の間、世界で急速に広がっているにもかかわ
らず、国際社会の反応は意外なほどに遅い。多くの病気に対する
治療が発達し、将来的には、遺伝子治療から大きな成果が期待さ
れている現代医療にとって、エイズの問題の出現は、大きな衝撃
であった。医療技術の進歩が一つの壁にぶつかったことをも意味
している。
この深刻な病気は数多くの倫理的問題を引き起こしているが、
数年前には特に、検査の義務と個人のプライバシーや自己決定権
との間のジレンマに関して議論が集中していた。
その後、エイズ・ウイルス感染者の 90%以上が発展途上国に住
む人々であることが明らかになり、平等や連帯を重視する立場か
らこの問題を扱うことが求められるようになったが、最近まで国
際社会全体が問題の深刻さに見合った対策をとったとは言い難い。
アナン国連事務総長が提唱した「国際エイズ基金」には、これ
までには六億ドルを超える金額が集まったそうであるが、2005 年
までには 70 億ドルが必要であるといわれている。
162
新しい治療法と社会正義
まず、なによりも二つの事実を指摘しておくべきだろう。①世
界中のHIV感染者のうち、治療を受けられるのは 10%にすぎな
い。②発展途上国のHIV感染者を被験者に、治療法の試験や研
究がおこなわれているが、そうした試験や研究の結果、確立され
た治療法が発展途上国の人々にも利用できるようになることは、
まずない。
昨年中、エイズ・ワクチンの値段の高さや利用のしにくさをめ
ぐって、さまざまな議論がなされた。残念なことに、先進国の製
薬会社の利益追求が、世界のHIV感染者の 90%以上があらたな
治療法を利用するのを妨げる障害となっている。この事実はまさ
に、このシリーズのメイン・テーマである「生命の商品化」とい
う風潮の好例といえよう。
医学のほうでは 15 年間、エイズに対する効果的な治療法や、予
防ワクチンを持たなかったため大きな限界を感じていたが、1996
年に開かれたエイズ国際会議で新たな治療法が発表され、将来的
な可能性がようやく生まれてきた。ただ、それはまだかなり先の
ことである。
しかも、この新しい治療法にかかる費用は非常に高く、発展途
上国がこれを医療予算に入れるのは不可能に近い。この治療法を
どのように公正に実行していけるかという難題が浮かび上がって
くるのである。公正の原則では、「同じケースには平等な対応」
が求められている。つまり、同性間の性交によって感染した人も、
妊娠中に母体から感染した人も、またその他の影響(例えば、輸
血など)によって感染した人も、みな同様に治療を受ける権利を
もっているということである。
近年の途上国内におけるエイズ感染の増加をみると、倫理的見
方にも革新が求められており、公正と連帯の原則をも考慮する必
要が出きていると思われる。女性倫理神学者カヒールがいうよう
163
に、エイズの第一の原因は貧困である。加えて人種差別、女性の
地位の低さ、世界経済の構造、医療資源の分配の不公正、その他
の差別がある。
1993 年にエイズ対策のために米国が 70 億ドルを投資したが、そ
の 95%は、感染者全体の 5%にすぎない先進諸国の感染者のため
に使われた。世界保健会議の調査によると、発展途上国の状態を
改善するためには、少なくとも年間 44 億ドルが必要とされるが、
これは湾岸戦争で使われた金額の 5%にすぎない。最近開発された
新しい治療法には確かに進歩が見られる。米国では現在、14 種の
エイズ治療薬が認可されている。これらの治療薬を用いた場合、
死亡率は 45%低下する。しかし、こうした高価な治療薬は、世界
の感染者の 90%以上の人々にとっては利用不可能だ(薬の値段が
年間 15000 ドル以上、さらに病院での治療費と研究所によるモニ
タリングの費用がかかる)。実際、HIVの治療法を利用できる
のは、世界の感染者の 10%にすぎない。
研究と資源の分配
HIVワクチンの開発と分配の鍵となるのは、人権の尊重だ。
貧しい暮らしをしている人々を被験者にしてワクチンの研究を
おこなっておきながら、その研究の成果(つまり、ワクチン)を
それらの人々が利用できるように、供給計画や財政措置を講じな
いのは、果たして倫理的といえるだろうか?
研究の成果は、その研究に参加した貧しい人々の国で利用でき
なければならない。だが、現状では、せっかく効果のあるワクチ
ンが開発されても、それが発展途上国で広範に買われ、配られ、
服用されるような計画は、実行されていない。
発展途上国におけるワクチン研究は、先進国と発展途上国のパ
ートナーシップに基づいて行われなければならず、有効なワクチ
ンの利用可能性など、多くの倫理問題を検討するにあたって、途
上国が強い発言権を持たなければならない。
164
もし、世界が迅速な対応をとらなければ、エイズ・ワクチンが
世界中で利用されるようにはならないだろう。B型肝炎ワクチン
の例でも分かるように、先進国で認可されたワクチンが最初に発
展途上国に持ち込まれるまでに、平均で20年かかる。こうした
生命にかかわる製品の利用が遅れるのは、そうした製品を購入で
きるシステムや資金が不足していること、適切な価格設定や供給
のシステムがないこと、製造能力の不足、行き過ぎた規制などの
問題による。
2001年6月にニューヨークで開かれた、国連のHIV/A
IDSに関する特別総会で、エイズ・ワクチンのための世界行動
宣言が発表された。同宣言は世界中の指導者に対して、安全で効
果的で利用しやすいエイズ予防ワクチンの開発を実現するために、
具体的な行動をとることを求めており、また各国政府に対して、
貧しい国々にエイズ・ワクチンを供給できるよう、必要な資源を
用意することを求めている。さらに同宣言は、エイズを撲滅する
ために、あらゆる国の政府が、経済界や国際機関、非政府組織と
協力するよう促している。
予防法に関する誤解
教皇をはじめ、各司教会議ならびに世界中の教会関連諸団体は、
1980 年代前半にエイズが確認されて以来、この問題に取り組んで
きている(日本カトリック司教協議会・HIV諸問題検討特別委
員会編『HIV/AIDSと私たち』(2001 年)参照。この小冊
子は非売品。問い合わせ先は同委員会(03-5632-4445、
FAX 5632-4465)。
1989 年の春、私はスペイン、バルセロナの近くにあるサン・ク
ガット(San Cugat )の生命倫理研究所でエイズの問題を論じる
研究会に参加した。主催者は産婦人科医でもあり、倫理神学者で
もあるアベル師(イエズス会)であった。
165
彼は会議の途中で急に電話で呼び出された。スウェーデンから
テレビの記者が取材のために来ていて、会見を申し込んでいると
いう。コンドームに関する番組を作るので、カトリックの司祭方
の発言を聞きたいのだという。
この申し入れに対して、参加者の多くは、「たった三分で、コ
ンドームに対する賛否の話をするより、十分な時間をもらって、
カトリックと性の倫理につい幅広く述べさせてもらいたい」と答
えた。すると、記者が打ち明けていうには、「コンドームに対す
る強固な反対発言を教会の禁止事項として話してくださると、コ
ンドームの宣伝のために逆にプラスになって、番組としても極め
て都合がよいのです」。
教皇発言への両極端の反応
この程度の用件で教会を利用しようとする者もいれば、教会内
部でも、エイズの問題を取り上げるときにあまりにもコンドーム
のことにこだわる者もいる。この点に関して、十年ほど前に行わ
れた教皇発言をめぐる反応をみると参考になるだろう。
1989 年 11 月 13-15 日にローマで開催された、医療施設におけ
る司牧に関する教皇庁主催の国際会議での教皇演説だが、これは
倫理問題に関する教会の公式発言が引き起こす両極端の反応をみ
るための好例である。
1988 年から 89 年にかけて、スペイン、イタリアやフランスなど
でコンドームをめぐってかなりの議論があった。一方では、コン
ドームさえ使えば感染の問題は解決するので、その使用を奨励す
る性教育を行うべきだという主張があり、他方では、コンドーム
の使用は許されないとする伝統的立場を固守する意見があった。
これを背景に、1989 年の会議が開かれたのである。当然、教皇
が挨拶の中で、この問題に触れるかどうかに大きな関心が集まり、
166
双方の立場の人々が有利な発言を得るため側近を通して圧力をか
けようとしていた。
さて、教皇はより広い視野から、二種類の問題を指摘した。一
つは、予防の問題であり、他の一つは、社会的な援助の問題であ
る。そして何よりも、この両面の活動の方針として「人格の尊厳」
を大切にするよう呼びかけた。教会は単なる「ノー」の態度から、
特定の行為に対して反対することにとどまらないで、むしろ、
「積極的に人間にとっての有意義な理想を」提言したいというの
である。
そして、正しい情報を伝え、責任ある性教育が行われるように
と願う文脈の中で、教皇は次のような微妙な意味の一言を付け加
えた。
「愛といのちという優先的な価値と相いれないような、自己中
心的な予防法は、妥当でないばかりでなく、矛盾でもある。それ
は、手っ取り早く問題を処理しているだけで、根本的な解決には
ならないのである。」
この一言は、翌日、各報道機関によってそれぞれ偏ったニュア
ンスで伝えられた。教会に対してあまり好意的ではない新聞は教
皇を批判して、「さすがに教会は時代遅れで、今日的問題には理
解を示さない」と書き、伝統主義的な色彩の強い新聞は、教皇を
困らせるほどの褒め言葉で、「教会はコンドームを断罪する」と
報じた。
結局は、両者とも教皇発言の意図をゆがめていたのである。こ
の演説では実は、次のような重要な内容が表明されていた。
・基礎としての人間の尊厳の重視
・人間を全体として(心と体、個人と社会の両面から)とらえ、
大切にすること
167
・性教育を広く深くとらえること
・社会正義の問題といのちの問題を考えるときに一貫した規準
をもつこと
・積極的な倫理へのアプローチをすること
そして、これらの要点を踏まえた上で、コンドームへの賛否を
めぐる論争から一歩距離を置き、その問題を根本から設定し直そ
うとしている点が注目されるのである。
しかし、このような発言の仕方については時折、疑念を示す人
がいて、「あまりに一般的すぎる原則論だ」と評したりするが、
実は、前述の発言が売買春の問題にも言及していることにもっと
留意する必要があると思われる。感染の問題が避けられたからと
いって、売買春における女性の尊厳の無視という問題がなくなっ
たとはいえないからである。発言が売春問題にも言及するもので
あ る こ と は 大 変 留 意 に 値 す る 。 ( L`Osservatore Romano,
1989.11.26. 参照3)。
神学者の合意
冒頭に紹介した最近の研究書で、多くの倫理神学者たちは問題
を現実的に考え、次の点を強調している。
すなわち、現代の性のあり方については確かに反省が必要であ
り、現代文化における性の商品化などについても見直す必要があ
る。しかし、実際には、感染がこれ以上広がらないようにするた
めに予防対策をとることも必要である。したがって教会関係の施
設がコンドームの使用や注射器の取り替えなどのプログラムに関
わっても差し支えない、ということである。
168
司教団文書の中で、このような点に初めて触れたのは、1987 年
の 米 国 司 教 団 で ( The Many Faces of AIDS, Origins, 1987,
p.482-489)、その後、1996 年にフランス司教団社会委員会も言及
し、この方針に賛同する世界の数カ所の司教たちの反応も発表さ
れ た ( 以 下 を 参 照 。 The Tablet, 1996.2.24; Catholic news
Service, 1996.4.3.)
最近、バチカン発行紙『オッセルヴァトーレ・ロマーノ』で、
教皇庁立家庭評議会のスアドー司教がこのテーマに関する論文を
発表している。そこでは、微妙な言葉遣いで防止対策
(containment)と予防対策(prevention)を区別したうえで、コ
ンドームさえあれば大丈夫という考え方だけでは十分な予防には
ならないが、これ以上広がらないようにするには防止対策として
コンドームの使用も考えられると述べている(“Prophilactis or
Family Values? Stopping the Spread of HIV/AIDS,”
L’Osservatore Romano, 2001.4.19.)。
いずれにしても、初めに紹介した研究書が力説しているように、
エイズの問題は根本的に社会正義の問題である。その社会的な原
因への対処こそが最も緊急な課題であり、コンドームなどのよう
な些細な問題にとらわれすぎないようにすることが大切であろう。
違いを認め合う
コミリャス大学の生命倫理研究所では毎年,しょうがい者をめぐ
る諸問題を取り扱うセミナーが開催されるが、今年は同大学の
「移民問題研究所」との共同主催で行うようになった。そこに至
った経緯を述べたい。
実は、両方の研究所が同じ問題意識を共有して現代社会の歪み
に向き会おうとしているのである。具体的に言うと、「移住民」
に対しても、「しょうがい者」に対しても、その人々のために何
かをやってあげるという心の持ち方ではなく、その人々からの挑
169
戦を受けて「違いを認め合い、互に学び合って生きよう」という
姿勢で諸問題に取りかかる必要があるのである。
今回、その経験から示唆を受け、この連載のテーマであるいの
ちへの道の選択を見直したい。
差別用語
数年前と比べると、「移民」という言葉は差別用語となっては
いないにしても、次第に使われなくなってきた。むしろ、「海外
からきたスペイン市民」とか「他国籍のスペイン市民」といった
呼び方が定着しつつある。(ただ、海外からの移入に対して差別
意識を持つ右翼の人々も、ヨーロッパ全体にいることも認めざる
を得ない)。
「しょうがい」に関して言えば、一昔前まで使われていた言葉
が、現在は差別用語として避けられるようになった場合がすくな
くない。たとえば、スペイン語で minusvalido ミヌスバリド(直
訳すれば、マイナスの能力やマイナスの価値の者ということにな
ってしまう)は当然用いられなくなって、現在では
discapacidad(違う能力)という用語のほうが普通になってきた。
考えて見れば、日本語でも「しょうがい者」と言う場合には、
ひらがなを使うようになったのも「障害」という言葉を招く誤解
を避けるためであったのではないかと思う。これについて、前に
述べたことがあるように、日本カトリック医師会のセミナーでは
坂井信明先生の提言があったが、先生は「被」という字をもちい
て「被障者」という言葉を使うことを提案されたことがある。理
由は「しょうがい者」は決して「障害」になるのではなく、かえ
って私たちから「障害」を受けてしまうのではないかという反省
があったからである。
とにかく、こうした言葉使いにこだわるのには、ちゃんとした
理由があるからであり、単なる用語の問題だけではない。むしろ
その用語の背後にある姿勢こそ問われているのである。
170
「インクルージブな言語」
ここまで述べたことは、移民やしょうがい者の問題だけではな
く、男女の平等待遇などについても当てはまる。英語でインクル
ージブな言語と強調されるのにも同じ背景がある。
ものごとを白黒に分け、人々を線引きして、男と女とか、健常
者とそうでない者とか、内の者とよそ者とかいう風にわけてしま
うのもよくあることで、そうした言葉使いの背後に、単なる区別
だけではなく、隠れた差別があると認めざるを得ない。
しかし、いずれの他者でも、私とは違う能力のあるものとして
認め、違うからこそ互に学び合うことができると考えれば、その
人との関わり合い方がずいぶん異なってくるであろう。つまりそ
の人とはもはや「しょうがい者」や「外人」や「異性」などとい
うよりも、「かけがえの無い、もう一人の人間として」見られる
ようになるのである。
ただ、自分がそのように見ようとしても、社会や行政や学校な
どのような様々な制度が、なかなか差別の枠組みを外さないこと
も、遺憾ながら事実である。そのため、このような問題意識を促
し続けなければならないと思う。
違いを理解しあって、学び合う
前述したように、今回の連載の原稿を書くきっかけは、コミリ
ャス大学で行われた合同セミナーであったが、「生命倫理におけ
るしょうがい」と「社会倫理における移民」の諸問題にかかわる
両研究所の共通な取り組み方があったことが注目された。それは
一言で言うと、「違いを認め合う」ことの主張だった。
そこで、日本との比較を考えがちな私は、次のように反省させ
られた。
先ず、しょうがい者に関して言えば、日本から学ぶところが多
くあるような印象を私は受けている。特に、社会的差別の撤廃、
171
しょうがい者の自律及び人権の主張という点で、ここ十数年間、
日本は大きく進んだのではないかと思う。 社会の中で生きてい
く上でもっとも基本的なことは、一人の人間として「自立」が保
証されることである。バリアフリー社会に向けたしょうがい者差
別禁止法制定、自立生活運動などは着々と進んでおり、30年前
の日本と比べればずいぶん進歩があったと言えよう。
ところが、移民を受け入れるという点では、日本はむしろスペ
インから学ぶところが多くあるのではないだろうか。とにかく、
私としては両方の問題において「違いを認め合う」ことこそ一番
肝腎なことだと訴えたい。
学校で共に生きる
スペインの場合、この問題意識が最も高まっているのは学校教
育の場においてである。現在多くの学校で、多国籍の生徒が大多
数であることは普通になってきた。しかし、しょうがいをもつ者
を特定の施設に任せるよりも一般の学校の中で受け入れたほうが
よいという意識はまだ十分ではない。学校の枠組みの中で生活や
勉強しにくい人たちを排除し、養護学校、しょうがい児学級に任
せる傾向は社会の逃げ道と言えるかもしれない。社会一般のレー
ルに乗り切れない人間を作リ、作ってから排除する社会こそ問題
だと言わなければならないように思われる。特別な支援や配慮の
場所(エクスクルシーブ)を設けるよりも、インクルーシブな受
け入れ方が必要である。そのようにしてはじめて社会の意識も変
わっていくようになるであろう。
学校で、ただ単に「車椅子体験やアイマスク体験」をし、「し
ょうがい」者を招いて話を聞き「感想」をまとめて「福祉教育」
をしたからと言って満足するわけにはいかない。「違いを認めあ
う子ども」を育てることこそ必要であり、「しょうがい」のある
なしにかかわらず地域の学校として子どもたちを積極的に受け入
れていく姿勢が問われている。
172
正しい情報
ところで、前述したことは単なる感傷的な訴え方におわらない
ようにも注意したい。この連載ではいつもいのちの価値を強調し、
いのちの味方という立場で「選択」することを強調してきている
が、正しい選択をするために、先ず欠かせないのは正しい情報で
ある。違いを認め合って共に生きる道を選ぶためには、まず違い
を持つ他者について互に偏見なしに正しい情報を持つ必要がある。
一例をあげよう。ダウン症に関する専門家の小児科医レン レ
ッシン(Len Leshin)はあるインタービュウで次のように答えた
ことがある。新聞記者は先生に訪ねた。「先生、しょうがい児が
産まれたばかりの両親に向かって何を一番すすめたいのでしょう
か」。先生は答えた。「二点。先ず、しょうがい児が産まれたと
考えないで、まず子供がうまれたと考えるように。その子にはた
またましょうがいがあるということをあとまわしするように。そ
れから、二番目に、しょう害について情報を得るために、90年
代以前に書かれた本などを読まないように」。十年ひとむかしと
言われているが、10 年経てば科学的な情報は古くなってしまって
いるということを先生が強調したかったらしい。この医師は精神
しょうがいのある女の子の父であり、Virtual Canal Down 21 とい
うインターネットのホームページでしょうがいに関するする情報
とその取り組み方について一般の人への啓発にかかわっている。
むすび
では実践にかかわり、具体的な関わり方へ私たち招くいくつか
の例を前述しったセミナーの記録からえらび、今回のむすびにし
たい。
次に紹介するのは、あるお母さんの証言である。
「長男が興奮して学校から帰った。『ママ、英語の作文は100
173
点だった』。毎日彼の英語の面倒をみていた母親は満足だった。
しかし、そのすぐ後で、長男は妹の部屋に入った。妹はしょうが
いを持つ子供である。妹に向かって彼は得意そうに言った。『こ
の英文は読めないだろうねえ』。その場面を見た母親は気持ちが
変わり、長男を抱きしめながら次のようにいましめた。『よくお
ぼえていなさい。あなたの妹には一か月がんばってもその文は覚
えられないでしょう。しかし、あなたもわたしもできないことが
マリちゃんにはできるのよ。マリちゃんは人の気持ちがわかり、
私たちより心から微笑み、早寝早起きし、自分の部屋を整え、学
校に間に合うようにバスに乗り、インターネットで友達としゃべ
り、あなたにできないたくさんのことをしているのよ。そしてな
によりも、あなたを含めて、マリちゃんはこの家の私たち皆をし
あわせにしてくれているのよ』。お母さんからそう言われた長男
はその後泣きながら妹をだきしめた」。
もう一人の母親の証言は印象的であった。「私たちは子供が産
