VOL.13 2001.11 三木市国際交流協会

MIKI
INTERNATIONAL
ASSOCIATION
VOL.
13 2001.
11 三木市国際交流協会 姉妹都市親善訪問団が三木へ
15年前に植えた記念樹・大きくなりました。
7月23日から2
5日にかけて、三木市の姉妹都市、米国カリフォルニア州バイ
セリア市から親善訪問団 (10名 ) のみなさんが当市を訪れました。一行は市議会
議員のボム ・ リンクさんとパム ・ リンクさん夫妻、市助役のステイーブ・ソロ
モンさんとキャシイ ・ ソロモンさん夫妻、娘さんのレイチェル・ソロモンさん、団
長で市公共事業部長のラス・ウェバーさん、会社副社長のリチャード・ワトソ
ンさんとマリリン・ワトソンさん夫妻、教諭のビッキー・ブラックミラーさん
とエレン・ダーレンバーグさんと合わせて10人です。
バイセリア市はカリフォルニア州ツラレ郡にある人口約9万人、面積約6
5平
方キロメートルの中核都市です。北のサンフランシスコと南のロスアンゼルス
からほぼ等距離の内陸部にあります。緑に囲まれた美しい町で、綿、ぶどう、
オレンジなどの農産物とこれらの加工工業などで栄えています。
1966年(昭和41
年)に三木市と姉妹都市提携を結びました。両市には人口規模や緑豊かな環境
などの共通点があり、人と人との交流も続いていたことが姉妹都市間交流の
きっかけになりました。以後、主に学生のほか、市長や市民の相互訪問を繰り
返してきましたが、今年が姉妹都市交流3
5周年にあたるため市会議員や助役な
どを中心に団を結成して訪問したものです。 23日は、京都から明石海峡大橋を経て市役所を表敬訪問、文化会館前にある
姉妹都市提携20周年記念樹の前で記念撮影をしたり三木市の概要説明を受けた
りしました。夜は歓迎パーティです。受付には七夕祭りの笹が用意され、
120名
を越える参加者全員がそれぞれの願いを短冊に託して結びました。セレモニー
では、バイセリア市から「Coming Home」の銘がついた鷲の像が贈られました。
パーティでは三木太鼓や伝統大道芸・歌などが繰り広げられ、各テーブルを挟
んで談笑の花が咲きました。
24日は市内見学です。伽耶院、三木震災記念公園建設現場、岡田金属工業所、
三木ホースランドパーク、道の駅みきなどを巡りました。三木市の歴史や現代
の姿を前にたくさんの質問が出ました。最後に森林公園の茶室で茶道を体験し
たり琴の音に耳を傾け日本の伝統文化を満喫しました。
25日は姫路城を訪れました。猛暑の中を天守閣に登るのは大変でしたが、世
界文化遺産の白鷺城のすばらしさに感嘆の様子でした。
26日、訪問団のみなさんは、三木のみなさんとの交流や友好を深めて関西国
際空港から帰国しました。団長のウェバーさんはあいさつの中で「三木は第二
のふるさと」というぐらい親三木派です。そのウェバーさんから訪問団を代表
して礼状が届いています。
なお、この度の受け入れについては三木市と都市親善委員会が中心になって
行ないましたが、当国際交流協会も側面から協力しました。各地の案内やパー
ティの進行などに多くの会員やボランティアのみなさんにお世話いただきまし
た。ありがとうございました。
バイセリア市からのプレゼント・鷲の像“coming home”
左からリンクさん、ウエバーさん、加古市長
歓迎パーティ・友情の笑顔
―1―
国際交流協会ニュース News of MIA
Three days
Three
days in
in Miki
Miki 訪問団のみなさん 訪問団のみなさん 7月24日
(バイセリア市長 ドン・ランダース氏のメッセージ)
I am very pleased and honored to represent the Visalia City Council and
the people of Visalia on this visit to Miki City. I bring with me the
greetings of Mayor Don Landers and my fellow City Council members.
I also bring the wishes of our community for the continued health and
prosperity of the people of Miki City.
私はこの度の貴三木市訪問に際して、バイセリア市議会並びにバイセリア市
民を代表してご挨拶をする機会を得ましたことを大変光栄に感じております。
私はここにドン・ランダース市長と市議会議員の挨拶状を預かっております。
また、バイセリア市民からは三木市のみなさまの末永いご健康とご繁栄を祈
念するメッセージを持参いたしました。
代読(市議会議員リンク氏)させていた
だきます。
通訳ボランティア大活躍
Next year Visalia will celebrate the 150-year anniversary of the founding
of our city. Visalia was established by settlers who traveled west
through the frontier of America in the early 1850's. The State of
California itself had only been in official existence for two years when
Visalia was founded in 1852.
来年 2002 年、当バイセリア市は設立 150 周年を迎えることになります。
バイ
セリア市は 1850 年の初頭、多くの開拓者がアメリカ大陸のフロンティア・開拓
前線を西へ突き抜け移り住み始めてできたものです。
Almost exactly 100 years later, thousands of miles across the Pacific
Ocean, five communities joined together to become Miki City. A few
years after Miki City was founded, a young man from Miki came to
Visalia and observed many similarities between the two cities. In his
view we shared similar size, population, country setting, and other
qualities that reminded him of home. A sister city relationship was soon
established and has endured through many years.
一方ちょうど 100 年後太平洋の対岸数千マイルのご当地では、
五つの地域が
合併して三木市が誕生いたしました。
三木市が生まれて数年後、
三木市出身の
若者がバイセリアを訪れ、この二つの市には多くの共通点があることに気づ
いたのです。彼によると、バイセリア市は面積、人口、位置、などの特性が三木
を想い起こさせるほど似ていました。このことが縁となって、まもなく両市の
間に姉妹都市提携が結ばれ、以来長く続いていることはご承知の通りです。
伽耶院で日本の歴史を
It has taken the foresight of many mayors - Kinumaki, Ohara, Kako,
Ruddell, Porter, Pryor, Carey, and Landers - to preserve the sister city
relationship. It has also taken the tireless dedication of individuals such
as Mr. Hideo Muraoka, Mr. Tetsuji Okada, Mr. Tamotsu Okada, Mr.
