文書 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

「使徒行伝新註解」
J.W.マガーヴィー著
織田 昭 訳
NEW COMMENTARY
ON
ACTS OF APOSTLES
BY
J.W.McGARVEY, A.M.
TRANSLATED BY
AKIRA ODA
発行:キリストの教会宣教師会(1956)
-1-
目
次
序
文………… ……… ……………………………………………………………7
緒
論………… ……… ……………………………………………………………9
第一部
第一項
序
エルサレムにおける教会の起源、発展とその離散
説(1:1-26)
1 . こ の物語の出発 点 (1:1-5)
…… …………… ……… …… ……………… 31
2 . 聖 霊を与 えられ たまう こ とに ついての 最後 の約束(1:6-8)……… …… 33
3 . イエス の昇天(1:9-11) ……… ……… …………… …………… …………35
4 .エ ルサレムに於ける待機 (1:12-14) …… …………… ……… …………37
5. ユダの後任者選ばる(1:15-26)
第二項
…………………………………………38
エルサレムの教会設立される(2:1-47)
1 . 使 徒達、聖霊 に充 され る(2:1-4)
……… …………… …………… …… 44
2 .群 衆に与 えた効果(2:5-13) ……… ……… …………… ……… …………48
3. ペテロの説教(2:14-40)
…………………………………………………49
4. 説教の効果 と教会の発展(2:41-47)
……………………………………62
第三項 教会の発展と第一回の迫害(3:1-4:31)
1.ペテロ跛者を癒す(3:1-11)…………………………………………………69
2. ペテロの第二の説教(3:12-26) …………………………………………71
3 . ペ テロ と ヨハ ネ捕えら れ る(4:1-4) ………………… …………… …… 81
4 . 議 会に於けるペテロ の弁明(4:5-12) …… …………… ……… …………83
5. 秘 密 会 議(4:13-17) …………………………… …………………85
6. 再び説教すること を禁ぜられる(4:18-22) ……………………………87
7. 二使徒の報告と十二使徒の祈祷 (4:23-31) ……………………………88
第四項 教会の一層の発展と第二回の迫害(4:32-5:42)
1. 教会の一致 と慈善(4:32-37) …… …………………… …………………90
2 .懲 罰の実例(5:1-11) ……………… ……… …………… ……… …………93
3. 教会の繁栄 いよい よ加わる(5:12-16) ……………… …………………98
4 .使 徒たち捕えら れ、救出される(5:17-21) ………………… …………99
5.使徒たち法廷に曳き出される(5:22-26) ………………………………100
6.起訴と弁明(5:27-32) ……………………………………………………102
7. 使徒たち、ガマリ エルによって、死を 免れる(5:33-42) ……………104
-2-
第五項
教会のなお一層の発展と第三回の迫害(6:1-8:4)
1 . 食 卓に事える ため七人の役員がえらばれる (6:1-7) …………………109
2 . ス テパノ捕 えられ 、偽 って起訴 される (6:8-15)………… ……… ……115
3 .ス テパノ の演説(7:1-53)… ………………………………………………119
4 . ステパノ石にて撃ち殺され、教会は四方に散らされる(7:54-8:4)………131
第二部
第一項
福音のユダヤ及び近隣諸国への伝播
ピリポの伝道(8:5-40)
1. ピリポ、サマリヤ の町に教会を建設する(8:5-13)……………………136
2 .ペ テロとヨハネ、 サマリヤへ派遣される((8:14-17)…… …………… 139
3.シモンのよこしまな提案(8:18-24) ……………………………………142
4. ペテロとヨハネのその他 の働きと帰京(8:25)…………………………145
5.ピリポ、エチオピヤの閹人に遣わされる(8:26-30) …………………145
6.ピリポ、閹人に説教して彼にバプテスマを施し、その後ペリシテの
地に伝道する(8:31-40) …………………………………………………149
第二項
サウロの改宗と初期の働き(9:1-31)
1 . ダ マス コへの 旅(9:1-9) ………… …………………… …………… ……156
2.サウロ、バプテスマを受ける(9:10-19a)………………………………163
3.ダマスコにおけるサウロの伝道(9:19b-25)……………………………168
4.サウロ、エルサレムに帰り、タルソに派遣さる (9:26-30) …………173
第三項
ペテロ、ユダヤに伝道し、また割礼なき者に遣される(9:31-11:18)
1. 教会の平和と繁栄(9:31)…………………………………………………176
2.ペテロ伝道してルダに至る(9:32-35) …………………………………177
3.ペテロ、ヨッパに喚ばれる(9:36-43) …………………………………178
4. 異邦人コルネリオ 、ペテロを迎 える よう命ぜられる(10:1-8)………181
5.ペテロ、コルネリオの許に行くべく命ぜられる(10:9-22) …………184
6.ペテロとコルネリオとの対面(10:23-33)………………………………187
7.割礼なき人に対するペテロの説教(10:34-43)…………………………189
8.割礼なき人、聖霊を受け、またバプテスマを受ける(10:44-48)……………192
9 .以 上の こ と に関 す る ペテ ロ の弁 明(11:1-18)……… ……… …… …… 197
第四項
教会新たにアンテオケに設立されること、及びエルサレムに
おける第三回の迫害(11:19-12:25)
1.アンテオケにおける伝道の端緒(11:19-21)……………………………200
-3-
2.バルナバ、アンテオケに派遣される(11:22-24)………………………202
3.バルナバ、サウロをアンテオケに連れ来る(11:25-26)………………202
4.バルナバとサウロ、ユダヤに派遣される(11:27-30)…………………205
5.ヤコブ首斬られ、ペテロ捕 えられる(12:1-11) ………………………206
6.ペテロ、脱出してエルサレムを去り、守卒死刑になる12:12-19) …………209
7.へロデの死とバルナバ、サウロの帰還(12:20-25)……………………212
第三部
第一項
パウロの異邦人伝道
パウロの第一伝道旅行(第13,14章)
1 .バ ルナバとサウロ、御業のために聖別 される(13:1-3)
…… ……… 215
2.クプロにおける伝道(13:4-12) …………………………………………218
3.パポスよりアンテオケに至る(13:13-15)………………………………222
4.アンテオケにおけるパウロの説教(13:16-41)…………………………224
5.この説教の直接効果(13:42,43)…………………………………………234
6.次の安息日における結果(13:44-48)……………………………………234
7.アンテオケに於ける最後の結果(13:49-52)……………………………239
8 .イ コニオムでの出来事(14:1-7)…………………………… ……………241
9. ルステ ラでの伝道とその結果(14:8-20) ………………………………244
10.デルべにおける成功とアンテオケへの帰還(14:21-28)………………250
第二項
割礼に関する論争(15:1-35)
1. 論争のおこ り(15:1-5)………………………………………… …………254
2.二度目の会合とペテロの演説(15:6-11) ………………………………259
3.バルナバとパウロの演説(15:12) ………………………………………262
4.ヤコブの演説(15:13-21)…………………………………………………262
5.使徒・長老たちの決議(15:22-29)………………………………………265
6.アンテオケの教会に再び平和訪れる(15:30-35)………………………266
第三項
パウロの第二伝道旅行(15:36-18:22)
1.同行者の変更と旅行のはじめ(15:36-41)………………………………269
2. 第一伝道旅 行の諸教会再 訪(16:1-5)……………………………………272
3.フルギヤ、ガラテヤ伝道、及びマケドニヤへの召命(16:6-10) ……………275
4.マケドニヤ到着、或る婦人たちにバプテスマを施す(16:11-15)……………277
5.パウロとシラス鞭うたれ投獄される(16:16-24)………………………284
6.獄守とその 一家バプテスマを受ける(16:25-34)………………………287
7.囚人たち釈放される(16:35-40)…………………………………………292
-4-
8. テサロニケ での伝道と迫害(17:1-9)……………………………………294
9.ベレヤでの成功(17:10-15)………………………………………………298
10.アテネにおけるパウロ(17:16-21)………………………………………301
11.『 知らざる神 』に関する パウロの説教 (16:22-31)……………………304
12. パ ウ ロ、 コリ ントの 伝道に着手 す る (18:1-4) ………… ……… ……311
13.シラスとテモテの到着、ユダヤ人たちとの決裂(18:5-11) …………313
14.パウロ、ガリオの前に訴えられる(18:12-17)…………………………316
15.パウロ、アンテオケに帰る(18:18-22)…………………………………319
第四項
パウロの第三伝道旅行(18:23-21:16)
1.ガラテヤ、フルギヤへの第二回訪問(18:23) ………………………321
2.エペソ及びアカヤにおけるアポロ(18:24-28)………………………322
3.パウロ、エペソに到着し、十二人に再浸礼を施す(19:1-7)…………………324
4 .会堂及び ツラノの講堂 における説教 (19:8-12) ……………………328
5.呪文師暴露され、魔術書焼却される(19:13-20)……………………329
6.パウロ、将来の旅行を計画する(19:21-23)…………………………331
7 . 銀細 工人 の蜂起 (19:23-41) …… …… ……… ………………… …… 333
8. パウロ 再びマケドニヤと ギリシャを訪れる (20:1-6)……… ……… 338
9.トロアスにおける主の日の集会(20:7-12) …………………………346
10. トロア スからミレトまでの航海 (20:13-16)……………… ……… 349
11.エペソの教会の長老たちとの会見(20:17-38)………………………350
12.ミ レ ト よりカイ ザリヤへの 航海 (21:1-9) ……… …………… ……358
13. アガボ 、パウロの投獄を預言する(21:10-14) ……………………361
14.カイザリヤよりエルサレムへの旅(21:15,16)
第四部
第一項
……………………362
パウロの五年間の獄中生活
パウロのエルサレムにおける禁錮(21:17-23:30)
1.長老たちによる歓迎と忠告(21:17-26)………………………………363
2.パウロ暴民に襲われ、千卒長に捕えられる(21:27-36)……………367
3.パウロ暴民に語ることを許可される(21:37-40)……………………369
4 . 暴民に 対する パウ ロ の演説 (22:1-21)
……… … …… ……… …… 370
5.演説の直接効果(22:22-29)……………………………………………374
6.パウロ、七十人議会の前に曳き出される(22:30-23:10) …………376
7.パウロ、幻に励まされる(23:11) ……………………………………380
8.暗殺の陰謀と露見(23:12-22)…………………………………………381
-5-
9.パウロ、カイザリヤに護送される(23:23-30)………………………382
10.パウロ、ペリクスの手にわたされる(23:31-35)……………………384
第二項
カイザリヤにおけるパウロの禁錮(24:1-26:32)
1. パウロ 、ペリ クスの前に訴えられる(24:1-9)……………… ……… 385
2.パウロの弁明(24:10-21)………………………………………………386
3.裁判延期される(24:22,23)……………………………………………388
4.ペリクスとドルシラに対するパウロの説教(24:24-27)……………389
5 .パウロ、 フェストの前に取り調べを受ける(25:1-12) ……………391
6.パウロ裁判事件、アグリッパ王の耳に入る(25:13-22)……………394
7.パウロの裁判に関するフェストの公開声明(25:23-27)……………396
8 .アグ リッパ 王の 前におけるパウロの 弁明(26:1-29) ………………397
9.演説の直接結果(26:30-32)……………………………………………404
第三項
パウロのロマヘの航海(27:1-28:16)
1 .カイザリ ヤから『よき港』まで(27:1-8)……………………………405
2.航海を継続することについての議論(27:9-12) ……………………408
3.ピニクスに達せんとする努力の失敗(27:13-26)……………………409
4.碇泊及びパウロの警戒(27:27-32)……………………………………411
5.パウロ、船客にすすめ、船重を軽減する(27:33-38)………………412
6.船は洲に乗り上げるが、人は皆救われる(27:39-44)………………414
7 .パウロ、もう一 つ危険を免れる(28:1-6)……………………………415
8.マルタ島におけるパウロの働き(28:7-10) …………………………417
9.旅行の終了(28:11-16)…………………………………………………418
第四項
ロマの牢獄におけるパウロの伝道(28:17-31)
1.ユダヤ人の重立ちたる者との面会(28:17-22)………………………420
2.ユダヤ人たちとの第二回の面会(28:23-28)…………………………422
3.禁錮の継続と伝道の継続(28:30,31)…………………………………423
附
録
バプテスマと罪の赦しとの関係………………………………………………428
PDF電 子 化版 につ いての 覚え書き……… ……… …………… …………… ……442
-6-
序
文
私がはじめて使徒行伝註解書の編纂に手をつけたのは、三十才位の時であっ
た。初版はそれから四年後に出版された。当時はまさに南北戦争たけなわの頃
でもあり、原稿の大部分は、その混沌とした雰囲気の中で書かなければならな
かった上に、本は、丁度人々の考えがすっかり宗教からはなれて、目前の戦争
という大事件に気をとられてしまっていた1863年の秋に刊行された。勿論、
この様な環境下では、聖書の註解書を出版するなどということは、とんでもな
い暴挙であると考えられたから、まず予約者の数を調べた上で、読者の要求を
はっきりと確かめる迄は、出版の事業は中々引き受けてもらえなかった。しか
し、幸いにも、私の呼びかけに対して寄せられた反応は、予想外に私をはげま
してくれた為、この本は廉価版の形で発行されることになり、そしてそのまま
今日に至っている。
以来旧版は、勿論決して莫大な部数ではないにせよ、幸い出版当時から今日
まで売れつづけているし、著者は現在まで、この本が、或は多くの若い信者た
ち に必 要 な 知識 を与え 、或 は 多 くの熱心 なクリスチャン達に 、『主の道を、よ
り詳細に』教えることにおいて、いくらか貢献することが出来たという嬉しい
確信を、折にふれて得ることが出来た。この確信にはげまされつつ、年々旧著
の欠点に気づいて来た私は、この本を、自分の生涯の仕事をすませる前に、是
非もっと完備したものに仕上げたいという、心からなる願望を抱いて来たので
ある。私が実際今迄生きのびて、この心の願いを或る程度なしとげるだけの力
を与えられた神の奇しき摂理に、心から感謝しないならば、私は本当に、神に
対して恩知らずだと云われても仕方がない。
さて、この二十九年の間に、私は自分でも、この貴重な書の註解を書くには、
以前よりも一層適した能力を与えられたと思っている。それは私が、単に普通
熱心な研究家達がそうである様に、この二十九年間の間に、知識の上で経験を
積んだというだけではない。私はこの間二十七年というものは、毎年聖書大学
の高学年の教室において、この書の逐条講義をつづけて来たのである。そして
また同じこの期間に、使徒行伝の記録が、果して信頼するに足るものであるか
どうかというような事や、またそれを通して信仰の基礎そのものを云々する重
要な問題が、ドイツの合理主義学派から輸入されて、我が国と英国にも発生す
るに至った。三〇年前の著者はこれらの問題に関しては全く無知であった。こ
ういった問題は、今日聖書を学ぶ人達の要求をみたす使徒行伝註解書の中には、
是非とも論ぜられなければならない。これらの論争に対して、一方聖書に味方
-7-
する人々も、この問題を提出した聖書の敵方におとらず熱心であった。そして
その結果は、私の最初の註解が印刷された当時にはなかった広範囲の著作とな
って残った。のみならず、当時丁度始められていた、ウェスコット、ホート両
氏のギリシャ語原典研究の完成と ともに、ティッシェンドルフ氏とトレ ゲルス
氏の協力になる、ギリシャ語原典に関する畢生の労作も、完成を見た。こうし
て私達は今日、初代の数世紀以来始めての正しい原典を用いて、この貴重な書
を、読むことが出来るのである。また、英語改訂訳も、旧著の基礎になってい
た、英国欽定訳を私が改訂したものの誤りを正す手間を省いて、少なからず、
私の役に立ってくれた。
これらの新しい、改良された資料を用いて、書き上げたこの本は、私の最初
の註解の、一番新しい改訂版よりも遥かにすぐれたものであり、私はこの本を、
『使徒行伝新註解』と呼ぶことを、あえてはばからない。それは形式以外、殆
どすべての点に於て新しいのである。形式という点に関しては、旧著の形式は、
読者が普通の本を読む時の様に、辞書を読む様にではなく、他の本の様に始め
から終始、続けて読めるということが、色々な面で利益が多いと思ったので、
少々修飾を加えるのみにとどめた。私は既に、自分が老齢である事や、また色
々な職務が、私の残り少ない余生の活動を必要としている事を考える時、多く
の友人達が、私の著作の中で、最も有益であるといってくれる、この本を改訂
するという仕事も、多分これが最期の努力ではないかと思っている。そして私
は、私の頭脳と手の拙い労作を、私の死後に生き残るであろうこの本の運命に
委ねたい。主の為に捧げられた、この本の価値は、主が正しく判断し、お用い
になることであろう。
一八九二年
ケンタッキー洲
レキシ ントンにて
著
-8-
者
緒
論
1.使徒行伝 は、 昔から あまり 人に読まれな い書 である。このことは紀元
五世紀の教父クリソストムの時代から、すでにそうであった。彼の言葉を借り
るな ら ば、『多くの 人は 、新約聖書の中に 使徒行 伝という書がある ことさ え知
らない。ましてその著者の名前を知らない人が多いのは、無論のことである。』
(ク リソ ス トム 『使徒 行伝講解 』)このことは、今日に至るも依然として変らな
い。聖書を読むにあたって、明かにこの書に含まれている特別な教えを、わざ
わざ他の書の中に見い出そうとするような愚を繰り返す人が、如何に多いこと
であろう。こういった事の理由は一体どこにあるかと言えば、教会自体が、既
に遠くクリソストムの時代以前に、この書に特有の大切な教えから離れてしま
っていたこと、そしてまたその教会が、今日に至るまで、この書の教えに帰っ
ていないことにある、ということがわかるであろう。現著者が三十年以上も前
に、始めて、この書のために通俗な註解書を著そうと企てたのも、実は外なら
ぬ、この事実に対する深い良心的苦痛からであった。今日に於ては、使徒行伝
は昔ほども軽視されてはいないけれども、なお一層現代の読者たちのこの書に
対する注意を喚起することは、あながち無駄ではない。最近になって人々の目
が新しくこの書に向けられるようになったのは、主として合理主義聖書学者た
ちが、たまたまこの書の信憑性を否定しようとして攻撃を加えて来たことから
始まる。しかしこれは或意味で、神が今日の人々を呼び返して、使徒行伝の教
えを真に完全に理解させ、かの初代教会に於て実際にまもられていた多くの特
色ある事例を、今日の教会に復原させようとし給う奇しき摂理でないと、誰が
言えよう。
2.題名
『使徒行伝』という題名は、誤解を招きやすい。この書名は、始めて読む人
たちに、この事があたかもすべての使徒たちの行為を、すべて取扱っているも
のゝ如き錯覚をおこさせる。しかし、こゝに扱われているのは、彼らの中或る
人々の行為の一部分にすぎず、大部分の使徒たちに関しては、その活動は全然
記録されていない。むしろ"The Acts of the Apostles"という題名から“the”
という定冠詞を二つとも除いてしまえば、必ずしも十二使徒を、あるいは彼等
のすべての行為を意味することなく、或る一部の使徒たちの活動の一部を示す
から、かえってこの 方が内容をいっそうはっきりさせてくれるかも知れない。
この 題名 は、現存する 最古の二写本(B写本)に既に冠せられているが、一方他
の写本(シナイ写本)には、単に『行伝』(Acts=行為)と記されているのみである。
この題名は明かに、この書が記者の手をはなれてから、後になってつけられた
-9-
ものである。何故なら、この時代の記者たちには、その著書に題名をつけると
いうような習慣はまだなかったのである。しかし、今日私たちが今まで用いて
来たこの『使徒行伝』という題名にかわる、新しい名称を考え出すことは困難
であろう。
3.著者
この書は著者の名を明記されないまゝに今日に伝わっている。しかしその冒
頭の文章が、テオピロなる人物にあてゝ書かれていることから、この書は、先
にイエスの生涯の伝記を書いた人の手になることが証明される。この先に書か
れた伝記とは、即ち第三福音書であって、その著者はルカであると一般に信じ
られている。この二つの書が同一著者の手によるものであることは、両書を一
貫す る文 体の一致 ① から確証 される。 従ってルカが第三 福音書を書いたことを
証明する一切の証拠は、そのまゝ、また彼が使徒行伝を書いたということをも
証明するものである。ルカが使徒行伝及びルカ福音書の何れをも書いたのでな
いと否定する学者たちでさえも、両書が同一著者の手によるという事実だけは
認めている。
①新約聖書の他の個所には見られない単語が両書に共通して五十語以上も用いられている。
こ の 書を 読んで行くにつ れて 『我ら 』 ② という 代名詞が、この物語の 至る所
に用いられていることからこの書の著者は、パウロの伝道旅行中の大部分の期
間を、パウロと行を共にした人であり、またパウロがロマの獄中に幽閉されて
い た時 に も彼と 共にい た(使徒 28:16)人である ことを 、 自 ら主張している よう
である。
②『我ら』部分。16:11でパウロが始めてトロアスに行った時から始まり、途中所々で途
切れながら、この書の最後まで続いている。
こういった証拠から考える時、この書の著者は、パウロが『愛する医者ルカ』
(コロサイ4:14)と呼ぶ人物に外ならぬことがわかる。何故ならルカは、パウロ
がロマの獄中から送ったコロサイ書及びピレモン書の挨拶の中にその名が見え
ているように、パウロと共にロマの獄にあったことがわかっている。また著者
は使徒行伝の文中においても、常にパウロに同行した人たちの中、他のいかな
る人とも区別して目立った存在である。こうしたことから、この書の著者は、
パウロが最後にエルサレムに上ったあの旅行に、パウロと共に出発した一行の
中に発見することが出来る(使徒20:4-6)。それはこの部分で、ソパテロ、アリ
スタ ル コ、 セクン ド、ガイオ、テモテ 、テ キ コ 及 び ト ロ ピ モ が パ ウ ロ に先立
- 10 -
ってトロアスに赴き、そこで我らを待つとあるからである。この我らは云うま
でもなく著者とパウロを指す。そしてこの時若者はこゝに名前のあげられた人
の何れでもなく、しかもなおパウロと共にエルサレムに上った人であり、また
後にパウロと共にロマに赴いた人であるならば、著者はルカ以外の人とみなす
こと は不 可能である。勿論、上記二書簡(コロサイ 書、ピレモン書)の書かれた
時に は 、ルカ 以外にも パウ ロと共にい た人 が な か っ た わ け で は な い 。 しかし
彼らの中一人として著者のように、この時パウロと共に旅行した人はいないの
である ① 。
①ロマにおいてパウロと共に名があげられているのは、アリスタルコ、ユストと云えるイエス、
マルコ、エパフラス、ルカ及びデマスである(コロサイ4:10-14、ピレモン23,24)。
およそすべての記録、書類の記者が誰であるかということをきめる内部的証
拠は、必ずそれを証明するに充分な推定の理由を持っていなければならない。
これは証書遺言書の記者を決定する時でもそうである。そして一旦この推定の
理由が確立されたならば、外部資料に基くさらに有力な反省がこれを覆えさぬ
限り、法律的にも論理的にも否定することが出来ない。もしルカが使徒行伝の
著者であるというこの証拠を覆えそうとするならば、私たちは、このことに反
対して充分な資料をあげている他の記者を見出さなければならない。のみなら
ず、もしこの書が確かに人間の手で書かれたならば、著者は誰かという問題は、
当然ルカか、ルカ以外の誰か他の記者によるかの何れかである。従ってルカが
著者であることを否定しようとする人は、少くとも正しい著者の名を挙げる決
定的な証拠をもたなければならない。しかるに、そのような反証が存在するこ
とをあげた人すら未だ聞かない。しかもこの書が単に他の著者によることが証
明されないのみならず、ルカが著者ではないという外部的証拠をあげた人もな
いのである。反対に、今日なお著書の現存する二人の古代記者たちが、口をそ
ろえてこの書の名をあげ、しかもルカが著者であることを証明している。その
一人はエイレナイオスである。彼は二世紀の前半にスミルナの附近に生まれ、
170年に今のフランスのリヨンの教会の長老となり、二世紀の終りにこの世
を去った。彼は少年時代にポリュカルポスを知っていたが、このポリュカルポ
スは使徒たちの中の数人と直接知り合っていた人であるから、使徒行伝の著者
に関す るエイ レナイオス の記録 ① は誤りないものとしてよか ろう。他の一人は
『ムラトリア正典』の著者であるが、この人も前者と同様のことを記している ② 。
非宗教的な文書の著者に関してこれだけの証拠があげられるならば、如何なる
学者も疑問をさしはさまない。事実、古代における非宗教的文書の著者に関し
て残っている証拠は、この使徒行伝の著者に関する多くの証拠にくらべれば、
まことに僅少なものなのである。
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①エイレナイオス『異端反駁論』3:14.1.
②ムラトリア正典著者の言『すべての使徒たちの行為は一冊の書にまとめられた。ルカは
これらの事実をテオピロの前に証人として記 述 し た 』 勿 論 こ の 記 事 は 不 正 確 で あ る 。
しかし著者に関しては明瞭である。
内部からの証拠は以上の如くであるが、また一方この書の起源に関する最も
古い外部からの証拠として私たちは、この書が書かれた当時と上記諸記者の時
代を結ぶ時期に、すでにこの書が存在していたという証拠を、期待通りに発見
することが出来る。即ちエイレナイオスやムラトリア正典の時代よりやゝ遡る
紀元150年頃に完成された新約聖書の二つの外国語訳 -- 一つはラテン語訳
一つはシリヤ語訳 -- の中に既に使徒行伝が含まれていたのである。前者は
古代のラテン語訳であって、アフリカのロマ領に広く行きわたり、後者はペシ
ッタ・シリヤ訳と呼ばれるもので、当時パレスタインの北部にあたるシリヤに
流布されていた。しかもこの書がこのように訳されたという事実は、既にこの
書が古くからギリシャ語の原典として存在し、霊感の書として認められていた
こと、当時の教会の老人たちが一昔前の使徒たちの時代を追想していた時代に
既に正しい霊感の歴史書として一般に認められていたことを示している。私た
ちはまた、使徒たちと同時代の人として上に名をあげたポリュカルポスが使徒
行伝 から 引用している ① の を発見 する。以上述べた多くの証拠の鎖は切ること
の出来ないほど強力なものである。これは既に過去において、すべての不信者
のこの書に加える攻撃を撃破して来たし、また明かに将来においても撃破する
であろう。
①ポリュカルポスは、ピリピ人に与える第一の書簡の第一章で、ペテロの五旬節の日の
説教を 引用 して 、『神は彼を 死より甦へら せ給へり。 彼は死に繋れ をるべ き者ならざ りし
なり』と言っている。
4.著者の知識の資料
著者がこの書の中で所々、第一人称を用いていることは、その場に著者がい
たことを示すものであるが、一方一人称記事の以外の時は著者がその場にいな
かったというのではない。彼はおそらく自ら共にいた時も、パウロの同行者と
して、第三人称で語ったこともあったろう。このように著者が自ら記録の現場
にいた時は、その知識の資料は彼自らの見聞した体験であり、この資料は単に
「我ら」章句のみならず、多分これ以外の或る記事にもかゝることは疑いない。
またステパノの演説と殉教を含む多くの他の記事に関しては、パウロの知識、
体験が 彼の資料となった であろうし、 パ ウ ロ と 関 係 の な い 事 件 に つ いて は 、
事件に直接関係のあった人たちから聞き出すことが出来たろう。例えばピリポ
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からは彼のサマリヤ及びパレスタインにおける伝道について、ペテロと主の兄
弟ヤコブからはエルサレム及びユダヤに於て彼らが関与したすべてのことども
について……という風に。或る学者は使徒行伝の最初の数章に、明かにユダヤ
主義の影響が見えることから、ルカが既成の諸記録の記事を或る程度まで取り
入れたであろうと想像しているが、これはあながち根拠のないことではない。
しかし私たちは一方またルカが、多分使徒たちの按手によって、聖霊の奇蹟的
な賜物をうけていたことも見逃してはならない。しかもこの聖霊はルカがこの
ような諸記録、諸資料によって史実を研究する必要をなくしはしなかったけれ
ども、また他方、彼を導いてそれらの資料の選択を誤らぬようにし、誤った資
料を選ぶことから彼を守ったに違いない。
5.使徒行伝の記事の確実性
この書の確実性に関する問題は、この問題の性質を二つにわけて解決されな
ければならない。即ち先ず第一に、記録された事実の確実性、第二に引用され
た多くの人々の説教、演説等の言葉の確実性である。第一の問題は次の三つの
確実な根拠により証明される。即ち第一にこの書は、歴史的批判の結果編纂さ
れた諸 正典(canon)の認める最 も確実な、信頼すべ き著者から私たちに伝わっ
て来ているということ、言いかえるならば、著者はこゝに記録された事実と同
年代の人であるばかりでなく、事実の目撃者であり、また彼が実際に目撃しな
かった事実に関しても、実際に目撃した人々から資料を得ているということで
ある。このような著者が疑う余地もなく信頼すべきことは、非宗教的な純歴史
記録においてそうであるのと全く同じである。第二に、彼の記録した事実は、
多くの重要な点で、同時代の有名な歴史家、しかも著者と信仰、国籍を異にす
る歴史家たちの記録と全く一致していることである。これは第一にあげられた
根拠に基く確証に、更に一層の確実性を加えるものである。第三に、この書の
中には、パウロの書簡として認められている書簡の内容と一致する事実が処々
に含まれていることである。このことはパウロとルカが何れもこれからの事実
を正確に記録したのでなければ有り得ないことである。上の第二第三項に関し
て更 に精 密な 証拠 を 知り た い 方は Paley氏 の名著 “ Horae Paulinae” を読ま
れるが よかろう。更に Paley氏の書き 落した幾つかの証拠に関しては、拙著
“Evidence of Christianity”, Part Third を参照 されたい。次に使徒行 伝
の確実性、信憑性が問題にされる最大の理由は、この書に奇蹟の記録が非常に
沢山含まれているということである。しかしこのような反対論を出すのは、勿
論合理主義者たちだけであり、彼らが、奇蹟というものを、どこに記されてい
ようと、全く真偽研究の余地なきものとして、すべて否定してしまうことを考
えれば、これは問題にならない。 ま た こ の 書 の 個 々 の 章 節 に 関 して な さ れ る
それぞれの反対意見については、この註解書の本文で取扱われるであろう。
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使徒行伝の中に記録された人々の説教、演説等については、特別な速記の方
法もなかった当時のこととて、話者の語ったそのまゝの言葉でこれを正確に保
存することは不可能であるとされて来た。また或る人たちは、これらの説教の
中にルカ特有の文体の匂いが感じられるということから、ルカが勝手に捏造し、
勝手に話者を作り上げて語らせたのだとして非難する。しかしこれら二つの反
対は次のように考えることによって解決される。即ちまず第一の点に関しては、
使徒行伝に記録された説教、演説は、何れもその概要のみであつて、極度に簡
略にまとめられており、この程度ならば話者が後にもう一度思い出して同じこ
とを語ることも出来れば、聴衆でさえはっきりと思い出して人に語ることが出
来たに違いない。またルカ特有の文体に関しては、ルカ自身がこれらの説教を
要約して書いたことからも、また或るものは多分アラム語で語られた後、ルカ
によってギリシャ語に翻訳記録されたということからも説明し得る。更にまた
これらの説教や演説の中に見える用語法を、話者の書簡に現れた用語法と比較
研究の労をとった学者諸氏の研究結果からも、書簡を残した話者に関する限り、
記録された説教の中にも、話者独特の文体がはっきりと認められるということ
が証 明 さ れる ① 。 そして事実 これらの説教をよく読んでみるならば 、著者 が言
う通りの話者の説教としてふさわしい夫々の特色を読者は発見するであろう。
①この問題に関し、Alford氏の Introduction to Acts, Sec.Ⅱ及びSpeaker's Commentary
中にある Canon Cook氏の Introduction to Acts, Sec.8 には多くの点をあげて説明
されている。
6.使徒行伝の区分
初代の歴史記録がすべてそうであるように、ルカもこの物語を始から終まで、
主題を少しも分類せず、何の分類のしるしもつけないで書き通している。しか
しこの書が内容分類のために何の見出しもついていないにもかゝわらず、充分
内容を区分することが出来、しかもめったに誤りはない。およそこの書を読む
人は、この書の中の二つの区分に直ちに気付くであろう。その前半はいわば、
ヘロデの死(12:23-25)に至る教会の一般史と呼ばれるべきものであり、後半は
以下巻末まで、使徒パウロの伝道の記録とでも呼ばれるべきものである。従っ
て多くの学者たちはこの書を二つの部分だけに分類して取扱っている。しかし
この二つの部分は、何れも夫々はっきりと区別され得る幾つかの部分からなっ
ており、しかもそれらは各々部分と呼ばれるに充分な長さと内容をもっている。
例えばパウロの半生記については、彼が聖別され(13:1-3)てから、第三伝道旅
行の終に最後にエルサレムに上るまでの異邦人の間の伝道旅行の記録と、この
書の 残り を占める彼の五年間の捕囚生活の記 録 と に 分 け ら れ る 。 ま た 教 会 の
一 般 史 に ついても 、二つの明確な部分にわかたれる。即 ち そ の 一 は 8:4に 終 る
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エルサレム教会だけを扱った歴史、その二は8:5から3:25までの、ユダヤ 、サマ
リヤ及び近隣諸国への福音の発展史である。従って私はむしろ、著者の記録し
たこの四つの大きな区分に従って、この書を四つの部にわけて考えたい。
さてこれらの各部は夫々内容に従ってまた幾つかの項に区分される。私たち
が今日持っている印刷された新約聖書ではこれらは各章によって示されている
が、もしこの章別が本当に科学的な原則に従ってなされているならば、二十八
の章は夫々正しい項目の区分になっているべき筈のものである。しかし実際は、
これらの章は非常に無秩序に分けられており、屡々本来の項目を二つに分けた
りしている所があるので、とかく混乱をまねきやすい。そこで私は本文をその
本来の項別に区分し、章別の区分はたゞ引照の便にのみ利用した。私はまた、
この書の著者ルカが伝えようとしている内容の区分を、更に一層明瞭に読者に
示すために、本文を更にパラグラフに分解し、その各々に適当な見出しをつけ
てみた。これらの見出しや小見出しであらわされる細かい区分は、実は註解の
一部分なのであって、読者が著者の伝えんとするところを解するに便ならしめ
んために外ならない。もし読者が物語の細目に関する説明と関連して、これら
の区分を研究されるならば、単に註解の一節を読む時には得られない深い理解
と正しい意見を、著者ルカの文学的才能について、自ら作ることが出来るであろう。
7.使徒行伝の目的
使徒行伝が主として何のために、何を目的として書かれたかということにつ
いては、聖書を神の言と信ずる学者たちと合理主義の学者たちとの間に、はげ
しい意見の相違がある.F・C・Bauer を始として、Tubingen 学派に属する
彼の後継者たちは、口をそろえて次のように主張する。即ち、ペテロは常にパ
ウロに敵対したユダヤ主義者たちの指導者であり、他の使徒たちもペテロの味
方であった。この敵対は使徒たちの全生涯を通して存続した。そして使徒行伝
は第一世紀の末、或はそれより少し後に、このような敵対が存在しなかったか
の如く見せかけるために書かれたのであると。Bauer氏は言う『このようにし
て我々は、使徒行伝が書かれた直接の目的は、使徒ペテロと使徒パウロの間に
平行線を引くためであり、従ってこの書の中ではペテロはパウロ的性格を、パ
ウロはペテロ的性格を以て現れる。二人の行為や運命について見ても我々は甚
しい共通点、一致点を発見するのである。この書の前半に記録されているペテ
ロの奇蹟の中で、後半にパウロの奇蹟としてそれと同じような奇蹟が記録され
ていないものは一つもない。また説教に含まれる教義において、また使徒とし
ての働き方において、彼らが互に一致するのみならず、さながらその役割を交
換し たか の 如き 観を呈 する のは、一 驚 に 値 す る 』 と ① 。 著 者 ル カ が こ の 書 を
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著した目的をこのような立場から見てしまうならば、確かに全く真実性を欠く
ものとなってしまうのであるが、これに対する充分な反証は、先にあげた著者
の項と確実性の項に既に述べられた。またペテロとパウロの間に引こうとした
平行線というものに関しても、これは事実もそれから存在していたものであり、
この平行線説は、使徒行伝の物語が全部真実であることを前提とすれば、一た
まりもなく否定されてしまうのである。もしペテロとパウロが、何れも病を癒
す能力をもっていたならば、彼らは当然人々の間に見出された病を癒した筈で
あり、二人が同じ種類の病気を治療したということがあったとしても少しも不
思議はない。またもし彼らが同一の福音を宣べ伝えたならば、二人は同じよう
な考えについて、同じように語る筈であり、特に同じような精神的状態にあっ
て、同じような教えを必要としている多くの人たちには、なおさら同じ事を教
えたに違いない。また彼らが迫害を受けたならば、迫害者の振う同じような責
めと苦しみを受けた筈である。そしてもし彼らが同じ御霊によって導かれたの
ならば、当然すべての点で互に一致した筈ではないか。
①Bauer, “Church History”,1:133
勿論、聖書を神の言と信ずる者は、前に述べたような極端な学説は否定しな
ければならないが、面白いことに彼らの説は、ルカがこの書を書いた目的の中
一番主な点は何かという事になると、彼らは互に矛盾し合っているのである。
実際この点に関する種々の異る意見は、世界中の註解学者の数と同じ位多い。
私たちはこゝにそれらを一々あげる暇をもたないが、何れにせよ私たちは、こ
れらの人たちが殆ど全部、著者ルカが何をしたのかということゝ、彼の目的と
を混同してしまっていると言うだけで充分であろう。ルカがなしたことは、ス
テパノのために起った迫害のために散らされるに至るまでの、エルサレム教会
の起源と発展、当時その近隣諸地方に教会を建設した人物、その方法、及び異
邦人にもバプテスマを施したこと、小アジヤの諸地方及びマケドニヤ、ギリシ
ャを踏破したパウロの伝道旅行、及び異邦人にしてキリスト教に改宗した人々
にモーセの律法との関係に関する論争の起源とその不公平な裁定から、最後に、
エルサレムから始まってロマに終るパウロの捕囚の簡単な記録を書くことであ
った。これはルカがなしたことであるに対して、彼がこれを著した目的、趣意
は、彼がその物語の諸処に紹介した主な事実、事件について考察することによ
り、確かめられる。ルカは勿論明かに、他の歴史家たちと同様に、二つ以上の
目的を頭に浮べてこれを書いたに違いない。そしてその中一つは主目的、他は
従目的と考えられる。私たちは、どれが主目的で、どれが従目的であるかとい
うことを、ルカがそれらの各々に払った注意の多少を観察することによって判
断し な け れ ば な ら ない 。 勿 論 ル カ が最 大の 紙面 をさ いて 語 る と こ ろ は 彼 の主
目的であり、他のことがらは従目的である筈だ。
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ところでこの書の大部分は罪人が改宗してキリストに帰依した例と、また改
宗すべくして不成功に終った実例で占められている。私たちがもしこの書の中
から、この種の記事全部を抜き出し、同時にこれら二種の事件の予備的記事並
に結果記事をも抜き去るならば、あとは殆ど何も残らない。まず第一章は私た
ちに、使徒たちが罪人をキリストに改宗させる御業を始めるに先立って、如何
に準備をなしたかを示し、第二章は三千人の改宗の記事を録し、第三章は更に
多くの人々の改宗と、それに伴うペテロとヨハネの逮捕と裁判を記録している
が、次の四つの章に録される迫害もみなこれらの改宗に反対しておこったもの
である。第八、九、十章はサマリヤ人、エチオピヤの閹人、タルソのサウロ及
びコルネリオの改宗に記事をさいている。第十一章は主として、アンテオケに
住むユダヤ人と異邦人の受浸によって、アンテオケ教会に起こったことを記し、
第十二章はこの新しく改宗した信者たちのゆたかな慈善と、エルサレムに再び
起った迫害とを示すエピソードである。第十三、十四章はパウロとバルナバの
伝道旅行における説教と、それによる改宗の実例を記録し、第十五章はパウロ
の第一伝道旅行による改宗者のことからおこった割礼問題の論争を記し、第十
六章は主としてルデヤ及びピリピの獄守を改宗に導いた出来事及びこれに直接
間接に関係した出来事を記し、第十七章はテサロニケとベレヤの改宗の成功、
及び同じ努力がアテネにおいて殆ど果を結ばなかったこと、第十八章は一年半
を費したコリントの改宗、第十九章はエペソにおける多数の改宗と、それにつ
ゞいておこった迫害、第二十章以下は、パウロの最後のエルサレムによる旅行
から、彼の逮捕、しかもなお捕えられつつもエルサレムの群衆、ペリクス、フ
ェスト及びアグリ ッパ王を改宗させんとしてなした空しい努力に及び、そして
最後はロマへの旅と、ロマに到着後この市の主立ったユダヤ人を改宗させんと
して失敗した記事に終っている。然らば明かにこの書の著者の第一目的は、使
徒たち及び使徒に準ずる人たちの伝道の働きによる人々の改宗の多くの例を読
者に示すことによって、私たちに、このために実にイエスが御自らの生命を捨
て給い、使徒たちがイエスの遺命をうけた尊き御事業が如何に成就されたかを
知らしめることにある。しかもこゝに代表された人々は、偶像を崇拝する素朴
な農民から、祭司、総督、王に至る社会のすべての異る階級を代表し、すべて
の智的、宗教的教養の階級をあらわし、当時の人類に知られていた世界の、す
べての国と国語とを含み、これによって、生命と救いを得る唯一の宗教である
キリストの福音が実に地球上の全人類にあてはまるものであることを示している。
この改宗の色々な場合を含む歴史の中には、二つの明確な事実が含まれている。
その一は人を改宗に導くために働いた当事者及び手段方法、その二は改宗した
人の上におこった変化である。このために、著者はその主目的を果すために、
- 17 -
特にこれらの当時者、手段方法及び変化を示すように導かれたのである。彼が
こういう方法をとったのは、読者に、如何なる当時者、伝道者が用いられて、
彼らが如何に働いたか、どのような手段方法が用いられて、それが如何に適用
されたか、そしてまた聖書に記録された改宗には、改宗した人の心に如何なる
変化がおこったかを知らせるためであった。人は教訓によるよりはむしろ実例
によって、遙かに深く教えられ、遙かに強く動かされるものである。私たちが
知っているように、多くの宗教的教師、説教者たちが、罪人を悔改改宗させる
に際して、単に直接言葉で理論的に説くよりも、むしろ人の心を打つ悔改の実
例、信仰の「経験談」によるのはこのためである。主は使徒行伝を私たちに与
え給うた時、私たちにこの方法を明かに期待されたと思う。
この書に掲載された改宗の実例は、今日起る如何なる実例にもまして、すぐ
れて力あるものである。それはこれらの実例が、すべて使徒たちの絶対無謬の
教えによって導かれたものであり、またそれらが聖霊の絶対無謬の智慧によっ
て、無数の実例の中から、霊感の記録に載せるにふさわしいものとして選ばれ
たものだからである。従って、もし現代の改宗が使徒行伝に掲載されたこれら
の事例と一致するならば、それは正しい改宗であり、もし一致しないならば、
その一致しない限りにおいて誤っていると言わなければならない。いやしくも
人を救いの道に導こうとする人は、常にこれらの模範に従って人を導く義務を
持っている。又自ら真に悔改てキリストに改宗していると思う人も、これら使
徒行伝に記録された改宗の事例と 比較して、自分の経験をふりかえってみなけ
ればならない。
もし人が私たちに、何故あなた方は古い時代、即ちイエスの御自身伝道され
た時代に改宗した人々の例を模範にとらないかと問うならば、その答はこうで
ある。私たちはモーセの律法の下に住んでいるのではない。又イエス御自身の
伝道の下に住んでいるのでもない。私たちは聖霊の働きの時代に住んでいるの
である。イエスはその昇天に先立って、地上の御国の事をすべて十二使徒たち
の手に、しかも間もなく下る聖霊の導きの下に委任したもうたのであるから、
私たちが今日、罪の赦しの条件について知りうるすべては、これら使徒たちの
教えと、その教えによって改宗した人々の実例とから学ばなければならない。
従 って も し こ れ 以 前 の 何 れ か の 時 代 (dispensation)に お ける 罪 の 赦 し の 条 件
が、何らかの点で使徒行伝に記録されたそれと異なるならば、私たちはその異
る点に関する限り、もはや前者から自由であって、後者にのみしばられるので
ある。使徒行伝を正しく学ぶことは、この根本問題に関して、使徒行伝が他の
如何なる書にもまして、この問題を特に深く、多く扱っているということを学
ぶことであり、この点は、以下この書を研究するに当って、私たちが常に忘れ
てはならない所である。
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もしこの使徒行伝が過去において、人々から無視されて来たとするならば、
それ は私 たちが前に 知ったよう に 、この特別 な教え(罪の赦しの条件)に関して
無視されて来たのである。この大切な教えを知らないために、今なお多数の伝
道者たちは、罪人に悔改を説くに際して、使徒行伝を引かずに詩篇の聖句を引
くことが屡々ある。私たちがこの古今不易の重要問題を特に扱った使徒行伝を、
聖書中の他の如何なる書にもまして、正しく深く理解するということは、今日
の時代、このはげしい伝道の時代ほど、強く要求され、前に述べた改宗をおこ
し、使徒のすべてのはたらきを導いた主な作用者は聖霊であった。そしてこの
聖霊が、既に何度も繰返されていた預言に従って働いたことを示すことは、著
者ルカにとっては、前の改宗の例を示す第一目的と同等の目的でないにしても、
そ れ に 準 ず る 第 二 の 大き な 目的 であ った 。こ の 書は まず 使徒 委任 (1:2)か ら書
き 始 め ら れて い る が 、 使 徒 たち は 、 聖 霊 が彼 等 の 上 に臨 む ま で は(1:4)その 命
ぜられた事業を開始してはならなかった。そしてこの書の本論とも言うべき部
分は、その聖霊の降臨の記録を以て始まり、全巻を通じて終始、使徒たち及び
他の伝道者たちの働きを、彼らの内に住み給う聖霊によって絶えず導かれたも
のとして、証明している。主はその十字架の死の直前、弟子たちに向って『わ
たしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなけれ
ば、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護
者を あな た がた の ところに 送る。』(ヨ ハネ 16:7)『 言って おきた い こと は、ま
だたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すな
わち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。』(同
16:12,13)と教え 給うた 。 この 神からの 導 き主 の中第一 の導き 主(イエ ス )が、
この地上を去り給うた記録は使徒行伝の序論(1:9-11)に見られ、そしてこの書
の残り 全部は、約束された第二の導き主(聖霊)の実際の働きの記録のためにさ
かれている。この故に、もし四人の伝道者の残した記録全体を、キリストの福
音と 呼ぶ こと が許 さ れ る な ら ば、 Plumptreの 言 った よ う に ① 、 使徒行 伝を聖
霊の福音と呼んでもいゝわけである。
①Handy Commentary, Introduction Ⅳ.
罪人の改宗と聖霊の働きを記録しようとする主目的を完うするために、ルカ
は、この書が扱っている三十年という期間に起った、数知れぬ出来事の中から、
この目的に適した特定の出来事を選ばなければならなかった。そしてルカがそ
れらを選ぶに当ってとった彼の計画を研究してみる時、私たちはこゝに、ルカ
のもっていた今一つの従目的を発見するのである。明かにルカは、パウロの働
きを、他の人々の働きよりも、いっそう詳しく記録するつもりであった。それ
は勿論彼がこの書を書いた主目的に関する限りは、全く同じ価値と力を持つも
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のであるが、一方彼はパウロの働きについては、特に親しく見聞してよく知っ
ていた。しかしパウロの伝道の記録だけを書くことは、その過去との歴史的つ
ながりを無視することになる。こういった意味から、ルカはパウロの伝道以前
におこった出来事から筆を起して、パウロの記事に導く道をつけた。これらパ
ウロ以前の出来事においては、ペテロがすべての点で指導者の位置にあったか
ら、彼が使徒行伝の始の部分で主要な位置を占めているのは、不思議ではない。
またこの書が書かれた当時には、所謂ユダヤ主義者たちが多数跋扈し、至る所
で、パウロの教えが多くの点でペテロの教えに反するものだということを、宣
べ伝してまわっていたから、こういった誤った、しかも有害な教えを反駁し否
定するためにも、特にペテロとパウロとが教義、実践その他すべての点で、全
く一致していたことを示すような事実を選んで記録することは、望ましい方法
であった。こういった考えを更に進めた行き過ぎた考えは、先に述べた合理主
義者たちの、この書の確実性を否定しようとする暴説である。
次にペテロの働きに関連してルカが選んだ記事の性格を検討するならば、私
たちは再びもう一つの従目的を発見することが出来る。それはエルサレムにあ
った母教会の繁栄を記録し、更にこの母教会から、パレスタイン周辺の国々に
住む人々に、福音をもたらした人物に関する簡単な記録を残すことであった。
更にまた、著者はこのペテロを主人公とする前半と、パウロを中心人物とする
後半とを通じて、もう一つの目的を持っていたと言える。それは、信者の個々
の集団を組織するに際して、信徒たちのとった方法を示すということであった。
この書を書いたルカの目的という問題については、もし私たちが更に細い点を
徹底的に調べようとするならば、この外にもなおも幾つかの従目的が発見され
るかもしれない。しかし今上に述べた幾つかの目的は、著者のこの書を記すに
当っての計画が、全く系統的であり、よく研究された上でのものであり、深い
洞察力に富んだものであったことを知らせるに充分である。
8.著作の時期
F・C・Bauer を始め、Tubingen 学派の合理主義者たちは、何れも使徒行
伝著作の時期を、ルカがこの書の著者であり得ないような、ずっと後の時代に
おいている。彼らがこういう結論をとるのは、前に述べた著作の目的に関する
彼らの 仮説(Ⅶ)が、この結論を要求するという以外は、何らの根拠も持つもの
ではない。しかし著者の目的に関する彼らの仮説が全くの誤謬である以上、そ
の誤った仮説の上にたてられた彼らの結論も、一考に価しない。また保守的な
学者の中でも、幾分合理主義の影響を受けている或る学者たちは、この書の著
作の時 期を紀元七 〇年以後 ① におく 。彼らが使徒 行伝の著作を、このようにお
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そい時期におく大きな理由は、ルカ福音書が、エルサレムの滅亡以後に書かれ
た と い う 推定 であ る が、 更に こ の 推定 の 根拠 も、ル カ 21:20-25に引用 されて
いる、エルサレム滅亡に関するイエスの預言が、エルサレムが実際に破壊され
てから、尤もらしく書き入れられたのであろうという、勝手な推定である。し
かしこのような推定は、このイエスの言葉が、真に奇蹟的な預言であったとい
う事実を信ずる私たちには、何らの意味を持たない。私たちはこのような仮説
に基いた彼らの結論をそのまゝ頭から無視して差支えない。
①Meyer, Introduction, Sec. Ⅲ; Lechler, Introduction, Sec.Ⅱ; Weiss, Life of
Christ, 1:88.
一方、この書自体の中に示されている証拠に導かれる保守主義の学者たちは
すべて、この書の書かれた時期を、この書に現れる最後の環境にあたる時期で
あ る ① と す る 点 に お いて 一 致 して い る 。 こ の 最 後 の 環 境 と は 、『 満 二 年 の あ い
だ』つゞいた、パウロのロマ幽囚である。使徒行伝の物語がこゝで突然完結し、
パウロが果して釈放されたか、或は死刑に処せられたかについて、一言も述べ
られていないということは、この書の最後の言葉が書かれた時には、その何れ
の事実も起っていなかった証拠であることは確かである。この証拠は更に、こ
の書の最後の記事を、それを含む終りの四章の物語と関連して考える時、一層
強力なものとなる。第25章において、著者はパウロのカイザルへの上訴を記
しているが、これによってフェストの前における裁判は終りを告げ、またこの
上訴がきっかけとなって、以後に記されるすべての出来事がおこって来た。フ
ェストがこの囚人に関して、如何なる報告書を皇帝におくるべきか、途方にく
れ、この問題をアグリッパ王の耳に入れて注意を惹かんとし、またパウロ自身
をこ の 若き王 の前に 連れ来 った(25:12,26,27)のも 、すべてこのパウロの上訴
がその原因である。パウロはこの上訴の権利を保護するロマの法律に従って、
第27章に記されたロマへの航海に、囚人として送られる身となった。そして、
嵐の 中 に生命 の救われ る 希望が全く絶え 果てた 時においてすら、『パウロよ、
懼る な 、 なんぢ 必 ずカ イ ザル の 前に立たん 』(27:24)とい う 、神の 使の言葉に
よって、彼は勇気づけられた。彼がロマに着いた時、ロマにある重立ったユダ
ヤ人たちとの最初の会話において、彼がまず語ったことは、カイザルへの上訴
のことであった。(28:17-19)これらのことを考えれば、もしこの書が完成され
た時、既にカイザルの前での裁判が済んでいたならば、たとえそれが、パウロ
の釈放に終ろうと、或は反対にパウロの断罪となって終ろうと、この書が裁判
の結果に関して一言もふれずに閉じられるというようなことは考えられない。
これは、私たちが起こったことを知っている他の幾つかの事件の省略のような
単なる省略(歴史上の前後の関係から省略しても差支えないようなもの)ではなく、
- 21 -
むしろこゝに記されていないこの事実は、これまでの長い一連の物語の導かん
とする結末であり、著者が注意深く読者の好奇心を惹きつけておいたこの書の
最後を飾るべき大団円ではなかったろうか。これを劇にたとえてみるならば、
その筋の結末に対する観衆の深い興味を刺戟しておきながら、いよいよ最後に
その結末が見られるという段になって急に幕がおりてしまうというようなもの
である。更にあからさまに言うならば、それはたとえば、有名な裁判の物語で、
まず被疑者の逮捕から始まって、遠い国から裁判の行われる土地まで囚人が送
られて来たことを書き、更に裁判当日まで長期の禁錮について述べた後で、そ
の大切な裁判そのものについては一言もふれずに終っている物語のようなもの
である。このような書き方は読者をじらせるためにわざとそんな終り方をする
架空の小説でなければあり得ない。私たちは真面目な事実を記した歴史記録で
こんな終り方をするようなものを聞いたことがない。従って唯一の合理的な結
論は、ルカがこの書の最後の文章をちょうど彼の言っている『満二年』の終、
パウロの上訴事件がまだ皇帝の前で裁判されぬ前に書いたということである。
①Gloag, Int., Sec. V.; Canon Cook, Speaker's Commentary, Int. to Acts Sec.X;
Alford, Int., Sec. IV.; Hackett, Int., Sec. V.
この推論の証拠を覆えそうとして一つの試みがなされている。それはルカが
もう一つの書を書くつもりであったかも知れぬという説である。この説によれ
ば、ルカは彼の書いた福音書の終りにおいてイエスの昇天の記事を全部書かず
におき、その詳細については使徒行伝の始で完結したから、同様の計画をパウ
ロの 裁 判の 記事についても持っていたというのである ① 。しかしルカがそのよ
うな計画を心にもっていたと想像すべき何らの根拠も存在しない。それは他に
も説明の余地ある事実を無理に一方的に説明しようとするこじつけである。更
にまた彼らが想像する二つの事実は決して平行するものではない。何故ならル
カ福音書では、ルカはイエスの昇天を一応述べているのであって、次の書では
さらにそれを詳しく説明しているのに反し、この場合にはパウロの裁判の結果
について一言も語っていない。彼がもし昇天の記事の場合と全く同じ行き方を
するならば、こゝで一言言及しておいた筈ではないか?彼は使徒ヤコブの死を
たった七語のギリシャ語で片づけているが(12:2)、パウロについても彼が釈放
されたとか、有罪の宣告を受けたとか、少くとも同じ七語くらいの言葉を最後
に書き加えておいて、詳細を、もしもう一冊の書を書くつもりであったならば、
次の書にゆずった筈である。
さてこの問題から次に移る前に私たちは、第二世紀後半の記者イレナエウス
が、ルカはペテロとパウロの死後にその福音書を書いたと言っていることをあ
げて おくべきで あろう ② 。しかし上に引いた聖書 内部からの 証言はこの口伝の
- 22 -
証拠を覆すに充分である。のみならず、もし私たちがこのような仮説に基いて、
著者が単にパウロのカイザル上訴の結末を書いていないのみならず、これと直
ちに関連して来る二つの出来事--使徒教会の上にふりかゝった最大の悲劇、
即ちロマにおけるペテロとパウロの処刑を何故記したかを考える時には、イレ
ナエウスよりもはるかに有力な証拠がなければこれを充分に証明することは出
来ない。
①Meyer, Int., Sec. III.,その他ドイツ合理主義批評家。
②Against Heresies, iii. 1.