めないのでしばらくのあいだ体外受精の治療をうけていたが、成
果はなかった。その後子供を養子でもらうことにしたが、そうす
る no
だったら特に親を必要としている子供が欲しと思ってしょうがの
ある子供をもらった。あれから10年たった。今、私たちを幸福
にしてくれたその子に感謝する。」
以上のようなことを聞いて健常者のつもりでいる私たちは考え
させられ、もうこれから「正常」や「異常」といった差別的な線
引きの仕方を二度と使わないようにしたいものである。
174
第5講
死んでゆく命を看取る
Dying Life
175
私のファイルには臓器移植と脳死に関する資料は圧倒的に多い
のですが、私はこのごろその二つの問題に対して関心がうすらい
できました。それよりも、どのように自分の死を受け入れ、死に
向かいつつある他人とともに歩むことができるのか、そして死の
ふさわしい迎え方とは何なのかという問題のほうがはるかに大切
だと思います。そのためにこの章には死んでゆくいのちを看取る
という題を付けたわけです。
176
看取りの体験
私は母が亡くなったとき一週間講義を休みましたが、次の週の
哲学講義の時間に、死について取り扱ったとき、学生に言いまし
た。「今日はハイデガーとかプラトンとかの話をしません.私自
身の身近な体験から死について考えさせられていることを述べま
しょう」。そして、親の死をきっかけに私が感じたこと、考えさ
せられたことを手がかりにして哲学の講義をすすめました。後で
学生から言われました。「普段の先生の難しくて抽象的な話とは
違って今日は一年間で一番よかったですよ」と。
ここでも理論的なことに先立って体験から始めることにしたい
と思います。看取りの体験から私が教わったことを述べてみます。
先 ず 、 後 藤 さ ん と い う 方 の 臨 終 の 話 で す 。
臨終の方は此岸で私たちに看取られ、彼岸で神仏に迎えられると
言われますが、臨終という言葉を使うのに私は躊躇います。臨終
の「臨」は「のぞむ」という意味であり、死に向かっている者は
彼岸の海に臨む窓から永遠の世界を垣間見はじめていると言われ
ればピント来るイメージであるかもしれませんが、臨終の「終」
を単なる「おわり」ということだけを強調する場合、折角のよい
イメージが消えうせてしまうように思われます。
此岸から彼岸へ移行することは生の終わりではなく、真の生の始
まりではないかと私は思うのです。このことについての実感が私
に湧いてきたのは後藤さんの最期を看取る時でした。
1898 年(明治31年)生まれの後藤金男さんは、定年後の第二
の人生の目標とすべく、長年研究し続けていた鍼の専門に徹して
東洋医学の伝統に詳しかった方です。海外の専門家と文通をする
ので、スペイン語の手紙の翻訳を手伝ってもらいたいということ
が私と知り合いになるきっかけでした。はじめてお目にかかった
のは鍼灸関係の学会が東京で行われ、参加していたスペイン人医
師団体のために通訳を依頼されたときのことです。
展示されている針灸関係の道具や写真やツボに関する図面などを
見せながら後藤さんは丁寧に説明しますけれども、技術的なこと
を語る前にかならず東洋医学の精神について述べます。聞いてい
る外国人たちは「前置きが長すぎるから省略するように言ってく
177
ださい」と私に言います。「先生、この方々は急いでいるのですが」
と指摘すると、先生はあまりよい顔をされません。両方の間には
さまれた通訳者は困ってしまいます。短気なスペイン人たちはず
ばり言います。「私たちは医学の哲学なんか興味がありません。
どの方法が一番効果があるのか、どのように使えばよいのか。それ
だけ早く学んで自国に帰ってから使いたい」と。
困ったなあと思う通訳者はできるだけ丁寧な日本語にその発言を
置き換えようとしますが、後藤さんはだまされません。怒った顔つ
きでこうおしゃいます。「医療は修理とはちがいます。医療は技
術だけではありません。皆さんは学んだ技術を使ってお金をもう
けるつもりだけなら針灸のことなど私から聞かないで別な所に行
ったほうがよいでしょう」。また私の通訳が苦労となります。
「先生はどうしても東洋医学の精神を皆さんに理解してもらいた
くて、医療が扱っているのは人間だと力説されたいです。では、
その前置きを伺いましょう」と訳したら何とか状況はおさまりま
した。
私がこのエピソードを詳しく述べるのは、後に先生の末期の病の
際に起こったことを理解してもらいたいからです。
あれから、先生とは一度の交流もないままに、10 年近く経ったの
ですが、1985 年(昭和59年)の9月下旬に先生は突然倒れまし
た。脳腫瘍(ガン)で、体はほとんど麻痺状態、言葉も失ってい
ると伺いました。しかし、本人は 88 歳という高齢を意識し、人生
の終わりに備えて前々から、多くの専門書や蔵書の中から、友人、
知人などそれぞれに選別し、発送したほか、献体の手続きまでして
いました。そして「自分が倒れたら大げさな医療は欲しくない。
自分が死んだら形式的な宗教儀式なんかいらない」と娘さんに伝
えてありました。
そういうことが背景にあったから、家族の方が戸惑います。マシ
アに見舞いにきて欲しい気持ちもあれば、宗教者が現れるとお父
さんがいやがるのではないかと。そのように言われて私は数年前
の学会の時のエピソードを思い出しました。「いや、きっと大丈夫
でしょう。後藤さんは嫌がるのは形式的なものだけ。後藤さんは
178
私がカトリック司祭であることをご存知です。もし来て欲しくな
いなら何かの反応があるでしょう。そうでしたら帰りますが、お見
舞いに行かせてください」。
最寄りの駅から後藤さんのお家へ歩いていく間、私は心配して考
え込みました。会話はできないのですが、人の言うことが分かる
らしい後藤さんに向かってなんと挨拶すればよいのか戸惑ってい
ました。ポケットの中に入っていたロザリオを握りながら必死に
祈ったのです。部屋に入って「覚えていらっしゃいますか」と言
ったら、先生はニコッと微笑み、動かせる手で歓迎してくださいま
した。そこで私は自信がついて「今大変ですねえ、でもそのうちに
安らかになれますからご安心ください」と言いました。周りの方
はびっくりされます。これは普通末期の病人に向かって言うべき
言葉ではないのです。しかしご本人はそれを受け入れます。頭を
動かして「はい、はい」という仕草。その反応に自信を与えられて
私は言いました。「もうすぐ安らかになれますよ。お祈りしてよ
ろしいですか」。また「はい、はい」という仕草。 私は合掌して
沈黙のうちに祈りました。後藤さんは目をつぶります。
疲れさせないように気を遣って私たちは部屋を出ました。「父は
マシアさんを拒否しませんでしたねぇ」。「はい、ありがたいです。
それは不思議ではありません、お父さんが嫌うのは無意味な儀式
の宗教でしょうが、お父さんには宗教の心があると思います」と言
いながら私は前の学会でのエピソードを思い出していました。
「では、またお見舞いにきます」。
数日あと、またお見舞いに行きます。前回の経験ではげまされて後
藤さんに聞きます。「お祈りしてよろしいですか」。「はい、は
い」の仕草。その時たいへんなことがはじまりました。ご本人は
何かをおしゃろうとして右手を必死にうごかします。ベッドのそ
ばにいる私たちはそれを当てようとします。「何か欲しいのです
か」。「いいえ、いいえ」の仕草。「あそこの机にあった本か何か
マシアさんにあげたいのですか」と娘さんは言います。「いいえ、
いいえ」の仕草。
179
時間が経って、ご本人はいらいらするようですが、私たちはその表
現が悲しいことに通じないのです。急にその震える手が右から左
へ動く。手が額のほうへ向かったとき、私は直感的にわかりかけ
てきたような気がしました。「手、額、右、左…もしかすると十字
架のしるしでしょうか」。私は後藤さんの額に十字架の徴をして
みました。そこで彼はますます右手を動かします。「ああ、やっ
と分かりました、すみません後藤さん、こんなに時間がかかって…、
きっとご自分の手でなさりたいのでしょう」。そして私はその手
を握って十字架を切る徴をするように手伝いました。それをし終
わったとたんに後藤さんは大きく口を開けられて発音できる唯一
の音を出して、「はい」と聞こえる一言をおっしゃったというより
も叫んだと言ってもよいぐらいでした。そしてポロポロ涙を出し
居眠りに入られました。
私たちはとなりの部屋に行って、お茶を飲みました。お茶を注ぐ手
も、茶碗を取る手も震えるばかり。「不思議ですね」。「いや不
思議ではない、当然です。献体の手続きまでして大げさな医療は
欲しくないと断っていたこの方は自分の死を受け入れていました。
後藤さんはすでに彼岸に入りかけているのですよ。だから、点滴
をつける看護人を追い出そうとしていたのに、<もうすぐ安らか
になれるからご安心ください>と言ってくれる者を追い出さなか
ったのですよ。では、明日またきます」。
翌日私は後藤さんに洗礼を授けるつもりでたずねました。あれだ
け表現しているのだから間違いがありません。でも、確かめよう
と思って先に聞いてみました。「神さまが待っていらっしゃいま
す。その所に行く準備をされたいのですか」。「はい」の仕草ら
しい。言葉では表現できなくても体で表現できます。私はポケッ
トからロザリオを出して見せました。後藤さんは慌てて手を触れ
られます。私はその意思表示を確認しようと思って言いました。
「ああ、ロザリオは嫌いかもしれません。そうでしたらすみませ
ん」。「いいえ、いいえ」と思わせる仕草。そこで私は「分かりま
した、ご自分の手でとおっしゃりたいですね」と言いながらロザ
180
リオをご本人の腕にぶら下げたら、身動きが出来ないその腕を体の
上半身にくっつけてロザリオを手放さないのです。
これ以上はっきりした意思表示は要らないと思って早速私は洗礼
の準備をはじめました。簡単な祈り方でした。授ける前にゆっく
りと「主よ 哀れみたまえ」のリタニ-を唱えたら後藤さんは言
葉にならない言葉で声を合わせていました。洗礼を授けられた直
後、微笑みながら涙を出し居眠りにはいりました。その日は 10 月
7 日。教会の暦では、ロザリオの聖母の日です。その輝く顔を見て
私はつくづく感じました。臨終というものは終わりではなく始ま
りです。
発病後ほどなく家での看病から入院に変わらなければならなかっ
たのですが、過剰医療をせずに緩和医療にとどめます。体の麻痺
も言語喪失もそのまま。日によって脳の腫瘍を抑える薬の影響か
何かによってはっきり文節されない言葉が出るみたいでした。そ
の故か、「この方は人に何か教えるお仕事をしていた方でしょう
か」とそのときどきの仕草を見て看護師さんは思うようになり、
「黙って、ベッドに横たわっているだけなのに、何かしら存在感が
感じられ、私たち仲間は、おそばにいたくなるのです」と家族の方
に言いました。そして、私がたずねたとき看護師さんから言われま
した。「今日は言葉らしいものが断片的に口から出るかもしれな
い」。私は部屋に入って、「いかがですか」と聞いたら、後藤さん
は右手でご自分の体を触りながら、三回ぐらい何かを言いはじめた
けれども、それは言い切れませんでした。一生懸命その文を理解
しようとしている私の耳には次のように聞こえました。「これは
人間の本当の…」。もしかすると、「今、私が置かれているこの体
の状態こそ人間の本当の姿だ」と言いたかったのではないかと思
われました。いや、そう解釈するしかないと私は確信して十字架
上の死を前にしたキリストを思い出しながら「エッケ ホモ:こ
の人をみよ、人間をみよ」という言葉を思い起こさないではいら
れず、胸が詰まる感情を抑えることができなかったのです。
消える蝋燭のように後藤さんは最期をむかえました。88 歳でした。
葬儀は家庭的でした。ご本人の意思を尊重し、形式めいたことを避
けて、身内のもの 8 人だけが遺体を囲んでいました。私はヨブ記の
181
言葉を選んで、「裸で生まれ裸で死ぬ」という聖書の言葉を人間
の姿について後藤さんがおっしゃった言葉とむすびつけました。
病院から遺体を受け取りに来た人も丁寧にしてくださった。家の
門の前で私たちはその車を見送り、部屋に戻って家族で集まって
お茶を飲みながらしばらく後藤さんの思い出を語りました。大変
静かなひと時でした。やはり何かが終わったのではなく、何かが始
まったという実感は沈黙のうちに流れていました。後藤さん自身
も私たちと一緒にお茶を飲んでいると思えてならなかったのです。
数ヵ月後娘さんから知らされましたが、お父さんのものを整理して
いたらある手帳が出てきて、その内容を読んで驚かれたそうです。
生前、娘さんに書斎にだけは入るなと言っていた先生が、倒れて一
度だけ、所作で、娘と看護人二人に2階に連れて行くよう合図をし
た。二人にかかえられ、書斎の大きな机の前に腰掛、窓越しに見え
る大きな柿の木のある庭を、じっと見つめ続けしばらくして、階
下に降りるようにうながしました。娘さんが、もういいのですか、
と問い掛けると大きく頷いたとか、一体何を思ったのでしょうか。
死後その書斎の机の中で、みつかった一冊の手帳。その中には、
たまたま葬儀のとき私が選んだヨブ記についての記述がありまし
た。ヨブ記のその言葉は、後藤さんがご存知で、手帳に書いてあ
ったと言われたとき、私は鳥肌が立つ思いをしました。しかし、
それだけではありませんでした。手帳にはヨブ記を読んだときの
感想が長く書いてあり、「私は復活を信じる…」とも書いてあり
ました。やはりこの方に洗礼を授けてよかったのです。
私は後藤さんの臨終をこのように看取ることによって多くの生命
倫理の本を読んでも学べないことを教わりました。先生は本当に
命への道を選んだ人だと証明されました。
死を見つめて
私には大事な思い出があります。それは私が3歳の頃のことで
すが、心に刻みついて離れません。私の祖父が亡くなったときの
ことです。おじいちゃんが危ないという知らせを受けた母は、当
時3歳でそのときひどく風邪をひいている私を急いでコートなど
で温かくくるみ、15分ほど離れた所にある祖父の家に連れて行
ったのです。それは危篤の祖父にひと目でも私を見せるためだっ
182
たと読者は思われるでしょうが、それだけではなかったのです。
後に母から何度も間かされたことですが、母は祖父に3歳の孫
を見せるためだけではなくて、3歳の子どもだった私に「人の死」
を見せたいと思ったのです。
「おじいちゃんは亡くなります。天国へ行きます。もうここで
は会えないのよ」。そういうことを私に見せるためだったわけで
す。当時住んでいた家などもその後引っ越ししてしまい、忘れて
しまったのですが、亡くなる直前のあの病床の祖父のやつれた顔
だけは、幼な心にはっきりと覚えています。
ここ数年、私は生命倫理の問題に関わり、死をめぐるいろいろ
な問題に出会うたびに、この出来事を思い出します。母は祖父の
死を前にして、子供をどこかよそへやっておいて、葬儀がすんだ
ら連れて来ようというのではなく、3歳の幼児に死をみつめさせ
たのです。いま生命と道徳の問題に関われば関わるほど、ますま
す母のあの時の姿をありがたく思うようになります。
結局この「生と死に対する態度」がどのように育つかというこ
とは、「いつ、どの時点で、人工呼吸装置をはずすべきか」とい
う問題よりもはるかに重大なことと思います。この基本的な態度
がしっかりしていないで、技術の方がどんどん進歩し、いろいろ
な可能性が出て来ると、私たちの文化における「生と死」に関す
る考え方はどうなるのかということが心配になります。生命操作
時代における私たちの役割は、こういう観点から考える必要があ
ると思います。
最後の呼吸
母の最期を看取ったとき、それは此岸と彼岸の境界線が私にとっ
て 消 え う せ て い く よ う な 体 験 で し た 。
そのとき「看取り」と「お迎え」ということばをみなおしました。
「看」という字で書く「看取り」は単なる「看病」に終わらない
「看護」を指し、「治療(cure)」を超えるケアー(care, 関心
すなわち心をこめた関わり方)をほのめかすのです。
仏教で言う「お迎え」の余韻も良く、仏が浄土に呼び寄せにくる
183
のです。キリスト教美術で死人に手を差し向けて永遠の命へと迎
えるイエスの絵画もあるし、葬儀で歌われる In paradisum(イ
ン・パラヂスム)は「天国でみ使いたちが歓迎しますよう」とい
う意味です。
私は一回だけ聴診器を使ったことがあります。90歳の母親を
家で看護し、その最後を看取ったときでした。
最期が迫ってきたとがわかったとき、隣の修道院から看護人が
手伝いに来たのですが、昏睡から目覚めない母の血圧を測り、脈
を確かめたりしてから「もうご臨終が近い」と伝えました。そし
て聴診器を渡して「あなたも聴いてみませんか」と言ってくれま
した。はじめて聴診器で人の息を聴いた私は震えていました。そ
して母親の手を握ったまま耳もとに母の好きな詩編の言葉をくり
かえしつづけたのですが、そうしている間、だんだん薄く遠くな
っていく母の最期の息を静かに聴いていました。
そのときつくづく感じたのですが、今こそ母の誕生です。蝋燭
のように消えるその体から55年前に私がこの世に生まれたので
すが、今、母のほうが永遠のいのちに生まれ出ようとしています。
母親の死を看取り、最後の息吹を聞き取ることはその永遠のい
のちへの誕生を見守ることでした。
やはり日本人だけでなくスペイン人も、すべての人間が「呼吸す
ること」を忘れてしまっているのではないでしょうか。つまり空
気が無ければ呼吸はできません。空気があるお陰で呼吸をしてお
り、生かされて生きているのです。人間を超えた何者かがあって、
はじめて生かされているということを私たちは忘れてしまったの
でしょうか。それを神様と呼ぶか、阿弥陀様と呼ぶか、仏様と呼
ぶかは別として、私たちの生の前提にある偉大なものの存在を、
私たちは忘れたのでしょうか。それは同時に深い意味における
「自己」を忘れてしまうことにもなります。その本来の自己に立
ち帰るということが、人間として昔も今も最も大切なことではな
いでしょうか。
私たちが日常生活に密着した信仰の持ち方で自分の生を支え、そ
れを包んでいる「大きな者」にゆだねきって生きるとき、永遠の
184
命は遠い先のことでもなければ、死んだ後のことでもなく、もう
すでに今の生の根底にあるように感じられます。
「ひと粒の麦は、地に落ちて死ななければ、いつまでもひとつぶ
のまま残る。しかし、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ 12・
24)。この言葉を文字通りに受け取りますと、意味がわかりにく
いでしょう。ひと粒の麦が真に死んで腐敗してしまうと、そこか
らは何も出てこないからです。その死は、腐敗してしまうという
意味ではなく、殻が割れてその中に入っていた生命の種が成長し
胚芽から芽が出、下に根が生えてくるという意味です。「死して
生まれる」ということです。このたとえでは、現象としての死を
認めると同時に、生と死の現象を越える永遠の生命が肯定されて
いるのです。
ヨハネ福音書に述べられている「永遠の生命」は、けっして単
なる死後のことだけでも、また、単に終わりのない、言わば一本
の線にたとえられるようなものでもありません。わたしたちのう
ちにはすでに永遠の生命が、種の形で潜んでいるのです。仏教者
はそれを「仏性」と呼ぶでしょう。地に落ちて死ぬということは、
自分の殻が割れてゆくことによって、永遠の生命を担っている本
来の自己に生まれ変わってゆくということです。
誕生と死
人が生まれてくるいのちの神秘を、象徴的に表している寓話があ
ります。子宮内のすべての細胞たちに人間と同じような意識があ
ったという擬人化した話です。細胞たちは、母親の子宮に着床し
た受精卵を見て、たいそう驚きました。そして、一週間、一ヵ月
と日毎に大きくなっていく胚に、細胞たちは非常な関心と愛着を
示し、やがて愛情を抱くようになりました。ところが九ヵ月経っ
た頃のことです。子宮内で急に地震のような妙な動きが始まり、
細胞たちが見つめているなかを、あの赤ちゃんは暗いトンネルを
通ってどこかへと消え去りそうでした。細胞たちは慌てて引き留
めようとしました。彼らがいくら必死になっても、どうすること
185
もできず、別れを惜しんで泣き出してしまいました。やがてトン
ネルの扉が締まり、闇と沈黙が周囲を覆ったのです。細胞たちは
死を偲び、葬儀を行いました。
この例え話でもわかるように、赤ちゃんの誕生は、子宮内から
みれば死であり、外部では希望に溢れる誕生となるのです。つま
り生まれるということは新たな存在への再生を意味します。後に
各成長段階に応じ、新しい存在へ生まれ変わっていくために、い
くつもの別れを経験しなければならないでしょう。やがて最期の
別れである死が訪れ、死を経て人は永遠の生命に生まれ変わるの
です。誕生が死のようなものであれば、死もまた誕生のようなも
のです。人が一生の間、生まれ変わりながら成長していくという
ことは各段階における別れであり、創造の継続でもあると思いま
す。そして死は終りではなく、新しい創造であると言えましょう。
解剖学者の話
日本人のお医者さんからこんな話しを聞きました。「解剖する
前に日本人の医師は、遺体に対して畏敬を表し、合掌します」。
なるほど、メスを入れる手は合掌する手でもあります。ここに、
人間の営みのなかで本来結びついているはずの二つの態度が表さ
れているのではないでしょうか。人間の体に対しても、自然環境
