第25回 教会史概観

福音学校
第Ⅲ期
教会の歴史ー1
第25回
教会史概観
芦田
道夫
はじめに
これから12回の予定でキリスト教会二千年の歴史を学びます。しかしキリ
スト教二千年の歴史と言っても、教派・教会の流れをたどる外的な歴史とその流
れの動因となった内的信仰の流れ(教理の流れ)があります。普通これらを区別
して「教会史」と「教理史」に分けて学びます。しかし実際の歴史は、別々の流
れなのではなく、教理の違いが教会の流れを変え、教会の流れの違いが別の教理
を生み出していくというようにこの二つの流れが一本の撚られた綱となってつな
がっていきます。
また教会の歴史はキリスト教という枠内だけの出来事ではなく、民族や国家と
の相互作用が大きく影響しています。この学びではできるだけそれらとの関係を
も良く目配りしていくようにします。今日でも宗教対立の背後に民族対立や経済
的な問題があり、それが表面的には宗教の問題として取り上げられることが多い
のですが、歴史を学ぶことで今日的問題を見抜く力をも養いたいものです。
福音学校の学びではキリスト教二千年の歴史を七つの時代に区分しました。
時代区分の仕方には様々あり、どのような視点でキリスト教会を見るかによって
それぞれ異なった時代区分が出てくるはずです。ここで採用した時代区分は、一
般的な教会史区分をベースにしながら、私たちの教会(ホーリネス教会)から見
た区分に修正してあります。私たちは教会史上は敬虔主義教会の流れに位置づけ
られますが、学者たちの間では敬虔主義の流れはあまり顧みられることがなく、
簡単に片付けられてしまいます。しかもその中でも19世紀のリヴァイヴァリズ
ムによって生まれてきた教会は、実際には非常に大きな影響を与えてきたにもか
かわらず、神学上の寄与が少なかったためにほとんどまともに取り上げられるこ
とはないのです。したがって私たちが神学史や教会史の本を読んだり学ぶときに
は、私たちの流れに対する一種の偏見が背後にあることを知っておかなければな
りません。私たちのことは外の流れにある人たちの研究や書物に頼らず、私たち
自身が神学しない限り、本当のことは分からないのです。その意味でこの学びは
ホーリネス人から見たキリスト教二千年の歴史ということになります。
最初にいくつかの視点から二千年の歴史を通観して、大きな流れを把握するこ
とにします。
1.一般史(政治・国家史)の視点から
(1)古代ローマ帝国の衰退
キリスト教が生まれ、迫害を受けながら成長を続けた紀元1世紀~2世紀は、
ローマ帝国の絶頂期に当たります。しかし最後の五賢帝マルクス・アウレリウス
が 死 ぬ と ( 紀 元 1 8 0 年 )、 軍 隊 に よ る 皇 帝 の 擁 立 と 暗 殺 が 続 き 混 乱 と 衰 退 期 を
迎 え る 事 に な り ま す 。( 五 賢 帝 = ネ ル ヴ ァ 、 ト ラ ヤ ヌ ス 、 ハ ド リ ア ヌ ス 、 ア ン ト
ニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス)
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※通称パックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる時代はアウグストスが
帝位を確立した紀元前27年~紀元180年の約二百年間を指しています。
この時代、キリスト教はローマ帝国の非公認宗教であったために、属州の総督
の意向や皇帝によってたびたび犠牲になってきました。もちろん三百年間絶えず
迫害されたわけではなく、平和な時代の方が長かったのですが、特に最後の大迫
害 と 言 わ れ る デ ィ オ ク レ テ ィ ア ヌ ス 帝 の と き ( 303~305) に は も う 少 し 長 く つ づ
けば壊滅していたのではないかと言われるほど激しいものでした。
(2)西ローマ帝国の滅亡(帝国教会)
最 後 の 軍 人 皇 帝 デ ィ オ ク レ テ ィ ア ヌ ス ( 最 後 の 大 迫 害 を 行 っ た 303~305) の 後
の混乱を制したコンスタンティヌス1世は、ササン朝ペルシャに対するために、
330年帝国東部のビザンティウムに遷都しました。さらに395年には兄弟皇
