台湾新文学における中国新文学の代弁者・張我軍

台湾新文学における中国新文学の代弁者・張我軍
―『台湾民報』時期の文学活動を中心に―
名古屋大学国際言語文化研究科
博士後期課程 3 年
劉
海燕
本発表は、台湾の作家張我軍の北京への留学経験と文学活動の関係を検討するものである。張我軍
は「台湾新文学運動の創始者」と称され、「台湾の胡適」とも呼ばれている。1924 年 10 月、北京か
ら帰った張我軍は『台湾民報』で新旧文学論争を引き起こした。同時に、中国新文学作家の作品及び
胡適の新文学理論を全面的に紹介し始めた。1926 年 6 月張我軍が『台湾民報』を離れ、再び北京へ赴
くまでの一年半余りは、台湾において中国新文学が積極的に移入された時期である。彼が編集者とな
った 1925 年の『台湾民報』には、台湾人による小説は掲載されておらず、小説に関してはほとんどが
中国新文学作品の転載であったという事実は、その裏付けになると思われる。
従来の張我軍研究は、そのほとんどが「台湾新文学運動の創始者」という前提の下で展開されてき
た。しかし、彼がどのような体験を通して創始者になったのかという経緯は、まだ詳細に研究・分析
されていない。約一年間の北京での留学生活は、張我軍の文学生涯における重要な転期であったに違
いない。ゆえに、本発表では、先ず彼の北京に至る道及びそこでの留学生活について明らかにする。
そして、1924 年 10 月、北京で得たものを持ち帰った張我軍は、台湾で新旧文学論争を引き起こした。
この論争に、彼の北京での体験が如何なる影響を与えたのか。彼を経由して台湾文壇で宣伝された中
国の新文学理論は、中国で発表されたものと同様で・同一の解釈であったのかどうか。もしあったと
すれば、それが生じた原因を究明することが、本発表の第二部分の内容となる。張我軍の作品に関す
る分析は本発表の第三部分で扱うことにしたい。張は台湾新文学史において最初の白話文詩集『乱都
之恋』(1925 年)を世に出したにもかかわらず、既知の三編の小説がいずれも中国を舞台とする作品
であるという理由で、彼の「台湾作家」という肩書は現在一部の研究者には疑問視されている。本発
表ではあえて彼の小説中の中国的背景に注目して分析し、台湾青年張我軍の目に映し出された中国像
が如何なるものであったかを解明する。そして、今まで見落とされてきた張我軍の唯一台湾を背景と
する作品「八丁大人的手記」(未完成)の分析から、彼の「台湾作家」としてのアイデンティティに
ついて検証する。以上のような分析を通して、台湾新文学史上における張我軍の中国新文学に関わる
現象を明らかにする。
博論全体の展望
1894 年に勃発した日清戦争は、翌 1895 年に清の敗戦で幕を閉じた。台湾は、この敗戦がもたらし
た一つの結果として、日本の明治維新政府に割譲され、それ以来、50 年間(1895-1945)の長きにわ
たる植民地支配期に入った。台湾新文学は、この植民地支配時代の 1920 年代に誕生した。1920 年 7
月 16 日、東京に留学していた台湾青年たちは、雑誌『台湾青年』
(1922 年 4 月『台湾』に改称)を創
刊した。
『台湾青年』は日本統治期における台湾人の手による最初の雑誌であり、後の「台湾人唯一之
言論機関」
『台湾民報』
(1923 年 4 月創刊、1927 年 8 月発行地は東京から台北に移った)の前身にあた
る。この『台湾民報』は 1932 年 1 月、文芸雑誌『南音』
(1932 年 1 月―1932 年 6 月? 創刊当初は台
北、後に台中、)が創刊されるまで、台湾新文学の唯一の掲載紙となり、そこに発表された作品はほと
んどが中国語で書かれた。
