意見陳述書2

意見陳述書
H15.4.18
内海
忠志
私は原告番号 8 番の内海忠志(62歳)です。中国名は王金生と言います。
肉親が判明し、1987 年中国の黒竜江省から妻子5人で神奈川県平塚市に帰国し
現在に至っております。
日本敗戦の時は5歳で黒竜江省密山県哈達河開拓団員の子供でした。昭和2
0年 8 月 12 日、開拓団がソ連軍の攻撃を受け、みんなで避難を始めました。そ
の時父は出征していませんでした。母が 8 歳の兄、7歳の姉、5 歳の私、3 歳の
弟、1 歳の妹の 5 人の子供をつれて避難しました。何 10 台もの馬車やトラック
で長い列ができました。その日は日本軍の空き兵舎ようなところで泊まりまし
た。
二日目の朝、出発してまもなくソ連軍に包囲され動きが取れなくなり、約 500
人の開拓団全員が自決することになりました。あとで聞いたことですが、この
集団自決は麻山(まさん)事件と呼ばれ、旧満州開拓団の悲惨な事件の一つと
して語り継がれております。
ソ連軍の飛行機による爆撃があり、騒然とした中で日本刀と銃で自決が始ま
りました。まず母が撃たれて死に、兄と弟妹も銃剣で刺されて死に、私も頭を
銃剣で刺され失心しました。どのくらい経ったのかわかりませんが、気がつい
た時は、血だらけの母の遺体の下になって生きていました。
母子 6 人のうち 4 人が死に、私と姉の二人が生き残りました。この時点で私
と姉は孤児になり、それから地獄のような暗く悲しい人生を歩むことになった
のです。周りには死体がいっぱい転がっていました。私と姉の二人は畑の野菜
を盗んで食べました。どこにも行く当てはなく、夜は母の遺体のそばで泣きな
がら寝ました。何日も何日も。そのうち母の遺体は腐りだしました。周りの遺
体とともに死臭が漂っていました。それでも私は母の体にしがみついて眠りま
した。
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疲れて動けなくなったある日、中国人が通りかかり、私を背負って村に帰り、
王振江と言う中国人に預けました。その人が私の養父となったのです。実の姉
とはその時に生き別れたままで、今も消息は不明です。
養父母に預けられた当時、私の頭の傷は化膿し、体中が藪蚊に食われ、ぶく
ぶくに腫れていました。今も頭と腕にその傷跡が残っています。そんな私の姿
を見た養母は「こんな子はいらない」と養育を拒否しました。しかし養父は「食
べ物を与えて手当てをしたら助かるかもしれない」と言い、ヨモギ草のお湯で
毎日体を洗ってくれました。私は少しずつ回復し、二年後には牛馬の放牧に出
ることができる程度まで元気になりました。
養父母には私より年上の1人の女の子がいました。養父母の生活は貧しいも
のでしたが、私は義理の姉と同じように育てられました。10 歳で小学校に入学
しました。この時初めて布製の靴を買ってもらい、とても嬉しかったことを今
も覚えています。
16 歳で中学校の入試に合格しましたが、義理の姉は貧しくて入学できないの
に私だけが中学に通うのは申し訳ないと思い、その中学校を三ヶ月で退学し、
電気修理工の試験を受け就職しました。
自分が日本人であることを自覚し、肉親捜しをしたかったのですが、情報が
なかなか入りませんでした。文革が終わり日中国交回復したころ、少しずつ情
報が流れてきました。
村で「さくら」と言う映画を見たことをきっかけにして、私の肉親を捜すた
めに、日本政府に対して何度も手紙を出しましたが、私の肉親は判明しません
でした。私自身の個人的な調査の結果、ようやく、私が「麻山事件の生き残り」
ということや、「開拓団員の内海新三の次男で、父はシベリアに抑留され帰国し
た」ということが判りました。
私は一刻も早く日本に帰りたかったのですが、日本政府は私を迎えに来ては
くれませんでした。それに、肉親の同意がなければ帰国できないと云われたの
ですが、私の肉親の同意を得ることはできませんでした。この経緯を詳しく述
べることはできません。現在仲よくしている親族に迷惑がかかるからです。結
局、ボランティアの人に身元引受人になってもらい、ようやく帰国することが
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できました。肉親が見つかってから帰国するまで約5年かかりました。その時
私は45歳でした。
帰国して驚いたことは、私は、戦時死亡宣告で死んだことにされ、お墓まで
できていたことです。日本政府は、中国に多くの残留孤児が残っていたことは
判っていたはずですし、私自身、何度も日本政府に対して手紙を書いていたの
に、私に対するこのような扱いはひどいと思いました。
私の家族の属していた開拓団はなぜ集団自決したのでしょうか。日本が満洲
国を造り、誤った植民地政策をやったこと、ソ連軍が進攻してきたときに、国
民を守るべき日本軍が真っ先に逃げたこと、これらのことが重なって置き去り
にされた婦女子が集団自決せざるを得なくなったのです。
私は、中国では「日本鬼子」といじめられ、貧しくて中学校には三ヶ月しか
行けませんでした、祖国に帰ってからは日本語が話せないため「中国人」と呼
ばれ、差別されて生きてきました。45 歳になってからの帰国は遅すぎました。
藤沢で6ヶ月間日本語を勉強しましたが、6ヶ月では日本語を覚えることはで
きません。
私は帰国後 12 年間勤めた会社を定年退職になりました。現在受給している厚
生年金は月額5万5千円です。とても生活できません。これからの老後がとて
も不安です。
昨年、68歳になる義理の姉が病気で入院したので、退職金を叩いて中国ま
で見舞いに行きました。義理の姉は「お前は幸せだろうね」と言いました。私
は「はい、幸せです」とウソを言ってしまいました。養父母に助けられ、九死
に一生を得て祖国に帰ることができたのに、生活保護に転落しそうだとはとて
も言えなかったのです。
裁判官の皆様、日本国政府が、中国残留日本人孤児に謝罪し、私達が普通の
日本人として、人間らしく生きられるような、そんな判決を強くお願いして私
の陳述を終わります。
(以上)
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