競争政策と生産性 - 東京大学 経済学研究科 大橋弘研究室

(草稿)連載
経済学と競争政策
競争政策と生産性
東京大学大学院経済学研究科教授
大橋 弘
第二次安倍内閣が発足し、成長戦略に対する期待が高まっている。経済成長を図るために
は、企業・産業の生産性を向上させる視点が不可欠である。そして「競争なくして成長なし」
という言葉も聞かれるように、市場競争と生産性との間には密接な関係がある。本稿では両
者の関わりを論じ、さらには競争政策についても言及してみたい。しばしば政策的な議論の
俎上に上る生産性だが、その概念及び推定手法には、学問的に未だに解決していない問題が
ある。まず生産性の定義に立ち返った議論を行い(第 1 章)、次に生産性が持つ特徴につい
て紹介する(第 2・3 章)
。第 4 章では、市場競争がどのようなメカニズムを通して生産性
に影響を与えるのかを考える。最後に第 5 章では政策の果たす役割について考えたい。
第1章
生産性とは
生産性とは生産工程における効率と定義される。一定の投入量からどれだけ多くの産出
量を作り出せるかという指標である。もっとも直観的な指標としてしばしば用いられるの
が、産出量を投入量で割った投入産出比率(input-output ratio)である。例えば労働生産
性とは、産出量を投入量の1つである労働投入量で割ったものである。労働投入量として仮
に全労働者の延べ労働時間を用いるとすれば、同じ時間の投入量でより多くの生産を生み
出すことができれば、生産性は高いことになる。ただし、生産工程において複数の投入を行
う場合には、投入産出比率は生産性を表す指標として適当とは言い難い側面を持つ。なぜな
らば、同じ生産性を持つ生産工程であっても、労働以外の生産要素(例えば製造機械の数な
どに代表される資本)投入量が異なると、労働投入量を固定しても産出量が変化する結果、
労働生産性の値も異なり得るからである。資本と労働とが代替的な生産要素であり、ある企
業 A が直面する賃金率がほかの企業 B のそれと比べて低い場合には、同じ生産性を持つ 2
つの企業であったとしても、企業 A の労働生産性は高くなる。生産要素の価格(ここでは
賃金率や資本のレンタル価格)に影響される生産性は、指標として適当とは言いがたい。
こうした点を考慮して、経済学では特定の生産要素に注目する投入産出比率ではなく、全
ての投入要素を考慮に入れて生産性を定義する。全要素生産性(Total Factor Productivity)
のことである。TFP は生産に使用される全生産要素を考慮に入れて生産性を定義するもの
で、生産性の向上をすべての投入量を一定にしたもとでの生産量の増加として計測してい
る。経済学的にいうと、生産関数のシフト幅をもって生産性を定義しており、要素価格の変
1
化に伴う等量生産曲線 1上の変化と区別をしているという意味で、投入産出比率の欠点を回
避している。
TFP はどのように計測されるのであろうか。TFP は生産関数を推定した結果を用いて計
測される。なお生産関数とは、産出量と投入量との関係を示したものである。通常、延べ労
働時間や製造機械の稼働時間が長くなれば、そこから生み出される産出量は増えることが
期待されるが、そのときには産出量と投入量との間には正の関係があることになる。TFP と
は、産出量の伸びのうち投入量の伸びを除いた部分である「残差」として計測される。数式
で表現をすると以下のように表現される。
(産出量)=F(投入量)+(残差)