日本統治期に台湾人作家たちが創刊した『南音』は、文芸作品の掲載のみを目的とする文芸専門誌
の成立を意味する。また、それまでの総合雑誌『台湾民報』を通して作品を発表するという文学状況
も、以降、変化することとなった。
『台湾民報』と共に成長してきた台湾新文学は 1930 年代に入り次々
と新たな作家を生み出し、その中の頼和、郭秋生などの作家が後に『南音』の編集者となった。台湾
人作家群の形成及び台湾人による文芸雑誌の創刊という二つの条件が備わることにより、日本統治期
における台湾新文学の成熟期の幕が開くこととなった。翌 1933 年 7 月の文芸雑誌『フォルモサ』
(1933
年 7 月―1934 年 6 月、東京)の創刊により台湾人の日本語作家が登場した。以後、中国語作家と日本
語作家は共に 1930 年代の台湾新文学の繁栄を創り上げた。したがって、『台湾民報』における台湾新
文学は、台湾文学興隆への道を切り拓いたという意味で台湾文学史上重要な位置を占め、また台湾新
文学の発展の源ともなった。
現在、『台湾民報』をめぐって各方面から研究が進められている。しかし、『台湾民報』掲載の文
学作品についての体系的研究ないし文学史的検討は、未だ行われていない。もちろん台湾新文学史に
関する著作においては、この時期の文学について言及されているが、いずれもこれらを台湾新文学史
の過渡期における作品群ととらえるがゆえに断片的な記述に留まり、『台湾民報』中の文芸作品や作
家たちの関係性を軸に総合的に考察したものではない。ゆえに、博士論文は、
「『台湾民報』
(1920-1932)
における近代台湾文学の総合的研究」を題目とし、台湾新文学の成立及びその展開を追求し、解明し
てゆくことを目的としている。
前述したように、1920 年 7 月 16 日、東京に留学していた台湾青年たちにより雑誌『台湾青年』が
創刊され、二年後の 1922 年 7 月、その改名誌『台湾』に初めて文学作品、日本語で書かれた小説「彼
女は何処へ?」が掲載された。作者は当時東京高等師範学校に在籍していた謝春木(ペンネーム、追
風)である。以後、明治大学の黄呈聡、黄朝琴らが中国白話文を提唱し始め、白話文で書かれた作品
がもっぱら簡易な漢文を用いた『台湾民報』に次々と発表された。1924 年 4 月、北京にいた張我軍が
『台湾民報』に「致台湾青年的一封信」を発表し、それは、年末に彼が帰台すると台湾新旧文学論争
を引き起こした。翌年、正式に同誌の編集者となった張我軍は『台湾民報』において胡適の文学理論
を紹介する一方で、中国新文学作家たちの文芸作品をも転載し始めた。『台湾民報』における新旧文
学論争は台湾新文学理論の基礎を固め、以後の台湾新文学の行方をも指し示すものとなった。1926 年
1 月、新旧文学論争の最中に、後に「台湾新文学之父」となり、「台湾の魯迅」と称された頼和は、
『台湾民報』に処女作小説「闘鬧熱」を発表し、それにより、台湾新文学は初期の文学運動から本格
的創作の発展時期に移行することとなった。
以上の文学状況を概観するならば、東京、北京、台北という三つの都市空間を行き来した台湾青年
たちがともに努力を重ねて、台湾新文学を作り上げていたことが分かる。また、その発展過程におい
て、この三つの都市空間に生きた創造者たちが、順次主役を担うことになった。このような変化のプ
ロセスは何を意味しているのだろうか。あるいは、このような変化をもたらした原動力は何であろう
か。他方、彼らが身を寄せていたそのそれぞれの都市空間は彼らと彼らの文学にどのような影響を与
えたのか。そして、それはどのように彼らの作品に反映されているのか。以上の問題を分析すること
によって、台湾新文学の成立過程及びその発展様態を明らかにすることができると考えている。