Shiro Tanaka, Mr. Ray Schlick, and Mr. Russell Webber.
この姉妹都市関係が長く続いているのは、三木市の衣巻市長、大原市長、加古
市長、そしてバイセリア市のラデル市長、ポーター市長、プライアー市長、カ
リィー市長、ランダース市長など多くの方の先見の明によるところが大きいと
考えます。
また、個人レベルでは村岡秀雄様、岡田哲治様、岡田 保様、田中視
朗様、
レイ・シュリック様、
ラッセル・ウェバー様などの献身的な貢献によるとこ
ろも見逃せません。
As we look back across 35 years of relationship between Miki City and
Visalia there are many interesting things to note.
三木市とバイセリア市の 35 年にわたる親善関係を振り返ってみますと、記念
すべき多くのことがらがあります。
The relationship between the two cities is proof that two cities can
come together and learn about our differences and our similarities. We
can share aspects of our culture with one another and learn to
appreciate the values that we each hold dear.
両市の関係は両市が結びつくことができ、またお互いの相違点と共通点を認
め合えることを証明しています。私たちはお互いの生活習慣や文化を分かち
合い、
互いが大切に持っている価値観を学び合うことができます。
岡田金属工業所でハイテクを
“ Oh, mysterious ! ”
三木山森林公園でお茶席のあと伝統の琴を
Though our languages and our customs may be different, many of our
core beliefs are quite similar. We value one another as individuals. We
are proud of our heritage. We have strong feelings for our families and
hope that our children will grow up to be people of good character and
that they will contribute to the betterment of our communities. We want
to care for our neighborhoods, our cities, our countries, and the planet
that we share.
ことばや習慣は違いますが、核となる生活信条は全く同じです。
私たちはお互
いをひとりの人格として認め合うとともに、お互いが受け継いでいる遺産にも
誇りがあります。
私たちは家族への愛情を大切にし、子どもたちが大きく成長
して私たちのコミュ二ティ社会をより良くすため努めてくれることを期待して
います。私たちは私たちが分け合って住んでいる隣近所、町、国、そしてこの地
球をこよなく愛しています。
We are honored by your gracious reception. The generosity and
kindness of the people of Miki City is well known in Visalia. We hope
that our visit is a sign that our sister city relationship will continue for
many more years. Thank you again for your hospitality.
わたしたちは三木市のみなさまの温かいおもてなしをありがたく光栄に感じ
ています。バイセリア市では、三木市のみなさまの寛容と親切があまねく知ら
れています。私たちはこのたびの三木市訪問が両市の友好親善関係がさらに
後々までも続くきっかけになることを願っています。改めてご親切に対しここ
ろから感謝申し上げます。
ありがとうございました。
―2―
国際交流協会ニュース News of MIA
こども英会話
8月3日4日
8月3日4日の両日、森林公園において夏休み恒例の「こ
ども英会話」を行ないました。参加したのは小学生を中心に
23名です。このプログラムは協会会員の河越恭子さん、新田
俊子さん、藤井 薫さんの3名で計画されたものです。
「英語
との楽しい出会い」と「外国の人々との交流」を主な目標にし
て2日間のプロセスを設定しました。ボランティアとして奥さ
ん、竹内さん、板東さんの3名、外国人ゲストとしてアメリカの
ヤコブ・ト−マスさんとマイラ・バズウェルさん、中国のリャオ・
ホジョさん、
フィリピンのリア・パルスラムさんとツリナ・リスタ
ンゴさんの5名の協力を得て楽しい活動が展開されました。
一日目は「友だちと挨拶し仲良くなる」を目標に「じゃんけ
ん陣取りゲーム」、「名前を覚える」を目標に「ジェスチャ−
ゲーム」
、
「物を受け渡しするときの表現を覚える」を目標に
「お手玉投げゲーム」など言語と動作を結びつけた活動を繰
り広げました。
クーラーの効いた室内でしたが、汗と笑顔の時
間でした。
二日目は外国人ゲストとの出会いです。前日に仕上げてい
たそれぞれのゲストの似顔絵をプレゼントした後、覚えたて
の英語で自己紹介やゲームをし、お互いが親しくなりました。
この日の目標は「寸劇を創り練習の後、発表する」です。
3つ
のグループに分かれて、
「桃太郎」
「赤頭巾ちゃん」
「大きなか
ぶ」
に取り組みました。
