複 インドを行く、インドに酔う、インドの用途 ∼キャサリンと愉快な仲間達 2000km の軌跡∼ 文=大橋信之 写真=田崎基 [期間] 1998年2月21日∼3月21日 [参加隊員] 大橋 信之 電気工学科3年 部長でありながらヨゴレをやらせたら日本一。 実は初海外でビビッてる。 田崎 基 自治行政学科3年 副部長。明晰な頭脳と熱いハートを持つが、銀行強盗を企んでいる。 *二人とも神奈川県警が大嫌いである -150- 雑な歴史と多様な文化、そして独特の風土が作り出した 不思議な魅力にあふれる国、インド。人口9億人という この大きな国では、それぞれに個性が強い人間や集団が ひしめき合い、いろいろな価値観や生き方が渦巻いていて、どん なに想像を絶することでも平気で起こってしまいそうな感じさえ する。そこに見られる自然のさ まざまな変化と、その大地を びっしりと埋めて多彩な生活を くり広げる人間のおもしろさ、 そしてそこに表現される多彩な 文化の底の深さは測りしれな い。 日本という豊かで何不自由な く、しかし何となく全体が同質 の社会に生まれ育った我々には、 “汗の匂い、騒音、叫び声、砂ぼ こり、強い日差し、文化の違い、 宗教上の習慣、伝染病、身分制 度、そして地平線まで乾ききっ た平原、朝霧のなかに花々が揺 れる湿地、広々とした畑に働く色とりどりの女性たちのサリー。黄濁した大河を渡り、遠くに青い海 を見る。牛たちが行く、ラクダが歩く、裸の子供たちが手を振る。小さな森の中で寺院の旗が揺れる。 工業地帯の褐色の煙がたなびき、赤々とした地平の彼方に夕日が沈む。 ”とありとあらゆる刺激が待 ち受けていることだろう。しかし、その中に入れば自分もそのただひとり。そしてインドは、コンク リート文化の中に閉ざされた 我々に、考えもつかないような 豊穣な世界を開いてくれ、自分 自身がインドの風景の一部に溶 け込んでいくような経験をさせ てくれるだろう。もしかしたら こんな考えなどインドの圧倒的 な迫力に押し潰され、呑みこま れてしまうかもしれない。しか し、そんな時間の中で我々は何 を考え、何が得られるのか。く たびれたら、にぎわいを眺めな がらチャーイ屋で一服でもして のんぴり行こう。 国籍が違おうと、文化背景が 違おうと自分の価値観を通し抜こうとせずに肌でインドを感じてみた い。自分の眼にこだわらず、向こう側から自分自身を眺めてみたい。 この旅は、人との出会い、人の温もりの中を泳ぐことである。神々 と信仰の国インド、喧噪と貧困の国インド。そこに自分の答えを見つ けに、そして少しでも解るまで。 -151- ぼろバイクを入手 し、とうとうス タート。生活すべ てがつみこまれて いるザックはやは り重たい。 ジ ャンム・カシミール州、俗にいう停戦ラ インではカシミール分離主義者等による テロ活動が活発化していて、治安情勢は依然と して悪い。このことはある程度分かっていたい たが、第一、オレらが行くのはデリーだから平 気だよ、と余裕をかましていたが出発1週間前 になってそれは起こった。『インドで爆弾テロ 多発』こんな見出しがでかでかと新聞の一面を 飾っていた。前から大使館で治安情勢の情報を 得ていたのだが、改めて大使館に聞いてみると、 『98年2月下旬に総選挙が実施される見込みで あり、その前後1ヶ月間は政治集会などが各地 で頻繁に行われ、相当の混乱が予想される他、 暴動、爆弾テロ事件が発生する可能性も排除で きず、デリー市オールドデリー地域及びその周 辺(特にメインバザール地区)では、断続的に 爆弾テロ事件が発生しており、一般乗り合いバ スや市場などの公共の場所において、タ方から 夜にかけて発生している』とのことである。2 月下旬?モロ当たってんじゃん。メインバザー ル?オレらの宿そこじゃん。オイオイどーすん だよと、そのあまりにも親切すぎる説明は、か なりの不安と恐怖だけを植え付けた。 デリーへ 毎日のように大使館から情報収集をしていた が、出発4日前からは何も起こらずこれからも平 気だろうとのことなので、最悪の場合はトラン -152- ジット先のタイでバカンスだ、とあまり爆弾テ ロのことは考えずに、インドヘの期待と興味と 憧れだけを胸に出発した。が、しかし、飛行機に 乗ったとたんに緊急事態発生。機内にインドの 新聞があり、どうせ読めもしないのにこれから のために、と目を通すとまったく読めなかった が、たった1枚の写真があの不安と恐怖を思い ださせた。白煙の中を、群衆が危なそうな物を片 手に持ち暴れている写真であった。もしかした らこの写真は別のところかも、とかすかな期待 を持ち隣に座っていたインド人に写真のことを 聞いてみると、ガビガーン!超ウルトラビンゴ。 もう飛行機は動き始めているし、いまさら戻る わけにもいかず、せっかくの初海外なのにオレ は異国の地で終わるのか、もっととんぱた亭の ラーメン食っときゃよかった。なーんて思う間 もなく、となりの大飯食らいお気楽極楽お笑い インド人がノープロブレムとぬかしやがった。 ほら、さっそく出やがった!お得意のノープロ ブレム。何なんだコイツらは。爆弾テロだぜ、何 でノープロブレムなんだよ。 (後でわかったこと だが、インドではいつでもどこでもノープロブ レム。あいさつみたいなものである)しかも、こ のインド人は写真のデリーではなくカルカッタ で飛行機を降りた。オレらに不安と恐怖だけを 残して。そりゃノープロブレムだよな、お前は安 全なカルカッタ、オレは危険なデリーだもんな。 これに追い打ちをかけるように飛行機は嵐の 首都デリーの雑 踏。そこらじゅう にスパイスと屎尿 と動物、ガソリ ン、人間の臭いが した。そこが既に インドだった。 中に突入し、雨、風どころか、雷まで加わり揺れ に揺れまくった。オイ、爆弾テロなんて言ってる 場合じゃねえぞ、このままだと爆弾を拝む前に 死んじまう。この飛行機ほんとに大丈夫かいな。 機長、頼むぜ。今度は他のインド人が、またノー プロブレムとぬかしてやがる。今にも墜落しそ うで、そして仮に無事着いたとしても爆弾テロ がまっている。こんな最悪の状態で、ノープロブ レムと言われて納得できるほど人間できちゃい ないので、オレはふざけんな!こっちは初海外 でビビッとんじゃ一とマジ切れしてしまった。 今度あったら、そのターバンとヒゲむしり取っ てやるからな。今世紀中にケリをつけてやる! 