に対しても人間が働きかけ、技術をもって介入しますが、こうし
た介入の仕方には条件があります。つまり、自然に対し、いのち
に対して感謝と責任があるということです。いのちは絶対なる者
(神様、仏様)から、「たまもの」としていただいたもので、人
間にそれを世話するように委ねられています。たまものに対して
感謝の念を持ち、与えられた課題に対して責任を持つことは当然
です。これに気づくには信仰心に立ち帰ることが必要ではないで
しょうか。
遺体とは「者」でもなければ「物」でもないのです。それは、正
確に言えば、「者」だった人の表現です。遺体の「体」は、まさ
に「身体」の「体」と同じ字であることは意味深いことです。本
186
人が生きていた時その身体は主体の表現でした。今は遺体が表現
の意味を当分の間まだ備えています。例えば、お悔やみに来た人
は遺体に向かって合掌し、遺族に向かって言います。「なんとや
すらかなお顔でしょう」とか「本当にやすらかなお顔でいらっし
ゃいますね」と。平安なお顔であれば、弔問者も慰められ、安堵
します。遺族はそれを聞いて慰められ、ありがたく感じます。そ
のとき人が死んだ後でも大切な過程が続くことがわかります。そ
れもまた人間的な過程です。葬儀、追悼、供養などは、亡くなっ
た人を偲ぶ親族にとって大切な過程です。この過程を無視したよ
うな移植医療の在り方にはどうもついていけないのです。
日本カトリック司教団は『いのちへのまなざし』で次のように言
っています。「すべてのいのちをやさしさと慈しみをもって見守
る神の「まなざし」が私たち一人ひとりの「まなざし」となるよ
うに」。
どのように生と死を見つめているのかということになると、ど
うしても信仰の観点を抜きにするわけにはいかないのです。
死を迎える過程
日本語では人が死ぬとき「息を引き取った」と言います。他の
外国語(例えば、スペイン語や聖書のギリシャ語)では「息を引
き渡した」という言い方もあります。いずれにしても息が止まっ
た こ と が 決 定 的 な し る し に な り ま す 。
そして、それを確認した医師は家族に向かって「ご臨終です」と
言います。「臨終」と言うと、前述したように、字義通り「終り
に臨んでいる」と理解してよろしいでしょうか。だとすれば、な
おいっそうその過程が強調されたことになります。看取っていた
遺族にとって、その人の息が止まった後は、遺体に畏敬を表しな
がらその死を厳粛に受け止めるときです。死の受容も遺族にとっ
て時間がかかる過程です。
生物学的、あるいは医学的な意味での死よりも、人間的・社会
的な意味での死の過程の方が長くかかるものです。これを忘れた
187
現代の過剰医療は、集中治療室などで本人からも遺族からも、死
そのものを奪い取っていると言えるでしょう。
死に向かって行く過程を生物学的に見た場合、そのなかで幾つ
かの決定的な時点を指摘することができます。例えば、診断によ
って病気が致命的だと分かったとします。もうその時点から死に
向かって行く過程が始まったと言えます。病状が悪化して、あと
は長くても数ヵ月と言われたとします。その時点で、患者はます
ます深く死に向かって行く過程を歩み続けていると言えましょう。
そして昏睡状態にでも入り、回復の見込みがない状態にまでなっ
たとします。これも決定的な境目です。そして、脳死状態になっ
たと診断されたとき、明らかにもう後戻りがないということにな
ります。ただ、これは、生物学的な観点だけです。もう一つの大
切な観点があります。それは人間的な観点です。
死を宣告されてから死ぬまでの間、患者も周りの人々も死に対
する拒否や受容をめぐって、気持ちに様々な揺れ動きがあります。
そうしたなかで、患者も遺族も時間がかかって「臨終していく」
すなわち「死に臨む過程を辿っていく」のです。残念ながら、過
剰医療はそれを大きく妨げることがあります。
では、臨床的に生物学的な意味での死が確認され、法に基づく
死の判定が行われたとします。その時点から遺体を遺体として扱
ってもよいということになりますが、「遺体を遺体として扱う」
ために一番欠かせないのは遺体に対する畏敬です。遺体とは何か
と聞かれたら大変深い哲学の問いになります。
仮死状態とはいったい何を意味するのか
以前に次のようなケースがありました。最重度の仮死状態で生
まれた後、意識も呼吸する力もないまま2年半もいのちを保って
いる子供の人工呼吸器をはずすかどうかで、両親と病院のあいだ
で意見の対立が続いていました。両親の、「娘は実質的に死んで
いる。呼吸器をはずしてやすらかに逝かせて」という要望に対し、
188
病院は、「娘さんは生きています。呼吸器ははずせません」と拒
んでいたのです。
このケースに対していろいろな専門家が意見を表わしました。
その中の一つは、患者の自己決定権と患者中心の医療の在り方を
強調しています。その主張にはそれなりの理由があります。
もう一つの見方は医師と患者の関係、特に医療側の責任を指摘
します。私も、現在の医療体制には正されるべき点が多々あると
思いますが、医療チームに全責任を負わせてよしとするわけには
いかないと思います。彼らが人工呼吸器をはずすことによって、
法的に訴えられるのではないかというおそれから身動きできなく
なっていたかもしれません。
さらに、もう一つの意見はさまざまな専門家を交えた倫理委員
会の必要性を訴えています。しかし、責任の所在がとかく曖昧に
されがちな日本で、委員会によって問題を解決することに、私は
期待をかけることが出来るかどうかを疑います。
私はまずこのケースでは、報道機関のやり方とは違って「脳死
の問題」と「過剰医療の中止の問題」が混同されないように注意
したいのです。この子供の人工呼吸器をはずすとすれば、それは
死んでいるからではなく、また殺すためではなく、生きているも
のの尊厳を尊重するためなのです。これは微妙なニュアンスを含
み、誤解されやすい表現なので、あえて繰り返せば、これは脳死
の問題でも安楽死の問題でもないとはっきりことわるべきです。
これは過剰医療の中止の問題であり、使う必要も義務も意味もな
い措置を停止してもよいかという問題です。そして、その決定の
理由は、患者の尊厳を尊重することであり、その決定を支えるの
は、人間の生と死を見つめる生命観です。
わたしたちは、人工呼吸器をはずすか否かという二者択一的な
ところから一歩踏み込んで、深くこの問題を考え直して見ようと
する姿勢が必要ではないでしょうか。
現代の先端技術がわたしたちに突きつける新しい課題に対する
答えとは、ボタン一つ押せば即座に求められるようなものではあ
189
りません。人間という矛盾にみちた存在と、人間社会の成長の複
雑な足取りを冷静に見据えて熟慮する中からしか答えは生まれて
来ないのです。刻々変転してやまない時代の要求との対決の中で、
わたしたちの生命観や死生観を新しい課題に向かって適用させて
いくこころみの中にしか、真に創造的な倫理の可能性はありえな
いと、私は考えます。
過剰医療
過剰医療は回復の見込みが、患者にとって負担でしかないような
医療なのですが、それを使う義務も意味も必要もないと思います。
延命とは文字どおり「命を長引かせる」ことです。現代の医療
は著しく発達し、人為的な手段によって患者の命を長引かせるこ
とがますます可能になってきました。ところが、どんな場合にで
も無理をしてでも延命をはかるべきかどうかについては疑問がで
てきます。
なぜかといえば患者のためになる延命の仕方もあれば、かえっ
て患者の尊厳さえ損なうことにもなりかねないような延命措置も
あるからです。延命への努力を怠るとそれがいわゆる安楽殺人事
件へとつながるのではないかというふうに一般に懸念される傾向
が強いのですが、無理な延命処置のため患者の尊厳が傷を受ける
ことのほうがはるかに心配されるべきではないかと私は思います。
この問題については誤解が多いので、今ここでできるだけ簡単に
この考え方を明確にしてみたいのです。
まずわたしたちは技術万能主義の傾向に対して疑問を出さなけ
ればならないでしょう。技術的な医療手段が著しく開発された結
果、それを必要以上に使う傾向が強くなりました。いわゆる「や
れる以上やらなければならない」という考え方です。20年ほど
前に生命倫理が話題になりはじめたころ、流行した言葉のひとつ
に「神を演じる」というのがあったのですが、これも最初は「は
たして人間が神を演じてよいのだろうか」という疑問の言葉とし
て言われていましたが、後に「神の役割を演じることこそ人間の
190
使命ではないか」という意味で使われるようになったのです。
さらに最近では、人間ではなく、一人歩きした科学技術万能主
義が絶対者のような役割を果たしてしまっているのではないかと
いう疑問がでてきています。人間を抜きにして、機械そのものが
一人歩きしているのではないでしょうか。わたしたちの決断が人
間ではなく機械にゆだねられてしまったという懸念がそこにあり
ます。
誤解されやすい「生命の質」
「生命の質」(クオリティ・オフ・ライフ、Quality of Life)
という語の邦訳が適切かどうかわかりません。「質」という語は
本来よい意味をもっていても、狭く受け止められた場合、両極端
の考え方を引き起こすことにもなりかねないのです。両極端は何
であるかといえば、一つは功利主義的であって優生学的な考え方
であり、もう一つは生物学的な生命だけを絶対視する見方です。
前者にもとづいて弱者切り捨てが行われることもあれば、後者に
もとづいて無理やり延命が行われてしまうこともあります。たと
えば、明らかに生かすべきであったのに死なせてしまったケース
があります。そのケースの子供の生命の質が低いと決めつけて死
なせたのは弱者切り捨てです。そして逆に寿命に任せてもよいケ
ースであったのに、無理やり延命が行われた例もあります。
「生命の質」をめぐっての誤解の一因は、抽象的な名詞として
のライフ(life)にクオリティ(quality)という形容詞的な役割
の語をつけることにあると考えられます。これに対して、ライフ
(life)よりもリビング・パーソン(living person)、すなわち
生きた人間を中心にして考えればすっきりするのではないかと思
います。
「生命の質」という言葉にこだわることなく、それぞれのケー
スにおいて対象になっている生きた人間そのものを中心にして考
えるのが重要です。そして、特定の治療を始めるべきかどうか、
また始まった治療を停止すべきかどうかについて判断するにあた
191
っては、まず「何をすればこの患者の尊厳を尊重することにつな
がるのか」という問いから始めるべきでしょう。
技術的な医療手段が著しく開発された結果、それを必要以上に
使う傾向が強くなってきました。つまり、前述したように「やれ
る以上はやらなければならない」という考え方です。人間を抜き
にしての技術こそが一人歩きしているのではないでしょうか。わ
れわれの決断が人間ではなく技術にゆだねられてしまったという
懸念がここにあります。技術がある以上使わなければならないと
いう考え方の影響もあって、また付けた以上はずせないという考
えも強いものです。やってあげられることをすべてやったという
安心感と自己満足が患者の尊厳を傷づけることにもなりかねない
のです。
さらに、生物学的な意味での生命だけを絶対的なものにする傾向
は、もともと医療の限界を認めない態度です。しかし、医療は、
それが人間である患者のためになり、その尊厳が尊重されるかぎ
りにおいてしか認められないということを忘れてはならないでし
ょう。たとえば、ある医療手段が生物学的な意味での生命を長引
かせることができるとしても、人間である患者のためにならなけ
れば、それを使うのは疑問です。人間である患者のためにならな
いような医療手段は負担になり、害さえ与えるものであり、医療
の限界を無視したものと言わなければならないでしょう。
そこで、過剰医療拒否の基準は次のように考えたいと思います。
まず何よりも、本人がどんな状態においても、いかなる人間も
人間としての尊厳と価値をもち、他人から尊重されるべきである
ということを確認しておきたいのです。
それから、「生命の質」にもとづいた判断を行うということは、
決して患者のいのちの価値について、いともたやすい判断をする
ことではなく、むしろ、その価値を前提にしたうえで、それに対
するふさわしい尊重の仕方を検討し、どの医療手段がふさわしい
か、どの医療手段をやめてもよいのかを検討することになります。
この際、どの医療手段が過剰医療なのかを判断する基準は、決
してその医療の複雑さの程度とか経済的な負担だけに終わるもの
192
ではありません。どんな簡単な手段で値段の安いものであっても
過剰医療になりうるわけです。つまり、患者を人間として全体的
にみた場合に、その患者のためにならないもの、たいした回復の
見込みをもたらさないもの、患者にとって負担になるものなどは
過剰医療であると言わなければならないでしょう(たとえそれが
生物学的な意味でのいのちを長引かせる結果になるにしても)。
伝統的には、使用義務の手段と使用選択手段との区別が用いら
れてきました。しかしそれはそれぞれの医療手段を客観的に分類
するための区別ではなく、あくまでも患者中心の基準であり、患
者にとっては、使われる手段とそれによって見込まれる回復の程
度との間に釣り合いがあるかどうかが問題です。
もっと根本的な基準は、要するに「どんな医療手段を使えば患
者を大切にすることにつながるのか」ということです。たとえば、
ある治療を停止することを決めるのは、決して患者を価値のない
者と考えるからではなく、患者を大切にしたいからこそそうする
のです。
そして、肉体的な意味での生命は、本人が人間として自分の人
生におけるより重要な他のさまざまな価値を実現するための基盤
であり、これらの「より重要な価値」(たとえば、他人との関わ
りなど)の実現が達せられないほどに肉体的な生命が衰えてしま
った場合、これ以上医療にたよって人工的に延命する必要はあり
ません。つまり、生命肯定と肉体的な意味での延命肯定とを決し
て同一視してはならないということです。
場合によっては治療停止の判断を下すことがあるでしょう。そ
のとき生命の尊さを念頭におきながら健康状態の質と回復の見込
みに関する予後を考慮に入れたうえで、患者を一番大切にするこ
とにつながる決定を行います。患者が前もってその意思を表して
おいたとすればなおさらのことですが、そうでなければ、患者に
代わって一番患者のために考える立場にいる者(たいてい身内の
者)が代わりに判断することになりますが、理想的に言えば、こ
の決定は、患者の身内の者と医療関係者との協力と信頼関係の中
で行われるのが望ましいです。
193
とにかく、医学の限界と科学技術の限界についてのわれわれの
考え方を改めないかぎり、以上の原則は実現できないのではない
かと思います。
延命中止は安楽殺人とは違う
日本語で「死なせる」には、二つの意味があります。ひとつは
「死にいたらしめる」で、他は、「自然に死ぬのにまかせる」と
いう意味です。この区別は、安楽死とそうでないものとを識別す
るために重要です。前者は意図的に死に至らしめることになり、
後者は死ぬのにまかせ、自然に死ぬのを妨げないことなのです。
不思議にも過剰医療と安楽死の背後に似ている態度がうかがわ
れます。過剰な治療をあきらめずに続ける態度の背後には、死を
正面から見つめて死を受け入れる心の用意が欠けているという問
題がありはしないでしょうか。また、 完全にあきらめてしまい、
患者を眠らせるしかないと考えてしまうときにも同じ問題はある
のではないでしょうか。
私はここで第三の道を勧めたいと思います。それは人間の尊厳
を大事にするようなあきらめかたであり、医療の限界を認める態
度です。このような方法によって性急にすぎる死なせ方も無意味
な過剰医療も避けられるのです。この両極端を避けて、「健全な
あきらめ」を勧めているのはやっと最近盛んになってきた
「 palliative care 」 ( 苦 痛 緩 和 中 心 の 医 療 ) で す 。
ヴァチカンは 1980 年に安楽死に関する声明文を出しました。そ
の中で「死ぬ権利」ということばが使われています。これは安楽
死や自殺を肯定しているわけではありません。人間として平穏な
状態で尊厳をもって死を迎える権利ということです。生きる権利
をもっている人間は生命ある全過程において、その生命を他人か
ら尊重される権利をもっているのです。このように考えれば「死
ぬ権利」というよりも「良く死ぬ権利」といったほうがよいかも
しれません。人間としての尊厳が損なわれない形で死ねるための
権利なのです。
194
痛み止めは必要なかぎり与えるべきでしょう。必要な痛み止め
を与えた結果として患者が早く死ぬようになっても、それは安楽
殺人ではありません。たとえ死期が早まるおそれがあっても、必
要であれば、必要なかぎりの痛み止めを投与することも当然です。
尊厳死といってもそれは決して安楽殺人とはことばだけのちが
いではありません。厳密な意味での安楽死(つまり、安楽殺人)
を否定しても、それとは本質的に違う尊厳死を認めるべきだと思
います。とくに過剰医療手段の中止や拒否を安楽殺人の問題と混
同しないように注意したいのです。
尊厳死の宣告書の一例
最後に自分の末期医療に関する生前の意志表示(いわゆるリビン
グ・ウイル、Living will)の一例を紹介しておきます。周知のと
おり不治の病気で死期がせまっている場合、延命措置を断るよう
に事前に近親者や医師に宣言するものを Living will と英語で呼
ぶのですが、この文書は正常な精神のうちに書き、延命治療打ち
切 り を 希 望 す る 意 思 を 表 明 し て い ま す 。
今ここで Living will の一例を記載しておきますが、国や宗教
の状況はそれぞれ異なっていても、この指針は日本でも何らかの
参考になるのではないかと思います。1990年9月25日のス
ペイン・カトリックの司教総会で「キリスト者の病気と死に対す
る態度」について話し合われた結果として指針が出され、次の趣
旨の Living will の例を書くように信仰者に勧められたのです。
私の家族、私の医師、私の弁護士へ
私に対してどのような医療が用いられるべきか、ということにつ
いて自分で意思表示できなくなったとき、どうかこの遺言を私の
意思表示として扱っていただきたいと望み、よろしくお願いいた
します。私はこの意思を現在意識的に、責任をもって受け入れて
いるので、これを私の遺言のようにあつかっていただきたいと思
い
ま
す
。
この世での命は神からのたまものであり祝福でもありますが、絶
195
対的な価値ではないと思っております。死が避けられないもので
あり、地上での私の実存の最後であることは承知していますが、
信仰の目で観れば死は神とともにいる永遠のいのちへ道を開くも
のだと確信しております。
したがって、私…….は次のようにお願いたします。
イ)病気のため回復できない致命的な末期状況におかれた場合、
私の延命のために過剰医療や非常な医療手段が用いられないよう
に、
ロ ) 積 極 的 な 安 楽 死 が 行 わ れ な い よ う に 、
ハ)私の死に行く過程をながびかせるため、無理な医療方法が乱
用されないように、
ニ)私の痛みを和らげるために適当な痛み止めが用いられるよう
に
。
キリスト者としても、一人の人間としても、自分の死を受け入れ
ることができるようにどうか私を助けてください。私の生涯のこ
の最後の出来事を平安のうちに、しかも愛する方々の力づけと信
仰の慰めに支えられて迎えたいと思います。
熟慮の上この遺言にサインします。どうか私の看病に当たる方々、
この意思を尊重してください。難しい重大な責任を皆さんに負わ
せていることがわかります。そうであるからこそ、その責任をみ
なさんと分かち合い、みなさんに負い目を感じさせないためにこ
れを書き、サインします。
延命中止について判断する物差し
では、前述したことと重なるでしょうが、私の立場をはっきり
させるために延命中止について判断するときの主な原則をまとめ
ておきます。
イ)人間の尊厳を基準にします。
196
ロ)その尊厳に相応しい尊重の仕方を考えます。
ハ)患者中心に考え、患者を大切にすることを医療の目的にし
ます。
ニ)生物学的な意味での生命だけを絶対視せず、肉体的な延命
だけを絶対的な価値としません。
こうした考え方に立って、判断し、決断したいと思います。
ところが、前述した科学技術万能主義的な考え方のため、生物
学的な意味での生命だけを絶対的なものにしてしまう傾向は最近
強くなりつつあり、そうした見方はもともと医療の限界を認めず、
医療の目的についての誤解に由来します。医療の目標について人
に質問したところ、多くの場合すぐ出てくる解答の中で、病気を
治すこととか、痛みを和らげることとか、患者が死ぬのを防ぐこ
ととか、健康を促進することなどがあげられます。しかし、これ
らの目標はそれぞれすべて、人間である患者のためになり、その
尊厳が尊重されるかぎりにおいてしか認められないということを
忘れてはならなりません。
たとえば、ある医療手段が生物学的な意味での生命を長引かせ
ることができるとしても、人間である患者のためにならなければ、
それを使うのは疑問です。むしろ患者の現在の健康状態とこれか
らの人生の諸目標を果たす能力との間の質的関係を高めることこ