9.使徒行伝の年代
第二部の或る部分で著者はエルサレム教会の四散から出発して、或る地方に
福音を伝播した一説教者或は数人の説教者の後を追い、その後また他の説教者
のことを述べるために同一点に逆もどりしているが、それ以外の場合には使徒
行伝に記された事実はすべて年代順に配列されている。しかし著者はそれらの
時間的関係については全然記していないため、私たちは使徒行伝に書かれた出
来事が全部いつ頃からいつ頃にかけて起ったのかわからないし、またその中の
個々の出来事についても、最後の一例を除いては、それがどれ位の期間にかけ
ておこったものであるか、知る由もないのである。しかしこの最後の部分にお
いては彼は時間について明確に述べている。即ちパウロは五旬節の祭の日にエ
ルサレムにおいて逮捕されたこと、彼はこの時から二年間、フェストの着任の
時まで獄に囚えられていたこと、そしてその年の秋に彼はロマに送られ、翌年
の春 ロ マに 到着した こと 、そして更にこのロマで彼が満二年の間禁 錮 ① されて
いたことをルカは記している。こゝにおいて私たちはこの歴史のこの部分に五
年間の年月が経っていることを知ると同時に、またフェストがユダヤに遣され
たの は6 0年であっ たこと が確実とさ れてい るから ② 、私たちはパウロが捕え
られたのはその二年間--即ち58年の五旬節であったこと、彼がロマに向っ
て出発したのは60年の秋であり、ロマに到着したのは61年の春であったこ
と、そして使徒行伝の末尾は63年の春に当ることを知るのである。またエペ
ソ書、コロサイ書、ピレモン書及びピリピ書の四書はこの禁錮中に書かれたも
のであるから、書かれた年は61-62年に当る ③ 。
①使徒行伝20:16。参照:24:27。27:1,9。28:11-16,30。
②このことに関しては Conybeare and Howson, Appendix Ⅱ.,Note(C)に、Meyer,
Int. to Acts, Sec.4 を反駁して、確定的な証拠があげられていると思う。
③エペソ3:1。4:1。ピリピ1:12,13。4:22。コロサイ4:10,18。ピレモン1,9,10,23。
- 23 -
もし私たちがパウロがエルサレムで逮捕された58年の五旬節からはじめて
前に計算して行くならば、私たちはルカの記録だけによっても或る時期まで遡
ることが出来、パウロの記録によれば更に前の時期まで遡って計算することが
出来る。パウロはエルサレムに向う旅行の途中ピリピにおいて除酵祭の前の数
日を過し(20:6)ているが、こゝへはギリシャから直行して来ており、その前は
ギリシャに三ケ月滞在している(20:1-6)。この三ケ月はその次にピリピに向う
早春の旅行が記されていることから、冬の三ケ月であったに違いない。こうし
て私 たち は 58年の 冬から57年 の冬 に遡ること が出来 た。そしてロマ書はこ
の旅行の途上彼がギリシャを離れる間際に書かれた(ロマ15:25,26。参照 使徒24:
17)から、書かれた時期は58年の始めである。ガラテヤ書はその内部的証拠から
見てやはり大体同じ時期に① 書かれたものであることがわかる。
①この こと は、こ の二 書簡 を通じ て主 な論義 を構 成 し て い る 主 題 が 同 一 で あ る こ と 、
即ち何れも主として信仰による義を説き、またガラテヤ書の中でパウロがガラテヤを去っ
てから、また幾年も年月が経っていないことを閃めかしていることからわかる。パウロが
ガラテヤをたってからガラテヤ書を書いた時までには実は三年たっていないのである。
パウロはマケドニヤから真っ直ぐにギリシャへ行っているから、彼はこの年
の秋をこの国で過ごしたにちがいない。また彼はコリント人たちに対して自分
が五旬節までエペソに留まるつもりであると言っているから、彼はまたその夏
をもマ ケドニヤで過してい たのであろう(コリント前書16:5-8)。これは57年
の夏 に当 るが 、彼 が コリ ント 後書 をマ ケドニヤ で 書い たと いう こと か ら (コリ
ン ト後 書 1:12,7:5)、コリ ント 後 書はちょう ど この57年の 夏に書かれたこと
になる。しかしコリント前書の方は、彼はこの年の五旬節から甚だしく前でな
い時期に書いている(コリント前書16:8)から、この書が書かれたのは同じ57
年の初夏頃であり、彼がエペソにおける働きが終わったのもこの年であつた。
彼はエペソで一年三ケ月滞在している。従って彼がエペソでの伝道を開始した
のは54年の始めである。所でこゝから先は私たちはこれをつなぐはっきりし
た数字を持っていないのであるが、推測によって手探りながら或程度の正確さ
を以て、少し遡ることが出来る。パウロは最後のアンテオケ帰還旅行において
エペソに約束を残し、また彼がエペソに再び帰って来た時にこの地の人々が彼
を援助することが出来るようにとの目的で、プリスキラとアクラをこの地に留
まらせておいた。
従って彼は次にエペソに帰る時にはアンテオケ・エペソ間の各地を一年もかゝ
らずに廻ってやって来たことは殆ど確かである。そうすると彼はその第三伝道
旅行を53年に開始したことになり、第二伝道旅行をおえたのは同じ53年の
- 24 -
半ば頃、或は前半ということになる。しかし彼はこの第二伝道旅行の終りにお
いて、コリントから一、二週間しかかゝらぬ旅程を真っ直ぐに帰っているが、
こ の コ リ ン ト では 一 年 六 ケ月 滞 留 して いる (18:11)。 こう 考えて 来ると 私たち
は彼のコリント伝道の始まりである52年の始め、或は51年の末まで遡るこ
とが出来る。彼がテサロニケ人に対する二つの書簡を記したのは大体この時期
であ った ① 。こゝで もし私 たちが第二伝道旅行のコリ ントまでにおこった出来
事に対して二年弱をさくならば、私たちは第二伝道旅行が開始された時期を5
0年の始めと推定することが出来る。しかもこの旅行はエルサレムにおける割
礼に関する会議のあった直後に始められたから、この会議もおそらく50年の
初めに開かれたものと考えられる。
① こ の 事 は 使 徒 行 伝 18:5に お いて テ モ テ と シ ラス が コ リ ン ト に 到 着 し た と 記 さ れて い る
記事と 、テ サロニケ前 書3:3-6における、テ モテがアテネか らテサロニケ に送りかえ され
た後、コリント前書が書かれていた時にコリントのパウロの許に帰って来たという記事と
を比較することによってわかり、またテサロニケ教会の状態が依然として同様であったこ
と、及びパウロがコリントを去ってからは共にいなかったシラスが、なおも彼と共にいた
という事実から、テサロニケ後書は前書が書かれてのち間もなく書かれたものであること
がわかる。テサロニケ後書1章-4章参照。
さてこゝまで来ると、今度はパウロの数字が私たちを助けてくれる。彼はガ
ラテヤ書(1:18)の中で、彼がキリスト信者に改宗してから3年後にダマスコか
ら エ ル サ レム に 行 き 、 そ の 後 1 4 年 を 経 て (2:1)バ ルナバ と 共 に 再 び 会 議の た
めにエルサレムに上ったと記している。今もしこの二つの期間が連続している
ものと考えるならば、彼の改宗からこの会議までは17年あったことゝなるか
ら、会議が50年に行われたと考えるためには、パウロの改宗を教会創立より
も更に 前の ① 33年に仮定しなけれ ばならないことになり、不合理である。し
かしもしこの3年と14年とを何れも彼の改宗の時から数えたものと見るなら
ば - - こ の方 がガ ラ テ ヤ 書第 二章 の 内 容とよ く一致す るの だ が - - A.D.
50年から逆に14年を数えて、パウロの改宗は36年、即ち教会創立後二年
目ということになる。しかもこの結論は使徒行伝の最初の八章に記録された出
来事の経過と最もよく一致する。
①大多数の聖書年代学者は主の死および教会創立を33年に見ているが、私は色々考え
た末、それが34年におこったと結論せざるを得なくなった。ルカ伝(3:23)によるなら ば 、
イエスはおゝよそ30歳の時にバプテスマを受け給うたから、この時イエスはその第31
年 目 に 入 ろう と して お ら れ る と こ ろで あ っ た。 言 い か え れ ば 、 A.D.31 年 で あ っ た こ と
がわかる。従 ってもしイエスがその第33年目に死に給うたとするならば、イエスが親しく
- 25 -
伝 道 さ れ た 期 間 は 二 ケ 年 と ほ ん の 少 し か 続 か な か っ た こ と に な る 。 と こ ろで 私 たち が こ
の イエ ス 御 自 身 伝 道 の 期 間 が ど れ 位 つ ゞ い た か を 確 か め る こ と が 出 来 る 唯 一 の 方 法 は 、
ヨハネの記録によってイエスの伝道期間中に行われた過越祭の数をかぞえることである。
というのはこの過越祭に注意をはらっているのはヨハネだけだからである。ヨハネ伝第二
章に述べられているものはこれらの中で最初のものであり、おそらくイエスがバプテスマ
を受け給うてから大体六ヶ月後、或はちょうど六ケ月後におこなわれたものであったろ
う。次 に5:1に 述べら れて 名を あげられてい ない祭 が過越祭 であったなら ば、最初の 過越
祭以来のイエスの伝 道期間は満三 年である。 なぜならイエスは勿論6:4に述べられた過越
祭 を 経 験 し 給 う た 筈 で ある か ら 、 次 に 12:1に 述 べ ら れ た 過 越 祭ま で 生 き 給 う た イエ ス の
伝道期間は最初の過越から三年であったことは疑もない。ヨハネの証による時、問題と
なる唯 一の 点は、 5:1に述 べられてい る祭が果して過越の祭 であったか、 或はそれと も他
の 何 か の 祭 で あ っ た か と い う こ と で あ る 。 も し 私 たち が こ ゝ で 単 に ヨ ハ ネ が こ の 祭 の 名
を あ げ ず に た ゞ の 祭 と 言 って い る か ら こ れ は 過 越 祭 で は あ り 得 な い と 言 う な ら ば 、 同 じ
事実からそれは五旬節でもあり得ないし、仮庵の祭でも、宮潔の祭でもあり得ないこと
になってしまう。それはこれらの祭も他の個所では夫々名前があげられているからである。
し か し 実 際 は そ れ は こ れ ら の 四 つ の 祭 の 中 の 何 れ かで あ っ た に 違 い な い 。 な ぜ な ら ユ ダ
ヤ人たちはこれ以外に祭を持っていなかったからだ。こうしてこの祭が私たちの想像する
過越祭或はそれにつゞく五旬節、或は仮庵の祭、或は宮潔めの祭であったとするならば、
何 れ に して も 全 体 の 期 間 に は 影 響 な い こ と に な り 、 私 たち は 問 題 の 過 越 を も 文 句 な し に
過 越 すこ と が 出 来 る か ら 、 第 二 章 と 第 六 章 の 二 つ の 過 越 に は さ ま れ る 期 間 は や は り 二 年
であることに変りはない。イエス伝道の全期間が最初の過越から二年であったとする人たち
によって採用される仮説は、5:1の祭は第二章の過越のすぐあとの宮潔であったというのであ
る。しかしこの仮説を認めるにはヨハネ4:35に記された、イエスの弟子に対する次の言葉に
無理な解釈を施さなければならない。
『なんぢら収穫時の来るには、なほ四月ありと言はずや』
このイエスの質問の意味は言うまでもなく、この時次の収穫が四ケ月の後に迫っていたこと
を示すものであるが、パレスタインでは収穫は四月の末に始まるから、この言葉は十二月の
末か一月の始に言われたことになる。もしそうとするとこの年の宮潔の祭は恐らく既に済ん
でいた公算が甚だ大である。というのはこの宮潔の祭はユダヤ暦第十月の第十五日に行われ、
今の暦で言えば大体十二月の五日から一月の五日の間のどの日かに当っていたからである。
しかも、もしたまたまこの年は宮潔の祭が私たちの暦の上でおそい時期に当る年、つまり十
二月の末から一月の五日までの間に当る年であったとしても、ヨハネ5:1の祭がこの宮潔の祭
であったと考えることは殆ど不可能である。なぜならば、もしこの祭が宮潔の祭であったと
するならば、イエスはこのガラリヤへの旅行の後直ちにエルサレムに、しかも真冬に引越し
たと考えなければならなくなるからである。以上の理由から私は5:1の祭は過越祭であり、従
ってイエスの伝道期間は三年余り続き、34年に終ったと考えるのである。
こうして36年のパウロの改宗を新しい出発点とするならば、3年後パウロ
の最初のエルサレム訪問及びタルソへの出発は39年となり、サマリヤにおけ
るピ リポ の働き 、及び 彼による閹人のバプテスマ は36年と39年の間に ① 行
われたものであることがわかる。
- 26 -
①ルカはこれらの働きをエルサレム教会の四散とパウロのエルサレム帰還との間に記録し
て い る こ と か ら 、 こ れ ら の 出 来 事 が こ の 間 に 起 っ た こ と を ル カ が 言 わ ん と して い る こ と
は明かである。
これらの数字に加えて更に私たちはヨセフスによって記録された日附を持っ
てい る。 彼によればアグリ ッパ 王は44年に 死んだが ① 、これはちょうどバル
ナバとパウロが施済をなすためにユダヤの諸教会を訪れていた時である(11:29、
12:25)。ところがこの二人はこの訪問に旅立つに先立って一年間をアンテオケ
で過 して いる (11:26)か ら 、 こ の ことか らパウロのアン テオケ到着 は43年、
パウロのシリヤ・キリキヤ地方滞在は39年から43年まで約四年間づゝいた
ことがわかる。この期間に使徒行伝第9章及び第10章に記録されたペテロの
働きがあり、アンテオケ教会の設立があった。以上たどって来た年代は殆ど確
実な数字である。聖書によれば、パウロがエルサレムから送り出されてからは、
教会はユダヤ・ガリラヤ・サマリヤを通じて平安を得たとあり、ペテロは『遍
く四方をめぐりて』ルダに至ったとあるが、これはあまねく上記の三地方をま
わったことであろう。ペテロはこのルダからヨッパに呼ばれ、そこで『日久し
く』“many days”留った(9:32-43)。さてペテロのこれらの働きと旅行とは一
年足らずでなされたと考えることは全く不合理であろうから、むしろ二年位は
かゝったと考える方が真実に近い。もし前の説をとるならば、彼がヨッパから
カイザリヤに呼ばれて異邦人たちをバプテスマしたのは40年であり、後の説
をとるならば41年である。大多数の註解者たちは前説を正しい時として採用
しているが、これは殆ど真実に近い数字である。以上のことから私たちは、使
徒たちが御言を宣べることを34年から41年まで七年の間、割礼ある者だけ
に限っていたことを知る。
①ヨセフスによれば(Ant.19;4:4; cf.v.1; 8:2)、クラウディオは即位後アグリッパの祖父
ヘロデのかつての領地を全部アグリッパに与え、アグリッパはこの拡張された王国を三年
の 間 治 め た 。 こ の ク ラ ウ ディ オ が 王 位 に つ いた の は A.D.4 1 年 で あ った か ら 、 そ れ か ら
三年後のアグリッパの死は当然44年である。
アンテオケ教会設立の時期もまた、同じような概算によって算出される。エ
ルサレムにいる兄弟たちはアンテオケでギリシャ人がバプテスマを受けたとい
う報 せ を 聞くや 、直 ち にバル ナバをそ の地 へ派遣した (11:22)。これは ギリシ
ャ人のバプテスマの後、何週間もたっていなかったであろうし、バルナバもパ
ウロを連れて来るためにタルソへ行くまでに、アンテオケではほんの短い期間
しか滞在しなかったにちがいない。しかるに既に述べたようにパウロのアンテ
オケ到着は43年のことであった。従ってアンテオケ教会の設立は早くとも4
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2年中であった筈である。こうして私たちは、アンテオケにおけるギリシャ人
のバプテスマは、使徒行伝の記事の順序から想像し得ると同じく、コルネリオ
一家のバプテスマより数ヶ月後であったことを知る。
以上ジグザグの経路を通って調べ得た結果を綜合すると、私たちの得た数字
を用いてたどることの出来る唯一の年代の線は、便宜上次のような形に並べら
れる であ ろう。疑問符 (?)の 附せられている項は殆ど推定によらなければ得ら
れなかった数字である。
1.最初の五旬節、A.D.34年5月。
2.エルサレム教会の離散、及びサウロの改宗、36年。
3.サウロ改宗後エルサレムに帰る、39年。
4.サマリヤにおけるピリポの伝道、及び閹人のバプテスマ、36年39年の間。
5.コルネリオ一家のバプテスマ、41年?
6.アンテオケ教会の設立、42年?
7.バルナバとサウロのアンテオケにおける最初の協力伝道、43年。
8.バルナバとサウロ施済のためユダヤに派遣される、ヤコブの死、
ペテロの投獄、ヘロデの死、44年。
9.割礼に関する会議、50年?
10. 異 邦人 への パウ ロ の第 一伝 道旅 行、 4 4- 50 年の 間、 割 礼会 議に
出発するに先立ってパウロは五年間アンテオケを留守にし、会議の直前
にはアンテオケに帰っていた。この旅行は約四年を要したものと思われる。
11. パ ウ ロ の 第 二 伝道 旅 行 、 50 年 か ら 53 年 ま で 、こ の 中 に はそ の半
ばを占めるコリントでの一年六ケ月を含む。彼はこのコリントでテサ
ロニケ前書及び後書を書いた。
12. パ ウロ の第 三 伝 道 旅行 、 5 3- 58 年 、こ の 中 には 彼の 全 旅行 中で
も 最 も 長 い 滞 在 で あ る エペ ソ で の 二 年 と 三 ケ 月 を 含 む 。 こ の 旅 行 中 彼
は57年にコリント前書及び後書を記し、58年の初にガラテヤ書と
ロマ書を記した。
13.58年から63年まで、パウロの捕囚、58年にエルサレムで逮捕、
5 8 年 か ら 6 0 年 ま で カ イ ザ リ ヤ に お ける 監 禁 、 ロ マ へ の 旅 6 0 年 の
秋から61年の春にかけて、ロマにおける監禁61年から63年まで、
こ の最後の二年間にエペソ書、コロサイ書、ピレモン書、ピリピ書及び
もし彼が書いたものならばヘブル書をも書いた。(ヘブル18:18,19)
Meyer はそ の使 徒 行 伝 註解 書(緒 論 )の中 で、古 代 から 現代に 至るま での 3
3人の記者による年代表の一覧図をあげているが、その中には数ある英語記者
- 28 -
の中からはわずかに一人だけしかとり上げられていない。これらの多くの記者
たちの年代表を夫々見ると、彼らの中二人として互に一致するものはないが、
大体において殆ど接近した数字をあげており、どの点に関しても以上私があげ
た数字と二年以上の相違を示しているものはないようである。従って、特にル
カが殆ど全く年代というものを無視して、彼の記録した事実の価値を年代の上
におかなかったことから考えても、前にあげた表は実際的な目的に答えるため
には充分真実に近いものである。
10.文献
古代から現代に至るまで使徒行伝を解明するために著された全書籍の表をこゝ
に写すことは容易である。しかし私はむしろこゝに実際に私たちの研究の為に
役立つものをあげるだけで充分だと思う。
私が古い註解書を書いた頃には、私が手許に持っていたものはと言えば、たゞ
Bloomfie ld, Olshausen 及び Hackett の原語テキストに基いた註解書と、
有名な J.A.Alexander, Albert Barnes 等の註解書、及び今は覚えていない
が、少数のこれ以外の英語著作であった。この外にまた私は常に Conybear
と Howson の Life and Epistle of Paul を 参照したが 、これは当時 とし
ては最も新しい本であり、またこの種の著作の中では最初のものであったから、
使徒行伝をパウロ書簡と照らし合せて研究したことのない人にとっては、あた
かも新鮮な啓示のように喜んで読まれたものである。
現在の註解書を著すにあたっては、私は以上の外に次の各書を参考にした。
1.註解書=Alfordのもの、Meyerのもの、Gloag のもの、Lechler のもの
(Lange's Bible Work の中にある)、Jacobsonのもの(Speaker's Commentary中)、
Plmptre のもの(Handy Commentary 中の一巻)、Stokeのもの(Expositor's
Bible 中の一巻)、及び Lu mb y の も の ( Camb ridge Bible for Schools
and Colleges 中の 一巻 )。 これらの中で私 は Meyer のも のが最も労作 であ
り、 同 時 に最も 教訓 的 であ る と思っ た。 一 方 Alford のもの 及び Plumptre
のものも他の点で最も役に立つことがわかった。
2.パウロの伝記=Farrar 著 Life and Works of Paul は Conybare 及び
Howson があ の素晴 らし い正確さで 描き上げたパウロ の絵 を、いっそう生き
生き と 見 せてく れ た 。 他方 C.F. Bauer 及 び Ernest Renan 等 の不信の輩
の著作も、敵がどの方面から攻撃して来るかを知らせてくれ、これらの人々に
対して真に真面目に聖書を学ぶ者を守る道を教えてくれることによって役立った。
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3.その他の著作=上の最後に述べたと同様な役目をはたしてくれたものの中
には、Bauer の初代三世紀にわたるキリスト教会史に関する著作、Zeller の
使徒 行伝 に関する著書、及 び
Supernatural Religion と 題する匿名の英語
作品があった。
以上の各書から得た諸資料の外、私 自 身 1879年 に パ レス タイ ン へ 旅 行 し 、
また小 アジヤ及び ギリシ ャにおける聖 書 と 関 係 の あ る 各 地 を も 訪 れて 来 た 。
パレスタインでは特に、私はその著書を知っているアメリカのどの著者よりも、
はるかに広くこの地を旅行し、その辺鄙な地方においてもはるかに多くの事物
を見聞して来たつもりである。そしてこの旅行の目的は私がこの国についての
正確な知識に基いて語り、また書くことが出来るためであった。
- 30 -
第一部 エルサレムにおける教會の起源、發展とその離散
1章1節-8章4節
第一項
序
説(1:1-26)
1.この物語の出発点(1-5)
1、2節
ルカはこの物語を、彼が前に書いたイエスの物語が終った丁度その
日を出発点にして書き始めている。
1:1/2
テ オフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始
めてか ら ① 、 お選び に なった 使徒た ち に 聖霊を通して指図を与え 、天 に 上げられ た
日までのすべてのことについて書き記しました ② 。
年代的に考えるならば、この記録は前の記録に始まった歴史のつゞきである
から、この二節は確かに時間的に適当な出発点である。そしてイエスが「挙げ
られ給ひし日に」命ぜられたこと、即ち言うまでもなく、使徒委任の命令も又、
論理的にこの物語にふさわしい出発点である。何故なら、使徒達がこゝに記録
される色々な活動の権威を与えられたのは、実にこの委任の命令によるからで
ある。イエスは自ら地上に於て福音をのべ伝えている間には、弟子たちにイエ
ス御自身がキリストであるということを人に教えるのを、お許しにならなかっ
た。むしろ反対にそうすることを弟子たちに固く禁じ給うた。(マタイ16:20、
17:9)こ れは 恐らく イエスが 、弟子 たち の誤ったメシヤ 観、イエ スの御国 に関
する彼等の間違った考え、又イエスの教え給うた数々のことがらに関する弟子
たちの不完全な理解ということを考えて禁じられたのであろう。
① 「 行 ひ 始 め 、 教 え は じ め 給 ふ 」 は 、 英 語 に 於 いて は 必 ず し も 「 始 め る 」 と い う 意 味 を
必要としない。即ち「行ひ、教え給ひし」という意味なのである。この様な表現の仕方
は、 こ の ほ か マル コ 6:2、 同 8:5、 ル カ 3:8、 同11:29、 同13:25、 14:9,29、ヨ ハ ネ13:5
に見られる。従ってこの言葉から、キリストのなされた事、教えられた事が、昇天後にな
された事、教えられた事の「始まり」にすぎなかったと解釈することは誤りである。
② こ の 二 節 の 訳 文 に つ いて は(訳者註、日本語に於いても)マガービ改訳はギリシヤ語原典の そ
のまゝにしたがっている。until the day in which, having given commandment
throught the Holy Spirit unto the aposltes whom he had chosen, he was taken up.
(訳者 註、他 の訳では until the day he was recieved up(A・ S)が先に来 る)。こう
することによって、主の昇天の日と、命令された日との関係が、原典の通りに表現される。
- 31 -
又同時に、A・V 及び R・V に用いられている「…のち」(after that…)という原文には
ない言葉をさけることが出来
ἐντειλάμενος
という分詞の意味も生きて来る。(訳者註、
日本語はこの点、原文に近い)
のみならず、弟子たちはイエスが真に何であるかを正しく人々に伝える能力
を持っていなかった。
かつてユダが彼を裏切ったあの夜、イエスは弟子たちに対して、間もなく聖
霊が彼等に与えられ、彼らを導いてすべての真理を知らしめること、そして彼
らの不完全な知識の限界がやがて取去られるであろうということを教え給うた。
そ して遂 に 彼の 「挙 げられ給 ひし 日に」ルカ が先に記 したように、「かく 録さ
れたり、キリストは苦難を受けて、三日目に死人の中より甦へり、且その名に
よりて罪の赦を得さする悔改は、エルサレムより始りて、諸々の国人に宣べ伝
へらるべし」(ルカ24:46,47)と言い給い、又マルコが書いた様に「全世界を巡
りて凡ての造られしものに福音を宣べ伝へよ。信じてバプテスマを受くる者は
救はるべし、然れど信ぜぬものは罪に定めらるべし」(マルコ16:15,16)と言い
給う た 。 この 委任 命令 は私 たちが今読まんとするこ の 物 語 全 体 の 鍵 で あ り 、
そ して こ ゝに 記 され た 使徒 達 の 活動 は、こ の 命 令 の 実 現 で あ り 、 この御言の
もっともよき解説であることを、私たちは知るであろう。
3節
著者ルカはこゝで、間もなく私たちの前にあらわれて、イエスの復活の
立証を使徒達について、彼らが復活の立証をするにふさわしい資格をもってい
ることを簡潔にのべている。
1:3
イ エ ス は 苦 難を 受 け た 後 、 御 自 分が 生き てい る こ と を 、数 多 くの 証 拠を も っ
て使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
これ らの立証は 、前の物語(訳者註=ルカ福音書)の最後の章で、幾つもあげ
られているからこゝにはもう一度繰返されていない。しかし、私たちは、こゝ
に新しく、前に述べられていなかった一つの事実を知る。それは復活から昇天
までの期間が四十日であったと云うことである。この記事はともすると聖書を
否定する批評家たちからルカがあとからこしらえた思想であるとして取扱われ
る(Renan, Apostles 20; Meyer loco.)。と云うのは、最初の物語に於ては、
ルカはイエスが死人の中より甦り給うたその日に昇天された様に書いていると
考えられるからである。しかし、事実はそうではなく、ルカは前の記録の中で
イエスと弟子たちとの間に行われた復活の日に於ける会見と昇天の日の会見と
を、その間に時日の経過があった事を述べないで、つゞけて記しているのである。
- 32 -
(ルカ24:43,4-51)そして今こゝらで始めてその間に四十日の経過がたったこと
をはっきりのべているのである。従って彼の記述は説明の為であり、少しも矛
盾はない。
4、5節
使徒たちがキリストの委任を受けてから、エルサレムに留まったこ
とを説明し、又彼等がその聖業を始めるべき時期を一層正確に示すために、史
家ルカは、次に昇天の日に行われた会話の一部分を引用している。
1:4
そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、
前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5
ヨハ ネは水 で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授け
られるからである。」
多くの註解者たちは、この命令が前に二節でいわれている命令であると説明
するが誤りである。前述の命令は私達が既に知った様に、使徒委任であるのに
対し、こゝに記されている命令はその委任された御業の始まるべき時期と場所
に関する限定にすぎない。彼らがイエスより聞いていた「父の約束」とは、ユ
ダの裏切の夜、イエスが弟子たちに与えた聖霊の約束である。(ヨハネ14:26,
15:26-27, 16:12-13)又「聖霊にてバプテスマを施され」ることの意味に関し
て は、 彼 の 2:4註解 を参照 されたい。ヨハネ のバプテス マの 言及は多分、有名
なヨハネの言葉「我は水にて汝らにバプテスマを施す。されど我よりも能力あ
る者来たらむ、我はその鞋の紐を解くにも足りず。彼は聖霊と火とにて汝等に
バプテスマを施さん。」(ルカ3:16)に暗示を得られたものであろう。
2.聖霊を与えたまうことについての最期の約束(6-8)
6節
イエスの死と共に、弟子たちがこれ迄期待して来た御国を、主がこの地
上に建てたまうという望みは一時消え去った。しかし復活の後、主は弟子たち
にその御国について数々の事を教えられ、又マタイが記しているように「我は
天に ても 地 にて も一切 の権 を 与 えられたり 。」と言 われた 。従ってこの様な御
言から、当然弟子たちは、イエスが生存中に建設することの出来なかった御国
を必ずやこの復活の後にこそ建てたまうものと信じ始めていた。弟子たちが再
びこの希望を取り戻したことをルカは次の様にのべている。
1:6
さて、使徒た ちは集ま って、「主よ、イスラエ ルのた めに 国を建て直 してくだ
さるのは、この時ですか」と尋ねた。
- 33 -
この「イスラエルの国を回復し給ふ」という質問の形は、弟子たちがなおも、
キリストの御国は全く異った新しいものではなくて単なるダビデ王国の回復で
あるという誤った伝統的な観念を捨て切れなかったことを物語ると同時に、又
一方イエスの御国が明かにその時まだ創始されていなかったことを示すもので
ある。何故なら、もし主の御国がその時すでに建設されていたのならば、その
御国の地上に於ける一指導的地位にあるべき十二弟子たちが、事実について何
も知らなかったということは考えられないし、その上イエス御自身弟子たちの
この様な、ひどい誤りを、もし本当に御国がこの時既に始まっていたのなら、
すぐに正された筈である。実際、キリストの御国がこの時既に建てられていた
と説く学者も少数いるが、彼等の考えは、弟子たちが主の御国の本質について
持っていた誤った観念と同じ位誤った思想である。かゝる思想を支持する為の
色々な理屈や、この考え方に都合よく辻褄を合わせて引いた聖句の勝手な解釈
等は、なるほど一見さも尤もらしく思われる。しかしこの様な考え方は、私達
がこの御国は御国の王が、天に於いて即位の冠を受け給う迄は、決して始めら
れる筈がないという事を考える時、決定的に覆えされてしまうのである。この
戴 冠 はキ リス ト の昇 天 の 後に 起っ た ので あり (ピ リピ 2:8-11、 ヘブル 2:9)戴冠
された王の地上での最初の御業は、次にのべられる五旬節に使徒たちの上に聖
霊を下し給うた(使徒2:32-33)という事実となって現れたのである。
7、8節
1:7
先に考察して来た弟子たちの質問に対する主の御答を次に取上げよう。
イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期
は、あなたがたの知るところではない。
1:8
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレ
ムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの
証人となる。」
この答は、神の計画そのものは私たちに示されているが、その時又は期はし
ばらく隠されるという事を暗示している。これは一般に預言というものについ
て、私たちが知っている性質、即ち預言は、一定の事柄が起る日とか確かな時
期を示すよりも、むしろ起るべき事実や一連の事件そのものを多く扱うという
ことゝ全く一致する。弟子たちにとって、主の御国が建設されるのは何時かと
いうことを知るのは重大でなく、重要なことはむしろやがて御国が始まり、そ
して発展してゆく時に彼等のなす役割に必要な力を与えられるということであ
った。従ってイエスのお答も主として後者についてなされている。約束された
力と証人としての彼等の仕事とが、この様に関連していることから見ても、こ
の力は有力な証人となる為の力であることは明かである。この力は、後に彼等
- 34 -
が立証したことからも学び得る様に、単に彼等が既に見聞した事実を語るとい
うような、彼等が誰の助けもなくなし得た事だけではなくて、イエスの伝道中
彼等に語り給うたすべての教えを思い起し、主の昇天と、地上に於けるすべて
の霊的な事柄に対する主の御意志と、又未来に於て主が人々と御使たちとを審
きたもうということを立証する能力をも含むものである。この力は、主が先に
約 束し 給 うた ように (ルカ 24:49)又 、今こゝに再び保証 された ように「日なら
ずして」彼等が受ける聖霊によって授けられるべきであった。イエスが彼等に
証人となれと命じられた国々の順序は、ユダヤ人、サマリヤ人、異邦人に対す
る差別からではない。又、単にかくあるべしとの預言の成就の為でもない。そ
れはこの預言自体実に道理にかなっているのである。一般の註解者たちによっ
て示されている一つの理由は、イエスは罪人として苦難を受け給うたと同じそ
の町で、主なることを証せられなければならなかったというのである。しかし
この事についての本当の理由は次の様なものであったろう。ユダヤ人達の中最
も敬 虔 な人 々、即ち 既に ヨハ ネとイエ スの伝道に感じて正しい方向に導かれつゝ
あった人達は、この大きな祭には常にエルサレムの都に集っていた。従って教
会の始まりは、他の如何なる場所よりもエルサレムに於て大きな成功を見るべ
きであった。これ等の事実の次に考えられる事は、又ユダヤの田園地方の住民
は、以前の伝道の結果最も福音を受け入れる準備の出来ていた人々であり、次
はイエスの奇蹟をいくらか見て知っていたサマリヤ人、そして最後に異邦人と
いう順序であった。この順序の法則は、その後も伝道の道しるべとなり、異教
国に於てすら福音は「先づユダヤ人に、而して後に異邦人に」のべられた。
「エ
ルサレム、ユダヤ全国、サマリヤ、及び地の果」というこの法則が正しかった
ことは、福音の最も顕著な勝利がエルサレムに於て勝ち得られたという事実、
又異邦人の魂に近づくに最も成功したのは、何れの国に於てもユダヤの会堂で
あったという明かな事実がこれを証明している。
3.イエスの昇天(9-11)
9節
イエスと 弟子 たちと の最 期 の 会 見 の 短 か い 記 録 を、 こゝで一応結んだ
ルカは、次の様にのべる。
1:9
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆
われて彼らの目から見えなくなった。
この節はルカが先に書いた昇天の記事を補足するものであるが、私たちは前
のルカ伝の記事から、イエスはこのとき手を挙げて弟子たちを祝福し、祝福し
ながら彼らを離れて、天に挙げられた事を知る。雲がイエスの背景となって、
- 35 -
彼が弟子たちに見えている間は、その御姿をはっきりと浮き上らせ、イエスが
雲の中に入られた時、急に御姿をさえぎってしまったのであろう。この様に主
に最もふさわしいこの御出発の当時の状況から考えれば、主の昇天が欺瞞であ
ったとか、弟子たちの視覚の幻影にすぎなかったというような疑いは、どこに
もさしはさむ余地もない。或る懐疑的な学者たちは、もし昇天が実際に起った
とするならば、当然その時の目撃者の一人であった筈のマタイとヨハネが、昇
天の事実について沈黙を守っているのに反し、その時そこに居合せなかった筈
のマルコとルカがこの事を記している事は、後者がこの記事に関する知識を、
不純な方面から得た証拠であると主張している。しかしマルコとルカの証言が
信ずべきものであることは、イエスの復活を信ずる全ての人々にとっては、単
に「それではイエスの御体は復活後どうなつたのか?」という事を自問するこ
とによって自ら明かである。従ってもし、たとえ福音史家が一人も昇天につい
て記さなかったとしても、それがいつか、何らかの方法で、実際に起ったとい
うことを私達は信ぜざるを得ない。のみならず私たちは又、ヨハネが直接昇天
について述べなかったとはいえ、昇天を意味するイエスとマグダラのマリヤと
の対話を引用している事を忘れてはならない。イエスは彼女に「われに触るな。
我いまだ父の許に昇らぬ故なり」と言っておられる。マタイとヨハネがこの記
事を省いた理由は、多分彼等の書いた物語が何れも、エルサレムから遠く離れ
たガリラヤのシーンで終っているからであり、マルコとルカが之を記している
のは、多分この物語のすぐ前の部分をエルサレムで、しかも昇天の行われた当
日で終っているからであろう。こう云った事から連想すれば、いわゆる挿入説
や脱落説が容易に考えられたのであろう。最後にルカについて言うならば、彼
がこの事実を記録しなければならない特別の理由があった。それは彼が今から
こゝに書こうとしている物語や議論は常に天に昇って栄光を受けられたキリス
トと関連を持つからであり、彼の緒論が昇天の事実を語るのは当然である。
10、11節
以下の物語の中では、イエスの昇天のみならず、未来の審判に
於けるイエスの再臨が目立った話題となっている為、ルカは前の記録に記さな
かったもう一つの事実を紹介している。
1:10
イエ ス が 離れ去って 行 かれ る とき、彼 ら は天を見つ め ていた。 す る と、白い
服を着た二人の人がそばに立って、
1:11
言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがた
から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ
有様で、またおいでになる。」
この「白き衣を着たる二人の人」がこゝに突然現れた事、その姿、それにこ
- 36 -
の二人の言った言葉を考え合せれば、私たちが容易に信じ得る様に、この二人
の人は天使であったろう。彼等の言葉は単にイエスが再び来り給うということ
ばかりでなく、その来り給う時の有様が、弟子たちが今イエスの昇天を見送っ
ている時と同じであること、即ちキリストが私たちの眼に見えるさまで、身体
をもって来り給うのであるという事を語っている。
4.エルサレムに於ける待機(12-14)
12節
二人の天使にたしなめられた弟子たちは、雲の中を見つめていた眼を
放し、そしてその場を去った。
1:12
使 徒た ち は 、 「 オ リー ブ 畑 」 と 呼ば れ る 山 か ら エ ル サレ ムに 戻 っ て来 た 。 こ
の山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
イエ ス の昇天 は 、エ ル サレム から 二 哩程(ヨハネ 11:18)の場所 にあるベタニ
ヤ(ル カ 2:50)の近 く、 多分 オリ ブ山 の東の斜面 で行われ た。「安息日 の道程」
或は 7/8哩の 距離はこの 山の市 に近い方の 側、或は頂上まで にあたる。又私た
ちは、ルカの前に書いた物語から、弟子たちが「大なる歓喜をもて」(ルカ24:
52)エル サ レムに帰った 事を 知る。主 との別離の悲 しみは、再び主にまみ える
事を思う時、今や大いなる歓喜に変ったのである。
13節
1:13
彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペト
ロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイ
の子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
こゝに十一人の使徒たちの名がもう一度新しくあげられている事は丁度主か
ら委任を受けた人々がこの時、一人のこらず自分達の持場について御業を始め
るべく、全く準備を整え、只上より与えられる約束の力を待っていた時である
から、この節がこゝに書かれているという事は、本当にふさわしい。
14 節
これ らの 人 々は来 るべき聖霊を待っている十日 ① の間 を、どの様にし
て過ごしていたであろうか。……その様子は、私たちが容易に想像する通りで
あった。
① 過 越 の 週 の 「 安 息 日 の 翌 日 」 か ら 五 旬 節 ま で は 五 十 日 (レ ビ 23:15-16)で あ り 、 昇 天 の
日迄に、すでに四十日が経過していた。
- 37 -
1:14
彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わ
せて熱心に祈っていた。
弟子たちが集ってこの祈りをなした場所は、主として「その留りをる高楼」
でなく宮の中であった。というのは、私たちはルカの前の物語から、彼等が「常
に宮にありて神を讃めゐたり」(ルカ24:53)ということを知るからである。
新約聖書中の歴史に、イエスの母が現われるのはこの節が最期である。彼女
が故郷のナザレに帰って住まずに、弟子たちと共にエルサレムに帰り、彼らと
共に留まったという事実は、ヨハネがイエスの息絶え給う時の御依頼を忠実に
守り 、 事 実彼 自身の 母が 未 だ生き ていた (マタイ 27:56)に もかゝ わらず 、マリ
ヤを自分の母として親切にお世話していた事を示すものである。こゝにマリヤ
の名が目立ってあ げられていることは、勿論彼女が主イエスの母として使徒達
から尊敬を受けていた事を表すが、一方ルカが彼女について記している書き方
は、後世の偶像崇拝的な教会が、マリヤに対してはらって来た極度の崇拝の念
を、ルカが持っていなかった事を示している。この礼拝に加わっていた人たち
の中で、こゝに「女たち」と呼ばれているこれらの人々は、イエスと一緒にガ
リラヤから来た婦人たちであり、ルカが彼女たちの名をあらためて紹介してい
ないのは、多分テオピロの様に前の著作を既に読んだ人々には、周知の事実で
あ った か らであ ろう。これ らの 婦人たち もやはり ガリラ ヤの故 郷(ルカ 23:49)
から都に帰って、十一使徒達と共に「父の約束」の実現をまっていたのである。
イエスの兄弟達がこの仲間に加わっていたという事実は、神の子であった彼ら
の兄弟イエスがガリラヤに於ける伝道の御業を終えて以来、彼等の心の上に、
何か大きな変化があった事を物語る証拠である。何故なら、これらの主の兄弟
たち は 、 ガ リ ラ ヤ 当 時 には イエ ス を 信 じ な か っ た が (ヨ ハ ネ 7:1-5)今 は 信じ 、
こゝに使徒たちと一緒に弟子としてあげられているからである。この様な心の
変化がどういう風にして起ったか、又それはいつ起ったかについては、私たち
はそれをたしかめる何らの資料も持っていない。
5.ユダの後任者選ばる
15-19節
1:15
(15-26)
次に起った出来事は、次の様な言葉で記されている。
そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一
つになっていた。
1:16
「兄弟 た ち、イ エス を捕らえた 者たち の手引きをした あの ユダに ついては、
聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければな
らなかったのです。
- 38 -
1:17
ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
1:18
ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地
面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
1:19
こ の こ とは エ ル サレ ム に 住 む す べ て の 人に 知れ 渡 り、 そ の 土 地 は彼 ら の 言
葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
集まりて群をなせる兄弟が、百二十名であったという事は、決して当時イエ
スの弟子の数がそれだけであったと解釈すべきではなく、むしろその時その場
所に集っていた弟子の数が百二十名であったということなのである。何故なら、
パウロはイエスが 復活後、五 百 人 以 上 の 兄 弟 た ち に 同 時 に 現 れ た ま う た 事
(コリント前書15:6)を述べている。この百二十人の人達は、多分この時エルサ
レムに住んでいた弟子達全部であろう。
ユダの末路を物語るカッコの中の言は、疑いもなくルカの言葉である。この
節は前の節とあまりにも深く関連しているので、時として同じ人の言葉だと考
えられる事がある。
し か しこ の節がルカ 自身 の言葉であ ると云う事 の出来る証拠は、「彼等 の国
語」 (訳 者 註: 日本 改 訳聖 書 では「国 語 」と いう表 現 から 来る。 もし ペ テロが
言ったの なら「我等の国語」と言った筈であろう。そして又ヘブル語のアケル
ダマという言葉をわざわざギリシヤ語に翻訳している事からみても、もしペテ
ロならば、ヘブル人の聴衆に対する演説の中でその様な事をする必要はなかっ
た筈で ある。カ ッ コ が こ ゝ に 入 れ ら れて い る の は 、ルカがこの書の読者に、
ユダについてのペテロの言葉を、一層理解しやすくする為にしたのであろう。
何故なら、この事はペテロの聴衆にとってはカッコ内の説明抜きでも充分理解
出来たのに反し、ルカの書を読む読者たちには、それ程理解し易くなかったか
らである。
しかし、このカッコ内の記事が こ の 明 か な 目 的 を 充 分 は た して い る 一 方 、
この節はユダに関するマ タ イ の 記 録 と 次 の 三 つ の 点 で 一 見 矛 盾 す る 様 に 見
え る 。 そ れ は 先 ず 第 一 に ル カ が 、 彼 は 俯 伏 せ に 墜 ちて 真 中 よ り 裂 け た と記 し
ているのに反し、マタイは彼が自ら縊れたりと言い、第二にルカがこの人はか
の不義の価をもて地所を得、と言っているのに対し、マタイは祭司長等がその
金でこの畠を買ったと書いて居り、又第三に、ルカがこのアケルダマという地
名をユダがこゝに落ちて裂けたという事から取っているのに対して、マタイは
この 土 地が イエスの価 に(マタイ27:3-8)よって買われたという事実 で説明 して
いるからである。
- 39 -
先ず第一の点に関しては、二つの記事は完全に一致する。何故なら、もしユ
ダが 自 ら 縊 れ た の な らば 、 彼の死体は人の手によって取り降されるか、 それ とも
落ちるかのどちらかであり、ルカは彼が落ちたと云っている。そしてもし彼の
死体が落ちて裂けたのならば、かなりの高さから落ちたか、或は彼の臓腑は既
に幾分腐敗していたにちがいない。事実はそのどちらかであったろう。
彼が自ら縊れて遂に落ちる迄、そこにぶら下っていたと考えれば、この二つ
の条件をみたし、更に彼が真中より裂けたという事実をも説明する事が出来る。
更に又、私たちがこのほかの仮説に基いてユダが落ちて裂け散ったという事を
説明しようとしてもそれはとても難しい。この様に、二つの記事は全く一致す
るのみ ならず 、ルカ の記事 はマタイの記した事実によって裏書きされているの
である。
第二の点について言うならば、もしユダが、マタイの記した様に例の金を返
し、そしてその金で祭司長等が、陶工の畑を買ったのであるから、その地所は
当然ユダの物であり、彼の子孫達が要求してよいものである。何故なら、その
地所は、ユダの所有に属する金で買われたものであるから。従ってユダが不義
の価をもて地所を得たという事も真実である。
第三に、もしこの地所がイエスの血の価を以て買われたものであると同時に、
又こ の地 所にユダが落 ちて 裂け散 ったのならば、アケルダマ(血の地所)という
名前はどちらの事実からもとれることになり、むしろ両方からとったものであ
ると考える事が出来る。私たちに想像出来る事は、多分この土地は始めに陶工
たちが陶土を取る 為掘り返して土地として殆ど価値を失っていたのを、その上
に加えて、この土地で首を吊って死んだ反逆者ユダの臓腑があちこちに散らば
って非常に気味の悪い場所になっていた為、土地の所有者も安い値段で喜んで
売渡す 気になり、 祭司長 達も銀三十という(今で言えば 米価約十六ドル)という
法外な安値でこれを買う事が出来たのであろう。小さな墓場に充分な広さで、
しかもこれだけの安い値段で手に入れることの出来る土地はエルサレムの城壁
附近にはほかに見つからなかった筈である。この地所はその後、岩に掘った墓
を作る事の出来ぬ貧しい旅人を葬る場所となり、ユダヤ人であれ、異邦人であ
れ、貧しい人は皆この地に葬られた。
20節 史家はこゝで一度カッコで途切れたペテロの演説を再びつゞける。即
ち先きにのべた部分に於てペテロは、これから実行しようとしている事が、ダ
ビデによってなされた預言に基くものである事を先ず宣言し、この聖句を応用
す る根 拠 として 、 ユダがかつて彼等の中に数えられ「この務に与っていた」 事 ①
を明かにした。次に彼は問題の預言の聖句を引用する。
- 40 -
1:20
詩 編に は こう 書 いてあります 。 『その 住まいは荒れ果てよ、そ こ に住む者は
いなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
①R・V(英国改訂訳)に offic e(職)と訳され、A・V(英国欽定訳)に bishoprick(監督職)と
訳 さ れて い る 。 ἐ π ι σ κ ο π ὴ ν と い う 語 は 、 (訳 者 註 、 邦 訳 で は 「 職 」 と な って い る )七
十人訳ギリシ ヤ語聖書か らとったもの で、そ の 厳 密 な 語 源 学 的 意 味 は 、overseership
(監督するものゝ職)である。私達はこの言葉の出典である詩篇の中で、果してどの様な
overseership が意味されているかは、文脈からは知る由もないが、しかし詩篇作者時代
には、 現代 の英語 で云 ふ bishoprick(監督職)とい う言葉のも っている様 な意味が、 この
言 葉 に な か っ た 事 だ け は た し かで あ る 。 何 故 な ら そ の 様 な 職 は 、 当 時 存 在 し な か っ た の
であるから。この様に
ἐπισκοπὴν
と い う 言 葉 の はっ き り し た 元 の 意 味 を 知 る 事 の
出来ない私達にとっては、この言葉がその出典である詩篇の中に於て offic e(職)と訳され
ている以上 、「職」と 訳するのが最 も妥当な訳 語であろう。なお新 約聖書中に於けるこの
語の用法について更に深く知りたい方は、22:28註を参照されよ。
右 の 二つの 聖句は 、夫々 前者は詩篇 69:25、後者は同109:8に見られる が、
これらは何れも原文の文脈から見て、特にユダについて言っているのでないこ
とがわかる。これらの言葉は一連の詛いの言葉の中に出て来るのであるが、ペ
テロはこれは決して単なるダビデの言葉ではなくて、聖霊がダビデの口を通し
て、語り給うたのであると、はっきり言っている。この言葉は勿論、神の僕を
迫害する全ての悪人一般について言われたものであるけれども、果して一般に
この様な悪人の住処がすべて荒れ果て、彼等の職が全て他の人に得されるなら
ば、主を売ったユダの場合にもそうであることは、火を見るよりも明かである。
従ってこの言葉は、多くの悪人の中の一人であるユダについても言われている
と解して何ら差支えはない筈である。ペテロはこの言葉が一般に罪人への詛い
を意味している事を、私達以上によく知っていたに違いない。
21、22節
私達がこゝで忘れてならない事は、ペテロが今論じている問題
は、一人の使徒を新しく任命する事ではなくて、一人の後任者の選定であった
ということである。従ってその選定にあたっての必要 条件としてペテロが述べ
ている資格は、およそ使徒の後継者たらんと望む人は誰でも持っていなければ
ならない絶対的なものである。この事をペテロは次の文章で語っている。
1:21/22 そ こ で、主イ エス がわた したち と共 に生活されていた間、つまり、ヨハネ
の洗 礼 のときか ら始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一
緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になる
べきです。」
- 41 -
新約聖書の中には、使徒の後任者を選んだという例はこれ以外にないから、
使徒後継者の選任という問題に関しては、この聖句のみが聖書的な規準である。
それ故に私達はこの時以来、使徒達の後継者なりと自称して来た人々は、主が
自ら親しく伝道していられた時代に主と生活を共にした人達でないならば、当
然この根本的な資格を欠いていると結論しなければならない。何故使徒として
の資格を、この様に始めから使徒達と行動を共にした人だけに限定したかとい
う理由について言うならば、それは明かにこの様な人で、しかも主の復活を見
た人でなければ、イエスが真に神の子であるという事を、他の使徒達と同じ位
完全に証明する事 が 出 来 な か っ た か ら で あ る 。 こ の 様 な理由からペテロは、
パ ウ ロ が コ リ ン ト 前 書 (9:1)で 言 っ た 様に 、 イエ スの 復活 の目 撃者 と いう 事を
使徒たるべき第一の資格としたのである。
23-26節
1:23
そ こ で 人 々 は、 バ ル サ バと 呼ば れ 、 ユス ト とも い う ヨセ フと 、マ テ ィ アの 二
人を立てて、
1:24
次 の よう に祈 った。 「す べての 人の心をご存 じで ある 主よ、こ の 二人 のうち
のどちらをお選びになったかを、お示しください。
1:25
ユダが自分 の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任
務を継がせるためです。」
1:26
二 人のこ とでくじを引くと、マティアに当たった ので 、こ の人が十一人の使
徒の仲間に加えられることになった。
こゝで私達は、弟子たちが自分達でマッテヤを選ばなかったという事に注意
しなければならない。即ち彼等は、まず二人の候補者を推薦し、この二人の中
いずれを主が選び給うたかを示し給えと祈った後に籤を引き、その籤の当った
人を主が選び給うたと解したのである。この事は彼等がクジと言う様な最も偶
然なものの様に思われる方法の中にも、重大な事を決定したまう神の摂理の働
きを信じていたと云う事を示している。彼等が主の選びを何故この二人に限定
した か に ついては、 (ペテロによっ)てあげられた資格に全部あてはまる 人物が
明かにこの時二人しかなかったのであろう。この場合に弟子達のなした祈りは、
私達にとっては、こう言った事柄をきめるに当っての模範である。祈った人々
は主の前に求める事をたった一つ持ち、しかもこの求めをはっきりと正しく言
い現している。彼等は自分達の思いを繰返し述べたり、修飾を加えたりしなか
った。彼等がこう云った霊的かつ智的な有資格者を祈り求めるに当って、主に
対して
καρδιογνῶστα
即ちすべての人々の心を知り給う者よと呼びかけ
た事は、正に意味深い事である。しかも彼等は決して「何れを選び給わんとす
- 42 -
るかを」示し給えとも又「何れを選び給うかを」示し給えとも祈らず「何れを
選び給えるかを示したまへ」 ① と祈ったのである。
①訳者註、邦訳は「孰れを選び給うか」であるが、英訳は A・V, R・V, A・S, R・S,
G・ S, 20C すべて現在完了形を用い、主が既に選び給うているという信仰をあらわして
いる。ルター訳、独語聖書も同じ、ギリシャ語原典では
ἐξελέξω
-
ἐ ξ ε λ έ γω
(選ぶ)の 1. Aor, Mid, 2, Sing.
又、主がみたし給わん事を求めたその職を彼等は「ユダが、己が所に行く為
に、 そこ から落 ちた務 と使徒職」(訳者註=直訳)とい う言葉で表現 している。
ユダはその職に値もなかった事を自ら暴露したのであり、彼等は彼が「己が所」
即ち偽善者が死後に行くべき所へ行ったのだと結論する事を躊躇しなかった。
今日の様に人間がすべての点に於いて口達者な時代に於てはこう云う重大な問
題に関して短かい素朴な祈りは、或は全然、祈りとして認められないかも知れ
ない。そしてもし、この弟子達の様に、はっきりと死者の滅ぶべき運命を云い
表すならば、私達は実にあわれみのない者とみなされるであろう。しかし今日
罪 人と して 死んだ 人 の運命 につ いて、 彼は、「己 が所」に行 ったこ とをほのめ
かすだけの勇気のある人がどれだけいるだろうか?
さてこの事件が、使徒達が聖霊をうける以前に起った事から、又ペテロがこ
の選任の権威的根拠としたのが、イエスの御命令ではなく詩篇の聖句であった
という事、しかもその引用が、或る学者達から適切でないとされている様な事
から、或る人々は、この選任が全く権威のないものであり、従ってマッテヤは
真の 使 徒 でな いと す る 。 しか し「 彼は 十一 の 使徒 に 加 えら れたり 」 (訳 者註:
彼は 十 一 人の 使徒 と 一緒 に数 えら れた - 直 訳 )とい う ルカ の言葉 は、 明 かに十
二使徒達が聖霊を受けてから遙か後日に記されたものであるから、この言葉は、
彼等の最期的な判断を表すものである。更に又この時以後、使徒達の一団を云
い表すのに、もはや「十一人」と云う言葉は使われず、「十二人」(使徒2:14、
6:2)と いう言葉によって置きかえられている事から見ても、この選任の時以来
マッテヤが十二人の一人とされて来た事は明かである。又ペテロがイエスの権
威を引用しなかったと云うのも、決して彼等がこの選任に於てイエスの権威を
もたなかったという事を証明するものではない。私達の知るかぎりに於いては、
或はこの事は、イエスが復活後四十日の間、神の国の事を語り給うた中に含ま
れていたかも知れないからペテロがこの事を省いたのは、多分弟子達がこの事
に関するイエスの御言葉はよく知っていたに反し、之を裏書する預言について
は何 ら の 知識 を持 た な か っ た からで あ ろう 。最期に十二人の使徒達が十二の座
位に坐して、イスラエルの十二の部族を審くであろうというイエスの約束は(マタ
イ19:28)ユダの空席が消される事を必要とした。そしてこの御言葉も、或はこの
- 43 -
時以前にペテロによって語られた事があった為に、今は省略されたのであろう。
後にパウロが使徒職に任ぜられた事は、異邦人に対する特別な使徒職であった。
著者はこゝでその序説を完結する。ルカの以上の記事に於て、まずこの物語
が昇天の日に与えられた主の命令に始まる事、又その日に使徒達は間もなく施
される聖霊のバプテスマを確約された事、この聖霊が彼等にイエスを証する完
全な力を与えるであろう事、彼等がイエスの天に昇られるのを見守ったこと、
そしてその天から約束の聖霊が下される事、又最初からの十一人の使徒たちが
イエスの昇天後一人残らず自らの持場にあって約束の実現を待っていた事、そ
して彼等が反逆者ユダの空席をこの職に適した後任者を以ってみたした事を述
べ来った。使徒達の準備は全くととのった。そして次の部分の物語は待ちに待
った聖霊の降臨に始まる。
第二項
エルサレムの教会設立される(2:1-47)
1.使徒達、聖霊に充たされる(1-4)
1-4節
著者はいよいよこの本の本文に入って、約束の聖霊の降臨を記す。
2:1
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2
突 然 、 激し い風 が 吹 いて 来る よう な 音 が 天か ら 聞こ え 、 彼ら が 座っ ていた 家
中に響いた。
2:3
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ ① 、一人一人の上にとどまった。
2:4
する と、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉
で話しだした。
五旬節という日は過越週の安息日から五十日目の日である。そしてこの日数
の計算は、安息日の翌日から数えられたから計算の終りもやはり同じ日、即ち
今の日曜日 ② にあたる。
①直訳『火の如き、わかれた舌があらわれた』。
②この点に関して、一般の註解者は、ヨセフスに従って五十日目は「除酵節の第二日、即
ち 月 の 十 五 日 」 (ヨ セ フ ス 古 代 史 Ⅲ .10:5)か ら 数 えら れ た と して い る が、 誤 り で あ る 。 も
しこれが正しいならば五十日の最初の日、従って当然最後の日も週のどの曜日にも当り得
るわけである。しかし律法中の規定の条項は次の通りである。即ち「汝等安息日の翌日
より、即ち汝等が揺祭の束を携へ来たりし日より数えて、安息日の数をもてその数を盈す
べし。即ち第七の安息日の翌日迄に日数五十を数え終り、新 素 祭 を エ ホ バ に 捧 ぐべ し 。」
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(レビ23:15,16)この言葉を誤って解する事はむしろむずかしい。何故なら、既に最初の節
に於て「安息日の翌日より」という言葉を「除酵祭の第一日の翌日より」と無理に解す
る事は出来たとしても、この文の以下の部分を考える時に、この様な文の構成はなりたゝな
い。 そ れ は 日 数 の 計 算 が 「 第 七 の 安 息 日 の 翌 日 迄 で あ り 、 こ の 安 息 は 明 か に 週 の 安 息 日
をさすものとみられるから、五十日目が週の安息日の翌日ならば、第一日目も当然安息
日の翌日ではないか!
