古代山陽道を辿る 行基・空海・最澄への旅

古代山陽道を辿る
『古代山陽道を辿る 行基・空海・最澄への旅』
●古代山陽道
行基という人物は剛直で懐が深い救済事業家。
空海は奔放の天才。
最澄は王道をあゆむ温和なエリート。
物思いに耽る春先。
古代山陽道に仏教を極めた偉人、
行基、空海、最澄らの足跡をみた。
時代を遡ること千三百五十年余。「大化の改新」と呼ばれる政治改革が行われていた。
かの中大兄皇子、中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した六四五年の「乙巳の変」をもって始まっ
た改革である。乙巳 い
( っし の
) 変の翌年、孝徳天皇による「改新の詔」が発せられた。
ここから古代山陽道の歴史が始まる。詔 み
( ことのり は
) 天皇の勅令である。この頃の天
皇は、日本・倭国の支配者であり、あるいは神か独裁者とも言え、その詔は、絶対的な威
厳を持っていた。
この詔は大きく四条。
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その第二条に古代山陽道に関する内容が記されている。
『日本書紀』によれば「初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬・・・」という
ものである。
一説では、孝徳天皇のものではなく、後に発せられた天武天皇の詔とする説もあるが、
この時代から律令制が進められ、全国規模で道路が敷設されていったことに違いはない。
実際に古代山陽道の敷設が本格的になったのは、七世紀中後期の天智天皇や天武天皇の
頃からとみられているが、とにもかくにも大化の改新により、山陽道は古代最重要の大路
として歴史の舞台に大きく登場することになる。
上記第二条を要約すれば、「都を定めて、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・
伝馬の制度を設置せよ」となり、つまり「日本初となる首都を設置し、さらに畿内、国、
郡といった地方区域を設定し、また駅伝制をとれ」という命令が天皇から下されたことに
なる。
白雉元年 に
) 孝徳天皇が「難
条目を掘り下げてみると、初めての都の造営は、六五〇年 (
波長柄豊碕宮」を築いたことにより実現されたこととなる。しかしながら「初めての都」
という意味においてはいささか疑問が生じる。歴史でいう「首都」
・「都」の一般的な解釈
としては、都とは天皇の居住地をさしており、紀元前六世紀あたりの神武天皇を初代に、
歴代の天皇が奈良各地を中心に、滋賀・山口・福岡・大阪などで在位していることから言
えば、「初めての都」とは言いがたい。
神武天皇など初期の天皇は神話や架空の物語に過ぎず、存在さえなかったとされるが、
第十五代・応神天皇 二
( 七〇年〜在位 以
) 降、もしくは第二十六代・継体天皇 五
( 〇七年
〜在位 以
「乙巳の
) 降は実在していることが確定しており、「初めての都」という表現は、
変」というクーデターをやり遂げ、ここから新たな国づくりが始まるという意味で使用し
た文字であろう。
「畿内・国・郡などの設置」に関しては、都の設置に準じて、「律令政治」の中核をなす
中央集権体制を組み上げるため行おうとする地方統治制度推進の表れである。この条令に
より、「五畿七道」が天武天皇 六
( 七三年〜在位 時
) 代に設定されている。
「五畿七道」とは「律令制」を推進し、中央集権体制をより強固にするためにつくられ
た行政区域のことを指している。
「五畿」は、都の周辺の大和国・山城国・河内国・和泉国・摂津国。
七道は東山道・北陸道・東海道・南海道・山陰道・山陽道・西海道。
七道はさらに国という単位に分けられ、それぞれの国には、国府・国衙・国庁が設けら
れた。国府は主要都市、国衙 こ
( くが は
) その役所群が囲われた区画、国庁は国の役人が
政務を執り行う施設と考えていいだろう。
七道の一つにあたる山陽道だが、播磨国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・
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周防国・長門国に分けられていた。
もうお気づきかと思うが「山陽道」という呼び名には二つの意味が存在している。一つ
は、地方行政区域の一地域としての呼び名である。北海道の「道」をイメージしてもらえ
ばよい。そしてもうひとつが、古代官道としての「山陽道」で、都から九州・太宰府まで
各地を結んでいた道路のことである。
この「山陽道」が古代の中核をなす重要な街道となる。
「五畿七道」を定めた天武天皇は、大化の改新「乙巳の変」
話は、若干、横道に逸れるが、
の主役・中大兄皇子の弟にあたる。「乙巳の変」の後、本来なら第三十四代・舒明天皇と
第三十五代・皇極天皇 第
( 三十七代斉明天皇 と
) の間に生まれた中大兄皇子が天皇を継承
すべきであったが、叔父にあたる孝徳天皇にその座を譲り、自らは皇太子となる。
(阪 に
) 都を築き、改革にあたるが、皇太子 中
( 大兄皇子 は
) 、その
孝徳天皇は難波 大
三年後に奈良 倭
(京 飛
/ 鳥河辺行宮 に
) 遷ることを求め、不和が生じる。その所為もあっ
てか孝徳天皇は翌年病で崩御する。継承は前代の皇極天皇が斉明天皇として重祚 ち
( ょう
そ ふ
/ たたび即位すること し
) 、中大兄皇子は皇太子に留まった。実権は皇太子にあった。
その後中大兄皇子は、六六一年に斉明天皇が崩御した後、しばらく即位することなく政
務を行ったが、朝鮮半島の白村江で行われた倭国・百済と唐・新羅との「白村江の戦い」
で大敗し、六六七年の近江大津宮への遷都を機に、六六八年、天智天皇として即位した。
天智天皇の後にはその第一皇子の大友皇子が弘文天皇となり皇位を継承するが、「壬申
の乱」において、中大兄皇子 天
( 智天皇 の
) 弟にあたる大海人皇子が弘文天皇に勝利して、
天武天皇となった。
( 徳天皇 、)母
ざっと整理すれば、「乙巳の変」後、中大兄皇子から見て天皇は、叔父 孝
斉
( 明天皇 、本
) 人 天
( 智天皇 中
= 大兄皇子 、子
) 弘
( 文天皇 、弟
) 天
( 武天皇 と
) 移り変わる。
中大兄皇子は即位する機会が二度もありながら、固辞し続け、三度目にやっと重い腰を
あげる事になるが、固辞した理由は、「クーデターを起こした張本人が天皇に即位するよ
りも、年上の叔父のほうが、周囲の信頼や民意も受けやすい」と考えたのか、すこし斜交
いに推測すれば、「天皇という表立った位は必要がない。実権さえ持っていればかえって
裏で糸を引くほうが何かと都合がよい」と考えたのではないだろうか。真相は分からない。
律令制の根幹をなす天皇という覇権の移り変わりは、山陽道の整備という観点でみれば、
この時代、おおきく影響したに違いない。
古代山陽道を、先に「大化の改新により始まった」と書いたが、その原型は大化前代に
存在していたとされる。古墳時代以前にも大陸との交易はおこなわれており、それだけに
限らず海道だけでなく陸道は必要なものであり、存在していたのは当然といえば当然の話
であるが、では、前代の山陽道とはどんなものだったのか。
ここで山陽道の起源について探っておきたい。
そもそも道はどのようにしてできるか。
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狩猟が主な原始社会では、けもの道の利用や、狩りにでかける人が踏み進んだところが、
草木が禿げ、「踏み分け道」となってそれらしき「道」がつくられていく。縄文時代・早
期以前には、人々は居住地を転々としていて、人通りは少なく、踏み分け道があるとはい
えども、道と呼ぶには、未熟過ぎる。やがて、気候もよく、獲物の豊富な土地をみつけ、
狩猟の道具づくりや技術が向上し、植物を栽培するようになってくると、集団で定住する
傾向が強くなり、交流や移動のために人通りも多くなり「踏み分け道」は道としての体裁
を強くする。
