日本の古典神話は、 一般に国家的 ・ 政治的色彩が濃いといわれ、 自然

木の神話伝承と古俗
㈹古代の樹 霊信仰
記紀の日月離反
日本の古典神話は、一般に国家的・政治的色彩が渋いといわれ、
自然神話的色彩は薄いといわれている。もちろん、
の神話 や 、オホ ゲツヒメ ・ウケ モチ殺しのような、自然神話的、 な
いし アニ ミスティックな伝承も全くないわけではないが、こうした
原始信仰に基づいた伝承も、やがて豪族たちの手によ つて結集さ
ね、統合・記録きれ 、更に朝廷の史官たちによって、政 治的な潤色
や加筆を受け、かれらの神々も、何等かの形で皇祖神の神統語 に組
み入れられている。然し、それらの伝承を精査するなら、古い原始
樹木の生成
信仰の痕跡が窺われるのである。これらの伝承に伴う古俗は、後世
の フォークロアに共通のものを見出すことができる。
ここで扱 う ﹁木の神話伝承﹂とは、自然神話としての
高
説
を
五% 何
一四
健
食
目
U
初一
Ⅳ
およびこれを用材として、人間が家屋、船舶、布、紙・
加 エし
Ⅰお
薪 ・炭などの燃料など、ホを
などの日常の道具類、
、およびそれの技術の起源・由来を語る文化神話、植林と
エめ 起源伝承が含まれる。
本人には、アニミズム信仰があり、山には ヤ マツミ 、海
ミ、 野にはノ ソチなどの精霊が満ちていると信じられた
睾幅自
木 居宣
紀や風土記などの古典伝承にも窺われる。力 ミ という
人格性・抽象性を持つ超越 霊 格を指す語ではなく、
まれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、
つね
可 畏き物を
かしこ
かみ
申し、文人はきらにも五ず、鳥獣本草のたぐひ、海山 など
り。﹂といい。また﹁雷は常にも鳴神・神鳴りなど 云 はさ
ず 、竜、 樹霊 、狐などのたぐひも、すぐれてあやしき
かし
て同異こければ 神 なり﹂などとも述べている。
、また
縄 文 ・弥生など
さわ
﹁日本書紀 ヒ の神代番 に、天孫降臨以前の国土の状態を
﹁多に
かかや
もの
蛍火の 沈 く 神
榎 草木ことど とノⅠー
ロ
圭巾
ふ1
こ11
とあり﹂と語っているのも、そうした信仰である。
の時代は、そうした自然崇拝・精霊崇拝の時代であったと 考えられ
するという。また徳島県三好郡三縄村 では、百年以上
ホの 霊を移すこともあるという。
きは、小さい枝を伐り、他の木にかけ渡して﹁水塊抜き﹂
た 南天を植えて、
の木を戊 る
な 行い、
こうした 樹霊は 、通常は樹木の中に潜んでいるのであろぅが、時
ねだれ
7 タ ギ の信仰などに、コダマネズ くなどとい
しては抜け出して人を魅入らせ、また崇りをするとも 信じられた
であろう。秋田県の
こだま
山の妖怪がいて、このはねる青をきくと、雪崩がおこ るなどと 伝
ねち、Ⅲ樹霜信仰。コダ マ、ククノテ 、葉守の神など の 俗信 と古
インドネシアのニアス島では、一本の樹が枯れると、
その精霊は
ているのも・古い樹霊信仰の崩れではないと言い切れな
俗、 ㈲山人・杣人の行う伐木のさいの トブサタテ の儀 礼 、 働 これと
家 の柱に取
ム﹁、これらを順次に取
じ島の三根付では、山の木を伐るとき、まずこの キダ マサマの祭り
述べている。
ついて、その家の子供たちを取り殺すと信じられている。また 同
インド 不 シアのサン ギ群島のシアオでは、森の樹木の中 に住む 精
を信じている。満月になると、その精霊は、すみかの樹 から抜け
ま た アッサ
て歩きまわる。大頭、長い手足の巨人で、人々はこれ に 食物、
、山羊などを、そのうろつくあたりに供えるという。
一五
は知られている。彼等は、樹 々の中に任むことが多く、人の子を
いたくないので、子供を戻して呉れるという。
のパ ダム人では、樹の精が子供を神隠しに会わせると信 じられ、
いこ
児があると、森の樹々を伐採する。そうすると精霊共 はすみかを
フォークロアでは、樹木の精霊をキダマサマ という地方 が 諸処に
欧洲の森の妖精信仰でも、そうした樹木の精らしきも のが多いこ
込まム 鴇
いたらしく、官長などは、﹁俗にいわゆる天狗なり﹂と
サマ 、その霊の宿り木を キダ 7ホといい、椎の木が多 いという。 同
あり、この系統の語であろう。八丈島樫立村 で、樹木 の神を キダマ
であると注している。これはかなり魔神・霊鬼に近いものときれて
樹 神柄茂吉﹂
コダて については、文字通り﹁樹霊 ﹂であるが、﹁和名 抄口で 卜は
りあげ、それらの内的関連を考えて見たいと思う 。
兄妹の樹木生成および植林の神話、である。
関連する家屋や船の建造の伝承・Ⅲ スサ ノ ラ とその 御 子のイタケル
鬼 となり、椰子の枝に取りついて、樹を枯らせたり、
古典に出て来る木の伝承としては、次の四種に大別される。すな
を
と
ま
と
の
う
え
霊7
り
じ
霊
田
失
隠しに会わせたり、魔風を吹きつけて病気に思らせる。
信仰でも、柿の木の化けたというタン コ ロリンとか、
日本の妖
見 上げるば
出 に住む
一一八
には、顕昭が注をして、﹁はもりの神とは樹神 なり。 よ ろづ の木を
まつる 神 なり。さて葉を守る神と 云 なり﹂と記される。
この神は、特定の樹だけによりつくのではなく、あらゆる樹木の
守り神ときれていたらしいが、特に カシハ の木はこの 神が 鎮まると
りの大入道で、松や杉に間違えられるという見越入道、
童 ﹁木の子童子﹂などは、そうした
い う 信仰があったらしく、﹁枕草子
樹霊 起源のもので あったかも
れない。天狗なども、松 や杉などに住み、また深夜に大木を倒す