こ の 事 は 更 に 又 、 揺 祭 の 束 を 供 え る 日 に つ いての 律 法 の 条 項 か
らも証明される。即ち「彼、その束の受け入れらるゝ様に之をエホバの前に揺べし、即
ち そ の 安 息 日 の 翌 日 に 祭 司 こ れ を 揺 べ し 。」 (レ ビ 23:11)一 方 、 除 酵 祭 の 第 一 日 は 「 何 の
職業をも」なしてはならない事になっていたが、安息日とは呼ばれていない。以上の事に
ついてのヨセフスの信憑性について私は次の事を忘れてはならないと思う。それはヨセフ
スは自分は祭司の家柄の出であると云っている。けれども、彼自身は決して聖別された祭
司 で あ っ た わ け で は な く 、 ま た 彼 が 有 名 な 古 代 史 を 書 い た の は 、 エ ル サ レム の 宮 が 破 壊
されて、一切の儀式がすたれてしまってから永年の後の事であったから、彼がこの問題に
ついての知識を得たのは全く旧約聖書からである。そしてこの旧約聖書を読むにしても、
彼はなんら現代の聖書学者達以上の知識を持ち合せていなかった。この外にもヨセフス
は多くの箇所で聖書の解釈を誤っている。
過越の安息日とこの日の間に七週間の期間があった事から、この日はまた旧
約 聖書 の 中 で「 七週の 節筵 」(申命16:10)とも 呼ばれ 、この間に小麦の刈入れ
が あ っ た 事 か ら 「 穡 時 の 節 筵 (か り い れ どき の い わ い )」 (出エ ジ プ ト 23:16)と
もよ ば れ、 又この祭 に特別 な献物を供える 事から 「初穂の節筵 」(レビ23:1521)と も 呼 ば れてい た 。しか しアレ キサンダー大帝 のアジ ヤ征服 の結果 、パレ
スタインにギリシャ語が普及してからは、この日が過越の安息日から五十日目
にあたる事の意味をとって、五旬節(第五十の)という名で知られる様になった。
この日にはモーセ律法の儀式規定にもとづいてその年の小麦の初穂を表す二個
のパン(民数28:26-31)が捧げ物としてさゝげられた。この祭は毎年全てのユダ
ヤ人の男子が都に上らなければならない三大祭日の一であった。この三つの中
の一つの祭の間にイエスが十字架につけられ、その次の祭が、イエスの福音の
宣言と地上の神の国の創始の為に選ばれたという事も実に意義深い事である。
又この日はイエスが死から復活された日である事から考えても教会創設の日とし
てふさわしい日ではないか。
さて 、こう してこ こに集っていて聖霊によって充された人々は、多くの人々
が想像しているように、前章十五節の百二十名ではなく十二使徒達である。此
の事はこの章の最初の節と、前章の最後の節を結びつけて、そのつづき具合を
文法的に調べてみるとはっきりする。一章と二章とをつないで読んでみよう。
「かくて籤せしに、籤はマッテヤに当りたれば、彼は十一の使徒に加えられた
り。五旬節の日となり彼等皆一処に集ひ居りしに……」 ① 。
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①早くは教父クリソストモスを始め、最近の多くの註解者達は、五旬節に聖霊を受けた
人達の中には、前述の百二十名全部が含まれていたと想像して居り、又現代の進んだ学説
は(アルフォ ー ドの 前掲 著 書参 照 )又 、 祭 に 都 に 上 って い た イ エ ス の 弟 子 全 部 が含 まれて
いたとしているが、何れも聖書の本文に全然あてはまらない。このような考え方の唯一の
根拠と して は 、「我 々が霊を 凡ての 人に注がん。 汝等の子女 は預言し、汝 等の若者は 幻影
を見、汝等の老人は夢を見るべし。」というヨエル書の預言がいつも引用される。
し か し こ の 聖 句 を 一 読 してみ る な ら ば 、 こ れ ら の 言 葉 が こ の 場 合 全 部 成 就 し た わ け で
な い 事 が わ か る で あ ろう 。 聖 霊 降 臨 の 際 、 そ こ に 居 合 せ た 人 の 中 、 実 際 こ の と き 幻 影 を
見た人もなければ、夢を見た人もない。ここに行われた事は、この預言成就のほんの始
まりにすぎず、預言はその後もヨエルの言った通り全部成就される迄つづいたのである。
聖霊降臨の時、使徒達の座していた家は、決して彼等が住んでいた二階部屋
(高楼 )では なく宮の一部分であった。何故ならルカの前の著作の中で、使徒達
が聖霊の降臨を待っている間「常に宮にありて神を讃めゐたり」という事を私
達は知る。即ち彼等は宮が開かれている時間は、常に宮にいたのである。二階
部屋は彼等の下宿であった ① 。
①ア ルフ ォー ド はこ の結 論 に反 対 して 次 の様 に 言って い る 。「もし 集ってい た場所 が、 宮
の一室か宮それ自体であったならば、ルカは決して『家全体に充ち』(直訳)と言うような
言葉を何ら説明なしに使わなかったろう」と。(又、マイヤー参照)しかし、これに充分な
説明は、使徒達が「常に宮に在り」という記事であげられているし、又一方アルフォード
氏 は 、 こ の 記 事 は こ の 場 合 こ こ に あて は ま ら な い と 主 張 し な が ら 、 な ぜ あて は ま ら な い
か 、 そ の 確 定 的 な 理 由 を あ げ て い な い 。 従 って 私 達 は ル カ 伝 の 記 事 が こ の 場 合 当 て は ま
り得る。そして事実あてはまろうと主張するのである。第一、普通の家の小さな二階部屋
では、この現象を目撃しただけの人々の群を収容する事は出来なかった筈である。これ
に反し、宮の庭の一廓ならば、一方が広い庭全体に向って開いているから、この場合に全
く適していた。
使徒達の頭上に現れた、火の如き分れた眼に見える舌は、耳に聞える舌、即
ち彼等が直ぐに語り始めた外国の言語を象徴する。(訳者註=舌、国語、言語、
異言 等は 、原語のギリシャ語、及 び英語では何れも同じで ある。 γ λ ώ σ σ α ,
tongue)火の如 き舌が現れた事は 、その時の光景を一層立派な輝かしいものと
し、 集って 来た群集の 注意を奪っ た。この舌が「彼等に現れ」(直訳 )たと いう
一句は、決してこの火の如き舌の目撃者を十二人だけに限るわけではないが、
この句は、始めにこの現象が起った時、その場には十二使徒達だけしかいなか
った事を示すものである。
- 46 -
使徒達が聖霊によって充され、御霊の宣べしむるままに語り始めた時、聖霊
のバプテスマの約束と、いと高き所より与えられる能力の約束を成就された。
そして偉大なる能力が使徒達の心に作用し、彼等がまだ嘗て習った事のない言
語を語ったという事実によって聖霊の臨在が外に示された。即ち人間の心の中
に起された奇蹟が外部に現れた五感に訴える奇蹟によって人々に示されたので
ある 。『これ 言ふも のは 汝等にあらず、 その中 にありて言ひ給ふ 汝等の 父の霊
なり』というお約束は、全く文字通りに成就されたのである。何故なら彼等が
語っ た 言 葉 ① の一語 一語 はそ の時その 場で 聖霊 によって与えられたので あるか
ら。彼等如何にして、或は何を言おうと思い煩いもしなければ、又あらかじめ
言うべき事を考えておいたわけでもなかった。言うべき事は、文字通り、言う
瞬間に神から与えられたのである。このような能力はこの時迄は未だ嘗て人間
に与えられた事はなかった。それは聖霊の中に浸されるバプテスマであった。
しかし 聖霊のバプテスマと言っても、決してヨハネの水に浸す バプテスマのよ
うに体に受けたのではなく、霊に受けたのである。勿論、霊が霊の中に浸され
るというような関係は、はっきりと説明する事が出来ないから、従って聖霊の
バ プテス マ は文字 通 りの バプテスマ(浸礼)ではなく 、 バプテス マという 言葉が
ここ では 比喩的 に用いられるの である。私達が水の中にバプテスマ(浸)される
時、私達の身体は水面下に沈み、全く水に呑まれてしまう。それと同様にこの
場合、使徒達の霊は全く聖霊の支配の下に置かれ、彼等の語る言葉迄が、すで
に彼等自身のものでなく聖霊のものであったのである。神の霊が彼等の霊を支
配した絶対的なこの力を考える時、以上の比喩の正しい事がわかる。私達がバ
プテスマの時受ける聖霊が普通私達に及ぼす影響は又自ら以上の場合と事情を
異にする。従ってこれは聖 霊 の 中 に 浸 さ れ る バ プ テ ス マ と は 呼 ば れ な い 。
(更に詳細に関しては10:44-46、聖霊のバプテスマに関する説明参照)
①この箇所で著者ルカの云わんとする意味については、アルフォード氏が強調している次
の言葉を全面的に受け入れたい。即ち『この記事が私達に示す所は、弟子達が種々の外
国 語 で 語 り 始 め た 事 、 即 ち 以 下 に 挙 げら れて い る 各 国 語 で 語 り 始 め た 事 で あ る と い う 事
は 、 どん な 偏 見 を 持 っ た 人 に も 明 瞭 で あ る 。 又 彼 等 が 語 っ た 国 語 の 中 に は 或 い は こ ゝ に
あげられていない外の国の言葉も含まれていたかも知れない。弟子達が異国の言葉を語っ
た と い う 事 を 否 定 し よ う と す る 意 見 は 、 すべ て 聖 書 本 文 の こ じつ け か 、 さ も な け れ ば 弁
護 の 余 地 も な い あ やふや な 説 明 で あ る 。』 し か し マイヤ ー 氏 (同 氏 註 解 書参 照 )の 様 に 『 著
者ルカがここ で云おうと している事 は、弟子達が 外国語で語 った事である 。』と云う事を
認 めて い な が ら 『 し か し 何 も 知 ら な い 人 が 、 突 然 外 国 語 を 話 す 能 力 を 与 えら れ る と い う
様 な 事 は 論 理 的 に 不 可 能 な 事 で あ る ば か り で な く 、 心 理 学 上 に も 、 又 実 際 上 に も 考 えら
れ な い 』 等 と 結 論 す る の は 、 単 に ル カ の 信 憑 性 を 疑 い 、 ル カ の 記 録 し た 奇 蹟 を 全 部 くつ
が えそ う と す る の み な らず 、 根 本 的 に 聖 霊 が こ の 様 に 奇 蹟 的 に 人 間 の 心 に 働 き 得 る と い
- 47 -
う事を否定してしまう事になる。これが真に神の奇蹟である事を否定して説明し去ろうと
す る 前 後 転 倒 し た 数 々 の 説 に つ いて 知 り た い 読 者 が あ る な ら ば 、 マイ ヤ ー 氏 註 解 書 中 、
この節の註を読まれるがよい。
2.群衆に与えた効果(5-13)
5-13節
奇蹟的に霊感を受けた一団の人々が、直ちにその霊感を人々の前
に示し得る方法を、もし私達が一考してみるならば、明かに、この場合にとら
れた方法--即ち未知の国語で神の偉大なる業を明瞭に語るという事--以外
の方法を考えることは出来ないだろう。この事はこゝに記されている奇蹟が、
実に時宜を得たふさわしい奇蹟であった事を示すばかりでなく、又その御言を
聞いた人々が直ちに確信に至ることが出来る為にもこの奇蹟が必要であった事
を示している。この様な救果はこれらの国語を知っている人々がそこにいた場
合に始めて役立つのだが、こ の 場 合 に は 全 く そ う い う 条 件 が 備 わ って い た 。
この事について著者は次の様に書いている。
2:5
さ て、エル サレムには 天下の あらゆ る国 から帰って来た、信心深いユダヤ人
が住んでいたが、
2:6
こ の 物音 に大勢 の 人が 集 まって来た。 そ して、だ れもか れも、 自分 の 故郷の
言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人で
はないか。
2:8
どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9
わた し た ち の 中に は、 パ ル ティ ア、 メ ディ ア、 エ ラ ムか ら の 者がお り、 また 、
メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10
フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者
もいる。また、ロマから来て滞在中の者、
2:11
ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者も
いるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12
人 々は皆驚き、 とまどい、「いったい、こ れはどう いう こ となの か」と互いに
言った。
2:13
しか し、「あの 人 たち は、新しいぶ どう 酒 に酔っているの だ 」と言って、あざ
ける者もいた。
これらのユダヤ人達の話した自国語は、以下にあげられている彼等の生れた
国々の国語であった。しかし彼等の全部、或は殆ど全部は両親から母国ユダヤ
の方言を教えられていた。それが当時のユダヤ人の習慣だったのである。それ
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故彼等は使徒達によってこゝに語られた各国語を解し、それが実際に奇蹟であ
る事を知る事が出来たのである。この様な奇蹟は何人も未だ嘗て見た事のない
偉大な奇蹟であり、著者はこの奇蹟が聴衆に与えた効果を描写するに当って、
様々 の 表 現の言葉を 惜しま ない。ルカ は云う-- 「彼等 聴きて騒ぎ合い 」「か
つ驚 き」「怪しみて」「驚き惑いて」又彼等は互に言い合った。「これ何事ぞ」
「これ 何事ぞ」(これは何を意味する のか)という問は、彼等が考える余裕を取
りもどした時に先ず発した質問であった。この質問は彼等がこの奇蹟的性質を
認めたが、それが一体何の意味であるか、言い換えれば何の目的でこの奇蹟が
行われたかはっきり知る事が出来なかった事を現す。しかも彼等は、語ってい
る人がガリラヤ人であるという事実の外は何も知らなかった。しかしこの疑問
こそは、この奇蹟が彼等の心の中に呼び起そうとした効果そのものであり、次
に記 さ れる ぺテロの 説教 は、この疑問 に対するよ き答である 。『彼等は 甘き葡
萄酒にて満されたり』と嘲った人たちは、多分使徒達の語った多くの国語の中
一つしか理解出来ず、あとは全部たわ言と解釈して不敬な言辞を発したか、或
はなお一層不敬虔な人々であって、他の人達が驚きに充たされているにもかゝ
わらず、敢て使徒達を嘲弄したのであろう。ペテロは以下の説教の中で当然こ
れらの人々の嘲りを取上げていましめている。
3.ペテロの説教(14-40)
緒論
奇蹟の説明 (14-21)
14-21節
2:14
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤ
の方 々 、ま たエ ルサレムに 住 むすべ ての人た ち、知っていただ きた いことが ありま
す。わたしの言葉に耳を傾けてください。
2:15
今は 朝の 九時 で すか ら 、こ の 人 たち は 、あ な た が た が 考 え て い る よ う に 、
酒に酔っているのではありません。
2:16
そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
2:17
『神は言われる。終 わりの時に、わ た し の 霊 を す べ て の 人 に 注 ぐ 。すると、
あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
2:18
わた しの 僕やはしため にも、 そ の と き に は 、 わ た し の 霊 を 注 ぐ ① 。す ると、
彼らは預言する。
2:19
上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる
煙が、それだ。
- 49 -
2:20
2:21
主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
① こ の 「 注 ぐ 」 と い う 語 の 用 法 に つ いて 、 古 来 バ プテス マ 論 争 史 上 に 種 々 の 解 釈 が な さ れ
て 来 た け れ ど も 、 こ れ ら の 考 え 方 は いず れも 強 い 党 派 競 争 の 見 本 (一 例 、 ア レ キ サンダー 前
掲 書 、 使 徒 行 伝 の 部)で あ って 、 何 れも こ の 問 題 を論 議 す る 人 々 の 無 分別 性 を 現 して い る に
すぎない。大体この「注ぐ」という言葉は聖霊が使徒たちに降った様の比喩的表現であって、
この文字通りに「注がれる」ことが即ちバプテスマなのではない。聖霊が遣られた事と、聖
霊のバプテスマとは全く異った概念である。従って聖霊が使徒たちの上に「注ぐ」様に降っ
たからと言って、決してこれが聖霊のバプテスマの意味に関係があると考えてはならない。
更にまたバプテスマと言う語のこの個所に於ける用法を考えて見れば、それが又、比喩的に
用いられている事を知るであろう。この言葉は、実は聖霊が弟子たちの中に入ってから彼等
に及ぼ した力を現している。これに対し一方「注ぐ」(εκχεω)という言葉はキリストが
天より聖霊を遣り給う行為そのものを形容しているのである。
この嘲弄の言葉はごく一部の人が言っただけであったが、ペテロはそれを聞
い た 時 に あ た か も そ れ が 聴 衆 全 体 の 感 情 を 現 して い る か の 様 に 取 上 げ て 答 え
た。こうする事によってぺテロはこれらの野次馬と個人的に論戦する事を避け
得たし、又一方事実を真面目に考えていた人達は、これらの不敬虔な人達に対
して一層不快の感をしたであろう。勿論ぺテロの答弁は、彼等一部の人の非難
を完全に論破するものではない。人間は朝でも昼でも酒に酔ふことが出来る。
しかし朝の九時頃からもう酒に酔っているという様な事はそうあるものではな
い。以下の説教は彼等のこの非難の誤りを示す強い根拠である。ぺテロが引用
したヨエル書の聖句の最初の部分は『これ何事ぞ』と言う群衆の問に対する決
定的な答である。もしぺテロが彼と他の使徒達が異言を語った事実を自分達の
特異な能力によるとして説明したとしても聴衆はそれを受け入れなかったであ
ろう。この様な奇蹟をなし得るものは神の力以外には無いと云う事は、聴衆自
身がよく知っていた。従ってぺテロが、これは神の霊の力であると説いた時、
彼等は初めてペテロの言っている事が正しい事を知り、ぺテロの引用した預言
が目の前で実現したのを見た時、彼等は初めて此の奇蹟が既に遠い昔より神に
予定されていたのだという事を知ったのである。彼等は又此の預言の中には今
自 分 達 が 目 撃 して い る 事 実 よ り も 遙 か に 多 く の 事 が 含 ま れて い る 事 を も 知 っ
た。何故なら此のヨエルの預言は、今彼等の前にいる人だけでなく、すべての
人(原 語 :すべての肉)に聖霊 が注がれて、 その結果人 々は男も女も預言し幻影
を見、夢を見るであろうという事を約束するからである。これらの中、最初の
聖霊が注がれると言う事実以外の預言は未だどれも成就されていなかったが、
以下の事柄も後に次々に実現され、ルカによって此の書に記録された。
『すべての人』
は明らかに地球上の人間全部ではなく、すべての国に属する人の意である。
- 50 -
引用されたヨエル書の聖句の後半分、特に十九、二十節はぺテロの論旨に何
ら関係ないのであって、これがこゝに引用されたのは、ぺテロの論旨に必要聖
句の前後の関係を示す為であったろう。こゝで言われている『大いなる顕著し
き日』はいろいろに理解されてきた。ある人はこれはエルサレムの滅亡を指す
と云い、或る人は審判の日の事であると云い、又これは五旬節その日であると
主張する人さえあるくらいである。しかしこの日に関連して『すべて主の御名
を呼び頼む者は救はれん』と云う約束がなされている事実から考えるならば、
この『大いなる顕著しき日』は審判の日らしく思われる。それはこの日の恐ろ
しさだけは、主の御名を、呼び頼まなければ逃がれる事は出来ぬからである。
しかし私達はこの聖句から単に主の御名を呼び頼むと云ふ行為だけで救われる
と解釈してはならない。主への信仰と服従の伴わない祈りは如何なる祈りとい
えども皆無駄である。
こゝまでぺテロの説教は、専ら彼と他の使徒達が霊感を受けているという事
を証明する事だけに集中されて来た。これは次に語られる事の準備として必要
であった。何故なら、この事が証明され始めて、聴集はイエスについてぺテロ
の説く所を完全に信頼して受け入れる事が出来たからである。もしぺテロがこ
ゝの 所で この説教を終 っていたな らば、彼ら(群衆 の中の思慮 深い人達)は今霊
感を受けた人の言葉を聞いているのだという事は確信したであろう。しかし彼
等はイエスについて、又イエスによる救いについては、彼等がそのとき知って
いた以上の何らの智識を得る事も出来なかったであろう。しかし、今やぺテロ
の説教の緒論が終った。人々の心はこの説教の主題を受け入れる準備が整った。
ペテロが今、切り出そうとする主題の提言からくらべれば、これ迄に彼が語っ
た事はほんの緒論にすぎないのである。
Ⅱ.イエスをキリストとして、主として宣言する (22-36)
(a)イエス復活の宣言 (22-24)
ぺテロのなした次の演説が聴衆の心に如何なる効果を生ぜしめたかは、この
様に時と場所を隔てた私達にとって、知る事はむずかしい。
22-24節
2:22
イ スラエル の人 たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエ
スこそ 、神から遣わされた方 です。 神は、イ エスを通してあなた がたの間 で行われ
た奇 跡と、不思 議な 業と、しるし ① とに よって、そ のこ とをあな たがたに 証明 なさい
- 51 -
ました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
2:23
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、
あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たち ② の手を
借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
2:24
しかし、神はこのイエスを死の苦しみ ③ から解放して、復活させられました。
イエ ス が 死に支 配 され たままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
①『奇跡』(
δ ύ ν α μ ε ι ς )、『不思議な業』(τ έ ρ α τ α )、『しるし』(σημεία )と云う三
つの言葉はいずれも全然同じ御業を表現したのである。即ちイエスの奇跡はすべて神の直
接の能力の働きであったが故に『能力ある業であり、それを目撃した人々を驚異させた
が故に『不思議な業』(訳者註、驚ろくべき事-直訳)であり、再び又、イエスの教え給う
た教えを神自ら之れをお認めになったしるしとなったが故に『しるし』なのである。
②R.V.欄外に示されている様にこの言葉の原語
ἄνομοι
は、こゝでは律法を犯した人
々の 意 味 で は な く む しろ 律 法 の 下 に な き もの 、 例 え ば Ⅰ コ リ ント 9:21の 異邦 人 の様 な 人
を意味する。
③「死の苦難を解きて」
τὰς ὠδῖνας τοῦ θανάτου
と云う表現においては、こ
ゝ で 云 わ れて い る 死 の 苦 痛 と は 、 人 間 が 死 ぬ とそ の 死 ん だ 人 は そ の 死 と い う も の の 中 か
ら、誰かの手によって解放されない限りは、永遠に死の暗黒の中に閉じ込められていると
云う意味で、死の束縛監禁をさしている。従って死の苦難もそこからの解放も何れも象徴
的に用いられているのであって、決してペテロはイエスが死んだ後に、何らかの形で苦痛
を受け給うたと云う様な事を意味したのではない。 但 し 反 対 の 見 解 に つ いて は 、 ア ルフ ォ ー ド
氏及びマイヤー氏を見られよ。
神の御霊の業が人々の目に見え、耳に聞える現象となって現れたのを見て、
既に驚き怪しみに充たされた群衆は、こゝに今この驚くべき全現象が、実は彼
等が軽蔑して十字架につけたナザレ人イエスの名による事を知った。この確信
は次々に恐しい現実となって彼等の心に迫り、彼等の心は何者かによって激し
く打ちのめされるかの様に、よろめき、良心の苛責にきりきりしめつけられる
のであった。一瞬彼等はイエスが自分達の間に行った驚くべき奇蹟と徴とを思
い出した。そしてこの御業がことごとく事実である事を熟知していたが故に、
なお一層心を責められた。しかもイエスが彼等の手に付されたのは、イエスが
無能力だったからではなく、神の予定の目的によるものである事を知らされた。
彼等はこのイエスが、永久に死に繋がれているべき人でない故に、神が自ら彼
を死人の中より復活させ給うたと云う、世にも大胆な説教を聞いたのである。
人間の舌は未だかつてこの様な聞くも恐ろしい重大事実を、しかもこの様な短
かい時間の中に誤った事はなかった。世界中のあらゆる演説家の演説、いかな
- 52 -
る詩人の詩の中にも、果してこの驚くべき説教に比肩するものが一つとしてあ
るであろうか!イスラエルの全ての預言者の繰返す絶叫の中にも、又黙示録を
通じて 響きわたる ヨハネの声の中にも 、こ の 様 な 霹 靂 を 聞 く 事 は 出 来 な い 。
この説教こそは復活して栄光を受け給うた贖い主イエス・キリストを世界に紹
介した最初の爆弾宜言であった。
(b)ダビデによって預言されたキリストの復活(25-31)
25-28節
22-24節中に宣言されている事実の中、二つは証明を必要とする。
他の一つは証明を要しない。即ちイエスが奇蹟によって既に神から証せられて
いた事、又彼が無法のロマ人の手によって死刑に処せられた事は、聴衆に周知
の事実であった。しかしイエスが神の予定の御旨によって彼等の手に渡された
と云う事は、彼等には耳新しい事であった。しかもそのイエスを神が死人の中
より 復 活させ 給うた と云 う様な事は彼らには全 く 信 ぜ ら れ な い 事 で あ る 。従
ってこれら後の二つの事実は証明されなければならない。ペテロはこれらの事
実を合法的に、しかも決定的に証明しようとした。彼は先ず、ダビデが第一人
称を用いて自分自身を意味しているかの様に語りながら、実は明かに或る人が
死より蘇えるべき事を預言している聖句をこゝに引用している。
2:25
ダビデは、イエスについてこう言っています ① 。『わたしは、いつも目の前に
主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
2:26
だから、わたしの 心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きる
であろう。
2:27
あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果て
るままにしておかれない。
2:28
あなたは、命 に至る 道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜 びで満たして
くださる。』
① ペ テ ロ が こ ゝ に 引 用 して い る 詩 篇 第 16篇 を ダ ビデ が 書 い た 事 を 否 定し よ う と す る 人 も
あるが、これはペテロが霊感によって語っている事を否定するものであり、ひいては聖霊
が ペ テ ロ を 始 め 他 の 使 徒 たち に 働 い た と い う 前 述 の 歴 史 的 事 実 を も 否 定 す る 事 に な る 。
上の引用の中、ぺテロが今証明せんとする目的に適応するものは復活に関す
る部分 であり、それに先行する部分(25、26節)はこの聖句を導く関係上引
用さ れて いる の である 。『 汝わが 霊魂 を黄泉に棄 て置かず』 という言葉は、霊
魂が肉体を離れた状態から復帰することを明言し、同時に『汝の聖者の朽果つ
ることを許し給はざればなり』という言葉は、腐敗の萌す前に、霊魂の復帰に
- 53 -
よって肉体が復活させられるということを確信する。次に加えられた『汝は生
命の道を我に示し給へり、御顔の前にて我に歓喜を満し給はん』という言葉は、
第一にこの問題に関する知識が、死の前に神より与えられたことを示し、第二
に、死人の中より甦えらせられて神の顔を見る人の喜びについてのべている。
この聖句が、その肉体の腐敗するに先立って死より甦える人があることを預言
しているということは、誰も否定することが出来ない。ぺテロと聴衆との間の
唯一の問題は、ダビデはそれでは一体誰について言っているのかということで
あった。こゝでダビデが第一人称を用い、従って一見自分について語っている
かのように見えるため、ペテロは彼の論旨をはっきりさせる為には、ダビデが
実は自分以外の或る人を指して言っていること、そしてその人こそキリストで
あるということを証明しなければならなかった。
29-31節
2:29
兄 弟た ち 、先祖 ダ ビデ につ いては 、彼は死 んで 葬ら れ、そ の墓は今でも わ
たしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30
ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着か
せると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
2:31
そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府 ① に捨てておかれ
ず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。
①Hades(黄 泉、 陰府)とい う言 葉は、 もと もとギ リシ ャ語 (
ᾅδης )であ って 、英語 には こ
の 語 の 意 味 を 正 確 に あ ら わす 単 語 が な い た め 、 そ の ま ゝ 音 訳 さ れ た も の で あ る 。 こ の 言
葉は
α
という否定接頭語と「見る」という意味の
ιδειν
とからなり、文字通りに訳
すれば『見えざるもの』である。しかし当時一般には、肉体を離れた人間の霊魂が住む
見えざる世界という意味に限ってのみ用いられていた。私たちはこの言葉がこの意味であ
ることを他の面から証明することは出来ないが、以下にのべられるペテロの説明はこの
事を明かにしている。ペテロによるならば、イエスの死体が墓の中に横たわっている間、
αιδης )にあったのであり、又イエスが死んで行く強盗の一人に話さ
れた御言によるならば、その場所はパラダイス( π α ρ α δ ε ι σ ο ς ) で あ っ た こ と を 知 る
イエスの霊魂は黄泉(
(ル カ23:43)。し か らば 義し き人に とっては 黄泉 は楽園 であ ること を、 この ことは 示して
いるではないか。
ダビデがキリストについて預言する時には常に必ず第一人称で語るというこ
とは、ユダヤ人にとっては周知の事実であり、又今日詩篇の預言を註釈する人
たちのすべ て知っているとこ ろである。従ってどんな場合でも、もしダビデが
- 54 -
自分について言っているのではないことが明白な時には、彼はキリストについ
て語っているということが私たちの結論である。このダビデの預言は、ペテロ
が今証明しようとしている事実、即ちキリストはまず神の定め給いし御旨と予
め知り給うところとによって苦難を受けて死に、直ちにまた死人の中より復活
すべきであるという事を立証する強い根拠となった。のみならず、この預言は
また、キリストはこの地上の世界を支配するという彼らの誤った観念を訂正し、
キリストがダビデの位に座するのは、その御生存中ではなくて、その復活後で
あることを示したのである。
(c)
32節
イエスの復活、十二使徒たちにより証明される
こゝまでのところ、ぺテロの議論はキリストが死に付されることと、
その死人の中より甦えって天の座位に坐したまうべきことを立証した。しかし
彼は更に進んで、これらのことがイエスに於てことごとく事実となったことを
証明しなければならない。彼はこの事実の証明を、彼自身、及び今彼と共に立
つ十二人の使徒によって立証した。
2:32
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人
です。
こゝで私たちに考えられることは、多分ぺテロが主張した内容は実にこの一
点につきたであろうこと、そしてこの事を立証せんが為に彼は更に細目にまで
論じつくしたであろうことである。さてこれらの証人たちは、個人的には何れ
も群衆によく知られていなかったから、もし彼らが単なる人間としてこの事を
立証したのならば、聴衆に対して何らの効果を与えることも出来なかったであ
ろう。しかし彼らは霊感を受けた者として、人々の前に語った。このことは、
ユダヤ的教育を受けた人々に対して、その語るところが誤りなく真理であると
いうことを充分に保証した。従ってこの立証によって確立された事実は、既に
詩篇より学び得た事実と関連して、イエスが死して甦ったごとく、キリストは
死して甦えるべきであるということから、疑もなくこのイエスこそキリストで
あるということを証明するものである。少くとも思慮ある聴衆にはそう解され
た筈である。
(d)イエスが神の御座に挙げられたこと(33-35)
33節 キリストはこのように挙げられて、ダビデの座位に坐るべきであった
という結論を裏付けるために、ぺテロはイエスの復活後の御足どりをたどって、
事実イエスが宝位に挙げられたということを示す必要があった。
- 55 -
2:33
そ れで 、イ エ スは 神の 右 に上げら れ、約束された聖霊を御父 から受けて注
いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
彼の証拠は、決してこの使徒行伝の最初の章にのべられた事実、即ち彼と彼
の同輩たちとがイエスの天に昇られるのを目撃したという事実にあるのではな
い。この事実は今イエスの昇天、戴冠を証明するにはそれほど役に立たない。
何故なら彼らの眼は、遂にイエスを受けて見えざらしめた雲より向うを見るこ
とが出来なかったからである。たゞこのことを証明する唯一の根拠は、ぺテロ
の聴衆 たち今が実際に自分たちの眼 と 耳 で 見 聞 して い る と こ ろ の 事 物 、 即 ち
ぺテロとその同輩たちとが、焔の舌がその頭上に臨む間に、聖霊が語らしめる
まゝに語りつゝあるという事実であった。ぺテロは、イエスが既に神の右に挙
げられたと言うにあたって、実に彼自身も、また他の如何なる人間も決して知
り得ない真理を、聖霊の黙示によって語った。しかしこの聖霊の直接の啓示が
今彼らの眼に見え、耳に聞える形となって顕された以上、こゝに示された証拠
が聖霊御自身の立証、とりも直さず、イエスが既に挙げられた所のその天から
降ったものの立証であることは明白である。この証拠はユダヤ人の中、健全な
理解力をもった人ならば疑いもしなかった筈である。
34、35節
さてこゝで、これ以上イエスが天に挙げられた証拠をあげなく
ても、今イエスに関して証明された事柄が、すべてキリストに関して既に預言
されていたという、もう一つの要要な点が確証されたならば、この世界無比の
偉大な議論は完結される。
2:34
ダビデは ① 天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わた
しの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。
2:35
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
①この詩篇第110篇をペテロがダビデの作としてこゝに引用したのは、全く聖霊の黙示に
よるのであって、これはイエスの場合にもそうであった。イエスはかつてこの聖句を引用
し 給 う た 時 、 ペ テ ロ と 同 じ よ う に こ れ が ダ ビデ の 作 で あ る と さ れ 、 し か も ダ ビデ は こ の
詩を『御霊に感じて』(マタイ22:43,44)語ったのであると、パリサイ人たちにお話しにな
っ た 。 ダ ビデ が こ の 詩 の 作 者 で あ る と い う こ と の 明 確 な 証 拠 は 、 イエ ス と ペ テ ロ が 、 単
に当時一般に行われていた誤った説に、そのまゝ従って言われたのだ等と、簡単に否定し
去られるべき性質のものでは決してない。それはイエスもぺテロも、ダビデがその作者で
あることをはっきりと示しており、もしこれが真実でないならば、イエスとペテロとの立
証 を 偽 り と す る こ と に な る か らで あ る 。 又 私 たち は こ れ を イエ ス 或 は ペ テ ロ の 誤 り と み
なすことも出来ない。なぜなら、そうすることによって、イエスもぺテロもこのことに関
して 無 智 で あ っ た と い う 前 提 の も と に 、 彼 ら が 間 違 っ た 推 論 を な し た と 非 難 す る こ と に
- 56 -
な る か らで あ る 。 そ れ は と り も 直 さ ず 、 イエ ス の 超 人 的 な 知 識 を 否 定 し 、 同 時 にぺ テ ロ
が霊感を受けていたことを否定することである。
パリサイ人たち自身、ダビデがこの聖句の中でキリストを指し示していると
いうことは認めなければならなかったが、この事実を認めることによって、い
まさらのように、かつてイエスと交わしたあの忘れられない会話を思い出し、
それにつけても自ら甚だ困惑した(マタイ22:43,44)。しかしぺテロは何らこの
以前の会話をこゝに持出さずに、前に復活の証明の時にしたように、ダビデか
ら引用して、ダビデ自身は天に昇ったことはない。従って彼はこの詩の言葉を
自分について語ったのではないことをのべて、この聖句の適用を論証した。こ
のことを認めるならば、この場合ダビデがキリストを指して言っているという
ことは、自ずから明かである。これは他の場合に於ても同じである。なぜなら、
ダビデはキリスト以外に誰をも我が主と呼んだことはないからである。
(e)論理的結論(36)
36節
今やペテロは、その説教の冒頭でのべた事の中、証明を要する二つの
事実、即ち第一にイエスは神の定め給いし御旨と予め知り給う所とによって敵
の手にわたされ給うたこと、第二に神は彼を死人の中より甦えらせ給うたこと
を、争う余地のない証拠によって確定し、次に進んで、神は更にこのイエスを
挙げて、天において己の右に坐らしめ給うたということを証明した後、こゝに
次のような大胆な、驚くべき言葉でその結論をのべた。
2:36
だ か ら 、 イ ス ラ エ ル の 全 家は 、 は っ きり 知ら な く ては な り ま せ ん 。 あな た が
たが十字架 につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
神は、イエスを自らの座位に坐らせて、天使と人とを治めることによって、
彼を立てて主となし給い、又その御約束に従ってイエスをダビデの王位に坐ら
せることによって、彼をキリストとなし給うたのである。このイエスの座位は、
事実全世界統御の位であったが故に神の座位であり、一方イエスを正統なる王
となら しめたのは (訳者註=ユダヤ人の律法的観念から みて)ダビデの正しい血
統にあったが故に、この座位は又ダビデの王位でもあった。
Ⅲ.人々自らを救うよう勧告される(37-40)
37節
以上観察したように、聖霊のバプテスマが既におこり、その顕れた結
果が、まわりの人々に目撃されていたにもかかわらず、ぺテロが立って、聴衆
- 57 -
に向って演説を始める時までは、人々の心の中には、イエスに関する思想の変
化は何ら起っていなかったし、彼らはたゞ驚き騒ぐ以外には、何の感動をも受
けなかった。彼らの心の中に、始めてキリストに対する考えの変化が起ったの
は、ぺテロの言葉を聞いてからであった。この変化を起した力、即ち聖霊のバ
プテスマに存する力はぺテロが今語った言葉にこめられて、人々の心を動かし
たのである。その結果は次の言葉となってあらわれている。
2:37
人 々はこれを聞 いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟
たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
この叫びは、彼らがぺテロの説教の内容を信じたことを暗示する。そして彼
らが『心を刺され』たという記述は、また彼らが深く悔恨したことを示してい
る。この悔恨の心こそは、実に今彼らが信じた所の事実が、彼らの心の中に呼
びさまそうとした効果であった。彼らの理性と感情の上には、ぺテロが語り始
めて以来、大きな変化がおこっていた。そして彼らは今、イエスがキリストで
あることを信じ、そのイエスを自分たちが殺害したのだという事実を考える時
に、深く心を刺されざるを得なかったのである。ルカは、この心の変化は全く、
彼ら が 福 音を聞いた ことに よ るものと 断言する。『人々これ を聞きて心 を刺さ
れ』この言葉はそのまゝパウロの教えを例証する。曰く『斯く信仰は聞くによ
り、聞くはキリストの言による。』(ロマ10:14-17参照)
38節
『我ら何をなすべきか』というこの質問は、これらの罪人たちが、そ
の罪の結果から免がれる道があるということを前提とする。勿論人間がすべて
罪から救われるというような観念は、未だ彼らの心に萌すべくもなかったろう
が、とにかくこのはげしい質問の内容は、この救われるために『我ら何をなす
べきか』という言葉の中にこめられている。この重大な質問が人間の口をつい
て出たのはキリスト支配下の時代に於て、この時が始めてであり、それに対し
て明確な答が与えられたのも、この時が始めてであった。これに先立つ如何な
る時代(dispensation)、又全世界の歴史中、これに先立つ如何なる日に、神が
人間に対して『救われるために何をなすべきか』について与えられた解答が如
何なるものであったにせよ、ぺテロがキリスト支配時代の第一日、即ち五旬節
に人々に与えたこの答は、以後のすべての時代を通じて、すべてこの種の質問
に対する、真実かつ永久不変の解答となったのである。
2:38
すると、ペトロは彼らに言った。「悔改なさい ① 。めいめい、イエス・キリスト
の名によって洗礼を受け、罪を赦して ② いただきなさい。そうすれば、賜物として聖
霊を受けます。
- 58 -
① これらの人々が、今聞いた真理の言を通じて働く聖霊の力によって『心を刺さ れ 』『 兄 弟
た ち よ 、 我 ら 何 を な す べ き か 』 と 叫 ぶ ほ ど 、自己の罪を強く意識した後に、しかもなお
『悔改よ』と命じられたという事実は、悔改ということが、単に罪に対する憂い悲しみ
だ け で は な く 、 更 に こ の 憂 い に 伴 って お こ る べ き 心 の 変 化 で あ る こ と を 示 す 。 更 に 詳 し
い悔改の定義に関しては3:19註解を見られよ。
②バプテスマと罪の赦しとの関係については巻末附録参照。
さて『我ら何をなすべきか』というこの質問に対する答の中で、彼らは二つ
のことをなすべく命ぜられたということを注意しなければならない。即ち先ず
第一に 悔改ること 、そして第二に、イエス・キリストの名によってバプテスマ
されることである。従ってたとえペテロがこゝでその答を打切っていたとして
も、人々は直ちになすべき自分たちの義務を知ることが出来たであろうし、又
私たちも、人が自らの罪を意識してそのために心刺された時に直ちになすべき
ことは、悔改てバプテスマを受けることなるを知るであろう。このことは勿論
今日の私たち自身にとっても、罪から救われるために当然なすべきことである。
しかしぺテロはその説教を、この二つの命令だけで終ってしまわなかった。彼
は更に、人々がこの二つの命令に服従する時に、それに伴って神より与えられ
る恩 恵 を はっきり と つ け 加えた 。こう して人々 は、『罪の 赦を得んため に』バ
プテスマを受けよと命ぜられたのである。このことは、右に説明した人々の質
問とぺテロの答とを結びつけて考えれば、自から明かになることであるが、ぺ
テロはこゝで、ことさらにこの事をつけ加えた。このように、罪の赦しはバプ
テスマの前に与えられるものではな く、バプテスマに 伴うものである。従って
バプテスマを受けた人には必ず罪の赦しが与えられると結論して誤りはない。
R.V.に おいて は『 罪の 赦しへと 』(unto the remission of sins)と訳されて
いるが、この場合も正しく解釈すると、私たちがもし『罪の赦しへと』(unto)
バプテスマされるな らば、赦しはバプテスマに伴い、バプテスマは私たちを罪
の赦しへともたらすわけであるから、"unto the remission of sins"という訳
においても、同じことが言えるわけである。
罪の赦し(英語では remission of sins, forgiveness of sins, pardon いず
れも同じ意味をあらわす)ということば、人間がどんな幸福な状態にあっても、
求めてやまないものである。神の支配に反逆する人間は、たとえその武器を捨
てて神の忠実な臣下になったとしても、もし過去の罪を神に赦されることがな
ければ、そこには何の希望もありえない。又たとえその人の過去の罪が神に赦
された後も、常に神の前にへり下って神に仕える生活をしようと努力する時は
必ず、なおも自分の中に存する弱さによって罪を犯すことを知って苦しむもの
であり、その人が真に何度も悔改、何度も赦されなければ、最後のむくいの冠
- 59 -
を受けることが出来ない。この故に、罪の赦という問題は、自から二つに分け
て考えられるべきものである。即ち一つは未だ過去の罪を神に赦されたことの
ない罪人の場合であり、いま一つは救われた聖徒が更に罪を犯した場合である。
今こゝでぺテロに対して質問を投げかけたのは前者に属する人々であり、その
答も当然前者だけに当はまるものである。
悔改とバプテスマという条件によって約束される第二の恩恵は『聖霊の賜物』
である。この聖霊の賜物は、決してこの五旬節の日に使徒たちに与えられたよ
うな、奇蹟を行う能力の賜物をさすのではない。何故なら、私たちは以後の歴
史において、このような賜物は、悔改てバプテスマを受けた人全部に与えられ
たのではなく、幾つかの教会の、しかもその中でも数人かの特に卓越した兄弟
たち にだ け、与 えられ たと いう ことを 知るからである 。『聖霊 の賜物』という
この表現は、こゝでは賜物としての聖霊を意味する。 ①
①訳 者註 、 英語 の 文法 を 知って いら っ しゃ る 読者 には
"the gift of delicious cakes"
という言葉が、友人からおくられたおいしいお菓子の意味であることは説明するまでも
なか ろう。 同 様 に "the gift of the Holy Spirit"は、 神 より 賜 物と して与 えら れた 聖 霊
の意味なのであって、聖霊が人に与える能力という意味での聖霊の賜物(Ⅰコリント12:111参照)とは自 ずから意味 を異にする。便宜上英文を用いて説明したが、ギリシャ語文法
においても同じことがいえる。
このことは即ち、御霊の果を生ずる聖霊の内在について言っているのであり、
この聖霊の内在なくしては、私たちはキリストのものでありえない。この約束
について、ぺテロは更に説教を続けて、次のように語っている。
39節
2:39
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての
人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与え
られているものなのです。」
この約束は、悔改とバプテスマという条件の下に約束される、条件つきの約
束で あ るか ら、こゝにいう「子ら」とは(訳者註=子供たちという意味ではなく)
悔改めてバプテスマ を受ける人々に外ならない。従ってこの約束が「子ら」と
いう言葉から、幼児にも与えられているものと解することは誤りである。更に
又こ の 約 束は主が召 し給 う者(呼び給う者)にかゝ っている。そして 主が 召し給
う(呼び給う)のは、主の御言を聞いて信ずる能力のあ る者だけで ある。ところ
- 60 -
で私たちは次のことに注意しておくべきであろう。それは、現代の私たちには、
この約束が世界中のすべての民族をふくむということは、この時以後の神の啓
示の光によって解する時は、明瞭すぎる位明瞭であるが、この時のぺテロや他
の使徒たちにとっては、異邦人がこの約束に与り得るのは、たゞ彼らがユダヤ
人と同じように割礼を受けて、改宗者となる場合にのみかぎられる、と解され
ていたということである。このような例は、他の多くの霊感を受けた人々の中
にもあった。彼らは、聖霊によって与えられた言葉を語りながら、その言葉の
真の意味を解することが出来なかったのである。
40節
ぺテロの説教の記録を閉じるにあたって、ルカはこの記事が説教のほ
んの概要を記したのみに止ることを暗示している。
2:40
ペトロは、このほか にもいろ いろ話をして、力強 く証しをし、「邪悪なこの時
代から救われなさい」と勧めていた。
『 証 し』 という言葉 は 説教の本論的 部分をさし 、『勧め』は奨励 、招致 の部
分をさしているようである。そして後の部分、即ち『勧め』の部分は、当然罪
の赦しの条件に続いて語られたものであり、その内容は『この曲れる世より救
ひ出されよ』(原語:『自らを救い出せ』 ① )という言葉につきる。彼らは先にの
べられた赦罪の条件に服従することによって、自らを救い出すべきであった。
それは罪よりの救いは、罪の赦しを得なければ得られないからである。
①『
μ ε τ ά ν ο ι α とバプテスマにより、曲れる世代から自らを切りはなすことによって、
この (今 生 存して い る、 悪の 時 代か ら 救い 出 され よ 』(Meyer)。 又 Alford は『自 らを 救
い出す』ということに反対して次のように論じている。
『こゝにのべられた使徒の命令は、
A.V.に誤って「自らを救え」(save yourselves)と訳されている。しかしこの言葉の本当
の意味は全く 受身であって「我らを して汝らを 救わしめよ」 (let us save you)又は「神
をして我らによりて汝らを救わしめよ」(let God by us save you)と訳すべきである。』
しかし、これらの立派な学者諸氏が、夫々この勧めの言葉の中から、彼らの主張の根
拠を引出そうとして、必死の努力をしておられるにもかゝわらず、これらの試みは何れも、
そ の 論 拠 の 弱 点 を 暴 露 して い る 。抑 々 こ の 言 葉 の 原 語 は 命 令 法 の
σώθητε
であり、
『救われよ』と受身の命令(或は再帰的命令)を意味する時は、命ぜられた人が自分自身を
救う行為を必要とする。従って英訳聖書の『汝ら自身を救え』(save yourselves)という
訳は正しい。
しかもこの『汝ら自身を救い出せ』という言葉が、前述の二条件と関連して
いることは、あまりにも明白であって、誤解の余地さえない。このぺテロの勧
めの言葉がもし本当に正しく理解されていたならば、近代のリヴァイヴァル信
- 61 -
者たちのしばしば口にする考え、すなわち罪人は自分自身を救い出すために、
何をもなすことが出来ないという考えを、防ぐことが出来たであろう。勿論罪
人は、この救いを自分自身の力で獲得したり、自ら神の救いに値するような人
間となったり、又自分の罪を自分で赦すというようなことは、何もなすことは
出来ないけれども、既にキリストによって罪人のために得られ、そして提供さ
れている神の救いを受入れる方法として定められていることは、自分で実行し
なければならない。こういう意味で、人は自らを救うのであると言える。この
世(世 代)より救い出されるというこ とは、言うま でもなく、永遠の世界におい
てこの世代を待っている恐しい滅びから救出されることであり、それはあたか
も、沈没して行く船から救われて、その恐ろしい運命を免れるようなものである。
もし読者が、このぺテロの演説を、それが説教として計画されたことを考え
に入れながら、その推論の過程を注意して読まれるならば、ぺテロが現代の進
んだ説教学に熟達していたかと思わせる位この説教が説教学の諸法則に合致し
ており、又その論理は、始めから終わりまで完全無欠であることを発見するで
あろう。これは決してぺテロがこういった教育、訓練を受けていた結果ではな
い。彼はこのような立派な即席演説をするに足るだけの教育を、未だ嘗て受け
たことがなかったからである。このぺテロの優れた演説は、実に『われ汝らに、
凡て逆らふ者の言ひ逆ひ消すことをなし得ざる、口と智慧とを与ふべければな
り』 (ル カ 21:15)と い ふキリス トの 約束に よって 、 彼に与 えら れ た聖霊 の導き
に帰せられなければならない。
4.説教の効果と教会の発展(41-47)
4 1節
ぺ テロ の説教 に深 く心 を刺されて、『兄弟 たち よ、我ら何をなすべき
か』と絶叫した聴衆は、今 罪 の 赦 し の 条 件 が あ ま り に も 容 易 な の を 知 って 、
かつ驚き、かつ喜んだ。そして一刻の猶予もおかず、彼らはこの御言に服従する
ことを行動にあらわした。
2:41
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間
に加わった。
彼らはぺテロの説いた御言を、真理と信じた時、それをそのまゝ受入れて、
実践の規準としたのである。
三千人という大勢の人々が、この日の残りの時間の間に、エルサレムにおい
て使 用 出来 るだけ の水量を用いて、バプテスマを受けた(水に浸され た)という
- 62 -
ようなことは有り得ないとして、古来多くの人々によって論義がなされ、この
事は否定されて来た。たしかにこの市の附近には、バプテスマの目的に適する
ような川は現在一つも存在せず、また嘗て存在しなかった。しかし、イエスの
生れ給う久しき以前から、この市の用水は幾つかの人工の池によって補給され
ていたのであり、この池の水を用いるならば、三千人の浸礼は難なく出来たこ
とが証明される。今日に於ても、これらの池の中で現在その形を留めている一
つの池だけでも、充分三千人をバプテスマする目的に使用する事が出来、事実、
今日宣教 師たちによってバプテスマに使用されているのである。この池は所謂
シロアムの池であって、エルサレム神殿の石垣のすぐ南の谷にある。池は長さ
15.24メートル、幅平均約5メートルあり、池のふちは、石で築かれた高さ5.5
メートルの壁で囲まれている。池の南東の隅には、この石垣のさほど高くない
あ たり か ら一幅 1.2メー トル の石段があって 、池の底 に まで 達している。水は
断えず湧き出る『処女の池』という池より、地下の水道を通って、この池の北
端から流れ入り、反対側の南の端から、二つの穴を通って池の外に流れ出ている。
一つ の 穴は 池の底にあ り 、他の一つの穴 は地底 より1メートル上に 穿たれてい
る。底の穴は普段は閉されているが、この時には池の水は、丁度バプテスマを
行うに最も都合のよい深さにたゝえられる。
ヨッパ門の真西800メートルにある上ギホンと呼ばれるもう一つの池は、今日
シロアムの池についで、バプテスマには最も適当な場所とされている。この池
は長さ96メートル、幅66メートル深さは平均6.7メートルあり、池は地表の疎
水によって充されていたが、今日では水の充されることは殆ど稀である。池の
四隅には広い階段があって、池の底に下っている。池は今日荒廃に帰している
けれども、水が適度の深さにたゝえられる時には、五旬節の日にパブテスマを
受けただけの多数の人を、この池の水に浸すことが出来る。
しかしエルサレムにあるすべての古代の池の中で最も適当なものは、今日欧
洲人に下ギホンと呼ばれ、土地の人々にはその大きさのために『サルタンの池』
(訳 者註 :サル タンは マホメ ット教 の君主 、又トル コ皇帝)と呼ばれてい る池で
あろう。この池はシオン山の西の壁の真下に横たわる谷を横切る。巨大なダム
の建設によって出来たものである。このダムはこの谷の水をせき止め、又谷底
から180メートルの高さにある池の一つの壁は、その 一端の地を支えている。
池のふちと底とは、ちょうど棚のようになった谷の岩で出来ており、特に池の
エ ルサ レム市に 近い 方 のふち に は、厚さ60 センチメー トルな いし 1メートル
の 出 張 っ た 岩 の 棚 が 、 数 ヶ 所 に お いて 、 2.4メ ー トル か ら 3メ ー トル の 幅 で 水
上に露出している。従って、水が深いときにも浅いときにも、これらの岩棚の
上で、バプテスマを受ける人たちが、多数立つことが出来たから、十二使徒た
- 63 -
ちよりはるかに多数の弟子たちがこの棚の上に立っても、別にお互いに邪魔に
ならないで、同時に多数の人をバプテスマすることが出来た筈である。この池
の水をせき止めているダムの低い方のものは、その表面10センチメートル程
の厚さの漆喰でかためられてあるが、今日では漆喰は甚しくいたんでしまって
いるため、水はその割目からどんどん流れ出し、従って池は乾燥期には全く空
になる。しかし嘗てこのダムが充分水をたゝえることの出来た時代には、およ
そ浸礼を行うのに慣れた人ならば、エルサレム市の近辺ではは、バプテスマを
するのに、この池以外の場所へ行く気にはならないであろう。事実これより適
当な浸礼池は、殆ど他に発見することは出来ない。このように、古代エルサレ
ムにおけるバプテスマを行い得る便利な場所が、現代の多くの学者たちによっ
て踏査され、記録されているということからも、三千人の浸礼に対する反対論
を持ち出すというようなことは、少くとも知識人の許さぬ所である。
ま た こ の よ う に 多 数 の 人 たち に バ プテス マ を 施 すべ き 時 間 の 問 題 に 関 して
も、少くとも数学的計算を行い得る人ならば、充分な時間の余裕があることを
知るであろう。かゝる計算をする能力なしに徒らに反対論を提出することは愚
の骨頂である。ぺテロの説教は九時に始まった。従って宮における集会は正午
には終ったとして間違ない。そうすれば、使徒行伝本文に従って、この日その
後六時間はバプテスマを行うために利用出来ることになる。授洗者は一分間に
悠々と一人の人をバプテスマすることが出来る。もし受洗者も普通多くの人に
バプテスマを施す時にするように、どっと一ヶ所に立ち、受洗者が一列に並ん
で進むならば、この仕事はその半分の時間で行うことが出来る。しかし、一時
間六十人の割りとしても、十二人の授洗者によるならば、一時間に七百二十人
をバプテスマすることが出来るから、三千人をバプテスマするには、四時間十
五分あれば足りるわけである。この簡単な計算は、反対論の如何に愚であるか
を示し、反対論を主張する人たちが、この問題に関して適正な思慮を欠いてい
ることを証明する。
この外にも、三千人のバプテスマについて、多くの灌注論者たちは上の二つ
の反対論にあきたらず、次のように主張する。曰く『大都市の貴重な貯水池に、
かくも多数の人々が近づくことは許される筈がない』① 。このような反対論は、
即 ち こ れ ら の 池 が 何 の た め に 作 ら れ た か 知 ら ぬ こ と を 暴 露 して い る に す ぎ な
い。古代に比べて遙かに水量の減少していた当時においても、これらの池は水
泳プールとして自由に使われていたし、又これらの水はかつて飲料水或は炊事
用として用いられたことはなかった。従ってこれらの池でバプテスマを行っても、
決して水量を減じたり、水 質 を そ こ な う よ う な こ と は あ り え な か っ た 。ペテ
ロの説教を聞いた人たちが、バプテスマを受けるためにこれらこの池に入ると
- 64 -
は、今日私たちが米国の都市または村の附近にある川や池に入るのと同様に自
由であった。私は、少くとも普通の知識をもった人々から、再びこのような愚
かな反対論が出されることのない日が、一日も速かに来るよう望むものである②。
①チェスターの監督(Speake's Com, in loco)
②しか もな お The Expositor's Bible on Actsの著 者ともあ ろう
G.T.Stokes. D.D.
ですら 、『 ぺン テコス テの日にエ ルサレム市内に 於て、三千 人の人に浸礼 を施すとい うこ
とは、明かに不可能である』(43頁)と言っている。著者は多分エルサレム市の水の供給に
ついて、くわしく知らなかったものと見てあげるべきであろう。
この節をおえる前に、私たちは、この三千人がこの時、明かに二つの段階を
踏んだことに注意しなければならない。即ち先ず彼らはバプテスマを受けた。
そして古い信者の数に加えられたのである。この加入は明かに何らかの形で、
信者たちに公けに 認められる方法によったろう。そしてその方法によって彼ら
は教会の会員として認められることになった。勿論この方法がどんなものであ
ったかは、聖書に記されていないから絶対的なものではない。従って今日信者
は、教会加入の形式に関しては、最も適当と見え、しかも単純な福音に一致し
た形式をとる自由を有している。
42節
初めて福音を信ずるようになったその日にバプテスマを受けた、これ
らの若い弟子たちは、信仰のことについて、なおも多くのことを学ばなければ
ならなかったし、又それまで知らなかった多くの義務についても教えられなけ
ればならなかった。これらのことを説明するに当って、ルカは甚だ簡単である。
それは彼の記録の目的が、信者の徳を建てることや教えることよりも、むしろ
改宗の段階と手段を示すということにあり、ルカはこゝでもこのことをその第
一目的として之をかたく守ったからである。彼はこの一章の歴史を終るに当っ
て、新しい教会において確立された秩序について簡潔にのべ、まず彼らの公の
礼拝のことを記している。
2:42
彼 ら は 、使徒 の 教え 、相互の 交 わ り、パン を裂くこ と、祈る こ と に熱心で あ
った。
当時はまだ教える者は使徒たち以外になかった。そして使徒たちは弟子たち
を教えることによってそのキリストから受けた委任の一部、即ちバプテスマを
受けた人々に、キ リ ス ト の 命 じ 給 う た 凡 て の こ と を 守 る べ き こ と を 教 え
る(マタイ28:19,20)ということを実行した。また教えることを使徒たちの義務
- 65 -
と定めたこの命令は、又弟子たちに対しても、使徒たちから学び、常にその教
え に居 る こと を 義務とす るも のであ る。『彼らは使徒たち の教えを受け』とい
う言葉は、彼らが何れもその与えられたつとめを実行したことを確証している。
ひたすら
彼らが只 管つとめた交際(まじわり)とは、宗教上の特典に共に与ることであ
っ た。 κ ο ι ν ω ν ί α とい う原 語 は、 しばしば貧者 のため に する寄附 の意味に用
いら れて いる 。(ロマ15:26、Ⅱ コリント9:13)勿論 このことも交際を表す一つ
の方法ではあるが、この語は必ずしもそういった意味に限定されない。この言
葉は 普 通 次 のよ うな意味 で 新約聖書の中にあらわれる。『汝らを 召して其の子
イエス・キリストの交際に入らしめ給ふ神は真実なる哉』(Ⅰコリント1:9)、
『願
はくは主イエス・キリストの恩恵・神の愛・聖霊の交感、なんじら凡ての者と
ともにあらんことを』(Ⅱコリント13:13)、『我らは父およびその子イエス・キ
リストの交際に与るなり』(Ⅰヨハネ1:3)、『我ら互に交際を得』(同1:7)私たち
が神と交際を持つことが出来るのは、この世に存する肉慾による腐敗を免れて、
神の性質に共に与り、神の性質の分有者となるからである。私たちが御子と交
際を持つことが出来るのは、御子イエスの御生涯と苦難とが、彼と私たちとの
間に密接な共鳴、或はきずなを作ったからである。又聖霊と交際を持つことが
出来るのは、私たちが、聖霊の与え給う力と光とに共に与り、これを分有し、
又聖 霊自 身私たちの 中に住 み給うからである 。私たちが互に交際(まじわり)を
持つのは、共にこれを分有するからである。この κοινωνια という語
は、 ま た 主 の晩餐 と関連 して用いられ る。『我らが祝 ふ所の 祝の酒杯は、これ
キリストの 血に与るに あらずや ① 、我らが 擘く所のパン は、これキリストの体
に与 る に あ らず や 』 (Ⅰ コリ ント10:16)この交際 は、 私たち が、キリストの裂
かれた 肉体と、流 し給うた血の功績(いさおし)に共に与ることである。以上の
すべての点に於て、初代の弟子たちは交際をなすことを只管つとめていた。
①訳 者 註 : 直 訳 す る なら ば 『 我 ら が 祝 う と こ ろ の 祝 の 酒 杯 は 、そ れ はキ リス トの 血 の
κ ο ι ν ω ν ί α )ではないか? 我らがさくところのパンは、それはキリストの体の交
際( κ ο ι ν ω ν ί α )では ないか ?』 -拙訳 。英訳聖書においては A.V., A.S. 共に使 徒2:42
では κ ο ι ν ω ν ί α を"fellowship"と訳し、Ⅰコリント10:16では"communion" と訳し
交際(
ている。ルター訳は何れも Gemeinschaft である。何れにせよ、一つのことに共に与る、
共に分有することをあらわす。
さ
彼らが只管つとめた、パンを擘くことと祈祷は、しるしのパンを擘くこと、
即ち主の晩餐をまもることと、教会に於て公に祈ることであった。彼らが果し
て月に何回パンを擘いたかは、こゝに言われていないけれども、後に私たちが
- 66 -
知るように、遠いトロアスの地の教会で守られていた事実に照して、エルサレ
ムに於 ても同様に 毎週守られて いたに 違いない。(使徒20:17、Ⅰコリント11:
20参 照 )この 事、 或は教会 にお いてなされ た祈祷の数と 性質に 関しては、テオ
ピロの熟知する所であり、あらためて細かく説明する必要がなかった。
43節
教会の公の礼拝に関するこの短い記述につゞいて、私たちは、今のべ
られた初代教会の姿が、その周囲の社会に与えた結果を一瞥しよう。
2:43
すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが
行われていたのである。
このおそれは、嫌悪を伴うような単なる恐怖の念ではない。何故なら次の節
(47)で 、私たちは多数の人が毎日教会に加えられて行った事実を知るからであ
る。これは奇蹟が自然に人の心に吹きこむ厳粛な畏怖の念と全く神聖な性質を
備えた弟子たちの社会に対する敬畏の気持との混じったものである。
44、45節
次に私たちは前にのべられた『交際』の驚くべき事実を招介さ
れる。
2:44
信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
2:45
財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
この弟子たちの行為は、当時の律法を守らぬユダヤ人の中では普通で、しか
も異邦人の中では一般に行われていた貧者を顧みぬ悪風と比べる時、驚くべき
対照をなす。このような高度のまじわりは、この時から後にも先にも、地上に
は見られなかった。このことに関する詳細な説明は4:32の註解を見られよ。
46、47節
以後の短い期間における教会の歴史は、次の短い記事の中にま
とめられる。
2:46
そして、毎日ひたすら 心を一つ にして神殿に参 り、家ごとに集まってパンを
裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
2:47
神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救
われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
この記事は、明かに宮が教会の日々の集会場であったことを示す。宮の庭は
- 67 -
終日人々に開かれており、すべてのユダヤ人は、市の街路を歩くと同じように
自由 に、 宮の庭 に入ることを許されていた ① 。異邦人すら宮 の外庭には自由に
入ることを許されていた。そしてその庭は特に『異邦人の庭』と呼ばれていた。
①宮を弟子たちが使用したことに関しては、使徒3:11; 5:12,20,25,42を見られよ。
エ ルサ レム市の 城壁 内にお いて は、この外の 何れの場所 も、このよう な大衆
のための場所を提出することは出来なかった。
こ こ に のべ ら れ た 、パ ン を さ くこ と は 、 前に 42節 で の べら れた も のと 同一
ではない。それは、この言葉を制限する次の句『歓喜と真心をもて食事をなし』
からもわかるように、食事のパンを指している。彼らが『すべての民に悦ば』
れたことは、彼らの行った立派な生活の当然の結果であった。一方祭司、学者
たちは、教会のこのような突然の勃興に、重大なショックを受けたが、教会に
対して公然反対するには未だ全く準備が出来ていなかった。
『主は救はるる者を日々かれらの中に加へ給へり』というこの言葉は、日々
絶えずいくらかの人たちが教会に加 えられていったこと、そしてこうして日々
加えら れ た 人 たち が 又日 々 救 わ れつ ゝ あっ た こ と を 示 す 。 この 後者 の 表現 (そ
れ ら の 人 が又 日 々 救 われつ つ あ っ た)は、 彼ら が単 に 救い の途中 にある という
意味ではなく、彼らが実際にその日その日救われた生活にあったことを意味す
る。彼らはぺテロが、五旬節の日に『自らを救え』(40節註解を見よ)と勧めた
そ の 意 味 に お いて 、 救 わ れ た の で あ る 。『 救 う 』 と い う 語 は 、『 安 全 に す る 』
という意味である。そして人が真にすべての過去の罪から安全にされるのは、
その罪が赦される時である。この外に救われる道はあり得ない。こういう意味
に於て、日々加えられたものは救われたのである。パウロはこの言葉を次の聖
句の 中 で、 同じ意味 に用 いてい る。『唯 その憐憫 により、更生の 洗と、 我らの
救主イエス・キリストをもて豊に注ぎたまう聖霊による維新とにて、我らを救
ひ 給 へ り 』 (テ トス 3:5,6)教 会 に 加 えら れ た 者 は 救 わ れ た 者 に 外 な ら な かっ た
という。こゝに記されたこの事実は、まさしく、救われた者のみ、罪を赦され
た者 のみ が教会の肢(会員)として増し加 えられるべ きだという結論が正しいこ
とを証明する。このことは又『恩恵の手段として』即ち罪の赦しを求める手段
として、徒らに救われざる人を先ず教会に受け入れるような、或る人々の習慣
を否定し、又罪の赦しの与えられるべき条件に未だ服する能力を持たない幼児
を教会に加えることを、明かに否定するものである。
- 68 -
第三項
教会の発展と第一回の迫害
(3:1-4:31)
1.ペテロ、跛者を癒す(1-11)
1-10節
以上までの時期においては、使徒たちの働きは何人の妨げも受け
る こと な く 、最 も驚く ベき 成功を収めて来 た。し か し 今 私 た ち は こ れ か ら 、
エルサレム教会の歴史において、御 業 の 成 功 と 失 敗 と が 交 錯 す る 次 の 苦 闘 の
一幕に導かれる。宮はなお彼らの集会の場所であり、又それは同時に苦闘の場
所でもあった。
3:1
ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
3:2
すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施し
を乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3:3
彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。
3:4
ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5
その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6
ペ ト ロ は 言っ た 。 「 わ た しに は金 や 銀は な いが 、 持っ ている も の をあ げよ う 。
ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7
そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足や
くるぶしがしっかりして、
3:8
踊 り 上 が って立 ち 、歩 きだ した 。 そ し て、 歩 き回 った り 躍った りして神を賛美
し、二人と一緒に境内に入って行った。
3:9
3:10
民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
彼 ら は 、そ れが 神殿 の 「 美しい 門」の そ ば に 座 っ て施し をこ う てい た 者だ と
気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
こ の 奇 蹟 は 、 前 に 2:43に 記 さ れ た 多 くの 徴 と 不思 議 の 一 つで あ り 、 使徒 た
ちが日々行っていたことのほんの一例にすぎない。そして特にこの事件がこゝ
に記録されているのは、この奇蹟の結果が甚だ重大であったからである。この
奇蹟が行われた時の環境も又人々の異常な注意を喚起するに役立った。美麗と
いう門はおそらく宮の庭に入る便利な通路であったに違いない。そしてこの奇
蹟によって癒された人物は毎日この同じ場所に置かれていた関係上、宮にたえ
ず出入する人々には、知られすぎる位よく知られていた。又この人をあわれん
でめぐんでやっていた人たちの自然の同情と好奇心からも、いつかこの男が生
れつきの跛者であるということが、一般に知れわたっていたのである。のみな
- 69 -
らず この 人が癒された時間は、丁度多勢の敬虔な人々が 、午後 の焼香 ① の時間
に祈りをなさんとして、三々五々宮に人り来る時間であったから、今ぺテロと
ヨハネに癒された人が喜びに踊り叫んでいる光景は、人々の限を引かずにはお
かなかった。従ってこの人が狂喜するさま、そして彼が二人の使徒たちにとり
すがるさまを見た時、人々は彼が何故このように狂喜しているかは聞く必要も
なかった。明かにこの男は使徒たちによって癒されたのだ!人々は自分たちが
祈りのために集って来たことも忘れ、たゞ驚いて佇み眺めるばかりであった。
① 宮 で 香 を 焚 く 時 間 は 第 三 時 と 第 九 時 で あ っ た 。 又 私 たち は 、 ザ カ リ ヤ が 幻 を 見 た 時 に
民の群が外にあって祈っていた(ルカ1:10)という実例から、香がたかれている間は、市内
の敬虔な人々が宮のまわりに集って祈るのが習慣であったことを知る。
11節
ぺテロとヨハネの意図は多分、民衆と共にユダヤ人の庭に入って、宮
の中で香がたかれる間人々と共に祈ることであったろう。しかしこの癒された
跛者の行為と民の行為とは、思いがけない結果に彼らを導いた。
3:11
さ て、 その 男が ペト ロとヨハネ に付 きまとっている と、民衆 は皆非 常に 驚い
て、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。
こゝで porch(訳者註:邦訳は『廊』この方がわかりやすい。原語
στοά )とよ
ばれている建造物は、宮の外壁の内側に沿って造られた柱廊である。ヨセフス
によ れ ば、 この柱廊 は高 さ8.2メートルの 石柱からな り、その上部 は香柏 で天
井をはり、一方は壁になっていたから、これは天井と壁のついた長い廊下で、
その内面は宮に向って開いていた。特に宮の庭の東側の廊には二列の石柱が立
ち 並 び 、 柱 廊 の 奥 行 は 18メ ー トル 、 長 さ は 東 壁 の 端か ら 端 まで 続 いて いた 。
ヨセフスはその長さを1ファーロングと概算しているが、今日の正確な測定に
よれば463メートルである。(訳者註:1ファーロングは200メートル)南の端に
は現在280メートル を算する長さの壁に沿って四列の 柱が立ち並び、その間に
は 各 々 幅 9 メ ー トル の 道 路 、 即 ち 廊下 が あ っ た か ら 、 柱 廊の 全 体 幅 は27メ ー
トル にな っていた ① 。 これらの巨大な柱廊、或は ヨセフ スの謂う所の廻廊 は、
夏季には人々を日光からまもり、又雨季には人々を雨からまもっていた。この
ような大柱廊であるから、大勢の弟子たちがそこに集まった時にも充分な場所
があったし、又群衆たちにとっても、その広い場所で幾つかの離れた集会をも
ち、又同時に語られる別々の説教者の説教をを聞くことを可能ならしめた。し
たがって十二人の弟子たちが全部この廻廊の中で、各々大半の聴衆に説教した
としても、お互の声が混戦することなく、充分はなれて説教出来るだけの広さ
があったわけである。私たちは果してこれらの柱廊の中のどこで、こゝに記録
- 70 -
された集会があったか知ることは出来ない。それはこのソロモンの廊という柱
廊が どれであっ た かを 現在 知る ことが 出来ないか らであ る。『ソロモンのとい
うのは勿論ソロモン王を記念してつけられた名称である。
①ヨセフス(古代史15:3,5 )
2.ペテロの第二の説教(12-26)
序
12-15節
説 - 奇蹟の説明(12-16)
この奇蹟の結果、群衆の賞讃がぺテロとヨハネにに向けられた
時、ぺテロは人々がこの奇蹟を行った力を、主の力であることを悟らず、ぺテ
ロとヨハネのもつ何か超人的な或る力に帰していることを知り、この考えをと
り上げて説教を切り出し、彼らの考えを正しい方向に向けようとした。
3:12
これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに
驚くの で す か 。 ま た 、わ たし たち が まる で 自分の 力や 信心によ って、 こ の人を歩 か
せたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。
3:13
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その
僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡
し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14
聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。
3:15
あ な た が た は、 命 へ の 導 き 手 ① で あ る 方を殺 してしま い ま した が 、神 はこ の
方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。
①『生命の君』の英訳 “ Author of life ” (A.S., R.S.); “Prince of life”( A.V., R.V.)