縄文早期、今から一万年前には、すでに年間を通して定住が行われた地域もあると見ら
れており、定住が各地で始まっている。すると次第にそれぞれの集団間で頻繁に交易が行
われるようになる。勾玉などの装飾品や土器、石器の分布などからみても、縄文中期、今
から七千年ほど前には広い範囲で交易が行われていたという。
アズキ、ゴボウ、ドングリなどの植物栽培がイネ、オオムギなどの栽培に発展する縄文
後期から晩期には、北九州や近畿でも水田跡がみられ、弥生時代にもたらされる青銅器や
鉄器は、さらに近畿や北九州との交易の頻度を高めたであろう。
交易などで人の往来が頻繁になると、集落間を最短距離で結ぶ、歩きやすく、安全な道
が求められる。この頃の道は、一般的に厳しい傾斜があっても距離が短いことを最優先し
た道で、平地ではまっすぐに、山間部では尾根をたどり、複数あった道がしだいにいくら
かの便利な道に絞られていったと思われる。
集落は縄文時代には台地や丘陵につくられることが多かったが、弥生時代にはいり、稲
作が進むにつれて人々は平地に移り住み、集まり、環濠集落あるいはクニが造られていっ
た。農耕が広がり、集落の数や人口が増え、収穫量の大小による土地をめぐっての争いが
起こり、領土拡張や大規模な集落形成が行われ、さらにクニとクニが連合した体制をつく
ると、ますます人々の往来は激しくなり、道は、らしさを増してくる。しかし一方では、
クニ同士の争いが激しくなり、自衛のために高地での環濠集落形成が多くみられる。弥生
後期・起源前後年には百を超える国々が絶えず争っていたようである。
覇権を争い、権威付けや武器に利用する青銅や鉄の取引を中国と行い,さらに北九州か
ら近畿、東海へと交易が行われた。弥生時代には近畿から九州、朝鮮半島、中国へと航路
が主に利用されていたと思われるが、それに伴って陸路も発展していったに違いない。
倭の
やがて弥生時代も終わりに近づくと、起源二〇〇年あたりには邪馬台国が日本 =
国土を統一したとされる。『魏志倭人伝』には親魏倭王の封号を得た卑弥呼が「倭国大乱」
を治めた旨が記されている。この頃から倭国内の国々を往来する道らしき道が確定されて
きたのではあるまいか。さらに邪馬台国は中国の魏との交易を頻繁にもつようになり、そ
れに伴って道路が整えられてくると想像できる。
古墳時代の道は、古墳と古墳を結ぶルートが考えられる。この時代には中国から馬がも
たらされ、物資などもたくさん運べるようになり、より、幅のひろい道が必要となった。
西暦二五〇〜三五〇年ごろには、西道つまり古代前記の山陽道とみられる地方支配を行う
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べき道があったと考えられる。というのが、『日本書紀』に、崇神天皇一〇年に「吉備津
彦をもて西道に遣わす」という下りがあり、それは四道将軍派遣という有名な説話の一部
とされている。また、古墳時代の後期五三八年もしくは五五二年には「仏教」がもたらさ
れており、寺院の建立や僧侶の往来、渡来人の流入なども道の整備に関連してきたであろ
に
「駅
う。さらに古墳時代の終末期となる飛鳥時代 五( 九三年〜六九四年 に) は、『日本書紀』
使」「駅馬」「馳駅」などの語句が、北九州と近畿を舞台に幾度も使用されている。しかも
大化の改新 六
( 四五年〜 以
) 前の記録として見られる。『日本書紀』の信憑性が問われる
ことになるが、信頼性は高いとされている。
ただ、飛鳥時代までに道筋はほぼ確定されていたにせよ、道路としての整備が大きくな
されていったのは、改新後ということが言えるだろう。大路である山陽道は十五メートル
以上に及ぶものまであり道幅は広い。大化の改新により、天皇の詔が発される前にそれほ
ど大きな路が長距離で存在したとは考えにくい。路のつくりは、
路の左右に石を積み重ね、
挟まれた道路は土盛りのような格好になっている。しかも、ほぼ一直線に敷かれ、谷部は
埋め立てられている。現代でいわば高速道路のような計画道路と言える。都から太宰府ま
でのルートはそれまでの道を踏襲したものの、道としてはまったく新しい発想で創られて
いった。つまり、大化の改新により、まったく新しい道路が造られたと考えるほうが無理
がない。
道幅に関しては、奈良時代には九〜十五メートル程度が主流をしめ、平安期に入り山陽
道が廃れる九世紀中頃以降には六メートル程度の区間が多くなったようである。
一方、海を使った移動手段はどうかといえば、古代より前の時代においては、陸による
移動手段より、海を利用するほうがずっと簡単で、速かった。特に瀬戸内海は非常に狭い
閉鎖性海域で、ほぼ年間を通じて穏やかな海といえる。とはいえ、造船技術も未熟で船は
お粗末、しばしば難破していた。資料によっては、まったく無事に航海が終えられること
はなく、ほとんど神頼みの領域であったとさえする。
古代からも遣隋使、遣唐使などの使節団は大阪あたりから航路を使っていたが、外洋に
出て大陸までの航海を無事に終えられるものは少なかった。
三世紀末に書かれた中国の「魏志倭人伝」には、日本の「船には航海中、髪もとかず、
しらみをとらず、衣服は垢まみれにしたままで、肉を食べず、女性を近づけないといった、
ジンクスを背負って立った持衰(じさい)という役割の人物が乗り込んでいた」というよ
うな事が書かれている。持衰は航海がうまくいけば生口 奴
(隷 や
) 財物が与えられ、疾病
や暴風雨にあえば殺された。
山陽道が整備された時代においても、むろん航路は利用されている。むしろ山陽道がで
きても航路のほうが活発に利用されていたようでもある。とはいえ空海、最澄が入唐した
時代などは時に一月以上も船が泊に留まったまま、出航しないこともあったという。とく
に外洋には死を覚悟の上で漕ぎ出していた。
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一連の流れにおいて、すこし「律令制」のことを知る必要がある。もともと孝徳天皇の
詔はこの時代前後に行われる統治体制である「律令制」を確立させる目的で発されたもの
である。律令制はこの時代の中国・唐の制度に倣って創られた国家体制で「土地と人民は
天皇の下にあり、服従しなければならない」という一トップの中央集権体制をつくること
にあった。
律令格式などの法律を定めて、身分や支配体制がつくられた。律令制の「律」は刑法、
「令」は行政法をあらわし、さらにそれを補足する「格式」があった。それまでの貴族層
が地方首長を手なずけて支配する体制から、官僚機構による直接的な人民支配の構図を描
いたもので、七〇一年に制定された大宝律令によって最盛期を迎え、十世紀ごろまでその
体制が実施されている。それはいわば制度的な時代区分のようなもので、大化の改新から
始まり、個別的な人身支配が終わり土地への課税支配へと転換された十世紀初頭までを指
している。
そもそも山陽道は何の目的でつくられ、整備されたかということだが。大化の改新以前
は、人が通り、物資を運ぶために自然発生的にできていた道といえ、大化の改新後は「律
令制」における直接的な人民支配のための役人の情報伝達および租税などの運搬道として、
また、白村江の戦いでの敗北(六六三年)の後には朝鮮半島からの防衛のための軍用道と
して、さらには外国使節団の入京道としての役割のため、大きく整備されていったと解釈
される。
山陽道の盛衰の概要をまとめておけば、大化の改新により七世紀半ば以後、整備された
道は、八世紀初頭あたりでもっとも重要視され、九世紀初頭にはすでに衰退を始め、十一
世紀に入るかはいらないかに駅伝制も駅路も廃絶し、役割を終えたようになる。ふたたび
山陽道に若干の光があたるのは、鎌倉時代の元寇にそなえて整備が行われたことによる。
しかし、それすらすぐに廃れ、江戸期の整備まで山陽道は眠ったように息をひそめる。
●駅家
話は現代に移る。
幅は十五メートルもあったことが分かっている。
メ ー ト ル が 主 流 と 考 え ら れ て お り、 こ の あ た り の 道
道 幅 は 時 代 や 地 域 に よ り 違 う が、 お お よ そ 六 〜 十 二