帝によって東西に分割統治されるようになり、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分
裂することになりました。西ローマ帝国は476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケ
ルによって皇帝が廃位されてついに滅んだのです。
残った東ローマ帝国はその後約千年生き延びてビザンティン文化を開花させて
1453年オスマントルコによって滅びました。一方滅んだ旧西ローマ帝国領域
は文明的にも遅れていたゲルマン人が持ち込んだ封建制のもとで中世が始まりま
す 。 尚 、「 中 世 」 の 始 ま り を ど の 時 代 に 適 用 す る か は 、 こ こ で の よ う に 西 ロ ー マ
帝国滅亡とする立場と962年の神聖ローマ帝国成立とするなどいくつかの考え
方があります。
古代から中世への移行にもっとも大きな影響を与えたのが、300年ころから
500頃にかけて断続的につづいたゲルマン民族の大移動です。直接的にはロー
マ帝国を滅亡させ、中世という時代を到来させると共に今日に至るヨーロッパの
民族構成・民族国家の基礎ができたのもこの民族大移動によるものです。
(3)ゲルマン民族国家と封建社会(中世教会)
西ローマ帝国滅亡後も残されたローマを中心とする西部のキリスト教は、ゲル
マ ン 諸 族 へ の 伝 道 を 続 け 、つ い に 4 9 6 年 フ ラ ン ク 王 ク ロ ー ヴ ィ ス が 洗 礼 を 受 け 、
アルプスを越えて西と北に向かって拡大していきます。フランク王国は現在のフ
ランス、ドイツ、イタリアを合わせた広大な領域を支配しますが、やがて三分割
統治され、現在のフランスが西フランク王国、ライン川沿いからイタリアが中部
フランク王国、現在のドイツがを中心に東フランク王国となった。西王国と中部
王国は弱体化していき、東王国が神聖ローマ帝国となっていきます。東王国の中
心的民族であるザクセン人は世襲の王ではなく非常時に選挙で選ぶ伝統をもって
いたため、1871年~1918年のドイツ帝国(プロシア)まで神聖ローマ帝
国は強力な中央集権国家ではなく、実際には封建領主の連合体でした。宗教改革
時代の複雑な動き(混乱)の原因はこの国家体制によるものです。
現在から見ると、このゲルマン諸族へのキリスト教の伝搬が今日のキリスト教
界、特にプロテスタント教会に大きな意味をもつと言えるでしょう。
(4)封建社会から市民社会へ(宗教改革期~近世教会)
15世紀から18世紀にかけての約400年間は、それまで約千年間続いたヨ
ーロッパ中世封建社会が崩壊し、市民社会が形成されていく時代です。土地所有
を基礎に、主従関係と領主と領民(農民)という固定化した社会であった中世が
手工業の発達と交易の発展、新大陸の発見、植民地の拡大などによって崩れ、貨
幣経済と個人の財産・権利を中心とした流動的な社会へと大きく変化していきま
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した。宗教改革とその後のプロテスタント諸教派の成立は信仰上の問題だけでな
く、このような社会的変化の流れに沿ってなされていった点にも注意を払わなけ
ればなりません。特にバプテスト教会などの会衆派教会は市民個人の自由と契約
概念なしには、中世教会から生まれるはずのなかった教会形態です。
またこの時代の終わり頃には産業革命が始まり、資本主義経済の発展と共に土
地を離れ、自分の労働力(時間)を売って生活する無産階級(プロレタリア)が
都市に集中するようになりますが、ウェスレーのメソジスト運動はこのような社
会変化を背景に発展していきます。つまりそれまで教区教会につながっていた人
たちが、働くために生まれ育った教区を離れて都市に出て行き、飼い主のいない
羊のようになっていたのです。社会変化が教会のあり方をも変えるのです。
( 5 ) 啓 蒙 思 想 の 支 配 ( 合 理 主 義 ・ 自 由 主 義 )・ ・ ・ 近 世 教 会
17世紀後半イギリスに発して18世紀にフランスで発展した啓蒙思想は、今
日の近代的社会を作り上げる原動力となりました。アプリオリ(先験的)に与え
られる権威や知識を否定し、この世のすべては人間の経験と合理的な理性によっ
て認識されなければならないとして教会や聖書の権威・超越的な神信仰は理性に
