大菩薩峠38 - ReSET.JP

大菩薩峠
農奴の巻
中里介山
一
もの
近江の国、草津の宿の矢倉の辻
さら
の前に、一ツの﹁晒し者﹂がある。
だんがんこくし
そこに一個の弾丸黒子が置かれ
1
ている。往来の人は、その晒し者
の奇怪なグロテスクを一目見ると
共に、その直ぐ上に立てられた捨
札を一読しないわけにはゆかぬ。
したた
・
その捨札には次の如く認められて
あります。
ふらち
この者、農奴の分際を以て恣にて
・ ・ ・
うさんを企てたる段不埒につき三
日の間晒し置く者也。
2
この捨札を前にして、高手小手
にいましめられて、晒されている
当の主は、知る人は知る、宇治山
田の米友でありました。
彼が、この数日前、長浜の夜を
歩いた時に、思いもかけぬ捕手と、
だんまりの一場を演じたことは、
前冊︵恐山の巻︶の終りのところ
ふびん
に見えている。その米友が、今は
もろ
脆くもこの運命に立至って、不憫
3
や、この東海道の要衝の晒し者と
して見参せしめられている。
彼は今や、彼相当の観念と度胸
とを以て、一語をも語らないで、
かお
我をなぶり見る人の面を見返して
いるから、その後の委細の事情は
わからないながら、右の簡単な立
ゆ
札だけを以て、一応要領を得て往
く人も、帰る人もある。ところが、
この捨札の意味が簡にして要を得
4
つか
ているようで、実は漠として掴ま
えどころがないのです。
・ ・
そもそも、﹁この者、農奴の分
・ ・
際﹂とある農奴の二字が、わかっ
たようで、よくわからないのであ
・ ・
ります。事実、日本には農民はあ
・ ・
るが、農奴というものはない。内
容に於て、史実なり現実なりをた
だしてみれば、それは有り過ぎる
ほどあるかも知れないが、族籍の
5
・ ・
上に農奴として計上されたものは、
西洋にはいざ知らず、日本には無
とが
いはずであります。だが、往来の
・ ・
人は、別段この農奴の文字には咎
め立てをしないで、
・ ・ ・ ・ ・
﹁ははあ、ちょうさん者だな﹂
・ ・ ・ ・ ・
﹁なるほど、ちょうさんでげすな﹂
・ ・ ・ ・ ・
﹁ちょうさんおますさかい﹂
・ ・ ・ ・ ・
﹁ふ、ふ、ふ、ちょうさん者めが
⋮⋮﹂
6
などと言い捨てて通るものが多い。
それによって見ても、農奴の文字
・ ・ ・ ・ ・
よりは、ちょうさんの文字が四民
・ ・ ・
の認識になじみが深いらしい。
・ ・ ・ ・ ・
ちょうさんといえば、すでに、
ははあ、と何人も即座に納得が行
くようになっている。その一面に
ゆる
は、農奴は農奴でそれでもよろし
・ ・ ・ ・ ・
い、ちょうさんに至っては、赦す
べからざるもの、赦さるべからざ
7
・ ・ ・ ・ ・
るもの、ちょうさんの罪なること
は、まさにこの刑罰を受くるに価
すべくして、免るべからざる適法
の運命でもあるかの如く、先入的
に通行人の頭を不承せしめて、是
非なし、是非なしと、あきらめし
むるに充分なる理由があるものと
・ ・ ・ ・ ・
解せられているらしい。
しか
然らばちょうさんとは何ぞ。
8
二
・ ・ ・ ・ ・
ちょうさんは即ち﹁逃散﹂であ
・ ・ ・
・
ります。現代的に読めば﹁とうさ
・
ん﹂と読むことが普通である。
・ ・ ・
﹁逃﹂をちょうと読むことと、と
・
う﹂と読むことだけの相違なので
す。これを訓読すれば、﹁逃げ散
る﹂というのほかはない。
さら
そこで、農奴なる分際のこの晒
9
もの
し者は、﹁逃散﹂の罪によって、
ここにこの刑に処せられていると
いう観念は明瞭になりましたが、
それはただ、捨札に表われている
文字だけの意味のことであって、
これを本人の方より言えば、宇治
山田の米友が、ここで、どうして
もと
﹁農奴﹂という身分証明の下に、
更に﹁逃散﹂という罪名を以て、
うきめ
今日この憂目を見なければならな
10
い事態に立至ったのか、その観念
はなは
に至っては、明瞭なるが如くして、
いま
未だ甚だ明瞭を欠くのであります。
米友が、賤民階級に生れ出でた
ということは、本人自身も隠すこ
・ ・
とはしない。しかしながら農奴と
いう身分を自称したこともなけれ
かつ
ば、未だ嘗て他称せられたことも
ありません。やはり米友とても、
農業のことを働かせれば働きます。
11
伊勢の拝田村では、宇治橋の河原
かせ
へ稼ぎに出る間は、自宅で相当の
百姓仕事をやっていたのです。現
に胆吹山の王国では、お銀様の支
配の下に、ついこの間まで、極め
て僅少の時間ではありましたけれ
くわ
ども、鍬をとって、あらく切りな
どを試みていたくらいですから、
やってやれないことはないのです
けれども、特に農奴という戸籍に
12
数えられていたわけではない。
それからまた、﹁逃散﹂の罪は、
盗みの罪ではない。殺しの罪でも
ない。大抵の場合に於ては、逃げ
るとか、走るとかいうことは、本
罪ではなくて、いわば副罪という
ことになっている。すなわち、殺
しをし、盗みをしたことなどのた
な
めに、現地に安住が為し難くなっ
て、それから他領他国へ︱︱或い
13
は天涯地角へ逃げ走る︱︱という
ことが順序になっている。他領他
国へ逃げ走らんがために、殺しを
し、盗みをするということはない
のです。はたまた、殺しでもなく、
盗みでもなく、人の大切の妻女と
合意の上で逃げるという事態に於
てすらが、その目的は逃げること
が本意ではなく、現住地では越ゆ
るに越えられぬ人為のいばらがあ
14
ればこそ、彼等は手に手を取って
逃げるのである。
もし罰するとすれば、やはり殺
しに於ける、盗みに於けると同じ
ように、私通であり、姦通であり、
そのことに罰せらるべくして、逃
散そのことに罪があるべきはずが
ないのです。
しか
然るに、この場の晒し者は、こ
れらのいずれもの罪科に適合せず
15
して、ひとり﹁逃散﹂が罪になっ
ている。﹁逃げ走る﹂こと、或い
は逃げ走ったことだけが罪となっ
はなは
ている。観念が甚だ明瞭なるが如
くして、不明瞭なるものではない
か。
にも拘らず、通るほどの人は、
いずれもそれに黙会を与えて過ぎ
去る。
・ ・ ・ ・ ・
﹁ちょうさんか︱︱﹂
16
・ ・ ・ ・ ・
﹁ちょうさんではやむを得ない﹂
・ ・ ・ ・ ・
・ ・
﹁ちょうさんでは、どないにもな
らんさかい﹂
ひっきょう
畢竟ずるに農奴なるが故に﹁逃
散﹂が罪になるということは、当
時の常識に於て、ほぼ納得せられ
ているらしい。
然らば、農奴なる者に限っては、
殺しもせず、盗みもせず、私通も
姦通も行わずして、いわば、なん
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らの罪というべきものがなくして、
ただ単に﹁逃げ走る﹂ということ
だけが罪になるのか。
事実は、まさにその通りなので
ある。罪があってもなくても、逃
げるということがいけない、逃げ
るということが罪になる。
三
18
いぶき
かみひらやかた
胆吹の上平館の新館の庭の木立
で、二人の浪人者が、木蔭に立迷
いながら、語音は極めて平常に会
話を交わしている︱︱
﹁ありゃ、身内のものなのです、
土地っ子ではありません、ですか
・ ・
らこの土地へ来て農奴呼ばわりを
・ ・ ・ ・ ・
される籍もなければ、ちょうさん
の罪を着せられる因縁が全くない
のです﹂
19
と言っているのは、ほかならぬ元
ふ わ
の不破の関の関守氏、今やお銀様
の胆吹王国の総理です。それを相
手に受けこたえて言う一人の浪人
者、
﹁そうでしょう、数日前、拙者の
寓居を訪れてから間もない出来事
なのです、あの者がこの土地の者
でないことは、拙者もよく存じて
しか
おりました、然るにこの土地の農
20
ゆえん
・ ・ ・ ・
者として、あの男一人がちょうさ
・
んの罪をきたという所以に至って
は⋮⋮﹂
と言ったのは、過ぐる日、琵琶の
せいらんこじ
湖畔で、釣を試みていた青嵐居士
その人であります。この二人の浪
人者は至って穏かな問答ぶりであ
・ ・ ・ ・ ・
りましたけれども、その問題は、
・ ・
やはり農奴とちょうさんとの上に
かかっている。すなわち草津の宿
21
さら
もの
の晒し者のことに就いて、一問一
答を試みているのであります。
﹁ちょっと想像がつきません、洗っ
てみれば直ちにわかる身の上を、
し
ことさらに誣いて、彼をこの土地
・ ・
の農民扱いにして、そうして、ちょ
・ ・ ・
うさんの罪を着せて晒し者にした
ということの処分が、どうも呑込
めないのです﹂
と不破の関守氏が、青嵐居士への
22
受け答えと共に新たなる疑問の主
題を提供する。
﹁それは、ある程度まで想像すれ
ばできる、またそれを真正面から
見ないで、反間苦肉として見れば、
政策的に、時にとっての魂胆がわ
からない限りでもございませんが
ね⋮⋮﹂
す
と青嵐居士、透かさず相受ける。
すなわち不破の関守氏は、宇治山
23
・ ・ ・
田の米友が、突然ああしてちょう
・ ・
さんの罪を着せられて晒されたこ
との由に相当面食って、その理由
内状のほどがさっぱりわからない
と言うと、青嵐居士は、その点は
たくま
多少想像を逞しうして、魂胆のほ
どをも見抜いているところがある
に似ている。
﹁左様でござるかな﹂
﹁左様︱︱あの男とは、先日偶然
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の縁で、長浜の湖畔で対面しまし
てな、それから拙者の寓居まで立
寄らしめたという因縁がござるが、
その節、彼は夜分にもかかわらず、
振切って町へ出て、それからつい
にあの始末です、その間の事情を、
ひとづて
人伝に聞いてみますと、なるほど
と思われない事情を含んでいない
という限りもございませぬな、あ
ひとみごくう
れは一種の人身御供なのですな、
25
当人から言えば、ばかばかしい人
違いの罪科で、代官の方から言え
こうみょう
ば怪我の功名、ではない、功名の
おとり
怪我を、そのまま囮に使ったとい
う次第であろうと想像するのです﹂
﹁なるほど﹂
青嵐居士が粘液的に話しぶりを
引出すと、不破の関守氏は、他意
なく傾聴ぶりを示すのであります。
﹁後で土地の人に聞きますと、あ
26
の晩、思いもかけぬ物凄い一場の
場面が、深夜の長浜の街上で行わ
れたそうです。伝うるところによ
りますと、あの小男はあれで、勇
敢無比なる手利きであるそうです
な、捕方に向った一方も、その方
では名うての腕利きであったが、
すでに危なかったそうです。すな
わち、さしも腕利きの捕方も、す
もと
でにあの小男の一撃の下に危ない
27
運命にまで立至らせられたものら
しいが、半ば以下、形勢が急転し
ばく
て、難なく縛についたものらしい。
つまりあの小男は、最初のうちは、
やま
自分に疚しいところがないから、
理不尽の取押え方に極力反抗した
けれども、相手が、わかっても、
わからなくても、とにかく正当の
職権を以て来ているのを認めたか
らくち
ら、ぜひなく縛についたという落
28
ゃく
着らしいのです。ところで縛りは
きゅうもん
縛ってみたが、連れて来て糺問し
てみると、なんらの罪がない︱︱﹂
四
﹁ははあ、わかりました﹂
不破の関守氏は、青嵐居士から
の一くさりを聞いて、相当の頓悟
うなず
があったらしく、二度ばかり頷く。
29
﹁罪のないものに刑は行えない、
刑を行わんとすれば、相当な罪を
きせてかからなければならん、そ
こであの先生、その政策にひっか
かったのだな﹂
﹁そうです、時節がら、農民おど
か か し
しの案山子に決められたという魂
胆なのでしょう、案山子として使
用するには、不幸にしてあの男は
かっこう
恰好の条件を備えていたものと認
30
められる﹂
﹁ありそうなことです﹂
二人はここで、合点して多少の
思案にうつりました。
二人の結論では、宇治山田の米
友が、草津の辻で、ああいった運
命に落されているのは、要するに
時節柄、農民おどしのための案山
子として使用せられているのだと
いうことの推想と断案とに、あえ
31
て異議がないもののようです。
かりにそうだとしてみても、こ
ういうことをして、あの一人の若
者を案山子に使用せねばならない
時節柄の、農民の問題の急務とい
うことについては、相当の予備知
識がなければならない。
すなわち、こういうような時節
柄であって、もしあやまって土地っ
子の一人二人をでも捕えて刑に当
32
て行う段になると、反動を増すば
かりである。それをきっかけに暴
すじょう
動を誘発するようなものである。
うじ
そういう場合に於ては、氏も素姓
もわからない風来者を捕えて、人
身御供にして置けば、人気をそら
して、群集を煙に捲くこともでき
るというものである。その意味の
案山子としての使用物件には、米
しろもの
友公あたりは恰好の代物と目をつ
33
けられたものらしい。そうなると、
案山子に使用せられた彼が運命こ
そ、不幸にも気の毒至極のものと
言わなければならぬ。
青嵐居士は、かねて長浜にいて
うわさ
お銀様一党の行動を噂に聞いてい
た。ぜひ一度会ってみたいと、米
友にまで、それを言葉にあらわし
たことがある。その機縁がもう熟
して、ここで二人が対面している。
34
この二人の智者が対面して、談、
米友の身の上のことに及んで、そ
の立場がほぼ明瞭になってみると、
あれをあのままで見過ごして置く
わけにはいくまい。すでに、あれ
をあのままで見過ごさないとすれ
ば、二人の話題は進行して、いか
にしてあの男を救済せんかにある。
あの男を救済せんとするには、
代官を相手にしてかからなければ
35
ならぬことが、当然わかり過ぎる
ほどわからなければならぬ。その
お代官も、公儀お代官なのである。
徳川幕府直轄の天領お代官という
ことになる。
してみれば、二人が打揃って、
おとなしく﹁貰い下げ﹂運動でも
試みようとするようなそんな甘い
手では行くまい︱︱だが、多数を
率いて示威運動などはこの際、な
36
お悪い︱︱と観念してみたり、或
いはまた他に別の手段方法を試む
ることにでもなるか、いずれにし
さら
もの
ても、この二人の知恵者が底を割っ
えんざい
た以上は、あの冤罪の晒し者を、
あのままで置くわけにはゆくまい。
五
徳川時代の法によると、﹁晒し﹂
37
というものは、おおよそ三日間を
定例とする。三日間を生きたまま
いのち
で晒して置いて、それから生命を
取るという段取りになっている。
その生命を取る方法には、首斬り
のこぎりび
もあれば鋸挽きもある。そのうち、
坊主だけは、ただ単に﹁晒し﹂だ
いやしく
けで生命は取らない。苟も出家の
身として﹁晒し﹂にかかることは、
生命を取る以上の刑罰に価すると
38
認められたのかも知れない。いつ
のどの頃の大臣の如く、七年も八
年も晒し同様の憂目を見せられた
上に、更に二年も三年も実刑を課
せられるというような深刻な例は、
徳川時代にはなかったらしい。
してみると、あだしごとはさて
置き、宇治山田の米友も、出家で
ない限り、俗人である限り、三日
間こうして晒された上で、生命を
39
取られることに運命がきまってい
る。とすればかわいそうではない
か。当人は、この運命を自覚して
いるや否や、ものすごく沈黙した
なりで、決して口をきかない。役
き
人番卒が何と言っても口を利かな
ののし
い。見物が何と言って罵っても口
を利かない。
こうして、いよいよ二日間完全
に晒されてしまった。明日は三日
40
目の﹁晒し﹂である。明日が終れ
ば、﹁晒し﹂の方はこれでおゆる
しになるが、その代り生命の方を
召されてしまう。
さて、こうして二日間、誰ひと
り助けに来ようという者はない。
貰い下げを歎願に来ようという者
もない。また、多数の威力でデモ
を以て奪還を試みようとする勇気
もない。
41
それもまたそのはずです。この
晒し者に限って、所番地というも
のが更にわからない。単に﹁農奴﹂
としてあるだけで、何の郡の、何
村の農奴に属するのだか、その人
別が書いてない。書いてないだけ
ではない、事実、いずれの村の農
奴だか、この騒ぎの中で誰ひとり
いたず
見知ったものがないのだから、徒
らに面食うのみで、同情を表した
42
くも表するきっかけがない。
そこがまた、役向の見つけどこ
ろかも知れません。
さて、その日の夕方になると、
縛られている米友の前へ、二人の
・ ・ ・
ひにんがやって来て、無遠慮に穴
を掘り出しました。三尺立方の真
四角な穴を掘りにかかりました。
﹁おい、兄い、よく見て置きな、
明日になると、お前のその笠の台
43
と、胴体とが、上と下への生き別
れだよ︱︱首が落っこっても痛く
ねえように、土をやわらかに掘り
ふくらめといてやるぜ﹂
・ ・ ・
と、ひにんが小声で戯れに晒し者
に言いかけました。
それを聞いていい心持がするは
ずはない。新聞紙上には、議会が
自らの墓穴を掘る、というような
ことがよく出ているけれど、文字
44
むぞうさ
として無雑作に扱う分には何でも
ないが、墓穴というものを目の前
で掘られる心持は決していい心持
のするものではあるまい。
米友は、それを黙って聞き流し
ました。あえて一言のタンカを切
・ ・ ・
るでもなく、むじつを訴えるでも
ない。明日は、この穴の中へ、自
そっくび
分の素首が斬り落されて、文字通
り身首ところを異にする運命をま
45
ざまざと見せつけられながら、米
友は何も言わない。
非人が二人で、三尺立方の穴を、
ほとんど掘り上げてしまった時分
に、通りに林立している見物の群
集の中に、
﹁あっ!﹂
かお
と思わず口へ手を当てて、面の色
を変えてこの﹁晒し﹂を見直した
ものがありました。
46
六
この男はキリリとした旅慣れた
いでたちで、三度笠をいただいて
いたが、人混みにまぎれて物好き
半分、この﹁晒し者﹂を一見する
と卒倒するばかりに気色ばんだが、
やや落着いて、
﹁どうしたというんです、ありゃ
あ﹂
47
そっと、ささやくように、傍ら
の人に問いかけたものです。
・ ・ ・ ・ ・
﹁ちょうさん者ですよ﹂
・ ・ ・ ・ ・
﹁ちょうさんてのは⋮⋮﹂
いっき
﹁つまり、百姓一揆でござんすな﹂
﹁あれがですか、あの男が百姓一
揆なんですかね﹂
﹁へえ、あれ一人が百姓一揆とい
うわけじゃあございませんな︱︱
・ ・ ・
やっぱり一味ととうの一人なんで
48
してな﹂
﹁あれが⋮⋮﹂
﹁左様でござんす、一味ととうの
・ ・ ・ ・ ・
うちでも、ちょうさんを企てた最
も罪の重い奴ですから、それであ
の通り、﹃晒し﹄にかかりました、
明日あたりは打首という段取りで
ござんしょう﹂
﹁冗談じゃあない︱︱あれが、あ
の男が、この土地の百姓なんです
49
か﹂
﹁そうですなア、さればこそ、あ
あして﹃晒し﹄にかけられるんで
げさあ﹂
﹁嘘をお言いなさんな﹂
あわただしい旅の男が、問答者
けしき
を相手に気色ばんで、
﹁嘘をおっしゃるな、ありゃあ、
この土地の者じゃありませんぜ、
あの男は、この国の百姓じゃござ
50
んせんぜ﹂
のうやっこ
﹁でも農奴と書いてござんすぜ、
捨札をごろうじろ﹂
﹁何を書いてあるか知らねえが、
あの男はこの土地の百姓じゃあね
おおちげ
え、大違えだ﹂
﹁お前さんの御親類かね﹂
﹁ばかにしちゃあいけねえ、お前
さんこそ、あの男が百姓だと頑張
にんべつ
りなさるんなら、人別を言ってご
51
らんなさい、どこの何というお百
姓さんだか、それを言ってごらん
なさい﹂
﹁そりゃ知りませんなア、わしゃ、
やっぱり通りがかりの者でござん
して、人別改め役じゃござんせん
から﹂
﹁じゃ、何と書いてあるか、読ん
でごらんなさい、所番地が何と書
いてあるか、読んで聞かせておく
52
んなさい﹂
﹁それが、ただ農奴だけで、所も、
番地も、名前も、記しちゃあござ
んせん﹂
﹁そうらごらんなせえ、あんな百
姓があるものか﹂
﹁あれが百姓でないとおっしゃる
お前さん、ではありゃ何者なんで
す、御承知なら聞かして下さい﹂
今度は、たずねられた方から逆
53
に反問と出かけられると、たずね
た方が、やっぱり相当に昂奮して、
﹁あの男は、ありゃあ、やっぱり
旅の者なんだ、ついこの間まで江
戸にいた男なんだ、それがお前さ
ん、どうしてこの土地へ来て百姓
ひま
一揆に加わる暇があるもんか、人
違いだあね、人違いだよ﹂
﹁へえ︱︱﹂
さら
﹁人違いで﹃晒し﹄にかかっちゃ
54
あたまらねえ、あいつもまた、そ
んならそのように何とか言えばい
いじゃねえか﹂
﹁江戸の方なんですか﹂
﹁そうだとも、生れはどこか、よ
く知らねえが、ついこのじゅうま
で永らく江戸に住んでいて、こち
とらとも附合いがあるんだ、あい
ごうしゅう
つが、どう間違って、江州くんだ
りまで来て、百姓一揆に加担する
55
なんて、物好きにも、人違いにも、
方図があらあ。人違いだよ、間違
いだよ︱︱晒される奴も晒される
奴だが、晒す奴も晒す奴じゃあね
えか﹂
ここまで来ると、右の江戸者ら
しい旅の男はいよいよ昂奮して、
舌なめずりをしてみたが、急に、
自分の昂奮ぶりと、物の言いぶり
どはず
が、つい知らず度外れになってい
56
たと気がつくと、あわてて自分で
自分の口を押えながら、忙がわし
く左と右を見廻しました。
七
なるほど、そう気がついたのも
道理で、この旅の者の物言いぶり
があまり際立ったので、誰も彼も
が、晒しを見る眼をうつして、こ
57
の、ひとり昂奮した旅の者の方へ
集中させられるのですから、はっ
と気がついたのですが、それにし
ひとかた
てもこの旅の者が、一方ならずテ
レたり、怖れたりする様子が変で
す。
あんまり自分の物言いぶりが過
ぎたと感じ、彼はテレて、こっそ
りと口を押えたまま人混みに紛れ
ようと試むるらしい時に、その後
58
ちぐさ
ももひき
すげ
ろにいた千草の股引をはいて、菅
がさ
笠をかぶり、腹掛をかけたのが、
ちょっと後ろからすがるようにし
て、
﹁モシ﹂
と問いただしたものです。
﹁エ﹂
呼びかけられてみると、挨拶を
しないわけにはゆかなかったが︱
むし
︱挨拶というより寧ろ捨ぜりふで
59
逃げ足と見えたのを、千草股引が、
また食留めにでもかかるもののよ
うに押迫って、
﹁あんたはん、あの晒しの男は、
この土地の百姓じゃあないとおっ
しゃいましたか﹂
﹁え、その、何ですよ︱︱そうで
す、そうです、たしかに人違いな
んですよ﹂
と言って、やっぱり振り切るよう
60
に急ぎ足になるのを千草股引は、
・ ・ ・
透かさず追いかけるようなこなし
で、
﹁お手間は取らせませんが、そこ
でひとつ、お聞き申したいんです
みじょう
が、あんた様ぁ、あの者の身性を
よく御存じなんですか﹂
﹁そりゃ、知ってるといえば知っ
てるがね、そう言ってわっしにお
たずねなさる、お前様はどなただ
61
ね﹂
﹁わしは︱︱あの男の身性を知り
たいんでして﹂
﹁あの男の身性を知りたければ、
係り役人にお聞きなせえな、そう
でなければ、直接、御当人に聞い
てみなせえ﹂
こわ
﹁お役人は恐いでしてね。あの御
当人は、根っから口を割らねえん
だそうでござんしてな。ところで、
62
あんたはんは、どうやらあの﹃晒
し﹄の身性を御存じらしい、ぜひ、
教えていただきてえ﹂
全く、その千草股引は、この旅
の男を逃がすまいと畳みかけて問
いかけるのを、こちらは非常に迷
惑がり、
﹁お上役人も当人も知らねえもの
を、こっちが知るかなあ。ただ、
ちょっと、見たようなことがある
63
ような気がしただけなんだ、何も
知りゃあしねえよ、先を急ぐから、
まあ、このくらいで御免なせえ﹂
旅の男は、もう全く逃げ足で走
り出そうとする。つまり、一時の
昂奮から、心にもないことを口走っ
たことを悔い、こんなことから、
変なかかわり合いになってはつま
らない︱︱と、素早くこの場を外
してしまおうとするものごしでし
64
た。それと見て取った千草股引が、
急に権高くなって、やにわに飛び
かかって参りました。
﹁待ちろ︱︱逃げちゃあいけねえ
ぞ﹂
﹁何を⋮⋮﹂
むんずと飛びついて来た千草の
ただ
股引は、これは只の股引ではあり
ませんでした。充分に腕に覚えの
ある捕手の一人でした。腕に覚え
65
のあるべきのみならず、前のいき
さつを知っている者は、たしかに
かお
面にも見覚えがあるべきはずです。
これぞ長浜の夜中の捕物に、現に
ここに見る宇治山田の米友ほどの
ものを取って押えて、ここへみご
さら
と晒しにかけるまでの手柄を現わ
とどろき
した、あの夜の名捕方︱︱轟の源
て き
松という勘定奉行差廻しの手利き
でありました。
66
それに飛びかかられた旅の男︱
︱もう四の五もない、ぱっちにか
かった雀のように、おっかぶされ
たかと思うと、
﹁何を、田舎岡っ引め、しゃらく
せえ真似をしやがんな﹂
武者ぶりつかれてかえって、度
きゅうそ
胸が据ったらしい旅の男︱︱窮鼠
か
猫を噛むというよりも、最初に猫
をかぶっていた狐が、ここで本性
67
を現わしたというような逆姿勢と
なって、
﹁まだこんなところで手前たちに
年貢を納めるにゃ早えやい﹂
そこで、またしても大格闘がは
じまったかと思う間もなく、旅の
男の風合羽がスルリと解けて千草
股引の頭の上からかぶさり、その
間に股の間をスリ抜けて、一散に
逃げました。
68
し ま
﹁失策った!﹂
つか
さすがの名捕方に空を掴ませて、
はや
身を翻したそのすばしっこさ。同
す
時に摺り抜けて走るその足の迅い
・ ・
こと︱︱ここに至って、只のむじ
・
なでないことの面目が、群集を
あっ! と言わせる。
八
69
とりにがした、名捕方の轟の源
松は歯噛みをしました。事実、こ
う む
んなはずではなかった。有無を言
ひっくく
わさず引括り上げるつもりであっ
たが、相手を甘く見すぎたのか。
そうではない、相手が全く意表に
出でたからである。意表に出でた
といっても、およそ悪いことをす
るような奴は、いつでも人の意表
に出でなければ立行かない商売な
70
のだから、人の思うような壺にば
・ ・
かりはまっていた日には、悪党商
売は成り立たないのだから、そう
いうやからを相手に一枚上を行か
なければならない捕方連が、不用
意とは言いながら、そう甘い手を
用いたはずはないのに、ことに先
頃は、ここに見る宇治山田の米友
をすら、あのめざましい活劇の下
かぎなわ
に、最後の鉤縄を相手の裾に打込
71
んで首尾よくからめ取ったほどの
腕利きが、ここでこんなに無雑作
にカスを食わされるとは、気が利
かな過ぎるというものであるが︱
︱それにはそれでまた理由もあっ
て、実は最初、﹁待ちろ︱︱逃げ
ちゃあいけねえぞ﹂と居直った時
に、この捕方は早速に相手の利腕
をむんずと掴んだつもりでした。
ところが掴んだつもりの相手の利
72
腕を掴みそこねてしまったのが意
外です。自分ながら腕の狂い方の
激しいのに一時、あっとしたが、
その掴んだ手ごたえがさっぱりな
かったので、はっと狼狽したのも
実は無理がない、合羽の下に当然
ひそんでいなければならない右の
腕が、その相手の旅の男の肩の下
に有合わさなかったのです。
それは、あえて懐ろ手をしてい
73
たわけでもなければ、その激しい
掴みかかりを引っぱずしたという
次第でもない、本来、この旅の男
には右の腕がなかったのです。い
かな名探偵といえどもないものは
掴めない。
有るべく予期して無かったとい
うのは見込違いではない。誰でも、
普通の人間である限り、この合羽
の下に二本の腕がある、一方が右
74
腕であれば、一方は当然左腕であ
ることは常識になっている︱︱と
ころが、この旅の男には、取らる
べき利腕の右が存在していなかっ
た。そこでまず殺してかかるべき
利腕を殺すことができないのみな
らず、その掴みそこねたこっちの
はたん
破綻を透かさず泳がせて置いて、
かんいっぱつ
間一髪に摺り抜けてしまったとい
う早業になるのです︱︱摺り抜け
75
た途端が、すでに走り出したこと
になる。摺り抜けるのも鮮やかな
ものだったが、その逃げっぷりが
また一層あざやかなもので︱︱敵
も、味方も、あっ! と言って、
思わず胸を透かさせたと言いつべ
き切れっぷりでありました。
・
ここまで言ってしまえば、当然
なだい
・ ・ ・
このすばしっこい摺抜け者が、が
・ ・ ・
んりきの百蔵という名代のやくざ
76
じょうれん
野郎にほかならないことは、定連
はみな感づいていないはずはない
のであります。
・ ・ ・ ・
果して、がんりきの百の野郎は、
かくの如くしてこの場を走り出し
ました。
一方、名探偵の轟は、ひとまず
は不意を食って泳がせられたもの
の、これをこのまま口をあいて見
送っている男ではない。
77
かくて、白昼、意外な捕物沙汰
が街道を驚かして、この事のセン
セーションのために、﹁晒し﹂そ
のものの場は閑却されたのみなら
ず、﹁晒し﹂見張りの役人非人ま
でが、轟親分の捕方の方へ気を取
られて、バラバラと走り出したと
いう乱脈になりました。
九
78
悠々と八景めぐりをして、大津
はたご
の旅籠へ戻って来た女軽業の親方
お角は、戻って見ると、思いがけ
なくも甲州有野村の伊太夫からた
よりのあったのを発見して驚きま
した。
伊太夫はすなわちお銀様の父で
ある。自分はこの人からお銀様の
附添ならび監督を仰せつかって来
たものである。
79
その大旦那様が、どうしてまた
急に、こっちへお出むきになった
のか知ら、なんにしてもこれは、
あ
取るものも取り敢えずに本陣へお
伺いをしなければならないと、と
もの者共に、そのまま折返して外
出を言いつけてから、鏡に向って
か
身なりを直し、髪を掻き上げたの
も女の身だしなみです。
そもそもお角が、かくもゆるゆ
80
ると八景めぐりをして道草を食っ
ているのは、一つには胆吹へ道を
ま
枉げた道庵先生を待合せのためで
あったのですが、その先生は、ど
うやらまた脱線したらしく、まだ
なんらのたよりもないところへ、
有野村の大尽のお越しという便り
を聞いたのは、たしかに意外でし
た。さても自分は、大尽からあれ
ほどに信任されてお銀様の身を托
81
されながら、お銀様の胆吹へ留ま
ることになったのを留める由もな
く、実は、自分の力ではとうてい
思いとどまらせることができない
ぎょ
と観念して、しばらくお銀様の御
い
意のままに任せて置き、またせん
様もあるべしと腹をきめていたの
を、今ここへこうして突然に、そ
の頼まれ主の大旦那様に見えられ
てみると、お角として、いささか
82
面目ない次第のものがある。つま
り、頭のおさえてのないやんちゃ
娘、へたに逆に出るよりは、する
ようにさせて置いて、飽きの来た
時分を待つに越したことはないと
考えたればこそ、お角も、米友と
道庵とを振替えて、しばし京大阪
で気を抜いてから、またここへ出
直してのこと︱︱とだいたいそん
なふうに考えて、一時お銀様の監
83
督を敬遠することが最上の緩和と
考えた次第なのですが、そのなか
ばへ大旦那に来られてみると、さ
て、どう復命をしたらよいか、さ
すがのお角さんも、その辺に大へ
ん気苦労を生ぜざるを得ないで、
大旦那様に会ったらば、この点、
どう申しわけをしたらよかろうか
と、それをとつおいつ考えてみる。
﹁お角さん、お前という人も、存
84
外頼み甲斐のないお人だね、お前
さんに限って、娘を引廻せると信
じてお任せしたのに、娘を胆吹山
なんぞへおっぽり出して置いて、
自分ひとり八景めぐりなんぞは、
のんき
あんまり暢気過ぎるじゃないか﹂
︱︱もしかして、こんな皮肉を大
旦那様から聞かされでもした日に
は、わたしはやりきれない、困っ
たねえ⋮⋮
85
まさか伊太夫が、こんなに急に
かみがた
上方のぼりをして来ようとは夢に
も思っていなかったお角、差当っ
ての当惑はかまわないとしても、
いささか自分の責任感に及ぶとす
ると、お角さんの気象としてやり
きれないのも無理はない。
しかしまあ、悪いことをしたわ
けじゃなし、やむにやまれぬ事情
はお話し申せばわかって下さるこ
86
と︱︱観念もして、そこはかと身
なりをキリリとしたが、さて出か
ちょうずば
ける前に、お手水場へ入って落着
いてという気分になりました。
お角さんがお手水場を志して、
なにげなく縁側をめぐって、秋蘭
の植えてあるお手水場のところへ
やって来て、開き戸を手軽くあけ
かわやぞうり
て、厠草履をつっかけて、内扉へ
手をかけて、それを何気なく引い
87
て開く途端︱︱
﹁おや︱︱﹂
お角さんほどの女が、ここでま
・
た一種異様な叫びを立てて立ちす
・ ・ ・
くんだのが、不思議千万でした。
十
便所の内扉を開いたままで、お
角さんが、﹁おや﹂と言って、異
88
様な叫びを立てて立ちすくんだも
道理、その便所の中には、先客が
あって、悠々としゃがみ込んで用
を足している最中であったからで
す。
﹁無作法千万な!﹂
誰でもこう思わなければなりま
せん。このお手水場は、お角さん
の座敷に専用のお手水場になって
いる。そこへ、余人が入っていよ
89
うとは思いもしなかった。且つま
た、誰か臨時に借用したにしたと
ころが、用を足しているならばい
るように、内鍵というものもある
き
し、それが利かないとすれば、咳
払いぐらいはしてもよかろうもの、
それが作法じゃないか。わたしが
ここへ来た廊下の足音でもわかり
そうなものじゃないか。開き戸を
け ど
あけた音でも気取れそうなもの。
90
それを内扉をあけるまで、すまし
込んでいて、人に恥をかかせるの
はともかく、自分もこんなところ
を見られていい図じゃあるまい、
間抜けめ! とお角が腹が立って、
くら
出て来たら横っ面を食わしてやり
たい気持で、扉を外から手強く締
め返してやろうとしたその途端に、
向うにぬけぬけしゃがんでる奴︱
︱しかも女ではない男なんです。
91
そいつが、しゃあしゃあとして、
﹁こんちは﹂
と言いました。
﹁畜生!﹂
とお角さんは、思わずこういって
ののし
罵ろうとしたが、そのしゃがんで
いる奴の面を見ると、
てめえ
﹁ナンダ、ナンダ、手前は百の野
郎じゃないか、このやくざ野郎﹂
お角さんの悪態は悪態にならず、
92
あき
全く面負けの、呆れ返りの捨ゼリ
フでした。
こうして、お手水場の中にわだ
・ ・ ・
かまっていた奴は、昔は腐れ合い
・ ・ ・ ・
のがんりきの百蔵というやくざ野
郎そのものに紛れもないのですか
いまいま
ら、忌々しくってたまらないなが
ら、喧嘩にもならない。
﹁馬鹿野郎、なんだい、そのザマ
は﹂
93
お角さんは、続けざまに怒鳴り
つけてみたまでですが、中の野郎
はいよいよイケ図々しく、お尻を
持上げない。
﹁たまに来たものを、そんなにガ
ミガミ言わずとものこっちゃあね
えか︱︱﹂
﹁相変らず図々しい野郎だねえ。
だが表玄関からは敷居が高くて来
られもすまいねえ、臭い奴は臭い
94
ところが相応だよ﹂
﹁おっしゃる通り表向きには、やっ
て来られねえ身分だからかんべん
しておくんなさい﹂
﹁どうして、わたしがこの宿にい
ることがわかったんだい﹂
じゃ
﹁どうしてったって、そこは蛇の
へび
道は蛇だあな、お前がこの街道を、
どこからどこへつん抜けて、どこ
へ泊って、どこそこから立戻って、
95
どこそこへ出かけようというのか、
こっちじゃもうちゃんと心得たも
のなのだ。だが、そんなムダを言
いてえがためにわざわざこうして
臭エところに待っていたんじゃね
え︱︱こういう辛抱もして、一言
お前に知らせをしてやりてえと思
うことがあればこそなんだ。と言っ
たところでなにもお前という女に
未練未釈があって、こんな臭エ思
96
いをしているわけじゃねえんだか
ら安心しな。手取早く言ってしま
とも
えば、それ、お前のところにいた、
よね
あの米とか友とかいう変てこな兄
いが、どうした間違えか役人にとっ
・ ・ ・ ・ ・
つかまって、ちょうさんてえ罪で、
さら
草津の辻で三日間の晒し、それが
のこぎりびき
済むとやがて鋸挽になろうてんだ。
・ ・ ・
どうも、むじつにしてもあんまり
けた
桁が違い過ぎるようだから、何と
97
かしてやりてえが、おれは世間の
暗い身柄で、どうにもならねえ。
だが、あの滅法無類の正直者が、
何かの間違えでああいうことになっ
て、今日明日のうちに首がコロリ
という仕儀であってみると、いか
・ ・ ・
にやくざ野郎でも、あのまま見過
ごしにゃできねえよ、あの男とは
お角親方、お前の方がずっと縁が
深いと思うから、どうにかしてや
98
んな︱︱三日の晒しの後は、鋸挽
か、打首、ここに間近え坂本の城
ではねえが、今日明日のうちに首
がコロリってえんだ︱︱何とかし
てやるがいいと思ったら、何とか
・ ・ ・
してやりねえな﹂
・ ・ ・ ・
がんりきのやくざ野郎からこう
かお
言われたお角が、また面の色を変
えました。
﹁何だって、あの友が、米友の野
99
郎がなにかい、草津の辻で晒しに
かけられてるって、そうして今日
明日のうちに首がコロリだって、
そりゃ本当かい﹂
﹁嘘を言ってお前をたぶらかすた
めに、こんな臭い思いはしねえよ﹂
﹁ばかにしてやがら﹂
まきじた
ののし
お角さんが、ここで捲舌を使っ
・ ・ ・ ・
たのは、それはがんりきを罵った
のではない。あの一本調子の、気
100
短かの、グロテスクめが、また何
か役人を相手にポンポンやり出し
て、とっつかまったのだろう、だ
が、相変らず手数のかかる野郎だ。
それにしても、三日間晒しの、今
日明日のうちに首がコロリはひど
過ぎる。友という野郎は、本来あ
あいうキップだが、悪いことは頼
んだってする野郎ではない。それ
をどう間違えたか、三日間晒しの、
101
今日明日のうちに首がコロリとは、
役目を預かる奴等にも、あんまり
目がなさすぎるというものだ。
は が
そこで、お角が歯噛みをして、
お手水場の床を踏み鳴らしました。
十一
・ ・ ・ ・
がんりきの百の野郎といえども、
一から十までロクでなし野郎だと
102
いう限りでもない。それから後暫
は
くあって、臭いところから這い出
したこの野郎は、お角親方の特別
借切りの一室を一人占めにして、
すっかり納まり込み、長火鉢の前
で、長煙管でパクリパクリ、そう
して煙を輪に吹きながら、ひとり
言︱︱
﹁ふ、ふ、ふ、そうら見ろ、あの
女め、火のように怒り出しやがっ
103
た。だから、言わねえこっちゃね
けしか
え、あいつを、ああ嗾けて置きぁ、
火の中へも飛び込むよ。あの勢い
で押しかけて行った日にゃ、やにっ
こい役人はタジタジだぜ。何とか
するよ。何とかしねえまでも、た
だじゃあ首にさせねえよ﹂
と言うのは、つまり、自分の寸法
うぬぼ
がすっかり図に当ったことを己惚
れている。いやしくも自分の子分
104
子方であったものが、今日明日の
うちに首がコロリという運命に陥っ
ているのを、知らざあともかく、
それと聞いて、ああそうかとすま
し込んでいる女では決してない。
つら
自分としては、あんなところへ面
も体も出せた身じゃねえが、あの
女ならばどこまでも押して行くよ。
そこを見込んで、かけ込んだおれ
の寸法が当った。
105
・ ・ ・ ・
がんりきの野郎は、その寸法を
己惚れきっている。その一方には
こうして、お角を火の玉のように
して転がし出して置きながら、そ
のあとを然るべき要領で、お角親
つれしゅう
方の連衆の一人にこしらえ、留守
てい
番をひとり守っている体にして、
避難と、休息とを兼ねて、ゆっく
りと落着くことができる、つまり、
一石二鳥にも三鳥にもなるという
106
かいまき
寸法だ。これから、あの掻巻の中
へ、すっぽりとくるまって、めま
うみべり
ぐるしいこのごろの湖畔のやりく
りの骨休めをすることだ。
﹁有難え、お茶を一ぺえ︱︱甘え
お茶菓子も有らあ﹂
そこで、お茶を飲み、菓子を食
い、さて、ゆっくり掻巻へもぐり
込んで一休みと、足腰をのばしに
かかってみると、指が痛む。
107
﹁ちぇっ、右の腕はブチ落される、
今度は残った左の方を小指からな
しくずしなんぞは醜いこった︱︱
いんねん
因縁ものだなあ﹂
ほうたい
と言いながら、繃帯を外して捲き
換えている。長浜の浜屋で落され
きず
た指一本の創あとがなかなか痛い。
めまぐるしさにまぎれていたが、
安心してみると痛み出す︱︱懐中
から薬を取り出して、それをつけ
108
直している。また繃帯を捲き換え
てみる。
十二
・ ・ ・ ・
果して、がんりきの予想通り、
お角さんは火の玉のようになって、
この宿を転がり出たのです。
その勢いで、本陣へ上って伊太
夫に面会したが、もうその時は、
109
さきほど心配した自分の責任感の
ことなどは、いつしかケシ飛んで
しまって、晒しの鬱憤で張りきっ
ていました。それでも、つとめて
抑制して、伊太夫へは丁寧な挨拶
を試みたつもりですけれども、挨
いとまご
拶が済むと早くも暇乞いでした。
﹁ほんとに、大旦那様、万事ゆっ
わ
くりとお話し申し上げ、お詫びも
申し上げなければなりませんので
110
すが、急に、急ぎの用事が出来ま
したから、これから、ちょっと一
走りかけつけて見て参ります、様
子を見届けた上で、引返してすぐ
またお伺い致します、ほんとに、
旅へ出たからって、楽はできませ
ん﹂
お角さんの余憤満々たるのを、
伊太夫は只事でないと見て取った
ものですから、
111
﹁まあ、落着きなさい、何かお前
さん、よっぽど張り切っておいで
なさるが、何事が起ったのです﹂
﹁いえ、なあに、つまらないこと
なのですが、うちの若い者が⋮⋮
いいえ、以前うちに使っていた若
い奴が、気が早いものですから、
しくじり
旅に出て、失敗をやらかしちまい
まして︱︱困った奴ったらありま
せん﹂
112
﹁どうしたのですかな。旅に出て
やす
は間違いが起り易いから、うっか
り張りきった気分のままでやると、
かえって事こわしになりますよ、
何事です﹂
らち
﹁いえ、もう埒もない奴なんでご
ざいますが、どう間違えられたか、
さら
草津の辻とやらで、晒しにかかっ
て、今日明日のうちに首がコロリ
︱︱と聞いてみると、いい気持は
113
致しません、いい気持どころか、
こうして、いても立ってもいられ
ないのが、わたしの性分なんでし
て﹂
﹁まあ、待って下さい、その晒し
者のことなら、わしも見ましたよ﹂
﹁まあ、大旦那様、あなたもごら
んになりましたか、あの米友の奴
が﹂
﹁名前は何というか知りません、
114
また、あの男がお前さんのかかわ
り合いの男だということも、はじ
めて聞くのですが、どうも通りか
かって、あれを見て、わしも変だ
と思いましたわい﹂
﹁全く変な奴なんでございます、
あの友という野郎は、変った野郎
・ ・ ・
には相違ございませんが、ちょう
・ ・
はんをしたり、晒しにかかったり
するような、気の利いたことので
115
きる野郎じゃないのです、あいつ
は、天性曲ったことのできない野
郎なんですが、それが間違って、
晒しにかかった上に、今日明日の
うちに首がコロリでは、どうあっ
ても、このままでは済まされませ
せ
ん、こうしている間も気が急くん
でございます、あの野郎は、どう
・ ・ ・ ・ ・
間違ったって、ちょうはんなんぞ
をする野郎じゃありません、人違
116
・ ・ ・
いにも程があったものでございま
す﹂
・ ・ ・ ・ ・
お角さんの言葉によるとちょう
・ ・
さんがちょうはんになっている。
・ ・ ・ ・ ・
ちょうさんの説明は前に言った通
・ ・ ・ ・ ・
りですが、ちょうはんとなると僅
か一字の相違で、内容も形式も全
・ ・
く別なものになる。すなわちちょ
・ ・ ・
うはんというのは﹁ばくち﹂の一
ゆえい
種で、丁よ、半よと、輸贏を争う
117
い
ことの謂いなのであります。これ
によると、お角さんという人の頭
・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・
には、ちょうさんの解釈が成り立っ
いちず
ていない、一途にちょうはんと受
取ってしまっている。すなわち、
ちまなこ
丁よ半よと血眼になって勝負を争っ
たことのためにお手入れがあって、
それがために捕われてお仕置になっ
ている、と受取る方がお角さんの
頭には通りがよい。
118
・ ・ ・ ・ ・
ちょうはん、ちょぼいちの罪の
罪たるべきことはお角さんの頭に
・ ・ ・ ・ ・
もある。ただ、そのちょうはん、
ろう
ちょぼいちを弄したということの
ために、今日明日のうちに首がコ
ロリというのは、ところ柄かも知
れないが厳し過ぎる。まして、あ
・ ・ ・ ・ ・
の正直一方の米友が、ちょうはん、
・ ・ ・ ・ ・
ちょぼいちなどにひっかかる人物
でないということは、お角親方が
119
頼まれなくとも保証するところで
ある。それがためにお角さんの激
あお
昂が一層、煽られていると見なけ
ればならぬ。
十三
お角の激昂するのを聞いていた
伊太夫は、
﹁なるほど、そういう場合では、
120
お前さんの気象として、じっとし
ていられないのも無理はない。だ
が、相手は何といってもお上役人
だから、たとえ理があっても正面
からポンポン行くと、かえって事
おそ
こわしになる虞れがある、相当の
たど
筋を辿って、何か穏かな助命方法
はないものかね﹂
そう言われると、お角さんも馬
鹿でないから、昂奮のうちにも、
121
おの
敵を知り己れを知るの分別が出て
来ないはずはない。お上だろうが
何だろうが、理に二重はないとい
う勢いで押しかけてみたところで、
相手にされなかったらどうする。
それを強く押してみたところでど
うなる。よし、それはどうなろう
とも、当って砕けろだ、ここで後
へ引くようなお角さんとはお角さ
んが違うと言ってしまえばそれま
122
でだが、お角さんの米友と違う点
はそこにある。伊太夫は言葉をつ
づけて言いました、
﹁そうじて、お上役人というのに
ぶっつかるには、更に、も一段上
から出るか、側面から当るのが最
ききめ
も効目のあるものだ。役人という
ものは、上役に対しては頭の上ら
あまくだ
ないものだから、天降りである以
上は否も応もない。そうでなけれ
123
からめて
ば搦手から運動することだ、そこ
から穏かに話をつけると存外物わ
かりのよいことがある。名役人と
いうものは上も下もありはしない、
理が聞えれば、誰の言葉も聞いて
やるが、なかなかその名役人とい
うものはないものでな︱︱だから、
天降りとか、搦手とかいうやつが、
いつの世でも相当効目があるもの
なのだ。どうだい、お角さん、そ
124
んな意味で何か上の方からこう、
運動するような手筋はないかね。
わしも一応は、心当りをこれから
思案しようと思っているが、何を
いうにも旅の身でねえ﹂
伊太夫からそう言われて、お角
としても、いよいよなるほどと思
わせられないわけにはゆかないで、
ごもっと
﹁御尤もでございますね⋮⋮﹂
と言ってみたが、そのほかには急
125
になんらの思案も浮ばないから、
二の句もつげない。なるほど、こ
の大旦那が、甲州一円の土地であ
おし
るならば、ずいぶん面も利き、圧
もお利きなさろうけれど、この大
かこ
旦那でさえ、旅の身ではねえと喞
ごと
ち言をおっしゃる︱︱まして、女
興行師風情のわたしで、どうなる
ものか、それを考え出すと、腐っ
てしまわざるを得ない。
126
お角さんが、やきもきしながら
返答ができないでいる、その心持
を伊太夫は充分察することができ
し
るから、お角さんから強いて返答
を催促するのでなく、自分のこと
として自問自答を試みて、
﹁いったい、この土地は、どこの
みなくちはん
藩に属しているのかな、水口藩か、
ぜぜはん
膳所藩か︱︱そうだとすればここ
きれもの
の権者は何の誰という人か、その
127
てづる
人に向っての手蔓︱︱ただし、彦
根の藩中には相当の重役に知り合
いがある、そうだ、あれから渡り
をつけてやろうか、彦根ならば他
の小藩への通りがよかろう。だが
もし、いずれの藩にも属していな
い天領だとなると、幕府直轄のお
代官だとなると、事が少々面倒だ
ぜ、御老中差廻しのお代官に悪く
出られた日には、大藩でも扱いき
128
れないことがある︱︱さあ、その
辺を一つ考えてみないことには⋮
⋮﹂
伊太夫は、自問自答式にこうつ
ぶやいて、ようやく思案が深入り
して行く途端に、お角さんが、急
に声を上げて言いました、
﹁ああ、いいことがございました、
ほんとに、どうしてこれに気がつ
かなかったんでしょう、わたしと
129
いう女も、実に頭の悪い女でござ
んしたよ﹂
﹁何か、いい分別がつきましたか﹂
﹁大旦那様、誰彼とおっしゃるよ
りは、新撰組がようござんしょう、
め
新撰組をお頼り申すのが、手っと
き
り早くて、いちばん利き目があり
そうでござんす﹂
﹁なに、新撰組︱︱﹂
﹁左様でございます、とっくにそ
130
こへ気がつかなければならないわ
たしという女の頭が、こんなにま
で悪い頭とは思いませんでした、
旅の風に吹かれ通したために、脳
味噌が少し参ったんでしょうと思
います﹂
十四
お角はひとり呑込んで、しきり
131
に意気込んでいる。
それから、お角が伊太夫に向っ
て、いま京都からこの地方にまで
及ぼすところの、新撰組、すなわ
みぶろうにん
ち壬生浪人というものの威力の、
いかに強大であるかということの、
たったいま、仕込み立てのホヤホ
ヤの知識を述べ立てました。
新撰組の行動に就いては、御領
主様といえども、お奉行様といえ
132
ども、これに加うることはできな
い。当時、名立たる大藩といえど
も、会津といえども、彦根といえ
ども、これには一目も二目も置く。
にら
新撰組に睨まれた以上は、公儀役
人といえども、到底その私刑を免
るることはできない。さしも横議
たくま
横行を逞しうする大藩の勤王浪士
といえども、新撰組だけは苦手で
ある。﹁恐山の巻﹂の百七十六回
133
前後のところに、その威力のほど
が見えている。その新撰組の威力
を借りる時は、たとえ相手が大藩
領であろうとも、天領であろうと
も、断じて押しの利かないことは
ないということの信用を、お角が
今、やきもきと思い起して伊太夫
に吹聴しました。
しかして、その新撰組を意のま
まに駆使するところの大将が近藤
134
ひじかたとしぞう
勇で、副将が土方歳三である。そ
の副将軍土方歳三とわたしは心安
い。つい今の先も、昔の歳どんで
附合って来た。その力を借りて、
・ ・ ・ ・
ぞうさ
押しきって行けば、何のちょうは
・
んの一人や二人、事も雑作もある
ものではない、とお角さんが張り
きってこのことを伊太夫に申し出
ると、伊太夫もこの際、一応はそ
れを承認しました。
135
というのは、当時、新撰組の及
ぼす威力は京洛の天地だけではな
い。その時代の動静が、かなり敏
感に伝えられるところの、甲州第
一の富豪の手許まで情報が届いて
いないということはない。どこま
で彼等に全幅の信用を置いていい
か悪いかわからないが、この際は、
事の思案よりは、急速の実行を可
なりとする。時にとっての強力が
136
必要である。そこで、伊太夫も一
応お角の提議を承認するまでもな
く、お角さんは早くも庄公を次の
間まで呼ばせて、
﹁庄公︱︱お前これから大急ぎ、
か ご
馬でも駕籠でも糸目はつけないで、
一走り使に行って来ておくれ︱︱
ほらあの、新撰組の土方という先
生︱︱いいかい、これから山王様
までまた駈けつけてもらうんだよ、
137
あそこへ行って歳どんに、わたし
がぜひ加勢に頼みたいことがあるっ
ことづて
て、言伝をしておくれ。わけを言っ
ては長いから、お角親方が大難に
出あっている、草津の北の辻で、
お角親方が晒しにかけられるとい
う段どりになって、九死一生なん
だから歳どんに加勢に来てもらい
たい、とこう言って頼んでごらん。
もし歳どんがいなかったら、あの
138
やさ男で小天狗と言われた沖田総
司という先生でもいいし、永倉新
八という先生でもいいから、大急
ぎで加勢に来てもらいたいと言っ
てね︱︱歳どんも、沖田さんも、
永倉さんもいなければ誰でもいい、
新撰組と名のついたお人ならば誰
でもいいから、頼んで来ておくれ。
ことによると、どこぞへ引上げて
おいでなさるかも知れない、今時、
139
新撰組といえば、泣く児もだまる
んだそうだから、どこにいたって
居所は知れそうなものだ、大急ぎ、
九死一生の場合、今日明日のうち
に首がコロリてんだから、そのつ
もりでお前、しっかりやっておく
れ﹂
こう言いつけて置いて、お角自
身も急に伊太夫に向い、
﹁大旦那様、では、わたしの方も
140
これから現場へ駈けつけてみます
から︱︱時が遅れてはいけません、
救いの手が来るまで、どっちみち、
現場へ因縁をつけて置いてみるこ
とに致します﹂
かくてお角さんは、ゆらりと立
ち上りました。
一つは新撰組へ救いの手を求む
べく、一つは自身、グロテスクの
晒しの現場へ出頭して、水の手の
141
来るまで因縁をつけて置こうとの
策戦らしい。
十五
お角が立ったあとで、伊太夫は
考えている。お角を助けるために
来たのではないが、こうなってみ
ると、彼女のために相当の力添え
をしてやらなければならぬ事態に
142
なっている。
但し、自分の力の及ぶ範囲なら
ば知らず、旅へ出ての身である、
まして今度の旅は、人も、我も、
思いがけない旅である、人に知ら
れたくない旅の身である、彦根の
しるべ
家中の重役には相当知辺はあるけ
れども、事改めて、そこへ持ち込
みたくない。
だが、何とかして、側面から、
143
えんざい
お角が急を訴えている冤罪の者の
助命をしてやらなければならぬ。
新撰組なるものの威力が、果して
間に合うだろうか。いずれにして
しょうび
も焦眉の急である︱︱とりあえず、
この宿の亭主からたずねて、きっ
かけを求めねばなるまい。
﹁どうもあの女親方が、ああ張り
切るのはよくよくのことだろう︱
︱何とかしてやらずばなるまい、
144
お前、とりあえず支配地の籍を調
たど
べて、役人の筋を辿って、ひとつ
穏かな助命運動ができるものなら、
至急その道を講じてもらいたい﹂
家来の藤左に向って、伊太夫が
このことを申しつけると、藤左は
心得て、宿元からして急速に調べ
上げた情報が次の如くです。
はせきゅうべえ
この地に長谷久兵衛という鬼代
なだい
官がいる。名代の農民いじめで、
145
年貢不納のものは遠慮なく水牢に
入れる。厳寒の節に水の中に立た
せる。泣き叫ぶ声が通路まで聞え
て、人の身の毛をよだてる。女房
娘は遠慮なく身売りをさせたり、
自分が没収したりする。たまり兼
ねて瀬田の橋から身投げをして果
もの
てる男女が続々と相つぐ。
さら
草津の辻の晒し者も、江戸老中
差廻しの役人がさせたのか、この
146
地の役人がしたのか、それはよく
わからないが、ともかく、この久
兵衛が悪い。久兵衛のさしがねで
なければ、その献策に相違ない。
なんでもかんでもその長谷久兵衛
が鬼代官だという情報が、どちら
方面からも、期せずして伊太夫の
てもと
手許へ集まって来る。
きけもの
してみると、長谷久兵衛なるも
あくらつ
のは、悪辣であるだけに権者であ
147
る。なんにしても、こいつを押え
てかかるのが有利だと伊太夫が覚
りました。
押えてかかると言ったところで、
力を以て押えてかかるわけにはゆ
かない。手段方法を以て、この代
官から理解してかからぬことには、
事は運ぶまい。その代り、この代
官の理解さえ届けば、必ずや相当
の緩和方法があるに相違ないとい
148
うことに伊太夫が合点して、とり
あえず、家来にその運動方法を命
じたのです。
運動方法といったところで、今
の場合、さし当り特別の手段方法
があるべきはずはない。伊太夫の
持てるものとしての力は、その財
しのび
力です。微行で旅に出たとはいえ、
甲州一国を押えている力は何かに
つけて物を言う。金力が時、所を
149
超越して、権力以上に物を言う場
合が大いにある。伊太夫の取り得
べき手段方法としては、その有り
余る金力を、有効に行使してみる
側面運動のほかにはないでしょう。
しかし、いきなり小判で鼻っぱ
ま ね
しを引っこするような真似はでき
てづる
ない。手蔓のない、しかも焦眉の
急に応ずるための財力の発動とし
ては、その方法に、相当微細にし
150
て巧妙なるものがなければ、かえっ
て事を仕損ずる。
伊太夫は、それを藤左に向って
考えさせている。
十六
草津の辻のグロテスクな晒し者
は、多くの方面にいろいろの衝動
を捲き起したが、意外千万なこと
151
・ ・
には、その翌朝になると、﹁ちょ
・ ・ ・
うさん﹂の罪人として晒された宇
治山田の米友の姿は、晒し場から
跡を消して、そのあとへ別に一つ
きょうしゅ
の﹁梟首﹂が行われました。首が
晒されているのです。つまり、生
さら
きた人間を縛って曝す代りに、人
間の首を切って、そうしてそれを
さらし
梟にかけました。
さては︱︱と人だかりの中に、
152
血相を変えたものもありました。
と、そのうちには、あの無言のグ
ロテスクも、とうとう首になった
か、ともかくも生きて晒されてい
る間はまあいいとして、首を斬ら
れて﹁梟首﹂に行われるようでは、
もういけない。
あれほど、いきり立ったお角さ
んはどうした。
そのところに、まさに右の如く
153
人間の﹁梟首﹂が行われているこ
とは事実に相違ないが、よくよく
見直した時、いずれも失笑しない
ものはありません。
﹁あっ! なあーんだ﹂
人間の首がさらされているには
相違ないけれども、その首という
はなは
ものが甚だ無難なる首でありまし
た。
木像なのです。木像の首なので
154
す。しかもその木像の首たるや、
ほぼ普通人間の三倍ほどある分量
を持っていて、木質だけはまだ生々
しいのに、昨今急仕立ての仕上げ
