マルカル通信 No.2 0 Paper for Multi Cultural Understanding 2008.5.19 国際教育委員会発行 「 風薫る」季節と なりました。 今年 度最初の マル カル通信は、 リトアニア訪問の体験記と今年度海 外 か ら の帰 国 枠 入 学 生 の 体 験記 の 第 一 弾 をお 届 けし ま す。 4 月7 日 から 14 日 ま で 、本 校の 生 徒9 名 と教 員2名は、ユネ スコ協同学校 「バ ルト海プ ロジ ェクト高校生 国際会議」に招待を受けてリトアニ アを 訪問致しました 。参加国はド イツ ・ポーラ ンド ・エストニア ・ラトビア・リトアニア・ロシア・ デン マーク・スウェ ーデン・フィ ンラ ンドの北 欧9 カ国と本校の 生徒達。またとない経験をしてきて くれ た人達の体験記 を、まずはお 届け したいと 思い ます。ぎっし りと詰まった皆さんの気持ちを読ん で下さい。 リト アニア 隊で 学 んだ こと 3年2 組 西崎 結 花 今 回 の 訪 問 は 、 BSP と い う 歴 史 あ る バ ル ト 海 沿岸の国々の関わりの中へ参加させてもらうと いうことだったので、今までに附属高校が経験 したことない新しい種類の海外派遣でした。そ れゆえに研修では、様々な場合を想定してディ スカッションの練習をしたり、振る舞い、態度 について学んだり、また特にプレゼンテーショ ンにはとてもたくさんの時間をかけました。今 回私たちはプレゼンテーションの中で、アジア の 一国 である 日本 と して 、どの ように 環境 問 題 、 人権問題に関わっていくべきか、という事を述 べ ま し た 。 そ し て 、 結 論 と し て 、「 私 た ち 一 人 一人が責任を持った上で、意識を行動へと移し ていかなければならない」と述べ、またそうす る 事が ESD の 中 で 目標 とな って いる 社会を 実 現 す るこ とにつ なが っ てい くと考 えま した 。 私はリトアニアで様々な国の人と関わる中で と て も 驚 い た こ と が あ り ま す 。 そ れ は 、「 こ れ か ら の 未 来 を 作 っ て い く の は 自 分 達 だ 。」 と 誰 もが強く思っていることでした。初めて彼らの 想いに気づいた時は、どうしてそう思えるのだ ろう?と考えました。しかし、後に私は彼らの 強い思いは、私たちのプレゼンテーションの結 論とつながっているのではないか、という考え に至りました。彼らが「自分たちには未来を築 い て い く 責 任 が あ る 。」 と 感じ てい た か らこ そ、 あんなに素直にそう思えたのだと思うし、そう 信じているからこそ、彼らの行動、姿勢、自分 を 見 つ め る 力 、 は す ば ら し い も の で し た 。「 自 分 」 と い う も の に 真 剣 に 向 き合 って い た し 、「 自 分」を自分の言葉で語ることが出来ました。ま た環境問題なども「自分たちの問題」として考 え てい ました 。そ れら の姿 勢に 本当に 私は 驚 き 、 感 動し ました 。 そして、リトアニアで学んだもう一つの大き なことは「想像力」の大切さです。それを強く 思 っ た の は KGB 博 物 館 へ と 行 っ た 時 で し た 。 そこには旧ソ連国家保安委員会が使用していた 監獄があり、たくさんのリトアニアの人々が収 容されていた場所です。建物の地上部分は博物 館で、地下は実際に使用されていた牢屋がその まま残っていました。牢屋の中は窓が無くドア を閉めると真っ暗で、外の看守から見えるよう にのぞき穴がドアにはありました。実際に入っ てみると、本当に背筋が凍るほどゾッとしまし た。そして、目を閉じてその当時の人たちのこ とを思うと胸が痛くなりました。そこで私はこ のように歴史を学ぶ時でも、当時の人々の気持 ちになってみて想像するとたくさんの事がわか ることに気がつきました。自分をその人に置き 換えることで、自分があたかも体験したような 気持ちになれたのです。それは歴史だけではな く、何かを学ぶ上でも重要なことだと言うこと が出来ると思いました。また、それは学ぶとき だけではなく、誰かと接する時においても言え ることであり、何をするにしても、相手の気持 ちになって考えたり、相手の立場に置き換えて みることで見えてくることがたくさんあること に気がつきました。このように「想像力」を持 ち、行動が出来たなら、相手を思いやる気持ち を持つことが出来ると思うし、平和を実現する こと が出 来る と思い まし た 。 私は今回リトアニア隊に参加して、どのよう に自分の人生を歩みたいのか、どのように振る 舞い行動したいのか、何を大切にして生きたい のか 。改め て 自分を 見つ め直 す事 が出 来ま した 。 今回、築き上げた自分のアンテナを守ることが 出来るのも自分だし、壊すことが出来るのも自 分だと思うので、このアンテナを大切にして、 さらに新しいことに出会えるように人生を歩み たいと思いました。また、この学びを普段の生 活へと還元していくことがこれからの私の課題 です。このリトアニア隊では同じ目的、同じ志 を持ったメンバーがいてくれたので、お互いに 刺激し合い、高めあうことが出来ました。しか し、実際の生活では同じ様にはいかないと思い ます。