よって把握され得ないとして、信仰も理性によって把握される範囲内に閉じこめ
ようとしました。つまりキリスト教信仰の意義を道徳と社会福祉に見いだそうと
するようになったのです。
啓蒙思想は合理的な理性と実験による科学的方法を重視したので、科学の分野
がめざましく発展するようになりました。やがてそれは科学の対象になりえない
ものの軽視や科学が万能であるかのような錯覚を生み出していきます。聖書も宗
教の聖典としてよりも、歴史的資料として科学的分析の対象として取り扱われる
よ う に な り ま し た 。も ち ろ ん 聖 書 に そ の よ う な 側 面 が な い わ け で は あ り ま せ ん が 、
本来的に信仰の書である聖書を、そのような読み方だけが正しい読み方であると
断定しようとしたところに根本的な問題をもっています。
聖書や教会の権威から自由になろうとした啓蒙思想が聖書信仰に与えた打撃
は、ヨーロッパにおけるキリスト教衰退の要因の一つとなりました。日本におい
ても今日に至るまでその影響は続いています。
2.教理史・教会史の視点から
(1)古代教会の論争
古代教会の関心の中心は専らキリスト論でした。イエス・キリストの神性と
人性に関する論争がつづきました。最初はユダヤ教との論争、続いて哲学者た
ち、そしてキリスト教内部に浸透してきたグノーシス主義との闘いです。
4世紀にこれらの論争は三位一体論を明記したニケア信条(より確定的にはニ
ケア・コンスタンティノポリス信条)によって決着をみました。
(2)帝国教会の論争(古カトリック)
時代的には遡りますが3世紀前半、カルタゴの司教キプリアヌスは教会が司
教を中心とした共同体であることを主張し、有名な「教会の外に救いなし」と
いうことばを残しています。これは司教が司る礼典によってのみ神の恵みは有
効に働くとしたものですが、今日我々も礼典執行の権を按手礼を受けた教師に
している根拠となっています。この教会についての議論はやがてこの帝国教会
の時代に具体的なかたちをもって発展していきます。
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この時代、キリスト教は公認されただけではなく国教化され、教会が国家と
密接な関係をもって、社会の支配システムとなっていくのです。今日、欧米で
はこのようなキリスト教会の在り方、すなわちコンスタンティヌス体制=コル
プ ス ・ ク リ ス テ ィ ア ヌ ム( キ リ ス ト 教 的 社 会 、文 字 通 り に は「 キ リ ス ト の 体 」)
への厳しい批判がなされています。キリスト教信仰と思われていたものが実は
キリスト教化された文化なのではないか、この世俗社会の中でキリスト教の異
質性をもっと自覚して生きるべきなのではないかと問われているのです。
(ハワーワスやウィリモン、ヨーダーなど)
(3)中世教会の論争
前述のキプリアヌスはすでにローマ教会監督(教皇)の首位権をに主張して
いましたが、590年グレゴリウス1世がローマ監督になると自ら強力に他の
監 督 に 対 す る 首 位 権 を 主 張 は じ め ま し た 。( 他 の 監 督 と は ; エ ル サ レ ム 、 ア ン
テオケ、アレキサンドリア、コンスタンティノーブル) こうして今日までつ
づ く ロ ー マ 教 皇 の 絶 対 的 な 権 威 が 築 か れ て い き ま し た 。( 教 皇 権 の 絶 頂 期 は
最も狭義の中世1054年~1305年)
この時代の教会史上最大の出来事は、1054年の東西分裂です。ローマの
監督の権威とコンスタンティノーブルの監督の権威とが決定的にぶつかり合っ
た結果ですが、その原因は長い年月と複雑な問題を抱えています。東西分裂は
すでに2世紀の復活祭論争から始まり、西方でニケア信条に「フィリオクエ」
を加えたことやイスラム勢力の圧迫と関連する聖像論争など、数百年にわたっ
て広がった東西の溝が表面化したにすぎないのです。
中世教会のもう一つの大きな出来事は聖職制度と修道院制度の発達です。ど
ちらもその発端は2世紀から4世紀にありますが、今日にまで続く確固とした
制度となっていったのはこの時代です。前の時代で教理上の骨格が出来上がっ
たように、紀元千年ころまでに教会的制度・典礼・文化が出来上がっていきま
した。東方教会では紀元千年ころの教会の姿を今も比較的残していますが、西