代 山 陽 道 に 対 し て、 斜 め に 位 置 し て い る。 山 陽 道 の
方 の 大 き さ で、 駅 ケ 池 の 南 岸 と ほ ぼ 平 行 に は し る 古
駅 家 は 広 が っ て い た。 駅 家 の 施 設 は 八 十 メ ー ト ル 四
を 含 め、 北 東 に 位 置 す る「 駅 ケ 池 」 近 く ま で 古 代 の
賀 古 駅 家 跡 に は、 十 坪 ほ ど の 小 さ な 土 地 に「 大 歳
神 社 」 と 呼 ば れ る 祠 が ひ と つ 祀 っ て あ り、 こ の 神 社
紫式部が『枕草子』で推薦するあけぼのの春は美しかろうかと、まだまだ寒い三月末の
早朝、私は「賀古駅家」跡にいた。
賀古の駅家跡 / 大歳神社
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『播磨国風土記』によれば、奈良時代初期の七一五年頃には、ここには「駅家里」とい
う村があり、駅家を中心に栄えていたといい、街道最大の賑わいをみせる駅家であった。
愛 ら
)し
神社はまるで民家の裏庭の一部のようで、ひっそりと佇む姿がなんともいじ (
く、古代の賑わいを想像しながら敷石にしばらく腰掛けていると、袴姿に烏帽子を被った
役人がしかめ面で話しかけてきそうなうつつさえおぼえる。
ここから、平安の都・京都まで山陽道を辿ってみたい。
その前にもう少しだけ、山陽道の施設などの概要について述べておきたい。
うまや と
) いうのは、古代官道に設けられていた役所で、馬の乗り継ぎや休憩、
駅家 (
宿泊のために設けられており、三十里ごとに一カ所おかれるのが基本となっていた。この
時代の一里は五百四十メートルほどで、約十六キロメートルに一つの役所があったと思っ
てもらっていい。小路・中路・大路と重要性にしたがってわけられていた古代の道は、山
陽道が唯一の大路で、その重要性から十五里 約
( 八キロメートル 程
) 度に一つの駅家が設
けられている地域もあった。
(馬 が
) 置かれていた。
駅家は、国と国の国府を結ぶ道筋に設けられ、駅家ごとに馬 駅
駅馬の数は大路である山陽道にはそれぞれ二十匹、中路の東海道や東山道が十匹、その他
小路は五匹と定められていたが、最盛期には摂津国では三十五匹、播磨国では二十五匹を
その後大同二年 八
( 〇七年 の
) 制度改革の際には、山陽道の衰退がみられ、経費削減の
数えていた。
ため駅馬の数を摂津国、播磨国ともに頭書定めた一律二十匹にまで減少させている。さら
に十世紀初めには摂津国で二つの駅家が廃止され、駅馬は十三匹まで減少している。これ
に反して、播磨国では二つの駅家が廃止されたものの、賀古駅家では四十匹、草上駅家は
三十匹と駅馬の数が増加している。草上は今の姫路市今宿にあり、美作路の始点とみられ
ており、賀古は難所の加古川を控え、どちらも陸の要衝としての位置づけがあり、また廃
駅の馬がこの二駅に振り分けられて、増加したのではないかと思われる。
駅家の周辺には、駅戸と呼ばれる駅の業務に携わる民家が集まり集落が形成されること
が多く、各戸が駅馬を飼い、官人や公文書を届ける駅使を次の駅家まで送る役目を請け負っ
ていた。その見返りとしては税金等にあたる庸や雑徭 ぞ
( うよう を
) 免除されていた。
やっかいん と
) 呼ばれる築地塀で囲まれた四方形の中核施設があり、
駅家は、駅館院 (
その敷地の中には宿泊施設や倉などの棟が建ち並び、山陽道に面しては格式の高い門が設
置されている。建物は瓦葺きで朱色の丹塗り柱、白壁づくりであった。敷地規模はさまざ
まだが、賀古駅家や邑美駅家を例にとれば八十メートル四方ある。
このように駅家を配した古代交通だが、実は、二つの制度が絡み合っている。それは大
宝元年 七
「 駅 制 」 や「 伝 制 」 と し て 記
( 〇一年 の
) 大宝律令や養老律令(七一八年)に、
されている。「駅制」は駅路 道
( に
) 駅家を配して国府を結ぶ官道で、緊急の報告、公文
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書の伝達、官吏の移動などに利用された。「伝制」は、国府と郡衙を結ぶ官道で、一般の
公用連絡、役人の赴任、罪人護送などに使われた。
この駅制と伝制の道は、同一路線の地域と別路線の地域があり、また時代により制度上
統合されたり、復活したりと、ややこしい。駅長、駅子、駅馬、駅鈴や伝馬長、伝子、伝
馬、伝使などで、駅がつくものは「駅制」、伝がつくものは「伝制」に基づく用語である。
近年、この二重構造の制度が注目されているようだが、「古代山陽道」を辿る目的から言
え ば、 経 路 道
(筋 の
) 解 明 が よ り 複 雑 に な る も の に 過 ぎ な い。 た だ、 山 陽 道 に お い て の 伝
制は奈良時代にすでに廃止されていたとされる。
もちろん、
さて、その古代山陽道の経路だが、『延喜式』等の記録をもとに推敲されている。
さまざまな遺跡の発掘や考古学的な研究、さらには条里など歴史地理学的な研究からもア
プローチされているが、現在のところ、すべてが解明されるまでには至っていない。
枚方市 の
) 楠葉から
奈良時代には平城京から木津川に沿って北に向かい、河内国交野 (
淀川を渡り、摂津国嶋上 高
( 槻市、島本町など の
) 大原駅家を経て、西に向かったと考え
られている。平安時代には京都から山城国乙訓 大
( 山崎町 の
) 山崎駅家を経て、大原、殖
村へと向かった。
( 山崎町 、)大原 高
( 槻市 、)
駅家の推定地を京都から賀古にかけてあげておくと、山崎 大
殖村 茨
( 木市 、草
) 野 箕
( 面市 、
)葦屋 芦
( 屋市 、
)須磨 神
( 戸市 、
)明石 明
( 石市 、
)邑美 明
(
石市 、)賀古 加
( 古川市 、)となる。ちなみにそれから西に向かっては、佐突 印
( 南郡 姫
/
路市別所町 、)草上 姫
( 路市 、)大市 姫
( 路市 、)
布勢 た
( つの市 、)高田 赤
( 穂郡上郡町 、)野磨
赤
( 穂郡上郡町 、越
) 部(揖保郡)、中川(佐用郡)
と な り、 以 後 太 宰 府 ま で 総 数 五 十 八 駅 が 連 な っ
ている。越部、中川は支路の美作路の駅である。
平 安 時 代 の 中 期 か ら 山 陽 道 は 衰 え た も の の、
道 が な く な る 訳 で は な く、 鎌 倉 時 代 に 入 っ て
も 地 域 間 の 連 絡 網 な ど の 機 能 を 果 た し て い た。
十三世紀に入ると元寇により、軍道の必要性が
浮上し再び山陽道は整備され、やがて宿駅とい
う 宿 泊 や 輸 送 の 拠 点 と な る 集 落 へ と 発 展 す る。
このころにはほぼ直線的に敷かれていた山陽道
は、峠の迂回、河川渡河地点の変更など、自然
地形に準じた整備のやりやすい道筋へと路線は
つけかえられている。さらに近世山陽道「西国
街道」は、街道として整備され、諸大名の宿舎
である本陣や脇本陣、武士や庶民の泊まる旅籠、
問屋などが集まる宿場町が形成される。
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古代山陽道を辿る
●賀古駅家から邑美駅家へ
極楽浄土にいき、諸仏と生まれ変われる。
ということになる。時や場所、特別な修行をしなくとも、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、
弥陀仏に帰依する」という意味で、如来・諸仏を拠りどころとする、つまりは仏教徒になる、
くしょうねんぶつ )
彼の教えは「口称念仏」にあった。「称名念仏」とも言う。口称念仏 (
とは、名号、特に「南無阿弥陀仏」と口にだして称える念仏をいう。南無阿弥陀仏は、
「阿
す道をえらんだ。
の生き方」を探った結果、名門を捨て、都をさり巡錫し、大衆に生きる希望と自信をさと
つかしい論理や観念の遊戯でもなく、又、寺の建立や偶像崇拝でもない。ひたすらに真実