もちろん自分とは正反対の考えを持って いる人たちもいるでしょう。しかし、自分とは 違う性格、立場、考えを持った人だからこそ、 その人から学ぶことが出来るようになることが 次の私の目標です。もちろん私はこのリトアニ アで築いたアンテナを守っていきたいけれど、 時には変えなければいけない時もあると思うの です。そうやって、今の自分と違うものと摺り 合わせをして、さらに成長していきたいと思い ま す。 このようにたくさんの人に支えられ、すばら しい出会い、経験が出来たことにとても感謝し て いま す。本 当に あ りが とうご ざい まし た 。 リト アニア 訪問 を 終え て・・ ・ 2年 1 組 磯野 智貴 僕はこのリトアニア訪問団を通して本当に素 晴らしい人たちと出会い、交流してとても充実 した時間を過ごすことができました。そして、 大きく人間的に成長することができたという実 感 が持 てまし た 。ま た 、お世話 にな った 方 々( 杉 原千畝さん、日本を含め各国代表チームの生徒 や先生、そしてジャミナ高校の皆さん)から成 長する上で見習うべきところや学ぶべきところ が あり ました 。 訪問前、僕たちは春休み中毎日のように研修 がありました。研修の内容は、プレゼンやES Dについてもありましたが、リトアニアに行く う え で 必 要 な こ と に つ い て 「笑 顔の 必 要 性 」「 あ い さ つ の 意 味 」「 感 謝 の 意 味 」 な ど 少 し 哲 学 的 なことをほとんどの時間議論していました。こ の 話 し 合 い は 、 こ れ ら の 行 為 は 、『 ど う い っ た 意味があるのか、相手はどう感じるか』という ようなことを、もう一度自分たちの中で再確認 や新たに発見し意識化していくためのものでし た。 そして僕たちはこの研修を通して“気づくア ンテナ”をたてることができました。表面には 見えない感謝や、周りの好意などそういった普 段では気づかないような思いやりに気づきはじ め るこ とがで きま し た。 実際に訪問してみて各国の方々から「日本チ ー ム は 礼 儀 正 し い し 、 笑 顔 が 素 敵 で す 。」 と 言 われ、その時本当に研修で学んだことを生かせ ていると感じました。そして多くの方のプレゼ ンを見たり、意見交換をしたりと素晴らしい会 議になりました。しかし、そんな素晴らしい会 議になったのもホスト校であるジャミナ高校の 皆さんのおかげです。僕らがやっと身につけた “ 気づ くアン テ ナ ”を1 人 1人 持って いま した 。 僕らの1つ1つの行動を気にかけてくれて、何 か困ることはないかとアンテナを常に張り巡ら せながら、何か困ったらすぐに駆けつけて手伝 ってくれる、そんな「太陽」のようなあたたか い心を持っていました。そんな「太陽」のよう なあたたかい人に僕はなりたいなあと思いまし た 。 そ う い っ た 方 々 が 「 国 際 的 な 人 」、「 世 界 に 通じる人」なのではないでしょうか。帰国後、 僕はどうすればあのような人たちの仲間入りが できるだろうか考えていました。しかし、周り を探してみると、この学校にはそういった人に なれるチャンスがたくさんあります。附高祭、 国際交流、総合学習、そして日々の生活・・・ いつでも、この春休みに培ったアンテナを折ら ないようにして1歩1歩理想のリトアニアの人 々のような「太陽のような人」になれるよう日 々努力していくことが大切なんだなあと感じま した。研修や訪問、会議で感じたこと、学んだ ことを帰国後も各国の人々と交流してより深め あい 、“知” を共有 して いき た いです 。 リトアニア高校生国際会議に参加して 2 年2組 国 松 安奈 私は今回リトアニアで、私達を温かく出迎え てくれたジャミナ高校の生徒達の素晴らしい態 度・振る舞いに感銘を受けました。ホスト校と してあるべき姿はどういうものなのかというこ とをたくさん学ぶ事が出来たと思います。私は ジャミナ高校の人達の行動一つ一つに誠意が込 められているのを感じて、一人一人の振る舞い の重要さを痛感しました。個々が取る動きが学 校全体の印象につながると思います。誰か一人 でも誠意のない行動をしてしまったら学校とし ての印象はすぐに下がってしまうのではないで しょうか。小さなことでもその一人の一つの行 動は とて も大 切なの です 。 リトアニアで私達は環境に関してのプレゼン テーションをしました。前に書いたような一人 一人の行動の大切さは、私達が毎日過ごしてい る日常生活の環境についても同じようなことが 言えるのではないかと思うのです。ある人が環 境を 守る ため に小さ いこ と をし ている のに 対し 、 「そんな小さなことを自分一人が少ししても、 所詮環境なんか守れないよ」と思っている人が いると環境は決して守れないと思います。つま り他人事にしないで自分がいかに当事者として 関わっていけるか。環境を壊すのも自分達だけ れども、守っていくのも自分達しかいないと思 うのです。だから、私達の地球を良いものにす るためには、自分達が当事者の立場として、自 分達が出来る事を探していくことがとても大切 だと思います。バルト海周辺の8カ国の人達は 自分達の生活に密接なバルト海の水質やその周 りに生息している動物、植物などを大切にして いきたいという思いから、様々な角度で、調べ た結果が盛り込まれているプレゼンをしていま した。