田崎もアエロより怖いと言っていた。飛行機の 中で何人かの日本人を集めて、対インド騙せる もんならやってみろ爆弾なんかクソくらえ同盟 を設立。(実は心細いさみしがりやの集団。男5 人、女3人) 『乾季、雨具なし、TシャツジーパンでOK』地 球の歩き方にはだまされた。インドはどしゃぶ りであり、空港を出るとそこは、人、人、人、人 の群れである。トイレで用をたし、手を洗おうと すると水を出してくれ、そしてティッシュペー パーをさしだし、チャージ料をよこせとか、ウチ のタクシーに乗れだとか、ウチの宿に泊まれだ とか、いきなりインドの洗礼を受けた。なんとか それらを乗り越え、注目度、危険度、物価安度 Nol のメインバザールヘバスで移動。安宿を探 し、やっと睡眠。素晴しく長くて、充実して、疲 れた一日だった。 デリー。古代からいくつもの王朝が興亡した 古い都。祖国の武力解放を目指し自由インド軍 が、苛烈な戦いの日々の果てに開ける未来をそ こに夢見た遥かな都市。インド底辺の民衆が、そ こに豊かで進んだ生活の幻想を見つつ、ついに 一生足を踏み入れることもない遠い都市。民衆 の痛みを知らないエリート政治家が、政争に明 け暮れる中央都市。首都であり、政治や交通の中 心地である。 夜が明け、朝もやの中のメインバザールには 人が溢れ、活気に満ちていた。それにしてもなん ちゅう国だ。人、人、人、牛、牛、牛、ゴミ、ゴ ミ、ゴミ。街を歩けば1メートルおきに声をかけ られる。 “トモダチ、チョットイイデスカ” “トー キョー、オーサカ?ミルダケ”“モウカリマッ カ?ボチボチデンナ”“マリファナ?ハシー シ?”他に活かせるのだろうか、と思うほどの会 話力である。インドでは、トモダチはたくさんい るが、友達はあまりいない。だれが教えたのかガ チョーン、ダッフンダなんて言ってくる奴もい たので、キャイーンとだっちゅーのを教えて やった。どこに何を捨ててもノープロブレム。牛 にバイクを倒されても、商品を持っていかれて もノープロブレム。道端でウンコをしている子 供達、映画館で並ぶ順番でもめる大人達、バク シーシを連呼するこじき達。まあ、庶民の味方メ -153- インバザールだからしょうがないが。コンノー ト・プレイスの公園では、観光客1人につき5,6 人のインド人が、靴を磨かせてくれとよってく る。オレはサンダルだったので、やれるもんなら やってみろと足を差し出したら本当に靴墨を塗 られ、見事に金を請求された。うーん、恐るべき 生活力。強いぞインド人。 ここで初めて明かすが、我々の本当の目的は オートリクシャーでインド中を爆走すること だった。(バイクに座席を付けたオートリク シャー、自転車を改造し座席を付けたサイクル リクシャー、人が引っ張る人力リクシャーなど がある) まず、最新情報と地図を手に入れるために政 府観光局へ向かい、そこでオートリクシャーが 欲しいがどこで手に入るのかと聞いたが、政府 の許可とスペシャルライセンスがないとオート リクシャーは無理とのこと。しょうがないので2 年前ウチの他の部員がやったようにスクーター で行くことに。スクーターでデリー∼カルカッ タ2000Km大爆走に予定変更である。内容を話 して、地図と道をたずねると“そんなこと無理だ よ。スクーターなんかで行けるはずないよ。クレ イジーボーイ!”と笑われたが、とりあえず地図 だけはもらっておいた。 観光局を後 にしてバイク屋で一番安い BAJAJI に目を付け、 明日購入することに。在京連絡のために立ち 寄った電話屋でバイクの相場をきいてみると、 そこのオヤジはそんなバイクじゃデリーも抜け らんね一ぞ、もっといいバイクをオレが探して やるという。さっそくオヤジとバイクを見に 行ったが、いいものが見つからず、オヤジは自分 のものを売ってやると言いだした。オヤジはさ らに優しくなり、オレらを家に呼んでチャーイ やお菓子などをくれ、飯までおごってくれると 言い、バイクの名義変更やメンテナンスもして くれるらしい。おまけに、自分のバイクを一日貸 -154- してやるからそこら辺を乗り回して練習しろと きたもんだ。それでオレらが逃げたらどーすん だ。そんなにオレらを信用すんのか?どーして もお前ヤバすぎるぞ。おめーの目的は何なんだ。 オレのからだか?それとも成田で暇つぶしに 買った競馬育成ゲームのダービーステップか? それとも本当に善意なのか。オヤジはバイク代 と日本製のT シャツか靴下を付けてくれるだけ でいいというのだ。こんなうまい話日本にだっ てねーぞ。ましてやここはインドだぜ。しかし、 バイクを買うことに限ったことではないが、イ ンドで生活をするというのはある意味だれかを 信じることになる。とりあえずこのオヤジに託 してみるが、まだ気は抜けない。それでもってオ レは金がない。 次の日銀行で両替えをしたが、とにかく時間 がかかる。我々日本人の仕事が早いのか、インド 人が遅いのか分からないが、これくらいでいち いち腹を立てていては、身体がいくつあっても 足らないので気長に待ちました。とうとうベス パをGET!(1台8000ルピー。日本円で約2万5 千円)オヤジのことは半信半疑だったが、名義変 更は本格的だし、明日は土曜日なのでここで断 ると出発が2日も伸びてしまう。5年前のものと いわれたバイクは実は10年もので、メンテナン スも完壁ではなかったが、でももういーや。 明日の出発に備え、燃料タンク、荷物を縛るゴ ムチューブを買いだしに。その他の地域は平気 だが、デリーだけはヘルメット着用なのでこれ も買いに行くと、なぜだかヘルメットにSONYや らPanasonicやら見たことのある文字が。日本製 だから安心だと?オイオイ、おもいっきりパク リじゃねーか。そんなメットねーよ。店のオヤジ は商品であるヘルメットを下に叩きつけて、こ んなにやっても壊れない、頑丈だとアピールし ている。オイ、商品に傷つけんなよ売り物だろ。 そんな物だれが買うんだよ!? -155- インドで牛は神の 使いだ。道路だろ うが家の軒先だろ うが関係なく座り 込む。そして、人間 と同様、もの思い に耽る。路地を闊 歩する牛。(右)少し は 慣 れ たつ もり だったが擦れ違う とその迫力はやっ ぱりすごい。彼ら の糞を集めるのは 子供たちの仕事。 乾かして燃料にす るのだ。 デリー∼ジャイプル 4日間もおなじ宿だったので、宿の従業員のほ とんどと仲良くなっていた。