60 年目の春、33 年目の退職

60 年目の春、33 年目の退職
さんさん
− 桜咲く 石垣仰ぎ顧みる
3 3 の日々 団塊の路
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社会科 山城 典子
産声は、太宰治の『斜陽』から流行した斜陽族が話題になった 1948 年、早 60 年の歳月が経ち、いつの
間にか良きにつけ悪しきにつけ「団塊の世代」と呼ばれている。
60 年をふり返れば、青空幼稚園→ギュウギュウ詰めの教室→知能検査・学力検査→集団就職・金の卵→
受験地獄・四当五落 →学園闘争→ モーレツ社員・企業戦士→大量退職。
思えば、存在感をアピールしなければ、振り落とされる競争原理を基軸に人生のベクトルは進んできた。
気力と体力に過信をし、挙げ句の果ては老人パワーの入口である。
33 年前、補充時代に幕を閉じ、北部工→小禄高→豊見城高→南商→南工→知高と本務としての教職を無
事全うすることができそうだ。幾度も辞めようかと弱気になったこともあるが、周りの同僚の励ましがあ
ったからこそ、今日を迎えることができる。一期一会の諸先生方、お世話になりました。ありがとうござ
いました。
「教育とは教え育む」というが、私自身が生徒や諸先生方から学ばせて頂いた。
プラグマティズムのデューイは「為すことによって学ぶ」といい、ソクラテスの「無知の知」は、知らな
いということを認知し、いかに知ろうとするか。謙虚さ、素直さが成長の源であることも教えてもらった。
補充時代、公平・平等に生徒とは接するべきだと、一律に機械的に対応していた私は、A少年の愛情不
足を察知できず、ぎくしゃくした関係で 卒業式を迎えた。「先生大嫌い!俺のこと虫けらほども思ってな
いよなー」ショックだった。手紙で謝り、何回か手紙のやり取りをして、誤解を解いたこともあったっけ。
本校に赴任して、思い出の一つは「典子先生、3 年間お世話になりました。卒業を迎えるなんて、2 年前
からは想像できませんでした。これもすべて、典子先生のお陰です。本当にありがとうございました。ぺ
こり!思い返せば、1 年生の頃、教室に行けなくて、家に引きこもっていた時、学校から相談室登校がある
から利用しませんかと連絡がありました。典子先生と出会ってから相談室登校ができるようになりました。
もし、知念高校じゃなくて、典子先生と出会ってなかったら、私はとっくに高校を辞めていたと思います。
相談してくれたり、クラス替えをしてくれたり、いつも温かく見守ってくれてありがとうございました。
私は先生との思い出を胸に今日旅立ちます。先生と出会えて本当に幸せです!先生は私にとって第二の母
です。お体を大切にいついつまでも私の先生でいてください。」と、不登校生との関わりである。生徒の
気持ちに気づき、生徒に寄り添ってあげること、生徒自身の自律・自立をサポートすること、未完成な私
も失敗を繰り返しながら、逃げずに関わって来れたことは自信と誇りである。教師冥利に尽きる。
そして、JRC活動は私の教職の神髄である。クラス経営でも「気づき、考え、行動する」を基本的生
活習慣と位置づけ、自己実現と将来の進路選択を「健康・安全、ボランティア、国際理解・親善」を意識
して決定できるようにサポートすることが使命であった。さらに、私生活でも心がけているつもりだが、
下手をすると無理と空回りで失敗することも多々あった。でも、七転び八起きだと開き直ることもある。
「なんくるないさ」いい言葉だ。常に、プラス思考で未来に向かって「生きがい」を求めていこう!
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