れていた。しかし、彼の求める仏教は違っていた。権威への逡巡や反骨もくすぶった。「む
教信は若僧のころ、時の隆盛を誇る藤原氏の氏寺、奈良・興福寺で学んでいた。若くし
て仏教教学を修め、その才能は計り知れなく大きく、やがては筆頭に立つ人材とさえみら
むきに真実を求め、真実を歩んだ一人の聖哲」と表現している。
でもなく、又、寺の建立や偶像崇拝でもない。ひたすらに真実の生き方にあった」「ひた
教信寺では教信を「仏道実践には聖僧ぶる必要はない。虚飾を捨て直入してこそ真実で
あるというのが教信の信念であった。いうまでもなく仏説はむつかしい論理や観念の遊戯
彼は、空也、法然、親鸞、一遍など名だたる後世名僧から慕われた人物である。
歴史上のスーパースター最澄、空海と、時を重ねるように教信は存在した。
め、最澄・空海らの開祖があらわれ、仏教は倭人の心に根ざしていった。
仏教が五三八年、または五五二年にもたらされて二百五十年。むろん、それ以前から渡
来僧などによって倭国・日本には伝えられており、蘇我氏や聖徳太子が仏教を保護し、広
るには「春はあけぼの」というほどよい季節感を感じさせてくれる。
くれている。それでも、いくつかある伽藍の軒下にできる影はまだまだ淡く、引いて眺め
畳に映える枝木の影は、彼岸を過ぎた日差しですこし色濃く変わり、春の到来を知らせて
る。桜のつぼみは堅くとじ、ほころびを見るには季節が早過ぎるが、本堂へと続く参道石
右に薬師堂と、シンメトリックに三つのお堂が正面に姿を表わす。荘厳りっぱなお寺であ
賀古の駅家跡からものの三分もあるけば教信寺の総門
が見える。門をくぐれば、本堂を真ん中に、左に開山堂、
教信寺に足を向ける。
開祖・教信は、非常に興味深い。
た。
平安時代の初期 八
( 三六年建立 の
) ころ、日本浄土思想、
口称念仏の創始者といわれる教信沙彌という僧侶が起し
加古駅家の北方ほど近くに教信寺というお寺がある。
賀古駅家に話は戻る。
桜の頃の教信寺
「口称念仏」に対比する観念として「観想念仏」がある。仏を心に思い浮かべ信仰する
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
ことにある。瞑想による浄土観想を主旨とするが、寺院やお堂、仏像等を介せざるを得ず、
大乗仏教の本筋である大衆を救おうとする意味においては、より実践しやすい口称念仏が
この時代の主流となっていく。一方、私服を肥やした平安貴族には、資金を生かして成金
趣味のような金色に輝く大きな仏像、仏具をそろえた寺院を建立し、阿弥陀如来を思い浮
かべる事ができる「観想念仏」が好まれた。
以後、平安中期から鎌倉時代にかけて空也 踊り念仏 をはじめ、口称念仏をとなえる
(
)
浄土教は、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)
、日蓮(法華宗)と、時代を
経てさまざまな方向へと宗派が広がっていく。
「仁明天皇承和三年、西歴八三六年の秋、教信は山陽道を西へ向かって行脚していた」
山陽道は、人の往来がはげしい。
賀古の駅家では人々は素朴で、都のように権力とのしがらみはない。
駅家のほど近くに竹でつくった庵を構え、ひたすら大衆に口称念仏を説いた。
農耕を手伝い、旅人の荷物を運び、ついには農業用水の池「駅ケ池」を作った。ため池
の造成といえば、先の時代に生きた僧・行基 六
( 八八年〜 が
) 思 い 浮 か ぶ が、 こ の 辺 り も
水利に乏しく、水は天恵で、生死を分けるものであった。
この頃、教信はすでに五十も半ばであった。
妻帯し子供も生まれた。
この時代、妻を娶ることは、もはや僧侶とは見なされていなかった。
それでも「虚飾を捨て直入してこそ真実」という信念を貫いた。
妻帯に関しては後の世、かの親鸞にも影響を与えた。それは親鸞がしばしば「賀古の教
信は親鸞が定なり」と言っていたということから慮れる。親鸞は妻をもち、七人の子供を
つくった。今日、僧職者の妻帯は当たり前の事であるが、明治期までは親鸞以降の浄土宗
以外では認められていなかった。引いていえば、教信の存在により、僧侶の妻帯が解放さ
れたことなる。
教信にはその他二つ、三つの逸話がある。
・片目の鮒の話
ある日、教信は土地の人に川魚の御供養を受け、感謝してこれを食べた。別人これを見
て「仏道修行者にあるまじき行為」とさげすんだが、教信、この者を駅ケ池に伴い「仏道
修行者は魚を食うもよし、食わぬもよし真実を歩むにあり」と口中より吐き出したとみる
や、魚は池中に遊泳したという。ただ片目を失っていて今も時に釣り上げる鮒にこの魚あ
り、『片目の鮒』とか『上人魚』と称して放生する風習になっている。
・往生の知らせと鳥獣への施しの話 貞観八年、西歴八六六年八月十五日、教信は身に何の病いもなく、月影満つる時、正念
に往生した。時同じくして摂州勝尾寺で無言の行を積んで悟を開き、即身成仏しょうと励
んでいた勝如の室外を訪れたと伝えられている。勝如は驚き咳声をもって答えるや「われ
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
はこれ賀古の駅に住む教信である。日頃念仏往生を願ってきたが、今月今夜、縁あって往
生の素壊をとげることができた。貴僧も来年の今月今夜往生のお迎えがあることであろう。
敢えてそのことをお知らせに参上した。」と語って消え去った。勝如は奇異に感じ、早速
弟子を遺わし、その真偽を確かめしめた。賀古の駅に赴いてみると、婦人、童子あって教
信の妻と子なりといい、生前の一部始終を伝え、且つ、遺言によって彼の遺体を鳥獣に施
すべく、裏の荒野に放棄したと語った。現場を見るに鳥獣がところかまわず食い乱してい
たか、ただ、首面のみは、鳥獣にすら教信の遺徳が感じられたのか、食い乱されず、その
顔は微笑さえたたえているかの如きであった。
二話とも教信寺・長谷川慶明著『松のみどり』より
しかし、教信という僧侶は歴史の舞台に大きくは上がってこない。結婚により、破戒者
として仏界からその名を葬られてしまったのか、歴史上からは地方の一僧侶としてのみの
功績と判断されたのかは、なんとも言いがたい。
沙彌というのは出家して間もない若僧のことをさし、この時代においてまったく高僧と
しての地位は認められていなかったということであろう。
もしくは、教信が自ずから名乗っ
たのかも知れない。どちらにせよ、少なくとも口称念仏の先駆けであり、後の世の浄土教
の僧侶たちや、時代の大衆に慕われ、仏教と大衆のために一身を投じていた偉大な僧侶で
あることに疑いはない。
教信寺を後にし、賀古の駅家跡から東に向う。
先にも書いたが、賀古の駅家から京の都までには、七つの駅家があった。賀古から邑美
お
( う み 、) 明 石、 須 磨、 葦 屋、 草 野、 殖 村、 大 原、 山 崎 で、 邑 美・ 殖 村・ 大 原 の 三 つ の
駅家は『延喜式』 九
( 二七年完成 の
) 記述ではすでに廃止されている。
賀古から邑美を目指してあるく。
このあたり道幅が十五メートルもあったという古代山陽道の面影はまったくない。
山陽道の推定道を東に延長した経路をとってみるが、住宅が広がるばかりで、北に南に道
路をずらして歩いてみても、何も感じるものはない。
古代の山陽道は時代を経てさまざまな変化を遂げている。この辺りは「西国街道」と呼
ばれる江戸時代の道筋に比べて南にずれている。西国街道は国道二号線の北をはしったり、
あるいは国道二号線に吸収されたりしている。古代山陽道は国道二号線の南を国道にほぼ
平行してはしっている。現代の道路と比べるのは、甚だ無理があるが、道幅も狭くなった
り、予想はされているものの調査がされていなかったりと、当時のままの道筋をすべて辿
ることは不可能である。
山陽道から北に向かい、江戸時代の西国街道とされる道を辿って東に向かう。
加古川市から播磨町をへて明石市に入ったころ、福里というところで平成十三年に発掘
調査が行われている。水田面の三十センチほど下から奈良時代の山陽道跡が見つかった。
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