中でも、いつも朝に なるとオレらを起してくれていたおっちゃんが いた。そのおっちゃんは、いつもオレらの部屋に 遊びに来て、いろいろな自分の宝物らしきがら くたを持ってきて、見せびらかして、そして自慢 するのだ。そのがらくたを褒めると、これは俺の 宝物だと言っていたのに売りつけようとしたり するのである。でも、なんか憎めない笑顔をふり まいているオチャメなおっちゃんだった。おっ ちゃんに別れを告げ、ジャイプルヘ向け出発。 デリーの中では交通規則なんてもんはまった くない。道には車やバイクはもちろんのこと、 オートリクシャー、サイクルリクシャー、チャ リ、通行人、牛、ラクダなど少しの隙間があれば ガンガン突っ込んでくる。しかも、いつでもどこ でもクラクション。鳴らす方も鳴らされるほう も当たり前のようにして、いろいろな音や罵声 が飛び交い、どこぞのオーケストラなんて比較 にならないほどの大迫力である。 都市部を抜けるとそこは、見渡すかぎりの大 平原で、道がどーーんと待ち構えている。日本と はスケールがケタ違いである。トラックや車は、 -156- これでもかっていうぐらいのアクセルベた踏み 全開バリバリ(←死語?)フルスピードひとり カーチェイスでオレらの横をバンバン抜けて行 く。対向車が来ててもおかまいなしである。しょ うがないというかやっぱりというか、そこら中 に事故車が転がっている。横倒し状態のバス、逆 立ちしているトラック、運転手絶対死んだべと 思われる前方部グシャグシャトラックなどなど。 でもやっぱりそこはゆっくりのんびりお気楽極 楽インド人。全く焦る様子もなく、倒れているト ラックのまわりに集まり、あーあ、やっちゃった よ、また母ちゃんにおこられるよとでも言って いるのか分からないが、たばこをふかしながら 談笑しているのだ。我々日本人もここまでのん きにならなくてもいいが、もう少し心にゆとり がほしいものである。道の方はもう、言うのも走 るのも見るのもイヤになるくらいの最悪状態で、 オイオイ落とし穴じゃねぇんだぞと言いたくな る穴や、ジャンプ台じゃねぇんだからとツッコ ミたくなるようなものまであり、これらをでこ ぼこという言葉でかたずけるのはあますぎる。 例えるなら山を越え、谷を越え、といった感じで ある、オレは声を大にして言いたい。 “インド人 もっと仕事やれよー、チャーイばっか飲んでる 場合じゃねぇぞ。人をボッてる暇があったら、道 を直しなさい。”でもまだこんなことを言ってる ようでは、日本人的感覚が抜けきれていない証 拠なのだろうか。 途中、どこで間違えたのか、ハイウェイに入っ てしまった、ハイウェイといっても、車はあいか わらずフルスピードカーチェイスだが、チャリ は走ってるし、両側の住民は横切ってるし、おま けにラクダも我がもの顔で歩いている。これで 本当にハイウェイ? 何事もなく、初日から快調と思われたが、田崎 のバイクにトラブル発生。何百メートルか走る とすぐにエンジンが止まるのである。エンジン をかけては走り、走っては止まりのくり返しで ある。 (この時、自分のバイクもおなじような運 命いや、それ以上になることをまだ、知る由もな い大橋であった)日も暮れ始めたので、初日にも かかわらずジャイプル手前のチャーイ屋にて野 宿をすることに。なぜなら、我らがバイクはライ トがつかないのである。ヘッドランプで走行を 試みたがあえなく失敗に終わった。ライトどこ ろかメーター計器もまったくの役立たずである。 今、何キロ出てるとか、何キロぐらい進んだとか 分かるわけもなく、ただ付いているだけのお荷 物兼、お飾りでしかないのであった。 翌朝、チャーイで一服してジャイプルヘ向か う。なんとか本日中にたどり着き、安宿チェック イン、バイクを直すのは明日にしよう。 <本日の事故状況> 横転トラック6台、逆立ちトラック2台、 グシャグシャバス1台 田崎バイクエンジントラブル 回数不明 車にはねられ、道の真ん中で死んでいる 牛2頭 ジヤイプル∼アーグラー ジャイプル。デリーから南西へおよそ300Km、 広大な砂漠の国ラージャスターン州の州都であ る。旧市街の町並みがビンク一色に統一されて おり、ピンクシティとも呼ばれる。ジャイプルは タール砂漠の入口にあたる乾燥地帯にあり、乾 いた空気を切り裂いて降る日光の下、昼の光は 強烈で、この目のくらむような光と影の交差の 中を人々が行き交う。 ジャイプルで有名な観光名所の風の宮殿と天 文台を見に行ったが、たいしたことなかった。天 文台の前で本物のコブラ使いを見た。テレビと かでよくみるアレである。オレにはこんな造り 物より、コブラだけで飯を食って生活している このおっちゃんのほうが、よっぽど偉くそして -157- 輝いて見えた。 3月3日。日本では今日は楽しいひな祭り。し かし男二人きりなのでまったく関係がない。男 の二人旅ということで、オレのもうひとりの相 棒であるベスパにはキャサリンという名前をつ けてやった。 タ方、田崎バイクの修理とキャサリンのアイ ドリング調整のため、リペアショップに向かっ た。ところが、今までなんのトラブルもなかった キャサリンだったが、本当にヤバかったのは田 崎バイクではなく、キャサリンの方だったのだ。 クラッチワイヤー、プレーキレバー、キャブレ ター、サイレンサー(マフラー)の交換である。 よくここまで来れたなぁと尊敬のまなざしで見 られたが、そんなのちっとも嬉しくなんかなく、 デリーでこのバイクを売りつけたあのオヤジの 顔だけを思い出し、これからデリーへ戻ってブ ン殴ってやろうかとも考えたが、少しはオレも 大人になろうと踏みとどまった。 (実は、またあ -158- の顔とハゲ頭を見るのが死ぬほどイヤだった) ショップのおやじはこれでカルカッタまで余裕 で行けるという。またしてもノープロブレムで ある。これだけ何回も聞き続けると、信用する気 もおきず、はい、はい、という感じである。これ からはノープロブレムをナマステーの代わりに インドの正式な挨拶にすれぱいいのにと思わず にはいられない大橋であった。 その後、近所の子供達が集まって来たので、カ ンけりとサッカーをたして、かくれんぼをかけ て3で割ったようなことをして盛り上がった。そ のお礼に万引きのやり方を教えてあげようとし たが、田崎に止められた。 毎日チャーイを飲まないと元気の出ないオレ がいた。