中国語と外来語~モダン上海の西欧語受容

創立 30 周年記念講演会
中国語学習者の集い(京都)
2011 年 10 月 1 日 ハートピア京都
中国語と外来語~モダン上海の西欧語受容~
斎藤
敏康(日本中国語検定協会評議員)
はじめに
日本語と中国語には同じ言葉が多い(日中同形語)
(a)*要求
*建設
*可能 *解放
*準備
*青年
*特別
(b)*形成
*発展
*温度 *企業
*現代
*反応
*政策
*朋友
*金属
(a) は中国語を典拠とする語
(b) は日本語を典拠とする語(和製漢語)
日中の中等教育教科書(理科・社会科)の語彙調査と
比較頻出度の高い 3000 語を比較――90%以上の語彙の
意味が一致する。
19 世紀においてともに西欧の衝撃を受け、西欧の学術、制度を受容した両国の夥しい苦闘(翻訳と造語)を
意味するだけではない。
「西欧」を受容する過程で、両国の間に漢字・漢語という共通のツールを媒介とした言語文化の交流が存在し
た。
本日は、主として 19 世紀の日中の現代語形成過程において、それぞれの国がどのようなプロセスを経て西
洋文化を受容し、その間に両国で起こった語彙交流について概略を述べ、その上で、20 世紀に入って機械文
明と、大衆消費型資本主義文化の世界化の波が中国にも押し寄せた時期に、上海のモダニズム作家たちがそれ
をどのように表現したかについて紹介したい。
Ⅰ、中国・日本における西洋学術・制度受容(訳語)の歴史
西欧の衝撃による鎖国政策の廃止と開港、そして封建王朝の崩壊。
中国――1840 年アヘン戦争→開港、租界の発展 洋務政策
日本――1853 年ペリー浦和来航→59 年日米修好通商条約
1911 年清朝崩壊、中華民国
1868 年大政奉還、明治維新
西欧化(近代化)の歩みは、むしろ中国が先んじていた。近代学術用語は日本から中国への一方的移行だっ
たわけではない。
(1)中国の西洋文化受容
「英華辞典」
1823 年
モリソン(R.Morrison)編『英華字典』*長崎通詞が利用
1848 年
メドハースト(W.H.Medhurst)編『英華字典』
1860 年
何柴庭編『英華通語』*福沢諭吉『増訂英華通語』(万延元年)
1869 年
ロブシャイド(W.Lobscheid)編『英華字典』
*中国西学の集大成、日本の英学に大きな影響を与えた。中村正直(1879)、井上哲次郎(1884)が
それぞれ翻訳。
*明治の洋学者、例えば西周、福沢諭吉らもこれらの辞書で英語を学んだ。
「聖書」
1866 年
蘇松上海美華書館から翻訳出版。
*この他、数種類の新旧約聖書が出版され明治 10 年代の日本における聖書の翻訳に影響を与える。
-1-
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「叢書」等
1850 年
徐継余著『瀛環誌略』10 巻
1855 年
『博物新編』3 巻 B.Hobson 漢訳、物理、天文、生物学、1864 年福田敬和訳
1856 年
『英国史』8 巻 B.W.Muirhead 漢訳、1861 年訓点
1867-85 年
『六合叢談』15 冊
地理書、1860 年日本で訓点
ロンドン伝道会(London Missionary Society)上海印刷
所(墨海書館)刊行
*発刊と同時に江戸幕府の蕃書調所でも入手し、翻刻版が作成された。当時の世界のさまざまな情報をもたら
してくれるものとして、幕末・明治初期の知識人に広く読まれた。
「新聞」
1850 年
北華捷報(ノースチャイナ・ヘラルド)発刊
1861 年
上海新報発刊
1864 年
字林西報(ノースチャイナ・デイリーニュース)発刊
1868 年
中国教会新報(74 年、万国公報)発刊
1872 年
「申報」発刊
*中国最初の華字新聞
*人民共和国建国以前上海最大の新聞
*中国に西洋文化が流入する上で、租界の存在は非常に大きい。特に早くから「華洋雑居」を特徴とした上海
には「中西合壁」文化が発展した。
「洋務運動・洋務学校」
1860 年代から 90 年代(幕末から明治 10 年代)にかけて曾国藩、李鴻章らが軍事科学、産業技術、学校、工