そ医療の目的ではないでしょうか。そのためにならないような医
療手段は負担になり、患者のためにならず、かえって害さえ与え
うるものになるのであり、医療の限界を無視したものと言わなけ
ればならないのです。
たしかに、肉体的な意味での生命は重要な価値ではありますが、
決して絶対的な最高の価値ではありません。肉体的な意味での生
命は、本人が人間として自分の人生におけるより重要な他のさま
ざまな価値を実現できるための基盤です。したがって、これらの
197
「より重要な価値」(たとえば、自覚による自己意識、他人との
関わり、聖なるものとの関わりなど)の実現が達せられないほど
に肉体的な生命が衰えてしまった場合、これ以上医療に頼って人
工的に延命する必要も意味も義務もありません。
ここでよく留意してもらいたいのは次の点です。つまり、生命
肯定と肉体的な意味での延命肯定とを決して同一視してはならな
いということです。いわゆる過剰な医療も不足医療も人間の尊厳
を傷づけます。
人間的な判断と決断
本章のはじめにあげた例にみられるように、場合によっては治
療停止と延命中止の判断をくださなければならないのです。その
とき、前述したように、生命の尊さを念頭におきながら健康状態
の質と回復の見込みに関する予後(後の要素)を考慮に入れたう
えで、患者を一番大切にすることとつながる決定を行います。
もちろん、患者が前もってその意思を表しておいたとすればな
おさらのことですが、そうでなければ、患者にかわって一番患者
のための立場になりうる者(たいてい身内の者)が代わりに判断
します。
しかし、残念ながらこのような判断の仕方をせずに責任逃れを
する傾向は強いのです。人は法的な規定や技術的な規定に頼りが
ちで、人間的な判断を行うのはなかなか難しいのです。理想的に
はこの決定は規則によってではなく、患者の身内のものと医療関
係者との協力と信頼関係の中で行われるのが望ましいのですが、
なかなかそれが出来ない場合が少なくありません。
そして、それをなお難しくするのは医療制度の在り方や病院の
非人間化です。機械がある以上使わなければならないという考え
方の影響もあって、また付けた以上はずせないという考え方も強
いものです。それに加え、後に訴えられたら困るから無難な道と
198
して過剰医療を使ってしまうことが残念ながらよくあります。そ
して、これは医療側だけでなく、身内の側からの責任のがれの傾
向と重なってしまいます。やってあげられることをすべてやった
という安心感と自己満足が患者の尊厳を傷づけることにもなりか
ねないのです。
こうした状況を突破するためにわたしたちは健康なうちに家庭
の中でも友達などの間でもこの問題について話し合い、生前の意
志を表しておく必要が あると思います。
終末期医療の限界
「延命」という言葉を聞くたびに私はひっかかります。終末期
医療で用いられるいわゆる延命法は命を引き延ばすものだろうか
それとも死ぬ苦悶を長引かせるものだろうか。最近の生命倫理関
係の専門学術誌にはこれを巡っての記事が多数あります。たとえ
ば、人工的栄養補給の差控えについてかなり議論されています。
過剰医療で患者を苦しませることも無責任な形で死に至らせるこ
とも避けて、終末期医療の制限について考えたいものです。20
03年の3月に教皇が行った演説は大分論争を惹き起こしました 。
対象はヴァチカンアカデミーと世界医師会連盟でした。演説の前
半は患者の尊厳を強調し、どの人間でもかけがえのないものであ
り、どんな病気や年齢の者であっても、平等に扱われるべきであ
り、その命は最初から最後まで守られるべきであると言います。
そこまでは異論がないでしょうが、後半には人工栄養の問題に
ふれ、どんなばあいでも最後までそれを用いるのは通常の治療で
あると述べたので、伝統的なカトリックの医療倫理にくわしい者
は驚ろかされました。ヘースティングセンターレポートにはその
次の7月に倫理神学者シャンオンの反論が乗せられました。もち
ろん、単なる学会への短い挨拶の文だけですから、教皇文書と言
ってもそれほど大きな重みのものだと言い得ないし、問題となっ
た文章はその挨拶の受取手であったヴァチカンアカデミー副総長
スグレチア師自身の発表とあまりにも似た言葉であり、彼自身が
教皇演説の草案を書いたと思われてもふしぎではないでしょう。
199
シャンオンが指摘するように延命法としての人工的栄養をどん
な場合でも使い続けるということは先ず伝統的な教会の教えと神
学からみて言えないことです。なお、そうした指針をそのままカ
トリック病院で守ろうと思えば欧米の多くのところで国の法律と
ぶつかることになり、裁判に訴えられる恐れさえあると言われて
います。
この論争が起こった時私自身が勤めている研究所でカトリック
の施設から意見を求められましたが、誤解を避けるために教皇自
身の言葉を使って例の演説よりももっと権威のある回章から引用
することにしました。『いのちの福音』(n.65)の中では教皇
ははっきいりと安楽死とは違う「過剰医療の制限」を認めている
からです。
事実、現在の病院の状況を見れば無責任な安楽死に対する恐れ
よりも過剰医療のエスカレーションが恐れられると思います。
昔とはちがって突然死を願うものが増えたようです。ひと昔ま
えなら、突然死が恐れられていたけれども、このごろはむしろ気
がつかないまま、例えば、寝ているあいだ、死にたいと言う人は
少なくないようです。
諸聖人の連祷には「突然死から 主よ、われらを救いたまえ」
というのがあって、それをラテン語で唱えたことを私みたいな世
代の人々はきっと覚えているでしょう。(カトリック祈祷書の古
い日本語訳では「不測の急死より、我ら救いたまえ」となってい
た)。
現代はその逆を望むことが普通の傾向になったのです。
現代は前よりも長生きする人が多くなり、病院で亡くなる人も
圧倒的に多いし、栄養補給のチューブを差し込まれて寝ている末
期患者のことも当たり前のようになっています。それを恐れて昔
の連祷とは逆の祈り方をする人は「主よ われらに突然死を与え
たまえ」と言うでしょう。筆者もその一人になりたいぐらいです。
中世キリスト教では「死ぬ術」(ラテン語でアルス モリエンディ)
200
を勧める伝統がありました。日本でそれに当たるのは仏教で言う
「大往生」といった逝き方でありましょう。現代それを望む患者
に、家族もその決断を受け入れた場合、過剰医療に頼らず、 別れ
を告げる中、静かに息を引き取ることができる環境を整えるのは
望ましいことです。しかし、それに対して抵抗を感じることは医
療側にも家族側にもあります。それは、「安楽死」と「過剰医療
制限」を誤解して混合されるからではないでしょうか。
人は過剰医療という言葉を聞くと、複雑な機器とか、莫大な治療
費がかかるなどと考えがちですが、必ずしもそうではありません。
16 世紀、カトリック倫理学者のヴィトリア(Vitoria 1486-1546)
はスペインのサラマンカ大学で過剰医療について話し、次のよう
な例を挙げています。ある患者が、毎日飲むグラス・ワインを止
めるようにと医者から勧められました。医者は「それを止めない
と命を縮めることになるでしょう」と言いました。しかし彼は、
「いや、先生、グラス・ワインの一杯も飲めないのだったら、命
が長引いてもつまらないよ」と答えました。そこでヴィトリアは
結論を出します。この患者にとってグラス・ワインを止めること
は過剰医療です。
このように、カトリック神学では大袈裟な医療を拒否する伝統が
あります。
口から食べられなくなった高齢者を経管栄養で延命させること
はかならずしも通常の医療とは言い切れないのです。問題はそれ
が患者の尊厳を大切にしたいからという意図で行われるのか、そ
れとも単に医療費を節約したいからという動機なのかです。とい
うのは、倫理的にみて同じ内容の行為は意向によって違う評価受
けることがありうるからです。
さらに、その医療手段を使うべきときもあれば、使わなくても
良いときもあるでしょうが、どの場合でもあくまでも基準は患者
の尊厳にあります。したがって多少の法的な指針を整える必要が
あり、一度はじめた経管栄養を中止できる要件などを基準化する
ための議論をする必要があるでしょう。
201
ここ数年、終末期の医療への一般の関心が高まり、病院も入院
時などに延命治療について患者の意向を確かめるようになってき
ました。すこしでも長く生かしてほしいという要望は減っていく
とも言われているし、今は見込みがない場合、無理な治療は望ま
ない人が増えているようです。しかし、乱用を避けるためガイド
ラインが必要であると思います。
ところで、前述した逝き方を望んでも、家庭の介護力が低下す
るなど、在宅での看取りはむずかしいということも指摘されてい
ます。そうかと言ってなにもかも施設まかせでも足りない。そこ
で代案を求める傾向も見られます。
家族と協力者の助けで、少しの工夫をしながら親の看取りがで
きたと語る人は「父も心残りはなかったでしょうし、私たち家族
も納得できる最期でした」と言います。
これは、家族だけで介護の負担を引き受けず、友人たちにボラ
ンティアを頼むなど、社会と連携した新しい在宅での看取りをし
ようとしている人々の大切な証言です。
さらに、高齢者の終末期医療に費用がかかり過ぎて、医療保険
財政を圧迫しているとの声もあれば、特別養護老人ホームの不足
などから、高齢者が治療をほとんど受けないまま長期入院する
『社会的入院』の問題を指摘する声も多いけれども、これらの状
況における治療に関する判断は単なる経営上の功利主義的な基準
によらないように注意する必要があります。
たとえば、高齢者が肺炎などの急性疾患で食事が取れなくなる
ことはよくありますが、これは生命の末期とは言えません。一時
的な点滴や経管栄養で再び食事ができるようになることも多いで
すから。食べられなくなったということだけで治療をやめれば、
高齢者の生存権が侵害される恐れがあります。
202
それから、お年寄りの看取りで、難しいのは本人の意思が確認
できない認知症の場合です。
高齢期を迎えたらどのように最期を迎えたいのかということに
ついて、元気なうちに、配偶者や子供と話し合っておくように勧
められます。もちろん、老いや死の話を嫌う者が少なくありませ
んが、いざとなると、こどもは自分の判断だけではなく、親の気
持ちを知ったうえで決断できるように、日頃の対話と準備が必要
です。
『死を忘れるな』(ラテン語でメメント モリ)、この言葉を哲
学者田辺元は戦後の状況に直面して世論に訴えました。死を忘れ
た文明はどのように生を生きることができるのでしょうか。
安楽死の誤解
オランダ上院は2001年4月10日に安楽死を合法化する法
案を可決したというニュースは、世界的に大きな反響を巻き起こ
しました。というのも、これは世界的にはじめて安楽死を合法化
する法律となったからです。朝日新聞によると、4月10日に行
われた投票では、賛成46反対28で同法案が通過しました(朝
日、夕刊、4月11日夕刊)。
オランダでは、70年代あたりから安楽死事件をめぐる議論が
高まり、安楽死承認の風潮がかなり定着してきましたが、従来の
制度では、安楽死に関わった者は、形式的に容疑者になっても、
刑事責任を免責されたりすることが普通でした。
そうした状況を法律の上で承認することは、自分の死に方を選
択することになるのだとして支持する者もいる一方で、この法律
には恐ろしいナチ時代の安楽殺人の陰が漂っていると見て、強い
懸念を示す者もいます。
203
なかでも、ドイツのレーマン(Lehman)枢機卿をはじめ、ドイ
ツの多くの医師は、強い反発を示しています (International
Herald Tribune, 2000, April, 12)。
この問題を考えるにあたり、混乱を避けるために、まず情報を
整 理 し 、 言 葉 使 い を 検 討 す る 必 要 が あ り ま す 。
まず、オランダで可決された法案の内容は、「安楽死承認」と
見るべきなのでしょうか、それとも「自殺幇助の刑事上の責任が
問われない自殺への協力」と見るべきなのか、あるいはまた、反
対者が言うように、これは端的に「安楽殺人」を認めてしまった
ことになるのでしょうか。
そこで、法案の付帯付要件も知る必要があります。この法律に
は次ぎのような条件が記されています。
a)患者の自発的な意向を表す明確な意思表示がなければならない。
b)患者が耐え難い苦痛に直面している状態におかれていることが
確認されなければならない。
c)この措置は治療の見込みがない患者に限って適応される。
d)第三者の医師との協議が必要である。
e)患者が12才以上、16才未満の場合は親権者の同意が必要と
される。
事実、93年からは、今回通過した法案と似たような要件を満
たしたとき関わった医師が報告すれば、自殺幇助や殺人の刑事訴
追を免れていました。
前述したように、オランダの法律を宗教の立場から厳しく批判
したヴァチカンをはじめ、ドイツのカトリック教会やプロテスタ
ント教会も、そしてまた無宗教の立場からでも、ヒトラー時代の
204
犯罪のよみがえりを恐れた発言が少なくなかったのです。
しかし、それに対して自分の死に方を選ぶ権利を主張し、それ
を「尊厳死」という美名で表す者もいるのです。例えば、スペイ
ンにおける「尊厳死協会」がそうです。実は日本と同じように
「安楽死」という言葉が引き起こす反感を避けるためにスペイン
では「尊厳死」という名称を使っています(El Pais 誌、2001
年4月12日)。
私はかねてから「安楽死」という言葉の曖昧さを指摘し続け、
良い意味での「尊厳死」を提言しました(拙著『いのちの重み』
あかし書房、2000年、6章参照)。ところが、最近は両方と
も同じく誤解されるので、安易に「安楽死賛成」とか「安楽死反
対」あるいは「尊厳死賛成」とか「尊厳死反対」という旗印の闘
争をするよりはまず言葉使いを整理するほうが緊急な課題に思え
ます。教会内での議論でも、それが必要と思われるので、多少授
業くさい文章になってしまいますが、次のように説明しておきた
いと思います。
安楽死と言う言葉は。ユータナシア(euthanasia)というその語
源に従えば、「良い死に方」という意味になります(euthanasia
の eu はギリシャ語で「良い」を意味する)。しかし、残念ながら、
この語は「安楽殺人」を指すために用いられるようになったので
す。
では、もし、よい意味での安楽死が認められるかと問われれば、
次の三つの場合を挙げることができるでしょう。
1)死ぬ苦しみを緩和させるために患者にふさわしい痛み止めを
ほ
ど
こ
す
と
同時に、精神的なケアーも与えます。こうして苦痛の緩和のため
生命を短縮することなしに、死に向かっていく過程において患者
とともにいて患者を支えることです。
これは、とても「良い死に方」と言えましょう。これを安楽死と
呼
ぶ
な
ら
、
それは良い意味での安楽死ということになります。
205
2)耐えがたい苦痛をもっている患者に、精神的な支えだけでは
なく、「必要なかぎりの痛み止め」も与えます(たとえば、麻薬
投与)。この場合、たとえその苦痛緩和処置の副作用のために生
命を短縮することがあったとしても、これは倫理的に認められる
ことでもあり、刑事上の責任も問われないのです。ただし、「必
要なかぎりの痛み止め」というとき、殺す意図をもって「必要以
上」与えたり、または副作用を恐れて「必要以下」の量を与えた
りするような「両極端」を避けるというやり方が大切です。この
ことを「安楽死」という言葉で表すとすれば、それは良い意味で
の安楽死であり、伝統的にカトリック倫理学者が「間接的な安楽
死」と名付けたものです。
3)患者にとって負担になると同時に延命効果しかないような延
命処置の実行を差し控えたり(withhold)、または実行し始めた
処置を停止したり(withdraw)することも倫理的に認められます。
そして、たとえそれによって死期が早まることがあっても、その
ような処置をする必要も義務も意味もない場合には、たとえそれ
によって死期が早まることがあっても、そうした延命処置の拒否
や中止が認められます。
ホスピスやホスピス的なケアーにおいて、精神面からの支えや
痛みの緩和など症状をコントロールすると同時に、過剰医療を差
し控えるのは当然です。過剰医療とは回復の見込みが少なく、患
者にとって負担でしかない (burdensome, useless)医療を指す
もので、決して「値段が高いもの」とか「複雑な機械」という意
味ではありません。
もしこれらの場合を指すために安楽死という言葉を使うとすれば、
それは良い意味での安楽死であり、伝統的にカトリック倫理学者
が「消極的な安楽死」または間接的な安楽死と呼んできたもので
す。
このケースは「不作為による安楽死」と呼ばれることがあります
が、注意を要します。なぜかと言えば、ここでの「不作為」は良
206
心的な判断に基づくものであって、決して患者の人権を侵害する
ような「不作為による殺人」と混同させてはならないからです。
こうしてみると、 前述した三種類の例はすべて「良い意味で
の尊厳死」または「良い意味での安楽死」とか「殺人犯罪になら
ない安楽死」ということができるものです。私見では、以上のよ
うな見方は、「死に向かっていく患者の尊厳を尊重する」ことと
つながると確信しています。
これとは違って、次のような場合には、「安楽死」というより
「安楽殺」と言う言葉をつくるほうがよいと思います。
4)患者を死の苦しみから解放させてあげたいという理由で、
患者の意思に反する積極的な行為によって患者を死に至らしめた
場合。
これを(不任意の)「積極的な安楽死」と呼んでも矛盾のよう
に聞こえます。というのも、「良くない意味での安楽死」は「良
くない意味での良い死」といったおかしい表現になってしまうか
らです。それよりも安楽殺人といったほうが適切です。
なお、同上の不任意の安楽殺人を「必要限度を超える」苦痛緩和
処置によって意図的にもたらすこともあり得るのです。
5)同上の不任意の安楽殺人を「無責任な不作為」によって意図
的にもたらすこともあり得ます。例えば、殺す意図で取るべき処
置を差し控えた場合がそうです(これは前述した「過剰医療拒否
や中止と間違えられないようによう注意のこと」)。
6)生きる価値がないという判断をしてしまい、例えば、寝たき
りの高齢者や重症新生児などに対して作為や不作為によって生命
を断たせることは明らかに殺人となります。たとえ、かわいそう
だからという理由のためであったにしても、これは明らかに殺人
となる行為です。
微妙な問題をふくむのは、自殺への協力の場合です。死の苦しみ
からの解放を求める患者に依頼されて患者の生命を断つ行為に協
力することは、法的に責任が問われる自殺幇助ですが、最近オラ
ンダで承認された法律の場合それは自殺幇助としての刑事訴追の
207
対象にはならないのです。ただ、この場合は、「安楽死」の一言
で片づけるより、「法律で承認された自殺への協力」といったほ
うが誤解を避けることができるでしょう。
最後に、誤解されやすい「死ぬ権利」や「死の選択」ということ
について一言だけ述べましょう。
人間として平穏な状態で尊厳をもって死を迎える権利があると言
えば、何の異論の余地もないと思います。しかし、私には、「死
ぬ権利」や「死の選択」というよりも、「良く死ぬ権利」や「良
き死に方の選択」といったほうがより良いように思われます。い
や、もっと徹底した積極的な考え方をすれば、死よりも生への姿
勢で表したほうよいのです。
1999年に亡くなった、20世紀の最も有名な米国のカトリッ
ク倫理学者マッコルミック(R. McCormick)の表現を借りて言え
ば、それは、「死を選ぶことではなく、死ぬまでのあいだをどの
ように生きるかを選ぶことである」。つまり choosing to die で
はなく、 choosing how to live while dying ということなので
す。言い換えれば、人間としての尊厳が最期まで損なわれない形
で、死に向かっている間を生きるということが重要なのです。
移植医療への疑問
2000年8月29日、ローマで、第18回移植医療国際学会
が開催されました。参加者に向けて行った演説の中で、教皇ヨハ
ネ・パウロ2世は、臓器の提供は無償の愛の行為でありうる、と
述べながらも、倫理上の問題点を指摘しました。
このことを報道した、日本カトリック新聞(2000年9月1
7日、3588号、2ページ)は、「教皇、臓器移植を支持」と
いう見出しを付けましたが、見出しだけしか読まない読者には誤
解が生じたかもしれません。
実は、支持したといっても、かなりの条件を付けているからで
208
す。それは、臓器提供者へのインフォームド・コンセント(十分
な説明と同意)を含む自由な同意があること、臓器の売買が避け
られること、公正な分配が行われること、そして、何よりも死の
確認が確実に行われることです。
したがって、「支持」というよりも「疑問」という見出しのほ
うが適切ではなかったのではないでしょうか。
1999年3月16日に、NCC(日本キリスト教協議会)宗教研
究所の主催により京都で開催された「生命倫理研究集会」で、米
国の宗教者 W. ラフレール(ペンシルバニア大学東洋宗教研究学部
教授)はこう述べています。「アメリカ人が、この技術(臓器移
植)に対する抵抗を感じ始めたちょうどこの時に、長くこの問題
を論議してきた日本社会でようやくこの技術が少しずつ受けいれ