彼らの綿密なリサーチや詳しいデーター による発表は本当に素晴らしいものでした。ま た、8カ国ともが共有しているバルト海とそこ から広がる環境問題に関心を持ちみんなで問題 を分かち合い一つのものを守っていこうとして いるのがすごいと思いました。学びとは、独自 でよりも、たくさんの人と意見を交換、共有し 合い深め合っていくことにより一層深く濃いも の にな ってい くの だ とつ くづく 思い まし た 。 このように私はリトアニア隊で今までにはない ほど、深く環境問題について考える機会を持つ ことが出来ました。そして日本の友達から、他 国の友達からというそれぞれ違った視点で物事 を みる ことの 楽し さ を味 わうこ とが でき ま した 。 このような機会を与えてくださって本当にあり が とう ござい まし た 。 リト アニア 隊に 参 加し て 3年1組 皆川 聡美 私た ちは 4 月 7 日 か ら 14 日 の 8 日 間、 リ ト アニアを訪問しましたが、それまでにも約 1 ヶ 月間、事前研修に参加しました。そこで私たち は会議で発表するプレゼンを準備するだけでな く、自分たちがどうふるまうべきなのか、例え ばあいさつのような一般的なマナーや、掃除な ど一見とても基本的なことから、お互いに協力 し、それぞれが最善を尽くすといったことに至 る まで 、多く のこ とを 実践 を通 して学 びま し た 。 それらを学ぶことは確かに一個人にとって、と ても重要なことではありますが、私は初めそれ が会議に参加するための準備として重要なのだ ろ うか 、と少 し思 っ てい ました 。 しかし、その疑問は会議に参加してみるとすぐ に解決しました。というのも会議に関わってい た皆が、ジャミナ高校の生徒を含め、ホストの 方々は特に、それらをごく自然に、当たり前の ことのように行動に移していたのです。彼らは 私たちにとても親切で、またそれはとてもうれ しく、心に響くものでした。だからこそ、私た ちは彼らに対して感謝の気持ちを持って振る舞 わ なけ ればな らな い と思 うので す。 今では、私たちが事前研修から学んできたこと の重要さを、自信を持って説明することができ ま す。 また、先にも述べたように、リトアニアでは 皆本当に親切に接してくれました。人種や民族 は異なっても、人間の温かさ、気遣い、感謝の 心はどこへ行っても変わらないんだな、と実感 しました。またある時にはとてもフレンドリー で、お互いふざけ合ったり、くだらない冗談で 盛り上がったりしましたが、その時私は、みん な同じ高校生なんだなと思い、なんだかとても うれしく感じました。他の人と関わる時、特に それが他国の人である場合、相手と自分との違 いにばかり気を取られてしまいがちですが、最 も大切なのはその違いではなく、むしろ共通点 や、共感できる部分ではないでしょうか。今回 の参加国は、リトアニア、エストニア、ラトヴ ィア、ロシア、ポーランド、ドイツ、デンマー ク、スウェーデン(そして日本)であり、この 地域の国々はお互い歴史的に複雑な、暗い面を 持っ てい るこ ともし ばし ば です 。 しかし、私はそれぞれの国の参加者たちから その暗さを感じることはなく、むしろ国を越え ての交流は明るささえありました。もちろん、 彼らが過去の出来事を知らないわけではないは ずで す。 それは彼らが、被害国・加害国などといった 歴史上の立場の違いよりも、何かしら共感する ものをお互いに感じ取ったからだと、私は思い ます。違いを知ることも大切ですが、こうやっ て共 感し 合う ことが でき れ ば 、異 国間 に限 らず 、 たとえ身近な友達であっても、その関係はもっ と良 いも のに なる、 と感 じ まし た。 私がリトアニアで、もしくは事前研修を通じて 学んだことはまだまだありますが、とてもここ に書ききれません。また、学んだこと一つ一つ が、とても内容の濃いものでした。私はこれか ら、それらを忘れることなく、日々の生活、さ らに は将 来に も生か して い きた いです 。 最後になりましたが、このような素晴らしい機 会を与え、また準備し、そして私たちに温かく 接し、見守って下さった国内・国外すべての方 々に心から感謝しています。ありがとうござい まし た。 今 回、 得た もの ~自分の中に何を見つけられたのか 3 年 1 組 15 番 木 伏 奈那 最初に、このプロジェクトに関わって下さっ た全 ての 皆様 といつ も私 を 応援 してく れた 家族 、 そしてなによりも、一生で一度あるかどうか分 からないくらいこんなに貴重で素晴らしい経験 を私に与えてくださり、人の好意に“気づく” ことの大切さを教えてくださった伊井先生に心 か ら感 謝致し ます 。 私は日本人であるということにコンプレック ス を抱 いてい まし た 。高 1 か ら高 2 ま でノ ル ウ ェーに留学していたことがきっかけです。留学 する前は日本のことが大好きでした。しかし、 ノルウェーから帰国した時私は少なからず日本 に失望しました。なぜこんなにもストレス社会 なの・なんで休みが少なくていつも忙しいの・ どうして髪の色や化粧あるいは服装で人を判断 するの…。人々は余裕がなくイライラしていつ も怒っている風に見えて怖かったし、何より自 由がないと感じました。