ἀρχηγὸν τῆς ζωῆς " こゝに古いA.V.訳及びR.V.訳に Prince と訳さ
れている ἀρχηγὸς という単語は第一義的に「指導者」leader を意味する時のみ「君」
原語は
Prince という意味をもつことが出来る。しかしこの語はまた author(創作者)originator(創
始者)をも意味する。この意味ではR.V.でもへブル書5:9及び12:2に "author of eternal
salvation"(邦訳『永遠 の救の原』)"author and perfecter of our faith"(邦訳『信仰
の導 手又 こ れを 全 うす る もの 』 この 訳 は妥 当 では な い)と 訳さ れてい る 。上 の二つ の場 合
には どう して も prince(君 )と訳 すこ とが 出 来な いので ある 。こ の言葉 はこ の外、 新約 聖
書中にはこの箇所(3:15)と、ぺテロの後の説教の中(5:31)とにだけ現れる。後者の例をと
るならば、"prince and Saviour" は "leader and Saviour" の意味では決していい訳
語とは思われない。それは私たちは prince(君)という語からすぐ loyalty(忠節)を連想し、
何ら leader の意をもたぬからである。同じことがこの節の prince についても言えるが、
- 71 -
又 " Prince of life "-生命 の君という言 葉自体がはっきり した意味を示 さず、また これ
が 正 し い 解 釈 で も な い 。 ぺ テ ロ が こ ゝ で 言 わ ん と し た こ と は 彼 ら が イエ ス を 殺 し た と い
う 事 実 と 、 実 は 彼 ら が 指 し た そ の イエ ス こ そ 外 な ら ぬ 生 命 の 創 始 者 で あ っ た と い う 事 実
を対照させることであった。上のような理由から私は敢て R.V. 訳本文を採用しない。
参照 - Thayer Grimm; Meyer in loco,及び Speaker's Com,in loco.
この文章の中で、ぺテロは実質的には、彼の最初の説教の中で、主題を引き
出すために用いた序論と同じことを論じている。しかも今回の説教の中で彼が
用いた対句的な強い話法は、その聴衆にあたえた影響を考えてみるならば、前
の場合より一そう強い力をもって聴衆に迫っている。彼らの父祖の神がイエス
に栄光あらしめた事実は、彼らがイエスを死に付した事実と対照され、彼らが
イエスの釈放を否んだという事実は、ピラトがイエスを釈さんとした事実に、
また彼らが聖者、義人を否んだ事実は、一方彼らが殺人者を釈せと要求した事
実に、更に彼らがイエスを殺したという事実は、彼らが殺したそのイエスこそ
人類 の 生 命の創始者 であ った という事実 に、夫 々 き び し く 対 照 さ れて い る 。
この四点の対象は、修辞上漸層法の段階を形成している。汝らの父祖の神が栄
光を与えたイエスを汝らは死にわたした。この汝らの罪は、汝らを治める異邦
の総督が彼を無罪と宣告し、之を釈さんとした時にさえ、彼を十字架につけよ
と狂い叫んだことを考える時、更に重いものである。否これだけでも汝らの罪
の極悪性を表現するには不充分である。汝らは彼を聖にして義なる者と知りつ
ゝも、汝らが殺人者であることを知っていた極悪人をむしろ釈されんことを敢
てのぞんだではな いか。そして遂に彼を殺す事によって生命そのものの創始者
を、汝らの生命を、そして全人類の生命を創り給うたお方を殺してしまった。
しかも汝らは彼を殺したが、彼は死人の中から復活し給うたのだ!これより雄
大な漸層法、これより巧みなクライマックスとアンチテーゼとの結合は、文学
史上類例なしとは言えないが、そう多くは見ることが出来ない。群衆に対する
効果、影響が大きかった(17節を見よ)のも故なしとしない。このぺテロの言の
中に提出された厳然たる事実は、彼等にとっても、復活について以外否定の余
地もない。そしてこの復活についても、更にぺテロは語をついで、彼とヨハネ
がその証人であると宣言するのである。
1 6節
前 の12-15節 の 言葉 の中では 、ぺテロ はその 本論の主題の一部分 を
紹介したのみであった。彼は前節で主の復活に言及しているが、イエスが栄光
を受けたもうたという真理の全部に関しては語らず、之を省略した。しかし今
本節において彼は次の言葉を加えることによってその序論を完結し、同時に復
活と栄光という現実を人々に示している。
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3 :16
あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それ
は、そ の 名 を信 じる 信仰 に よる も の で す。 イ エ ス によ る 信仰が 、あなた がた 一同の
前でこの人を完全にいやしたのです。
この一句は、無準備で即席演説をする人が普通よく用いる繰返しであるが、
ペテロはこの言葉で説教の中心思想を一そう強調し、同時に、陥りやすい誤解
を防ごうとした。即ち極度に興奮した群衆は、イエスという名の不思議な力を
見て、後にエペソの或るユダヤ人たちが誤解した(使徒19:13-17)ように、イエ
スの名前自体に何か魔力があるものと早合点しがちである。そういうことのな
いように、ペテロは特に、この奇蹟を可能ならしめたのは、イエスの御名を信
ずる信仰であるとことわったのである。またさらに私たちが注意しなければな
らないことは、この全癒を可能ならしめた信仰は、跛者の信仰ではなかったと
いうことだ。何故ならこの癒しの記事(特に4-8節)から、この人は癒されるま
では全然信仰を持っていなかったことが明白だからである。事実ペテロが『我
らを見よ』と言った時には、彼は施済をもらえると期待しながら二人を見上げ
たではないか。しかもなおペテロがイエス・キリストの名によって、彼に歩め
と命じた時ですら、ペテロがその手をとって起してやるまでは、自分で身を動
かそうとはしなかったのだ。彼は自ら立って歩くことが出来たのを知るまでは、
イエスに対しても、使徒たちの病を癒す力に対しても、何らの信仰を持ってい
なかったのである。しからばその信仰は当然ペテロの信仰でなければならない。
この事は私たちが福音書から知るように、聖霊の賜物を持っている人が奇蹟を
行う時は、必ずその奇蹟を行う当事者に信仰がなければならないという事実と
一致する。ペテロは水の上を歩く能力を与えられていた。しかしその信仰が動
揺しかけた時、彼はあやうく波に溺れんとし、イエスから『あゝ信仰うすき者
よ、 何 ぞ 疑 ふか 』(マ タイ 14:31)と の 叱 責 を う け た 。 又 九 人 の 弟 子 た ち が 、
かの記憶すべき失敗事件において悪鬼を逐出そうとして逐出し得なかった時、
イエ スは 、汝 ら が能わ ざ りし は 信仰 なき故なりと 説明され た 。(マタイ17:20)
病める者を癒すことが出来るのは、たゞ『信仰の祈り』のみである。(ヤコブ5:15)
更に私たちは次の事実を注意すべきであろう。即ち奇蹟を行う能力を与えら
れている人にとっては、どのような奇蹟を行う場合にもそこに信仰が必要であ
るが、如何なる信仰といえども、このような奇蹟の能力を与えられていない人
に、奇蹟を行うことを可能ならしめたという例は一つもないということである。
従って、使徒持代以後、始終或る人々の心に存した観念、即ち私たちの信仰が
充分強ければ、私たちもまた奇蹟を行うことが出来るという観念は、聖書にそ
の前例を見ない限り、聖書的な根拠を持たぬものである。
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Ⅱ.罪の赦し、キリストによって与えられる(17-21)
17、18節 ぺテロの演説は、こゝに至ってその調子と態度に著しい変化を
見せている。今まで彼は聴衆に向って恐ろしい告発をし、非難をたゝきつけ、
彼らの罪を暴露するのに容赦なき言葉を用いて来た。しかし今彼は明かに聴衆
の顔にあらわれた明白な苦痛の表情に動かされて、調子を和げ、彼らの過ちを
寛くした。
3:17
ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者た
ちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
3:18
しかし、神はすべての預言者の口を通して予告 しておられたメシアの苦しみ
を、このようにして実現なさったのです。
彼らが無智の中に行動したということは、彼らの犯した罪に酌量の余地を与
えたが、これは決して彼らを無罪とするものではない。またこのことと関連し
て説かれている事実、即ち彼らがイエスを虐待したのは、神が預言者を通じて
かくあるべしと宣言されたことの成就であるということは、他方彼らに罪あり
とする断定と、人間の哲学によっては調和させることが出来ない。ぺテロは既
に一度、この明かに矛盾する二つの事実、即ち神の主権と人の自由権を相並べ
て提 出 し 、 次のよ うに 言って いる。『この人は神の定 め給ひし 御旨と、予じめ
知り給ふ所とによりて付されしが、汝ら不法の人の手をもて釘磔にして殺せり』
(使徒2:23)神がイエスの死を予定し給うたことを否定することは、預言者と使
徒の言葉を全部否定することになり、又イエスを殺した人々が、神の定め給う
た所を行いながら、それによつて悪をなしていたのだということは、ぺテロも
断言しているし、五旬節の三千人の人たちがこの場合他の多くの人たちと共に
認めたところである。この二つの表面矛盾する事実を哲学的に調和し得る学説
を発表する人があるならば、それを理解し得る限りにおいて、それを受入れる
にやぶさかではない。しかし何れの場合にも、必ずこの二つの事実が、曲げら
れることなくそのまゝ学説の前提となって含まれていなければ、認めることは
出来ない。しかし同時に又私たちはぺテロの例にならうのが賢明であろう。彼
はこの二つの事実を共に並べて示し、一方の証しのためには預言者の言葉に訴
え、他方の証しのためには聴衆の良心に訴えて、自らすこしの困難、矛盾をも
感じなかったのである。私たちも、必ず落ちる高い所へ昇ろうとすることは、
愚かなことである。
19-21節
こうしてイエスの復活と栄光をうけたもうた事、及びイエスを
罪に定めた人々の罪の重大さを論証した使徒ぺテロは、次に聴衆たちに対して、
その罪の赦しを、使徒委任の中に示された言葉をもって示した。
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3:19
だから、自分の罪が消し去られるように、悔改て立ち帰りなさい。
3:20
こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって
決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
3:21
このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が
新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。
前の説教でもそうであったが、ここでも彼は罪の赦しの条件について、信仰を
あげていない。しかしこの説教の始めから聴衆に信仰内容を確信させようと努
力して来たぺテロは、今彼らが全く信じたことを知り、彼らの信仰を前提とし
て、悔改よと命じたのである。およそ或る論証又証言に続いて直ちに命令が発
せられる時は、証明がそれで完全になされたということを意味し、又聴者がそ
れを確信したということを前提とする。更にまたぺテロは、彼の説いた所を信
じなかった人たちは、勿論決して悔改はしないだろうということも承知してい
た。これらの点から見れば、ぺテロがこの場合信仰のことを述べずに、次の悔
改に言を進めたことは、決して危険でもなければ不自然でもない。
『 悔 改 て 再 び 転 ぜよ 』 (現 行 邦 訳 = 心 を 転 ぜよ )と い う 命 令 に おいて 、『転 ぜ
よ』という語は、当然罪を悔改た後になすべき何事かをあらわし、またこの転
ずることは何か悔改とは別なものを意味することを示している。何故なら、も
しこの『転ずる』という言葉の意味が既に『悔改』の中にあらわれているなら
ば、今更『転ぜよ』という命令を追加する必要はなくなる筈である。私たちは、
こゝ に の べられた罪 の赦 しの条件を正しく理解するために、この『悔改よ』、
『転ぜよ』という二つの言葉の正確な意味を決定しなければならない。
悔改という言葉の意味に関して、最も一般に行われている説明は、罪に対し
て神に従う愛を生ずることであるとされている。しかしパウロの言葉によれば、
罪に対する神に従う憂というものは、悔改に対して原因と結果の関係をもつに
すぎ な い。 パウロは 言う 。『それ神にしたがふ憂 は、悔なき の救を得るの 悔改
を生 じ 。』 彼は 更にコリ ント 人 たちに対して 『わが喜 ぶは汝 らの憂ひしが故に
あらず 、憂ひて悔改に至りし故なり』と言っている。(以上Ⅱコリント 7:8-10)
これらの言葉は、神に従う憂が人を導いて悔改に至らしめるのであるという事
を示すものであり、又二番目の引照は悔改の伴わぬ単なる神に従う憂もありう
ることを示すものである。この悔改と神に従う憂との明確な区別はあの五旬節
の日に『心を刺され』た人々が、更に『悔改』るよう命ぜられたことでも明か
である。又イスカリオテのユダの例には、罪のために最もはげしい憂を生じな
がら、悔改に至らずして自殺をとげたという実例がちゃんとあるのである。
- 75 -
このように、悔改は罪に対する神に従う憂の結果としておこるものであると
いうことが明瞭であるため、或る批評家たちは、悔改は生活の改革を意味する
と想像し、又そう教えて来た。多分、今いう愛の結果として生活の改革が行わ
れるこ とから、これが悔改だと考えた のであろう ① 。しかし 生活の改革は罪に
対する憂いより起る結果であることには間違いはないが、一方聖書は明かに、
それが悔改とは別のものであることを示している。もしこの二つの言葉を混同
してしまうならば、今私たちの前にあるこの聖句を、無駄な贅言としてしまう。
それはもしペテロが『悔改て再び転ぜよ』と言った時に、転ずるという言葉の
中には改革という思想が含まれているから、もし悔改が改革という意味ならば、
ぺテロのこの命令は『改革し、而して改革せよ』となり、実におかしなことに
なってしまう。バプテスマのヨハネは『さらば悔改に相応しき果を結べ』と人
々に命じた時、悔改ということと、つくりかえられた生活というものをはっき
り区別して考え、後者は前者の果であると言っている。彼にとっては生活の改
革は悔改の果であつて、決して悔改そのものではなかったのである。又イエス
が一日に七度悔改ることについて話された時、明かに生活の改革とは別の事を
言っておられる。何故なら生活の改革、つくりかえと言うことは、更に時日を
要す るも の で あるか ら .更 に 又 ぺテロが 五旬節の日 、『悔改てバプテスマを受
けよ』と命じた時に、彼が生活の改革という意味で悔改という語を使ったのな
らば、彼は人々を直ちにバプテスマするかわりに、バプテスマを受けるまでに、
生活をつくりかえるだけの充分な余裕を与えなければならなかった筈である。
最後に、この悔改という言葉の原語は、次のような前置詞と共に用いられるこ
とが多いが、この場合この前置詞用法は生活の改革という意味と相容れない。
例えば、コリント後書12:21には『以前に罪を犯した多くの人々が、自分たち
の行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔改ずにいるのを…』
英文:Many have not repented of the uncleanness and fornication
and lasciviousness which they have committed とある。人は決して自
分の悪行について(of their deeds)改革するものではない。この個所に用いら
れて いる 原語 の前置詞(επι , 与格 dative を伴う)も、改革とい う意味 の解
釈を許さない。
①この考え方は最初 Dr. George Campbellにより、その著 Notes on the Four
Gospelsに発表された。
さて、このように悔改が罪に対する愛の結果であり、またそれが生活の改革
に導くものであることを知れば、もはや悔改とは何ぞやの問題に関して何らの
困 難 も ない 。 何故なら罪に対する憂の結果の中で、生活の改革へ人を導くものは、
たゞ一つ、罪 に 関 す る 人 間 の 意 志 の 変 更(change of the will in reference
- 76 -
to sin)であるからである。ギリシャ語の
μετάνοια
という単語の本来の意
味は心の変更(change of the mind)であり、又この意味でエサウは『涙を流
して之を求めたれども
μετάνοια
① の機を得ざりき』(ヘブル12:17)と記され
ている。つまりエサウが求めたのは、既にヤコブに与えてしまった祝福に関す
る父の心の変更であった。又こゝでエサウが願った父の心の変更は罪からの変換
ではなかった。イサクはヤコブに祝福を与えるに当って何ら神の前に罪を犯さな
かったからである。従って、μετάνοια という単語は、ヘブル12:17の場合には、
『心の変更』と訳されるベきである。もしこの心の変更或は変換が、真に罪に対
する憂から生じたものでなく、単なる便宜上から出たものならば、それは真の悔
改ではない。そして又その心の変更が、その人の生活を改革することが出来ない
ならば、ぺテロののべた祝福を得ることは出来ない。故に悔改の充分な定義は、
罪に対する憂によって生じ、全生活のつくりかえに導くところの、意志の変更である。
①訳者註、現行邦訳『回復の機を』は不可。原語は“
μετανοίας τόπον ”
であり、
「心の変更の余地(機会)を」の意である。
私たちは今『悔改て再び転ぜよ』という命令において、この言葉の順序でお
こる二つの明白な変化が要求されていることを、前よりも一そうはっきりと感
知する事が出来る。この『転ぜよ』 turn という言葉の代りにKing James訳
に用いられている『改心させられよ』 be converted という言葉についてBa
rnes氏は次 のよ うに言ってい る。『この (be converted とい う)表現は 聖書原
典とはまるで異った意味をあらわしている。この言葉は受動的な概念をあらわ
す- - 改 心させ られよ (be converted)--それは 何か人 々がそれ まで抵抗し
て拒みつゞけて来た何かの力に屈服して、受動的に改心させられるかの如く思
わせる。しかしこのような受動的な考えはギリシャ語の原語の中にはない。こ
の言 葉の 正しい意味は転ぜよ(或は、帰れ)である。即 ち人間が嘗てそこから迷
い出した正しい道に帰れ、そして罪から転じて遠ざかれ、罪を棄て去れ……と
い う 意 味 であ る。 こ の解釈 は既に古 い King James訳が 一般 に 行われていた
時 代 か ら 、こ れ に 論 駁 否 定す る 学 者も なか っ たが 、今 や Revised Version
が現れてからは、英語聖書本文が権威をもって之を証明し、今日では殆どこの
意 見 に つ いて 論 議 す る 学 者 も な い ① 。『 転ず る 』 とい う 言 葉 は 行 為 の 変 換を 意
味する。しかし行為の変換には始めがある。従って人は、よりよき生活の最初
の行為をした時に、始めて『転じた』と言われるべきである。ところが聖書を
見ると、信じて悔改た人に対して、キリストに服従する行為の第一歩として、
すべての人に同じことが課せられている。即ちバプテスマを受けることである。
ぺテロの聴衆はこの時、この事をはっきり理解した。それはバプテスマは五旬
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節以来常 に弟子たちによって 宣べられ、彼らはバプテスマを毎日 目撃して来た
からで あ る。従って『 悔改て再び 転ぜよ』と 命 ぜ ら れ た 時 、 彼 ら は 直 ち に 、
バプテスマを受けることにより転じて、新しき、よりよき生活に入ることである、
ということを理解したのである。バプテスマが転ずる行為であった。
①こういった見方から convert 或は converted という語は新しい訳にはどこにも現れて
い な い 。 原 語 は 全 部 turn と 訳 さ れて い る 。 こ の 正 し い 訳 は 重 要 な 問 題 を 理 解 す る の に よ
りよき助けとなるであろう。
私たちは、また別の推理道程によっても、同一の結論に達することが出来る。
『再び転ぜよ』という命令は、丁度ぺテロの第一回の説教において『バプテス
マを受けよ』という命令が占めたと同じ位置を占めて、悔改も罪の赦との間に
存在する。彼は前には『悔改て罪の赦を得んためにバプテスマを受けよ』と言
い、今『汝ら罪を消されん為に、悔改て心を転ぜよ』と言う。『罪を消される』
ことが『罪を赦される』ことの比喩的表現であることは言うまでもない。赦し
ということは、丁度、蝋板の上に書かれた文字を抹殺するようなものだからで
ある。さて、聴衆は、ぺテロがこの同じ祝福を得るために、前には『悔改てバ
プテスマを受けよ』と言い、今又『悔改て再び転ぜよ』と命ずるのを聞いて、
この『転ぜよ』という包括的な漠然とした言葉が、特にバプテスマを指して言
っているのだということを理解せざるを得なかった。これはこの二つの言葉が
同じ意味であるからではなく、人々はバプテスマされることによって『転じた』
(帰った)からである。これがこの節の教える所である。
一方『悔改て再び転ぜよ』という命令の第一目的が、罪を消されることにあ
ったと同時に、又更に二つの結果が、人々を服従に導く誘因として付け加えら
れている。その第一は『主の御前より慰安の時きたる』こと、その第二は『予
め定 め 給 へる キリス ト・イエスを遣 し給ふ。』ことであ る。 この『慰安の時』
は丁度第一の説教において『聖霊の賜物』のあった位置におかれ、その意味は、
聖霊のよろこびによって得る霊魂の回新である。キリストを遣わし給うという
ことは、彼の最後の降臨を示す。そしてこれは人々の服従の後に来ることは、
彼の言葉によって私たちの知る所である。たゞしぺテロの聴衆はこの時、キリ
ストの再臨は救いの御業がある程度世界に行きわたって後におこるということ
を、知ることが出来なかった。このことは次の『古へより神が、その聖なる預
言者の口によりて語り給ひし、万物の革まる時まで、天は必ずイエスを受けお
くべ し 』 とい う条件によって 明 かである。『革まること 』restoration という
語の 正 確な 意味をこ ゝで 決定すること は難しいが 、『聖なる 預言者 の口 により
て語り給ひし』によって制限されていることから、この『革まる』ことは旧約
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の預言者の成就にあると考えられる。またこの言葉から、イエスはこれらの預
言がすべて成就する時までは、再び地上に来たり給わないことが確かである。
世の終りにすべての人が救われることを信じ、またそういった学説をたてる人
々は 、 この聖句を引用するに あたって、常 に 『 万 物 の 復 原 』 の み を 引 い て 、
その前の句を無視しがちである。そしてこの聖句がすべての物及びすべての人
類を、原始の純粋と幸福とに復原することを意味する如くに解するが、このよ
うな解釈は、神の言をいつわるものである。
Ⅲ.預言と約束の中に含まれた事項
22、23節
イエスが復活し給うたこと、またイエスが栄光を受けたもうた
ことに関して、どのような強力な証拠が提出されたとしても、その証拠の中に、
イエスの事実がすべての預言の事項であるという証しが含まれていなければ、
頑迷なユダヤ人たちは彼を約束のメシヤとして受け入れることが出来なかった
であろう。ぺテロはこのことを証明するため、そして又同時に聴衆が今聞いた
事実を拒むことが如何に恐ろしいことであるかを警告するために、次に人々に
よく知られていたモーセの預言を引用した。
3:22
モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中
から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけること
には、何でも聞き従え。
3:23
この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』
ぺテロがこの預言をイエスに適用したことが正しいということは、彼が既に
語ったことからを信じた人たちには、全く明白であった。なぜなら、もしイエ
スについてぺテロの語ったことが真実ならば、この預言に描かれている姿は、
たゞイエスの中にのみ見出されるものであり、他の如何なる預言者にも見るこ
とが出来ないからである。モーセはイスラエルの救出者また授法者であること
において、他のすべての預言者たちと区別される。モーセ以外の預言者たちは、
たゞモーセの与えた律法を励行することに努めはしたが、モーセの律法に一点
一劃も加え、またけずることさえしなかった。しかるにイエスは、その救主と
して来たことはあたかもモーセの如く、しかもモーセの救いよりははるかに高
い光栄にみちた救いを完成し、更に人間を治める新しい全き律法を与え給うた。
このことは、彼のみがモーセの語ったその預言者であることを説明し、イエス
に服従することはモーセに服従することであり、イエスを拒むことは、モーセの
のべた呪詛をまねくことであるということを、聴衆に示したのである。
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24節
ぺテロは以上のモーセの証しを挙げることだけに満足せず、更に進ん
ですべての預言者たちを一致せる権威をつけ加えて証明した。
3:24
預 言者は皆、 サムエ ルをはじめそ の後に 預言した 者も 、今の時に ついて告
げています。
このぺテロの断言は、旧約聖書にその預言を記録されている預言者だけに限
って解釈されるべきである。それはぺテロはこれらの預言者に関してのみ、聴
衆に 訴 え得 たからであ る。『皆』というこの全体をさす如 き語法は、当時 ユダ
ヤ人 の 演 説家 、 記者 等が一般 に用いた 語法であ って 、『一般に』或は『大体』
という意味をあらわすにすぎない。第一すべての預言者が『皆』はっきり『こ
の時につきて』語ったとは考えられないが、これを大体すべての預言者と考え
ればそれは事実と一致する。又ぺテロはこの預言の始まりをサムエル以来とし
ているが、これもサムエル自身が『 こ の 時 に つ き て 』 語 っ た か ら で は な く 、
サムエルの時代から、こういった預言者たちが続出したからである。ルカはぺ
テロの第一回説教の時と同様、こゝに説教のほんの概要しか記録していないが、
実際の説教においては、ぺテロはこれらの預言者の中から多くの預言を引いて、
そのイエスにおける適用を聴衆たちに明瞭に示したに違いない。こうして説教
の本論は終り、イエスはこゝに再び約束のメシヤとして、栄光に入り給うた神
の御子として証明された。
25、26節
本論を完結したぺテロは、次にその国民の父祖と、彼らの嗣い
だ約束とに対する聴衆の尊敬に訴えた。
3:25
あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約
の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』
と、神はアブラハムに言われました。
3:26
それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださ
ったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずから
せるためでした。」
この言葉は彼らの国民的感情にやさしく訴えて、キリストによって彼らに差
出された祝福が、彼らが熱知するあのアブラハムに対する神の約束の中に含ま
れる祝福に外ならぬこと、そして又彼ら自身のアブラハム及び預言者たちに対
する関係によって、神はその復活の御子を、他の民族に遣わす前に、まず彼ら
に遣わしたものだということを、一そう深く知らしめた。
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私たちはこゝに、アブラハムに対する神の約束の権威ある解釈を持つ。ペテ
ロによるならば、この約束は生ける人をその罪より呼び返すことによって、既
に成 就 し たの である 。 そしてそ の 罪より呼 び返されて帰って来た (転じた)人々
だけが約束の祝福を受ける事が出来るのである。また地の諸族が皆祝福される
べきであるという言葉も、たゞこの地の諸族の中、その罪より帰らぬ人々にま
でその適用をおしひろげない限り、この結論と矛盾するものではない。ぺテロ
の聴衆にとってこの結論は以上のことを知らしめるのみならず、神は彼らをそ
の罪よ り呼び返し (転ぜしめ)祝福せんためにイエスを遺し給うたという言葉に
よって『再び転ぜよ』というあの勧めを想い出させた。
次の節にあらわれる原因のために、ぺテロはその説教を結論まで論じ終るこ
とが出来なかった。しかしもし彼がこの説教を最後まで続けることを許されて
いたならば、彼はその第一回の説教を結んだと同じように、直ちに福音に服従
せよという勧めの言葉を以て、この説教をも結んだに違いない。
3.ペテロとヨハネ捕えられる(4:1-4)
1-3節
こゝまでは、使徒たちの事業は何らの妨害も受けることなく、着々
と進行して来た。そして彼らは多分、主の旧敵たちは既にこの真理の勝利に全
く力を失い、過ぎし日の熱心な反抗の勇気を失ってしまったのだと想像し始め
ていたであろう。しかし、まさにこの希望とよろこびの瞬間において、平和は
嵐によって破られた。
4:1
ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司 たち、神殿守衛長、サドカイ派
の人々が近づいて来た。
4:2
二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えている
ので、彼らはいらだち、
4:3
二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。
突然武器をもった一隊が、聴衆の中をかきわけて近づき、ぺテロとヨハネを
捕えて、熱心な聴衆を驚かしたことは、甚だ大胆な不信者側のおそろしい運動
であった。こゝで私たちが普通まず考えるのは、このとき使徒たちを迫害しよ
うとした指導者たちが、古くからイエスを迫害したパリサイ人であろうという
期待である。所があにはからんや、嘗てはイエスの主張に比較的冷淡であった
サドカイ人たちが 指導していたのだ。そしてその理由は今使徒たちがイエスの
事によって、死よりの復活ということを教えていたという事実から説明するこ
とが出来る。この復活という教義については、イエスも嘗てサドカイ人たちと、
- 81 -
ある場合には特別な議論(マタイ22:23-33)をして強く主張し給うたこともあっ
たが、イエスもこの宗派の教義あるいは習慣に対しては、直接にこれを攻撃さ
れることは稀であった。しかし今使徒たちの説教の鋭鋒は、死よりの復活を否
定するサドカイ人の教えに、ぐさりと反対の刃を突き刺したのである。祭司長
でありパリサイ人であったカヤパにとっては、彼自身殺人者とされることから、
この説教は一層強く彼の心を刺した。サドカイ党がこぞって激昂したのは当然
である。一方パリサイ人たちについて言うならば、彼らは反対党であるサドカ
イ派の教理を覆えす使徒たちの勝利を見たために、全然使徒たちに対して反感
をおこさなかったとは言えないが、何れにせよ復活の教義は彼ら自身も説く所
であった。たゞ彼らがこの説教に対して抱いた反対は、その復活があのイエス
の名によって宣べられているということであった。彼らは未だ断乎たる反対行
動に出る用意もなく、たゞ驚いて事の成行を見つめていた。彼らはイエスが彼
らの偽善を暴露されんために、極度にイエスを憎んでいたが、弟子たちに対し
ては、未だ弟子たちが公に彼らを攻撃していない以上、未だ彼らを憎むには至
っていなかった。この逮捕に助力した祭司たちは恐らくサドカイ派に属する人
たちであったろう。あるいはまた彼らは、ペテロのこの説教が、この日の夕の
祈祷の時間に始まって、宮に集った人の心を犠牲を捧げることと、祈祷なすこ
とからさえぎり、そらせてしまったということから怒りを発して捕えんとした
のかもしれない。またサドカイ人を導いて逮捕を行わせた「宮守頭」というの
は、宮の境内の秩序を守るために、常に宮の門その他に立って警戒にあたった、
レビ族警官の司令官であった ① 。
①彼らはダビデの時に始めておかれ、門番(現行邦訳…門を守るもの)と呼ばれた。(Ⅰ歴代26:
1-19)宮守頭が多くいたことは、ルカ22:4に複数で記されていることからわかる。
4節
それまでぺテロの説教を聞いていた民衆は、この説教者の逮捕によって、
非常な興奮と混乱の中へ投げ入れられたであろう。そしてその場に居合せた弟
子たちは主の生命を絶ったあの殺人劇がぺテロとヨハネの上に再演されるだろ
うと予期したかもしれない。しかしこのような結果にもかゝわらず、ぺテロの
言葉は大なる結果をもたずにはおかなかった。ルカは語る。
4:4
しか し、 二人 の語 った言 葉 を聞いて信じた人は多く、男の 数が五千人ほどに
なった。
東洋諸国の習慣に従って、今日でもそうであるが、こゝでも男子の数だけが
あげられ、女子は数えられていない。男女総数を合せるならば、信者全体の人
数はこの数字より遥かに多数でなければならない。五旬節以来信者の増加は、
- 82 -
五旬節当日バプテスマを受けた人々の多くは遠方の郷里へ帰って行ったことを
考え れ ば、 甚だ急激 なも ので あったろうから、五 旬 節 以 来 増 加 し た 信 者 は 、
女を勘定に入れなくとも、二千以上はあったに違いない。
4.議会に於けるペテロの弁明(5-12)
5、6 節
この逮捕は午後おそく(夕…三節)行われたため、以後の手続は翌日
まで延期され、ぺテロとヨハネは番兵の保護の下に、静かな一夜を、黙想とお
互いの激励にすごし、翌朝の裁判にそなえることが出来た。
4:5
次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。
4:6
大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。
こ ゝ に 『 司 、 長 老 、学 者 ら 』 と呼 ば れてい る 人 たち は 、 サン ・ ヘ ド リン (七
十 人 議 会 )と 呼 ば れ る、 ユ ダ ヤ 人 の 最 高 法 廷 の 主 体 をな してい た 人たちで あっ
た。アンナスは、ルカが前の書の中でも大祭司とよんでいるように、正当な大
祭司であったが、彼は既にピラトの前任者ヴァレリウス・グラートゥス Valerius
Gratus によって 免職され、彼の養子であ ったカヤパが、同様の不法手続によ
って彼の地位を襲っていたが、アンナスはカヤパの在任中なおも正当の大祭司
の職 名を 推持し 、民衆 も彼を大祭司として認 めていた ① 。こゝに記されたヨハ
ネとアレキサンデルは、ルカがこゝに特にはっきりと名をあげていることから、
有名にして有力な人物であったろうと思われるが、彼らに関してはそれ以上何
も知ることが出来ない。議会は、ぺテロとヨハネの二人を如何にすべきかを決
定するために召集されたのであった。
① ルカ が アン ナスを 大 祭司 と 記して いる の をル カの 誤謬 であ るとす る(Meyer その他 )の は
不合理である。
7節
議会が参集すると、二人の囚人は大祭司の前に引出されたが、例の療
された跛者も、その恩人たちが苦しみを受けるのを、黙って見過すに忍びず、
大阻にも議会に入り込んで、ぺテロとヨハネの身近に位置を占めた。
4:7
そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれ
の名によってああいうことをしたのか」と尋問した。
ぺテロとヨハネが、この荘厳な聚会の前に出るのは、これが始めてではなか
った。彼らが顔を上げて裁判官の顔を見上げ、その多くの人を見分けることが
- 83 -
るいせつ
出 来 た時 、彼 らは 嘗 てあ の朝 、彼 らの 主 が 縲 洩 を 受けて この同 じ場所 に立ち
給い、自分たちは法廷の中庭で恐しい懸念にふるえながら傍観する外なかった
時のことを想い出した。あの時のペテロの堕落と苦い涙とは、二人に警告と勇
気とを与え、同時にまたそれまでは実際的価値を持たなかったあのイエスの厳
粛な御言葉が心に甦えって来た。
『人々に心せよ、それは汝らを聚議所に付し、
会堂 に て鞭 たん。また 汝等 わが故によりて、司 た ち 王 た ち の 前 に 曳 か れ ん 。
これは彼らと異邦人とに証をなさん為なり。かれら汝らを付さば、如何に何を
言はんと思い煩ふな、言うべき事は、その時さづけらるべし。』(マタイ10:1719)これ ら の約束に勇気づけられ、彼らは今その 起訴者と裁判官の前に 、人々
の思いがけない大胆さを持って立った。
二人の囚人は、何らの形式上の訴えの手続なく、捕えられて今法廷に引き出
されたから、法廷はその起訴の理由を囚人たちの口から無理に引き出すより外
なか っ た。 この時の 最初 の訊問はその 曖昧さを以 て古今に有名であ る。『如何
なる能力いかなる名によりて此の事を行ひしぞ』何をなせしぞ……という事が
当然の質問であり答であっていい筈である。この説教をしたといわんか?この
奇蹟をなしたといわんか?それとも……何をなしたと言わんか?しかし質問は
何らの点を突いていない。その明白な理由は、ペテロとヨハネのなした所には、
何ら人々の特別の干渉を要するものでも、また犯罪として起訴される理由もな
かったのである。この故に大祭司は狡猾にもわざと漠然とした疑問を発して、
これにより被告が当惑のあまり不用意な言をもらして、訴訟の理由を与えるで
あろうと期待した。
8-10節
議会の提出した質問が、このように巧妙に案出されていたにも
かゝわらず、それはかえってぺテロには好都合な質問となった。この質問はペ
テロにとっては、答弁の主題を、彼のなした事の中からどれを選んでもいいこ
とになったから、彼は自分のした事の中から、裁判官たちにとっては最も聞き
たくない事実をとりあげた。彼はまたその答の中に、彼らの質問の中、何の能
力また何の名によってこの事をなしたかという事以外の点についても、彼らの
聞きたくなかった事実を、彼らの期待以上に単刀直入に答えた。
4:8
そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、
4:9
今 日わた した ち が取 り調 べを受 けている の は、病人 に対す る 善い行いと、そ
の人が何によっていやされたかということについてであるならば、
4:10
あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなっ
て、皆さんの前に立 っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の
中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
- 84 -
この宣言は何ら証明を要せず、また裁判官たちも療された当人を前にしては、
奇蹟の行われた事実を否定することが出来なかった。他方また彼らはこの奇蹟
を、奇蹟を行った当人が主張するイエスの名と能力以外のものに、尤もらしく
帰してしまうことも出来なかった。この奇蹟を行った力が神より出でたものと
なるを否定することは、彼らを尊敬する民の前に狂言をはくことになる。また
この能力を神から与えられた人の解釈を拒けることも、同様に愚である。こう
してぺテロの答弁は、自らの正を弁明したのみならず、質問を発した人々を混
乱におとし入れた。
11、12節
この答弁によって自ら有利な立場に立ったことを知ったぺテロ
は、更に語をついで弁明を押し進める。
4:11
こ の 方 こ そ 、『 あなた が た 家を建てる 者に捨 てられた が 、隅の 親石と なっ た
石』です。
4:12
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名
は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
こゝでぺテロはダビデの言葉(詩篇118:22)を用いて、その起訴者と裁判官の
態度を、隅の首石を捨てた造家者の愚な態度にたとえている。この造家者たち
は、家の基礎を築こうとしながら、その基の隅にすえるべき大切な首石を拾て
てしまった。しかもこの首石なくしては家の基礎工事は完成することが出来ず
壁一つ建てることは出来ないのだ。こゝで彼はこの比喩から現実に転じて、彼
らが十字架につけたイエスその人の名によらなければ、人類の救いはあり得な
いことを、遠慮なしにはっきりと宣言した。この宣言は全世界の人類に通じる
ものであり、一切救われる人間はキリストの名によって救われるのであること
を示している。たとえ彼を知らず、また彼を信ぜずに救われる人があったとし
て も、 それはやはり何らかの方法によって、彼の名によって救われたのである。
5.秘密会議
(13-17)
13、14節 漁師というような低い社会的地位にある人が、このような多数
の面前に訴えられた時には、さぞおずおずと曖昧な言い抜けをするであろうと
の彼らの期待に反し、使徒たちは躊躇することなく、自分たちが捕われる原因
となった説教の趣旨を公言し、これによって起訴者たちを黙させてしまった。
4:13 議 員 や 他 の 者 た ち は 、 ペ ト ロ と ヨハ ネ の 大胆 な 態 度を 見 、 し か も 二人 が 無
学な 普 通 の 人 で あ る こ と を 知 っ て 驚 き 、 ま た 、 イ エ ス と一 緒 に いた 者 で あ る と いう
ことも分かった。
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4:14
しか し、足 をいや していた だ いた人 が そ ば に立っ ている のを見 ては、ひと言
も言い返せなかった。
二人の使徒たちが、イエスの古くからの従者であったことは、この時始めて
裁判官たちに認められた。しかし事実は、彼らはぺテロとヨハネがイエスの生
前常にイエスと共にいたのを目撃していたし、またヨハネは大祭司カヤパに個
人 的に 知 られて いたの で ある(ヨ ハネ18:15)。 ぺテロの言 葉 が終ると 全会衆は
一時沈黙した。彼らは彼の言ったことに対し『実に言ひ消す辞なかった』から
である。彼らの中、彼の言葉に対して反対を称え得る者は一人もなく、また誰
一人ぺテロの言を責めるものもなかった。彼らは当惑に顔をゆがめた。
15、16節
この沈黙は囚人たちを釈放しようという提案によって破られた。
4:15
そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、
4:16
言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるし
は、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。
この事実を認めたことは、彼らがその公開裁判の席上では全く偽善者であり
無慈悲であることを暴露している。彼らが如何に互に顔を見合わしたか…それ
は彼らが道徳上全く混迷してなすべき所を知らなかったことを示している。彼
らは互に顔を見合うばかりで、恐しく神を見上げることはしなかったろう。否、
神を見上げることは出来なかったに違いない。
17節
4:17
彼らを動かしたこの動機は、遂に評議の結論となって現われた。
しか し、こ のことがこ れ以上民衆の 間に広まらないよう に、今後あの 名に よ
ってだれにも話すなと脅しておこう。」
この提案を起こした人は、これで自分がこの難問題を解決したぞと思い、他
の人々は、当面の困惑を切抜ける活路を得たことに安心し、内心この処置が成
功することを予期して、大いに喜んだ。この処置は大胆なものでないにしても、
最も安全な方策であり、この決定の実行を妨むものは、彼らの良心以外には何
もなかったから、彼らはこの処置をとることを躊躇しなかった。
ルカがいかにしてこの秘密会議の内容を聞き知ることが出来たか、私たちは
知ることが出来ない。しかし想像することはさして困難ではない。サウロの師
であったガマリエルは当時多分この会議に出席していたであろうし、またサウ
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ロ自身この席に列していたと考えることもあながち無理ではない。更にまた後
に『祭司の中にも信仰の道に従へる者多かりき』ということからも、彼らが悔
改た後に、この時の秘密会議の悪らつを告白することを躊躇しなかった筈である。
6.再び説教することを禁ぜられる(18-22)
18節
4:18
採用された決議は直ちに実行に移された。
そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしな
いようにと命令した。
教会史上において、福音の説教が禁じられたのはこれが最初である。しかも
それは絶対に禁じられたのである。もし使徒たちがこれに服従するならば、公
けにも秘密にも、イエスのことはもはや一言も語ることは出来ない。もしこの
禁令に使徒たちが服していたなら……ということを考える時、その結果を想像
して私たちは戦慄せざるを得ない。
19、20節
二人の使徒たちは、もし我が身の安全を願ったならば、黙して
議会を退き下ったであろう。しかし、
4:19
しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うこと
が、神の前に正しいかどうか、考えてください。
4:20
わた し た ち は、 見 た こ とや 聞いた こと を話さな いで はいら れな いの で す。 」
この答の前半は裁判官たちの良心に訴える反駁であり、後半は彼らの命令を
無視するぞという、あからさまな、しかしおだやかな表現である。使徒たちが
黙せば、議会の命令に同意したものと解される。しかし二人はあまりにも卒直
であって、自分たちがこの禁令に同意した如くに思うわれることを潔しとしな
かったのである。
21、22節
このような賤しい人たちから、このような侮辱を受けることは、
サンヘドリンの高慢な議員たちにとっては、たえられない苦痛であったに違い
ない。しかし民の心をなだめて丸くおさめたいという彼らの欲望は、多分この
ような能力を持った人に暴行を加えることに対する、内心の恐れと一緒になっ
て、その怒りをおさえたのであろう。
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4:21
議 員 や他 の 者た ち は 、二人 を更に 脅して から 釈放した 。 皆の 者 がこ の 出来
事につ いて神を賛美していたの で、 民衆を恐れて、どう処罰してよいか分 か らな か
ったからである。
4:22
このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。
民はぺテロの説教の内容をどう思おうと、とにかくこの『病める者になしし
善き業』を尊敬し称讃しないわけには行かなかった。そしてこの療された人が
四十才あまりであったという事実は、彼をして有名ならしめ、一般の同情を集
めていた。
7.二使徒の報告と十二使徒の祈祷(23-31)
23-30節
使徒たちはこうして、勝利の中に議会を退出した。しかし彼ら
はあの危難の場合にも平静を失わなかったように、この勝利にも誇る所がなか
った。彼らは今、人生の如何なる変遷の中にも毅然として動かぬだけの信仰と
希望の平衡をもっていたように見える。彼らがこの時直ぐにとった途は、私た
ちにとっても深く考慮してみる価値がある。
4:23
さ て二人 は、 釈放 さ れ る と 仲間 の とこ ろ へ行き、 祭司長 た ちや 長老た ちの
言ったことを残らず話した。
4:24
これを聞いた人たちは心 を一つ にし、神に向かって声をあげて言った。「主
よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。
4:25
あ な た の 僕 で あ り 、 ま た 、 わ た し た ち の 父 で あ る ダ ビ デ の 口 を通 し ① 、あ な
たは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民は
むなしいことを企てるのか。
4:26
地 上 の 王 た ち は こ ぞ っ て 立 ち 上 が り 、 指 導 者た ち は 団 結 して 、 主と そ の メ
シアに逆らう。』
4:27
事実 、この都でヘロ デとポンティオ ・ピラトは、異邦人 やイスラエル の民と
一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。
4:28
そ して、実現 す るよ うに と御手と御心 に よってあらかじめ定められていたこ
とを、すべて行ったのです。
4:29
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に
御言葉を語ることができるようにしてください。
4:30
どう か、御手 を伸ば し聖 なる 僕イエ スの 名 によ って、 病気が いやされ、しる
しと不思議な業が行われるようにしてください。」
- 88 -
①この25節において、使徒たちは近代合理主義学派の通説に反して、ダビデをこの詩篇第
二篇の作者であるとし、しかも神自ら聖霊によってダビデの口を通じて語り給うたのである
としている。これ以外の如何なる言葉も、この二つの明確な事実を、これ以上に明白に語る
ことは出来ない。この説が真理であることは霊感に充たされた使徒の権威によっても証明さ
れ る が 、 ま た 彼 ら が こ ゝ に 引 用 す る 預 言 の 明 か な 成 就 か ら も 証 明 さ れ る 。 私 たち が 、 こ れ
ら の 使 徒 たち が 高 等 批 評 学 を 知 ら な か っ た と 言 う な ら ば 、 そ れ は 愚 で あ る 。 今 彼 ら は 、 唯
の人間としてでなく、霊感に充された人として語っているからである。
聖書の中に記録されたすべての祈祷におけるごとく、私たちは、この祈祷の
中にも、その各部分に夫々の適切さを見、また全体を通じて正しい模範を見る
ことが出来る。嘗て使徒たちは、二人の候補者を主の前に立てて、ユダの後任
の使徒職の為に何れを選び給うたかを問うに当り、彼らは神に対し『すべての
人の心を知り給ふ主よ』と呼びかけた(使徒行伝1:24)。しかし今神の保護の力
を求める彼らの祈願の冒頭は『主よ、汝は天と地と海と、その中のあらゆる物
とを造り給へり』であった。次に彼らの祈願の内容も、同様に適切である。彼
らはその願いの基礎を、嘗て主自ら語り給い、今ヘロデ、ピラト、イスラエル
の民及び異邦人によって成就された預言の言葉においた後、その祈願はまず第
一に『 今かれらの 脅喝を御覧し給へ』そして第二 に『僕 らに御言を聊(いささ)
かも臆することなく語らせ給へ』であった。
今日のような戦争と苦難の時代においては、私たちの祈りはともすれば、我
らの敵 に勝たしめ 給え、或は正義なる 我ら(?)に刃向う者の上に天罰を下し給
えというような恐ろしい願いになりがちであるが、このような時代に当って、
使徒たちのこの祈祷の気持を考えてみることは、大きな慰めである。これらの
人たちは単なる政治上の権力とか特権といったようなものを失う危険にあった
のではない。彼らは実に、この地上において持っている最も貴重な、また最も
争うべからざる福音を伝える権利を否定され、しかもそれを放棄しなければ生
命を失うという脅威にさらされていたのであった。その彼らの祈りが、その中
に何らの復讐心や怒りの片鱗も見せず、彼らを迫害する敵に関しては『主よ、
今かれらの脅喝を御覧し』と祈るにとゞめ、あとは自分たちの意志を一片も交
えずに、主の眼に正しきと見えるようになし給えと、すべてを主にまかせたの
である。今日屡々発せられる祈りを見ていると、人々は神に対して何らの謙虚
な気持なく、まるで同僚にでも話しかけるように、神が自分たちの怒りに加担
して、自分たちに都合のよいように味方になってくれと祈っているように見える ① 。
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① こ の 言 葉 を 著 者 が 最 初 に 書 い た の は 、 正 に アメ リカ 南 北 戦 争 の 騒 音 と混 乱 の 中 で 、 両 軍
側に属する最も敬虔な人たちでさえ、戦時の興奮の中に正しい信仰的態度を失っていた時代
であった。当時この註解書の編纂の仕事は、1862年には著者の家から程遠くないミズ
リー州レキシントン市攻略の殷々たる破声によって妨害され、また1863年には、著者の
住んでいたケンタッキー州レキシントン市に市街戦を演ずる両軍の前進後退によって、一時
中止しなければならぬこともあった。
次に彼ら自身の事業に関しては、使徒たちはたゞ迫害者たちの威嚇をおそれ
ることなく御言を語る勇気と力とを与え給えと祈り、そしてこのことは、これ
まで神が常に彼らと共に居給うことを証して来た徴と不思議とを行う力が今後
もつゞけて与えられるようにという願いの中にあらわれている。彼らは、神が
彼らと共に居給うという証しを持つ限り、人々を恐れるということはなかった
のである。
31節
『憶することなき』勇気を求めた彼らの祈りは直ちに聴かれた。しか
しそれは予期しなかった不思議な方法で答えられた。
4:31
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされ
て、大胆に神の言葉を語りだした。
彼らが自分の中に聖霊の奇蹟能力を新に感じ、それに続いて彼らの集ってい
た家が振動したことは、彼らに神がなおも共にいたまうという確信を与えるこ
とによって、彼らの祈り求めた『憶することなき』勇気を与えたのであった。
第四項
教会の一層の発展と第二回の迫害
(4:32-5:42)
1.教会の一致と慈善(32-37)
32-35節
第一回迫害の記録を終ると、ルカは私たちの注意を再び教会の
内部に向けてくれる。弟子たちの信仰生活は、第二章の終にのべられた時より、
今ははるかに向上し、ルカの記述も、このことに関して一層詳細に亘っている。
4:32
信 じた 人 々の 群 れ は 心 も 思いも 一 つ にし 、一 人として持 ち 物 を自分の もの
だと言う者はなく、すべてを共有していた。
- 90 -
4:33
使徒たちは、大 いなる力 をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非
常に好意を持たれていた。
4:34
信 者 の 中 に は 、一 人 も 貧 し い人 が い な か っ た 。 土 地 や 家 を持 って い る 人が
皆、それを売っては代金を持ち寄り、
4:35
使 徒た ち の 足 も と に置 き、 そ の 金は 必要に 応 じて、 お の お の に分 配さ れ た
からである。
この教会に属するこのような多数の人数、それに彼らが急にこの教会の中に
加えられて一つになるまでに、夫々社会において占めていた位置や関係という
ものを考えてみる時、これらの人々が皆『同じ心同じ思い』となったというこ
とは、実に驚くべき事実であり、正にこゝに特記される価値があったであろう。
嘗て主が祈り給うた(ヨハネ17:1,20,21)あの一致は今教会に実現され、世の人
々によって目撃されるところになった。その最も驚くべき顕著な現象は、人々
が夫々自分の所有物を、己のものにあらず凡ての兄弟たちのものであると言い
出すに至らしめた、信者たちの利己心の消滅という事実である。これは決して
社会主義的原理の応用の結果でもなければ、またこの新しい教会という霊的社
会に入れられんとする人々に課せられる規則の強請の結果でもなかった。それ
は実に、すべての信者たちの心を占めた神と人とに対する愛の自然の発露以外
の何ものでもなかったのである。
そもそも古代の異教国民の間においては、貧しい人々の窮乏を救う組識的な
慈善事業というようなものは存在しなかったし、またユダヤ人の間においてさ
えも、彼らの律法がはっきりと貧者の救済を命じているにもかゝわらず、貧し
き人々に対する自発的な慈善ということは、殆ど棄てて顧みられなかった。従
ってエルサレムという大きな市において、このように多数の人々が貧しい人た
ちの困窮を救うために家や土地を売るということは、古今末曽有の一大事件で
あったのである。こゝにルカが『かくて使徒たちは大なる能力をもて、主イエ
スの復活の証をなし、みな大なる恩恵を蒙りたり』と記しているような大なる
成果があげられたのは当然のことである。このような成果をあげた新しい力は
使徒たちの証そのものにあったのではない。それは常に不変であり一定の力を
持つものだからである。この力はむしろこの証が人々に与えた影響、効果にあ
ったのである。この効果が以前よりもまして一層大きかった理由は、この証を
受け入れた人々が、その最初に予期されたような立派な信仰生活を実践したと
いう事実の裏書によるものである。信者すべての上にあらわれた『大なる恩恵』
は、こゝでは神の恩恵を言うのではない。なぜなら神の恩恵は始めからすべて
の 信 者 に 一 様 に 与 え ら れて い る も の だ か ら で あ る 。 こ ゝ に の べ ら れ た 恩 恵
( χάρις )は正 しくは、世の人々 の好意と解 さるべきであ る。 この時以来、教会
の中に完全な一致とゆたかな慈善とが行われる時には、世の一般の人々の大な
- 91 -
る好意 を得て、伝 道 も 一 層 大 な る 栄 を 結 ぶ と い う こ と が屡々言われて来た。
しかし反対から言うならば、如何に有力な説教も、教会の中に一致と慈善とを
欠く時には、目に見える成果を収め得ないことが多いと言える。
当時このエルサレムの教会は、多くの註解者たちが想像しているような、単
なる小自治社会や社会主義的団体ではなかった。何故なら、彼らの間にはすべ
ての教会員の財産を平等に分配するという事も行われなかったし、また使徒た
ちが中央執行委員として全信者の財産を管理するというようなこともなかった
からである。むしろ反対に『分配は、窮乏している人の必要に応じて、夫々の
人々 に 対 して な さ れ た 』 (現 行 邦 訳 『 各 々そ の 用 に 随いて 分 け与 えら れ たれ ば
な り 』 )と い う 記 事 は、 窮 乏 して 受ける 必 要 の あ った 人だ けが 施済 を うけ たの
であって、差当り困っていない人は与える側に立ったということを示している。
こ の こ と は 、更 に 後 に 記さ れ る ア ナニヤ と サッ ピ ラ の行 為 (5:1-4)か ら も説 明
さ れ る し 、 ま た 食 卓 に仕 え る 七 人の 人 を選 定 (6:1-3)した 時の 事情 か らも 明ら
かである。また私たちはこれらの使徒たちが後になって慈善分配の方法をより
合理的に改正したからといって、使徒たちの最初の慈善方策が誤っていたと結
論してはならない。こういった想像をする人たちは、すべて、使徒たちが教会
の 問 題 を 指 導 す る に 当 って 常 に 聖 霊 に 導 か れて い た こ と を 否 定 す る 人 々 で あ
り、同時にキリスト教の慈善に関して、正しく理解していない人々である。事
実このエルサレムの教会は、真のキリスト教慈善の本質を示すことによって、
以後のすべての時代の教会の模範となった。この模範によれば、私たちは教会
内の兄弟たちを食物のために苦しませてはならぬのであり、たとえその兄弟を
救うために教会員中の土地や家屋をもった人々が自分の財産を売らなければな
らない時でも、断じて救わなければならないのである。言いかえるならば、こ
のエルサレム教会の模範は、私たちが兄弟たちと共に、最後のパン屑までわけ
合うべきことを教えている。私たちはまたのちに、アンテオケにたてられた教
会が、この高い理想の模範を忠実に学んだということを教えられる。
36、37節
次にルカは、上にあげた慈善に関する一個人の実例を紹介して
いる。彼がこの人物に関する記事を特にこゝに挿入しているのは、多分この人
物がやがて教会史上に有名な人となったからであろう。
4:36
たとえば、レ ビ族の人で、使徒たちからバルナバ-- 「慰めの 子」という意
味--と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、
4:37
持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
- 92 -
『慰 籍の子』(正 しくは『勧誘の子』)という名は、勧めが上手なので有名な
人に与えられるへブル語特有の表現である。この名前が彼に与えられたのは、
この人が特に人々に信仰の勤めをなすことに秀でていたからであろう。世の中
には論理的教義的にすぐれた説教をなす人は沢山いるが、すぐれた勧めをなし
うる説教者は少い。従って勧めの賜物は、古来教会史上、特に重んじられて来
たことは、御存じの通りである。このすぐれた賜物が、後にこの人が偉大な人
物として知られる に当って、非常な力になっていることを、私たちは後の章で
知るであろう。
モーセの律法がレビ支族に土地の所有を許さず、他の支族からさゝげられる
十分の一の捧物によって生活することを規定していることから、このレビ人が
土地を所有していたという事実を不思議に思う人もあるかもしれない。しかし
私たちは次の事実をも忘れてはならない。即ち最初十二の支族に夫々土地が与
えられ、レビ族に特定の町があたえられた割当ては、既にアッシリヤ及びバビ
ロニヤの捕囚以後、全く破壊されてしまって、その後遂に元の状態に復するこ
とはなかった。なぜなら捕囚から解放されてパレスタインに帰ることが出来た