られていると聞きます。これはアメリカとはちょうど逆の展開な
のです。私たちは、今までほとんど目を向けられてこなかったこ
とを、今ようやく反省し始めたところです。それが、日本の社会
では、なかなか賛成を得なかったこの技術が立法化され、実行に
まで移されているのです。ここには、見逃すことのできない歴史
の皮肉があります。」(NCC 宗教研究所偏『脳死・臓器移植と日本
の宗教者-アメリカの宗教者の提言を受けて-』ルガル社199
9)。
たしかに、欧米では、長い間、移植医療に対して宗教者の立場
はかなり積極的でした。しかし、1990年にドイツのプロテス
タントとカトリックの両教会当局から出された共同文書『移植医
療に関する教会の見方』があきらかに示すように、そのような移
植医療への積極的な評価は、条件が付けられており、懸念が表さ
れている点も少なくないのです。
1956年5月13日、「イタリア角膜提供者協会」と「イタ
リア盲人協会」の関係者と謁見し、眼科医や法医学者が多数集う
前で、教皇ピウス12世(在位1939-1958)は、「組織
と臓器移植」に関する重要な演説を行い、次の点を力説しました。
1)遺体が権利の主体であると言えなくとも、遺体に対して畏
209
敬をあらわす義務があり、遺体は決して社会の所有物であるとは
言えない。人間が死んだ後でもその遺体には何らかの形でその主
体だった人の尊厳が残っているので、断じて遺体をモノ扱いして
はいけない。
2)本人自身は自分の遺体に関して前もって献体の意志を表し、
それを医療や研究の目的のために提供することができるが、第三
者がそれをするように彼に強要することができない。遺体に対す
る畏敬を損なうことなく、病人が助かるように遺体からの臓器を
提供するよう人々を啓発する必要があろう。
3)本人自身は自分の遺体を提供したばあいでも、遺族の同意
を得ることがのぞましい。個人の体を決して人類という全体の一
部分にすぎないかのようにみなしてはいけない。
4)公私を問わず病院の中で社会的地位が低い者とか貧しい者
の遺体を同意なしに使用してしまうべきではない。
5)死が確実に確認されないかぎり遺体を遺体として扱っては
ならない。
その後、カトリック神学において、移植に対する見方はしだい
に深められています。1950年代は、臓器移植に関する賛否両
論がありましたが、50年代の終わりごろから60年代の初めに
かけて、条件付きで臓器移植を認める見解が定着し、60-70
年代には、それを積極的に促進し、愛の行為として評価するよう
になりました。ただし、脳死を前提にした移植の問題に関しては
論議が続いたのです。
ところが、80年代になると新たな問題が生じてきました。ま
ず、国際的な幅で臓器売買の問題が起きたのです。それから、医
療資源の公正な分配および医療機構の在り方や医療に対する不信
といった問題もますます深刻になってきました。
210
そして、1990年代からもう一つの根本的な疑問が出てきた
のです。それは、人間観、死生観という観点から出される問いで
す。つまり、技術文明の発達によって、現代文化においては、死
生観の変化が起こり、人間の「部品」化、モノ扱い、機械化など
の問題が注目されるようになったのです。
1995年、『いのちの福音』という回章の中で、ヨハネ・パ
ウロ2世は、臓器提供を賞賛に値するものと評価しながらも、
「倫理的に認められる方法で実施される」という条件を付けてい
るのです(同回勅86項)。
そして、臓器を取りたいがために死の確認をおろそかにしては
ならない」とも述べており、臓器の売買に対し注意を促していま
す(同上、13項)。
「現実に行われる深刻な安楽死の形態を考えると、黙っている
ことはできません。そのような安楽死は、たとえば移植に必要な
臓器を入手できる可能性を十分に確保する目的で、提供者の死を
確定する客観的で十分な基準を考えずに臓器を摘出する事例を惹
き起こすことになります」(同15項)。
冒頭で触れた演説(2000年8月)の中で教皇が述べている
ように、脳死確認とは、その個体がもうよみがえらないというこ
とを生物学的に確認するだけのことなのです。
しかし、人間の死という概念はより大きなことを意味していま
す。生物学的に個体が死んだ後でも、遺族にとっては遺体が大事
なものであり、遺体に対する畏敬の義務は、われわれ皆に課せら
れているのです。
死の確認に関して言えば、すでに1957年に、教会の発言が
ありました。同年2月24日、メンデル研究所の主催で開かれた
学会から、教会の公式見解を知りたいという申し入れがあり、ピ
211
ウス12世は、それに対して、死を確認するのは医学の役割であ
るとし、「具体的なケースにおける確認の方法についての解答は、
宗教や倫理の原則から導き出されるのではなく、それについて述
べるのは教会の役割ではない」と答えたのです。すなわち、「人
の命は始まりから終わりまで守るべきだ」とは言えるが、確認の
方法は医学の役割だとしたのです。
生物学で「ヒト」と書いて、人間という種の個体を指しますが、
「人間」という言葉は、より広く、深い意味を含んでいます。
人々は、「脳死は死かどうか」と聞くけれど、そのような質問の
仕方を変えなければなりません。「脳死」よりも「脳死状態」と
言うべきなのです。そして、脳死状態が確認されてはじめて、ど
のように遺体を扱うのかという問題が出てくるのです。
前述のヨハネ・パウロ2世の2000年の演説の大半は、死の
確認について当てられており、注目されるものです。
さらに、英語で行われたこの演説には、死を確かめる方法につ
いて「確認する」(ascertain)という言葉が繰り返し使われ、
「判定」(determination)とか「定義」(definition)という表
現 を 避 け て い る と こ ろ が 特 に 重 要 で す 。
最近の医学で認められているような脳の不可逆的で全面的な機
能停止を基準に判断することは、「倫理に反するものではない」
と認めてはいるけれども、人間の死というものが、その人の「全
体としての統一した自己の全面的な破壊」であることを力説し、
この意味での死は、「決して科学技術的な方法で確かめられるも
のではない」としています。
したがって、「医学が確保した基準と方法によって確かめられ
るのは、決して死の瞬間(moment of death)ではなく、その人が
す で に 死 ん で い る と い う こ と の 生 物 学 的 な 兆 候 ( biological
signs)にすぎない」のです。
こうした意見を参考にしたうえで、日本で行われている討論に
も、カトリックの側から寄与できるよう加わっていきたいと思っ
ています。
212
脳死の謎
「 脳 死 」 と い う 言 葉 の 曖 昧 さ
「脳死は人の死だと思いますか」と聞かれるとき、私はまず
「脳死」という言葉の曖昧さを指摘することから始めることにし
ています。
この一語の中には、三つの非常に難しい問いが含まれており、
ボタンを押せばすぐ答えが出るかのように考えるのは早計にすぎ
るからです。
三つの問いとは、すなわち、「脳とは何か」、「人間とは何
か」、「死とは何か」ということであり、これらは、生物学、哲
学、宗教の根本に関わる問いであるのです。とはいえ、それほど
深い点に立ち入らなくとも、「脳死」という言葉をめぐる一般的
な誤解を解いておく必要があるように思われます。
問題を区別すること
まず脳死状態と呼ばれているものがどのように診断できるかと
いう点です。これは臨床の問題であり、今でも専門家の間にはさ
まざまな議論があることを断っておかなければなりません。
そして、脳死状態の診断によって得られるものは個体の死に関
する生物学的な兆候に過ぎず、人間の死はあくまでも謎であると
いうことを念頭においておかなければならないのです。そのため
に私はかねてから「個体の死」と「人間の死」とを区別するよう、
提言し続けているわけです。
また、脳死状態になった人の身体をどのように扱うかというこ
とは、法と倫理の問題です。さらに、本人が自由な同意をもって
臓器提供者になっている場合、どの条件のもとにその手術を行う
べきかという問題がありますが、これは移植医療の問題なのです。
脳死状態は、それ自体が死であるというわけではありません。
213
むしろ、脳死は生物学的にとらえられた個体の不可逆的な生命機
能の喪失を表す兆候というにすぎないのです。したがって、脳死
は人の死であるかどうかと論じるよりも、より広い意味での人間
の死を捉える必要があるように思うのです。
故人をしのぶ葬儀は大切にされるべきであり、遺族に対しては
最大の配慮がなされるべきであります。
そして、脳死状態の人を死者と認めたからといって、その身体
(遺体)を単なる物体のように扱ってよいということにはなりま
せん。遺体が権利の主体であるとはいえなくとも、遺体に対して
畏敬を表す義務があります。遺体が社会の所有物であるとは決し
ていえないのです。人間が死んだ後でもその遺体には何らかの形
でその主体だった人の尊厳が残っているからです。したがって、
断じて遺体をモノ扱いしてはなりません。本人自身が自分の遺体
を提供した場合でも、遺族に対する配慮が大切なのです。
前述したとおり、「個体の死」と「人間の死」を区別した上で、
脳死状態の身体への対応の仕方を慎重に考える必要があります。
人間の身体は機械でもなければ、臓器もまた部品でもないのです。
人間の死は一瞬の間に起こるものではなく、むしろプロセス(過
程)なのです。
そこで、「生物学的な意味での脳死状態の確認」と「人間の死」
とは区別する必要があると思われるのです。
このように考えていく際に、臓器提供には守るべき条件と順位
があることを念頭においておきたいものです。
日本カトリック司教団の『いのちへのまなざし』には、次のよ
うな条件があげられています(80 項)。
・提供者の自由意志による同意
・死の確認
214
・遺族への配慮
・遺体への畏敬
・売買を避けること
・受容者の選択における公正
順位に関していえば、脳死状態と思われる患者が脳死診断をし
てもよい例かどうか(排斥項目など)を確認してはじめて脳死診
断に入ることができるのです。
脳死診断の確認があって初めて脳死状態で機械につながれてい
る者に対する今後の対応(措置を停止するか、いつするかなど)
について、医療側と遺族側は(または必要に応じて第三者の助け
手を交えた)相談に入ることができるのです。その過程において
遺体に対する畏敬は欠かせません。
脳死状態に陥ったと思われる人は、たとえ臓器提供者カードを
もっていたとしても、その救命医療を怠ることがあってはならず、
脳死状態の確認がなされないかぎり移植過程に移すべきではない
のです。そして、提供者に対する救命医療と受容者に対する移植
医療を明確に区別しなくてはならず、移植を予測した医療のため
に提供者への救急医療がおろそかにされることがあってはなりま
せん。
現在の日本の移植法についての改正案がいろいろ出されていま
すが、功利主義的な考え方に基づいた法律規定作成への動きに対
しては懸念を表したい。
私見では、臓器移植には、提供者の自由な同意が欠かせず、提
供者が15歳未満でも親の同意による臓器提供を認めるべきでは
ありません。また、「推定承諾」は適用すべきではないと思いま
215
す。臓器を提供する意思を表明せずに脳死状態になった人からは、
家族の同意があっても臓器を取るべきではないのです。さらに、
受容者の選択が公正に行われ、費用負担が検討される際には、国
際的な意味での医療の公正分配を考えるべきです。
今年5月5日、東京女子医科大学で小児科学会の主催によって
「小児の脳死臓器移植はいかにあるべきか」という公開フォーラ
ムが開かれ、その際、小児科医師を対象にしたアンケートが関西
医科大学男山病院の杉本健郎医師によって発表されました。
それによると、小児からの脳死移植の必要性を認める医師は7
2.6%いるのに対し、現在、厚生労働省のもとに進められてい
る法改正案(「臓器移植の社会的資源整備に向けての研究臓器移
植の法的事項に関する研究班」に賛同した者は34%しかおらず、
反対者は18.3%で、わからないと答えたのは14・8%でした。
ちなみに、倫理委員会として専門家の参加の必要性を認めてい
る医者は、95・1%いました。
このような問題に関して盛岡正博氏は慎重な立場からの代案を
提供しています。すなわち、15歳以上の者に関しては現行法と
同様とし、15歳未満の子どもに関しては、本人の意思表示およ
び親権者による事前の承諾がドナーカードなどによって確認され
るようにし、さらに12歳未満の場合は、法的脳死判定および臓
器移植は行わないという案です。
私は、子どもの権利に視点をおいたこのフォーラムを拝聴して
いましたが、その趣旨は高く評価できるものと考えています。
緊急医療と移植医療の兼ね合い
もう一つ気になる問題は、「救急医療と移植医療の混同」です
( David Price, Legal And Ethical Aspects of Organ
Transplantation, Cambridge University Press, Cambridge/New
York, 2000, p.176-179)。
216
これは、集中治療室で施される医療は、後で行われるかもしれ
ない臓器摘出の下準備なのではないかという疑問から生じていま
す。
例えば、アメリカのピッツバーグ大学での医療の方法について
そうした疑問が投げかけられ(“Procuring Organs from a NonHeart-Beating Cadaver: A Case Report”, Kennedy Institute
of Ethics Journal, 1993. p.371-380)、患者のための医療より
も、移植医療に関心が移り、死の確認がなされないうちに臓器摘
出の下準備に入ってしまったのではないかと疑われています。
イギリスでも、このような処置が問題になっています。198
8年から1993年までそれらの患者を早急に集中治療室に送る
事例が見られ、特に徹底してそのような処置を行っていたロイヤ
ル・ディーヴォン病院では、臓器提供の数が全国の平均よりも二
倍も高くなったのでした。しかし、1993年からは政府の指示
により、この処置を中止しました(Lynn, “Are the Patients
Who Become Organ Donors under the Pittsburg Protocol for
Non-Heart-Beating-Donors Really Dead,” Ibid. 1993. p.167168)。患者のための医療から移植提供の下準備医療へと、あまり
にも早く切り替えてしまうのは、重大な問題だと指摘されたから
です。
日本で、臓器移植法に基づく国内11例目の脳死移植の行われ
た場合、臨床的脳死診断の前に臓器移植ネットワークへの連絡が
行われたと報道されたために問題となりました。救命救急センタ
ー長自身がネットワークに関わっていたために、疑われても不思
議ではないのです(詳細は、『キリスト新聞』2001年2月 17
日付「脳死移植を考える」参照)。
死刑
217
「死刑は残酷であり、何の役にも立たない。この前のクリスマ
スに私が訴えたことを今またくりかえしたい」。教皇ヨハネ・パ
ウロ二世は、米国訪問の際にセント・ルイスでこう力説しました 。
1999年12月12日には、サン・ピエトロ広場でお告げの祈
りに集まっていた人々に向けて、「世界の全ての指導者たちが死
刑廃止に同意するよう、改めて訴えたい」と言われました。
米国のフロリダ州で、自分の息子が死刑判決を受けているホア
キム・マルティネスという人の言葉を、最近の雑誌で目にしまし
た。「死刑執行を前にして5年間も過ごしている者の心境をだれ
が想像できるでしょうか。私は面会に行くとき、いったい自分が
どこにいるのか、監獄の待合室なのか、それとも精神病院なのか、
わからなくなるのです」。
今から百年前、1899年には死刑を廃止していたのは、3カ
国だけでした。現在は、国連加盟187カ国のうち115カ国が
死刑廃止の立場をとっています。死刑を認めている72カ国でも、
それを実行しているのは40カ国で、1999年に死刑が執行さ
れたのは37カ国。その80%は中国でした。ちなみに1999
年に執行数が多かったのは、米国で68人、中国で3500人、
ウクライナで167人、ロシアで140人、イランで110の死
刑執行があったのです。現在もサウジ・アラビア、シエラ・レオ
ナと米国で3000人の死刑囚が死刑の執行を前にしているとい
うことです。米国では1999年に18州で68件の執行があり
ました。
約1000人の死刑囚がいるというフィリピンでは、カトリッ
ク司教団が『死刑廃止と人命尊重』という文書を出し、死刑制度
廃止の運動を展開しています。
アムネスティ・インターナショナル(AI)の報告によると、4
7の国で裁判なしの死刑があり、警察の拷問によって死んだケー
スは51ほど確認されています。AI のスペイン事務局長エステバ
ン・ベルトラン氏 は、「こうしたデータは単なる氷山の一角にす
ぎない。人間は人権を無視して、自分たちの同胞に対してひどい
218
ことをしかねないということを証明しているのである」。と言っ
ています。
国際世論の動きとして注目されるのは、1998年にローマで行
われた国連外交会議において、国際刑事裁判所の設置規程が採択
さ
れ
た
こ
と
で
す
。
こ
れ
は死刑廃止を含んでいるのです。
ヨーロッパでは、AI や教皇庁正義と平和評議会などの団体が欧
州連合(EU)の指示も受けて「モラトリアム2000」という運
動を起こし、国連あてに死刑制度廃止を国連決議とするよう提案
しました。しかし、1999年12月の国連総会は、それを取り
上げませんでした。 5年前にも同じような提案が行われています
が、わずかの票差で可決されなかったのです。また、最近では、
イタリアの NGO(非政府組織)「カインを殺すな」の提言を受け、
ドイツとフィンランドが廃止キャンペーンを国連に提案していま
す。現在、ローマのコロセウムは死刑廃止運動のシンボルとなり、
世界のどこかで死刑執行中止が決められるたびに、350個の灯
が48時間点されるということです 。
チリのピノチェト元大統領に対する裁判(1999)は、前述
の国際刑事裁判所設置規程採択とともに、歴史的に画期的なもの
でした。ヨーロッパ諸国は被害者の側に立地、独裁政権の下で行
われた暗殺や拷問などに対して強く責任を追及しているけれど、
同時に加害者に対して死刑を求めてはいません。
EU のプロディ委員長が言うように、死刑廃止を認めることはヨ
ーロッパ文明の根本を支える人間観に基づいています。そしてそ
れは一人ひとりのいのちの尊厳を訴えるキリスト教の立場から言
っても、あくまでも「すべてのいのちに対して、まただれのいの
ちに対しても」主張されるべきものです。したがって、意図的な
人工中絶をはじめ、死刑や戦争、そして差別などにも当然反対す
るのです。
1970年代の後半から80年代にかけて、フランス、カナダ、
219
米国、日本などで司教団は死刑廃止を求める発言を行うようにな
りました。1978年、ヨーロッパ各国の「カトリック正義と平
和委員会」の代表者たちは、マドリードで開かれた会議の決議で、
教会が公式の文書によって死刑制度廃止を訴えるように要請しま
した。それから20年以上たって、ようやく現教皇の発言が行わ
れたのです。
実は、日本カトリック司教団は早くも15年前から死刑反対の
意見を表明しています。同司教団は、教書『生命、神のたまもの』
(1984 年、16頁)で、「現代人が死刑を含めて、戦争、その他
のあらゆる人権の侵害に対して、以前より敏感になっているにも
かかわらず、他方でいわゆる中絶の自由化を叫ぶのは、矛盾して
いるように思われてなりません」と述べています。
1988 念に米国の Bernardin 枢機卿は『生命倫理に一貫した接近を
求めて』という文書を出し、中絶、安楽死、死刑などをとりあげ
るときには一貫したものさしをもつように訴えました。その意見
は10年後にやっと教皇回勅での表現に反映されるようになった
のです。現教皇はひとりひとりの命の尊厳を訴えるに当たって、
キリスト者たちは一貫した立場から「すべての命に対して、また
だれの命に対しても」それを主張し、意図的な中絶だけではなく、
死刑や戦争や差別などにも当然反対し、「殺してはならない」と
いう掟は「あらゆるいのち、しかも犯罪者やよこしまな攻撃者の
い の ち で あ っ て も 」 含 む と 述 べ ら れ た の で す 。
また、米国においては、1999年12月6日、米国カトリッ
ク司教団エキュメニカル・諸宗教委員会とユダヤ教全国評議会議
会が共催した会議の共同声明で、死刑制度廃止を求めています。
このような世論の高まりについて、ヨハネ・パウロ2世は、前
述のとおり、回勅『いのちの福音』で、「『殺してはならない』
という掟は・・・「あらゆるいのち、しかも犯罪者やよこしまな
攻撃者のいのちであっても」、それを含むとはっきりと述べてい
ます。 この回勅が言及するように、人間が殺し合うことは、残念
ながら人類の初めからあったけれど、その悲惨な現状を描くカイ
ンとアベルの物語(創世記4,1-16)の結びは印象的です。
殺人者として罰を受け追放されるカインに対して「主は、彼に出