翌朝、距離を稼ごうということで陽が昇 る前に出発。朝晩はかなり冷え込み、バイクには ちとツライ。フリース2枚重ねにナイロンパーカ を着てもまだ寒く、太陽に会えることだけを考 えていた。なんにもないだだっ広い大草原の向 こうから昇る太陽は、いままでに見てきた日の 出なんか比べものにならないほど爽快だった。 まだ夜の明けきれてない暗い青と太陽の光の赤 とのコントラストは素晴らしく、言葉では表現 できそうもないほど感動した。オレの実家も見 渡すかぎり大平原で、地平線の向こうから昇る 太陽は見慣れたいたはずなのに。明日からも出 発は絶対夜明け前だと2人とも心に誓っていた。 だいたい、出発してから2時間くらいで朝食を とることにしていた。朝食といっても簡単なも ので、時間短縮のためにチャーイ屋でチャーイ とビスケットである。インドのビスケットは日 本のものより甘くてけっこうイケる。朝食を終 えると、悪路とフルスピードトラックとバイク トラブルとの戦いである。また今日も長い一日 が始まるのだ。景色は毎日ほとんど変わること なく大平原、大草原、だだっ広い畑に悪路が、 でーーんと先が見えないほど真っすぐに、延々 と続くのである。畑があるので何かの刈り人れ だろうか、かまを持った女性や牛などを頻繁に 見ることができる。 リペアショッブで見てもらったおかげで、そ んな大きなバイクトラブルはなかった。田崎に ついては。ところがどっこい、キャサリンはあん なに直してもらったのにまだ、ご機嫌ななめら しく、すぐごねて動かなくなるのだ。走行中にい きなり、下腹にズシンとくるばかでかい音が鳴 り響いた。もちろん、原因は言うまでもなくキャ サリンである。昨日変えたばかりのマフラーが 気に人らなかったのか、マフラーを外しやがっ た。これだけでかい音をだして走り続ければ、す れ違う奴も、追い抜く奴も、誰もがオレに熱い視 線を注いだ。理由は何であれ、町中の人々の視線 を独占したのは書うまでもない。 <本日の一句> オイラには 女もバイクも 寄り付かねぇ -159- 小さな町の子供たち。ちょっ と風変わりな旅人に興味を もったようだ。彼らの瞳の美 しさに一瞬、たじろいでしま う。 アーグラー∼カーンプール その後、有名なタージ・マハルを見に行った。 アーグラー。デリーからヤムナー河沿いに約 夕一ジ・マハルはとにかくきれいで、とにかくで 200km下った所にある地方都市。有名なタージ・ かくて、とにかく人が多かった。その人込みの中 マハルのある町として、多くの観光客を集めて で、ウォーリーに対向して、大橋を探せの写真を いる。アーグラーに残る史跡は、ムガル帝国時代 撮った。しばらくしてタージ・マハルに飽きてき に建造された壮大なものである。現在のアーグ たころ、怪しいインド人に連れて行かれタージ・ ラーは、イスラム文化の香り高い古都としての マハル裏のヤムナー河で、タージ・マハルとタ陽 落ち着きを見せながら、教育・ビジネスの中心地 とヤムナーの抜群のロケーションにまたもや感 ともなっている。 動。それに加えて、白人のきれいな姉ちゃんと写 アーグラーでの宿は、今までで一番安くて、一 真を撮り大橋は有頂天。 番広くて、一番きれいでホットシャワーまでつ 観光地ということで、店の呼び込みのインド いていた。我々の宿探しの基準は、とにかく安 人はけっこう日本語を話せる。でも中には、どう い、できれば広く、クーラーなんてもってのほ せ日本人が暇つぶしに教えたのだろうが、『キ か。だったので、ここでの宿がインドでの最初で テ、ミテ、タカクテマズイヨ』 『チョットタカイ 最後の快適空間だと二人は知る由もなかった。 ネ』 『ヤスイヨーワタシ100エンネー』などと言っ この旅でオレは『夢は大きく、妥協は早く』とい てる奴もいた。本人は最高の売り文句だと思っ う悟りを開いた。 ているらしい。 キャサリンの機嫌をとるためにまた、リペア カーンプールヘ向かう途中もあいかわらず、 ショップヘ向かったが、たいして見てもいない のんびりした風景とぼこぼこでこぼこ道、そし のに修理代を請求され、ノープロブレムのお墨 て排気ガス、ほこりとの格闘である。中でも、排 付きをもらった。おまけでアクセルとクラッチ 気ガスとほこりの猛威は、時間が立つにつれ、二 にオイルをさしてもらったが、好意とは逆にオ 人の顔をどんどん黒ずませ、一日の終わりには イルがたれて、オイラのパンツはオイルまみれ。 現地人と化すほどの凄さである。 『小さな親切、大きなお世話』という悟りも開い たまたま休憩をとった場所が小学校の側だっ た。 たらしく、あっと言う間に50人ほど集まってき -160- て、なんかくれだの、なんかやれだの、写真を 撮ってくれだの全員バラバラに勝手なことをぬ かしてやがる。なかにはたばこをねだるガキも いたが、いつも気前のいいオレも初めてたばこ を吸ったのは中学生の時だったので、小学生に はあげられませんでした。でもそこはアドベン の部長と副部長、一発芸をやってあげました。や はり、国籍が違っても子供達の笑顔はかわいい もんである。 カーンプール 20 K m 手前あたりからカーン プールまでが今回の旅で一番道が悪くて、バイ クにも、乗ってる本人にも悪影響を及ぼした。車 ならまだしも、バイク歴4年(無免を含めぱ8年) にもなるのにオレはバイクで乗り物酔いをした。 トイレ休憩、食事休憩ならまだしも、ゲロ休憩を 2回もとる羽目に。 カーンプールはけっこう大きな町で、あいか わらず人や車で混雑していた。これといって見 るものもなく、たんなる中継点であり、明日も距 離が長いこともあり疲れを残さぬためにも、値 段も内容も関係なく一番最初に見つけたという いいかげんな理由の宿でそっこう寝ました。 <本日の一句> オイルもれ パンツに染みて インド地図 カーンプール∼バナーラス 今日は今回の旅で一番の距離をたたきだした。 またもやキャサリンのマフラーが取れた。いつ もエンストしたりマフラーが取れたりすると、 近くのリペアショップにもっていき直してもら うのである。リペアショップがないときは、そこ ら辺のインド人が集まってきていじくってくれ るのである。 (ただいじくるだけ。直せないのに。 インド人は世話好きらしい)どうせ見てもらっ ても直らないのに修理代を払うのはばからしい ので、修埋工具一式を買い取った。これからキャ サリンのめんどうは自分でみることにした。 