のは、或る支族の一部の人だけであったし、また彼らも帰還後は再び古い支族
的境界内に定住したわけではなかった。このような事情は、当然レビ人をも殆
ど自活せざるを得ない状態においた。しかも彼等が土地を私有することを禁ず
る律法はなく、またそのような規定は始から全然なかったのである。また聖書
本文にははっきりと示されていないが、ヨセフの畑が故郷のクプロにあったで
あ ろうこ とは明 かであ る。『クプロ に生まれたる人』 という表現は、英語 では
“a man of Cyprus by race”(原語
Κύπριος τῷ γένει
)であるが、この
race(民族、人種)という言葉は単に祖先の住んだ土地の意味に用いられ、人種
的にクプロ土着民の血を引いているという意味ではない。この表現は他の個所
にも見られる。(マルコ7:26、使徒18:2,24)。
2.懲罰の実例(5:1-11)
1、2節 これは人類の悲しい事実であるが、極めて立派な人間のいる所には
必ずニセモノがあり、真の慈善をなす人の上に与えられる称讃は、必ず或人た
ちに偽善を行わせ、実際以上の慈善家らしく見せかける人を出す。この場合も
実にそうであった。それは世人の目には最も美しい、立派な行いと見えたこの
エルサレム教会の慈善は、かえってその教会員の中に腐敗の第一片を生ぜしめ
る結果となったからである。
5:1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
5:2 妻 も 承知の うえ で、代金 をごま かし、その一部を持って来て使徒たち の足 も
とに置いた。
- 93 -
この記事の意味は、後にその妻が明かに告白しているように、使徒たちにさゝ
げられた一部分を、さも所有の全部であるように見せかけたということをもふ
くんで い る。もし 私 たちが、こ の 夫 婦 の 罪 の 動 機 を 分 析 し て み る な ら ば 、
それが二つの不正な欲望が一緒にな っ た も の で あ る こ と が わ か る で あ ろ う 。
まず第一に、バルナバや他の人々に与えられた称讃を、自分も得たいという欲
望--これが土地を売って捧げようという気にならせた。第二に、なおも強い
金銭への執着--これが売った一部をかくしておきながら、全部さゝげたよう
な顔をさせた。従って二人の動機には真の愛から出た慈善心は少しもなかった
ように思われる。しかし一方、考えてみれば、この二人はその貪慾のためにそ
の一部をかくしたにはちがいないが、それは決して全くの貪慾ではなかった。
なぜなら、もし二人の貪慾が今日、口に信仰を称える多数の人たちのように強
ければ、彼らは始めから土地など売りはしなかったろう。彼らが土地を売って
得た金の大部分を、とにかく捧げたということは、彼らが金銭の慾に関して、
他の如何なる貪慾な罪人にもまして、貪慾ではなかった証拠である。にもかゝ
わらず、この二人がこのような恐ろしい罰を受けなければならなかったことは、
すべての後世の人々のいましめとすべき所である。
3、4節
アナニアが使徒たちの周りに集っていた人々の前で、この偽りの献
物を捧げ、そして直ちに次の事件がおこった時の、アナニアの驚愕と人々の驚
き--未だ如何なる人も、如何なる会衆も、このような恐ろしい驚愕を経験し
たことはあるまい。
5:3
す る と 、 ペ ト ロ は 言 っ た 。 「 ア ナ ニ ア、 な ぜ 、 あ な た は サ タ ンに 心 を 奪わ れ 、
聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
5:4
売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分
の思 いどお りに な った ので はな いか 。 どう して、こん なこ とをする 気にな ったの か。
あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
この心の奥底を突刺すはげしい言葉の中で、ペテロは、先の説教の中で神の
絶対主権と人の自由権とを並べてのべたように、サタンの力と誘惑された者の
自由権とを並べて語っている、彼はアナニアに対して『何故サタンは汝の心を
充たせ て聖霊に対 し詐わらしめ たるぞ』(ギリシャ語原典参照)と言い、同時に
その口で『何とて斯ることを心に企てし』とアナニアを責めている。アナニア
を罪に誘惑した者の存在と力ははっきりと認められているのだが、罪を犯した
ことに関しては、サタンではなくアナニアが非難されなければならなかった。
彼はサタンのなした罪を共に行ったために、さながらサタンが何もなさず、彼
一人が罪を犯した如くその罪を非難されなければならないのである。この断罪
- 94 -
は何故正しいか--それは、サタンはアナニアが協力しなければ、アナニアの
心を支配することが出来ないという事実から明かである。彼がサタンに協力し
て罪をおかしたということは、罪の責任を自分の身に帰してしまう。
ペテロがこの偽りの企みを看破したのは、人から聞いて知ったのではなく、
聖霊によって与えられた奇蹟的洞祭力による。この事実は、この記事全体を通
じて、またペテロの非難の中の聖霊に関する言葉からも、どうしてもそうでな
ければならないことが結論されるのである。
5節
アナニアの偽善がペテロによって暴露されたことは、居合わせた群衆に
とっては、非常な驚きであったが、彼らはそれに続いて直ちに次のようなこと
が起ろうとは、夢にも思わなかった。多分ペテロ自身すら予期しなかったこと
だったかもしれない。
5:5
こ の 言 葉 を聞 く と 、 ア ナ ニ アは 倒 れ て息 が 絶え た 。 そ の こ と を耳 に した 人々
は皆、非常に恐れた。
このアナニアの突然の死において、ペテロ自身の意志がこれに関係したとい
う証拠は一つもない。これは全く神の御意志の突然の打撃であって、その責任
は、教会の役員であるペテロに帰せられるベきものでなく、人間の道徳を支配
したまう神に帰せらるべきものである。もしアナニアがその腹黒い企みに成功
したと考えるならば、この罰が彼に適わしいことは明かではないか。すべての
欺きが早晩露見するように、彼の欺きも一時的に成功しても、早晩彼が使徒た
ちを欺いた事が人々に知れわたるであろう。しかもそれが知れわたる時には人
々の心は使徒たちの中に住み給う聖霊の能力に対して、大なる疑問が生ぜざる
を得ない。そして聖霊が欺きを受け得るということは、使徒たちの権威を根底
から覆 えし、信者 の全部ならずとも多 数 の 人 た ち を 躓 か せ る に ち が い な い 。
アナニアの企みは、このような重大危機をその中にはらんでいたのであり、当
然聖霊の能力による絶対的証明が必要となったのである。この証明こそは絶対
に誤りなき証明であり、人々の忘れ得ぬ事件であった。その結果直ちにおこっ
たこ と は、 全く聖霊 の意図 し給うた所であっ た。『これを聞く者みな大 なる懼
れを懐く。』
6節
この光景は、哀傷や又は無用な葬式をなすには、あまりにもおそろしく
感じられた。かつてナダブとアビウがその火盤に異火を盛ったまゝ、幕屋の戸
口に倒れ息絶えたように、そこには泣き悲しむひまもなければ、一刻の猶予も
なかった(レビ10:1-7)。
- 95 -
5:6
若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
これは全く上にのべたアロンの二子の埋葬にならったものである。ナダブと
アビウの埋葬がモーセの命令によったと同じく、アナニアの埋葬も必ずやペテ
ロの命令であったろう。この場所にあって一部始終を見聞していたこれらの若
者たちは、もしペテロからこの命令を受けなければ、必ず直ぐに行って、アナ
ニアの妻に起ったことを告げた筈である。この想像が自然であることは、ルカ
が、何故若者たちがかく行動したか、その理由をのべていないことからも明か
である。
7節
サッピラはこの場に居合わせなかった。
5:7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
彼女がなぜ三時間もの間、夫の死について何も知らなかったか、その理由は
私たちには知ることが出来ない。これは非常に不思議な事実である。彼女の夫
が公衆の面前で倒れて即死し、舁き出して埋葬され、それから既に三時間が経
過しているにもか ゝわらず、アナニアの妻は事件については何一つ知らずに、
この同じ会衆の中へ入って来た。普通ならば、誰しも直ちにとんで行って、彼
女に事の顛末を告げ、少くとも夫の埋葬には間に合うようにしてやりたいとい
う気持がおこるはずである。しかしこゝでも、やはりあの若者たちが驚きと懼
れにうたれて、直 ちにペテロの命によってアナニアの死体を葬った時と同じよ
うに、或る絶対的な権威の命令というものがあったと考えなければならない。
ペテロがこの時、この欺きの罪にサッピラが加担していたことをはっきり確か
めて、その罪を暴露することが出来るように、わざと、その場にいた弟子たち
に、起ったことを彼女に知らせぬよう論じていたと考えることは困難ではない。
8-10節
彼女は夫と共同演出した芝居の最後の一役を演ずるために入って
来た。
5:8 ペト ロは 彼女に話しかけ た。 「あなた たち は、あの土地をこれ これの 値段 で売
ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
5:9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。
見な さ い 。 あな た の 夫を 葬 り に 行 っ た 人 た ち が 、 も う 入 り 口 ま で 来 て い る 。 今度 は
あなたを担ぎ出すだろう。」
5:10 す る と 、 彼女 は た ち ま ち ペ ト ロ の 足 も とに 倒れ 、息 が 絶え た 。 青年 た ち は入
って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
- 96 -
今度のサッピラの死に関しては、ペテロはこゝに起ったことを前以て知り、
それを宣言している。しかしこゝでも、ペテロ自身の意志が彼女の死をおこす
ために用いられたという証拠は一つもない。私たちは彼女の死を、彼女の夫の
死と同じように、全く使徒ペテロの中に内住する聖霊の力のみによるものであ
ると考える。そしてこのことは、当時エルサレムに住んだすべての教権者たち
が同じく認める所であったらしい。何故ならペテロがこの後彼らの前に出た時
にも、何ら犯人の訴訟は提起されていないからである。もしこの事件が違って
解釈されていたならば、当然ペテロは殺人の訴訟をうけたはずだ。
『なんぢら何ぞ心を合せて主の御霊を試みんとせしか』という詰問の中でペ
テロが言っていることは、彼ら夫婦の共謀の目的ではなく、その結果である。
彼等の行為は、聖霊が人間の邪まな思いを探知する能力を持っているかをため
す結果となったという意味において『御霊を試みんと』する行為であった。こ
の欺 き の 罪を 犯し た 夫婦 も、 前以 て(お前 たち は聖 霊 を欺 くこと が出来 ると思
う か )と 問 わ れ た なら ば 、 明 かに 『否 』と 答えたで あ ろう 。その よ うな 愚な試
みの空しいことはわかり切っているからである。彼らがこの欺きの試みを敢て
したのは、彼らが使徒たちを単なる人間と考え、霊感を受けた人間として考え
なかったことによる。彼らが知らず知らずの中に犯したこの聖霊を試みんとす
る罪は、結局聖霊の絶対な勝利に終り、内在の導主としての聖霊の権威と能力
が証明される結果となった。そしてこの事件の後は、もはや誰も聖霊を試みる
という恐ろしい実験を繰り返す者はなかったのである。
11節
この陰謀が万一成功していたならば、キリストのために大いに不幸な
災害をまねいたであろうが、結局この陰謀が失敗に終ったということは、それ
にもまして大きなよい結果をまねき、キリストのために大いに幸先のよい成功
であった。
5:11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。
人々の心に生じたこの懼れは、罪を犯した夫婦がたちどころに撃たれて恐ろ
しい死をとげたという事実のみならず、この事件が証明した使徒たちは、内住
する心の奥底までを見破る力に対するおそれからでもあった。今や弟子たちは、
使徒たちが霊感を受けているという事実を一層強く認識し、一方、不信者の大
衆も、これによって神の力をおそれ、使徒たちを畏敬するに至った。
この事件から目を転ずる前に、私たちは、この事件のもう一つの方向に対す
る関係を考えることを忘れてはならない。この一片の腐敗事件はそもそも主の
- 97 -
金庫に関するものであった。従ってペテロがこゝに強調した点からはなれても、
充分現代の教会生活と関連をもつ問題である。アナニアの語った虚言は、その
献金を自分の能力に比して一倍多額に見ようとするにあった。今日においても
常に或る教会員は、自分の献金する金額を誇大に説明し、或る自分の財産の額
を過少に宣べ伝して、自分のしている慈善の程度をなるべく実際以上に多く見
せようとする。そのような人はアナニアとサッピラの罪を犯しているのである。
もしこのようなやからが、今日只今、その場に倒れて即座に息たえるならば、
或る教会では俄かに教会員が減少するであろう。しかし、すべてこのような行
為を行わんと試みる者は、アナニアとサッピラをその場において処罰し給うた
神は、必ずその時その場所において、彼らに倣う者を罰し給わずにはおかぬと
いうことを知るべきである。
3.教会の繁栄いよいよ加わる(12-16)
12-16節
この一段において、著者はアナニアとサッピラの陰謀の露見と
刑罰の結果を、更に詳しく語っている。その結果は、使徒たちが以前よりも一
層多くの奇跡的医療をなし、人々が一層の敬畏を使徒たちにあらわし、一層多
くの人々が教会に加えられたことによって示される。
5:12
使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。
一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、
5:13
ほか の 者 はだ れ 一人 、 あえ て仲 間に 加わ ろ う とはしな か った 。 しか し、民衆
は彼らを称賛していた。
5:14
そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
5:15
人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかる
とき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。
5:16
ま た 、エ ル サレ ム 付近 の 町 から も 、群衆が 病人 や 汚れた 霊に悩 まさ れてい
る人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。
この文章の最後の部分は、これ以来奇蹟が前より一層多くなされたという事
実は、使徒たちがこの時以来奇蹟をなす能力を増し強められたからではなくて、
人々の中に奇蹟的医療に対する信仰の熱意が一段と高まって来たためであるこ
とを示している。彼らが多くの病める者を癒されるために連れて来たのは、治
病の能力に対する彼らの信仰が以前よりも強くなったからである。これら癒さ
れた人々及び彼らを連れて来た人々の多数がバプテスマを受けたことは明かで
あり、こうして『エルサレムの周囲の町々』にも教会がおこり始めた。ソロモ
ンの廊はなおも弟子たちの集会場であった。しかし今や聖徒も罪人も、使徒た
- 98 -
ちに対しては、前より一層の尊敬的距離を保つに至った。それは彼らが自分た
ちの無価値を感じたことと、またアナニアとその妻とが撃たれたように、自分
たちの何らかの罪の為に、撃たれて罰を受けることを恐れたからである。この
ような考えは、自然、罪人にも大きな影響を及ぼして、彼らを悔改てバプテス
マを受けさせ、既に巨大な人数になっていた教会員の中へ加えていった。こゝ
で特に、始めて婦人のことが記されているのは、多分既にこの頃になると、改宗した
人々の中で、 婦人の 人数 の場合 が、以前より 著しく 増加していたの であろう。
最近の教会の例から見れば、アナニヤとサッピラの罪のように大きな罪が教
会内で暴露される時には、教会はそのために一時的にその名誉を傷つけ、それ
まで保っていた社会の尊敬を減じ、教会員を増さんとする努力も全く果を結ば
なくなるのが普通である。しかるにエルサレムの教会では、その結果がなぜ反
対になったか?この問題は、教会を司る人たちにとっては、甚だ重大な問題で
ある。この相違は、このような醜行を処分する方法の相違にあることは明かで
ある。もしエルサレムの教会が、アナニヤとサッピラの罪を暴露した後に、彼
らを赦し、教会員としての交わりを絶たなかったならば、それこそシオンの道
は哭いたであらうし、また罪人たちを主に帰らせることも不可能となったであ
ろう。しかし主が不意の刑罰を彼らの上に加え給うたことと、また若者たちが
二人の屍の冷えるのもまたず、その死んだ衣服のまゝ何んの儀式もなく直ちに
葬って、彼らに対するはげしい嫌悪をあらわしたことは、周囲の社会全体に、
こゝに罪というものを絶対に容赦せぬ人々の団体があるぞ、ということを感じ
せしめたのであった。聖なる生活を送らうとする人にとっては、教会は聖なる
生活を実践する人々の交わりに入って、助けられることの出来る安全な場所で
あった。この教会という場においては一切の不正は直ちに正され、それによっ
てより高き世界への巡礼の旅を正しく導かれ得るからである。罪と妥協するこ
とを欲し、或は宗教によって己をおゝいかくさずに生きることが不安であると
いうような理由から教会に加入するような人たちは、必ずこのような教会は避
けたに違いない。そして真に自らの霊魂の救を求め、義を行わんとする熱心な
人たちのみがこのような教会を、霊的な家庭として求めたであろう。神が教会
の始まりにおいて定めたもうた、この厳格な懲罰を、再び地上に見るのは何時
の日か? 羊の牧者たる者は、自分の手に委ねられた多くの霊魂に対して、神
の前に責任を問われるものであることを忘れてはならない。
4.使徒たち捕えられ、救出される(17-21)
17、18節 こうして今や、エルサレム全市と附近の町々にひろまった興奮
は、使徒たちに対 して熱心な称讃の言葉となってあらわれ、またこれによって
多くの人々が主に帰したため、先にイエスの名によって説くこと、教えること
を禁じた高官たちも、もはや平静に事態を看過することが出来ず、再びその活
動を開始した。
- 99 -
5:17 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、
5:18
使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。
私たちはこゝに、先にペテロとヨハネを捕えて威嚇したと同じあのサドカイ
人を見る。彼らは先には使徒たちの勢力を破壊しようと試みて失敗に終り、今
またその使徒たちが殆ど人々から崇拝をうけている状態を見て、嫉妬と怒りに
狂い、先に捕えた二使徒のみならず、全部の使徒たちを捕えて、今度は本格的
に彼らに対する威嚇を実行することに決定した。留置場での一夜は、使徒たち
にとって暗い一夜であったが、また外部の信仰弱き兄弟姉妹たちにとっては、
一そう暗い心細い夜であったろう。
19- 21節
使徒たちはこの逮捕と投獄を、今更驚かなかった。彼らはサンヘ
ドリン(七十人議会)が、その威嚇を必ず実行しようと決心していた人々によって、
支配されていることを知っていた。しかしこの投獄に続いて起った出来事は、使
徒たちにとっても、またエルサレム全市にとっても、非常なる驚きであった。
5:19
ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、
5:20 「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
5:21
これを聞いた使徒たちは、夜 明 け ご ろ 境 内 に 入 っ て 教 え 始 め た 。 一 方 、
大 祭司 と そ の 仲間 が 集ま り 、 最高法 院、 す な わち イ ス ラ エ ル の 子 らの 長 老会全 体
を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。
使徒たちが『夜明がた』宮で発見し得た会衆は多分ごく少数であったろう。
彼らはおそらく、心配のために眠ることも出来ず、祈るために宮に入って来た
兄弟たちであったで あろう。そしてこ れらの早朝の礼拝者たちが、常に入って
そこに使徒たちを発見した時、彼らが第一にしたことは、とんで行ってこの報
せを伝えることであった。使徒たちがまもなく聴衆に囲まれたのは、このため
である。私は、この時、前日にさまたげられたあの説教が、まるでほんの一瞬
だけ途切れていたかのように、再び続けて語り始められたであろうと想像する。
5.使徒たち、法廷に曳き出される(22-26)
22-24節 大祭司とその助力者たちとにとっては、この夜は煩悶の一夜で
あったことは疑いもない。朝になれば彼らは、前に自分たちの権威ある命令を
公然無視・拒絶した使徒たちと対決しなければならぬ。しかもその使徒たちは
勇敢な拒絶によって、既にエルサレム市及び周辺の町々の、最も質の良い人々
を多数かち得てしまっているのだ。この男たちを如何にすべきか、それは難問
題であった。
- 100 -
5:22 下役たちが行ってみると、使徒たちは牢にいなかった。彼らは戻って来て報告した。
5:23
「牢にはしっかり鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。
ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした。」
5:24
この報告を聞いた神殿守衛長と祭司長たちは、どうなることかと、使徒たち
のことで思い惑った。
捕えて獄に入れておいた人々が居なくなったということは、不思議であった。
しかし彼らはこの時、この不思議は、使徒たちに与えられている奇蹟の能力に
よるものであることを、忘れはしなかった。しかし私たちにとってむしろ不思
議なことは、彼らがこれだけの事実を見ながら、しかもなお『神の力のこのよ
うな顕現に対して、あくまでも自分たちが戦うならば、神は自分たちに何をな
し給うか』ということを考えることが出来ず、たゞ『これは一体どうなること
か?』と考えただけであったという事実である。更に不思議なのは、彼らが直
ちにこの問題に関して議会を解散して、不利な真相を隠蔽してしまわなかった
ことである。実際彼らは、この報せにはげしく動揺し、一時言うべき所、なす
べき所を知らなかったのであろう。
25-27節
サンヘドリンの議会が召集されたことは、間もなく市中に伝え
られ、人々はこの議会が何のために召集されたのかをも直ちに理解した。また
この頃になると、祭司たちの側近の人々の中にも、その朝、宮の中でおこった
事件を聞き知った者も出て来た。
5:25
その とき、人が来て、「御覧くださ い。 あなた がた が牢に 入れた者たち が、
境内にいて民衆に教えています」と告げた。
5:26
そ こ で 、 守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。 し か し、
民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。
使徒たちが宮にいるという報せを聞くと、宮守頭とその一隊は、何ら再び命
令を受けることを要せずに、彼らに向って差向けられた。彼らは脱獄した囚人
たちを捕えなければならない。しかし宮守頭は民衆の顔色を見た時、自分の任
務が甚だ危険なものであることを知ったに違いない。彼は群衆の中で官憲の暴
力に激昂した一部の短気な人々が、手に石を握っているのを見たかも知れない。
何故なら、使徒たちが如何にして獄から救出されたかを知っていた民衆にとっ
ては、彼らを再び捕縛するということは、許すべからざる迫害であることが、
充分わかっていたからである。従って宮守頭は、使徒たちを普通の脱獄囚を扱
うような態度で扱わず、反って丁重に法廷の前へ護送して来たのである。彼ら
が石にて打たれんことを恐れたのは、勿論決して弟子たちではなく、教会外の
- 101 -
群衆のことであったろう。しかしこの時もし騒擾が起っていたならば、新しく
改宗したものの中にも、また福音の精神を深く教えられていなかった人々が、
この暴力に加担しなかっただろうとは、断言出来ない。
6.起訴と弁明(27-32)
27、28節
私たちは次に、使徒たちの裁判の、生き生きとした描写を見る
ことが出来る。カヤパは、起訴の理由に関しては、先にぺテロとヨハネを捕え
たほど、曖昧ではなかった。それは以前にこの二人に与えた厳命が、今度の裁
判ではきっかけを提供してくれたからである。
5:27
彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。
5:28
「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それ
なのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を
我々に負わせようとしている。」
この 言葉は、使徒たちに対する、二 つ の は っ き り し た 非 難 を 含 んで い る 。
即ち 第 一 に、 サン ヘ ド リ ンの 命に 服従 せぬ こ と、 第二 に イエ ス の血 を(彼を殺
し た 責 任 を)サン ヘド リン に か ぶせ よ う と する こと 、 であ っ た 。 し かも 第二の
点は、起訴者にとっては、なるべく触れたくない、痛い点だったのである。し
かもこの事実がこゝにのべられていることは、最初から彼らを絶えず動揺させ
ていた、隠された不安な感情が、いよいよ外にあらわれて来たことを示さずに
はおかない。たとえイエスの復活が、如何に至る所で宣べられようとも、この
復活の説教がこの一事にふれさえしなければ、イエスを十字架につけた者を『罪
なき者の血を流した』罪に責めることさえなければ、使徒たちの説教に対する
相次ぐ圧迫と弾圧は、決してなされなかったことは明かである。しかし使徒た
ちにとっては、そのような妥協はあり得なかった。これらのあわれな人たちは、
今自分たちの過去の罪のために激怒した民衆の手によって、殺人者の烙印を受
けるか、それとも使徒たちのもつ復活の信仰を弾圧して、これを粉砕するか、
何れかを選ばざるを得ない危険に陥ったことを、自ら発見した。しかも彼らは、
嘗てイエスを罪に定めた、自らの偽善と罪の道から手を引くことをせず、かえ
って、ますます深く罪の泥沼に沈む道を敢てえらんだのである。
5:29
ペ ト ロ とほ か の 使徒 た ち は答 え た 。 「人間 に 従う よ りも、 神に 従わな くては
なりません。
5:30
わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木 ① につけて殺したイエスを復活さ
せられました。
5:31
神はイスラエルを悔改させ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救
- 102 -
い主として、御自分の右に上げられました。
5:32
わ た し た ち は こ の 事実 の 証人 で あ り、 ま た 、 神 が 御 自分 に 従う 人々 に お 与
えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
①こ ゝで 十 字架 の 意味 に 用い ら れて い る『 木 』と いう 語に関 して は、 13- 29節の 説明
を参照。
第一の非難即ちサンヘドリンに服従せぬということに関しては、彼らははっ
きりと弁明し、無罪なることを主張した。ぺテロは第一回の裁判の法廷を立去
る に当 って 、『 神に聴 くよ りも汝らに 聴くは、神の御前 に正 しきか、汝ら之を
審け 』 と言 ったが、 今彼 らは、『人に従 はん よりは神に従ふべきなり』 と断言
した。第二の非難に対しては、彼らはその訴えられた理由をそのまゝ反覆し、
大胆にも、彼らの流した血が罪なき者の血であったこと、しかもこのことはイ
エスの復活と昇天によって証される、という恐るべき事実を、今開いた裁判官
の口の中へ投げ返したのである。ぺテロはなお彼らが復活と昇天の事実を疑う
ことのないように、既に語った所、即ち彼自身とその同僚である使徒たちが復
活の証人であり、昇天については、聖霊がその証人であることを繰返してのべ
た。この証言、昨夜は牢番の守る獄から、人知れず奇蹟的に脱出し、先には聖
霊の能力により、数々の奇蹟を以て、エルサレム全市を驚かせたその人の証言
は、彼等には如何とも否定することは出来ず、いやしくも正直な人ならば、疑
う余地もないものであった。
イエスが悔改と罪の赦とを『与える』ために、君とし救主としてあげられた
という言葉の中には、この罪の赦が価なくして与えられる賜物である、という
ことが含まれている。しかし悔改を『与える』ということは、何も私たち人間
の意志を全然働かせることなしに、たゞそれが神から賜わるという意味ではな
い。何故なら、この悔改ということ自体、既に学んだように、私たち人間の意
志の 行為 である からで ある ① 。 それは私たちの罪に対する憂 から生ずる、意志
の行為である。従って神が私たちに悔改を与え給うのは、直接そのまゝ与え給
うのではなく、間接に、それに導く動機を与え給うことによって悔改を賜わる
のである。この動機は、勿論イエスが救主としてあげられ証明される以前にも、
罪に 対 す る憂 が な か った わ け で はな い が、 今 日の 私たち に とって(ま たこ の時
の ユ ダ ヤ 人 たち に と って )は 、 イエ ス の 死、 復 活 、 昇天 と い う 事実 が 他 のすべ
ての動機との比較を超絶した、唯一の大きな悔改への動機であることが、認め
られなければならない。悔改へのこの最大の動機を与え給うことによって、神
はイスラエルに悔改を賜わったのであった。
①悔改に関しては3:19註解を見られよ。
- 103 -
7.使徒たち、ガマリエルによって、死を免れる(33-42)
33、34節
使徒たちの代弁者として、サンヘドリンの前に、その捕えら
れた罪状を、そのまゝ反覆して返したペテロの態度は、この裁判の指導者であ
るサドカイ人を激昂させること甚しく、法廷は危うく暴徒の群と化しかねぬ勢
であった。
5:33
これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。
5:34
ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属す
るガマリエルという人が 、議場に立って、使徒たちをしばらく外 に出すように命じ、
パリサイ人たちが、福音の進展に対して、サドカイ人ほどはげしい反対を感
じていなかったことは、私たちの既に知ったところであるが、この時もサドカ
イ人たちが、サンヘドリン議会をあげて、恐ろしい罪の中へ急転直下しようと
する危機に立っていた時に少くとも一人のパリサイ人は、彼らよりも賢明な勧
告を発するだけの、冷静さと思慮とをそなえていた。被告を退廷させたことは、
先のぺテロとヨハネの時と同じく、以後の議論が進行する中に彼らが認めなけ
ればならぬ多くのことを、聞かれたくないためであった。ガマリエルが使徒た
ちの退廷を『命じた』と記されていることは、このような発言権が法廷の議員
の誰にも許されていたことを示す。
35-39節
ガマリエルは、下役たちが囚人たちを、外にひき出して戸を閉
すまでは、その席をはなれなかった。一方サドカイ人たちは、待ち切れぬじれ
ったさをこらえながら、彼の発言を待った。
5:35
それから、議員た ちにこう 言った。 「イス ラエル の人た ち、あの 者た ちの取
り扱いは慎重にしなさい。
5:36
以 前 に も テ ウ ダ が 、 自分 を何 か 偉 い者 の よ う に 言 っ て立 ち 上 が り 、そ の 数
四百 人 くらいの 男が 彼 に従 った ことが あった 。彼は殺され、従っていた者は皆散ら
されて、跡形もなくなった。
5:37
そ の 後、 住 民 登 録の 時 、 ガ リ ラ ヤ の ユダ が 立ち 上 が り 、民 衆 を率 いて 反乱
を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。
5:38
そ こ で 今、 申 し上 げた い。 あの 者た ちか ら 手を引きな さい。 ほ うっ ておくが
よい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、
5:39
神 か ら 出 た も の で あれ ば、 彼 らを滅ぼ す こ とはで きな い。 も しかし たら 、諸
君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、
- 104 -
聖書を攻撃する一部の批評家たちは、使徒行伝の著者が、この時ガマリエル
が実際に言ったとは考えられぬような言葉を、彼の口から語らせているといっ
て、非難する。彼等の説に従うならば、チウダの名はこゝでユダの前にあげら
れているけれども、実はユダの後に出たものであるから、いやしくもガマリエ
ルほどの人が、このような誤謬をおかす筈はない。しかもチウダが勢力を得た
のは、ガマリエルがこの演説をしたとされている時から、十二年も後のことで
ある、と言うのである。この非難は、史家ヨセフスが、これより彼のカイザル
・ク ラウ デ オ Claudius Caesar の 時代 に 、チウ ダ とい う者が 現れた こと を
記しているが、そのチウダの経歴が、こゝにあげられたチウダと、よく似てい
るという事実にもとずいている。(古代史XX,5:1)つまりこの非難の根拠は、ヨ
セフスのチウダと、ルカのチウダとが、同一人物であるということが前提とな
るのである。しかし、このような仮説を主張する人たちも、果して両者が全く
同一人物であったかという点になると、この仮説を裏書きする科学的論拠をあ
げ得るものは、一人もいない。むしろヨセフス自身、ガマリエルが丁度この演
説をした時に相当する時期におこった、多数の叛乱の事実を、その指導者の名
を記さずにあげて、事実二人以上のチウダがいたと考えられる余地を、私たち
に残 して いる 。彼は アケラオ (マタイ2:22)の免職 退位が先立つ時期におこった
事 実に つ いて、 次のよ うに 記 して いる。『この時代 にはユダヤ には、この 外に
も一万人に及ぶ、一揆に似た暴動があった。彼らは夫々、或は民衆を自分の側
に勝ち得る希望を以て、或はユダヤ人に対するロマ人の敵意が原因となって、
互に 戦 っ た。』彼は 又他 の箇所で『当時ユダヤには盗賊が横行した 。これらの
暴徒の中では、もし誰か一人の男が指導者として皆の信任を得ると、彼は直ち
に王にまつり上げられ、この王は暴民を率いて、無辜の民衆に危害を加えてま
わっ た。』(古代史ⅩⅦ ,10:4,8)とい っている。これら暴徒の 指導者の中の一人
が、チウダという名であったことは有り得ることであるし、また私たちは聖霊
の導きによって真実を記録したルカの記事を持つ以上、これに対する完全な反
証のない限り、ルカの記録したガマリエルの言葉を、虚偽であると断ずること
は避けなければならない ① 。
①こ ゝに 論 じた 問 題は 、 既に 古 く二 世 紀に 、 Celsus(Origen vs. Celsus,B.I. C.6)が 始
めてこの問題を疑って以来、現代に至るまで、議論の的となって来た。私たちが現在もっ
ているこれらの福音書と使徒行伝とが、何れも私たちの信ずる著者によって書かれたもの
で な い と 主 張 す る 、 すべ ての 不 信 の 輩 と 、 半 合 理 主 義 者 たち と は 、 こ れ を 以 て ル カ が 使
徒行伝を書いたのでない証拠とするが、一方聖書をそのまゝ信じて受け入れる敬虔な人
々は、上に論証した聖書的立場をとる。Alford 及び Meyer の註解書を読まれる方は、
この問題の論争に関する、双方の見解に詳しく接することが出来、同時に各々の見解を
主 張 す る 最 も 有 名 な 学 者 たち の 名 を も 、 知 る こ と が 出 来 る で あ ろう 。 私 が 上 に 論 証 し た
- 105 -
事 実 に 関 して は 、 私 は 更 に 次 の 事 を つ け 加 え た い 。 そ れ は 、 ガ マ リ エ ル の チ ウ ダ に 附 随
っ た 者 の 数 は 『 お ゝ よ そ 四 百 人 』 で あ り 、 彼 ら は チ ウ ダ の 死 後 『 散 ら さ れて 跡 な き に 至
った』のに反して、ヨセフスのチウダは『民衆の中、多数の者をそゝのかし、彼らを率い
てヨルダンに陣をとった』とされ、また Cuspius Fadus の軍勢が彼らを攻めた時には、
官 軍 は 『 叛 乱 軍 の 多 数 を 殺 戮 し 、 多 数 を 捕 虜 に し た 』 (古 代 史 XX,5:1)と 記 さ れて い る 。
このような使徒行伝記事とヨセフスの歴史記事相互間の相違は、ガマリエルのチウダと、
ヨセフスのチウダとが、同名別人であると考えなければ、容易に説明することが出来な
い。このように非常に長い時間のへだたりを持った二人の指導者が、同じ名前であるこ
とは、 私 た ち の 住 む 今 世 紀 (訳 者 註 、 19世 紀 )に も よ く あ る 現 象 で あ る 。 一 例 と して
Stokes 教授から次の一文を引用しよう。
『1848年にアイルランド人の運動がおこったが、
これら の運 動を指導し た有名な指導者の中にウイリアム・スミス・オブライエン William
Smith O'brien という人物がいた。しかるに今日(1891年)同じ種類の運動がアイルランド
に行われているが、この運動の有名な指導者の中にも、同名の
William Smith O'brien
な る 人 物 が い る の で あ る 。 1890年 に は 一 人 の パ ーネ ル Parnel と い う 人 が 、 アイ ル ラ
ンド合併徹回運動を指導しているが、それから90年以前には、同じ名の
Parnel という
人 が 、 大 英 帝 国 と アイ ル ラ ン ド と の 合 併 法 案 を 議 会 が 承 認 す る と 同 時 に 、 高 官 を 辞 職 し
たという事実がある。』(Expositor's Bible, Acts.P.237)
これらの二人の一揆山師の運命を例にあげて、ガマリエルは使徒たちの処分
に関する提案をした。彼のこの勧告の真の意味について、私たちは一般に考え
られている立場とは、やゝ異る見方をしなければならない。それは、もしこの
言葉が、あらゆる宗教運動に対する、全般的な処置方法として提案されたのな
らば、私たちはこれを時勢におもねるものとして、しりぞけなければならない
からである。いやしくも真理を愛する者ならば、このような運動が果して成功
に終るか、不成功に終るかを、手を拱いて待つことなく、早速その注意すべき
主張を検討して、一般の意見や、その宗教の成功の見通し等にわずらわされず、
自ら自分の態度を決すべき性質のものである。しかしこゝでガマリエルの論じ
ている問題は、使徒たちの宗教の本質に対する態度の問題とは自から別問題で
あって、彼はこれによって、この運動が暴力を以て弾圧すべきか否か、という
ことを論じたのである。この点から見る時は、彼の勧告は全く正しい。彼が言
ったように、この運動がもし正当なものでないと仮定しても、果してこれを暴
力を以て粉砕すべきものか?或はこの運動が、神より出たものでないならばす
べてやぶれるように、遂に自らやぶれて弱体化し消滅し始めるまで、処置をと
ることを留保すべきか?これが、ガマリエルの演説の前半の趣旨である。しか
し彼もその演説の終の方では、この運動が果して全く反対すべき性質のもので
あるか……ということについて、一抹の疑念をもらしている。彼は明かに、そ
れが神から出でたものであり、それと戦うことは神と戦うことであるというこ
とを、知っていたからである。しかし、このような環境の下に、かくも平静な
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る思想と正しい推理とによって、このような立派な演説をなすことの出来た人
が、この時に至るまで、この絶対的な証によって証明される正しい信仰の道に、
自ら 入る ことが 出来なかったと いうこ とは、私たちにとって不思 議であ る ① 。
①Christian Bauer はこの考えを利用して、先に行われた癒しの奇蹟を否定しようとする。
曰 く 『 も し こ れ ら の 奇 蹟 が 、 全 く 使 徒 行 伝 の 記 録 の 通 り に 事 実 と して お こっ た も の で あ
るならば、そしてそれらの奇蹟がなされたことを、サンヘドリン自体が否定することの出
来ぬ程、確実な根拠を持っていたのならば、即ち実際にこの生れつき跛者であった男が、
使徒の一言によって癒され、又使徒たち自身が実際に、何ら人手を借りずに、天使によっ
て 牢 獄 か ら 脱 出 す る こ と が 出 来 た 、 と い う こ と が 明 かで あ っ た の な ら ば … ど う して ガ マ
リエルほどの人が、彼がもしこゝに記されたような公平な、思慮深い、経験によって物事
を判断するような人ならば、このような曖昧な意見をのべるだろうか?どうして彼ほどの
人が、 この 企図が 神よ り出 でたか 否か を、将 来の 成行 を待って決しよう、などということ
を言ったであろうか?』(Paul. vol.1:35)しかし、もしこの Bauer氏の質問を、ガマリエ ル自
身に投げかけてみたとしても、それはガリマエルを当惑させるばかりであろう。この時の
ガリマエルの心の状態は、現代の多くの人々のおちいる状態であって、信仰に対する自己
矛盾の罪を犯しているのである。多くの人は、今日もキリストゆえのあらゆる証しが確証
す る か 、 わ り 切 っ た 結 論 を 受 け 入 れ よ う と は せ ず 、 そ う か と 言 って こ れ ら の 詳 細 の 証 明
するところを否定するにはあまりにも正直なのである。
40-42節
ガマリエルの勧告は、議会を制して、流血を止めるだけの効果
はあ っ た。 しかし祭司 たち及び長老たち は、こ の 勧 告 に そ の ま ゝ 従 う に は 、
あまりにも激昂していた。
5:40
使 徒 た ち を 呼 び 入れ て鞭 で 打 ち 、 イ エ ス の 名 に よ っ て 話 し ては な ら な い と
命じたうえ、釈放した。
5:41
そ れ で 使徒た ち は 、イ エ ス の名 の た めに 辱めを受け る ほどの 者に され たこ
とを喜び、最高法院から出て行き、
5:42
毎 日 、 神 殿 の 境 内 や 家 々で 絶え ず 教 え 、 メ シ ア ・イ エ ス に つ いて 福音 を告
げ知らせていた。
モー セの律法は、鞭の数を四十以内に限定し、どの種の犯罪に対してこれを科
すべきか、という点に関しては、全く裁判官の判断に一任していた(申命25:1-3)。
しかしパウロの経験によれば、当時は鞭の数は三十九で止める習慣だったらしい。
(Ⅱコ リ ント 11:24)これ は 多分 、誤算 によって鞭数の制限 を超過するこ とを防
ぐためであろう。従って使徒たちも、三十九の鞭を裸の背中に受けたことは、
明かである。彼らが釈放された時『使徒たちは御名のために辱しめらるるに相
応しき者とせられたるを喜びつつ、議員らの前を出でされり』ということは、
まさにこのような書にして、しかもこのような立派な人々について書かれたの
- 107 -
でないならば、恐らく誰も信じないであろう。特に、これが使徒たちのうけた
最初の鞭の経験であったことを考える時、この鞭に使徒たちがじっと耐え、そ
して喜んで退出したという事実は、彼らがそれまでになした如何なる奇蹟にも
まして、驚くべき事実である。パウロが同じような苦しみに長い間耐えて戦っ
た後に『この故に我はキリストの為に微弱・恥辱・艱難・迫害・苦難に遭ふこ
と を喜 ぶ 、そは 我よわ き 時に強 ければな り』(Ⅱコリント 12:10)と言っている
のは驚くに足りない。しかしパウロ自身よりも古くからのこれらの使徒たちが、
最初の鞭を背に受けた時に、パウロと同じ経験をもったということは、使徒の
歴史中でも最も大きな信仰の顕れの一つである。彼らが苦しみの中に喜ぶこと
の出来た能力は、キリスト御自身が、彼らをこのような試練に合わせ給うだけ、
彼らの堅い信仰を信任し給うたということ、また彼らがキリストが自分たちを
信任し給うたことが誤りでなかったことを、自らの行動で証明する機会を得た
ことを喜んだ、ということを考えるとき理解されるであろう。
使徒たちの説教は、依然として宮の境内で行われた。何故なら使徒たちと兄
弟たちとを、宮の庭に入ることを拒絶する考えは、だれも持たなかった。ユダ
ヤ人は例外なくこの宮の庭に入る権利をもっていたからである。説教はしかも
毎日行われた。彼らは現代のプロテスタントの話法を用いるならば『連続延長
集会』を開いたのである。しかも彼らは、現代多くの説教者たちがするように、
公開説教だけに満足せず、更に進んで『家にて』(42章)教え、また説教した。
この『家にて』という表現は、使徒たちの家でというよりは、むしろ説教を聞
こうとする人々の家でという意味である。なぜなら、もし使徒たちの家でとい
う意味ならば、彼らがなおも同じ一軒の家に住んでいたとすれば、数人の聴衆
しか入れることが出来ない。しかし聴衆の家でならば、使徒たちは教えを求め、
信仰を求めるすべての人たちに、接することが出来たからである。このように
私たちは、すべての伝道の中で最も直接に有効な伝道、即ち個人伝道に関して、
霊威をうけた使徒たちの実例をもつ。この方法を多く用いることなくしては、
如何なる福音伝道者も、十分に社会を福音化することは出来ない。
私たちは今、第一回迫害の終に達した。そしてこの迫害の結果が、使徒たち
の完全な勝利に終ったということを、明瞭に知ることが出来た。人々は今、鞭
刑の柱から去る使徒たちの顔が、主の名のためにこのような苦痛を受けるに足
る者とされた喜びに輝いているのを見て、非常な驚きにうたれた。このような
ことは嘗てこの地上に見られたことはなかった。そしてこれらの使徒たちが、
更にあらゆる威嚇とあらゆる刑罰をもおそれず、間断なく説教を継続するのを
見た時、およそ誠実な男女の心、およそ道徳的英雄を称讃しうる人々の心は、
これほどに信ずる者のたましいを高めたキリストの愛に感じ、強くキリストの
もとに引かれて行くのであった。
- 108 -
第五項
数会のなお一層の発展と第三回の迫害
(6:1-8:4)
1.食卓に事えるため七人の役員がえらばれる(6:1-7)
1節
第二回の迫害を記録し終ったルカはその計画に従って、私たちの注意を
再びその後の教会の進歩に向け、しかる後に、続いておこる第三回の迫害に及
んでいる 。この時まで多数の弟子たちを結びつけていた完全な一致は、或る学者
たちの言うように破れ去ったというのはあまりに独断であるが、何れにせよ破
綻の危険にあった。私たちはこゝに、その危険の原因と、また使徒たちが如何
にこの危機をのり切って避け得たか、その方策を教えられる。
6:1
そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ
語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやも
めたちが軽んじられていたからである。
『日々の施済』という言葉であらわされているのは、慈善心あつい教会員た
ち によって 寄附 され た 救済 資 金 の中か ら 、『 各人そ の 用に 随ひて 』分け与 えら
れた日々の分配のことである。この施済が毎日行われたということ、またそれ
を受けたものが主として寡婦たちであったということは、初代教会が財産の平
等分配を行ったのではなく、たゞ困窮者にのみ分配がなされたという、私たち
の 先 の 結 論 を裏 書 す る 。ギ リ シ ャ 語 の ユ ダ ヤ 人 (英 語 は Grecian Jews『ギ リ
シャのユダヤ人』又は『ギリシャ的ユダヤ人』(正しくはへレニスト Hellenists
Ἑλληνιστής
)とは外国に生まれて、ギリ シャ的教育を受けたユダヤ人で
あり、彼らがへレネス Hellenes,
Ελληνες
即ちギリシャ人の習慣をとり入
れていたことからそう呼ばれていた。このように弟子たちの数が増加したため、
他に多くのなすべき仕事を持っていた十二使徒たちは、当然これらすべての貧
しい人たちを、常に平等の注意を以て直接面倒を見ることが、事実上不可能と
なったから、これらエルサレムでは比較的に『よそ者』的な位置にあったギリ
シャ語のユダヤ人寡婦たちが、無意識の中にまず看過されがちになったという
ことは、ありそうなことである。
2-4節
教会内になおもその強い力を失っていなかった心と思の一致は、こ
の呟きが聞こえるや否や、直ちに働きを開始して、これをしずめる満足な方法
を実行に移した。恐らく、このような必要がおこるということは、既に教会の
頭な る キリスト 、及び使徒に 内住する 聖霊は見 通 して お ら れ た に 違 い な い 。
- 109 -
しかしこの見通しの神智は、この事に関する必要が、使徒たち及び全教会に明
かになるまでは、決して前以て使徒たちに与えられず、使徒たち自身もこの方
法をとることを考えたこともなかった。このように聖霊は、次々におこる問題
に関する真の解答については、その問題に対する必要が生ずるまで、次の真理
を示さず、漸次に導き給うた。これまでは十二使徒が教会における唯一の役員
であった。しかし今、彼らは新しい役員を任命すべく導かれたのである。
6:2
そ こ で 、 十 二 人 は弟 子 をす べ て呼 び集 め て言 っ た 。 「 わ た し た ち が 、神 の 言
葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。
6:3
それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人
を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。
6:4
わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
十二使徒たちにとっては、充分に食卓に事えるために、御言を宣べることを
(全部 でなくとも或 る程度)放棄する か、或いは 食卓に事える仕事 を他の人たち
に委せて、自らは全く御言を宣べることにつとめるか、の何れかを選ばなけれ
ばならなかった。彼らの取るべき道の、何れが正しいかは、あまりにも明かで
あり、彼らは後者をとるに当って躊躇も遷延も許さなかった。
『すべての弟子たち』がこれらの役員の選定にあずかることは、使徒たちに
も聖霊にも正しいことと認められた。使徒たちは実際の選任に当っては、役員
たる者の資格を指定したのみであった。この事実が使徒の先例として、教会役
員の公選という方法に権威を与えるものであるという結論は、如何なる巧妙な
議論によっても避 けることは出来ない。この選挙が全会衆によって、如何なる
方法で行われたか、即ち無記名投票であったか、口頭推薦であったか、また何
ら前もって候補者の指名を行わなかったか等の点については、私たちは何も知
ることは出来ない。従ってこれらの点に関しては、各教会はそれぞれの判断に
従うことを許されるのである。
私たちは、こゝに指定された三つの資格条件を見逃してはならない。これら
の資格は、どのような人のみが、神の教会の役員として適格であるか、という
ことを示すものである。彼らはまず第一に『よき聞えある者』でなければなら
なかったが、これは彼らが教会内の兄弟姉妹たちからも、また教会外の社会の
公平な人たちからも、よき評判を得ていなければならないという意味である。
第二に彼らは『御霊にて満ちたる者』でなければならなかった。この言葉の意
味に関しては、私たちが知るように、これまで使徒たちの外には、聖霊によっ
て奇蹟を行う賜物を与えられた例はないから、ルカのこの言葉をこういった奇
蹟力として解することは正しくない。ルカの言う所はむしろ、聖霊にみちて聖
- 110 -
なる生活の実を結んでいる人である。第三の『智慧にてみちたる者』の意味は、
彼らが複雑な事務を円滑に運営し得るだけの、実際的良識をそなえた人でなけ
ればならない、ということであった。
5、6節
この提案が賢明なものであることは、すべての兄弟たちに明かであ
ったから、彼らは一人のこらず直ちにこれに同意した。
6:5
一 同 は こ の 提案 に 賛成 し 、信 仰 と聖 霊に 満 ち てい る 人ス テファ ノと、ほ か に
フィ リポ、プ ロ コロ 、ニ カノル、ティモ ン、パルメ ナ、アンテ ィオキア出身の改宗者
ニコラオを選んで、
6:6
使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
この七人が全部ギリシャ名であることは、これらの役員たちが全部、不平の
おこった側の人々の中から選出されたことを示し、こゝにエルサレム教会の寛
大さが多分にあらわれている。このことは言いかえれば、ヘブル語のユダヤ人
たち が、『私たちは 何ら利己的な目的 を行おうと したの ではありま せん、また
あなた方ギリシャ語のユダヤ人に対する嫉妬心から、あなた方の寡婦たちを無
視したのでも決してありません。ですから今後この仕事を全部あなた方の手に
おまかせして、私たちの寡婦たちをも安心してあなた方の手に一任いたします』
という意志をあらわしたことになる。このような寛大な委任を裏切るというこ
とは、最も下劣な人間以外には出来るものではなかった。こうして再びエルサ
レム教会には、従来の完全な一致が回復され、再び不平は聞かれなくなった。
こゝに立てられた役員の職名が記されていないことから、或学者たちはこの
職が、ピリピ書第一章及びテモテ前書第三章に記された執事と同一ではないと
主張するが、これは誤りである。しかしなるほど職名はこゝに記されていない
が、そのつとめが全く同一であったことを明示する言葉が、聖書の中に見える。
もしこの時おこった問題が、教会を治めることに関する問題であって、この七
人が教会を治めるために選出され、任命されたのならば、彼らを『治むる者』
(司、ruler)と呼ぶことに私たちは何ら躊躇しないであろう。この場合も結論は
全く同 じである。 この時おこっ た問題は『日々の
題で あ って 、これらの 七人 は
διάκονος ②
διακονειν
δ ι α κ ο ν ί α 』 ① に関する問
するために選ばれた。それな らば
と呼ぶことに何ら躊躇することがあろうか?事実こゝにこの主な
つと め を あらわして い る
διακονειν
という動詞は、英訳 聖書テモテ前書の
第三章で、わざわざ“serve as deacons” ③ (執事として仕える)と訳されている
のである。
- 111 -
①
διακονία
- - (名詞 )奉仕 、 事え る こと 、ま た 、もて なし (ルカ 10:40)救 済基 金 、
物質(使徒11:29)使徒職(ロマ12:7)。
δ ι α κ ο ν έ ω ῶ --(動詞)奉仕する、事える、世話する、食物などを供する。
δ ι α κ ο ν ε ι ν は現在、直接法の不定法。
διάκονος - - (名 詞 )しもべ、事える者、詳細については②の McGarvey 註 を 見 よ 。
δ ι ά κ ο ν ο ι は主格複数。(以上訳者註)
②
διάκονος という単語は、英訳聖書の中では
deacon(執事)、minister(役者、仕人、
英語 で は 普 通 、 教 会 の牧 師 の 意 味 に 用 い る)及 び servant(僕 )の 三 通り に 訳さ れてい る 。
ギ リ シ ャ 語 原 典 を 読 む 機 会 の な い 人 な ら ば 、 今 日 全 く 異 な っ た 意 味 に 用 い ら れて い る こ
の三つの言葉の原語が、同じ
διάκονος
という単語であるなどとは想像も出来ないか
も し れ な い 。 勿 論 こ の よ う な 異 な っ た 訳 し か た は 、 解 釈 に 非 常 な 混 乱 を 招 いて い る 。 正
しくは、この三者の中何れかを、すべての場合に通ずる訳語として用いて、ギリシャ語を
読 む 場 合 に う ける の と 同 じ 意 味 を 、 そ の 言 葉 か ら 得 ら れ る よ う に し な け れ ば な ら な い 。
こういう 意味から考 えると、まず deacon という訳語は適当でないようだ。それはこの
deacon (執 事)と いう 英 語が 連 想さ せる この 言 葉の 意 味が 、 甚だ 限定 さ れた も ので あ る
た め 、 こ の 原 語 が あ ら わ れ る 度 に そ れ を すべ て
deacon と 訳 して し ま う こ と は 、 聖 書
中二ケ所をのぞいては、誤解をまねくであろう。新約聖書中
διάκονος
という語が甚
だ屡々あらわれるにもかゝわらず、そ れ が deacon と 訳 さ れて い る の は 、ピリピ1:1と
Ⅰテモテ3:8,10だけであるのもこのためである。大体 deacon という言葉は、もともと
ギリシャ語の
διάκονος
の英語化してなまったものであるから、その真の意味に関し
て は 、 私 たち は 普 通 の 英 語 の 概 念 に よ らず 、 ギ リ シ ャ 語 の 辞 典 を し ら べ る べ き で あ る 。
次 に minister(英 語 で は 牧 師 の 意 に もち い ら れ る 。 邦 訳 聖 書 で は 仕 人 … … ツ カ エ ビ ト …
… ロ マ 13:6、 役 者 … … エ キ シ ャ … … Ⅰ コ リ ン ト 4:1)と い う 訳 語 も 、 一 般 的 な 訳 語 と して
はど う か と 思 わ れ る 。そ れ は 英 語 に お いて は こ の minister と い う言 葉 は、 現 代で は 特
に 教 会 の 公 開 説 教 者 と い う 意 味 に 用 い ら れて い る が 、 原 語 に は そ う い っ た 限 定 は な い か
らで あ る。 も し こ れ を 英 語 の牧 師 と い う 意 味 の m i n i s t e r に 全 部 訳 す る と な る と 、
どのようなことになるか。
『母、牧師たちに「何にてもその命ずる如くせよ」と言ひおく』
(ヨハネ2:5,9)、『人もし我に事えんと(
ἐμοὶ διακονῇ )せば、我に従へ、わが居る処
に我 が 牧 師 もま た居 る べし 』 (ヨ ハ ネ12:26)『 ケ ンク レ ヤ の 教 会 の 牧 師 な る 我 ら の 姉 妹
フィ ベ』(ロマ16:1)という ことになる。 しかし servant という言葉だ けは、どの場 所に
用いても正しい意味をあらわすことが出来る。これはこの
διάκονος
という原語の、
本 当 の 正 確 な 意 味 で あ り 、 英 訳 の も と に な って い る ラ テン 語 の minister と い う 語 も 、
実は servant を意味する単語なのである。このように servant(日本語では、
「しもべ」、
「 仕 人 」、「 役 者 」 何 れで も よ い と 思 う が 、 私 は 「 仕 人 」 が 一 番 適 して い る と 思 う - - 訳
- 112 -
者)を一 般 訳語 と して用 いる な らば 、 英語 聖 書を 読 む人 は 、ギ リ シャ 語 を読 む人が する よ
うに 、果 して この servant が 職 名と しての servant であ るか 、又は 単に 仕える 者と し
ての servant であるかを、文脈から判断ずることが出来るであろう。そしてこう訳する
ならば、現在夫々 elders(長老)、deacons(執事)と呼ばれる、二種の教会役員は、その教
会における正しい関係をそのまゝ rulers(治める者)、servants(仕える者)として、正しく
解釈されることが出来るであろう。
③私は、私の 註解書の初版に既に発表したこの意見と同じ意 見 が 、 数 年 後 発 行 さ れ た
Lightfoot 監督のピリピ書註解に出ているのを見て喜んだ。(Lightfoot's Phil.p.186)-
-以上著者註。
この個所の 日本訳は『執事の職に任ずべし』(Ⅰテモテ3:10)、『善く執事のつとめをな
διακονέω させ よ 』、『 よ く
δ ι α κ ο ν έ ω する者は』の意である。因みに原語は前者は “ διακονείτωσαν ”
で三人称複数命令、後者は “ διακονήσαντες ”分詞の主格である。--以上訳者註。
す 者 は 』 ( Ⅰ テ モ テ 3 : 1 3 ) で あ る が 、 原 語の 意 味 は 夫々 『
このように、この時に初めて立てられて、職務を与えられたのは、執事の職
であ っ た というこ とは疑 う余地もない 。彼らが任命 され た主な理由 は、『食卓
に事える』つとめのためであったが、前に『日々の施済
δ ι α κ ο ν ί α 』につい
て記され、又無視された寡婦たちの呟きについて記されている所から見て、特
に貧しい人々の食卓に事えることが、その主なつとめであったろう。しかしま
た彼らは、貧しき者の食卓に事えるという仕事に当った自然の結果として、同
時に主 の食卓(聖餐)に事える仕事をも受け持ったのであろう。また彼らに貧民
救済資金を托されたことから、教会の会計に関するすべての責任が彼らに托さ
れていたと考えることも不自然ではない。しかしながら、一方これらの人が教
会の事務的な面に携ったという理由から、彼らが能力と機会を有する、教会内
のそれ以外のすべての仕事から除外されてしまったと考えるのは、誤りである。
神は私たちに委ね給うたすべての才能を用い給う。そしてどのような小さい賤
しい弟子たちにとっても、彼がなすことも許されないような聖なる仕事という
ものはないのである。すべての弟子は主の聖なる業に与ることが出来る。私た
ちはこの後間もなく、これらの七人の執事の中の一人が、使徒たち自身が伝道