はもりの神のますらんも、いとかしこし 。﹂と述べ ろ れている。
限られた
私 は後世の山
猪や 熊などを マ
か つ賈欲
炭焼 ・杣人などの 山民の山の神 が、樹木と密
で、山のあらゆる動植物を支配すると信じられる。
この山の神は、一般にな神で、性格が荒々しく、好色、
接 に結びついていることは、知られている。
山の神、それも狩人,
|クロアにおける山の神との関係は不明であるが、フォ| クロアの
古典に出て来る ヤ マツミ、ヤマ ツテなどの山の神と、後 世のフォ
ではないかと考えている。
の神信仰の中にも、そうした幾つかの樹霊の要素が含ま れているの
文献の限られた用例では、不明というほかはないが、
このような樹木霊のどこが同じで、どこが異なるのか、
口 には、﹁かしは 木 いとをかし。
うな怪異現象﹁天狗倒し、そら木がえし﹂などをおこすと信じ ろ
とされ、﹁水神名は久久能智神﹂と記 きれている。
は、 同じ話で、二神が﹁大祖何何処馳﹂を生んだと 記 きれる。
して﹁
﹁延喜式﹂の大殿祭の祝詞の中でも、宮殿の建材の神と
タギ が撃ち止めたときの、
猟民の ﹁動物の主﹂とか﹁野獣の女神﹂などの肉桂
し、 山の神に唱えどとをするなどの儀礼から成り立ち、
が感じられる
原始的な 狩
毛 ボカ イ、毛 マツ リ 、血祭 りなどの作法
久久運命﹂がまつられ、﹁ 足れ木霊なり﹂と注されて いる。
@(のちのみこと
は、この皮を剥いで 逆 きにかぶせ、その心臓などを串 や木の枝にさ
﹁袖中抄﹂
﹁よるづ の物につ かさどれる
おはす 。はもりの神は樹の神なり。﹂と記 きれ、また
葉守の神﹂がある。コ奥義抄 口に、
次に、古典神話には出て来ないが、平安の色々な文献 に出て来る
屋
コ日本書紀﹂
古事記 L では、イザナギ・イザナミ二神が、神生みのとき生んだ
ククソ チについては、これよりやや高度な精霊なので あろう。
コダマ という
余 りにも 低
、人の子をきらりと信じられていることなど、そうした要素がな
とは言えない。
古代の コダマ 信仰なども、古典神話には出ないのは、
な霊路 だったからかも知れない。山の反饗などを、
も 、 樹霊 信仰なのであろう。
次
0
神 『
で
、また一面に山の樹々を愛し、特定の日にギダネ を 播 いたり、 冊
ホ として 数えこん
において、山の神に
しんのみはしら
祈燗 する山口祭、また正殿の床下の神秘な柱で
をまつる木本祭︵﹁延喜式﹂では採二正殿,心柱 祭 Ⅰ ま た 同じく 神
貴のもと
ある心御柱の用材を伐り出すため、山に入り、仲本のもとで山の神
も見える。
体を納める御船代の用材を伐り出す御船代祭などから成る。何れも
み ふなしろ
ギ︶ や、 枝が東に出て いる 木 ︵
力
ひとかた
造営使の忌部が内人や役夫らを率いて、まつり、鉄人像 、 鏡 、 鉾な
ておの
どの祭具に、 鉾 、 鎌、鉤などの職人の道具類、堅魚、懐、 鵜 、
、枝が三木に分かれ腰がかけられるよう になった 形 0本︵ ワコ
、ワク ギ︶、あるいは連理になった木 ︵トリノギ︶、幹 が 二 つに
れて、特別な禁忌が伴なっているなど、これを表わしている。 隣
の韓国などでも、そうした樹木を座とする山神の堂があ ることは
られている。
山 の木を伐る
ョキタテ などといって 、斧を木の根も とに立てか
日本の山の沖は特に伐木の作法と結びついている。
き、キモライ、
、供物や幣阜を供え、山の神に木を譲って貰えるよう祈願する 作
が、 広く林業者の間に行われている。
こうした儀礼は 、古くから行われたものと見え、平安初 めのコ皇
神宮儀式帽 口 やゴ延喜式ロ に見える、伊勢神宮の遷宮 祭 のときの
そまやま
杣山の行事や 、コ 貞観儀式目やコ延喜式口などに見え る、 大を目
宮
っ
らはみやま
営 のきいのト食山の行事などにも、類似の作法が見られる。御札
0行事とは、伊勢で造営の用材を伐り出す御 杣山の山の 口 ︵
麓︶
がある。
大嘗祭の斎場造りのため、用材を伐り出すト食山
一セ
らがこれに続く
ていよう。秋田県大曲付近の山の神は、末の袴、裸身で 、マサカリを
の採り物としての釜やマサカリという観念も、そうした習俗から 出
神に供える。これなどは、山の神の祭具となった形で
とか、同吉野部川上村瀬戸の講などでは、木製の斧 や 銘などを山の
現在、休業者たちの山の神誰 でも、奈良県宇陀郡高見村木津滝野
のである。大嘗宮造営も同じ行事があった。
終わると、造酒児がまず斧で樹を伐り、さかっこ工匠、役夫
を率い、ト食 出 に入り、材を採り、山神を祭るのであ るが、祭りが
宮武二によると、在京の斎場作りのため、ト部が国郡 司以下と役夫
の行 事も 、﹁ 延
タテ で、斧を木の根本に立て、山の神に供物をする風と共通のもの
を 伐り出すため、 ホ 0本で行 う木木祭などは、フォー クロアのョキ
どの供物類などを山の神に供えるのである。ことに神
して神聖 祝 され、また アゲキ 、モリ キ、十二様の休み木
かれ、再び合した 木 ︵マドギ ︶など、奇形の木が山の神の宿り本
山の中の三 つ又の木︵サンボン
しまう、とかいった向性を持つことは、樹木神のように
の数を数えて、その日に出入りしたものをも、
が
々
で
分 ギ 枝
と
ば
り
知
と
け
法
御。 大
道
血
三。
ジ とも関係してい
のである。
持つ垂髪のな神であると伝えているのも、その例であ ろう。これは
山姥 と マサ カリを持つ金時のイメイ
註
①②③本居宣長﹁古事記伝﹂
④柳田国男﹁分類祭祀習俗語彙﹂共同祈願。
ば ︵︵・づ O-HI.
