Feast of the 26 Martyrs of Japan

Feast of the 26 Martyrs of Japan
Feb. 5(6)
by Sister Masako Miyake, SNDdeN
Gospel: Mathew 28:16-20
まだ人生の痛みを知らなかったからでしょうか、幼いころの私は殉教者になることを夢見てい
ました。信仰のために死ぬ機会があればいいと願っていました。成長するにつれて、身体的に
であれ精神的にであれ小さな痛みさえ耐えられない自分に気づいてきました。私の殉教者にな
る夢は消えました。
私たちは殉教者になれるのでしょうか?
ょうか?
それ以上に、殉教は今の私たちに意味があるのでし
今日私たちは、1597年に殉教した26人の聖人を記念します。「日本のカトリック教会は、
殉教者の血から生まれ、殉教者の血の上に建てられたといっても過言ではない」(日本カトリ
ック中央協議会)と言われています。1549年の聖フランシスコ・ザビエルの来日に始まる宣
教によって、数多くの日本人がキリスト教信仰を受け入れ、司祭・修道者も誕生しました。学
校や神学校、病院、福祉施設が設立され、西洋の学問や芸術・技術も紹介されました。しかし
60年後キリスト教信仰は禁止され、聖職者が独りもいない中で洗礼が信徒の手で授けられ、
信仰が伝えられていきました。禁教が続いた200年余りの間に何千人もの信徒が殺され、ほ
んの一部である409人が福者殉教者にあげられています。その先駆けとなったのが26聖人
殉教者でした。
私は、殉教がその人の力や勇気によると考えて殉教の夢を諦めました。確かに殉教者の中には、
常に死ぬことを覚悟して生きていた武士がいました。けれども26聖人の多くは一般庶民男性
でしたし、子供も 3 人いました。2008年に列福された188人のうちの約3分の一は女性、
30人ほどは子供でした。
26 聖人殉教図(中田秀和作)
188 福者殉教者
彼らは、自分の強さに自信を持っていたのでも、特別勇気ある人だったのでもなかったと思い
ます。 “私はいつもあなた方と共にいる”というイエスの約束が、殉教の中だけでなく、日々
の営みの中にも貫かれていたのだと思います。彼らが洗礼の恵みを受けて選択したのは、神の
愛に応えて神と共に生きることであり、それを捨てるくらいなら、いのちさえ捧げることを選
んだのです。彼ら自身の力や勇気によってではなく、神への信頼と恵みによって殉教ができた
のです。神のいのちに深く結ばれていた人たちでした。それはちょうど、高いところから飛び
降りる子供のように、自分が飛べると思っているからでなく、下で手を広げて待っている親が
しっかりと受け止めてくれると信じて飛ぶのと似ているのではないでしょうか?
私たちが洗礼によって結ばれた神様との絆、約束(commitment)は、 この世界で常に揺さぶられ
ています。福音の呼びかけは現実的でないように思われることがあります。それ自体悪いこと
でないにしても、豊かさや快適さ、権力や利益、評価や名声を選ぶことを、 愛や平和、人権
や正義よりも優先したくなります。そんな私たちに、殉教者たちは呼びかけています。「流され
ず、信頼して、大切なものを貫きなさい。私たちにはこの世のいのちより大切なものをいただ
いているのではありませんか」
それでも、私の夢のある部分は残っていました。中学生の時、自分の将来の進路を考える中で
気づきました。それは、自分を丸ごと神様にお任せすることであり、何があっても、どんなに
揺らいでも、とにかくいただいた信仰の恵みに留まることでした。10 歳で洗礼を受けて以来の
信者としての歩みは、いつも私は誰に呼ばれたのか、私は何を選んだのか、誰と共に生きるの
かという問いかけと共にありました。修練者のとき管区長のシスターに「あなたにはチャレンジ
がない」と言われた私ですが、信仰は、いつもチャレンジになり、励ましになりました。
26 聖人殉教者の記念日に選ばれた福音朗読は、イエス様が弟子たちを宣教へと派遣された箇所
です。殉教者たちが最後の瞬間まで福音のメッセージを語り、いのちより大切なものがあるこ
とを証しし、人々を信仰へと招いたからでしょう。そして彼らと同じく、私たちが信仰を貫い
て生きるとき、そこには必ず、他者との出会い、共同体との関わりがあるからではないでしょ
うか。イエス様は弟子たちに「行きなさい」と呼びかけられました。殉教者を記念する今日、
私たちも言葉と行いを持って他者との出会い、共同体との関わりへと「行く」ことを呼びかけ
られています。
殉教者というと、その死に方に注目することが多いのですが、彼らの死に方は、生き方が貫か
れたものだということを心に留めておきたいものです。彼らは、永遠のいのちを目指して、日
常を信仰に留まって生きた人たちです。神様との愛と信頼の絆を貫いた人たちです。私たちの
多くはおそらく、命を捧げて殉教する機会はないでしょう。けれども、とかくしがみつきたく
なるものの多い現代世界の中に生きて、それらを犠牲にしても選択すべき大切なものがあるこ
とを常に心に留めて、この道をイエス様と共に歩み続けたいものです。それが今日、殉教者を
記念する意味であると思います。
「行って、すべての人を私の弟子にしなさい .....私はいつもあなた方と共にいる」