簡単な舞台の置物や衣装などを紙やテープを使って作った後、
せりふや動作を練習して発表にこぎつけました。
ボランティア、
ゲストとこどもが力を合わせた寸劇は失敗もありましたが、笑
いも誘いながらの熱演でした。小学生もやがて学校で英語と
出会いますが、このプログラムはこどもたちの英語への興味
関心を引き起こしたのではないかと感じました。
別所中学校
8月28日29日
8月28日、
29日の両日、市立別所中学校の英語サマーキャ
ンプが三木ホースランドパーク研修室で開催され2
1名の同
校3年生が参加しました。この1泊2日のキャンプは昨年
に続いて行なわれたものです。同校の大西教諭と富本教諭
が外国人ゲスト(イギリスやアメリカからの ALT・外国人
英語指導助手)の協力を得てプログラムを進めました。こ
の期間中の唯一の約束事は「英語をしゃべりましょう。日
本語は使えません。
(Speak English. No Japanese.)」です。
オープニングセレモニーの後、生徒はけん玉あそびや折
り紙など日本の文化を紹介しました。また、ALT のゲスト
は母国の国旗や食べ物の説明などをしてお互いが知り合う
きっかけを作りました。夕食のあとは翌日のドラマ作りの
相談です。二日目のメインはドラマの発表です。グループ
別に取り組んだ「赤ずきん」[ 三匹の子ブタ ]「桃太郎」
「シ
ンデレラ」
などの発表をしました。それぞれ紙や布でつくっ
た衣装や簡易セットを使っての熱演でした。せりふが思う
ように出てこなかったり、動作を間違えたりすることもあ
りましたが、全員が協力して、笑いを誘いながらの発表で
した。途中でうっかり日本語を使うとイエローカードが渡
されますが、なんとか2日間を英語だけで過ごせたようで
す。
以前から、使える英語をという声があり、学校でも授業
モデルの開発が試みられています。この意味で効果的な
キャンプでした。
―3―
国際交流協会ニュース News of MIA
三木市教育委員会では4名の ALT( 外国人英語指導助手 ) を採用し
Introduction of New ALTs て市内の中学校に配置しています。本年度は3名の ALT が新しく赴任
しましたので会員のみなさんに紹介いたします。就任2年目を迎えた
アメリカ・イギリスから“こんにちは” ビッキイ先生同様よろしくお願いいたします。
キャラ ・ マリー・フォルラー先生
(Cara Marie Forrler)
「キャラです。アメリカ ・ イリノイ州のジャクソンビルからきました。地元の学校を
終えてマサチューセッツ州・ボストン市のボストン大学を卒業しました。後にオレゴ
ン州のユージンにあるオレゴン大学で日本学(歴史・文芸・日本語)を専攻して修士
を取りました。日本へは英語教育を通して皆さんとの相互理解を深めるかたわら、日
本のことをもっと知りたいという思いで来ました。
三木中学校と星陽中学校で教えています。生徒は熱心で元気です。ちょうど体育祭が
あり、練習の中で互いに協力しているのを見て感心しています。日本人として生き方
の基本が作られているように思います。先生方は何事にも熱心で親切です。放課後ま
で生徒と関わって指導される姿はアメリカでは見られないように思います。部活動で
は書道部に入って生徒と一緒に練習します。交流協会の事業にも参加したいと考えて
います。よろしく。」
ヒュ−・エドワード・オーエン先生(Huw Edward Owen)
「ヒュ−です。イギリスからきました。シェイクスピアの生誕地ストラトフォードという町
で小・中・高等学校を終えた後、
ランカスター大学を卒業しました。
大学ではインデペン
デント・スタディ、つまり、メディアの問題やユーロの政治政策論を勉強しました。日本に
限らず世界の各地を訪れて人々の生活を知りたいと思っていました。日本で英語の先生
を募集していることを知り応募しました。三木は美しく、やさしい人々が多いように思い
ます。三木東中学校と別所中学校で教えています。先生方は親切で協力して授業を進め
ます。多くの生徒はまじめで懸命に学習します。しかし、授業中居眠りしている生徒がい
ました。
先生が注意しますが、イギリスなら外へ出されてしまいます。
もっとも、運動会の
練習が続いてくたびれていたのでしょうが 、、、。三木太鼓の練習を見せてもらいました。
勇壮なドラムの音はすばらしいです。自分でも練習したい位です。私はイギリスの伝統ス
ポーツ、ラグビーが好きです。残念ながら、三木市の学校にはラグビークラブがありませ
ん。生徒はもちろん三木の人々と友だちになれるよう市や国際交流協会の行事に参加
します。
よろしくお願いします。
」
ゼナス ・ セイジ・イケダ先生(Zenas Seiji Ikeda )
「セイジです。
アメリカ・ケンタッキィ州のマンハッタン市(人口5、
5万人)が故郷です。
祖父が鹿児島出身の日本人で、私は日系3世のジャパニーズアメリカンです。祖父の国
日本が見たくてやってきました。
カンサス・シティイ大学でグラフィック・デザインを専攻
しました。コンピュータを駆使してホームページを作成するなどの概念や技能を勉強し
ました。学生時代にはスペイン語も学んでいたので、メキシコの小学校で教えた経験が
あります。
また、
ロウイング(ボート)をスポーツとしてやっていました。加古川によいボー
トコースがあり、たくさんの人々が練習しているのをみてびっくりしました。
今、自由が丘
中学校と三木養護学校で教えています。自由が丘中学校は大きな学校です。先生たち
は最新の指導法を研究して実践しています。
この学校で教えることができるのは大変な
名誉です。三木養護学校もよく整備された学校です。アメリカにも養護学校があります
が、それに劣らずすばらしい学校です。
学校で教えながら空手道場に通ったり、日本の
美術を勉強したりするつもりです。
みなさんどうぞよろしく。」
お
お礼とお願い
礼とお願い
当協会は約350名の個人会員と40の団体会員に参加いただいおり、それぞれ毎年会費をいた
