地 域 の 窓 方言が禁止された沖縄 標準語 琉球語 こんにちは ハイサイ いらっしゃいませ メンソーレー 食べてみてください ウサガティ ンジミソーレー いただきます クヮッチーサビラ とてもおいしいです イッペー マーサン ありがとうございます ニフェデービル 【竹富島の方言札】 大きさは20㎝×40㎝か ら5㎝×5㎝くらいま で,名称も「方言札」 「罰 札」 などがあった。 ■ 方言を禁止する運動と方言札 戦前,沖縄の人の多くは,古くから使われてい りゅうきゅう る琉球語で日常の会話をしていた。琉球語は,日 5 本本土の日本語と共通する要素もあるが,会話で 生中心の自治団に担わせている。 5 年生は中学の はたがいにまったく通じないほどのちがいがあっ 最上級生,現在の高校 2 年生である。二中の運動 た。 で方言は沖縄の 「癌」 であり, 「非常時」 のために, がん 人々の生活言語を 「方言」 とし,発音をふくめて 10 標準語を用いようとする運動は,1900 年代以来, た。 日本の本土で学校を中心にしておこなわれていた。 ■ 徴兵制と出稼ぎ・移民 沖縄では,琉球語を方言として標準語にかえる運 沖縄で長く方言札が使われ,方言をなくす運動 動が,1900年代から戦後の1960年代まで長くおこ が続いた背景には,徴兵制と出稼ぎ・移民があった。 なわれた。 沖縄の人々は,標準語を十分に話せないとして, ほうげんふだ 15 20 すべ 「沖縄的なものの総てを取り去ろう」 とまで言われ で かせ (→p.108) 方言を禁止する運動では方言札を使う学校が多 軍隊や出稼ぎ先・移民先で差別をうけたからである。 かった。方言を使った生徒に方言札が渡され,別 方言だけでなく,沖縄の生活スタイルも差別の の生徒が方言を使うまで持ちつづけなくてはなら 対象になった。ある沖縄出身者は,出稼ぎ先で沖 ない場合があった。方言札は,東北や鹿児島でも 縄民謡のレコードを聞くときに,雨戸を閉めて蓄 使用されたが,沖縄では長いあいだ使われた。 音機に毛布をかぶせ,毛布のなかに頭をつっこん ■ 戦時下に強化された標準語の使用運動 で聞いたという。 日中戦争がはじまると,沖縄では国民精神総動 沖縄の人々にとって,方言をなくす運動は差別 員運動の一環として,琉球語の使用を禁止し,標 をうけないためであり,戦争体制強化のためだった。 準語の使用を徹底する運動が学校中心に強力に取 しかし,沖縄で方言をなくす運動が長く続いたこ (→p.130) な は ぼくめつ り組まれた。沖縄県立第二中学校 (現那覇高校) で と自体,方言撲滅に無理があったことをしめして は,1939 (昭和14) 年 6 月,標準語励行運動を 5 年 いる。 戦争末期の沖縄では,民間住宅などに多数の日 25 島クトゥバ 本軍が駐留した。日本軍は,住民から情報がもれ 沖縄では,近年,島クトゥバ(方言)を再評価する機 運が高まっている。1997(平成 9 )年,沖縄に伝わる言 こ 葉と文化を記録に残す「琉球弧を記録する会」がつくら れ,900人をこえる沖縄戦経験者の証言が,標準語では なく島クトゥバで映像に記録されている。沖縄県議会 は,2006年から 9 月18日を「しまくとぅばの日」と定め, しまくとぅばの継承をよびかけている。 ることを極度におそれ,とくに方言に神経をとが らせた。方言を使う住民はスパイとみなされ,日 本軍によって虐殺されることもあった。 (→p.152) ■参考文献 比嘉春潮ほか『沖縄』(岩波新書,1963 年) 139
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