場などの西欧技術、制度を導入して富国強兵を図った運動。船政学堂、水師学堂などが各地に設立された。作
家・魯迅が江南水師学堂で学んだことは有名である。
厳復(1854~1926)の西欧近代思想の翻訳、林琴南訳(林訳小説)になる西欧小説の翻訳なども中国におけ
る西欧思想文化翻訳の重要な一環であった。
*魯迅「瑣事」
(
『朝花夕拾』
)の中の洋務学校を回想した一節。
そこで新しい本を読む流行がおこり、私も、中国には『天演論』という本のあることを知った。日曜日
に城南へ行って買ってきた。白紙の厚い石印の一冊本で、値段は五百文だった。開いてみると立派な文
章である。冒頭にいわく―――
「赫胥黎独り一室の中に処り、英倫の南に在り、山を背にして野に面す、檻外の諸境、歴々として机下
に在るが如し。されど二千年前を懸想するに、羅馬の大将愷撤の未だ至らざりし時に当たりて、此の間
に何の景物か有りし。計うに惟だ天造草昧ありしのみならん……」
おお!世界には赫胥黎などという人もいて、書斎の中でそんなことを考えていたのか。
しかも、これほど新鮮な考え方で。一気に読んでいった。「物競」や「天択」も出てきた。蘇格拉第も
柏拉図も出てきた。学堂内には新聞閲覧所も設けられ、
『時務報』は言うに及ばず、
『訳学彙編』も備え
られた。表紙に張廉卿ばりの『訳学彙編』の四文字が青く印刷されていて、何とも言えなかった。
(2)清末および幕末・明治初期における日中の翻訳交流
1968 年
上海江南製造局翻訳館開設(中国)
江南製造局訳書分類統計表 *192 点の英書を翻訳
歴志7 政治3 交渉7 兵制12 兵学33
農学12 鉱学11
工芸29
船制7
学務3
商業2 格致6 算学11 電気5 化学 12
声学1 光学1 天学3 地学4 医学 14 図学 11
*中国は農学、鉱学、工芸、医学、兵法などの実用重視、学問も実学が多い。
1973 年
工程5
文部省翻訳局開設(日本)
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編纂局『百科全書』項目(93 種)
歴史6 政治3 兵制1 交通2 教育7
農学 14 鉱学3 工芸5 商業4
数学2 電気1 化学2 光学1 天文1
地学3 物理3 医学1 生物5
倫理3 家政4 建築3 地理 11
*日本は学術、教育を中心に技術教育重視、兵制・兵法などは別に用意がありこの表には出ない。後の家政学
につながる学問も重視。
**人文系では、日中ともに西洋史に関心、哲学、宗教、倫理学、科学、教育学の分野では日本が先行した。
これら人文分野の概念移植、訳語・新語の造語は日本で作られたものが多く、先に開国し早くに編纂され
た「英華字典」の人文分野の訳語・新語は日本の用語に取って代わられた。
1869 年
ロブシャイド『英華字典』
1874 年
『明六雑誌』等
*日本は文明開化期を迎え、西洋概念の移入、翻訳、新語造成、思想解釈などが急速に進む。
1881 年
『哲学字彙』
(84 年二版、1911 年三版)
*こうした近代語の成立プロセスを経て、西欧の新しい概念、用語が漢語(和製漢語を含む)として定着して
いく。
(3)訳語、新語の例
A,学術・法律
*科学 *農学 *哲学 *概念 *進化 *原理
*美術 *民法 *刑法 *検事 *司法 *立憲
B,財政、社会
*社会 *元金 *原価 *価値 *交換 *剰余
*人権
*義務
*共産論
*民主
*唯物論
*唯心論 *外債
*広告
C,自然科学
*化学 *天文学 *物理 *拡張 *蒸留水
D,生活一般
*熱心 *現象 *本能 *確立 *魅力
*19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて、こうした用語・概念が日中共通の漢語としてそれぞれの言語の中に定
着していった。
Ⅱ、20 年代・30 年代のモダニズム文化と西洋語受容
(1)現代消費社会文化のグローバライゼーション
第一次世界大戦後にヨーロッパに起こったモダニズム(現代主義)の思潮が中国に流入してきた。また大量