会うものが、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つの
しるしを下さった」(創世記4,15)のです。
220
そして、今日、現代の「希望のしるし」として、戦争と暴力に
対する反対の世論と並んで「死刑に反対する世論があきらかに強
まってきました。現代社会は実際のところ、犯罪者に対して更正
する機会を完全に拒むことなく、彼らが害を及ぼさないようにさ
せるやり方で、犯罪を効果的に抑止する手だてをもっています」 、
「こうして、公権は公的秩序を守り、人々の安全を確保する目的
をも満たします。同時にその一方で、犯罪者に生き方を改め更正
するよう動機を与え、支援を提供します」。 と述べています。死
刑廃止については、1992年に出た『カトリック教会のカテキ
ズム』も触れていますが、 『いのちの福音』のほうが、より明確
な立場を示しており、さらに、冒頭で紹介したような最近の教皇
の発言を見るなら、明瞭に死刑反対意志を表明していることがわ
かります。
去年の2月24日の週間文春では、「19才監禁少女は〈袋詰
め〉にされていた」ことを述べた記事のトップの見出しとして
「これでも犯人に人権か」という脊節が寒くなるような言葉がつ
けられていました。これは、加害者なら人権がないという極端な
考え方をまねく小見出しです。あるいはそこまでいかなくても、
「加害者ばかりでなく、被害者の人権も考えよ」という理由で加
害者への過剰な罰を正当化する考え方の人も出てくると思われま
す。
しかし、加害者もまた被害者であることをわれわれは気がつい
たでしょうか。そして、加害者の死を求める被害者もまた、加害
者になるということにも気がついているでしょうか。今ここで、
聖書に基づいて加害者の概念を捉えなおしたうえで死刑制度廃止
に関するキリスト者の立場を確認したいと思います。
聖書から学ぶように、神は人の死を望まず、悪人さえも生かそ
うとされるのです(エゼキエル18,23-32)。前述したよ
うに、殺人者として罰を受け、追放されるカインに対して「主は、
彼に出会うものが、だれも彼を殺すことのないように、カインに
221
一つのしるしをくださった」(創世記4・15)と言われていま
す。
加害者は被害者に対してばかりでなく、自分自身に対しての加
害者でもあるのです。それに気がつき回心するように願うよう、
機会と時間を与えたいが、死刑制度はそれを不可能にするのです。
イエスは十字架に付けられるとき「父よ、彼らを許してくださ
い。彼らは自分が何をしているか、わかっていないからです」と
言われたのです(ルカ23・34)。つまり、加害者の為に祈っ
たのです。被害者の遺族は加害者に対して愛情を感じたりするこ
とは無理ですが、加害者が自分の犯した罪を認め、回心するよう
に祈ることができるのです。そうすることによって自分たちもい
やされるのです。(「自分を迫害する者のために祈りなさい」マ
タイ5・44参照)。
われわれ単なる傍観者でありません。何らかの形で皆、加害者
であり、自分の中に犯罪者と同じような憎みの根をもっているた
め、そこから解放され、いやされる必要があるのです。しかし、
死刑を求めることによってこのことが不可能になってくるし、社
会全体はあくまでも憎しみの根から解放されないことになります。
(マタイ、13,29:「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜く
かもしれない。刈り入れまで、双方とも育つままにしておきなさ
い」)
このような聖書の教えに基づいて、日本カトリック司教団はミ
レニアム・メッセージにおいて次のように述べています。
「許し難いこと単なる医療資源としてをゆるし合っていくこと
から、真の人間の輝きが現れてきます。それは、十字架を前にし
て弟子たちに剣を放棄することを命じ、自分を十字架に釘付ける
ものたちのためにゆるしを願いつつ息を引き取ったキリストが歩
んだ道です。多くの人々を引き寄せ、多くの人々の心に訴える力
を持ち続けるキリストの魅力は、報復ではなく、いのちを賭けて
ゆるしの道を選択したことにあります」(69項)。 しかし、こ
うした立場から考えることは、人類の歴史のなかでも、そして教
会の歴史のなかでも時間がかかったのです。現代考えられないよ
222
うなこと、たとえば奴隷制度や戦争や死刑などが時代の限界のも
とで過去に認められたにしても、今日いのちの擁護に対して一貫
した立場から対応しなければならないことが明らかになってきま
した。 初代教会のキリスト者たちは死刑を拒否していたことを
忘れてはなりません。後にローマ帝国に国教として認められるよ
うになると、教会は国家から特権と保護を与えられ、国家の代弁
者になってしまいました。古代のアウグスティヌスや中世のトマ
ス・アクイナスも、そして、16世紀の有名な人権擁護者トマ
ス・モアでさえも死刑廃止まではいかず、やむを得ずそれを認め
た
の
で
し
た
。
とにかく、時代と共に教会における教え― とくに具体的な倫理
上の問題に関する教え― はより正しく理解され、見直されること
があります。この点で死刑問題に対する教会の立場の変化は、教
義の発展を研究するうえではとても興味深いものです。というの
は、現在とは全く違った意見が13世紀の公文書に見られるから
です。当時のバルドー派の異端者に対して教皇イノケンティウス
3世は謝罪文を書かせましたが、その中で国家権力が死刑判決を
下す権利をもっていることを認めさせようとしました。幸いなこ
とに、20世紀半ばの第二ヴァチカン公会議が打ち出したこれま
での教会の態度に対する反省が実り、ミレニアムを機転に行われ
たヨハネ・パウロ2世の謝罪という画期的なで出来事を生み出し
たのです。現在、教会は福音に基づいて、ますます人権と人間尊
厳に対する問題に敏感になり、死刑廃止運動を積極的に支持する
ようになったのです。前述したように、1992年の『カトリッ
ク教会のカテキズム』では死刑についてふれていますが、表現は
物足りないものです。「正当な理由なく攻撃する者に対して、血
を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の
秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動は
そのような手段に制限されるべきである。そのような手段は、共
通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の
尊厳にいっそうかなうからである」(『カトリック教会のカテキ
ズム』。
1993年にヨハネ・パウロ2世の回勅『命の福音』のほうが
よりはっきりした立場に立って前述した発言を行っています。そ
の後、教皇の死刑廃止の発言が注目されています。1998年の
223
クリスマス・メッセージ、メキシコ (1999 年 1 月 25 日)と米国
のセント・ルイス、(同 27 日)での演説などでそれを強く訴え、
「死刑は残酷であり、何の役にも立たないものである」とまで、
はっきり言いきっています(L’Osservatore Romano, 1999 年1月
30日)。さらに、1999年12月12日に聖ペトロ広場でお
告げの祈りに集まっていた人々にむかっては「世界の全ての指導
者たちが死刑廃止に同意するよう、改めて訴えたい」と述べまし
た。
論点:1)被害者の立場を考えようと言われている。しかし、愛
する者を殺された親族の思いは、犯人を憎んでもなお癒されるこ
となく、苦しみが増すのである。憎しみ続ける自分への疲れ、そ
の現実から立ち直れず、事件を悔やむ自分、どうしても犯人をゆ
るすことの出来ない気持ちから解き放たれず、苦しみに追いかけ
られる自分が癒されないままに残るのではなかろうか。
2)被害者遺族が報復感情をもつのは当然であると言われている。
しかし、仕返しして一時的な満足感を味わい、気がすんだつもり
でも、はたしてそれで人間は本当に癒されるのだろうか。犯人に
回心の機会を与え、犯人が罪を認め、心から悔恨と謝罪をし、被
害者が加害者をゆるしたとき初めて双方とも根本的
に癒されるのではなかろうか。
3)加害者に対してまさか愛情を感じることはできないだろうし、
加害者にまったく謝罪の気持ちがない場合もあると言われている
しかし、ゆるすとは愛情を感じることではなく、犯罪者のために
祈ることであり、本人が罪の自覚を持ち、回心するように祈り、
そして、被害者をはじめわれわれも皆、憎みの根から解き放たれ
るように祈ることである。
4)死刑をもって社会を守ると言われている。しかし、殺人に殺
人を加えても社会はあくまでも癒されることはない。
5)死刑が犯罪抑止力をもつとも言われている。しかし、「死刑
制度の存続が犯罪抑止になるという考え方に対しては、1989 年に
『死刑廃止条約』を総会において採決した(日本は反対、現在も
224
未締約)国連において、死刑が犯罪抑止になっていないという報
告が繰り返し提出されている」
225
第6講
命の源に感謝する
The Source of Life
欧米のある知識人のあいだには「反・宗教的」な発言をしないと
学者らしくないと思われることをおそれるきらいがあります。それ
は熱狂的な宗教の在り方に対する逆の極端であることがわかります
が、宗教の側からのよけいな介入が良くなければ、科学の一人歩き
にも問題があります。日本において「反・宗教」とまでいかなくて
も、自分の立場は「無・宗教」であることが評論家の美徳にされて
いる面もなきにしもあらずと思います。私はこの最後の章でずばり
言ってしまえば永遠のいのちという言葉を遠慮なしに全面に出した
いと思います。そこまで言わなければ本書の著者が読者を裏切った
ことになるからです。もちろん宗教の立場を人におしつけるわけに
はいきませんが、自分の立場ですから、それを隠さないで提供しな
ければ読者にもうしわけないでしょう。
226
いのちとライフ
この本を始めから終わりまでつらぬいている主張はひとことで
言えば「命への関心」だと言えましょう。命は英語でライフ
(life)、スペイン語でヴィダ(vida)と言います。漢字による
表現力の豊かな日本語には「命」と関連のある語彙が多いことに
興味がありますが、中でも次の五つの視点からライフについて考
えてみたいと思います。
まず、に生命という言葉は生物学的な観点を指しています。
それから、生活というと、日常生活などのように社会的な見地
をほのめかしています。
そして、人生と言えば、心理学的な色彩があります
なお、寿命と言う良い言葉もあります。寿命を全うするという
ときにその言い回しの中に相当の哲学が入っていると思います。
そこまでライフの訳語に注意することによってライフに関する
見方が広くなっていきますが、もう一つの観点を加えればますま
す深みの次元の方へ目を向けることになるでしょう。たとえば、
仏教においてもユダヤ教、イスラム教、キリスト教においても、
全ての生き物の命の源である「より大きな意味でのいのち」につ
いて語っています。それを指して「永遠のいのち」という言葉が
用いられています。日本語にはひらがなで書かれる「いのち」は
万葉集までさかのぼる伝統をもっておりますが、とても深い意味
合いが含んでいるようです。
今、この最後の章でそういった大きな意味でのいのちについて
手短に示唆を出し、本書の結びにしたいと思います。
科学と宗教、そして哲学
227
十九世紀にあったような科学と宗教の間の極端な対立は時代お
くれだと思います。いのちを守るために科学と宗教が手を組んで
人類の未来に向かって力を合わせなければならない時代になった
のです。ただ、協力することだけにとどまればもの足りないでし
ょう。両方の間に健全な対決があってもよいでしょう。そして、
両方の限界に対して注意する必要もあるでしょう。
科学も宗教も具体的な歴史の状況におかれて道に迷ったり、ま
た人間の欲望のため一人歩きしたりすることがあります。そこで
両方に対して哲学が果たす役割があります。科学と宗教の「道は
ずれ」に対して哲学は「軌道修正」を行うために役に立ちます。
私はそうした立場に立って科学と宗教、そして哲学の観点を統合
しようと試みてきました。
もちろん、この立場にはそれなりの孤独が伴うことは覚悟の上
です。宗教の内部からみれば危ぶまれられたり、異端視されたり
することがあります。そして、外部からみれば、むしろ、あまり
にも宗教臭いと思われたりすることもあります。それはソクラテ
スの運命でもあったと考えればなぐさめになるかもしれません。
生命倫理と宗教の立場というと、あたかも信仰者が生命倫理の
各難問に対して、すでに出来上がった回答の宝庫でももっている
かのように考える人がいるかもしれません。それは誤解ですが、
この誤解が生まれたのは、そもそも宗教における倫理上の諸問題
への対応の仕方のせいでもあるかもしれません。それから、カト
リックに関して言えば、もう一つの誤解があります。それは教会
の公式な文書における発言をあまりにも絶対的なものにしてしま
って、あたかもカトリックの立場というものがそうした公文書の
発言につきるかのようにとらえてしまうことです。このような誤
解をさけたいと思います。
まず、カトリック司祭である私が、カトリック大学の神学部と
生命科学研究所で活躍するとき、学問的な態度とカトリックとし
ての信仰上の立場との兼ね合いをどのように考えているかを述べ
ておきましょう。
具体的な例をあげて説明しますと、講義では生殖医療技術を取
228
り扱うとき、四つほどの観点から問題を取り上げることがありま
す。以下、その四つの観点をあげてみます。
イ)その第一は、宗教のことなどを問わず、その問題を扱って
いる他の研究者と対話したり、論じたり、従来の諸研究の成果を
参考にしながら、現状の正しい把握と、これからの発展の道を探
ります。
ロ)問題を自分自身の問題として考え、自分が抱いている生命
観やものの考え方、自分の哲学でそれをとらえようとします。こ
のとき、カトリックの信仰とそれに基づいた世界観を持っていま
すから、当然その影響が反映されます。
ハ)問題に対する教会の公式な発言があった場合、それを参考
にしたり、手がかりにして考えたり、それらの発言にみる問題と
の取り組み方、および信仰者に対して教会が与えている指導の仕
方を検討します。
ニ)教会内部の意見の相違や、前述の公式な発言に対する神学
者の異論なども参考にします。
以上あげた四つの観点を同時に用いることによって、初めて、
大学レベルで研究をしようとするカトリック者の使命が果たされ
ると思っております。そうでない場合、たとえば、先の3番目
(ハ)の点だけを紹介し、それをオオム返しのように繰り返すと
いう方法をとってしまえば、それはカトリックの立場を非常に狭
いものにしてしまうことになります。
生命倫理のための聖書からの示唆
今ここで、紹介程度だけで命について聖書からの幾つかの示唆
を参考としてあげておくことにます。
229
イ)いのちは創造主からの賜物であって感謝をもってこれを受
け、同時に創造主に対する使命としてその責任をはたすように人
間が招かれているといます。
ロ)自然に手を加えることは、創造の信仰に基づいて人間は自
分が創造主でないとの自覚の上で、それを行われなければなりま
せん。言い換えれば、神を演じるのであれば、責任をもって演じ
なければならないのです。生命に対する畏敬の念が忘れられない
ように注意しながら、人間は責任のあるかたちでの生命操作に関
わることができます。
ハ)延命あるいは永遠のいのちというとき、長さの問題ではあ
りません。福音書で言われている「一粒の麦が地に落ちて実を結
ぶ」という譬えにみるように、長さよりも質の問題のほうが大事
なわけです。
ニ)肉体と精神に関する問題としてキリスト教は復活信仰を説
いて来ました。それはもちろん、この世の命によみがえるのでは
なく、永遠のいのちに入ることを表現しているものですが、それ
は生死を超えて信仰の次元で永遠のいのちに中心をおきます。
ホ)医療の不正な分配に対し、キリスト教は弱者優先の立場を
取ってきました。以上の示唆を生かし、いのちを超える永遠のい
のちを見つめた上で人間を見つめるような医療の在り方を求めよ
うとしています。
聖書の生命観
以上の示唆をより詳しく幾つかの聖書箇所に言及しながら記載
しておきます。
聖書によると、いのちは神の賜です。いのちの源は神(詩編
36,9)、神が作られたすべてものは「よい」ものであり(創世記
1,10)その「よさ」を生かし、宇宙のすべてのものの調和を司る
230
よう人間にませました。神は人間に自然を破壊することなく、動
植 物 を 世 話 す る よ う 委 託 さ れ ま し た ( 創 世 記 、 3,19) 。
「人は一人でいるのはよくない」ので、男と女に作られ、かか
わりのある存在として作られました。(創世記 3,18)。神は「い
の ち の 友 」 と 呼 ば れ て い ま す ( 智 慧 、 11,23-26 ) 。
神は人間の内に生命の息吹を吹き込まれました(創世記、2,7)。
いのちを創造された神は、それを保ち続け、あらゆる生命は神の
手のひらで支えられているのです(Job12,10)。神の創造の霊に
よってすべてのものが、常に新しくなります(Ps 104, 29-30)。
いのちは課題として預かりものとして人間の責任に任されまし
た(創世記、1,26-30)。人間には生命に関する支配権はあるので
はなく、創造主だけにあり、不正に人のいのちを断ってはいけな
いのです(出 20,7-13 民数 35,9-34)。 創造主は人の死を望
まず、悪人さえも生かしたいのです(Ez 18,23-32
Gen 4,15)。
創造主は各々の人間を生まれる以前から愛し(詩編 139)、生命
を授け、その人の肉体的生命が終わった後も、永遠の生命に預か
るように、という使命を与えています。そのとき神は決定的に死
にうち勝ち(イザヤ 25,8)、すべてのものを新しくします(イザヤ
65,17-25)。創造主の似姿に作られた人間は(智慧 2,23-24)主の
霊によって生かされています(イザヤ 38,16)。キリストが真の人
となり、兄弟であるすべての人間の救い主であることが、すべて
の人間も生命が大切にされなければならないことの最高の根拠と
なります。キリストはこの世に来られたのは私たちを生かすため
です(1Jn 4,9; 5,11; Rom 6,23)。創造主はいのちそのものであ
る(1Jn 5,20)ということをいのちの言葉であるイエスが教えまし
た(1Jn1,1-11)。キリストによって、キリストとともに、キリス
トのうちに私たちは創造主の霊に生かされています( Jn1, 1417)。
要するに、生まれ出る前から死ぬまでの人間のいのちを大切に
するという聖書の教えの根本は、「創造主への依存」と「キリス
トによる新しい創造」の生命観です。
永遠の生命があるからといって、この世の生命を大事にしない
なんてことは決してキリスト教の教えではありません。キリスト
231
者たちは、生命を脅かす原因をなくすための努力を怠ってはなり
ません。いのちを守り、特に自分で自分を守ることの出来ない者
のいのちを守るようにつとめます。
死ぬことは永遠のいのちに生まれ変わることですが、福音書の中
でこの考え方をほのめかす箇所があります。人々はイエスを罠に
陥れようとして訪ねました。「七回結婚した女性は、天国にいけ
ば一妻多夫になるのでしょうか。」と。イエスは応えました、
「神は死者の神ではなく、生きている者の神である」(ルカ
20,38)。別の時、イエスは「人は新たに生まれなければ、神の国
を見ることは出来ない」(ヨハネ 3,3)と言って、相手を困惑さま
した。生と死について、「一坪の麦は、地に落ちて死ななければ、
いつまでも一坪のままである。しかし死ねば、多くの実を結ぶ」
と言いました。
永遠の生命とは、死後だけのことではありません。私たちの内
にはすでに永遠の生命が、種の形で与えられています。イエスは
「友のためにいのちを捧げるほどの大きな愛はない」と言います
(Jn15,13)。そして「私がきたのは、彼らがいのちを得、またそ
れをゆたかにもつためだ」とも言います。(Jn10,10)。
現代の神学者における生命倫理との取り組み方
最後に、多少この本の枠を超えて、上智大学の神学部で生命倫
理の講義を方向付けるために用いている方法を紹介しておくこと
にしましょう。
現代神学者では倫理上の諸問題を扱うときの方法論の見直しを
行われたのですが、刷新と反動のはざまで戸惑うこともあります。
今個々で手短に神学者たちが使っている物差しについてまとめて
みましょう。
1.聖書から学ぶ
聖書に基づいて生命倫理を考える時、前述したように、創造主
への信仰が出発点です。いのちは神からの賜であり、課題でもあ
ります。いただいたいのちを感謝し、与えられた使命に対する責
任を感じます。このように「感謝」と「責任」は物差しとなりま
232
す。ただ聖書の使い方について注意する必要があるでしょう。聖
書から出来合いの解答よりも動機と方向づけが求められます。聖
書に基づいた倫理は禁止事項よりも、キリストの生き方を基準に
し、キリスト者が社会の中でどのように生きて行くべきかという
ことを問いかけるのです。
言い換えれば、イエスの福音こそ物差しです。イエスは希望の
ことばを語り、人々に福音すなわち「善き知らせ」を述べ伝え、
人々に解放をもたらし、人々を肉体的にも精神的にも癒しました.