道幅は六メートルから十二メートル、小石が敷き詰められており、南北に七十センチの側
溝をもつ。
近くに稗沢池があり、池の中央をはしる堤防が山陽道と特定された。
今私がたどっている江戸時代の西国街道からは南に二百メートルほど離れている。
これまで高槻市郡家川西遺跡、
古代の山陽道が発掘調査でみつかった例はほとんどなく、
岡山県備中国分尼寺跡など数例に過ぎない。兵庫県には竜野市小犬丸遺跡、上郡町落地遺
跡がある。
せっかくなので、稗沢池の古代山陽道を訪ねる。
稗沢池は国道二号線沿いにある。西国街道を南に下り、福里の交差点をすこし西に戻っ
たところにある。池の中央に道が一本敷かれている。回りには柵が設置されており、中に
は入れないが、外から眺めてみるだけでも、異質な地形が面白い。さらに西には皿池があ
り、東には道はない。ほんの一部の山陽道のみが現世に姿を現している。
稗沢池から西国街道にもどり、二十分ほどあるくと邑美駅家跡に着く。
このあたりで古代山陽道と西国街道が重なり合う。魚住小学校の前の道などは古代から
近世にかけても変わらない道筋だったに違いない。ただ、平凡社の『地図で見る西日本の
古代』では、このあたりには北側に平行して迂回路が走っている。さらに大化の時代には
有馬温泉を通り、直線的に賀古郡家 教
( 信寺あたり に
) 敷設されていたとされている。
邑美駅家は平成二十一年に地中レーダーで確認後、発掘調
査が行われ、奈良時代の駅家跡であることが分かった。
ここは印南野台地。明石台地や明美台地とも呼ばれ、「印南野」「稲日野」は『万葉集』
の歌枕 名
( 所旧跡 と
) しても知られる。
ろがるばかり。小高な地形となっていて、のどかな田舎風景が見渡せる。
平成二十三年には調査が終わり、発掘あとはもとの状態にもどされており、今は田畑がひ
恵器の壷や杯が出土している。まぼろしの駅家といわれた実体が浮かび上がっている。
の建物が存在したとみられている。奈良時代の瓦以外に、須
敷地 を
)
邑美駅家は八十〜九十メートル四方形の駅館院 (
もち、山陽道の他の駅家と同じく、瓦葺きで丹塗り柱、白壁
しい。
美頓宮」にちなんで「邑美駅家」と呼ばれるようになったら
「邑美郷」や聖武天皇が印南野へ行幸する折に造成した「邑
といわれる 『)延喜式』からみて、十世紀初頭前後までには
廃止されている。名前が記録に残っておらず、古代の地名の
うになっていた。しかしこの「駅家」は 律
( 令制最後の格式
家の研究が進むにつれ、「駅家」ではないかと考えられるよ
大正時代から奈良時代とみられる瓦が出土し古代寺院跡と
して、「長坂寺村廃寺」と呼ばれていたが、古代山陽道・駅
邑美駅家あたり
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
万葉歌人の山部赤人が、先にあげた天武天皇行幸の先発隊として印南野を訪れ、次のよ
うな歌を万葉集に残している。
八隅知之 吾大王乃 神随 高所知流 稲見野能 大海乃原笶 荒妙 藤井乃浦尓 鮪釣等 海人船
散動 塩焼等 人曽左波尓有 浦乎吉美 宇倍毛釣者為 濱乎吉美 諾毛塩焼 蟻徃来 御覧母知師
清白濱
「 や す み し し 我 が 大 君 の 神 な が ら 高 知 ら せ る 印 南 野 の 大 海 の 原 の 荒 た へ の 藤 井 の
浦に 鮪釣ると海人船騒ぎ 塩焼くと人ぞ多にある 浦をよみ うべも釣りはす 浜をよ
み うべも塩焼く あり通ひ 見さくもしるし 清き白浜」
藤井は今の明石市藤江を指しているという。
七二六年 十
) 月。奈良時代の海辺の風景が浮かんでくる。
行幸は神亀三年 (
を織り込んだ情景深い歌が数々
万葉集には他にも柿本人麻呂や安倍大夫などの「印南野」
残されている。
邑美駅家あたりは古代から現代にいたるまで山陽道の道筋はほぼ変わっていないが、古
代山陽道は、駅家の南西にある池を横切っていたようである。そういえば、賀古駅家から
やたらと池が見かけられる。
このあたり、ため池の多いところとしても有名である。瀬戸内気候は日本の平均降雨量
の六割程度しかなく、印南野台地は加古川や明石川の水系からも孤立し、水の恵には乏し
いところであった。印南野は大きくは明石から加古川・高砂あたりまでを指しているが、
特に台地に水脈はなく、干害に苦しんでいた。現代でもため池は数多あり、その数は全国
でも兵庫県・東播が群を抜いて多い。以下広島、香川、山口、大阪などの瀬戸内の地域が
つづく。
先に書いた僧・教信はため池づくりに励み、人々を救ってきたが、この辺りの地にゆか
りの深い僧・行基もため池造成に大きく関わっている。
行基は、百済からの渡来人の子として六六八年に生まれた飛鳥時代の僧侶である。行基
については神戸の寺・船息院、伊丹にある昆陽池や昆
陽寺、それ以外にも山陽道沿いの各地に縁が厚い。こ
こ邑美駅家のほぼ真南にあたる海域にある「江井ケ島」
の港にも深縁がある。
そこは行基が開設した湊といわれている。
江井ケ島は邑美駅家から直線距離にして三キロメー
トル程度。一時間もあればゆっくり歩ける。
/
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( 二九~七四八年 に
) 播磨 ’ 摂
(
行基は天平年間 七
播 五
) 泊と呼ばれる五つの湊を造っている。
/ 崎 川 河 口 )、 大 輪 田( 兵 庫
五 泊 は 河 尻( 大 阪 神
江井ケ島あたり
行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
神戸港)、魚住(明石 江
/ 井ケ島)、韓泊(姫路 的
/ 形)、
檉 生 津( た つ の 室
/ 津 )。 こ の 中 の「 魚 住 の 泊 」 が、 今
の江井島港だとされている。別説には住吉神社の付近と
もされる。行基の摂播五泊は有名だが、湊を開設したと
はいえ、行基はこのころにはすでに七十歳を超えており、
自らがすべての陣頭指揮を取ったというより、弟子やあ
るいはその地の村人に湊の整備の指示を出したのであろ
う。
江井ケ島にはこんな説話がある。
澄み渡る青空の下、海岸に寝そべる。
心地良い足音が響く。古代の悲惨な海難は想像にさえ及ばない。
高いヤシの木が南国情緒を醸していて、白砂をふめばサクサクと
揺れる。東に位置する住吉神社にかけて作られた海水浴場は、背
現在の江井ケ島は、赤根川の河口に海に突き出して堤防が敷設
され、港の波は穏やかで、いくつもの漁船が等間隔に並び静かに
行基が彫ったといわれる「御崎地蔵尊」が安置されている。
七四四年 海
) の安全と港の繁栄を願い、
この地に、「長楽寺」という寺がある。天平十六年 (
行基が創建した寺である。この寺には、江井ケ島の地名の由来を裏書きした行基の位牌や、
「ええ水が出る井戸のある嶋」がなまって江井島になったともいわれる。
る舞って帰した。それ以来、「エイが向う嶋」、「えいがしま」
と呼ばれるようになったという。
ると、沖から畳二枚ほどもある大きなエイが現れていっしょに祈ってくれたので、酒を振
一夜で磯ができ、湊の完成に漕ぎ着けた。長年の苦労の末、完成した湊のお祈りをしてい
も潮流に流される堤。ある日、行基は海に礎石を投じ、浜の石で地蔵を彫って海に祈ると、
を凍らせる西風が吹き、荒波が打ち寄せる中、海底の土をさらって堤防を築いた。それで
そこに行基が現れた。湊の改築をうながし、人々とともに工事にとりかかった。冬には体
江井ケ島はむかし、「嶋」と呼ばれる地で、沖では舟
がしばしば沈み、河口は地形が悪く入船が困難であった。海が荒れるたびに湊は流される。
江井ケ島から淡路島を望む
長楽寺のほど近く、定善寺という寺もあり、これも行基が開基。
行基作の薬師如来が本尊である。
さらにこのあたりにもうひとつ、西に二、三キロメートル離れ
たところにも行基の建立した寺がある。薬師院という。正式には
清冷山閼伽寺。天平二年 七
( 三〇年 、)その景観美に感心した行
基が、持っていた錫杖を地に突き立てると霊泉が湧き出し、その
中から薬師如来像が現れ、聖武天皇に勅許を得て寺院を創建した。