だいています。そのお陰で事業の進展が図られてきました。ありがとうございます。この広
報誌 MIA で紹介していますように年間を通して事業を行なっていますので、できる限りご参
加ください。また、参加された事業については、忌憚のないご意見を寄せてください。創立
5周年を越えた協会の事業をみなさまの協力を得て充実したいと考えています。 ★三木市ホームページ http://www.city.miki.hyogo.jp に「MIA Events and Meetings」を載せています。ご覧下さい。
―4―
創立 5 周年記念講演「第二のふるさと…日本」
マーガレット・長谷川 氏 5月19日
マーガレットさんはスイスに生まれ日本人のご主人と結婚して
現在神戸に住んでいます。3人の男の子を育てていますが、こ
の間、多くの人々との交流を通してすっかり日本の生活に溶け込
んできたといわれます。スイス人の目から見た日本を語ってもら
いました。
こんにちは。マーガレットと申します。私の日本語はじょうずで
はありません。
標準語をと思っても関西風になったり、ていねい過
ぎたり、乱暴過ぎたり、いつも主人に笑われています。それに3人
の男の子を育てているので男っぽい言い方かもしれません。
今日のテーマは外国人が日本人と結婚して日本の社会にどの
ように溶け込んできたかということです。
私は主人とスイスで会いました。初めて結婚相手として紹介し
た時、両親はうれしくなかったです。
親戚や友人も「うーん、どう
かな。」という感じでした。
「日本は遠い国だよ。
特に女性が差別さ
れているかも知れないよ。
」と心配そうにいいました。それで私は
日本へ行って日本語の勉強をすることにしました。
24年前に初め
て日本に来た時、今までのスイスでの生活環境と全く違うことに
気づきました。周りは黒い髪と黒い瞳の人ばかりでした。文字は読
めなくことばも全く分かりません。雪がちらほらする寒い日でし
たが、部屋の中はガスストーブひとつしかありませんでした。ス
トーブをつけると「ボワッ」と音がして爆発するのではと怖かった
です。セーターもなかったので慌てて買いました。ふとんで寝て
も首筋が寒くてたまりません。
帽子をかぶり、マフラーを首に巻い
て服のまま寝ました。椅子やテーブルを買い少しずつ生活に慣れ
ていきました。
食事に招待された事があります。日本人の奥さんがたくさんご
馳走を作ってくれました。
ところが、お箸の使い方が分からないの
で食べたくても食べられません。お腹はグゥグゥいうし、周りから
は失礼だから食べなさいといわれるし困りました。それでも、やっ
と食事を終えると今度はデザートでした。甘い甘いぜんざいでし
た。このように食べ物もずいぶん違いました。アパートで寝ている
と外から「ザアーザアー」と音が聞こえてきます。
見てみると、たく
さんの人がサンダルや下駄を引きずって歩いているのでした。銭
湯へ行く人が、洗面器に石鹸やタオルを入れて歩いていました。
近くに市場もあったので荷物の出し入れもしていました。ラーメ
ンの屋台車からはチャルメラの音も聞こえてきます。いつも何か
しらザワザワしていました。匂いも違いました。焼き鳥、そばやう
どん、焼肉すべての匂いがエキゾチックでした。東京の歌舞伎座
へ行った時、お昼になり、そば屋へ入りました。
「ズルズルズルル」
という音がするので「ネヱ、うるさいわね。
」というと友人が「そん
なことないよ。
」といいました。彼女は慣れているので気にならな
かったのです。そういえば、主人がスイスの実家に来た時も音を
立てて食べていました。
「あなたのボーイフレンド行儀悪いね。」と
妹に言われたことがあります。これも習慣の違いです。日本での
生活はややこしいです。
玄関で靴を脱いでスリッパを履きます。
2、
3歩で洗面所へ入ると別のスリッパを履きます。たいていお客さ
んのスリッパは元の位置に戻りません。
人と自然との関わり方も大きく違います。スイスの冬は関西よ
りも長いです。雪が降らなくてもお天気の悪い日が続きます。時々
お天気が良くても地面は凍ったままです。ですから花はほとんど
咲きません。
これに比べると日本、特に関西の寒さは厳しくありま
せん。秋には甘い香りの金木犀、お正月が過ぎると梅の香りが漂
います。日本はいいなと思いました。スイスではお天気になると外
へ出て食事をしたり散歩したりして、できるだけお日様に当たりま
す。
しかし、日本ではすぐに日傘を差してお出かけです。
最初、私
はもったいないなあと思いました。でも、今ではソバカスが気に
なって日傘を使うようになりました。夏はスイスでも暑いときがあ
りますが、夜は冷えます。
湿気も低いです。
日本の夏は厳しいです
ね。湿気も高いので虫や蛇が出ます。初めてゴキブリを見たとき
は怖くて夜も眠れませんでした。
夜、ふと目覚めました。
何かが顔
の上を歩いたような気がしたのです。電気をつけるとムカデが
はっていました。必死で叩きました。ムカデの命は残りませんでし
た。主人にいうと捕まえて外へほかすだけなのでいいませんでし
た。
日本の梅雨はすごいですね。国中が温室になったようなもので
す。スイスでは春に花を植えて夏の楽しみにしますが、日本では
秋に植えた花が春に咲きます。
スイスでは環境を大切に守ります。
法律も大変厳しいです。
守らないと罰金ですが、あたりまえのこと
です。日本の駅でも禁煙になっています。いつも放送で禁煙を呼
びかけているのに吸っている人がいます。携帯電話も車内では遠
慮してくださいと放送していますが 、 平気でしゃべっている人が
います。
誰も注意しません。
スイスなら必ず誰かが注意します。
建て前の意味が分かりませんでした。私の国ではいつも本音で
いわないと嘘つきになります。
例えば、長男が幼稚園に入ったとき、
あるお母さんが「家に遊びに来てね。
お茶でもどうぞ。
」といって
くれました。
「ああ、親切なんだな。」と思いました。
しかし、後でそ