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づか。 Q驚 こぬ3%0が
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Ⅰ。目印コ
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⑤ヨ跡ムロ日本民俗語彙﹂第二巻。
⑥
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三ロ
の・
︵
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ロ・毬
ロいの﹁・
ぎ日 ・ P 状
田npN
⑦Ⅱ
⑧
コ日本の民俗﹂ 杓 奈良、昭 何 第一法規。 堀田吉雄
進 ﹁伊勢の大神の宮﹂ 昭 ㎎ 年掘 書店。
刊 、参照。
⑨柳田国男・倉田一郎﹁分類山村語彙﹂ 昭 ㏄ 年 国書 刊行会 再
保仙純剛
⑩桜井勝之
⑪
﹁山の神信仰の研究二個 虹年 伊勢民俗の会。
トブサタテ の作法と建築儀礼
⑫柳田国男﹁分類祭祀習俗語彙﹂神名菓。
㈱
そまひと
ふな斗
あたら船村
ぃ@ょ かむ
も幾代神び
ぞ
一八
︵
巻十セ 大伴家持歌︶
トブサタテ は、 コ
万葉集新著しに、﹁木を伐りて其梢を切株の木
に立てて山神にた むくるをトブサタツといふなり﹂と記されている
と ふれといひ、ほ つえといふ義 なり。家思ふみやこ
ような、伐木のさ
﹁木の末なり。
ふなき
のはなの、とふさ たて君もしづえのしづ 心 あらじ、此の農なり﹂
とある。
そが
両敬とも、船村に用いる木を伐採のときの杣人の作法を歌ってい
る。
菅江真澄のコ外 ケ浜奇勝 L には、﹁山の大杉ども伐り倒し、
末葉を折りて樵り つる木の根のこころどとにきしたり。⋮⋮万葉集
た風習は、かなり広く行われ、賀茂真淵の﹁祝詞
そま
ぴとやまかつ
の百事も、かかる ことを基として、杣人山腰らが家 々に 伝ふ ﹂と 記
している。こうし
其捕る折て 切ったる本株
ね。さも無為るを、木末を山神に奉るとは云 なら
考 しにも、﹁今も 遠江国人大木を伐ては、
の中らに刺立侍り
ひ ﹂と 記 きれ 、近 世の民俗と比較している。
このような風習は現在にも処々残っている。堀田吉雄氏によれ
ば 、宮城県刈田郡 遠刈田新地の木地師たちは、正月の山入りに和木
を 伐ったとき、 切 株 に小技を立て山の神に供えるという。また コ分
つ
古典に出て来る杣人の伐木儀礼には、﹁万葉集ヒ に見える﹁とぶ
き 立て﹂の作法がある。
と ぶさ立て足柄山に船木伐り、樹に伐り行き
を
類 山村習俗語彙﹂ によれば、下野の山中で神木を伐るとき、その切
︵
巻三沙弥満誓 歌 ︶
とぶき立て船木伐るといふ能登の島山ム﹁見 れば木立繁し
いう風も、全国的
牧田茂氏は、東京辺りで、正月三 ケ日をすぎ、門松を倒した後、
るとき、一本だけ
ス などに盛んであ る。これらの出では、森林を伐採して、田畑にす
ホの 精霊がその最後の木に生
に青葉を挿す。また梢の上の二尺ばかり葉をつけ、下は皮を剥い
き残るという観念 の産物である。こうした風も、ボルネオ、セレべ
だけを土にきすのを トオ サキと呼んでいるのを、古語トブサと結
するため色々な 供物を供える。こうした観念は、農耕の収穫儀礼に
であるが、これも、
、もとのように立てる。これをボンデンギリ という。
つけている。
おいて、いわゆる
ムリ などと
アニ ミスティックな 信
﹁刈り残しの最後の刈 束﹂を、穀霊の宿りと見な
どはそれであると似た
り、新殿造営のさ
この祝詞の文に
もて伐り採りて、
いろはしら
一九
をもちて斎柱立て て 、皇御孫文命の天のみかげ、日のみかげと、
造
おせかいおかい
いみ
おの
﹁奥山の大峡小峡に立てる木を、斎部の斎斧を
皇居遷移などの煎後に、神祇官の忌部の官人が行う壊災の祭りであ
延喜式 ロ の大殿祭の祝詞である。この祭は、大嘗・新嘗、
のは、 コ
この作法の呪術 宗教性を、もっと端的に表わしていると思われる
か年木とかを伐る ときの作法なのである。
なければならない。この風の残る近代のフォークロアでも、神木と
であるというより、それが船村となる場合の作法であることは知ら
処で、万葉にあ るような トブサタテ の作法は 、単なる伐木の儀礼
仰である。
を切り残し、 ホの 精霊の宿り木とし、これを慰撫
こうした例は 、何れも特別に選ばれ、伐りはやきれる神 本 に対し
して、これを中心 に色々な祭祀行為を行 う同日本では九州の丑
、こうした作法を行う のではないようである。この 習俗の原義
、単なる山の神に対する慰撫というより、もっと原始的な観念に
す みかを失っ
づいたもの、 樹 々に宿る精霊、コダ マ ・ギダマ の継承 儀礼という
仰 のものであろうと思われる。つまり樹を伐られ、
本の精が、切株に立てられた梢の中に宿り、そこに再 生するので
スマトラでも、樹を伐ったとき切株の上に若木を植え立て 、キン
と 銭が供えられ、 ホの 精霊をまつる。ベンガルやハル マヘ うでも
一、二本だ
様に 、伐り倒した木の切株に木の梢をさし、精霊をま つる儀礼が
われる。
伐木の作法として・これと似た行事に、伐採のとき、
ギマモ り、キモり、キマ
残すという、タテ ギの風習がある。果実のなる山の木 を 切ると
、 必ず一本だけ残すという、
の日、大黒あげな
行 う作法であるよ う に思える。すべての伐り倒した梱 木の切株
で 株
て
に
は
基
信
た
あ
マ
司
行
け
き
みず
り仕へ奉れる瑞の御殿﹂ということばがある。いかに も 古色蒼然た
二O
神宮の忌柱は、実際の建物を支える柱ではないが、これが発達し
て、実際の社殿の中央柱 となった形が、出雲大社の社
し岩根柱 であると考えられる。民間の大黒住も、一名一
手主柱、中柱
﹂とは、 切
0株が本であり、伎が末であって、根株の真中に捕をさすトブサタ
ともいい、家で最も重んじられ、時としては夷や大里の像などがそ
う ﹁本末をば山の神に祭りて