と見えて、その彫刻ぶりが、荒削
しろうとわざ
りで、素人業が、たくまずして七
分は滑稽味を漂わせている。
しかしながら、とにかく、人間
の形をした首は首です。その首が、
昨日までは米友が全身を以て生き
155
ながら晒されておったところに、
置き換えられている。しかも、そ
の首を、なおよくよく見るとまた
見覚えがある︱︱誰でも相当見覚
そくたい
えがある。束帯こそしていないけ
かんむり
れども、冠をかぶっている。その
冠も、天神様や荒神様のかぶるよ
とうかん
うな冠ではなく、世に﹁唐冠﹂と
して知られている、中央に直立し
た一葉があって、両翼が左と右に
156
開いている。古来この冠をかぶっ
た画像、木像に於て、最も有名な
のは﹁豊臣秀吉﹂である。ことに
この附近は、秀吉の第二の故郷と
こうみょう
して、その功名の発祥地と言いつ
べきですから、この﹁唐冠﹂の太
閤様は、ほぼ児童走卒までの常識
となっている。
﹁やあ、太閤様が晒し首になって
いる﹂
157
人も騒げば、我も騒ぐ。
﹁太閤様の晒し首﹂
子供たちは嬉しがって騒ぐが、
苦笑せぬ大人とてはない。
・ ・ ・ ・
何者がした悪戯か、いたずらが
過ぎる。まさに知善院蔵するとこ
ろの天下一品と称せらるる豊臣太
かよう
閤の木像の首を模して、斯様な素
人細工を急造し、そうして、昨日
までの生きた現物と引換えてここ
158
さら
へ晒したものに相違ない。農奴と
はり出された宇治山田の米友にとっ
てみれば、今度は、かりにも豊太
閤の面影と引替えになったという
ことになってみると、いささか光
栄とするに足るというべきだが、
太閤の影像にとっては迷惑この上
もあるまい。
何の理由があって、何者がこう
すりか
いう摺替えを行ったかということ
159
はわからない。無論、有司の仕業
ではなく、何者かの最も悪趣味な
・ ・ ・ ・
るいたずらであることはよくわか
る。この時代に於ては、こういう
・ ・ ・ ・
たちのいたずらが、よく流行した
もので、その最も代表的なるもの
は、京都の等持院の足利家累代の
しじょうがわら
木像を取り出して、四条磧にさら
したことである。
しかして、この場合に行われた
160
のは、足利家とはなんらゆかりの
ない豊臣太閤が、同様の私刑に行
われたという現象であって、一見
して誰もが、相当に度胆を抜かれ
たが、その傍の捨札までが、いつ
しか書き替えられてあるというこ
とは、文字ある人だけが気のつい
いわ
たことであった。新たなる捨札の
もんごん
文言に曰く、
﹁コノ者、農奴ヨリ出世ノ身ニ
161
カカハラズ、農民搾取ノ本尊元
ふらち
凶タル段、不埒ニツキ、梟首申
なり
シツクルモノ也﹂
この意味がわかるものもあるし、
わからないものもある。いずれも
度胆を抜かれた体に於ては同じも
のです。
十七
162
琵琶湖畔に農民暴動の空気が充
ち満ちている︱︱
ということは、前冊書にしばし
ば記したところであるが、その要
領としては、﹁新月の巻﹂第四十
九回のところに、不破の関守氏が、
お雪ちゃんに向って語ったところ
に、﹁まあお聞きなさい、お雪ちゃ
ん、こういうわけなんです、事の
起りと、それから、騒動の及ぼす
163
影響は⋮⋮﹂と前置をして、
﹁今度の検地は、江戸の御老中か
ら差廻しの勘定役の出張というこ
とですから、大がかりなものなん
です。京都の町奉行からお達しが
あって、すべての村に於て、この
い か
際、如何ようなお願いの筋があろ
まか
うとも聞き届けることは罷り成ら
ぬ︱︱村々からあらかじめ、その
お請書を出させて置いての勘定役
164
御出張なのです。そこで老中派遣
の勘定役が、両代官を従えて出張
わた
して参りましてな、郡村に亘って、
検地丈量の尺を入れたのでござる
が、もとよりお上のなさることだ
から、人民共に於てかれこれのあ
ろうはずはないのでござるが、そ
のお上のなさるというのが、必ず
しも一から十まで公平無私とのみ
は申されませんでな。
165
・ ・ ・
つまるところわいろなんですね。
当節は到るところ、それなんだか
・ ・ ・
らいけませんなあ、わいろでもっ
て、すっかり手心が変るんですか
らいけません。いったい、役人が
・ ・ ・
わいろを取って、公平を失すると
いうことほど政治上いけないこと
はありませんね⋮⋮今度の騒ぎも、
そもそもそのお江戸の御老中派遣
・ ・ ・
の勘定方が、わいろによって検地
166
はなはだ
に甚しい手心を試みたそれが勃発
のもとなんで⋮⋮﹂
・ ・ ・
江戸老中派遣の、わいろを取る
役人が出張して、思う存分に竿を
入れる。そのくらいだから寛厳の
手心が甚しく、彦根、尾張、仙台
等の雄藩の領地は避けて竿を入れ
ず、小藩の領地になるというと、
見くびって烈しい竿入れをしたも
のだから、領民が恨むこと、恨む
167
こと。そこで、これはたまらぬと、
庄屋たちが寄り集まって、竿入れ
中止の運動を試みようとしたが、
・ ・ ・
そこはわいろ役人に抜け目がなく、
まか
あらかじめ一切の訴願罷りならぬ
という覚書を取ってある。しかし、
領民たちになってみると、死活の
瀬戸際だから黙っていられない、
その鬱憤が積りつもって、大雨で
みずかさ
水嵩が増して行くように緩慢に似
168
て漸く強大である。どこの村から、
どう起ったかということは今わか
まわり
らないけれども、近江の四周の山
水が湖水へ向って集まるように、
湖岸一帯の人民の不平が、ある地
あふ
点へ向って流れ落ちて溢れて来る。
やすごおり
たとえば野洲郡と甲賀郡の歎願
組が合流して水口へ廻ろうとする
と、栗田郡の庄屋が戸田村へ出揃っ
て来る。勘定役人が甲の川沿いか
169
ら乙の川沿いに行こうとすると、
両の郡の農民が結束して集まるも
の数千人、ことに甲賀郡西部方面
たむろ
から押し出した農民は、水口藩警
ごんだがわら
固の間をそれて権田河原に屯し、
同勢みるみる加わって一万以上に
ぜぜはん
達し、破竹の勢いで東海道を西上
いしべ
し、石部の駅に達したが、膳所藩
の警固隊を突破し、三上郡に殺到、
そこで他の諸郡の勢と合し、無慮
170
二万人に及んで、三上藩に押寄せ
るという勢力になった。
幕府の勘定方の役人は、その時、
三上藩にいたが、藩の役人が怖れ
て急ぎ避難をなさるようにと勧め
たが、剛情我慢な幕府勘定役人は
それを聞き入れない。ついに群集
は陣屋へ殺到して、勘定方役向を
取囲んで口々に歎願を叫んでいる。
幕府勘定方役人の生命も刻々危急
171
ひん
に瀕している︱︱
十八
なお、そのことのあった前後、
せいらんこじ
青嵐居士がまたしても、胆吹の山
荘に不破の関守氏を訪れての会話
が漸く興に乗ると、次のようなこ
とうとう
とを滔々と論じ立てました、
﹁そもそも徳川氏ばかりが、農民
172
の敵だと言いふらすやからは、二
を知って一を知らないものですよ
︱︱例の豊臣氏なんぞが、むしろ
しぼ
農民を搾る方の本家と言ってしか
るべきでしょう。たとえばです⋮
⋮
日本に於て、農民が最も幸福で
あった時代は鎌倉時代、とりわけ
北条時代であったのですが⋮⋮さ
て、応仁の乱以後、天下を平定し
173
た豊臣秀吉というものが、御承知
の通り、彼は全く名もなき農民の
出でありましてな、そんなら、そ
の純粋の農民の出であるところの
豊臣太閤というものが、どういう
扱いをその親元の農民に向って試
みたかと申しますと、まずあの時
のあの人が行った﹃検地﹄という
ものでよくわかりますな。秀吉の
時までは一段歩は三百六十坪であ
174
り、一坪は六尺五寸平方であった
のですが、それから一段三百坪に
改め、一坪を六尺三寸平方とし、
これによって約二割以上の増収を
農民の上に加えたのであります⋮
⋮
秀吉も、その武力統一を完全に
すると共に、大陸政策を実行する
しぼ
上に、どうしても農民を搾らなけ
ればならなかったのですな。農民
175
を搾るためには、農民を無力にし
て置かなければならなかったので
すな。そこで﹃検地﹄の一方には
﹃刀狩り﹄というようなことも行
われましたのです。農民から一切
いやしく
の武器を取り上げて、苟も反抗の
できぬように丸腰にしてしまった
のが秀吉です⋮⋮
それを徳川氏に至って、更に徹
底的に強行政策を用いて圧迫しきっ
176
たというのですな。だから、徳川
氏の政策は農民を人間扱いにはし
ておりません、濡手拭と百姓は、
絞れば絞るほど水が出る︱︱最後
の一滴まで絞るように慣らしてし
まったのですな。徳川氏の対農民
よう
政策はその通りですが、その俑を
作って与えたものは豊臣秀吉なの
です。ことに徳川氏は少なくとも
城主大名の家に生れたのですが、
177
豊臣に至っては、尾張の中村の純
粋なる農民の出であるにかかわら
ず、農民の地位を向上せしめず、
これを奴隷以下に置くことの俑を
作りました。もし、農民が目下の
検地の残忍刻薄を恨むならば、当
さかのぼ
然、遡って徳川家康を恨まなけれ
ばならない、家康を恨む以上は、
秀吉もまた同罪のみかは、同罪以
上の元凶であることを恨まなけれ
178
ばならない理窟になるのです﹂
青嵐居士は、自分がこういう意
見の所有者ではない、広く歴史を
読んでいる間に、こういう史上の
つか
事実を掴み出でて語るものらしい。
すると不破の関守氏も、その説に
は相当共鳴するところあるものの
如く、
﹁秀吉は農奴から起って関白に至っ
たということは、争うべからざる
179
すじょう
素姓と考えますが、家康とても必
ずしも、生え抜きの城主大名とは
いわれますまい。近頃、ひそかに
研究した人の説によると、彼は農
いや
民よりもなお賤しい、乞食の徒、
がんにんぼうず
願人坊主、ささら売りの成上りだ
ということであります﹂
﹁ははあ、それは新説です、徳川
家康の幼名竹千代、岡崎の城主松
きんだち
平広忠の公達というのでなく、願
180
人坊主、ささら売りの成上り⋮⋮
それは果して根拠のある説ですか﹂
﹁当人の研究によると、なかなか
根拠があります、つまり、その説
は⋮⋮﹂
十九
不破の関守氏は、村岡融軒著
﹁史疑﹂と称する一書を取って、
181
青嵐居士の前に置いて言いつづけ
ました、
﹁この書物は、相当丹念に研究し
て成ったもので、面白い説ですか
ら、拙者は要領をうつし留めて置
きました、お暇の時に御一覧下さ
しか
い。而して要するに、徳川家康の
真実の素姓を突留めんとした書物
でありまして、結局この著者の研
ささらもの
究の結果は、家康は簓者の子であっ
182
て、松平氏の若君でもなんでもな
い、十九歳までは乞食同様の願人
坊主であった、それが、正銘の松
すんぷ
平の曹司竹千代が駿府に人質となっ
ているのを盗み出し、それを信長
いとぐち
に売り込んで、出世の緒を開いた
のだという説です⋮⋮﹂
﹁ははあ、そういう新説は今まで
聞きませんでした、それだけの説
よ
を立てるからには、必ずしも拠る
183
ところがないわけでもありますま
い、荒唐無稽の小説ならばとにか
く、新研究とあるならば、一応読
んで置く必要があると思います、
拝借いたしましょう﹂
﹁どうぞ、ごゆっくりごらん下さ
い︱︱ところで、秀吉も、家康も、
右の通り、その出生が農奴であり、
非人同然であるに拘らず、成功し
た暁には、その発祥民族を酷使虐
184
よう
待する、なるほど、その俑を作っ
たのは秀吉でありましょう、それ
たが
に輪をかけ、箍をはめたのは徳川
氏です﹂
﹁左様、徳川氏の農民政策に就い
ては、拙者も心がけて少々研究を
試みていないでもありませんが⋮
⋮﹂
と言って、そこで、今度は、また
も徳川氏の農民政策問題に復帰し
185
て、おのおのその懐抱を傾けて語
り合いましたが、落つるところは、
神尾主膳が百姓を憎むところの根
拠の裏を行っているようなもので、
徳川家直参の旗本であることを誇
りとする神尾主膳が、極力農民を
侮辱している。それは、やはりこ
の大菩薩峠の﹁恐山の巻﹂の百四
回のところから見るとよくわかる。
186
神尾は生れながら、百姓という
ものは人間ではない︱︱ものの如
く感じている。
それは当然、階級制度の教える
ところの優越性も原因であること
い
には相違ないが、それほど神尾と
のろ
いうものが百姓を、忌み、嫌い、
にく
悪み、呪うというのは、別にまた
一つの歴史もあるのです。
それは、神尾の先祖が、百姓を
187
しぼ
搾ろうとして、かえって百姓から
ウンと苦しめられ、いじめられて
いる。神尾の祖先のうちの一人が、
自分の放蕩濫費の尻を、知行所の
百姓にすっかり拭わせようとした
ひゃくしょういっき
ために、百姓一揆を起されて家を
危うくしたことがある。
体面の上からは勝ったが、事実
に於ては負けた。領主としての面
目はかろうじて立ったが、内実は
188
百姓の言い分が通ってしまったの
だ。
だから、心ある人は、それから
神尾の家風を卑しむようになって
いる。
その歴史が、今も神尾を憤らせ
ている。百姓というやつは厳しく
すれば反抗する、甘くすればつけ
上る︱︱表面は土下座しながら、
内心ではこっちを侮っている。最
189
も卑しむべき動物は百姓だ︱︱こ
れには強圧を加えるよりほかに道
はないと、それ以来の神尾家は、
おさ
代々そう心得て百姓を抑えて来て
いた。今の神尾主膳も、百姓を見
ると胸を悪くすること、この歴史
から来ている。
この点に於て、神尾主膳は徳川
家康の農民政策を支持している。
﹁権現様の収納の致し様﹂といっ
190
て、百姓は、生かしもせず、殺し
もせざるようにして搾れ︱︱とい
うことが、すなわち徳川家康の農
民政策であったと今日まで伝えら
れているのだ。
毎年の秋、幕府直轄の﹁天領﹂
を支配する代官が、その任地に帰
ろうとする時、家康はこれらを面
前へ呼びつけて、郷村の百姓共を
ば、﹁死なぬように、生きぬよう
191
がてん
にと合点いたし、収納申し付くべ
し﹂と申しつけたということであ
る。
どいおおいのかみ
その伝統を承って、これは家康
らくいん
の落胤だと言われた土井大炊頭の
如きは、ある年、その居城、下総
こ が
の古河へ帰った時、前年までは見
る影もなかった農民の家が、今は
目に立つようになって来たとあっ
て、﹁百姓、生き過ぎはしないか﹂
192
と部下の役人へ詰問的の問いをか
けたということになっている。
その当時の一村の名主の家には、
必ず水牢、木馬の類が備えてあっ
たのだ。百姓共が年貢を滞納する
時は、水牢へ入れ、木馬に乗せて
これを苦しめたものだ。
それだけを聞いていると、いか
にも農民に対して血も涙もないや
り方のように聞える。徳川家は農
193
民を見ること牛馬以下であって、
きゅうてき
農民にとって、徳川家は仇敵でで
もあるかのように聞えるが︱︱事
実、天下の政治をするものに、好
んで農民を苦しめたがる奴がある
ものか、苦しめるには苦しめるだ
けの理由があるからだ、苦しめら
いん
れる方は、苦しめられるだけの因
ねん
縁があるからなのだ。
いったい、発祥時代の徳川家の
194
地位を考えてみるがいい。天下は
麻の如く乱れて、四隣みな強敵だ。
その間から千辛万苦して天下を平
らかにする︱︱勢い兵馬を強から
しめねばならない。兵馬を強から
しめるには、後顧の憂いを断たな
ければならない。兵馬を強からし
めるには、兵馬を練ればよろしい
が、後顧の憂いなからしむるため
には、百姓を柔順にして置かなけ
195
ればならぬ。百姓は、矢玉の間に
命がけで立働くには及ばない代り、
へいたん
柔順に物を生産して、軍隊の兵站
を補充しなければならない。万一、
百姓を強くしてこれに反抗の気を
たくわ
蓄えしめた暁には、強い戦争がで
きるはずはない。そこで百姓を骨
抜きにして置かなければ、軍隊を
強くして、天下を平定することは
できないのだ。
196
だによって、家康が百姓を抑え
たのは、武力を伸ばさんため。武
力を伸ばすのは、天下を平定せん
がためなのだ。そうして、家康は
それに成功したのだ。天下の平和
のために、百姓を犠牲にしたのだ。
百姓をいじめたいから、自分が栄
華を極めたいから、そこで百姓を
虐待したわけではないのだ︱︱現
に、百姓共が、安穏に百姓をして
197
おられるのも、この徳川の武力が
あればこそではないか。強い武力
がなければ、国は取られ、田は荒
かせ
され、百姓は稼ぐところを失うど
ころか、稼ぐべき田地をさえ持つ
ことはできない。
だから、百姓は百姓として、分
を知って服従していさえすればい
いのに、ややもすれば反抗したが
る。表面服従して、少し目をはな
198
せば一揆を起したがるのが百姓だ
︱︱ことに近来は、一揆の無頼漢
の音頭を取るものを称して﹁義民﹂
やから
だのなんのと祭り上げる輩が多い
から、百姓がいよいよ増長する︱
うんぬん
︱云々。
二十
﹁どこの国の百姓も、百姓として
199
は皆うだつの上らないのは同じだ
が、ことにこの近江の国の百姓は
・ ・ ・
みじめなものです﹂
と、青嵐居士が不破の関守氏に向っ
て言うと、
﹁どうしてですか﹂
﹁それは、京都をつい背後に控え
ているだけに、戦争というと、こ
の国が唯一の要路となるのです。
東国の兵がこの国を通過せずして
200
京都に入ることはできません、西
国の兵もここを通過せずして東征
はできません、そこで、乱世に於
じゅうりん
ては国土が絶えず兵馬に蹂躙せら
こうむ
れ、人民が残暴を蒙りますから、
あんど
土地に安堵して生活を営むという
ひょうりゃく
ことができません、いつ剽掠を蒙
るか、掠奪せられるかわからない
のみならず、人力も絶えず徴発せ
られて争闘の犠牲とならなければ
201
と
ならない、生民その堵に安んぜず
というのが、この近江の国の住民
の運命でした﹂
﹁なるほど﹂
﹁しかし、人間というものは運命
に妨げられると共に、運命に逆らっ
て新境地を打開する力を与えられ
ているようでありまして、かく不
幸なる境地に置かれて、堵に安ん
ぜざる変通力が、一転して商業の
202
方へ注がれたというわけです。故
にこの国の勤勉にして機を見るに
敏なる土民共は、農業を捨てて商
業の方に着目し、転向することに
なりましたのです﹂
﹁なるほど﹂
﹁土着の土地を相手にしないで、
他領他国を目的とする、自分の生
れた土地で生産して、それから恵
まれることを断念して、他国へ進
203
出して富を吸収して来るという新
方向を案出したのも、自然の径路
とはいえ、この国の住民が馬鹿で
ない証拠です﹂
﹁なるほど﹂
﹁そこで、近江商人の名が天下に
聞えるに至りました。勤勉実直に
もう
して、知らぬ他国から金を儲けて
産を成し、その産を蓄積すること
に於て、また非凡なる忍耐と進取
204
との才能を持っておりました。他
国に向っての積極的進出と、自ら
守ることの堅実な消極的忍耐と、
両方をこの国の人間が持つことが
できたという次第で︱︱そこで、
自分の国の乱れるということが、
商人として成功する逆縁となりま
した。今日、大阪に於ける、江戸
に於ける、近江商人というものの
財力の、いかに根強くして盛んな
205
るかを思い合わせてごらんなさる
とよくわかります﹂
﹁なるほど、そうおっしゃられる
と、それがいわゆる近江商人の勢
力の一大原因であるかのように感
ちまた
ぜられます。国土が争乱の巷とな
るが故に、住民が他国へ進出する
機縁となる、逆縁がかえって利縁
となったという次第ですな﹂
﹁そうです。しかし、そんならば、
206
すべて自分の国が乱れているとこ
ろの人民は、外に向って大いに発
展をするかと申すと、それは一概
には言われません、全く疲弊しきっ
て、奴隷以下に没落してしまう国
民もあるのですから、要するに気
質の問題ですな﹂
﹁なるほど﹂
﹁江州人は、素質的に、逆境を打
開する勤勉の気風を備えていると
207
見なければならない理由もあるの
です。たとえばです、これから越
前の方へ向けて出る途中に、難渋
な峠が三ツもある、たいていの人
だと、それを聞いてうんざりし、
せめて三ツの峠が二つにでもなれ
ばいいと、こういって歎息すると
ころを、江州人は、峠が更に二つ
ばかり余分にあればよい、そうす
れば、人がいよいよ難渋がって出
208
かけない、そこを自分は出かけて
行って、商売をひとり占めにして
しまう︱︱大体こういった気風な
のですから、そこに近江商人の勝
利があろうというものです﹂
﹁なるほど︱︱おおよその人は地
たの
の利を恃むのだが、江州人は地の
不利に恵まれるというわけですな。
もとより、それは素質とも相関係
しましょう﹂
209
﹁もちろん、天の時、地の利と言
いますが、江州人には、天の不祥
時と地の不利益の場合に、恵まれ
おの
るのです。彼等は己れの国土を対
象としないで、他国進出を目標と
しています、そこに彼等の発展が
あります。しかし、こういう、恵
まれずして恵まれたる土地の半面
には、恵まれたようで実は恵まれ
ない不幸の民が多いことを思わな
210
ければなりません。近江商人が最
も恵まれた成功者だとすれば、近
江農民は最も恵まれざる落伍者だ
ということもできます︱︱﹂
﹁なるほど﹂
﹁江州人だとて、皆が皆、そう他
国へ進出して成功する者ばかりで
はありません、この国に残って兵
やせばたけ
馬の奴隷となり、或いは痩畑の番
人とならなければならぬ運命に置
211
かれた農民こそ、最も恵まれざる
者と言うべきでしょう﹂
二十一
﹁かく、一方には他領他国へ進出
して富を成す成功者があると共に、
・ ・ ・ ・ ・
一方にはちょうさんすることさえ
許されざる農民が存することは、
おたがいよく考えてみなければな
212
らないことです﹂
﹁なるほど﹂
﹁外へ発展するの機運に恵まれず、
しぼ
内にとどまっていては、搾られて
骨も身も食われてしまう、そこで、
やむを得ず他領へ出奔せんとすれ
・ ・ ・ ・ ・
ば、ちょうさん律があって、厳と
して身動きが許されない、下手な
講釈師のやる荒柳美談ではないが、
たたず
彳むな、立つな、歩むな、居坐る
213
な、というところが即ち農民の立
場なのです﹂
ことわざ
﹁なるほど、そうなりますと、い
いにし
よいよ古えの諺にあるが如く、民
に倒懸の苦ありということになり
さかさ
ますな、農民は倒にブラ下がって
いるより仕方がないというわけで
すな﹂
・ ・ ・ ・ ・
﹁なんにしても、ちょうさん律は
よくありませんな、行動の自由、
214
移住の自由を奪うということはよ
くありませんな。民に移住される
と、領土を耕す人がなくなる、自
然、領主がやりきれなくなる、と
いう結果が怖い、移住されること
がそれほど苦しければ、民を優遇
するに越したことはないではない
か、優遇というのが為し難ければ、
人間が住めるだけのようにしてや
る責任が領主にはあるでしょう、
215
罪人ならざるものを、一定の土地
なか
に監禁して、動く勿れと命ずるの
は悲惨ですね﹂
﹁あらゆる農民いじめのうちに、
・ ・ ・ ・ ・
このちょうさん律が最も不合理だ
と思います。最近です、湖岸の町々
・ ・ ・ ・ ・
村々にも、このちょうさん律の制
札が出ましたのをごらんになりま
したか﹂
﹁私も、ちょっと見かけました﹂
216
﹁あの文言をお読みになりました
か﹂
﹁一読いたしました﹂
ここで、二人の問答にかかって、
見たか、読んだかの問題に上って
・ ・ ・ ・ ・
いるちょうさん律の制札なるもの
は、多分、先日の日、長浜の町の
会所の附近に於て、宇治山田の米
友の目に触れたあれであります。
それならば、﹁胆吹の巻﹂の十
217
八回のところにある︱︱
長浜の会所へ、両替の使に用心
棒としてついて来た宇治山田の米
しばら
友は、会所の前に暫く待っていた
が︱︱そこに高札場があって、い
くつもの札のかけてあるのを見つ
けました。その高札を片っ端から
読んでみますと、その真中のいち
ばん大きいのに、次の如く書いて
218
ありました。
﹁定
何事によらず、よろしからざる
ことに、百姓大勢申合せ候を、
・ ・ ・
とたうととなへ、とたうして、
・ ・ ・
しひて願事企てるをがうそと言
ひ、あるひは申合せ村方立退候
・ ・ ・ ・
をてうさんと申し、他村にかぎ
らず、早々其筋の役所に申出づ
べし、御褒美として、
219
とたうの訴人 銀百枚
がうその訴人 同断
てうさんの訴人 同断
右之通下され、その品により帯
刀苗字も御免あるべき間、たと
ひ一旦同類になるとも発言いた
し候ものの名前申出づるにおい
とが
ては、その科をゆるされ、御褒
美下さるべし。
一、右類訴いたすものなく、
220
村々騒立ち候節、村内のものを
差押へ、とたうにくははらせず
一人もさしいださざる村方これ
あらば、村役人にても、百姓に
ても、重にとりしづめ候ものは、
御はうび下され、帯刀苗字御免、
さしつづきしづめ候ものどもこ
れあらば、それぞれ御褒美下し
おかるべきもの也。
年 月 日
221
奉行﹂
それを読んでしまった米友が、
にら
高札の表を横目に睨んで、
﹁ははあ、一味ととうしちゃいけ
ねえってえんだな、申合せをして
村方を立退くのもよくねえてえん
だな、それを訴人しろてえんだな
あ、訴人した奴には銀百枚を御褒
美として下しおかれようてえんだ
な、なおその上に、次第によっちゃ
222
苗字帯刀も御免あろうてえんだな
⋮⋮一味ととうして乱暴を働くの
が悪いのはわかり切ってるが︱︱
苦しくって堪らねえから、村をちょ
うさんして、どこぞへ落ちのびて
行くのも罪になるんだ、いてもわ
るし、動いても悪し、立って退け
ばまた悪い、百姓というものは浮
む瀬がねえ﹂
と言って彼は浩歎したのであった
223
・ ・ ・
が、思いきや、そこで、その悪逆
こうむ
さら
なる罪名を自分が蒙って、ちょう
・ ・
さんの罪を着せられて、﹁晒し﹂
にかかる運命に落されていようと
は。
二十二
長浜の浜屋の別館に割拠してい
るお銀様と竜之助とが、襖越しに
224
深夜の会話。お銀様がまず言う、
﹁だが、おかしいほど芝居気たっ
ぷりの男でしたわね﹂
﹁ふーむ﹂
﹁いやに気取って、セリフ廻しか
らしぐさまで、すっかり芝居になっ
ていましたよ、キザもあそこまで
行くと、ちょっと笑えない﹂
﹁ああいう奴なのだ﹂
﹁あなた、以前から御存じなんで
225
すか﹂
﹁ちっとばかり知ってるよ﹂
﹁そうすると、あなたのことも、
わたしのことも、知り抜いていて
いたずら
の悪戯なんでしょうか、それにし
まず
ては仕上げが拙うござんしたわ﹂
﹁は、は、何に限らず、あれは
・ ・ ・ ・ ・
ちょっかいを出してみたがるよう
に出来てる男なんだ﹂
・ ・ ・ ・ ・
﹁その、ちょっかいが怪我のもと
226
せっしょう
でしたねえ、殺生なことでした﹂
﹁うむ﹂
﹁殺生は殺生ですけれども、あな
たとしては、あんまり、しみった
れな殺生でしたね、どうして二つ
に斬っておしまいなさらなかった
のですか﹂
﹁ふーん、そりゃ、座敷を汚して
もいけないからな、少し考えたよ﹂
﹁かまいませんよ、畳なんぞは、
227
いくらでも新しくなりますから。
ですけれど、指一本というところ
が、かえって細工が細かくて面白
いのかも知れません。それにあい
つは気のせいか、右の腕がないよ
うでしたね、ああ、わかりました、
わかりました、あいつの片腕を打
落したのが即ち、あなたなんでしょ
う︱︱女のことで﹂
と、お銀様がここでひとり合点を
228
しゅうれん
すると、四方の空気がいとど収斂
せい
性を加えてきて、夜更けに近いの
か、夜明けが迫っているのか、
ちょっとわからない気分が漂いま
した。
・ ・ ・ ・
﹁がんりきの百蔵という奴があれ
なんでしょう﹂
と、ややあってお銀様が、机の上
かたひじ
に片肱を置いて言いましたが、竜
之助の方では、とんと返事がない。
229
お銀様は別段それを追究するでも
なく、
﹁それはそうと、あいつの今の言
葉で、わたしの父親が、この近い
ところに来ているということをお
聞きになりましたか﹂
﹁聞いた﹂
﹁そうして、わたしの父親から、
その脇差をもらって来たとか言っ
て、それを仔細らしく、わたしの
230
ところへ押売りに来たと言ってお
りましたねえ﹂
﹁その通り︱︱﹂
﹁さあ、それが本当だとすると、
わたしはどのみち父に会わなけれ
ばならないでしょう、父は、わた
・ ・
しが胆吹にいると知って来たのに
かみがたけんぶつ
相違ありません、上方見物はかこ
・ ・
つけで、実はわたしの行動を見届
けに来たのです﹂
231
﹁それは、そうかも知れない﹂
﹁してみれば、わたしは結局、会
わなければならないことになるで
しょう、わたしは、父の宿を大津
まで訪ねて行く気にはなれないが、
父が胆吹へやってきた以上は、ま
さか、それを追い返すわけにはゆ
かないでしょう、会わないという
のも卑怯ですからね﹂
左様、父の伊太夫が甲州から旅
232
立ちをしてこの近いところ、大津
に宿っているということを、先刻
・
侵入のあの小ざかしい、生意気な、
こぬすっと
色男がかった小盗人の、今いうが
・ ・ ・
んりきの百とやらから、キザなセ
リフ廻しで聞かされた。現にまぎ
れもなき、父が愛用の腰の物を証
拠に持参したのだから、まんざら
でたらめ
の出鱈目でないのは分り切ってい
る。そこで、次の段取りは、いか
233
にしてこの父に応接すべきかでな
ければならぬ。お銀様は、当然そ
れを考えていたのが口に出たまで
である。これも相手に返答を求め
るために言ったのではない。
﹁そうなると、わたしは一応、胆
吹へ帰らなければなりません、そ
の間、あなたはここにじっとして
いらっしゃい、動いてはいけませ
ん︱︱﹂
234
と、今度は、相手に向って宣告を
下したのです。なお、その宣告に
つけ加えて、
﹁わたしが、またこの宿へ戻って
来るまで、この一間でじっとして
いらっしゃい、犬を斬りに出ては
いけません、もうこの辺には斬っ
て斬栄えのするものは何もいませ
んから。それに、このだだっ広い
加藤清正の屋敷あとなんですもの、
235
かっこう
隠れているには恰好ですよ、宿へ
言いつけてありますから、誰も気
兼ねはありません、おとなしく、
じっとして待っていらっしゃい﹂
二十三
お銀様は、竜之助に監禁を申し
渡して置いて、
﹁ですけれども、誰かお給仕がな
236
くてはいけませんねえ、誰か、
・ ・ ・ ・ ・ ・
しょっちゅうついていてあげる者
がなければ生きられない人なんで
すから﹂
とつけ加えて、当惑がりました。
﹁なあに、一人だってかまわない
よ﹂
と竜之助が、ブッ切ったように言
う。
﹁かまわないことがあるものです
237
か、さし当り、誰が朝夕の御膳を
運んでくれますか﹂
﹁女中がいるだろう﹂
﹁女中任せなんぞにできる人なら、
心配はありませんよ﹂
﹁では、宿のおかみさんか誰か﹂
﹁宿のおかみさんというのは、ま
だ若いのです﹂
﹁若くったって、かまわない﹂
﹁こちらはかまわなくても、あち
238
らがかわいそうです﹂
﹁どうして﹂
﹁どうしてたって、あなた、あな
たという人は、人の若いおかみさ
んが好きなんでしょう﹂
﹁何を言ってるのだ﹂
﹁わかってますよ。それに、この
宿のおかみさんは、若くて、愛嬌
があって、上方風の美人なんです﹂
﹁それがどうしたというのだ﹂
239
﹁そればかりじゃありません、こ
こは近江の長浜というところです
よ﹂
﹁長浜はわかっている﹂
﹁そうして、この宿は、長浜の浜
屋という宿なんです﹂
﹁それも、前から聞いて、ようく
わかっているよ﹂
﹁そればかりじゃないのです、そ
か み
の若いお内儀さんの名前が浜って
240
いうんです﹂
﹁え﹂
﹁驚いたでしょう、そのお内儀さ
んを、あなたのところへ出せます
か﹂
﹁うむ︱︱﹂
﹁どうです、そう聞いているうち
に、そら、もうあなたの血の色が
変ってきました、かわいそうに、
これでもう、この宿のお内儀さん
241
が見込まれてしまいました。わた
しという人も、うっかり言わでも
すべ
のことに口を辷らしたために、ま
た一つの殺生をしてしまいました。
これではとても、ここへひとり残
して置くわけにはゆきません。と
いって、この人をわたしが連れて、
白昼どこへ歩けますか、夜更けに
はなおさらあぶないものです﹂
242
二十四
ききょう
胆吹の新館のお銀様の居間で、
しき
お雪ちゃんが頻りに桔梗の花を活
けている。
お雪ちゃんとしては、お銀様に
出し抜かれて湖水めぐりをされて
しまったようなものの、それでも
心からお銀様を恨むということも、
憎むというほどのこともあろうは
243
ずはなく、今では充分の好意をもっ
て、その不在の間にお花を活けて、
床の間への心づくしをして置いて
上げたいという気持にまでなって
いるのです。
思うようには活けられないけれ
ど、せめてお銀様に笑われないよ
うに︱︱ああも、こうも、と枝ぶ
りに精をこめている間に、つい我
を忘れる気持にまでさせられてし
244
まいました。芸術的気分とでもい
うものでしょう︱︱無心になって
花を活けていると、その後ろから、
不意に物影が暖かくかぶさりまし
たのに、無心の境を破られて、はっ
と見向くと思いがけなく、自分の
背後にお銀様が例の覆面のままで、
すらりと立って、こちらを見下ろ
しているではありませんか。
﹁まあ、これはお嬢様、お帰りあ
245
そばしませ﹂
あ わ
お雪ちゃんは少し周章てて、い
ずまいを直して挨拶をしますと、
お銀様は、
﹁たいそうお上手ですね﹂
﹁いいえ、お恥かしいんでござい
ますよ﹂
お雪ちゃんは恥かしそうに申し
わけをすると、
﹁結構じゃありませんか﹂
246
﹁いいえ、お嬢様のお留守の間に、
ほんのお笑い草までにと思いまし
て﹂
﹁どうも有難う﹂
﹁ほんとにお恥かしい⋮⋮﹂
﹁全くお見事ですよ、わたしなん
ぞには、とてもそうは参りません﹂
﹁どういたしまして、お嬢様なぞ
は、お仕込みが違っていらっしゃ
いますから﹂
247
﹁天性のものですね、わたしなん
ぞいくら稽古をしても、無器用な
ものですから﹂
﹁いいえ、お嬢様は万事に筋がよ
くっていらっしゃいますから﹂
﹁芸事では、お雪さんにかないま
せん﹂
﹁どう致しまして﹂
﹁それで結構です、頂戴して飽か
ずながめることに致しましょう︱
248
︱お手並もよいが、花の選みも悪
くございません﹂
﹁少しでもお気に召しましたら、
わたし本望でございます﹂
﹁部屋全体が、これですっかり落
着きが出来ました︱︱お雪さん、
そこはそのままにして、あとで誰
かに片づけさせましょう、早速で
すが、一つあなたに頼みがあるの
です﹂
249
﹁何でございますか﹂
﹁あのね︱︱﹂
﹁はい﹂
﹁御苦労ですけれども、お雪さん、
これから、あなたにひとつ長浜ま
で行っていただきたいのです﹂
﹁長浜まででございますか﹂
﹁はい、長浜へ行って、暫くあそ
こに泊っていていただきたいので
す、しばらくといっても、そう長
250
い間ではありません、せいぜい五
日か十日﹂
﹁承知いたしました、どういう御
用か存じませんが、お嬢様のおっ
しゃるお言葉でしたら⋮⋮﹂
﹁それでは早速お頼みしますが、
長浜へ行きますと、浜屋といって、
古い大きな構えの宿屋があるので
す、そこへ裏木戸から行って、お
雪さんに、暫く泊っていていただ
251
きたいのです﹂
﹁よろしうございますとも、いつ
でもおともを致します﹂
おともと言われて、お銀様の言
葉が少しセキ込みました。
﹁いいえ、わたしは行きません﹂
﹁では?﹂
﹁お雪さん、あなた一人で行って
泊ってもらいたいのです﹂
﹁わたしが一人で、その宿へ泊り
252
に行くのでございますか﹂
﹁ええ︱︱一人で行って、向うに
人がいますから、その人の介抱を
してもらいたいのです﹂
﹁まあ︱︱どなたかのお世話をし
て上げるのでございますか﹂
﹁それはね、行って見ればわかり
ます﹂
﹁でも⋮⋮﹂
と、こんどは、お雪ちゃんの言葉
253
よど
が淀みました。お雪ちゃんとして
は、お銀様のおともをして長浜ま
で行くものとばっかり思っていた
のが、そのお銀様は行かないで、
自分一人で行け、行った先に人が
いるから、その人を介抱に︱︱し
かも、その人は誰か、行って見れ
ばわかると言われるほど、お雪ちゃ
んの気分が、わからないものにな
ります。
254
二十五
﹁ねえ、お雪さん、あなたは、わ
たしのたった一人の妹でしょう、
たしかにそのはずです﹂
もったい
﹁勿体ないことです、わたしは、
お嬢様にそうおっしゃっていただ
きましても、あなた様の御家来の
つもりでおります、御姉妹なんぞ
及びもつきません﹂
255
﹁では、もし仮りに家来として置
きますと、なおさらわたしの言い
そむ
つけを反きはしないでしょう﹂
﹁反きませんとも、お嬢様のおっ
ひみず
しゃることならば、火水の中でも
⋮⋮﹂
﹁では、黙って、長浜へ行って下
さい、そうして浜屋の裏の木戸口
はねばし
へ行きますと、刎橋があります、
そこから入って、しるしがしてあ
256
りますから、誰にことわる必要も
ありません、廊下伝いに行きます
と、秋草の間というのがあります
から、そこへ入って行くと用向が
すっかりわかるようにしてありま
す﹂
﹁承知いたしました﹂
お嬢様のためならば火水の中ま
でも、と言った手前、お雪ちゃん
は無条件でその言うことを聞き従
257
わなければなりません。
﹁そうして、つまり、病人がいる
のです、その看病を、心ゆくばか
りあなたに頼みたいのです﹂
﹁御病人の看病でございますか、
承知いたしました、わたしででき
ますことならば、できます限り︱
︱﹂
﹁できますとも、あなたでなけれ
ばならないのです﹂
258
﹁いいえ、わたしは御病人の看病
なんぞ、あんまり慣れませんから﹂
と、お雪ちゃんが謙遜し、服従し
ながらも、心の中では合点し難い
ものが多いのです。病人の看護は
頼まれればできない限りはないが、
わたしでなければならない病人の
看護というものがあるべきはずも
ないでしょうのに、お銀様の言い
廻しが、どうも少し変だと思われ
259
ないではないが、やはり、絶対服
従を誓っている以上は、反問は許
されないことで、お雪ちゃんとし
て、このお嬢様の特異性を心得て
いるばかりか、このごろでは、心
から崇拝する信仰的にさえなりつ
つあるのですから、否やはあろう
はずはありません。お雪ちゃんを
のっぴき
退引させないようにして置いてか
ら、お銀様はなおも畳みかけて言
260
いました、
﹁その病人は、病人のくせに、退
屈がって出歩きをしたがっていけ
ないのです、ことに夜分は気をつ
けなければいけませんから、お雪
さん、あなた、目を離さずついて
いて、一寸も外へは出さないよう
もっと
にして下さい。尤もあなたがつい
ていれば、お出なさいと言っても、
出ないかも知れません﹂
261
﹁そんなはずはございません﹂
お銀様の言いぶりが、いよいよ
消化しきれないものがあるので、
その申しわけも、お雪ちゃんとし
ていよいよ要領を得ないものにな
る。それをもお銀様は押しかぶせ
て、
﹁でも、そうしているうちに、わ
たしも行くでしょう、そうしたら、
その人たちと一緒に、竹生島へで
262
も参りましょう、湖水めぐりもや
りましょう﹂
﹁それは嬉しうございます﹂
お雪ちゃんがお礼を言う。お銀
様は冷然として、
﹁では、これから直ぐお頼みしま
す、行きだけは誰かに連れて行っ
てもらいましょう。ああ、誰かと
いうより、友さんがいいでしょう、
米友さんに頼んで送って行っても
263
らいましょう﹂
﹁あ、お嬢様、その米友さんでご
ざいますが⋮⋮﹂
ここで、お雪ちゃんの気色も、
言葉も、ガラリと変ってしまいま
した。
﹁友さんが、どうかしましたか﹂
﹁あの、お嬢様、米友さんの行方
が知れなくなったのでございます﹂
﹁どうして﹂
264
﹁なんでも、お嬢様がお出かけに
なって間もなく、やっぱり長浜の
おとさ
方へお出かけになったまま、音沙
た
汰がないのだそうでございます﹂
﹁あの人のことだから⋮⋮﹂
お雪ちゃんがあわただしいわり
あいに、お銀様は冷淡な挨拶です。
それというのは、行方不明といっ
たところで、あの男のことだから、
やがてひょっこり帰って来るだろ
265
う。或いはもう立帰って、料理場
ゆ
の隅に好きな栗でも茹でているの
ではないか、といった程度のもの
です。ところが、お雪ちゃんの不
安な色は容易に去らないで、
﹁いいえ、それが只事ではないら
しうございます、役人に捕まって、
さら
晒しとやらにかけられているとい
うような、不破の関守さんのお言
葉でしたが、くわしいことをわた
266
くしに知らせて下さらないのが、
いっそう心配なんでございます﹂
二十六
米友の行方については、お銀様
も、お雪ちゃんも、関心の限りで
ないことはないが、さりとて、上
の如き運命が、今や盛んに米友の
上を見舞いつつあるとは、お雪ちゃ
267
んはもとより、お銀様といえども
想像の限りではありませんでした。
そこで、二人とも、米友のこと
については、ちょっと暗い思いを
たちま
しましたけれども、お銀様は忽ち
平静に返って、お雪ちゃんに向っ
て言いました、
﹁では、お雪さん、頼まれて下さ
いね、米友さんがいなければ誰で
もいい、誰かに附添ってもらって、
268
乗物でおいでなさい﹂
﹁いいえ、長浜までは三里の道で
ございましょう、わたし、そのく
らい歩くことはなんでもございま
せん﹂
﹁いいえ、それには及びません、
乗物といっても、馬はあぶないか
か ご
ら、駕籠でいらっしゃい﹂
か ち
﹁いいえ、徒歩で結構でございま
す﹂
269
﹁それはいけません、そうしてね、
着物も着換えていらっしゃい、髪
も結い直していらっしゃい﹂
﹁有難うございます﹂
﹁あの戸棚をあけてごらんなさい、
二重の乱れ箱の下の方が、あなた
のためにこしらえて置いた着物で
す﹂
﹁まア︱︱﹂
﹁それから、お雪さん、あの鏡台
270
をここへ持出して下さい、わたし
が、あなたに髪を結って上げます、
上手ではありませんけれど﹂
﹁まあ、お嬢様、それはあんまり
勿体ないことでございます﹂
﹁いいえ、かまいません、わたし
も久しく女の髪を手がけませんか
ら、変なものが出来るかも知れま
せんが、結わせて下さい﹂
﹁では、お言葉に従います﹂
271
この女王の言うことは、高圧で
ある。好意をもって言ってくれる
にしてからが、命令とよりほかは
誰にも響かない。お雪ちゃんとい
えども、それ以上、辞退する力は
ない。
ほどなく鏡台の前へ坐らせられ
たお雪ちゃんは、申しわけのよう
に、
﹁あれから、わたしは髪を結んだ
272
ことがございません、いつもこの
通りにしておりますから、もう、
すっかり癖がついてしまって、と
てもお結いにくいことでございま
しょう﹂
ここにお雪ちゃんが、あれから
というのは、ドレからであろう。
お雪ちゃんがこういうふうにして、
現代式に︱︱或いは、平安朝式に
結び髪にして後ろへ下げたなりの
273
風俗は久しいことでありました。
それがまた、女王様の手にかかっ
て新たに結び直されようとする。
この女王は果して、この少女の髪
を、いかように扱うつもりか知ら
ん。それは任せるだけであって、
問うことを許されない。許されな
いわけではないけれども、お雪ちゃ
んはまぶしくて尋ねられない。そ
の座へ坐らせられてみると、髪を
274
結うことはおろか︱︱首を斬ると
言われても反問はできない。そん
なような心持でお雪ちゃんが神妙
て
に髪結の座に直っていると、後ろ
す
へ廻ってお銀様は、梳き手のする
くし
ように、櫛を入れて、癖直しにか
かりながら、
﹁今日は島田に結んで上げましょ
う﹂
﹁まあ︱︱﹂
275
お雪ちゃんは、我知らず顔が真
赤になりました。
﹁お雪さん、あなたは島田よりか
ももわれ
桃割が似合うかも知れない、桃割
に結ってみて上げたいとも思うけ
れど、それではあんまり子供らし
いから﹂
お銀様の手先の存外器用なこと
にも、お雪ちゃんは驚かされまし
た。手先が器用だけではない、こ
276
の人は、人の髪を結ってやること
が好きなのだと思わずにはおられ
ません。人の髪を結ってやること
が好きというよりも、人の髪を結っ
てやることに於て、自分の芸術心
に満足を求めているのだとしか思
われないことほど、非常に丹念に
絵を描いたり、彫刻したりするよ
うな気分を、はっきりと見て取る
ことができます。
277
﹁お嬢様、あなた様は、どうして
まあ、髪上げなんぞにまで、こう
もお上手でいらっしゃいます﹂
と、やっとこれだけの推称をして
みますと、お銀様は、
﹁長浜へ行ったら、この次にはお
まるまげ
雪さんを丸髷にしてあげます﹂
﹁え﹂
な
お銀様の言うこと為すことの意
表に出づることは、わかり切って
278
いながら、その度毎に、お雪ちゃ
きも
んの胆を奪うことばかりです。
二十七
まるまげ
﹁お嬢様、丸髷なんて、それはあ
んまり⋮⋮﹂
桃割のきまりの悪いよりも、お
雪ちゃんにとって丸髷と言われる
ことは、なお一層、きまりが悪い
279
程度を越して気味が悪い、と言っ
た方がよいでしょう。そうすると、
お銀様が、何かしら少々の自己昂
奮を覚えたものの如く、
﹁いいえ︱︱もうお雪さんは、丸
髷に結っても似合わないことはあ
りませんよ﹂
ごじょうだん
﹁御冗談を⋮⋮﹂
﹁桃割から島田になり、島田から
丸髷にうつる時に、女が女になる
280
のです。ですから、丸髷というも
のは憎いものです﹂
お雪ちゃんは何と挨拶していい
かわからない。
﹁でもお嬢様、丸髷っていいもの
いき
でございますね、あんな粋で、人
がらな髪はございません﹂
﹁お雪さん、あなたも丸髷がお好
き?﹂
﹁え、わたし、自分はそんな柄で
281
はありませんけれど、好きなとい
う点から言いますと、あんな好き
な髪はありません﹂
﹁わたしも、丸髷は大好き⋮⋮﹂
﹁お嬢様、あなたこそ、丸髷が全
くお似合いになりますよ、すらり
としたお姿に、粋で高尚な丸髷を
結んでごらんあそばせ、それこそ、
わたしたち女が見て、うっとりす
るお姿になるでしょうと思います、
282
ほんとに、お嬢様の丸髷姿こそ、
どんなにお人柄でございましょう﹂
﹁そうか知ら﹂
﹁丸髷は江戸風がよろしうござい
ましょうか、京風でございましょ
うか。長浜にも、きっと上手な髪
結さんがいることでしょうから、
お嬢様、今度は、あなたこそ、丸
髷にお結いあそばして、お見せ下
さいまし﹂
283
お雪ちゃんがこう言ったのは、
あながち、お銀様の意を迎えるた
めにばかり言ったのではない、事
実、お銀様その人の姿かたちとい
うものを見ているうちに、ことに、
そのすらりとした後ろ姿などを見
せられる時は、女ながら、うっと
りさせられてしまうことは度々な
んでした。日頃、心にあることが、
うっかり口へ出ただけなのでした
284
もと
ふる
が、その言葉と共に、お銀様の元
ゆい
結を結ぶ手が、ブルッと異様に顫
えたのを感づくと、電気に打たれ
でもしたようにハッとして、
し ま
﹁失策った﹂
と、これは口には出さなかったが、
かお
自分ながら、鏡にうつる面の色が
さっと変ったのを気づかずにはお
られません。
この女王様に、髪を結って見せ
285
ろと言ったのは、いかに重大なる
禁忌に触れたのではなかったか。
姿のいいことばかりを考えていた
が、その首から以上の神秘に於て
は、お雪ちゃんは今日まで、つい
に何物にも触れていないし、許さ
れてもいない。この女王様が、朝
から晩まで、屋外にあると、室内
にあるとを問わず、秘密を守り通
しているこの覆面の中の神秘は、
286
いま
かつ
未だ曾てお雪ちゃんの前に開かれ
ていない。お雪ちゃんとしては、
女王様の威力に圧倒せられて、仰
ぎ見ることができないといった、
はばか
ある程度の憚りもあるが、同時に
女性として、包み隠さねばならぬ
あば
ほどの秘密を、かりそめにも発き
うかがうには忍びない、というし
そくいん
おらしい惻隠もある。そこで、お
雪ちゃんは、今日まで起居を共に
287
していても、お銀様の首から上の
形態は問題にしていない。その頭
脳の精鋭には心服しているが、形
態的には首から上の先天的に存在
しない人として、この女王と応対
するに慣らされている。ところが、
たった今、不用意で言ったことは、
明らかにこの禁忌に触れていたと
すべ
いうことを、口を辷らしてはじめ
て気がついたのです。
288
﹁わたしは、人の髪を結ってあげ
ることは好きだが、自分の髪を結
うのは嫌いです、自分の髪の毛が、
どんな色に変っているか、それは
見たこともない、見ようとも思わ
ない⋮⋮見ようとも思わないもの
を、人に見せるわけにはゆきませ
ん﹂
と、お銀様の言葉は存外平調でし
たから、お雪ちゃんもホッとしま
289
した。
髪を結い終ると、お銀様が、
﹁では、お雪さん、あの衣裳箱を
とり出して、あなたの身に似合う
着物を見立てて下さい、いいえ、
ひき
かまいません、上も下もみんな抽
だし
斗を抜いて見て下さい︱︱わたし
が手伝って着つけをして上げましょ
ちりめん
う、長浜は縮緬の本場で、衣裳の
ことにはみんな目が肥えているで
290
しょうから、笑われないようにし
て行って下さい﹂
お銀様の結い上げた島田の出来
栄えに、お雪ちゃんはのぼせるほ
ど興味を感じているところへ、立
てつづけに衣裳の詮議、それもこ
の場に於てのあらゆる豪華を尽し
て展開されようというのですから、
お雪ちゃんはわくわくとして、別
の世界へ連れて行かれる気分にさ
291
せられてしまいました。
二十八
ゆいわた
やがて出来上ったお雪ちゃんの
よそお
粧いは、結綿の島田に、紫縮緬の
あけぼのぞめ
曙染の大振袖という、目もさめる
ばかりの豪華版でありました。こ
やまかご
の姿で山駕籠に揺られて行くと、
ほ え か ご
山駕籠が宝恵駕籠に見えます。
292
しゅんしょう
春照から長浜へ行く、なだらか
わき
な道筋、その駕籠側に小風呂敷を
引背負って附添って行くのは、近
頃この王国の御飯炊きになった佐
造というお爺さん。人里近くなる
につれて、村人村童の注視の的と
されずには置きません。
きれい
﹁あれ、綺麗な人が通るよ﹂
﹁お人形さんみたいのが通るよ﹂
﹁お駕籠で、どこぞのおいとはん
293
が通りなさるよ﹂
﹁まあ、綺麗﹂
﹁立派だな﹂
いと
﹁どこのお娘はんだすやろ﹂
﹁あ、ありゃお軽さんだぜ﹂
﹁おお、お軽さんだ﹂
やましな
﹁お軽さんなら山科へ行かるるの
でおまっしゃろ﹂
ぎおん
﹁いいや、お軽さんは祇園へ売ら
れて行くんだっせ﹂
294
﹁祇園だわ﹂
﹁京の祇園へ、おいとはん、売ら
れて行くんだっせ﹂
﹁かわいそうに︱︱﹂
﹁あの年でなア︱︱﹂
﹁お軽はん、かわいそうに﹂
彼等は口々に、お雪ちゃんをお
軽にしてしまいました。
山科から祇園へ売られて行くお
軽さん。多分、村人村童たちは、
295
か ご
村芝居の教育によって、駕籠に揺
られている美しい女を、いちずに、
お軽ときめてしまっているらしい。
お雪ちゃんはそれを聞いていい気
持はしない。いい気持のしないの
は、今に始まったのではなく、最
初から、こういう極彩色に自分の
身をして町に下らしめられること
が、本意ではなかったのです。お
銀様の意志によって、こういうこ
296
とにさせられてみると、恥かしい
やら、おかしいやら、苦しいよう
くすぐ
な、擽ったいような気分にさせら
れてしまいましたが、それでも若
い娘のことですから、美しい粧い
をさせられたということに、堪え
けんお
難い嫌悪の念は起しませんで、ど
うかすると、一種の得意の念をさ
ふ
え催して、年にも似合わず老けて
いた自分というものを、急に青春
297
を取戻したような心持にもなって
みたが、村人村童から忠臣蔵のお
いちりき
軽に見立てられて、祇園一力への
身売り道中にさせられてしまった
ことには、笑っていられないもの
がありました。
﹁お軽さんだぜ、ほら、お爺さん
よい
が附添っているだろう、あれが与
ち べ え
一兵衛はんだっせ﹂
﹁おお、与一兵衛さん⋮⋮﹂
298
お雪ちゃんがお軽にさせられた
巻添えを食って、気の毒に佐造老
爺が、与一兵衛にされてしまう。
誤解も、誤伝も、慣れてしまえ
きっぷ
ばあまり気にはならない。本来、
さば
捌けた気風を持っていたお雪ちゃ
んは、長浜へ近く、ようやく人の
眼と口とに慣らされてくると、も
う全く度胸が据ってしまいました。
何とでもお見立てなさい、また何
299
とでも品さだめをおっしゃい、わ
たしはこうさせられたこの身上で、
行くところまで行きますよ、珍し
ければ、いくらでもごらんなさい、
見られるだけで、穴はあきません
や け
よ、といったような自暴に似た度
胸にまで変ってきてみると、かえっ
て自分が人から注視の的とされる
ことに、幾分の得意をさえ感じな
いではありません。
300
み え
さら
さて、こんな、見栄だか曝しだ
かわからない身上で、わたしはいっ
たいどこへ落着くのだろう。お銀
様から、落着くべき絵図面は事細
かに書いてもらってある。そこへ
落着きさえすれば、万事はきまる
ことはわかっているが、落着く先
の空気と、相手になるべき人の身
の上のことは、一向にわからない。
301
二十九
そのうちに、お雪ちゃんは、ふ
いと、こんな気持になりました︱
︱
﹁では本当は、わたしはお軽さん
と同じ運命に売られていくのでは
あるまいか、与一兵衛さんに見立
・
てられた佐造老爺さんは、実はぜ
・ ・
げんの源六という人ではないか、
302
長浜へ用向とは表面上、わたしは、
真実は売られて行く身ではないか
しら、もしか真実に、わたしがあ
の忠臣蔵のお軽さんと同じ運命に
置かれた身であったとしたら、わ
たしはどうしよう⋮⋮﹂
というような空想。お雪ちゃんは
最初から相当なロマンチストであ
りますから、駕籠に揺られながら、
思わず忠臣蔵の劇中の人に身を置
303
いて、あの芝居の中の最高潮の悲
・ ・ ・ ・ ・
劇のことを、とつおいつ考えはじ
めましたが、いつしか、そんな空
想も破れて、それはあるべきこと
ではない、第一、お銀様という人
だま
が、わたしを欺して売るなどと、
そんなことのあろうお人柄であろ
うはずはない︱︱いったい、わた
しは何のために、どうしてこんな
盛装までさせられて送られねばな
304
らないのか、単にお銀様その人の
ものずき
好奇の犠牲としての、この成行き
であろうはずはないが︱︱問うて
みても許さるべきでなかったし、
問わない方がかえって気休めであ
ると思って、こうして送られて行
くが、行先のことが考えれば考え
るほどわからない。人の看病とい
うことにしても、なにもそれだけ
わずら
なら、ことさらに、わたしを煩わ
305
さなくとも、いくらもほかに人は
あろうものを、わたしでなければ
ならないようなこの仕打ち︱︱そ
れをお雪ちゃんが、また駕籠の中
で思いめぐらしているうちに、よ
うやくはたと気がついたことがあ
りました。
ああそうだ、昨日、不破の関守
さんのお話の末に、ふと、お銀様
のお父様が、こちらへ旅をしてお
306
いでになったとのこと、それを小
耳にはさんだように覚えているが、
それで分った。お銀様のお父様が
その長浜の浜屋とやらに泊ってい
らっしゃる、お銀様としては、あ
の気象で、お父様を取持つことは
できないから、それで、わたしを
代りに︱︱それそれ、それに違い
ない。お銀様のお父様という人は、
甲州第一のお金持、その大家の長
307
女としてのお銀様との間に、何か
言うに言われない悲しい事情がお
ありなさるということは、わたし
そむ
もうすうす聞いていた。父に反い
た娘を、父の方から見届けに来る
ということも、また有りそうな親
心。
がてん
お雪ちゃんは、そう合点をして
みると、急に明るい気持になりま
した。その役目としてわたしが選
308
ばれた上は、できるだけお銀様の
お父様の御機嫌もとり、なおでき
そうこく
るならば、父と子との間の相剋の
融和の足しにもなって上げたい。
つか
これは全く光栄のある役目に遣わ
されたものだ。それだけ責任とい
ゆえん
うものも重きを加うる所以で、お
銀様のお父様のお気に入られない
までも、あんな卑しい女とさげす
まれないように心がけなければな
309
らぬ。その点もあればこそ、お銀
様もこうして、それとなくわたし
の身だしなみにまで心をつくして
下さったのだと、それで万事が呑
込めました。
お雪ちゃんは、こんな心持になっ
てみると、世間が明るくなった思
いでしたが、日はいつしか暮れ方
で、早くも長浜の町に入って、与
一兵衛どのの案内知った手引で、
310
浜屋の裏口に着いていました。
浜屋の表から案内を頼むには及
ばない、万事は絵図面に描いても
らってある。鍵をあずかっている
から、直接に裏口の木戸からと言
われる通りに、その辺で下り立っ
て、夕まぐれひとり浜屋の裏口の
木戸に向って行きますと、石畳の
二間ばかりの堀に、町としては美
はねばし
しい水が流れていて、そこに刎橋
311
がある。
じょうまえ
そこを渡って、木戸の錠前を外
からあけにかかった時に、お雪ちゃ
んがまたなんとなく陰惨な気分に
打たれました。
三十
湖畔にこういう突風が起りつつ
あることを知るや知らずや、道庵
312
みせさき
かお
先生は抜からぬ面で、大津の旅宿
かぎや
鍵屋の店前へ立現われました。
﹁わしゃ江戸の下谷の長者町の道
庵というものだが、この宿に同じ
江戸者で、お角さんという、下っ
腹に毛のねえのがいるはずだ﹂
と、いきなり店先へ怒鳴り込んだ
ものです。
江戸の下谷の長者町の道庵とみ
ずからを名乗ることもよろしい、
313
同じ江戸者で、お角さんという相
手の名を呼ぶのもよろしいが、下っ
腹に毛のないというのはよけいな
ことです。下っ腹に毛があろうと
も、なかろうとも、この場合、そ