れがほんのあいさつ代わりのことばであったことに気づかされま
した。
今でも時々、建て前かな本音かなと悩んだ末に、念のために
「それは本音ですか。建て前ですか。」と訊ねることがあります。
私
のドイツ語のクラスでこのことを話題にすると「日本人全てがそ
うではないよ。
」
という意見が多かったので少し安心しました。
レストランのサービスはすばらしいですね。
お茶に水、お絞りま
で出してくれます。スイスではないことです。水もお金を出さない
と出てきません。メニューもフランス語やイタリア語で書いてある
ので分かりにくいです。たいていの日本人観光客は困った挙句に
ピザやスパゲッティを注文します。そうでないと何が出てくるか
分からないからです。
長男が幼児の頃、町へ連れて出ると多くの人が声を掛けてくれ
ました。
「やあ、かわいい。」
と触ったり抱いたり、写真を撮ったり、お
菓子をくれたりしました。
結構喜んでいましたが、やがて嫌がるよ
うになりました。
幼稚園では友だちに「金髪。外人。」と騒がれたの
で、腹を立てて石をぶつけました。たんこぶができたので先生が
病院でレントゲンを撮らせました。幸い異常はありませんでした
が、電話が掛かって来ました。そして、
「悪いけどお見舞いに行って
謝ってね。
」です。
「相手が人の嫌がることをいったので、やり返し
ただけなのに、
、、。なんで謝らないといけないの。
」と思ったけれ
ど、母親の私がお見舞いに行きました。本人には謝らせませんで
した。私は結構厳しい母でした。戸外でもお尻ペンペンをしたこ
ともあります。それを見ていたお母さんが、「いやあ、かわいそ
う。」といっているのが聞こえましたが気にしませんでした。長男
はよく「どうしてうちは変わっているの。
よその家はこうだよ。」と
聞きましが、私は子育ての方針を変えませんでした。
例えば、遠足
のとき先生から「少しでもいいからおやつを持たせてあげてね。
」
といわれました。私は自分の子どもの頃と同じようにドライフ
ルーツと胡桃を持たせてやるだけでした。先生は自分のおやつを
分けて食べさせてくれたのです。でも、私は子どもに甘いものを
食べさせたくなかったのです。
その長男が今はスイスで勉強しています。もう3年になります
が、始めて会いに行ったとき、彼はいいました。
「お母さんは厳し
かったけれど今はいろいろ役に立っています。厳しくされていな
かったら僕はがまんのできない大人になっていたと思います。
」と
いってくれました。その時は「本当に良かった。間違ってなかっ
た。」と嬉しかったです。
3番目の息子には今までのようなエネル
ギーが出せません。若いときはすごい力が出るものです。
今では日本語にも慣れてきましたし友だちもたくさんできまし
た。8年ぶりにスイスへ里帰りをしました。子どもたちに私の故郷
を見せるためでした。
しかし、久しぶりにスイスで生活すると私が
逆カルチュアショックを受けました。妹は気兼ねなしにズケズケ
ものをいいます。本音でしゃべる妹に付いていけませんでした。妹
は私の髪を見て「何よ、この椎茸アタマは。
」です。
「髪を短くした
のは事実だけれど、こんなにはっきりいわれたくないわ。
」という
感じでした。日本はあんなだとかこんなだと批判的なことを書い
てスイスへ手紙を出した私ですが、私の考えや行動も日本流に
なっていたのです。私は日本人の我慢強さに感心しています。ど
こに行っても人が多いのに、ちゃんと列を作って待っています。ス
イス人は違います。銀行でたった二人並んでいました。前にいた
私が「お先にどうぞ。
」と急いでいる様子の後ろの人にいうと、カ
ウンターの行員が怒って「私には手は二つしかないのよ。
」と厳し
―5―
5時47分には目覚めていました。主人は姫路の会社寮でしたから
いません。
最初の揺れのとき、
「ぎゃ−」と叫んでふとんに潜りこみ
ました。すると、間髪をいれずに何かが落ちてきました。本棚でし
た。幸い棚と棚との間に頭が挟まり、かえって保護される形になり
ました。音が収まっても真っ暗ですから何がなんだかわかりませ
ん。子どもが気になって子ども部屋を開けようとしましたがだめ
でした。しかし、二段ベッドに寝ていた子どもは助かりました。長
男も運がよかった。朝早く起きて電気をつけていたからすぐ飛び
出していました。後で見ると洋服ダンスの上から大きなスピ ー
カーが蒲団に突っ込んでいました。スピーカーは畳まで食い込ん
で穴が開いていました。外は明るくなってきましたが空が赤くなっ
てきました。火事があちこちで起こっていたのです。その日は晴
れだったそうですが、あたりがだんだん黒い煙に覆われてきまし
た。結局その日は太陽を見ることがありませんでした。
あの瞬間、何もかも変わりました。
主人も私も仕事を失いました。
でも、主人の両親も家族も全員命は助かりました。日本人は災難
に出会ってもすぐに立ち上がりますね。私は呆然として何もでき
なかったのに、
、。彼等は涙を呑んで懸命に働いていました。勇ま
しいなと思いました。日本人は昔から自然と戦ってきました。火山
の噴火、火災、地震、台風、洪水などの被害が多いので、家もせい
ぜい25年単位で建て替えます。自然が人間より強いことを知って
いるのです。日本の人の生き方に感動しました。私が日本で暮ら
して分かったことは、私たちは皆同じ人間だということです。生活
の仕方は国によって違っても心は同じです。
喜び、悲しみ、痛みが
あります。今日みなさんの前でお話することになったので大変心
配していました。
でも、今は「やったあ。
」
という気分です。
スイス人
の私の気持ちを少しでも分かっていただけたら満足です。ありが
とうございました。
い顔をしていいました。
「すいません。そんなつもりではないので
すが。
」と謝りました。気が短いですね。
でも、私が日本人になった
のかなと可笑しくなりました。スイスの人たちに日本人の我慢強
さやストレスのなかで懸命に働いている姿を見せたいです。今で
