書評・ Barry Naughton, The Chinese Economy: Transitions and Growth

[書評]
Barry Naughton
The Chinese Economy: Transitions and Growth
丸川知雄
著者のノートン教授は、中国の「三線建設」
国経済においては知識の「賞味期限」が短い
に関する先駆的な研究〔3〕
、ロシア・東欧の
が、本書では全体を通じて少なくとも 2005
採ったビッグバン戦略に対する中国の漸進的
年あたりまで情報がアップデートされてい
な市場経済移行戦略の優位性を主張したマク
る。本書の第三の特長は、平易なことである。
ミランとの共著論文〔2〕
、中国の経済改革を
本書は研究サーベイを意図したものではなく
マクロ経済の側面から跡づけた単著〔4〕な
(結果的に英語による中国経済研究のサーベイの役
どによって、中国経済に関する第一級の専門
割をある程度は果たしているが)
、独創的な研究
家として知られている。私自身もこれら三作
の報告を目指しているわけでもない。ここに
を繰り返し読んでその研究内容のみならずそ
は鬼面人を驚かす理論はなく、ごく標準的な
の文体をも模範としてきた。そのノートン教
経済学が使われているのみである。経済学専
授が著した中国経済の教科書である本書も期
攻でない読者でも理解できるような配慮も随
待を裏切ることがなかった。英語、日本語、
所で行われている。データの面では、いくつ
中国語で著された中国経済の教科書のなかで
かの興味深い実証研究の成果が一部使われて
いま読むべき本を一冊挙げるとしたら、躊躇
はいるものの、大部分は『中国統計年鑑』な
なく本書を推薦したい。
どごく平凡な素材を使っているにすぎない。
中国経済の教科書として本書には 3 つの特
しかし、平凡な素材でも、洞察力とデータの
長がある。第一に、カバーしている範囲が広
適切な加工によって新たな知識が引き出せる
いことである。今日の中国経済を学生に教え
ことを本書は如実に示している。
ようとする時、成長著しい工業も、世界最大
の人口を支える農業も、さらに所得格差問題
以下、本書の内容を、評者の印象に強く
残ったポイントを中心に紹介する。
や環境問題、貿易や財政・金融など、どれも
第Ⅰ部「過去の遺産と背景」では、現代中
落とすことができない重要な側面である。他
国経済の背景をなす地理、歴史、社会の状況
方、これらの問題すべてにわたって一人の教
について解説している。冒頭で、黒竜江省の
師が正確な知識を得ることは容易ではない
愛輝と雲南省の騰衝とを結ぶ線によって中国
が、本書はそれを成し遂げているのみなら
の面積を半分に分けると、実に人口の 94%
ず、それぞれの問題に対する著者独自の解釈
がこの線の東南側に住んでいて、線の西北側
が打ち出されている。本書の第二の特長は、
は人の居住に適さない砂漠や高地などが広
情報が新しいことである。急速に変貌する中
がっており、貧困地域はこの「前線」付近に
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集中している、という興味深い事実を示す。
「ビッグ・プッシュ工業化」とも呼ぶべき戦
続いて、中国の市場移行戦略の意義、とりわ
略を追求していた。その根幹は低く抑えられ
けロシア・東欧の「ビッグバン戦略」と比べ
た農産物価格と高く設定された工業製品価格
たときの優位性という著者の年来の研究のポ
によって国民から国家財政に投資資金を絞り
イントが紹介される。すなわち、中国の初期
出すシステムであった。改革開放政策の当初
の改革には青写真がなく、ただ計画経済の問
の意図はこの苛烈な搾取政策を緩和すること
題を是正しようとして、個人や集団が企業家
であったが、いざ農民や労働者への分配を拡
精神を発揮できるような空隙を作り出した。
大してみると、意外にも国民の貯蓄率が急上
価格体系の歪みを直してから参入を自由化す
昇したため、1978 年以降も投資率をいっそ
るというのではなく、むしろ歪んだまま新規
う高めることができた。この「予想外」(out
参入を認めたが、空隙に資源が流れ込み続け
of the plan)の成長メカニズムの形成にこそ、
ることで市場経済の領域が徐々に広がり、つ
中国の改革開放の成功の鍵があった(〔4〕参
いには計画経済を凌駕した。著者は、中国の
照)
。この豊富な投資資金は主に工業に投資
採った民営化なき体制転換の路線にも肯定的
され、本書の推計によれば、78 年以降も第 2
である。なぜなら、早急な民営化を目指そう
次産業の対 GDP 比率は着実に向上している。
とすると、国有企業の経営を改善する努力は
また、人口構成が経済成長に与えた影響も見
なされず、慌ただしく企業を放棄することに
逃せない。人口転換を強制的に加速した一
なりがちだからである。よって市場移行の初
人っ子政策によって、1990 年から 2025 年ま
期には民営化よりも国有企業改革の方が有効