せっかくペイントまでして、やっと愛着もわ いてきた二人の記念メットを、二人同時になく した。どこで落としたのかまったく分からない。 途中の景色がいいところで、メットをかぶって 記念撮影しようとしたらなくなっていた。新歓 合宿の洞窟で使って目立とうと思っていたのに。 バナーラス。ヒンドゥー教の聖地であり、年間 100万人が巡礼に訪れ、母なる河ガンガー(ガン ジス)なしには考えられない町である。狭い路地 に密集する小店、巡礼、聖者、こじき、無邪気な 子供達、うろつく牛、屋根を渡る猿、燃えあがる 屍体、生と死のカオス。何もかもがあからさまに 共存しながら、しかも平静な調和の内にある地 である。 インドにきてから続いていた下痢がピークに 達した。薬を飲んでも直る気配すらみせず、赤痢 -161- だ、コレラだ、食い 過ぎだ、と田崎に脅 かされ、果物と十分 な水分をとって安 静にする。小便の方 も、ドーピング検査 をしたら確実に陽 性反応がでるん じゃねぇか?とい うほど黄色かった。 大橋にデリケート なんて言葉が当て はまるはずもなく、 原因は何でも食べ る食い過ぎと思わ れる。田崎はいたっ て健康で、毎日好き なものを食べていた。いくらか良くなってきて、 田崎が羨ましくなり、よせばいいのに激辛スー プを飲み、またもや苦痛に襲われる。 (かたくも なく、やわらかくもなく、ソフトでお尻に優しい ウンモ君に会えたのは帰国1週間後だった。) バナーラスは、狭い路地が入り組んでおり、迷 路のようである。が、すべての小道は河辺にたど り着ける。狭い路地を牛どもが我がもの顔で歩 き、牛優先道路といったかんじである。河辺には ガートと呼ばれる沐浴する場所があり、バラモ ンが説法し、少女が花を売り、こじきたちが列を なして座っている。近くには、火葬をするための ガートもある。事故や病気などで亡くなったも のはそのまま河に流される。逆に、寿命をまっと うしたものは火葬され、遺灰で河に流されるの である。ヒンドゥー教徒にとって、ガンガーに流 されるのは最高の幸福らしい。朝、早起きをして ガンガーから昇る太陽を見に行った。陽の昇る 前の朝6時だというのにガートは巡礼者でいっぱ いである。朝焼けの中に映る巡礼者の影が心に 焼き付いた。我々もインドには負けてられない と、朝で寒くても、水が冷たくても沐浴をして今 -162- まで働いた悪事の 数々をきれいさっぱ り流そうということ になったが、大橋は あいかわらず下痢に 悩まされ、田崎一人 できれいな体になり、 大橋はいまだヨゴレ である。朝っぱらか ら何体も遺体を見せ られて、二人はかな りまいっていた。 その後、飯を食べ に行ったら、いきな り見知らぬ日本人に 話しかけられた。 我々はバイクを手に 人れたときに、 「オレらバイクでインド中を爆走 している」と日本人を見かける度に自慢しなが らデリーの町で慣らし運転をしていた。たまた まそれを見ていたらしく、本当にここまで来た んだと感心された。半分、呆れていたようにも見 えたが。オレらは彼女らに、デリーを抜けられず に挫折すると思われていたらしい。アドベンな めんなよ。 インドで一番メジャーなスポーツはクリケッ トである。そこらじゅうで子供達が遊んでいる。 オレも仲間に人れてもらい、大人げなく大ハッ スルしてしまった。バッターの時は特大ホーム ランを何本もかっ飛ばし、ピッチャーの時は 佐々木のフォークと伊良部の豪速球で三振を取 りまくった。チビッコよ、人生そんなに甘くねー ぞ。 <本日の一句> ガンガーの 死体の横で 水遊び バナーラス∼ブッダ・ガヤー いつもの風景に加えて、岩山などがたまに混 じるが、あいかわらず、でーーんと大平原、 どーーんと最悪路である。キャサリンのエンジ ンが止まる回数は一段と増え、逆にエンジンを かけてから止まるまでに走る距離は一段と減っ た。素晴しいほどの反比例ぐあいであり、500m 走るか走らないかでエンジンが止まるのである。 ああ、キャサリンよ、いつになったら機嫌を直す のか。機嫌が直る前にゴールしちゃいそうだよ。 ブッダ・ガヤー。ガヤーから南へ10km ほど、 ネーランジャラー河沿いに進んだところにあり、 こここそ菩提樹の下で瞑想を続けたブッダが、 ついに悟りを得たところ。仏教徒にとっては最 高の聖地である。チベット寺、中国寺、タイ寺、 日本寺等の各国の仏教寺院があるのどかで小さ い村。 熱心な仏教徒でもないかぎり、すぐ飽きてし まいそうなほどなにもない小さな村だが、のど かで、のんびりして、なんだか居心地が良くて、 これがブッダをも引き付けた不思議な魅力なの だろうか。ブッダが大なる悟りを得た菩提樹の あるマハーボーディ寺院に足を運んだ。そこに は高さ52mもの塔がそびえ立ち、塔の裏側には、 ブッダが座っていた場所を示す石の台が置かれ、 飾りつけやお供え物などがあり、仏教徒たちは それに頭をこすりつけるように拝んでいるので ある。石の台のその上には、大きく菩提樹が枝を 広げている。仏教徒の聖地とされている石の台 は金剛座と呼ばれ、あの、かの有名な麻原彰晃も 悟りを得ようと石の台で座禅を組んだところ、 ものの数分で取り押さえられボコボコにされた そうである。それだけ仏教徒にとっては清き誇 り高き聖地なのだ。天下の神大アドベンとして は、我々もなにかネタを作ろうと思っていたが、 周囲の反応で中止を余儀なくされた。寺院の中 には、お決まりのようにブッダの像があった。と ころがこの仏像、いたるところに電球がついて おり、電飾ピカピカ仏像で、いかにもインチキく さかった。はあ?なんじゃこりゃ。おもいっきり バラエティーのセットじゃねえか。と夢でも見 ているようなかんじだったが、こんなものを何 十、何百という人が拝んでいるので、あらため -163- て、ブッダの影響力の強さをうらやましく思い、 麻原氏が座ったのもいくらか分かる気がした。 そろそろインドの飯にも飽きてきたので、日 本から持ってきた味噌汁でも飲もうということ になり、ドミトリーの部屋の中で当たり前のよ うに火器を取り出し、お湯を沸かし始めた。オレ の持ってきたのは、永谷園のあさげである。あさ げはかなりイケてるが、この時のあさげは格別 に美味かった。人生三本の指に入るだろう。母 ちゃんの味噌汁には劣るが、学食なんか比べも んにならないほど美味かった。がっついて飲ん で、舌をやけどしたのは言うまでもない。 <本日の一句> 味噌汁を 菩提樹つまみに 飲み交わす ブッダ・ガヤー∼カルカッタ 変わらぬ景色とバイクの故障に悩まされ、ビ スケットとチャーイの朝飯と昼飯、そしてカ -164- レーの晩飯と毎日同じことのくり返しだったが、 食事と睡眠だけが楽しみだった。道の悪さもさ らに磨きがかかり、精神的にも肉体的にも疲労 こんぱいゲロいっぱいである。疲れがたまって きているので、休憩を何度も入れたいが、バイク をいったん止めるとエンジンがかからなくなる のである。休憩したい、でもエンジンかかんね一 という葛藤の毎日だった。こんなに状態の悪い 道は、デリーとカルカッタを結ぶ National Highway No.2 であり、日本でいうなら東京と大阪を 結ぷ国道1号みたいなものである。そんな重要か つ、主要路線がなんでこれほど悪路なんだ! 田崎の半分程しか金を持って行かなかった大 橋は、かなりの、っていうか病気にちかいような ヘビースモーカーで、たばこ代もばかにならな いということで、田崎からたばこ吸いすぎ注意 報が発令されていた。大橋の体のことではなく、 金のことを心配する優しい田崎であった。それ に応えるべく、外国たばこは高いということで、 5年間吸い続けたマルボロをやめ、インドでも最 下級の人しか吸わないビリーという、葉っぱを リンがウンともスンともいわなくなった。この 旅最大のピンチである。ヒッチもやったが、真っ 暗なので我々を見つけられないのか、止まる車 なんてある訳もなく、フルスピードなので道端 に立つことすら危険な状態である。ここにいて もどうしようもないので、たとえゆっくりでも、 安全かつ明るい場所を求め先に行くことに決定 した。動かなくなったキャサリンに田崎が乗り、 いまだ快調の田崎バイクにオレが乗り、運転し ながらキャサリンを足一本で押しながら走ると いう方法がとられた。その時は画期的な方法に 思われたが、いまにしてみれぱかなり危険極ま りない方法だった。5Km位は順調に進み、2人 に余裕すら出てきた頃にそれは起こった。 ちょっと気が緩んだすきに 2 台のバイクが接触、 田崎はそのまま走り続けたが、オレはその場で 見事にこけた。何でいつもこういう役はオレな んだ!?オレはそういう星の下に生まれたの か?しかたないので近くの集落で泊めてもらう ことに。運良くそこの集落には小さいながらも 食堂があり、遅い晩飯をとる。いままでのいきさ つを店のおっちゃんに話していたら、たまたま ただ巻いただけの一見マリファナなどのドラッ 客の中に近所でリペアショップをしている人が グのようにも見える超激安たばこを愛煙した。 いたので、バイクを一晩預けて修理してもらう 田崎の好意により、週1日だけマルボロを吸うこ ことに。オレらはおっちゃんの好意で店の倉庫 とを解禁され、毎週日曜日はマルボロデーと命 に泊めてもらった。しかし、とにかく蚊が多かっ 名された。オレは女より、ゴールより、なにより た。夜空に舞う無数の蚊を、雪が降ってきたのと も日曜日を待ち望んだ。 勘違いしたほどだった。もちろん、一晩中蚊と格 今朝も陽の昇る前にブッダ・ガヤーを出発し 闘し、完膚なきまでに打ちのめされ、まったく寝 たのに、バイクの故障と砂嵐に行く手を阻まれ、 れなかったのも言うまでもない。 5 Kmも進まないうちに午後 2 時を過ぎていた。 店から買い取った工具でなんとかやりくりして <本日の事故状況> 先を急ぐが、我々の思惑とは裏腹に距離はかせ エンスト 回数不明 げず、時間だけが過ぎていった。やがて陽は落 マフラー外れ 3回 ち、辺り一面暗闇に包まれた。まだ、宿のある町 キャサリン 可動不可 まで15kmも残っていた。ライトのつかない我ら 大橋 右の手のひら皮ずる剥け血まみれ がポンコツバイクで先を急ぐのは困難に思われ、 左膝に深さ5mm、面積5ミリ四方のナチ 野宿という選択肢も考えられたが、何年か前に スドイツのマークのようなエグリ傷。 獨協大のインド隊が強盗に襲われた話を思い出 ただでさえ悪い頭をさらに打つ。 し、さらに雨、雷、突風というトリプルトッピン カルカッタ∼ゴール グアタックをうけた。泣きっ面に蜂とはまさに このことであろう蜂。なんとかポンコツバイク カルカッタ。人口約1200万人。インド第2の で先を目指したが、こんな時にかぎってキャサ 都市で、20世紀初め、植民地インドの首都とし -165- て栄え、独立後も産業、商業、輸送の中心として 重要性を増すと同時に、多彩な芸術活動、政冶運 動が展開されている。あらゆる異なった出身と 階層の人々で町はあふれ、それに犬、牛、カラス の群れも加わり、それぞれが己の信条、生活規範 に従って生活を営み、町は混沌とした熱気で満 たされている。そしてインドのほかの大都市に 比べ、人間の生のエネルギーに圧倒されている。 また、インド唯一の地下鉄が走っていることで も有名である。 前日の事故のことは忘れるようにして、最後 の日ぐらい何事もなく行けることを祈りつつ出 発。まぁそんなに上手くいくはずもなく、最後ま でバイクトラブルに見舞われる。とにかくリペ アショップには何十回もお世話になった。一日 平均5∼10回は店に行き、プラス自分での修理 を毎日毎日繰り返した。オイ!このバイクは余 裕でカルカッタまで行けるんじゃなかったの か?ノープロブレム、Go to カルカッタじゃな かったのか?何十回と聞いたぞそのセリフ。結 局、だれもバイクを直せないのでした。 ゴールをフーグリー河にかかるハウラー橋に 決め、とうとうゴールだという期待感に胸を弾 ませ、爆弾テロがなくて良かったという安心感 に溺れ、やり遂げたという優越感に浸り、ひたす らゴールを目指した。 -166- ホーリー。春の到来を祝って熱狂的に祝われ る祭りで、この日ばかりはカーストも貧冨も関 係ない、インドで最もアツイ1日である。人々が 街頭で色粉や色水を、相手かまわずかけあうの である。オレらは運が良かったのか悪かったの か、たまたまホーリーにあたってしまった。ホー リーは知っていたが、その日だったとは知らず に走っていていきなり色水をかけられた。ふざ けんなよインド人!今度ぱかりはノープロブレ ムじゃすまねぇぞ。と理性を失いそうになった が、回りを見たらみんな緑やら赤やらピンクや らで頭から足の先まで全身べったりと色がつい ているのだ。