投入量を生産量に変換する生産工程が生産関数であり、
ここでは F として表現している。
複数の商品を生産している場合や複数の生産要素が投入されている場合にも F を再解釈す
ることによって上記の式を理解することが可能である。生産関数を推定するとは、F の関数
形をデータから識別して特定する作業を指す。推定の結果として投入量で説明できない産
出量の変化が残差として現れることになり、この残差を指して一般に TFP と呼んでいるこ
とになる。
こうして数式で表すことによって、TFP に関するいくつかの問題が明らかにされる。本
章では 2 つの大きな問題を指摘しよう。1 つは生産関数の推定に関する点である。つまり F
の特定化を間違えると、その特定化のミスは残差に反映されて TFP にも影響を与える
ことになる。2 つ目はデータ作成に関わる点である。産出量や投入量を計測し間違える
と、そのミスも残差に反映される。例えば上では生産要素として労働と資本を言及した
が、そのほかにも R&D や教育なども重要な役割を果たしているかもしれない。あるい
は労働を測る尺度として全労働者の延べ労働時間を上では例として出したが、もしかす
ると労働者をホワイトカラー(事務系)とブルーカラー(工場)労働とで分けて考える
べきなのかもしれない。こうした問題点は、残差が必ずしも純粋に生産性を表すもので
はないかもしれないという懸念に結びつくものである。
生産性の計測として残差を用いるという考え方は Solow(1957)2に端を発しており、
また生産関数の推定におけるデータについては Kuznets(1930)3によって既に懸念が呈
されていた。その後、経済学や計量経済学の発展によって上記の問題点について様々な
1
等量生産曲線とは、生産量を一定にしたもとでの複数の生産要素間の関係を表したもの
である。生産量は不変なので、等量生産曲線上の変化は生産性には影響を与えない。
2 Solow, R.M. 1957, “Technical Change and the Aggregate Production Function,” Review of
Economics and Statistics, 39(3): 312-320
3 Kuznets, S.S.1930, Secular Movements in Production and Prices, Boston: Houghton Mifflin.
2
角度から研究がなされて今に至るが、TFP の計測には何らかの仮定を置かざるを得ない
ことには変わりはなく、また特にサービス業などといった産出量を明確に把握すること
が難しい産業 4においては、生産性の計測は未だに困難な課題を抱えていると学術的に
は理解されている。生産性の計測及び考え方には、こうした背景があることを理解して
おくことはデータを解釈する際にも有用であるばかりでなく、生産性の計測結果を容易
に鵜呑みにしない姿勢を持つことにもつながるだろう。
第2章
生産性の計測と市場支配力
前章における生産性の計測において、左辺の変数となる産出量には物理的な量(鉄鋼でい
えば粗鋼等のトン数)が理想的には用いられるべきである。しかし実際には多くの場合デー
タの利用可能性の問題から付加価値や売上高など金額ベースの数字が用いられている。こ
うした金額ベースの数字を消費者物価指数(CPI)などで実質化して、「産出量」のデータ
と見なされることがほとんどである。この点を需要・供給曲線でお馴染みの価格(P)と数
量(Q)で表現すると、生産性の計測において知りたいのは Q であるにもかかわらず、デー
タでは P・Q が使われていることに他ならない 5。すると Q を一定にしたものでも P が上
昇すれば、
「産出量」が増加することになり同一の生産要素の投入量に対して生産性が増加
することになる。例えば品質の向上は価格 P に反映されることによって生産性の上昇とし
て観念されることになる。この点は、イノベーションが生産性の上昇として見なしうると考
えれば特段違和感のないところかもしれない。
しかし競争政策上の観点から問題になるのは、P の増加が必ずしも品質の向上だけではな
く、市場支配力の増強によってももたらされうるという点である。現実の市場は競争的であ
ってもしばしば完全競争の仮定から逸脱している点は本連載でもすでに説明したところだ
が 6、そうした市場構造のもとでは市場支配力が増すことが生産性上昇と混同されてしまう
ことになる。この問題は古くから知られていた点であるが 7、政策論議においてはしばしば
無視して議論されることが多い。少なくとも競争政策の観点から生産性を推定する際の課
題として注意を払っておく必要があろう。
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例えば金融仲介業を取り上げると、その生産性とは本来、借り手と貸し手とをどれだけ
うまくマッチングさせるかという点に依存すると思われる。現状の多くの研究では預金残
高や利子率などを生産量に用いているが、必ずしも正しい指標であるとは思われない。
5 ただしここでの P は実質化された値である。例えば CPI を用いて実質化したとすると、
特定の市場において P が上昇するとは、CPI 以上に当該市場における財・サービスの価格
が上昇したことを意味する。
6 例えば、大橋弘(2012 年 4 月)
