アルフォンス・ドオデエ

アルフォンス・ドオデエ
アルフォンス・ドオデエは仏蘭西における新興文芸の
驍将で︑フロオベルやゾラの起こした写実主義に参して︑
大いなる功績を十九世紀の文壇に残した︒
フロオベルにゴンクール︑ゾラにドオデエ︑吾人はこ
の二組の名を並べて人のよく口にするのを聞く︒千八百
五十年時代を前二者が代表したとすれば︑千八百六十年
以後は後の二名が代表したと謂って好い︒そしてゾラは
暗黒を描き︑ドオデエは光明を描いた︒
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読書趣味の健全なのを誇りとしている英国の読書社会
ンスに比べるくらいであるから︑ドオデエの明るい︑楽
いる︒英国人が近代文学の唯一の誇りとしているヂッケ
評判は大したものだ︒ヂッケンスの再生だとまで言って
あとはすぐ捨ててしまう︒これに較べると︑ドオデエの
描写を憎むこと蛇蝎の如くである︒好奇心で読んでも︑
た と い う 噂 を 聞 か な い ︒ 英 国 人 は ゾ ラ の 忌 憚な き 露 骨 な
附けられて公にされているが︑ゾラの全集はまだ出版し
国ではドオデエの全集は立派な装釘で︑詳しい伝記まで
を見渡して見ると︑二人の傾向と特色とがよく解る︒英
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天的な作品がいかに英国に歓迎せられるかが推量され
る︒
大陸文学者で英国に歓迎されるのは︑ドオデエ︑ツル
ゲネーフ︑メエテルリンクなどである︒その中でもドオ
デ エ の 読 者 の 範 囲 が 一番 広 い よ うだ ︒ ド オ デエ の 特色 は
ユーモアに富んでいて︑そして余り痛い皮肉がなく︑事
件人間を取り扱うにも自己の趣味を余程多く加えてあ
る︒新聞小説的に面白く︑筋を運んだものもあるし絢爛
な文章で貧しい内容をごまかしたような処もある︒仏蘭
西初期の自然主義の中では︑著しくアイデアリスチック
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な色を帯びている︒
フロオベルなどにもロマンチックな処はある︒けれど
る︒けれどフロオベルやモウパッサンなどと比べると︑
きものは沢山はない︒彼も又実際文章には骨を折ってい
文章の絢爛なことは︑仏蘭西文学者中にも彼に比すべ
度が乏しい︒余程作者の趣味がその中に入っている︒
味やら好悪やらは加わっていない︒ドオデエにはこの態
ると同じように人間を見ようとしている︒その作者の趣
で︑作者としての態度は全く客観的である︒草や木を見
も そ れ は 文 を 書 く 上 の 用 意 や ︑ 観 察 の 仕方 な ど に あ る の
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そ の 骨折 り 方 が 違 う ︒ フ ロ オ ベ ル や モ ウ パ ッ サ ン は そ の
事実と印象とを完全に現す上に於いての鏤骨彫心の努力
をしているが︑ドオデエのはそうではない︒文章を文章
として書いているような空疎な処が見える︒同じリアリ
ス ト で も︑ 余 程 趣 が違 う ︒
自然派の作家は手帳と鉛筆を隠袋から離したことはな
い︒ゴンクールでもゾラでも︑ノートの上にノートを築
いて︑そして一篇の小説をつくり上げる︒ドオデエもや
はりそうであった︒書こうと思う処へはよく出かけて行
った︒妻と子とを伴れて︑よく一緒に出掛けるので︑ド
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オデエは北海の鯨のようだなどと言われた逸事がある︒
の方が︑作者の長所を発揮している︒就中普仏戦役に関
な ど よ り も ﹃ 粉 小 屋 よ り ﹄﹃ 月 曜 物 語 ﹄ な ど に あ る 短 篇
は ︑ 一 般 の 輿 論 で ︑﹃ 俄 分 限 者 ﹄﹃ 流 竄 王 ﹄﹃ ヂ ャ ッ ク ﹄
る︒ドオデエの作品が長篇よりも短篇に長けていること
ドオデエは仏蘭西近代文学に於ける短篇作者の祖であ
観的でいることが出来なかった︒
情とに支配されて︑ゴンクールやフロオベルのように客
楽天的であるから︑そのノートがいつも自己の趣味と感
ノートは随分作った方だ︒けれど性質が敏活で︑傾向が
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する短篇は︑かれが名を世に知らるるに至ったもの︑大