この辺りで行基は、瑞雲寺、威徳寺、また少し離れるが玉津の日
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長楽寺
常善寺
行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
輪寺、押部谷の性海寺なども開創している。
第二神明道路玉津インター
とある日、私の住まいの近くにある日輪寺に足を運んでみた。
からほど近い。小高い丘につづく狭めの道路を自転車でうねり上り、住宅街を抜けると日
輪寺に達する。門の脇にある石柱には「聖武天皇勅願所、神亀元年 七
( 二四年 行
) 基菩薩
開創」と記してある。保育園を併設する寺だが、子供がはしゃぐ声の横には、ひっそりと
静かな情景があった。百メートルほど南には大きな仁王門が見られ、あ、うんの仁王石像
が据えられている。今では道路沿いに住宅が建ち並ぶが、古くには一面広大な敷地であっ
たことがうかがえる。
行基という人物、このようにして、あちこちで、湊を開設し、池をつくり、橋を渡し、
寺を建立しているが、いったい何者なのか。中学や高校の歴史の教科書でお目にかかるも
のの、さほど詳しく知る由もない。
行基はまさに古代山陽道が整えられていく律令時代の歴史に名を刻んだ僧侶である。畿
内、 河 内 国 大 鳥 郡 堺
(市 に
) 生まれ、十五歳で出家、僧侶となった。西遊記で有名な玄奘
三蔵 三
( 蔵法師 に
) 師事した道昭の下で、法相宗に帰依した。
行基の師匠となる道昭は、六二九年河内国に生まれ、六五三年孝徳天皇の時代に遣唐使
に随行し入唐 に
( っとう し
) 、玄奘から非常に可愛がられて舎利と経論をことごとく授け
られた。禅を学び、帰朝後には奈良・元興寺の一隅に禅院を建て、禅を広めた。ひたすら
温和な人物で、晩年には国内を渡り歩き、橋を架け、井戸を掘り、渡し船を造って人々か
ら慕われた。禅院で端座のまま没し、遺言により火葬された。葬儀の火葬はこれから始まっ
道昭が中国から持ち込んだ法相宗は、奈良時代に日本で形成された南都六宗 現
( 在は三
たといわれている。
宗が残る の
) ひとつで唯識宗や応理円実宗、慈恩宗とも呼ばれる。この宗旨は、玄奘がイ
ンドで学んだ仏教教義、中でも唯識教義を門下の慈恩大師が系統立てて纏め開創したもの。
『成唯識論』『解深密教』を基礎として開いた。道昭以下、智通、智達 元
( 興寺・南伝 、智
) 鳳、
玄昉 興
( 福寺・北伝 ら
) により伝えられ、行基、徳一らによって継がれ時代を経ている。
宗の教義をまっとうに理解するには、どの宗教・宗旨においても難しい。
法相は、ごく噛み砕いて言えば、「この世のすべての存在は自分がつくり出しており、
自身の考えや行いが変われば、すべてが変わる」という解釈をしている。「人間が十人い
れば、世界も十、存在する」ということにもなる。
「だからどうなんだ 」と筆者に聞かれても答えはでないが。唯識を理解し修行を積めば、
真理に達して静寂な心を得ることができるという。それにはひとつには、慈悲をもって他
は、そうした理念からなのであろう。
これは大乗仏教の菩薩道の考え方でもあろう。菩薩道とは自利・利他行の実践において
も悟りへの道が開かれるとされる。道昭も行基も、他者のために一身を投じて止まないの
者のために生きることが不可欠である。自も他もない。という理念がある。 ?
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
行基は十五歳で出家し、道昭に『瑜伽師地論』『成唯識論』を学び、また法相もすぐに
理 解 し た と い う 秀 才 で あ っ た。 二 十 四 歳 で 受 戒。 飛 鳥 寺 法
( 興寺 、) 薬師 寺 に住し た 後、
山林修行に入り三十七歳 七
( 〇四年 の
) 頃から山を出て民間布教を始めた。修行により、
強い呪力・神通力を身につけたという。
この時代、呪力や神通力は、僧侶としての信頼性を得るひとつの絶大な武器だったと思
われる。呪術により人々の不安や不幸を取り除く心理的効果は高い。神通力にいたっては、
元来仏教から生まれた言葉で、仏教の修行によって煩悩をたち、心を澄み渡らせると人が
本来持っている神秘的な霊妙自在の力が発現されるという。それは六神通と呼ばれ、六つ
の力がある。
「天眼通」は、見えない物も含め、どんなものでも見ることのできる力。
「天耳通」は、世のなかのすべての音や声を聞く力。
「神足通」は、機におうじて思うままどこへでも到達できる力。
「他心通」は、他人の心のすべてを知ることができる力。
「宿命通」は、自分や他人の前世を知る力。
ところで、歴史上名のある僧侶は、たいてい山に籠って修行を積んだ時期がある。これ
「漏尽通」は、煩悩が尽き、けがれがなくなったことを知る力。
とされる。
には修験道という日本特有の宗教が絡んでいると思われる。古神道の一つ山岳信仰に、道
教、陰陽道、密教などが融合したもので、役小角 え
( んのおづの が
) 開祖とされている。
小角は六三四〜七〇一年、行基の一世代前に存在した。新羅の山中で道昭に出会ったと
いう逸話も残り、少なからず、行基の山林修行に影響を与えたのではないかと推察する。
修験道の行者は修験者または山伏と呼ばれ、厳しい修行を積む事により、超自然的能力で
ある「権力」を得る。つまり、上記した呪力や神通力に繋がるのであろう。修験道は平安
初期に密教と深く結びつき、空海や最澄にも大きな影響を与えたとみられる。
また修験道といえば、「天狗」伝説に深いかかわりを持っている。「天狗」の初見は『日
本書紀』舒明天皇九年(六三七年)にある。中国で凶兆とされる流星「天狗星」が、ひと
り歩きし、平安時代には「天狗」は仏法の障害となる「魔」とされた。やがて、修験者を
敵視する他派仏教僧が「天狗道」と揶揄したことから、己に慢心、邪心、愛欲、執着をもっ
た仏教僧は極楽浄土にいけず「天狗道」と呼ばれる魔道におち、天狗に転生するという定
説が生まれた。一方人々の間では山への畏怖から、天狗は山の神として、崇められるよう
になる。天狗が山伏の格好をしているのは修験者 山
(伏 系
) の天狗とされる。
( 〇五年 ご
) ろから民間布教を始めてい
さて、山林修行を終えた行基だが、三十七歳 七
る。この頃、文武天皇の慶雲年代に飢饉や伝染病が流行り、藤原京から奈良への遷都が企
画された。役民たちは過酷な労働に虐げられ、逃亡し、のたれ死にする者も少なからずい
た。行基はこれら逃亡民にも救済の手をさしのべた。行基のもとに人々は集まり、私度僧
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
が増えた。
七一〇年に平城京に遷都された後にも、民間人には道路や建物の建設などの労役が課さ
れていた。奈良の都は、正面に羅城門を構え、朱雀大路と呼ばれる幅八十五メートル、長
さ四キロメートルの道路が南北方向に敷設されていて、碁盤の目のように配された道路は
大小二十四メートルと十二メートル幅でつくられた豪勢なつくり。
『行基菩薩
貴族と一般民の生活レベルの差は激しく、奈良時代の総人口は『行基式目』
図』などによると四百五十〜五百万人程度とされ、そのうち奈良の都は二十万人、その中
の一万人が役人といわれ、下級役人を除く貴族階級に富や特権が集中していた。
一般民は苦しみ、貴族は特権にあぐらをかいている。見渡してみれば現代も同じような
ものかも知れない。そんな状況に行基は、より貧しい者への救済意欲を掻き立てられたに
違いない。行基のもとに人々はこぞって集まっていった。
そのような状況を恐れ、よしとしなかった朝廷は七一七年、名指しで行基の布教活動を
弾圧する。
この時の女帝・元正天皇は「小僧行基は、徒党を組んで、みだりに輪廻と因果応報を説き、
家々をめぐっては食物以外をも乞い、聖道と偽っては農民を惑わしている。・・・・これ
を村里に布告し、禁止せよ」というような意味の詔を発したと『続日本紀』に記されている。
しかし弾圧に反比例するように行基の人気は高まり、七二二年(養老六年)には、後に