「独禁法と経済学」公正取引 No.738 を参照のこと。
7 Klette, T.J ., and Griliches, Z., 1996, “The Inconsistency of Common Scale Estimators When
Output Prices are Unobserved and Endogenous,” Journal of Applied Econometrics, 11: 343-61
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第3章
生産性の特徴
経済学において、これまで様々な国の様々な産業を対象として、生産性が推定されてきた。
用いられるデータについても企業レベルや工場レベルなど様々な個票を用いて分析がなさ
れてきた。そうした分析から得られた生産性の推定値から、生産性について幾つかの特徴が
知られている。以下では大まかに2つの点に注目をしてみたい。
第一の特徴として、推定された生産性は分布としての広がりを持ち、その分布には大きな
分散が存在するという点である。例えば中国やインドにおける推定では、分布の上位 90%
分位点における生産性は、10%分位点の生産性の 5 倍近くの値になると報告されており、特
定の国を取り上げて対象とする産業や製品市場を細分化しても、生産性の分散が小さくな
るわけではないことが知られている 8。この点は、市場競争によって生き残る企業は最も効
率性の優れた企業のみではないことを示している。
第二の特徴は、その生産性の分布は時間と共に収束して分布が縮小するわけではなく、生
産性の高い(低い)企業は生産性が高い(低い)ままに、ある種の持続性(persistency)を
もって推移するという点である。生産性の高さが知識や技術によるものだとすれば、そうし
た知識や技術の模倣や伝搬が容易には起こらないことを示唆するものと考えられる。
この二番目の特徴は、教科書的な完全競争の世界が現実には生じていないことを示して
いる。つまりミクロ経済学の教科書では、企業は対称(つまり同質の生産・費用構造を持つ)
とされており、完全競争の結果として(経済的な)利潤はどの企業も 0 となるはずだが、生
産性の観点からは企業は対称ではなく、その結果として公平・公正な競争が行われるにして
も、生産性の高い企業はそうでない企業と比較して、超過利潤を得ることになる。
生産性が上昇するメカニズムには、内部的要因と外部的要因との2つが存在する。内部的
要因とは企業自らがコントロールできる資源の中で生産性に与える要因である。例えば、経
営者の能力や労働者の教育水準、あるいは情報通信技術(IT)などの導入程度は、企業自ら
が選択的に採用を行うことができる生産要素であり、内部的要因とよぶことができる。外部
的要因とは、市場環境など企業自らが操作できる範囲を超えるものの内で、生産性に与える
要因を指す。例えば、次章で説明する「市場競争」は外部的要因の一つと考えられる。
もちろん内部的・外部的要因とは便宜的な分類に過ぎず、企業自らがコントロールできる
ように見える生産要素であっても、中々簡単に操作することができないような場合が個別・
具体的には考えられうるだろう。経済学の文献では、この内部的・外部的要因が生産性に与
える影響が様々な角度から分析されてきたが、ここではわが国の今日の政策に関わる興味
8
Hsieh, C-T., and Klenow, P.J., 2009, “Misallocation and Manufacturing TFP in China and India,”
Vol.CXXIV(4): 1403-48
4
深い実証分析として 2 つの研究を紹介してみたい。
1 つは、雇用法制がイノベーションに与える影響である。雇用法制は上の定義に照らすと
外部的要因と考えてよいだろう。現在わが国では、労働規制の緩和について目下議論が行わ
れているが、バーテルマン他の研究 9によると、被雇用者側の権利を強めて解雇をしにくく
するような雇用法制の強化は、企業のイノベーションへの取組を減退させることを示して
いる。IT の導入をイノベーション活動の一指標として産業間で比較分析をすると、確かに
上の点が確認されるとする。イノベーションは成功すれば企業に成長の機会が広がり雇用
も拡大するが、失敗すれば事業の縮小(最悪の場合は撤退)を余儀なくされることになる。
雇用法制の強化は、イノベーションに取り組む企業の下方リスクに対処するためのコスト
を高めることから、企業のイノベーションへの意欲を減退させる可能性があるという点は、
成長戦略を考える上での1つの視座となりえるだろう 10。
もう 1 つ興味深い分析が、レダーマンらによる分析
11である。彼らは、企業組織におけ
る垂直統合が企業活動のパフォーマンスに与える影響を米国の航空産業に注目して分析し
た。航空産業における企業のパフォーマンスとして、悪天候下における離発着便の遅れや運
航中止を指標として取り上げ、航空会社が傘下に地域航空会社を保有しているか(垂直統
合)
、或いは地域航空会社と契約を結んでいるか(垂直分離)によって、パフォーマンスに
違いがあるか否かを調べている。事前に予測しえない突発的な天候の悪化に対しては、契約
で対処するよりも同一組織として対処した方がより柔軟な対策が打てるものと理論的に考