いに当時の時好に投じたのである︒けれどその傾向はは
巴里風の気の利いた短篇
やり文章中心で︑アイデアリスチックなところが非常に
多い︒
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仏蘭西の短篇作者では︑
では︑ドオデエと︑コツエと︑それから稍々後から出た
モウパッサンと︑この三人である︒モウパッサンの短編
に比べると︑ドオデエのは︑余程明るい︒所謂同情に富
んでいる︒楽天的である︒描き方に気が利いていている
のは同じであるが︑ドオデエのは少し執拗い︒その代わ
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り文章の絢爛なのや︑着想の理想的なのを好む人には︑
これにはドオデエの自伝らしい生い立ちが書かれてあ
ン グ ﹄ と 言 う の と ︑﹃ 巴 里 の 三 十 年 ﹄ と い う の が あ る ︒
ドオデエの作に﹃リットル︑グート︑フォア︑ナッシ
のも道理だ︒
情的な君子人であったのである︒英国人に愛読せられる
ッ サ ン の よ う に 根 性 の 悪 い 性 質 で は な い ︑ 温 厚 篤 実な 感
も見ることが出来ない︒ドオデエその人はゾラやモウパ
アイロニカルなアクチーブなところは何処の頁を探して
読 ん で 忘 れ 難 い 味 が あ る ︒ 従 っ て︑ 近 代 文 芸 の 特 色 な る
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る ︑﹃ リ ッ ト ル ︑ グ ー ト ︑ フ ォ ア ︑ ナ ッ シ ン グ ﹄ に は そ
の少年時代の家庭の衰退︑不幸なる生活と学校教師など
のさまがよく描かれてあって︑彼が少年時代をいかに過
ごしたかを明らかに知ることが出来る︒彼は南方仏蘭西
の小さな町に産まれた︒その年は千八百四十年であった︒
十八歳の時︑どうかして文学者になろうという考えで︑
そ の 頃 兄 の エ ル ネ ス ト が 巴 里 で あ る 会社 の 書 記 を し て い
るのを頼って上京した︒その時の光景は﹃巴里の三十年﹄
の中の﹃到着﹄という最初の一章によく出ている︒兄の
エルネストが停車場に迎えに来て︑車に荷物を積んで斧
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下宿に帰る途中︑とある下等な料理屋で朝飯を食う処な
一生懸命筆を執った﹂と︒このとき作ったのは多くは詩
て︑一本の蝋燭を携えたまま︑階段を音高く立てて登り︑
さまを見ると︑若々しい奮励の念が漲るように胸を刺し
劇場の前を歩いたりして︑所謂当代の大家の得々とした
エ そ の 時 の 心 を 記 し て 曰 く ︑﹁ 雑 誌 店 の 前 に 立 っ た り ︑
を長くして熱心に原稿を書いている挿画がある︒ドオデ
た ︒﹃ 巴 里 の 三 〇 年 ﹄ の 中 に ︑ 蝋 燭 を 一 本 立 て て 髪 の 毛
想に耽ったりどうかして少なくも一二年は書生生活をし
ど 眼 に 見 え る よ う だ ︒ そ れ か ら 下 宿 屋 の 二 階に い て ︑ 空
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で︑ 後にこれを出版しようと思って︑彼方此方の書肆を
歴 訪 し て 断 ら れ た 時 の 心 地 も そ の 章 の 中に 書 い て あ る ︒
その後︑一篇の小品を巴里の有力の新聞﹃フィガロ﹄に
送った︒ところがそれが幸いに主筆の目に留まって︑時々
掲載されるようになったので︑段々青年作者として世に
巴里書生時代は︑ゾ
名を知られるようになり︑多くの当代の文人とも交際し
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た︒兎に角ドオデエの青年時代
ラなどに比べると︑余程多幸で︑間もなく当時の大臣の
秘 書 官 に な っ て ︑ 非 常 に 可 愛 が ら れ た ため ︑ 生 活 上 の 苦
悶 も な く ︑ 時 々 は 彼 方 此 方 に 旅 行 す るこ と さ え 出来 た ︒
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六十年から六十七年くらいまでは︑短篇を多く作った︒
﹃ 最 後 の 教 課 ﹄﹃ 新 教 師 ﹄﹃ ア ル サ ス ︑ ア ル サ ス ! ﹄ な