これを読んで『失望と いっても、しょうもない事ではないか。ただ駄 々をこねているだけなのでは』と思われた方も いらっしゃるかもしれません。ですが、これは 私にとって非常に深刻な問題でした。なぜなら これらの事はこれからの私の人生に深く関わっ ていく事だからです。ただ、今の私の日本に対 する考えが全て正しいとは思っていません。少 し矛盾しているように聞こえるかもしれません が、私は「私がこんな風に思う日本は世界から 見たらどんな国なんだろう?」と心配でした。 やっぱり私は日本人だから日本を見捨てる事は 出来なくて、日本の事を外国の人たちに良く思 って欲しいのです。だから、これから日本が変 わらなければいけない所は是非変えていきたい と思いましたし、もっと視野を広げていろいろ な方たちの意見や考え方をたくさん知りたいと 思いました。だから私はリトアニアへ行って自 分の肌で直接触れ合い、知りたかったのです。 同じ目的で集まってくる私と同年代の学生達は 何を考え、どんな視点で物事を見ているのか・ 一体どのような振る舞いをするのか。日本人で ある私たちにどう接してくれるのか、私たち日 本 はど う思わ れる の か 。そ れを 自分の 目で 見 て 、 感じたかったのです。こんな思いを抱えて、研 修が始まりました。研修の 1 番最初に伊井先生 がおっしゃった言葉がきっかけで、この訪問は 私個人のものではなく沢山の方たちの想いが詰 まっているものなのだと強く感じました。―― 問題解決は必ず全員でし、悩みも喜びも失敗も 成 功 も 全 部 皆 で 共 有 す る ― ― 研修 を 重 ね て い く につれて、この言葉の奥にあるもっと大切なこ とが分かってきました。皆と私は違うけれど、 相手のことを受け入れて、知る、理解する。そ し て私 の想い も分 か って もらう 、話す 、伝 える 。 今までの経験は全部捨て、新たな気持ちでこの 訪問に臨む。そうして、研修の中で生まれた新 た な目 的をグ ルー プ 全員 で分か ち合 い共 有 する 。 これらのことが私たちに求められていることで した。そしてそれこそが、本当の意味での「学 ぶ 」と いうこ とだ っ たの です。 リトアニアで出会った学生たちはみんな私た ちのことを他の生徒と同様に受け入れてくれ、 とても優しく接してくれました。こんなにも私 たちの事を歓迎してくれて、興味を持ってくれ ると は思 って いなか った の で 、私 はと ても 驚き 、 すごく嬉しかったです。でも、同時に私は自分 が恥ずかしくなりました。私は自分が日本人で あるということに囚われすぎていたという事に 気づかされたからです。初め、ヨーロッパ人の 中でやっていけるのか不安でした。見た目も違 うし、言葉も違う。コミュニケーションも上手 く取れないかもしれない。日本に悪いイメージ を 持 っ て い る 人 が 居 る か もし れ な い ・・・た く さ ん の不安がある中で、私は他のメンバーと一緒に どんな時も笑顔でいて、こちらから積極的に話 しかけていきました。すると不思議なくらい誰 とでも打ち解けることが出来ました。きっと彼 らは、私のことを日本人としてではなく 1 人の 人間として見ていたのだと思います。どこの国 から来たとかいう事よりもまず、私たちの人柄 ・態度で私たちを判断していました。私は今ま で「○○人は△△だ」と、勝手なイメージを持 っていました。でもこれからはそんな印象は捨 てて、何でも自分の目で見極めていきたいと思 います。リトアニアで彼らが私にとった態度の 様に、私も一人ひとりの人間性を見てたくさん の 人 と 仲 良く なっ て い き た い で す 。「 ナニ ジン 」 とかいうことは、友達になるのに関係ありませ んでした。文化や言葉、見た目の違いはあるけ れど皆同じ人間です。だから、私はもう日本人 であることにコンプレックスを抱きません。私 の日本に対しての考えはまだ変わっていないけ れど、どんな時でもありのままの私でいること が大切だと分かったからです。これらことを本 当に理解することが出来たのはリトアニアで出 会ったたくさんの方たちと、共に成長していっ た 8 人のメンバーのお陰です。本当にみんなあ りがとう! このメンバーだったからこそ、私の 弱いところも全部曝け出して全速力でぶつかっ ていけたのだと思っています。リトアニアでの 高校生会議は私にとって単なる環境問題につい てのディスカッションではありませんでした。 人として、これから私が身につけていかなくて はいけない大切なことを学ばせてくれた“人生 への旅”でした。心が通じ合うのに国境はない ということ、好意を受けとる側と与える側のど ちらも幸せな気持ちになれるということ、素直 に相手を受け入れることの難しさと大切さ、感 謝の心…たくさんのことを学ぶことが出来まし た。これからもまた、私は生きていく途中で道 に迷うでしょう。自身を失くすこともあるかも しれません。そんな時は、何度でもこの旅のこ とを思い出します。そうすることで、きっと私 は新たな気持ちになる事ができ、また次の一歩 を踏み出す勇気を持つことが出来ると思うので す。ここまで読んでくださってありがとうござ いま した 。 今 年度、53期生 として4月に 入学 した1年 生の 中に海外から 帰国した8名の人たちがいます。