祝詞考 ロの 解釈であり
テの作法であることは、前述の賀茂真淵の コ
の上またはその中に斎いこめられている例が、フォークロアで﹂ ょ
る祭詞 であるが、ここにい
採 片 している。
鈴木重胤なども﹁延喜式祝詞講義﹂において、これを
く報告されている。
建築儀礼としての上棟祭なども、古くは﹁柱立て﹂の儀礼が中心
この作法
であっにことほ、諸学者の認めるところである。静岡県などでは、
ここにおいて重要なことは、この木の本末をつないで、
ザ寸@
%い
ヰろ
仕はしらに用いることである。
ること、,
こ宮殿の最も重要な﹁七 ﹂
また柱はの、屋移り粥、屋渡り粥などといって、新築落成のとき
ナ
@。
@
@
建前のとき、この程に蓑と笠をつるすという風があっ@
な 行 う とき、 ホの 最も重要な部分である中の材は、宮 殿の材に用い
ばしら
柱﹂とは、単なる柱ではなく、その宮殿の家屋の神霊 0宿りとして
祭祀の対象となる神聖な柱のことである。
本にこれをそそぎ、祝 舌口を唱え、その他の柱をもまわ
﹁
丁
﹂,の
柱め
、の
りみはし小豆
ハ粥
御とこの中に豆や小石あるいは十二文銭を入れて、大黒柱の根
ども、広く知られている。家中の柱に供撰 するという彩 は、恐らく
伊勢神宮の正殿の床下に建てられた﹁心御柱﹂は、一名
または﹁忌柱﹂と呼ばれて、神霊の宿りとされ、三節祭の中心でも
後世の形であり、古くは大黒住だけが、その家屋の神の鎮座する聖
あり、大物忌みによる供餌の秘儀の対象でもあったこと は、 知られ
なる忌柱として、供鍵の対象となったのであろう。
舎の四隅の柱に玉をかけてまわり、これに伺って散米と散酒をした
すみ
ことが、﹁貞観儀式目﹁延喜式﹂などに記される。この四角の柱に
8社殿がで きる以前か
ている。これがど神体の神鏡や 、これをまっ
族 たちの邸宅にも建てられ、家の神の中心とされたのであろうとい
玉をかけ、酒や米を撒くことは、柱を ョリシロとする家の神にたい
処 で、前述の大殿祭には、忌部の官人が祝詞を読み、宮殿 の客殿
らの、古い ヒ モロ ギ の一種であることは、既に色々と 考証がある。
いろはしら
塵風 は 、こうした忌柱は、神殿ばかりでなく、古くは、
祝詞のこ
い、これが遺制となった形が民家の大黒柱であろうと述 べている。
する供醍 である。民間の柱はめ、屋渡り粥と同様な意味 のものであ
とばにある よう に﹁皇御孫主命の瑞の御殿﹂、すなむ ち皇居 ゃ、貴
なかなかの卓見で敬服に価する。
0L
る。Ⅱ江家次第 L では、抑折玉の代りに土銭をかけている 。 柱はめ
に 、十二文銭を供えるのと同じである。
ここで注意すべきは、この祭の祭神の名である。祝詞では 、これ
是稲 謹也。
を ﹁屋船久久運命。︵居木霊 白 ︶。屋船畳字 気姫 向背。 ︵
俗諦 臣
宇賀龍実 多琳 Ⅱ一ム出﹁産屋、以主辞本束稲 置ニ松戸
散 土屋中之類巳 。︶御名早波、奉。休刊氏、⋮⋮﹂と記し ている通り、
木の精霊 ククソ チ と 稲木の 霊トョウケ となっているの である。これ
ふれ
に屋船という 称弓が 付いているのは、家屋全体を大きな槽 ︵容器︶
と見たてたからに他ならない。それにしても、樹木の霊ククソ チが
そのまま家屋の神となっていることは面白いことである。稲木の 霊
トョウケ は、多分この散米の儀礼によってこの祭りの脚 役として 登
場 せしめられたにすぎまい。恐らく主神はククノテ で あろう。
ここではっきりすることは、最初の杣山に入って木の本末 をつい
で山神をまつり、その中間の材を伐り出して忌柱を造ること自体、
樹木の霊を家屋の柱に移し、それを家の仲とする儀礼であったこと
が判る。す な れ ち、樹木の霊は、その 伐 り出した材の 中にも、こも
っていると信じられたわけである。家の祭儀柱 、忌柱に 用いられる
それ自身代
樹は、 恐らく後世のボンデン ギリ の作法に見られるよ, フに、やはり
一種の聖なる木であり、尋常の木であったはずはない。
り 残した最後の木であったかも知れない。
セレベスのトラジア人などには、家を新築の時、山羊、
を殺し、その家の材質に血を塗りつける。家の材本に
でいると考え、これの慰撫のための儀礼なのである。同
祐は、モル ッカ、ボルネオのカヤンなどインドネシア
もある。
﹁釈日本紀﹂﹁日本書紀通証﹂﹁書紀集解﹂﹁延喜式
祝詞講義﹂
千治しし
など、回れも﹁日本書記﹂顕宗紀の天皇︵弘訂正︶の室寿の詞の最
押磐尊
の何 %
後の名乗りの処で、
天 万国方
と苦が声を挙げたという、そのことばの意味について、 大殿祭の
﹁木末子
反、山神岡祭氏、中間乎描出来氏﹂と同じく、 その材を用い
て宮殿造営を行うことを歌ったものとしている。
ら、ァ
:
ニの
り山
木
ヰ
お
柵
し
卦は
ひ
﹂
らは、 ﹁Ⅲら間を持ち出でて、斎 柱立て⋮﹂
﹁小小
Ⅸ
などといった語が省略され、宮殿が造営されたことの形容 であると
いっても、差支えはなかろう。
この詰草の前半部は、そのままの室寿で、
鎮まりなり。
一一一
むわ
うつばり
取り挙ぐる棟梁は、この家長の御 心 の林 なり。
以下略。
とあって、後世の柱 はめ、家は めと同じである。大黒 柱 が後世の フ
オークロアで、家の神の鎮座する祭儀柱 であると同時に 、亭主柱と
末械ひ ﹂に 対する 従
いわれ、家の主人になぞらえているのは、古くはその魂 の鎮斎 所で
あったのかも知れない。
土橋 寛氏は 、﹁石の上振の神杉本伐り
来の宮殿造営 説 に反対し、﹁石上の神杉﹂を伐採して宮殿の材に用
いることは、有り得ないこととし、邪魔物を取りはらい、天下を平
走 するという意味であると解釈してい
然し 、実は、こうした神木から忌柱の材を取り、この 木末で、 山
という 表
の神を祭り・ トブサタテ の作法を行 う ことは、今まで 見 て来たよう
に、 古くは広く行われたと思われるのである。
ふき
れ
こうした行事は 、 家の建築ばかりでなく、﹁船村伐る﹂
現にあるよ う に、造船にも行われたのであろう。船村を 伐り出すの
め、
コ古註拍拾遺﹂に 記