んなよけいなことを附け加える必
要は断じてない。この点では、い
きなり玄関払いを食うべき無作法
だが、不思議と宿では、
﹁それ、おいでなすった﹂
314
この無作法千万なる来客を、待っ
ていたとばかり、帳場も、男衆も
てい
駈出しという体で、下へも置かず、
手をとって、早くも座へ招じ上げ
ようとする。
﹁まあ、そうおせきなさるなよ、
医者だからとて、旅へ出たら少し
たびにん
は楽をさせてもらいてえ。旅人だ
わ ら じきゃ
よ、この通り、旅路だから草鞋脚
はん
絆という足ごしらえだあな、まず
315
ゆるゆるこれを取らしておくれ︱
すすぎ
︱それ、お洗足の用意用意﹂
・ ・ ・
道庵は、上り口へどっかと腰を
卸して、泰然自若たるものです。
﹁さあ、お脚絆、さあ、お草鞋︱
︱さあさあ、お洗足⋮⋮﹂
くわい
全く下へも置かず、頭の慈姑を
つま
摘み上げんばかりのもてなし。道
・ ・
庵としては全く初めてのふりのお
なじみ
客である。馴染でもなければ、定
316
宿でもないのに、いくら下へ置か
ぬ商売だからといって、これはあ
まりに要領が好過ぎ、呑込みが好
過ぎ、サーヴィスが有り過ぎる︱
︱と一応は、そうも受取れますけ
れども、これあながち、その根拠
がないわけではないのです。
お角さんは、道庵の来るのを待
兼ねていて、いつ何時、これこれ
こういう人が、尋ねて来るかも知
317
れない。必ずよっぱらっておいで
になり、口にはたいそう毒を持っ
ているから、そのつもりで扱って
上げてください。なアに、口に毒
は持っているけれども、御商売は
薬を扱う江戸でも名代のお医者さ
んだから、失礼のないように。も
しわたしが不在でも、かまわず部
屋へお通し申して、できるだけ丁
寧に扱って上げておくれ。そうし
318
てまた、御酒が大好きなんだから、
吟味したところを、いくらでも御
さかな
所望次第差上げておくれ。お肴も
えりぬ
この琵琶湖の選抜きのところを︱
︱なあに、いくら召上っても正気
を失うような先生ではない、わた
しが帰るまで、そうしてできるだ
け丁寧に取持って置いておくれ︱
︱
こういうことが、お角さんから
319
かねがね吹込んであるものですか
ら、宿でも先刻心得たもので、
﹁それ、おいでなすった﹂
車輪になって、お角さんの申し
つけて置いた通りに、サーヴィス
をはじめたものです。
すすぎ
かくて、足も取り、洗足も終っ
てみると、早速通されたところは、
お角さん借切りの豪華な一室であ
りました。
320
みこし
御輿を据えるとたん、早くもお
銚子の催促であり、その催促を皆
まで言わせない先に、続々とお好
みの見つくろいが取揃えられる手
い
廻しぶりに、道庵すっかり悦に入っ
てしまって、
かみがた
﹁どうも、これだから、上方の奴
は油断がならねえ、ことにこの江
州者ときては、昔っから近江泥棒、
・ ・ ・
伊勢乞食といって、こすいことに
321
すき
かけては泥棒以上だから油断も隙
きた
もありゃしねえ、道庵来ると見て、
ハイ灰吹の格で、このサーヴィス
ぶり、いやはや全く、江州者には
油断がならねえ﹂
と、早くも盃をとりながらこうい
かお
う御託宣ですから、給仕に立った
あき
女まで呆れた面をしました。
幸いに、この給仕女が他国者で
あったからまず無事とはいうもの
322
の、その土地へ来ていきなり、
﹁近江泥棒、伊勢乞食﹂と浴せか
けるなんぞは、いくらなんでも毒
が有り過ぎて、相手が気の短いも
のなら張り倒されるにきまってい
るが、これは多分、山城の場末あ
たりから来た新参の女中だったの
でしょう、
ぎょうさん
﹁ホ、ホ、ホ、仰山、御機嫌よろ
しうおますな﹂
323
﹁おますよ、おますよ、おましち
まわあな﹂
たあいもなく道庵も、駈けつけ
三杯を納めることができました。
三十一
ま
道を枉げて胆吹山へ侵入した道
庵が、どうして、いつのまに、こ
こまで来着したか、順路を彦根、
324
はちまん
あづち
八幡、安土、草津と経て、相当の
乗物によって乗りつけたか、或い
はまた徒歩でテクテクとやって来
たのか、そうでなければ、いった
ん長浜へ出て、あれから湖上を、
ここまで舟で乗りつけたか︱︱た
だしは例の脱線ぶりあざやかに、
や す
湖水の北岸廻りをして、野洲から
比良比叡の山ふもとを迂廻して来
たか、その詮索はひとまずさしお
325
いて、もし徒歩でテクって来たと
すれば︱︱道庵先生は老いたりと
いえども、あれでなかなか平地を
歩かせては達者なものです。それ
・ ・ ・ ・
は裏宿七兵衛や、がんりきの百蔵
といったような生れ損ないの足と
は比較にならないけれども、背が
高くて、コンパスが長いだけに、
足には充分覚えがあるのですから
︱︱相当な突破をしていると見て
326
もよろしいのですが、陸路を来た
としても、八幡、彦根、安土の順
路を取らなかったことは確かです。
何となれば、草津街道へかかりさ
えすれば、いやでも昨今のあの
さら
﹁晒し﹂を見ないわけにはゆかな
い。あの﹁晒し﹂が一目なりと道
庵の眼に触れた以上は、さア事で
す。その沸騰は、まさにお角さん
以上と思わなければならない。そ
327
れが無事でここへ来ているという
のが、あの晒しの現場を通らなかっ
た証拠︱︱と言えば言えるに違い
ないが、それにしても、もしまた
か ご
駕籠か馬でもハリ込んで、揺られ
ねぼけせんせい
ながら、いい気持の寝呆先生気取
りで、﹁乗せたから先は⋮⋮﹂な
んかんと納まり込んで、さしも街
道名代の草津の晒し場を、ムニャ
ムニャのうちに突破して、ここへ
328
無事に到着の段取りと解釈のでき
ないこともない。
いずれにしても道庵先生は、自
ここう
分が唯一無二の股肱と頼み切った
米友が、今日明日のうちに首がコ
ロリという、きわどい、危ない運
命のほどを、一向に御存じないこ
とだけは確かなものです。
さればこそ、この油断も隙もな
いもてなしを、遠慮会釈もなく引
329
受けて、太平楽に納まり込み、
﹁江戸を一歩一歩と離れるのは、
それだけ故郷に対して一歩一歩と
さび
淋しくもあるが、京へ一歩近づく
こいつ
ほどに、酒がよくなるのは有難え。
江戸は道庵が第一の故郷である、
酒は第二の故郷である、第一の故
む ろ じ
郷を離れて、第二の故郷へと進ん
う ろ じ
で行くんだ、有漏路より無漏路に
帰る一休み、と一休坊主が言った
330
のは、ここの呼吸だろうテ﹂
途方もないでたらめを言いなが
ら、たしかに吟味してある酒と、
これは吟味しなくともおのずから
備わる湖上の珍味とを味わいつつ、
ひたすら興に乗ってしまい、いっ
たい訪ねて来た相手のお角親方は
どこへ行った、いつ帰るのだ、と
駄目を押すことさえ忘れている。
さかな
この酒と、この肴さえあれば、尋
331
す
ねる主などは、いてもいなくても
みこし
差支えないという御輿の据えぶり
でしたが、宿ではあらかじめ、か
なりにその予備知識が吹き込んで
置かれてありましたから、さのみ
驚きません。
道庵先生は、いよいよ御機嫌斜
くだ
めならず、しきりに管を捲いたり、
取りとまりもないことを口走った
りしておりましたが、相手の年増
332
女中がいっこう気のないのを見て
取って、
﹁お前、あっちへ行きな、おらあ
ひとり者なんだから、この手酌で
チビリチビリというやつに馴れて
るんだ。そうして置いて、頃を見
計らって、お代り、お代りと持っ
て来て、そこへ置きっぱなしにし
て、そうして行っちまいな︱︱い
い、おらあ、ひとりで、チビリチ
333
・ ・
ビリと独酌というやつでねえと、
うま
酒が旨く飲めねえたちなんだから
︱︱﹂
と、また一本の徳利を逆さに押立
あご
てて、したみまでも、しみったれ
ちょく
に猪口の中へたらし込みながら顎
でそう言いましたから、女中も心
得て、
﹁それでは、失礼させていただき
まんな、御自由に、たんとお上り
334
あそばせ﹂
女中を追払ってしまった道庵は、
いよいよいい気になって、独酌の
天地に自由陶酔をはじめる。一杯、
また一杯︱︱京も大阪もみんなこ
の道庵を迎えるために存在してい
る天地のように心得て、いよいよ
太平楽をならべているうちに、酔
眼をみはって、そろりそろりとこ
の部屋の中を見廻しました。
335
こ
相当に凝った作りのこの造作を
はたご
見廻し、関東風の旅籠との調度の
ろくまいびょ
比較などを試みているうちに、部
きっ
屋の一隅に張りめぐらした六枚屏
うぶ
風に屹と酔眼を留めて、鋭く中を
・ ・ ・
見込むようなこなしをやりました。
もうろう
鋭くといっても、朦朧たる酔眼に、
し
強いて力を入れての虚勢ですから、
おびただ
威力のないこと夥しい。しかし、
何か感じたことがあると覚しく、
336
幾度か眼に力を入れ直しては、こ
の六枚屏風をためつすがめつ、
﹁怪しい、この屏風の中が怪しい
にら
と睨んだ﹂
三十二
道庵先生が酔眼をみはって、こ
の屏風の中こそ怪しけれと不審を
うったその屏風の中には、なんら
337
の物音もしないのだけれども、そ
う言われてみれば、たしかに、物
の気がその中にあるらしい。たと
え物音はしないにしてからが、物
の気が中にあるのとないのとは、
弁信法師ならずとも、勘によって
わかる人にはよくわかる。
たしかにこの中に物の気ありと
見てとった︱︱いや、勘で受取っ
たらしい道庵は、もう放すことで
338
はない。今まで、ひとり天下で、
くだ
何を当てともなく、捲いていた管
やり
槍のやり場を、この屏風に向って
集中し、
﹁たしかにその屏風の中が怪しい、
七尺の屏風の中こそ怪しけれ﹂
つか
といっても、立って、掴みかかっ
て、引剥いで見るようなことはし
ない。
﹁七尺の屏風も、躍らばなどか越
339
あや
えざらん、綾の袂も、引かばなど
か断えざらん﹂
朗詠まがいの鼻唄になってしま
いましたが、次には、そんな優雅
なのではなく、
﹁コン畜生、やい、近江泥棒︱︱﹂
と悪態を吐いてしまいました。
﹁その屏風の中にいるのは、近江
泥棒だろう、油断も隙もならねえ
が、余人ならばいざ知らず、この
340
道庵の眼をくらまそうなんぞとは、
近江泥棒もすさまじいぞ﹂
はなは
近江泥棒を連発するのは甚だ聞
き苦しい。単に聞き苦しいだけで
はない、悪態も品によりけりで、
その国人を泥棒呼ばわりすること
めいよきそん
は、重大な名誉毀損であって、人
によってはなぐられる。酔っては
いながらも、性根を失わない道庵
は、さすがにそこに気がついたと
341
見えて、急に、
﹁ハ、ハ、ハ﹂
と、いやに笑いくずして、
﹁と、いったものさ、近江の人に
言わせると、近江泥棒、伊勢乞食
というあれは、語呂の間違いで、
本当は近江殿御に伊勢子正直とい
うんだそうだ、その方が正しいの
だそうだ。ところで近江の人間は
商売が上手で、その道で成功する、
342
伊勢の人間は貯蓄心に富んでいる
から、金持になる、近江の人間が
成功して大商人になり、伊勢の人
が金を貯めて金持になる、それを
ねた
ケチな奴等が嫉んで悪口を言った
のが、すなわち近江泥棒、伊勢乞
うらや
食となったのだ、ひとの成功を羨
りょうけん
むケチな了見の奴が、得てして真
面目正直の成功人種をとらえては、
そういうケチをつけたがる、取る
343
にたらねえよ、怒んなさるな、ハ、
ハ⋮⋮﹂
と道庵が、自分で弁解をつけて、
いいかげんに如才なく笑い崩した
ところは、やっぱり旅へ出ての引
け目である。この先生の食えない
一面である。
そういう下らないことを口走り
ながらも道庵は、やっぱり屏風に
着けた酔眼をしつこくして、
344
﹁といったものだが、屏風の中に
いらっしゃるのは泥棒だか、聖人
だかわかりはしねえ、この近江の
国には、泥棒もいるか、いねえか、
その事はよく知らねえが、聖人だ
けは確かにいる、その点は道庵が
保証する、近江聖人といって立派
な聖人がいる、こいつはゴマかし
ものじゃねえ、近江聖人は本場の
から
唐へ出しても立派な聖人で通る男
345
だ、本格の聖人だ、近江なんぞへ
置くのは惜しい男だよ、ああいう
のには道庵も頭が下るねえ︱︱と
ころで、その屏風の中にいらっしゃ
るのは、泥棒でげすか、そもそも
しか
また聖人でげすかな、然らずんば
君子︱︱君子でげすかな。君子、
りょうじょう
君子、君子にも梁上の君子という
やつがござる、大方その梁上の君
子というやつでござろうな。盗人
346
の昼寝といってな、白昼、人の家
に忍んで昼寝をする奴は油断がな
らねえ、名乗んな、尋常に名乗ん
な、名乗って出ればお近づきに一
杯飲ませて上げるが、いよいよ狸
とあってみれば、退治るよ﹂
と言ったかと思うと、道庵がすっ
と立ち上って、屏風に向って歩み
寄って来ました。
しらばっくれてはいるけれども、
347
がてん
道庵として合点なり難き一応の不
審を感じたればこそ、管まきにか
こつけて、一応の検討をしてみよ
うという気になったらしい。
三十三
道庵先生の勘といっても、それ
はもちろん、弁信法師のような鋭
いものではないけれども、さすが
348
その道の名人︵?︶だけのものは
あって、この物の気に、たしかに
なんらかの異常を感得したもので
はあるようです。
留守であるといえば、人のいな
いこの部屋に、たしかに何者かが
いる。屏風の中に物の気がする。
もし従者だとすれば、主人の不在
をつけ込んで、主人の寝床にもぐ
り込むなんぞは図々しい。まさか
349
くわ
お角が、旅にまでイカモノを啣え
込んで隠して置くはずはない。そ
こに道庵が不審を打ったのも、さ
すがに眼が高いものです。
案の如く、この屏風の中には、
・ ・ ・ ・
がんりきの百蔵というやくざ野郎
が、先刻から息を殺してひそんで
いる。
臭いところから侵入して来て、
お角を焚きつけて置いてから、自
350
分はこの部屋へ納まり込んで、早
速のことに戸棚から夜具蒲団を引っ
ぱり出し、有合せの六曲を引きめ
ぐらすと、いい心持で足腰を伸ば
してうつらうつらとしているとこ
ろへ、不意に道庵先生の御見舞で
す。最初のうちは、お角が立戻っ
たのか知らと思ったが、そうでは
ない。極めて口に毒のありそうな
奴が、女中をからかいながら乗込
351
んで来ました。こいつはいけねえ
と、急に狸をきめ込んでいたのが、
せき
何かの拍子で咳を一つした、それ
をついに道庵に感づかれてしまっ
たという事態になってしまいまし
たのです。
飛び出して走る分にはなんでも
ない。逃げ走ることは商売同様だ
から、それはなんでもないが、出
ればすっかり網が張ってある。い
352
ま飛び出してはあぶない。あれか
ら、こうして、ここに隠れていれ
ば、もはや金城鉄壁。そこでこい
つとしては、久しぶりでのうのう
と足腰を伸ばしていたところへ、
またしてもこの邪魔者︱︱蒲団の
いまいま
中で忌々しがったが、結局、狸を
きめ通すよりほかはない、と観念
しているうちに、珍しい、これは
また、江戸で見知りのある下谷の
353
長者町の道庵先生だな、と気がつ
くと、この際、苦笑いが鼻の先ま
でこみ上げて来ました。
とはいえ、いかに道庵先生なり
とはいえ、今日のこの場は自分に
とって、危急である、うっかりあ
すじょう
の先生から、素姓を口走られては
事こわしだ︱︱こう考えたものだ
が、さて、道庵先生が、よせばい
みこし
いのに、わざわざ御輿を上げて、
354
どうやらその屏風一重を引きめく
りに来るらしいから、このままで
はいけないと、早くもその先手を
・ ・ ・ ・
打ったつもりで、がんりきの百が
急にうなり出しました。
さも苦しそうに蒲団の中でうな
り出したものですから、その声を
聞くと、道庵先生が急に我が意を
得たりとばかり、
﹁そうら見ろ﹂
355
何が、そうら見ろだか、この言
葉の分限がはっきりわからない。
自分の勘が当ったという満足か、
或いは、そうら見ろ、病人だ、医
うな
者と病人は附きものだ、唸るくら
いならナゼ、もっと早く唸らない
︱︱というほどの意味であったか、
その意味はよくわからないが、道
ひんむ
庵は、荒っぽく引剥きもしかねま
びょうぶ
じき勢いの屏風をそっと押して、
356
のこのことこの中へ入って来まし
た。
・ ・ ・ ・
がんりきは、手拭を畳んで頭か
かいまき
ら額の方へ載せ、掻巻を頭までか
ぶらせてカモフラージを試み、そ
うしてさも苦しそうに、うんうん
と唸りつづけている。
﹁何だい、お前さん、病人なら病
人と最初から言ってよこすがいい
じゃねえか、隠れ忍んでいると、
357
りょうじょう
梁上の君子と間違えられらあな。
どこが悪い、苦しいか、どこが苦
しい、さア、脈を見てあげる、手
をお出し、腕をお出しよ、脈を見
てあげるから、右の手を出してご
らん︱︱腕をお出しということさ﹂
道庵の押売り親切︱︱脈を見て
やろうと、余りある好意を、この
病人が、遠慮か、謙遜か、腕を出
そうともしない。押売る以上はど
358
こまでも強く押売らなければなら
ないと、道庵は相手が剛情なら、
こっちもいよいよ剛情になるつむ
じ曲りを発揮して、
﹁出さねえか、拙者が脈を見てや
るというに、遠慮をして、腕を出
さねえ病人もねえもんじゃねえか。
いよいよ出さねえとなると⋮⋮﹂
道庵は意地になって、自分の手
を夜具蒲団の中へつっ込んで、い
359
やおういわさず、この病人の腕を
引きずり出して脈を見てやろうと
したが、
﹁おやおや﹂
あるべきはずの手ごたえがなかっ
ひとかた
たので、道庵が一方ならずテレて
しまいました。
三十四
360
たけじま
いおり
多景島の庵に行いすましていた
あんじ
弁信は、全く落着かない心で、安
ょう
祥の座から立ち上りました。
﹁落着きません、竹生島へ渡ろう
として、はからずもこの島へ寄せ
られたことも一つの御縁と存じま
して、ここで多少の修行を致して
みるつもりでございましたが、こ
の心が落着きません、つなげる駒、
伏せる鼠でございます、この通り、
361
四面水を以て孤絶されておりなが
ら、わが心を孤絶することができ
ないというのが浅ましいことでご
ざいます。してみますると、この
地も到底修禅のところではござい
ません、ところの幽閑がかえって
魔縁を引くと覚えました﹂
ほうねんあたま
例によって、仔細らしく法然頭
を振り立ててかく言いますと、庵
の縁の柱のところに行って、柱の
362
一方にからみついている縄を解い
て、それをスルスルと下へ向って
引きました。
そうすると、庵の一方に継ぎ足
された一竿の竹の柱頭高く、へん
ぽんとして白旗が一つ現われて、
きらきらと朝日にうつり出したの
です。けだしこれは、かねて米友
が、この法師をこの島へ送りつけ
て置いて立去る時に、おたがいの
363
間に示し合わせておいた合図の一
つで、その白旗を掲げた時は、す
なわち弁信が米友に向って、何を
か求むる希望の表示なのでありま
こんりんざい
す。次第によっては、金輪際とい
えどもこの座を動かないことにな
るかも知れないとまで思い立った
弁信が、僅か三日にして、かく白
旗を掲げてしまいました。
白旗を掲げてから、弁信は、な
364
お縁の側を去らずに、仔細らしく
小首を傾け通しておりましたが、
暫くして、がっかりしたもののよ
うに頭を上げ、
﹁合図は致しましたけれども、反
応がございません、米友さんとの
あの時の約束では、米友さんがこ
けいか
の白旗を見かけさえすれば、軽舸
は
を飛ばして馳せつけて来ていただ
くことになっておりましたのに⋮
365
⋮その反応がさらにございません。
もし米友さんが胆吹へなり立帰っ
て、この白旗の見える限りの間に
おいでなさらない時の場合をも予
想して、あの辺の湖岸で釣を楽し
んでおいでになる浪人衆によくよ
くお頼みがしてあるはずになって
いるのでございますが、そのどち
らからも反応がございません。ど
なたも、私の投げたこの合図に応
366
じて下さるお人がないとしたら、
私がいかに落着かない心でも、やっ
ぱりこの島が与えられたる当座の
常住かも知れません、私は、もう
一応、このところで坐り直さなけ
ればなりますまい﹂
と言って弁信は、またも、もとの
しょうしん
席に帰って正身の座を構えてみま
せき
したけれど、そのいったん堰を切
しゃべ
られたお喋りが、やむということ
367
をしません。
﹁坐り直してみましたけれども、
心の落着かないことは同じでござ
います、何か事が起りましたな、
私をして、じっとこの座に安んず
ることを許さない外縁が、この周
囲のうちのいずれかの場所で起り
ましたな。わかりました、この島
は静かなりといえども、湖水の水
が騒いでいるからであります︱︱
368
山は動かないが、水は動いている
ものですから、この心が落着きま
せん﹂
と言って、せっかく組み直した正
身の座をほぐして、弁信法師はま
た以前の縁側の方へ出て、今度は
有らん限りの四周の湖面を、ずっ
と見廻しました。見廻したといっ
ても、この人は天性、肉眼の見え
ない人であることは申すまでもあ
369
そそ
りません。四方の湖面に眼を注い
だと言いたいが、頭を注いで、そ
うして、今度は水に向って物を言
いかけました、
﹁この通り、湖中の水が騒いでい
るものですから、それで、私の心
が落着かないのです。なぜ、こう
も湖水の水が騒いでいるのかと考
えますると⋮⋮﹂
ここでまた、小首を傾けて、懸
370
はる
崖遥か下の湖面へ耳をくっつけて
みるような形をしましたが、その
言うところは変っています。事実、
水が騒ぐ騒ぐと弁信は口走ってい
るが、見渡すところ、今日はこの
青天白日で、ほとんど風らしい風
は吹いていない。多景島の竹も枝
を鳴らさず、湖面全体の水面は至っ
て静かで波風が騒がない。平和な
ものです。その平和な海に向って、
371
弁信はしきりに、水が騒ぐ騒ぐと
つら
言っている。平和な水こそいい面
の皮で、事実、水が騒ぐのではな
い、彼の心が騒ぐのにきまってい
る。
三十五
こうして、この法師は、水が騒
がないのに、われと我が心をさわ
372
がしている。そうして、わがさわ
ぐ心を以て、その罪を水に向って
かぶ
被せている︱︱それのみではない
︱︱
﹁湖水の水が、かくもあわただし
く騒ぐのは⋮⋮つまり、湖岸が穏
かでないからです﹂
と、今度はその責めを岸へ向って
なすりつけにかかりました。
﹁湖水の沿岸が穏かでないから、
373
それで湖水の水がかくまで騒がな
ければなりません、水が悪いので
はなく、岸が悪いのです﹂
わが心の動揺を見事に、沿岸へ
向ってなすりつけてしまいました。
湖面が青天白日の平和な光景であ
る限り、沿岸だけが黒風白雨の天
気に支配されるというはずはない。
しか
然るにこの小法師は、かくも平和
そうじょう
な湖面に向って騒擾の罪を着せる
374
と共に、今度は、その罪を沿岸に
向ってなすりつけてしまったが、
波風の及ぶところはそこで止まる
のではありません。
ちまた
﹁先刻から、湖南湖北の巷の風説
に聞きますと、この沿岸の村々が
ことのほか物騒がしいそうでござ
います、一味ととうと申すのが、
あちらにも、こちらにも、動揺の
きざし
兆を見せているそうでございます、
375
私が通る辻々でも確かにそのこと
を感得いたしましたのは一再にと
はげ
どまりません、沿岸の人心が劇し
く動揺を致しているその波動が、
ここに、私の心をも動かしてやま
ないのでございます﹂
彼はここで、立派に︵?︶わが
心の動揺と、群集心理の動揺とを
結びつけてしまいました。
376
三十六
弁信法師は、この小孤島のうち
じゃくじょう
に寂静を求めて寂静を得ず、人を
待たぬはずの身が、人を待つ心に
焦燥を感ぜしめられていると、そ
の日中の半ば頃から雨を催してき
ました。
しめやかに降る雨は、かえって
激しい風雲を予想せしめないで、
377
いっそう人の心を沈静にするはず
のものであるが、湖面一帯に立て
こめる雲霧のために、合図の白旗
が、いよいよ合図の効力を没却す
るだけのことです。
弁信法師は観念して夜に入りま
した。夜もすがら正坐を企ててい
るうちに、雨は、漸くしとしとと
けし
多きを加えようとも、降りやむ気
き
色はありません。夜雨の軒をめぐ
378
る音を聞くと、弁信法師の心がま
うるお
た、いとど潤うてきました。いつ
の世か、夜雨禅師という人があっ
て、ことのほか夜の雨をきくこと
を楽しんだということだが、全く、
静かな心境で、夜の雨が軒をめぐっ
しんに
て心耳を潤す快味は得もいわれな
い。ところが、その夜更けの幾時
いおり
かになると、庵の表の戸を、
﹁トントン﹂
379
と叩く音がしました。この庵の表
の戸といっても、戸らしい戸があ
るわけではありませんが、それで
も以前、住みならした人の建てつ
けだけはしてあったのを、弁信法
師はこの際、雨戸という名の責め
ふさ
を塞がせるために、使用しており
ましたものです。
﹁どなたでございますか﹂
と、夜の雨を楽しんで、動揺の心
380
を湿していた弁信法師が、我に帰っ
て、夢心地で返事をしますと、
﹁弁信さん、おりますか﹂
と、あまり聞きなれぬ人の声です。
﹁はい、弁信はおりますが、あな
た様はどなた様でいらっしゃいま
すか﹂
﹁ちょっと頼みがあって参りまし
たよ、あけてもようございますか﹂
﹁どうぞ、あけてお入り下さい﹂
381
みのがさ
思いがけない来客は、立てつけ
はず
の雨戸を外してみると、簑笠をつ
ちょうちん
けて、提灯をその簑の中へ包んで
いたのが、静かにその光を庵の中
へ向けて、
﹁ちと頼みたいことがありまして
ね、夜分突然にあがりましたよ﹂
思いがけない人が、突然にやっ
て来て、先方から頼みたいことが
ある、頼みたいことがあると言っ
382
て繰返す︱︱頼みたいことではな
い、頼まれたいことはむしろこち
らにあるのです、と弁信に言わせ
ない先に、その人は、
﹁三人連れでやって来ました﹂
﹁お三人でおいでになりましたか﹂
﹁ええ、三人でやって来ました、
まあごめんなさいよ、いいですか、
みんなこの中へ呼び入れますよ﹂
﹁どうぞ﹂
383
﹁どうも、不意に押しかけて相済
みません⋮⋮﹂
つづいて、外に待っていたらし
い一人の簑笠が、決して広くもあ
らぬこの庵の中へと、乱入ではな
い、侵入でもない、極めて静かに、
全く世を忍ぶ者ででもあるように、
簑笠のままで入ってきまして、土
間に突立ちました。提灯は一つ、
最初の簑の間に隠されているだけ
384
ですから、後ろを照らすことは少
なく、前を照らすことのみに向い
ているが、本来は弁信法師のいる
ところに限っては、夜昼ともに光
な
というものが用を為さない。だが、
ろうそく
この場面の全体をただ一本の蝋燭
に任せては、照明の任が重過ぎる。
その時、ようやく弁信法師が、最
初当然こちらから為すべき質問を、
不意の来客に向って切り出しまし
385
た、
﹁あなた方は、わたくしが掲げま
した合図の旗をごらんになって、
それによって、おいで下すったの
ではございませんか﹂
これは当然の質問です。当然の
質問というよりも、先方から、のっ
けに切り出さねばならぬところの
挨拶であるべきであったのです。
つまり、﹁弁信さん、遅くなって
386
済みません、つい、あなたの合図
の旗を認めるのが遅かったもので
すから︱︱いや、認めるには認め
ましたけれども、これこれしかじ
おく
かの事情にさまたげられて後れま
した、ずいぶん心配したでしょう、
もう安心なさいよ﹂とでも言って
くれるのが本筋であるべきのに、
そのことは言わずして、いちずに
自分の方の勝手でやって来たよう
387
なことを言うものですから、弁信
から逆にダメを押されたのです。
そうすると、その返事が、
﹁いや、一向そういうことには気
がつきませんでした︱︱﹂
三十七
﹁はて﹂
ほうね
ところで、弁信が、はじめて法
388
んあたま
然頭をひねり立てました。
今まで彼は、夜雨をきくことに
よって、本来の鋭敏なアンテナを
張ることを忘れておりました。忘
我の瞬間には、勘だの、想像だの
というものは働きません。ここで、
が
我が破れて、意外の相手と、意外
の問答をやり出してから、弁信が
急に、アンテナを張って、自分の
たくま
特有の機能の働きを逞しうせんと
389
するまでもなく、先方が、何のわ
だかまりもなく、説明の継足しを
していくのです。
﹁あなたの方の合図にはいっこう
気がつきませんでしたが、こちら
が、早くお前さんのことを思い出
したものですから、いちずに頼み
に来たのです。頼みにきたという
のはほかではありません、ここへ
暫く人間を一人預ってもらいたい
390
のです。単に預るだけではなく、
かくまって置いてもらいたいので
す、その頼みのために、夜分、こ
うして三人連れで上りました﹂
みのがさ
最初の簑笠が、ここで、頼みた
いこと、頼みたいことと繰返した
内容を明らかにしはじめました。
弁信はそれに答えて、
﹁おやすい御用でございます、も
とより、この住居は先人の住み捨
391
てた庵でございまして、私一人が
専有を致すべき筋合いのものでは
ございませんから、御用と内容が
許す限り、何人でもおいで下され
ていっこうさしつかえはございま
せんが、ただ特にこの離れ島まで、
この夜更けに、わたくしを目ざし
ておいで下さるのが不思議でござ
います﹂
﹁いや、不思議でもなんでもない
392
のです、日中ではあぶないと思う
から、夜分上ったまでのことです、
弁信さん、それでは当分こちらへ
人間を一人預って下さい﹂
﹁御念までには及びません、わた
くしは依頼されてお預り申すほど
うつわ
の器ではございませんが、御依頼
を御辞退いたすほどの不人情も致
したくはございません。いったい、
ここにおいでになりたいというの
393
はどなたですか﹂
﹁農奴です、農奴を一人、預って
もらいたいのです﹂
・ ・ ・
﹁のうどとおっしゃるのは?﹂
﹁農奴︱︱農民の奴隷です﹂
もと
﹁農民の奴隷︱︱そういうものが、
ひ
この日の本の国にございましたか
しら﹂
﹁いや、そう理窟をおっしゃられ
ると困ります、そういう人種が、
394
日本の歴史にあったか、なかった
せんぎ
かということの詮議は、後日に譲っ
ていただいて、とにかく、ある方
面で農奴の名を冠せてくれたそれ
をそのまま借用して置いて、とり
あえず、農奴としてあなたにお預
けしますから、農奴として暫くお
預りが願いたい﹂
﹁よろしうございます、わたくし
えりごの
は決して、どなた、こなたと選好
395
うつわ
みを致すような器ではございませ
ん﹂
﹁どうも有難う、ではここへ農奴
を連れ込みます﹂
と言って、先に立ったのが簑にく
るんでいた提灯をこころもち外の
方に向け直しますと、あとから来
た簑笠が心得て、雨戸の外へ、そっ
と身を忍ばせて行きました。その
途端に、ささやかな光が二人の簑
396
笠の外面を照しますと、二人とも
意外にも、簑笠から外へ二つの長
・ ・
いものがハミ出しておりました。
ここに於て見ると、二人ともに両
刀を帯している身分のものだとい
うことがわかりました。一人が内
で待っていると、外へ飛んで行っ
くぼ
た一人が、岩角の凹みのところま
で来て、
﹁農奴︱︱いるか﹂
397
と忍びやかにおとなうと、答えは
なかったが、岩の凹みからまた一
つの簑笠が現われ出して来ました。
しかも、今度の簑笠は、前のより
一段と小さい。いや、簑笠が小さ
いのではない、簑笠は通常の出来
だが、内容が小さいために、尋常
ゆきたけ
の裄丈だけの簑笠が地上に引きず
られているだけの相違で、以て身
の丈の低い、子供にも見まほしき
398
人物の一塊であることがわかりま
す。
﹁農奴︱︱こっちへ来い﹂
迎えに来た簑笠が、迎えられた
小さな簑笠の一塊を引具して、そ
うして、以前の庵の中へ戻って来
ました。その途端に、弁信の勘が
うなり出して、
﹁ははあ、わかりました、あなた
方は、わたくしの友人を連れてお
399
いで下さいました、わたくしの友
人を友人としてお連れ下さらずに、
農奴としてお連れ下された、それ
には深い仔細がございましょう、
よってわたくしは、それを友人と
して受取らずに、農奴としてお受
取りいたします﹂
こざか
何という小賢しい言いぶりだろ
う。二個の簑笠は顔を見合わせて
しまいました。
400
三十八
その翌日もまた、打ちつづいて
の雨でありました。
農奴としての宇治山田の米友は
たかいびき
と見れば、庵の後方なる穴蔵の中
こも
に、菰を打ちしいて、高鼾で寝て
おります。
あれより以後の米友というもの
は、なぜか一語も吐きません。常
401
つ
ならば慷慨悲憤が口を衝いて出る
たんか
か、或いは痛快無比なる啖呵が泡
ほとばし
を飛ばして迸るかしなければなら
ない場合を、あれから全く一語無
しです。意気が銷沈しつくしたか、
或いはまた、もう天下の事、言う
がものも、語るがものもない! と断念したのか、とにかく彼は、
もう一語をも発することなく、そ
れでも、多少の疲労はありと見え
402
て、この穴蔵に移されると共に、
前後も知らず寝込んだままです。
いおり
かくて庵の一室には、雨の日の
つれづれを仮りの宿りの主として
の弁信法師とは別に、二人の者が
おのおのの両刀をからげて投げ出
し、丸木の柱によりかかっている。
その二人の者こそは、必ずや、昨
みのがさ
夜ふいにおとずれた簑笠のもので
かお
あるが、果してどんな面が来たの
403
かと、明るい光ではじめてうかがっ
て見ると、この二人も、別に珍し
い面ではありませんでした。すな
わち昨日までは胆吹御殿に見えた
わびずまい
不破の関守氏と、知善院に侘住居
の青嵐居士と二人が、ここで抜か
らぬ面を合わせているというだけ
のものです。
さては、昨夜の簑笠は、この二
人の者であったよな。但し何ほど
404
のこともない、ひとしくこれ、湖
水湖岸に程遠からぬところに住ん
でいる自由遊民である。それが、
同じく程遠くもあらぬ湖中の一島
へ来て、面を合わせるということ
は、有るべからざるに似た奇遇で
もなんでもない。こうして見ると
二人も、胆吹御殿で語り合わせた
時の面と、別段よそゆきの面には
なっていない。あの時の呼吸で、
405
悠々と調子を合わせている。不破
の関守氏がまず言うことには、
﹁そもそも日本に於ては、兵と、
農とは、二つの種の、二つの民族
ではない、一つの物の、二つの変
形に過ぎなかったのです、それが
歴史の本筋でした﹂
・ ・ ・ ・
﹁そうでしょう︱︱さむらいとい
う言葉は本来、いつの頃から起っ
た言葉か知らないが、少なくとも
406
・ ・ ・ ・
鎌倉幕府以前には、特にさむらい
という遊民はなかったようです﹂
﹁左様︱︱事ある時は、兵はみな
農より取ったものです、事ある時
には兵となり、事無き時には農と
なる、それだけのものでしたね、
その時代は﹂
﹁そうですとも、三浦、和田、畠
山なんぞというと、素晴しい大名
かなんぞのように聞えますが、今
407
日の諸侯と比べたら大違い、実は
よ
皆、従来はその土地土地に拠った
大百姓に過ぎなかったのです﹂
﹁左様、その大百姓が、それぞれ
家の子郎党を地割のうちに置いて、
一緒に百姓をしていたのですな。
ところで、天下を取ろうとする者
は、それぞれこの大百姓どもに渡
りをつけると、その時の風の向き
加減によって、三浦、和田、畠山
408
といったような大百姓が、或いは
は
源氏、或いは平家と、味方に馳せ
参じて、天下を取らせたり、取ら
せなかったりしてやる、天下を取
らせたり、取らせなかったりして
やった後は、また郷に帰って百姓
をする︱︱といったのがあの時代
の武家の制度でした﹂
﹁その通り︱︱それが、現在のよ
・ ・ ・ ・
うにかっきりと、武士と百姓がわ
409
かれてしまったのは、大なる不祥
といえば、大なる不祥でした﹂
・ ・ ・
﹁そもそも今日のように、さむら
・
いと百姓とが、かっきりとわかれ
おぎゅうそらい
てしまったのは荻生徂徠の説によ
ると、北条時頼の時代からだそう
です﹂
﹁北条時頼から始まったと、そう
明確に線を引いてしまうわけにも
いくまいが、いずれは鎌倉の中期
410
頃、天下に漸く事が多くなって、
とんでん
屯田の農民ばかりではやりきれな
い、どうしても常備兵というもの
の必要に迫られて来た時から始まっ
たのでしょう。かくて、世が乱れ
るにつれて兵の需要が増し、同時
つかさど
にこれを司るものの威力が増大し
て来ました。兵が勇敢となり、威
かんぜん
力が加わって来てみると、悍然と
と
して身命を賭して外敵に当るもの
411
さっそう
の風采が、颯爽として、勇ましく
見える、土にかじりついて耕作を
する人間の姿が、いたましくも、
みすぼらしくも見え出してくる、
そこで武士は選ばれたる優越階級
となり、農民は落伍せる下積階級
のように見え出してきて、やがて
最も鮮かに兵農が分離してしまい
ました﹂
﹁兵は農より出でて農を軽んじ、
412
農は兵を出だして兵を恨むの事態
かも
いにし
が醸し出されたのは、不幸です﹂
ごもっと
﹁御尤もです、古えは兵が農を守
・
りました、今は兵がことごとくさ
・ ・ ・
むらいという遊民になりました。
この遊民を威張らせ、養って行く
と え は た え
ために、農が十重二十重の負担を
・ ・ ・ ・
しなければならない、さむらいと
いう遊民を食わせて、これに傲慢
きょうしゃ
と驕奢を提供する役廻りが、農民
413
の上に負わされて来たという次第
です﹂
三十九
﹁まずそうです、例を徳川氏にとっ
てみましょう、徳川家がいわゆる
旗本八万騎を養成した当時には、
養成すべき理由がありました、そ
かいだい
のいわゆる八万騎によって海内を
414
平定して、三百年来の泰平を開い
たのです﹂
﹁左様︱︱それは認めなければな
らない、同時に、徳川家に対して
のみ承認すべきではない、三百諸
侯が、大小となく、皆それぞれ相
当の士を養って、おのおのの領土
を安泰にし、そのまま徳川家にぶ
らさがって、三百年の泰平が出来
上りましたには相違ないが、さて、
415
その後は武力の必要がなくなった
のです。およそこの世に必要なき
に存在する人間はみな遊民です、
非常時に当っては最も有用なりし
・ ・ ・ ・
さむらいが、常時に於ては無用の
遊民と化してしまった徳川家八万
騎をはじめ、三百諸侯がおのおの
莫大な遊民を抱え込んでしまった、
しか
而して、その食糧並びに遊民の遊
蕩費というものを、いずれに向っ
416
て求めましょう、百姓︱︱農民よ
しぼ
り搾るほかに出所はないではない
ですか﹂
﹁全くその通り、我々も昨日まで
は、その遊民の端くれの地位を汚
していて、農民の血汗に寄食して
いたものです。戦国の時代を程遠
からず、武士の威力と恩恵がまだ
存していた時代は格別、こうして
永く泰平が続く間に、平和に働い
417
ていた農民が、我々こそは何故に
かくまで働きつつ、こうまで搾ら
れなければならないか︱︱そこに
疑問を持ち、憤慨を持ち、反抗を
きた
持ち来るのもまた歴史の一過程で
しょう﹂
ひゃくしょういっき
﹁近代に於て、百姓一揆というも
ほうはい
のが澎湃たる一大勢力となり、牧
民者がほとんど手のつけようがな
く、しかも表面は相当の刑罰を以
418
て臨むにかかわらず、事実は、い
つも一歩一歩と一揆側の勝利の結
果となって行く、それもあながち
筋道がないとは言えないです﹂
・ ・ ・
﹁しかし︱︱当世のことはさむら
・
いと百姓、つまり兵農の分離とい
がん
うことのほかに癌はないかという
と、事は左様に単純なものではな
いのですな。兵と農とのほかに、
・ ・ ・ ・
つまりさむらいと百姓とのほかに、
419
別に一つの大きな勢力が現われま
した、その現われた大きな勢力が、
兵をも食い、農をも食い、みるみ
るうちに食い肥って、あらゆるも
のを食い尽して、舌なめずりをし
ようとする悪魔の出現を見ないわ
けにはいかないでしょう。その大
きな新勢力というのは、すなわち
・ ・ ・ ・
町人です。百姓がさむらいに対し
て頭を上げて来たというよりは、
420
・ ・ ・ ・
いずれは百姓も、さむらいも、や
がてこの町人という新たな化け物
のために食われてしまうような時
代が到来するのではないか︱︱拙
者は以前から、多少それを懸念し
ていたが、この江州に来ていよい
おそ
よ確実にその将来の懼るべき黒影
を見て取ることができました。い
かがです、この町人というものの
今日の時代に於ける隠然たる大き
421
な力をごらんになりましたか﹂
﹁なるほど﹂
新興町人勢力の怖るべきことを
せいらんこじ
まず説き出したのは青嵐居士で、
それに深くもあいづちを打ったの
は不破の関守氏でありました。
﹁江州へ来て、江州商人の勤勉ぶ
りを実見し、その江戸大阪へ及ぼ
すところの勢力を深く観察してみ
ると、由々しきものはこの町人勢
422
力です。農民をいじめることにか
・ ・ ・
けては虎の如く勇敢であるさむら
・
い階級が、この町人階級に向って
頭の上らないことは、一日の故で
はありません、富の前には、武家
の威力は憐れむべきほど貧弱であ
り、卑屈であるのです、その実例
として⋮⋮﹂
﹁いや、その辺は、拙者も大阪に
少々住居をいたしたことがござる
423
故に、多少の知識をもっているつ
がもうくんぺい
もりです。蒲生君平も申しました
よ、﹃大阪の豪商ひとたび怒れば、
ふる
天下の諸侯みな慄え上がる﹄と蒲
生君平も単なる尊王愛国の放浪狂
ではありません、なかなか裏面に
徹して、見るところはよく見てい
ますな﹂
﹁そうです、我々は、この兵と農
との争いは、本来これは親子なん
424
ですから、それは存外早く解決す
ると見ていますよ。ひとり町人階
級のものに至っては、これは全く
性質が違います、彼等は兵を動か
もう
すたびに儲けます、農が汗水垂ら
して生産したものを、引っくるめ
そろばん
て算盤一つで横領してしまいます、
農と兵とは親子関係ですが、商に
至っては、この両方の血を吸い、
骨を削ることによって、身代を肥
425
やして行くという種族なのです、
その点にかけて大阪商人の魔力、
まことに怖るべきです﹂
﹁大諸侯が、大阪町人の有力者に
頭が上らない、大諸侯の家老が、
大阪町人を上座に据えて、その前
に平身低頭して借金を申し入れる
ま
︱︱その醜劣なる光景を拙者も目
のあたり実見いたしておりますよ﹂
426
四十
﹁実は我々も、前に申した通り、
昨日までは農民に食わせてもらっ
た遊民の一人でいながら、百姓を
軽蔑する習慣の下に教育されて来
ていたのですけれども、事実、百
姓の難儀を見ると同情の念が起り、
一揆の勃発があるにしてからが、
たびたび
憎もうとして憎めない場合が度々
427
しか
なのです。然るに町人の横暴に至っ
ては⋮⋮﹂
﹁全く同情ができません、容捨が
なり兼ねるのです。表面はとにか
く、実際に至ると、今は兵も農も
共に苦しみつつあるのです、農民
の苦しみは、現実的に見ていられ
・ ・ ・ ・
ないほどですが、さむらいの方も、
徳川家をはじめ大小諸侯の内輪が
みな火の車です、惨憺たるもので
428
す。然るに商人に至っては⋮⋮彼
等は、血を以て天下の泰平を保証
したという歴史を持たない、身を
以て苦労して衣食を供するという
さや
奉仕もしない、その間の鞘を取る
ことによって、すべての富を蓄積
し、その富の威力で、兵をも農を
も支配せんとする、仁義道徳がす
たり、銭によって支配されんとす
る時代がやがて来るのです、否、
429
すでに来つつあるのです﹂
﹁お話を伺っておりますうちに、
わたくしは大へん悲しくなりまし
た﹂
かお
そこへ、抜からぬ面で、突然に
口をさしはさんだのは弁信法師で
ありました。
たけな
談論酣わなる両浪人は、この差
出口にいたく驚かされました。今
まで全然、存在を認めていなかっ
430
たわけではないが、談論の相手と
しては眼中に入れて置かなかった
人の突然の発言ですから、二人は
特に驚かされたのでした。取上げ
ることをしなかった第三者が、こ
こに至って、さも心得顔に差出口
を挿んだことによって、この席に、
はんべ
こんな小法師が侍っていたのかと
いうことに気がつき、改めて見直
すと、今までの二人の会話を、最
431
も熱心忠実に傾聴していたことを
思わせる存在ぶりでありましたか
ら、二たび、三たび、驚異の感に
打たれざるを得ませんでした。同
時にまた、﹁油断がならぬ﹂とい
うような警戒心もこの時に、頭を
もたげたようです。本来、この二
人は、ここに存在せしめられてい
る盲小法師なるものに就いて、な
んら、特別の予備知識を与えられ
432
さら
もの
てはいなかったのです。ここへ伴
きた
い来った晒し者のグロテスクによっ
て、この島にかかる人物が存在す
ることを知り、これこそ、しばし
の身を托するに安全のところと心
づいただけの発起で、ここまで伴
い来ったものでしょう。この小法
師が、変った修行者であるという
ことだけの黙会はあったものでしょ
う。しかし、そのほかには、なん
433
らの予備知識がない上に、右にい
うような漠然たる先入感から、お
よそ浮世のこととはかけ離れた修
行者であり、しかも充分に不具者
の資格を備えた存在物を、この孤
島の中で前に置いての談論ですか
ら、言論は絶体的に自由であるこ
とを安心しきって、談論が縦横に
たけな
酣わなるに任せて行く途中、ここ
で、抜からぬ面で差出口をされた
434
ものですから、驚くのも無理はあ
りません。
もし、この二人は多少なりとも
予備知識があって、ここに存在す
る小物体が、怖るべき感覚の所有
じょうぜ
者であり、また更に怖るべき饒舌
つか
家であることを知ったならば、二
はず
人とも、かくまで羽目を外して時
事を痛論するようなことはなかっ
たでしょう。もしありとしても、
435
必ずや、この小存在物をあらかじ
め眼中に置いて、談論の一節一節
の終りと始めとには、﹁わたした
ちはこう思うが、弁信さんはどう
思います﹂と一口ぐらいは挨拶が
えしゃく
あり、会釈があって然るべきはず
だったでしょう。それをそうしな
かったことを悔ゆるまでもなく、
あき
二人はただ驚きの上に、呆れて、
﹁弁信さん、何が悲しいのだ﹂
436
とダメを押したに過ぎません。
﹁何が悲しいとおっしゃいまして
も、人間が人間同士、理解し合え
ぬほど悲しいことはございません﹂
﹁エ、エ、何ですって﹂
と二人は、また驚異と疑惑とを以
て、弁信法師の面を見直しました。
﹁人間が人間を理解し合えぬほど、
悲しいことはございません、人間
が人間同士、理解し合えなければ
437
こそ、人間の団体が、おのおのそ
の団体を理解することができない
のでございます、さむらいがお百
姓を理解することができないのが
悲しいです、お百姓がさむらいを
理解することのできないのも悲し
いです、士農は工商を理解するこ
とができず、工商は士農を理解す
ることができないといたしました
ならば、四海のうち、四民の間、
438
どこに共存共栄の地がございましょ
う⋮⋮﹂
さてこそ、怖るべき饒舌が、こ
れから始まるらしい。
四十一
一息にこれだけのことを言い切
られて、さしも二人の浪人が、
﹁うーん﹂
439
うな
と唸りました。しかし、実はまだ
唸るのには早かったのです。この
辺で唸り出してしまった日には、
しゃべ
この小坊主の底の知れないお喋り
の腹蔵のやっと戸口のところへ来
て、眼を廻してしまったようなも
かいもく
のなのです。前に言う通り、皆目、
お喋り坊主のお喋りぶりのいかに
怖るべきかということに予備知識
を持たなかった二人としては、ま
440
ずこの辺で驚いてしまうのも無理
のないものがあります。一方、弁
信法師に於ては、ここでようやく
せき
持病の堰を切って、弁論の滝を放
流しはじめました︱︱
﹁たとえばです、あなた方は、農
が苦しいという立場だけは、充分
御理解になっていらっしゃるよう
ですが、農が正しいということ、
いま
農が楽しいということには、未だ
441
全く御理解がないようでございま
す。この世の中に存在するいろい
ろの仕事のうちで、農がいちばん
正しい職業でございます。こう申
しますると、他のあらゆる職業は
みな正しからざる仕事かとお尋ね
になるかも知れませんが、左様で
はございません、まず原始的とい
う意味で申し上げますると、第一、
何物よりも農が正しい仕事なので
442
ございます。農は天下の大本と仰
せになりました通り、百姓こそは、
土を母として、その恵みの上に、
作物を育てて人間を養う仕事でご
まずもっ
ざいますから、先以て、人間の仕
事で、これより最初の、これより
正しい仕事はないと言ってもよろ
しうございます。正しい仕事は自
然、貴ばれなければならないので
す。自然、農というものが、最も
443
正しい仕事でございますから、当
然最も貴い仕事だということにな
るのでございます⋮⋮まあ、お待
ち下さい、あなた方は、ならばそ
の貴い仕事が、ナゼ、今日のよう
に貴ばれない、貴ばれないのみで
はない、ナゼ、今日のように卑し
まれている︱︱と御反問になろう
としていらっしゃる。まことに一
応、御無理のない御反問でござい
444
ますが、貴ばるべき仕事が貴ばれ
ざるに至りましたのを、あなた方
は、搾取する者の責めにのみごら
んになるようでございますが、な
るほど、それも一応の見方には相
違ございません、悪い地主なり、
悪い代官なりが存在いたしまして、
いじ
罪もない、おとなしい百姓を苛め
しぼ
さいなんでこれを搾り、これを使
い、これを奴隷以下におとしめる
445
といった現象を、私共もしらない
というのではございません、そこ
は、あなた方の御論拠に充分の理
解を持っているつもりでございま
うら
すが、その責めを、単にそれだけ
き
に帰して、他を怨むことばかりを
教えるのはよろしくございません。
それは片手落ちというもので、そ
ういう方面ばかりを考えて、地主
が悪い、代官が憎いという、治者
446
に対する被治者の反抗心だけを教
えるような論理はいけないと思い
ます。そうして得るところのもの
は何かと申しますと、それは必ず
得るところのものより、失うとこ
ろが多いものでございます。百姓
一揆というものに払われました大
きな犠牲を翻って、お百姓たち自
身の正しい立場を自覚させること
に尽しましたならば⋮⋮いや、あ
447
なた方は、それでも御不満でいらっ
せっぱつま
しゃる、生活が切羽詰っているも
のに、正しい自覚のなんのと、そ
さ た
んな緩慢な沙汰ではない、とこう
考えていらっしゃると存じますが、
それを、もう一歩進んで考えてい
ただきとうございます。私とても、
現在の農民生活がこれでよろしい、
これでお前たちには充分だ、これ
より生き過ぎてはお前たちの分に
448
過ぎる、と申したくはございませ
ん、どうかして、もう少しお百姓
の生活を楽にして上げたいものだ
と思わないことはございませんが、
それより先に教えて上げていただ
きたいことは、苦しいだけが農民
のつとめではない、ただいま私も
申しました通り、百姓ほど正しい
仕事はない、百姓ほど貴い仕事は
ない︱︱ということの観念を昔に
449
戻して、農民たちによくよくさと
らせることが急務ではないかと考
えているのでございます。さあさ
あまた、あなた方は、なあに盲法
師の小坊主が途方もない減らず口、
自分の立場を苦しくないと考えよ
うにも、貴いと考えさせようにも、
現在この通り苦しい、この通り卑
しめられている、現在それを頭だ
け引離して、考えてみること、考
450
えさせてみることが、どうしてで
きる︱︱と、かようにおさげすみ
になっていらっしゃるでございま
しょうが、そこが、私の頭の違う
ところでございまして、とにかく、
一応お聞取りを願いたいのでござ
います﹂
四十二
451
とうとう
弁信法師は引きつづき、滔々と
しゃべ
喋りまくりました︱︱
﹁これは、ひとり農民に限ったこ
とはございません、すべての人に
伝えなければならぬ観念なのでご
ざいますが、ことに農民から始め
て、誤った貴賤貧富の観念をすっ
かり改めてやらなければなりませ
ん。貴賤貧富の観念を改めると申
しましても、悪平等に堕せよと教
452
えるのではございません、君は君
とし、親は親とし、人倫はおのお
の尊重し合わなければなりません、
いにし
それは古えよりの道でございます、
その正しい倫理観念に反逆をそそ
るような教え方はいけません。中
ま ひ
世以降、この世界をすべて麻痺せ
しめてしまっておりますところの、
貴賤上下の観念だけはすっかり取
払ってやって、万事はそれからの
453
ことなんでございます。後代の貴
賤上下の観念は、人間本質の輝き
ではございませんで、その輝きを
没却するところの手段方法に供せ
おびただ
られた点が夥しいのでございます。
そのために、世界の見て以て卑し
とするものが、必ずしも卑しから
ず、俗界の見て以て貴しとするこ
とが、必ずしも貴からず、貧が必
つら
ずしも辛からず、富が必ずしも楽
454
ではないということの根本の事実
と、実際とを教えて上げなければ
なりますまい。末世に於きまして
は、事実上、正当の地位がみな置
き換えられてしまっているのでご
ざいます。それは最初のうちに、
国を治める人が方便のためにした
ことが、後日はその方便が方便の
かしゃく
仮借から離れて、そのことそのも
はく
のに、われとつけてしまった箔の
455
ために、われと迷うているのでご
ざいます。たとえばこの世の位階
勲等の如きは、最初は、帝王の宏
大なる政治心から、人間待遇の道
として開かれたものでございまし
て、人が偉いから、おのずからそ
のかがやきが発せられたものなん
でございまして、後代に到ります
と、人間がつまらないのに、箔だ
けがかがやくものでございますか
456
ら、知恵の浅い多数の者が、その
中身を見ないで、箔だけを拝むよ
うになりました。位階勲等ばかり
ではございません、人間の原始の
生活には、富というものはござい
ませんでした、また、正当な生活
をやっておりさえ致しますと、富
というものの蓄積も、使用も、さ
のみ効用がないものなのでござい
しか
ます。然るに末世になりまして、
457
人間がおのおの生活のために戦う
ようになりますと、富の蓄積が即
ち生命の蓄積と同じような貴重な
ものになりまして、同時に人間そ
のものの生命を尊重するよりは、
生命のために蓄積した富そのもの
を拝むように間違って参りました。
富があれば、安楽にして一生が暮
せる、富がなければ、一生を牛馬
の如く苦労して暮らさなければな
458
らぬ、一歩あやまてば餓えて死な
なければならぬ、その恐怖のため
に万人がおののいて、みすみす罪
におちておりますが、私から言わ
せますと、このくらい違った迷信
おの
はないものと存じまする。他人の
こうけつ
膏血による富を積んで、己れが安
楽に暮さんとする、その安楽が、
世の人の考える如く安楽なもので
ございましょうか、汗を流して終
459
日働く人たちのみが、世の人の考
えるほど不幸なものであり、労苦
なものでございましょうか。この
観念を、今の人は、よく見直すこ
とに出直さなければならないので
はないですか。位階勲等の高きも
の、身分格式の卑しいもの、働か
ないものが幸福で働くものが不仕
合せ、ただ単にそれだけで或いは
誇り、或いは憂えるということが
460
あんまり浅はかに過ぎます。本当
の幸福は、世のいわゆる、見て以
て高しとするところになく、見て
以て低しとするところに存在する
のではございますまいか。且つま
た、本当の安楽は、世の見て以て
いつ
逸とするところに存在せずして、
ろう
見て以て労とするところに存在す
るのではございますまいか。御存
じでございましょう、佐藤一斎先
461
よ
生が太公望をお詠みになった詩の
たが
中に、﹃一竿ノ風月、心ト違フ﹄
という句がございます、その前句
は多分、﹃誤ツテ文王ニ載セ得テ
帰ラル﹄とかございました、私の
記憶と解釈が誤っておりましたら
ば御免下さいませ、あれは、太公
望が釣をしているところを、周の
文王に見出されて天下の宰相とな
りました、普通の眼で見ますると、
462
これより以上の出世はないのでご
ざいまして、世間の光栄と羨望の
頂上でございますが、太公望御自
身から申しますると、大へんにこ
れは間違っている、自分の本当の
楽しみは、一竿の風月にあって、
天下の宰相になることではない、
それを見出されてしまったのは時
の不祥である、という心持を、さ
すがに佐藤一斎先生がお詠みにな
463
りました。それは負け惜しみでも、
えせふうりゅう
似非風流でもございません、太公
望様それ自身の本心なのでござい
ます、楽しめば一竿の風月の中に
不尽の楽しみがある、それよりほ
わずら
かの物は結局煩いに過ぎない、と
いう太公望の心境を、さすがに佐
藤一斎先生がお詠みになりました。
それからまた、三国の時代の有名
しょかつこうめい
な諸葛孔明でございますが、御承
464
ひょう
ほ い
すい
みづか
知の通り、諸葛孔明様の有名な出
し
師の表の中に、﹃臣モト布衣、躬
いやしく
ラ南陽ニ耕シ、苟モ生命ヲ乱世ニ
ぶんたつ
全ウシテ聞達ヲ諸侯ニ求メズ﹄と
いうの句がございます、聞達を諸
侯に求めずという、この求めざる
の心が、あえて諸侯に向って求め
ゆえん
ざる所以に限ったものではござい
ません、何者に対しましても求め
ざるの心があって、はじめて心が
465
乱れませぬ、心が乱れませぬ故に、
いつも平和でございます、何者が
参りましてもこれに加えることが
できませんし、またこれに減ずる
こともできないのでございます。
古語に﹃自ラ求メザルモノニ向ツ
テハ哀楽ソノ前ニ施スべカラズ﹄
というのがございます、世にこの
求めざるの心ほど強いものはござ
しょかつこうめい