は、スイス人はのんびりと暮らし過ぎだとさえ思うようになりまし
た。 子どもが小さいとき感じたことですが、日本ではお母さんは
100パーセント、
いや1
5
0パーセントのお母さんになるのね。
みんな
本当に子どものために生きています。自分の趣味やしたいことを
止めて、全ての時間を子どものために使っています。私にはこん
な考えはなかったからとても苦しかったです。
ある時、私は子ども
が嫌いになりました。どうして子どものために自分の人生を諦め
ねばならないのかと思いました。
スイスでは、ベビーシッターとか
友人に頼んで夫婦で コンサートや遊びに出かけます。日本でも
今の若い人たちはちょっと違うかもしれませんが、私の年代では
そうでした。
しかし、子育ての終わった今では主人より私の方が出
かけることが多いです。
コンサート、友だちとの会食、スイスクラ
ブの役員会などです。
小さいとき、学校で日本のことを勉強しました。
「日本には火山
が多く、地震もしょっちゅう起こります。だから家は軽く作ってあ
る。」ということでした。
日本の人は「三匹の子豚」にでてくる藁の
家に住んでいる感じでした。そんな国には絶対住みたくないと
思っていました。そこで、主人と知り合ったときこのことが本当か
聞いてみました。主人は「うーん、でも神戸は大丈夫だ。
地震は関
東に起こる。
心配するなってえ、
、、。」ということでした。
ところが、
1995年1月17日の阪神大震災です。こんなことなら日本に来るの
ではなかったと後悔しましたが手遅れでした。当時、私は保育園
に勤めていて、翌日新聞記者のインタビューを受けることになっ
ていました。いつもより早い目に目覚ましをセットしていたので、
国際理解講座シリーズ
第1回
「日本とペルー」
上田ベルタ 氏
上田ベルタ 氏
6月16日
ベルタさんはペルー生まれ、ペルー育ちです。結婚して三
第2回
木に住んでいます。ペルーは遠い国です。その国について話
していただきました。また、ご主人には自作のスライドを見
せていただきました。
私はペルー生まれ、首都リマ育ちです。日本人の主人とはリマで出
会い結婚しました。今は日本、しかも三木に住んでいます。家庭の
主婦であり、二人の子どもの母でもあります。日本に来たときは日
本語が分からず苦労しました。でも、いちばんびっくりしたことは
安全な国だということです。テレビや新聞ではいろいろな事件が報
道されますが、私から見るとこんなに安全な国はありません。
さて、ペルーはどんな国かまとめて話します。国は南米の西海岸
に沿って広がっており、面積は128.
5平方キロメートルで日本の約
33
. 倍です。人口は2500万人、日本の5分の1程度です。気候は地
域によって大きく違います。北部は赤道に近くとても暑いです。雨
もたくさん降りますから、ジャングルがあります。中部の山岳地帯
はそれほど暑くはなくて、冬の寒さは日本と同じくらいです。海岸
部はほとんど砂漠といってもいいくらいです。ですから、ペルーは
コスタ ( 海岸地帯 )、シェラ(山岳地帯)、セルバ(ジャングル地
帯)で構成されているといえます。
日本とペルーとの関わりで興味ある説があります。縄文時代の末
期(3000∼3500年前)、日本では火山の大爆発がありました。食べ
られなくなった縄文人の一部の人たちは丸木舟で南へと脱出しま
すが、途中の赤道南で南米に向かっている海流に乗って南米の西海
岸にたどりついたという説です。事実、縄文人が残したといわれる
土器がヱクワドルなどで出土しています。南米の文明は紀元前1000
年から1500年ごろに発生し、12世紀頃からはインカ帝国が誕生し
栄えていたといいます。今も残っている数々のアンデス文明の遺跡
から想像するとメソポタミアやエジプトの古代文明にも劣らない
文明が拓けていたと思われます。
ところが、約500年前 (1520年 )、スペイン国王の許可を得たピサ
ロが180人の部下を引き連れてコロンビア、チリに続いてペルーに
上陸しました。彼等はわずかの人数で第15代インカ皇帝とその一族
を騙したうえ、皆殺しにして金や銀などの財宝を奪い去ったのです。
ヨーロッパはこの財宝を元に産業革命に繋ぐことができたといい
ます。
ペルーが独立したのは1820年です。サンマルティノ将軍のもとに
スペインからの独立を勝ち取りました。最近まで軍事政権が続いて
いましたが、今は大統領制の議会民主主義国です。
ペルーの有名な動物はアルパカとビクー二ァです。アルパカの毛
糸で織ったセーターなどはご存知と思います。このアルパカが住む
山岳地帯にクスコという古い町があります。ここは昔の首都でした。
世界中から観光客が訪れます。また、すぐ近くにマチュピチュの遺
跡があります。
1911年にアメリカの歴史学者が発見したときには
180体のミイラが横たわっていたということです。砂漠の中にある
ナスカには不思議なものがあります。飛行機から見ると分かるので
すが、広い範囲に線描画が描かれています。何時、誰が、何のため
に描いたのか、今もなぞです。民族音楽のフォークローレや踊りの
マリレラも伝統的なものです。
あいさつは握手で交わします、少し親しい間柄では頬にキスを交
わします。もちろん肉親同士でもキスと抱擁をします。私が遠い国、
日本へ発つときも、両親がキスと抱擁で送ってくれました。
食事ですが、昼がメインデッシュでしっかりと食べます。スープ、
ご飯、おかずが定番です。午後は2時間程度休んで5時ごろにおや
つを食べます。8時ごろに軽く夕食をとって一日の終わりです。市
場で生きた鶏などを買い、各家庭で捌きます。じゃがいもやさつま
いもなどの芋類や果物そして魚が豊富です。この国では昼にもラッ
シュアワーがあります。各自が家でお昼をとり、昼寝をするためで
す。
国民の90パーセント以上がクリスチャン(カトリック)ですから、
教会での礼拝や 洗礼を受けるなどの宗教との関わりは深いです。
また、男性は18歳で、女性は15歳で成人となります。成人式ではプ
