平成24年度 奈良県立大学 地域創造学部 社会人入学試験 小論文試験問題 問題 次の文を読んで、以下の問 1 と問 2 に答えなさい。 私は阪神間、つまり東西を大阪と神戸に、南北を海と山に囲まれたところに生まれ育った。こういう 地形感覚はいまでも根深く残っている。つまり、なにかに囲まれていないと心理的に安定しないのであ る。関東と関西の対抗意識もあるが、そういう地形感覚とは異質のものである。たとえば、私はすぐ傍 の大阪という都市は扇状にひろがっていてさっぱりつかめないし、京都は内陸的で海という出口がない から好きではない。むろんこれは好みの問題であって価値の問題ではない。 もしそうする余裕があるならば、ひとは移住するとき、前と近似的な場所を選ぶ傾向がある。谷崎潤 一郎の関西移住もその一例かもしれない。震災で旧江戸の街並が破壊されたとき、彼はむしろ関西の都 市に江戸を感じたのである。重要なのは、この作家が本能的に心理的安定感を確保しようとした点だろ う。この鋭敏さに私は驚かざるをえない。彼が例外的に持続しえた作家だった理由の一つは、無駄な不 安定感を節約することに対してかくも鋭敏だったという点にある。 古代人の移住にも同じような「本能」が働いたにちがいない。邪馬台国論争をみていると、誰もかれ もが現在残っている地名をまことしやかな論拠にするが、なぜ各所に同じ地名が残っているのかという 問題に私は関心がある。たぶん移住者は似たような地形を選びそれらに元居たところと同じ地名を与え た。つまり、それによってよそよそしい自然を人間的なカルチャーの下に包みこんだのである。人間に とって≪場所≫はきわめて重要な問題である。 ≪場所≫を書いた小説は非常にすくない。むろんスタンダールの『赤と黒』の冒頭の遠大な描写のよ うに、あるいはおそらくそれを意識した大岡昇平の『武蔵野夫人』のように、場所や地形を明確に描い た作品がないわけではない。しかし、ここで私がいう≪場所≫はそういうものとはちがっている。つま り、眼にみえるようなものではなくて、エドワード・ホールのいう「かくれた次元」としての場所であ る。人間のかくれた存在構造としての場所である。 (中略) 私は子供のころ、あるテリトリーの外に出るのが怖かった。今から思えばとるに足らない地域まで歩 いて行くことが大冒険だったわけである。怖かった理由は二つに分けて考えられる。一つは、「共同体」 の外に出るということへの恐怖からくる。これはまったく幻想的なものである。 もう一つは、もっと感性的なものである。たとえば、私は東京で計六回引越したが、どの土地も住ん だ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。それより先はよくわからないのだ。むろん地図をみれば わかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなけ れば、場所を実質的に感じることはできないのである。結局私が知っている場所は、いわば数多くの小 さい円から成っていて、その間には何のつながりもない。不思議なことに、それらの円の規模は子供時 代のそれとあまり変らないのである。小さくもなければ大きくもない。このことは親しい交際範囲につ いてもいえる。円の数は増えても、円の大きさはほぼ一定しているからである。 これは、ホールが動物学的に「社会距離」とよんでいるものに近い。人間の場合、最大限大人の足で 夜明けから夕暮れまでに往還しうるような距離だろう。しかし、人間にあるのはこういう感性的な、生 きた空間だけではない、先に述べた幻想的に区切られた空間の方が支配的である。 今は知らぬが、私が小学生のころは校長室が怖かった。その場所が危いからではなくて、それが学校 という「共同の幻覚」 (柳田国男)によって区切られたタブーの場所だったからである。おそらく、こう いった幻想的な空間が廃絶されることはないだろう。たんにかたちを変えるだけだろう。中学生になれ ば、もはや校長室などを馬鹿にするが、やはりまた別の何かに恐怖するように。いたる所にこういう幻 想的な空間がある。 だから、われわれは生きた感性的な空間と、さらに共同体や国家のような幻想的な空間とをもってい る。ところで、第三の空間がある。それは均質でのっぺりとひろがった空間である。地図のような空間 だといってもよい。要するに感性的にも幻想的にも区切られていないで、密度も濃度も均等な空間なの である。たとえば、柳田国男は、登山客が地元民にとってはタブーの地を平然と通過することを例にあ げている。登山客にはそういう空間はみえない。なぜなら、現代風の「登山」が成立したのは、もとも と均質・近等な空間が成立したとき以来だからである。 直感的にいえば、われわれが新聞やテレビで知るような場所や事件はこういう空間に属しているよう に思われる。それは近所で見聞する事柄のようなリアリティをもたないし、肉眼で見るような切実感も 、、、 ない。その上、それは妙に国際的である。沖縄、ベトナム、ビアフラ、テルアビブ……これら各地で起 っていることにわれわれは均質な関心を寄せることができる。なぜなら、それは均質な空間で起ってい るからである。 こういう空間は、先にあげた二種の空間からみれば、まったく擬似的なもので、何の実質ももってい ない。新幹線で東京から大阪へ行く「旅」のようなものだ。ここでは経験というものが成り立ちようが ない。擬似経験があるだけである。 われわれは多くのことを知らされ、また知ったような気になっている。しかし、そんなものは実は知 っても知らなくてもどうでもいいことなのである。われわれは大事件をテレビでみる。が、すぐ忘れて しまうし、忘れてしまうのも当然である。テレビには、感性的な空間におけるような経験がなくて、擬 似的な経験しか与えないからだ。また、この種の知識は安全でもなければ危険でもない。もともと抽象 的なものだからであり、均質な世界地図の上で起っているにすぎないからである。 私は「人間」について多くのことを知っている。しかし、私が実際に知っているのは数えられるほど の少数の人間である。しかも、彼らを本当に知っているかといえば疑わしい。 「人間」に関するどんな理 念も、これらの生きた他者を説明できはしない。そして、これらの生きた他者を見ずして、私は「人間」 について何を知ることができるだろうか。 われわれは日々多くのことを経験しているが、そのほとんどはたんに経験したような気になっている にすぎないので、だからこそ意味づけが性急に要求される。事件が不可解だからではない。意味づける ことで、もっともらしさを確保したいからにすぎない。A 視たものだけを視たということのほかに、ど うしてわれわれは真に「知識」をもつことができようか。 (柄谷行人「場所と経験」 講談社文芸文庫 1989 年『意味という病』所収) 問1 本文中「みる」という動詞が、下線部 A においてのみ「視」という漢字が当てられている。では、 「視る」とは何を「視る」ことなのか、本文中の言葉を用いて 100 字以上 150 字以内で説明しなさい。 問 2 筆者がいう空間の三つの次元はそれぞれ、 「地域」とどのように関係するか、あなたの考えを 600 字以上 800 字以内で論じなさい。
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