いません。諸葛孔明は最初からこ
466
の最も強い地位に坐しておいでに
なりました、その求めざるの心が
安定いたしておりましたのは、そ
れだけ修養が積んでおりましたの
ですが、一方から物質的に見てみ
みづか
ますると、あの﹃躬ラ南陽ニ耕シ﹄
と仰せられた通り、諸葛孔明は自
分で百姓をしておいでになりまし
たから、それで生活の分が足りて
おいでになりました、百姓を致し
467
て天地から生活の資料を直接に恵
まれておいでになりましたから、
生活のために何物を以て加えられ
ても決して動揺を致しませぬ。諸
葛孔明様は古今の名宰相でござい
ますが、百姓として立派なお百姓
しょく
でございました。諸葛孔明は蜀の
玄徳のために立たれるまでは、南
すきくわ
陽というところで、みずから鋤鍬
を取って百姓をしておいでになり
468
ましたのです。どのくらいの石高
のお百姓でしたか、私にはよくわ
しゅつろ
かりませんが、出廬以前のお百姓
と致しましては、おそらくやっと
食べて行かれるだけの水呑百姓の
程度を遠く出でなかった百姓であっ
たろうことを想像いたされるので
ございます。孔明は幼にして父母
を失われ、相当に苦労をなされた
そうでございますから、そう大し
469
た資産が残されておりましたとも
覚えません、少なくとも農奴を使
用して、自分が手をふところにし
ておる地主様ではございませんで
した、みずからたがやして働くと
ころの一農夫でありましたに相違
ございません、﹃躬ラ南陽ニ耕シ﹄
きゅうこう
とある、﹃躬耕﹄の文字がその事
じょう
実を証明いたします。後に蜀の丞
しょう
相の位に登りましてから、上表の
470
けい
文章の中に、﹃自分には成都に桑
はくでん
八百株薄田十五頃があるから子孫
の生活には困らせない用意は出来
ており、官から一物をも与えられ
なくとも生活が保証されておりま
する﹄ということが書いてござい
ます。桑八百株と申しますと一坪
に二株ずつとしましても約四百坪
の地面に過ぎません、薄田十五頃
と申しますと日本のどのくらいの
471
面積に当りまするでございましょ
うか、佐久間象山先生は日本の五
百石ぐらいだと仰せになりました
が、ある人に伺いますと、一頃は
せ
田百畝のことだそうでございます、
その一畝というのが日本の一畝と
同じことでございますかどうか、
日本の一畝は当今では三十坪とい
うことになっておりますが、支那
の一畝は百坪或いは二百四十坪だ
472
という説を承ったこともございま
すが、なんに致せ蜀の時代と致し
ますると、今から千七八百年もの
昔でございますから、私共にはと
うてい本当のところはわかりませ
ん、よってこれをどこまでも日本
面積として考えてみますると、一
頃百畝すなわち十五頃は千五百畝
となるわけでございます、その千
五百畝を日本式の坪数に引直して
473
みますると四万五千坪でございま
す、これに前の桑田四百坪を加え
ますと、四万五千四百坪になる勘
定でございます、その四万五千四
百坪を、今度は日本の反歩に逆算
してみますると、一反歩を三百坪
と致しまして、三千坪の一町歩、
三万坪の十町歩、あとの一万五千
坪を反歩に引直しますると三五の
十五で五町歩、そう致しますると
474
四万五千坪は即ち十五町歩、それ
に四百坪を加えますると十六町三
畝十歩の土地を諸葛孔明様は持っ
ておいでになりました。十六町歩
と申しますると、日本の国ではま
ず中農以上の大地主の部類に属す
る地面持でございますが、かりに
これを一反歩五俵二石取りと致し
ますと、一町歩の二十石、十町歩
の二百石、五町歩の百石でござい
475
ますから、三百石取りの資産なの
でございます。三百石取りと申し
ますと、日本の侍の中通りの身上
に過ぎないのでございます。二千
年近くの昔とは申せ、四百余州の
支那の国を三分した天下の宰相が、
ちぎょう
三百石取りの知行で甘んずること
を心得ておられたということによっ
て、いかに諸葛孔明が清廉潔白の
お方であったかということがよく
476
わかるのでございます。それで御
自分だけではない、一家一門を、
不足を言わせないようにしつけて
・ ・
置かれたのですから、いざとなれ
くわ
ば、自分も宰相の位をやめて、鍬
を取ってお百姓になれるだけの腕
をお持ちになり、それからまた御
子息たちをも地主様としてでなく、
ほんとうに自ら働くお百姓として
な
立って行かれるように、教育を為
477
されてお置きになったものに相違
ございません。仮りにまた、只今
かぞえてみました孔明様の御知行
を、支那面積に見積りまして、三
倍、四倍と評価を致してみました
ところで、千石前後でありまして、
日本で申しますと、中藩の家老ど
ころに過ぎないのでございます。
諸葛孔明は支那三千年、第一等の
宰相と称せられておりますが、お
478
百姓としてもまた立派な一人前の
お百姓でありました。その力でご
ざいます。でございますから、ま
しゅつろ
だ出廬をなさらない時分の毎日の
生活と申しますのは、晴れた日に
は自分から陽当りのいい前畑に出
きゅうこう
て躬耕を致し、雨の日には自分の
好むところの古今東西の書物を取っ
てごらんになる、それだけの境涯
で楽しみが余りあって、それ以上
479
には全く求むるの心がございませ
んでした。求めなくともよろしい
のです、それ以上求める必要もご
わずら
ざいません、求むればかえって煩
ひ
いを惹くということを、明白に御
自覚でございました。王者の身を
屈して、その人の草廬を三たびた
ずねられても、出づることを欲し
なかったのは、大臣大将の身にな
るよりも、この五段百姓の方がど
480
のくらい御当人に好ましい境遇で
あることを、つくづく自ら味わっ
ておりましたのです。お百姓とい
う仕事は、全く天の時と、地の恵
みだけで生きられる仕事なのでご
ざいます。乱世ともなれば、この
世界はまだ広いのでございますか
ら、未開墾の地も到るところにご
ざいましょう、兵馬の到らない、
戦塵の飛ばない、平和な地に根を
481
おろ
卸して、そこに耕して生きて行く
分には、何人の権力もこれに及ぶ
ことはございますまい、諸葛孔明
は農業を楽しむことを知る人でご
かよう
ざいました。斯様に申しますると、
人はみな諸葛孔明ではない、しか
もこれを楽しみ得られる人ばかり
ではない、とおっしゃるかもしれ
ませんが、この農を楽しむ心は、
移して以ていかなる人の境涯にも
482
置けないことはござりませぬ。私
のような、人にも神にも見放され
ました不具の身は格別と致しまし
て、およそ五体が満足でありさえ
致せば、いかなる人も農を楽しん
で楽しめないはずはないのでござ
います。他の楽しみは、おのおの
その天分気分にもよりましょうけ
れど、農ばかりは、誰もこれを働
き、誰もこれを楽しんで、そうし
483
て、自他共に、他に迷惑をかける
ことの微塵もない職業なのでござ
います。農業の苦痛を説くのも、
時によっては当然の応病与薬でご
ざいますが、諸葛孔明の心を以て、
農を楽しむことを万人に教えて悪
いということはございますまい⋮
⋮と私は考えますのでございます﹂
﹁うーん﹂
さすがの不破の関守氏と青嵐居
484
うな
士が、ここに至って全く唸ってし
まいました。やっとわずかに一声
すきま
うなるだけの閑隙を与えられまし
た。
四十三
言わせて置けば、まあ、どのく
しゃべ
らい喋るのか、太公望から始まっ
て、諸葛孔明が出て来たかと思う
485
と、支那と日本の段歩の換算まで
はじめられてしまった。あまりの
ことに、口を挿もうにもさしはさ
あぜん
む隙間が与えられない。唖然とし
て、空しくこのおしゃべり坊主の
かお
面をながめているばかりでしたが、
ここに至ってようやく、﹁うーん﹂
と一つ唸るだけの隙を与えられま
した。しかし、ほんの一つ息つぎ
に唸る隙を与えられただけで、お
486
喋り坊主は彼等に二の息をつがせ
ませんでした。
﹁これを楽しむことを知れば、も
きた
はや苦しみの来る隙はないもので
す。私が関東の方を旅をしており
ますうちに、到るところで二宮尊
徳先生の報徳の仕法を承りました、
相模の国の二宮金次郎というお方
でございます。あの方は、幼少の
折柄、お代官にはいじめられませ
487
んでしたけれども、天然自然のた
めにいじめられました。いかに悪
いお代官でも、田地田畑まで持っ
て行くことは致しませんが、天然
自然の害にいたりますと、土地田
畑まで洗いざらい持って行ってし
まうのですから恐ろしいものです。
せ
尊徳先生は親代々の六段八畝とい
さかわがわ
う田地を、酒匂川の水のために二
度まで持って行かれてしまいまし
488
た。百姓が土地を持って行ってし
まわれては、いきる足場がござい
ません、百姓には限りませんけれ
ど、そこであの方は、よそへ奉公
を致しまして、ずいぶん辛い生活
をなさいましたが、そのうちに、
誰も捨てて顧みない荒地に、菜種
ま
を蒔きました。なぜ菜種を蒔いた
しぼ
かと申しますると、それで油を搾
りたかったからでございます。ナ
489
ゼそんなに油が欲しいかと申しま
すと、主人に油を惜しまれるため
に、自分で油を取って、それで夜
の暇に本が読みたかったからでご
ざいます。しかるに、どうでしょ
う、五勺の菜種を蒔くと八升の菜
種がとれました、これがあの方の
地上から得た最初の収穫でござい
ました、五勺の種が、八升の収穫
を与えました。そこで考えずには
490
おられません、天地というものは、
土地でも、田畑でも、情け容赦も
なく奪うには奪うが、また与える
時には与えもするものだ、五勺の
種で八升の収穫は、百六十倍の収
穫でございます、この天地の大き
な力を、人間の手で最もよく利用
厚生しなければならないというこ
とを、しみじみとさとりましたの
が、十六歳の時でございました。
491
そこで、あのお方は、本当に天地
の力の中に飛び込んで働くことの
楽しみを体得いたしました、﹃音
あめつち
もなく香もなく常に天地は、書か
ざる経をくりかへしつつ﹄とある
たい
のがその体でございまして、﹃天
地の恵みつみ置く無尽蔵、鍬で掘
り取れ鎌で刈り取れ﹄と申すのが
よう
その用なんでございます。天地と
抱き合って農を楽しむことができ
492
ました。すでにそれを楽しむこと
をさとりました以上は、その余の
ことに苦しみというものがあろう
はずはございません、﹃飯と汁、
木綿着物は身を助く、その余は我
をせむるのみなり﹄︱︱﹃その余
は我をせむるのみなり﹄というと
かよ
ころをよくお考え下さいませ。斯
う
様に申しますと、あなた方はまた、
必ず不服をおっしゃるに違いない、
493
それは天地というものは、かくの
如く冷酷に奪いもするが、またそ
のように豊富に与えもする、しか
るに人間の悪い政治になりますと、
奪うばかりで与えるということを
しない、搾り取るばかりで、恵み
というものが更にない︱︱と、こ
うおっしゃるに相違ございません。
それは全くその通りでございます、
かせい
さればこそ論語にも、苛政は虎よ
494
り猛なりと記してございます、私
とても、その恐ろしい人間の悪い
政治を、天地の力と同様に黙従し
なければならぬと申すのではござ
いませぬ。それはそれでございま
す、悪政は、人間力を極めて改め
る道、責むる道を講じなければな
りません、同時に人間には、運命
に楽しむ所以を知らしめないと、
人間の心が片輪になるということ
495
を強く申し上げたいのでございま
す。今の世には百姓が卑しい、百
姓がつまらない、百姓が利に合わ
ない、百姓がいじめられる、百姓
ほど苦しいものはないということ
のみが打込まれ、百姓ほど貴いも
のはない、百姓ほど楽しいものは
ない、という大きなる事実が教え
られておらないのではないかと、
私はそれを考えておりますのでご
496
ざいます。わたくしがもし、五体
が満足に生み出されておりました
ならば、私は職業として、何より
も農業を選んだに相違ないと存じ
ますのでございます。先年、私が
秋田の方に参りました時⋮⋮﹂
ここでようやく青嵐居士が、必
死の勇を振って食いとめにかかり
ました。
﹁もうわかりました、大体わかり
497
ましたよ弁信さん、お前さんとい
う人には全く降参します、おっしゃ
もっと
ることも尤もです、ですがね、天
下の人は、みな太公望でもなけれ
ば、諸葛孔明でもなし、二宮尊徳
でもございません、多くはその日
暮しの空腹の民なんです、彼等は
徳を持たず、楽しみを知らない意
気地のない人間なんです、彼等が
強者に対して立場を守らんとする
498
には、多数団体の力を借りるほか
にはどうにもならんでしょう︱︱﹂
絶望的に青嵐居士がこういう言
葉を投げつけて、お喋り坊主の舌
洪の関を食いとめにかかりました。
四十四
宇津木兵馬が芸者の福松を連れ
て、白山白水谷に向っての一種異
499
みちゆき
くだん
様な道行は、件の如くにして続き
ました。
その翌日の晩もまた、旅寝の仮
枕︱︱この仮枕が珍妙なる兼合い
で、女に押され押されながら、土
俵際の剣ヶ峰で廻り込み廻り込み
渡って行く兵馬の足どり、それを
ひたよ
女は結局おもしろがって、只寄せ
に寄せてみたり、わざと土俵真中
ほんろう
へ逃げてみせたり、翻弄の手を日
500
毎夜毎に用いつくしている。一方、
兵馬にとってみると、これもまた
平常底の修行の一つだと観念をし
て、相手になっているらしい。
﹁ずいぶんお固いことね、破れ傘
のようだわ、さすが修行の積んだ
ものはエライわね、感心したげる
わ﹂
とテレてみたかと思うと、
﹁でも、もう、こっちのものよ、
501
いくらあなたがよそよそしくなさっ
ても、要するに時の問題なのね、
あなたの事実上の陥落は、兵を惜
しまずに戦いさえすれば、今日に
も陥落させてみせたげるわ、でも、
それをわたしはしない、しないと
ころが味なのよ﹂
と、もう占めてしまったようなこ
とを言う。
兵馬はそれに答えない。今晩も
502
また、形ばかりなる山小屋の中へ
寝ました。
かっぱ
芸者の福松には、旅行用の合羽
を手厚く着せて寝かせ、自分は、
とぎ
木を集めて火を焚いて、それを伽
に、柱があれば柱、壁があれば壁
によりかかって、しばしまどろむ。
かつ
一方を横にさせて、自分は嘗て横
になるということをしないで終ろ
うとするこの旅路︱︱その辺は、
503
旅に慣れた兵馬には、あえて苦と
はならない。
だが、彼が悩まされるものは、
これにあらずして彼にある。
女が寝返りをうつたびに、彼の
心がひやりとする。その肩から背
へかけて露出した肌を、思いきっ
て見せつけられるところへ、真黒
くふんだんな髪の毛がくんずほぐ
れつして乱れかかる。その時に兵
504
おのの
馬は、戦くばかりの羞恥を感ずる。
それと、もう一つは、そういう
場合になると突然、彼の耳もとで、
﹁はっ、はっ、はっ﹂
と、大きく笑う声がする。それは
尋常の笑い声ではない、八分の冷
笑と、二分の親しみを含んだ、遠
慮のない高笑いで﹁はっ、はっ、
うたたね
はっ﹂と笑われるごとに、転寝の
夢が破れて、と見ると、そこに仏
505
頂寺弥助が傲然として突立ってい
る。無論、仏頂寺あるところの後
ろには、丸山勇仙の影がつかず離
れずにいる。
﹁宇津木、うまくやってるな﹂
ある晩の如きは、この仏頂寺が
こう言って、大きく笑いながら、
ニヤニヤとして、現に眼の前に寝
えり
ている芸者の福松の襟に手を突込
もうとするところをまで夢に見て、
506
さ
本当に夢が醒めた時に、福松が、
ほとんど裸体同様な寝像になって
あ わ
いるのを見て、周章てて着物を押
しかぶせてやったが、押しかぶせ
てやってもやっても、わざとする
もののように、その着物を引きは
いでしまう。
そういうような場合で、眼前に
りゅうか
女の肉体というものを、一つ柳下
けい
恵の試験台に借りているのはいい
507
が、夜な夜な襲われる仏頂寺弥助、
並びに丸山勇仙の幽霊ばかりは、
兵馬も全く悩ませられる。
はっと、油断すれば、もう仏頂
こうしょう
寺弥助の亡霊が現われて哄笑し、
冷嘲し、
﹁うまくやってるな﹂
と言う。それともう一段油断して
いると、仏頂寺そのものが、いよ
いよ気味の悪い笑い方をして、寝
508
ている女の肉体へ手をあてがおう
とする。兵馬は、蠅を追うように、
それを払うことをせざるを得ない。
今日は、ふとまた一つの山路を
上りつめている。上りつめて見下
えんえん
ろすと、広い谷がある。道は蜿々
としてこの谷を通して北へ貫くの
であって、隠れてまた見え出す。
かなた
その大道の彼方を見ると、真白な
がが
山が、峨々として、雪をいただい
509
そび
て聳えている。
﹁うむ、なるほど、あれが白山だ
な﹂
と兵馬は、山路の上に立って、遥
かに山上を見上げていると、例に
よって、
﹁はっ、はっ、はっ﹂
という底冷えのした哄笑につづい
て、
﹁なあに、ありゃ畜生谷だよ﹂
510
﹁えッ﹂
見れば、もういつのまにか、仏
かお
頂寺弥助が後ろから自分の面をの
ぞき込みながら、
﹁はっ、はっ、はっ、うまくやっ
てるな﹂
四十五
﹁何だ、仏頂寺﹂
511
﹁はっ、はっ、はっ、うまくやっ
てやがら、あれが白山なものか、
下を見ろ、畜生谷だ﹂
兵馬が上をのみ仰いでいるのに、
仏頂寺は意地悪く下を指さしまし
た。
仏頂寺に指さされてみると、兵
馬は、白山をのぞむ眼をうつして、
畜生谷を見ないわけにはゆきませ
ん。
512
先夜の夢で見たような深い谷で
ある。あれより模糊として、そう
して広い。木の間を透して見ると、
なかなか大きな構えの家の屋根が
三々五々と散在している。山間の
一大部落であることが、よくわか
る。
﹁うーん﹂
﹁どうだ、見えたか﹂
﹁見えたよ、あれが有名な畜生谷
513
か﹂
﹁そうだとも、宇津木、君の爪先
のつん向いた方へ行けば、あの畜
生谷よりほかへ行く道はないんだ
おぼ
ぜ、その足どりで、白山なんぞ覚
つか
束ねえ﹂
﹁だって、白山へ行くには、この
谷をつっきって行くよりほかに道
がないじゃないか﹂
﹁そんな眼玉だからいかん、白山
514
へ行く道は、ほかにあるよ、探し
て見たまえ、探してからなけりゃ、
自分で造って行って見給え﹂
じょうだん
﹁冗談いうな︱︱君、知ってるな
ら教えてくれ﹂
﹁はっ、はっ、はっ、俺ゃ最初か
ら、白山の頂なんぞを目標に置い
とらん、畜生谷へ行くつもりでやっ
て来たんだから、そんな道は知ら
ん﹂
515
﹁そうか。しかし、道はこの通り
えんえん
立派について、蜿々として帯をめ
ぐらしたように、一旦はあの谷、
あの部落を貫通して、それから向
うの峠へ抜けるようについている、
ほかに道がない限り、これよりほ
かへは行けようはないから、君が
何と言おうとも、わしはこの道を
突破する﹂
﹁できるものならばやって見給え﹂
516
﹁畜生谷を通過したからとて、身
が畜生になるわけではあるまい、
もしそうだとすれば、狼谷を通れ
すりばりとうげ
ば狼に食われ、磨針峠を通れば自
分の身が針になる﹂
﹁宇津木、小理窟を言うなよ、お
れは、親切でもってお前にこの道
を通るなと忠告をしているんだ、
いや、通るとも、通るまいとも、
それはお前の勝手というものだが、
517
この谷を通ることによって、あの
雲をいただく白山の上へは出られ
ないということだけを、おれは明
言しているのだ。いかにも、お前
の言う通り、畜生谷を通ったから
とて身が畜生になるわけではない
が、白山へ行くのとは道が違うと
いうことだけを言って聞かせてい
るのだ﹂
﹁忠告は有難う、しかし、君とい
518
う人間の忠告が、一から十まで聴
従できるものとも考えられない﹂
﹁はっ、はっ、はっ、以前から信
おびただ
用のないこと夥しい。では、夜の
明けない、足許の暗いうちに、仏
頂寺は引込むよ﹂
﹁まあ、もう少し待ち給え﹂
﹁いや、そうしてはおられん、い
ま仏頂寺のいるところは、世界が
違うからな、鶏でも鳴き出したら
519
最後だ、まあ、足許の暗いうちに
なあ、丸山、お暇とやらかそう﹂
﹁そうだ、おい宇津木、用心しろ
よ﹂
﹁どうしても帰るのか﹂
﹁帰るよ、宇津木、じゃあ、失
敬!﹂
﹁そうか﹂
﹁はっ、はっ、はっ、うまくやっ
てやがら﹂
520
﹁お楽しみ⋮⋮﹂
こうして、仏頂寺弥助と丸山勇
仙が、雲の中へ姿を消してしまい
さ
ました。その途端に醒めて見ると、
夜風が外でさわぐ。女はと見れば、
またしても、だらしのない寝像、
かぶ
せっかく被せてやった衣類を、意
地のようにふんばいで、二目とは
見られない。
苦りきった兵馬は、立ってまた
521
衣類をかぶせてやっていると、ど
こかの空で、なるほど鶏が鳴き出
している。
四十六
それからまた、旅にかかって、
女をいたわりいたわり行くと、ま
もなく一つの山路に出ました。四
五町の登り、大した崖というでは
522
なかったが、山路の上に立って見
ると、昨夜の夢を思い起さざるを
得ない。
仏頂寺と丸山から指された、峠
の谷を思い起さないわけにはゆか
ない。なにもこの峠が、夢に見た
峠と寸分違わないというような、
しんせんたん
神仙譚にありそうな光景を想像す
るのではない。昨晩の夢とはだい
ぶ趣きが違っていて、周囲はむろ
523
ん山また山だが、別に加賀の白山
らしいものが雪をいただいた頂を
高く抜いているのではない。峠の
下の行手は谷になって、部落の屋
根が三々五々に見おろせることだ
ふちょう
けは、夢と符牒を合わせているよ
うなものだが、それとても、今日
までの旅行にありきたりの光景で
あって、山と谷との間を旅をする
者は、どこへ行っても、誰人も経
524
験する道程に過ぎない。それでも
兵馬は思い合わされて、異様な感
じに襲われながら、女の足をいた
わって、そこで暫しの休息をやり
ますと、
﹁ねえ宇津木さん、わたし、また
こわ
怖い夢を見ちゃいましたよ、仏頂
寺の夢を﹂
﹁うむ、仏頂寺の夢をか﹂
﹁どうしてまた、毎晩、仏頂寺の
525
夢ばかり見るんでしょうね﹂
﹁お前もか﹂
﹁では、宇津木さん、あなたも毎
晩、仏頂寺の夢をごらんになるの
ですか﹂
﹁そうだよ、実はあれから、毎晩
のように仏頂寺に関する夢ばかり
見せられてるんだが、愚にもつか
ないから黙っていたよ﹂
﹁そうでしたか、わたしも、あれ
526
から、しょっちゅう仏頂寺の夢ばっ
かり、やっぱり恨まれているんだ
わね﹂
﹁うむ﹂
﹁恨まれているのよ。あんなしつっ
こい人に恨まれちゃ、やりきれな
いわよ﹂
﹁だが、仏頂寺が、そう我々を恨
まなけりゃならん筋はない︱︱ま
た、仏頂寺としても、みだりに執
527
念を残すような往生ぎわの悪い男
でもないはずだ﹂
﹁だって、人間の心持というもの
はわからないわ﹂
﹁こっちこそ、仏頂寺に多大の迷
こうむ
惑を蒙らせられてこそおれ、あれ
さかうら
に逆恨みをされる覚えはないのだ
し
が、強いて言えばあの小鳥峠の時、
ろくろく葬いもしてやらないで、
見捨てて来たのが不人情と言えば
528
言われるか知れないが、それは、
事情やむを得ないことでもあるし、
うら
彼が死んでからのことだから、怨
みとして記憶されるはずはない﹂
﹁でも、仏頂寺は、何かあなたの
知らないことで、あなたを恨んで
いるかも知れないわ﹂
﹁いいや、わしには今いう通り彼
を恨もうとも、彼に恨まれる筋は
微塵もないのだが、君の方には大
529
いに恨まれる筋があるかも知れな
い﹂
﹁あら、しどいわ、仏頂寺なんか
に恨まれる筋はなくってよ﹂
﹁そりゃ、自分はないと思っても、
先方にあるかも知れない﹂
﹁あら、しっぺ返しをおっしゃる
わ、仏頂寺なんかに恨まれる筋は、
わたし毛頭ないわ、仏頂寺を恨む
筋はあるか知れないが⋮⋮誰かの
530
くちまね
口真似よ、お気の毒さま﹂
﹁ふふん、そうは言わせない、第
一、この間の小鳥峠にしてからが、
わしは一通り介抱してみて、差当
りの手数で、できるだけ親切に葬っ
てやろうとしたのを、人が来ると
あぶないからと言って、強いてそ
れをわしにさせなかったのは誰だ。
おんねん
だから、あの時の怨念が残るとす
れば、拙者につかないで、君の上
531
に取りつくのが当然だ﹂
﹁あら怖い︱︱あんなことで、仏
頂寺の怨念に取りつかれちゃあ、
全くやりきれませんねえ、あれは、
あの場合、そんな人情ずくにから
まれていてはおたがい様があぶな
いから、やむを得ないわ。わたし
が仏頂寺を憎いと思うのは、それ
より以前のことなのよ﹂
﹁それより以前に、君は何か仏頂
532
寺に憎まれるようなことをしたの
か、また仏頂寺を憎むような罪を
作ったのか﹂
﹁知らないわ︱︱そんなこと、あ
なたがいちばんよく知っておいで
のくせに﹂
﹁はて、君という女が、仏頂寺に
憎まれるようなことをした、仏頂
寺を憎むようなことをしたという
ことを、どうして拙者が知ってい
533
る?﹂
・ ・
﹁まだあんなしらを切っていらっ
しゃる、それは、あなたのほかに
は誰も御存じないことなのよ﹂
﹁はて、拙者はいっこう心当りが
ないがな。いったい仏頂寺は、君
という女をそれほど憎んでいたの
か﹂
﹁お気の毒さま、憎しみは愛の変
形なりって、唐人町の儒者が申し
534
ました﹂
﹁ナニ、憎しみは愛の変形?﹂
﹁はい、愛のないところに憎しみ
はない、憎しみのあるのは愛のあ
る証拠でありますとさ﹂
﹁むずかしいことを言い出したね、
してみると、君を憎んでいた仏頂
寺は、君を愛していたという理窟
になり、仏頂寺を憎み返す君はま
た、仏頂寺を⋮⋮﹂
535
﹁そんなこと知らない知らない、
わたしを仏頂寺に憎まれるように
したのは、いったいだれです﹂
もも
と言って、女は不意に兵馬の股を
つねりました。
四十七
そういう不意打ちには兵馬も今
は慣れている。そこで、痛いっと
536
言って手を振払うようなことはし
ない。かえって、
﹁ふーん﹂
と深く考え込みました。
﹁仏頂寺という男は、あれでひど
ほ
く、わたしに惚れてたんですから
おかしいわ、ああいう人ですから、
は
惚れたとか腫れたとかいうことは
顔色には現われませんでしたけれ
ど、ひどくわたしが好きになって
537
しまったのが、運の尽きでしたね
え。そこで、ねえ宇津木さん、だ
や
れでも惚れた以上は、きっと嫉く
んですね、あれから仏頂寺が嫉き
手に廻ったのを、あなた御存じ?﹂
﹁そんなことを知るものか﹂
﹁つまり、仏頂寺があれから、私
とあなたというもののなかを嫉く
くろこ
ことといったら、とても黒焦げな
んですけれど、ああいう男ですか
538
ら、顔には現わしません﹂
﹁そんなばかなことがあるものか、
うぬぼれ
そりゃ君の己惚で、女というやつ
は、世界の男がみんな自分に惚れ
ていると考えたがるものだよ。仏
頂寺は傷だらけの人間だが、女に
参って、やきもきするような男じゃ
ないよ。第一、君と拙者との間を
嫉くというのがおかしいじゃない
か、なんでもない間柄のことを、
539
嫉妬すべき理由がないじゃないか﹂
﹁そりゃ仕方がありません、邪推
でもなんでも、嫉くのはあちら様、
嫉かれるのはこっちなんですから、
そうして、こちら様にだって、嫉
かれてこわい筋がないとばっかり
は言われませんね﹂
﹁それはないよ、仏頂寺に二人の
間を嫉かれるような弱味は、拙者
に於ては毛頭ありはしないよ、当
540
て違いだよ﹂
﹁弱味がないとばっかりは言えま
せん、あなたにはなくとも、わた
しの方にあったら、どういたしま
す﹂
﹁君は、そんなに何か仏頂寺に対
して弱味があったのかな﹂
﹁仏頂寺に対してはございません
が、誰かに対してありました﹂
﹁誰に﹂
541
﹁誰にですか、仏頂寺を好かない
ほどの強さでわたしは、誰かを好
きでした、仏頂寺を嫌いながら、
その人には惚れてたんです、です
から仏頂寺に恨まれるのは、あた
りまえでしょう﹂
﹁そんなことは拙者は知らん、ま
あ、歩きながらゆっくり聞くとし
よう﹂
﹁では、手っとり早く話してしま
542
いましょう、つまり、仏頂寺は、
あなたとわたしの仲をしょっちゅ
や
う嫉いていたのです、ゆうべも、
まくらもと
その恨みを言いにわたしの枕許へ
参りました、そうしていやらしい
身ぶりをしては、お楽しみだの、
うまくやってやがらあだの、さん
ざんいやみを並べて行きました﹂
﹁つまらんことだ﹂
﹁ねえ、宇津木さん、全くつまら
543
ないわ、何かあるんなら、あるよ
うに嫉かれても仕方がないけれど、
こうして清い旅をしているのに、
嫉かれちゃ全くつまらない!﹂
﹁仏頂寺という奴もばかな奴だな、
第一、拙者の手から、君というも
のを奪って行って、いいようにし
たのは彼じゃないか、こっちに恨
みの筋はあろうとも⋮⋮﹂
﹁それはいけません、それをあな
544
たがおっしゃれば、わたしは仏頂
寺を憎むより、一層あなたという
ものを憎まなければなりません、
あの時の罪は、仏頂寺より、あな
たの方が十倍も上なんです﹂
﹁でも、あれから君は、仏頂寺に
いいようにされた上に⋮⋮﹂
﹁何をおっしゃるのです、わたし
が好きこのんで仏頂寺にいいよう
にさせたとおっしゃるのですか、
545
それはお間違いではございません
か、かよわいわたしを振捨てて、
あの人たちの手にいいようにさせ
た憎い人は誰でしょう、中房から
松本へ出る、あの道中の誰かの不
人情が、わたしは生涯忘れられま
せん、その生涯忘れられない思い
たた
が、宇津木さん、あなたに一生祟
るから、こればっかりはよく覚え
ていらっしゃい﹂
546
こわ
﹁怖いことを言うな﹂
﹁あなたは、わたしが仏頂寺にい
いようにされたとおっしゃいまし
たね、そのいいようにというのは、
どういうようにされたのですか、
それを承りたいものですね、どう
せ旅から旅の芸者かせぎのことで
みさお
すから、世間様へ通る操がどうの
こうのとは申しませんが、あの時
は、仏頂寺を憎いと思うよりは、
547
あなたを心から憎いと思いました、
今でもあの時のことを考え出すと、
憎い!﹂
こう
痴話も嵩ずると真剣になること
がある。あぶない。その時、行手
の谷間から、がやがやと人の声が
あって、こちらをめがけて悠長に
登って来る。そこで人心ついた二
人は、痴話喧嘩もそっちのけで、
急いでよそゆきの旅人気分を取り
548
つくろって立ち上りました。
四十八
まもなく、ここへ現われて来た
けんみしゅう
はたさしもの
のは、珍しく両刀を帯びた検見衆
けんざお
らしいのが二人、間竿を旗差物の
ように押立てさせた従者と、人夫
と、都合七八人の一行でありまし
た。
549
こちらは予期していたことだが、
先方は意外に感じて、一度にこち
らを注視しましたが、女であり、
若いさむらいである、さのみうろ
ふうてい
んなものの風体ではないから、得
心がいったようにして近づいて、
おたがいに挨拶をして、見ると、
この検見衆らしいさむらいの老人
の方が案外気さくでありまして、
﹁あなた方、どちらへ行かっしゃ
550
る﹂
と兵馬にたずねたものですから、
兵馬が、
まか
﹁北陸筋へ罷り通りたいと存じま
す﹂
﹁それはそれは、用心して行かっ
しゃれ﹂
﹁この谷を通って、加賀の白山、
あるいは金沢方面へ出られますか﹂
﹁出られますとも、出られますと
551
も、白山行きはこの道よりほかは
ござりませぬぞ﹂
検見衆の老人は、夢に見た仏頂
寺とは大違い、白山へ行くにはこ
の道のほかないという。してみれ
ば、この谷は、夢で教えられたよ
うな怖ろしい谷でもなんでもない。
﹁有難う存じました﹂
兵馬は、福松を促して立ち上る
と、検見衆の役人が、
552
﹁だが、さて、この谷底の村をお
通りなさる時は、この際、少々御
用心が願いたい﹂
﹁え、この村に何ぞ事がござりま
するか﹂
﹁いや、別に事というわけではご
かよう
ざらぬが、斯様な平和な村でこそ
あれ、ただいま少々人心が動揺い
たしておりますからな﹂
﹁人心が動揺?﹂
553
﹁いや、多少の動揺はどこにもあ
も
ることで、この村も御多分に洩れ
やまあい
ないが、何せ山間の、世間の波風
とは全く隔絶せられた地境だけに、
僅かのことにも動揺する、どうか
あなた方も、素通りをなさる分に
はよろしいが、何ぞ村人と話をな
おそ
さる際には、その刺戟を惧れてい
ただきたい﹂
﹁と申しますると?﹂
554
﹁いや、つまり、この平和な村人
に向っては、通常世間のことをあ
まり話してお聞かせにならぬがよ
ろしい、特に世間の人が、この部
落の人をどのように見ているかと
いうことなどを、お物語りなさら
ぬがよろしい。つまり、この村人
とは、言葉をお交しにならずに、
この村︱︱この一世界の谷底の部
落をお早く御通過になってしまわ
555
れた方が、おたがいのためによろ
しかろうと存ずるのです﹂
﹁何ぞ、村に危険な予想でもござ
りますか﹂
﹁いや、決して危険なことなどは
ござりませぬ、見らるる通り、太
古の如き静けさの村でござって、
しつぼく
住民もまた、極めて古風な質朴そ
のものでござる、人を信ずること
のみを知って、疑うということを
556
知らない、旅人に危険を与えざる
のみか、旅人を愛すること、至れ
り尽せりですが、それだけ、こち
らが自重しなければならないとい
うことです﹂
検見衆の役人の言い分は常識的
であるけれども、また、なんとな
く奥歯に物のはさまったようなと
ころもある。兵馬は少しそこに了
解のできないものがあって、つい、
557
﹁まことにつかぬことを承るよう
ですが、白山白水谷の間には、畜
生谷と申す難所がござるそうです
が⋮⋮﹂
﹁は、は、は﹂
と役人は軽く笑って、
﹁畜生谷というのがあるというの
は、他境の人のいうことなんです、
よし、それに該当するような土地
があったにしてからが、土地その
558
ものに住む人が、ここが畜生谷で
ござると名乗るものですか、彼等
ゆえ
自身では、畜生谷の畜生谷たる所
ん
以を自覚していないと見てやるの
が、至当なのです。世間に俗に称
せらるる畜生谷なるものが、この
辺の山間の部落であるかないかと
いうことは、拙者とても無条件で
御紹介は成りかねる、しかし、こ
の辺に平家の落武者が落ち込んで、
559
八百年来、桃源の夢を結んでいる
という伝説は、あながち根拠なし
とも言えないようです︱︱彼等は
たっと
非常に祖先を崇びます、墓を愛し
守ること無類です。しかし、祖先
を崇び、墓を愛し護ることが無類
ゆえ
なるが故に、平家の残党だと断定
するわけにはいきません、日本人
は誰も先祖を崇び、墳墓の地を愛
するのです、墳墓の地を愛して、
560
これを死守せんの心が即ち愛国心
の根本なのですから︱︱しかし、
この土地の人の、特にこの土地に
愛着する所以は、なかなか複雑で、
ちょっと説明申し上げ兼ねるが、
とにかく、最近少し動揺している、
その心を刺戟なさらんように、い
ささか御用心を加えてお通りにな
るがよろしい﹂
﹁万端のお心づけ、有難う存じま
561
す﹂
かくて、兵馬と福松とは、ここ
を辞して、右の一行が登って来た
山間の部落へと下って行きました。
けんみしゅう
検見衆一行は、管轄も違い、人
柄も違っているせいか、兵馬と福
松とを、駈落者気分をもって疑い
見ることを少しもしませんでした。
いなか
まこと田舎ながら老練な役人たち
だと、兵馬も悪い感じはしません
562
でした。
四十九
かくして、村へ下りて行ったが、
村の静かなることはまた予期以上
でありました。もとより太古の如
き静かさの村とはいえ、人間が住
めば、住むだけのいささかの呼吸
と弾力とを感じなければならない
563
のに、死のような静寂さが、兵馬
を異常に感ぜしめました。それは
特にそう感じたわけではなく、峠
の上で、検見衆の役人にあんなこ
とを言われたものですから、それ
し
が暗示になって、強いてそんなに
感ぜしめられたのかも知れないが、
たまたま有る家という家に、人が
一人もいない。
家はわりあいに大きいので、材
564
木を豊富に使っているから宏壮な
感じさえするのですが、どうも人
けはい
の気配がない。家はなくとも、人
にぎ
があれば賑やかなものだが、家あっ
て人のないのはすさまじい。
かくて、村の中程まで来ると、
おびただ
そこに広大な墓地があって、夥し
い人がその墓地に集まっているの
を発見しました。夥しいといって
も、この山間の部落のことですか
565
ら知れたものですが、老若男女の
数を尽して、ほとんど村民が全部
この墓地に集まって来ているもの
のようです。してみると、葬式で
もあるのか。
だがどう見直しても、葬式とは
ゆ
全く見られない。ねんごろに逝く
ものを葬う重厚な村の儀式気分は
ゆうしんちゅうちゅう
少しもなく、みな、憂心※々とし
て墓地に群がり、ある者は墓の前
566
ぬか
に額ずき、ある者は墓を抱いてみ
な泣いている。声を上げないで、
すすり泣きに泣いている。親が泣
くから子も泣く。子が泣けば爺が
泣き、婆が泣き、妻が泣けば夫も
泣く。皆しくしくと、それぞれの
墓を囲んで泣いている。いよいよ
葬式とすれば、こんな中心のない
葬式というものはない。もし葬式
だとすれば一軒残らずの葬式であ
567
る。一時にそんなに死人が出来た
はずはあるまい。この異様なる光
景を見ると、誰しも一応は、事の
仔細を問いただしてみたくならず
にはおられない。あれほどに検見
衆の役人から予告を受けた兵馬も、
眼前この異様な気分に打たれてみ
ると、このままでは通過し去るに
忍びないような、心残りを生じま
した。
568
だが、できるだけは無言にして
通り去ろうとすると、通り去るに
は、やはりその人混みの墓地の間
を、一応通過しなければならない
道筋になっている。それに当惑し
ながら、ぜひなくその中へ二人が
むしろ
侵入すると、筵をしきひろげてい
たおかみさんが、あわただしく筵
を引っこめて、おわびを言いまし
た、
569
﹁お邪魔さまでなあ﹂
﹁御免下さいまし、おとむらいで
ございますか﹂
おかみさんの好意に対して、福
松がこれだけのお世辞を言わずに
はおられませんでした。
﹁おとむらいではございません、
村が水になると言うて、皆が心配
してなげいておりやすがな、遠か
らず、この村が水にされてしまい
570
ますげな﹂
﹁村が水になる?﹂
兵馬も、つい足をとどめて不審
をもって見直すと、
﹁はい︱︱さきほどもごろうじま
せいな、竿入れに役人衆がお見え
なされましたわな、この村という
村、谷という谷が、日ならず水に
なりますといな、白山白水谷の水
をこれへ落して、ここが大きな池
571
となりますえな、わたしら、先祖
みたま
の御魂まつり場がござりませぬで
な﹂
﹁はあ︱︱そうでしたか﹂
ぶぜん
兵馬は、憮然として、要領を得
たような得ないような心持で、そ
のまま墓地を突破してしまいます
と、それから多少の間、やはり人
家はあるにはあるけれども、人の
いないこと、前の通りである。
572
とにかく、村の老若男女は、数
をつくしてあの墓地へ集合してし
まっていることは間違いがない。
足を早めるともなく、兵馬ら二人
は足を早めて、ついにこの部落を
出切ったところと覚しい、また小
高い山道に立って、言い合わせた
ように二人が、過ぎこし村を見お
ろし、
﹁お気の毒ね﹂
573
﹁どうも要領は得られないが哀れ
だ﹂
﹁かわいそうですね﹂
﹁かわいそうだ、要するに、白山
白水谷の水をこの村へ落して来て、
この村全体を湖水にしてしまうの
だ、住民は先祖の地を失うと言う
て歎いている、先刻の役人が、人
心の動揺を刺戟するなと言ったの
はこれだな﹂
574
﹁この谷底を水にして、何になさ
るつもりでしょう﹂
﹁何にするつもりか︱︱﹂
そういう二人の疑問は疑問とし
ひさが
て、さて、日下りにもなってみれ
ば、村人のために心配してやるよ
りは、差当り、自分たち二人の身
の上の今晩のこと、まだ日はやや
高しとも、いまの村あたりに宿を
つもり
求める心算で来たのだが、ああし
575
てこの村を無気味に通過してしま
の
えば、次の村まで伸さなければな
ひ だ
らぬ、次の村といっても、飛騨と、
越中と、加賀との山つづきだ、こ
れから先、どのくらい行って、ど
こに家があるのか、そのことはわ
からない。
五十
576
ねぐら
兵馬は今夜の塒について苦心経
営の思いをしているけれども、福
松はいっこう一寸先のことには気
つか
を遣っていない。かえって、それ
を痛快とするふうにさえ見えまし
た。この女は、最初から︱︱この
旅を無上に嬉しい旅路と心得て、
しょっちゅう浮き立って歩いてい
る。新婚旅行の旅とも思っていな
いだろうが、世を忍ぶ道行なんぞ
577
とは考えていないらしい。極めて
晴々しい顔色で、春の野原を心ゆ
の
くばかり羽を伸して舞いあるく胡
蝶のような足どりで、兵馬を導い
て行く気どり方だけはよくわかる。
名にし負う飛騨から越中への難
路などは全く打忘れて、前途のこ
とに屈托がないのみならず、この
旅路が一寸一刻も長かれかしと、
引っぱって行くような気分さえ見
578
えるのです。そうして事に触れ、
物に触れては、味な話を持ち出し
て、兵馬をからかったり、もたれ
かかったり︱︱兵馬にとっては、
この女の物語が、アラビアン・ナ
イトであったり、デカメロンであっ
せつな
たりする。その現在と刹那だけに
生きて楽しんで行けるこの女の足
もとを見ると、さてさて女という
ものは図々しいものだ、途方もな
579
い度胸のあるものだ、ということ
あき
を兵馬が、別方面から見て呆れざ
るを得なかったのです。
くだんの村を横断しきって、や
がて次の谷に至るべく峠路の上に
出た時、女はおきまりの、そこで
ホッと息をついて、同時に兵馬の
足を抑留する。しばらくして、
﹁この村がすっかり池になったら、
景色がよくなるでしょうね﹂
580
きた
と、しげしげと、いま越え来った
谷村一面を見おろして、女が言い
ますと、兵馬は、
﹁景色はよくなるかも知れないが、
人間はかわいそうだよ﹂
﹁そうねえ、谷がいっぱいに水に
なった日には、景色はよくなって
も、人間は生きて行かれませんね
え﹂
﹁それを思うと気の毒だよ﹂
581
﹁いよいよ池になる時は、あの人
たちはどうするでしょうね﹂
よ そ
﹁そりゃ、他所へ移り住むよりほ
かはあるまいじゃないか﹂
﹁いいえ、わたしは、そうは思い
ません﹂
﹁どう思う?﹂
﹁あの人たちは、この谷が水になっ
ても、この土地を去らないだろう
と思います﹂
582
﹁ホホウ、それじゃ水の中へ住む
か﹂
﹁ええ、わたしは、きっとあの人
たちは土地を去らないで、水の中
をすみかとするでしょうと思いま
す﹂
﹁してみると、舟でも浮べて水上
生活というのをでもやるか、そう
でなければ、人間が魚になるんだ
な﹂
583
﹁そんなんじゃありません、あの
人たちは、どうしても故郷を立去
る気になれないんです﹂
﹁そりゃ、人情はその通りだが、
すでに谷が水になるときまったら、
いつまでもああしてはいられまい﹂
﹁ところが、あの人たちは、あの
墓を抱いて、村と共に水に沈む覚
悟をきめてしまっているように、
わたしには見えてなりませんでし
584
た﹂
﹁ばかな、そんなことがあるもの
な ご
か、一時は名残りを惜しむのも人
情だが、いよいよの時にああして
おれるものかな﹂
﹁ところが、これはもちろん、わ
たしの心持だけなんですが、あの
人たちは、あれは、たしかにお墓
と心中するつもりなんですよ、心
かお
持は面つきにあらわれるものです﹂
585
﹁ふーむ、君の眼ではそう見えた
かな﹂
﹁見えましたとも、動きませんよ、
あの人たちは、ああして、いよい
よ水の来るまでお墓を離れない決
心だと、わたしは見極めてしまい
ました﹂
﹁そんなことがあるものか、一時
の哀惜と永久の利害とは、また別
問題だからな、そうしているうち
586
に、相当の換地が与えられて、第
二の故郷に移り住むにきまってい
るよ﹂
﹁それは駄目です、あなた﹂
﹁どうして﹂
﹁あなたという方には、故郷の観
念がお有りになりません﹂
﹁ないこともない﹂
﹁有りませんね、あなたは、早く
故郷というものを離れておいでに
587
なったのでしょう、ですから、故
郷というものの本当の味がおわか
りになりません。たとえ、故郷に
十倍のよい地面を与えられたから
といって、欲得ずくでは故郷を離
れる気になれるものではございま
せんよ。わたしのように、旅から
かせ
旅を稼いでいる身になってみると、
その心持がよくわかります。あの
人たちは、たとえどんな住みよい
588
土地が与えられたからと申しまし
ても、それへ行く気にはなれない
人たちですから、結局、お墓を抱
いて水の底に葬られて行くのです。
それにあなた、あの人たちは平家
おちうど
の落人の流れだというではありま
せんか﹂
五十一
589
おちうど
﹁平家の落人の流れだから、どう
したというのだ﹂
﹁そこですよ、あなた、平家は源
氏と違って、人情の一族だという
ことを御存じになりません?﹂
﹁うむ﹂
﹁平家は一族盛んな時には栄燿栄
華を極めましたけれど、亡びた時
は、一族みんな一緒でした、そこ
へ行くと源氏は、父を殺したり、
590
叔父を殺したり、兄弟が攻め合っ
たり、殺し合ったり﹂
﹁なるほどな﹂
﹁感心して聞いていらっしゃるわ
ね。あなたより、わたしの方が学
者なんです、耳学問が肥えていま
すから︱︱ところで、その平家の
一族は、源氏に追いつめられて、
もはや地上では生きられないから、
一族がみんな水の底に⋮⋮御存じ
591
でしょう?﹂
﹁知っている﹂
﹁平家というお家柄は、みんな、
そうした人情に厚いんです、です
から、あの人たちは、そう安々と、
立ちのき料をいくらいくらやるか
ら、ここよりも、ずっと住みよい
地面を十層倍も上げるから、と言っ
て聞かせたところで、このお墓の
地を離れて行く気には決してなれ
592
ないものと、わたしはあの時に見
て取ってしまいましたのよ﹂
﹁なるほどな、それも一理窟だ﹂
﹁いいえ、理窟じゃありません、
理窟から言えばわからない話じゃ
ありませんか、相当の立ちのき料
を上げて、相当の換地もやるから
立てと、地頭から言われた日には、
足もとの明るいうちに、なるたけ
たくさんのお宝と、利分のある土
593
地をもらって、移ってしまうのが
当世のわかった理窟なんでしょう、
ところで、あの人たちには、そう
いんねん
いう理窟が通用しないから因縁で
す、つまり、人情に生きて行こう
というものです﹂
﹁人情というよりも、歴史だな、
歴史に生きて行こうというのだな﹂
﹁何でもよろしうございます、わ
たしは、この人情ずくがよろしい
594
と思います﹂
﹁しかし、どのみち立ちのくもの
ぐ
であったら、がんばるのは愚だな﹂
﹁そりゃ、馬鹿ですね、ですけれ
ども、馬鹿がその人間の世からな
くなってしまったら、人間の世は
もうおしまいでしょう﹂
﹁どうして﹂
﹁どうしてたって、あなた、これ
はこの谷底のたれも知らない、ちっ
595
ぽけな村のことなんですけれども、
これを大きくとって見たらどう、
たとえば、いま申し上げた平家の
例にとって見たらどう、一族がみ
ま
んな水の底へ沈むようなばかな真
ね
似をしないで、源氏に降参すれば、
どこかの土地に安楽に生きて行か
れるとしても、それに降参して生
やまとだま
きたくないというところに、大和
しい
魂があるんじゃなくて?﹂
596
﹁大和魂と来たな﹂
﹁大和魂でなくってどうなの、も
から
し、もっと大きく、日本の国と唐
いくさ
の国と戦をしたとしてごらんなさ
い、唐の国がいくら強くて、日本
がたとえ敗けそうになった時でも、
この土地をよこせ、そうすればお
前にはもっと広い、住みよい土地
をやるから、足もとの明るいうち
に立ちのけと言われても、日本人
597
として、はい、それならばよい土
地と、立退料を、たんまり下さい、
そうすれば、どこへでも行きます、
というようになったら、もうおし
まいじゃないの﹂
おおぎょう
﹁それは少したとえが大仰だ﹂
﹁大仰だかなんだか存じませんが、
先祖の土地が立去れない、他国の
土地に移り住むよりは、先祖のお
墓を抱いて死にたいという、あの
598
人たちの心意気が、わたしは嬉し
いわ、それが大和魂というものじゃ
なくって?﹂
﹁いずれにしても、あの村の人た
みもの
ちの運命は見物だ、どうなること
か、わしも、旅でなければ見きわ
めて行きたい気持にさせられる﹂
兵馬は、この女から思わざる論
理を聞かされて、改めて谷村を見
おろし見直していると、女がまた
599
言う、
つるがみなと
﹁越前の敦賀港の沖へ乗り出すと、
すべ
大昔、地震のために辷り込んだ一
村が、そっくり、山も、森も、林
も、そのままで海の底に落着いて
いるそうですね、天気の大へんに
よい日、どうかすると舟の上から、
その村の家と、人が、そのまま沈
んで見えることがあるそうです。
幾年かの後、この村もそうなるん
600
ごしょう
でしょう、舟で渡る、後生のいい
すがた
人だけが、沈んだ村の相を舟の上
から水底に見る︱︱てなことにな
るんでしょう、お気の毒な運命で
すけれど、美しい大和魂が、わた
しは嬉しいわ﹂
女は、しきりに大和魂を述べ立
てるのが、兵馬にはおかしい。お
かしいけれども、どこにか笑えな
いものがある。
601
五十二
この山間では、谷一つ、村一つ
が、数百年の歴史と共に、水底に
没し去らんとして村人を悲しませ
ているが、他の一方では、一つの
ひあが
湖水が全部干上ってしまうという
臆説のために、人民が動揺をはじ
めました。
前のは、何を言うにも、飛騨の
602
山奥の谷底の一村、しかも、誰も
知らない村、たまたま知っている
者は、畜生谷なんぞと人外境のよ
はずか
うに呼びかけて辱しめている村、
全村あげて悲しむとも、それに同
情する者は、たまたま通りがかり
の宇津木兵馬と、連れの芸者の福
松ぐらいのものでありますが、一
方、湖水が干上るということの危
もと
惧の下に動揺をはじめたのは、そ
603
の事柄も、及ぼす影響も、無比の
ものでありました。
それは全く比較にはならない。
日本第一の大湖、近江の琵琶湖の
湖水が全く干上ってしまうという
風聞が捲き起って、湖上湖辺の人
心をおびえあがらせてしまってい
りゅうげんひご
るのです。たとえ流言蜚語にして
からが、そんなばかばかしい問題
が起るべきはずのものではない。
604
よし、また起ったにしたところで、
一笑に附し去るべき程度のものだ
と排斥するのは、歴史と、実際と、
人心の機微とを知らないものの言
うことでした。琵琶湖の水が干上っ
てしまうという風説の根拠には、
決して荒唐無稽ならぬ、かなり有
力なる根拠があるのですが、まず
いかよう
その前に、如何様に人心が動揺し
出したかという径路から略叙しな
605
ければならぬ。
さら
草津の辻の評判の晒しが、一夜
で消えてしまった以後、そのあと
へ豊臣太閤の木首が転がり込んだ
かお
その前後、大津の宿では道庵先生
・ ・ ・ ・
が、がんりきの百の面を逆さに撫
で上げようとする途端︱︱お角親
方は、伊太夫大尽の宿へ取って返
して、目的の晒しが消滅してしまっ
ちからこぶ
て、自分の力瘤も抜けてしまった
606
が、同時にその納まりが、どうなっ
ているかという心配の下に、相談
を進めている前後、青嵐居士と、
た け
不破の関守氏とが、多景の無人島
へ農奴を連れ込んで、弁信法師の
じょうぜつ へきえき
饒舌に辟易している前後のこと︱
︱でありました。
大津でも、草津でも、彦根でも、
民間が動揺して︱︱動揺は今には
じまったことではないが、それは
607
農民に限ったものでしたが、今度
は住民が、ことに客商売のものか
ら最も騒ぎ立ちました。
﹁お立ちでございますか、道中、
御大切に、お船で︱︱湖上へお出
ましがよろしうございましょう、
まことに恐れ入りますが暫時のと
ころ、どうぞ、お立退き、御避難
が願いたいものでございます、万
一のことがございましては、いえ
608
なに、エッソ、ゴウソだそうでご
・ ・ ・ ・ ・
ざいます、いえなに、ちょうさん
がこの国へ向って、山城、大和の
方から、なだれ込んで来るのだそ
うでございまして﹂
かくして、大津も、草津も、彦
根も、旅宿という旅宿の番頭が、
テンテコ舞をして、泊り泊りの客
人に挨拶をしてまいりました。
﹁何だね、どうしたんだね、急に﹂
609
﹁はい、エッソ、ゴウソだそうで
ございまして、まことにお気の毒
さまでございますが﹂
﹁エッソ、ゴウソというのは何だ
い﹂
・ ・ ・ ・ ・
﹁ええ、そのちょうさんが、今度
はこの国へなだれ込むんだそうで
ございまして、今までのは、この
・ ・ ・ ・ ・
国からちょうさんが他の国へ走ろ
うといたしたのでございましたが、
610
・ ・ ・
今度は山城、大和方面からちょう
・ ・
さんが、この国へ流れ込もうとい
いもあらい
うわけで、宇治、勢多、一口の方
まで参っているそうでございます
から、万一のお怪我がございまし
ては⋮⋮﹂
﹁そうかね、何だって、エッソ、
・ ・ ・ ・ ・
ゴウソや、ちょうさんなんぞが、
そんなに流れ込みやがるんだ﹂
・ ・
エッソ、ゴウソとは何だか、ちょ
611
・ ・ ・
うさんとは何を意味するか、促す
方も、促される方もその観念の明
瞭でないうちに、一方は追い立て
るように、一方は追い立てられる
ように、まず旅宿という旅宿から
警戒が起ってしまいました。
﹁実は、今に始まった風説ではご
ざいませんが、この琵琶湖の湖水
が干上ってしまうということで、
急に騒ぎが起りました。今までは
612
湖辺の百姓たちが、検地のことか
ら騒ぎ出しましたのでございます
が、今度はまるっきり趣が変って、
湖上の人たちが騒ぎ出しましたの
でございまして、舟稼業だの、漁
師だの、水によって生活する人た
ちが騒ぎ出したのでございます。
その騒ぎ出した原因と申しまする
のは、山城、大和の方から大挙し
・ ・ ・ ・ ・
てちょうさんがこちらへ向ってやっ
613
て来たという風聞から起り出した
のでございました。では山城、大
・ ・ ・ ・ ・
和の人たちが、なぜ、ちょうさん
してこちらへ向って大挙して来る
かと申しますると、琵琶湖が干上
か
ると共に、淀川の水が涸れてしまっ
て、何百万石かの田地が仕附かな
くなる、それがために天領、大津、
ぜ ぜ
彦根、膳所その他のお係りへ歎願
に参ったそうでございます﹂
614
はたご
旅籠の主人が、更に説明を加え
たところによって、事件の輪郭は
やや明瞭になったが、その内容に
至っては、また茫漠としてつかま
えどころがない。
五十三
琵琶湖の水が全部干上るという
じんしんきょうきょう
風聞は、いかに人心恟々たる幕末
615
たやす
の時代とはいえ、そう容易く末梢
神経を刺激すべきものではないは
ずなのが、この際、かくも人心を
騒がしているには、必ずしも根拠
がないとはいえない、否、大いに
これがあるのです。
琵琶湖の水を切り開いて、越前
の敦賀へ落すという計画は、必ず
しも空想ではなく、実現に近い可
能性があってのことで︱︱いや、
616
すでに実現に着手されようとした
ことも再々ある。
そもそも琵琶湖の水を越前の海
へ落すには、僅かに七里半の工事
で足りる。
僅かとは言うけれども、機械工
業の発達しない旧幕府時代に於て
は、空想に近いほどの大工事には
相違ないが、要するに距離は七里
もっぱ
半に過ぎないということが、専ら
617
湖上湖辺の常識となっている。こ
の七里半を切り開こうという計画
は、すでに徳川の初期、徳川幕府
以前にもあったかも知れないが、
徳川期に至って、少なくとも元禄、
享保、文政、嘉永、それから明治、
大正にまで及んで相当の歴史を持っ
ているのです。
ことに最近、嘉永年間に起った
のは、京都のある事業家が発起と
618
あさのなかつかさたいふ
なって、浅野中務大輔がさんかし、
いいかもんのかみ
彦根の井伊掃部頭と打合せをする
までになっていた。
ここで、かりにこの工事が実現
されてみるとして、湖上湖辺の民
いかん
に直接に影響するところは如何。
まず大阪と敦賀との間が、琵琶
湖を通じて一つの運河となろうと
いうのだから、通商貿易のために
は計るべからざる利ということに
619
なる。
それから、もう一つは、湖水の
水が浅くなるから、琵琶湖の東岸
に於て、少なくとも一億六千万坪
の良田が得られる︱︱
というような点が、掘割論者の
最も有力なる論拠となっている。
しかし、利益利権を挙げてもく
ろんでみたところ、工事となると
結局難工事である。僅かに七里半
620
とはいえ、天下の難工事であって、
おぼつか
当時の土木力では成功が覚束ない
という理由の下に、いつも中止の
運命となる。
だが、その中止の理由は表面の
ことで、裏面には次のような条件
そ し
が有力に働いて、阻止せしめたの
だともいう。
第一、琵琶湖の水というものは、
帝都守護の要害である。あれが浅
621
くなった日には、帝都の保障に由々
しき大事である︱︱という反対説。
それから、もう一つは、運河が
出来れば、当然、淀川本流の水が
減退する、そうなった日には、あ
の沿岸で生活している農民にとっ
ては生命線の大問題である、とい
よりより
うところから、寄々の農民の間に
反対運動が起った。
この二つが有力なる反対理由で
622
うんぬん
あって、難工事云々は中止の口実
に過ぎなかったという説がありま
す。
なお、このほかに、風光として
の琵琶湖を、ほとんど致命的に没
却せしめるという、保護形勝論者
も出てもよかりそうなものであっ
たが、それは出なかったらしい。
琵琶湖が独立した日本無双の形勝
地である資格から、一転して、単
623
に運河の一停船所に過ぎない地点
・ ・ ・
とされてしまった後のみじめさを、
しみじみと考えるほどの余裕はな
く、要害と、利害との点だけから