海 外での貴重な経験を体験記として書いてくれました。第一弾として四名分を今回載せています。 私 たちは自分で経 験していない こと も、文章 を読 むことで追体 験することができます。この文章を 読んで、またいろいろなことを考えて欲しいと考えています。 嵐のアメリカ生活 1 年1組 田邉 大 資 長い ようで 短い 2 年8 ヶ月だ った 。 父の仕事でアメリカ合衆国ミシガン州に渡っ たのは私が中学2年生の夏、学校で沢山の友達 ができ、クラブも盛り上がり、まさにこれから という時だった。日本への未練や、全く言語が 通じないという不安から、私はアメリカ行きを 最後まで拒み続けた。しかしながら私が騒いだ ところで父の転勤は変わらず、かといって私ひ とり日本に残るという選択肢など存在しなかっ た。 アメリカに渡って最初の1年は、正直自分で もよく耐えたと思うほど辛かった。英語ができ なかったため、現地校のアメリカ人とは気が乗 ったときに頑張って少し話すくらいで、普段は 私と同じ時期にアメリカに来た他の日本人とば かり喋っていた。学校の授業には全くと言って い いほ どつい てゆ け ず 、成 績は 非常に 悪か っ た 。 やがて学校は面白く無くなり、アメリカ人と話 す時間がほとんどなくなった。悪循環だった。 いや、チャンスはいくらでもあった。現地校 の人々はとても明るく、英語が分からない私に 熱心に話しかけてくれていたのだ。だが私は失 敗するのが怖かった、自分の言おうとすること が相手に伝わらないのが怖かった、沈黙が怖か った、だから、彼らを避けるようになっていっ た。英語を聞き取る力は多少ましになったもの の、喋る力はほとんど向上しないまま1年が過 ぎ た。 次の年、このままではいけないと日本人のほ と んど 居ない North Farmington High School へ 進 学 した。父の勧めで入部した水泳部で、私のそれ までの生活は大きく変わることとなる。水泳部 で 出 会 っ た Sam と い う 少 年 は 、 私 が 英 語 が 喋 れないのを察して、熱心に話しかけてくれた。 毎日水泳部で会うことや、いくつか授業が一緒 であったこともあって、最初は彼を避けていた 私 も 徐 々に 打 ち 解 け 、 や が て 自 分 か ら Sam に 話 し かけ られる まで に なっ た 。そ れだけ では な い 、 過酷な練習や試合の興奮を共有することによっ て 、他 の水泳 部員 とも 仲良 くな ってい った の だ 。 失敗することへの恐怖はすっかり消え去り、ク ラスメイトにも積極的に話しかけられるように なり、沢山の友達が出来た。学校の授業にも次 第に慣れてゆき成績も向上、学校がどんどん楽 しくなった。私を変わるきっかけを与えてくれ た Sam 、 そ し て 水 泳 部 の 仲 間 達 に は 心 か ら 感 謝 している。その年の水泳部最後の試合でチーム 全員で一致団結して全力で戦い抜き、応援し、 勝利し、皆で喜びを分かちあったことは私にと って 最高 の思 い出だ 。 ア メリ カに 渡って 2年 が 過ぎ 、私は 10th grade へと進級した。楽しい日々はあっという間に過 ぎ、水泳部が活動を始める冬になった。久々に 集まった水泳部には去年から見知った顔、そし て去年の卒業生のかわりに新たに加わった部員 がいた。練習が始まり、過酷であったが充実し た日々を送っていた12月のある日のこと、私 と弟を乗せた車を運転していた母に父から電話 が入る。それまで笑いながら会話をしていた母 の顔がみるみる凍ってゆくのが分かった。電話 を切ってしばらく何も喋らなかった母が重い口 を開 き 、私 達に 告げ た 。次の 4月 に帰 国だ 、と 。 一瞬何が起こったか分からなかった。必死で脳 を回転させる。確か自分たちは5年ほどアメリ カに住むと父は転勤前話していた、でもまだ来 てから2年半しか経っていないじゃないか、一 体ど うな って いるん だ。 非 常に 単純 な理由 、状 況は 常に 変化 する のだ 。 私は当時すでに高校1年生であり、日本に帰っ てからの行き先を色々と調べて回った結果、私 が高校に2年生として編入することは非常に困 難であることが分かり、いろいろな人に相談し 家族とも話合って、学年を落として高校1年生 からやり直すことに決めた。しかし、学年を落 とすことよりも、一から受験勉強することより も、何よりもアメリカを離れなければならない とい う事 実が 辛かっ た。 水泳部の仲間に帰国を告げたとき、彼らは本 当に悲しんでくれた。私にとっての最後の練習 の後、チームメイトと写真を撮った時、アメリ カでのそれまでの思い出が頭を走馬灯のように 駆け巡った。水泳部は、私にとっていわば全て が始 まっ た場 所だっ た。 日本に帰ると知ったとき、自分がアメリカで 生活出来たことがいかに幸せであったかを改め て実感した。私がアメリカで出会ったかけがえ のな い仲 間達 は 、皆 他人 を思い やり 、支え あい 、 少しの付き合いなのにまるで昔からの親友であ るか のよ うに 接して くれ た 。 私の住んでいた地域には、全米でも有名な先 生が運営される剣道道場があり中学の1年半、 剣道部に所属していた私はその道場に通わせて いただいていたのだが、道場で出会った剣友は 私が今まで会ってきた人達の中でも最も信頼で きる仲間だと感じている。