それから、イエスは新しい人間関係すなわち信頼やゆるし合いや
義務以上の配慮などのある兄弟姉妹の社会を作ろうとしました。
さらに、イエスは弱い人や困った人や貧しい人を優先的に大切に
し、掛け替えのない一人一人の人間をあらゆる「組織」よりも大
事にし、人間は「組織」のためにあるのではないと主張しました。
このようなイエスの教えと行動の仕方からキリスト教倫理の物
差しが学べます。なお、イエスの生き様や十字架上の死を見つめ
たとき、今生きているイエスを信じているものの死生観が変わり
ます。
2.生活経験から学ぶ
第二バチカン公会議の『現代世界憲章』(第二部、46番)に
現代の緊急な問題(結婚、家族、戦争と平和、労働、政治、文化
など)をとりあつかっていますが、その冒頭に次の物差しを掲げ
ています。つまり、「福音の光と人間の生活経験の光に照らして
判断するように」と勧めています。回章『いのちの福音』(1995)
も参考にすると、その中で教皇は福音に基づくと同時に人間の生
活経験に訴えようとします。社会に向かって自分の立場を説明す
るとき、説得力のある理由を挙げなければならないし、自分と同
じ世界観をもっていない人々にも通じるような理由を挙げる必要
があるでしょう。たまたま教会のある文書によって何かが禁じら
れているとか、勧められているとかの理由だけでは足りないので
す。
233
3.伝統と歴史から学ぶ
歴史を振り返ると、それぞれの時代においてどのようにキリス
ト者たちが福音の実践に努めてきたかがわかります。たとえば、
初代教会の「分かち合い」や中世のホスピスの精神から、近代の
教育施設と医療や福祉施設を通して、現代のマーザーテレサや解
放の神学に至るまで、いろいろな例を挙げることができます。な
お、聖人や殉教者などの生活の証から福音の実践と倫理の基準を
学ぶことができます。
それから、神学の歴史からも学びます。キリスト教の伝統の中
で培われた学問も参考になります。たとえば、古代と中世にみる
異文化との出会いとか、良心に関する論説とか、十六世紀におけ
る人権擁護の思想と国際法理論の誕生、今世紀の医療倫理への貢
献などです。ただその歴史を振り返るとき教訓だけではなく、後
遺症も見出すことがあります。両方とも参考になると思います。
さらに、実生活の経験を大切にする伝統もあります。具体的な
相談を受けたりする現場で人のなやみを前にして倫理の教科書だ
けで学べないものがあります。昔から「罪を憎み罪人を憎まず」
と言われました。
そして、大きな原則だけではなく、ケース・バイ・ケースにそ
れを当てはめるときの柔軟性もよく勧められてきました。
そうした生活経験に基づいて伝統的に罪と罪人の区別が指摘さ
れてきました。神学ではあることがらが「客観的に悪であること」
と「主観的に罪であること」の区別が注目されます。なお、現代
社会の世界観、生活様式などのゆがみおよび現代社会の中にある
悪を批判するとき、現代社会に挑戦して、いわば預言者的な役割
を果たす必要があるでしょうが、同時に社会のそうした悪の被害
者に対して、深い思いやりと理解を示すことを決して忘れてはい
けないのです。
4.現代の教会の指導から学ぶ
前述したとおり、現代カトリック教会は倫理の見直しを行った
が、刷新と反動のはざまで戸惑うことがあります。 第二バチカ
234
ン公会議以来、教会の理解が深められた結果、信仰者共同体の中
での助け合いが強調され、倫理上の諸問題に関する教会の指導の
仕方が見直されてきました。 そして、現代社会の諸問題に対す
る教会の発言が発表されることがよくありますが、こうした公文
書の受け止め方に関しては、それを正しく理解する必要があるで
しょう。たとえば、「原則に関する発言」と「実証的な事実に関
する発言」を区別することが大切です。後者に関してはカトリッ
ク者の間で賛否両論もありえます。あたらしいデータや考え方の
発展が生じるので、同じ原則に基づいても、異なった結論を出す
ことがありうるからです。 教会内部に相当な程度まで認められ
ている「異論」は決して「異端」と間違えてはなりません。
5.東西の倫理思想の伝統から学ぶ
西洋においてソクラテスや東洋において孔子などのように、人
間理解や人間形成に関する深い洞察に基づいて人間関係と正しい
社会秩条を考える倫理思想の長い伝統がありますが、そうした思
想家たちの古典にふれて学べるものが多いのです。ただ、その伝
統を大切にしようとしている人のなかでも二種類の倫理が見られ
ると思います。一つは禁止事項を中心にする倫理であって、もう
一つは人間のほんとうの幸福を求める倫理です。言い換えれば、
前者は「すべきである」という命令の形で表されるものであり、
後者は宮沢賢治の有名な歌のように「私はそういうものになりた
い」という未来希望の形で表される倫理です。
倫理のことを車に例えると、ブレーキをかける役割だと思う人
が多いかもしれません。それに対して倫理なんかいらないと思う
人はアクセルを踏むでしょう。そこで、両極端の態度すなわちア
クセルかブレーキかというジレッマを超えて、「ギアーとハンド
ル」の操作にたとえられる倫理がもとめられています。その倫理
は、解答を出す技術(テクニック)ではなく、それを作り出す芸
術(アート)だと言えます。
現代フランス哲学者リクールが言うには、実践的智慧(まさに
ギアーとハンドル)を使わなければ、科学技術の挑戦に答える倫
理は成り立たないのです。
235
6.科学などの専門家から学ぶ
単なる「歯止めの倫理」をもって外部から科学者に対して制限
を加えるというやり方では現代の生命倫理の諸問題を扱うわけに
はいきません。むしろ科学者と倫理学者が協力して一緒に考える
ことが必要になっています。第二バチカン公会議の『現代世界憲
章』には専門職を持っている信徒、特に科学者の役割が強調され
ています。 その36番の中で次ぎのように言われています。
「科学の正当な自立を認めないキリスト者がいることは大変残念
なことです」。そして43番の中で次ぎのように言われています。
「信徒は霊的光と力を司祭から期待すべきであるが、司牧者が何
ごとにも精通していて、どのような問題についても即席に具体的
な解決を持ち合わせて居るとか、それがかれらの使命であるとい
うように考えてはならない」。
7.民衆主義的な議論から学ぶ
生命倫理の諸問題を扱うために行政の側からのガイドラインー
(規制、合意の整備)なども必要なわけですが、具体的な場での
市民の関わり方(市民運動、ボランッティア)などが大切な役割
をはたすし、家庭と教育の場で生命を大事にする態度を育てるこ
とが欠かせないのです。そこで、行政と教育機関と報道機関の協
力によって一般市民が健全な社会の建設に関わるようにしなけれ
ばならないでしょうが、そうした市民社会での対話から学べるも
のが多いわけです。ただ、法律と倫理の関係を見直し、真の民主
主義とは何かを問わなければならないでしょう。いわゆる「自己
決定権」や「大多数の合意」などにおける個人主義の限界が指摘
されています。価値観の識別なしに民主主義社会が成り立たたな
いのです。
236
8.諸宗教の対話から学ぶ
1993年9月4日に世界諸宗教会議において「地球的な倫理
にむかって」という宣言が行われました。それぞれことなった宗
教代表者が一致して四つほどの原則を歌った。それは、
イ)生命尊重と、
ロ)男女平等と、
ハ)真実、そして、
ニ)平和と正義でした。
最近注目されている諸宗教の対話と協力によって人類の未来に
対する責任が高まってきましたが、カトリック倫理学者は、プロ
テスタントとの共通理解はいうまでもなく、他の宗教との接触の
中から学ぶところが多くあることを認めるようになりました。
9。社会的に弱い立場にいる者から学ぶ
ラテン語で magisterium(マジステリオウム)すなわち「教える
務め」と言う言葉は中世の神学者トマス・アクイナスにおいて二
つの意味で使われていました。それは司教たちと神学者のそれぞ
れの務めでした。
近代以来この言葉は、主に教会の教える役割すなわち教導職に
ついていわれました。とくに十九世紀からそれが過度に強調され
ることがありました。
第二バチカン公会議の後で福音書の「賢い人に隠し小さき者に
表した」というイエスの言葉があらたに理解され、「貧しい人々
から学ぶ」という表現を用いることがありますが、社会の中で弱
い立場にいる人、困っている人、のけものにされがちなひとなど
から学ぶ必要があるということは倫理学の刷新のために欠かせな
いものです。
237
むすび
生命倫理(バイオエシックス)について私が始めて本を出して
から、早くも、十五年以上たちました。あのころ bioethics とい
う言葉はまだなじみがうすかったのですが、今では「生命倫理」
という訳語まで定着しています。しかし、生と死についてどこま
で私たちの社会の中で考えられているのでしょうか。たしかにそ
の方面の本は増えましたし、講演会、懇談会、学会などの催しに
は「生命倫理まつり」と思われるぐらいのブームがあります。新
聞、テレビなども医療と倫理に関する話題を提供しています。そ
うした現状であるにもかかわらず、基礎的な議論が充分に行われ
ていないと思ってしまうのは私だけでしょうか。そういった議論
にささやかながら一石を投じようとするのが本書のねらいです。
1997年に対照的な二つの出来事がありました。ひとつは米
国の火星探査機で、 もうひとつは英国のクローン羊「ドーリー」
でした。一方で宇宙の遠くまで手を広げる人間ですが、他方細胞
のもっとも微細なところまで操作できるようになってきました。
言い換えればマクロの領域においてもミクロのそれにおいても無
限の可能性が開かれてきたのです。
さらに、もうひとつの不思議な無限の世界の一例を挙げるなら
脳の研究でしょう。例えば、走査型電子顕微鏡の能力をはるかに
上回る MEG の発明などです。 パスカルはすでに「ふたつの無限」
のことを述べていましたが、確かに望遠鏡によっても顕微鏡によ
っても無限の世界が開かれるでしょう。しかしここでカントの有
名な言葉も思い出しておきたいと思います。「私たちの心を満た
すふたつのものがある。私の上なる星をちりばめた空と私のうち
なる道徳的法則でした。
前述したクローンや宇宙探査機のあと、ここ三年間次から次ぎ
へ科学技術か関係のヒット・ニュースが続いたわけです。そして
これからもそうだろうと予想できるでしょう。21世紀において
238
エイズに対するワクチン開発とか人工知能ロボットの実用化、老
人ぼけの治癒とかがそうかもしれません。
さらに、予想できないことばかり現れてくるでしょう。たとえ
ば、クローン人間など派そうかもしれません。そのときあらたに
生命倫理および環境倫理の問題が浮き彫りにされるでしょう。と
いうのも人間と環境または人間と生命全体との調和がますます問
題になるからです。
そして、科学と人間の関係を深く考えた上で科学と倫理という
二つの柱に支えられてこれからの人類の人間らしい生存のし方を
作っていかなければならないでしょう。その課題に本書でささや
かながら貢献したかったわけです。
以上きわめて複雑な問題と日常的なものを混ぜてまとまりのな
い話を続けてきましたが、結局最初に申し上げた通り、いのちの
未来は私たちの手にあるということを述べたかったのです。そし
てこのことを個人的に受け止めるだけにとどまらないで、現代日
本の社会に対していくらかこの問題を抱かせるようになればとい
うのが私の願いです。
先にいろいろな具体的な例をあげたのですが、それらの例のど
れを取ってみても、すべての問題に共通する一つの矛盾にぶつか
ります。それは、人間の開発した技術が、人間をもっと人間らし
くするように働くどころか、非人間化がますます押し進められよ
うとしているのではないかという疑問から逃れられないというこ
とです。
今の日本は豊かであると思われがちです。しかし、ここで取り
上げた問題を見ただけでも、本当に豊かになったのか、それとも
実は貧しくなったのかわからなくなってきます。確かに生命を守
ろうと思えば、現代の日本ほどそれができる手段と条件が整った
時代は今までなかったでしょう。けれども、現代の日本において
こそ生命が脅かされている場合が多いということを考えさせられ
ます。しかも、その脅威は経済的な豊かさと技術的な豊かさの背
239
後に隠されていることが多いのです。その隠れている現代社会の
矛盾や貧しさに、勇気をもって目を向けなければならないのです。
というのも華やかな経済と技術の進歩に目を奪われている間に、
私たちの未来が確実におびやかされていることを忘れてはならな
いからです。企業の利益が強力に優先させられている一方で、力
の弱い一人ひとりの人間の尊厳が見失われていくことのないよう
に見張っていきたいものです。
240
第7講
生き方と考え方
Living and thinking
241
物差しをもとめる
日常生活の中で私したちは色々と物差しを使います。大工さんが
家を立てるときや衣服屋が衣類を作るときなどがそうです。台所
でおいしい料理を作るときにもその作り方のコツがあります。芸
術にもよい作品を制作する術があるのです。
修業にも「型」というものがあります。例えば、歌舞伎俳優の
演技教科書として有名な「役者論語」というものがあり、これは
現富十郎や市川延若の演技の教科書として有名なものです。もち
ろん「型にはまって」はいけないでしょうが、一応「型」という
ものがなければ学べないのです。
人間としての生き方を学んでいくにも物差しがいります。これ
は昔から倫理とよばれます。倫理というと、堅いことばのように
響くから避けて通りがちですが、堅いものを拒否すれば私たちは
いつまでも子供のようにミルクしか飲めないことになってしまう
でしょう。
生命をめぐっての倫理上の諸問題を考えるときには私たちがい
ったいどのような物差しを使っているのでしょうか。
本章に載せる断片は生命倫理の物差しへのヒントですが、それ
は融通のきかないような堅い基準ではなく、疑問の形での物差し
ですから、題にはそれを「求めて」というふうに書いたわけです。
「できる」ことと、「やってもよい」こと
科学技術が著しく発展してきました。ごく最近まで考えられな
かった多くのことを人間ができるようになってきたのです。しか
し、できるようになったことはすべてすぐやってもよいかどうか
疑問に思います。たしかに生命に関する諸科学のおかげでいのち
を大切にするための助けが得られたのですが、その反面いのちが
おびやかされることも否定できません。
医療や農業や家畜や産業などの領域において新しい生命科学技
242
術の成果が応用されますが、最近可能になってきた多くのことは、
これからいったいどのように人間の生き方に影響を与えていくか
を考える必要があります。
現代の社会においては、いのちをいともたやすく操る可能性が
ますます大きくなってきました。これはごく最近まで考えること
もできなかったほどの速度と広がりを示しています。では、新聞
の小見出しなどでよく使われる「生命操作」という言葉について
考えてみましょう。
新聞にはよく現代が「生命操作の時代」とか言われて、体外受
生やバイオテクノロジーの先端技術の話が載っていますが、現代
という時代は大きな進歩の時代であると同時に、人間が種々の形
で脅かされている時代でもあります。人間はますますいとも容易
に生命というものをあやつる多くの方法を発展させましたが、そ
うした生命操作の仕方が、それを作った人間の手におえないもの
になってしまうのではないかという懸念が大いにあります。
たとえば、体外受生や臓器移植などのような最近の医療技術の
発展が、人間の進歩であるか、それとも進歩でない発展であるか
はうたがわしいところです。その技術の発展の反面、いままでな
かった新しい形での人権侵害や差別などの問題が生じてくる可能
性があります。人間は生命を操作しようとしますが、その人間自
身もまた操作の対象になってしまいます。たとえば、マスコミ、
世論、ものの考え方もいろいろな形で操作されています。
人形が目覚めたとき
みんな一緒に渡るのだったら赤信号でも通るのはこわくないよ
うです。やはり私たちは人混みの中で安心するのでしょうか。み
んなと同じことをし、同じことを言っていれば世渡りは面倒では
なくなるかもしれません。そのかわりに自分としてではなく、な
にかに操られて生きていくということになるでしょう。たしかに
私たしたちの毎日の生活には操り人形に似ているところが結構あ
ります。いきなり日本語で「生命操作」とか「人間操作」とか言
243
っても意味が通じにくいので、古いたとえ話を使ってわかりやす
く述べてみましょう。
人形芝居であそぶ人形たちにはもし意識があればなんと思うで
しょうか。そういう擬人化したたとえを作ってみましょう。ある
日のこと、人形たちに意識があるようになります。人形たちは芝
居の筋を理解しています。そしてお互いに話しあったりしていま
す。ただ、人形たちは糸で操られていることだけを知りません。
しかし、遊んでいるうちにその中のひとつの賢い人形がありまし
た。あるいは意識があるから「一人がいた」と言った方がよいで
しょうか。とにかくその人形は相手の背中についている糸に気づ
くわけです。それを相手に指摘します。そのとき、相手からまた
知らされます。「あなただって同じように糸がついていますよ」。
そのときから彼らは操られているということを知るようになりま
す。やはり自分たちが様々な形で操作されており、自由に動いて
いるつもりだったのに実際に自由ではなかったということに目覚
めます。
私たちもマスコミや政治家の言葉などに操られていますが、そう
した時代においてこそ意識への運動,目覚めへの運動が必要にな
ってきます。いろいろと操作されている私たちは互いに目覚めさ
せたいものです。
人間操作(manipulation)に対する意識化(conscientization)へ
の運動というこの二つのキーワードがはやり始まってから三十年
ぐらい立ちましたが、まだまだ操り人形が目覚めきれないのでは
ないでしょか・・・
こうした、マスコミや政治家による操作から解放されて、もっ
と意識的に、もっと自由に、あるいはもっと人間らしく生きてい
こうとする運動のことを、「意識の変革」とよびます。要するに、
現代という時代は生命操作の時代であり、世論などによって人間
も操作されている時代でもあります。
視点の置き方をかえて
244
天動説の時代には、地動説が、考えられないものでした。しか
し、その時代の学者たちは、馬鹿ではなかったし、全部間違って
いたとも言い切れないかもしれません。あの時代での考え方の枠
内で地動説が考えられなかっただけです。その説が変えさせられ
るようになるためには、考え方の枠、最近の哲学におけるはやり
言葉を仕えば、パラダイムを変化させる必要があったわけです。
倫理問題においても同じです。たとえば、精子の発見は167
7年ですが、当時の常識では精液の中にいわば微小な小人が入っ
ていると思われていたので性行為において男性の役割だけが受胎
にとって決定的だと考えられてしまいました。同じ理由のために
精液を無駄にするような行為は堕胎と同一視されてしまっていた
のです。
もう一例をあげると19世紀の初め頃に種痘の予防接種の発明
に対して自然に反するからいけないというローマ法王の発言があ
りました。現在なら考えられない発言です。こうしてみると、前
の時代では考えられなかったようなひとつのいわばコペルニクス
的転換、いってみれば天動説から地動説へといったようなパラダ
イムの変化も時代によって必要になってくることがあります。
「だめだ」対「いいんじゃないか」
道徳と同じように、倫理と言う葉も、人によって受け止め方が
かなり誤解されているのではないかと思います。倫理と道徳に関
するいくつかの誤解のリストをあげておきましょう。
道徳教育は徳の道を身につけさせるために、いわゆる徳の目録
を教え込むだけだという誤解があります。
道徳の問題は専門家に任せてしまって、彼らが出してくれる結
論に従って、その通りにしていればよいという誤解もあります。
教師の役割はあらゆる倫理上の諸問題に対する出来上がった結
論を出すことにすぎないという誤解もあります。
倫理は悪に対する単なる歯止めにすぎないという誤解、道徳は
掟と禁止条項だけのことだと思いこんでしまう誤解も目立ちます。
245
それから倫理上の諸問題に関して、次の両極端がよく現れます。
その一方は「これはだめだ、あれはいけない」という命令の形で
の倫理であり、他方は「まあ、いいんじゃないか」という、いわ
ば倫理の欠如です。これに対して私はもうひとつの立場を勧めた
いと思います。それは、「物差しはもっているけれども、すべて
の問題の解決を持ち合わせているわけではない」という立場です。
雨にも負けず
命令の形だけで考えると、禁止事項を中心にすることになって
しまいます。たとえば、嘘をついてはいけないと言うときが、そ
の一例です。これは、どうして嘘をついてはいけないのかと聞か
れて、真実でありたいものだとか、真実を話したいものだとか答
えたとします。これがそのように答えている本人の基本的な姿勢
を表す、いわば未来に向かって望みをもつ考え方です。
宮沢賢治の有名な「雨にも負けず」の最後の言葉、「私はそう
いうものになりたい」を命令形に変えてしまうとどうなるでしょ
うか。「みなさんも、そういうものになるべきだ」としたとする
と、味も説得力もなくなるでしょう。
さらにこうした未来に向かって望みをもつ考え方では、願望だ
けではなく疑問も大切な役割を果たします。たとえば、「いつも
真実でありたいものだ」という願望があるとします。そして、そ
うなるためには、何をすればよいのかという疑問が出てきます。
多くの場合この質問に対する答えは、「嘘をつかない」というこ
とでしょう。しかし、状況と場合によって真実を守りたいからこ
そ本当のことを言うのを避けなければならないときもあるでしょ
う。このような柔軟性は命令の形しか持たない倫理にとってはむ
ずかしいことです。
洋服にたとえて言えば、最近既製服のものでもほとんどぴった
り合うようなものもあるのですが、倫理の場合には出来合いの既
製服のような解答では間に合わないのです。いわば、注文服のよ
うなものが必要でしょう。
246
物差しと原則があっても、新しい状況に置かれて創造的に結論
を作り出さなければならない場合も多いし、そうした新しい状況
から学んで、従来の物差しと原則を見直すこともあります。倫理
教育に携わるものの役割は、決して出来上がった原則を押しつけ
たりすることではありません。むしろ、各々人の成長を助けるこ
とが必要です。
ケース・バイ・ケースとは
ここまで述べてきたアプローチで物差しをみなおしていきたい