しか反対されていなかったらしい。
しかし、すべての風景も、抽象
も、国防︵要害︶と貿易のための
犠牲物としてのほか、存在価値が
認められなくなる時世が来れば、
いつかは実現せらるべきほどの可
624
能性はあり得る問題なのです。
それはさて置き、この際、右の
しょうどう
運河説が、人心を聳動したのです。
摂津、河内の農民は大挙して、そ
の風聞の実現せざらんことを、歎
願の名で湖辺の大名へ向って上申
のために上って来たという。一方
おの
また、湖水が干上るために、己が
生活権が脅威せらるるという湖上
の運輸業者と、漁民が動揺をはじ
625
めたのです。ところで、これより
以前、検地の不平のために団体運
たむろ
動を続けて、それぞれに屯して待
機している農民たちの同勢と合流
しない限りもあるまい。
すでに、それが合流した以上に
なると、その動揺の程度が、水陸
両面にわたって展開されることに
のが
なる、そうなっては逃れる道がな
はた
い。まず当面の安全のために、旅
626
ご
籠は旅客を処分して、一時応急の
避難をさせてからともかくも、と
いう段取りは、しかるべきもので
した。
五十四
暫くあって、人心が落着いてみ
ると、この風説には、右のような
根拠がないではなかったが、それ
627
もこの際、急速に実行につくとい
うような形跡は全くなく、且つま
た、摂河泉の農民が大挙して、切
割の中止歎願に来るというような
事実は、跡かたもない風説だとい
うことがよくわかりました。
のう
従って、昨今暴動の形跡ある農
みんいっき
民一揆と合流するなんぞというこ
とのおそれは、全く解消してしまっ
たし、農民連もまた、それを機会
628
に示威運動を盛り返そうというほ
どの熱心もなし、事実は、この時、
すでに農民運動は、表面的鎮静に
帰してしまったといってよろしい
状態に置かれてありました。
そこで、真先に警戒した街道筋
の人気から、まず鎮まって、暫く
の間に鎮静に帰したのですけれど
も、その風説の及ぼす波動という
ものは、一応、響くだけ響かない
629
と消えないものでして、大津、草
津、膳所、彦根の人心が落着いた
時分になって、長浜から北国筋が、
盛んにさわぎ出してまいりました。
ことに、この方面は、上述のよ
うな開拓が行われた日には、直接
に最も影響を受けることの多い土
地ですから、日本海の方へすんな
りと抜けてしまうまでには、風説
が根を持とうとしている。
630
まず湖上の運輸業者が、この風
説をしかと喰いとめ、それが漁民
・ ・ ・ ・
たちの思惑とがっしり結びついて、
彼等の面上には、いずれも生命線
とぴったりした不安の色が、みる
みる濃くなって行くこと争うべく
もない。岸と、舟とで、おのおの
とが
口を尖らせているところを聞いて
いると、
﹁越前へ、この湖を切割すれば、
631
湖水の水はみんな海へ落ちて、そ
しおみず
の代りに汐水が湖水へいっぱいに
なる﹂
﹁従って、淡水産の魚は見る間に
全滅するが、海の魚がモノになる
のも絶望だ﹂
﹁そこで、多年、湖水を唯一の生
命線として、一家を養っていた漁
業者というものが全滅する﹂
﹁それから、また一方、湖水を宇
632
治から山城大和の方にかけて切落
おびただ
してしまえば、その方へも夥しく
湖水の水は取られることになる。
従って、この琵琶湖というものは、
もはや独立した湖水としての存在
価値を失って、単に、北海から内
かわはば
海へかけての運河の一つの河幅と
して残されるに過ぎない﹂
﹁交通は盛んになるかも知れない
が、その時代には、もう我々の持っ
633
・ ・ ・
ているちょき舟では物の役に立つ
まい、諸大名はじめ、加賀や大阪
の豪商が、大船浮べて思うままに
乗切るにきまっている、そうする
と、従来の舟で湖上の交通をして
一家を経営していた運輸業者たる
我々は、当然全滅の脅威を待つば
かりだ﹂
﹁すでに湖水が、運河の一部とし
てしか存在の価値がなくなってし
634
まった時分には、八景めぐりの遊
覧客が跡を絶つ、その観光客で維
持していた我々の商売も上ったり
になる﹂
﹁しかしまた、運河としての一部
分の湖面だけを残して、あとの水
が干上ると、そこへ当然、何万石
かの田地が出来るには出来るだろ
う、だが、その田地は誰のものに
なる、それはみんな諸大名の御領
635
分か、または御用商人の手に利権
が落つるにきまっている﹂
﹁してみると、我々微弱なる湖上
きかい
しま
生活者は、全然、生活権を奪われ
てしまう﹂
え ぞ
﹁蝦夷の果てか、鬼界ヶ島へでも
追いやられるのが落ちだ﹂
りゅうげんひご
流言蜚語でもなんでも、それが
単に流言蜚語として、自分の生活
に直接影響をうけずにいる限りで
636
聞いている分には、小説を読むよ
うなもので、人はむしろ興味を持
てばといって、脅威を感じはしな
いが、ひとたびそれが、直接生命
線に触れて来るとなると、全く人
心を暗くする。
彼等はこれを、風説として受取
ることができない。今は風説の時
代であっても、やがては実行の時
代に入るのだ、と神経を働かせな
637
いわけにはゆかない。
なんどき
そこで、今晩何時、どの地点に
於て、相談があるから、船持と、
船で働く人は、すべて湖上のどの
地点に集まれという触れが廻った
ふ わ
た け
のは、あの雨のしとしとと降る晩、
せいらんこじ
青嵐居士と不破の関守氏とが多景
の島を訪れた翌々夜のことで、そ
の夜は月が湖上に晴れておりまし
た。
638
五十五
そういうわけでありまして、そ
の夜は、舟という舟がほとんど、
某の地点に向って集合しましたの
で、長浜の臨湖の一帯には、舟の
隻影もなく、別の世界に見るよう
な静寂な夜景でありました。
にこう
ところが二更の頃になって、か
の加藤清正の屋敷あとといわれる
639
浜屋の家の裏木戸があくと、そこ
はねばし
がすでに堀になっていて、刎橋が
上げてある、そこへ、静かに立ち
あらわれた物影がある。
島田に結い上げた女の子に手を
引かれて、刀を帯びた覆面の人が、
静かに木戸を出て来たかと思うと、
ほり
刎橋へはかからないで、濠へ向っ
て下りる切石畳の一段二段を踏み
ました。都合五段ある石段を下り
640
せんかん
つくすと、そこに潺湲と堀の水が
流れている。その上に一隻の小舟
がつながれている。
無言で少女に手を取られた覆面
の人は、やはり無言で舟の中へ導
かれると、手さぐりしてそこへ乗
り込み、
﹁よろしうございますか﹂
女の子は、ひそかに言葉をかけ
ると、覆面はうなずく。
641
﹁では﹂
と言って、男をさきに乗せて女の
子は、思い切って自分もその舟に
身をうつしてしまいますと共に、
へさき
舳先の方へ手をやって、形ばかり
た ぐ
つないであったともづなを手繰り
出しますと、最初にやっと舟へ身
をうつした覆面の男が、下り立つ
と、急にしゃんとした形になって、
さお
﹁棹を貸して下さい﹂
642
いったんともづなを手繰った手
を休めて、女の子は、舟の中に横
みなれざお
にねていた水馴棹をとって、無言
で男の手に持たせますと、男はそ
れを受取って身構えた形が、最初
とは見まごうばかりであります。
最初、女の子に手を引かれて裏木
戸から出て来た時は、病人ででも
あるらしい、たどたどしい足どり
でありましたが、すでに舟に身を
643
うつしてから、足を踏んで、棹を
とった時の形は出来ておりました。
﹁よろしい、綱をといて下さい﹂
と男が、この時また低い声で、は
じめて物を言いますと、女の子が、
﹁先生、大丈夫でございますか﹂
﹁もう、こっちのものだ、舟を出
しましょう﹂
﹁では、綱を引きますよ﹂
﹁よろしい﹂
644
そうして、小舟が、するすると
段の下を離れて動き出しました。
市中の濠のことですから、そう
広いというわけにいかない。それ
を巧みに調子を取って、水のまに
まに舟をやる腕前は相当に覚えの
あるものです。
その舟のさばき加減を見ると、
不安げに見まもっていた女の子は、
はじめてホッと安心したらしく、
645
ゆたん
立ち直って油単をかけて置いた台
のものをとると、そこに、お重が
あり、お銚子が待っている。この
舟出を予期して置いたものに相違
ない。
かくて、この小舟は、流水に任
せて、もはや眠りに落ちている町
の中を、ひそやかに下って行きま
した。下って行くにしても、その
行先は知れたもの。どの流れを行
646
こうとも、この辺の水は皆、集ま
るところを一つにしている。その
一つになって集まるところは、す
なわち琵琶湖の湖水以外のいずこ
でもありません。ですから、この
深夜、この異様な男女二人が落ち
行くさきだけはいっこう心配する
がものはありません。支那の文人
ならば当然、月白く、風清し、こ
いかん
の良夜を如何せん︱︱というとこ
647
ろなのでしょう。
右の小舟は一旦、町中に没しま
したが、ほどなく臨湖の岸の一角
に出でて下ると、湖面が、海の如
く広く眼前に開けて、月が町より
も高く、天心に澄んでいるのを見
ました。
﹁ああ、よいお月様!﹂
二人は、まさしく、この良夜を
もてあそ
堪え兼ねて、水と月とを弄ばんと
648
して、夜更けに忍んで風流の舟を
浮べたものに相違ないと思うが、
更に見ると、良夜があまりに良夜
過ぎる。男は動ぜずして水馴竿を
繰っているが、女の子は、﹁ああ、
よいお月様﹂と、まず天心の月に
向って讃美を試みたのですが、さ
はなは
て湖面に甚だ物足らないものがあ
る。波もない、風もない、満湖の
月を受けた水面は、金波銀波に思
649
うさま戯れの場を貸しているが、
それでなんだか、物足らないもの
があるような気分に堪えられない
で、女の子は、
﹁どうも、なんだか淋しいわ﹂
淋しいのはあたりまえである。
深夜の月と水とを楽しまんために
出て来たのだから、淋しいのが望
にぎ
むところでなければならぬ。賑や
かなところが欲しければ、ほかに
650
ところはあるだろう。
舟がない、人の住む町村の岸に
当然なければならぬ舟が、今晩に
限ってない。それが一種異様な淋
しい思いを増させているというこ
とが、ややあって後、女の子にも
わかりました。
五十六
651
さお
程よいところで、棹をとどめて、
うちくつろ
それから二人は打寛いで、充分に
この清夜を楽しむことになりまし
た。
さおぬし
覆面の棹主が竜之助であり、周
旋する女の子がお雪ちゃんである
ことは、申すまでもありません。
﹁先生、この辺は遠浅らしうござ
います、舟はこのままにして置い
て、おらくにおいで下さいませ﹂
652
と、お雪ちゃんに言われて竜之助
は、棹をさし置き、改めてその覆
かお
面を取ってみた竜之助の面は、以
前とさして変りはありません。
そうして、お雪ちゃんのすすめ
ざぶとん
る座蒲団の上に坐ると、その間に
お雪ちゃんは、重詰をあけ、銚子
を取り出して、御持参の酒肴を並
べ、
﹁お一つ、いかがでございます﹂
653
さかずき
と言って、盃をさし出したもので
す。竜之助はそれを軽く受取って、
﹁静かだね﹂
﹁全く静かでございますよ、今晩
はどうしたのか、舟がちっともお
りません﹂
﹁舟のない湖というものは、想像
してもすさまじい﹂
﹁火のない火鉢と同じように﹂
﹁だが、水入らずに楽しめてよい﹂
654
﹁その点は、気兼ねがなくってよ
ろしうございます、ほんとに、お
銀様には済みませんが、あなた様
すまい
の御不自由なお住居では、少しは
そとで
外出ということをなさいませんと﹂
﹁お雪ちゃんのおかげだ﹂
﹁わたしとしましても、おかげさ
まで気晴しができようというもの
でございます﹂
﹁そうさ、なにしろ拙者などは、
655
ただ
只でさえ不自由千万な身を、更に
監禁を申し渡されているんだから
やりきれない﹂
﹁どうして、お銀様という方は、
あなたをちょっとも外へお出しに
ならないのでしょうか﹂
﹁あぶないからなんだね﹂
﹁危ないと申しましても、子供で
はございません⋮⋮ホ、ホ、ホ、
失礼な言い方でございますが、わ
656
たしを、こちらへおよこしなさる
時も、時々、お前が介抱して外へ
お出しなさいとは、決しておっしゃ
いません、決して外出させないよ
うに、とばかりおっしゃいました﹂
﹁それを、お雪ちゃんによって救
われたことが嬉しい﹂
﹁でも先生、お銀様に対しては反
逆でございますね﹂
﹁は、は、は﹂
657
と竜之助は、快く盃を引き、お料
理を食べました。
﹁わたしも嬉しうございます、け
れども、あとが怖いのです﹂
﹁怖いことはないよ﹂
﹁叱られますもの﹂
﹁殺されるかも知れない﹂
﹁ほんとに、殺されてもかまいま
せん、わたしも覚悟の前でござい
ます﹂
658
﹁そんなことは考えないがよい。
ああ、久しぶりで酒がうまい、風
景は見えないけれども、気が浮い
てきた﹂
﹁狭いところにいるのと、広いと
ころへ出たのでは、ただそれだけ
でも人の心持が違って参ります、
白骨の山の中を出て、琵琶湖の舟
の中で、あなたとお月見をしよう
とは思いませんでした﹂
659
うま
﹁ああ、今晩の酒は久しぶりで旨
い﹂
かみがた
﹁この辺は、上方に近うございま
すから、お酒はよいそうでござい
ます﹂
﹁お雪ちゃん、冷えてはいけない
よ、湖の夜風に風邪をひかしては、
拙者が申しわけがない﹂
﹁たれに申しわけがないのでござ
います、もし、わたしに風邪をひ
660
かせたと致しますと、先生は、ど
なたに申しわけをなさるのですか﹂
﹁は、は、久しぶりにまたお雪ちゃ
んの論法がはじまり出した、誰に
申しわけということもないが、あ
たら若い娘に風邪をひかせては毒
だ﹂
﹁若い娘に限ったことではありま
せん、どなただって風邪をひいて
は毒でございます。先生、あなた
661
こそ、人の身のことなぞは御心配
なさらずに、御自分がお風邪を召
してはいけませんよ、あなたに風
邪をお引かせ申してごらんなさい、
それこそ、わたしが、お嬢様に申
しわけがございません、あなた、
これをかけていらっしゃい﹂
お雪ちゃんは、かねて用意の丹
前をとって、竜之助のうしろから
羽織らせる。
662
﹁飛騨の宮川で火事に逢った時も、
少しばかり、お雪ちゃんと船住ま
いをした覚えがある、あの時のせ
せこましい思いと違って、ほんと
に今晩は気が晴れる﹂
﹁そうでございましょうとも、高
山の宮川と、近江の琵琶湖では、
比較になりません﹂
﹁ああ、酒も旨いし、気も晴れる、
ほり
今晩はいい晩だな。濠を下って来
663
る間は、小面倒であったが、ここ
へ来て全く大海へ出た気持になっ
た﹂
と言って、竜之助は二はい三ばい
とひっかけるものですから、お雪
むしょう
ちゃんが無性に嬉しくなりました。
五十七
いちまつ
最初は、周囲の情景に一抹の淋
664
しさを感じたのが、ここに至って、
対人的にお雪ちゃんは、全く嬉し
くさせられてしまいました。
誰にしても、自分のもてなしが
人を喜ばすことを見れば、自らも
それを喜ばぬ人はない。特に、今
晩のお雪ちゃんは、相手の鬱屈を
見兼ねて、自分の独断で、外出禁
制の人を、こちらがそそのかして、
遊山に連れ出したようなものです
665
から、お雪ちゃんとしては、お銀
様を向うに廻しての一大冒険のよ
うなものでしたが、その冒険が功
を奏して、御当人をかくまで満足
せしめたかと思うと、そのことの
喜びで、すべてが忘れられてしまっ
て、この人を喜ばせ、自分も喜び
をわかつためには夜もすがら、遊
び明かしても悔いないというほど
の心持にさせられてしまいました。
666
﹁今まで、お酒がおいしいの、気
ばらしになったのとおっしゃった
ことのないあなたから、そうおっ
しゃられると、わたしは、もうこ
れより上の本望はございません。
ねえ、先生、今晩は、ここで夜明
けまででもかまいませんから、昔
話を致しましょうよ﹂
﹁望むところだよ﹂
﹁昔話と言ったって、そう古いこ
667
とではありません、白骨以来、ほ
んとうに落着いて、先生からお話
を伺う機会も与えられませんでし
たし、わたしもなかなかに機会に
恵まれませんでした。お目にかか
れないのではないのですが、お銀
様という方が背後にいらっしゃる
と思うと、わたしは怖くなって、
先生が、わたしの人じゃない、口
き
を利いては悪い他人のようにばっ
668
かり思われる心持になって、ほん
とに気が引けてなりませんでした
が、今晩はさらりと、わたしもそ
の心配が取れてしまいました。ね
え、先生、それから後の話をして
聞かせて下さいな﹂
﹁お雪ちゃん、お前から話してご
らんなさい﹂
﹁では、わたしから昔話をはじめ
ましょう。ねえ、先生、あなたと
669
わたしと二人は、どうして、信州
の白骨なんて、あんな山の奥へ行
かなければならなかったでしょう﹂
﹁病気保養のためだな﹂
﹁誰の病気保養のためなんでしょ
う﹂
﹁この眼だ︱︱﹂
﹁いいえ、そればっかりじゃあり
ません﹂
﹁では、ほかにも病人があったの
670
か﹂
﹁ありましたとも﹂
﹁それは誰で、何の病気だ﹂
﹁先生よりも、わたしの方が病人
だ、なんて言う人があるのですか
ら、いやになってしまいました﹂
﹁お雪ちゃんが病気、今宵も、そ
んなにぴんぴんしているお雪ちゃ
んが﹂
うわさ
﹁ええ、誰が、そんな噂をするの
671
ですか、わたし、ほんとうに怖い
ようですわ﹂
﹁どんな噂をしたんだね﹂
﹁ねえ、白骨の温泉へ行ったのは、
あなたのお眼の療治ということも、
目的の一つであったには相違ない
ですけれど、もう一つは、わたし
の病気を直したいためのかこつけ
だなんて、悪口を言う人があるそ
うですから、いやになってしまい
672
ますわ﹂
﹁お雪ちゃんに何の病気があっ
て?﹂
﹁何の病気って、先生⋮⋮きまり
が悪いわ﹂
かお
お雪ちゃんはポッと面を赤くし
ながら、
﹁そのころでも、わたしが、いち
ばんいやだと思ったのは、白骨に
いる時分、あのイヤなおばさんと
673
一緒にお湯に入っていますと、あ
のおばさんが不意に、わたしに向っ
て言ったことには、お雪ちゃん、
隠したって駄目よ、あなたの乳が、
こんなに黒くなっているじゃあり
ませんか、と言って、いきなりわ
たしの乳首をつかまえられた時で
した。あの時ほど、わたし、ぞっ
こん骨身にこたえて、いやな思い
をしたことはございません﹂
674
なるほど、その時はいやであっ
たろうが、今は、その現実感を通
り過ぎてしまって、いやな思い出
を、いやな気分なしで、多少の甘
え気分をさえ加えて、昔語りにし
て見せているほどのゆとりが出来
ている。
﹁それから、あのイヤなおばさん
が、なおいやなこと、それはいや
なことという程度を通り越して、
675
恐ろしいこと、怖いことを、わた
しに平気で言って聞かせてくれま
した︱︱それは、なあ、お雪ちゃ
ん、いやならば水にしておしまい
ま
なよ、かまわないから間びいてお
しまいなさい︱︱そんなことにク
ヨクヨするもんじゃありません、
でばな
水の出端なんだもの、わたしなん
ぞ若い時は⋮⋮と言ってイヤなお
ばさんがわたしにあの時、身ぶる
676
いするほどいやな話を、平気で話
してくれました。お話だけじゃな
いのです、わたしの手をとるよう
にして、ああしなさい、こうしな
さい、何を意気地のない、そんな
ことでどうします、わたしなんぞ
は⋮⋮わたしでなくったって、誰
だってすることなのよ、若い娘に
限ったことじゃないわ、後家さん
でも、人のおかみさんでも、一生
677
に一度や二度は誰だって⋮⋮お雪
ちゃん、うぶもいいけれども、度
胸を据える時には据えなければ駄
目ですよ、こうしてこうするんで
す、と言ってわたしの手をとって
⋮⋮わたしは、その話だけで、気
が遠くなってしまって人心地があ
りませんでした。イヤなおばさん
という人は、ああも度胸がある人、
今までにあんなことは朝飯前にやっ
678
てのけている人⋮⋮と思って震え
上ってしまいましたが、先生、そ
れは、昔の話でございます、今と
なっては、そんなことは、もう全
く気にかけないようになりました。
ほんとに、人間の心というものは
わがまま
我儘なものでございますねえ、今
では、わたしは、赤ちゃんが一人
くらいあってもいいと思いますの、
子供というものを手塩にかけて育
679
ててみたら、どんなに楽しいもの
でしょう、と思い出して、なんだ
か取返しのつかないような心持に
されてしまうことさえ時々あるの
ですね。お銀様が、こんど長浜へ
まるまげ
来たら、わたしに丸髷を結わせる
とおっしゃいました。あの方のおっ
しゃることは、私たちの頭では想
像もできませんけれど、もし、丸
髷にでも結って、こうして、この
680
間へ一人、小さいのを置いて、そ
うして、水入らずのお月見をした
ら、どんなに楽しいでしょう﹂
お雪ちゃんは、子供が甘い夢を
見るようにあこがれ出したが、竜
之助は動かない。久しぶりの酒の
香にうっとりして、我を忘れたも
のか、酒がこぼれて膝に落つるの
も知らないでいると、お雪ちゃん
がたまらなくなって、
681
﹁先生、わたしにばかり、言いた
いことを言わせて置いて、ひどい
わ、あなたも何とかおっしゃいよ﹂
かお
と言って、竜之助の面を見た時に、
﹁あっ!﹂
と言いました。無論、同時に自分
の面の色も変ったことでしょう。
さかずき
竜之助は盃を挙げたまま、蝋人形
のように白くなって動かない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
682
﹁先生、大変、いつのまにか舟が
沖の方へ向って流れ出しておりま
す﹂
ろうばい
お雪ちゃん一人が狼狽しきって、
みさお
立って水棹を手さぐりにして、か
よわい力で、ずいと水の中へ突き
入れてみますと、棹はそのままず
ぶずぶと水に没入して、手ごたえ
がありません。
舟は、いつしか遠浅の圏内を外
683
れて、棹の全く立たないところへ
来ている。
﹁あら、先生、どうしましょう、
棹が届かなくなりました﹂
﹁どれどれ﹂
竜之助は立って、塚原卜伝でも
するもののように、お雪ちゃんの
手から、棹を受取って、ずぶりと
差し込んでみたけれど、手ごたえ
がありません。
684
ぶぜん
憮然として、見えない眼で水の
上をながめている。
二人が月に興じている間に、舟
は、棹の立たないところへ来てし
まったのです。
舟が棹の立たないところへ来た
ろ
とすれば、櫓を用うるに越したこ
とはないが、この舟には出立から
かい
櫓も櫂も備えて置かなかった。備
えれば備うべきはずのものを、櫓
685
を用いないで済む程度のところ、
棹を以て用の足りる範囲のところ
で、浅く遊んで帰ろうとした予定
のところを、環境が別になったた
し
めに、身心ともに知らず識らず深
入りしているうちに、舟は独自の
漂流をはじめて、深いところへ来
てしまっている。
二人が狼狽したのも無理はあり
ません。
686
竜之助のさし置いた棹を、お雪
ちゃんが、取り上げて、またこち
らの水に入れてみたけれど、やっ
ぱり駄目でした。
お雪ちゃんは、焦って、棹をあ
ちらこちらへ入れてみたけれども、
そのいずれにしても手ごたえがあ
りません。
﹁先生、どちらもさおが立ちませ
ん﹂
687
悲観絶望した途端に、はっと竹
すべ
の棹が手を辷って、湖の中へ流れ
出してしまいました。
それを捉えんとする手はもう遅
い。
さお
﹁あら、あら、棹を取られてしま
いました﹂
もう泣き声に近かったのですが、
竜之助はそれを慰めるもののよう
に、
688
﹁棹を取られたのは仕方がない、
人間を取られてはいけません﹂
﹁わたしは大丈夫です﹂
とお雪ちゃんは、うわごとのよう
ひと
に言って、悠々と、あちらを独り
みなれざお
泳ぎをはじめている水馴棹の形を
見つめて、ぼんやりと立っていま
や け
したが、やがて、その面に、自暴
に似たような冷静さが取戻されて
来て、
689
﹁もう、どうにもなりません、流
れ放題⋮⋮﹂
五十八
かい
それからあとのお雪ちゃんは、
ろ
もう櫓にも櫂にも全く未練のない
人になりました。
落着いて、じっと漂う舟の行先
をわれと見つめて、うっとりした
690
ような形で、竜之助に背を見せて
おりました。
なめら
静かに、滑かに、うるおいなが
ら、湖面を音もなく、誰も押す人
もなく、さえぎる人もないままに、
ゆっくりと、心ゆくばかり漂い行
へさき
くわが舟の舳先を、われと見送っ
ているうちに、全くうっとりした
気持になって、右の手を後ろへ軽
くささえた時に、左の手は、いつ
691
か
のまにか振袖を掻き上げて、それ
で口を覆うておりました。この形
は、よそから見たら、消えも入り
たいような、恥かしさの形に見え
ますが、お雪ちゃんその人からい
うと、有心無心の境を過ぎて、わ
が行く舟の舳先にうっとりしてい
るばかりです。
そのうちに、天地は、磨ぎ水を
も こ
流したような模糊とした色で、いっ
692
ぱいに立てこめられました。月は
隠れたのではないが、この白色の
中に光が、まんべんなく溶け込ん
だものでしょう。舟は、進んでい
るのか、とどまっているのだか、
ちっともわかりませんが、漂うて
こうちゃく
はいるのです。膠着しているので
はない、浮かれ、うらぶれ、漂い
ながら、一つところのような湖面
に戯れているらしい。
693
そうして、やや長い時の間、お
雪ちゃんは感きわまって、
﹁死にたい、死にたい﹂
と、すすり泣きをしました。
﹁このまま死んでしまいたい﹂
﹁そんなに死にたいか﹂
﹁山の女王様に合わす面がござい
ませんもの⋮⋮夜が明けて、人目
さら
にかかって、町を晒されながら帰
るのが辛いんですもの⋮⋮助けら
694
れるのがいやなんですもの⋮⋮い
つまでも、いつまでも、こうして
お月見がしていたいんですもの⋮
⋮夜が明けなければいいのに⋮⋮
朝になって、人に面を見られるの
が辛い⋮⋮ああ、夜が明けなけれ
ばいい⋮⋮舟が動かなければいい
⋮⋮このまま、舟が、水の底へ、
水の底へと、静かに沈んで行って
しまってくれたらなおいい⋮⋮こ
695
のまま、死んでしまいたい⋮⋮先
生、あなたも死んで下さらない、
このまま、この湖の中で溶けて死
んでしまいたい﹂
と、かぶりを振りながら、お雪ちゃ
んが言いました。
お雪ちゃんは、せっかくの髪を
乱して、泣きながら、
﹁ねえ、先生、あなたも死んで下
さらない、このさき生きていたっ
696
て、つまらないじゃありませんか。
苦しまないで死ねるのは、今晩の
ような晩だけです、楽しんで死ね
るのは、こういう晩でなければご
ざいません、二人に死ねと言って
さお
棹が奪われたのです。ねえ、あな
た、本当に死んで下さらない、一
生のうち、喜んで死ねる日が幾度
ありましょう︱︱こういう時に死
ななければ、死ぬ時はございませ
697
ん﹂
お雪ちゃんは、昂奮して言いま
した。
﹁ねえ、あなた、御返事がないの
は、御承知なんですか。死ぬなら
綺麗に死にたいものです、綺麗に
死ぬには、死骸をだれにも見せな
いに限ります、竹生島に近いとこ
ろは、水が深いそうです、金輪際
というところまで底が届いている
698
そうです、同じことなら、そこで
死にたい、そうして永久に死骸が、
この世の波の上へは現われて来な
いところで死にたい。あなた、そ
の水の深さを測って頂戴、そこで
死にたい﹂
とお雪ちゃんが、むつかりました。
﹁このまま人に助けられて、後ろ
指をさされるのは、わたし死ぬよ
りも辛い、そうかといって、へた
699
なきがら
ごう
に死んで亡骸を二度と世間の業に
さらすのは、なおいやだ︱︱死ぬ
からだ
んなら、魂も、身体も、二度とこ
の世へ戻って来ないようなところ
で死にたい⋮⋮﹂
五十九
す
度胸を据えたお雪ちゃんの態度
は、驚くばかり冷静になり、その
700
はなは
言語もまた甚だ雄弁になりました。
﹁ねえ、先生、あなたのお眼も、
なお
それだけ丹精して癒らなければ、
もう癒りませんよ、あきらめた方
がよろしいです。よしんば癒った
にしたところで、また同じ世界を、
同じ眼で見直さなければならない
としたら、いっそ、苦痛じゃあり
ませんか、一度で済んだ思いを、
二度しなけりゃならぬというのは
701
因果でございましょう、癒らない
ものとおあきらめなさいませ。そ
うして、全くお眼が見えないもの
ときまったら、生きていたって仕
方がないでしょう、不自由な思い
をして、人のお世話になりながら
生きていたって、つまらないじゃ
ありませんか、ここらで一生涯の
見切りをつけて、これからまた出
直してごらんになってはいかがで
702
す⋮⋮わたしだって、どうして今
日まで生きていたのだか、何のた
めに生かされていたのか、ちっと
もわかりは致しませんわ。山の女
王様のように、すべてに力が張り
きって、自分の思うように、この
世の中を征服して行こうという意
地があるならば格別、そうでもな
いわたしなんぞ、有っても無くて
もいい存在なんです、いくら生き
703
たからとて、ただ繰返すだけのも
のなんです、本当に快く死ねそう
な時、死ねると思う時に死ぬのが
勝ちです⋮⋮そうして、この生涯
を改めて出直した方が賢いのじゃ
ないか知ら﹂
すらすらとお雪ちゃんは、問い
つ、答えつしましたが、相手の納
得と否とには少しも頓着なしに、
﹁ですけれども、あらためて出直
704
すということにも考えなくちゃな
りません、罪の深いものは次の世
では一層悪く出直すよりほかに道
がないとすれば、おたがいに、現
在よりもっと悪い道を出直さなけ
ればならないとしたら、出直すこ
とさえ考えものですね。先生、あ
なたは生れかわって来るとしたら、
来世は何になって、この世へ出た
おぼしめ
いと思召します⋮⋮﹂
705
と問いかけてみたが、相手は返答
がない。また返答を予期してもい
ないから、お雪ちゃんのひとり舞
台ではない、独り演説に過ぎない。
﹁わたしは、もう二度とこの世へ
は生れて来ないことにきめました、
どんなよい身分のところにも生れ
て来たくはありません、全く浮ば
れないところへ沈んでしまいたい
ごう
のです。けれども、業というもの
706
が尽きないで、来世もまた、何か
の形を取ってこの世へ生れ変って
来なければならないとすれば、わ
たしは何を選びましょう︱︱美し
い花になりましょうか、きれいな
鳥になりましょうか。それもこれ
もいやです。花は、しぼんだり、
枯れたりするのを見るのがいじら
しい。鳥だって、生きたり、死ん
だり、追われたりしますもの。と
707
き
いって、木や石になって、口も利
けないで、踏んだり、蹴られたり
するのもいやですね︱︱わたしは、
自分の名の通り、来世は雪になり
ましょう、雪となってなら、生れ
変って再びこの世へ出てもよいと
思います。雪も北国の雪のように、
何尺も、何丈も、つもって溶けな
いような、しつこいのは嫌です、
あわゆき
朝降って、昼は消える淡雪︱︱降っ
708
ているうちは綺麗で、積るという
ことをしないうちに、いつ消えた
ともなく消えてしまう、春さきに
この湖の中などへ、しんしんと降
り込んで落ちたところが即ち消え
たところ、あの未練執着のない可
愛ゆい淡雪︱︱あれならば生れ変っ
ふたたび
ても損はない。どうしても二度こ
の世へ生れ変って来なければなら
ないとしたら、わたしは、春ふる
709
雪となって、またお目にかかるこ
とに致します﹂
六十
舟は、やっぱり、進むともなく、
退くともなく、水の上に漂うてい
も こ
る。あたりは模糊として、磨ぎ水
のような水気が流れている。
お雪ちゃんその人が本来のロマ
710
ンチストであるのに、この時は、
前に言う通り、全く度胸がすわっ
て、恐怖と、心配ということから
全く解放されて、いよいよ驚くべ
き大胆と、明瞭との気分になって
行くのです。
﹁ああ、すっかりいい気持になり
ました、帰ることを思えば、船の
足が心配になりますけれど、もう
帰らないと心を決めてみますと、
711
船なんぞは、進もうとも、退こう
とも、浮ぼうとも、沈もうとも、
少しも心配になりません。また引
返して閉じこもる夜のあることを
思えば、お月見の気晴しも結構で
すけれども、もう今晩しか夜がな
いと思えば、お月様なんぞ、有っ
ても無くても、美しいとも、悲し
いとも思いはしません。明日とい
な ご
う日があればこそ、今晩に名残り
712
がないでもございませんが、こう
と心持がきまってしまえば、明日
というものに未練がございません。
死ぬということは愉快なものでご
ざいますね、わたし、今までに、
今晩のただ今のように、心持の晴々
したことはございません、先生、
わたしが踊れるなら踊って上げた
い、歌えるなら歌って上げたい、
この上、なんでも御所望して下さ
713
い、おっしゃる通り、なんでも思
い切って、あなたのためにして上
げるわ。ですけれども、わたしは、
歌う人でもなし、踊れる人でもな
いことがうらみなんです。ああ、
死にたい、死にたい、こんなに愉
快に死ねる晩は、一生に二度はあ
るものではございません、先生、
早くわたしを死ねるようにして下
さい﹂
714
す
猫がまたたびに身を摺りつける
みも
ように、お雪ちゃんは船ばたに身
だ
悶えをしました。
その時に、模糊として磨ぎ水の
ようになっている水面の霧の中を
漂って、ほんとに微かに物の音が
動いたと言って、変態に昂奮する
心と、異常に澄みきった神経のお
雪ちゃんが、耳を引立てました。
﹁あ、あなた、鐘が、鐘が鳴りま
715
した﹂
今まで雄弁であった口を沈黙せ
しめて、しきりに耳を引立てたけ
れども、鐘の音なるものはもう聞
えない。
﹁今のは、たしかに鐘の音でした。
鐘の音が聞えたとすれば、もう陸
が近いのです、陸でなければ島で
しょう、竹生島へ近づいたのかも
知れません、そうでなければ、あ
716
あ、そうそう、先生、今のはきっ
と三井寺の鐘なんでしょう、三井
寺の鐘に違いありません、七景は
霧にかくれて三井の鐘って、どな
たかの発句にありました、ここは
琵琶の湖の中に違いありませんか
ら、聞える鐘も三井寺の鐘なんで
す、鐘の音も多いうちに、三井寺
の鐘の音を聞いて死ぬなんて、ほ
んとに今晩は何から何まで死ぬよ
717
うに出来ている晩なんです、早く
死にましょう、夜の明けないうち
な ご
に⋮⋮この世も名残り、夜も名残
はら
り、死にに行く身をたとうれば、
あだ
仇しヶ原の道の霜、一足ずつに消
えて行く、夢の夢こそ哀れなれ⋮
⋮あの文章の気分も、今晩という
今晩は、すっかりわかりました、
じょうるり
あんな浄瑠璃の中の人たちのよう
せっぱ
に、切羽つまったやる瀬のない気
718
持でなく、本当にこんなに愉快を
尽して死ねるのです、わたしは幸
さ
福です、この気分の醒めないうち
に、死ねるようにして下さい⋮⋮
ねえ、あなた、こんなもの取って
おしまいなさい、取って海へ投げ
込んでおしまいなさい﹂
お雪ちゃんは物狂わしくさせら
れて、竜之助の腰の脇差を、思い
じゃけん
きって邪慳に虐待してみましたが、
719
﹁でなければ、この刀で、わたし
を一思いに⋮⋮﹂
死を誘惑する器であると見直し
こわ
てみると、怖いものまでが無上に
可愛ゆくなる。
﹁ほんとうに、水で死ねなければ、
この刀で⋮⋮これで、あなたの手
にかかって死にたい﹂
六十一
720
﹁刀は男の魂だから、虐待しては
いけない﹂
と、この時はじめて竜之助が、物
狂わしいお雪ちゃんを言葉でたし
なめました。けれども今晩のお雪
ちゃんは、そんなことで聞き入れ
るお雪ちゃんではありません。
﹁今となって、男の魂もないでしょ
う︱︱こんなもの、海へおっぽり
投げておしまいなさい﹂
721
差していた脇差を邪慳に虐待し
たお雪ちゃんは、今度は傍らにさ
し置かれた長いのへ手をかけると、
それをも邪慳に引ったくって、船
べりから湖水へ向けて、まさに投
げこみまじき仕草に及びました。
﹁それは勘弁してくれ、それはま
だ捨てられない品だ﹂
と竜之助は、片手を殺していなが
ら、片手をのべて、お雪ちゃんの
722
こじり
手から、刀の鐺をとって、おさえ
てしまいました。
﹁そうでしょう、これは、あなた
にとって大切なかたみなんですか
らね、姉さんの心づくしでいただ
いた新刀第一、堀河の国広なんで
すから、これは惜しいでしょうよ﹂
け
と言うお雪ちゃんの言葉は、今晩
もの
に限って、たしかに物の怪にとり
つかれているに相違ないほど、た
723
かぶったかんの物言いぶりです。
﹁よく、覚えているねえ﹂
と、子供をあやなすように竜之助
が感心すると、
﹁覚えていなくってどうするもの
ですか、その刀ゆえに、姉さんは
殺されたのです、そうして、わた
しもまた⋮⋮﹂
﹁飛んでもないことを言う、いつ
どこで拙者がお雪ちゃんの姉さん
724
を殺しました﹂
こうしんづか
﹁江戸に近い巣鴨の庚申塚という
ところで、わたしの姉さんが、あ
なたに刺し殺されたということを
夢に見ました﹂
﹁それはヒドい、夢に見たことを
まことのように、なすりつけるの
はヒドい﹂
﹁何がヒドいことがあるものです
か、姉さんばかりじゃない、いつ
725
か一度、わたしもその刀で殺され
るんじゃないかと、あの時から覚
悟をきめていました、わたしだっ
て、あなたがごらんになっている
ほど子供じゃありません﹂
﹁あの時とは⋮⋮﹂
﹁存じません、存じません、弁信
さんに聞いてごらんなさい、あな
たは弁信さんを斬りそこねたから、
わたしを斬ったのです、いいえ、
726
弁信さんの身代りに、いつかわた
しが殺される時があるでしょうと、
あの時から覚悟をきめていると申
し上げているんです﹂
﹁夢と、まことと、一緒にするの
みならず、自分の頭で考えている
ことと、これから後の出来事とを、
みんなごっちゃにしたがる、お雪
ちゃんの悪い癖だ﹂
﹁でも大抵は後の出来事が、みん
727
な最初思った通りになって行くん
ですもの。あなたは、いつぞやおっ
しゃいました、この長い方は人を
斬る刀で、短いのは物を刺す脇差
だ、人がましいものはこれで斬る
が、女子供はこれで刺す︱︱脇差
で斬るのは畜生か、人間並みに数
えられないものに限る、と、わた
しに教えて下すったことがござい
ました。わたしなんぞは、とても、
728
この長い刀で斬られるほどのねう
ちのある人間ではございませんか
ら、この短い方で結構なんでござ
います﹂
と言って、お雪ちゃんは、今更の
ほう
ように、今まで投げるの抛るのと
言った長い刀を、竜之助の手に戻
して置いて、また腰にさした脇差
の方にとりついたものです。
﹁わたしなんぞは、とても人間並
729
みに扱っていただけないんですか
ら、この短いので、斬るなり、刺
すなり、突くなり、存分になぶり
殺しにしていただきましょう。あ
じ
あ、焦れったい、こうしているう
ちに夜が明けたら、どうしましょ
なんどき
う。いったい、何刻なんでしょう、
たった今、鐘の音が一つ聞えたばっ
かりで、あとは聞えません、七ツ
の時が六ツ鳴りて⋮⋮七ツにも、
730
六ツにも、ここでは、さっぱりわ
かりません。まあ、さっきからこ
んな暗くなっているのが、今わか
りました、霧の中でむせ返ってい
たお月様が、今度はほんとうに山
の中へ落ちてしまったんでしょう、
真暗くなりました。いつまでも、
いつまでも、この通り真暗で夜が
明けなければいいのだけれども、
この世にいる限り、暮れない日と
731
いうものはなく、明けない夜とい
うものもございません、こうして
いるうち時が経てば、きっと夜が
明けます、夜が明ければ、わたし
たちは生恥をさらさなければなり
ません、そのくらいなら、いっそ
⋮⋮あなたが殺して下さらなけれ
ば、わたしの手で死にます︱︱﹂
お雪ちゃんの昂奮は、まさしく
狂乱の域に入って、竜之助に武者
732
ぶりつきましたのを、竜之助は片
手で軽くあしらって、
﹁死にたければ、水へ入らずとも、
刃物を用いずとも、いくらでも死
に方はあるのだ﹂
﹁どんな仕方でもよろしうござい
ます、早く死にたい、早く死なし
て下さい﹂
﹁では、こういうふうにして﹂
片手を殺している竜之助は、一
733
えんぴ
方の猿臂をのべて、お雪ちゃんの
背後から、咽喉部へぐっと廻して
締めるしかたをする。
﹁あ!﹂
﹁それごらん、苦しいだろう、い
よいよとなると死ぬのはいやだろ
う﹂
﹁いいえ、そうじゃございません、
不意でしたから、少しあわてたま
でです、もう驚きません、ですけ
734
れども先生、殺して下さるなら、
なるべく苦しませないようにして
殺して下さい﹂
﹁では⋮⋮こうして、静かに、そ
ろそろと﹂
﹁そうして下さるうちに、息がつ
まって来るのですか﹂
﹁そうだ︱︱苦しいといっても一
思いだ﹂
﹁一思いに、苦しませないでね﹂
735
﹁よしよし﹂
﹁あ、切ない﹂
﹁まだ締めやしない﹂
﹁でも、先生、こうして確かに殺
して下さるんですね﹂
﹁お前が、あんまり死にたがるか
ら﹂
なまごろ
﹁生殺し⋮⋮また息を吹き返して、
二重の生恥をさらすようなことは
ございますまいね﹂
736
﹁殺す以上は、そんな未練な殺し
方はしない﹂
﹁あなたは、そういう仕方で、前
に人を殺した経験がお有りなさい
ますか﹂
﹁あるかどうか知らないが、お前
の知っている限りで、あの飛騨の
高山のイヤなおばさんとやらが、
この手で死んだ﹂
﹁エ﹂
737
﹁この手で誰かに締められて、そ
ななしぬま
のまま無名沼の底に沈んだ、別段、
苦しがる暇もなく、安らかに、無
名沼の底へ落ちて行ったが、あの
婆様も、まさか殺されるとは思っ
ていなかったろう。それと違って
今晩は、殺される当人が死ぬほど
所望だし、無名沼より有名な琵琶
しにば
湖の真中だから、死栄えがあるだ
ろう﹂
738
﹁エ、先生、何ですって?﹂
﹁まあ、死ぬときまったら黙って
⋮⋮﹂
﹁いえ、あの、未練ではございま
せんが、もう一言﹂
﹁いや、死ぬときまったら、だまっ
て死ぬがよい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
お雪ちゃんは、何か言おうとし
き
たけれども、もう口が利けません、
739
はげ
五体を劇しくわななかせて、死に
もがくように見えましたが、その
力はもう及びませんでした。
六十二
目的の成否にかかわらず、三日
ことづて
以内には一応、船へ戻ると言伝を
していた田山白雲は、早くも二日
ひょうぜん
目の晩に飄然として立戻って来ま
740
した。
まず驚喜したのは清澄の茂太郎
でしたけれども、再応失望せしめ
たのは、七兵衛親爺を、いずれの
ところからも同行して来た形跡の
ないということでした。
つまり、一石二鳥のうちの、マ
ドロスという一鳥は見事に打ち落
して、掘出し物の柳田平治を目附
として首尾よくこの船へ送りつけ
741
て来てはあるが、七兵衛の行方に
はなは
至っては、甚だ手ごたえがないと
いうことの報告を聞いてみると、
一同が且つは喜び、且つは憂えも
したものですが、それらに頓着が
なく、ほとんど、田山の帰ること
を待ち切れるか待ち切れないかの
呼吸で、その夜のうちに、駒井の
無名丸が月ノ浦を立ち出でてしまっ
たのです。
742
大体に於て、こういう手筈では
なかったのですが、こうもあわた
だしい船出をしてしまったのは、
何か別にさし迫った事情というも
のがなければなるまいと思われま
す。
それはさて置き、船はグングン
松島湾をあとにして、早くも大海
原へと乗り出してしまいました。
いずれへ行く目的かはわからない
743
にしても、その針路の向うところ
によって見ると、北を指している。
その夜、波も風も至って穏かで
す。正面きって海図をながめてい
る駒井甚三郎に向って、田山白雲
らいらく
は、室の一隅の長椅子に寝そべる
きょく
ように巨躯を横たえて、磊落な会
話を投げかけている︱︱
﹁駒井さん、さいぜん、あのウス
とく
ノロの奴の運転ぶりを篤と視察し
744
て来ましたよ、奴、神妙に運転に
従事しつつ、ことに拙者の姿を見
ると、ふるえ上って、固くなって
むし
働いていることが寧ろおかしい。
にら
あらゆる生活に於て、およそ睨み
おびただ
のきかないこと夥しい我輩も、あ
にがて
いつにばっかりは苦手と見えて、
拙者の前では、手も足も出ない。
だが、ひとたび船の機関をいじら
せると手に入ったものです。あい
745
つは、たしかに蒸気船の機関手と
しては有数な腕前を持っていると
認められます、拙者には、船のこ
とは何もわからんが、その態度、
調子、呼吸によって、あいつが蒸
気船の機関方に熟しきっているの
を見て取りましたよ。あのウスノ
ロも、その職務に於ては非凡だ、
人間というやつは、どこかに、何
か一つは取柄を持っている、ウス
746
ノロも、あの一能のために、暫く
存在を許されている﹂
か
白雲が、マドロスに就いて、噛
んで吐き出すような上げ下ろしを
かお
試むると、浮かぬ面をしている駒
井も、
﹁そうです︱︱あれがいなければ、
こう滑らかに船を出すことはでき
ません﹂
かゆ
﹁痛し痒しですねえ。ああいう奴
747
は、厳重な刑罰を加えて、目に物
見せて置かなければならぬ奴です
が、暫くその罪を不問の形で、船
の進退を托してやるのは、遺憾と
言うべきだが、功を以て罪をつぐ
なわせる政策も、時にとっての応
用です﹂
﹁他に人がない、人を捨てれば船
すた
が廃るという場合、創業の時代に
は得てしてそういう経験は有り勝
748
ちだが、最後までそれであっては
なるまい﹂
﹁無論、あんなのはおっぽり出し
ても、代りがあるということでな
けりゃならん。だが、人を作ると
いうのは一朝一夕にできないです、
貴殿にしても、学問の上からは、
あらゆる船の学者だが、実地操縦
のことは、一朝一夕というわけに
はいくまい、拙者の如きも、筆を
749
持たせれば、相当なことはするけ
れども、船をあずけられては手も
足も出ない、その他、乗組の連中、
この点に於ては、世界をまたにか
けているあのマドロスには逆立ち
してもかなわない。しかし、技能
は技能として、船の風紀は風紀の
問題です、船の統制上、その風紀
びんらん
を紊乱した奴を、安閑としてその
ままには置かれないのは当然です、
750
拙者に於ても帰来早々、断然たる
放逐処分を貴君に進言するつもり
で意気込んで戻って来たのですが、
あいつの操縦の腕を見ると、不覚
千万にもその意気込みが少々鈍っ
てきたのです。どうです、駒井船
長、むしろこの際、眼をつぶって、
あいつをゆるしてやって、新たに
任務を励行させるようにしたら﹂
﹁拙者にとっては、許すも許さん
751
もないが、船の乗組全体が、あれ
に対して、一人も好意を持ってお
らんのです、毛唐のくせに、日本
の女を自由にして、誰はばからず
痴態を演じている、それを朝夕見
聞して、他の乗組が不平を鳴らす
のは無理もない。船長として、船
の風紀の上から、あのままにして
置くことはできない、それをしな
いでいると、拙者の威信問題より
752
も、あいつの一命があぶない、早
晩、多数から私刑を受けて、海中
へ投げ込まれるくらいのことは、
目前に起り兼ねないのだ︱︱船が
宮古へ着いた上で、相当の断罪が
行われなければなるまい﹂
﹁それは、そうなければならぬこ
と︱︱だが、彼を失ってこの船が
動きますか﹂
﹁本来、期待していなかった人間
753
だから、彼なしといえども、やれ
なければならない性質の我々の船
なのです、何とか動かないはずは
ないと思っている﹂
六十三
駒井船長の答えに満足せぬ田山
白雲は、
﹁それはいささか心細い、本来、
754
すのさきかいがん
洲崎海岸を出るにしてからが、事
態に迫られて出たので、準備完了
して出たわけではない、昨今、月
ノ浦を出たのも同様なのだ、この
辺で、未熟な機関方の手にかかっ
て、魚の骨をのどへひっかけたよ
うな醜態を演じては、世間の物笑
いのみならず、一船全体の生命問
題になるでしょう﹂
﹁それはわかっている、我々と従
755
来の手勢でも、やってやれない限
りはない、絶望というほどではな
い。やってやれない限りはないと
思っているが⋮⋮﹂
ま ね
﹁しかし、あのウスノロの真似は
できませんな、あのウスノロがや
る通り、この通り滑らかに船を運
用することは到底不可能でしょう。
あいつならば、どんな悪天であろ
うとも、インド、アメリカの果て
756
までも平気で乗り切るだけの腕を
持ってるが、残念ながら諸君では、
世界はおろか、日本の領海でも、
まだ全く心許ないと遠慮のないと
ころ、拙者は想像している。もと
より、船中の統制と風儀は、それ
以上の問題であることは、拙者に
於てもわかりきっているが、そこ
のところをひとつ、何とかうまく
調節ができませんかね、今時はや
757
そうこく
る公武合体とか、相剋の緩和とい
うやつで︱︱どうです、駒井さん、
断然あいつを許してしまってやら
せたらどうですか、徹底的に﹂
﹁断然許すとは、どういう名分に
よってですか﹂
﹁つまり問題は、ただ一つの性の
問題に帰着するんですな、そのほ
かに、あいつは、深いたくらみや、
慾望を持てるほどの奴ではないの
758
いんぽんむすめ
です、そこで、あの淫奔娘を、あ
なたの仲人の下に、あいつと結婚
させてしまったらどんなものでしょ
う﹂
﹁そうすると、私通淫奔を是認し
た上に、その結婚を成功させてや
る、罰すべきを罰せずして、これ
に自由と放縦を与える、という結
果になりはせぬか﹂
﹁いや、そうでないです、今まで
759
の罪は罪として、船長に代って拙
きっと
者がひとつ、屹度いましめてみま
しょう、しかる後、彼を正式に結
婚の形式を取らしめ、心を入れ替
えて職務の励精を誓わせる︱︱と
いう段取りは不自然でないと思わ
れるですが﹂
﹁いやしかし、この乗組にも他に
若い者がいる、彼一人が細君携帯
で、いや、もう少し立入ると、そ
760
の細君そのものが、果して細君た
る検束力ありや否や︱︱﹂
﹁ふーん、あの娘の貞操の保証が
できませんか﹂
﹁そうです﹂
﹁そいつは困ったな﹂
珍しく、この場では、田山白雲
が最初から妥協的に出でている。
厳重な刑罰を意気込んで来た白雲
の心持が一転して、船の活用のた
761
めに、どうかして、あのウスノロ
の存在を取持ってやりたいことに
苦心をしている。その特赦の名分
を見つけ出すことに苦心をしてやっ
ているが、結局、それも思うよう
にゆかない。罪は憎いし、人は惜
しい。白雲はしきりに当惑してい
るが、当惑の点より言えば、当の
船長たる駒井は、それに幾倍の上
を行っているはず、或いはまた、
762
現に相当の断案を持っているのか、
さのみ困惑の色を見せないで、
﹁この問題はただ、一人一箇だけ
の問題ではないのだ、我等のため
に、目下の一つの試験問題である
と共に、将来、我々の団体のため
に、身を以て解決して置かなけれ
ばならない問題だから、深く考え
て、強く実行して置かなければな
らない﹂
763
﹁いかにもそうです。そうして、
駒井さん、あなたの腹の中では、
もうその解決の道がついているの
ですか﹂
﹁まだ断案までには至っていない
のですが、二つの道はたしかにあ
ります﹂
﹁それは?﹂
﹁単にこの一事件のためではない、
我々の社会に、今後必ず繰返して
764
起り来る︱︱我々というよりも、
むしろ人間生活全体にいつまでも
起って、いつまでも解決しきれな
い問題の一つの残骸として、その
根本的な手段と方法を、研究的に
調べて置きたいという拙者の念願
は、今日に始まったことではない
のです︱︱田山さん、ごらんなさ
い、私は洲崎時代から、この通り、
研究論文を作りつつあるのですよ﹂
765
と言って駒井甚三郎は、書架の上
から、かなり部厚な草稿を取って
田山白雲の眼の前に示しました。
六十四
駒井甚三郎は、田山白雲の前に
じゅんじゅん
一冊の草稿を提示して、諄々とし
て語りました︱︱
﹁日本も、王朝以前は、今日から
766
見れば乱倫と称せらるべき道徳が、
ヨーロッパ
公然と行われました。欧羅巴では
今日、宗教の関係で、表面は一夫
一婦ということが厳重に守られて
いるけれど、内面は必ずしもそう
ではない、一夫一婦道徳に対する
事実上の反逆者は、その法王をは
じめ、数多いことらしい、理論上
の反逆者も、拙者が知っているだ
けでも少ない数ではないのです﹂
767
﹁なるほど︱︱毛唐は、表面なか
なかやかましく言うが、裏面はヒ
ドいそうです﹂
﹁表裏の反覆するのは、西洋に限っ
たことはない、到るところにある
のです、偽善というよりは、むし
ろ人間の通有性、弱点と見た方が
いいでしょう。その弱点を覆うの
に、或いはそれを向上せしむるの
に、道徳を用うるということにも
768
なるのですが、その道徳に異論が
ヤ ソ
出て来る。現に、耶蘇の教えで、
表面一夫一婦に統制されている西
洋にも、プラトーというようなエ
ライ学者は公然、婦人の共有を唱
えているのですからな﹂
﹁婦人の共有と言いますと⋮⋮つ
まり、一夫一婦宗教なんという垣
を取払って、そうして、人妻に我
も恋せめ、我が妻に人も言い寄れ、
769
ということになるのですか﹂
﹁妻というものを認めないで、婦
人は男子の共有ということになる、
反面から言えば、婦人側から言え
ば、婦人はまた男子を共有すると
いうことにもなるのです﹂
﹁そうすると、女はみな女郎なん
ですな、同時に男もみな男郎︱︱
男郎というのもおかしなもんだが、
そんな乱暴な説を唱える学者があ
770
るのですか﹂
﹁それは理論で、もとより実行で
はありませんが、その理論から出
立して、いろいろの是々非々があ
るようです、物質の共有はよろし
いが、婦人の共有はよろしくない
という説⋮⋮﹂
﹁それはそうでしょう、現にこの
船なぞも、駒井氏の私有とはいう
ものの、事実は志を同じうする人
771
の共有といったような性質を帯び
ているに相違ないが、人間をこれ
と同様に扱って、誰でも乗れる︱
︱ということになったら大変だ﹂
きわ
﹁しかし、理論を究める学者連の
勝手に言わせると、物も、人も、
結局たいした差別はないことにな
る、あちらには昔から、ユトピア
という言葉があるのです、いま言っ
たプラトーという人が言い出した
772
言葉で、つまり、新しい国を造る
ということなのです、今までの国
家には、いずれにも、今までの歴
史と習慣というものがあって、本
当に理想の生活を営むことができ
ない、そういう伝統の絶無な社会
を想像して、それをユトピア国と
名づけ、こうもしたら人間が楽に
生活ができるか、ああもしたら人
間がよく治まるかと、それを空想
773
に托して書いたものです。そうい
たぐい
う類の書物が西洋にはたくさんあ
むそ
るのです、日本の馬琴が書いた夢
うびょうえ
想兵衛のような幼稚なものではな
い、空想とはいえ、なかなかしっ
かりした根拠を以て書いているが、
日本だと、ああいう議論をする書
物は、さし当り絶版ものでしょう、
ことに最近は︱︱仙台の林子平や、
三州の渡辺崋山あたりでさえ、あ
774
の通りやられるのだから。しかし、
西洋はそこへ行くと、国柄が違う
から、言論が自由です︱︱そうい
うのを読んでみると、奇抜に驚か
されもするが、なかなか感心する
のもある﹂
﹁なるほど、現実には到底できな
い相談を、小説に書いてみると、
書く方も、読む方も、共に愉快で
罪がないというのでしょう、貴君
775
はそこへ行くとペロが自由だから、
何でも人の知らない書物が読める、
うらや
羨ましいです﹂
と白雲が、駒井のペロの出来るこ
とを羨ましがっているのは、今日
に始まったことではない。ペロと
いうのは、西洋語ということで、
白雲の専用慣用語なのですが、駒
井は、
﹁実際、空想だけではつまらない
776
が、そこに科学的の根拠があると、
我々には面白いのです、移して以
て、実現せしめてみようという気
にもなりますからな﹂
﹁そうそう、あなたのは確かにそ
の実行力を持っていらっしゃる、
この船で無人国土をたずねて、理
想楽土を打立ててやってみようと
いうことが、他人には途方もない
空想だが、あなたには目前の実行
777
ですからな﹂
しき
﹁とにかく、そういう書物を頻り
にこのごろは読み出しています、
こうなると、書物がもっと欲しい
です、江戸にいた時、必要以上に
買いためて置いたのが、今では大
いに助かりますが、それでも不足
を感じつつあります、理想の国土
へも着いてみたいが、大いに書物
の買えるところへも行ってみたい
778
です﹂
﹁そりゃ矛盾だ、本が自由に買え
る国に、人間の自由なぞはありゃ
しないでしょう﹂
いっかつ
と、田山が突発的に一喝したのが、
駒井をして考えさせました。
﹁面白い断定です、書物の自由に
買えるところに、人間の自由はな
い、そりゃ実に面白い警句ですね、
田山さん﹂
779
﹁そんなに感心なさるほどの名文
句でしたかね﹂
﹁名文句ですとも、それを少し言
葉を換えて言いますと、言論の自
由な国に、人間の自由はない︱︱
ということになります﹂
﹁左様に訂正なさっても、あえて
異議はございません︱︱﹂
﹁全く矛盾です、この矛盾が現在
の事実だから、いよいよ変なもの
780
です、言論の自由、言論の自由と、
人は母の乳でも欲しがるように叫
びますけれど、言論が自由になれ
ばなるほど、人間の自由は奪われ
る、実に、皮肉な、悲哀な、人間
世界の一面です﹂
﹁そうですかなあ﹂
﹁そうですとも、もっと卑近にう
つしてごらんなさい、思う存分、
物を言ったり、書けたりする人間
781
に、多くの幸福が与えられますか、
けもの
言語を持たない空の鳥や、野の獣
の方が、遥かに人間より自由であ
り、幸福ではありませんかね﹂
﹁そう理窟ぜめにされると︱︱
ちょっと迷いますな、何が自由で、
何が幸福だか、人間は人間、鳥は
鳥、獣は獣ですから、人間に鳥獣
の心持がわからないように、鳥獣
にも人間の心持はわかりません、
782
要するに自由というのは、したい