生産・大量消費を特徴とするアメリカ型消費文化も中国にもたらされた。共産主義の原理に立つソ連が現れる
一方で、欧米的現代文化が世界に広がる時代が到来した。
F.L.アレン著・藤久ミネ訳
『オンリー・イエスタディ―1920 年代・アメリカ―』(ちくま文庫)
『シンス・イエスタディ―1930 年代・アメリカ―』(ちくま文庫)
自動車(汽車)
、映画(電影)
、劇場(劇場)、ダンスホール(舞庁)
、キャバレー(酒吧)、デパート(百貨
商店)
、ラジオ(無線電)
、電話(電話)
、新聞(報)
、誇大宣伝(広告)
、革命(革命)、モダン(摩登)
、新女
性(新女性)
、口紅(口紅)
、ショート・カット(短髪)、ミニスカート(超短裙)、モラルの革命、恐慌(恐慌)、
飛行機(飛機)
、摩天楼(摩天楼)
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そうした世相・社会状況を西欧的な新しい文体で描いたのが 20-30 年代の上海モダニズム文学者たちであ
った。
その中心には施蟄存、劉吶鴎、穆時英、戴望舒らがいたが、茅盾、丁玲なども含めてこの時代の作家には多
かれ少なかれモダニズム的な要素は存在した。
(2)モダニズム文学の表現と文体
1.バンドの風景――茅盾『子夜』
(1931 年)
太阳刚刚下了地平线。软风一阵一阵地吹上人面,怪痒痒的。苏州河的浊水幻成了金绿色,轻轻地,悄悄地,
向西流去。黄浦的夕潮不知怎的已经涨上了,现在沿这苏州河两岸的各色船只都浮得高高地,船面比码头还高了
约莫半尺。风吹来外滩公园里的音乐,却只有那炒豆似的铜鼓声最分明,也最叫人兴奋。暮霭挟着薄雾笼罩了外
白渡桥的高耸的钢架,电车驶过时,这钢架下横空架挂的电车线时时爆发出几朵碧绿的火花。从桥上向东望,可
以看见浦东的洋栈像巨大的怪兽,蹲在暝色中,闪着千百只小眼睛似的灯火。向西望,叫人猛一惊的,是高高的
装在一所洋房顶上而且异常庞大的霓虹电管广告,射出火一样的赤光和青燐似的绿焰:Light,Heat,Power!
这时候----这天堂般五月的傍晚,有三辆一九三〇年式的雪铁笼汽车像闪电一般驶过了外白渡桥,向西转弯,
一直沿北苏州路去了。
日が地平線に沈んだばかりだ。そよ風が思い出したように吹く。顔に吹きつけると、顔が妙にむずがゆい。
蘇州河のよどんだ水が金緑色に変わり、流れるともなく西へ逆流している。いつの間にか黄浦江が上げ潮にな
ったのだ。蘇州河の両岸にもやっている大小さまざまな船がみな浮き上がって、甲板が岸壁より五寸ほど高く
なっている。風に送られてパブリック・ガーデンの音楽が聞こえてくる。とりわけ豆を炒るようなティンパニ
ーの音が大きく響き、心をうきうきさせる。夕もやと霧がごちゃ混ぜにたなびいて、ガーデン・ブリッジの高
い鉄索がおぼろにしか見えない。電車が通るたびに、その下に張り渡されている架線から緑色の火花が散る。
橋の上から東の方を眺めると、浦東にならんでいる倉庫が巨大な怪獣の目のように、夕闇の中で何百、何千も
の灯を瞬いている。西はまた西で、度肝を抜くように、とあるビルの屋上に高くしつらえた、バカでかいネオ
ンの広告だ。
この時――天国のような五月の日暮れどき、三台の 1930 年型シトロエンがまっしぐらにガーデン・ブリッ
ジを渡って、西へ曲がり、北蘇州河に向かっていた。
*フォルス・フロントと呼ばれたバンドの新しい風景、特徴的な隠喩、ディフォルメ、スピードと躍動感、視
覚的。
2、情景を切り取る映画的カメラ・アングル――施蟄存『薄暮的舞女』(1932 年)
*モダニズム消費文化は映画とともにあったともいえる。特に上海には非常に多くの映画館が集中していた。
小説の描写にも映画の影響が色濃く表れる。
人们会得在每个晴天的夕暮,在从聖比也儿路经过聖母院路而通到西陵路这段弥漫着法国梧桐树叶中所流出来
的辛辣的气息的朦胧的舖道上,看见七个幻异似地纤弱的女子,用魅人的,但同时是忧郁的姿态行进着,这就是
素雯率领了她底同伴照例地到希华舞场去的剪影。
共同生活をしている素雯ら七人のダンサーが「出勤」する冒頭の光景である。