のですが、「義務中心の狭い道徳主義」と「物差しのないような
いきあたりばったりの判断」という両極端をさけたいのです。
一例を挙げましょう。どうしてスピード制限があるのかときか
れたときに、この近くに学校があって、子供が惹かれてしまうお
それがあるからだと答えたとします。そして、その答えを聞いて、
ある人が「どうして子供をひいてはいけないのだろうか」と、と
んでもない反応の仕方を示したとします。こんなことを平気で言
っているような人であれば、その人にはいくら物差しのことや生
命の尊さなどについて話してもまったく無駄でしょう。そして逆
に一人一人の命は掛け替えがない尊いものだという価値観をもっ
て、まさかひけ逃げなどをしないと当然のように思っている方だ
ったら、わざわざ説明するまでもないでしょう。
つまり、ある大切な価値を把握していないものには、納得させ
ることは不可能に近いけれども、それを把握しているものにとっ
ては説明というものはもうすでに実践的に把握していることを裏
付けるためのものなのです。
このような考えは、簡単なように見えますが、以外と理解して
もらいにくい場合があり、極端に走ることが多いのです。その原
因について考えましょう。二つの極端な立場をとることがありま
す。つまり、基準やものさしを絶対化する立場と、何の物差しや
基準もなく、ケース・バイ・ケースだけ(つまり、ゆきあたりば
ったり)に考えるしかないという立場です。この二つは正反対の
247
ように見えるのですが、以外と似ています。これは両方とも断定
的すぎる立場に固執するからです。
米の量はキログラムや合で計り、着物の長さはメートルや尺で
計るのですが、生命と倫理について考えるときどんな量りを使え
ばよいのでしょうか。その量り方は、前述したとおり、技術(テ
クニック)よりも芸術(アート)です。ただ、それは芸術家の描
く絵のようなものであって、幾何学的なデザインのようなもので
はありません。絵を描くときにももちろん規則や原則があり、ど
んな描き方でもよいというわけではないのですが、そこにさらに
芸術家の手が入ります。
同じことは演劇についても言えます。優れた女優はセリフをた
だ読み上げるのではなく、感情を込めて話します。また、合奏す
るときにはただ楽譜通りに引けばよいのではなく、指揮者の支持
に従い、彼と息を合わせる必要があります。同じメロディでもヴ
ァリエシォンが入るわけです。さらに料理の場合にもただカロリ
ー計算された料理よりもお袋の味がよいわけです。
倫理にも原則や規則のような枠がありますが、その枠の中では
かなり融通を持たせなければならないのでしょう。こうして生命
倫理はやはり技術よりも芸術ではないかと思います。
運転する術
生命と倫理の物差しを車の運転に例えてみると、ブレーキをか
ける役割だと思う人が多いかもしれません。それに対して物差し
がいらないと思う人はアクセルを踏むでしょう。私はむしろハン
ドルとギヤーの操作にたとえられるような物差しをすすめたいの
です。
なお、このたとえを使って倫理の四つの領域を位置づけること
ができましょう。
まず、車にはモータがあり、運転手には目的地や目標がありま
248
す。この二つを合わせて原動力ができあがります。倫理において
は、本人の基本的姿勢が大事であり、それが行動の原動力になり
ます。自動車を運転するとき地図を見るが、その地図の中に目的
地が示されており、迷わないように助けとなります。倫理で言え
ば、人間として大切にしたい価値や目的などがそれに当たります。
それから、二番目に交通ルールがあります。これは上述の地図
や目的地より二義的なものであり、目的に達するための助けです。
倫理ではルールと原則もその役割を果たします。
さらに、三番目に道の途中に障害物があったり、予期しなかっ
たことがおこったり、道標がなくなったりすると、いろいろなこ
とが起こりうるのです。そこでときには突然ブレーキをかけたり、
ときにはスピードを出したりしなければならないでしょう。ハン
ドルで操作することも必要でしょう。これは、難しい状況判断を
し、前もって予想されない解決の仕方を創造していかなければな
らないでしょう。
こうしたことは倫理で言えば、日頃の態度と、その都度現状を
把握して判断することに当たります。本書の中でたびたび強調す
る「実践的智慧」や「識別」や「思慮分別」がこのような創造的
な倫理の秘訣です。
そして最後に、事故もおこるのです。事故が生じた後、その経
験を生かして将来のためにそなえます。また無事故の記録も高く
評価されます。失敗や成功についての両方の記録を生かすことが
大事でしょう。倫理についても同じことが言えます。失敗したと
きの経験と成功したときの経験から学ぶということです。
情報整理の術
もう一つの例えを使って生命と倫理の物差しを考えることがで
きるでしょう
情報センターの活動には五つの要素があります。
249
イ) 情報への関心
ロ) 情報の収集
ハ)情報の整理
ニ)情報の確認
ホ)情報に基づいた結論
これに似たような形で、生命と倫理の諸問題への対処の仕方には
次の五つの要素があると言えましょう。
イ) 当事者の基本的な姿勢
ロ)問題や状況に関する具体的な情報
ハ)判断力
ニ)他人からの助言
ホ)決断
これらの諸要素のかねあいを大切にすれば、生命と倫理の諸
問題に関する考え方の混乱をさけて交通整理を行いやすくな
るのではないでしょうか。
オールマイティとは
子供をしつけるときには、ときどき「よい」とか「悪い」とか
いう言葉が単純な意味で使われてしまいます。たとえば、お菓子
を食べすぎることが悪いというのは、あとで腹をこわすからだと
か、学校のきまりを破るのが悪いというのは、破ったら罰せられ
250
るからというときです。場合によって大人になっても幼稚な動機
付けしかもっていない人もいます。その人はあることを悪いとみ
なして、それをやらないのは罰せられないためとか、損しないた
めとか、人の目を気にするからとかいうような動機付けだけです。
西洋の倫理学では「良さ」について伝統的に三つの意味が使い
分けられてきました。イ)楽しいからよいという意味、 ロ)役
に立つからよいという意味、ハ)楽しくなくても、役に立たなく
ても、人間として評価されるべきという意味、です。
周知の通り、ここ数十年来、心理学者は人間の成長過程の研究
を強調してきました。そうした研究の具体的成果を教育の現場に
あてはめようとする試みがよく伺われます。ここではそうした研
究の中から一つのテーマのみ取り上げてみましょう。
ある学校で次の実験が行われました。それは、説教によく出て
くる言葉を小学生に聞かせて、その言葉から彼らが連想するもの
が何であるかを探る調査でした。「全能の神」(Almighty God)と
いう語に対して、三人の小学生がそれぞれ次のように反応しまし
た。
まず、A 君は、この語を聞いて、「怖い」と感じると言いました。
その理由として、何でもできる方は、何をするかわからないとい
うことをあげたのです。いいかえると、何でも知って何でもでき
る方は、人間の行うことをすべて見ており、どんな罰でも与える
ことができるのだから、怖いのです。
B 君は、神が全能であることを大変喜んだようです。何でもでき
るのだから、頼めば何でも聞き入れてくれると思ったからです。
ご利益があるに決まっていると思ったにちがいありません。それ
で彼は、自分のために多くのことを神に願う気持ちになっていた
のです。
C 君も喜んでいたようですが、B 君とは頼むことが違っていまし
た。C 君は何でもできる神に自分の家の寝たきりのおばあさんを治
してもらうことを願いたいと言っていいましたた。
251
以上の例からわかるように、「全能」という語は、聞く人の成
長段階によって大いに異なる意味を帯びています。A 君がその語を
聞いて怖く感じるのは、彼が罰にこだわりすぎているからです。
言い換えると、彼はこわい神のイメージをもっているのです。彼
の宗教心はこのイメージを克服して、もっと発展した段階までこ
れからいかなければならないでしょう。B 君は、より積極的な神の
イメージをもっているのですが、A 君と共通点も持っています。つ
まり二人とも自己中心的な形で神を捉えているのです。それは、
罰や御利益とかの低い段階での宗教心といえましょう。それに対
して C 君は自分以外の人の立場に立ち、他人のために願うことを
知っているのだから、彼は自己中心的段階から出て、それ以上の
段階に入っていると思われます。
ここで強調したいのは、三人とも同じ「全能」という語を聞い
たのですが、それからくみ取る意味は全く異なり、その背後にあ
る三人の宗教心の目覚め方が根本的に異なると言うことです。
真のしあわせ
私たちが、ごく当たり前のように使っている「良い」とか「善
い」という語はむずかしいのです。雪が降っていることは、スキ
ーに行く人にとってはよい天気であるかもしれないが、他の人に
とっては悪い天気かもしれません。良いとか悪いとか言うときに
は、だれにとって、何のために、よいのか悪いのかということを
問題にしなければならないでしょう。
前述した「善さ」の三種類の意味をもう一度思い出すと、第三
番目(楽しくなくても、役にたたなくてもよい)の意味での善い
ということは、要するに、人間をより人間らしくするものは善い
ことであり、その反対に人間を人間らしくなくさせるものは悪い
ということになります。もちろんここで問題になるのは、「人間
らしさ」をどのようにとらえるかということです。
252
古代の思想家たちは、 善いことをし、悪いことを避けるとい
うことは、第二義的なことであり、それよりもむしろもっと大事
なのは、善い人になることだと主張していました。したがって、
「人間にとって、真のしあわせとはいったい何であろうか」とい
う質問が、古代の倫理学の根底になっていたのです。
さらに、「人間らしさ」や「しあわせ」を、どのように計ること
ができるのでしょうか。ここに、倫理学という学問の限界があり
ます。それは、測定できない領域に入るのです。一つのたとえで
これを語ってみましょう。
拷問に掛けられて
周知の通り、二十世紀と言う高い文化水準の時代においても、
拷問が考えられないほど多く行われています。世界中の人権侵害
の問題を調べている団体の調査を読むと、いろいろ考えさせられ
る例があります。
たとえば、ひどい拷問を受けたある女性が次のように語ってい
ます。「私はしゃべらないように一生懸命がんばってきました。
相手はこちらががんばるから疲れてきた様子で、急に言い出した、
『もうそろそろあきらめて、早くしゃべったらどうかだ。夜も遅
いし、おれだって忙しいのだよ。おれは雇われているのだ。今、
女房や子供がおれの帰りを待っているんだぞ』。私はこれを聞い
て不思議に思ったのです。今その言葉を言ったのは、私を非人間
的に拷問している者ですが、彼は家で妻子が待っているという人
間的な点に訴えて、私に早くしゃべらせようとするのは、何と不
思議なことだろうと思ったのです。ところで、拷問する者たちは
交替制だったから、次の三日間はその男は来なかったのですが、
四日目にふたたび彼の番がやってきて、拷問のために部屋に入っ
てきたとき、私は最初に彼に尋ねました。『あなたのお子さんは
お元気』。彼はショックを受けて、言葉がでてきませんでした。
その日彼は、私を拷問できずに帰っていったのです」。
253
この話から分かるように、拷問を加える一人の男の中にも人間
的な面もあり、何が人間的か、何が非人間的かということは、理
屈では語りにくく、科学的に測定できないことでしょう。しかし、
先の話に見られるように、どんな人間にとっても、人間としての
感情で反応できる面があるのではないでしょうか。そういったと
ころに訴えてどんな人間にも通じる形で倫理の探求を続けたいし、
文化を超えた善悪の識別をあきらめたくないのです。
文化を越えた物差し
倫理学においてもっとも誤解を招きやすい言葉は、「自然法」、
「倫理の普遍性」などでしょう。昔から、書かれている「法」に
対して、書かれていないが、どの人間の心にでも刻まれている
「法」とか「理法」のような「物差し」があるのではないかとい
う考え方があります。
確かに、どの法律にも書かれていなくても、児童を拷問するよ
うなことは、人間ならだれでも認めることのできないことと思い
ます(もちろん大人の拷問もいけないことがいうまでもないでし
ょう)。拷問を行ってはいけないという法律を作らなくても、心
の中に刻まれている「物差し」により、だれでも、児童の拷問を
見ると憤慨し、それは不正なことだと断言できるでしょう。
この考え方は、人権に対する自覚という考え方として成熟して
きました。しかしときには、狭い考え方があって、いくつかの規
範の羅列が、いつでもどこでも不変なものでもあるかのようにと
らえられてしまいました。この行き過ぎた考え方は、離婚などに
関する論争の中で使われたのですが、結果として、誤解された
「自然法主義」に対して「反自然法主義」という逆の極端を生み
だすことになったのです。
現代では、特に人権問題についての理解に助けられて、よりバ
ランスのとれた考え方が見られるようになったわけです。結局、
いわゆる「自然道徳律」という考えから何が残るかと問われると、
254
次の二つの点をあげるべきではないかと思います。イ)人間とし
ての責任を持って行動すること、 ハ)自分においても他人にお
いても、人間の尊厳を守ること、ハ)何が人間らしいことか、七
が人間を火人間化するものかということを探し求め、問い続ける
こと。
原則と例外
規範というものは、倫理問題に直面するときの私たちの判断を
助けるもの、照らすものであり、方向付けるものであり、判断や
決断をしないですむためのものではありません。人間はいろいろ
なことを経験して、こういうときにこうして人間として失敗した
とか、しなかったとかいうような反省を積み重ねてきました。そ
の結果徐々に、規範というものが出来上がってきました。そうし
た規範は、後代の人間の行為にとって大いに参考になるものです
が、それを機械的にあてはめるとすべての問題が自動的に解決す
ると考えるのは大間違いでしょう。
そして、判断し、選択していく過程において、規範というもの
は重要な役割をはたします。規範を参考にできるからこそ、私た
ちは毎日毎日ゼロから出発しなくて済むのです。規範は確かに役
に立つものです。そして、過去の人々の智慧を表しているものだ
から、大いに有益なものです。しかしそれは、現在責任を持って
選択すること、また未来に向かって責任を持つことをなくすため
のものではないのです。
この点である倫理学の伝統的な教科書は、あまりにも狭い捉え
方をしていたと言わなければならないのです。規範というものを
機械的に当てはめ、自動販売機のようなボタンを押すと自動的に
結果が出てくるようなものとして捉えてしまっていたのです。
とにかく、抽象的な原則論だけではどうにもならないことを、
私はたびたび強調してきました。そうかといって、私は原則がい
らないとか重要ではないとか言っているのではありません。ただ
原則というものは、より大きなもののためにあるということです。
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言い換えれば、原則の背後に原則より大きなものがあるというこ
とです。ある価値を大切にしたいからこそ、それを守るために原
則が作られたのです。まさに原則が守っているはずのその価値を
大切にしたいからこそ、原則を超えて例外を認めなければならな
いという場合があります。
では、例外について大事なことは、どの例外がその原則の背後
にある価値と相容れないか、どの例外がそれと相容れるかという
ことを区別することです。いいかえれば、例外の中には、善い例
外として認められるべき例外と、それを認めると例外を認めたこ
とだけでなく、原則自体が崩れて、その原則の背後にある価値も
脅かされるというような例外とがあるということです。
「例外」ということばはときどき誤解されます。ある事柄が悪
いことであっても、許可をもらえばその悪いことをしてもよくな
るというふうに理解されてしまって、あたかも例外というものが
悪いことをするための許可でもあるかのようにとらえられてしま
うことがあります。しかし、例外はそういうものではないのです。
たとえば、通り魔をバットでうち倒して子供たちを救うという
正当な防衛の場合、あの行為は人を殺す行為ではなく、人のいの
ちを救う行為だといわなければならないでしょう。決して通り魔
を殺すという悪いことをしてもよいという許可が与えられたので
はなく、それを行うのは決して殺す行為とは言い切れないのです。
原則と例外のかねあいをこのようにとらえられます。
通り魔事件
もうすこしこの具体例を分析してみましょう。町の通りで、ナ
イフを持った通り魔が突然子供たちを次から次ぎへとさしていく
とします。それを見たものは通り魔を押さえなければならないと
思うが、失敗すると自分が殺されるかもしれません。そこで誰か
たまたま手元にあった野球バットでその通り魔をうち倒したとき、
そのためにその通り魔は死んでしまったとします。彼を打ったも
のは自分で自分を守ることのできない子供たちがそれ以上殺され
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ないために、そうした行動に出たのです。この場合、「殺すなか
れ」という掟を打ち出して、通り魔を殺した人を非難するものは
だれもいないでしょう。その人の行為は正当防衛として認められ
るでしょう。これが、「殺すなかれ」という規則に対する当然の
例外と言えましょう。
ところで、次の例を考えて、以上の例と違うかどうか検討して
みましょう。そのような通り魔が殺されないで警察に逮捕されて
から、彼が精神異常者で、ほっておくと、かならず同様の事件を
起こすということがあきらかになったとします。その場合、入院
させるか牢に入れるかして、彼をとにかく社会から隔離しておか
なければならないでしょう。そこで極端な案を出した人がいたと
します。あの通り魔を野放しにしておけば、人を殺すし、閉じこ
めておけば一生みじめだからといっていっそのこと彼を注射して
殺したほうがよいのではないかと言い出した人がいたとします。
いうまでもなくこのようなことは、決して認めるわけにはいかな
いのです。
これはどうして前の例とは違うのです。どちらの場合にも大三
者のいのちを守ろうとしており、それをまもるために通り魔に対
してやむを得ずある処置を取ります。しかし前者の場合、「殺す
なかれ」という原則に例外を認めても、それは正当な防衛であり、
「殺す亡かれ」という原則自体やその原則が守るいのちの価値が
脅かされるわけではないのです。かえってその価値がますます大
切にされるようになります。まさに子供たちのいのちを救うため
に、通り魔をうち倒したのだから。
しかし、第二の例の場合には違います。もしこの第二の例外を
認めてしまうと、その例外を認めただけではなく、原則自体がく
ずれ、また原則が守ろうとする価値自体がくずれ、脅かされるの
です。もし通り魔事件の再発を予防するために通り魔を注射で殺
すことがゆるされるとなると、彼のいのちだけではなく、それを
決定した人自身のいのちも、同じように奪われるかわからないと
いうことになり、同じことをされても文句も言えず、自分の命も
保証されなくなるのです。つまりこれは悪い例外であって、その
例外を認めてしまえば原則自体がくずれることになるのです。
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白黒ではない
ある小学校の先生は「マル.バツ」のテストを用意しました。生
徒たちは答案用紙を前にしてとまどいました。次のような質問で
した。カラスの羽は何色ですか。そして、回答の欄に三つの例が
ありました。イ)白
ロ)黒 ハ)その他。その三つの中から
正しいほうにマルをつけて、正しくないほうにバツを付けるので
す。私たちでしたらもちろん、黒のほうが正解だと思うにちがい
ありません。
ほとんどの生徒たちもそうでしたが、数人の生徒は「その他」
のところにマルを付け、後で先生から聞かれました。「カラスを
みたことがないのか。カラスの羽も体も全部真っ黒いということ
がよくわかっているでしょう」。だのに、どうして<その他>と
答えたのですか」。生徒は賢く答えました。「だってテストなも
んだから、当たり前のことを聞くはずはない。テストって僕たち
を落第させるために作るんでしょう。だから、常識で答えてだめ
じゃない」。
なるほど、あの生徒たちはきっと先生が何か難しい答えを求め
てテストを作ったと考えたらしいのです。だから、難しいほうに
正解があるだろうと考えて<その他>のところにマルを付けたわ
けです。カラスの羽について質問した場合「白か黒か」という質
問に対して黒と答えるしかない。正解はひとつしかない。算数の
多くの場合もそうです。たとえば、5たす3,イコール8。正解
は8だけです。
ところが、倫理の場合は、かならずしもそうではありません。
実はその先生は倫理の担当者でした。テストの狙いは次のようで
した。倫理の問題に直面して白か黒しかないと思いこんでしまう
のは大間違いです。白か黒しかないと考えがちないわゆるフンダ
メンタリスト(原理主張主義)と言いますか、つまり原理絶対主
義者たちはたびたび熱狂的な考え方になりがちです。なかなか冷
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静な議論や落ち着いた対話ができません。例外なしの倫理を強調
しすぎるとその逆の極端を招いてしまいます。
あくまでも疑問を出す
本章の最初から指摘したように、人々は倫理の専門家からいろ
いろな問題に対して出来合いの解答や解決を求めがちです。たと
えば、生命倫理懇談会の出先で技術的な説明する話をしてその後
で臨床やその他の現場での経験をもっている方がながながと話し
ます。その話のなかで「私たちはかれこれの問題で困っています
が」と述べてから、最後に司会者は「では、倫理の立場から解決
を伺いましょう」と言います。そこで倫理担当のものは「いや、
実は私たちも困っていますが、結論はまだ探している途中です」
とかいうと、がっかりする人は少なくありません。私は依然書い
た本の中で疑問形の倫理とばかり主張してきましたが、人間はも
ともと「質問する動物」だと思っております。まだ解答が出来上
がっていない問題に直面するとき、その解答を探しそれをつくり
だしていくのは、倫理専門だけの役割ではなく、私たちみんなの
人間としての課題です。
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