は、また特別な神の山の神木が用いられたと思われる ふしぶしがあ
るのである。
処 で、古代宮廷の宮殿建築の工匠については、
載 がある。その大石窟の条に、﹁手置 帆負 、彦 狭知二
御
み量
はか
︵り
聖な
はる
か
秤り︶を作らしめ、
を造らしめ﹂と記され、また神武の即位の条に、忌部0組天富命
一一一一
なして﹁手置肌色・老疾知 二神の孫を率て、斎斧
をもちて、
る風潮磐根に
宮柱太知り立て、高天万庶に千木高知りて、皇孫命のみづの御殿を
とと
い記
ふき
﹂れて
造り仕へ奉れるなり。かれ、その商、今紀伊国名草郡みき御本
ニ郷にあり。材を採れる忌部の居る所を、佳
,
@
ら
香か
いる。この紀伊の忌部のいた名草郡 の三郷は、 コ和名抄﹂の名草郡
忌部別に当り、付近には忌部山 があった。
ここは元来、紀の国における製材と窟築などの工人の根 拠地であ
ったのであろ,レ
。
中央の忌部氏が、こうした大和宮廷の宮殿造営の役を 引き受け、
各地に忌部郷を置いて、これらを管轄したのは、いっど ろからか、
一町は不明であるが、然し、後述するように、この
紀ノ 国 ︵紀伊︶
は、古くから﹁木の国﹂として知られ、ィタケソの信仰
の植樹植林の神話などでも、また更に南の熊野大社の信仰などで
も、﹁木の信仰文化﹂の中心として知られていた地で ある。
恐らく、忌部氏の大殿祭に見られる、宮殿建築のさいの色々な呪
術作法なども、そうした地方の杣人・工匠らのそれの 受け継ぎであ
ろう。
註
①井上通泰﹁万葉集新 著﹂第一昭 3年。
②賀茂真淵﹁祝詞考 し中ノ巻 大殿祭。
③堀田吉雄 コ山の神信仰の研究 口 。
④﹁分類山村習俗語彙﹂伐採。
⑤牧田茂﹁生活の占兆﹂
この理由として、高山は海上遠くから望見きれ、航海の目印とな
ったからであろうという説がある。一理はあるが、それだけの理由
むしろ、 船
によるとは思えない。富士山、鳥海山など、海上から望 見 できる 霊
場所である。
宥一一個等々で、
この鐘 請所が、帆柱を立てる箇所であるということは、
含まれていることに注目し、また八丈島の助船 ︵難破救助 船 ︶の 船
じよ
せん
牧田茂氏は、船玉信仰の中に、山の信仰や修験の要素 が 、かなり
しばしば指摘されている。
るが、このときの儀礼が、建築のときの上棟式と似ていることは、
行う船の進水式、昔のことばでいう﹁船下し﹂のとき に行 う のであ
よなお
@
この神霊をこめる儀式を、ゴシン入れといい、船の建d姐が 終って
。
様に、帆柱の下に守り神の座が定められているのであ ろ,ヮ
る。よく家の大黒柱の下に大黒像を埋めていたのが発見されると 同
る。帆柱は、家屋の大黒住・亭主柱と同じく、胴金鉢の中心柱であ
重要であ
これを納めるのは、通常、中央帆柱の下の、モリとかツ ッ とかい う
る。このど神体 は 、人形とか十二文銭、女の毛髪・
船の神というと、後世では一般に円玉様 というのが 知 られてい
も 考えてよいのではなかろうか。
材の神としての山の神、ホ の神が、一転して船の神となるという 形
昭訂年 。筑摩書房。
円
Q驚
か憶
。いお い0心的ダ リリ臣Ⅱ・ ぺ 0-.HH. 出 であるが、船の神ではない。大山なども同様である。
毛 ・毬 1 8
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⑥⑦同母
⑧
コ延喜式祝詞講義
大殿祭。
⑨鈴木重胤
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田﹁
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Ⅰ ゲく0
Q.
円
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ⅡI.P ㏄の1
%。
九の巻。 八
而ⅦⅠ﹁
家 屋 ・宮殿
旧
@。
昭訂牛角 川ま目
秀根 ・在校﹁書紀集解﹂ 巻十五。鈴木重胤﹁延喜式祝 詞 講義﹂
⑪﹁釈日本紀﹂ 巻 十二途義 人 。谷川士清コ日本書紀道 証 ﹂。河村
寛 ﹁古代歌謡全注釈﹂日本書紀篇、
九の巻。
⑫土橋
㈲船玉信仰と船村
前節で、 ホの 精霊・神が、特別な儀礼・作法により、
の神となる形を考えた。これは船舶の場合にも言い得ることであ
る。
一般に、古来、船や航海の神として、山の神が奉じられているの
二島に鎮座す
は 、不思議とされている。伊予の水軍の守り神は、大一
た@ひ
Ⅰ神
・でみ
る大
おお
山
や祇
ま
あの
りか
、みまた讃州金刀比羅宮や隠岐の焼火権 現など、 み
な 山の神であり、船や航海の守り伸である。
一一一一一
下しには・船霊山から ヮラ の船型の中に神霊を迎え、
新 造船にまで
運ぶ儀礼があること、朝鮮の同様な船の守り神﹁船工﹂をまつる 旺
生育々の事例
二四
船玉様の最も古い神名は﹁延喜式﹂神名帳の、摂津国
こ
﹁ム﹁謂 、紀国に荒肥 る紀氏の神
・
玉神社である。この社は、住吉大社の摂社になって い る 。この神に
ついては、﹁住吉大社神代記 口に、
なり。 志麻神 、詩人 神 、伊達神の本社なり﹂と注して いるのは、
月の堂山祭に、山上から山神の神霊を船に迎える行事、
から、船玉を古くは山から船に迎えるという信仰があ ったのではな
ということ
この住吉の船玉神社は、もともとはここの祠官、津守氏
を一下している。
の神の崇拝が紀州と関係深く、紀国造家の氏神である、
ッッ に納 め、唱えど
いかと推定している。これは面白い考えである。
船 卜しのとき、人形や銭、毛髪などのど神体を
斎 する行事であるが、これと
。
であったのであろ ,フ
船の霊をまつったものである。そして恐らく、住吉大神の霊の一つ
となして槌で ツツを三度叩き、これをコシンイレとか ウソ ツインな
どというのも、神霊を鎮
似 た 形として、
といい、
住 七口大神は 、
﹁わが和魂を請 うて 、工船の鎮めとな せ﹂とある
こもるのは、当然であろう。
船 材を採る 御 杣山を持って 居 り、船木氏
神功皇后の御船の守り神については、