行基終焉の場となる菅原寺 喜
( 光寺 を
) 建立し勢いを増していった。活動は広まり、農民
ばかりでなく下級役人や商工業者からも信心を得るようになった。
さらに信者拡大の契機になったのが、七二三年の三世一身法。開墾した土地は三世代ま
で私有してよいとするものである。土地の開発に高い技術を持っていた行基の活動は、各
地の土豪や農民に利をもたらすものして名声が高まった。
も は や 行 基 の 影 響 力 を 抑 え 切 る 事 が で き な く な っ た 朝 廷 は、 聖 武 天 皇 の 時 代 に 入 り、
七三一年には在家者 六
( 十一歳以上の優婆塞と五十五歳以上の優婆夷 の
) 出 家 を 許 し、
七四〇年頃までには行基を薬師寺の師位僧 上
( 級官僧 と
) 認め、その力を取り込むように
なった。
高く行基を評価していた聖武天皇は、奈良の大仏建立に際して七四五年には、行基に大
僧正という新しいくらいを設けて授け、僧侶の第一位の座につかせた。
七 四 七 年 に は 聖 武 天 皇 の 眼 病 平 癒 を 願 っ た 光 明 皇 后 の 命 に よ り、 新 薬 師 寺 を 建 立。
七四九年に菅原寺において八十に歳で入寂した。
行基はこのように一般民への救済事業を数限りなく行ってきた人物であるが、寺院、布
施や、橋・道路、ため池についてそれぞれの活動を探ってみたい。
行基がこのような社会事業的な救済が最も行われた時期は、六十歳は優に超えていた。
古墳時代の平均的な寿命は確かな数字は算出されていないが、三十〜四十歳程度だとい
われる。大雑把に真ん中を取って三十五歳ぐらいと考えてもいいかも知れない。出生率の
低さや、男女、また年齢別にみた平均余命に差もある。もちろん、貧富の差や、地域差で
も寿命は大きく異なる。一部の資料では二十歳や二十八歳という数字までみかける。
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
初秋、私は京都の羅城門にいた。
九条新千本の交差点北東百メートル程のところ。
賀古駅家跡から推定百キロメートル程となる。
羅城門は遷都の折に、平安京の正門として造られ
たもので、幅三十三メートル、奥行き八メートルに
及ぶ、当時のランドマークである。八一六年に大風
あると思われる。
たという。今でいえば大学教授が、学生を「先生」と呼び、教えを乞うぐらいの違和感が
借経が続くが、その間に、手紙には、自身を「下僧」や「弟子最澄」などと記すこともあっ
さらには古代の身分の上下関係は厳しく隔たりがあったが、年上で僧として身分の高い
最澄が、空海にへりくだるように経典の借用を手紙で申し込んでいる。ここから五年ほど
喜んで迎え入れているという。
も行っているほど縁の深い寺であった。そこに 歳
8 も年下の空海が住寺としてやってく
るのだから、穏やかではないはずだが、最澄はむしろ正統な密教を持ちかえった空海を、
日本で最初となる密教の灌頂が行われたのが高雄山寺であるが、この灌頂は一足先に唐
から帰京していた最澄によるものである。最澄にはこの寺で法華経 天
( 台三大部 の
) 講演
高雄山寺は、空海にとっても最澄にとっても因縁の深い寺である。ここを舞台に歴史に
残る二人の絡み合いが展開されている。
の高雄山寺に住している。
た後、和泉国・槙尾山施福寺に二年ほど留まり、京に入り、八〇九年、三十六歳の頃にこ
高雄山寺はその京域からはかなり離れた山中にあり、この時代においては、畢竟の地と
いっても大袈裟ではないほどの処であったと思われる。空海は太宰府からの上京が許され
条あたり。東西は、寺町通から葛野大路あたりと考えられている。
神
( 護寺 で
) ある。平安京の京域が東西四千五百メートル、南北五千二百メートルほどと
いい、現在に照らし合わせてみると、南北は、九条の羅城門から大内裏の裏手にあたる一
空海の京都における拠点ともいえる場所がほかにもある。右京区高雄にある高雄山寺
とした寺である。
では東寺のみが残る。東寺は八二三年に空海が嵯峨天皇から下賜され、真言密教の主道場
数年後に門を挟んで東に東寺、西に西寺が国家鎮護の官寺として建立されたというが、今
千二百年前の当時の文明がそのまま残っているほうが希なのは当然である。羅城門創建の
残るのみである。寂れた姿に哀愁さえ感じられるが、ここに限らず全行程を振り返って、
た。現在、羅城門跡として、小さな公園に「羅城門遺址」と書かれた石碑が滑り台の傍に
で倒壊し再建されたが、九八〇年に再び暴風雨で倒壊。それ以降再建される事はなかっ
羅城門跡の石碑
それは自身の持ちかえっ
遂には、最澄は実際に空海から密教の灌頂を受けることになる。
た密教が不完全で、空海の持ちかえったものが正統であると言下に認めることであり、さ
らには空海を師と仰ぐ事になる灌頂を受けようと自ら乞うていることになる。
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
これらの態度は司馬氏が『空海の風景』で「うまれつきの徳者ともいえるかれの性格」
と表現しているまさに、その性格がなせたわざといえるであろう。司馬氏は最澄に対峙す
るときの空海は、何故か偏屈だったように受け取れる書き方をされている。書籍を読み進
めるほどに、実際にそうであったのだろうと感じられる。
灌頂には、「結縁」「受明」「伝法」の三つの段階があり、最澄には伝法灌頂をその場で
行う事はなかった。「三年かかる」と言ったという。実際に三年以上かかるのかも知れな
いが、国内最高峰の僧侶ともいえる最澄に対して、三年待てというのは、甚だ失礼に当た
ると思われる。実際、空海は唐で恵果からは二カ月ですべての灌頂を受けている。
それでも最澄は、空海を罵ることもなく、怒る事もなく、ただ無念にのみ感じたとされ
ている。最澄はあくまでも実直で徳がある。
では、どうして、空海と最澄が断交してしまうのか
最澄は、多忙であった、故に、灌頂を受けた後、比叡山に戻り、遣いの者に借経願いの
えているところもあるやも知れないので、詳細が知りたい方は、『空海の風景』をご覧い
以上が、空海と最澄のおおまかな絡みである。司馬氏の書の請け売りである。私がはき違
すべてを悟った最澄は、これ以降、泰範とも、空海とも、もはや交をつなぐことはなかった。
執拗なまでに帰還を促すが、ついには空海が代筆をして「絶縁状」といえる手紙を送った。
と最澄の確執を増大させることに繋がる。最澄はあくまでも泰範を自分のもとへと願い、
に学ぶ泰範は、空海の「三密」と最澄の「筆授」の狭間に立たされる。それがさらに空海
でに最澄を師と仰ぐことも、天台のもとに帰る意志もなかったようである。しかも、空海
この間、最澄の右腕であるもしくは右腕であった泰範という僧が空海のもとで密教を学
んでいる。最澄の泰範への天台後継者としての期待は高い。ところが、泰範はこの時、す
世代の円仁や円珍が唐で学び、取り込まれるまで、三十年ばかり遅れることになる。
取り以降、最澄は空海から密教を学ぶのを控えた。これにより天台にとっての密教は、次
でも、まったくの断交には至らず、この後、二年半程の交流があった。しかし、そのやり
はない。あなたはあなたの道である顕教を極めるがいい」というような手紙を返す。それ
それでも空海は最澄の「筆経」のための借経依頼に応え続けるが、ついに密教の奥義と
もいえる『理趣経』の借経に至り、忍耐の緒が切れる。「密教は筆経で習得できるもので
惟のことで、印を結び、真言をとなえ、大日如来を念じることである。
いたが、三密を行じようとしない最澄に不信と不満がつのる。三密とは、動作と言葉と思
手紙をもたせるばかりであった。一時、空海は最澄に「密教のすべてを伝授する」として
に筆授により学べるものである」と。
一方、最澄は「密教は、天台に取り込むべきひとつの教義であり、どの宗教とも同じよう
教の統帥の座を兼ねて、片手間のように書物による修得などできるものではない」とし、
一言にマトメると、「空海の思いと、最澄の思いに大きな隔たりがあった」ということ
になろう。空海は「密教は師から弟子に、直伝されるものであり、ましてや天台という顕
?