アメリカという特殊 な地で特殊な経験を共有したことによって、団 結 が深 まった のだ と 私は 思う。 家族の絆も深まった。過酷な環境に放り込ま れたから、というのはもちろんだが、なにより アメリカでは家族で過ごす時間が多かった。移 動するのには常に両親の車が必要であったし、 日本の過密なスケジュールに比べ、時間にゆと りがあったため家族旅行にも何度も行った。未 知の国アメリカで私が頑張ることができたのも 父、母、弟の3人がいたからだと、心の底から 感 謝し ている 。 私がアメリカに住んでいた期間は2年8ヶ月 だが、とても密度の濃いものだったと思う。辛 いときもあったが、それすらもただ日本にいた だけでは味わえない貴重な体験といえよう。異 文化の中に飛び込み、それを肌で感じることが できた。未熟ながらも、他言語を話す人とコミ ュ二ケーションがとれるようになった。人々の 暖かさに触れた。挙げ始めたらきりが無いほど に沢山の経験、というの宝を手に入れた。附高 はこれらを生かしつつ、さらに発展させていく ことができる、今の私にとって理想の場所だ。 これから3年間、全力で学校生活、学業、そ し て海 外交流 に取 り 組ん で行き たい と思 う 。 二 つ の ふ る さ と --1 年 1組 海老 原 りさ 2008年春、私は大教大附高池田への進学 が決まり日本へ帰ってきた。15年間生きてき た中の半分以上となる8年を遠い地、ドイツ・ フランクフルトで過ごした私にとって、日本で の生活は5年ぶりとなった。帰国してすぐ、何 もかもが異なっていて戸惑ってばかりいたが、 よ う や く 落 ち 着 い て き た 。「 落 ち 着 い た 」 と い うところで、フランクフルトでの生活を話した い 。 こ こ ま で 読 ん だ 皆 さ ん の中 でも 、「あれ ?」 と 思っ た方が いら っ しゃ るので はな いか 。そ う 、 私は2度ドイツに行っていた。幼稚園の年長か ら小2までの3年間と、小5から中3までの5 年間、向こうに滞在していた。ここでは、主に 後の5年間のことを中心に書いていこうと思っ て いる 。 まず、ドイツの良いところから学んだことを 書こうと思う。それは、相手を思いやる心。こ の言葉を見たら「な~んだ、そんな人は世界の 何 処 に で も い る よ 。」 と 思 わ れ る 方 が い ら っ し ゃ る か も し れ な い 。「 ん 、 何 だ ろ う ? 」 と 思 う 方 は 、 先 へ 進 ん で も ら い た い ... 首 都 ベ ル リ ン やミュンヘンなどドイツの大都市には自然がい たるところにある。私の住んでいたフランクフ ルトは、人口約100万人のEU金融機関中心 都 市 だ っ た 。( 大 き さ で い え ば 、 神 奈 川 県 川 崎 市 と 同 じ く ら い だ 。) そ ん な 市 内 の 半 分 が 森 林 公園だった。そこは様々な植物が生い茂ってい て、ウサギやリスなどの小動物だけでなく、鹿 を見ることもできた。春夏秋冬ある中で、一番 心温まるのが、暗くて寒い上に長い冬が訪れて くる直前の短い秋。公園の中には、リンゴや桃 の木が植わっていて、それを採ることがフラン クフルト住民の楽しみの一つでもあった。自由 に採って、収穫したものは自由に使っていい。 しかし、自由だからといって独占してしまう 人は一人もいない。ここで思い出してほしい。 皆さんは、葡萄狩りなどの果物狩りに行かれた ことがあるだろう。綺麗でおいしそうなものは 一応全部取っておく、そんなことをしたことは ないだろうか。正直に言うと、私はあった。だ から、他の人と分け合って楽しもうとするフラ ンクフルト市民の姿を見て、とても恥ずかしく な っ た 。「 多 くの 人 と 分 け あ え ば 分 け あう ほど 、 喜 び は 大 きく なる 。」 と彼 ら は 考 え て いる のだ 。 私は、それから何処に行ってもどんな知らな い人とでも分けあえるものはわけようと心掛け てい る。 また、ドイツでは「どちらでもいい」という 意見は通用しないということも新たな発見だっ た。日本人学校に通う前、私は現地校に行って いた。現地校では、毎年1回か2回、学校を一 般公開する日がある。大学ではないが、オープ ンキャンパスのようなものだ。当日クラスで何 をするか、二つ候補に挙がっていた。演劇と、 生 物 学 の P.P. を 利 用 し た プ レ ゼ ン テ ー シ ョ ン 。 私は、韓国人と中国人の友達と最後までどち らかを決めずに迷っていた。私達がどちらを取 るかでやることが決まるという状態だった。ど ちらも本当に遣り甲斐のある内容だと思った。 だから悪気など全くなしに3人で「両方とても いいね。だから、どっちをやってもいいんじゃ ない ? 」と 言っ た 。だが 、そ れが 間違 いだ った 。 協力しない奴らだといって私達はすごく怒られ た。数日間、口を利いてくれなかったクラスメ ートもいた。極端な話、決め事をするときに謙 虚であってはいけないのである。一般的に日本 では、意見をはっきりと言うと自己中心的と見 られてしまうことがあることがある。だから、 はっきりと意見を言えない。でもこの経験から 私は、意見を求められているときには隠さず 言うことが重要であるのだなと強く感じた。