した同じエルサレムの市に於て、信仰の証人として雄々しく立ち、また他の一
人が始めてサマリヤの町に教会を建設した、という事実を見るのである。今日
もしこの同じ尊い伝道の業に執事が与ることを否定し、執事の伝道を禁ずる人
があるならば、その人はこゝに顕された神の御意に反対する勝手な制限を課し
ているのである。これらの七人の役員の中、こののち使徒行伝に再び現れるの
は二人 だけである が、この事は決して 他 の 五 人 が 全 然 活 動 し な か っ た と か 、
- 113 -
不信仰であったということをあらわすものではない。彼らが全員執事として仕
えたのは一時的であったけれども、これもある人たちの想像するように、執事
職が始めから一時的なものとして定められたからではなく、実は彼らの仕えた
教会がやがて四散を余儀なくされ、彼らの仕える仕事がもはや必要ではなくな
ったためであった。しかし後になって再び教会が回復された時には、或はこの
七人の中の或人々はエルサレムに帰り、再びもとのつとめについたかも知れない。
こゝにあげられた名前の中、最初のステパノの名には、特に『信仰と聖霊と
にて満ちたる』という言葉がつけ加えられているが、他の五人の名前には繰返
されていない。しかし私たちは彼らが信仰と聖霊とにて満ちていなかったと考
えてはならない。しかもこのことは既に選任に先立って、この職に必要な資格
として使徒たちがあげているのであるから、たとえこの言葉が繰り返されてい
なくとも、私たちはそれがこれらの七人全部についてあてはまるものであった
と解釈すべきである。ニコラオが『アンテオケの改宗者』であったということ
は、彼がかつて異教からユダヤ教に改宗し、その後アンテオケに住んでいたこ
とを意味するが、このことから、使徒たちが既に割礼をうけた異邦人たちを教
会に受け入れ、このような役員にまでも選出することを許していたことがわかる。
この事は、私たちが後に異邦人と教会、或は異邦人とキリストの救いとの関係
についておこった論争を考察する時にも、心にとめておくべきことである。
7節
教会の事務的な面に仕えるため、これら七人の役員を選出したことは、
使徒たちにとっては、その計画通り、説教をすることと教えることとに専念す
ることが出来ることになった。そして全教会の尊き事業は、以前より一層大き
な実を結んだ。
6:7
こ う して、 神の 言葉 はま す ます 広ま り 、弟子 の 数はエ ル サレ ムで 非常に 増 え
ていき、祭司も大勢この信仰に入った。
先に記された多数の増加の後に、エルサレムにおいて更に弟子たちの大きな
増加があったというこの事実は、もはや私たちに当時の教会員の数を正確に計
算することを許さない。伝道の成功は今やその最高潮に達した。この事は改宗
した人々の莫大な数よりも、むしろその中に多数の祭司がいたということから
わかる。何れの宗教においても、祭司というものの持つその宗教との特別な関
係は、常に祭司たちを古い宗教形式の最も熱心な保存者にし、宗教的な改革に
対する最も頑強な反対者にするのが普通である。しかし一旦彼らがその立場を
放棄する時には、その支えて来た宗教は直ちに崩壊し始める。ルカがこゝに記
したこの事実は、彼がこれまでに記録したどの事実にもまして、福音のエルサ
レムの人心に対する大きな効果を強く言いあらわしている。
- 114 -
こ れ ら の 祭 司 たち に関 して 記さ れた 言葉 、即 ち 彼 ら が 『 信仰 に 従 っ た』 (邦
訳=信仰の道に従へり)という言葉は、信仰というものの中には、何か『従う』
べきものがあるということを私たちに教える。この『信仰に従う』ことは単に
信ずることではない。それは信仰を実際に行っていることにすぎないからであ
る。しかしイエスを神の子キリストと信ずる信仰は、当然私たちに、信ずる所
に従って生活することを要求する。この生活とは、私たちがこの信仰の命ずる
所に己をすべて服して従う生活である。この服従はまずバプテスマに始まるか
ら、『 祭 司の中にも 信仰 の道に 従へる 者多かりき 』ということは『祭司の中に
もバプテスマを受けたる者多かりき』というのと同じである。パウロもこれと
同じ思想を頭におきながら、彼が受けた恩恵と使徒の職とは『もろもろの国人を
信仰に従順ならしめんため』に与えられたものであると言っている(ロマ1:5)。
この節にはもう一つ注意すべき表現がある。それはこの言葉が、現代これと
同じ事実を表現するに当って、しばしばアメリカの信者たちが口にする表現と、
奇妙な対照をなしているからである。即ち弟子たちの多数の増加や祭司の多数
が従ったということをあらわすのに、ルカは『神の言ますます弘まる』と言っ
ているが、今日このような弟子たちの増加をあらわすのによく聞く言葉に『貴
重 な 恩 恵 の 時 で ご ざ い ま し た 』、『 主 は そ の 救 い の 御 力 の 中 に い ま し 給 い ま し
た 』、『 聖 霊 の ゆ た か な 注 ぎ に あ い ま し た 』 な ど と い う の が あ る 。 こ れ ら の 言
葉が聖書の言葉から全くはなれているということは、単にそれだけでなく、聖
書に含まれた根本的な考えからはなれているということである。罪人の悔改、
改宗が単に抽象的に、聖霊によってなされるというのならば、このような表現
もよかろう。しかしこのような抽象的な考えをもたなかったルカは、この弟子
の増加 の中に神の 言の増加(現行邦訳=弘まり)を見た。神の言の増加という言
葉で彼が意味したのは、勿論言の量の増加ではなくて、言の効果の増加である。
教会内にあった不平も止み、いっそう完全な教会組織が確立された直後の教会
の好条件は、使徒たちの説教の効果をいっそう大いなるものとし、このような
大きな成功が得られたのであった。
2.ステパノ捕えられ、偽って起訴される(8-15)
8節
教会のこのような大きな繁栄は、先の二回の例と同じく、不信者たちを
怒らせて迫害を起させるに至った。そしてこの場合に犠牲になったのはステパ
ノであった。
6:8
さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の
間で行っていた。
- 115 -
使徒以外の人によって奇蹟が行われた例は、これが始めてである。ステパノ
がこの不思議と徴を行う能力を、彼が執事に選任される以前に受けていたか、
或は執事に任命された後に受けたものであるか、私たちには之を決定すること
は出来ない。又この力がどのような方法によって彼に与えられたかは、著者ル
カも記していない。ルカはこの霊の賜物を分け与えるという問題に関する説明を、
さらに後の機会にゆずっている。(8:14-17)
9、10節
6:9
次に、ステパノを一躍有名にした事情がのべられる。
と こ ろ が 、 キレ ネ と アレ ク サン ド リ アの 出 身者 で 、 いわ ゆ る 「 解放 さ れ た 奴隷
の会 堂 」 ① に属 す る 人々、 また キリキア州とアジア州出身 の人々 などの ある 者たち
が立ち上がり、ステファノと議論した。
6:10
しかし、彼が知恵と”霊”とによって語るので、歯が立たなかった。
①libertines(リ ベルテン)という言葉は、比較的教育をうけていない人には、誤解を招きやす
い。この言葉は自由にされた人々 freedmen という意味のラテン語であるから、わざわ
ざ難解 な libertines という言葉を 使わなくと も、freedmen と 訳 して 何 の 不 思 議 も な
い わ け で あ る 。私はこゝで R.V.訳から離れて敢て freedmen という風に聖書本文を
改訳した。
こ ゝ に あげら れて い る こ れ らの 集 ま り は、 何 れもギ リ シ ャ 語 の ユ ダ ヤ人 (ヘ
レニス ト )で あ って 、 彼 ら は 皆 こ の 聖 な る 市 に お いて 共 に 集 ろう と す る 国民 感
情か ら 、 一つに 集って 自分たちの会堂 を持っていた ② 。 ステパノは 、自身ヘレ
ニストであった関係上、クリスチャンになる以前は明かにこの会堂の会員であ
ったろうが、キリスト教との新しい関係にもかゝわらず、彼はこの会堂の会員
としての特権を失 っていなかった。 従って、彼が今新しい信仰を公けに宣べは
じめるに当って、先ず彼が既に会員であった会堂から開始し、以前からの多く
の知人に罪を知らしめて悔改ようとしたことは、甚だ当然なことである。彼の
この行動は会堂に論争をひきおこした。
②こゝにのべられた会堂の数に関して、或る学者たちのとる結論、たとえばこゝにあげら
れている会堂の数は三つであるとか、(Alfred、同上)二つであるとか、四つであるとか、
或は五つである(Meyer、同上)というような意見については、私は聖書本文の言葉遣いの
中に何らの根拠を見出すことが出来ない。
こ の会 堂の会員の中 で甚だ多数を擁していたリベルテン(自由にさ れた人)と
よばれる人たちは、以前にはロマの奴隷であったが、何らかの方法によって再
び自由権をとりもどした人々である。他の人たちは、こゝにあげられた幾つか
の町々や国々出身の人々であるが、この中キリキヤ人というのは、多分後に使
- 116 -
徒パウロとなった人と同国人であったろう。当時のユダヤはサドカイ人よりも
むしろパリサイ人の間に盛であった。そして外国のユダヤ人たちの中、信仰深
い人たちは、主としてパリサイ人に属し、また同時に大てい幾らかの富と知識
との所有者であった。従ってこういったことから、今教会側の新しい指導者ス
テパノと、キリストを信じないこれらの諸会衆との間に知的闘争がおこったの
である。彼らのたゝかいは、果してあのイエスが、預言されしメシヤであった
かという重要問題に関するはげしい論戦であった。未だかつて、おそらくイエ
スの生涯においてすら、この日行われた論争の問題について、双方の有能な対
論者たちの間に、かくもはげしい熱論が延々とたゝかわされたことはなかった。
これは弟子たちがキリスト教に関する公開論争において、反対者たちに対して
真正面から論戦を交えた最初である。一方キリスト教に改宗して日なお浅い信
者たちは、それまで彼ら自身をしてキリストを信ぜしめた証拠と、之を否定し
ようとする人間の学問と智慧とが構成する証拠とを、比較する機会を持たなか
った。しかし彼らは今双方の意見を聞くことが出来た。しかもこの時の反対論
者側は、数においても、学識においても、社会的地位においても、信者側に対
してはるかに優勢を占めていたのである。この機会は彼らにとってはその信仰
を左右する危い瞬間であり、彼らがこの時如何に真剣にステパノとその敵たち
との議論に耳を傾けたかは想像にかたくない。しかし彼らが始めに懐いた不安
はたちまち消失し、ステパノの論敵たちも『その語るところの智慧と御霊とに
敵すること能はず』ということが明かとなった。
11-14節
人は真理の討論に失敗すると、自分の意見の誤りを認めるより
は、むしろ罵言や暴力に訴えてでも自分の立場をを守ろうとするのが普通であ
る。このおそろしい罵りと暴力とが今ステパノの上にふりかゝった。つまりこ
の論争の当事者であったパリサイ人たちは、先にイエスに対する迫害に用いて
成功したその同じ政略を、今ステパノに対しても試みようとしたのである。
6:11
そこ で 、彼ら は人 々 を唆して、「 わた した ちは 、あの 男がモーセ と神を冒涜
する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。
6:12
また 、民衆 、長老た ち、律法学者たちを扇動 して、ステファノを襲って捕ら
え、最高法院に引いて行った。
6:13
そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場
所と律法をけなして、一向にやめようとしません。
6:14
わ た し た ち は 、 彼が こ う 言 っ てい る の を 聞 い てい ま す 。 『 あ の ナ ザ レ の 人 イ
エスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」
- 117 -
民衆が弟子たちに対して憤り、迫害の挙に出たという例はこれが最初である。
これまでは民衆をおそれる気持が、これらの迫害者たちの暴力をおさえて来た
が、今 そ の 民 衆 が 迫 害 者 た ち に そ ゝ の か さ れて 、暴力をもって起ち上った。
このはげしい変化の理由はこうである。先の迫害を指導したサドカイ人たちは、
元来一般民衆に対しては比較的勢力をもたず、使徒たちに対しても、単にサン
ヘドリンの権威をまもるため に反対 して来たのに対し、この場合に民を唆した
パリサイ人たちは、民衆に対して大きな勢力を有していたから、彼らは重大な
訴えの理由を手に入れるためには、たゞステパノの発した一つの言葉をとらえ
てこれをほんのわずか曲げさえすれば、民衆の心に毒を吹き込むことは実に容
易だったのである。しかもこの訴えが、既に民衆の信頼を得ていた使徒たち全
体にではなく、今頭を現したばかりのいわば無名の一人物であったステパノを
えらんでなされたことは、彼らの狡猾さをあらわして余りがある。
彼らの非難は主として、ステパノが神を涜す罪をおかしたということであっ
た。この罪は律法によれば死に値するものである。モーセを涜したというのは、
彼がイエスはモーセの伝えた慣習を変えるであろうと言ったことを指し、神を
涜したというのは、彼がイエスは神の宮を毀つであろうと言ったことを指して
いた。ステパノが実際にその弁論の中で、宮が破壊されるであろうとのイエス
の預言を引いたことは考えられる。しかし彼はイエスが宮を破壊し給うであろ
うと言ったのではなかった。彼の敵たちは宮がもし破壊されたならば、宮の祭
事がすべて廃れることを考えたから、この推測をステパノの舌に帰して、イエ
スがモーセの授けた慣習を勝手に変えるであろうということをステパノが言っ
たとして彼を訴えたのである。この二つの点はステパノに対する訴訟に対して、
完全な 理由を構成 するこ とが出来た程、殆ど真実に近かった ① 。たゞ彼らの偽
証は、彼らがステパノの言葉に勝手な附会をして、彼が神を涜したと結論した
点にあった。
①Bauer氏が『パウロの先覚者ステパノ』と題する一章の中で取っている立場、即ちステ
パノ は宮 に おける礼 拝を 『既 に廃れ 滅び た』も の と 考 え て い た に も か ゝ わ ら ず 、 一 方
『使徒たちはなおも古くからの宮への執着をたち切れず、忠実な宮礼拝者であった』とい
うような解釈は、たとえこのステパノに対する訴えがすべて事実であったとしても、聖書
的には何らの根拠のない謬説である。な ぜ なら 聖 書の ど こを 開 いてみて も 、彼 が 宮の 破 壊
に関するイエスの預言の解釈について使徒たちと意見を異にしていたという証拠もなけれ
ば、 また ス テパノ が宮 の 礼拝 を 『既 に 廃れ 滅び た 』ものと考えていたというような証拠もな
いからである。(Life and Works of Paul, vol.1, c.2)
- 118 -
私たちはこゝで、パリサイ人たちが、サドカイ人たちのように裁判するため
に人を法廷に曳いて来る際に、何のはっきりした理由を持たなかったというよ
うな愚を繰返さなかったということに、注意しなければならない。彼らはまず
正式に訴因をこしらえて提出し、その訴因を支持するための証人の言をわざわ
ざ慎重に聴取し、その上でステパノをよび出して、弁明の機会を与えたのである。
15節
こうして訴因が充分に説明され、証人の証言が全部終ると、議会は一
瞬沈黙して今起訴者の前に立つステパノに目を注いだ。
6:15
最 高 法 院 の 席 に 着 い て いた 者は 皆 、ス テフ ァ ノ に 注目 した が 、 そ の 顔 は さ
ながら天使の顔のように見えた。
私たちはステパノの容貌について、何ら超自然的な現象がおこったと考える
必要はない。彼は今、かつて彼の主が死刑に定められた時に立ち給うたその同
じ場所に立ち、同じ理由によって訴えられ、そして同じ裁判官に裁かれるので
あった。しかも彼は、この法廷は彼を正しく裁判するためではなく、彼を罪に
定めるために開かれたものであることを知っていた。彼は今自分の生涯の最後
をかざる崇高な時が来たことを知った。そして彼が過去について、死について、
天国について、また彼が主張した信仰の道について思いを致し、同時に今行わ
れんとしている卑劣な殺人の意図を考えた時に、彼の心の中に湧き上って来る
数々の情緒は、彼の顔を殆ど超自然的なまでに輝かせたに違いない。或は彼の
容貌は元来美しく表情に富んでいたかもしれない。そしてもしそうであったな
らば、このような瞬間において、彼の顔が天使の顔に見まごうたということは
少しも不思議ではない。
3.ステパノの演説(7:1-53)
序
1-8節
論 (1-8)
天使の如く輝く顔をあげて立ったステパノは、大祭司の言に応じて
今こゝに聖書中に記録された中でも最もすぐれた驚くべき演説の口を切った。
7:1
大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。
7:2
そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。
わた した ち の 父ア ブ ラ ハ ム が メ ソ ポタ ミ アに い て、 ま だ ハ ラ ン ① に 住ん で いな か っ
たとき、栄光の神が現れ、
7:3
『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。
7:4
そ れ で 、アブラ ハ ムはカ ルデ ア人の 土地を出て、ハ ラ ンに 住みま した 。 神は
- 119 -
アブラハムを、彼の父 が死んだ後 ② 、ハランから今あなたがたの住んでいる土地 に
お移しになりましたが、
7:5
そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一 歩 の 幅 の 土 地 さ え も 。
しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を
所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。
7:6
神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にさ
れて虐げられる。』
7:7
更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その
後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』
7:8
そして、神 はアブラハ ムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラ
ハムはイ サクをもうけて八日目に割礼を施し、イサ クはヤコブを、ヤコブは十二人
の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。
①合理主義者たちは一般に、ステパノがこの演説の中で幾つかの歴史的錯誤をおかしてい
るとして非難する。その第一は神はアブラハムが『未だカランに住まざりし時』にこの命
令を 彼 に 与 え た と ス テパノ が 言って い るの に反 して 、創 世12:1-4は 神が カ ラン (邦訳 旧 約
- ハラ ン )に お いて こ の 命 令 を 与 え た と 記 して い る 、 と い う の で あ る 。 しか し ス テパノ の
この言葉は、実は彼はカランでおこった史実を知っていたのだが、それに附加えて更にそ
の前におこった事件を述べようとしたことをあらわしている。即ち彼は神がカランにおい
てアブラハムに現れ給うたことを知っていたと同時に、また聴衆の中の或る人たちが看過
していたこと、即ち神がそれ以前にもアブラハムに現れ給うた事実をも知っていたので、
こゝでは先の顕現について述べたのである。しかもこれこそはアブラハムをしてカナンに
向って出発せしめた命令であったのである。ステパノの誤りを主張する人たちは、創世11:
31に 記 さ れ た 事 実 、 即 ち テ ラ が そ の 家 族 を ひ き つ れて 『 カ ナンの 地 に 行 か ん とて 倶 に カ
ルデヤのウルを出でたりしが』という事実を説明しなければならぬ。このセム人の全家
族を 、あ の ハム 人 の住 む 国カ ナン まで 1,600km以 上の 旅路 に出 発させ たも のは、 アブ ラ
ハムを遂にカランよりその国にまで召したと同様の神の命令にあらずして何であろうか?
ステパノはそれがこのような命令であったことを言っているのである。そしてたとえ彼が
この結論の基礎を単に創世11:31からの論理的な推測におき、何らその他に智識の資料を
持っていなかったとしても、何びともこの推測が正当なものであることを否定することは
出来ない。もしこの事実に関して、その命令がもし前に与えられたのなら、このような殆
ど同じ言葉でもう一度繰返される筈はない、と反対する人があるならば、私たちは答えよう。
ヨナに対してニネべへ行くべく命ぜられた神の命令は、彼が魚の腹に三日三晩とじこめら
れた後に、再び最初の時と殆ど同じ言葉でこの命令を繰返して与え給うていると(ヨナ1:2
及 び 3:2)。 更 に ま た 面 白 い こ と に 、 ス テパノ の こ の 引 用 を 、 創 世 記 12章 の 第 二 の 命 令 と
比較してみると、ステパノの言葉には一ケ所ぬけている言葉がある。即ちステパノは『汝
の父の家を離れ』という言葉を落しているが、これはアブラハムがカルデヤのウルを出発
した時には、後にカランを出た時のように『父の家を離れ』なかったという事実と符合する。
- 120 -
② ス テパノ に 対 す る 第 二 の 非 難 は 次 の 通 り で あ る 。 ア ブ ラハ ム は そ の 父 が 70歳 の 時 に 生
まれた (創 世11:26)。 彼は75歳の時 カナンを 去った。従 って そ の 父 の 年 令 は 、70+ 75=
145歳 で な け れ ば な ら な い 。 し か も テ ラ は 205歳 ま で (創 世 11:32)生 き た か ら 、 アブ ラハ
ムがカナンを去った後、205-145=60年なお生きていた等である。しかるにステパノの
言 に よ れ ば 、 テ ラ は ア ブ ラハ ム の 出 発 前 に 死 ん だ と い う 。 し か し こ の 計 算 全 体 も 、 も し
出発点の数字が誤っていれば意味をなさない。創世11:26の聖書本文はこうである『テラ
七十歳 に及 びてア ブラハ ム、ナホル 、及びハランを生め り。』私たちはこ れらの三人 の子
が 三 つ 児 で あ る と 考 え な い 限 り 、 ア ブ ラハ ム の 生 ま れ た 時 テ ラ が ち ょ う ど 7 0 歳 で あ っ
たと断言することは出来ない。しかし彼らが三つ児ではなかったこと、またナホルとア
ブ ラハ ム が ハラ ン よ り は る か に 年 下 で あ っ た こ と は 、 ナ ホ ル の 妻 が ハラ ン の 娘 で あ っ た
事 実 、 ま た ハラ ン の 子 ロ ト が 、 後 の 二 人 の 歴 史 に 見 る よ う に 、 ア ブ ラハ ム よ り 甚 し く 若
くはなかった、という事実から明かである。従ってこの三人の子の出産に関する記事は、
ア ブ ラハ ム 或 は ナ ホ ル の 生 ま れ た 時 を 示 す た めで は な く 、 た ゞ ハラ ン の 生 ま れ た 時 を 示
すのが目的であった。之によく似た記事は創世5:32にも見られる。『ノア五百歳なりき。
ノア、セム、 ハム、ヤぺ テを生めり 。』ところが洪水のおこった年にノアとセムの年令を
比較して見 ると 、セムはノア の520歳 の時に生まれ たことがわ かる。(創世 3:13、 及び
創 世 11:10参 照 )言 い か え る なら ば 、 創 世 記 の 記 者は そ の 文 章 を 極 度 に簡 潔 化 す る 目 的 の
ために、上のテラ及びノアの何れの場合にも、それらの子供の一人(多分何れも長子)の生
まれた時の父の年令を記しているのであって、同時に書き加えられた二人の子の名前も、
決して 彼ら が 全部 一 度に 生ま れ たと い う意 味 では な いの で ある 。 (訳 者 註… 何故長 子を 第
一に書かなかったか、反対の順序に書いたか、についてはマガーヴィ氏は何も言っていな
い。 )実 際 、創 世 記記 者 は、 三 人が 一 緒に 生ま れた かの如 き印 象を 与える 事を さけるた め
に、文脈上こういった印象を否定するような言葉をつけ加えている。従ってステパノが、
神がテラの死後アブラハムをカナンに向って移住させ給うたと言っていることは信用出来
る 言 葉 で あ る 。 そ して も し そ う な ら ば 、 アブラハムが生まれた時のテラの年令は205-75
=130 である。
ア ルフ ォー ド 氏は この 結 論に反 対して次 のよう に言 って いる 。『テ ラは 当然 アブラハ ム
を130歳の時に生んだことになるが、しかしこの130歳の時に生れたアブラハム自身が、
後 に 99歳 の 自 分 に 子 供 が 出 来 る こ と を 信 ず る こ と が 出 来 な か っ た 。 (創 世 17:1,7)こ の よ
うなことから当然、このイサクの誕生について聖書の他の色々な個所で論じられ、アブラ
ハム の偉 大 な信 仰 が結 論 されて いる の であ る。参 照ロ マ4:17-21、へ ブル 11:11,12(同 上
註解書)しか しこの尊敬 すべき立 派な学者も 『当然』この 同じアブラハムが、この99歳の
時より遥かに後になって、恐らくサラの死後、彼が137歳の時、再び若い妻ケトラを娶っ
て六人の子供を生ませたという事実を忘れているのである。(創世23:1、24:1-4)アブラハ
ム が 子 供 の 出 来 る こ と を 信 ず る こ と が 出 来 な か っ た と い う こ と は 、 彼 ア ブ ラハ ム に 関 す
る限り(この 事は主としてサラにつ いて言 われているのだが)単に老齢であったということ
以外の何かにある。それは多分彼の妾ハガルが第一子イシマエルを生んでから、既に彼は
十三年間も彼女と同棲していたにもかゝわらず、彼女はそれ以来一人も子を生まなかった
ということに、あったかも知れない。(創世17:24,25)
- 121 -
ここにはアブラハムの最初の召命から、ヤコブの十二子の割礼に至るまでの
創世記の物語の梗概が静かに、威 厳 を 以 て 、 し か も 描 写 的 に 語 ら れて い る 。
この追憶の物語は、ちょうどあの Pilgrim Fathers の移住の物語が、常に私
たちアメリカ人の興味をそゝるように、ユダヤ人たちの興味と追想を喚起した。
しかしこの物語がステパノに対する訴えと一体何の関係があるのか?この物語
が今まさに死罪に定められようとしている人の口から出たのは何故であるか?
こういった疑問は聞くすべての人の心におこったに違いないが、彼らはこの瞬
間それに答えることが出来なかった。またこのことは私たちにとっても、後文
の結論を予期しない限り、答えることは出来ない。
Ⅱ.ヨセフの場合 (9-16)
9-16節
ステパノは次にヨセフが兄弟たちによって売られた事情から、遂
にヤコブのエジプト移住、そして彼と彼の子らが異郷に死ぬまでのいきさつを
語る。この物語も前のアブラハムの物語と同様、甚だ描写的であり、しかも巧
みに簡潔な形に省略されている。
7:9
こ の 族長 た ち は ヨセ フを ねた ん で 、 エ ジ プト へ 売っ てしま いま し た。 しか し、
神はヨセフを離れず、
7:10
あらゆる 苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵 をお
授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大
臣に任命したのです。
7:11
とこ ろ が 、エ ジ プ ト とカ ナン の全土 に飢饉が 起こ り 、 大きな苦難 が襲い、 わ
たしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。
7:12
ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行
かせました。
7:13
二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセ
フの一族のことを知りました。
7:14
そ こ で 、 ヨセ フ は人を 遣 わ して、 父ヤ コブ と 七十五 人 の 親族一 同 を呼 び寄
せました ① 。
7:15
ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、
7:16
シ ケ ム に 移さ れ 、か つ てア ブラ ハ ム が シ ケムで ハ モ ル の 子ら か ら 、幾 ら か
の金で買っておいた墓に葬られました ② 。
①ステパノはこゝで第三の誤りをおかしていると言われる。それはヤコブの家族の人数を
75人と言っているにもかゝわらず、創世46:27の本文には、カナンで死亡した二人を加え
て 70人 と な って い る こ と か らで あ る 。 こ の 相 違 を 説 明 し よ う と して 、 従 来 色 々 な 推 測 が
- 122 -
行われて来たが、まず第一に考えるべき唯一の正しい推測が看過されて来ている。それは
ステパノは へレニスト(ギリ シヤ語 を話 すユ ダヤ人 )であ ったから、 ギリシャ語訳 によって
聖書を読んでいたという事実である。これは外国生れのユダヤ人の会堂における彼の敵た
ちもそうであり、また既にへブル語が死語と化してしまったユダヤ人の多数にとっても同
じ で あ っ た 。 彼 の 用 い た ギ リ シ ャ 語 聖 書 、 即 ち 七 十 人 訳 は はっ き り と 、 彼 が こ ゝ に あ げ
たと全 く同 じ人数 をか ぞえて いるので ある。七十人 訳の本文は 次の通りであ る。『ヤ コブ
の家の 人の エジプ トに いた りし者 はあ わせて七十 五人なりき 。』そして この訳はへ ブル語
原 典 と 相 違 す る 五 人 の 人 数 を 、 20節 に お いて マ ナ セ の 二 子 、 エフ ライム の 二 子 、 及 び エ
フライムの一人の孫の名をそれぞれあげることによって説明している。ステパノは彼自身
また彼の聴衆たちが読んでいた聖書の語句をそのまゝあげたのであって、多分彼も聴衆も、
この時は原典とギリシャ訳との相違など考えていなかったであろう。
②この文の中でも、更に二つの誤りがステパノに帰せられている。しかもそれは前の三つ
の場合にもまして本当の誤謬であるかのように見えるのである。彼はヤコブがシケムに運
ばれてそこで葬られたと言っているように聞えるが、実はヤコブはへブロンのマクペラの
洞穴に葬られた。また彼はアブラハムがその墓をシケムにおいてハモルの子等から買った
とはっきり言っているが、実はアブラハムが買ったのはへブロンの墓場であって、シケム
の土地を買ったのはヤコブである。ステパノがこの二つの誤りをどうしておかしたか、そ
れは殆ど想像することも困難である。何故ならヤコブの埋葬の物語は創世記の中でも最
も 有 名 な も の で あ り 、 し か も こ の 葬 式 は 、 単 に ヤ コ ブ の 家 の 者 の み な らず 、 エ ジ プ ト の
長 老 たち 及 び 騎 馬 の 一 大 隊 伍 を 含 む 、 盛 大 な 行 列 に 送 ら れ た の で あ る か ら 、 イ ス ラ エ ル
人なら誰でもよく知っている話であり、ステパノ自身にも当然親しい物語だった筈だから
である。同様にアブラハムがマクペラの洞穴を買ったことについても、これは老齢におい
て最愛の妻を矢ったアブラハムの悲しみにつけても、またこの土地をめぐる交渉に際して
ア ブ ラハ ム の と っ た 謙 譲 の 美 徳 、 及 び 土 地 を 売 っ た ヘテ 人 の 美 徳 に つ け て も 最 も 有 名 で
しかも面白い物語であったから、少くとも聖書の智識を持った人、特にステパノのような
人 が こ の よ う な 大 錯 誤 を 犯 す 筈 は な い 。 む し ろ 古 代 の 筆 写 者 たち の 中 の 或 る 者 が 、 ア ブ
ラハムが土地を買った史実を知っていたためにヤコブ自身がまたシケムの地を買ったこと
を忘れて、ヤコブの名のあった所にアブラハムの名をかえて書き込んでしまったものであ
ろう。従って私達は多数の有名な批評家と共に、この場合の自然の可能性から、アブラハ
ムの名は書記の写し誤りであって、ステパノの誤りではないと結論する外はない。ヤコブ
の埋葬に関してはもう一つの説明が可能である。英語訳ではこの文は二つの節からなって
いる。即ち“he died, himself, and our fathers,”(彼は死んだ、彼自身、そして我らの
先祖たちも):“and they were carried over into Shechem.”(そして彼らはシケムに
運ば れ た )。 こ の 構 文か ら 見 る と “ himself”と “ fathers” は 同じ く一 つ の動 詞 “died” の 主
語のようであり、“were carried”の前にある“they”という代名詞は、この両者をうけて
いるよ うに見 える。し か し 原 文 で は そ う で な い 。 構 文 が 全 く 異 っ て い る の で あ る 。
ἐ τ ε λ ε ύ τ η σ ε ν であり、これは αὐτὸς 即ち
との み 一致 す る。 もし 複 数なら ば、 ἐ τ ε λ ε ύ τ η σ ε ν であ る。 構文は 次に 複
“died”と 訳 さ れて い る 動 詞 は 単 数
himself
- 123 -
数の主語が入 って来ると 全く変るか ら、従 っ て 複 数の動詞
ἐτελεύτησεν
“were
carried”は“fathers”の述語動詞であって、“Jacob”を受けるのではない。従って当然こ
の二つの節は、正しく句読を施し、省 略 さ れ た 動 詞 を 補 う な ら ば“and he died; and
our fathers died, and were carried over into Shechem.”(そして 彼は死んだ 。ま
た我 ら の 先 祖 たち も 死 んで シケム に 運 ば れ た )と なる 。 こ の 訳 と こ の 句読 は 全 く 合理 的 で
あ って 、 同 時 に こ の 方 法 に よ る な ら ば 矛 盾 は 全 く 消 滅 す る 。 も し こ の 節 が 最 初 か ら こ の
よ う に 正 し く 英 訳 さ れて い た な ら ば 、 こ の よ う な 矛 盾 は お こ ら な か っ た で あ ろう 。 ヨ セ
フ以外の『先祖たち』がシケムに送られてそこに葬られたかということは、旧約聖書の記
事からは証明することが出来ない。彼らの埋葬のことに関しては旧約聖書は何らふれてい
ないからである。ステパノはこの事実に関する智識を、モーセの幼時の教育に関する智識
と 同 じ く 、 聖 書 外 の 何 ら か の 資 料 か ら 得 た の で あ ろう 。 し か し ヨ セ フ の ミ イ ラ が ハ モ ル
の子 らか ら買 った 土地に 葬ら れたこ とか ら(ヨシュア24:32)彼 の兄 弟たちも 同じ場 所に 葬
られたと考えるのは、あながち不自然ではない。第四世記にパレスタインに住んだヒエロ
ニムスは『十二人の先祖たちは Arbas(ヘブロン)に葬られたのではなく、シケムに葬られ
た』と言っているが、このことは、ステパノの言った事が彼の時代には一般に真実として
信じられていたことを示すものである(Speker's Commentary中の引用を見よ)。ステパ
ノ は ま た ヤ コ ブ が シケム の 土 地 を 買 っ た 時 に 、 墓 地 を も 一 緒 に 買 っ た と い う 史 実 を や は
り旧約以外の他の資料から知っていたのであろう。しかしこのことは少しも不思議ではな
い の で あ って 、 実 際 こ の 墳 墓 を 得 た い と い う こ と が ヤ コ ブ の 土 地 を 買 っ た 動 機 か も 知 れ
ない。
ステパノの演説のこの部分では、ヨセフがその兄弟たちに虐待された事実と、
ヨセフが遂にその全家族を餓死から救った事実とが、生き生きと対照されてい
る。しかもこの物語の話し方も充 分 聴 衆 の 興 味 を ひ く に 充 分 で あ っ た ろ う 。
しかし何故彼がこの物語をわざわざこ ゝ に 取 上 げ た か と い う こ と に な る と 、
彼ら聴衆には全くの謎であり、ス テパノ 以 外 の 誰 に も わ か ら ぬ 事 で あ っ た 。
ステパノはその究極の目的をわざと聴衆から隠しておいたのである。
Ⅲ.エジプトにおけるモーセの場合(17-37)
17-29節
ヨセフの伝記を一瞥し終ったステパノは、次にモーセの伝記に
進み、そのたくみな腕を用いて、神が驚くべき方法でモーセを偉大なる学識と
権力の地位にあげ給うたことと、一方モーセがその民を救わんとしつゝも、民
が彼に背いたために失敗に終った実例をあげている。
7:17 神 が アブラ ハ ム に な さっ た 約束 の 実現 す る 時 が 近づく に つ れ、 民 は 増え 、
エジプト中に広がりました。
7:18 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでの
ことでした。
- 124 -
7:19
この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、
生かしておかないようにしました。
7:20
このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月
の間、父の家で育てられ、
7:21
その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てた
のです。
7:22
そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いを
する者になりました。
7:23
四 十 歳 に な っ た と き 、 モ ー セ は 兄 弟 で あ る イ ス ラ エ ル の 子 ら を助 け よ う と
思い立ちました。
7:24
そ れ で 、彼 ら の 一 人が 虐待 され てい る の を見て 助 け、 相手 の エ ジ プト 人 を
打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。
7:25
モーセは、自分の手を通して神が兄弟た ちを救おうとしておられることを、
彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。
7:26
次 の 日、 モー セ はイ ス ラエ ル 人が 互いに 争っている とこ ろ に 来合 わせ たの
で、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷
つけ合うのだ。』
7:27
すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。
『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。
7:28
きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』
7:29
モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せ
ている間に、二人の男の子をもうけました。
モーセのこの努力は時期尚早であったことが後になって判明したけれども、
後代のイスラエル人は、彼らの先祖たちが、モーセがかくも自らを犠牲にして
彼らに提出した救いを、このように冷く拒絶してしまったことを残念に思うの
が当然である。なぜならステパノはこゝで、モーセがエジプト人を打ち殺した
ことを、その国人に対して、モーセの指導の下に起って自由のため戦うべしと
いう解放の狼火として正しく解釈しているからである。彼らがこのような正し
い英雄の勇気を理解し得なかったということは、悲しい事実である。
30-37節
しかしステパノは更に次の一段においてモーセの後半の生涯に
ついて語り、同胞に捨てられた後に、神は遂に彼を立てて民族の救出者となし
給うたことを述べている。ステパノはここでも同様の簡潔な描写法を用いた。
7:30
四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、
天使がモーセの前に現れました。
- 125 -
7:31
モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主
の声が聞こえました。
7:32
『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』
と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。
7:33
そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所
は聖なる土地である。
7:34
わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆
きを 聞 い た の で 、 彼 ら を 救 う た め に 降 っ て来 た 。 さ あ、 今 あな た を エ ジ プ ト に 遣 わ
そう。』
7:35
人 々が 、『 だ れが 、お前を指導者や 裁判 官に した のか 』と言って拒 んだ この
モーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣
わしになったのです。
7:36
こ の 人 が エ ジ プト の 地で も 紅 海で も 、ま た 四 十年の 間 、荒れ 野 で も 、 不思
議な業としるしを行って人々を導き出しました。
7:37
こ の モ ーセ が ま た 、 イ ス ラ エ ル の 子 ら に こ う 言い ま した 。 『 神 は 、 あな た が
たの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』
この部分では、ステパノに単に兄弟たちがモーセを棄てたことと、神がモー
セを彼らが一たび否んだその職につけ給うたこととを対照するだけでなく、更
に進んでメシヤに関するモーセの預言、即ち明かにモーセ自身が自分よりも偉
大な預言者の出現を予期しているその預言を引いている。
Ⅳ.荒野におけるモーセの場合
38-41節
モーセがはじめてユダヤ人を救わんと試みた時に、彼らがモー
セに向ってなした行為は勿論忘恩的な行為ではあったが、しかしこれも、モー
セが彼らを荒野の中へ導き出した後に、彼らがモーセに対してなしたあの虐待
には比較することも出来ない。ステパノは次にこの点に聴衆の注意を向けさせた。
7:38 この人が荒れ野の集会 ① において、シナイ山で彼に語りかけた天使 ② とわた
したちの先祖との間に立って、命の言葉③ を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。
7:39 けれども、先祖たちはこ の人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつか
しく思い、
7:40 アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってく
ださい。 エ ジプトの 地 から 導き出してくれたあの モーセの 身の上 に、何が 起こ った
のか分からないからです。』
7:41 彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、
自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。
- 126 -
①日 本 語 で は 集 会 と 適訳 さ れて い る が 、 英語 に “church”(教 会)と 訳さ れてい る 言葉 の 原
語は
ἐκκλησίᾳ
である。この言葉は普通、新約聖書の中では「教会」と訳されるが、
旧 約 聖 書 の 中 で は 一 度 も 教 会 と 訳 さ れて い な い 。 こ の 言 葉 は 旧 約 の 中 で は 普 通 イ ス ラ エ
ル人の集団を代表しており、会衆、或は集会と訳される。従って私たちもこの言葉をこゝ
では(英訳聖書改訂者が欄外に註をしているように)congregation 或は assembly と 訳す
べきである。この言葉がもし旧約訳と揃えて同じ言葉に正しく訳されていたならば、荒野
の集会と新約聖書の教会とを混同するような人も出なかったであろう。
②「シナイ山にて語りし御使』とステパノが言っているのは、彼が30節に『シナイ山の荒
野 に て 御 使 、 柴の 焔 の 中 に 現 る 』 と記 し た 同 じ 御 使 を 意味 して い る 。 こ れ が 次の 31節 で
『主』と呼ばれているのは、ちょうど出エジプト記においてそれが『エホバ』或は『神』
と 呼 ば れて い る のと 同 じ で あ る (出 エジ プ ト 3:2,4)。 こ の 事 か ら 神 の 、眼 に 見 え る 顕 現 、
耳に聞える顕現は天使を通じてなされたものであることがわかる。
③“oracle”(神話 )という言葉は(邦訳=御言)ギリシャ人特有の言葉であって、彼らの拝し
た 神 々 か ら 受 ける 啓 示 の 言 葉 で あ る と さ れて い た 。 こ れ ら の 生 命 な き 偶 像 か ら 来 る 空 し
い言と比較するために、ステパノはモーセの受けた啓示を『生ける御言』とよんで区別し
て い る 。 そ れ は モ ー セ の 受 け た 御 言 は 生 ける 神 か ら 与 えら れ た も の で あ り 、 そ の 中 に 人
の生命を正しい道に導く神の力を有していたからである。この『生ける』という言葉を『神
の言』に冠することにおいては、パウロもペテロもステパノと一致している。(ヘブル4:12、
Ⅰペテロ1:23)更に詳しくは53節註を見られよ。
この罪が彼らの前におかした罪にもまして重いことは、それがエジプトにお
いて、シナイ山への行軍において、またシナイ山上よりの律法の授与において
常に神がモーセと共に居給うことを見て知りながら、しかもその神の臨在の顕
現のすぐ後におかされたという点にあることは明かである。彼らはモーセがそ
の救出の業の主要な部分を完成した後に彼を再び棄てようとしたが、神はこれ
を許し給わず、更 にモーセによって始められた御業を彼によって完成させ給う
たのである。
Ⅴ.神ついにイスラエルを棄て給う(42-43)
42、43節
演説の次の一段は、ルカによって更に省略されている。多分ス
テパノもこゝでは前ほど詳細については語らなかったであろう。彼はシナイ山
麓における犢の崇拝から、バビロンに捕虜となるに至るまでの、イスラエルの
神にそむき続けた歴史を、アモスの口を借りて一気に語り去った。
7:42
そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは
預 言 者 の 書 に こ う 書 い て あ る と お り で す 。 『 イ ス ラ エ ル の 家 よ 、 お 前た ち は 荒 れ 野
- 127 -
にいた四十年の間、わたしにいけにえと供え物を献げたことがあったか。
7:43
お 前 た ち は 拝むた めに 造 った 偶像、 モレ クの 御輿や お前た ち の 神 ラ イファ
ンの星を担ぎ回 った のだ 。だ から 、わた しは お前た ちをバビ ロンの かなたへ移住 さ
せる。』 ①
①ステパノは こゝでアモス 5:25-27の七十人 訳を引用しているが、この訳はへブル語原典
と 少 々 異 って い る 。 し か し こ の 問 題 に 関 す る 議 論 は 使 徒 行 伝 の 註 解 よ り も む し ろ ア モ ス
書の註解に属するであろう。ステパノがこの言を引いた目的は、聴衆に対して既に古く彼
ら 自 身 の 預 言 者 が 、 久 し い 以 前 に あ の 荒 野 の 放 浪 の 旅 に あ っ た イ ス ラ エ ル 人 たち が エ ホ
バに仕えることを棄ててアロンの作った金の犢をはじめ、その他の偶像を拝した罪によっ
て 罰 し 給 い 、 そ の 罪 の 結 果 と して 、 神 は 彼 ら を 棄 て て 『 天 の 軍 勢 』 に つ か え る に ま か せ
給 う た こ と 、 更 に 遠 い 結 果 と して こ の 預 言 者 ア モ ス の 時 代 に は 、 神 は ま さ に イ ス ラ エ ル
を捕虜として外国へ移し給われんとしていたことを預言した、ということを彼らに示すこ
とであった 。『なんぢら荒野に て四十年の 間、屠りし畜と犠牲とを我に献げしや』という
問は次の『汝らはモロクの幕屋と神ロンパの星とを舁きたり』によって答えられる。この
記 事 か ら 見 る と 、 彼 ら は 勿 論 モ ー セ 五 書 に 明 か な よ う に 荒 野 に お いて 、 と に か く 幾 ら か
の 犠 牲 を さ ゝ げ て い た と は い う も の の 、 遂 に は 彼 ら の 中 に 混 入 して 来 た 偶 像 崇 拝 の 勢 に
負けて全く神を礼拝せぬ状態に陥ったと考えられる。さてステパノは『バビロンの彼方』
とい う言 葉 によって 、『 ダマスコ の彼 方』 と記さ れた へブル 語原 書及び 七十 人訳と も異 っ
ている。しかし彼は明かに、わざと言葉をかえたのであり、この変更によって神の真意を
一 そ う 明 か に 試 そ う と し た の で あ る 。 神 が こ の 預 言 者 の 口 を 通 して 語 り 給 う た 時 に は 、
そ の 民 を わず か に 離 れ た ダ マス コ の 彼 方 に 移 し 給 う べ き こ と を 述 べ 給 う た が 、 実 は 後 の
事実が証明するように、神は更に遠くバビロンの彼方に移し給う予定であったのである。
ステパノはこの神の全計画をこの言葉の中に説明した。聴衆たちはこの事実を知っていた
から容易にステパノの真意をも解することが出来た。
数百年を通じて、常に神の立て給うた指導者、神の命じ給うた救拯者を拒み
棄て続けて来たイスラエルの歴史を瞥見すると、この演説の第一段階は終った。
そしてステパノはこれを今の実際問題に適用せずに、すぐに次の起訴に含まれ
ていた他の主題にうつって行った。私たちは今まで彼の述べたことが、彼に対
して今訴えられている訴訟と何ら関係のないことばかりである、ということに
注意しなければならない。ステパノの聴衆たちも彼が一体何のために以上の事
実を述べたのであるかを怪まざるを得なかった。しかしステパノはまだ彼らの
好奇心を満足させようとしなかった。
- 128 -
Ⅵ.幕屋と宮(44-50)
44-50節
宮を涜したという非難に対しては、ステパノはこれを認めもせ
ず、また形式的に否定することもせず、たゞ宮の真の宗教的価値をごく簡潔な
言葉で示そうとした。彼はこのことを説明するに当って、まず宮によって廃せ
られるに至った幕屋の、いつかは変るべく廃るべき性質を暗示し、次の預言者
の言を引いて、人の手で作った宮は決して神の真の住処ではないことを示した。
7:44
わたしたちの 先祖には、荒れ野に証 しの幕屋 があり ました。これは、見たま
ま の 形 に 造 る よ う に と モ ーセ に 言わ れ た 方 の お 命 じに な った とお り の も の で した 。
7:45
この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から
神が追い払ってくださった異邦人の土地 を占領するとき、運び込んだもので、ダビ
デの時代までそこにありました。 ①
7:46
ダ ビデ は神の 御心 に適い、ヤ コブ の家の ために 神の 住まいが 欲しいと願っ
ていましたが、
7:47
神のために家を建てたのはソロモンでした。
7:48
けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりませ
ん。これは、預言者も言っているとおりです。
7:49
『 主 は 言 わ れ る 。 「 天は わ た し の 王 座、 地 はわ た し の 足台 。 お 前 た ち は、 わ
たしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。
7:50
これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」』(イザヤ66:1,2)
①『ダビデの日に及べり』という句がカナン人の放逐と関連して言われているのか、それ
とも幕屋の搬入と関連して言われているのか、という点に関しては註解学者たちも殆ど半
数 ず つ に 意 見 が わ か れて い る 。 ア ルフ ォ ー ド 、 メ イ ヤ ー 及 び ハ ケ ッ ト は 後 者 の 見 地 を と
り 、 レ ヒ ラ ー 、 グ ロ ー グ 及 び ジェ イ コ ブ ソ ン は 前 者 の 見 解 を と る 。 し か し こ の 問 題 を 決
定することはさほど重要なことではない。そ れ は 何 れ の 見 方 も 歴 史 的 事 実 と 一 致 し 、
またステパノの思想と一致するからである。聖書英訳委員たちはむしろ後の見解をとって
いるようである。“fathers”の後につけられたコンマはもし前者の思想と関連があるとす
れば、正しい位置ではない。
この言葉の中に含まれている意味は、もし幕屋が嘗ては神の家であったのが
後にな って宮によって取ってか わられたもので あるならば、そしてまたその宮
も(い かに大きくか つ古くとも )生ける神を入れるにはあまり にも小さく、しか
も彼ら自身の中の預言者の一人が、宮は神の真の住まいではないと宣言してい
るならば、この宮が廃され毀たるべきであると計っても神を涜すことにはなる
筈はないというのである。
- 129 -
Ⅶ.適
51-53節
用(51-53)
ステパノは今や、その演説の最初の部分に列挙した事実の中に
隠されていた適用の結論を、その起訴者たちの上にたゝきつけんとした。先に
述べた歴史的序説は、次の類推を行うべき道をそなえたのである。即ち兄弟た
ちの救出者として神にえらばれたヨセフが兄弟たちによって奴隷に売られたよ
うに、イスラエルの奴隷の境遇からの救出者として神にえらばれたモーセが人々
に棄てられてミデアンの亡命者となり、後に再び先祖たちの神によって民を救
出すべく送り返されたように、またモーセが彼らをエジプトから導き出した後
も、幾度も彼らに棄てられたように、そしてすべての預言者たちが同じような
虐待に会ったように、今モーセと以後のすべての預言者たちとが口をそろえて
その出現を予現した最後の預言者が、彼らエジプトの奴隷よりはるかに恐ろし
い奴隷から解放するために彼らに遣わされたにもかゝわらず、彼は同じように
棄てられ、同じ迫害者の子孫たちの手によって殺されたのだ!この恐ろしい類
似の事実は次の数語の中に集中されている。
7:51
か た くな で、 心 と耳 に 割礼を受けていな い人た ち ① 、あな た が たは、いつ も
聖霊に逆らっています ② 。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうし
ているのです。
7:52
いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでし
ょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今
や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。
7:53
天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」 ③
① すべ ての 割 礼 な き 人 々 に 対 す る ユ ダ ヤ 人 の 感 情 か ら 、 こ の 『 割 礼 な き 者 』 と い う 言 葉
は非難と軽蔑の語として用いられて来た。モーセは彼自身雄弁の才を欠いていたことを『割
礼を 受け ざ る唇 』(出エ ジプト 6:12,30)と言 って 卑下し 、神 に反 逆した イス ラエル を『 割
礼を受 けざ る心』 (レ ビ26:41)と言 った 。ダビデ は『 この割 礼な きペリ シテ 人』 と言って
ゴリア テを 罵り(Ⅰサム エル 17:26)、エレミヤは その民を『 その耳は割礼 を受けざる によ
りて聴えず』(エレミヤ6:10)と責め、エゼキエルはエラムのことを『心にも割礼を受けず、
肉にも割礼を 受けず』(エゼキエル44:7,9)と言っている。ステパノはこの旧約聖書慣用句
を用いて、モーセ及びその他の子言者が異教国民に投げつけたと同じ名称をなげつけて、
裁判官たちをなじったのである。彼らにとってはこれ以上にきびしい、耐えがたい言葉は
なかったであろう。そしてこれ以上真理をふくんだ言葉もなかったのである。
②彼らの先祖たちは、ステパノが次節に示すように、預言者を迫害することによって聖霊
に逆い、また53節に示されるように、イエスを迫害することによって同じ罪をおかした。
従 って 私 たち も 霊 感 を 受 け た 人 々 (聖 書 記 者 )たち を 通 じ て 聖 霊 の 語 り 給 う 言 葉 に 逆 う 時
は、聖霊に逆うものであることを知る。
- 130 -
③こゝで“as it was ordained by angels”(御使いたちによって制定された如く)と英訳
されているギリシヤ語
εἰς διαταγὰς ἀγγέλων
(現行邦訳=御使たちの伝へし)
の意味は甚だ曖昧であって訳出が困難であるため、多くの註解者たちによって多数の異る
意見が 提出 されてい るが、私は アルフ ォード氏の次 の言葉はた しかに正しい と思う 。『こ
の 言 葉 に 対 す る 正 し い 解釈 の 鍵 は 、 ガ ラ テ ヤ 3:19に お ける 同 様 の 表 現の 中 に あ る 』 ア ル
フォー ド氏 はへブル2:2をも 加えてい いだろう 。前 の個所 は『 律法は 御使いたちの手 を経
て中保の手に よりて立て (ordain)られ 』、後の個所 では『御使いによりて語り給ひし言』
となっている。これらの聖書からわかることは、使徒たちの解釈によれば、神は律法をモ
ーセに 与え る際に 、神 御自 身の person を以て 直接語り給 うことなく、 間接に天使 を遣
わしてこの天使を通じてモーセに語りたもうたということ、しかもこの天使は明かにモー
セの限に見える形で現れたということである。従ってステパノがこの言葉の中にあらわし
た の も 、 実 に こ の 概 念 で あ る 。 私 たち の テ キス ト に な って い る Revised Version は こ
の思想を明瞭に表現していないけれども、この解釈が「真に原文の許す最上の解釈であろう。
この残忍な訴訟の始から既にステパノの胸中に燃え、その演説を始める寸前
に、天使の如き輝きをその顔に与えながら、しかも演説の本論の間には注意深
くおさえられ、かくされて来た火は、忽ちこれらの焼くが如き炎の言葉となっ
て噴出し、聴く人々を驚愕させたのであった。
4.ステパノ石にて撃ち殺され、教会は四方に散らされる(7:54-8:4)
54-60節
ステパノの演説の終におけるはげしい感情の爆発が突然であっ
たとするならば、これを聞いたサンヘドリンの憤激もまた同様に突然であった。
しかも彼らの面上に投げつけられた非難が単なるステパノの憤怒のほとばしり
ではなく、聖書から引用された類似事例の列挙によって支持される正しい判断
の慎重な宣言であったから、なおさら彼らの憤りは激しかった。彼らの心には
突然今までに述べられた聖書の事実の意味が閃いたのである。彼らはそれまで
弁論においてはステパノの語るところの知恵と御霊とに敵することが出来ずに
いる中に、彼らが彼を罪に定めようとしていたそのおそろしい言葉が、今彼ら
の自身の頭上に投げ帰されて来た。彼らの唯一の頼みとする手段は、もはや一
つしかない。それは正しい主義を持たぬ徒党が議論に打負かされた時にとる常
套手段-暴力である。彼らはおそろしい迅速さでこの手段に走った。
7:54
人々はこれを聞いて激しく怒り ① 、ステファノに向かって歯ぎしりした。
7:55
ス テフ ァ ノ は 聖 霊に 満 た さ れ 、 天 を見 つ め 、 神の 栄 光 と神 の 右 に 立っ て お
られるイエスとを見て、
7:56
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
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7:57
人 々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ 、ステファノ目がけて一斉に襲い
かかり、
7:58
都 の 外 に 引 きず り出 して石 を投げ 始め た 。 証人た ち は 、自 分 の 着て いる 物
をサウロという若者の足もとに置いた。 ②
7:59
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエス
よ、わたしの霊をお受けください」と言った。
7:60
それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と
大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
8:01a サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。
①『心いかりに満ち』英訳。“They were cut to the heart”直訳すれば“sawn asunder
in their hearts” (心 を鋸 で ひき さ かれ )彼ら は ステパノの 言 葉が あま り に鋭 く はげ し か