車どうしでもすれ違う時に運転手 がかけあっているのである。町も人も、犬や牛ま でもがカラフルなのだ。でもインド人達は ちゃっかりと祭り用の汚れてもいい服を着てま した。オレらはその服しか持ってきていないの に。もちろん、我々も色粉を買って参戦しまし た。何十日分の恨みを晴らすかのように。 今日もチャーイを飲むために立ち寄った店で チャーイを注文するが、いくら待ってもでてこ ない。いつもならものの数秒ででてくるのに。店 のおやじに文句を言いに行くと、店の裏に来い といわれ、ボコられるのかと恐る恐る裏に回る とおやじが牛の乳搾りをしていた。先を急ぎた かったが、新鮮なミルクでチャーイを作ってく れているので有り難く頂戴した。おまけに乳搾 なっているというのである。次の会話は、その時 りもやらせてもらい、おやじの好意に大感激。お の会話を一部再現したものである。 礼に記念撮影をしてあげました。美味かったよ、 “知ってます?このインドをスクーターで旅して おやじのチャーイ。 るバカみたいな奴がいるそうですよ。でもなん この頃になると交通状況にも慣れ、隙間突っ か凄いですよね。” 込みテクニックも身につけていた。ハウラー橋 『へえ一、どこで聞いたんですかそのこと?』 が見えると、いままでに身につけたテクニック、 “知らないんですか?インドにいる日本人はその 度胸、ハイスピード、ネタ等を総動員して、オレ 話題でもちきりですよ。どこかの観光地で日本 らはるばるデリーから来たぜ、しかもポンコツ 人に会うと、お前会った?ううん、見てない。会 スクーターで。と全市民にアピールすることも いたいよな、今どこ走ってんだろ。なんて話にな 忘れずにゴールヘ向かった。 るんですよ。” やっとゴールした。嬉しさのあまり、大切なマ 『変な奴もいるもんですね。』 ルボロを3本まとめ吸いをした。 (後でかなり後 “そろそろ帰国なんで最後に一目、どんな奴だか 悔することになる)とりあえずコーラで乾杯を 知りたかったなあ。” し、記念撮影をする。どんなときでも、ゴールす そこですかさず、実はそれオレらなんです、と るとだれもが清々しく、爽やかで輝いた顔をす ぶちかました。最初は信用していなかったが、バ るというが二人にはそんなのあてはまらず、そ イクを見せて納得させた。握手をして別れたが、 こには、インドに、バイクに、苛酷な自然に立ち なんか複雑な気持ちだった。オレらが時の人な 向かい、排気ガスとほこりにまみれ、日焼けも加 んだって、日本に帰ったら他大に恐れられる神 わり現地人より黒くなった勇敢な誇り高き孤高 大生だもんなぁ。悪い噂は慣れてるけど良い噂 の戦士が二人立っていた。 なんて初めてじゃねーの。明日はバイクを売っ その晩、レストランにてビールで乾杯をする。 た金でお土産でも買うかと二人で笑いながら酒 そこで会った一人の日本人の話によると、どう を飲んでいるうちに夜は更けていった。 やら我々二人がインドでちょっとした有名人に -167- (気候) 我々が行ったこの時期は乾季であり、快晴が続いた。雨の日は 2,3日位であった。雨といっても日本のように一日中降り続くわ けではなく、スコールみたいなものである。 日中は日差しが強く、汗ばむ陽気である。Tシャツ、短パンでも 暑い日があった。逆に、朝晩はかなり冷え込む。フリースを着て シュラフに潜り込む日も。 もしシュラフを持って行っていなかった ら、この旅は1週間ももたなかっただろう。昼と夜との温度差がか なりある。 インドに行きたい人へ [インド概要] インドには25の州と7つの中央政府直轄領がある。使用言語別に再 編成したものが現在の州区分の基本になっているため、インドでは州 ごとに言葉が違うといわれる。言葉が違うというのは民族、文化も異 なるということであり、個性的な州をひとつの国と考えると、その集 合体であるインドはまさにひとつの世界といえるだろう。州が変われ ば、文化や言葉だけでなく、人々の気質や服装、生活習慣、家の建て 方まで異なってくるだろう。 (言語) 本文中にも記したが、多くの種類の言語が飛び交っている。大都 市ならば英語が通じるが、地方に行くとまったく通じない。そこの 言葉のみ。主にヒンドゥー語である。身振り手振りでなんとかなる こともある。 片言でもいいからヒンドゥー語を勉強していくことを 薦める。ヒンドゥー語はいきなり聞いてもまったくわからない。 (面積) 328万7782平方km 日本の約8.7倍。 (人口) 9億3574万人(’96) 21世紀には10億人を突 破し、中国を抜いて世 界一ともいわれる。 日本の約7.5倍。 (食事) 墓本的には以 下のメニューで ある。 (言語) ヒンディー語を公用 語とし、憲法では14の 言語が地方語とされて いる。実際には、845の 言語・方言があるとい われている。 (冶安) はっきりいって悪い。 今回大きなトラブルがなかったのも、たまたま運がよかったと考える べきだろう。本文中にも記したが、爆弾テロや暴動も頻繁に発生して いる。それと、強盗、窃盗などによる被害だろう。荷物を取られたら、 まず出てこないと思ったほうが良い。手荷物などはちょっとしたすき に盗難に遭うので十分に注意し、貴重品は首から下げる、身体に巻く などの措置が必要である、その他の犯罪としては、観光客をターゲッ トにしたゆすり、たかり、詐欺、強姦などだろう。対処としては、親 切そうに声をかけてくるインド人には注意を要すること。インドに儲 かる話は絶対ないということを肝に銘じる。夜間の一人歩きはできる だけ避ける。 その他、多民族、多宗教が混在しているインドでは、特定の民族や 宗教に対する批判や言動は差し控えることが必要である。 -168- 朝食はビスケットとチャーイ、 昼食もビスケットとチャーイであ る。途中の町にはレストランのようなところがなく、時間を節約す るために簡単な食事だった。そのぶんタ食はきちんとしたもので、 カレーとチャパティー、 もしくはフライドチョーミンと呼ばれる焼 きソバみたいなものを食べた。 バナナやりんごなどの果物を休憩の ときに食べた。 休息日には朝から晩までいろいろな食べ物にチャレンジし、食べ に食べまくった。なかでも、ヨーグルトに水と砂糖を加えてかき混 ぜたラッシィーという飲み物や、 豊富な果物をつかったパンケーキ などのデザート類がけっこういけた。 