日 本の謙虚さがドイツでは協力の無さに、ドイツ ではっきりと意見を言うことが日本では自己中 心的なことになってしまうのだ。非難されて初 めてわかった日本とドイツの大きく異なるとこ ろだった。未だにこれは本当に面白い違いだと 思 って いる。 私は 、ドイ ツ語 を小 6の とき に勉強 し始 め た 。 毎日3時間近くはやっていただろう。前から習 っていた英語のように易しいものではなかった ことが今になっても忘れられない。別にドイツ 語 な ん か 話 せ な く た っ て 困 ら な い し ... と 諦 め かけていたこともあった。しかし、1回目の滞 在のときにドイツ語が分からなく毎日泣いてい たことが頭から離れなく、意地になってでもド イツ語ができるようになってやろうと思った。 5年間、本格的に勉強した。ここで少し紹介し よう。英語には動詞の活用がほとんどないのに 対して、ドイツ語にはいくらでもある。動詞に よっては不規則変化のものもあり、それはすべ て覚えなくてはならない。また、冠詞だって、 英 語 で は 「 a 」「 the 」 で 済 む も のが 、 ド イ ツ 語 は ここには書ききれないが、全部で24あるので ある。そして、やっと何不自由なくドイツ語を 使えるようになったときに帰国が決定。やっと 身についたのに、帰国したからといって、母を はじめとしてたくさんの人に教えてもらい、自 分なりに努力して身につけたドイツ語をすぐ忘 れてしまうというもったいないことはしたくな い。忘れないためにこれからもドイツ語の本を 読んだり、ドイツの友達と連絡を取ったりして い こう と思う 。 ここに書いたことは、私が書きたいこと全部 の1割にも満たない。全部書くといったら、何 ペ ー ジ に な る か わ か ら な い ほ ど で あ る 。( 笑 ) 今、こうして振り返って、ドイツで生活して無 駄だったことは一つもなかった。私をドイツに 連れて行ってくれた両親、向こうで出会った友 達・先生方に感謝の気持ちで一杯だ。ドイツで 過ごした8年間は、忘れられることなく私の中 に 生き 続ける だろ う 。あ りがと う。 Die Zukunft geh ö rt denen, die an die Sch ö nheit ihrer Tr ä ume glauben. Eleanor R. 人生の三分の二を過ごしたアメリカで 1年 1組 合木 愛果 私は、幼稚園から中三の夏までの九年間を、 アメリカで過ごしました。そこで、バレェをし たり、夏の合宿キャンプに行ったり、多くの異 文 化と 触れた りす る こと ができ まし た。 アメリカでバレェを八年間続け、そこで二つ 学 んだ ことが あり ま す。 まず一つ目は、アメリカ人は謙虚な部分が無 いということです。失敗したらどうしよう、と か、他人からこんな風に見られていたらどうし よう、とか色々考えたりしません。自分の見せ 場が訪れると、堂々と自分を表現し、相手にど う思われるかなどを全く気にせずに踊ります。 けれど日本だと、ついつい他人の目を気にして しまい、悪い意味でこんな風に思われているか もしれない、と思い切って踊れないことが多い と思います。私はそのアメリカ人の自己表現力 に圧倒して、自分も遠慮せずに踊ろうと思いま した 。 そ して 二つ 目は 、達成 感の 喜び を学 びま した 。 発表会に向けて毎日何時間も練習あって、先生 に怒鳴られたり、足が痛くなったり、と途中で 何度もやめようと思ったことがありました。け れど、発表会本番が大成功に終わり、共に踊っ た仲間たちと喜んでいたら、今までずっと頑張 ってきたのだからここで諦めないぞ、と思い、 続け る決 心を しまし た。 夏に、バイオリンとバレェの宿泊キャンプに 行きました。バイオリンは二週間で、バレェは 三週間あり、ずっと親元から離れて過ごしまし た 。こ の二 つ のキャ ンプ に行 って 学ん だこ とは 、 どこへ行っても自分より優れた人がたくさん居 る、ということです。私より回転が上手な人、 私よ り体 が柔 らかい 人 、私よ り全 てが 上手 な人 、 とたくさん居たけれど、その人たちを追い越そ うと 頑張 りま した。 アメリカは色々な国から来た人がたくさん集 まっていて、多くの文化や言語と触れることが 出来ました。例えば、クラス全員が自分の出身 国の食べ物を学校へ持って来て、みんなで食べ たり、民族の衣装を着て登校したり、そうして たくさんの文化を学ぶことが出来、とても楽し かっ たで す。 ア メリ カの 良いと ころ は 、自然 がい っぱ いで 、 またみんなとても愛想がいいところです。アメ リカ の学 校は 、高い 木と 深い 緑に 囲ま れて いて 、 たまに野生動物が出てきて、本当に大自然の中 にあります。それに比べてほとんどの日本の学 校は 、賑やか で 窮屈 な街 の中に あり ま す 。私は 、 自然の中にあるほうが静かで落ち着くし、勉強 しやすいと思うので、アメリカの学校はとても 良い 環境 の中 にある と思 い ます 。 アメリカ人は、知らない人と目が合ってもに こっと笑いかけたり、初対面からとても楽しそ うに話しかけてくれたりと、とてもフレンドリ ーで す 。ス ー パーへ 行っ た時 に気 づき まし たが 、 アメリカの店員さんは「こんにちは。元気です か 。」 