方教会(ローマ)では修正が加えられていきます。
(4)宗教改革期の論争
宗教改革はキリスト教会の一大事件ですが、それはあくまで西方教会内部で
の出来事であったことです。私たちは宗教改革が世界のキリスト教会を二分す
るような出来事として受けとめがちですが、東方教会は依然として無傷で存在
し続けたのです。20世紀初頭、最大のキリスト教国は東方教会のロシアであ
ったという事実も心に留めなくてはなりません。
さて、宗教改革の論点は何だったのでしょうか。それにはやはり二方向の改
革がなされなければなりませんでした。教理の問題と教会制度の問題です。
ルターは最初「信仰義認」の主張という教理の論争から始めましたが、それは
必然的にローマ教皇の絶対的な権威の否定という教会制度の問題に波及してい
きました。聖書の権威はあったとしても、聖書の解釈権をもつローマ教皇の権
威は事実上聖書の上におかれていましたから、論争の中でルターはこの聖書を
正しく解釈するというローマ教皇の権威を否定することになったのです。
聖書の正しい解釈はローマ教皇にではなく、信仰者各自に聖霊が照明を与え
て導いてくださるという事実の中にある、という主張こそ宗教改革の核である
と思われるのです。絶対的なローマ教皇権の根拠となっていた聖書の解釈権を
否定することによって、教皇そのものの権威も否定することになり、それは教
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会制度全体を崩壊させる結果となりました。
この聖書解釈の原理によって無数のプロテスタント教派が生まれてくること
になり、多様な教会の制度や形態が発生してきました。
(5)近世教会の論争(プロテスタント)
宗教改革からプロテスタント諸派は次々にそれぞれの信条、信仰告白をまと
めるようになりますが、やがて信条を「絶対化」して「死せる正統主義」と言
われるようになります。時を同じくして出てきたのが、人間の経験と合理性を
追求する哲学です。
近世教会の論争の中心は、超越的信仰(啓示信仰)か理性の下にある信仰か
という論争でした。この論争は今日もつづいています。中世教会の神学がアリ
ストテレス哲学の影響下に置かれたように、近世においては著しい科学の発達
もあって、人間の経験と理性的論理に絶対的な信頼がおこうとしました。
教会内では信仰的の生気をなくした正統主義に対してドイツ敬虔主義が生ま
れてきました。しかしここに複雑な問題が生じます。正統主義は活き活きとし
た信仰はなくしていましたが、信条によって啓示信仰を堅持していました。一
方敬虔主義は温かい活き活きとした信仰を生み出しましたが、人間中心的とな
り啓示信仰が弱くなる傾向がありました。
(7)19世紀~20世紀の論争
19世紀は教会・教義の権威からの自由が大きく拡大した時代です。
ダーウィンの進化論や唯物論の影響もあって、キリスト教の倫理化、社会運動
化が進みましたが、その一方で、真摯な聖書研究や伝道への献身という敬虔主
義から派生してきた運動も世界的なうねりとなりました。それはアメリカを中
心とする世界宣教の時代と見ることもできます。
アジアやアフリカという、まだ福音が伝えられていなかった地域への宣教が
活発になされる背景には、終末意識の変化がありました。また20世紀前半の
初代教会の終末論の再発見は聖書信仰に一大転機をもたらしました。
さらに聖書神学とそれを土台とする教義学が盛んになり、宗教改革以来最も
聖書に関する議論が沸騰しました。
キリスト教史における20世紀最大の出来事は、カトリックの第二バチカン
公会議でしょう。千年以上続いてきたカトリックの姿をこの会議はまったく一
新したと言っても過言ではありません。まだまだプロテスタントとの溝はある
のですが、古代の教会の姿に目を向けることで、両者の距離が近づいてきたと
思えます。再一致が可能かどうかはわかりませんが、相互理解への道がこの会
議によって開かれてきたことは事実です。それはプロテスタントとカトリック
の間だけではなく、東方教会との対話もすすみつつあります。
【課題】
自分なりの簡単な教会史の年表を作ってみてください。
(世界史や日本の時代を一緒に書き入れると、より実感が出てきます)
次回
3月11日
「正統信仰の形成」
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