ざんまい
三昧をすることが自由で、幸福と
いうのは、欲しいものが何でも享
楽ができるということくらいに、
片づけて置くよりほかはないでは
ないですか﹂
田山白雲は放胆的に言いました
けれど、駒井は一概にそれをうけ
がいませんでした。
783
六十五
﹁田山さん、したい三昧するのが
自由で、欲しいと思うものが何で
も享楽できるのが幸福だというの
は一方論で、全体的には成り立ち
ませんよ、成り立たないのみなら
ず、したい三昧と、享楽主義は、
二人以上の社会になると、衝突し、
破壊されてしまいます﹂
784
﹁わからないです、我々の頭では、
そういう先から先のことはわから
ないです、そういうことで、あな
た ち う
たと太刀打ちするだけの素養が、
拙者にはないです、承るだけにし
ましょう﹂
﹁こういうことを言っている人が
あるのです、つまり男女の関係と
いうもの、性慾のこととか、結婚
とかいうものはです、これは本来、
785
人間が快楽をするために存するの
ふ
ではない、役に立つ人間を殖やし
て、その国土をよくするためにす
ることだ、だから、悪い子供を産
むのはいけない、産ませるのはい
けない、肉体も、精神も、これな
らという人間だけに限って結婚を
させ、子供を産ませる︱︱その他
の人間には、結婚して子を産むこ
とを許さない﹂
786
はなはだ
しん
﹁そりゃ、甚しく乱暴ですね、秦
しこう
の始皇といえども、そういう乱暴
はしませんでした、出来のいい奴
にだけ女をあてがって、ドンドン
子を産ませる、出来の悪い奴には
女にさわらせない、女の方から言っ
ても同じことになるでしょう︱︱
いい女だけに男をあてがって、醜
女はくたばれ︱︱これじゃあ、乱
いっき
暴ですよ、一揆暴動が起りますぜ、
787
日本醜男同盟なんというのが起っ
て、美醜の男女が相乱れて闘う︱
︱階級闘争︱︱じゃない、容貌戦
争が起りますぜ、笑いごとじゃあ
りません﹂
﹁ところが田山さん、それらの学
者の説はそう乱暴なものじゃない
のです、この書物がそれなのです
がね﹂
と言って、駒井は自分の草稿はさ
788
し置き、卓上の洋書を一冊とって、
白雲に表紙だけを見せますと、そ
の表紙に大きく太陽が金で打ち出
つづ
︱︱ケム
してある。白雲が覚束なくその綴
りを拾い読みして、
﹁Campanera
ペーネーラですか﹂
﹁この書物は、これを書いた人が
やはり無人島を一つ求めて、理想
の国家を作るという空想を書いて
789
あるのです、人間の生殖というも
のは、色慾だの、享楽だのが目的
のものではない、最も国家のため
になる、最もよき人間を生み出す
ことである、そこで、男女関係の
ために一つの役所を設ける、そう
して、肉体及び精神ともに申し分
のない男女だけが子供を生むこと
を許される﹂
﹁そうなると、やっぱり、肉体及
790
び精神が適合しない男は、指をく
わえて見ていなければならない﹂
うまずめ
﹁そういう男には石女︱︱すなわ
ち子を生まない女とか、或いは現
に妊娠している女を授けるという
例外になっている﹂
﹁これはまた、少し驚きました。
石女、うまずめですな、石女の認
定をどうしてするか、ということ
はさて置き、現に妊娠中の女を授
791
ける︱︱衛生上はとにかくとして、
それでは妊娠させた男が承知しま
すまい、そうなると夫婦関係など
というものは無茶です﹂
﹁夫婦関係などは本位でなく、た
だ国家のためになる丈夫な子供を
ひよわ
産み、為めにならない脾弱な子供
を産ませないようにする、という
ことが原則になるのです﹂
﹁そうですか、まあ、空想として、
792
理窟としてなら、何と言ってもさ
しつかえないはずです、事実上は
問題になりません﹂
﹁それから男子は二十一歳、女子
は十九歳から、皆の性交が許され
るのです、そうして二十七歳まで
童貞を守っていることは名誉とし
て表彰される︱︱しかしまた一方
性交年齢に達しないうち、どうし
ても性慾に堪えられない早熟者は、
793
そっとその旨を、かねて定めてあ
ばあ
る媼さんなり、役人なり、或いは
医者なりに向って申し出ると、そ
れらの人が、かねて選定してある
石女、あるいは、すでに妊娠中の
女を提供してその満足に供する︱
ない
︱それから、前に申した十九歳乃
し
至二十一歳以上、身体、精神とも
に健全で、産児の有資格者には、
どうきん
一週二回だけ同衾が許されて、そ
794
もくよく
の際には男女ともに沐浴して、
﹃すこやかにして美しき子を与え
たまえ﹄と神に祈らなければなら
ぬ、そうして婦人の寝室には胎教
のために⋮⋮﹂
﹁まあ、お待ち下さい、そうする
と、要するに、男女の夫婦関係と
いうものは認めないで、健康と、
精神の資格さえあれば、相手かま
わずに、入りかわり立ちかわり性
795
交を許すということになるのです
な。驚くべきだ、乱暴だ、乱婚だ、
不倫至極だ﹂
﹁いや、我々が現在の夫婦関係だ
けを標準とするから、いかにも乱
婚不倫に見えるので、この書物全
体の見方から言えば、そう一概に
は言えないのです、そういう趣意
に於ての婦人の共有は、官能や、
淫乱の故ではない、肉慾に動かさ
796
れずして、道徳的国家統制の下に
行われるのだから、少しも不合理
ではなく、不道徳でもないと断言
しています﹂
﹁なおくわしく、その理論の細か
い点をうかがわないと、そういう
ことは、いくら学者の議論にした
ところが、一概には承服でき兼ね
ます、一概どころではない、本来、
へきろん
一も二もなく排斥さるべき僻論で
797
すよ︱︱﹂
﹁しかし、実際問題として⋮⋮﹂
駒井がなお、何とか附け加えよ
うとする時、にわかに、今までス
ムースな船の進行に異状が起りま
した。同時に船が、左右へ三つ四
つ揺れたかと見ると、ただならぬ
物音が、上甲板の一部に於て起っ
たことがわかります。
798
六十六
甲板上にあたって何か相当の異
変がある、物すごい格闘でも起り
つつある、そういう気配を感じた
ものですから、田山白雲は会議の
途中で、船長室を飛び出して見ま
したが、来て見ると、なんとなく
穏かならぬ気配は残っているが、
事件はいち早く消滅してしまって
799
かた
いる。簡単に形がついてしまった
きた
のか、そうでなければ白雲来ると
くら
見て、風を喰って姿を消したのか、
そのことはわかりませんが、白雲
てい
は拍子抜けの体で、いささか茫然
自失していると、頭の上で突然に
声が起りました。
それは、メイン・マストの上で、
清澄の茂太郎が高らかに呼びかけ
ている、
800
﹁田山先生、田山先生、よいとこ
ろへおいで下さいました、只今こ
の下で大騒動が起りました﹂
﹁何だ、どうしたのだ﹂
﹁一人の女を、三人の男が争って
いたのです﹂
﹁ナニ﹂
﹁田山先生、あたいは最初からこ
の柱に上っていたのですから、見
るつもりもなく、一切を見届けま
801
てんまつ
した、その顛末をお話ししようと
思います﹂
き
﹁巧者ぶりな口を利かずに、真直
ぐに言ってみろ、いったいどうし
たというのだ﹂
﹁では、真直ぐに、見たままを言っ
てしまいましょう、だが、恥かし
いなあ﹂
﹁何だ、何が恥かしい﹂
﹁だって、見たままを率直に言え
802
る場合と、言えない場合とがあり
ますもの﹂
﹁相変らず生意気な言葉づかいだ﹂
﹁見たままを率直に言えないから
といって、それが必ずしも不正直
だとは言えない場合があります﹂
﹁何でもよいから正直に言え﹂
白雲は、マストの直下まで来て、
柱上の茂太郎を見上げたが、同時
に、ただいま物音のけたたましかっ
803
たと覚える、そのあたりを見直し
ろうぜき
たけれども、多少の物品が狼藉の
余波をとどめているように見て見
よ
られないことはないが、それも夜
め
目のことで、何とつかまえどころ
があるわけではない。
茂太郎は、いつもに似ず歯切れ
くち
の悪い返答ぶりで、それ以上は口
ごも
籠って言わんとしないのであるが、
田山白雲はその間から何物かを感
804
得したもののように、しばらく、
な ご
荒涼たる名残りのそのあたりの動
静を視察し、それ以上に、茂太郎
の答を追求することをやめて、さっ
さと急ぎ足に甲板から船腹の中へ
下りて行って見ました。
まず機関室へ行って見ると、マ
かお
ドロスが抜からぬ面で機関を扱っ
ている。
﹁タヤマ先生﹂
805
この男が、何者よりも白雲を苦
手としていることは申すまでもな
い。船長に対して特に敬意を表せ
ざる場合、時として反抗心を持ち
得る場合にも、白雲に対しては一
も二もない、むしろ求めざるに迎
合して、その甘心を得て置きたい
ふぜい
風情がある。
﹁マドロス君、君は、今、甲板へ
出たかね﹂
806
﹁いいえ、のぼらないです﹂
﹁よく職場につとめていたか﹂
﹁ええ、この通り、よくつとめて
いたです﹂
﹁そうか﹂
それ以上に白雲は追究しないで、
一通り室内を注視しただけで出て
行ってしまいましたが、次に訪れ
たのは、兵部の娘の寝室でありま
した。
807
﹁御免なさいよ﹂
返事がない。二度目に、
﹁寝ていますか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
まだ返事がない。中から応答は
なくとも、当然、船の舎監である
べき田山白雲は、適当の用意を以
て、そっとドアを外から押してみ
ました。
つ
ランプが点いている。その下の
808
寝台の上に、女が一人、うつぷし
に泣いている。すすり泣きをして
いる。髪も、衣裳も、乱れに乱れ
ている。
﹁もゆるさん﹂
いっこう返事はないが、すすり
泣きしていることによって、寝入っ
ているのでないことがよくわかる。
白雲はそれより以上には立入らな
いで、その女の荒い呼吸をじっと
809
こちらから見つめているばかりで
したが、暫くして、黙ってそこを
出て行きました。
女の寝室を出てから、白雲が戻っ
て来たのは自分の部屋で、そこで
外出用のランタンをつけ、それを
さ
提げて、改めて船内の見廻りにか
かったのです。この人は、船の中
での警視総監を買っている。いや、
買わなくても、船長以外に於て、
810
当然その役目を引受けなければな
らないのは、この人の立場であり
ました。
そのランプを提げて、いちいち
の船室を見舞いますと、ある者は
よく熟睡しているが、ある者は眼
さ
を醒ましていて、
﹁御苦労さまでございます﹂
と挨拶をする。かくて房州から来
た船大工、これは相当の年輩。機
811
関手見習の若い者二人が寝ている
ところへ来て、
﹁君︱︱君﹂
と白雲が呼び立ててみたが、二人
はよくそこに寝ているが、醒めて
答えようとしない。白雲はそれが
たぬきねい
当然狸寝入りだということを知り、
同時にその入口から、脱ぎ捨てた
ぞうり
草履の狼藉ぶりを見て、前の室に
すすり泣きしていた女の、寝乱れ
812
し
を思い合わせないわけにはゆかな
い。
いら
しかし、答えのないものを、強
いて叩き起すような振舞をせずし
て、白雲はそのまま取って返して、
ランタンを振り照らしつつ、前の
メーン・マストの下まで再び検分
の気持で来て見ると、茂太郎は早
くも帆柱から下りて、白雲を待っ
ているもののように、そこに立っ
813
ています︱︱
六十七
田山白雲は、茂太郎には無言で、
ランタンをそこらあたりに振り照
らして、狼藉の行われたらしいマ
くま
ストの下あたりを隈なく照らして
見たが、
あ あ
﹁嗚呼︱︱﹂
814
と、白雲に似合わしからぬ深い歎
息をして、
﹁茂︱︱﹂
﹁はい﹂
ほうき
﹁お前、御苦労だが、箒を持って
来て、ここをすっかり掃いてくれ﹂
﹁はい﹂
﹁ゴミは一切かまわず、海の中へ
投げ込んでしまえ﹂
﹁はい﹂
815
清澄の茂太郎は、片手には相変
はんにゃ
らず般若の面を抱えて、白雲から
言いつけられた通り、一隅から小
箒を持って来て、そこらあたりを
な
撫ではじめました。
暫くは、無気味に、そこらあた
りを掃き清めているうちに、茂太
郎はようやく気がかわったと共に、
﹁田山先生﹂
﹁何だ﹂
816
﹁なんだか、いやですね﹂
﹁何がいやだ﹂
﹁なんだか、空気がいやですね﹂
なま
﹁生を言うなよ﹂
﹁あたい、どうも気が晴れない﹂
﹁茂︱︱お前は、あれからずっと
この帆柱の上にいたのか﹂
﹁あれから、といって、どれから
だか、先生御存じ?﹂
﹁いや、かなり長い時間の間、そ
817
の上にいて、下の有様を一切、見
廻していたのだな﹂
﹁ええ、あたい、宵のうちからこ
こへ上りました、けれども、多く
は空を見ていたんです、下ばかり
見廻していたんじゃありません。
そのうちに、下を見なければなら
ないようになったから⋮⋮﹂
﹁うむ、お前の眼は遠目も利くが、
夜目も利くはずだな﹂
818
﹁ええ、見え過ぎるほど見えるこ
とがあって、実は困るんです﹂
﹁人並すぐれた眼のはたらきを持っ
ていて、困るということはあるま
い﹂
﹁困ることがあります、見たいも
のが見える時はいいが、見なくて
よいものを見てしまわなければな
らない時は⋮⋮﹂
茂太郎はこう言いながら、広い
819
ほうき
甲板を縦横に箒で撫で廻している
うちに、歌となりました。
とめのお地蔵様
つんぼで、めくら
いくら拝んでも
聞きゃしない︱︱
これは無意味なるイントロダク
ションに過ぎない︱︱
ハウイットの説によると
オーストラリヤ内地の土人は
820
めと
できるだけ多数の妻を娶るが
これはただ性慾関係ばかりで
なく
生活の必要から来ている
なぜといえば
夫は独身の青年に
おの
己が妻を貸し与え
そうして報酬を取って
己が財産を殖やすことを
するからである
821
とが
それを田山白雲が聞き咎めて、
﹁茂、何だ、それは﹂
﹁わかりません﹂
と言って、箒を扱いながら、箒の
方はお留守になり、
ヴォルテールや
シオペンハウエルや
その他の多くの学者の
説によると
多妻を好むのは
822
人類の本能である
そうです
と、演説口調になったかと思うと、
急に会話体に砕けて来て、
いや、人類ばかりじゃないで
す
おじか
若い牡鹿は自分の力で
できる限り多くの雌を
手に入れるまで闘い
他に自分よりも有力な
823
敵が現われて来るまで
その多数の雌を
独占しているのだそうです
こう言ったかと思うと、また言
葉をひるがえして、一種の高調と
なり、
モハメットは
十一人の妻を持っておりまし
た
彼は最もはじめに、富める主
824
家の後家さんに
愛され且つ愛しました
その後家さんは
モハメットよりも年上で
モハメットは彼女の雇男で
らくだ
彼女のために駱駝を
お
逐っておりました
その女主人の名を
ハデジャと申しました
とても二人は愛し合ったので
825
す
女主人と雇男とが
ですから
その女主人と愛し合っている
うちは
モハメットは
決して他の女をば見立てませ
んでした
本来
モハメットは、若い時分は
826
からだ
身体が丈夫で
そうして品行が正しかったの
です
女主人と愛し合ってからも
その女主人が存命中は
決してほかの女を愛しません
でした
あっけ
白雲は呆気に取られて、それを
すき
見ていたが、調子の隙を見て、
﹁茂、そんなことをどこで覚えた﹂
827
﹁駒井先生の机の上に書いてあり
ました﹂
﹁え︱︱﹂
あき
白雲は呆れながらも、駒井がこ
のごろ研究の結果をノートしてい
る、それを早くも隙見をしたか、
或いは伝え聞いたらしいこの怪少
はん
年が、ここでほとんど無意識に反
すう
芻を試み出そうとしているのだと
いうことをさとりました。そうし
828
て、いよいよ油断も隙もならない
ということを、金品や、性慾の上
だけではない、単に知識というも
のだけでも、不用意にその辺へぶ
ちまけて置くものではない、とい
うことをさとらざるを得ませんで
した。
六十八
829
それにも頓着することなしに、
ハズミのついた清澄の茂太郎は、
箒をカセにして、掃きながら歌い、
歌いながら足踏みをはじめ出しま
した。
ウエスター・マークの
言うところによると
インド
印度のある国では
四人五人の男の兄弟があって
その総領が年頃になって
830
めと
お嫁さんを娶ると
次の弟が年頃になると
そのお嫁さんがまたその人の
妻になる
その次の弟が年頃になると
またその弟の妻になる
そういう順序で
一人のお嫁さんが
六人の男の妻となっている
そういう風俗があるそうです
831
またシーザアが
古代ブリトン人に就いて
言った言葉の中に
彼等は十人か十二人の夫
ことにそれが兄弟同士
または親子同士で
一人の妻を共有にしている
と書いてあるそうです
高らかに歌ったかと思うと、急
そりみ
に反身になって、
832
一夫多妻の国では
一妻多夫を野蛮だと申します
一妻多夫の国の女は
一人の女が一人の夫しか持て
ない
そんな不自由な国には
住みたくないというそうです
土地のならわしで
道徳上から一概にかれこれ言
えないと
833
駒井先生が
お松さんに向って
話しているのを
わたしは聞きました
あ あ
嗚呼、こうなってみると、この
少年がこの船にいる限り、研究的
の話もできない。駒井甚三郎は何
かの拍子に、研究室に秘書をつと
めることのあるお松に向って、ふ
と、こんなことを話したのを、い
834
つのまにか、この敏感な少年に立
ち聞きされてしまったらしい。た
だ単に立ち聞きされただけで、こ
はんすう
う大びらに反芻宣伝されてしまっ
すき
ては、全く油断も隙もあったもの
ではない。
あき
田山白雲は呆れるばかりでした
けれども、言うだけは言わせて、
歌うだけ歌わせることによって、
相当の暗示が与えられないことも
835
ない。話せと言っては話さないこ
と、白状せよと改まって詰問する
と、テコでも唇を開かないことを、
本人自発のいい気持で歌わせると、
ペラペラと外へ出してしまう。そ
の点もあるから、白雲は舌を捲き
ながら、その即興を乱さないよう
にしていると、つづいて散文から
詩となり、でたらめが即ち知識と
なって続々飛び出して来ます︱︱
836
マルコポーロの
旅日記というのを
見ると
やっぱり多数の男が
一人の細君を共有していると
ころが
多いそうです
一人の女が
多くの夫を持つという習わし
は
837
たいていは
その国の女が少ないか
そうでなければ
や
地味の痩せた
生活が苦しい国にあるそうで
その必要に迫られて
そうなるのだそうです
ですから
この国の風習を以て
直ちにかの国の風習を
838
不道徳なり
非文明なり
非人道なり
野蛮なり
ときめることは当りません
土地と
人口と
歴史と
習慣とがさせる業で⋮⋮
いよいよ出でて、何というコマ
839
シャクレた言い方であろう。白雲
は化け物の歌を聞いているような
妖味にさえ襲われて、なお黙って
聞いていると、急に散文朗読体が、
演説口調に変って、
さて皆さん
これを現在
わたしたちが
一王国となして
乗込んでいる
840
この無名丸の社会と
引きくらべてみたら
どうでしょう
実際問題ですよ
御承知の通り
この船には
男が多くて女が少ないです
男は美男子の駒井船長をはじ
め
豪傑の田山白雲先生
841
豪傑の卵の柳田平治君
だらしのないマドロス君
房州から来た船頭の松吉さん
同じく清八さん
同じく九一さん
月ノ浦から乗込んだ平太郎大
工さん
同じく松兵衛さん
漁師の徳蔵さん
それから、今はいないが、い
842
つかこの船に帰って来るはず
の
何の商売だかわからない七兵
衛おやじ
それに、若君の登さん
キンツイくん
つんぼの金椎君
さて、しんがりに
かく申す清澄の茂太郎も
これで男の端くれなんです
かく数えてみますると
843
この無名丸の中には
男と名のつく者が
都合十三人
それなのに女というものは
登さんのばあやさん
お松さん
それからもゆるさん
その三人きりなんです
十三人の男に
三人の女︱︱
844
もし駒井船長が
理想の、人のいない島を求め
て
そこに一王国を作るとしたら
いま申す
世界のドコかの国と同じよう
な
女が不足の国になります
そうなりますと
女を奪い合わない限り
845
その割りふりがむずかしい
実際こんなむずかしいことは
ない
マドロス君だけが
もゆるのお嬢さん一人を占有
して
それでいいと誰が言います
ですから
駒井船長の考えはエライけれ
ども
846
早晩この間に
もんちゃくが起らなければ
起らないのが不思議です
いや、不思議ではない
もう起っているのです
それは誰々だと申しませんが
マドロス君一人が
いい気になっている
ねら
それを覘っているものが
たしかにこの船には二人以上
847
あるのです
わたしは
それを何とも言えない
マドロス君だけが
もゆるのお嬢さん一人を
誘惑してそれでいいと
誰が言います
早晩
はげしい争闘が必ず起ります
いや、もうすでに起りつつあ
848
るのです
白雲は、それを聞いた時に、こ
の辺で発言禁止をしなければなら
ないと感じて、
﹁茂、もうでたらめをやめろ!﹂
六十九
﹁茂、もういいからキャビンへ行っ
て寝てしまえ﹂
849
田山白雲は、茂太郎を甲板の下
くま
へ押しやって、自分は、なお隈な
く上層を検分して、また船室の方
へ下って行き、お松の室の前を通
も
りかかると、中から燈光が漏れる。
﹁お松さん、まだ寝ませんか﹂
﹁はい﹂
立派に起きて仕事をしているよ
うな緊張味のある返事です。ドア
を少し開いて、
850
﹁まだ御勉強ですな﹂
﹁いいえ︱︱少しばかり﹂
卓子に向って、お松は今まで一
心不乱に物を書いていたらしい。
物を書くというのは、何か原稿を
けいし
書いていたらしい。卓子の上には
うずだか
堆く何枚もの罫紙が積まれている。
﹁何です、何をお書きなさる﹂
﹁船長様に言いつけられた写しも
のをしております﹂
851
﹁その写し物は何です﹂
と、白雲は少々押しを強めてみま
すと、
﹁いいえ、何かあちらの御本にあ
ることを翻訳なさいまして⋮⋮﹂
とお松の、要領を得たような、得
ないような返答を、白雲はナゼか、
なお少々しつこく、もう一ぺん押
してみました、
﹁何の翻訳です﹂
852
﹁何の御本ですか、わたくしには
わかりませんけれど﹂
白雲もそれ以上は押しませんで
した。
﹁まあ、勉強も度を越さないよう
になさい、眼をこわしてはいけま
せん﹂
お座なりの忠告をして、そのま
ま扉を締めて外へ出ました。
そこで、白雲が、また少し考え
853
させられたことがあるのです。
お松さんという娘は、たちのい
こ
い娘だ。今はこの無名丸の唯一の
内助方と、駒井船長の二つなき秘
書役をつとめている。船にとって
も無上の内助者であるし、駒井船
長にとってもかけがえのない名秘
書であることを、ひそかに慶賀し
ているが、お松の今夜の勉強ぶり
いち
に対して、白雲がなんとなく、一
854
まつ
抹の不満を感ずるような心地がさ
れたのは、それは、さいぜんから
の駒井船長との会話と、それに引
続く甲板上の暗闘と、それから露
はんすう
骨なる清澄の茂太郎の反芻とから
の持越しの晴れやらぬ心が、お松
の夜更けの勉強ぶりに反映するも
のがあって、そうして、白雲の心
を曇らせているのです。
その予備感覚がなければ、お松
855
のこの勉強ぶりに、淡泊無雑なる
敬愛の念を持ち得たのだが、それ
があったために、あの原稿紙が今
夜に限って、真白な色にばかりは
見えないのであります。
そこで、今もした通り、いつも
よりは多少しつこく、それは何を
書いているのです、写し物は何で
す、翻訳はいったい何種のものの
翻訳? とまで、つきつめた駄目
856
を押してみる気にもなったのです
が、お松が書いている原稿そのも
のが、さいぜん聞かされた駒井氏
の持論と、それから、無意識に茂
ばくろ
太郎の反芻によって曝露された内
容と、相関聯しないという限りは
ない。
そこで、田山白雲は、二度まで、
つくづくと考えさせられました。
茂の野郎が、たとえ無意識の反
857
芻とは言いながら、ああいうこと
を口走るのはよくない。口走る方
には罪がないとしても、口走らせ
るに至る物象によろしくないもの
でたらめ
がある。彼が高唱する出鱈目のそ
の多くは、突飛であり、お愛嬌で
あるに過ぎないが、彼の口から、
一夫多妻、一妻多夫論の一端を高
唱せしむるに至っては、断じて、
お愛嬌なる出鱈目の一種としての
858
み看過せらるべきではない。
しかし、茂公は茂公として、彼
うわごと
自身が意識していない囈語の一種
だから、その点は責むる由はない
が、今、貞実無比なるお松が、深
夜、入念に筆写を試みているその
内容は、これは決して無意識に筆
を運んでいるものとは受取れない。
茂太郎の如く無遠慮に高唱しない
だけに、その筆端の一字一句が、
859
あの聡明なお松の理解力と感覚に
触れることなしには、表現されな
いはずのものなのである。
そう考えると、田山白雲は、ど
うしても、お松がいま一心不乱に
筆写しているところのものの内容
が、当然、駒井のさきほどの持論
と、茂太郎の反芻と、必然的に交
渉を持たない限りはないというこ
とを聯想せしめられる。茂太郎が
860
高唱したものの、なおいっそう深
せいち
刻にして精緻な内容が、あの原稿
紙に載せられつつある。
それを思うと、田山白雲は、い
ふんよう
よいよ考えさせられるものが※湧
して来る。
駒井氏は、あれを翻訳し、自ら
ま
草稿を作ったり、或いはお松に面
くじゅ
のあたり口授したりして、著作を
試みているに相違ない。
861
貞実無比の女性とは言いながら、
まだ若い娘である。それで、ああ
いう大胆な世界的の性知識を、無
遠慮にブチまけてよいものか、ど
うか。
駒井なればこそ、お松さんなれ
ばこそだが、その一端をでも、茂
公の如きに盗み見られたり、小耳
にハサまれたりした日には、すな
わち今のような収拾いたし難き発
862
ま
声となって、遠慮会釈なくブチ蒔
かれる。
いったい、駒井氏という人は、
道徳的の君子なのか、科学的の学
徒なのか、その辺の差別がありそ
うでない。田山白雲は、二人の人
格を信ずるけれども、お松が書き
うずだか
つつあった堆い原稿紙に向って、
むらむらと一種の敵意のようなも
のの湧くのを禁ずることができま
863
せんでした。
七十
白雲も無名丸の警視総監として、
今夜は特に多事多忙なるに昂奮を
ずねん
感ぜしめられつつ、その頭燃を冷
さんために、再び現われるでもな
く甲板上に現われて、そぞろ歩き
に似た歩き方を試みている途端に、
864
ハッとその足を止めざるを得なかっ
たのは、先刻のメイン・マストの
下に、またしても人がいる。
茂公のやつ、あれほど言ったの
に、まだこの辺にうろついている。
いっかつ
一喝して追い飛ばしてくれようと
身構えた時に、それは茂公ではな
いことが直ちにわかりました。
茂公ではないが、ちょうど茂公
程度の小さいのが、柱の下にうず
865
くまっていることは明らかで、そ
れが急病にでもうなされて、起き
も上れないのかと見ると、やがて
半身を起して、両手を組んで高く
差し上げたところを見ると、病人
ではない。
白雲は、立ち止って、その挙動
を仔細に凝視する立場になったの
たちま
は、物体そのものにも忽ち諒解が
届いたからなのであります。
866
キンツイくん
﹁金椎君だ﹂
これは、支那少年の金椎君であ
りました。白雲はその金椎なるこ
とを受取るには、長い時間を要し
ませんでしたけれども、認められ
きた
た金椎に於ては、白雲の来って彼
たたず
の後ろに彳むということを更に感
づきません。
何事にか夢中になって、それで
おの
己れの背後に人の来り彳むことを
867
おし
忘れたのではありません。本来、
つんぼ
この少年は聾で、そうして唖です。
じらい聾なるが故に唖となったの
か、唖なるが故に聾とされたのか、
それは別問題として、この少年は
五官のうち、見ることは許され、
聞くことということは許されない
のですから、後ろから来る人の物
音には、いっこう気づかない本能
を成している上に、これも何か特
868
に一心不乱になるものがあって、
たとえ耳あって聞くことを許され、
口あって言うことを可能とされて
おりながらも、心の昂上と、熱心
ふさ
とのために、その働きを塞がれて
いるほどの統一を白雲は凝視して
いる。
両手を組んで、高く差し上げた
かと思うと、再びそれを下に卸し
て、首を下につけた、というより
869
ひれ
は、五体のすべてを投げ出して平
ふ
伏しました。その度毎に、声はな
いが激しい震動がある。激しい魂
の震動があって、凝視している白
雲の心臓にこたえるものがある。
彼は仰いで天に訴え、伏して地
に訴えるの形をしているのだ。仏
教でよくいう五体投地の形をして
いるのだ。つまり、天地神明に対
いの
して、身を以て祷りつつあるのだ
870
という感動をも、田山白雲は直ち
に受取ってしまいました。
﹁金椎さんは、イエスキリストを
信じています﹂
これは常に清澄の茂太郎が高ら
はんすう
かに呼ぶところの反芻の一句であ
りますから、白雲は即座に、それ
をその通り受取ることができる。
﹁いかにも、この少年はイエスキ
リストを信じている、イエスキリ
871
ストというのは、つまり、キリシ
タンバテレンなんだ︱︱だが﹂
白雲は、キリシタンバテレンに
対しては、先入的に好感は持てな
いながら、なんにしても一箇の生
霊が全心全力を挙げて、天地の間
らいはい
に礼拝している形式そのものに対
しては、粗略になれない。
何とは知らず、骨までゾッとし
たものに襲われて、この少年の挙
872
動をさまたげてはならない︱︱と
いう気になって、粛然として息を
呑んでいると、五体投地の少年の
ふもと
前面に、つまり、親柱の麓のとこ
ろに、異様にかがやくものの存在
を認めました。よく見ると、夜目
たけ
にもしるき丈一尺ばかりなる銀の
十字の柱が、厳然と押立てられて、
少年はその銀の十字の柱を対象と
して、全身全霊を以て礼拝してい
873
る。今や、白雲自身が、今夜いま
までのあらゆる紛々たる感覚を忘
却して、凝然として、十字の柱の
前に輾転躍動する支那少年の魂を
見つめないわけにはゆかない。
七十一
金椎少年は、駒井の如く語らな
い、茂太郎の如く歌わない。だか
874
ら、何が故に信じ、何のために祈
るのだか、一向わからない。
駒井船長が語り過ぎるほど語り、
茂太郎少年が歌い過ぎるほど歌う
声の幾分をうつして、この信仰少
年に語らせたいと思うけれど、そ
れは思うに任せない。
どだい、田山白雲は、宗教には
冷淡な男である。冷淡というより
は、認識がまだそこまで至ってい
875
こみなと
ないと見た方がよろしい。小湊の
ぼんおんかいちょうおん
浜で、梵音海潮音を聞かせられた
ことはあるけれども、彼にはその
感激はあるけれども、体得はない。
名僧智識は格別だが、普通一般の
宗教だの、信心だのというものは、
要するに功利本位の願がけに過ぎ
ないものだ。
しょう
或いは観音を的にし、或いは聖
てん
天を的にして、ただ単に祈る心は
876
要するに、病気を直したい、息災
ほ
延命で暮したい、女には惚れられ、
もう
お金はたくさん儲かりますように
︱︱裸にしてしまえば要するに、
そんなものだが、さて、それにし
ても、その信心ごころという殊勝
む げ
なものを、無下に軽蔑してはよろ
しくない。信ずるものは信ずるよ
うに、祈るものは祈りたいように
任せて置けばよいのだ。ただひと
877
り、キリシタンバテレンときては、
表面は信心で、内実は日本の国を
取りに来るのだということだから、
こいつだけはうっかり許せない、
と伝統的に心得ているだけで、あ
えてキリシタンバテレンの正体を
確かにつき留めているわけでもな
い。
だが、たとえ国禁なりといえ、
この船の中に限って、この不具少
878
年がひとり信仰している分には、
歯牙にかくるに足りない。豊臣時
代から、徳川初期のバテレンのよ
おおげさ
うに、大袈裟に外国と連絡をとら
ない限り、日本の内地で一人や二
人、こっそり拝んでいる分には、
なにもそう手厳しく詮議するがも
のはないじゃないか、大人げない
︱︱といった程度のキリシタン観
に止まっている。
879
金椎少年はこの船の中で、ひと
りキリシタンを信じている。暇が
あればキリシタンのお経を読み、
感きわまれば到るところで、ひと
り祈るの習慣を持っていることは、
つと
田山白雲も夙に認めている。ただ
今晩は今晩並みに、かつまた異常
なところで不意に出くわしたから、
こちらの衝動が大きかったという
までのことである。
880
おし
安らかに祈らしてやれ、哀れな
つんぼ
少年だ、聾にして、唖にして、し
ひと
かも孤りなる異国少年︱︱祈るが
ままに、さまたげず祈らしてやる
がよろしい。
しかし、まあ、いったい、深夜
早朝を問わず、かくも一心に何を
祈るのだ。
どうぞ、神様、わたくしのこの
き
口が人間並みに利けまするように、
881
また、どうぞ、神様、わたくしの
この耳が人様並みに聞えまするよ
うに︱︱
あわ
お憫れみ下さい。
不具な少年が、せめて人間並み
になりたいという、それだけのも
のだろう︱︱と、白雲はやはり、
金椎少年の祈ろうとするものを、
しょう
これだけの範囲に解釈している。
めぬま
浅草の観音様であろう、妻沼の聖
882
てんさま
さい
天様であろう、そこに若干のお賽
せん
銭を投じて、最も多くのお釣を取
さしょう
りたい、些少の礼拝を以て、最大
の健康と利福とを授かりたい、そ
の釣銭信仰を軽蔑してはいけない、
その人情の弱点と、何物にかすが
ろうとする信頼心を、むしろ憐れ
そく
まなくてはならない! という惻
いん
隠を移して、やはり、この金椎少
年の祈り、すなわち病気平癒のた
883
めに支払わんとする代価を、寛大
に取扱ってやりたいと思っている。
白雲の認識では、これだけの同
情しか持ち合わさないのだが、認
識は認識として、感動はそれと別
個の力で働いて行くのであります。
第一、この祈り方は、他のあら
ゆる多くの宗教の祈り方とは全く
異っている。方法がちがっている
のではない、心の向け方が異って
884
いる。一言に言えば、物を求むる
の祈り方でなく、罪を謝せんとす
いや
るの祈り方である。病を癒さんた
めの祈願ではなく、身を捨てんと
するの祈り方だ。
この苦しさから救えという祈り
でなく、この苦しさを十倍にして、
この一身を罰し給えという祈りに
おの
見える。己れの罪という罪、悪と
いう悪をぶちまけて、これを審判
885
はだかみ
の前に置き、残るところの裸身を、
あの十字の柱に向ってひしひしと
投げかけている絶体絶命の仕草で
ある。
はげ
こういう劇しい祈り方というの
はないもの︱︱その劇しい祈り方
に、白雲は次第につり込まれて、
いかん
ついに身の毛のよだつ思いを如何
ともすることができない。
886
七十二
ほとけひょうすけ
仙台の仏兵助に追われた裏宿の
七兵衛は、安達ヶ原より、もっと
奥の奥州の平野の中へ陥没してし
まったことは前篇の通りです。
無人の平野大海の中へ陥没した
人間を探ることは、ちょっと手の
つけようがないようなものだが、
人間である以上は、その生命線の
887
ために、その肺臓の生理作用のた
めに、いずれの地点にか再び浮び
上らないという限りはありません。
果して、数日にして、七兵衛の
姿を、とある山路の岩の間に認め
ました。隠れることと、走ること
のために生きているようなこの男
きんきゅう
は、追窮されて必ずしも窘窮する
ということはないが、人間の精力
というものも限りのあるもので、
888
そういつまでも、野宿と、草根木
皮生活に堪えられるものではない。
かわず
水中に沈んだ蛙が、ある限度に於
て、空気を摂取するために浮き上
るように、人間らしい物質の慾望
のために浮き上らざるを得ない。
果して七兵衛は、この地点へ浮び
上りました。
この地点が、どの地点であるか
ということを、地理学的に説明す
889
るのは、今の場合、困難なことで
す。七兵衛は地上を走ることには
な
馴れているけれども、地理学の観
はなは
念の甚だ怪しいことは前に述べた
通りであります。従って、そのか
なり練達した方位なり時間なりの
観念というものも、正確な科学的
根拠から来ているのではないから、
未経験の地に於ては、往々にして
狂いを生ずることがありがちなの
890
はやむを得ないのです。
たとえば、星を力に、或いは木
こけ
皮の苔をたよりに、観念をつけて
みるにしたところで、天気具合で、
星のある晩ばかりがあるというわ
けではなく、木枝や樹皮にも、と
ころ変れば手ざわりの変ることも
ある。つい東へ走ったつもりで、
西へ抜けてしまうこともあり、南
へ行かんとして、北を忘れてしま
891
うこともあるのです。足の覚えだ
けは極めて健全ですから、この腰
骨に覚えたり、もう四五十里も来
しゃれ
ましょうか︱︱なんて洒落はよく
通用することがあるけれども、そ
れを東経北緯によって確定するこ
とは不可能である。
とにかく、この地点に浮び上っ
た七兵衛は、もうこのおれの足で、
このくらい走れば、相手は鬼であ
892
ろうとも、仏であろうとも、当分
その足がつくおそれがないことを
確信したればこそ、かくは浮び上っ
たものと思われる。だが浮び上っ
た七兵衛は、さすがに多少のやつ
ゆ り
れと、疲労とを見せている。百合
の根を掘って食ったり、山栗の実
を落してみたりしたところで程度
がある。人里と名のつくところへ
出て、火のかかった飯食にありつ
893
きたい、というのが、この際、第
一の七兵衛の慾望であるらしく、
七兵衛は、心しながら人里を求め
て、この山間をそろそろと下りに
かかりました。
かくして、この男は山をめぐり、
谷を越え、なるべく人の足の踏ん
であるような山径をえらんで、ふ
と一つの山の尾をめぐると、俄然
にぎ
として眼の前に賑やかな光景が展
894
うろた
開されたものですから狼狽えまし
た。
本来、人里をめざして来たもの
だから、人間臭くなることは覚悟
の前でなければならないが、これ
はあんまり人間が賑やかに出来過
ぎていたために、いったんは立ち
すくんだけれど、もう、どうにも
ならない。
山の尾をめぐって、ほんとに鉢
895
合せでもしたもののように、眼と
鼻の先に突き当ったのが天然風呂
でした。沢になって小流れがある
むぞうさ
ところの岩と水の間を、無雑作に
せきら
掘りひろげて、その中に赤裸な人
つか
間が七つばかり、すっぽりと漬っ
ている。しかも、それがみんな年
の若い女ばかりでした。
山の奥の温泉には、得てしてこ
ういうところのあるのは、あえて
896
珍しいことではないが、不意だも
ろうばい
のですから、七兵衛が狼狽してた
じたじとなったのですが、相手は
さほど驚きはしません。
不意に現われた七兵衛の姿を、
ちょっと見やったばかりで、あと
はいっこう頓着なく、思うまま湯
気と湯とにつかって、おたがい同
士、何をか賑やかに話し合ってい
る。狼狽はしたけれども、こうなっ
897
てみると、七兵衛は退却する必要
のっぴき
もなく、また退引はできない羽目
になっている。
七兵衛も、なにげなく、ちょっ
ま ね
と挨拶のような真似をしただけで、
その野天風呂を過ぎると小屋がけ
おびただ
がある。その小屋がけに夥しい衣
類が脱ぎ捨てられていると見れば、
その小屋の向うの方にも同じよう
な穴が掘られていて湯が湧いてい
898
る。その湯の中には、今度は野郎
ばかりが夥しく漬っている。
度胸を据えて、そこの近くへ進
りき
んで行ったが、こちらが力むほど、
先方はこちらを眼中に置いていな
い。七兵衛が来たって、来たかと
言わない代り、来るなとも言わな
い。
ここに於て、七兵衛も安心しま
した。これは何という土地か知ら
899
ないが温泉地だ。この辺で温泉は
珍しくないと見えて、別個に宿を
構えて営業するまでのことはない。
地を掘れば湯が湧いて出る、その
つか
湯に浸ることは誰に遠慮もいらぬ
ことになっている。ただしかし、
地方の農民たちは、天然に恵まれ
ているからといって、時間には恵
まれていないから、ある一定の時
機に、団体を催して程近い温泉場
900
を征服するということは、年中行
事の一つになっている。
その一日の行楽だと知ってみれ
ば、彼等の眼では、七兵衛といえ
ごどうぎょう
ども御同行の一人で、同じ団体で、
かお
日頃あんまり面の売れていない方
の口だと見過ごされているだけの
ものである。
ここで七兵衛も、すっかり安心
したものだから、いい気になって、
901
では自分もひとつ、この団体の臨
時会員の一人に加えてもらおうと、
かお
抜からぬ面で、小屋がけの中へ自
てい
分の着物を態よく脱ぎこみ、手拭
をとって、野郎組の方の野天風呂
へとお辞儀なしに飛び込んでしま
いました。
河の岸を掘りひろげた天然の浴
場はかなり広いけれども、それに
おおぎょう
混み入る人の数も夥しい。大仰に
902
ます
言えば、桝に芋の子を盛ったよう
とうかい
なたかり方だから、七兵衛の韜晦
にはいっそう都合がよいというも
ので、ちょっと鼻の先で空世辞を
言いながら、人の蔭に隠れて、湯
の中へ身を沈め、芋こじりの御多
な
分となって、いい気持で面を撫で
ていること至極妙です。
七兵衛はすっかり安心しきって、
人混みに隠れて湯にぴったりとつ
903
かり込んでいると、おのずから周
おかぼ
囲の人々の人情風俗がうつってく
る。
しんでん
新田の仁兵衛が高らかに陸稲の
自慢をする、沢井の太平が大根の
太いことを語ると、山崎の文五郎
なたまめ
が刀豆の出来栄えを心配する、草
花の娘ッ子はよく働くが、淵の上
の後家はおしゃらくだ、というよ
うわさ
うな噂が出る、自分たちの旅の経
904
ききめ
験や、あたり近所の温泉の効目を
並べる。
そういう話を聞き流しているが、
なにしろ辺土のことだから、そう
ひ
七兵衛の耳を惹くようなすぐれた
珍聞もない。無意識に人の頭数を
数えてみると、ざっと七十ばかり
はある。婆さん連のはしゃぎ方な
どは、平気でこの野郎風呂へ乗込
んで来るが、妙齢の娘たちは別に
905
かなた
一団をなして、彼方の一槽を占領
していることは七兵衛が最初に見
た通りです。
やまがそだ
いずれを見ても山家育ち︱︱
と、山家育ちを売り物の七兵衛
自身ですらが、苦笑するほどの連
中ばかりです。ことほど、それほ
ど、七兵衛も浮世離れした気分に
なって、多数の後ろで、悠々閑々
と耳もとを撫でたり、また珍しく
906
もあらぬ奥州弁の国自慢に耳を傾
けたり、ここでなるべく多くの時
間をつぶした方が都合がよい、こ
の御連中も泊るとすれば、あの小
ざ こ ね
屋の中へ雑魚寝と来るだろうが、
次第によっては今晩ひとつ、雑魚
ととまじ
の魚交りというお裾分けにあずかっ
て、その間に、地理上の心得万端
を聞いて置くことだ︱︱
この場合、七兵衛は、思いもか
907
けずいい気なものになってしまい、
うちょうてん
いささか有頂天の気分にされてい
るうちに、この一団にこのままで
芸尽しがはじまりました。
七十三
その芸づくしを七兵衛が聞いて
いると、お里丸出しの元気なのも
あったり、或いは思いもつかない
908
古雅な調子が交ったり、古い昔、
は や
江戸から流行り出して来たものが、
相当新しい気分で復活して来たり、
七兵衛にはまるっきりわからない
のや、わかるのや、こんがらかっ
ているが、いずれも聞いていて、
異郷情味の面白からぬのはない。
すでに夜も明け方になりしか
ば、武蔵坊弁慶は居たところ
かちん
へずんと立ち、いつも好む褐
909
ひたたれ
をしどり わきだて
ゆ ご て
みつひ
の直垂、水に鴛の脇楯し、三
きりやう
引両の弓籠手さし⋮⋮
うたい
と、お能の謡に似て、あれより勇
健質朴な調子も出て来る。そうか
と思うと、
あめ
よいはさつさ︱︱天の岩戸も
かみよ
押開く、神の社に松すゑて、
つるぎ
すは三尺の剣をぬいて、神代
し し
すすめて獅子をどり⋮⋮
御自慢の獅子舞をここへ持ち込
910
ね
むものもある。飛び離れたのは、
うやま
敬つて申し奉る、笛による音
の秋の鹿、つまゆゑ身をばこ
がすなる、五人女の三の筆、
色もかはりて江戸桜、盛りの
や ほ や
色を散らしたる、八百屋の娘
お七こそ、恋路の闇のくらが
いだ
りに、よしなき事をし出して、
代官所へ申し上げ、すぐにお
前へ引き出す⋮⋮
911
うな
と、江戸前のところを一席唸り出
かっさい
して、やんやの喝采を受ける者も
あると、一方から負けない気になっ
て、
あたごみち
コレお半、ここは三条愛宕道、
おきどころ
露の命の置所、草葉の上と思
へども、義理にしがらむこの
やいば
世から、刃でも死なれぬ故、
淵川へ身を沈めるがせめても
いひわけ
言訳、あとに残せしわが書置、
912
さぞ今頃は女房が⋮⋮
﹁泣けます﹂
﹁泣けます﹂
まぜ
ほめるのだか、交っ返すのだか
わからない。
すっとんきょう
そこんところで、突然に現われ
ふんどし
た赤い褌の若造が一人、素頓狂な
声を張り上げて、
まんにんどう
万人堂の
杉のスッポンコラ
913
槍のようで
さジョや、てんとさま
オカなかろう
この素頓狂で、一同がドッと笑
う。そこでこの一幕は、陽気な爆
笑で崩れた形になる。一幕をワヤ
けげ
にした若造は、何が故に、みんな
かお
から、そんなに笑われるのかと怪
ん
訝な面が、またおかしいと言って
みんながまた笑う。
914
七兵衛もおかしいと思ったが、
右の素頓狂な唄が何の意味だかよ
はんすう
くわからない。茂太郎式に反芻し
て再応思案してみると、﹁万人堂
てんとうさま
の杉のスッポンコラは槍のように
とが
尖っている、さぞお天道様も怖い
だろう﹂という意味に受取れる。
スッポンコラとは何だかよくわか
らないが杉の木の尖った梢という
ほどの意味ではなかろうか。そう
915
だとすると、万人堂の杉の木はす
くすくと槍のように尖って生い立っ
ている、あれを上から見るとお天
道様も怖がるだろう、という単純
無比な表現かと思われてなおおか
しくなる。
しかし、考えてみると、自分は
この数日来、足に任せて奥州の真
暗闇を走らせられているが、昨日
は餓鬼地獄の絵巻物を見せられた
916
かと思えば、今日は歓楽天国の中
へ投げ込まれたような心持もしな
いではない。餓鬼地獄の世界も変
だし、歓楽天国も夢の中の世界で
あるように思われるが、こういう
ところへ置かれてみると、また悪
い心持はしない。
裏宿の七兵衛といえども、人間
並みに楽しいことは楽しい、嬉し
いことは嬉しいに違いないが、そ
917
れを人間並みに楽しむことに於て
は、性癖がいつしか暗くなってお
り、人間並みに事を共にするには、
進み方が早過ぎておりました。そ
こで彼は彼として、独得の生き方
をしないことには、生きられない
ようになって、今日まで来ている
のですが、そういう後天性を別に
して、なんらの表裏のない一個の
群集動物としてさし置かれてみさ
918
えすれば、彼もまた群集動物並み
に無智無邪気に楽しむことができ
る人間だということが、この際に
於ても証明されるというわけです。
すなわち、郷里及びその環境に
おの
於ては、七兵衛は、己れ自身の所
業に後暗い心持を持たないという
ことはなく、周囲もまた彼を冷た
い眼で見ている。よし彼の所業は
衆愚の眼をくらまし得ているとし
919
てからが、彼がなるべく衆を避け
るという気持が、群集とはソリの
悪いものにしている。しかるに、
今こうして全く見ず知らずの土地
もたら
と人の中へ、無条件に身を齎すこ
とができさえすれば、彼はその独
得の後天性を、誰に向って気兼ね
する必要もなく、周囲もまた、彼
を特に冷たい眼を以て見なければ
ならないという因縁は、全く解放
920
されているのです。
ですから、この瞬間に於ては、
七兵衛は、純粋に楽しいものを楽
しとする子供心にさえかえること
を得たので、自分もまあこうして
馬鹿になって、みんなと共に楽し
むことができさえしたら、永久に、
どんなに仕合せであるか、とさえ
愚痴を催すのもやむを得ない。
これより先、ふっと、この湯壺
921
の中に、なんとなく七兵衛の眼を
引立てるものがありました。といっ
ても、別段、湯壺の中の人の数に
異変があったというわけではない
︱︱湯壺の隅の川沿いの東の一角
に背をもたせて、七兵衛と同じよ
うに耳もとをごしごしやりながら、
テレ臭く湯につかっている一人の
男がある︱︱ことが気になり出し
ました。
922
七十四
ひとしきり芸づくしが終って、
やがて、また第二の我に返ってみ
ると、さっきのあの怪しい、東の
隅の一角の男はどうなった。
とりあえずそれが念頭に上った
ものですから、七兵衛は幾つもの
人間の頭越しに、そちらを見ると、
いる、いる。
923
しゃあしゃあとして、まだああ
していやがる、うっかりこっちが
有頂天になっていた間に、こっそ
り、こっちの顔色をうかがってで
そぶり
もいたかと思うと、そんな素振は
ないが、いくつものかぼちゃ頭の
間に、胡麻塩をふりかけた彼の髪
の毛が動かずに浮いている。
気にかかる奴だなあ︱︱
そのうちに、さしも芋を盛った
924
ような、この天然風呂の浴客が、
一人立ち、二人立ち、三人出る、
さらしもめん
五人出る、だんだんに湯から上っ
からだ
ては手拭で身体を拭き、晒木綿の
六尺を捲きにかかりました。
ぞろぞろと湯上りにかかるもの
もあるが、また相変らずじっくり
す
と腰を湯壺の中に据え込んでいる
者もある。風呂の中は大分動揺も
したし、留まるものよりは、上る
925
者の方が多いけれども、さりとて
全員争って出て行くというわけで
もない。
こういう際に七兵衛は、どうい
う行動をとったらいいかというこ
とに少し惑いました。
湯上り組と共に、いったん上っ
て、ふんどしを締め直したものか、
それとも、もう少しここに踏み止
しんがり
まって、殿の部分を承って出た方
926
が安全か︱︱と考えて、ひそかに
例の東の隅の一角の胡麻塩頭に眼
をくれると、先方は相変らず、一
向こちらに頓着はなく、多くが湯
上りをするのに、この男は急ぐ様
子もない。
はて、あいつが、ああして動か
ないでいる以上は、こっちも動け
ないぞ、裸で人の蔭に隠れて湯の
中へ身を没している分には無事な
927
ゆ
ようなものだが、さっと全身を茹
で上げてしまった日には、ゲジゲ
な
ジの舐めたあとまで見られてしま
う。大久保彦左衛門ではないが、
おれの身体に古い傷がないと誰が
言う。
それにまた、おれは、いま御多
分と一緒に飛び出してみたところ
で、第一あの白木綿の六尺の切り
たての化粧まわしを用いているが、
928
おれには、それがないのだ。お手
のもので、人のをちょろまかして
一時をつくろう分にはなんでもな
いが、それでは、すぐに馬脚が現
われてしまう。
がんば
よしよし、このままで頑張れる
だけ頑張れ、残らず出てしまった
ら、出てしまった時のこと︱︱そ
れにしても、あの胡麻塩頭は、気
になって見ると、相変らず同じと
929
ころを占めて、悠々閑々と構えこ
んでいる、人が透いたから、今ま
さえぎ
で人の頭越しに遮られていた頭も、
顔も、全部がこちらの対角から、
最もあざやかに見て取られる。
いや、こいつは本物だ︱︱と七
のっぴき
兵衛が退引させられぬ思いをした
のは、顔面の左の部分にちらと認
・ ・ ・ ・
めた傷のあとです。こめかみのと
ころから頬へかけて、一筋なでら
930
れている、もうかなり年代を経た
傷あとだから、まざまざというこ
とはないが、見る人が見るとわか
る、ことに七兵衛の今の眼で見る
と、パックリ赤い口をあいている
ほどに見える。
こいつは本物だ、本物だ、只物
ではねえ、只物でねえとしたら、
別物であろうはずはねえ、こいつ
が、その仙台の仏兵助という奴に
931
紛れもねえ︱︱おれをつかまえて、
すんでのことに縄をかけた奴だ。
すい
そう思って見ると、兵助を後ろに、
ゆうよく
左右に遊弋している五ツ六ツの水
かあたま
瓜頭も、みんなあいつの身内と見
える。
ござったな︱︱七兵衛は、それ
をそうと確認すると、かえって度
胸が出て参りました。
こいつ、この七兵衛の向うを張っ
932
しゃく
て、先廻りとは癪だ。先廻りをさ
れたのは癪だが、これは地の利で
仕方がねえ、こっちは案内知らず
の他国者、相手は兎の抜け道まで
知っていようという土地ッ子だ、
ことに手先や子分が到るところに
網を張っている、この道をこう追
い廻せば、いやでもこの壺へ落ち
じゃ
るくらいのことは蛇の道でなくて
も心得ている、そこへがむしゃら
933
に追い込まれたこっちは、まア運
の尽きというものだ、足に覚えは
あるから、走ることは走るといっ
こうこ
たところで、こっちは勾股を念入
りに曲って走っている間に、あっ
げん
ちは弦を直走して先廻りと来りゃ、
網にひっかかるのはあたりまえ、
こっちの抜かりじゃあねえ、向う
が明る過ぎるのだ。
だが、そんな負惜みは、こうなっ
934
てみると通らない、眼前に敵が大
手をひろげていようというものを、
癇癪玉だけでは済まされねえ、も
うこうなっては、一かバチかある
のみだ、どう考えても、七兵衛ま
だこの辺で年貢を納める気になれ
ねえのだから、こう手が廻っては
ご
仕方がねえ、へたに分別して、後
て
手を食っちゃあ万事おしまい、そ
わしづか
こで、七兵衛は手拭を鷲掴みにし
935
て、すっくと湯壺の中から立ち上
りました。
まず、何はおいても裸で道中は
ならない。手早く、身近に脱ぎっ
ぱなしてあった、団体客のうちか
ら一人の衣裳を奪って、まず切り
たての六尺木綿から手早く身に引っ
かけて置いての芝居と、立ち上っ
たところを、先方もさるもの、パッ
と一度に水煙、ではない、湯煙を
936
立てて、
﹁御用だ!﹂
ゆうよく
果して、胡麻塩頭の左右に遊弋
すいかあたま
した五つ六つの水瓜頭が、むっく
りと立ち直って、七兵衛めがけて
殺到して来ました。
七十五
﹁ふざけやがるな﹂
937
七兵衛は左手で手拭を持って前
を囲いながら、右手で有合わす小
砂利を拾って眼つぶしをかけてみ
たが、それは、さのみ自衛にも、
脅威にもなるほどの武器ではあり
いっとき
ませんでしたが、一時相手がたじ
ろぎました。
その隙に︱︱団体客の衣服を取っ
て、せめて六尺の晒木綿だけでも
身にひっかける余裕がなかったの
938
です︱︱かねて眼はくれていたの
だが、五六の相手にやにわに飛び
つかれてみれば、その目ざしてい
た衣裳場の小屋がけまで駈けつけ
ふさ
るの前途を塞がれてしまったよう
なものです。
ここで、長兵衛以来の珍しい湯
壺の乱闘。あれは水野の屋敷で、
どこまでも芝居がかりに出来てい
るが、これは青天白日の下、野天
939
風呂の中で、一糸をまとわぬ野郎
共の不意なる立廻り。
ことに一から十まで七兵衛の立
場が悪い。しかし、前なる小屋が
けの衣裳脱ぎ場へ飛びつけること
さえぎ
を遮られた七兵衛は、直ちに身を
クルリと廻して横っ飛びに飛び込
んだところは、意外な急所であり
ました。これは七兵衛としては天
性の警戒性から、いつもするよう
940
に、入る時は必ずや出づる時のこ
おもんぱか
とを慮る。いかなる場合にも、出
づる時のことをあらかじめ考慮し、
且つ計画して置いてから立入るこ
とには周到なる修練を加えている。
すでに湯壺に入った時からしてこ
の男としては、出づる時の計画は
十分に成立していなければならな
いはずでした。
すなわち、この男は、こうして
941
この湯壺に納まったその寸前に、
万一の場合を予期して、こうして、
こう手が入ったら、ああして、あ
す
あ摺り抜けるという思慮と計画は
充分に立ててなければならないは
ずなのでした。いかに、この際うっ
いにし
かり、平和な古えの農村気合を味
わわせられて、我を忘れてしまっ
たにしてからが、右を押せば左、
東から来たら西、と観念はあらか
942
じめ立てていなければならないは
ずの男でした。
果して、第一段の策戦は、まず
衣裳脱ぎ場の小屋に飛び込んで、
有合わす衣類調度をかっさらって
身につけてから、という段取りで
でば
ありましたが、不幸にしてその出
な
端を見事に遮られてしまいはした
が、だが、この一段だけでわけも
なく参ってしまっては七兵衛らし
943
くない。前を押えられたらば、当
然、後ろと左右とに分別が働かな
ければならないはず。
しかし、あまりといえば意外に
出でたのは、そのまま七兵衛がク
きびす
ルリと踵を返して、一散に飛び込
んだのは、最初に眼に触れたあの
女ばかりの湯壺の中でした。
飛ぶが如くではない、飛ぶこと
そのもの以上に素早く、七兵衛は
944
右の女ばかりの湯壺に湯しぶきを
立てて飛び込みました。
しかも、ここではさいぜんの女
たちが、一人も湯上りする者がな
く、羽衣を忘れた天女のような気
分になりきって、皆々極めて平和
にぎ
に、極めて賑わしく、湯壺の中に
相語らって嬉々として楽しんでい
る。その真中へ、いい年をした七
兵衛が飛び込んでしまいました。
945
七十六
・ ・ ・
この振舞には、追う者もあっけ
に取られたが、飛び込まれた、平
和な羽衣なしの天人共の驚愕狼狽
というものは、真に名状すべから
ざるものでありました。
むつ
睦まじく入浴していた十人の娘
たちは、見栄も外聞もなく、一度
にどっと飛び立ち、逃げ出しまし
946
たが、その中に、たった一人、逃
おく
げ後れた娘がありました。
逃げ後れたのではない、驚いて
飛び立とうとする途端を、七兵衛
の手で押えられてしまったのです。
かわいそうに、逃げ後れた一人の
おさ
娘を、いきなり湯壺の中へ抑えつ
けた七兵衛は、無惨にもその娘の
細首へ自分の濡手拭をグッと捲き
つけて︱︱締めはしない、手軽く
947
捲きつけただけで、
﹁静かにしな、お前を殺すんじゃ
・ ・ ・
ねえから、ちょっとの間おとりに
なってくんな﹂
こう言って娘の子を一人、抑え