で中国は従属人口(子供や老人) の比率が低
だという。著者は中国の経験からの教訓とし
い人口ボーナス期にある。ただ、2025 年以
て、第一に、パッケージ化された政策処方箋
降は一人っ子政策の影響で逆にきわめて急速
よりも、ローカルな事情を踏まえた慎重な政
な人口の高齢化が待っている。成長の裏面に
策策定が大事であるということ、第二に、制
はもちろん所得分配の不平等化がある。改革
度改革を過度に強調するよりも社会経済的能
開放の初期には農産物買い上げ価格の引き上
力の発展を目指した政策の方が効果的である
げによって農村の貧困が大きく改善され、平
ということを強調する。
等化が進んだが、その後改革開放が進むにつ
第Ⅱ部「成長と発展のパターン」は、経済
れ所得格差は拡大し、21 世紀に入る頃には
成長、人口、労働と人的資本、所得分配の問
アメリカを上回る不平等な社会となった。た
題が取り上げられる。中国の経済成長は、成
だ、平均寿命などの人間開発指標で見ると、
長率の統計に問題があることは否めないもの
中国はブラジルやトルコなどの中所得国と比
の、年平均 7% 以上の高成長が 1978 年以来
肩するレベルにあるという。
27 年間にわたって続くという人類史上例の
第Ⅲ部「農村経済」は農村組織、農業、農
ないものであった。その最大の要因は高い投
村工業を扱う。著者は人民公社制度が労働意
資率だが、第Ⅱ部ではその点について解明を
欲の低下をもたらしたことを認める一方、そ
進める。もともと、1949 年から 78 年までの
の積極面も指摘する。すなわち、農民を動員
計画経済体制も重工業の高度成長を目指す
して灌漑設備などの建設を進めたことや貧し
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い農民にも最低限の食糧を与えるセーフティ
置かれていると指摘する。著者はそうした産
ネットの役割も果たしたこと(もちろん「大躍
業政策の意義と成功の可能性についてかなり
進」の数年間は除いて)である。集団農業の解
肯定的である。
体によって農業の生産性は高まったが、同時
第Ⅴ部「中国と世界経済」では貿易と直接
に農村の基礎医療が崩壊してしまった。2003
投資を取り上げている。貿易と直接投資にお
年に勃発した SARS がその弱点を衝くところ
いては、閉鎖的な計画システムのなかに、自
であったが、病気の感染力が突然弱まるとい
由な空隙を作り出すという中国の改革の特徴
う幸運によって中国は救われた。集団農業を
が現れている。貿易における委託加工貿易、
廃止し、戸別経営を導入したことが改革開放
直接投資における経済特区や開発区がそうし
期に農業が成長した主因だというのが通説だ
た空隙にあたる。中国政府はまだ公式には資
が、技術的な要因も無視できない。すなわち、
本の輸出入を自由化していないが、国際収支
1960 年代から人民公社を通じて高収量の米
データを加工してみると、実は最大で GDP
の新品種が普及されたが、それと 1980 年代
の 8% に相当する資本が人民元の下落ないし
前半の肥料投入の増加とが結びついたことで
上昇を期待して出入りしている様が窺える。
農業生産性が向上したというのである。
第Ⅳ部「都市経済」では企業の所有と統治、
第Ⅵ部「マクロ経済と金融」では財政、イ
ンフレ、金融システムなどを取り上げてい
工業、エネルギー、インフラの構造変化、そ
る。著者は、中国の金融は「深いが狭い」特
して技術政策が取り上げられる。改革開放以
徴を持つと指摘する。すなわち金融資産の対
来の課題であった国有企業のリストラは大幅
GDP 比が増大する金融深化は着実に進展して
な人員削減や民営化を経てようやく終着点が
いるが、金融資産はほとんどが銀行預金の形
見えてきた感がある。だが、国有企業に利潤
で存在し、それ以外の金融は未発達である。
最大化を追求させるという企業統治の方針
第Ⅶ部は「結論:中国の未来」と銘打たれ
と、国が企業を保有する根拠(市場の失敗の是
ているが、実際には中国の環境問題と成長の
正や公益の増進)との間には矛盾があるのでは
持続可能性の議論に集中している。
ないかと著者は問題提起している。さらに、
以上、本書の内容を見てきたが、中国の市
著者は近年の中国のエネルギー統計における
場移行戦略に対する著者の総括と同様に、本
重大な問題点を指摘する。すなわち、公式統
書自体も中国のローカルな事情を丁寧に解き
計によれば 1996 年から 2000 年の間にエネル
ほぐす姿勢をとっており、1 つの理論ないし
ギー生産量は 19.3% も減少しているが、同じ
結論で中国経済を一刀両断にするものではな
期間に GDP が 36% も伸びる中でエネルギー
い。本の構成の面では、都市・農村の分断か
生産が減少するとは考えられない。これは小
ら社会構造まで言及する第 5 章「都市・農村
炭坑を閉鎖すべきという中央政府の命令に対
の分断」や、人民公社制度から最近の土地問
して、地方政府が閉鎖する代わりに生産量が