えられるが、レダーマンは米国航空市場のデータでその理論的な含意の裏付けを得ている。
もちろんこうした柔軟な対応を可能とする垂直統合は、一般に高い労働コストを生むこと
から、すべての企業が垂直統合を選ばないことも理に叶っている。
この分析は、1 つの産業に基づくものとはいえ、垂直統合における効率性向上効果を計測
している点で競争政策的な観点からも意義のある分析と言える。例えば昨今の電気事業に
おける発送配電のあり方に関する議論に当てはめて考えてみると、落雷などの突発的な停
電事象に対しては垂直統合の方が垂直分離よりも柔軟に対処できる点が存在することがレ
ダーマンらの研究から示唆される。一般に企業組織において垂直統合と垂直分離とのどち
らが望ましいかは経済学的に確定することはできず、いずれの組織形態においても費用対
効果の問題が存在することが知られている。企業組織のあり方について正しい理解が促さ
れるように、競争政策の観点からも発信をしていくことが重要であろう。
Bartelsman, Gautier and de Wind, 2011, “Employment Protection, Technology Choice, and
Worker Allocation,” DNB Working Paper No. 295
10 本稿では十分に論じる紙幅がないが、生産性と雇用との関係も重要な論実である。
11 Forbes and Lederman, 2010, “Does Vertical Integration affect firm Performance? Evidence from
the Airline Industry,” RAND Journal of Economics, 41(4): 765-90
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第4章
市場競争と生産性との関係
外部的要因の 1 つとして本章では市場競争を取り上げて考えてみたい。市場での競争が
促されることによって、企業の生産性が向上するという点がしばしば指摘されるが、生産性
が向上するメカニズムには大まかに分けて 2 つの経路が存在する。1 つは既存企業の生産性
の向上であり、
もう 1 つは企業の退出や参入を通じた自然淘汰による生産性の向上である。
本稿では前者を「効率性効果」と呼び、後者を「自然淘汰効果」と呼ぶことにする。それぞ
れの効果を視覚的に図示すると、図 1(a)
(b)のように表すことができるだろう。
図 1(a)に表れている効率性効果においては、市場競争が活発になることによって、既
存企業は生産性を向上させるための新規投資を行うとともに、イノベーションに向けての
活動を活性化させることを示している
12。ここには企業が合併などを通じて事業規模や範
囲を拡大することによって経済性を生かすことも含まれるだろう。
なお経済学的には、なぜ競争がなければ企業は生産性を向上させる取組をしないのかと
いう問題提起がなされてきた。かつてリーベンスタイン 13は独占企業には「X 非効率性」が
あるため TFP が低いが、市場競争が X 非効率性を解消して生産性を向上させるとした。し
かし理論的には利潤最大化を独占企業の行動原理とすれば、効率性を高めることが利潤最
大橋(2013 年 2 月)
「イノベーションと市場構造」公正取引 No.748 を参照のこと。
Leibenstein, H., 1966, “Allocative Efficiency vs. X-Efficiency,” American Economic Review,
56(3): 392-415
12
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大化につながることから、なぜ X 非効率性がそもそも独占企業に発生するのかが明らかで
なかった 14。最近の理論分析では、市場競争が活性化することによって、新技術を導入する
(広義にはイノベーションを行う)誘因が高まることが指摘されている。市場に競争がなけ
れば、そうしたイノベーション活動を行わずとも十分な利潤を得ることができる企業も、競
合相手が現れることによって消費者に対して魅力的な商品を提供するための工夫をしなけ
れば事業の縮小や退出を余儀なくされる。これはイノベーションの観点から X 非効率性を
説明する一つの考え方であろう。
また市場競争は図 1(b)のような形で自然淘汰も誘発することになる。より高い品質を
生産する効率性の高い企業が市場占有率を高め、代わりに効率性に劣る企業が市場占有率
を失っていく。また新規参入企業に最低限求められる品質や効率性も高まることになり、市
場競争の質が向上することになる。
産業・市場全体の効率性の向上において、効率性効果と自然淘汰効果とのどちらが強く表
れるのかは未だ知見として確立していない。米国の小売産業の生産性を分析したフォスタ
ーら 15によると、当該産業における生産性の向上はひとえに、独立店がチェーン店に置き換
わるという自然淘汰効果のみで説明されるとしている。わが国においても、100 円ショップ
などディスカウント店の登場が目覚ましい時期があり、米国と同様の状況が小売産業にも
見られそうである。
効率性効果による生産性向上も産業によっては顕著に見られる例も報告されている。20