レゼントをたくさんもらい夜遅くまで踊ります。ありがとうござい
ました。
―6―
国際理解講座シリーズ
第2回
「日本とカナダ」
田中 純一 氏
田中 純一 氏
7月8日
田中純一さんは別所中学校の教頭先生です。3年間カナダ
のトロント市日本人補習学校に勤めていました。補習校とカ
ナダの人々の生活について語っていただきました。手持ちの
コンピュータにデータがたくさん入っていて、話は尽きない
様子でした。
め、豆まき、お神輿、和太鼓などです。修学旅行もします。
トロントでの私生活について話します。現地で住むというの
は観光と違って気苦労の多いものです。例えば、家を借りて住
み始めのころは、本当に戸惑いました。電気、電話、TV、水
道、ガス等、すべて契約をするところから始まります。特に、
電話を通じての交渉が大変でした。私のことばが充分でないこ
とが最大要因ですが、こちらが明らかにネイティブスピーカー
ではないと分かるはずなのに、ゆっくり話すなどの配慮はして
くれません。こちらも仕方なしに分かった振りして、つい何で
も相槌のつもりで「YES」といってしまいます。すると後ほど、と
んでもない額の請求書が届くという笑うに笑えない事態に陥り
ます。請求書については、ある時マイナス額の請求書がきたこ
とがありました。
「請求額 ―○○ドル」となっていました。何
のことなのかさっぱり理解できずほっておくと、次にマイナス
額が減った請求書がやってきました。つまり、すでに多くを支
払っている金額の範囲なので請求額がプラスになるまで支払わ
なくてもよいという意味でした。それにしても、どこで多くを
払い過ぎたのか今だに分かりません。レストランを利用して気
が付いたのですが、若い人の姿がまずないのです。まさしく大
人たちの独壇場です。若者たちはというとジャンクフード、つ
まり軽食やドリンクを買って、街のあちこちにあるフードコー
トと呼ばれるところで食事をしています。高級 ( ? ) レ
ストランでも若者のカップルなどでいっぱいの日本との違いを
強く感じました。
犬についてですが、一般に犬のしつけがしっかりできている
と思いました。いまだに犬が怖い私ですが、カナダでは安心で
きました。大きい犬でも放してあるのですが、決して噛み付い
たり吠えたりしません。また、路上で犬同士が出くわしても決
して喧嘩になりません。人も犬もルールを守ってトラブル少な
く生活している感じでした。こんなところからもこの国の考え
方が見えてきます。
体の不自由な人たちにも細やかな配慮がされています。例え
ば、足の不自由なおばあさんがバスを待っていました。やって
きたバスは、扉のある右側のサスペンションの空気を抜きます。
すると段差がなくなっておばあさんは楽々と乗ることができま
す。また、ハンディキャップを持つ人専用の公営小型バスが頻
繁に運行されています。宗教(キリスト教)が深く生活に関わっ
ていることもこのようなカナダ社会を作っているのかも知れせ
ん。日本は比較的秩序のある安全な国でしたが、最近は想像も
しなかった事件が頻発し、モラルの低下が著しくなっています。
カナダから大いに学ばねばと思いました。
カナダは移民の国です。とくに、トロントには100ヶ国以上の
言語が話され、それらの人々が住んでいます。公用語は英語と
フランス語ですから、あらゆる商品や文書にはふたつの言語が
記されています。しかも、人種の坩堝(るつぼ)といわれるア
メリカと違って、それぞれの民族がそれぞれの文化を尊重しな
がらコミュニティを形成して住んでいます。ただ、唯一例外な
のは日本人です。どういうわけか、みんなばらばらに分かれて
住んでいます。面白い現象です。その代わり日系文化会館を持っ
ており、日系人の憩いの場として、また広くカナディアンとの
交流の場として利用しています。トロント市立図書館をよく利
用してびっくりしました。英語やフランス語だけでなく、日本
語や中国語などの本がコーナー別に並んでいました。それも、
かなり多くの本が図書分類別に並べられていました。これらも
カナダ政府の施策のひとつ、マルチカルチャリズムの成果で
しょう。
カナダで生活し、体験したことで多くのことを学び、考えさ
せられました。よく 21 世紀はグローバルな世界といわれますが、
すでにトロントでは先進的な実験が繰り広げられています。自
然の美しさだけのカナダだけでなく、この地球号の行く末を示
してくれるカナダの懐の深さに、今改めて感動しています。あ
りがとうございました。
私はカナダに3年間住んでいました。もちろん、遊びではなく
仕事でです。カナダは、面積 1000 万平方キロメートル、人口
3000 万人の国。そのなかでもカナダ経済の中心地、大都市ト
ロントに住んでいました。
仕事の内容は、海外在住日本人子女のための教育です。その
ための学校としては、いわゆる「日本人学校」がありますが、
もうひとつ「補習授業校」というのがあります。私はその補習
授業校のひとつである「トロント補習授業校」の校長として文
部科学省(旧文部省)から派遣されました。この補習授業校は、同
市で事業を展開している日系企業約1
50社で構成されている 「
トロント商工会 」 が運営しています。補習授業校の目的は、日
本人子女のために日本語による日本の教育を行なうことにあり
ます。日本人の子どもたちは、ウイークディは現地の公立校で
勉強します。もちろん、英語で生活し、英語を通して勉強する
ということです。そして、土曜日に補習授業校へ通ってくるの
です。補習授業校では、終日、日本語で、日本の検定教科書を
使って勉強します。カナダに住んでいると、子どもたちの多く
は英語が流暢になりますが、反面、日本語や日本の文化伝統に
触れる機会が少ないのです。この状況を補うことが補習授業校
の使命となります。保護者の心配も、やがて子どもたちが日本
に帰国したときに、日本の学校や社会にスムーズに溶け込める
かということですから………。