たまにパンとジャム、 バターなどをビスケットのかわりに食べた が、日中は気温が高く、次の日にはカビが生えていた。あまりおい しくなかった。 -169- (物価) でピンキリで、我々はツイン、木のベッド、トイ 1ルピー=約3.3円。都市部ならどこにでも銀 レとシャワー共同で 50 ∼ 100 ルピーの宿に泊 行があり、TC、外貨ともに両替えできる。なぜ まっていた。リクシャー、バス、電車などは利用 か両替え時にパスポートが必要。おまけに宿泊 していないので分からないが、かなりの人達が 先も聞かれる。 利用しているのでそんなに高くはないだろう。 インドの物価を日本円に換算してみると、か たばこI箱10∼30ルピー。ビリーなら3ルピー。 なり安い。が、しかし、インドには定価というも マルボロやマイルドセブンなどの外国たばこは のがない。何を買うにも何をするにも値段交渉 50∼60ルピー。マルボロはインドでは高級品な が必要である。我々日本人は金持ちと思われて のである。日本円ならたったの160円位だが、イ いるのか、何十倍、何百倍とふっかけられること ンドでの2食分にあたるので、日本の感覚で2食 もある。何軒か見て回って、相場を確かめた方が 分ということになると、たばこ一箱 1200 円と いいだろう。根気強い値段交渉と見事なまでの いったところか。ガソリン 1 ̄25 ∼30 ルピー。 語学力でさらに安くすることも可能と思われる。 インドではかなりの高い買い物だった。1日の食 カレー20ルピー(ちなみに日本のようなライス 費よりI日の燃料費の方がだんぜん高かった。 はつかない)。チキンが入ると15 ルピー位プラ ス。ライス10ルピー。ナーンI0ルピー。チャパ (費用) ティー(インドではナーンは高級であり、一般の 航空券 89000円 人はチャパティーしか食べられない)1 枚 3 ル 空港使用料 2040円 ピー。ターリ(インド式定食)30ルピー。タンド 旅行損害保険 10000円 リーチキン一羽 70 ルピー。チャーイ 1杯 1∼2 バイク 25000円 ルピー。ジュースlOルピー。その他、人の集ま ガソリン(90円/l) 7200円 るところには屋台や露店があり、いろいろなス 生活費(1000円/日) 30000円 ナック系が、1個3∼5ルピー。野菜や果物はほ 修理費、工具代 10000円 とんどがそろっていて、10∼20ルピー。宿は、手 個人費 50000円 の出せない超高級ホテルから激安ドミトリーま 合計 223240円 -170- (装備) カースト間題については、インドの人々に ・キャンプ用品 とってかなり深刻なことなので、あまり軽々し テント、シュラフ、エアマット(ロール く話題にするべきではない。我々はインドの マット)、火器(MSR)、コッヘル、コ カースト制度についてどうこういえる立場では ンパス、地図、ナイフ、浄水器(ピュア) ないのである。日本にだって、インドほどあから ・衣類 さまでないというだけの話で、やはり差別はあ Tシャツx3、下着x3、フリース(トレー るのだから。 ナー)x2、ナイロンパーカ、靴下x3、ズ ボン、半ズボン、靴、サンダル (最後に) ・貴重品 ほとんどの奴が飛行機や鉄道を利用し、主要 パスポート、現金(T/C)、航空券、旅 都市や観光名所だけを見て回っていると思うが、 行損害保険証、時計、ラジオ、カメラ 我々はバイクという乗り物を利用することに ・薬品 よって本当のインドを身近に見ることができた。 消毒液、下痢止め、胃腸薬、痛み止め、 インド人に騙されたとか、貧しい人を見たとか 風邪薬、目薬、虫よけ、バンドエイド、 言っても、所詮それは都市部のことで、都市に住 ガーゼ、包帯 めるだけまだましなのである。本当に貧しい人 ・雑貨 達は都市に行くことすらできず、その日を過ご 洗面用具、カギ、ヘッドランプ、蚊取り すのもままならないのだから。 線香、目覚まし時計、サングラス、メガ 観光客もこないような小さな村などに寄ると、 ネ、コンタクトレンズ、荷物バンド、燃 最初は珍しがっているがいっしょに話をしたり、 料タンク、細引き、ガイドブック、辞書 食事をしたりと我々を優しく、そして暖かく迎 え入れてくれるのである。これが都市部になる (生活) と、犯罪やら事件やらが多発し、金を稼ぐ事や物 服や靴、シャンプーや石鹸、歯ブラシなどの洗 を貰う事ばかり優先して、安心していられない。 面用具、時計や工具、電池、ラジオ、ライトなど どちらにも別々の悩みや痛みがあるだろう。都 ほとんどなんでも揃う。食事は現地のものが合 市部に比べればそんな村などちっぽけな存在で、 わなくても、果物や観光客向けのレストラン、日 不便であるかもしれない。しかし、そんなものが 本食もある。但し、日本食はあまり美味くなかっ なくても彼らは、懸命に生き、楽しく暮らしてい た。まず、トイレに紙はない。高級ホテルは別だ るのである。彼らはまぶしいくらいに輝いてい が。トイレに行くと水道と小さなカップがあり、 て、豊かで、便利な文明社会に生きる我々に何か その水の入ったカップを右手に持ち、後ろから を訴え、そして、本当に大切な事とは何だろう? 器用に水をかけながら、左手で洗い流すのであ 本当の幸せとは?と考えさせるのである。 る、慣れれば結構気持ちいい。心配しなくてもト こんなにはやく行き急ぐ日本の中で、時の速 イレットペーパーはどこでも売っている。毎朝 さについて行けずに夢を見失ったら、またイン 片手に空き缶を持ち、多くの人達が川へ行き、つ ドに戻って来よう。挫折しそうになったらイン れウンコをしているのを見かける度に参加する ドの人々を思い出そう。勉強や仕事に疲れたら、 大橋だった。 インドののんびりさを見習おう。 3秒ルールはやらない方がいい。ただの下痢な 橋の下を流れる河のように、何マイルもが過 らまだしも、赤痢やコレラになる可能性もある ぎてゆく。明日を目指して走るんだ。力の限りを ので冗談抜きでやばい。 尽くして頑張るんだ。目の前に伸びている道は、 今回、正露丸、マキロンそしてウナコーワを三 オレ達の求めているものに続いている。 種の神器とした。かなりの頻度で活躍してくれ、 インドに行くぜ!“平凡すぎる毎日”と、今を 本当に心からお礼を言いたい。ありがとう。 後悔しないために。 -171-
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