つけた時に、例の追手がばらばら
とはせつけました。
その時は、河原一帯、この野天
の温泉場附近一帯が沸騰してしまっ
たのです。
948
追手も沸けば、娘たちも沸く。
団体客全体が、挙げて叫喚怒号し
は
て、この場へ馳せつけて来るので
した。
﹁喜代さんが、つかまった﹂
﹁喜代さんが、悪者になぐさまれ
る﹂
﹁喜代さんが、あれ、悪者にくび
り殺されるよ﹂
﹁早く助けてあげておくれ﹂
949
﹁気ちがいです﹂
﹁気ちがいじゃな﹂
﹁喜代さんがおかわいそうに﹂
﹁あれあれ、なぐさまれます﹂
﹁あれあれ、殺されます﹂
七兵衛から見れば、果してこれ
は時にとっての機転、あらかじめ
入る時に、出る時を制して置いた
ひと
万々一の策戦の一つ、みんごと人
じち
質を一つせしめ上げたものと見ら
950
れるが、群集にとっては、何のこ
とだかわからない。悪漢は悪漢に
相違ないが、なんぼなんでも悪漢
ぶりがこれでは露骨過ぎる︱︱気
み と
ちがいだ、気ちがいだ、女に見惚
いろきちがい
れて、いきなり発作した色情狂と
見るよりほか、見ようがない。
だが、馬鹿だか、気ちがいだか、
それを調査している場合ではない
ろうぜき
のです。とりあえず、その狼藉の
951
手から奪還しなければならぬと、
くだん
一同が件の湯壺のほとりへ殺到し
て来は来たが、これより以上は、
てい
手も足も出せない事の体になって
いる。
湯壺の中で七兵衛に抑えられて
いる娘は、この一行中で一番の器
量よし、いちばん家柄のよい娘で
ありました。こういう場合にも、
例の入るを計って出づるを制する
952
七兵衛流の警戒ぶりは、かなり聡
明に発揮せられている。取押える
にしても、屑は取押えないで、選
りぬきのを取りおさえている。
これで見ると、最初、山の尾を
めぐって、この湯壺の前を通りす
がりに、はやこの中の女の数を読
んで、選り取りにする場合はあれ
と、目星をつけていた七兵衛の眼
力とすれば怖ろしい。しかし、言
953
葉は人を食ったことほど実着なも
ので、
﹁皆さん、どうも、何ともはや、
飛んだ御迷惑をかけて相済みませ
ん、わしは与兵衛と申す関東の旅
の者でござんすが、こっちへ参り
まして、よんどころない罪を着た
もんでござんすから、お手先に追
われて、この始末なんでございま
すよ︱︱悪いようには致しません
954
から、まあ、ひとまず、お静かに
なすって下さいよ﹂
これが、はやり切った群集に向っ
て、至極穏かな七兵衛の挨拶なの
です。湯壺の中では、おたがいに
身体の三分の二は隠されていると
は言いながら、泣き叫ぶ娘の細首
へ手拭を捲きつけて、それを左右
の手に持ちながらの挨拶ですから、
手のつけようがないのです。
955
ただ、娘が泣き叫ぶ声のするこ
とによって、手拭の締め方が厳し
くない︱︱という安心があるだけ
のもの︱︱
あれよ、あれよと言うばかりで、
手も足も出ない一同に向って、七
兵衛がまたおだやかに挨拶をつけ
加えました、
﹁わしも、悪いことは悪いで、罰
をのがれようとは申しませんが、
956
何をいうにも今度のことは旅の出
来心でござんしてな、ここでむざ
むざと捕まって、年貢を納めるに
は早いような気がしますんでな︱
︱それにまだいろいろと話をつけ
て置きたい心残りもあるんでござ
いますから、それらを済まして、
これでいいという場合でなけりゃ、
お縄にかかりたくねえという身上
なんでございます。でございます
957
から、今日のところは見逃してい
ただきてえんだ。そこで、お気の
毒だが、このお娘さんを、ちょっ
とお借り申して、当座の人質とい
うわけなんです、決して、皆さん
の心配なさるような、殺すの、な
ぐさむのというもくろみじゃござ
いません。つまり、皆さんが、ど
うしてもこの場で、わたしを召捕
ふびん
ろうとこうおっしゃるなら、不憫
958
じゃござんすが、この娘さんを一
人、わっしは道連れにつれて行き
てえとこう思うんで︱︱もしまた、
皆さんが、ここんところ少しの間、
目をつぶって、わっしを物の一里
ばかり立ちのく間、見のがして下
むきず
さりさえすりゃあ、この娘を無疵
で、このまますんなりお返し申す
んでございますが、いかがなもん
でござんしょう﹂
959
こう言って、群がり迫る人たち
に挨拶を試みたが、青くなって静
まり返った群集は、急に返答する
者がありません。
七十七
こういう人質の手段は、あえて
新しい手法ということはないが、
こういう場合に、こういう手口で
960
用いられると、いくら多勢である
からといって、ちょっとは手も足
も、口も出すことができないので
す。
しかし、一度は度を失うてなさ
ん様を知らなかった人だかりも、
いつまでもこうして馬鹿な顔をし
て、当面の芝居ばかりを見せつけ
られていられるわけのものではあ
りません。
961
ことに、七兵衛を追いつめて来
た水瓜頭の五六は、御用だ! と
言った名目の手前、永く猶予する
いかん
わけにはゆかない。犠牲の如何に
かかわらず、するだけのことはし
なければならない。
とっさ
そこで、咄嗟に身仕度をして、
隠すあたりの部分をかくして置い
て、おいきた、と飛びかかろうと
した時に、団体客の同勢が、それ
962
に折りかぶさるように押しふさが
りました。
﹁まあ、お待ち下さいまし、あな
た方がお向いなさると、あの子が
身代りに殺されてしまいます﹂
﹁あの子を殺させては村方へ、わ
しどもが申しわけがございませぬ、
わしたちみんな連れ合うて、機嫌
よく出て来たものが、あの子一人
を見殺しにして帰れますか﹂
963
かお
﹁あの子の親たちにあわす面がな
い﹂
ふびん
﹁罪もないあの子が不憫でござい
ます、お助け下さいませ、あれ、
あのように、こちらが向いますと、
手拭でグッと締めます、締め殺さ
れてしまいます﹂
﹁どうかして、あの子をお助け下
さいませ﹂
﹁きよちゃん、辛抱してな、わし
964
たちがあんた一人を殺させやせん
がな﹂
﹁お役人様、お助け下さい﹂
村の団体客が身を以て、捕方の
行く手に押しかぶさるものですか
ら、捕方もこれをもてあまさざる
を得ない。
といって、あれをあのまま手を
つか
束ねて見ているわけにはゆかない。
その呼吸を見はからって、七兵衛
965
ゆる
は、手拭を締めたり緩めたりして
見せる。七兵衛がそんな芝居をし
ているかどうかは知れないが、見
ている者にはそうとしか見えない。
・
捕手が意気込む時には、手拭を持
こぶし
つ七兵衛の拳が緊張し、捕手がひ
・ ・
るむ時には、七兵衛の手先も緩む
かのように見える。
たまりかねた娘っ子の身うちは、
こちらから手を合わせて七兵衛の
966
方を拝み、
﹁どうぞ、お泥棒様、その娘をお
殺し下さいませんように﹂
﹁お金で済みますことならば、村
方申し合わせて、いくらでもお金
を集めて差上げます、どうあって
も、その子を殺して下さいません
ように﹂
﹁お泥棒様、もうし⋮⋮﹂
一方は力を尽して捕方の迫るこ
967
おさ
とを抑え、一方は合掌して、七兵
衛が犠牲を殺さざらんことを哀求
する。この場合、﹁お泥棒様﹂と
言うて呼びかけたのは、窮せるも
また気の毒なものであるが、彼等
としては、差当りこれよりほかの
呼び声を知らないらしい。事実、
七兵衛が泥棒であるかないか、泥
棒であるとすれば、いかなる種類
の泥棒であり、いかなる種類の罪
968
を犯しているのかということは、
まだ知らない。捕方が召捕りに来
たから、悪漢にきまっている、悪
漢の大部分は盗賊である、という
観念から、盗賊を呼ぶに敬称を以
てし、合掌を以てすることも、そ
の心情を察すると気の毒なものが
ある。
そこで、湯壺の中の、当の人質
の娘はと見れば、これはほとんど
969
失神状態で、締められざるうちに
気絶しているようなものです。七
兵衛は落着き払って、この人質を
扱いながら、一方油断なく、第三、
第四の策戦を頭の中にめぐらして
はいるらしい。
いかん
ただ、それを囲む群集の喧々
けんけんごうごう
囂々、紛々乱々だけは如何ともな
す由がない。手のつけようも、足
わめ
のつけようも知らない代り、喚き
970
かな
いたず
叫び、哀しみ求むる声だけは徒ら
に盛んである。
この兼合いの期間、やや暫し、
後ろの方に物々しげな声があって、
ど
﹁さあ、みんな、退いた退いた、
騒ぐばっかりで何事もなりゃしね
え﹂
と言って、人を押しわけて来たの
は、親分の仏兵助であります。
971
七十八
﹁さあ、みんな退いた、一人残ら
ず退いた、頭数ばっかり集まったっ
て、脳味噌が働かなけりゃなんに
もならねえ﹂
人を押し分けて来た仏兵助は、
ゆかた
さっぱりした浴衣をつけて、片脇
には別に一抱えの衣類と旅装束、
菅笠までを用意している。
972
ここで一同は鳴りを静めて、道
をあけて通す。
そうすると、仏兵助は、その最
前線にわだかまって、当の相手と、
その手ごめの人質との当面に突立
ちました。当面へ突立ったけれど
も、まず相手の当人には言葉をか
けないで、左右を顧みて、
﹁一人残らず、あっちへ行ってく
てえだん
れ、話合いは一人と一人の対談に
973
限る、わしに任してみんな引上げ
てくれ︱︱野郎共、みなの衆をお
連れ申して小屋の中で待っていな﹂
これは圧力のある命令でもあり、
いや
おう
本来、奥州切っての大親分と聞え
かお
た仏兵助の面で、否も応もなく、
この場は親分の対談に一切を任せ
て、一時この場を引上げるよりほ
かはない。
暫くして湯壺のあたりは、全く
974
の物静かさを取返してしまい、た
もだ
だ人質の娘っ子の悶え泣く声だけ
が聞える。
としがい
﹁七兵衛さん、あんまり年甲斐も
ないことをしなさんなよ﹂
一抱えの衣裳、旅の品を小脇に
かいこんだ仏兵助は、そこで、七
兵衛に向って、まず穏かにこう呼
びかけました。七兵衛もやさしく
受答えして、
975
﹁お言葉通り、こんな年甲斐のな
ま ね
い真似をしたくはござんせんが、
背に腹は換えられねえんでしてね。
だが、わしを七兵衛と御承知のお
前さんは、どなたですかね﹂
﹁こりゃ申し遅れました、わしは
おい
仙台の兵助と申すやくざの老ぼれ
でがすよ、それでも人様が、こん
ほとけ
な鬼のような野郎を、仏とおっ
しゃって下さいます、お見知り置
976
かれ下さいましよ﹂
﹁これは恐れ入った御挨拶でござ
んす、お前さんが、音に聞く仏兵
助さんとおっしゃる親分さんでご
ざんしたか。だが仏のお名前に似
合わねえすごいお腕で、あんまり
いじ
旅の者を苛めて下さるなよ﹂
﹁いや、お言葉でげす、なにもお
前さんを苛めるのなんのと、そん
りょうけん
な了見で追いかけて来たんじゃご
977
ざんせん、神野の旦那に頼まれて、
男ずくでよんどころなく⋮⋮﹂
﹁男ずくで、どなたにか頼まれな
さるお前さんなら、男ずくで、わ
たしの方の力になって下すっても
いいじゃございませんか、わしゃ、
しがねえ旅の者、見のがしておく
んなさるのが慈悲というものじゃ
ごあせんか﹂
﹁なるほどな、実はね、七兵衛さ
978
ん、わしも一旦は、仙台の役人か
ら頼まれてお前さんを追いかけて
みたけれど、今じゃそれ、舞台が
変って、お前さんを助けて上げて
えがために、こうして追いかけて
いるのさ。わしの親心がおわかり
かえ、武州青梅裏宿の七兵衛さん﹂
﹁二言目には、七兵衛さん、七兵
なれなれ
衛さんと、馴々しくおっしゃるが、
どうしてまた、わしの名前までそ
979
ねこなで
う軽々しく御承知だえ。その猫撫
ごえ
声が油断がならねえ﹂
﹁これには、なかなか深エ仔細が
あるのさ。で、この通り、人を払っ
てえだん
てお前さんと膝づめの対談をつけ
るつもりで出直して来たんだ。わ
しの心意気がわかったら、何はと
もあれ、その娘さんを放してやっ
ちゃくれめえか﹂
うます
﹁話があんまり旨過ぎるなあ、そ
980
の手で、人質を取上げの、あとは
呼子の笛で、者共逃すな、なんて
段取りじゃあるめえか﹂
﹁御冗談をおっしゃい、いかに何
でも仙台の仏兵助といわれる男が、
男ずくの対談に、そんな卑怯な手
は用いられねえよ﹂
﹁じゃあ、親分、この娘っ子を放
せば、わしがところを一番、きれ
いに見逃しておくんなさるか﹂
981
﹁御念には及ばねえ、かわいそう
に、罪もねえ女の子を、永くそう
しているうちにゃあ、手を下さね
えでも死んじまわあな、今のうち
に放してやってくんな、お前さん
の身上は、わしが請合うよ。いや、
請合うまでのことはねえのだ、仙
台の方でも、今じゃあ表向、お前
さんの罪を問わねえことになって
いて、兵助、お前行ってそっと逃
982
がしてやれ、こういう風向きになっ
ているのを、お前は知るめえ﹂
﹁知らねえな、そんな旨い話になっ
てるなら有難いんだが、出来心と
は言いながら、お家の宝蔵に手を
かけたこの七兵衛だ、お前さんも
捕まえなければ男が立つめえし、
つかまった以上は首をとらなけれ
かお
ばお役向も面が立つめえ。こっち
にしてみると、行きがけの出来心
983
で、ほんの手慰み半分にやった仕
事のしくじりで、奥州外ヶ浜へ来
て年貢を納めるなあ、ちっと残念
だ。それにしても、死ぬんなら死
ぬように、一応挨拶して置きてえ
ところもあって、未練なようだが、
今は命が惜しいから、それでこん
なにもジタバタしてみるまでのこ
とさ。万一、ここんところ暫くこ
の首がつなげるものなら、なにも
984
こんな罪な真似をしなくとものこ
てしょう
とだ。兵助さん、お前の言うこと
ほんとう
が真実なら、何か手証を見せてお
くんなさるめえか﹂
﹁そのことだ、正面を切って辞儀
をし合うのは、今日はじめてのお
前さんに、さし当り、手証といっ
ては何事もねえが、ことわけだけ
は一遍ここで話してお聞かせしよ
う。そもそもお前さんという人を、
985
宝蔵破りの大罪人と追いかけてみ
たのは、当座のこと、今はお前と
いう人が、駒井能登守様の身内だ
と聞いて、それから扱いが変った
のだ。駒井能登守様は何か仙台の
お家と浅からぬ因縁がおありなさ
るそうだ、で、そっちの方からお
みじょう
前の身性がわかってみると、お前
のした仕事も身の慾得じゃねえ、
立派な書き物を、見たがっている
986
人に見せてやりてえという親切気
から出たことであってみると、し
ばらく罪を問わねえことにしろ、
との上方からの意見なんだ﹂
七十九
﹁なるほど︱︱﹂
そこで七兵衛が少し考えさせら
れました。第一、自分の名を七兵
987
みじょう
衛と呼びかけて、あらかじめ身性
を心得て来ている上に、駒井能登
守様の名前までが引合いに出され
・ ・ ・
てみると、兵助の言い分にうらは
・
らがありとは思われない。七兵衛
の心も相当に解けて行ったと見る
と、仏兵助が続けて言う、
﹁というようなわけで、駒井能登
守様とおっしゃるお方は、御自分
のこしらえた船を、月ノ浦に泊め
988
て置かっしゃるが、仙台のお家で
は、駒井様には充分の好意を持ち
ながら、それを長く領分内に泊め
おおこうぎ
て置くということは大公儀に対し
はばか
て憚りがあるというようなわけで
してねえ、それで、このほど、駒
井様のお船は仙台領をお立ちになっ
てしまったよ﹂
﹁へえ、そうですか、では駒井様
のお船はもう、仙台領の月ノ浦と
989
やらにはいらっしゃらねえんでご
ざいますか、そうして、どこへ行
きましたか﹂
﹁そこだ︱︱月ノ浦をお立ちになっ
た駒井様のお船はね、仙台領を乗
り出すと、表向は江戸の方へ帰る
というおふれ込みでしたがね、本
みやこ
当のところは宮古の港へ向けてお
かま
立ちになったんだが、その前に釜
いし
石の港というのへお着きのはずな
990
んだよ﹂
﹁釜石の港というのは、ドコでご
ざんすかね﹂
﹁さあ、その釜石の港を言うまで
に、ざっとこの辺の地理を言って
お聞かせ申さにぁなるめえ。七兵
衛さん、お前さんの足の早いには
恐れ入ったが、地の理の暗いのに
あき
は呆れましたぜ﹂
﹁そりゃ、そうでござんしょう、
991
奥州安達ヶ原の、もっともっと奥
へ、こうして追い込まれてみりゃ、
一寸先の地理はまっくらやみさ、
ゆうゆう
だからこそ、お前さんに悠々と先
てのひら
廻りをされ、鼻の先を掌で撫でら
れるような見っともないざまさ、
そこんところはお恥かしいと申す
よりほかはねえ﹂
﹁地の理には勝てねえ理窟で、お
前さんにおちどはねえ、だから、
992
ゆ
言って聞かせて上げるが、このお
だい
湯はね、奥州花巻の奥の台の温泉
という名の聞えたお湯なんだよ﹂
ゆ
﹁台の温泉﹂
﹁これから、ずっと南へ二十里ば
かり下ると、そこがそれ、釜石の
港というのへ出るたあ、仏様なれ
ばこそ知っているが、お前さんに
は全くお先真暗も無理はねえ﹂
﹁何とおっしゃる、これから二十
993
里南へ下ると、その釜石の港とい
うのへ出るんでござんすか﹂
﹁ござんすとも。そこの釜石の港
へ行きさえすれば、多分もう駒井
能登守様のお船がちゃんと仙台沖
いかり
から到着して、碇を卸して、お前
さんの飛び込むのを待っていると
いう寸法でござんすよ﹂
﹁なるほど、そう聞かせてもらっ
てみますと、お前さんの言うこと
994
はどうやら筋が通っている﹂
﹁筋の通らねえことは言わねえ、
だから、わしは、お前さんを、そ
の駒井様のお船まで送り届けてや
るわけにゃいかねえが、趣向をし
て落してやりてえと思って、わざ
わざ先廻りをしてここへ来ていた
んだ、悪くうたぐらねえようにし
てな﹂
﹁全く、筋も通るし、話もわかっ
995
ているようだが⋮⋮﹂
﹁筋が通り、話がわかると知った
ら、何はともあれ、その娘っ子を
放してやってくれめえか、それか
てえだん
らあとは男と男の対談、まずその
女の子から勘弁してやってもらい
てえ﹂
﹁ようし、わかった⋮⋮じゃあ、
この娘っ子に窮命をさせることは、
もう取止めだ、お前さんに引渡す﹂
996
﹁よく言っておくんなすった、多
分、そう言っておくんなさるだろ
うと思って、この通り娘っ子の衣
裳も持って来たよ﹂
﹁兵助親方︱︱御苦労さまでした。
さあ、姉や、もういいから心配し
なさんな、なにもお前をなぐさも
うのなんのと思って、こんな罪な
ま ね
真似をしたわけじゃあねえ、今い
う通り、背に腹は換えられねえ詰
997
りの狂言さ。さあ、お慈悲の深い
仏の親分に引渡すから、よくお礼
を言って、みんなのところへお帰
りよ﹂
と言って、七兵衛は、女の子の首
はず
へ捲きつけた虚勢の手拭を外して、
そっと女を突き出してやると、女
は前後も忘れて、
﹁わっ!﹂
と大声に泣き出して、無闇に駈け
998
出すのを、兵助親分がつかまえて、
見苦しからぬように衣裳を与える
のを、お礼どころか、ひったくる
ようにして、こけつまろびつ小屋
がけの方へ駆けて行ってしまいま
す。
八十
それから後、暫くあって、雑木
999
の多い山路を、仏兵助に導かれて
歩み行く七兵衛を見ました。
人通りのない山路を、ただ二人
だけが静かに歩いて行く。二人と
わらじ
もに笠から草鞋まで、旅の装いが
そっくり出来ている。
かくて二人は、無言で、長い山
路を飽かずに歩んで行く。兵助の
足どりが尋常である如く、七兵衛
きそ
も決して、それとはやきを競おう
1000
とはしない。ゆっくりゆっくりと
兵助に追従して行くまでのことで
す。
二人とも容易に口を開かない。
始終沈黙して、幾時かの間を歩い
て来たが、とある山路の芝原のと
ころへ来ると、兵助が、
﹁ここが仙人辻というところです、
一休みやらかして行きましょうか
ね﹂
1001
﹁それがようござんしょう﹂
ちょうど、この草原には、二人
が相対して休み頃な石ころがある。
ひうち
それへ腰をかけて、二人とも同時
たばこ
に煙草を取り出しましたが、燧を
切るのは七兵衛の方が早く、
﹁さあ、おつけなさい﹂
﹁これはこれは、どうも﹂
七兵衛の接待心を兵助は有難く
くゆ
受取って、二人が仲よく一ぷく燻
1002
らしたかと思うと、兵助は草鞋の
かかとで吸殻をはたき、
﹁時に、七兵衛さん﹂
﹁何です、兵助さん﹂
﹁物は相談だがね﹂
﹁ずいぶん⋮⋮﹂
﹁どうでしょう、わしゃ、つくづ
く、この山路を歩きながら考えた
んですがね﹂
﹁はい、わしもなんだか、考えさ
1003
せられちゃいました﹂
﹁わしの考えというのはね、わし
も、お前さんも、もうこの辺が見
切り時じゃねえかと、こう考えた
んだがね﹂
﹁そうして、これから、どうしよ
うとおっしゃるんですかね﹂
﹁わしゃ、これから、釜石道のわ
やす
かり易いところまで案内しといて、
それから仙台の牢の内へ帰らなけ
1004
りゃならねえ﹂
ごもっと
﹁御尤もです﹂
﹁仙台の御牢内へ帰るんですが、
ほかの罪人と違って、わしゃ仏扱
いをされるくらいなんだから、そ
ゆる
のうちお赦しが出るにきまってい
るんだね﹂
﹁そりゃ、結構なお話です﹂
いのちみょ
﹁悪いことという悪いことをして
いみょう
いながら、仏の異名を受けて命冥
1005
うが
加にありつき、こうして四十の坂
を越しても、ともかく、ぴんぴん
として今日が送れるというのは、
とくにん
おやじが仏師で徳人であったその
報いなんだと世間が言ってくれて
おやじ
いますがな、親爺は徳人であった
か知らねえが、わしはもう悪い奴
さ、餓鬼の時分から悪い方へ悪い
方へばっかり、のしちまいやがっ
て、人間というやつぁ、なまじい
1006
何か取柄があるとかえっていけね
こぢから
え、餓鬼のうちから小力があって、
身が軽い、それから柄になく武芸
が好きで、好きこそ物の上手とい
うやつで、あたり近所に敵がいね
えものだから、つい増長して、親
爺の隠徳にすっかり泥を塗ってし
まいやした﹂
﹁そのこと、そのこと﹂
と七兵衛は景気よくあいづちを打っ
1007
て、
﹁わしも御同様さま、餓鬼の時分
から悪知恵が人並に生れ増したと
ころへ、この足のはやいというや
つが全く魔物でしてね、これをい
い方へつかって、飛脚屋渡世でも
して納まっていればいいやつを、
世間の奴があんまりのろのろに見
えてならねえものだから、この通
り、道を踏みはずしてしまいやし
1008
たよ﹂
﹁そこへ行くと、おたがいに話が
ピッタリ合うというもんだ、仙台
のお奉行から、お前さんをつかま
えてくれと頼まれた時、わしゃ言
いましたよ、わしが今日まで見た
ぬすっと
ところでは、盗人をする奴は二十
しん
五六止まり、大抵、その辺で心が
止まって、三尺高いところへこの
笠の台というやつをのっけるのが
1009
落ちなんだが、不思議とこの兵助
あんのん
は、四十の坂を越しても、安穏に
こうして牢名主をつとめさせてい
ただいている、これというのも親
が仏師で徳人であったおかげとい
うものだから、こうしておとなし
しらみ
く牢畳の上で虱を取っております
⋮⋮そういえば七兵衛さんも同じ
こと、いい年をして、こうして奥
州くんだりの湯廻りまでしていら
1010
れるのは、つまり、何か親の余徳
というやつでござんしょう﹂
﹁わしゃ、その、親には運が悪い
んでしてね、お前さんのように、
結構なお徳人を親に持ったと言い
てえが、それが言えねえ。だが、
お言いなさる通り、この年して、
いのちみょうが
ともかくもこうして、命冥加にあ
りついているのは、何かわっしの
ために、代って罪ほろぼしをして
1011
くれた徳人があるに相違ねえと思
いますよ﹂
わる
﹁そうさ、この悪を今日まで、と
もかくもこうして生かして置いて
下さったのは、神仏のお恵みか、
もってえ
人間の徳か、考えてみりゃ勿体ね
えわけのものだねえ。ところで二
人とも、もう年に不足はねえんだ、
そうして今わしゃ、つくづく考え
たには、今日という今日を縁とし
1012
て、わしゃ、お前さん、こういう
ことにしてしまいてえと思うんだ
が、どんなものだえ﹂
かぶ
と言って、仏兵助は、自分が被っ
すげがさ
ていた大きな菅笠をとって地上に
置き、それから、ふところへ手を
入れて紙入を取り出し、その中か
ら白紙に巻いた短いものを取り出
したから、何かと見ると、それは
かみそり
一梃の剃刀でありました。
1013
﹁七兵衛さん﹂
と、その剃刀の紙を巻きほぐしな
がら、兵助が、
﹁お願いだがね﹂
﹁何ですか、兵助さん、いやに改
まって気味が悪いようです﹂
まげ
﹁わしの、この髷をひとつ、この
剃刀でちょん切っておくんなさい
︱︱今日の日を縁に、お前さんに
とくど
得度をしてもらいてえんだ﹂
1014
めっそう
﹁こりゃ滅相な⋮⋮﹂
七兵衛も、あまりの突然な兵助
の言い分に面喰ってしまうと、
﹁とても、わしなんぞは善智識に
得度をしてもらうような果報の者
じゃねえ、いっそのことお前さん
にお願い申して、ここでひとつ、
この髷をちょんぎってもらって、
それで後生往生の門出とこう腹を
きめたんです、どうかひとつ頼み
1015
ますよ﹂
と言って、兵助が七兵衛の前へそ
の剃刀をつきつけたものです。
八十一
あっけ
しばらく呆気にとられて、兵助
かお
の面をじっと見ていただけの七兵
衛が、
﹁うーん、こりゃ、よくおっしゃっ
1016
ておくんなすった、そういうこと
は、こっちが先に気がつかなけりゃ
ならねえことなんです、恐れ入り
ました、兵助さん、よくお心持は
わかりましたから、暫時お控え下
さいまし﹂
﹁心持がわかってさえもらえば、
遠慮をなさることはねえ、どうぞ
頼みますよ﹂
﹁まあ、お待ち下さい、お前さん
1017
にそこまで腹を見せられて、おい
それと剃刀が取れるわけのものじゃ
ございませんわね、申し遅れて恥
かしいが、わしの心持も一通り聞
いておくんなさい﹂
と言いながら、七兵衛は自分の被っ
ひも
ていた笠の紐をあわただしく解い
て、それを脱ぐと、兵助の前へそ
ろとう
の露頭を突き出しながら、
﹁いかにも、お前さんのおっしゃ
1018
ることがわかりました以上は、そ
のお頼みとやらも快く聞いて差上
げますよ、だが、その前に、わし
が心持も見ておもらい申してえ、
また、頼みも聞いておもらい申し
てえ、というのはほかじゃござん
せん、お前さんが今おっしゃった
お言葉通りのお頼み、まずわしが
方から先に聞いていただきてえん
です﹂
1019
﹁と、おっしゃるのは?﹂
﹁お前さんのお頼みは、あとで必
ず果して上げますから、その前に、
まげ
わしがこの髷っぷしを、切るなり、
坊主にするなりしておもらい申し
ねげ
て、それからの上に願えてえんで
す﹂
﹁なるほど︱︱そうおっしゃるの
は、いかにも七兵衛さんらしいが、
そいつはいけねえ、人の趣向を先
1020
取りなんぞは、人が悪いというも
のだ、お前さんが、すんなりわし
の頼みを聞いておくんなさった上
し
は、わしもなんだかお強い申した
ようで気が置けるけれども、お前
さんの頼みというのを聞いて上げ
はな
ますよ、さあ、わしの立てた趣向
しょふで
だから、わしに初筆の華を持たせ
ておくんなさい﹂
﹁そいつはいけません、わしゃお
1021
前さんから助けられた命だ、いわ
ば仙台へ来て、お前さんに繋がれ
たこの首なんだから、この首の引
導は、ぜひ、お前さんへ先にお頼
み申さなくちゃならねえ﹂
﹁いや、そういう義理にからまる
わけのものじゃねえ、どっちにし
くどく
たところで、功徳のあるなしには
かかわりはねえのだ、遠慮をなさ
らずにひとつ頼みます﹂
1022
﹁いけません、今日のところは、
兵助さん、お前さんがこの七兵衛
の導師なんだ、わしから先に剃刀
を当てる法はねえ﹂
﹁ところが、失礼だが、お前さん
の方がわしよりいくらか年上かも
としやく
知れねえ、年役ということがある﹂
﹁そういうことは、年にかかわる
ものじゃござらねえ、ここは、兵
助さん、お前がまず、わしの頭へ
1023
手を下しなさるところなんだ、ど
うあっても、七兵衛が先に、お前
つむ
さんのお頭へ手を上げるというわ
けにゃいかねえ﹂
﹁それじゃ、この剃刀の引込みが
ほっしん
つかねえ、せっかくの発心が水に
なる﹂
﹁引込みのつくようになさいと申
し上げているんじゃございません
か、発心が水になるどころじゃご
1024
ざいません、お前さんの発心が、
立派に二つになって実を結ぶとい
う道理を、聞き分けておくんなさ
い﹂
そこで二人は相対して、また沈
黙の形となりました。かなり長い
時の間、二人はまた考え込んだ形
で、だまりこくってしまいました
き
が、七兵衛がどうしても譲って肯
けしき
かない。その動かない気色を見て
1025
取った仏兵助は、ついにきっぱり
と折れて出ました。
﹁よろしうがす、そういう次第な
らば、七兵衛さん、わしが言い出
ほっとう
し発頭で、失礼だが、お前さんの
頭へ手をかけます﹂
﹁有難い︱︱ほんとうに、願って
もねえ善智識でございます﹂
ばち
﹁罰が当るだろうなあ﹂
﹁どうか、さっぱりとお頼み申し
1026
ます﹂
﹁南無阿弥陀仏﹂
﹁南無阿弥陀仏﹂
二人の口から、あんまり言い慣
しょうみょう
れない称名が、ひとりでに飛び出
すと、七兵衛は、仏兵助の前へ正
面に向き直って、拝礼するような
姿勢をとって首を下げたのは、そ
まげ
の髷っぷしを充分に切りよいよう
に仕向けたものです。
1027
兵助はついに剃刀を取り直しま
した。
まもなく、まだ黒い血の塊をで
も臓腑の中から取り出したものの
ように、七兵衛の髷っぷしが兵助
の手に取り上げられる。
﹁七兵衛さん、どうも失礼をいた
しました、では、これこの通り︱
・ ・ ・
︱このしるしは、わしがしっかり
といただきますぜ﹂
1028
﹁有難い、有難い﹂
﹁では、七兵衛さん、こんどはお
前さんに引導を頼むのだ﹂
みょうが
﹁頼まれ冥加とはこのこと⋮⋮﹂
兵助の手から剃刀を受取ると、
今度は七兵衛が立ち上り、兵助は、
七兵衛が前にした通りの姿勢をとっ
て、正面にうずくまりました。
﹁南無阿弥陀仏﹂
﹁南無阿弥陀仏﹂
1029
どちらからともない、たくまざ
る念仏の声、まもなくすっぱりと、
兵助の髷っぷしは七兵衛の手に挙
げられてしまいました。
・ ・ ・
﹁おしるしをいただきます﹂
と言って、七兵衛は、兵助がした
通り、切り取った兵助の髷っぷし
を押しいただいて、ふところへ納
めました。
1030
八十二
こうして二人は、おのおのの髷っ
ぷしをおのおののふところの中に
納め、残った頭上の余髪は手拭で
ていねいにあしらって、その上へ
笠をいただきながら、
れんしょうぼう
﹁へんてこな蓮生坊が二人出来上っ
た﹂
苦笑しながら笠の紐を結んでい
1031
ると、後ろの方で、にわかに人声
が起りました。
今も蓮生坊と言ったあやかりで
くまがい
もあるのか、後ろの方で、熊谷こ
あつもり
そは敦盛を組みしきながら助くる
段々、二心極まったり、この由、
鎌倉殿に注進せん︱︱という声で
はないが、起るべからざるところ
に、かまびすしい人声が起って、
しかもこちらへ向って大勢が走り
1032
でもして来るようです。
﹁仙台の親分︱︱仏の親分様﹂
わめく声は明らかに聞きとれる
ようになりました。
﹁聞分けのねえ奴等だ﹂
立つ時に子分共にあれほど言い
置いて来たのに、なまじ心配にな
ると見えて、あとを慕って来やがっ
たか、ちぇッ! 兵助はこうつぶ
やいていると、まもなく、木の間
1033
の茂みを分けてそこへ姿を現わし
た一隊は、案の如く数名の子分共
と、それからあとは湯治の団体客
の一群、それが真中に急仕立ての
やまかご
一梃の山駕籠を取囲んでいる。彼
等は息せき切って、この場へ駈け
つけて来て、
﹁親分、済みませんが、おあとを
慕って参りました、よんどころな
い仕儀が出来まして﹂
1034
﹁野郎共、あれほど断わって置い
たのに、ナゼ来た﹂
﹁まあ親分、聞いておくんなさい
まし⋮⋮﹂
﹁親分様︱︱わしが一通り申し上
げますから、まあ、お聞きなさっ
て下さいまし﹂
兵助の子分と、附添の村の老人
とが、ハッハッと息をつぎながら、
兵助に向って、何をか言わんとし
1035
てい
がてん
て言い切れない、事の体が合点の
行かない有様である。なお合点の
行かないのは、この同勢が中に取
囲んで来た急仕立ての山駕籠の中
に、一人の娘が息も絶え絶えに投
げ込まれている。
それは、お雪ちゃんが振袖姿で
胆吹を下って長浜へ出たのとは事
変り、右の娘は否応なしに、この
駕籠へブチ込まれて、やっさ、やっ
1036
かつ
さと大勢のために担がれて追いか
けて来たものと覚しい。ことにな
みは
およく見ると、兵助も、七兵衛も、
あき
呆れの眼を※ったのは、その駕籠
の中の娘が、それがさきほど、七
おとり
兵衛のために湯壺の中で囮に取ら
れた娘に相違ないから、何が何だ
かわからない面でいると、子分の
者と、団体客のうちの口利きが、
舌なめずりをしながら次の如く申
1037
します。
﹁親分︱︱いったん男に肌を見ら
れた女は、もう、ほかへお嫁に行
けねえんだそうでございます﹂
子分の一人が、だしぬけにこう
言い出したものだから、兵助が、
﹁何を言ってやがる﹂
そうすると、年役の老人が、
﹁まあ、親分、お聞き下さいまし、
わしらの土地の昔からの習わしで
1038
ございましてな﹂
﹁ふむ﹂
﹁昔からのならわしでございまし
て、娘のうちに男に肌を見られた
ものは、どんなに身分が違いましょ
うとも、年合いが違いましょうと
も、その男よりほかへは行っては
ならねえことになっているんでご
ざいます、見たものも因果、見ら
れたものも因果でございまして﹂
1039
﹁何だと、何とおっしゃる?﹂
しきたり
﹁そういう習慣でございます、そ
うして、この娘は、あの場で、こ
ちらのお客様にすっかり見られて
しまったんでございますから、も
う嫁にやるところもございません、
むこ
婿を取るところもございません﹂
﹁ナニ、何とおっしゃる?﹂
﹁それのみじゃございません、怪
我にでも一人の女の肌を見てしまっ
1040
たものは、否が応でも、その女を
自分のものにして面倒を見なけりゃ
・ ・ ・
ならねえおきてになっているので
たた
ございます、それをしなけりゃ村
こうじんさま
八分、いや、荒神様の怖ろしい祟
りがあるのでござんしてな﹂
﹁何だ、何だと、おかしな習慣も
あるもんじゃねえか﹂
あき
兵助も呆れたが、無言でいる七
兵衛はなお呆れていると、年役は
1041
続けざまに申しました、
﹁わしらが方では、名主様のお嬢
様がお湯に入っているところを、
雇人の作男がふと見てしまったばっ
かりに、そのお嬢さまは隣村への
縁談が破談になり、その雇男を、
夫に持たなければならなくなって
しまったことなんぞもございます﹂
じょうだん
﹁冗談じゃない、そんなことをし
ていた日にゃ、娘たちを銭湯へは
1042
やれねえ﹂
と七兵衛が口をさしはさむのを、
﹁何を申しましても、村の昔から
・ ・ ・
のおきてなんでございまして、こ
・ ・ ・
のおきてを破ると、孫子まで恐ろ
しい祟りがございます、そうして、
現在、この子はあなた様のために、
あの通りの目に会いました、善い
悪いは別にいたしまして、これが
この子の運でございます、もうこ
1043
の娘は、あなた様よりほかに面倒
を見ていただく人はございません
から、御迷惑さまながら、どこへ
でもこの娘をお連れなすっていた
だきたいのでございます﹂
﹁な、な、なんですって﹂
む
七兵衛は眼を剥き出しましたが、
﹁もし、あなた様がこの娘の面倒
を見て下さらなければ、この娘は
死ぬよりほかは行き場所のない子
1044
なんでございます﹂
﹁な、な、なんですって﹂
七兵衛は、続けざまにせき込ん
でしまいました。兵助もまた、あ
ふさ
いた口が塞がらない。さしもの二
人が立ちすくんでしまいました。
八十三
みなかたくまぐすおう
紀州の南方熊楠翁が、小説大菩
1045
薩峠の内容に就いて、近ごろ某氏
に寄せられた書簡中に次の如きこ
とがあります。
﹁又西洋一流ニ、水ニ溺レタル
婦女ハ、必ズ救ヒクレタル人ヲ
一生嫌フモノニ候、オ角トイフ
興行師ガ、房総海ニテ難船シ、
浜ヘ打上ツタ所ヲ駒井甚三郎等
ニ見出サレ、介抱サレ、引取ラ
たちま
レ、忽チ駒井ニ愛恋スル所アリ、
1046
コレハ西洋流ニ申セバ有リ得ベ
カラザル事ニ御座候、日本ノコ
トハ知ラザルモ、難産ヤ、子宮
患ナラ、命ヲ救ヒクレタル医者
ヲバ、其婦人ハ一生嫌ヒ、途上
ニ会フモ道ヲ避ケテ通レル事、
何カノ川柳ニ見及ビタル事アリ、
小生ノ宅ノ筋向フノ淵下︵明治
じゆすい
八、九年迄︶毎夏入水ノ女アリ
シ、小生何事モ知ラズ走リ行キ
1047
見ルニ、女ノ屍ヲ発見セシ男又
ハ見物ニ来タル男ハ必ズソノ秘
部ヲノゾキ見ルナリ、コンナ心
配アル故、一生溺レタ女ハ救ヒ
クレタル男ヲ避ケ嫌フ事ハ、日
本モ西洋モカハリナキト存候、
もつと
尤モアイリッシュノ婦女ナドハ、
裸体ヲ見ラレ、浴場ヲ覗ハレタ
上ハ、必ズ其男ノ申シ出ヲ拒マ
ズ、川村トテ明治十八、九年、
1048
米国ニ留学セシ男ガ、アイリッ
シュノ若キ女ノ入浴ノ処ニ行合
ハセ、別ニノゾカザリシモ、ソ
ノ女ニススメラレ結婚シ、ソレ
ヨリ非常ニ淪落シ、窃盗罪デ告
発サルルニ到リシ事アリ、コレ
ハ既ニ見ラレタル上ハト焼ケ糞
ニナル事ト存候︵印度モ同風ア
リ、賤民ガ死人ノ中ニ臥セル所
ヘ、方術ヲ修メニ行キシ王女ガ
1049
既ニ裸体ヲ見ラレタル上ハト王
ガ、其王女ヲ乞食ノ妻トセシコ
ト仏経ニ見エ候︶﹂
いずれにしても習慣の圧力は大
きい。すでに白日の下で、衆人の
環視する真中で、男に肌へ手を触
れられたことは隠す由もない。そ
くいけ
れは相手が全く見ず知らず、しか
いろけ
も色気があるわけでも、食気があ
るわけでもなんでもない、一方の
1050
生命の危険から、ほとんど天災と
いうよりほかはない女の立場であっ
たに拘らず、男に肌に手を触れら
れたという一点から言えば、団体
の総てが証明しなければならない
羽目に置かれた娘の運命は、気の
毒千万のものでありました。しか
も、その気の毒千万が、一時の急
場の怪我だと水に流してしまえな
い、湯で洗い切ってしまえない、
1051
否でも応でも手を触れた男に、こ
れからの運命を托してしまわなけ
ればならないとは、何たる不幸で
あろうぞ。しかも、なお、こうい
のっぴき
う退引ならぬ場合の避難の意味で
用いたひっかかりが、生涯この一
人の女性の面倒を見なければなら
ない負担として引きずられる、と
いうことになってみると、男の方
の迷惑もまた名状し難いものと言
1052
わなければならない。
入れかわり立代り事情を述べる
一隊の者の口上を聞いているうち
に、さすがの七兵衛も、全くむせ
返ってしまわざるを得ない。辞退
たちま
すれば忽ちこの娘の生命の問題と
なる︱︱そうかといって、この身
でこのまま、この年をして、この
娘を連れてどこへ行ける。
おおかたの場合に窮するという
1053
ことを知らぬ七兵衛も、今ここで
は、全く逃げ場を失って、思慮分
別が及ばなくなりました。かなわ
ほとけだの
ぬ時の仏頼み、おぞくも七兵衛は、
かぶと
またしても兵助の前に兜を脱いで、
﹁兵助さん︱︱お聞きなさる通り
だ、全く以て、こればっかりは挨
拶のしようがござんせん、親分、
何とかひとつ頼みます﹂
頼むと言われて後へは引けない
1054
はずの兵助も、この頼みは、よし
引受けたと言い切れませんでした。
七兵衛が衆に向って挨拶のしよう
がない如く、兵助は七兵衛に対し
て返事のしようがない。
しかし、誰か何とかきっかけを
つけなければならない。眼をつぶっ
ていた兵助は、この時、ブルっと
身震いをして立ち上り、
﹁せっかくだが、こういう挨拶は、
1055
わしにも不向きだ、まあ、降りか
かった災難だから、御当人が身に
引受けるほかには仕方がござんす
めえ。仕方がねえから、娘っ子を
連れて釜石までおいでなせえ、釜
石へ行けば、お前さんを乗せる船
が、ちゃあんと着いて待っている、
その船にゃ⋮⋮こらとらより、ず
んと優れたエライ方がおいでなさ
るんだ、その方に相談して何とか
1056
始末をつけておもらいなせえ、こ
さば
の捌きばっかりは兵助の手には負
えねえ﹂
こう言ったのは、まさしく七兵
衛の頼みを正面から突っぱねたも
ので、同時に兵助は群がる人を呼
んで、
﹁な、お前さんたち、こいつはお
れには口がきけねえから、お前た
ちの方で、この方を釜石の港まで
1057
お見送り申しな、そうして、今い
う通り、そこに結構な大船が着い
てござる、その中には、日本一の
知恵者がおいでなさるんだから、
そちらへ行って、ともかくも申し
上げてみな︱︱わしゃ、これで御
こうむ
免を蒙るよ、では七兵衛さん、御
縁があったらいずれまた⋮⋮﹂
兵助は、すっくと立って、あと
をも振返らずに、たった一人出て
1058
すが
行ってしまいます。その袖に縋る
しおきば
ことは、なんぼなんでも七兵衛に
はできない。
ぱら
八十四
こつ
百姓を斬って、骨ヶ原の処刑場
の中へ逃げ込んだ神尾主膳は、そ
れと知って思わずギョッとしまし
た。こういう際であるけれども、
1059
処刑場ときては、いい気持がしな
かったらしい。
だが、仕方がない、動くのは危
いまいま
険だが、こんな忌々しいところは
早く退散してしまいたい。しかし、
てんで方角がわからない。
なまくび
やむなく、生首の下にひそんで
暫く思案をしていると、あちらの
一方からチラチラと火の光が見え
て、たしかに幾人かの人がやって
1060
来る。執念深い追手だ︱︱だが、
先方は手に手にカンテラ様のもの
を携えているが、存外せかない。
悠々閑々とカンテラを振り廻しな
てい
がら歩いている体は、たしかに人
を追っかける追手の気色ではない。
ややあって、彼等は墓地の真中
おぼ
どころと覚しいあたりへ来て、
﹁どっこいしょ﹂
と言って、そこへ何物かを卸して、
1061
くるわざ
同時に丸くなって廓座をこしらえ
たものらしい。しばらくすると、
くるまざ
プシプシと木の燃える音、輪座に
なって、そうして焚火をはじめた
のだ。焚火の火が赤々と燃え上る
じんぴん
につれて、集まったやからの人品
こつがら
骨柄が、こちらの暗いところの神
尾主膳の眼にはっきりわかる。今
し﹁どっこいしょ﹂と言って、何
物かをどっさりと地上へ卸したそ
1062
じょれん
すき
の物体もよくわかる。それは鋤、
くわ
鍬、鋤簾のたぐいです。そうして
五六人、火を囲んだ連中の面ぶれ
を見ると、よくありがちの労働者
︱︱大きな口をあいて、首へよれ
よれの手拭を捲きつけて、仕事に
かかる前のおさき煙草。それを見
け ど
ると主膳は直ちに、こいつ墓掘り
おんぼう
だ、隠亡共だわい、と気取りまし
ぼけつ
た。隠亡が墓地へ墓穴を掘りに来
1063
るのはあたりまえの看板だから、
少しも恐るるには足りない。少な
くとも、自分を執念深く追いかけ
て来る追手の一隊ではないことは
明瞭であるから、その点は主膳も
安心したが、さて、隠亡にしても、
あいつらがああしている時に、うっ
かり音を立てて動いては、やはり
事こわしの部になる。あいつらが
仕事にかかるまで辛抱してやろう
1064
という気になりました。
ところが、その、あいつらの仕
はなは
事にかかるまでの時間が甚だ長い。
こっちの気も知らないで、大口を
あいて、いよいよ無駄話に夢中で
ある。くだらない者共だと忌々し
ながら、主膳はそのあいつらの言
こさい
うことを、巨細いちいち耳に受取
らないわけにはゆかない立場に置
かれてある。その無遠慮な隠亡共
1065
の問答の一ふし︱︱
﹁あしたあ、また、浪人者が八人
ばっか、斬られるだあ﹂
﹁八人斬られるかね、そりゃ、近
ごろの大漁だ、穴の方もそれだけ
・ ・ ・ ・
でっかく掘らざあなるめえ﹂
べえ
﹁そうだ、こねえだの倍くらいに
掘らざあなるめえがな﹂
﹁近ごろは、浪人者も、でえぶお
となしくなったらしいなあ﹂
1066
かもんさま
﹁そりゃ、掃部様の時代たあ、い
くらか違わあな﹂
すご
﹁掃部様の時代は凄かったなあ﹂
﹁凄かったあぜ、今日も、明日も、
たば
浪人共の首斬り、さらし、束になっ
て来るだあが、近ごろは浪人者が
おとなしくなったなあ﹂
﹁浪人がおとなしくなったじゃあ
るめえ、お役人の方がなまくらに
なったのじゃあんめえか﹂
1067
﹁そりゃ、そうだ、近頃ぁお役人
がなまくらになっただあ、浪人者
の方は、いい気になって、いよい
よあばれ廻ってるだあ﹂
﹁薩摩っぽうが、一番たちが悪い
ちうじゃねえか﹂
﹁ううん、長州の方が、もう一層
たちがよくねえんだとさ﹂
てえ
﹁町奉行の方が、浪人者に対して
怖れをなしてるんだから、いよい
1068
よ甘く見られちまわあな、それに
比べると、何といっても、掃部様
はエラかったな﹂
﹁掃部様はエラかったよ、浪人者
のめぼしい奴は、片っぱしから引っ
とらまえて、御三家であろうと、
大名であろうと、公卿侍であろう
と、容捨はなかったあ、掃部様は
豪勢だったよ﹂
﹁あの時にお前、やられた侍のう
1069
ちにゃ、またエライ奴がいたんだ
てな、長州の吉田寅次郎だとか、
越前福井の橋本左内だとか、梅田
うんぴん、なんて手合は、ザラに
あるインチキ浪士とは違って、惜
しい人物だって、みんなが言って
るが、そんなのを片っぱしからとっ
捕めえて、命乞いがあろうがなか
かぼちゃ
ろうが、南瓜をきるように、首を
ちょんぎってしまった、あんな芸
1070
当は掃部様でなきゃ出来ねえ﹂
﹁そうだ、そうだ、このごろの浪
人共ののさばり方といったら、いっ
てえどうだ、旗本の意気地なしと
きたらどうだい﹂
ますこう
﹁全く増公の言う通りだ、どだい
徳川の旗本が意気地なしだあから、
またもの くにざむれえども
そうだあから、又者の国侍共が、
浪士風を吹かして、お江戸の真中
をあの通りのさばり返っていやが
1071
る、旗本が意気地がねえんだ﹂
﹁そうだとも、旗本八万騎が何だ
い、旗本がすっかり骨無しになっ
ちまったから、浪人がのさばるん
だな、徳川の世も、こうなっちゃ
だぶつ
いよいよお陀仏だ﹂
﹁時勢が変動するよ﹂
それを聞くと、神尾主膳はムッ
おんぼうふぜい
と聞き腹です。隠亡風情として許
ぼうとく
し難き冒涜の言い草だ、隠亡風情
1072
までが、こうまで時の天下を見く
びるようになった!
神尾主膳は、追われている自分
の身の危険を忘れて拳を握り、髪
の毛を立てて怒りました。
八十五
しかし、いくらなんでも、この
際、飛び出して、隠亡相手に喧嘩
1073
な
を買って出るほどの無茶も為し難
おさ
い。やむなく、憤りを抑えて、な
お元のままでひそんでいると、隠
亡の時勢論は焚火の勢いと共にま
た火の手をあげる。
﹁もう一ぺん掃部様が出て来なく
ちゃ駄目だな﹂
﹁そうだ、もう一ぺん掃部様が出
て来て、浪人共に目にもの見せて
やらねえことにゃ、将軍様が持ち
1074
きれめえ﹂
﹁いよいよ江戸が将軍職を持ちき
れねえとなると、天下はどうなる
だあ﹂
﹁そりゃ薩摩にやられるだろうて
ことだぜ﹂
﹁薩摩っぽうが天下ぁ取るのか﹂
﹁そうよ、薩摩っぽうは、昔から
ねら
徳川の天下を覘ってるんだってじゃ
ねえか﹂
1075
うわ
﹁いいえ、薩摩より長州の方が上
て
手だってえ奴があるよ、徳川の天
下ぁ長州が横取りをすることになっ
てるだそうだ﹂
﹁太え奴等だな﹂
﹁太え奴等だが、こう旗本が意気
地がなくっちゃあ、本当に天下を
取られてしまうかも知れねえぜ﹂
﹁危ねえもんだ﹂
﹁どっちでもいいや、薩摩とか、
1076
長州とかが天下ぁ取った日にゃ、
徳川様ぁどうなるだ﹂
﹁この江戸の町はどうなるだ﹂
﹁そりゃ、徳川家は亡びるのさ、
江戸の町はみんな焼かれて灰になっ
ちまわあな﹂
﹁そりゃ大変だ﹂
しおきば
﹁そうなると、お処刑場もいらな
くなるな、おいらの仕事も上った
り、食うことができなくなる﹂
1077
﹁なあに、おいらたちなんざあ、
隠亡の仕事がなければ、また何か
かせ
稼ぐ仕事は出て来らあ、おれたちぁ
腕一本ありゃ、食いっぱぐれはね
えが、食えなくなるのは旗本だ﹂
﹁そうだ、徳川が亡びりゃ、八万
騎の旗本の知行が上ったりだ、そ
ひもの
うすると、八万枚の干物が出来ら
あ﹂
﹁くさやの干物なら、いつでも値
1078
売れがするが、旗本の干物はあん
まり売れめえ﹂
﹁意気地がねえなあ﹂
﹁ほんとに、ひとごとじゃねえ、
腹が立つよ、八万人もいたら、薩
摩や長州の一つや二つ、何とかな
りそうなものじゃねえか﹂
・ ・ ・
﹁ところが、何万枚あったって、
・ ・
いかやするめと同様、骨がねえん
だからやりきれねえ﹂
1079
﹁骨がねえのかな﹂
﹁骨っぽい奴がいねえんだよ、第
一、この間の長州征伐を見ろ﹂
﹁うん﹂
﹁長州征伐でもって、将軍様が出
かけてさ、関ヶ原この方の大軍を
よろい
集めたのはいいが、鎧の着方や、
馬の乗り方を忘れた旗本が片っぱ
しだったんだ﹂
﹁そればっかじゃねえ、箱根の山
1080
へ行くと、もう足が棒になって、
一足も歩けねえなんていう旗本が
ザラにあった、あれで、鎧を着て
戦争をしようてんだからスサまじ
い﹂
﹁そこへ行くと、長州には高杉晋
ぶつ
作なんてエラ物がいて、幕府の兵
隊の足許を見くびっちゃって、鼻
唄まじりで引寄せてはひっぱたき、
引寄せてはひっぱたき、幕府の兵
1081
こっぱみじん
隊を木端微塵にやっつけてしまう
というじゃねえか、戦争にならね
え、江戸の方は戦争したって勝つ
見込みはねえ、ただ何とかして体
裁を作って、早く引上げてえだけ
の話だってじゃねえか﹂
﹁そうなっちゃ、もう、士気が振
いくさ
わねえから、戦なんぞ勝てっこは
ねえさ﹂
﹁旗本が駄目なんだ︱︱だが、長
1082
州というやつも図太いなあ、てん
な
で将軍様を嘗めてやがるんだぜ、
この前、江戸から、ソラ、中根何
とかいう大目附がお使番として長
州へ乗込んだろう、あの時、お前、
幕府のお使番といやあ、将軍様の
みょうだい
名代だろう、そのお使番を長州が
なぶり殺しにしちまったんだぜ、
そうしてその言い草が、また図々
しい。それをお前、幕府の方で、
1083
てんで手出しができねえで、うや
むやにされちまったんだから、嘗
めたものだ、旗本もこう嘗められ
ちゃたまらねえ﹂
﹁それにお前、この骨ヶ原で、あ
しおき
の、それ、吉田寅次郎がお処刑に
なって、首が上ったろう、そうし
い
てお前たちと、あそこの角んとこ
どうなか
ろへ胴中を埋けたろう、そうする
と、お前、その翌日だったか、も
1084
・ ・ ・ ・
う長州ざむれえがやって来て、そ
の屍体を掘り出して、首をあの台
から卸してつぎ合わせて、同勢が
馬に乗り、槍をもって引上げて、
上野の三橋の前を大手を振って通っ
て行ったが、町奉行の役人は見て
見ねえふりさ。何しても長州ざむ
れえの元気はすばらしいが、江戸
の旗本はみじめなもんだ、骨がね
えんだ﹂
1085
﹁そうすると、徳川が亡ぼされて、
江戸が灰になって、旗本八万枚の
干物が出来るのも遠からずだあな﹂
﹁遠からずだあ﹂
神尾主膳は、もはや我慢なり難
く思いました。ところが人里を離
れた骨ヶ原の中で、往来の人もな
い、聞く人もないと思って、出放
おんぼうふぜい
題も程のあったものだ。隠亡風情
の身で、将軍家と旗本に向って、
1086
ぼうげんぞうごん
聞くに堪えぬ暴言雑言、憤怒に駆
られた神尾主膳は、前後をおもん
いとま
ぱかる暇もなく、
﹁コラ、無礼者、貴様たち、言語
しろもの
道断の代物、覚悟いたせ﹂
ば り ど ご う
こう言って、闇中から罵詈怒号
した神尾主膳の一言に、隠亡ども
たと
の驚愕狼狽は譬うるにものなく、
焚火を踏み越え、卵塔を飛び越え
て闇中を逃げ出しました。
1087
隠亡共を叱り飛ばすと共に、神
尾主膳もそれと反対の方面へやみ
くもに逃げ去りました。
八十六
それから、神尾主膳は、どこを
どうしたか、翌朝は根岸の三ツ目
屋敷に戻って来て、思いきり朝寝
をして、日のかんかんする時分に、
1088
さ
やっと眼が醒めました。
眼がさめたけれども、主膳は容
易に頭を上げません。この人は、
そう早起をする男ではないけれど
も、眼が醒めれば直ぐ人を呼んで、
何かと仕事を命ずる癖のある男で
すが、今朝に限って、眼がさめた
に拘らず、自ら起き上るでもなけ
れば、人を呼ぶということをいた
しません。
1089
ぽっかりと眼をあいて、夜具の
中で天井を見ているだけです。
本来ならば、昨日来、あんな行
あ
いをしでかし、あんな目に遭って、
てい
ほうほうの体でわが家へ逃げ込ん
や け
で来たのだから、目がさめるや否
かんしゃくだま
や、癇癪玉が勃発し、自暴がこみ
上げて、婆やを呼びつけて自暴酒
を言いつけるくらいのことはある
べきはずでしたが、それにしては
1090
今朝はおとなしい。病気でもある
のかと思えば、そうでもない。三
らんらん
ツ目の眼は爛々と光って、そうし
て無意識に天井を見つめている形
なま
相は、やっぱり生やさしいもので
はなかった。やがて、自暴とも歎
息ともつかない太い息が、潮を吹
いた鯨のように、天井に向って立
ちのぼったが、
﹁ああ、ああ、ああ、ちぇッ﹂
1091
という号音が起りました。
にら
神尾主膳は、ぽかんと天井を睨
んでいるだけではなかったのです。
無意味に起きも上られなかったの
ではない、何か知らない重圧力が、
自分の頭と胸とに加わっていて、
それが、眼がさめた後も、急に取
払いきれない、その重圧のために、
失神したもののように、暫く官能
が停滞状態に置かれてあったとい
1092
うだけで、やっと少しはその重圧
がとれたと思う隙に、右のような
号音を立てて、
﹁うむ、うむ、うむ、おりゃ、死
ぬよ、死ぬよ、おれは徳川のため
に死んでみせるよ、誰が何と言お
うとも、おれが一人、江戸の城を
しとね
枕にして、この槍を衾にして、死
んでみせるよ﹂
とうなりました。
1093
うわごと
これは譫言ではなかったのです。
眼がさめて、正確な意識を取戻し
ひとりごと
た時の独語でありました。
昨夜、骨ヶ原から、夢中で、ど
こをどう通ったか、自分ではかい
もく自覚しないながら、とにかく
根岸の里へ転げ込んで、あやまた
ず我が家へ逃げ込んだことは、夢
でなくして夢同様であって、自分
で自分の行路がわからないけれど
1094
も、その間、この頭が烈火の如く
燃えさかっていたことだけはよく
覚えている。その燃えさかる憤怒
の一念で頭がいっぱいであって、
そら
走る足は空であったことは覚えて
いる。
おん
彼は何をそれほど憤ったか、隠
ぼうふぜい
亡風情までが、天下の時勢を論ず
る生意気を憤った。隠亡風情にま
で見くびられる徳川の末世を憤っ
1095
た。いかに末世とは言いながら、
人間の数に入り難き非人共が、人
に聞かれぬところとはいえ、あの
ぼうとく
無礼極まる雑言、冒涜、非倫のほ
ざき方はどうだ。かつまた、わが
旗本に加えたあの極度の侮辱の言
動はどうだ。八万枚の干物が出来
る、長州にやられる、薩摩にやら
れる︱︱今や江戸と旗本は、天下
に見くびられものの見本となって
1096
いる。
神尾は、隠亡風情の侮辱を、火
のようになって憤ったが、その鬱
憤を吹っかけるに相手がなかった、
酒がなかった。
そのまま、紛々乱々として、辛
うじて眠りについて今朝になって
みると、酒の気が抜けていたせい
か、変に気が弱くなっている。弱
くなったのではない、考えさせら
1097
れるものがあって頭が重いのだ。
事実、果して今の徳川の天下は、
あいつら隠亡共が、骨ヶ原の一角
から見たような世相になっている
のかしら︱︱おれは時事問題など
に頓着はない、なあに、三百年来
の徳川だ、神祖の威光を以て天下
を預っている徳川だ、西国方の大
おの
小名どもが束になってかかろうと
とうろう
も、歯が立つものか、蟷螂の斧だ、
1098
いざとなれば旗本八万騎が物を言
や
う、痩せても枯れても三百年来の
江戸だ︱︱今日までタカをくくっ
ていたのだが、時勢が、事実そん
なに急激に変動して来たのか。
徳川を倒して、第二の幕府を作
おんぼう
るものは薩摩だと、あの隠亡らま
とりざた
でが取沙汰している。薩摩でなけ
れば長州だと、相場がきまったよ
うなことを、あいつらまで言って
1099
いる。事実はほんとうにそこまで
行っているのか。
事実、そういう場合になったと
したら、おれはどうなるのだ、お
れは先祖以来の家格を棒に振って
はいるけれども、それでもこうし
てのさばって生きていられるのは、
江戸というものがあればこそだ、
甲府勝手にも廻されたし、知行所
へ押込め隠居にもさせられたが、
1100
結局、江戸という後ろだてと家格
があればこそ、こうして自堕落に
ものさばっておられるが、万一、
江戸が灰となった日には、どこへ
行って、どうして生きるのだ。
神尾主膳は、それを今、考えさ
せられているために枕が上らない
ので、およそ神尾として、今日ま
で、さきからさきを考えて生活し
たというようなことはない。それ
1101
が珍しく将来の生き方について考
えさせられているために、頭が重
いのです。
ずいぶん長い間、こういう姿勢
を以て、身動きもせず天井を見つ
めていたが、またも、霧を吹くよ
うな吐息をついて、
﹁なあに、死ぬよ、死ぬよ、その
時になれば、おれは誰よりも先に、
江戸の城を枕に死んでみせるよ、
1102
腕のつづく限り、この槍一本が砕
けるまで突きまくって、死ぬよ、
また
死ぬよ、ちぇッ、薩摩、長州の又
もの
者の下について、この神尾が生き
ていられるか!﹂
八十七
神尾主膳をして、極めて順当に、
﹁おれは徳川のために死ぬよ﹂の
1103
言葉を発せしめたのは珍しいこと
です。この珍しい素直さを取戻し
てみると、それからのこの男の頭
めいせき
が驚くばかり明晰なものとなりま
した。考えてみると、それもそう
だな、徳川をそんなに弱いものに
したのは、旗本が意気地がないん
だ、おれが悪かったんだ、おれた
ちが衰えたから、それで天下がグ
ラついて来たのだ、いまさら誰を
1104
恨まんようはない!