ったため、さながら自分の心を鋸 の 粗 い 歯 で 挽 き 通 さ れ る よ う に 感 じ た の で あ る 。彼
らが文字通り切歯したのはこの感情の当然の結果である。
②律法によれば証人がまず石を投げるべきであった(申命17:7)。彼らが衣を脱いだのは腕
を自由に動かせるためであった。
これは法廷の解散としては甚だ奇怪な解散の仕方である。律法の忠実な執行
を監督すべき任をおびた七十人の厳しい顔をしたラビたちが、やにわに議席を
立って、狂い叫ぶ暴徒の中に飛び入り、この囚人を未だ罪の宣告もなしに、罪
状の正当な裁判も終わらぬ中に ③ 、突然死刑に処してしまおうとするのである。
そして今や、嘗て地上に行われたこともないような狂行が、神と神の民に反抗
しようとする人々によって演ぜられんとした。
③或る批評家たちは、サンヘドリンはロマの総督の許可なしには罪人を処刑する権を持っ
ていなかったから、ステパノの死に関するこの記事は疑わしいと主張する(バウアー, Life
of Paul, 1:53,54)。しかしこの主張はこの物語の内容そのものによって否定される。それ
は こ の 記 事 が 、 こ の 事 件 は も と も と 不 法 の 行 為 で あ っ た こ と を 明 か に 示 して い る か らで
ある。たゞ単にそれがロマの法律に反するからという理由で、聖書に記されたこれ以外
の すべ ての 暴 動 の 事 実 性 を 否 定 す る こ と が 愚 で あ る よ う に 、 こ の 記 事 を 否 定 す る こ と も
愚 で あ る 。 暴 徒 な る が 故 に 律 法 を お かす の で あ る 。 し か し 彼 ら は ま た 一 面 、 そ れ を 糊 塗
せんとして他の律法を守ろうとする。それはちょうどこの暴徒たちが石を投げ始めるに当
ってまず証人に投げさせたようなものである。
ステパノの見た幻は、必ずしも空の一角が実際に開けて、その裂け目から向
うの事物が肉眼で見えたと解する必要はない。それはパトモスにおけるヨハネ
に許されたような単に一つの象徴的表現である。この幻の現象は多分彼の臨終
- 132 -
にあたってステパノ自身に対する力づけのため、また後の世の信仰のよき友お
よ び信 仰 の 敵たちへ の 証 として、 見ることを 許された の であろう。『人の子の
神の右に立ち給ふ』というステパノの言葉は、祭司長たちの耳には、かつてイ
エスが彼らの前に立って裁判を受けた時に発し給うた言葉の反響かと聞えたで
あ ろう(ル カ22:69)。私 たち は またこの言葉を 聞いた人々 の中少くとも 或る一
人は、この事件の一部始終が長く後までも深く印象づけられた人があったと信
ずることが出来る。それは青年サウロである.サウロはこの時のことを何時ま
でも忘れなかった 。そして後年この悲しい光景を追想して語っている(使徒22:
19-20。Ⅰテモテ1:12-17)。ルカは多分事件をその限で目撃した彼からこの事
件の真相を知り、この時のステパノの演説の内容についても、やはり彼から聞
き知ったに違いない。この事実は、ルカが果して実際にこの演説の正確な報道
資料を得たか、ということを疑う人たち ① に対する充分な答であろう。
①ステパノの演説に関するルカの信憑性否定論に関しては、Bauer, Paul,1:52,55; Zeller,
Acts of Apostles,1:241を参照。
1-4節
教 会 の 敵 た ち は 真 理 に 反 対 す る た め に 、あらゆる策を弄したが、
すべて失敗に終った。彼らはサドカイ人の指導の下にまず威喝、投獄、そして
次に鞭笞を用いた。彼らはまた十二使徒を亡きものにしようと試みたが、比較
的冷静であったパリサイ人たちの提案によって、他の穏和な手段をとらざるを
得なくなった。しかしその主な指導者たちが投獄、鞭刑を受けたにもかゝわら
ず、なおも拡まった信仰の道は、遂に民衆の前で公開討論が行われるに至って、
急激に新たな勢力を勝ち得たようであった。こゝにおいてパリサイ人たちが今
度はサドカイ人たちに代って暴力をもって起ち上ったのである。彼らの目的は、
元来律法の形式を利用してこの血なまぐさい仕事を片附けようとしたのであっ
た。しかし一瞬怒りに逆上した彼らは自ら制すること能わず、狂乱する暴徒の
力を用いて目指す犠牲者を処刑してしまったのであった。ひとたびこのような
狂暴な行為に手をつけた彼らは、今や教会を地上から抹殺しなければ満足する
ことが出来なかった。
8:1b その日 ① 、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆 ② 、
ユダヤとサマリア ③ の地方に散って行った。
8:2
しかし、信仰深 い人々が ステファノを葬り、彼の ことを思って大変悲しんだ。
8:3
一 方、サウロ は家から 家へ と押し入 って教会を荒ら し、 男女を問 わず引き出
④
して 牢に送っていた。
8:4
さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた ⑤ 。
- 133 -
①本文の意味は、下に記された迫害の全部が『その日』におこったというのではなく、
『そ
の日』に始まったという意味である。全教会が散らされるまでには、相当の時日を要し
たことは疑もない。
②或る人たち(Bauer, Zellerその他)はこの時教会の中でもへレニスト(ギリシア語のユダ
ヤ人 )たちだ け が国 外に 追 放さ れ たの だ とす るが 、これ は理 由な く聖書 本文 の「皆 」と い
う言葉と矛盾するものである。
③これらのユダヤ人クリスチャンが逃れた地方の中にサマリヤが含まれていたということ
は、既にサマリヤ人の弟子たちに対する感情が、一般のユダヤ人と異って友好的であった
ことを示す。
④ 英 訳 委 員 が こ ゝ で 用 いて い る haling と い う 単 語 は 古 語 で あ って 既 に 殆 ど 使 わ れ な い
言葉 であ る 。私 は これ を dragging forth として も何 ら 文体 の 美をそ こな うこと がな い
と思うから敢て欧訳しておいた。訳者註=A.V. 並びにR.V.は haling. A.S.は dragging
R.S.は dragging off.何れにせよ邦訳とは関係ない。『引き出して』でいいと思う。
⑤ こ ゝ に 記 さ れ た 『 御 言 を 宣 べ る 』 こ と は 、 公 開 説 教 及 び 個 人 の 家 に お ける 説 教 の 両 方
をさしている。後者の方には婦人たちも参加することが出来た。
善人の失われて行く社会において善人の悲しみは大きい。しかし、不義と暴
力によって善人の悲しみは更に甚しいものである。したがってステパノの埋葬
の後、この悲しい葬式を行った『敬虔なる人々』が『彼のために大いに胸打』
った(悲しみに慟哭した)のも無理はない。或は彼らの中のある人々は教会の会
員ではなかったかもしれない。しかしステパノの死がこのように言にあらわす
ことも出来ぬ悲しみで弟子たちの心を充していた一方、また他の面から見るな
らば、彼の死は彼らにとって一つの尊い経験を与えていたのである。彼らは今
まで唯一人の主のために、現 世 と 未 来 の すべ ての 利 害 を 賭 して 仕 えて 来 た 。
しかしその主はかつて彼らと共にいたもうた時代には救主としての偉大な力を
発揮し給うたが、既に地上を去ってまみえることが出来ない。かつて主に親し
く接し、親しく従った人たちも、今は主と直接言葉を交えることは出来ない。
彼らはこの時まで数多くの悲しみと、鞭笞と、苦しみとに耐えて、たゞひたす
ら彼に仕えることの中に喜びを見出していたのである。しかしこのステパノの
最後の光景を見た彼らは今はじめて、彼らのもつ新しい信仰がいかに最期の瞬
間に至るまで慰めとなり力となり勇気となるかを、その眼で実際に見たのであ
った。今彼らの中の一人がこの事実を死を以て証明した。彼は自分を殺す人々
のために祈りつゝ死んで行き、その霊を天の幻に見た人の子の御手に委ねまつ
った。最初に死んで行った兄弟の死が、かくも勝利にみちた死であったという
- 134 -
ことは、いかに多くの力と慰めとを与えたことであろうか。信者たちのすべて
がこれから乗り越えなければならないきびしい試練に耐えるためには、このス
テパノの死の事実は彼らにとって最も時を得た摂理の準備であった。彼らは今
涙に曇った眼をあげて、もはや墓場の中も彼方も恐れることなく、信仰の道を
一直線に進むことが出来た。こうして彼らは故郷の町と各々の家に別れを惜し
みつゝ見知らぬ人々の住む国へ隠れ家を求めて旅立って行った。彼らの別離の
苦しみは大きかった。しかし彼らの多くにとっては、この世における一時の損
失の苦しみも、彼らが生命より愛する主への信仰の道が今地上から滅ぼされよ
うとしていることを見る時、おそらく鴻毛の軽きにすぎなかったろう。しかも
その福音を宣べるために持てる一切のものを失ったにもかゝわらず、なおも彼
らは至る所に御言を宣べて廻ったのである。一方、集め得た数千人の会衆を全
部散らされ、エルサレムの町に聴衆を失って自分たちだけとなり、遂に黙する
外なかった十二人の使徒たちの思いは如何ばかりであったろうか。しかも彼ら
自身の生命も今は風前の燈火にひとしい。しかし彼らはイエスが嘗て彼らにエ
ルサレムに留るべく命ぜられた期間がまだ尽きていないことを思い、また獄中
に苦しむ多数の兄弟姉妹たちの運命を気遣った時、敢然としてその位置に留り、
その結果の危険さを心にとめなかったのであろう。彼らがなぜ捕えられもせず
妨害もされずにエルサレムにいることが出来たかは、おそらくエルサレム教会
滅亡後には当然使徒たちも無力になるであろうというユダヤ人の想像と、また
使徒たちが牢獄を奇蹟的に脱出したあの奇蹟力を思い出して敬遠したことがそ
の理由であったろう。更にまた聴衆のない使徒たちはもはや説教することが出
来なかったため、表面上は恐れて沈黙しているように見えたから、ユダヤ人も
彼らを無害であると思ったかもしれない。
- 135 -
第二部 福音のユダヤ及び近隣諸国への伝播
(8章5節-12章25節)
第一項
ピリポの伝道(8:5-40)
1.ピリポ、サマリヤの町に教会を建設する(5-40)
5節
歴 巡 りて御言を宣 べた多 くの人々 の中に、ル カ は 先 ず ピ リ ポ を 追 い 、
その働きの幾分かを記録している。
8:5
フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。
このピリポは十二使徒の中のあのピリポではない。なぜなら十二使徒たちは
第一節に記されたように、全員エルサレムに留っていたからである。このピリ
ポは 6:5にあ げられ た七人 の執事の一人 であった。エルサレムの教会が散らさ
れて以来、教会における執事としての彼のつとめもおわり、彼はいま一伝道者
として立っていた。
21:8で は ピ リ ポ の こ と を 『 伝 道 者 』 と い う 名 で 呼 んで い る 。 彼 は 明 かに こ
の仕事のために形式的に撰び別たれて伝道者となったのではなく、教会の離散
という事情から止むに止まれず伝道を始めることによって伝道者となったので
ある。彼が行った町が果してサマリヤ地方の一つの町であったか、それともサ
マリヤという町であったかについては、既に以前から註解学者たちの間にも議
論された。しかし現今では町という名詞につけられている定冠詞が正しいギリ
シア語テキストの一部分と認められるようになったから、この問題は自からは
っき りし たよう だ ① 。(訳者註= the City of Samaria 即ちサマリヤなる町)
このサマリヤという町は古くは十二の支族たちの古都であり、当時はへロデ大
王に よって 拡張 され ② 、 美し い町となって いた。 ルカはこのサマリヤ における
ピリポの働きをまず第一歩に記しているが、それはこの働きがユダヤ以外での
伝道の最初の成功であったからであり、またイエスの与え給うた命令によって
もサマリヤはユダヤのすぐ次に来るべきであったからである。
①この問題はシナイ写本にこの部分が
τὴν πόλιν τῆς Σαμαρείας とあることから解
決された。この証拠は更にアレキサンドリヤ写本及びヴァチカン写本によって既に知られていた証
πόλιν の前に τὴν を欠いている写本の証拠をくつがえした。
拠を絶対的なものにし、
- 136 -
②ヘ ロデ 大 王は サ マリ ヤ とい う 町の 名 を Sebaste と 改 め た が 、 こ の Sebaste と い う
ギリ シア 語 は Augusta とい う ラテン 語 と同 義で あ り、 Augustus Caesar(カ イ ザル ・
アウグスト)を記念してつけたものである。現在ではアラビヤ式に Sebustiyeh とよばれ
ている。サマリヤの町の現在のこっている廃墟の様子については拙著 Lands of the Bible
p.294を参照されたい。
ピリポがサマリヤの町に入った時には、民衆の心は明かに福音を受け入れる
には都合のわるい状態にあった。当時のユダヤ人及びサマリヤ人の間には魔術
が盛んに行われ、諸国の一般民衆もこの魔術に関しては甚だ迷信的な観念を持
っていた。しかも丁度この時は、サマリヤの人々は全く一人の有名な魔術師の
勢力下にあったから、ピリポがその伝道に成功するためにはまずこの障害を克
服しなければならなかった。福音と魔術との戦い及び福音の勝利の物語は次に
簡単に語られる。
8:6
群 衆は、フィリ ポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き
入った。
8:7
実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びな
がら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。
8:8
町の人々は大変喜んだ。
8:9
ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの
人々 ① を驚かせ、偉大な人物と自称していた。
8:10
それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大 なものとい
われる神の力だ」と言って注目していた。
8:11
人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
8:12
しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせ
るのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
こゝに再び改宗の実例があげられ、その手段と影響に関する簡単な説明がの
べられている。ピリポの説教がこのとき奇蹟を伴ったのは、ペンテコステの日
における使徒たちの説教に同じく、また嘗てサマリヤで行われたイエスの説教
の場合と同じである。この奇蹟が民衆に与えた最初の結果は大なる歓喜であり、
そ れ に つ ゞいて ピ リ ポ の 説 教 に 対す る熱 心 な 注 意 が 喚起 され た (6-8)、次 に彼
らはシモンが彼らの問に行った魔術をふりすててピリポの説教を信じた。そし
て信じた彼らは男も女もバプテスマを受けた(12)とこの短かい物語はこれで終
っている。彼らの改宗の行為は、ピリポの説教した『信じてバプテスマを受く
る者は救はるべし』というイエスの委任の言葉と同じく、単純素朴なものであった。
- 137 -
① こ の サ マ リ ヤ は 町 を さ す の で な く 国 を さ して い る 。 ギ リ シ ア 語 は
Σαμαρείας
τὸ ἔθνος τῆς
である。ヨセフスはサマリヤの境を記している(Wars,Ⅲ.3,4)が、大体にお
いてエフライム支族と西部マナセ支族の所領と一致している。
ルカがこの改宗の事例をえらんだことは本当にふさわしい。それはこれらの
改宗した人たちは、ピリポがはじめて彼らに福音を説いた時までは一魔術師の
魔術を迷信していたから、ピリポがこの時行った奇蹟は、彼らにとっては神の
奇蹟と魔術とを直接比較出来る機会となったわけである。人々が神の大いなる
能力をもっていると信じていたシモンへの信仰を躊躇なく棄てて、ピリポが行
ったこと教えたことを信じたという事実は、魔術のトリックと真の奇蹟との間
には大きな相違があったこと、そして全く魔術にだまされていた人々も、両者
が並べて示された時には、明かにピリポの奇蹟は神より出ずるものであり、シ
モンの魔術は人間の業にすぎないことをはっきりと知ることが出来たというこ
とから説明される。魔術のトリックはその不思議な点においては奇蹟と異らな
いが、それはどこまでもトリックであって、無益な好奇心をかき立てる以外は
何の役にも立たない、従って魔術は神によってなされると考える価値がない。
これに反して奇蹟は全く神の恩恵である治療の行為にあり、神の能力のはたら
きにふさわしい。更にまた奇蹟は失われた民にあわれみの音信を信ぜしめ、苦
しむ者に即時のよき効果を与えることにおいて、単なる魔術の及びもつかぬ優
れた存在である、この大きな差をもつ神の奇蹟は、或る懐疑論者たちの主張す
るような『高度の魔術ではないのであり、この両者の出合うところ、至る処に
奇蹟対魔術という冷厳な対立と神の奇蹟の終局の勝利があるのである。奇蹟と
魔術に関しては更に13:6-12及び19:11-20を見よ。
13節
この時の勝利の中でも最も大きかったものは、シモン自身に勝つこと
が出来たということである。ルカはこのことに関して次のような言葉で特記し
ている。
8:13
シ モン 自身 も 信 じて洗 礼を受け 、 いつ も フィ リポに つ き 従 い、 す ばら しいし
るしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
シモンの驚きは彼自らまた民衆と同じように、奇蹟と自分の手品のトリック
との差を看破した証拠である。彼はおよそ魔術のことに関する限り、自分がそ
のからくりを知らぬ魔術に関してでさえ、彼自身の経験からその魔術の性質を
知ることが出来た。しかし奇蹟は彼にとって、他のすべての人にとって不思議
であったように、全く解することが出来なかった。彼を信ずるに至らしめたのは
- 138 -
明かにこの奇蹟に対する驚異であった。たゞ彼の信仰の性質に関して多くの人
が陥 っ た困惑 をさけるた め に一言注意 しなけ ればな らないのは、『シモンも亦
みづから信じ』という言葉がピリポの見解としてではなく、ルカの見解として
書かれたということである。ピリポは或はシモンの偽れる信仰によってあざむ
かれたかも知れない。しかしルカがこの事件のおこった久しい後に、おこった
シモンの行動を全部知った上で『シモンも亦みづから信じ』とはっきり記した
ことは、果してシモンの信仰が真の信仰であったというような疑いを全く否定
するものである。以下18-24節の記事に関しても、それはシモンが真に信じて
改宗していたという事実に照して解釈されなければならない。彼がバプテスマ
を受けたという事実は彼がこのように信じたということのみならず、すべての
罪と同じくその魔術をも捨て去ったと解さるべきである。
2.ペテロとヨハネ、サマリヤへ派遣される(14-17)
14-17節
ルカが次に紹介する事件は、新約聖書の歴史においてその特異
性のために、またこの記事がひきおこして来た色々な異った思想のために、慎
重な考察を必要とする。
8:14
エ ル サレ ム にいた 使徒た ちは、サマリアの 人々が 神の言葉を受け 入れ たと
聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。
8:15
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。
8:16
人 々は主イエ スの 名によって洗礼を受けていた だけで 、聖霊はまだ だれの
上にも降っていなかったからである。
8:17
ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
こ の 事件を 正しく 解釈 するために、私 たちはまず 四つの明白な事実に注意
しなければならない。即ち、まず第一に、福音を信じてバプテスマを受けたサ
マ リヤ 人 たちは 、 イエ スの 委 任 の御言(マル コ16:16)によ り 、また 五旬節の日
に おける ペテロ の答 (使徒 2:38)によれば 、 既 に罪の赦しを 得、同時 に“ 聖霊の
賜 物” を 与 えられ たこ と 。第二 に、彼らがこの 賜物を 受けてか らこのニュース
がエルサレムに到着するほど時がたった後に、使徒たちのグループがペテロと
ヨハ ネと を彼らに遣わすこ とに 一 致したこと ① 。第三に、ペテロとヨハネが到
着するまでは聖霊はその誰一人にも奇蹟力を伴って降らなかったこと。そして
第四に、二人の使徒が祈躊ののち彼らの上に手を按いたことによって、聖霊が
奇蹟力と共に彼らの上に下ったことである。
- 139 -
①ペテロとヨハネとが他の使徒たちによって『遣され』たという事実は、ペテロの最上権
を 主 張 す る ロ マ ・ カ ト リ ッ ク の 教 理 を 否 定 して 、 ペ テ ロ が 兄 弟 たち に 従 っ た と い う こ と
を示している。
これら事実から私たちは次の幾つかの結論をひき出すことが出来る。
(1)二使徒 派遣の目的が、サマリヤ人の信仰を固めるためとか、或はピリポの
働きを助けるためとか、外に色々なことがあったにもせよ、その第一の目的は
彼らに聖霊を与えることにあったのは確かである.彼らがサマリヤに到着した
時先ず行なったことは、彼らの行った目的に違いない。しかも彼らがそこで行
った仕事は主としてこの聖霊を与えることであった。従って彼らがサマリヤを
訪れた主目的は聖霊を与えることであった。しかしもしピリポがこの賜を授け
ることが出来たならば、二使徒の派遣はこの主な目的に関する限り無用であっ
たろう。このことは、聖霊の奇蹟力の賜物が使徒たち以外の如何なる人間の手
によっても与えられなかったということを証明する有力な証拠である。そして
この結論は、使徒行伝に記されたこの種類の唯一の実例--エぺソにおける十
二人の 実例(19:1-7)において この賜物が一人の使徒の手によって授けられたこ
とを考えることによって推証される。サウロの場合もまた決して例外ではない
(9:17の註を見よ)、テモテの場合も同様である。テモテは長老たちの按手によ
って賜 物を受けたように言われている(Ⅰテモテ4:14)けれども、一方彼は同じ
賜 物 或 は 何 ら か の 他 の 賜 物 を ペ テ ロ の 按 手 に よって 与 えら れて い る の で あ る
(Ⅱ テ モ テ1:6)。 彼 は明 か に パウ ロ か ら奇 蹟 の賜 物 を 受け 、長 老たち か ら 伝道
者としての賜物を受けたのであろう。
(2 )こ れら の弟子たちが 奇蹟力 をうける前 に既に罪の赦しを 受け、教会員とし
て認められていたことは、この賜物(奇蹟力)がこれらの祝福(罪の赦しおよび教
会 員 た る こ と)とは 何 の 関係 もない こ とを証 明する 。しか るに極 度の 心 霊主義
者たちは重要問題 に関して甚だ誤った考えをもち、有名な学者の或人たちでさ
えこの考えによって自ら混迷に陥っている。ペテロとヨハネの到着以前のサマ
リヤ人たちの状態に関する次の Neander 氏の説を見よ。
『彼らはなお、ピリポの説いたそのキリストとの生命の結合を
意識するに至らず、また自己の新しい神聖な生命をも意識するに
至っていなかった。聖霊の内住というようなことは彼らには聞いた
こともないことであり、聖霊といえば彼らが身近に目撃していた
奇蹟約な作用以外には知らなかった』
(Planting and Training of the Church, in loco.)
この主張は直接にキリストの委任の言葉と矛盾し、また悔改てバプテスマを
受け た 者には すべて例外なく聖霊の賜物を受けるという使徒の約束とも矛盾する。
- 140 -
更にこの主張は、聖霊の内住はキリストに属ける者のしるしであるというパウ
ロの教え(ロマ8:9-11)とも矛盾する。何故ならこれらのサマリヤ人のなしたよ
うに(16)正しく『 イ エ ス ・ キ リ ス ト の 名 の 中 へ と バ プテス マ さ れ た 』人は、
確実にキリストのものだからである。
(3 )『 こ れ 主イエ スの 名の 中へ と(現行 邦 訳= 名に より て )バプテス マ を受 けし
のみにて、聖霊いまだ一人にだに降らざりしなり』という言葉は、バプテスマ
と聖霊の奇蹟力の賜物との間に、後者によって与えられるというような何らの
関係も存在しないことを示している。従ってこの賜物にすべての弟子たちに一
様に与えられたものではなく、特別にこの賜物を与えられた人たちだけが持っ
ていたものであることがわかる。
このような聖霊の特別な賜物がこれらの人々の改宗と罪の赦しにも、また聖
霊の内住ということにも必要でなかったことがわかった以上、当然次にそれが
果して何の目的のために与えられたのかということが問題となって来る。私た
ちは 既 に1:8にお いて 、この 力を使徒たち に授け給うたのは一に、神の 国を建
設し、その聖なる任務を奇蹟によって実証すべき能力を与え給うたのであると
のべた。一般に奇蹟の目的は、その奇蹟の関連する事実の中に神の御意志の認
可の存すことを示すにある。しかし奇蹟が智的な形をとる場合においては、そ
の目的は人に超自然的な智的能力を与えるということにある。サマリヤの若い
教会はこれまでピリポの教えによって導かれ、今またペテロとヨハネによって
導かれ た。しかし これら の人々(ペテ ロ、ヨハネ、ピリポ)はその尊い委任の使
命を果すために、やがて他の土地に伝道の新地を開拓するためにこの土地を離
れなければならない人たちであった。しかし、もしこれらの人たちがこの教会
を去るに当って、ちょうどペテロとヨハネとが到着した時そのままの状態に教
会を残して行くならば、教会は新らしい信仰の智識を吸収する手段もなく、既
に学んだ所を正確に保つためにも、教会員たちの不確かな記憶にたよる外はな
かったであろう。まず第一にこの欠点を補うため、そして第二に不信者を説い
て信仰に至らしめ得るだけの手段と力とを教会に残すために、霊感の賜物が与
えら れ た ので ある ① 。 私たちはこの 賜物が信者となった すべての 男女に 与えら
れたものでなく、ある十分な人数だけの特定の個人だけに与えられたものであ
ると想像する。この賜物の目的とまたそれがどのような方法で教会内に用いら
れた か に関しては 、パウロ によってコリント前書12-14章に詳しく 説明されて
いる。これらの賜物は一時的な目的のために役立ったのであって一たび新約の
事実、教義、誡命、約束が霊感にみたされた人たちの筆によって記録されるや、
これらの預言や異言や教師たちの奇蹟的な智識は、書かれたる御言にその位置
をゆずったのである。
- 141 -
①Alford 氏 はサマリヤ人に聖霊が与えられた更にもう一つの目的として、神がサマリヤ
人にもユダヤ人と同じ賜物を与え給うたということをユダヤ人信者たちに示すことによっ
て、ユダヤ人とサマリヤ人との間に存在した民族的対立感情をとりのぞくためというこ
と を あ げ て い る 。 な る ほ ど た し か に こ の 賜 物 は 、 結 果 と して は ユ ダ ヤ 人 に 好 影 響 を 与 え
たに 違 い な い 。 し か し主 が 既 に 直 接 使 徒 たち に 向 って、 サ マ リ ヤ に 御言 を宣 べ よと (1:8)
命 じ 給 う た 以 上 、 も は や 弟 子 たち の 心 に は サ マ リ ヤ 人 に 対 す る よ う な 偏 見 は な か っ た 筈
である。ことにサマリヤ人が割礼ある人々であったことを考えても。
3.シモンのよこしまな提案(18-24)
18、19節
私たちはこの事件に関する以上の記事の中から、この時与えら
れた賜物は奇蹟を行う能力であるという結論に達した。この結論は、この時の
傍観者たちが実際見た事実がそれであったということから、正しいことがわかる。
次の記事はこのことを一そうはっきりさせてくれる。
8:18
シモンは、使徒たちが手を置くことで、”霊”が与えられるのを見、金を持っ
て来て、
8:19
言 っ た 。 「 わ た し が 手を 置 け ば 、 だ れ で も 聖霊 が 受 けら れ る よ う に 、 わ た し
にもその力を授けてください。」
こ の シ モ ン の 言 か ら わ か る こ と は 、 先 の 17節 の 記 事 が 示 すよ う に 、 聖霊 は
この人たちの上に、ちようど五旬節の日に使徒たちに降ったような方法で直接
天から降ったのではなく、聖霊の住みたまう使徒たちの人格から、按手という
方法によって分ち 与えられたということである。これは聖霊のバプテスマと聖
霊の 賜物 (特殊 な賜物 )との相違する重要点である。このことに関して更に詳し
くは11:16の註解を見られよ。
シモンのこの恥ずべき提案を説明するために、私たちは彼が先にどのような
生活をしていたか、またこの生活が彼の心にどのような習慣を植え付けていた
かということを思い出して見る必要がある。
魔術師であった彼は、常に自分が行うことの出来ない魔術を他の魔術から金
銭によって買い取り、またそのような買い物の機会を常に探していたにちがい
ない。従って使徒たちが真の奇蹟を行う力を人々に分け与えるのを見た時、彼
は忽ち、自分が放棄した魔術以上に商売になるものがこゝにあるぞ、と感じた
のである。彼の抑えがたい貪慾は、更に彼の以前の職業が彼に植え付けていた
もう一つの慾望、即ち人々の拍手喝采をかちえたいという慾望と一緒になって、
- 142 -
この申し出をさせたのである。これらの慾望は彼を全く盲にし、この能力を金
銭で買おうとすること、またそれを他人に売ろうとすることが大きな罪である
ことも知ることが出来なかったのである。
20-23節
使徒たちにとってはこの申し出ほど憎むべきものはなかった。
直情的なペテロの精神は忽ちはげしく憤り、猛烈な叱責の答が彼の口をついた。
8:20
すると、ペトロは言った。 「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神
の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。
8:21
お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前
に正しくないからだ。
8:22
この悪事を悔改、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるか
もしれないからだ。
8:23
お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっ
ている。」
ペテロによって喝破されたこのシモンの霊的状態は明々白々、しかもはげし
い語 気 で余 す所なく その 悪をついている。『苦 き胆汁』は彼の卑劣 なる心の状
態を あら わ し 、『不義 の繋 』は彼を束縛し 支配している 悪の 力に対するはげし
い表 現 で ある。彼の 心は 神の前に不正であり、 滅びへの道にあった。『なんぢ
はこの事に関係なく干与なし』という宣言は『なんぢの心、神の前に正しから
ず』という理由があることから、聖霊を与えることだけに限定して考えるべき
ではない。たとえ彼の心が神の前に正しかったとしても、彼はなお奇蹟の賜物
を分け与える業には、関係なく干与なかった筈だ。こゝに言われているのはそ
うではなく、バプテスマを受けた人でその心が神の前に正しい人ならば行うこ
と許されるすべてのことがらに ① 、シモンは関係なく干与なしというのである。
①
ἐν τῷ λόγῳ τούτω
というギリシア語を直訳すると R.V.の欄外に記されている
ように “in this word”(この 言葉に )と いう意 味で ある 。しか し
λόγος
という 言葉 の広
義の用法から考えて、“in this matter”(このことがらに)と訳するのがこの場合にはこの
句の意味を正しく表現する。
シモンのこのあわれむべき状態は、多くの人たちによって、彼が始めから偽善
者であった証拠として説明される。しかしこの推測が正しいか正しくないかは、キリ
ストに改宗することによって 果 してすべ ての過 去 の 心 の習 慣が 全く 根 絶さ れ、
決して再びその力をあらわすことがないほど人間というものが作りかえられる
- 143 -
という問題に存する。勿論シモンが真の純粋な改宗者でなかったということだ
けは確かである。しかし聖書と経験とが私達に教えるように、罪人が神に帰っ
てもなお彼の心の中には肉の慾が残り、誘惑によって容易に動かされ得るとい
うことを考えるならば、シモンもバプテスマを受けた時はやはり真に悔改た信
者であったと考えることも出来るわけである。しかもルカは聖書の中でたしか
に彼が信じたと言っている(13)以上、私たちはこの霊感の証言を否定すること
は出来ない。この不幸な人も実は既に神の子になっていた。しかし彼はまだ幼
児であった。したがって生れ変った彼の徳性も、改宗前のあの堕落への誘惑に
対しては全く弱かったのである。こうして彼は古い形のままで、しかも思わぬ
面からやって来た誘惑の好餌となった。彼は古い眠っている慾望が俄かにおこ
った時に、今日も多くの人たちが落ちるように、再び罪の中へおちたのであっ
た。従ってペテロは自分の罪を意識して驚く世の人に言ったように『悔改てバ
プテスマを受けよ』とは言わず、罪をおかした弟子たちに対する如く『悔改て
主に祈れ、汝が心の念あるひは赦されん』と言ったのである。この『あるひは』
は明かに、赦しが果して得られるか……という疑いをあらわしている。それは
このような罪をおかした人の悔改が、果して罪の赦を得るだけの充分真面目な
徹底した悔改であり得るかというペテロの心の疑問があらわれている ① 。
①ペテロはこゝで、或る註解者たちが想像するように赦されざる罪について言っているの
ではない(Plumptre, Alford, et.al.)。なぜなら、ペテロは『赦されざる罪』とは何であ
るか を知 って おり (マルコ 3:28-30)、 また、 シモ ンがこ の罪 をお かさな かっ たこと をも 知
っていたからである。
24節
8:24
ペテロの『或は』という疑問はシモンの答によっても幾分確証される。
シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないよう
に、主に祈ってください。」
この答はペテロの痛烈な叱責にシモンがふるえ上ったことを示すが、彼の答
はただこれだけにとゞまった。彼は自分のために、また自分の罪を赦されるた
めに祈るように命ぜられた。しかるに彼はそれを行わず、二人の使徒に自分の
ために祈ってくれるようにたのみ、しかもたゞ、今二人の言った恐ろしいわざ
わいから自分がのがれ得るようにということだけを願った。シモンに関する記
事はこゝで終る。そして彼はやや有望な心の状態のまゝ私たちの前から姿を消
してしまうが、果して彼が遂に悔改て救われたかということに関しては、彼は
私たち に 何の 証 拠をも 残してく れ ない 。彼のこの後の生活については Justin
Martyr, エルサレムの
Cyril, Irenaeus, Tertullian 及 び
- 144 -
Clementine
Recognition の著者 等 の二世 紀の記者たち が種々の 口 伝 を残しているけ れ ど
も、その大部分は伝説にすぎないものであって、一つとして信ずるに足るもの
はない。聖書にあらわれる人物に関して、私たちはこのような空しい物語によ
って想像を逞しうしてはならない。
4.ペテロとヨハネのその他の働きと帰京 (25)
25節
ルカの次に記す記事は、使徒たちがこうして着手した仕事の他の一つ
の例をあげている。
8:25
このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリ
アの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。
この文章の最初の一句は使徒たちが更にサマリヤの町々において証をなし御
言を語ったことを示し、最後の部分は彼らがエルサレムへの帰途においてなし
た伝道の仕事を示す。サマリヤからエルサレムに上る旅の道は、当然彼らをシ
ケム及びスカルの地を通らせる。シケムは旧約に屡々あらわれる有名な町であ
り、 ス カ ル はか つてイエス が サマリヤの女と 語り給うた (ヨ ハネ4:39-43)あの
ヤコブの泉のある所である。そしてもしあの時の女が生きており、また未だサ
マリヤの町へ行ってピリポの説教を聞く機会を持っていなかったならば、彼女
は この 時 始めて イエス の言 わ れ たあ の『生命 の水』(ヨハネ4:10-15)という謎
のような言葉の意味を知る機会を持つことが出来たであろう。しかし使徒たち
は多分、主な道路に沿った町々村々よりもむしろ他のはなれた村々に伝道する
ために、エルサレムに向って迂回する道をとったかもしれない。そしてそれら
の町々村々でその働きの成果を刈り入れるだけの充分な期間を留って伝道につ
いやしたであろう。
5.ピリポ、エチオピヤの閹人に遣わされる (26-31)
26節
こうしてサマリヤの教会に聖霊の賜物が与えられ、彼らが自らの力で
教会の徳を建てて行くだけの教えと力を持ったから、ピリポは更に新しい働き
の場所へ召されて行った。私たちは次に改宗した人がたった一人であったとい
う例、しかもその改宗の段階が甚だ詳細に記録された実例に紹介される。これ
はいわば神がその結果を来らせるための計画を実行されたことがはっきりとあ
らわれている実例である。私たちはこの中から、神がその計画を如何に遂行さ
れたか、その段階を見ることが出来る。
- 145 -
この場合にとられた最初の段階は、御使いが天から遣わされたことである。
そしてしかもこの御使いは、普通人間が想像するように改宗すべき人の前に現
れず、かえって御言を説く者の前に現れたのである。
8:26
さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガ
ザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。
天使が告げたのはわずかこれだけである。即ち天使の役目は、単に伝道者を
改宗すべき人のいる方向に向って出発させることであり、従ってこの役目が終
ると天使は直ちに天に去った。
『 そ こ は荒 野 な り 』と い う 言 葉は (それ が 天使 によって 実際 に語 ら れた か、
或は ル カ が挿入 した 言 葉であ るか、 それは重 要では ない )、この 繁華 な 町から
無人の地に送られる説教者に対して、お前の行く所は人一人いない淋しい土地
で ある ぞ 、 とい うこ とを知らせるためであった 。『荒野 』という 言葉はこゝ で
は文字通り荒れ果てた曠野をさすと考えてはいけない。なぜならエルサレムと
ガザの間には昔からそのような荒野は存在しないからである。この言葉の本当
の意 味 は 、そこに至る道の或る部分は比較的殆ど人の住んでいない土地である ①
ということである。この道路に関しては、最近この国の実地踏査が行われるま
では、古い註解学者たちの間に多くの誤謬と混乱がおかされて来た。しかし最
近の学者たちの研究踏査、ことに大英パレスタイン探険財団の実地踏査は、エ
ル サ レム か ら 一 直 線 に ガ ザ に 通 ず る ロ マ の 舗 装 道 路 が あ っ た こ と を 明 か に し
て、この問題を解決している。この道路は今日荒れ果てて車の通らぬ部分であ
るが、その形跡は今日もはっきりと残っている。この道路は上の踏査の結果作
られたパレスタイン 大地図にも載っているから、この 地図を持っている人は誰
でも道路の位置を明瞭に知ることが出来る。両市間の全距離は約80kmであり、
エ ル サ レム か ら の 方 角 は 殆 ど 西 南 西 に あ た る 。 道 路 は エ ル サ レム か ら 8kmの
地点より、徐々に中央山脈より下りはじめ、この山脈に沿ってワディ・エル・
メサルという狭い険しい山峡を通り、遂にワディ・エス・スント即ち旧約聖書
にエラの谷と呼ばれている峡谷に下っている。そして更にこの谷を真南に向っ
て数キロメートル 進むと道は西方に 折れ、もう一つのワディを通ってペリシテ
の大平原に出る。道路は以後この平原の上を通って遂にガザに達している。こ
のような山峡の間を縫う道路を多分『荒野』と言ったのであろう。なぜならこ
れ か ら 後 の道 は 終始 村 落や 牧 場や耕 地 の間を (この 国が繁 栄し人 口密 で あった
こ ろ に は )通 って い る か らで あ る 。 も しピ リポ の 通っ た 道 がこ の 無 人 の山 間で
ガザ街道を横切ったとするならば、彼はサマリヤから真南に向い、それからエ
ルサレムの西に進んだのであり、これは天使の言葉と一致する。
- 146 -
①
ἔρημος
とい うギ リシ ア語に こういう 意味 があ ること は、 次の各個 所をみれば わか
るであろう。マタイ14:15,19。マルコ6:35,39。ヨハネ6:10。
27、28節
ピリポは直ちに天使の声に従い、殆ど80kmを旅行して指定
された道路にさしかかった時、一台の馬車の後姿を発見した。この車中の人こ
そ、実にその人のために彼が遣わされて来た目的の人物である。しかもピリポ
はその人についてまだ一面識もないのだ。
8:27
フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、
女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、
8:28
帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。
この人物についてこゝに記されていることはすべてピリポが後に本人から聞
いて知ったことであり、また明かにピリポからルカに伝えられたことである。
彼が閹人であったということは、彼がユダヤ人の集会に加わったり、又は宮の
ユダヤ 人の庭に入 ること を許されなかったであろうが ① 、彼 も異邦 人の庭へは
自由に入ることを許されていた。異邦人の庭はありとあらゆる国民が、潔きも
のと潔からざるものとにかゝわらず、自由に入って礼拝することを許されてい
た場所である。彼が礼拝のためにエルサレムに上って来たこと、また車中でユ
ダヤ人の聖書を研究していたことは、彼がユダヤ人であったかそれともユダヤ
教への改宗者であったか、むしろ前者であったらしいことを示す。しかも私た
ちがこの推測に加えて、ルカが後に割礼なきものにもバプテスマが授けられた
ということを驚くベき一大事件のように特記しているのを見ても、私たちはこ
の閹人を既に割礼を受けた人であると解釈するのが、著者ルカの趣意にそって
いるようである。外国に生まれ外国に育ったユダヤ人が、この閹人のような高
い地位を得るということは珍しくなかった。特に財政に関する手腕にかけては、
昔も今も、ユダヤ人に及ぶものはない。
① 去 勢 し た 男 子 は 異 邦 人 と 等 し く イ ス ラ エ ル の 聖 会 よ り 絶 た れて い た け れ ど も 、 何 れも
もし神の律法に忠実ならば神を礼拝することを許され、また彼らの献げる犠牲も嘉納さ
れるものとされていた(イザヤ56:1-8)。去勢した男子がイスラエルの集会から除外される
べ き で あ る と の 規 定 は 、 ユ ダ ヤ 人 たち が 自 ら の 身 体 を 不 具 に し た り 、 ま た そ の 子 ら を そ
うすることを防ぐためであった。
私たちはこゝに、天使の派遣及びピリポの行程と、一方閹人の旅行の始まり
と進行との時間の一致に、神の顕著な予知の事実を見ることが出来る。ピリポ
は恐らく、少くとも閹人がエルサレムを去る前日にサマリヤを出発したものと
- 147 -
見なければならない。しかるに天使を遣り給うた主は、閹人のエルサレムをい
つ発つか、ピリポに追いつかれる地点に達するまでに閹人は何時間要するか、
またピリポが同一地点に来るまでに何時問要するか、というようなことをすべ
て知っておられたら、天使の派遣もこれらすべての動きが互に一点に会するよ
うに、時間的に全く一致させたもうたのである。このようにして神の摂理は奇
蹟約な天使の派遣に端を発して遂にこの閹人を改宗せしめ、彼によって福音を
遠隔の地におくり給うたのであった。
29節
ピリポが天使に示された道にさしかゝった時、彼の使命は天使の御告
げによって知り得た限りは成就した。なぜなら天使が彼に行えと命じたのはそ
れだけのことであったから、したがってこゝで、もし神の新しい命令が彼を動
かさなかったならば、彼は立ち止って次の命令を待ったであろう。しかし正に
この時、聖霊がこの事件に加わり、ちょうど先の天使の時のように、罪人の側
には働きかけず説教者に対して働きかけた。
8:29
すると、”霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。
この御霊の黙示は先の天使のそれと同様、明かに説教者と改宗の対象者とを
導き会わせるためであった。もしこの御霊がなかったならば、ピリポはこの時
すでに遙か先方を行く馬車をそのまゝ見過したかもしれない。
30節
この聖霊の命令を果すために、ピリポは急いで力いっぱい走らなけれ
ばならなかった。
8:30
フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたの
で、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。
その人はちょうど声を出して読んでいた -- これは私たちが読む場合にも
その 内 容に 精神を集中 する よい方法である。二人 の関係 位置を考えると、『な
んぢ其の読むところを悟るか』というピリポの質問は、このような高位の人の
前に現れた時の挨拶としては、無礼でないとしても甚だ唐突である。しかし考
えてみるとこの言葉こそ、この時に至当な質問であり、賢明にも提出されたも
のである。大体ピリポはこの人を少しも知らなかったから、彼に同じ弟子とし
て近 づ いて いい もの か 、不信 者として 近づ いてい い も の か わ か ら な か っ た 。
そ して彼 はも しこ の 人が不信 者 である ならば、今 読 んで い る 有 名 な 預 言 、 即
ちキリストの受難に関する預言の中でも最も平易明白な預言の真の意味を解す
ることが出来ないに違いない、と思った。普通のユダヤ人はこの預言をキリス
- 148 -
トに適用することを好まなかった。それは彼らがキリストを地上の大王者と考
えていたため、この言葉をどう解すべきか全然わからなかったのである。また
一方ピリポはもしこの人が信者であるならば、この預言の意味は彼に明白にし
て誤りのあるはずはないことをも知っていた。従ってピリポのこの質問は、こ
の人の信仰の状態をまず知ることによって、これから彼との会話をどうすゝめ
てよいものかを決定する目的で問われたものである。
6.ピ リ ポ 、 閹 人 に 説 教 して 彼 に バ プテス マ を 施 し 、
その後ペリシテの地に伝道する(31-40)
31-35節
8:31
ピリポの質問に対して閹人は即座に満足な答を与えた。
宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、
馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
8:32
彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠殺場に引
かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。
8:33
卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れ
るだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」 ①
8:34
宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこ
う言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」
8:35
そ こ で 、フ ィリポ は口 を開き 、聖 書 の こ の 個所から 説きお こ して、イ エ ス に
ついて福音を告げ知らせた。
① こ の 引 照 は イ ザ ヤ 53:7,8か ら 引 か れ た も の で あ る が 、 原 典 は 七 十 人 訳 に よって い る 。
し か も 七 十 人 訳 は 外 国 生 れ の ユ ダ ヤ 人 たち が 用 い た 聖 書 で あ る 。 閹 人 が 読 んで い た の も
この七 十人 訳にちが いない 。『 卑しめられて審判を奪 はれたり」と いう一句は 、イエ スが
あの不公平な審問と無実の有罪宣告によって、公正な裁判を奪われたという事実によって
最もよく説明される。Plumptre, Gloag, Hackett 及び Alford の諸氏もこの見解をと
っているよ うだ。Meyer はじめ一部 の学者たちはこの奪 われた審判と はイエスの審く権
利 で あ っ た と 主 張 して い る 。 し か し こ の 審 判 の 権 利 は イエ ス 御 自 身 も 未 だ お 用 い に な ら
ず来るべき未来の世界でこの権利を行使したまう(ヨハネ5:22-38。同12:47,48)であろう
ことをのべておられる。従ってイエスは決して卑められて審判の権をとり上げられたので
はない。
『誰かその代の状を述べ得んや』という一句は『その生命今地上より取られたり』
と い う 言 葉 の 意 味 に 照 して 解 釈 さ れ な け れ ば な ら な い 。 即 ち 彼 の 生 命 が 地 上 よ り 取 り 去
られたという 事実が、誰が彼の『代』の状を述 べ よ う か と い う 疑 問 を 生 む の で あ る 。
さてこの句の意味は一にかゝって『その世』(彼の世代)という言葉にある。大体この言葉
は 普 通 、 人 の 子 孫 を さ し 、 ま た 『 述 べ 得 ん や 』 と い う 問 の 意 味 は 否 定 の 答 を 含 蓄 して い
る。従 って この 句の真 の意 味は 、『何人も 彼の子孫を 示すこ とは出来ない 。なぜなら 彼の
- 149 -
生命は絶たれ彼の子孫は存在しないから』ということである。Meyer の暗示した『誰が
彼の霊的子孫の多数の群を述べることが出来ようか』という読みかたは、その後の文章
の 展 開 か ら 考 えてそ う 読 め な い こ と は な い が 、 こ れ が イ ザ ヤ の 意 味 し た 所 で あ っ た と は
考えられないし、イザヤ自身の言葉から考えてもこの読み方が正しいという証拠はない。
ピリポは今この人を理解した。そして同時にこの人の心の中に今どういう変
化がおこっているかということをも知った。この人は神を礼拝する敬虔な人で
あり、遠国の宝物を司る高官にありながら、律法の命令に従って礼拝のために
エルサレムに上ることを怠らぬ人である。彼は今エルサレムに行って来た。そ
して今その帰り途、聖なる市の影が後に見えなくなるや、車中に聖書を取り上
げてイザヤの書を開いたのである。彼の聖書を読む態度は真に考え深く、その
一つ一つの章句の意味を注意ぶかく追求して行くのだった。しかし彼はキリス
トの不信者である……もし信者ならば今読んでいる聖句が誰を指して言ってい
るのかわからぬ筈はないからだ。しかもたまたま彼の読んでいる聖書の個所は、
イザヤ書の重要個所であり、彼がもしこれを理解することが出来れば必ず直ち
にキ リス トに導かれ るに 違いない。ピリポは心に叫 んだに違いない 。『 神が御
使を私にお遣わしになったのはみな、今この人がこの聖句を読んでいることを
予め知り給うて、この人の心にこの聖句に関する疑問をおこさせ、そして私が
イエスの名によってこの質問に答えるようにとの思召で、ちょうど今この瞬間
に私をこの場所へ遣わすためだったのだ!』この神の智識と智恵の発露を見て
は、もはや驚きも躊躇も許されなかった。ピリポがこの聖句を始めとしてその
成就であるイエスの福音を説いた時、彼の魂は内にもえたであろう。そしてま
たこの聖書の意味を解せずに苦しんでいた閹人自身も、もしこの時『なんぢわ
が眼をひらきなんぢの法のうちなる奇しきことを我にみせたまへ』というダビ
デの祈りをさゝげていたならば、彼はその疑問に対する神の御答をピリポの説
教を通じて知ると共に、今まで全くの暗黒であった聖書のぺージから、彼の魂
を全く救いたまう救い主の栄光が輝き出すのを見たであろう。彼が聖書を開い
たのは天使と聖霊の助け導きによった。しかしこの聖書の御言が実際に彼の魂
を動かして信仰に至らせたのは説教者の言葉によった。
36-40節
閹人の改宗の記事は五旬節の日の三千人の改宗及びサマリヤに
おける人々の改宗の記事と同じく、悔改た人がバプテスマを受けたという記録
を以て終る。
8:36
道 を進ん で 行 くう ちに 、彼ら は水の ある 所 に 来た 。 宦官は言っ た。 「 こ こ に
水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
8:37
(なし)
- 150 -
8:38
そして、車を止めさせた 。フィリポと宦官は二人とも水の中に 入って行き、
フィリポは宦官に洗礼を授けた。
8:39
彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはや
フィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。
8:40
フ ィ リポ は アゾ ト に 姿 を現 した 。 そ し て、 す べ ての 町を 巡り な が ら福 音を告
げ知らせ、カイサリアまで行った。
彼らが最初に出あった天然の水は、もし道端に湧き出る泉でなかったとすれ
ば、エラの谷を流れる小川、その昔ダビデがゴリアテに向わんとして渡った小
川(Ⅰ サム エ ル17:40)であ っ たろう 。この小 川は山 間 の渓 流であ って 夏 には涸
れ、 冬 か ら春にかけ ては 強い流となって谷間をあ ふれ 流れていた ① 。このよう
な流れは常にその途中処々に、バプテスマに適するような池を穿って行く、彼
らが行きついた水はこれらの池の一つであったろう。しかし或は閹人がバプテ
スマについて質問した時、馬車がすでにこの流れを通り過ぎた後だったとすれ
ば、更にペリシテの平野に入るともう一つの水がある。それは現在ワディ・エ
ル・ハスィと呼ばれているが、この閹人のバプテスマの水に関する最初の学問
的研 究者 である Robinson 氏は 、はっ きりと これがバプテスマの行われ た場
所で あ ると 断定してい る ② 。この水は 一年間断なく 流れており 、四季を 通じて
何時でもバプテスマの用に供することが出来る。しかしまた他方考えられるこ
とは、実際にこのバプテスマが行われた場所は、当時この国の至る所に掘られ
ていた人工の池の一つであったかも知れないということである。これらの池の
廃墟 は今 も各地方に残 っている ③ 。かつてこの国が多数の人口と家畜の群でう
るおっていた時代には、七ケ月もつゞく長い乾季のために、家畜に与える多量
の水を貯え又夏の灌漑用水のためにも、これらの池は是非必要であった。従っ
て当時このユダヤの国ほど潅漑用水の発達した国はなかったのである。
①拙著 Lands of the Bible, p.259参照
②Biblical Reseaches,2:514, note 32
③Lands of the Bible, p.48参照
『我がバプテスマを受くるに何の障りかある』という閹人の質問は、この水
が見え出した時直ちに生じたものである。しかしこの疑問も、もし閹人がその
時までにピリポからこの礼典に関して教えられていなかったならば生ずる筈は
ない 。 彼は バプテス マという命ぜ られた礼 典 が あ る と い う こ と の み な ら ず 、
またこれに関する心の準備が出来た時にはこの命令に服することは人の義務で
あり、また特権であるということをも知っていた。彼はまた自身このバプスマ
を受けたいと強く心に願った。しかし彼の唯一の疑問は果して自分がバプテス
- 151 -
マを受ける資格があるか、ということであった.さて彼はピリポの説教を聞く
まではキリストなるイエスについては全く、知らなかったから、またイエスの
定め命じ給うたバプテスマについても恐らく詳しいことは何も知らなかったに
違いない 。従って私たちは、彼が今バプテスマに関して知ったことはすべてピ
リポか ら学んだの である 、と結論せざ るを得ない ① 。このことから、閹人にイ
エスを説くに当って、ピリポはたしかにバプテスマについて教えたということ、
また現在私たちがイエスを説く時にも、バプテスマは説教の中で教えられなけ
ればならない、ということがわかる。五旬節のペテロの説教においても、サマ
リヤにおけるピリポの説教においても、バプテスマは常に説教の一部分であっ
た。更にこの註解を読み進んで行くにつれて、私たちはバプテスマというもの
が、罪人に対する使徒たちの完結した説教の中では、常に重要な位置を占めて
いたことがわかるであろう。今日この重要な命令を落して説教する伝道者たち
は不具の福音を説く者であり、宗派的偏見を根絶し破壊するかわりにこれに媚
び迎合する輩である。
①閹人の読んでいたイザヤ書の一つの前の章(52章)の終り近くの言『後には彼おおくの国
民に注がん』から、閹人はこの聖句によってバプテスマのことを知ったということが、或
る論争家たちによって主張されている。しかしこの説は真面目な批評的註解者たちには誰
一人認められていない。またこのような説は、閹人がこの時読んでいた七十人訳聖書の本
文がこの個所で『注ぐ』という意味のギリシア語を使わずに、
θαυμαζω
即ち『驚か
せる』という全く異る訳語を用いていることからも、根拠のないものである。
閹人がこの質問を発するや否や命じて馬車を止めたということは、ピリポの
答が何の障りもなしという答であったことをあらわしている。しかし後世の或
る人々は、ピリポが何らの返答をせず、またあまりに性急な行動をしたように
思い 、 こ のために 『 ピリ ポ言ふ「なんぢ若し全心を 以て信ぜばよからん。」彼
こたへて言いけるは「我イエス・キリストは神の子なりと信ず」』(37節) ① とい
う一節が、使徒行傳の或る写本の中に挿入されるようになった。この挿入者は
こゝに挿入した思想を、多分ロマ10:8,9、Ⅰテモテ6:13、マタイ16:16のよう
な聖句から得たものであろうが、こういった形の信仰告白は使徒たちが採用し
ているものであり、またこの閹人がなされた当時にもなお、それが一般に行わ
れていたことを示している ② 。
① こ の 37節 が 後 代 の 挿 入 で あ る と い う 事 に 関 して は 殆 ど すべ ての 聖 書 原 典 研 究 家 たち の
意見が一致し、この問題ほど学者の意見が一致していることはない、といってもよい位で
ある。証拠については Tregelles 或は Westcott and Hort 又は Tischendorf の第八
版参照。
- 152 -
② こ の 言 葉 は 第 二 世 紀 後 半 の 少 く と も 一 つ の 写 本 に 見 ら れ る 。 こ の 言 葉 を 引 用 して い る
人はイレネウスであり、彼は170年から210年頃にかけて活躍した人であるが、彼の引い
ος αυτος ο ευνουχος πεισθεις και
παραντικα αζιων βαπτισθηναι ελεγε,πιστευω τον υιον
εινει Ιησου Χριστον; ” こ れ を 訳 す る と 『 閹 人 彼 自 身 が 説 き 伏 せ ら れ 、 直 ち
ている言葉は次の通りである。“
にバプテスマされることが正しいと考えた時、彼は言った。私はイエス・キリストは神の
子であると信 ずる 。』 またキプリア ヌスはこの 個所を次のよ うに引用している=『水を見
よ、私がパブテスマを受けるのを妨げるものは何であるか』ピリポは言った『もしあなたが全
心から信ずるならば、差支ない。
』“Ecce aqua quid est quoi me impedit baptizari?
Tunc dixit Philippus, si credis ex toto carodo tuo licit (Cyprian" Works,318)。
英語においてもギリシア語においても、閹人のバプテスマを行うに先立って
彼もピリポも水の中へと下ったということと、バプテスマを行ったのち水の中
から上って来たという事実を、これ以上間違いなく明確にあらわす文章を作る
ことは不可能である。今日でも多くの無学な論争家たちと等しく、バプテスマ
の悪変された形式を弁護するために、この明白な事実を否定しようとして色々
な理屈 をこねるよ うな不誠実な註解者たち ③ が見られるのは 、まこ とに悲しい
ことである。もしこの時の目的が単に閹人に少量の水をふりかけるとか、注ぐ
とかであったならば、ピリポも閹人も決してわざわざ水に下りはしなかったで
あろう。今日の伝道者たちが水に入らず水の外で滴札を行うその同じ理由は、
ピリポと閹人とをやはり水に入らず水の外に留らせたであろう。しかし今日私
たちをバプテスマのために水の中へ入らしめて浸礼を行わしめずにはおかない
同一の理由が、ピリポと閹人とを水に入らしめ浸礼を行わしめたのである。公
正率直な人ならば決してこの結論から逃れることは出来ない。今日もし私たち
がバプテスマという言葉の意味を、英語にせよギリシア語にせよ、全然知らな
いものとし、たゞ或る人は滴礼を意味すると言い、或る人は浸礼を意味すると
いうような曖昧な知識しか得られないとしても、この節こそは、聖書の明白な
意味に従う自由を持つすべての人にとっては、それだけでこの疑問を解決する
ことの出来る鍵である。この閹人の改宗の記事は多くの点で今日の教師たちの
誤りを指摘し、遂にはおそれおののいてこれら霊感を受けた伝道者たちが実際
に行っていた方法と教えに帰らしめるであろう.