また別の説話を語る。木津川の上流、能勢郡評鱒辞㎎
の 神が、
﹁わ
コ摂津国風土記し 逸文では
杣山の神木は、一般の伐採を禁じていた。この船村 に この神の霊が
がこれを管理していた。つまり一種の山の神となって いた。この 御
などに多くの神領を持ち、
﹁住吉神代記 目 によると、住吉大神は、大和、摂津、河内 、播磨
二 % のツツ ノ ラ の神で、 船と 航海の神であったのである
よ う に、住吉大神の分霊と考えられたものであろう。
向日本書紀 口に、
﹁古事記﹂に、住吉大神が 、 ﹁わが 御 魂を船の上に坐せ﹂
扇 子に 槌と苧と
佐賀県でも棟
家の建前のときも、京都府桑田郡油井村のように、
をつけて、大工が棟に上げ、槌で三度打つといい、また
上げのとき、棟梁が棟に上ってゴシン を入れるという作法を行う 。
おろ
またこの 船 下しのとき、俗に﹁山の神下し﹂と呼ばれ、
また﹁ コ
ケラオ ドシ ﹂ともいわれている作法は、船体を強く採 らせたり、 海
然 し、これは後
上を三度まわったりする行事がある。船村 は ついて 来 た山の神の霊
を 、ここで振り落とすのだと俗に伝えられている。
世の解釈であろう。﹁山の神おろし﹂は、文字通り﹁山の神霊の降
臨﹂である。この船体のゆすぶりや、海を三度まわる行事は、もと
たまふり
一種の鎮魂の式で、山の神を振りおと
すどころか、牧田 茂 氏も説い
た よ う に、この神の霊を 、逆に船体に鎮定させるための祝儀であっ
たと考えられる。
が 山の杉の木を採りて船を造れ。皇后がこれに乗り、
は成功した。
行 幸せば、 幸
さき
かむ
船 をも神に
ぽ あらむ﹂と諭したので、その通りにしたら、新羅遠征
帰国後、摂津国Ⅲ 辺 邪神前の松原に、この神をまつり、
献じたと語られている。
息長 帯出 売が緯 回 に渡ろうと
おきなかたひ
らしひ
似たような説話は 、 他にもあって 、後でも述べるよ う
国風土記﹂ 韻磨郡 回達の条を見ると、
後にこの神
コ
住吉神代記 口 に語ら れる住吉大
いたてのかみ
をこの地にまつったので、その名ができたという伝承がある。
ィタテ の神とは、前に述べた、
なのである。
社の船玉神を﹁紀国に棚祀 ㌃ 紀氏の神なり。伊達 神の本社な
り 。﹂とあるのと同じで、紀伊の山の神、樹木の神の名
異伝も色々であるが、要は山の神、樹の神の神霊が、そ のままそ
の杣山の樹から伐り出した材で造った船の守り神となるという思想
を中核としている。神功皇后の遠征のときなどという のは、もち ろ
圧吉 の社
ん後世の造作であろう。元来、住吉系の船舶が、韓土などに往来
し 、軍事、外交、貿易などに従事したとき、
ヮ風に語った
ら伐り出した船村で造られた船舶が・この用に当てろね、その由来
話 として、神功皇后の遠征に、これが用いられたとい,
摂津のミ スメ の神とか紀伊の ィダテ の神などのような、
のであろう。
のは、 後
の神が、この船の日謹請として、工船の先導をしたとい,フ
世 、社領の増大化に伴い、各地の山の神が、この功紺 を名乗り出た
のであろう。
﹁日本書紀﹂ 仲哀紀 九年の条に 、 神が皇后に教えて、﹁ 和魂 服 二王
而 守二寿命ぺ売却 為 先鋒 而 善二帥船ご という記譜 が あり、皇后は
身-
ているので、
これに基づき、遠征にさいし、この神の霊を船に鎮帯 し たと記され
る 。この神は後で名乗りをあげ、住吉三神であるといっ
この神の分霊が、元来、住吉の船玉であったことは明らかである。
父渉 がしだ
然し、大和朝廷と朝鮮半島諸国との軍事,外交などの一
いに大がかりになって来たころ、五世紀から六世紀にかけて、紀氏
の水軍の活動が大きく目立って来た。彼等の船舶は遠洋航海用の大
船 であって 、多くは紀伊国の山中から伐り出した船村を 用いた。 こ
の国の船材の神が 、ィタテ の神・ ィタケソ の神なのであ る。この神
の神徳が、紀氏の政治力伸張によって、しだいに顕彰さ ね 、やがて
中央に採択きれるとと もに、住吉
の船玉柳までが、これと同一視されるに至ったのであろ
註
①牧田茂﹁海の民俗学﹂ 昭㈱ 年岩崎書店。
﹁海の民俗学﹂。
②牧田茂﹁建築儀礼﹂︵﹁日本民俗学大系﹂ 6、平凡社︶
五
木種分布の神話の歴史的意義
一一
、ノ
ひげ
スサ ノ ラ が髭を抜いて 杉 とし、 胸 毛を抜いて
いたけ そ
の式内供人祀曽 神社がこれである。
次の一書の五には、
桧 とし、尻の毛を板とし、眉毛を楠とした。そして杉 と楠は船村 に
の
船玉の神と紀伊との関係は、もっと他にもある。紀伊 でもずっと
ふさわしく、桧は宮殿の用材に、被は棺 材 にすべしと いい、また 沢
だれ
南 の牟宴 郡の式内大社であり、中古以後、伊勢と同格 にまでも神威
妹のオ ホヤ ツヒメ、ツマツヒメ
ぎ っひめ都、比売
紀 ︵木︶の国の神としての ィ タケル兄妹
﹁山の神の キ
春 または秋の特定の日に山 入りを禁じる
またその神
旧 二月九日を山の神の種 播き、 旧 十一
事を妨げぬため、村人は仕事を休み、外に出な㎏。
月九日を種拾いの 日 といい、両日ともに山の神を祭り、
風である。加賀能美郡では、
木の種子を播く日といい、
ダネ マキ﹂という伝承である。山の神がその支配する出に樹木の種
ちに思い浮かべられるのは、フォータロ ア に出て来る
は、 山の神 、ホの神であると同時に 、船の神、航海の神 でもあった。
こだれ
ィタケル兄妹が、木種を広く播き植えたという神話に おいて、 直
ることは明らかであろう。
この二つの神話は 、紀の国︵紀伊国︶の土俗伝承を素材 としてい
この二社は、ともに紀伊国造家の奉斎神 であった。
つま つひめ
都府 都比売神社を指している。イタケルをまつる俳人 邦曽 神社と、
この二女神は、﹁延喜式﹂に見える、紀伊国名草部仏典
そ 乙でこれら三神を紀の国に渡し、まつらせたと語って いる。
の三神も、木種を広く 播き施した。
山の果実のなる樹の木種を広く虹き 植えた。この御子 のィタケ
ス サ ノ ラと同
を高めた、熊野本宮の祭神 ケツミコ は、古来﹁ 利つ 御子 ﹂、すなわ