神尾は、いよいよ珍しくも、外
へ向って発する鬱憤を、内に向っ
かえり
て省みる心持にさせられている。
こういうことは全く異例であるけ
れども、これも一つは酒というも
のが、傍らにいて焚きつけること
をしない一つの作用であると見れ
ば見られる。昨夜あの通り転げ込
んで、座右に酒がありさえすれば、
1105
むやみやたらにあおりつけて、そ
の結果はどうなったか自分でもわ
からない。今朝、眼がさめて人か
酒があったならば、それを引寄せ
ろうぜき
て、またどういう狼藉がこの場に
行われたか、それも予想の限りで
はなかった。人がいたにしても、
酒の種が切れていた。今朝も同様
⋮⋮酒が傍らにないために、外に
発する狂乱を、内に顧みる内省に
1106
してくれたことは是か非か。
こうなると、神尾の頭はいよい
よ重い。もう酒を呼び疲れている。
さりとて、飯を食う気にもなれな
い。起き上る気にさえもならない。
ふとん
蒲団の腐るまで、こうして仰向け
に寝ていることが本望だ。
神尾の三つの眼が天井に向って、
或いは燃え、或いはうつろのよう
に冷え切って見つめている。日は
1107
高くのぼったが、どうやら曇り日
になったらしい。門がとざしてあ
るから、今日は子供らも近づかな
い。主膳はやがて少しくまどろん
だ。まどろんだ時間がどれほどで
あったかは知らないが、中ごろで
不意に呼びさまされた。
﹁殿様⋮⋮殿様﹂
二声つづいて呼ぶ声を、うたた
ねの小耳にはさんだから神尾主膳
1108
が、
﹁誰だ﹂
びた
﹁鐚でございます﹂
﹁鐚か﹂
﹁鐚でございます﹂
﹁鐚、貴様も生きていたか﹂
﹁殿様も御無事でいらっしゃいま
したか﹂
つら
﹁そこをあけて面を見せろ﹂
﹁はい、殿様︱︱この通りの面で
1109
ございます﹂
ふすま
隔ての襖を八寸ばかり開いて、
面を見せたその面は、ガスマスク
をかぶったように繃帯で巻かれて
いましたから、神尾も少し驚いて、
﹁どうした、鐚、その面は⋮⋮﹂
﹁これと申すも、誰を恨みましょ
う、みんな殿様の為させ給う業で
ございます、今日は恨みに上りま
した﹂
1110
﹁ふーん﹂
と神尾は、ガスマスクのように繃
帯した鐚の面を見直したが、今日
は滑稽な感じがしない。
く や
﹁恨めしいやら、口惜しいやら、
今日お目通りをした以上は、思い
切って損害賠償を申し立てましょ
うと、歯がみをいたしながら推参
いたしましたが、本来が忠義骨髄
やす
の鐚、すやすやとお寝みの殿のお
1111
寝息をうかがいますると、やれ御
まずもっ
無事でいらせられたかと、昨日来
もろ
の恨みは脆くも消えて、先以て嬉
か
し涙に掻きくれたような次第でご
ざいます﹂
﹁とにかく気の毒だったな、おた
がいに昨日はあぶなかったよ﹂
﹁そのお言葉で、鐚はもう成仏で
ございます、本来、忠義骨髄の鐚
の儀でございますから、殿のお為
1112
めならば、この面なんぞは三角に
なりましょうとも、いびつになり
ましょうとも︱︱そんなことを気
にかける鐚ではございませんが、
それにしても、あれはかわいそう
でございましたよ、水戸在のあの
お百姓は、かわいそうでござんし
た﹂
﹁うむ﹂
﹁あれは、たしかに殿様の方が御
1113
無理でござんしたな、百姓なるが
故に憎い、憎いが故に斬らざるべ
からず、これでは立つ瀬がござん
せん⋮⋮﹂
﹁言うな、言うな、そんなことは
もう言って聞かせてくれるな、そ
れよりは、貴様にそれだけの怪我
ふびん
をさせたのが不憫だ、そのうち埋
合せをするから辛抱しろ、それは
そうと鐚、今日はゆっくり話して
1114
行け、あの向うの戸棚にお絹のや
つの夜具蒲団があるから、あれを
引出して、そこへ敷いて休め、寝
物語とやらかそう﹂
神尾主膳は、寝ながら、こちら
あご
を向いて腮で隣室の方へ指図をし
ました。
八十八
1115
﹁では、まあ、お言葉に甘えて、
遠慮なく⋮⋮殿の枕席にいや、ど
うも、お新造のおぬくもりのお夜
具蒲団を拝借に及びまして、鐚、
恐縮⋮⋮﹂
鐚は神尾の指図に甘えて、言わ
れた通り隣室の戸棚から、お絹が
専用の夜具蒲団を取り出して敷き
のべながら、蒲団へ鼻を押当てて
臭いを嗅ぐような仕こなしまでし
1116
ながら、
こうむ
﹁では、御免を蒙ることにいたし
あか
まして、お新造お垢つきのお夜具
⋮⋮枕席⋮⋮﹂
減らず口を並べ、ぬくぬくとも
ぐり込んで、頭ばかりを夜具の上
に出して、主膳の方に向って、繃
帯だらけの面に眼をぱちくりさせ
ていると、神尾主膳は仰向けに寝
て正面を切りながら、
1117
﹁鐚、おれは今日まで、市井一般
の暗い方の世の中は、ずいぶん見
飽きるほど見ている身だが、眼を
あげて、天下の大勢という勢いを
見る暇がなかったんだ、どうだ鐚、
今、天下の大勢はどうなっている﹂
﹁これは驚きました、鐚に向って、
天下の大勢をお問合せになる︱︱
これは驚きました﹂
﹁驚くがものはないよ、貴様だっ
1118
て江戸ッ児の端くれだろう﹂
﹁江戸ッ児、江戸ッ子、まことに
その通り、こう見えたって、鐚は
江戸ッ子のキチャキチャなんでげ
す、端くれはお情けねえ﹂
﹁チャキでもキチャでもそれはか
まわんが、貴様といえども、いや
しくも江戸に生れ、三百年来、直
接に徳川のおかげを蒙って今日に
ありついている一人だろう﹂
1119
﹁いや、いよいよ事重大になりに
けり、左様に、四角張って戸籍調
べを遊ばすまでもなく、鐚といえ
ども三百年来の江戸の土虫、まさ
にその通りでないと誰が申しまし
た﹂
﹁よし、まさにその通りとしたら、
もしここに、仮りに徳川の天下が
亡びて、この江戸中が灰になって
しまったら、どうする﹂
1120
﹁いや、こいつはまた、事重大を
過ぎて、まさに破滅の時代とはな
くぼうさま
りにけり、公方様の天下が亡びて、
江戸中が灰になる⋮⋮鐚なんぞは、
左様なことを考えたこともござい
ません、考えることもできません
な、でございますから、こればっ
かりは御返事の限りではございま
せん︱︱七里けっぱい﹂
﹁仮りにだな︱︱薩摩とか、長州
1121
いなかざむらい
とかいう田舎侍がやって来て、こ
くつがえ
の徳川の天下を覆し、江戸中へ火
をつけて焼く、そういう暁になっ
たら、貴様も江戸ッ子の一人とし
て、どういう進退をするか、それ
をためしにひとつ聞いて置きたい﹂
﹁鐚なんぞをつかまえて、そうい
う試験地獄におかけあそばすのは
罪でございますよ﹂
﹁罪と罪でないとに拘らず、現在、
1122
目の前にそういう時勢が現われて
来たとしたら、何と身の振り方を
つけるか、それを聞かしてもらい
てえ﹂
﹁お許し、そういう重大な問題は、
にな
全く以て鐚の頭では荷いきれませ
ん﹂
﹁返答ができないのか﹂
﹁どうか、御免を蒙ります、もっ
とやさしい、鐚は鐚相当のところ
1123
で、一年生でひとつ試験問題の御
下問が願えてえもんで⋮⋮﹂
﹁試験ではない、実際問題なんだ、
自分の目の前に即刻現われた問題
として返事をしてみろということ
なんだ、むずかしくとる必要はな
い、たとえば、安政の大地震の時
のようにだ、今度は地震ではなく、
外敵が不意に押しかけて来たとし
たら、貴様は、どう身の振り方を
1124
つけるか、それを端的に返事をし
てみろというだけのものだ﹂
﹁地震でげすか、地震ときちゃあ、
鐚は最も虫が好かねえんでげすが、
さりとて、それござんなれと、鎧
なまずたいじ
兜で鯰退治に出動という勇気はご
ざんせん、まず、何を置いても、
三十六計逃げるに越したことはご
たけやぶ
ざいません、逃げるには、竹藪の
方へ逃げた方がよろしいと教えら
1125
れておりますんでございますが⋮
⋮﹂
﹁そうか、地震なら逃げ出す、そ
うして、もしそれが敵だったらど
うだ、この江戸を仇となすやつが
他国から押寄せて来た日には⋮⋮
いやいや、やっぱり逆戻りだ、考
えてみると鐚、貴様には荷が勝ち
過ぎた試験だ﹂
1126
八十九
﹁落第でげすか﹂
﹁落第というものは、ともかく試
験をうけて上のことだが、貴様の
は落第にも至らない⋮⋮まず低能
だ﹂
﹁ナ、ナンとおっしゃりました﹂
﹁低能だよ﹂
﹁低能︱︱低能と申しますと、ま
1127
ず一人前に通用しない、馬鹿といっ
た異名でございますね、そうおっ
びた
しゃられちゃあ、鐚もあとへ引け
ません﹂
﹁怒ったな﹂
﹁怒りました、人間、低能呼ばわ
りをされて、怒らない馬鹿はあり
ません、怒りました、真に怒りま
した﹂
﹁そうだ、低能と言われて憤りを
1128
発した貴様は、まだ脈がある﹂
﹁脈どころじゃございません、こ
かんしゃくだま
の通り、癇癪玉が破裂いたしまし
た、さあ、こうなった以上は、矢
でも鉄砲でも持っていらっしゃい、
殿様のお出しなさる試験を立派に
受けてごらんに入れます、試験地
獄の突破﹂
﹁頼もしい、その意気、さて、貴
様もいよいよ江戸が灰になるとい
1129
う時分に、その意気と、憤りを発
して、節を屈せずという勇気があ
ればめでたいもんだが、いざとな
マージャン
るとそうは参るまい、麻雀がはや
れば麻雀、競馬がはやれば競馬、
貧窮組が盛んな時は貧窮組に走り、
公武合体という時節には公武合体
へおべっか︱︱貴様なんぞは、そ
れで生きて行けばいいんだ、だが
三百年来の徳川の旗本となってみ
1130
や
ると、痩せても枯れてもそうはい
かないからな⋮⋮﹂
﹁上げたり下げたりもいいかげん
になさい、いかに鐚の面がいびつ
になりたてにしてからが、それじゃ
あんまりお言葉が過ぎます、そこ
までお見限りでは、鐚は泣きます、
く や
口惜しい﹂
﹁いいよ、いいよ、そう昂奮する
きず
と創にさわる、退屈まぎれに貴様
1131
に試験をかけたまでだ、試験問題
一切、水に流すから心配するな、
そうして、もうそんな七むずかし
い問答はやめて、もっと面白い、
しゃべ
貴様のおはこの陽気なやつを喋れ
⋮⋮今度はおれが聞き役になって
やる﹂
かくなだめられて、本来おっちょ
こちょいの鐚はたちまちケロリと
して、
1132
ラシャメン
﹁ではひとつ、洋妾立国論以来の、
鐚独創の名趣向をお聞きに入れま
すかな﹂
﹁聞かしてくれ﹂
﹁ではひとつ、その洋妾立国論以
来の⋮⋮﹂
﹁洋妾立国論は、貴様の身上とし
ては、なかなか聞ける説だよ﹂
﹁共鳴にあずかって恐悦⋮⋮すべ
て議論というやつは、知己を待っ
1133
てはじめて言うべきでげして﹂
﹁洋妾立国論には相当に信者が出
来たか﹂
﹁出来た段じゃございません、今
や信仰の域を過ぎて、実行の境に
まで漕ぎつけているんでございま
して⋮⋮﹂
おの
鐚は、己れの日頃の持論である
や ゆ
﹁洋妾立国論﹂を神尾から揶揄さ
れて、かえって得意満々の色を見
1134
せました。彼の珍論﹁洋妾立国論﹂
なるものは、本小説﹁恐山の巻﹂
の百二回から百三回までのところ
を見るとよくわかるが、その要領
は次の如きものです。
﹁現に相州の生麦村に於て、薩
摩っぽうが、無礼者! てんで、
毛唐を二人か二人半斬ったはよ
ろしいが、その代りに、みすみ
す四十四万両てえ血の出るよう
1135
な大金を、異国へ罰金として納
め込まにゃなりやせん、長州の
菜っぱ隊が、下関で毛唐の船と
うち合いをして、日本の胆ッ玉
を見せたなんぞとおっしゃりま
きた
すが、その尻はどこへ廻って来
りましょう、みんな、徳川の政
府が、このせち辛い政治向のお
台所から、血の出るような罰金
として、毛唐めに納めなきゃあ
1136
ならない次第でげす︱︱そこへ
行きますてえと、何といっても
エライのは日本の絹と、ラシャ
メンでげすよ、日本の絹糸は、
どしどし毛唐に売りつけて、こっ
ちへ逆にお金を吸い取って来る、
それからラシャメンでげす、ラ
シャメンというと品が下って汚
いような名でげすが、名を捨て
て実を取る、というのがあの軍
1137
法でげしてな﹂
しか
而して、鐚のいわゆる﹁ラシャ
メン立国論﹂なるものは、つまり
おみなへし
次のような論法になるのである。
いと
露をだに厭ふ大和の女郎花降る
あめりかに袖は濡らさじ︱︱なん
てのは、ありゃ、のぼせ者が作っ
た小説でげす。
拙が神奈川の神風楼について、
実地に調べてみたところによると、
1138
くう
その跡かたは空をつかむ如し、あ
れは何かためにするところのある
奴が、こしらえた小説でげす。
事実は大和の女郎花の中にも、
袖を濡らしたがっている奴がうん
とある。毛唐の奴めも、女にかけ
ては全く甘いもんで、たった一晩
にしてからが、洋銀三枚がとこは
出す。月ぎめということになるて
えと、十両は安いところ、玉によっ
1139
ては二十両ぐらいはサラサラと出
す。そこで、仮りに日本の娘が一
万人だけラシャメンになったと積っ
かせ
てごろうじろ、月二十両ずつ稼い
で一年二百四十両の一万人として、
年分二百四十万両というものが日
本の国へ転がりこむ。これがお前
もとで
さん、資本要らずでげすから大し
たもんでげさあ。
1140
得意満面で、この種の持論を唱
えている鐚公は、さて改めて、何
の独創的珍趣向を持ち出すか。
九十
この鐚というおっちょこちょい
は、実の名は金助であるが、貴様
きん
のような奴に金は過ぎる、鐚で結
構と言われて、その名に納まって
1141
いる人間である。
鐚は今﹁ラシャメン立国論﹂の
持論が、かねて心ある人を傾聴
︵?︶させていることを得意とし
ていたが、今日は改めて、それに
まさる一大創案を案出したかの如
く、勿体をつけて、そうしてまず
神尾の前に次の如く披露しました。
﹁拙の案ずるには、近い将来に於
て﹃帝国芸娼院﹄てえのを一つでっ
1142
ち上げて、世間をあっと言わせて
みてえんでございます﹂
﹁ナニ、帝国︱︱何だって?﹂
﹁帝国芸娼院てえんでげす﹂
﹁帝国はわかっているが、ゲイショ
ウインてのは何だ﹂
﹁芸者の芸という字に、娼妓の娼
という字を書きますんでげす﹂
﹁そりゃ、いったい何だ﹂
﹁そもそも、設立の趣旨てやつを
1143
申し上げてみまするてえと、本来
が、毛唐というやつがまだ本当の
日本を認識していねえんでげす﹂
﹁ふーん﹂
﹁日本人、ナカナカ、キツイあり
ます、刀を使う上手アリマス、人
を斬る達者アリマス、勇武の国ア
リマス、ただ、芸事できない、芸
事できない国野蛮アリマス︱︱こ
しゃく
うぬかしやがるのが癪なんでげし
1144
て﹂
﹁ふーん﹂
﹁異人館なんぞへまいりますと、
テーブルの上で毛唐の奴がよくこ
うわさ
んな噂をぬかしやがるんでげす、
そのたびに拙ははっぷんをいたし
ましてね﹂
﹁ふーん﹂
﹁ばかにしなさんな、日本にも、
このくらいの芸事がある︱︱てえ
1145
ところを一つ、見せてやりてえん
でげして﹂
﹁ふーん﹂
﹁さすがに、鐚の眼のつけどころ
はエライ︱︱とおっしゃっていた
だきてえんでげす﹂
﹁ふーん﹂
﹁そこで、その帝国芸娼院てやつ
を大々的にもくろみの⋮⋮日本に
は芸妓でさえ、これこれの芸術が
1146
ある、遊女でさえも高尾、薄雲な
んてところになると、これこれの
文学があるというところを、毛唐
に見せてやりてえんでげすが、い
かがなもので﹂
﹁そうすると、つまり、日本中の
芸者と女郎を集めて、毛唐に見せ
もくろみ
てやりてえと、こういう目論見か﹂
﹁いいえ、どうして、そんな単純
な、浅はかなんじゃござんせん、
1147
日本のあらゆる芸事という芸事の
粋を集めて、これこの通りといっ
て、毛唐に見せてやりてえんで、
芸娼院という名は仮りに鐚がつけ
てみただけのものなんで、もっと
しかるべき名前がありさえ致せば、
御変更のこと苦しくがあせん﹂
﹁日本のあらゆる芸事という芸事
の粋を集めるんだって、ふーん、
なかなか仕掛が大きいんだな﹂
1148
﹁仕掛が大きいだけに、人選てや
つがなかなか難儀でげして、まず
あらゆる芸人という芸人の、粋の
粋たるもの百人を限って選り抜き
ます﹂
﹁ふーん﹂
﹁なにも、芸娼院と申したところ
が、芸妓と娼妓ばっかりを集める
という趣意ではがあせん、とりあ
えず美術でげす、日本は古来、美
1149
たっと
を尚ぶ国柄でげして、絵の方にな
かなか名人が出ました⋮⋮﹂
﹁ふーん﹂
﹁ところで、とりあえず狩野家の
各派の家元を残らずメンバーに差
加えます、それから、四条、丸山、
南画、北画、浮世絵、町絵師の方
の、めぼしいところを引っこぬい
てこれに加えます、拙が見たとこ
ろでは、絵かきの方から都合五十
1150
八名ほど選りぬきの⋮⋮﹂
﹁ふーん、してみると、貴様の目
論見の芸娼院は、絵かきが大半を
占めてしまうんだな﹂
﹁是非がござんせん、日本は古来、
美術の国柄なんでげすから﹂
﹁ふーん﹂
げさく
﹁それから戯作の方なんでげす、
これは刺身のツマとして、八名ば
かり差加えようてんで⋮⋮﹂
1151
﹁絵かきが五十八人もいて、文書
きが八名では比較が取れまい﹂
﹁なあに、文書きの方は、どうし
ようかと考えてみたんでげすが、
も
拙がひそかにこの計画を洩らしや
すてえと、ぜひ、幾人でもいいか
ら差加えていただきてえ、絵かき
の下っ端で結構、刺身のツマとし
て、ぜひ差加えていただきてえと、
先方から売り込んで来るんでげす
1152
から、退けるわけにいかねえんで
げす、そこで刺身のツマとして文
書きを八名ばかりがところ、差加
えてやることに致しやした﹂
﹁ふーむ﹂
﹁それから、書道の方でがす。次
は、役者︱︱この役者てえやつが、
ひいき
おのおの家柄があったり、贔屓が
あったり、それに頭数が多かった
りして、いちばん事めんどうなん
1153
でげして、鐚もこれが人選には困
難を極めやした﹂
﹁ふーん﹂
﹁それから、長唄、清元、芸妓の
方からは誰々、お女郎の方からは
これこれ︱︱和歌と、発句と、ち
んぷんかんぷん︱︱委細のわりふ
かお
りと、面ぶれは、この一札をごら
ん下し置かれましょう﹂
こう言いながら、鐚助は枕許の
1154
鼻紙袋をかき寄せて、その中から
何か書きつけた紙切れの折畳んだ
のを引っぱり出して、神尾の方へ
突き出しました。
﹁これが、拙の苦心惨憺になる帝
国芸娼院の面ぶれなんでげして、
これを早く発表いたしますてえと、
あっちからも、こっちからも苦情
がつく、こういうことは、得てし
て、お安いところで手っとり早く、
1155
でっち上げてしまわなけりゃ物に
なりやせん﹂
神尾は寝ながら、鐚の差出した
人選表なるものを受取って、
﹁ふーん﹂
と言いながら、面前にひろげて読
みはじめている。
得意気に、側面から、この面色
うかが
を窺いつつ鐚が言いつづけます、
﹁いかがなもんでげす、多少の議
1156
論はございましょうとも、まず、
当世、百と限りますてえと、そん
なところじゃあがあせんか﹂
﹁ふーん﹂
﹁あれを取れば、これを捨てなけ
ればならん、これを捨てては、あ
れが立たず⋮⋮という苦心惨憺の
ところを買っていただきてえ﹂
﹁ふーん、何だと、ひとつ読み上
げてみようか。まず絵かきで、狩
1157
野迷川院、谷文昌︱︱それから、
歌川虎吉に、国定国造、ふーん、
おれの知っている名前もある、知
らねえのもある﹂
﹁そっちの方は、それは日本絵所
人別帳をすっかりそのまま並べた
んでげすから、文句はござります
まい﹂
﹁ところで文書きの方は︱︱こう
と﹂
1158
﹁為永春水︱︱柳亭種彦、あたり
を筆頭と致しやして、木口勘兵衛、
乞田碁監、徳利亀八、生井北風、
胸悪ハクショウ⋮⋮﹂
﹁ロクでもねえやつらだな﹂
﹁いずれも当代の選り抜き、現在
の我が国にも、これだけの芸人が
いるてえところを毛唐に見せてや
るには不足はござんすまい﹂
﹁ふふーん﹂
1159
﹁なお、人選に御異議があるとか、
おぼしめ
御不足があるとか思召したら、今
のうちにおっしゃっていただきて
え﹂
さら
﹁恥を毛唐にまで晒し、お笑い草
を後の世にまで残すためにゃ、こ
びた
んなことも鐚相応のもくろみだ、
やるんなら、邪魔が入らねえうち
に、お安いところで手っとり早く
やんな﹂
1160
﹁有難え︱︱御異議がなければ、
これで御披露の︱︱お安いところ
で手っとり早く﹂
﹁万事、お安いところで手っとり
早くやらなけりゃ手柄にならねえ。
やんな、大いにやってみろ﹂
﹁ことごとく殿様の御賛成を得て、
鐚一代の光栄。やります。これを
御披露に及べば、これこそ一代が、
あっ! さすがに鐚だ! よくま
1161
あこの難物を、こうも手際よく、
まと
お安いところで手取り早く纏めも
まとめた、さすがに鐚だ、鐚ちゃ
んに限る、鐚ちゃん、あんた、人
が悪いわ、鏡のおいらんを入れて、
なぜ蓮池の姐さんを入れないの、
にら
恨むわ、なんて睨まれるが怖いん
でげす。そこはそれ、断の一字で
げしてね、かく致してお安いとこ
ろで、手取り早くまとめてしまっ
1162
てからの万事でげす﹂
﹁しっかりやれ! 鐚が男を上げ
るか、下げるか、この一戦にあ
り!﹂
神尾が、うわごとのように、む
やみにけしかけるものですから、
むしょう
鐚の野郎が無性に嬉しくなってし
まいました。
神尾としては、お安い野郎には
お安い仕事をさせて置くに限る、
1163
お安いところで、手っとり早く手
柄をさせたつもりで喜ばして置け
ばいいと、深くとり合わないでい
るらしいが、実は心はそこにあら
ずして、目ざめてから以来の、神
尾としては全く異例な頭の置きど
ころに安定を求めているらしい。
すなわち、神尾の頭では、果し
て徳川が亡びた暁には⋮⋮天下が
田舎侍の手に帰した時、我々旗本
1164
として、甘んじて、その下風に立っ
て制を受けていられるか、芸娼院
のやからならば知らぬこと、やく
ざというやくざをし尽してはいる
が、おれは先祖以来の徳川の旗本
だ、おれはこれだけの人間だが、
先祖の血が許さない。
死ぬ! おれは徳川のために死
ぬ、江戸の城を枕に、江戸の町が
灰になる時は、おれの面目も灰に
1165
なる時だ! おれの死ぬのは、お
家大事のために死ぬのじゃない、
今さらそんな忠義面をするほど、
おれは本来、利口に出来ていない
のだ、徳川のために死ぬのじゃな
い、薩長共が憎いから死ぬという
わけでもない、神尾は神尾として、
曲りなりにも︱︱曲りなりなんと
いうと、曲らないところもあるよ
うに受取れそうだが、おれが今ま
1166
での生活で、どこに曲らないとこ
ろがある、曲り切って、それを押
通してここまで生きて来たのも、
生かされて来たのも、煎じつめる
と、江戸勢力下なればこそのこと
だ、つぶれても、倒れても、旗本
こけん
の沽券がものを言えばこそのこと
だ、おれは外藩の又者共が、のさ
ばり返る世の中に生きちゃいられ
ねえ、忠義じゃない、意地だ、徳
1167
川のために死ぬんじゃない、神尾
主膳の面目のために死ぬんだ、立
派に死ぬよ!
神尾の頭の中は、その覚悟で一
杯になりきっている。それとは知
らず鐚は、今日は珍しく、神尾が
自分の名案にケチをつけず、一も
二もなく賛成してくれることに有
頂天になり、お安いところで一刻
も早くこの名案に目鼻をつけて、
1168
江戸中をあっ! と言わせなけれ
ばならないと、夢中になって、芸
娼院のことを考えている、その徹
底的に恥のない生き方を見ると、
神尾も苦笑せざるを得ない。国家
もくろ
興亡の際に、芸娼院の設立を目論
んで、有頂天になっている。
人生、鐚となって生きるか?
神尾となって死ぬるか?
それだけの問題だよ⋮⋮神尾は
1169
うそぶ
嘲笑しながら嘯きました。
九十一
尾張名古屋城下第一の美人とう
ぎんなんかとう
かじかわ
たわれた銀杏加藤の奥方と、その
いつまる
弟伊都丸と、岡崎藩の美少年梶川
よのすけ
与之助のその後の物語が、久しく
打絶えておりました。
その記憶をよみがえらせるため
1170
あ い
に、読者諸君は大菩薩峠の﹁年魚
ち
市の巻﹂から﹁不破の関の巻﹂あ
たりをもう一度読み返していただ
きたい。
名古屋の城の見えるところを立
去りたくないという姉と、肥後の
熊本へ帰りたいという弟との意向
の相違が、病める弟のいじらしさ
に引かされて、姉なる銀杏加藤の
奥方は、ついに主従引具して、尾
1171
張の清洲の山吹御殿から、肥後の
熊本へ向けて出立することになり
ました。
やむを得ざる武士道の意気地か
ら人を斬って、三州岡崎城下を立
退くことになった、伊都丸の友な
る美少年梶川与之助もまた、この
姉弟に加わって九州へ身を避けよ
うとして旅立って、それがお銀様、
お角、宇治山田の米友らの一行と、
1172
すれつもたれつして尾張から美濃
路へかかったことは、それらの巻
にくわしく出ているはずです。
しかるに︱︱僅かに美濃の大垣
まで来た一夜、悪漢があって、こ
の一行の宿所を荒した。奪われた
のは旅費としての相当の大金のほ
かに、金銭にも利福にも換え難い
銀杏加藤の系図の一巻であったこ
とを既に記しました。
1173
その曲者の痕跡をたずねて関ヶ
原まで追いかけた梶川与之助は、
そこで、悪漢その者の横死を見と
きんす
どけ、奪い去った金子は再び戻っ
たが、系図一巻が戻らない。この
系図一巻が銀杏加藤の奥方にとっ
ては、身にも宝にも換え難い執着
ゆえん
であることの所以は︱︱世に加藤
は多いけれども、自分の家こそは
肥後守清正の正系、清正の血統を
1174
引く家として、わが家より正しい
のはない。この自負の執着が、奥
方を懊悩せしめている。再び大垣
の宿へ立戻って、このたびの急難
を、一にわが身の怠慢と無責任と
き
に帰して、憂えもし、憤りもし、
わ
慰めもし、詫びもしているのは、
岡崎藩の美少年梶川与之助であり
ました。
大垣の宿の一室に、銀杏加藤の
1175
かお
や
せ
奥方は、その美しい面に遣る瀬な
しょうぜん
い憂愁を見せて、悄然として坐っ
ている。その傍らには、床をのべ
て、弟の伊都丸が枕に親しんでい
る。夫人に相対して、小者姿にや
つした美少年の梶川が、きちんと
かしこまって、ひたすらに慚愧と
陳謝の意を表して重ねて言う、
﹁万事みな、この拙者が抜かりで
ござりました、いくたび繰返して
1176
せん
も詮なきこと、この上は拙者は、
九州へおともをすることは断念し、
これより再び名古屋の城下へ立帰っ
て、いかなる苦心をしてなりとも、
御系図の一巻を探し出して、お返
し申し上げる所存でござります、
奥方様ならびに伊都丸殿、では、
こうむ
このまま御免を蒙りまする、あな
た方は、お心置きなく、熊本へ向
けてお立ち下さいませ、拙者が一
1177
心を以て必ず、系図のありかをた
ずね得て、お知らせを致しまする、
いや、お知らせだけではない、誓っ
て、それを携えて熊本まで出向き
まする、どうか、拙者の精神を御
信用あって、御安心して旅路にお
つき下さい﹂
梶川与之助は、決心を面にあら
わして切に言いました。
それには相当の自信もなければ
1178
ならぬ。その熱烈な決心のほどを
面にあらわして、梶川がかく言っ
た時に、憂愁に満ちていた奥方の
面が急にかがやいたように、自分
の膝も進むばかりはずんで見えま
した。
﹁梶川様、よくおっしゃって下さ
いました、わたくしも未練のよう
でございますが、こればかりは思
いきれませぬ、あの系図を奪われ
1179
て何の銀杏加藤でござりましょう、
あれを持たないで肥後の熊本へ帰っ
て、どうして御先祖清正公の霊に
申しわけが立ちましょう、梶川様、
あなたよりも、わたくしがさきに
その決心をきめてしまいました、
僅かに尾張の国を一足出たばかり
で、あれが盗まれるというのは、
決してあなたの抜かりではござり
ませぬ、わたくしたちの不用心で
1180
もござりませぬ、あの系図に魂が
あって、肥後の熊本へ行きたがら
ないのです、やはり、尾張の国に
留まっていたいからなのです。い
つも申します通り、肥後の熊本は、
加藤清正の国ではないのです、加
うぶゆ
藤清正の産湯を流したところは、
この尾張の国の中村なのです、肥
後の熊本の城も、清正の築城には
相違ありませんけれども、それよ
1181
りも一層この尾張の名古屋の城に
こも
清正の精神が籠っているのです、
それですから、わたくしは、どう
しゃちほこ
しても、あの名古屋城の鯱の見え
ないところへは行きたくないと、
日頃から申しておりました、系図
も尾張の国にとどまりたい、わた
くしたちも尾張を去るなという、
清正公のお示しではないかと思い
当りました。けれども、肥後の熊
1182
本で静かに病を養いたいというこ
の子の希望もさまたげる気はあり
ません、お前はお前で、心任せに
熊本へおいでなさい、そうして、
梶川様、あなたもどうか弟を見ま
もって九州へおいで下さい、わた
くし一人が残ります、わたくしは
清洲の侘住居へ一人で帰ります。
系図の行方にも、心当りが充分に
あるのです、必ずわたくしの真心
1183
が通じさえすれば、再びあの系図
が、わたしの手許へ帰ってくると、
確かにそう信じられてなりません
︱︱わたしでなければ駄目です、
わたしは尾張へ戻りますから、梶
川様、あなたは友人として、病身
のわたしの弟をいたわって、熊本
へお越し下さいませ﹂
銀杏加藤の奥方は美しい面に強
い決心の色を見せて、きっぱりと
1184
こう言いました。
九十二
感謝と昂奮に緊張した梶川与之
とみ
助は、奥方の強い言葉に頓に言葉
を返すことができないでいると、
やす
傍に寝んでいた伊都丸が、夜具の
中から言葉をかけて、
﹁姉上︱︱そうおっしゃる、あな
1185
たのお心持がよくわかります、日
頃のあなたの御精神がそれなので
す、姉上が留まるとおっしゃるな
ら、それを拙者は引き止めること
はできない、そうかといって、拙
者は姉上といっしょに、では拙者
も心を同じうして、祖先の系図を
たずねんがために、再び尾張へ帰
りましょうと言えないことが悲し
い﹂
1186
病床から弟にこう言いかけられ
て、奥方は静かにそれを顧み、
﹁お前が、わたしの心持がわかっ
てくれるように、わたしもお前の
心持がよくわかります、わたしは
肥後の熊本が故郷ではないけれど
も、お前には熊本が故郷なのです、
そうして、お前の一生を安楽に托
する風土というものは、熊本のほ
かにないことをわたしもよく知っ
1187
ているから、お前は、決して心を
動かすには及びませぬ、翻せといっ
ても、翻せない心持はよくわかり
ます、それに、お前の親友、梶川
様が附いて行ってくれるから、わ
たしは何よりも安心しています、
それに、一旦ああして立った清洲
の土地へ、事をかこつけに再び舞
い戻るようでは、人に笑われます、
お前はどこまでも、熊本へお帰り
1188
なさい、わたしは、引返して尾張
の国へ留まります、では、梶川様、
いくえ
弟の身の上を幾重にもお頼み申し
ます﹂
奥方から、再び頼みの言葉で言
すき
われて、梶川に挨拶を返す隙を与
えず、病床の弟がまた言いました、
﹁それはいけませぬ、姉上、拙者
には多年、使い馴れた附人もござ
ります、これから海陸の順路を、
1189
心任せに九州へ下る分には何の不
安もない身です、それだのに、こ
れから一人でお引返しなさろうと
いう姉上は、非常の御決心で前途
のことも思いやられます、それに
は何よりも心強いのは、梶川氏、
あなたに、どうか、この拙者に代っ
て、姉上を助けて上げていただき
たい、万事の相談相手になって上
げていただきたい、そうして、心
1190
を合わせて家宝の系図を取戻した
上に、姉上を守護して九州へ下っ
て、おたがいに阿蘇の山下で、喜
んでお目にかかる日を期待いたし
たい。梶川殿、拙者のことは、順
路を順当に行く尋常平凡の旅でご
ざるから、少しも心配にはなりま
せぬ、さいぜんも、貴殿はひとり
留まって、我が家のために系図を
探して下さるとまでおっしゃった、
1191
貴殿の勇気と真情は、我々にとっ
て二つとない、どうか、こちらに
留まって、姉を助けて、姉の志を
成さしめていただきたい﹂
いたいたしい声に力を込めて、
こう言い出された時に、奥方の眼
あふ
から涙が溢れて頬に伝わって落ち
ました。
梶川与之助は、またも返答に窮
するの立場に輪をかけられたよう
1192
なもので、面はかがやき、口はわ
ななくけれども、いずれへ何と挨
かんげん
拶し、いずれへ何と諫言していい
いとぐち
か、その言葉の緒を見出し難い。
その時、病床の伊都丸少年は、
また声を落して言いました、
﹁姉上とても、一旦こうまでして
清洲を立退いておいでになったも
のを、今更おめおめとお帰りづら
いものがお有りでしょう、たとえ
1193
事情がこの通りとは申せ、出入り
の者のおもわくさえも不快なもの
がござりましょう、それを御承知
の上で、お戻りなさる非常の覚悟、
梶川氏、それを察していただきた
い、それ故に、貴殿は、このまま
ひそかに先発して清洲へお帰りを
願いたい、そうして留守宅の万事
を程よくこしらえて置いて、それ
から、夜陰こっそりと姉上を迎え
1194
ていただきたい、そうして、世間
てい
体はどこまでも熊本へ立ったこと
にして置いて、邸内も広いことで
こも
ござる故に、姉上は一間に籠って
人に面を知られないように、貴殿
は、さのみ注意する人もあるまい
から、どこまでも留守をあずかる
かげ
人のようにこしらえて、陰になり、
ひなた
陽になって、姉を助けて志を成さ
しめていただきたい、それを御承
1195
知ならば、このまま直ぐに貴殿は
清洲へ向けてお引返しが願いたい
のです﹂
梶川少年は、その言葉を聞きな
がら、紅顔が熱し、これも同じく
涙が頬を伝って流れます。
奥方は、いずれをいずれとも言
わない。梶川としては、姉の言葉
に従って、病める弟を見ついで九
州へ下るべきか、非常の覚悟と冒
1196
険を予期して、ひとり留まらんと
いう姉のために、弟の忠言に従う
べきか、いずれが是、いずれが非
かわからないうちに、なにものか
の強い道義心に打たれて感動する。
しばらく、判断も利害も離れて、
ただ感動に堪えられないでいるう
ちに、最も冷静なのは病める弟で
ありました。姉と、友なる人の、
言わんとして言い難き時に、この
1197
弟は冷静に、流暢に、従って極め
て理路整然としてまた言いました、
﹁そうして、三カ月を限っていた
だきたいのです、姉を助けて向う
三カ月のうちに、姉の目的が達せ
られません時には、もはや、天、
おぼしめ
加藤家を捨てたりと思召して、姉
を守護して熊本まで下っていただ
きたい、そうしてかの地でわれわ
れは笑って再会して、おたがいに
1198
今後の生きる道を楽しく語り合い
たいものです、この申し出には姉
上も御異議はござりますまい﹂
九十三
やがての事の結論は、ついに梶
川少年が、両者へ対する義理と犠
牲心から、病める弟の忠言を聞い
て、留まる姉への奉仕とならざる
1199
を得ないことになりました。
ちゅうげんこもの
梶川少年は、仲間小者となる覚
悟を以て、銀杏加藤の奥方を助け、
病友が要求する三カ月の期限以内
に必ず目的を達して、九州へ下っ
あいまみ
て相見えるということを誓約的に
断言したのです。奥方も、ついに
この説を容れざるを得なくなって、
そこで、この一座の評議は、友義
うるわ
と、同情と、犠牲心とを以て美し
1200
くまとまりました。
奥方が、立って、荷駄の差図に
おもむ
別室へ赴いたあとで、伊都丸は、
梶川を枕もと近く招いて、ひそか
に言うよう︱︱
﹁梶川殿、姉はああいう気象です
いかん
から、如何とも致し難いです、姉
は尾張の名古屋の城は、徳川の名
古屋城ではない、加藤の名古屋城
だと信じているのです、そうして、
1201
加藤清正の唯一真正の血統は、我々
姉弟のほかにはない、名古屋にも、
加藤と名乗って清正の直系と称す
る家は幾つもあるけれど、みな傍
系に過ぎない、先祖の加藤清正が、
悲壮なる覚悟を以て心血を注いだ
あの城、あの城には先祖の魂が籠っ
ている、いつか時勢がめぐりめぐ
きた
り来って、加藤の子孫がこの城の
主となる時がなければならない、
1202
と常始終、こんなに考えているの
です。そうして、事毎に拙者を努
め励ましてはいるのですが、拙者
は姉と異って、左様なことには極
めて淡泊なのです。よし我々が加
藤の正系であろうと、傍系であろ
うと、それは私にとっては何の加
うるところも、減ずるところもな
せっけ
いのです。清正といえども、摂家
せいけ
清家の生れというわけではない、
1203
本来を言えば、豊臣秀吉と共に、
尾張のあの地点の名もなき土民の
家柄なのです。秀吉の威力が増大
するにつれて、清正も天下の大大
名とはなりましたけれども、本来、
秀吉も、清正も、自負すべきとこ
ろはその門地や家柄ではなく、そ
の天性の実力にあったのです。拙
者の如きはその点を偉なりとしま
すけれども、姉は清正以来の家系
1204
というものに重きを置いているの
です。それに姉はこの尾張の国で
生れたのですけれども、拙者は肥
後の熊本で生れました、その土地
きんし
の引力かも知れませんが、姉は金
ゃち
鯱の見える土地に執着を持ってい
る、拙者は阿蘇の煙の見えない土
地は、生きる土地でないような気
持がしています、熊本へ帰ると、
ぼだいしょ
そこに先祖の菩提所があります、
1205
我々が一生不足なく暮らせるだけ
なじ
の知行もあります、また、幼な馴
み
染も、我々を尊敬してくれる郷土
民もあるのです。郷土の人は、ど
こからともなく、我々の家柄が加
藤清正の家系である、今の細川家
よりも古いのである、というよう
な観念を持っていて、それで特に
我々を尊敬してくれるのです。も
し系図というものに余徳がありと
1206
しゃちほこ
すれば、名古屋城の金の鯱の光よ
りも、この郷土民が何百年の昔の
歴史に信仰を置いて、何の功業も
ない我々を尊敬してくれる、これ
よたく
こそ、系図の余沢、先祖の光であ
る、拙者はそこに先祖の有難味を
味わって生きて行きたい。そうい
うふうに熊本では人心が皆、拙者
になついてくれる、特に風土が、
拙者の身体にかなっているようで
1207
す。有名な阿蘇があります、その
周囲には幾つもの温泉が、我々を
は け
温めてくれます、それから八景の
み や
水谷だの、水前寺だのいうところ
の水がよろしいです。いったい、
どこを掘ってもよい水です、一歩、
かんきつ
海辺へ出ると、柑橘の実る平和な
みすみ
たけ
村があります、三角の港から有明
うんぜん
の海、温泉ヶ岳をながめた風景は、
到底、関東にも、関西にもありま
1208
せん。それに加うるに穀物が実り
ます、米も、肥後米といって第一
等の米がとれるのです。なおその
上に、国主の細川家と、先住者の
加藤家との間の諒解が極めて美し
い。ところによっては先住の豪族
を平げて、後の国主が入城し、両
者の間は仇敵のような例も随分あ
りますけれども、肥後の熊本に限っ
ては、今の細川家が、先の加藤家
1209
の崇信者であり、同情者でありま
すから、加藤の名によって肩身が
広くなるのです。そういうところ
ですから、拙者は姉と違って、熊
本を故郷なりとします、今、名古
屋城をお前に与えるからと言って
も、それを受けて住む気にはなれ
ないのです。梶川氏、貴君もぜひ、
熊本へ来てごらんなさい、必ず熊
本が好きになるにきまっている。
1210
かよう
しかし、拙者は拙者として、斯様
な愛着に生きているけれども、姉
のああした気象と意気を軽んずる
気にはなれない、あの見識で生き
ている姉を尊敬しなければならな
いのです、よって、正面から姉の
しりぞ
精神を斥けるわけにはいかないの
です。男子は裸一貫と、意気とで
生きなければならない、系図に物
を言わせるようになってはおしま
1211
いだと言いたいのですが、姉のあ
の気持を尊重するとそれが言い出
せない、ですから、貴殿は姉を見
おか
ついで、決して危険を冒してまで
系図などに執着する必要はないか
ら、程よくして、三カ月目には必
ず熊本へ来て下さい。熊本へ来れ
ば、貴殿に安住の地が必ずある、
しかし貴殿は以前から、長崎へ行
きたい、支那へ渡りたいというよ
1212
うなことを言っておられたが、か
はる
りにその希望のためとしても、遥
かに都合がよくなって行くのです、
わが家の系図などに執着せずに、
貴君の身を安全にすることを第一
に考えて下さい﹂
伊都丸少年は、こう言って、繰
く ど
返して友なる梶川少年に口説きま
した。梶川はそれを最もよく諒解
しました。
1213
﹁貴君の心持はよくわかっていま
きっそう
す、吉左右ともに、これから三カ
月後には姉君を伴うて必ず熊本へ
参りますから、貴君も心を安んじ、
御自愛第一にして待っていて下さ
い﹂
九十四
かくて梶川少年は、ひとり大垣
1214
しゅく
の宿を先発して、清洲の山吹御殿
に帰りついてのその日の宵のこと
です。
誰も知らない間に裏手から、そ
の広大な屋敷のいずれにか無事に
潜入してしまいました。
その夜更けて、同じ裏手の門が
内から開かれると、いつのまにか
門側に忍んでいた一人の女性が、
身を現わしたと思うと、早くもそ
1215
の裏門から身を没して、広い邸内
のいずれにか吸い込まれたことは
梶川少年と同じことです。ほどな
ききょうち
く、邸内の山吹御殿の、桔梗散ら
しの豪壮な一間に、形はいかめし
い銀の燭台に光はしめやかな一種
の燭がかがやくと、そのところに
銀杏加藤の奥方が端然と坐ってい
ます。やや間を置いて、かしこまっ
ているのは梶川少年。
1216
二人は、無事に、この旧邸へ立
戻って来たのです。
﹁梶川様、ほんとうに、ここまで
来て安心いたしました、万事は皆
あなたのおかげです、何と感謝し
ていいかわかりませぬ。本来、わ
たしが、こんな強情を言って、立
戻ることを主張しましたのは、確
かにそれと充分の心当りがあれば
こそなのです。名古屋城には加藤
1217
の四家というのがございまして、
それがいずれも清正の正統と称し
ているのです、その加藤四家のう
ちの、いずれの加藤とは申しませ
んが、そのうちのある一家が、特
別に、わたくしの家の系図に目を
かけておりました、そうして、表
面には出さないけれども、手をか
え、品をかえて、いろいろの好条
もと
件の下に系図譲受けを策動して参
1218
りました、それのみではない、わ
たくしの一身までも⋮⋮そういう
執心の家が現在あったということ
を知って下されば、これからの探
索にも有利であろうと思います、
そこに心当りがあればこそ、わた
しは存外簡単に目的が達せられる
のではないかと、こう思いました
し
ものですから、強いて弟を振捨て
て帰って参りました﹂
1219
奥方からこう言われると、前に
かしこまっていた梶川少年は、充
分それを納得して、附け加えて申
します、
﹁拙者も実は、奥方のお心持を左
そんたく
様に忖度しておりました、それの
みならず、関ヶ原まであの夜の曲
者を追いかけた時に、あれがどう
したものか、途中で何者かのため
に辻斬られている、その死骸にぶっ
1220
とく
つかって、篤と見定めて置いたの
です。彼が暫くの間でも、御当家
へ下郎として仕えていたというこ
きんす
と、金子も取るには取ったが、そ
れは無事に戻ったにかかわらず、
下郎の分際として、何の役にも立
つまじき系図に目をかけたことと、
その系図だけが紛失していること、
それらから考え合わせて、これは
背景があるのだと直感しましたか
1221
ら、その時、下郎から相当の証拠
を集めて置きました。これから清
洲へ帰って、あの下郎の身元を洗っ
てみれば、それからだいたいの当
りがつくように信ぜられましたか
ら、奥方様に先立って、ひとりこ
ちらへ引返すことを主張しました
のです。それには幸いに伊都丸君
が一行を引具して、相変らず旅路
を続けられるということがかえっ
1222
て好都合でした。あなた様と拙者
とが、立戻って来ているというこ
とが知れては、先方が警戒します
けれども、今宵のことは誰も知り
ません、今後も、あなた様は決し
てお座敷を離れてはいけません、
万事の奉仕は拙者一人が致します、
出入りの者にも感づかれてはなり
ません。拙者は大丈夫です、こう
して昔と変った仲間小者のいでた
1223
ちで、留守居を頼まれたようにし
ていれば、誰も怪しむものはあり
ません、ことにここは一城廓とも
言っていい別天地ですもの︱︱そ
うして、名古屋城下に程遠くもな
い地の利を占めていますもの、こ
こを根拠として、これから名古屋
くま
城下を隈なく、私がたずねます。
や
万一、見知る者があってはと存じ、
かお
面を少々灼くことに致しました﹂
1224
梶川少年から、頼もしい限りの
ぎんなんかとう
言葉を聞かされた銀杏加藤の奥方
は、その最後の一句に至って、美
しい面を曇らせて、
﹁それはいけませぬ、面を灼くと
おっしゃいましたね、梶川様、ど
ういうことをなさるのか知れない
が、それだけは思い留まりあそば
せ、天の成せるものを、人の力で
よろ
破壊することは宜しくありませぬ、
1225
身体髪膚の教えもございます、あ
なたのその若い美しいお面を灼き
こわしてまで、わたしたちは助力
を願うのに忍びませぬ﹂
面を灼くと言ったために、夫人
の心がいたく傷つけられたのを見
て、梶川少年は取りつくろって申
しました、
し
﹁拙者とても、強いて、そんな事
をしたいのではありません、岡崎
1226
街道で、ああいうことをしでかし
おもんぱか
て来ていますから、万一を慮って
の覚悟なのです﹂
﹁もし、そういうことを実行なさ
る場合には、前以て、必ず一応、
わたくしに御相談をなすってから
のことにして下さい﹂
﹁承知いたしました﹂
﹁わたくしたちの目的のためには、
あなたに指導者になっていただか
1227
なければならないから、あなたの
一身上のことについては、わたく
しが年上ですから、姉であります
から、わたくしの許しなしには、
髪の毛一筋でも自由になさること
は許しませぬ﹂
﹁は、は、は、これはきつい御命
令を承りました、委細心得てござ
りまする﹂
むつ
ここで二人の睦まじやかな会議、
1228
新たに意気相許す一対の姉と弟が
出来上りました。
九十五
いきどお
胆吹の御殿ではお銀様が憤って
いる。
お銀様は絶えず憤っている人で
ある。その人が、憤りの上にまた
一つの憤りを加えた。
1229
何を憤っている。
お雪ちゃんという子が、恩を忘
ぼうとく
れて裏切りの冒涜の行動をしてい
る、それを憤っているのか。そう
ではない。
竜之助という男が、無制限の放
どんらん
縦と、貪婪と、虚無に盲進する、
それを憤っているのか。そうでも
ない。そんなことはこの暴女王に
とっては、憤慨ではなくて、むし
1230
ろ興味である。
そもそも、この暴女王が今日に
おの
及んで、かくも深く憤りを発して
ゆえん
いるという所以のものは、己れの
夢想する王国が、土台からグラつ
き出したから、それを見せつけら
れるがために憤っているのに相違
ない。
人間というやつは度し難いもの
だ、人間というやつは救うよりは
1231
殺した方が慈悲だ、とさえややも
すれば観念せしめられることの由
を如何ともし難い。
ナゼならば、彼女は己れの強力
うぞうむぞう
を傾注して、有象無象をよく生か
してやらんがために事を企ててい
るが、ここに来る奴、集まる奴に
ロクな奴はない! いや、ここに
来る奴、集まる奴にロクな奴がな
いのではない、およそ生きんこと
1232
を欲する人間にロクな奴がない!
という断案を得ようとして、そ
れを得させまいがために、自ら苦
心、焦慮、憤慨しているのである。
もし、こういう論理を許すとす
れば、自分の王国主義を、甘んじ
て虚無主義に屈服せしむる結果と
なる、それでは絶滅の使徒、虚無
の盲人に笑われるばかりだ。生の
哲学から、死の哲学に降服を余儀
1233
なくされるばかりだ。
彼女は、ここに働く人間共の表
裏を見せつけられる。人間は働き
たいが本能でなく、なまけたいの
が本能だ。生をぬすまんがために
ごんぐ
表面追従するだけで、生の拡大と
きょうこ
鞏固とを欣求するような英雄は一
人も来やしない。彼等の蔭口を聞
いていると、この王国を愚弄し、
わが暴女王の甘きにタカるあぶら
1234
虫のような奴等ばかりだ。こんな
連中に世話を焼いてやるべきもの
ではない。残らず叩き出して、出
直させるに越したことはない! とさえ、この女王を思い迫らせる。
とざ
王国の門を鎖し、垣を高くして、
いま来ている奴等を残らず叩き出
して、新たに出直さす︱︱と言っ
たところで、彼等をどこへどう叩
き出して、どこから出直させる。
1235
所詮、母の胎内へ押戻して、再び
産み直させるよりほかに道はない。
おさ
お銀様は、この深い憤りを抑え
て、御殿の一間から琵琶の湖面を
ながめている。
憤っているのは、お銀様ばかり
ではない。道庵というような出しゃ
ばり者を別にしては、誰も彼もが、
みんな憤っている︱︱ように見え
る。およそ今の時勢に、笑ってな
1236
んぞいられる奴はない。
お銀様が、これを深く憤ってい
る時に、城下︱︱御殿下とか、屋
敷下とかいうよりは、ここからは
城下といった方がふさわしい、胆
吹御殿の城下がにわかに物騒がし
くなりました。春照、弥高の里で、
早鐘が鳴り出しました。
いっき
﹁一揆が来るぞ!﹂
﹁百姓一揆が押して来たアー﹂
1237
どこからともなく響く号叫。
1238
底本:﹁大菩薩峠18﹂ちくま文
庫、筑摩書房
1996︵平成8︶年8月
22日第1刷発行
底本の親本:﹁大菩薩峠 十一﹂
筑摩書房
1976︵昭和51︶年6
月20日初版発行
※疑問点の確認にあたっては、
﹁中里介山全集第十一巻﹂197
1239
1︵昭和46︶年6月30日発行
を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名な
どに用いる﹁ヶ﹂︵区点番号586︶を、大振りにつくっていま
す。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
1240
このファイルは、インターネット
の図書館、青空文庫︵http:
//www.aozora.gr.
jp/︶で作られました。入力、
校正、制作にあたったのは、ボラ
ンティアの皆さんです。
1241