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
ただきたい。
古代山陽道の旅の最後に東寺を訪れた。
空海の真言密教道場である。
四国の片田舎で生まれた少年が、日本仏教界の最高峰に上り詰めた証のひとつである。
今更ながらではあるが、空海の生い立ちから足跡を一下り。
空海は七七四年六月、讃岐の屏風ヶ浦、善通寺の境内で地方豪族の佐伯氏の子として誕
生した。幼名は真魚 ま
(お と
) いう。母親のみた夢から不空金剛の生まれ変わりといわれ、
幼い頃より才覚にすぐれ、一族の期待をせおって十二歳から讃岐の国学で学び、十五歳に
は奈良の都にのぼり、十八歳で大学の明経科という官吏コースに入り、このころに『三教
指帰』を著している。二十歳で大学を辞して私度僧として山林修行に入り、乞児、無空、
教海、如空などの名を使ったとも言われる。この頃から七〜九年間ほどほぼ消息不明の時
代が続く。この間「空海は近畿で当時の行者たちが霊しき山であると評価している山々に
はひとわたりのぼったようである」と『空海の風景』にある。
結局は淡路を通って、四国に渡り、ここで密教行者として「虚空蔵求聞持法」の一切を
修法したようである。大日経などの密教経典にであったのもこの頃といわれている。
「室
戸岬で明星が空海の口の中に飛び込んで来た」というのもこの頃の話である。鯖大師の話
もしかり。また二十四歳には『聾瞽指帰』を書いている。
八〇四年、三十一歳で空海は、最澄とともに遣唐使として入唐することになる。三十一
歳といえば、空海が得度をした年齢といわれるが、これには諸説あり、十九歳、二十歳、
二十二歳、二十五歳ともいわれている。
その後は、この書籍の中でも時折紹介しているが、二年後に帰朝し、太宰府に留め置か
れ再び、一、二年間程の空白の時代を経た後、和泉国・槙尾山寺、京都・高雄山寺、乙訓
寺などに住まい、この間、最澄との交流を行い、八一六年、空海四十三歳のころ最澄とは
縁が切れている。同八一六年には高野山の下賜を請い開創勅許を得て、八一九年にはまず
明神社を建てる。八二三年には東寺が嵯峨天皇から下賜され、その後、東寺の経営や高野
山の開創に尽くす一方、書をしたため、諸国を巡っていたようすである。八三五年六十二
歳に高野山で入定。その他、奈良・東大寺、大安寺の別当などにも任命されている。
あらかたを書いたが、詳細を記せばきりがない。
しかし、京都での空海の足跡を二つ三つ。
二条城の南にある神泉苑という寺院。ここにはこんな話が残っている。八二四年の大干
ばつの折に淳和天皇の勅命で、西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法力を競い合い、空海が
善女龍王を呼び寄せ、雨を降らせ勝利した。以後この寺院は東寺の支配下に入るようにな
り、西寺は廃れ、東寺は栄えたという。
綜芸種智院は空海が設けた私立学校。身分や貧富にかかわらず、庶民も僧侶も仏教、儒
教、道教などあらゆる思想や学芸を学べる教育機関の設立を目指した。没後十年ほどで廃
絶した。現在の種智院大学は、その伝統を継いで設立されたといわれる。綜芸種智院跡は
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
京都駅と東寺を直線で結んだ中程にある。
現在の京都、東寺。
空海は、身口意の三密を説いたが、将にその教えに対面できる思いがする。
うな中で、目を閉じ空海を思えば空海に出逢える。
独特の空気に包まれて顔がより穏やかに変化していく。このよ
文化、とくに宗教観がほどとおい外国の人も、仏具の並び迫る
オンカカカ・・・」などと時折、如来や菩薩の名が耳に届く。
経を唱えていた。「釈迦如来ノウマクサンダ・・・、地蔵菩薩
も昔も変わらないのかも知れない。堂の中では老婆が熱心にお
坊さんが三人、吸い込まれるように門に向かう。その姿は、今
えを教えてくれるようである。山吹色が際だつ袈裟を纏ったお
多くの伽藍を抱えるが、なかでも空海の住んでい
た大師堂は、入母屋造の総檜皮葺屋根が遠いいにし
いう気分を高揚させてもらえる。
は大きな修行大師像がおかれ、空海の寺を訪ねたと
クと心地良い音がたち耳をくすぐる。山門の西手に
が拝める。砂利の敷かれた境内は歩むごとにサクサ
羅城門を東に進むとほどなく五重塔が目に入る。堀沿いを歩き、左右に「東寺」と記さ
れた大きな提灯を垂らす山門を潜ると正面に金色堂
東寺は平安時代の山陽道の起点、羅城門から東に三百メートルにある。
空海の面影を慕ってみた。
推測してもらいたい。二条大路に面した門を朱雀門といい、その北すぐにあったらしい。
位置は南北が二条から一条にかけてあり、東西の中心が羅城門の延長線上にあることから
にも筆の誤り」ということわざはここから残されている。応天門は今はないが、大内裏の
平安京大内裏の応天門の伝説は周知。空海が応天門の扁額を書いた時に応の上の点を書
き忘れたが、掛けられた額をそのままにして、筆を投げて点を入れたというもの。
「弘法
JR
これで賀古駅家から羅城門、東寺まで古代山陽道をひととおり辿ったことになる。辿り
終えていえることは、道沿いに古代を深々と感じられるものはさほどある訳ではないが、
金堂の薬師如来、講堂の大日如来、五重塔などひとしきり眺めて東寺をあとにした。
東寺には東寺の、空海の残した念いに心が洗われる。
まれる様な感覚になれるのは誰もが経験するところではないのだろうか。
どの仏教宗旨も宗派も根本は同じといえばお叱りを受けるのだろうか、他の宗教や神仏
の違いでさえ、本当のところ理解できないが、寺院や神社、教会を訪れると何かに包み込
身体で印を結び、口で真言を唱え、心で本尊を念ずれば悟りの世界が現れる。
「仏は自分の中にあり、自分を知れば仏になれる」発心せよという。
修行大師像
東寺
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行基・空海・最澄への旅
古代山陽道を辿る
歩くことにより、寺院や仏像、灯籠や石碑、古墳、また草木やセミ、トンボなどの昆虫に
土 Web システムから提供されたものです。
さえ感動を覚えることができる。遠く古い日本の情景や文化を観じることもできる。どの
門的な資料をご参照ください。また、この背景地図等データは、国土地理院の電子国
時代に山陽道と呼ばれ、山崎道、中国道、西国街道というような呼称がどうなのかなどと
りますが、経路の参考のためとしています。学術・研究などの資料とする場合は、専
いう学問的な見地見解は、いささかどうでもよくなってくる。
参考に推測も加えて作成したものです。現代マップに経路を落とし込むのは無理があ
願わくば、古代の山陽道を古代のままで歩いてみたい。
図」や『地図でみる西日本の古代』日本大学文理学部叢書 平凡社、その他資料等を
僧侶や庶民、官吏や牛馬が闊歩している姿が見てみたいものである。
古代山陽道経路推定マップ
以下のマップは『兵庫県歴史の道調査報告書第二集山陽道(西国街道)
』
「足利報告付
古代山陽道経路推定マップ
古代山陽道経路推定マップ
資料に推測を加えて作成したマップです。確定的なものではありません
● 7. 今城塚古墳近く
今城塚古墳の南に古代山陽道は走っている。
遺構などからみて、ほぼこのルートに違いな
さそうである。
● 5. 大原駅家あたり
大原駅家跡は確定されていない。直線的古代
山陽道と東の樟葉駅家の位置、また山陽道か
らの距離をみると梶原南遺跡が近いが。
● 3. 久我畷
古道の痕跡はほぼ残らないが、落合橋のすぐ
近くにそれらしき道が残る。低湿地帯のため、
江戸期には廃れていったとされる。
● 1. 京都・羅城門から南へ
都の正門・羅城門から鳥羽離宮を目指して「鳥
羽作り道」を南下。千本通が名残か。古代に
はこの辺の道幅は相当広かったに違いない。
● 8. 殖村駅家
現代地図と見比べると地割りに不自然さがあ
るが、山陽道の直線的な特長を優先させて線
引きを行った。
● 6. 高槻あたり
このあたりは江戸期の西国街道とほぼ経路を
同じくする。かたや細くジクザク道。かたや
直線的特長の山陽道。
● 4. 山崎駅家あたり
確定的な推定道の角度からみて、ほぼこの推
定経路かと思われるが、若干駅家寄りになる
かも知れない。
● 2. 鳥羽殿から久我畷 ( こがなわて )
鳥羽離宮からまっすぐ山崎駅家へ繋がる道が
久我畷。古くは京道や山崎道と呼ばれていた
らしい。