世紀の米国鉄鉱石産業が、1985 年にブラジルからの鉄鉱石の輸入急増によって、鉄鉱石の
生産に必要な労働量が半分近くになった。シュミッツ 16によると、労働契約の更改による柔
軟な労働条件が生産性の上昇につながっているとしており、第 3 章にて触れた雇用規制が
生産性に与える影響における結果と内容を一にするものである。
第5章
競争政策の役割
前章でみたように、市場競争が生産性に与える影響は概して好ましいことを経済学の多
くの実証研究が示している。規制緩和や貿易の更なる自由化を通じて市場・産業への参入障
壁を低減していくことが、生産性を向上させるために望ましいことが分かる。しかし競争政
策の観点から生産性向上のための取組を考えてみたときに、いくつかの論点が存在する。こ
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そのためスティグラーは、リーベンスタインは「X 非効率性」という定義を与えたが、
整合的な理論は提供しなかったと言及した。詳しくは、Stigler, G., 1976, “The Existence of
X-efficiency,” American Economic Review, 66(1): 213-16
15 Foster, Haltinwanger, and Krizan, 2006, “Market Selection, Reallocation, and Restructuring in
the U.S. Retail Trade Sector in the 1990s,” Review of Economics and Statistics, 88(4): 748-58
16 Schmitz, A., 2005, “What Determines Productivity?: Lessons from the Dramatic Recovery of the
U.S and Canadian Iron Ore Industries, Following Their Early 1980s Crisis,” Journal of Political
Economy, 113(3): 582-625
7
こでは小売市場における参入規制を例にして、その論点の 1 つを明らかにしたい。
生産性の高い大規模小売店舗に対する立地の制限規制を政府が行い、中小規模小売店と
地理的に競合しないような政策がとられている状況を考える。この規制の下では多くの中
小規模小売店が市場に存在していた。さて或るとき、上の立地・参入規制を撤廃したところ、
大規模小売店 1 社が参入し、この高い生産性を持つ大規模店舗に対して生産性の劣る中小
規模店舗は対抗できず、市場からの撤退を余儀なくされたとする。
上の仮想的な例において立地・参入規制の撤廃は当該市場の生産性を向上させている。こ
の点は第 4 章で触れた自然淘汰を通じた効果によって明らかな点だろう。生産性に劣る中
小規模小売店が、効率性の優れる大規模小売店に置き換わったということである。
このときもし当該市場における立地・参入規制の撤廃について研究者が気付かないまま、
当該市場の競争性を評価したとしたら、どのような結論を得るだろうか。伝統的な研究者は、
大規模小売店舗の参入による当該市場における集中度が上がったことを以て、この市場に
おける競争性は低下し、その結果として生産性も低減したと十中八九結論付けるだろう。も
ちろんこの結論は仮想的事例において起きた事象とは正反対である 17。
この事例から明らかな点は、競争性を判断するときに、市場占有率に基づいた分析に頼る
ことの「危うさ」である
18。第
4 章で議論した市場競争と生産性との関係を分析した実証
研究では、参入制限や関税の撤廃などといった規制緩和の具体的且つ外生的な事例を取り
上げて生産性に対する知見を得ている。競争政策の観点から競争性を判断する際にも、こう
した実証研究に裏打ちされた視点、つまり対象となる産業・市場の現状に立ち入り、その構
造・行動・成果を丹念に分析する視点、が不可欠である。
説明責任や透明性を求められる立場からは、外形的な指標に基づく判断をする方が政策
担当者の立場からはやりやすいことも事実であろう。しかし現実から遊離した外形的な指
標に因れることのコストも同時に検討されなければならない。競争性の判断は、競争当局に
とってまさに 1 丁目 1 番地でありながら、
「競争性」をどのように判断するのか、定型的な
知見の形で示すことがなかなか難しい。市場の競争性を判断するには、実体経済を見る多角
的な視点を涵養する必要があり、そうした眼を持つことが法律に携わる実務家や政策担当
者に必要とされる。その意味で、競争政策とは極めて専門性の高い政策分野と言えるのであ
る。
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ここでは短期的な生産性の変化について議論している。効率性に優れる大規模小売店を
中長期的には競争の欠如などがあれば生産性が低下する可能性がある。
18 この点については本連載でも既に別の角度から取り上げている。大橋弘(2012 年 6 月
号)
「市場支配力と市場画定」公正取引 No.740 を参照のこと。
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