と 気 遣 っ て く れ ま す が 、 日 本 の 店 員 さ ん は 、 た だ 「 こ ん に ち は 。」 と 言 う だ け で 、 愛 想 が悪 いと 思い ました 。 アメリカで困ったことは、私の住んでいた地 域は車がないとどこにも行けなかったので、常 に親の足がいることでした。友達と遊びに行く にも、親に送り迎えを頼まなければならなかっ たので、とても面倒でした。日本みたいに、バ ス や電 車など があ れ ば良 いなと 思い まし た 。 帰国してから気づいたことは、日本人は常に 団体行動をすることでした。トイレへ行くにも 誰かが付き添ったり、職員室に行って届けを出 すだけでも誰かについてきてもらったりと、一 人 で行 動しな いの だ なぁ と思い まし た。 これからしていきたいことは、アメリカの学 校にない文化祭や体育祭など、学校行事に積極 的に参加していきたいです。又、習得した英語 を活躍できる仕事を見つけて、それに頑張って 努 力し ていき たい と 思い ます。 中国で生活して 1年1組 戸田真 莉子 私は中国の北京市、青島市、天津市に合計 8 年半住んでいました。途中で日本に 2 年間帰っ ていたので、初めて中国に行ったときからもう 10 年 以 上 も 経 ち ま し た 。 久 し ぶ り に 日 本 で 生 活 して、日本と中国の時間の進む速さの違いにと ても戸惑っています。中国は皆がとてもマイペ ースで、時間がゆっくりと流れていました。日 本では人がとても忙しそうに歩いていて、中国 の速さに慣れてしまった私には付いていくだけ で も一 苦労で す。 中 国 は 今 と て も 発 展 し て き て い る 国 で す 。 10 年前と現在では街の風景がまったく違います。 私が初めて中国を訪れたときは、道路に馬車が 走って、道を鶏が歩いていました。車も数種類 しかありませんでした。しかし、現在は高層ビ ルが立ち並んでたくさんの車が走っています。 日本が長い間かけて行った発展を、中国は数年 でやってしまったのです。経済が発展してきて いるので、中国にはとても活気があります。昼 夜を徹して道路やビルの建設工事が続き、わず かな日数で幹線道路が出来上がります。今はオ リンピックが近いので尚更です。中国人のより よい生活を求める前向きな向上心は、見ていて 感 心し てしま いま す 。 また中国は貧富の差が大きい国です。道で物 乞いをしている人もいれば、高級車を何台も持 っている人もいます。学生の昼食を見ても、高 いレストランで食べている人と安い弁当などの 人がいます。経済が発展してきて裕福な人はさ らに裕福になってきているので、貧富の差は広 が って きてい るよ う です 。 皆さんは中国をどんなふうに思っているので しょうか。オリンピックなどで問題があり、あ まりいい印象を持っていない人が多いのかもし れません。しかし私は中国に住んで嫌な思いを したことはありませんでした。反日活動などか ら中国人は日本人を嫌っているというイメージ がありますが、実際に接してみるととても親切 な人ばかりでした。特に子供に親切で、私が幼 かったころ冬に半ズボンをはいていると、見知 らぬ人が「寒くないの」と心配してくれたこと があったくらいです。中国人は好奇心旺盛な人 が多く、会ったばかりの人でも私にたくさん話 しかけてくれました。タクシーに乗ると「何人 なの か 」な ど 質問さ れる こと がよ くあ りま した 。 そして日本人だとわかると、自分が知っている 簡単な日本語で話しかけてくれました。私が会 った中国人は少ししか話したことがなくても友 達だと言ってくれるような、誰にでも分け隔て なく 接し てく れる人 ばか り でし た。 日本で報道されているように、確かに中国に は色々な問題があるのだと思います。たとえば 環境はとても汚染されています。空気がとても 悪く、外出すると鼻の中が真っ黒になります。 霧の日はなるべく外に出るなとニュースで言う ことがあるくらいです。ビニール袋の大量消費 などが原因の白色汚染なども起きています。し かし、近々ビニール袋を有料にするなど、最近 は解決への努力をしています。それに私は中国 でとても楽しい日々を送ることができました。 だから報道されている姿が中国のすべてだとは 思わ ない でほ しいと 思い ま す。 中国には良いところがたくさんあります。8 年半中国で暮らした私としては、これから日本 の皆さんの中国の印象が少しずつでもよくなっ てく れれ ばと 思いま す。 編集 後記 今回から、マルカル通信の担当を引き継ぎま した。前任の中野先生のご苦労を感じる毎日で す 。 ▼ 「 大 切 な こ と は 目 に は 見 え な い 。」『 星 の 王子さま』の一節です。見えない大切なことに 気付いた皆さんの経験が、周りの人たちにも伝 わっていくことを祈っています。▼今回載らな かった皆さんごめんなさい。既に沢山の原稿を 受け取っているのですが、一度に分厚いマルカ ル通信を発行するよりも、二回に分ける方がよ いと判断しました。すぐに第二弾を発行します ので少しお待ち下さいね。▼一年生の能勢の研 修合宿も終わり、中間考査がそこまで来ていま す。皆さんのことなので心配は必要ないのでし ょう が、 健闘 を祈っ てい ま す。 (M )
© Copyright 2024 Paperzz