の事件と活劇 とを書いた短篇は随分多い ︒
﹃伯 林 の 包 囲 ﹄
に対しては︑彼は愛国的悲憤を痛切に感じた一人で︑そ
うしている中︑例の普仏戦争になった︒この戦敗の悲劇
がよく書いてあるが︑これは皆その旅行の賜である︒そ
岸のことや︑コルシカのことや︑アルゼリアの風俗など
の 短 篇 に 出 て い る ︒﹃ 月 曜 物 語 ﹄ を 読 む と ︑ 地 中 海 の 海
彼 は 絶 え ず 旅 行 を し て い た の で ︑ そ の 見聞 は 多 く そ の 頃
有名な﹃粉屋より﹄は六十三年頃から始めた︒この間︑
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ど皆一種仏蘭西人的の感情の熱い血が流れている︒それ
から比較的長いもので﹃ロベル︑ヘルモン﹄というもの
がある︒画工が巴里の近郊セナルの森の隠れ家に身をひ
そ め て︑ 普 軍 の 進 入 を 見 てい る 趣向 で︑ 文 章 に も 頗 る新
しい処がある︒長篇では六十八年に﹃リットル︑グート︑
フォア︑ナッシング﹄を書いたが︑その翌年妻を娶り︑
七十一年に︑その出世作﹃タアタリン︑オブ︑タラスコ
ン﹄を書いた︒
こ の 作 は 有 名 な る 滑 稽 小 説 で︑ 作 者 の 故 郷 に 近 い タ ラ
スコンの町の出来事を材料にして︑軽快なる筆を揮った︒
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この作が当たったので︑ドオデエは同じタアタリンとい
ル ー メ ス タ ン ﹄﹃ 俄 分 限 者 ﹄﹃ 流 竄 王 ﹄﹃ サ ッ ホ ー ﹄﹃ タ
タラスコン﹄
﹃フロモンリスリー﹄
﹃月曜物語﹄︶︑
﹃ヌ マ ︑
ア ︑ ナ ッ シ ン グ ﹄﹃ 粉 小 屋 よ り ﹄﹃ タ ア タ リ ン ︑ オ ブ ︑
今 重 な る 著 作 を 挙 げ れ ば ︑﹃ リ ッ ト ル ︑ グ ー ト ︑ フ ォ
書いてからである︒
は︑七十四年︑三十五歳の時に﹃フロモンリスリー﹄を
けれどまことの意味に於いて︑文壇の大家となったの
を書いた︒
う主人公を材料にして︑
﹃タアタリン︑オブ︑アルプス﹄
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ア タ リ ン ︑ オ ブ ︑ ア ル プ ス ﹄﹃ ロ ベ ル ヘ ル モ ン ﹄﹃ ヂ ャ
ッ ク ﹄﹃ エ ヷ ン ジ ェ リ ス ト ﹄﹃ フ ォ ー ト タ ア タ リ ン ﹄ 等
で ︑ そ の 他 ﹃ 巴 里 の 三 十 年 ﹄﹃ 一 文 人 の 追 懐 ﹄ と い う 二
冊の追想録がある︒千八百九十一二年頃に﹃ゼ︑ベット︑
オブ︑ファミリー﹄という作を公にしたが︑これは余り
成 功 し た 方 で はな か っ た ︒
﹃わが劇の最初の印象﹄は﹃巴
里の三〇年﹄の中に書かれている︒
千八百九十七年に︑劇場で突然発病して死んだ︒余り
急なので︑一時は刺客に逢ったと誤伝されたくらいであ
った︒年は五十八歳である︒
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ドオデエが作には︑巴里の影響が非常に多い︒世界著
に見ることを得なかったであろう︒晩年にはゴンクール
言うを待たぬことで︑作品中に見える精密なる描写は遂
かったならば︑ 純ロマンチック風な作者になったのは︑
ドオデエの如き性格では︑この写実主義の影響を受けな
所謂﹁リアリスチックスクール﹂に参したことである︒
つは︑フロオベル︑ゴンクール︑ゾラなどと交際して︑
よ う な 心 地 が す る ︒ そ れ か ら 彼 の 作 品 に 影響 し た 今 ひ と
の作を読むと︑巴里の空気が髣髴として身に迫って来る
名の美術の都会は確かに彼の一生の頭脳を支配した︒彼
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との交情親密に︑彼のシャンブロセーの別荘は常に平和
な る 団 欒 の 場 と な っ た ︒ 彼 の長 男 は 父 の跡 を 襲 い で︑ 文
学家の一人となったが︑今でもその名は余り高くないと
いうことだ︒
要するに︑ドオデエは仏蘭西自然派の中では主として
明 るい 方 面 を 書 い た文 章 の 旨 い 作 家 で あ っ た ︒
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