ち 木の精霊であるといわれるが、いつのころからか、
しの
にっ
ふだ
なまのかみ
体現され、おまけに十二船玉神の総本社、船の守り神として、毎年
十二という
四月上旬に、船玉祭 る行 う ことになっている。十二船玉 様 とは、 船
玉の異名であるが、十二文銭などをど 神体にこのたり、
数を好むのは、山の神のことを十二山の神などという のと一致し、
山の信仰との結びつきを示すものであろう。
降臨し
ス サ ノラ は
ここで スサ ノ ラが、この船玉の神と同体視されているこ との理由
を 考えなければならない。
コ日本書紀三宝剣出現章 の一書の四の伝えによると、
御子の ィタケルをつれて、最初に新羅国の ソシモり の ぬに
た。然し、ここには長く居たくないとて、船で日本に渡った。イタ
韓土には 植
えず、これをことどとく日本国土に運び、国中を青山 となした 0 こ
する大神が
これであるというのである。つまり、紀伊国名草郡、ム﹁の和歌山市
などと, bいって 、 山の神が
こうした日を 、山の神の根アラタ メ、あるいは ソウキ
あるいは山の神のキカ ゾェ
樹を数える日と伝え、山人りを忌む風がある。
ィ タケル と 二人の妹神も恐らく山の神なのであろう。
神は、もと一所にまつられて居り、現在の日前国懸神 宮
座していたが、後にそれぞれ現在地に分祀され、田社・上山
︵天照大神︶に譲ったのだという伝えが、古くからある
紀 ﹂大宝二年二月の条に﹁傍人祀曽 、大屋 都比売 、部 麻
神社を分け遷す﹂と見えるから、このとき分祀された の
大屋 津姫 0 オホヤは、﹁大きな家屋﹂を意味し、 孤津姫
材 としての 兵神や 、家屋の神としての女神が、配祀 さ
古
本の材をいう語である。要するに、樹木の神としての
これらの神々が、それぞれ分祀された後で、太陽神で
宮の神が、その地に祀られたということも不思議であ
前神宮の祭神が天照大神とされる以前、この地の海人
であったころ、樹木柵・山の神であったイタケ ソ の神
親縁関係があったと考えてよいかも知れない。
居懐貴孫 大明神とも、日出 員大明神とも 称 す
中世の伊大郡自明神の縁起絵巻に、ィタケソ の神を日
の女神で、
い
ア
の
こ
の
は
で 都
の
タ
た
あ
を
抱
と
輪
る
えているのは、荒唐佃稽 の書 ながら古い信仰を残して
西田長
伊勢から日前の宮の地へ、更に俳人那曽の地に遷った のであると 伝
ィタケソ の社は 、古くは、母神を主神 とした社で、
男博士は、この中に古い母子仰信仰の痕跡を見出そう としている。
もしそうなら、
後世の山の蕃殖女神である山の神のフォークロアと通 じるものであ
ったと考えられる。
日本の山の神が、太陽と結びついている要素は、現在ではほとん
キ 、ヒド オシ、ヒバサミなどといい、枝が南北に伸びて、その間を
ど少ないが、よく山の神のいますという、山中の聖水 が 、ヒマ タノ
古 い信仰を残
太陽が通る形になっているのが多く、ことに マドギと いって、これ
が 円く交わっているのを、重んじる傾向があるのは、
している。
堀田吉雄 氏は 、日本のフォークロアの山の神は、縄文時代の原始
的 蕃殖母神の流を引いていると述べているが、確かにそうであろ
この象徴的
儀礼的表現が 、ホ の又の間︵女神の性器の形︶や木の
ぅ 。生成・蕃殖の母神は、太陽神をも生み出す存在で、
胎内の形 か︶から出る日輪という形 なのではあるまい
ともあれ、こうした ィタケソ の神は、やがて紀伊国造家 の奉斎 神
別 に祀られたの
となり、向性も分化して、男神一往、女神 二柱を含む一 二所神とさ
ね 、また日輪の神の方は、皇祖神と同一視されて、
ニセ
であろ ,ヮ
。
二八
という名の神社があり、また播磨国飾磨郡に、射精兵士 神社があっ
て、何れも・古くからイタケルをまつっていたらしいことは、鈴木
ろである。
処 で、この紀伊の樹木神 イタケルは 、古くは紀伊以外 にも、まつ
﹁肥前回酉
重刷、矢野文道、栗田寛などの諸学者も、色々と考証 しているとこ
口 によれば、
っていた地が 、幾つかあった。﹁日本書紀﹂の木種分布 の 説話に 、
﹁筑紫より始めて﹂とあるが、Ⅰ神代口訣
﹁播磨国風土記﹂の、 % 増 郡因 達の条を見ると、昔、息長 帯地 売
とあるのがこれであろうといわれ、今でも ィ タケルを 祀っている。
神をまつったが、凱旋の後、この地に鎮めたので、
︵神功︶皇后が、韓国に渡ろ
南沖 百二五十猛嶋二 とあり、これは、肥前国基紺郡の 式内 荒穂神社
また筑前回 御笠 郡の式内筑紫神社はコ和爾雅山によれ
テの神の社ができたと記されている。これは、播磨のィ ダデ の神を
う としたとき、伽船の前に 、イタ テ の
をまつると伝えられる。また出雲国仁多郡の式内供 我 多気 神社は 、
例の神功遠征の伝説に結びつけたものであり、本来は、倭の水軍の
こ の播磨の ィダ
ィ タケル を 祀るとい
同出雲国風土記 紗 二口雲腸詰口などによると、
軍船の守り神、船玉の神として、樹木の神がまつられ ていたことの
そ
われる。これらは、恐らくこの神の崇拝とともに、
として、韓国
由来話にすぎない。
宇
お言
ぬ 都玉作 場 神社の同社︵後世の摂社・末社︶
山王一
術 、製材、造船、建築などの技術を諸所に持ち運んだ工人の存在を
反映するのであろう。
同項枝神社の同社、同邦出雲神社の同社、同部首棋能枝神社の同社
そき の
俳人氏神社、同部 揖枝神社の同社、同部佐久多 神社の 同社、出雲 郡
0社と同郡の名草 郡に 、やはり式内の伊達神
という形で、それぞれ韓国侍人氏神社という名の神社が、﹁延喜 神
このイタケ ソの神と同神らしき存在に、イタチの神があ
名神大社ときれ、後世、一宮明神と称えられ、同部の上か摩 ・詩人 の
のソシさ りの地に降偏し、そこから日本に樹種をもって渡って来た
三品 彰 典博士は 、スサ ノ ラ とその御子の メ タケルとが、 新羅の国
祭祀を持っ ィ タケルの社の形容であろう。
恐らく、この﹁韓国﹂を冠する イタテ の神とは、韓国 風の様式の
名式 L に 記 きれる。