題まで取り上げた第 10 章「農村組織」など
ゼロになったと嘘の報告をしたからだろう、
はユニークで効果的な工夫である。
と著者は推測する。また、著者は、近年の中
本書に示された著者の解釈はおおむね首肯
国の産業政策の中心はハイテク産業の育成に
できるものであるが、いくつか私の解釈とは
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異なる点もあった。第一に、都市部のイン
金上昇、人民元の上昇もあって、ベトナムや
フォーマルセクターに全就業者の 13% が雇用
カンボジアに拠点を移す企業も数多い状況を
されている(182–185 ページ)、としている点
見ると、若干の留保をつける必要がある。
についてであるが、個人経営や私営企業以外
以上のように多少の異論を差し挟む余地も
の「都市部インフォーマルセクター」とは何
ないわけではないものの、本書はきわめて広
なのか疑問である。実際には、全就業者数に
範囲の問題について、中国の事情に関する正
関する統計と、様々な所有制の企業の就業者
確な理解に基づき、バランスの取れた解釈を
数を積み上げた統計とのギャップがこの 13%
示しており、まさしく中国経済の教科書たる
であり、これは就業統計の不備がもたらした
にふさわしい内実を持っている。
ものである。第二に、計画経済期のビッグ・
本書には著者ならではの鋭く含蓄に富んだ
プッシュ工業化戦略は、貿易に対し閉鎖的で
文章がちりばめられているが、最後に本書の
自己完結性を高める戦略を伴った(58 ページ)
なかで私が最も気に入った文章を引用してお
としているが、これは林毅夫らの研究〔1〕
きたい。
「これまで発展に成功した国々の経
に引きずられた見方である。実際はむしろ外
験から、ある国が中程度の発展レベルに達す
国貿易に依存しないという選択が先であっ
ると、その国の世界の厚生に対する貢献が増
て、それゆえに生産財を自給する重工業優先
大することを我々は知っている。(中略)中国
政策が採られた、と解釈すべきではないだろ
も発展するにつれて、世界の厚生に対して、
うか。中国はソ連の一国社会主義をソ連の援
我々がまだ予見できないような貢献をするに
助によって再現したのである。第三に、企業
違いない。次の世紀にかけて、中国から科学
統治が国際水準にある中国企業の例として華
や医学の発見、新しい製品やサービス、新た
為技術を挙げている(325 ページ)が、華為技
なる文化的貢献が溢れ出してくるだろう。
」
術が優れた企業であることは間違いないとし
(11–12 ページ)中国の発展は、人類全体にとっ
ても、株式を上場していない企業をここに挙
て災禍ではなく慶事なのだというこの楽観主
げるのは疑問である。第四に、中国の委託加
義を私も著者と共有したい。
工制度には東アジアの先例に比べて制度的に
新しい点は特にないとしている(386 ページ)
が、広東省における「転廠」の制度、すなわ
ち免税で輸入した物を加工した製品をさらに
国内で転売できる制度はユニークなものでは
ないだろうか。
「転廠」制度は、珠江デルタ
が「飛び地工業化」から産業集積に進化する
上で大きな貢献をしたと思う。第五に、中国
では半熟練労働力が豊富に供給され、労働集
約的製造業での比較優位はあと 10 年は続く
(引用文献)
〔1〕Lin, Justin Yifu, Fang Cai, and Zhou Li (1996), The
China Miracle: Development Strategy and Economic
Reform. Hong Kong: Chinese University Press.
〔2〕McMillan, John, and Barry Naughton (1992),“How
to Reform a Planned Economy: Lessons from China,”
Oxford Review of Economic Policy, 8(1), 130–143.
〔3〕Naughton, Barry (1988),“The Third Front: Defense
Industrialization in the Chinese Interior.” China
Quarterly 115 (Autumn): 351–386.
〔4〕Naughton, Barry (1995), Growing out of the Plan:
Chinese Economic Reform, 1978–93, New York:
Cambridge University Press.
(398 ページ) としているが、2004 年から珠江
(Cambridge and London, MIT Press, 2007.
xvi+pp. 528)
デルタなどで労働力不足が叫ばれ、その後賃
(まるかわ・ともお 東京大学社会科学研究所)
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