サン・ピエール通りから聖母院通りを経て西陵路にいたる、フランス梧桐の葉から流れだした刺激的な息吹
が立ち籠める朦朧とした舗道に、か細い女たちが、まるで七つの幻影のように、魅惑的なしかし憂鬱な姿で行
くのが見える、というロング・ショットにおいて、鮮烈な梧桐の息吹とともに、読む者の前に示されるのは「彌
漫」
「朦朧」
「幻異似的」といった表現によってかもされる不鮮明でぼやけた色調の画面である。そして、その
風景に仮託されているのは、悲しい女たちの心的外傷である。
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3、ダンス・ホール――劉吶鴎『遊戯』
(1930 年)
在这探戈宫里的一切都在一种旋侓的动摇中----男女的肢体,
五彩的灯光,和光亮的酒杯,红绿的液体以及纤细的指头,
石榴色的嘴唇,发焰的眼光。中央一片光滑的地板反映着四周的椅桌和人们的错杂的光景,使人觉得,好像入了
魔宫一样,心神都在一种魔力的势力下。
(略)
忽然空气动摇,一阵乐声,警醒的鸣叫起来。正中乐队里一个乐手,
把一枝 Jazz 的妖精一样的 Saxophone 朝着人们乱吹。继而锣,鼓,琴弦发抖地乱叫起来。这是阿弗利加黑人的
回想,是出猎前的祭祀,是血脈的跃动,是原始性的发现,锣,鼓,琴,弦,叽咕叽咕。……
经过了这一阵的喧哗,他已经把刚才的忧郁抛到云外去了。跳吧!他放下酒杯说。
この「タンゴ・パレス」では、全てがある旋律の中で動揺している――男女の肢体、眩いライトとキラリと
光るグラス、紅や緑の液体と繊細な指、石榴色の唇、炎を放つ眼。中央一面の滑らかに光るフロアーには周囲
のテーブルや椅子、それと人々の錯雑する光景が映じて、あたかも魔宮に迷い込んで心臓が魔力の制御に委ね
られてしまったように感じるのだ。
(略)
突然空気が振動する。楽団(バンド)の演奏が警笛のように鳴り始める。中央の楽団の楽手の一人が Jazz
の妖精のような Saxophone を人々に向かって吹き鳴らした。続いてシンバル、ドラム、ピアノ、絃が震えな
がら叫び出す。これはアフリカ黒人の回憶、出猟の前の祭祀、血管の躍動、原始性の発揮、シンバル、ドラム、
ピアノ、絃の呟き。……
ひとしきりこの賑やかな音楽が奏でられると、彼はさっきまでの憂鬱をすっかり打ち捨ててしまった。踊ろ
う!彼はグラスを置いて言った。
*垢ぬけたモダンな女や男を描かせたら劉吶鴎の右に出る者はいなかった。特にダンス・ホールのような場で
の男女の躍動感のある動きを捉えるショットは秀逸である。
おわりに
清末・明治初期には西洋の制度、文化の受容をめぐって概念の解釈や訳語、造語の相互参照・翻訳が頻繁で、
そのような形での交流が存在したが、西欧文化を取り込んでそれぞれの現代語が確立した民国期・明治後期に
なると、依然として相互の参照は続くものの、それぞれの言語習慣や言語規律に従って固有の訳語、造語が工
夫されるようになる。
しかしその後も、共通の漢字、漢語と漢語文化についての理解を基礎にして、外来語の翻訳・造語に関わる
交流は途絶えることはなく今日に至っている。
参考文献
高野繁男『近代漢語の研究――日本語の造語法・訳語法』(明治書院、2004 年)
高野繁男『
「明六雑誌」とその周辺』
(御茶ノ水書房、2004 年)
高野繁男『日本語になった西洋語――急増するカタカナ語』(大空社、2011 年)
沈国威『近代日本語彙交流史―新漢語の生成と受容―』(笠間書院、1994 年)
沈国威『六合叢談の学際的研究』
(白帝社、1999 年)
朱京偉『近代日中新語の創出と交流―人文化学と自然科学の専門語を中心に』(白帝社、2003 年)
斎藤敏康「舞王・劉吶鴎の恋」
(
『アジア遊学』No62、2004 年)
斎藤敏康「
『善女人行品』論(一)~(三)
」
(中国文芸研究会『野草』No43~45,1990 年)他
黄河清編著『近現代辞源』
(上海辞書出版社、2010 年)
井上哲次郎『哲学字彙』
(丸善、1911 年)他
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