比比ロ0% 二神
目
延喜式 L には、丹波 国 桑田郡、
ィ タケルだと伝えられる。前述したようこ、 @
二神とともに、紀伊三所神として、国造家によって祀られた。この
神も古来
0本社とされた時期もある。
この紀伊の伊達神社のぽかに、
陸奥国色 麻 郡、伊豆 国賀茂郡などに、伊達神社、また
という神話の意味を ィタケルの神を奉じる紀氏の水軍が、五世紀
者の中には、渡来系の民もいたために、﹁韓国 ィタテ の神﹂などと
の神 、ホ の神でもあるとともに、船や航海の神であって、その祭祀
ある。紀州は、紀氏 一族による海外渡航と交流の結果、多くの朝鮮
を表わす名であるかも知れない。余熱華氏などの解釈もそのよう で
渡来者たちの崇拝する神であり、その韓国伊達神という名も、これ
ることを指摘してい
る。もし、そうなら、この樹木神は、朝鮮系の
蓮 0 から来てい
ソが 、 ヒメ コソの コソとともに、韓語の敬称ガぽ。
の須佐和が小社であるのと比して、格式が高く、神階も高かった。
いり、紀伊国桂田那須佐神社である。この社は、名神人社 で、出雲
色々な論文で述べたところである。この神の本拠は、 コ延喜式日 に
たの根の国から船に乗って来訪するマレビト 神である ことは、私が
ではなく、紀州の大神であり、紀州の漁民の奉じていた、 海のかな
この樹木の神話に登場する スサ ノ ラ は、出雲 国飯石郡 須 佐 の山 神
いう 異名がつけられたことは、事実であろう。
から
@に
ど ら 、韓土の ソシモ りの曲 まで侵攻したことの記憶であろうと述べ
③
系の渡来者 群 が住ん でいたことは、考古学的にも文献的にも、色々
この社は、その 社伝 では、もと大和国吉野郎西 Ⅲ峯に あったのを、
叩氏は、更に、このイタケ ソのケ
ている。これは卓見であろう。三ロ
と徴証がある。
古墳は、すべて高野 填る棺材 とし、後期古墳に至って桧を棺材 とす
から渡来人との結び つきが考えられること、および近畿の前・中期
い有功では、朝鮮南部の土器︵五世紀どろのもの︶が出土すること
と記しているが、確かに古くから ィタケソ の社 とは、 密 接 な関係が
により南に向けて社殿を設けた。そこで船舶は無事に往 来 できるよ
いたけその
神の末社なり
う になったという。Ⅰ神名帳頭注L では、供人 邨普天
船舶がこれを拝しないと、忽ち難破するので、九班天 皇の御代、 勅
ここに遷し、最初は西の海側に向けて社殿が設けられたが 、往来の
ることが始まる 故 、 マキを棺材 とする伝承は、五世紀どろの反映で
あった。その縁起によると、天正のころまでは毎年正月 初卯同に 、
森 浩一氏の 説 とし て 、 ィタケルのめかりの地の紀 ノⅢの河口に近
いきお
あろうと考えられること、等々が述べられていることは、色々と示
イタケ ソの社から社人十二人が参向し、この神の祭りを行なった と
メ タ ケソ神社のあった名草 郡 には、 須
佐神戸があり、もとこの スサ ノ ラ神は、紀伊にめかり 深い神であっ
またコ和名抄口を見ると、
唆 的である。
然し、杣人による林業、造船、宮殿建築、木棺作りなどの工匠た
紀伊の水軍の神がイタケルであり、これは 山
ちが、どの程度まで渡来者と関係があったかを、現在知るよす がは
ない。何れにせよ、
二九
たこと か判る。この神と海との結びつきは 司古事記二の神話
られる が、また﹁日本書紀 口 では、樹木の生成を行う神でも あり、
造船の 神 でもあった。この神の崇拝がどうしてィタケソ の神
三O
紀氏の水軍は、北紀の名草郡 ・海部郡の海人ばかりでなく、南紀
の牟婁郡の熊野海人をも含んでいたものらしく、これが五、六世紀
彰英 ﹁日本書紀朝鮮関係記事考証口上巻︵
昭 % 年吉川弘
健 ﹁日本神話の形成﹂︵昭蝸年稿書房︶。同 コ日本の神
⑱松前﹁日本神話の形成し︵ 阻巧年稿書房︶参照。
之巻。
々﹂︵
昭巧年中央公論社︶。同 ﹁出雲神話﹂昭班年講談 耗@
︶。
⑫﹁神祇思料拙者﹂巻立十五。鈴木重胤﹁日本書紀 伝﹂二十五
⑪松前
5︶︵昭㏄ 年学生社︶における森浩一氏の発言。
⑩伊藤清司編コ日本神話の原形 L ︵シンポジウム
日本の神話
⑨余烈生コ韓国神話の研究し︵ 昭㏄ 年学生社︶。
文館︶。
③三品
十九の巻。
⑦鈴木重胤﹁日本書紀伝﹂二十五 2巻。矢野文道前損害十三之
巻上。鈴鹿道胤 ﹁神社嚴録﹂五十九文巻。栗田寛﹁神祇志料﹂
⑤⑥矢野文道コ神典翼﹂十三 2巻上参照。
①堀田吉雄﹁山の神信仰の研究﹂。
②西田長男﹁古代文学の周辺﹂︵昭明年 桜楓社-。
③﹁分類山村語彙﹂特種樹木称呼の項。
①﹁分類山村語彙﹂山の神の項。
註
り、これがスサノラとイタケルの渡航神話となっているのであろ
のそれ ごろの大和朝廷の先兵 として、朝鮮半島南部にも出かけたのであ
と結び ついたのかは知らないが、恐らく共通の内珪を持っ神であっ
たから であろう。
後に 、この崇拝は 、 更に南下して、 牟宴 郡の熊野大社の祭 神ケッ
ミコの崇拝とも結びついた。熊野の神も、本来樹木神 、山の 神 であ
熊 野船 ﹂
り、 船材の神として、船舶の守り神、水軍の守護神であった から、
あま
ヒ 己の スサ ノ ラと 容易に同一視せられたのであろう。熊野海人 よ
@]
古来遠 洋 漁業や航海に長じ、記紀や万葉に﹁熊野諸手船﹂﹁
名づ
コ
伊予国風土記 口逸文によれば、昔、熊 野 とい
などと 名 づける船に乗り、各地に移動・出漁、あるいは殖民 なして
、 っこと 思われる。
ラ 名の 船 をこの地で作り、これが石に化して今に至るといい、
けて熊 野 というと語り、野間部熊蝉峯の地名説話となって い る 0 目
貢-
に、近
ヒ
@
﹁貞
。
野海人がこの地に来り、特別な形の﹁熊野冊﹂を作ったこと の記思
であろ う 。 ム﹁でも、五島列島、瀬戸内海などの漁村部落にほ
野 ﹂と い う 姓の家が多い。
コ延喜 式目などを見ても、紀伊と出雲の熊野坐神社以外
江、 越 甲、丹後などに、熊野神社があり、これらの分布は、恐 ら {
古代の 熊野漁民の活動を考えてよかろう。