補習授業校の教員(約40名)は現地で採用します。普段は主
婦や会社員をしていて土曜日だけ勤務します。みなさん英語は
達者 ( ? ) です。したがって、顔は日本人ですが、思考は西欧
合理主義のカナダ人です。非常に日本的な発想で何かものを頼
むと「いくらペイしてくれますか。」と迫られたのには最初は戸
惑いました。しかし、これがカナダの文化なのだと割り切らざ
るを得ません。日本流の情やサービス精神に頼ることは許され
ません。これこそがまさしく異文化理解 ( 国際理解 ) です。慣
れるとかえってさばさばしたものを感じるから不思議です。
学校の話をします。教室を回って授業の様子を見ました。す
ると、いわゆる日本の学校の授業風景とずいぶん違うのに戸惑
いました。自由はいいのですが、勉強をするという雰囲気では
ありません。もちろん、日本でも先生が教壇の上から威儀を正
して教え、子どもも襟を正して聞くという風景はもうはやりま
せんが、それでもこれは問題だと感じました。そこで、先生方
には授業ではただ教えるだけでなく勉強の雰囲気づくりも欠か
せない要素であると伝えました。ごくあたり前のことをお願い
したつもりでしたが、すぐに「管理主義的だ。」とのお叱りを受
けました。
日本での今の教育の在り様を伝えるのに苦労しました。
先程自由ということをいいましたが、現地校の様子を通して
自由の意味を考えてみたいと思います。現地校では、子どもた
ちは午前、昼、午後の3回の休み時間には外で遊ぶことになって
います。というよりも、全員校舎内から放り出されます。その
間、先生たちは室内で休憩となります。日本ではとうてい考え
られないことですが、保護者も社会もこれを認めています。何
事においても学校の責任と義務の範囲がはっきりしています。
それは、反面、子どもたちや保護者の責任と義務の範囲も明確
であるということです。これは、学校だけに限ったことでは当
然ありません。従って、学校では、人に迷惑をかけないで、授
業に参加して勉強することがベースになります。だから、授業
中に飲み物を飲んでいてもそれが先ほどの範疇であれば問題な
いのです。ただし、逸脱した場合の罰則もはっきりしているの
は当然のことです。自由の意味の中には「責任と義務」という
ものが明確に存在しているのです。
トロント補習授業校へは幼稚園から高校までの子どもたち約
400名が通っています。校舎はマクマリック・パブリックスクー
ルという公立校を借りています。普通の授業 ( 国・社・数・理
) のほかに日本の伝統行事や文化について体験させることも大
切にしています。七夕まつり、ゆかたの着付け、凧揚げ、書初
―7―
行事案内 MEETINGS & EVENTS
平成13年度事業予定
日
時 間
場 所
事 業
11・1(木)
MIA Vol.13 発行
11・3、4
全日
市 役 所 周 辺
金物まつり 国際バザール
11・17
(土)
全日
市
三木ボランティア・フェスタ(PHD 協会・エンゼル協会・その他)
12・1(土)
16:00
12・9(日)
午後
12・12
(水)
駐
車
場
みっきぃホール
クリスマスパーティ IN MIKI
文
三木第九合唱コンサート(外国人参加案内)
化
会
館
402 生活ガイド改訂委員会
12・15
(土)
10:00
青 山 公 民 館
国際料理教室「ペルーの家庭料理」上田ベルタ氏
1・13
(日)
13:00
教 育 セ ン タ ー
第4回国際理解講座「日本の古典と中国」阪本 信子氏
2・17
(日)
13:00
教 育 セ ン タ ー
第5回国際理解講座「英語落語」HOE
3・1(金)
MIA Vol.14 発行
3・2(土)
13:00
教 育 セ ン タ ー
語学講座ジョイント・ミーティング
3・8(金)
10:00
特 別 会 議 室
第2回理事会
3・10
(日)
全日
三 木 山 公 園
みっきいふれあいマラソン(外国人参加案内)
三木金物まつり2001 11月
3日(9:00∼17:00)
4日(9:00∼16:00) 市役所前広場
3日 ( 土 )
みっきい広場ステージ
中国獅子舞公演(午前11時・午後2時)
ふれあい広場 国際バザール(食品と食材)
ギリシャ・インド・韓国・日本 ( 沖縄 )
4日 ( 日 )
ふれあい広場 国際バザール(食品と民芸品)
インド ・ 沖縄・NGO(PHD・エンゼル)
Christmas Party in Miki
12月1日(土) 16:00∼18:00 三木市役所みっきいホール Let's enjoy together! 外国の方もおさそい下さい。
ミニコンサート
From Now on ♪ in Miki
ゲーム・会食・
外国人ゲストとの語らい
参 加 費 500円(当日)外国人ゲストは無料
申し込み:11月26日(月)までに電話または Fax
Tell 0
794−89−2318 Fax 0794−82−9755
編集あとがき
9月11日の米国同時多発テロが世界中の人々を震撼させました。犠牲になられた方に心
から哀悼の意を奉げます。普段、国際交流を目的に事業を進めていますが、改めて平和に
仲良く暮らすことの難しさを知らされました。しかし、それだからこそわたしたちの活動
が大切なのではないかと思い直しています。「米国同時多発テロ被災者支援募金」を市役
所市民ホールで続けています。また、アフガニスタン難民支援募金活動も予定しています。
ご協力をお願いいたします。 TEL(0794)89-2318
FAX(0794)82-9755
〒673-0492 三木市上の丸町10-30(市企画部企画政策課内) 〔E-mail〕 [email protected]
〔ホームページ〕http://www.city.miki.hyogo.jp/adinfo/adtop03f.htm
編集・発行
三 木 市 国 際 交 流 協 会
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