③最近の例で驚いたのは Expositor's Bible 中の G.T.Stokes 教授の次のような言葉
であ る。 曰 く 、『 ピリ ポによって荒 野の中 でバ プテスマ を授 けら れた閹 人は 浸礼を 受け た
のであると考えることは不可能である。彼がやって来たそのチョロチョロ流れる流れは、
おそらく足をひたすのがやっとか、又は荒野の中にある井戸のようなものであったろう。
井戸ならば水面ははるかに下であり、ちょうどヤコブの井戸の場合のように、縄か鎖を
- 153 -
使わなければ水を汲むことも出来なかったにちがいない。またたとえ水面がすぐその中
に は い れ る よ う な 高 い 位 置 に あ っ た と して も (別 に む ず か し い 意 味 で な く 、 普通の常識か
ら考えても、人生にとって大切な飲料水を汚すようなことはしなかったであろう』(p.143)。
バ プテスマ の後 ピリ ポが姿 を消 したこ とは、『取り 去りたれ ば』という表現
の意味に関する限り、或は奇蹟的な現象であったかも知れない。この意味はま
た『アゾトに現れ』という表現とも一致するようである。しかしまた一方この
事は 、 彼 が 閹人 の馬車 に追 いつ くために駆 け出した時(29,30)のような、突然
の御霊の命令によって突然ピリポが去ったのかも知れない。またこの考え方の
方が、閹人が再び彼を見ざりし理由『喜びつゝその途に進み行けるが故なり(直
訳)』 と 一致 す る よう であ る 。この理 由 の意 味は、 もし彼 が自分 の行 く 手に進
んで行(その途に進み行)かなかったならば、ピリポに従って行(ピリポの途に進
み行 )っ た で あ ろうが 、と い うこ とで あ る。 ルカの 目的は 明かに ピリポ を閹人
の 前 か ら 去 ら し め た の は 聖 霊 で あ っ た と い う こ と を 読 者 に 知 ら せる た めで あ
り、ピリポが一体どのような方法で去ったかが曖昧であるのは、それがさほど
重要な問題ではないからである。注意すべき事実は、ピリポが今新しく改宗し
たこの閹人とともにいることをもはや許されなかったということ、しかもおそ
らくピリポとしてもなお一層の教訓を彼に与えておきたいのが常であるにもか
ゝわらず許されなかったということである。神の御旨は、この人が速かに故国
に帰り、今受けた教の上に立って己が救を完了し、また多くの他の人々をも救
うことにあったのである。このような方法は勿論誰にでも当はまるわけではな
い。或場合には危険なこともあろう。しかし神はこの人を知りつくして居られ
た。神がこの人をキリストにありて神のもとへ導こうとし、上に学んだような
慎重な方法と段階をとって彼を救い給うたのも、実は神がこの人を適しい器と
して知り給うたからこそである。
自分を教え導いてくれた師に俄かに別れ、今見出したばかりの救主について
も極くわずかな知識しか持たぬまゝで帰路を急がなければならなかったにもか
ゝ わらず 一閹人 は『 喜んで その 道を進んで行った 』。彼の この 喜びは パウロが
後にユダヤ人の聴衆に語った『この人によりて罪の赦のなんぢらに伝へらるる
ことを。汝らモーセの律法によりて義とせられ得ざりし凡てのことも、信ずる
者は皆この人によりて義とせらるることを』(13:38,39)というあの同じ救いの
経験から湧き上って来る喜びであった。勿論ピリポはペテロと同じように、彼
の新しい改宗者に対して、罪の赦と悔改及びバプテスマとの関係を教えること
を忘れなかったであろう。閹人は今彼自身この赦しの条件と一致した経験を心
から喜んだのである。
- 154 -
この改宗の実例をすべての面から完全に理解するためには、私たちは更にこ
の物語の要求するもう一つの観察点からこれを見なければならない。もしこの
閹人がピリポとこうして別れた後、誰か彼の友人が彼に会ったとしよう。そし
てその面に溢れる喜びを見て一体どうしたのかと尋ねたとしよう。そうすれば
彼は必ずやこの救いの体験を喜びにみちて語ったであろうが、その彼の身をも
って体験した証こそ、ルカのこの記事にもまして彼の改宗の事実をよく証明し
たにちがいない。彼はその物語を、ルカがしたように天使がピリポに現れた所
から始めなかったろう。彼はそのことについては何も知らなかったのだ。また
『ゆきてこの馬車に近寄れ』という聖霊の命令についても何も語らなかったろう。
彼はこの事実についてもまるで何も知らなかった。彼の物語は多分次のような
ものであったろう。
私 は 礼拝 のため にエル サレムに 上っていた。 そしてちょ うど都から 帰途
についた時だった。私は 馬車の中でイザヤの書を開いて読んでいた。たま
たまその中で 非常に解し 難い一句に出会った。それは私たち のラビたちの
中でも難解で有名な個所だ。それは誰か或る一人の人が世界中の人全体の
ため にへ りくだ って しかも死を受けた という、預言 者の 言葉である。私は
わか らな か った。 そして我 が預言者 が一体誰を指 して語っているの か、と
決するのに自から苦しんだ。ちょうどその時、突然一人の人が息せき切っ
て私の車に走りより、こう聞くのだ。『なんぢその読むところを悟るか?』
その 人 の態度 から察してその人はその意味を知っている らしかった 。しか
もち ょう ど私が誰かの助けを必要としているその時に、 この人があらわれ
たということは、私には神の摂理と考えられた。私は彼を自分の車の中へ
招じ入れた。彼は 私の隣に坐った 。私は聖書のその個所を指し自分の解釈
の困難を彼に告げた。ところが彼は即座に私のためにその聖句を完全に解
き明 かしてくれ、そしてこの聖句 こそ長く待 ち望まれた メシヤ に関 する預
言であること 、しかもこの 偉大なる高位の人物は、我々のラビたちが教え
る よ うにこ の 地上にお いて世界を治めるのではなく 、かえって私たちの罪
のた めに 犠牲 となって 死に 、死人の中 より甦えり、遂に天に昇 られて、人
と天使とを統べ治 める御国を打ち建て給うたということをこんこんと説い
てく れた のだ。私は 彼の言葉からこれらのすべての事実 が真理であること
を確信し、またそ の方の流し給うた血により、彼を信ずる信仰と悔改及び
バプテスマ によって、 律法も私たち に与えるこ との出来なかっ た罪の赦を
受ける ことが 出来る、ということを信じた。彼がこの大なる喜びの音信を
私 に 語って聞かせ てくれている中に、たまたま 私たちは水 のある所へや っ
て来 た 。そこ で私 は彼 が私に教えてく れたそのバプテス マを受けたい と、
彼に 願った 。彼 は 快 く 受 入 れて 私 を バ プ テス マ して く れ た 。 け れ ど も 、
バプテスマがす むと 、ちょ うど私の前に現れた時のよ うに突然どこへとも
なく去 ってし まった。しかし私はその時以 来罪の赦され たことと、永遠の
- 155 -
生命を 与えられるという 希望に何とも言いようのない喜びを持ってこゝまで
帰って来たのだよ。
--以上のような物語が閹人のいつわらぬ体験であったろう。そしてこの物
語を最後に歴史の幕は静かにおりて、彼は私たちの前から姿を消すのである。
しかし幸福なことに、私 たち が 今 後 の 姿 を 見 失 う 瞬 間 に ひ ゞ いて 来 る 音 は 、
よろこびの調べである。そして私たちもこの世におけるすべての旅路の終る時
に、再び彼と相会して永久に共に『喜ぶ』希望を持つことが出来るのである。
彼の素直な信仰と即刻の服従は、必ずや偉大なる収穫の日に多くの結実の束を
もたらすに違いないことを私たちは信じて疑わない ① 。
① エチ オ ピ ヤ (今 の ア ビ シニア の ク リスチ ャン たち が 、 後 に こ の 閹 人 を キ リス ト 教 を エチ
オピヤへ紹介した人としたのは当然である。彼らはこの閹人の後半生に関する幾つかの
伝説をもっているが、何れも充分な正統性を欠き、私たちの注意をひくに値しない。
ピリポが現れたアゾトは旧約聖書のアシドドであり、ぺリシテ人の五大市の
一つであった。この町は海岸から数マイルの近距離にあり、閹人の旅行した道
に対して直角に約一五マイルの位置にある。このアゾトからこゝにのべられた
ピリポの伝道の働きの終着点であるカイザリヤまでは約96kmあり、彼の働
きの舞台となった地方は、アゾトより北方ヨッパに至る昔のペリシテの地、及
び更に48kmの北方にあるカイザリヤに至るシャロンの平野を含む地域であ
り、この国でも最も産物豊かな地方であった。当時はこの地方は村々や小さい
町々が密に存在していたが、今日では殆ど荒廃に帰している。しかしこの土地
はピリポの生産の多年を費やすに足る傳道の地であった。私たちは彼の伝道の
あとを、更にこの註解の進むに従って見ることが出来るであろう。
第二項
サウロの改宗と初期の働き(9:1-31)
1.ダマスコへの旅
1、2節
(1-9)
遠国に住む一貴族の改宗の物語を記録し終ったルカは、次に当時最
も有名であった教会の敵の改宗の物語に転ずる。既にルカはサウロをステパノ
の殉教の記事の中で読者に紹介している。即ちこの一切の使徒の中でも最も大
きな働き人であり、最も犠牲的な役者であった人物は、ステパノが石で打たれ
る時、その足下に証人たちの衣を守りながら立っていた人として、歴史の頁に
現れているのだ。しかし彼が自分自身について語った言葉によれば、私たちは
更に遠くさかのぼって、彼 の 伝 記 の 始 の 部 分 を も 知 る こ と が 出 来 る 。大体、
- 156 -
人の 幼 時の 教育やそ の祖先 に関する記憶というものは、彼の性格を形造り、また
以後の生涯を形成するのに大きな力となってあらわれるものである。サウロが、
ル カ の 記 録 の 中 に 始 めて 現 わ れて い る よ う な 活 動 の 中 へ 飛 び 込 んで 行 っ た の
も、やはり彼の受けた教育と祖先の記憶のしからしめる所であったと思われる。
彼はキリキヤのキドノス河の岸にある有名なギリシャ人の町タルソに生まれた
(使徒22:3)。この町は当時アテネ及びアレキサンドリヤに比肩するギリシャ学
問の中 心地であり ① 、またその 位置が舟行の便ある河にのぞみ、しかも北はア
ジヤの 内部に東は シリヤの内部に通ずる山間道路 ② がこの地に会するため、広
範囲にわたる商業の中心地でもあった。こゝでパウロは幼にしてギリシャ語を
学び、ギリシャ人の習慣及び風俗の知識を得たが、このことは後になって大い
に彼のために役立った。同時に彼はまた他の感化力によって、周囲の異教社会
の悪影響から厳格に保護された。彼は生粋のユダヤ人であり、彼の言葉によれ
ば『ベニヤミンの族、ヘブル人より出でたるへブル人』 (ピリ ピ 3:5、ロ マ 11:1)
であった。この事は彼が深くユダヤ史に通じ、またモーセの律法を深く学んで
いたことを裏書する。彼の両親はパリサイ人(使徒23:6)であり、彼の聖書解釈
は従ってパリサイ派の傳統的な解釈であった。
① 哲 学 そ の 他 当 時 一 般 に 行 わ れて い た 教 育 に 対 す る こ の 町 の 住 民 たち の 学 問 熱 は 相 当 な
も の で 、 当 時 の ア テネ 、 ア レ キ サン ド リ ヤ 、 及 び そ の 他 、 哲 学 、 言 語 学 の 諸 学 派 を 生 ん
だいかなる町をも凌ぐものがあった(ストラボン,14:4)。
②タルソのある平野の北方及び西北方は、殆ど一年中雪を頂く高い山脈によって限られて
いる。この山脈の向う側へはキリキヤの門と呼ばれる一つの道が通じているが、これは
西 の 地 方 か ら キ リ キ ヤ に 入 り 得 る 唯 一 の 通 路 で あ る た め 、 特 に こ の 名 で 知 ら れて い る 。
キリキヤの東の境には更に一つの山脈があり、こ の 山 脈 を 横 切 って ア マニ ド の 門 、 及 び
シリヤの門と呼ばれる二つの通路がある。タルソは現在は人口約一万のあまりパッとし
ない町であるが、最近地中海岸からアダナを通過して敷設された鉄道はこの町を幾分昔日
の重要位置にかえすかも知れない。
こういった宗教教育の外に、彼はまた天幕造りの職業教育(使徒18:3)を受け
ていた。粗い衣服や天幕の布を織るのに用いられる山羊の毛は、当時キリキヤ
の 山 間 地 方 で は 多 量 に 生 産 さ れ 、 そ の 生 産 品 は 土 地 の 名 を と って Χιλιχιον
(ラ テン 語では Cilicium)と い う名 で 知ら れていた。しか し 彼が後 に高価な智
識教育を受けたということは、彼の父が彼をこのような餞しい職業につけたの
は必要からしたのではなく、すべての子弟に或る手工的労働を授けることを教
育の重要な部分であると考えたユダヤ人の一般の観念に従ったものであること
を証 明す る ① 。この職業は後生の暗い日において大いに役に 立った ものであっ
た(使徒18:3、20:34、Ⅰテサロニケ2:9)。
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①Talmud(旧約律 法及 びラ ビ慣習 法の 解説書 )は ガマ リエル の言葉 として『すべて職 業に
関係のない教 育は結局無益であり、人を罪に導くものである 』、ラビ・メイヤーの言葉と
して『 人は 必ず その子 に清 浄にして簡 易な 職業を教 えなければ ならない 』、またラビ ・ユ
ダの言葉として『子に職業を教えないことは、盗みを教えるようなものである』と引用し
ている。
彼が両親の教育に服してギリシャ語と職業とを学んだのはたゞその幼年時代
だけであった。なぜなら彼はエルサレムにおいてガマリエルの足下で『育てら
れ』た のである(使徒22:3)。そしてこの碩学のパリサイ人、私たち が既にその
智 慧と 平 静とを 十二 使徒の 裁判 にお いて知った (使徒 5:33-39)その 人の教育指
導の下に、彼の律法に関する智識はひろめられ、その律法に対する熱心はもえ、
彼のパリサイ的偏見は強められて行った。この聖書学校における彼の進歩は、
彼が自ら記しているように『またわが国人のうち、我と同じ年輩たる多くの者
にも勝りてユダヤ教に進み、わ が 先 祖 たち の 言 伝 に 対 しで 甚 だ 熱 心 な り き 』
(ガラテヤ1:14)であった。彼のこの卓出した学問と熱心とは更に宗教的行状を
持っていた。このために彼は多年を経過した後に、かつて少年時代に彼を知っ
ていた人々が彼の敵となっていたにもかゝわらず、彼らの前で、自分が彼らの
宗教中最も厳格な宗派にしたがってパリサイ人として生活したことを堂々と証
言することが出来た。のみならず彼は律法によれる義については責むべきとこ
ろ がな か っ た(使徒 26:4、ピリ ピ 3:6)という こ とを人々の前 に断言することが
出来たのである。
サウロが、イエスの十字架に釘けられた時、或はその数年以前の期間、エル
サレムにいたであろうとは考えられない。というのは、もし彼がその頃エルサ
レムにいたならば、彼がその多くの説教と書簡の中で、一度もイエスの生涯中
の出来事を直接知っていたということを記していないということを、説明する
ことが出来ない。ステパノが死んだ時、サウロは少くとも三十歳位であったに
違い な い ① 。そして 彼は多分 学校を 出てか ら十年乃 至十数年たっていた であろ
う。彼がヨハネの伝道を始める以前にタルソに帰り、イエスの昇天以後にエル
サレムに来たという想像は、彼に関するすべての既知の事実と最もよく一致す
る。ステパノと外国の会堂のユダヤ人との間に論争がおこった時、サウロが彼
と対 論 し たキ リ キ ヤ 人の 一 人 で あっ た こ と は確 かで ある (6:9)。し か も彼 の律
法に関するすぐれた学識は彼を論争者の中でも最前列に立たしめたのは当然の
ことであろう。また彼は明かにサンヘドリン議会の議員であり、議会が暴徒と
化し、ステパノを石で撃ち殺した時も、主導者としての役割を演じたことは確
実である。何故ならばルカは『証人らその衣をサウロという若者の足下に置け
り 』 (7:58)と 言 い 、 ま た 『 サ ウ ロ は 彼 の 殺さ る る を よし と せ り 』(8:1)とい う
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形 式的 な 記述 をこれ に加えている ② 。ステパノ の死後 も彼はなお も迫害指導者
としての地位を保ち、教会が四方に散らされるまでその悪虐ぶりを遺憾なく発
揮した。この迫害の行われる中、ステパノ以外にも或る者は殺され、また或る
者はイエスの名を涜させんとして会堂でむち打たれるものも多かった。
① 彼 は 当 時 『 若 者 』 と 呼 ば れて い る 。 し か し 一 方 彼 が こ の 暴 徒 の 主 導 者 格 で あ っ た と い
う 事 実 は 、 彼 が す で に 『 若 者 』 と 呼 ば れ 得 る 範 囲 内 で は 全 く 成 年 に 達 して い た こ と を 暗
示する。約三〇歳である。
②『彼らの 殺されし時 これに同意し 』(原文= 同意の投票を なし、26:10)というパウ ロ自
身 の 言 葉 を 文 字 通 り 解 す る こ と が 許 さ れ る な ら ば 、 彼 は 多 分 こ の キ リス ト 教 迫 害 に お い
て 、 弟 子 たち の 生 死 を 決 し た 法 廷 の 一 員 で あ っ た こ と が わ か る 。 し か も こ の 弟 子 たち を
さ ば い た 法 廷 は サン ヘ ド リ ン 議 会 以 外 に は 知 ら れて い な い 。 こ の 推 測 を 否 定 す る 根 拠 は
唯一 つ あ る 。 それは後年のユダヤ人記者たちの口説、 す な わち サン ヘ ド リ ン の 議員 た る 者
は成人男子あるいは既婚の男子でなければならなかったという説である (Glag, Lechler,
Hackett,26:10について)。しかしこの説の後の部分、即ち既婚者という条件に関しては
Farrarが サ ウ ロ は 早 年 に 結 婚 し 、 後 に 妻 を 失 って 寡 夫 に な っ た と 主 張 して い る が 、 こ の
説 は 決 定 的 な も の で な い に して も 一 応 は う な づ ける 。 し か し 何 れ の 反 対 論 も 確 実 な 事 実
の裏づけを持っていない。
エルサレムの教会が四方に散らされた時、サウロは恐らく、とうとう憎むべ
き宗派を滅ぼしたぞと内心ほくそ笑んだに違いない。しかし間もなく、その散
らされた弟子たちが各地で教会を建てつゝあるという噂が各方面から彼の耳に
入って来た。パウロほど不撓不屈で頑固な男でないならば、誰でもこれほど攻
撃を加えたのに反ってますます盛んになり、表面は滅亡と見えた底から新たな
生命をもり返して来たこのような根強い信仰を見ては、もはや鎮圧も術なしと
落胆したに違いない。しかし彼には、障害がおこればおこるほどますます決心
を頑強するはげしい意志があった。こうしてサウロは私たちが今読もうとする
この本文に現れて来るのである。
9:1
さ て、 サウ ロ は な お も主 の 弟 子た ち を 脅迫 し 、殺そ う と意気 込 ん で 、 大祭司
のところへ行き、
9:2
ダマスコの諸会堂 あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出
したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
こゝで『ダマスコにある諸会堂』と複数になっていることは、当時この町が
甚だ多数のユダヤ人口を有していたことを示すが、このことはネロ帝の治世に
こゝにおこった騒擾の際、一万人を下らぬユダヤ人たちが殺されたというヨセ
- 159 -
フ ス の 記 事と 一 致 す る (戦 記 ,2:25)。 こ の大 き な ユ ダヤ 人 の 町 にイエ ス の信 仰
がひろめられてい るというニュースがエルサレムに達した時、サウロと同僚の
迫害者たちの激怒は止まる所を知らなかった。しかしダマスコは外国の重要市
の中でもエルサレムに最も近い町であったため、この町は直ちに散乱した弟子
たち追求の第一歩として選ばれたのである。勿論普通の状態の下では、この時
サウロが携帯したような書状は、外国の町々で人を逮捕するような権限を彼に
与えることは出来なかったろう。しかし彼は或る理由によってダマスコの司た
ちが彼の行う所を黙認するであろうという確信を持っていた。この彼の考えが
正しかったことは、後にこの町の総督が、クリスチャンとなったサウロ自身を
直ちにとらえようとしたことからも明かである(Ⅱコリント11:32)。
3、4節
およそ何びとといえども、この時この狂暴な遠征に出発しようとし
ていたサウロ以上に、キリスト教に改宗し難い反対心を抱いている人はなかっ
ただろう。キリストの弟子たちを恐喝し、またこれを殺さんとして殺気を吐き
つゝ、彼らを捕えて獄に入れるために外国の町に向って旅立った彼と、一方遠
い故国に帰る平和な旅行の途々、車中預言者イザヤの書を冥想しつゝ読んでい
たあの閹人との間には、何と大きな対照があったことであろう!しかしキリス
トの福音はこの二人を何れも救いの道に転ぜしめて、その適合性の不思議さを
示したのである。
エ ルサ レム から ダマスコ ま で の 距離 は約 225kmある 。最 も普 通の 旅 行の道
は山脈の分水嶺に沿って北へ、べテルとシケムを経てエズレルを通る道である。
この道はエズレルから更に東に進んでヨルダンの谷へ急に下る絶壁の上に立つ
ベテシャンに至る。このベテシャンからこの谷を北に遡り、ヨルダン河にかゝ
る石 橋 を 渡 って東岸に 出る 。 この石橋は 今日もそのま ゝ残っている ① 。そして
更にこの東岸の高原平野に沿って遂にダマスコに至る。ちょうど旅行の終の日
には道はヘルモン山の東麓を過ぎ、雪を頂いた山頂が遥か左の地平線を区切っ
て見える。この旅行に出発した時のパウロの激怒の嵐も、四、五日の旅行の間
に幾分和ぎ、やがて現れんとし給うキリストと対面するのにふさわしい心の状
態になっていたことであろう。
9:3
ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼
の周りを照らした。
9:4
サ ウロは地に 倒 れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害する のか」と呼び
かける声を聞いた。
- 160 -
ルカはこゝに描写する光景の中で二つの重要な事実を落としているが、それ
は後にパウロ自身の口から語られた演説を引用して補っているためである(22:
6-10、26:12-18)。従って私たちもまた、ルカがこゝに示さんとする出来事を
研究するに当って、ひとまずこれらの事実を省略しておくのが正しいであろう。
ルカはこゝで俄に彼を環り照した光が『天よりの光』であったことを、サウロ
がどうして知ったかを記していない。しかしこの光は『天よりの光』である点
において何の疑もないものであったことを私たちは知らされる。それは彼を照
した時『かれ地に倒る』ほどの強い、はげしい光であった。サウロという人は
甚だ勇敢であって、少し位のことで倒れるような男ではない。これは奇蹟だ-
-彼はたち所にそう感じたであろう。そして『サウロ、サウロ、何ぞ我を迫害
するか』という声を耳に聞いた時、彼にとってこの『迫害する』という言葉は
明かに、弟子たちに対する彼の行動を指すものであることは疑う余地もなかっ
た。更にまたこの声が光と同じく天から下ったということも彼には疑もなく明
かなことであった.しかしこの声の主は誰か?
た他の弟子たちの一人か?
高位の人物であるのか?
ステパノか?或は自分が殺し
それともそれ以外の誰かはかり知ることの出来ぬ
彼はこの言葉からは知ることが出来なかった。そこ
で彼は直ちに誰であるかを尋ねたのである。
①この石橋については拙著 Lands of theBible、p.354参照。
5、6節
9:5
「主 よ、あな たはどな たですか 」と言う と、答えが あった。「わたしは、あなた
が迫害しているイエスである。
9:6
起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
この言葉を聞いたサウロの心の中に電火の如く閃いた思いと感情がどんなも
のであったかは、幼時から栄光の主キリストを教えられて来た私たちには想像
もつかない。彼は今の今までイエスを神と人とに詛われたインチキ山師である
と信じ、イエスの弟子たちを死罪に当る涜神者であると考えて来た。しかるに
この憎むべき人物が突然神の栄光の輝きの中に顕れたのである。しかし彼が自
身、今その眼で見、耳で聞いている事実は疑うことは出来ない。その人は今、
自分を環り照す天の光と神の栄光の中に立って言うのだ ① 。『我はイエスなり』
と。それではあの ステパノの言ったことは正しかったのだ。そして自分は罪な
き者 の 血を 流したの だ。『ああ、われ 悩める 人なるか な、この死の体より 我を
救は ん 者は 誰ぞ。』 事既 に決す 。彼の傲慢な精神は屈服し、そしてその偉大な心
の潮流は永久に反対の方向に流れるべく正しい道に激流となって転じたのである。
- 161 -
①サウロがイエスを見たということはこゝには述べられていないけれども、アナニヤ(17節)、
バルナバ(27節)及びサウロ自身(Ⅰコリント15:8)によって明白に語られている。
7節
次にルカはこの時サウロが一人 でな か っ た こ と を 明 か に す る と 共 に 、
簡単に同行の人々の振舞について語っている。
9:7
同 行 して い た 人 た ち は 、 声は 聞 こ え て も 、 だ れ の 姿も 見え な い の で 、 も の も
言えず立っていた。
これは物語を捏造しようとする記者ならば書く筈のない言葉である。もし偽
作であるならば、当然サウロと共にイエスの顕現を証明出来る人々が彼を見な
かったというようなことは認めなかった筈である。この事からもこの記事が事
実であったことがわかる。彼らがイエスを見なかったという事実は、次の二つ
しかない理由の何れかによって説明されなければならない。即ちイエスがサウ
ロに現れた瞬間、故意に御自身を彼らの眼からは隠してサウロだけに現れ給う
たか、或は彼らがイエスの現れ給うた方角を、こゝに記されぬ何らかの理由で
見ることが出来なかったかの何れかである。その真の原因はこの書の中で後に
明かに されるであ ろう ① 。しかしこの時サウロに語る者が何者であ るかを知る
ことの出来なかった同行者たちも、光が現れたという事実、その光の中から声
が聞えたという事実、そしてその結果直ちにサウロが盲目となってしまったと
いう事実については、有力な証人となることが出来たのである。
①22:9及び26:14の註解を見よ。
8、9節
『起きて町に入れ、さ ら ば 汝 な す べ き 事 を 告 げ ら る べ し 』 と い う
イエスの最後の言葉がなかったならば、サウロは次になすべき事を全く知るこ
とが出来なかったであろう。しかしイエスのこの命令を受けた彼は、そのまゝ
出来得る限り忠実にその命令に従った。
9:8
サ ウ ロ は地 面 か ら 起き上 が って、 目を 開けた が 、 何も 見えな か った 。 人々は
彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
9:9
サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
『彼 目をあけた けれど 』(直訳=彼の目が開かれ た時)という言葉は、サウロ
の眼が 、光のはじ めて現 れた時から盲 目 に な って い た と い う 意 味 で は な い 。
というのは、もしそうならば彼はイエスを見ることなど出来なかった筈だから
である。また彼が始めから眼を閉じていたのならば、照りつける強い光が彼の
- 162 -
眼をくらますということもなかった筈である。この記事の意味はこうであろう。
彼はその輝く光の中を耐え得る限りじっと見つめた。そしてその眩しさに耐え
ら れ な く なって 眼 を 閉 じ た 。 そ して 彼 が 立 ち 上 っ た 時(多 分 心 の 平 静 を とり も
ど そ う と して し ばら く た って か らで あ ろう )、 彼 は 本 能 的 に 眼 を 開 い た 。 そ し
て自 分 が 盲目 にな って い るこ とを知った 。『人その 手をひき てダマスコに導き
行き』という言葉は、私たちがよく想像して絵に描いたりするように彼らが馬
やラクダに乗っていたのではなく、サウロも同行者も徒歩で旅行していたとい
うことを意味する。当時人々は普通徒歩で旅行したものであった。彼が三日の
間全然飲食しなかったということは、彼がその時自ら犯した恐ろしい大罪を考
え、何をなすべきかを告げられぬまゝに主の命令を待っている時の極度の憂い
を考えれば無理もないことである。この三日間はユダヤ人の計算法に従って、
彼が到着した日の残りと、次の日と、そして第三日目の彼が救われるまでの時
間をふくむと解すべきである。
2.サウロ、バプテスマを受ける
(10-19)
10 -1 2節 主はそ の約束に従って、後 に な す べ き こ と を 告 げ 給 う 前 に 、
わざと三日間サウロを始めて知った罪の自覚の苦痛の中に放任し給うた。この
三日間の遅延は、彼のまわりに集って来るすべてのユダヤ人不信者たちの注意
をサウロにひきつけた。彼らは彼の不幸と盲目の原因について、徒労に彼をな
ぐさめようと努力した。しかし私たちが次に見るように、神のよき目的が彼を
助ける 結 果 とな った(19-22節註 参 照)。救いは 遂に如何 にして 彼に与えられた
か、それは次に記される。
9:10
とこ ろ で 、ダ マス コにアナ ニ アという 弟子が いた。 幻 の中 で 主 が 、「 アナニ
ア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
9:11
す る と 、 主 は 言 わ れ た 。 「 立 っ て 、 『 直 線 通 り 』 と 呼ば れ る 通 り へ 行 き、 ユ ダ
の家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
9:12
アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるよ
うにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
主はこの啓示の中で、サウロがアナニヤの全く知らぬ人物であるかのように
語り、また私たちが想像するように、サウロが悔恨の中にひたすら祈っている
と い う こ と を 語 って お ら れ る 。 12節 で サ ウ ロ が 見 た と い う 幻 は 、 彼 の 視力 が
必ず回復されるという希望を彼に与えるために現れたのであり、またサウロが
実際に眼を開かれた時にこの幻と事実との間に一致する神の計画を知ることが
出来るように、という意味で起るべきことがそのまゝ幻となって見せられたの
で あ る 。『 直 』 と い う通 り は 今日 も な お 残ってお り、 ダ マ ス コ 市 内 で も 他 の
- 163 -
すべての通りと対照して真直であるため、間違えられることはない。何故なら、
こ の通 り 以外の 道路 が 殆 ど45メ ートルから 90メートル毎 に急な角度 で屈折し
たり、或は所々湾曲しているのに対し、この『直』という通りだけは約1.6km
の間にたゞ五つだけ鈍角の屈折があるだけで、文字通り真直ぐに通じているか
らである。従ってこの『直』という通りの名とサウロの滞在していた家の主人
であるユダという人の名がこゝにあげられていることは、この記録の信憑性に
一層確実な証拠を与るものである。
13-16節
主から与えられたこの命令は、アナニヤに甚だ嬉しくない任務
を課した。
9:13
しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あな
たの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
9:14
ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限
を受けています。」
9:15
す る と、 主は 言わ れた 。 「行 け。 あ の 者は 、異 邦人や 王 た ち、 また イ ス ラエ
ルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
9:16
わた しの 名のた めにどん なに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示
そう。」
こゝでアナニヤが『聖徒』という名称を弟子たちにあてはめて使っているが、
この名が新約聖書の中に現れるのはこれが始めてであるけれども、アナニヤの
口 ぶ り か ら 見 て 、 既 に こ の 名 称 が そ う い う 意 味 で 用 い ら れて い た ら し い 。
言葉の意味は聖なる生活を送る人ということである。またこれと平行して用い
られている『汝の御名を呼ぶ者』という表現も、同じく弟子たちを指している。
『汝の名』というのは言うまでもなく主イエスの名である。何となれば、この
時アナニヤと言葉をかわしておられたのは実に主イエス・キリストであったか
らである。アナニヤはエルサレムにおける サウロの迫害者としての経歴を風説
としてのべている が、この事から彼 はステパノの死後にエルサレムからのがれ
て来た信者の一人ではなくて、むしろこの迫害以前の平和な時代に既にバプテ
スマを受けていた人であることがわかる。彼がどうしてサウロがイエスの名を
呼ぶ者を捕縛するためにダマスコに来た事を知ったのか、これはサウロ一行の
外は誰も知らなかった筈であるのに--という疑問は容易に解決することは出
来ない。私たちに想像し得る限りは、多分エルサレムに残留していた使徒たち
が、ダマスコの弟子たちの上に迫る危険を予め知らせるために、サウロの一行
に先立って急使を派遣したかも知れぬということである。この推測は甚だ可能
性の強いことである。
- 164 -
アナニヤはしかし結局、主の命令に対して議論しようとしたすべての人たち
と同じように、主がこのような勝手な議論を聞き給う方ではないという事を発
見し た 。『 往け』とい う 主の最後的命令 はすべてを解決した 。しか し主 は彼に
対して、誰も想像することの出来ぬような大きな価値を彼に与えたことを、わ
ざわざアナニヤに教え給うた。異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に主の
御名を持ち行く『選びの器』という比喩で、主は彼を、国王に贈る貴重な宝玉
を入れるために念入に選ばれた小箱にたとえ給うた。宝玉は即ち主自らの尊き
御名である。宝石商人は必ず高価な宝玉をそれに相当した高価な宝石箱に納め
るものである。同様に主は今その御名を王たちや地上の高官たちのもとへ送る
ために、この迫害者サウロを最適の器として選び給うたのであった。この選任
はアナニヤにとってはたゞ驚く外はなかったが、しかし後の事実はこの選びが
神のはかり知れぬ深い智識に出たものであったことを証明した。この時から久
しく後にサウロ自身、このアナニヤの口から聞いたと思われる同じ表現を使っ
ているが、彼はその意味を変えて『我らこの宝を土の器に有てり、これ優れて
大な る 能 力の 我等 よ り 出 でず して 、神 より 出づ る こ と の 顕 れん ため な り』 (Ⅱ
コリント4:7)と言っている。キリストにとっては彼は『選びの器』であったが、
彼自身の眼から見れば拙い『土の器』であった。さて主がなおもサウロがこの
ように尊い選の器とされた結果を示さんとして『我かれに我が名のために如何
に多くの苦難を受くるかを示さん』という言葉をつけ加え給うた時、アナニヤ
の驚きは前にもまして大きかった。この言葉は、神がこの世の選ばれた魂を扱
い給う方法、即ち名誉ある卓絶した地位に人を召し給う時には、同時に彼を苦
難の生活に召し給うという事実に注意させる。しかもこの事は特にサウロの場
合に真実であったことが後になってわかったのであった。
17-19節
以上の主の言葉によって、アナニヤにサウロの許に行くことを
躊躇させた迫害者に対する自然の恐怖は取り除かれた。
9:17
そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置い
て言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、
あなた が元どおり目が 見える ように なり、また、聖霊で満たされるようにと、わたし
をお遣わしになったのです。」
9:18
す る と、 た ち ま ち 目 か ら う ろ こ の よ う な も の が 落ち 、 サウ ロ は 元どお り見 え
るようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19a 食事をして元気を取り戻した。
サウロがその途上イエスを見たということを、アナニヤはどうして知ったか、
ルカはこゝに記していない。多分彼は、既にサウロに関する噂が市内のユダヤ
- 165 -
人たちの間に相当広まっていたため、ユダの家でサウロと会話を交わした人な
どの口から一部始終を聞いていたのであろう。彼はサウロに向って『兄弟』と
いう親しみをこめた呼びかけをしているが、これは彼が兄弟たるユダヤ人であ
ったからではなく、彼が今既にアナニヤと同じ信仰を信ずる者となり、服従の
道に進んでいたからであった。サウロの眼から落ちた鱗のようなものは、多分
あの天からのはげしい光に焼かれたために生じた乾燥した膜のようなものであ
った ろう。 この鱗のよ うな ものは、或註解者たちの言うような ① 単に彼の眼か
ら落ちたかのようにサウロに見えたものではなく、ルカが明白に述べたように
実 際落 ち たの である 。『 すな わち 起きてバプテス マを受け 』という 記事の中に
は、この結果に至った命令が省略されているが、勿論これは言われたに相違な
い。 ル カ はこ ゝで も わ ざ と記 述 を 省略 して いる 。 そしてこ の 省 略 は 22:14-16
に引用されるパウロの説明によって補われる。またバプテスマの行われた場所
も省略されているが、ダマスコ市内にはアバナ河がちょうど町の中を貫流し、
バプテスマには非常に便利な場所を提供していたのみならず、またこの河から
引かれた水は大きな建物の庭に多数の人造池を作っていた ② 。
サウロが聖霊に満されんために自分が遣わされたというアナニヤの言葉は、
普通は聖霊が按手によって与えられたことを暗示するものとして解釈されてい
る ③ 。 し かし 私 たちが既に 学んだように、 ピリ ポによってキリスト に改宗 した
サマリヤ人たちが聖霊の奇蹟力の賜物を受ける際に、二人の使徒がこれを与え
るために派遣されたことから、ピリポが聖霊の奇蹟力の賜物を与える権能を持
っていなかったことを知っている。この事から考えれば、このような権能がア
ナニヤに与えられていたとはちょっと考えられないが、もしこの結論以外に適
当な考えがなければ、私たちはこの時、聖霊がアナニヤの按手によってサウロ
に与えられた、という結論をとることを躊躇しない。しかし事実よく考えて見
るとこの外にもう一つ適当な結論がある。そしてこの結論は上の結論を不必要
にするばかりか、全く不可能なものにするのである。私たちは既にぺテロの第
一回の説教から、すべて悔改てバプテスマを受けた者は聖霊を受けたというこ
とを知った。従ってサウロもアナニヤからバプテスマを受けた時、当然聖霊を
受けたのである。このことから考えれば彼が聖霊を受けたのはアナニヤが彼に
遣わされたからこそであり、なんじが聖霊にて満されんためにというアナニヤ
の言葉と充分一致する。従って私たちはこのことを説明するためにわざわざ、
アナニヤが使徒たち以外誰も持っていなかった権能を授けられていたという、
あまり確かでない想像をする必要もなくなる。次に注意すべきことは、この場
合アナニヤという人が全く何の職分も持たぬ普通の弟子であった(10節)という
ことで ある。このことを言いかえれば、私たちはこゝに何の職権も持たぬ一弟子
- 166 -
がバプテスマを施した実例を持っているということである。このことは、この
バプテスマの礼典が効力を有するのは、決して教会の役員や牧師たちの行うも
のに限るのではないことを証明する。
①Lechler, Hackett その他。
②Plumptre in loc. 及び Lands of the Bible、p.551,552,558 参照。
③Plumptre, Gloag, Lechler.
サウロがバプテスマを受けた後直ちに『食事して力づきたり』という事実は、
彼をして極度の断食をせしめたあのはげしい悔恨の気持が、このことによって
全く消滅したことを意味するが、これはバプテスマによる罪の贖いの約束と全
く一致する。この点に関しては更に22:16の註解を見よ。
さて私たちがこの改宗の実例から眼を転ずる前に、しばらく止まってこの改
宗を起した力の中に、人間的な力と神の力とを区別し、またその相互の関係を
考えてみるならば、私たちはこの場合サウロが如何にしてキリストに導かれた
かということを、一そう深く理解することが出来るであろう。この実例の最大
の特色は、この場合主イエス自身が直接説教者となり給うたということである。
サウロをしてイエスを信ぜしめ、悔改に導いたものは、天よりの光の中から下
されたイエス御自らの言葉、しかもその環り照らす不思議な光によって神から
の言葉であることを証された御言葉であった。信仰は、すべての場合と同じく、
御言を聞くことによって来った。しかも主が自ら御言をのべられ、その御言が
この罪人を信ぜしめそして悔改しめたにもかゝわらず、なおこの罪人は自分の
平安を得る前になすべきことが残されていた。主はそのことを彼に直接告げ給
わず 、何をなすべきかを教えられるために彼をダマスコへ遣し給うたのである。
その教えを待つ間、彼は悔恨に心を刺され全心を投げ出して祈祷に没頭していた。
しかし彼の罪はまだ赦されなかった。このことは、人が神の前に義とされるこ
とは信仰と悔改の結果として直ちに与えられるものではないことを示す。その
不幸な状況の中で彼は三日間を過した。何をなすべきかを告げるために誰も来
てくれなかったからである。これはサウロの場合の特別な例であって、私たち
が既に読んだ他の改宗の実例では、信じて悔改てから罪を赦されるまでの間に
このような時間の経過した例はない。しかしこの遅延は主の計画であった。そ
して彼に何をなすべきかを告げ得る人も一人として彼に近づかず、主もまた未
だアナニヤをお遣わしになっていなかった。こうしてサウロは誰を招くべきか
を知らず、アナニヤや他の弟子たちも放任しておけば恐れて彼に近づかなかっ
たから、こゝにあの閹人に対するピリポの派遣の時のように、神の仲介が必要
となった。そして前の場合には天使の派遣となって現れたものが、この場合には
- 167 -
主自らアナニヤに語り給うということになったのである。このような人間であ
る一人の使者が、主自ら罪人に現れ給うた後に、彼に何をなすべきかを教える
ために遺され、そしてこの人間の使者が彼になすべく告げられたことを実行さ
せた、即ちバプテスマである。そして彼がバプテスマを受けると共に苦痛と断食
も終を告げた。彼の罪が赦されたからである。サウロの改宗の物語はこゝで終る。
3.ダマスコにおけるサウロの伝道(19-25)
19-22節
福音に服して罪の赦を得るや否や、サウロはそのかつて滅ぼそ
うとしたものを建てるために全力を捧げて働き始めた。
9:19b サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、
9:20
す ぐあ ち こ ち の 会 堂で 、 「 こ の 人こ そ 神 の 子 で ある 」と 、 イ エ ス の こ と を宣
べ伝えた。
9:21
こ れを聞 いた人 々は皆、非常に驚 いて言った。「あれは、エルサレム でこの
名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たの
も、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」
9:22
しかし、サウロはますます力を得て、イ エ ス が メ シ ア で あ る こ と を 論 証 し 、
ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
この19節の『数日の間』( ἡμέρας
τινάς )は恐らく次に記されている説教を
した日をも含み、従って20節の『直ちに』( ε ὐ θ έ ω ς )は『数日の間』経過した
後直ちにではなく、サウロがバプテスマを受けた後直ぐにである。恐らく彼が
バプテスマを受けたその日には、この町に住む弟子たちが彼の囲りに集り、直
ちにサウロをキリスト者の交わりに加えたであろう。そしてその次の安息日に
は(それ が翌日 であったか六日後であ ったかはわからぬ としても)、彼は会堂で
説教することを始めたであろう。これは彼にとっては御言を宣べる最初の機会
であった。また或る会堂は、彼が説教を始めた後は安息日以外の日にも開かれ
るようになり、彼は許された正規の集会より以上に多くの機会を持つことが出
来たかも知れない。このサウロの説教の第一の結果は、あのエルサレムの教会
を『 暴 し 』、ま た 同 じ 目的 を も って ダ マスコ にやって 来た その人 が 、その滅ぼ
さんとした信仰を宣べている、ということに対する人々の驚きであり、第二の
結果は彼らが『イエスはキリストなり』というサウロの論証のために『言ひ伏
せ』 ら れた ことで あ った 。『サウロますます能力 くはは り』という 言葉は『食
事 して 力 づ き た り 』 と い う 19節 の 言 葉 と 対 照 せ ら れて 、 彼 が 前 の 三 日 間 の 極
端な 断食と苦痛の後に肉体的な力を恢復したことを示している。このような断食
- 168 -
と苦痛の経験はどんな頑健な人間をも衰弱させずにはおかないから、パウロも
この結果から完全に体力を恢復するには相当日数を要したにちがいない。
サウロの説教は、ダマスコに住むユダヤ人を信仰に帰せしめるための長い努
力であった。私たちはこのサウロの説教によって信仰に至ったものがあったと
いう証拠をこゝに持たぬけれども、少くとも彼らが『言ひ伏せ』られたことは
確かである。これはイエスの復活と栄光を受け給うたことに関するサウロ独特
の斬新な証しの結果であった。サウロは始からの使徒たちのように復活以後昇
天以前の主を、見たことがなかった。しかし彼は主が栄光の体を以て天より降
り給うのを見た。そしてこの証しはぺテロの立てた証しと同等の価値を持って
いた。もしダマスコの人の中で彼の証の真実を疑う人があるならば、彼の同行
者たちはあの天よりの光と光の中から聞えて来た声とが事実であったことを、
彼と共に立証することが出来たであろう。しかもサウロが盲目になっていたこ
とは、信者たちよりもむしろ不信者たちの間に広く知られていたから、空想あ
るいは偽りと否定することは出来なかった。もしこのサウロの盲目が何らかの
形の視覚妄想あるいは心的妄想からおこったものであると考える人があるなら
ば、その人の考えは、そのような妄想あるいは迷妄からは決して盲目はおこり
得ないということを考えることによって自然消滅する。このようにサウロが盲
目となったという事実は、彼が実際に異象を見たのだという噂を否定しようと
する人々の考えを完全に覆してしまったのである。そしてもし彼の見た異象が
事実であるならば、イエスが復活して天に昇ったということは、もはや疑う余
地もなかった。サウロが盲目の中に過さねばならなかった期間が、彼のバプテ
スマの遷延をふくんでこのように長かったのは、その盲目の事実を人々の心に、
また特に不信のユダヤ人の心に強く印象づけ、遂には人々を信ぜしめるための
神の御計画であった。ダマスコにおいて彼の説教を聞いた人々に与えた立証の
力は以上のようなものであった。私たちにとって、これは次のことを証する。
即ちもしサウロが見たと主張する異象が事実であるならば、イエスはキリスト
であり、その宗教は真に神から出たものである。また疑う余地もない彼の盲目
の事実は、彼が欺かれたのであるとするすべての想像説を否定する。しからば
彼自身、事実でないことを立証した偽瞞者であったか?彼の以後の半生は、ル
カ及び彼自身が語ったように、そうでないことを明かに証明する。なぜならば
およそ人を偽瞞するような動機を持つ人間は、決して彼が後に踏んだような道
を踏む筈がないということを、古今東西の歴史が証明するからである。彼のも
っていた人望、彼が将来富と権力を持ち得べき希望、人々との交際を保ちたい
気持、また己が身の安全、そういったものは全部彼が元の宗教的位置に留ること
を要求した。今自分が態度を変えるならばこれらすべてのものを犠牲にしなけ
- 169 -
ればならない、ということは彼もよく承知していた。彼の改宗がもし欺瞞であ
ったならば、彼は当然悪人の受くべき刑罰に自らをさらすことになる。人はそ
の直接におこる結果を見誤ることによって、このような不利な結果を伴う欺瞞
を行うということは有り得るかも知れない。しかし自分が目算違いであったこ
とを発見して後まで続けてその欺瞞を行い、生涯それに執着するというような
ことは考えられない。従ってサウロが欺瞞を行っていたということは信ずるこ
とが出来ない ① 。そして彼が自らを欺く者でもなく、他を欺く者でもない限り、
彼の見た異象は現実であったと考えなければならない。そして彼に現れたイエ
スは、彼が証した通り、神の子でなければならない ② 。
①現 代 英 国 で 出 版 さ れ た 最 も 急 進 的 な 反 キ リ ス ト 教 的 書 物 の 一 つ で あ る“Supernal
Religion” の 著 者 で さえ 次 の よ う に 言 って い る 。『 使 徒 パ ウ ロ 自 身 に関 して い う な ら ば 、
彼 の 述 べ て い る 歴 史 的 事 実 の 一 つ と い え ど も 、 私 たち は そ れ に つ いて 毫 末 の 疑 を さ し は
さむ 余 地 は な い 、 と いう こ と を 強 調 して も いいで あろう 』 (vol.3,496)こ の著 者 をして こ
う言わしめたものはこの動かぬ証拠である。
②Lord Lyttleton のパウロの改宗に関する小著はこの問題をとりあげて、パウロの改宗
の 記 事 だ け か ら キ リス ト 教 の 信 仰 の 神 的 起 源 を 証 明 して い る が 、 こ の 種 の 書 の 中 で は こ
の右に出でるものはない。他方 Renan, Bauer Strauss が、パウロが実際にイエスを見
たということを事実として認めずに、彼が何故イエスを見たと信じたかを説明しようとして
いる学説に関しては、拙著Evidence of Christianity, PartⅢ, Chap.11 で扱ってある。
23-25節
サウロは今、かつてエルサレムにおいて彼自身一役を演じた劇
の同じ場面が、このダマスコで再び演ぜられるのを見た。しかし今度はその役
が反対になっていた。彼は以前他の人々に加えた虐待を、今反対に自ら嘗めな
ければならなかったのである。
9:23
かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、
9:24
この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、
昼も夜も町の門で見張っていた。
9:25
そ こ で 、サ ウロ の 弟 子 た ち は、 夜の 間 に 彼を連れ 出し 、篭 に 乗せ て町の 城
壁づたいにつり降ろした。
この記事から見ると、サウロは彼らの陰謀を伝え聞いたとき一時身を隠した
らしい。しかし彼の敵たちは彼が町の城門の何れか一つを通って逃れ出すであ
ろうと考え、確実 に彼を捕えようとして絶えず見張をしていたことがわかる。
彼らのこの見張はまたサウロの友人に知られた。これは彼の友人たちの中にも
この見 張に加わって いる 者があったために、事情がよくわかり、他の脱出方法を
- 170 -
考え出すのに役立ったのであろう。ダマスコの東の城壁に接して数戸の家が今
日も建っており、その木造の二階はちょうど城壁の頂に乗ったような形になっ
ている 。南の城壁 にも同じような家が数戸ある ① 。これらの家屋の何れの窓か
らも今日、人を本文に記されたような方法で吊りおろすことが出来るから、古
代においても同様にして吊り下ろすことが出来た筈である(Ⅱコリント11:32)。戦
時に町が包囲攻撃を受けるような場合には、敵兵が城壁を乗り超えようとする
のに備えて、これらの木造の二階は短時間の中にとり毀すことが出来るように
なっていた。
①Lands Of the Bible, p.559.
サウロを殺そうというこの陰謀は、不信のユダヤ人に対する彼の説教の第三
の結果である。即ち第一はサウロがイエスを宣べるということに対する驚異、
第二にサウロのイエスに関する立証に人々が『言い伏せ』られたこと、そして
第三に彼を殺害しようとする陰謀であった。この最後の結果は『日を経ること
久しくして後』に現れたと記されているが、数週間後か、数ヶ月後か、それと
も数年後であったかは明らかでない。私たちはサウロ自身がガラテヤ書の中で
述べ てい る 記事 (ガラ テヤ1:17,18)により、彼 がダマスコ から脱出 したの は彼
が改宗 してか ら三年後であり、 この間に彼がアラビヤに旅行したことを知る ② 。
②このルカの記事とパウロの記事との間には二つの矛盾があるかのように主張される。
第一にルカの言う『日を経ること久しく』はパウロの言う『三年』もの長い時日を含む
筈がないということ。第二にルカはサウロが『直ちに』ダマスコの町で説教したと言って
いるにもかゝわらず、パウロは『直ちにアラビヤに出で行き』と言っていることである。
第一の点に関しては同じような表現として、ヨシュアがイスラエル人に向って『汝等は日
ひさしく曠野に住みをれり』(ヨシュア24:7)と言っているにもかゝわらず、モーセはイス
ラエルが四十年の間荒野に住んだと言っている。『日ひさしく』“long season”は四十年
に等しくないから、同様の論法で行くと矛盾することになる。或はまたヨブの場合を例
にとってみよう。彼は『人はその日少なくして艱難多し』(ヨブ14:1)と言っているが、こ
れを そ の ま ゝ と れ ば 、ヨ ブ の 時 代 の 人 は 日少 な く (a few days, 数 日 )し か生 き なか っ た
ことになるが、これはヨブ自身があの艱難ののち百四十年生きたという事実と矛盾する
ではないか(ヨブ14:1、42:16)。更 にシメ イの場合は一層はっきりしている。彼がエルサ
レム を 去 る べ か らず と い う 条 件 の 下 に 、 ソ ロ モ ン か ら 生 命 を 救 わ れ た 時 に 、 彼 は 『 日 久
しく(many days)エルサレムに住めり 』。しかるに彼は『三年の後』エルサレムの市を出
でた(列王紀上2:36-40)。即ちこの場合の日久しくは三年間なのである。
次に第二の点に関しても、パウロの言葉がルカの言葉と矛盾するというのは正しくない。
もし私たちが『果してパウロは直ちにアラビヤへ行ったと言っているか?』という疑問を
- 171 -
心の中にもって注意深く読むならば、彼は決してそう言っているのではないことがわかる
のである。彼 の言葉はこうである 。『然れ ど母の胎を出でしより我を選び別ち、その恩恵
を もて 召 し 給 へ る 者 、 御 子 を 我 が 内 に 顕 して 其 の 福 音 を 異 邦 人 に 宣 べ 伝 へ し む る を 可 し
とし給へる時、われ直ちに血肉と謀らず、我より前に使徒となりし人々に逢はんとてエル
サレムにも上らず、アラビヤに出で往きて遂にダマスコに返れり』(ガラテヤ1:15-17)。こ
の 中 に は 四 つ の 事 が の べ ら れて い る 。 第 一 に 血 肉 と 謀 ら な か っ た こ と 、 第 二 に 彼 よ り 前
に 使 徒 と な っ た 人 々 に 会 う た め に エ ル サ レム に 上 ら な か っ た こ と 、 第 三 に 彼 が ア ラ ビ ヤ
へ 行 っ た こ と 、 第 四 に 彼 が ダ マス コ に 帰 っ た こ と で あ る 。 と こ ろで 『 直 ち に 』 は 上 の ど
れにかゝっているのであろうか。勿論第四である筈はない。彼は直ちにダマスコへ帰りは
し な か っ た か ら 。 そ して も し 第 四 で な い な ら ば 、 第 三 で あ る 筈 は な い 。 第 三 と 第 四 は 彼
がした事であり、彼がしなかった第二、第三とは「しかし」によってつながれている。で
は 『 直 ち に 』 は 果 して こ の 第 一 、 第 二 の 何 れ か に か ゝ る も の で あ る か ? 彼 は 『 我 は 直 ち
に 謀 らず 』 と 言 っ た の か ? 『 我 は 直 ち に 往 かず 』 と 言 っ た の か ? そ れ と も こ の 外 に 『 直
ち に 』 が 直 接 に 修 飾 す る 何 か が 省 略 さ れて い る と 解 すべ き で あ る の か ? 大 体 彼 は ガ ラ テ
ヤ書のこの個所で宣教のために召されたことについて語っている。それならばこの「直ち
に」の意味は、彼が血肉とも謀らず、また使徒たちに謀らんためにエルサレムにも行かず、
直 ち に 伝 道 し 始 め た と い う 意 味 で な く て 何 で あ ろう か 。 更 に こ の 開 始 し た 伝 道 を 継 続 し
てアラビヤに往き、またダマスコに帰ったこと--これらすべての事件は彼がエルサレム
に行ってペテロに会う以前におこったか。この聖句の思想の連絡はこう解する外はないで
は な い か 。 そ う す れ ば ま た 、 彼 が ダ マス コ に て 直 ち に 伝 道 し た と い う ル カ の 断 言 と 矛 盾
せず、かえってこれを裏書きするものとなるのである。
彼がアラビヤのどの辺まで行ったか、またいつ頃までアラビヤにいたのかに
ついて彼は何も語っていない。しかし彼はこの旅行の後にダマスコに帰ったと
言っているから、彼を殺そうとするこの陰謀は彼がダマスコに帰ってから起っ
たということは容易に知られる。彼はまた『ダマスコにてアレタ王の下にある
総督、われを捕へんとてダマスコ人の町を守りたれば』と言っているが、この
こと から 、ダマスコが 当時アラビヤ王アレタの支配下にあったこと ① 、そして
ユダヤ人たちはサウロを城門で捕えようとするに当って、このアレタ王の助力
を得たことがわかる。更にまた、ダマスコが当時アラビヤ王の支配下にあった
ならば、当然この町の南部の地方や隣接の国々はアラビヤ王の軍隊に征服され
ていたであろうし、またアラビヤ王がこの地を治めている限り、アラビヤ国の
一部分として呼ばれていたにちがいない。従ってサウロの旅行というのも、或
はこ の地 方の町 々村々 における伝道を 言ったのかも知 れず ② 、彼のこの地方に
おける活発な伝道がたゝってユダヤ人たちの反対を極度に刺激し、遂に彼らが
アラビヤ総督をこの陰謀に加担させるような結果になったのかも知れない。
- 172 -
① アレタ王がダマスコを一時的にも所有していたことは何ら歴史記録が残っていないため、
パ ウ ロ の こ の 記 事 の 真 偽 が 疑 わ れ る こ と が あ る 。 し か し 彼 が ダ マス コ に お いて 伝 道 し た
当時、彼はこの町の政治上の関係については詳しく知っていた。しかも彼の記したところ
は すべ て 自 ら 親 し く 見 聞 し た も の で あ り 、 ま た 彼 自 身 が 全 く 信 頼 の お ける 人 で あ っ た こ
とから考えれば、このパウロの記事以上に確かな権威ある証拠は存在しない。
②私はこゝに私の“Evidence of Christianity”PartⅢ, Chap.8 から引用しよう=『パ
ウ ロ の ア ラ ビ ヤ 旅 行 が 伝 道 の た めで は な く 、 彼 の キ リス ト に 対 す る 新 し い 関 係 に つ いて
冥 想 す る と 共 に 、 目 前 に 横 た わ る 新 し い 事 業 の た め に 精 神 的 準 備 を す る た めで あ っ た と
いう想像説は、Alford, Lightfoot, Farrar 等の大家によって採用されているけれども、
この考えは私には全く信じられぬ位、あのパウロの燃えるが如き熱意や休みない活動と
全然 相容 れ ない よ うに 思 われ る 。ま た この 推 測に 加 えて 彼 がダ マス コか ら 640km以上 、
かつてエリヤが彼の前にのがれて行ったシナイ山まで行ったという考えは、この想像説を
強くせず、かえって弱めているように見える。なぜならパウロはエリヤがこゝに来た時『エ
リヤ、汝此処にて何を為すや』と主から叱責を受け、彼の任務に帰らせられたというこ
とを百も承知していた筈だからである。こういった想像説に対する信ずべき証拠が全然な
い以上は、私たちはこの旅行の目的について、パウロの生涯中彼の習慣として知られてい
る性質から判断しなければならない。そしてこの標準によって考察してみる時、パウロと
いう人は、自分が身を投じた信仰の道が目下危急存亡の時にある時に、荒野の中の冥想
に 貴 重 な 時 間 を 一 年 も 二 年 も 、 否 一 瞬 間 た り と も 費 すよ う な 人 で は な か っ た と 判 断 せ ざ
るを得ない。Alford, Lightfoot 両 氏 の 見 解 に つ いて は 両 氏 の ガ ラ テ ヤ 註 解 を 、また
Farrar 氏の意見については同氏著 Life of Paul,11章を見られたい。
4.サウロ、エルサレムに帰り、タルソに派遣さる(26-30)
26,27節 サウロがこうして最初の福音伝道の地から遁れなければならな
かった無念さは、後永く彼の心にのこり、彼が後年自らの弱さについて語った
時にもこのことがのべられている(Ⅱコリント11:30-33)。彼はこの時まだ自分
よりも先に使徒となった人たちの誰をも、エルサレムを去って以来会っていな
かった。今彼は道をエルサレムに向って転じ、都に上ってペテロに会おうと決
心した(ガラテヤ1:18)。人目を忍ぶ夜間の旅路、彼は間もなくかつてイエスが
彼に顕れ給うたその地点を過ぎたのであろう。彼は再びエルサレムの城壁を見、
宮の囲壁を見た時の彼の感慨はいかばかりであったろうか。町に近づくにつれ
て、かつてイエスの十字架のたったあたりが見えたであろう。またステパノが
石で打ち殺され、彼自身傍に立って『彼の殺さるるを可し』としたその場所を
も通ったであろう。彼が今入って行こうとする街には、また会堂には、彼が既
に袂を別った古い同僚もいる、彼がかつて迫害した弟子たちの或るものにも会
うであろう。彼の心の中にかきたてられた感情は読者の想像におまかせしよう。
また そ の細 かい描写 はもっ と大部の註解書にゆず ろう ① 。そして私たち は彼が
弟子たちによって喜んで受け入れられたというルカの記事を追おうではないか。
- 173 -
①特にConybeare, Howson 共著 Life and Epistles 参照。また Farrar 著 Life of
Paul を見よ。
9:26
サ ウ ロ は エ ル サ レ ム に 着 き 、 弟 子 の 仲 間 に 加 わ ろ う と し た が 、 皆 は 彼を 弟
子だとは信じないで恐れた。
9:27
しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅
の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣
教した次第を説明した。
この記事からわかることは、まず『弟子たち皆かれが弟子たるを信ぜずして
懼れ 』、彼 が『弟子 たちの中に列らんと 』する試みが 斥けられたことで ある。
このことは勿論彼にとっては甚しい苦痛であったろうけれども、おそらく彼は
驚かなかったであろう。なぜなら彼からかつて受けた手痛い苦しみを知ってい
た弟子たちが、今急に彼が弟子になったといっても本当の弟子であることを信
ずる筈があろうか?勿論彼らがサウロの改宗について何ら聞き知っていなかっ
たとは言えない。しかしサウロが或は一計を案じて弟子たちを捕えるのに都合
のよい位置につこうとしているかもしれない、と想像した弟子たちにとっては、
余程の証拠がない限り本当にキリストに改宗したということは信じられなかっ
たのである。しかし先ず最初に彼を理解したのはバルナバであった。バルナバ
がその特有の寛大な心情から自ら進んでサウロに会見を求めたか、或はサウロ
の方からバルナバの人となりを知って、この人こそ自分の言を最も公平に聞い
てくれる人であると信じて、彼に近づいて行ったのか、それはいずれであった
にしても、バルナバという人にとっては、この一分の偽りも有り得ない真面目
さと熱心さとをこめて語られるサウロの赤裸々な告白を信ずることは困難では
なかった。こうしてバルナバが一たびサウロを信じた以上、彼がすべての使徒
たちに彼を信じさせ、また使徒たちならすべての弟子たちにサウロを信じさせ
ることは容易なことであった。それはおそらく全部一日で出来たにちがいない。
ぺテロは自ら住んでいた家をサウロのために提供して、こゝに彼が十五日間泊
らせた(ガラテヤ1:18)。サウロは今ぺテロの口からイエスの全生涯の伝記を学
ぶ機会をもった。イエスに関するこれ以前の彼の知識は甚だ乏しいものであっ
たろうが、今彼はイエスについて全く知ることが出来た。彼は同じ文章の中で
『主の兄弟ヤコブのほかいずれの使徒にも逢はざりき』と言っているが、これ
から見ると、このヤコブは十二使徒の一人ではなかったけれども、或る意味で
使徒と して考 えられていた らしい。ルカが『バルナバ彼を迎へて、使徒たちの
許に伴ひゆき』と言った時も明かにヤコブをその中に入れていたであろうし、
或は兄弟たちの中でヤコブと同じような地位にあった人をも勘定に入れていた
かも知れない ① 。
- 174 -
①Zeller(同氏註解i:299)は Bauer その他ドイツ学派の不信の輩の説に従って、バルナ
バ が サ ウ ロ を 『 使 徒 たち 』 の 許 へ 連 れて 行 っ た と い う ル カ の 記 事 は パ ウ ロ の 記 事 と 矛 盾
すると主張しているが、考えて見るとこの主張は次の二重の仮説の上に立っているにすぎ
ないのである。即ち(1)この使徒たちという言葉は使徒たち全部或はその大部分をさす。
(2 )使 徒 と い う 名 称は 十 二 使 徒 以 外 に は用 い ら れ な か っ た 。し か し L i g h t f o o t は そ の
ガ ラ テ ヤ 書 註 解 の 中 で 、 使 徒 と い う 名 称 は 特 に 十 二 使 徒 に 限 ら れず 、 ル カ 及 び パ ウ ロ が
主の兄弟にあてはめて使っているように、他の色々な人にもあてはめられていたという事実
を明 瞭に 説 明して いるが 、こ の事 実は Zeller 一 派の 非難 を覆えすで あろう 。『使 徒』 と
いう語の用法に関しては使徒14:4,14、ロマ16:7、Ⅱコリント8:23、同11:13、ピリピ2:
25及びヨハネ黙示録2:2を見よ。
28-30節
兄弟たちは初め幾分の危惧の念を抱きながらサウロを受け入れ
たであろう。しかしサウロ自身の言動はやがて兄弟たちの信頼を受けるに至っ
たにちがいない。
9:28
そ れ で 、 サ ウ ロ は エ ル サ レ ム で 使徒 た ち と 自 由 に 行 き来 し 、主 の 名 に よ っ
て恐れずに教えるようになった。
9:29
ま た、 ギ リシア語を話す ユ ダヤ 人と語り 、議論もした が、 彼ら はサウロを殺
そうとねらっていた。
9:30
そ れを知った 兄弟た ちは、 サウ ロを連れてカイサリアに下 り、そ こか らタル
ソスへ出発させた。
9:31
こ う して 、 教会 は ユ ダヤ 、 ガリラ ヤ 、 サマ リアの 全 地方 で 平和 を保 ち 、 主 を
畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
彼がエルサレムを離れていた間に、かつて彼が指揮した迫害運動は既に下火
となり、これら外国生れのユダヤ人たちも再びこの問題を議論するような気持
ちになっていた。サウロはぺテロと語り合う暇々に、外に出て彼らと弁論を交
えたのであろう。しかしこの議論が始まって未だ二週間もたゝぬ中に、ユダヤ
人たちはこの新しい論敵がステパノと同等に赦すべからざる人であることを知
ると、敗北の狂乱に乗じて、ステパノの運命がまたサウロの運命でなければな
らぬと結論した。その危機にあたって兄弟たちはその当初抱いていた疑念を全
くとりのぞかれ、協力して彼を安全な地へ移らせた。私たちはまた、後に彼自
身が語っている所によって、彼の出発の主な理由が単に彼の身の安定を心配す
る兄 弟 たちの心 づく しによ る のではな かっ た こ と、ま た 彼 は ユ ダ ヤ 人 が 彼 を
殺そうとしていたにもかかわらず、自らはエルサレムに留りたいという強い願
望を抱いていたことを知るのである(使徒22:18-21)。カイザリヤに達したサウ
ロは地中海沿岸をまわりキドナス河を遡る短距離の航海によって、少年時代の
- 175 -
故郷、おそらく青年時代をも過したのであろうタルソの地に帰った。かつての
友人の許に帰って来た彼は今二つの大都市からの亡命者であり、かつて教育さ
れた宗 教の最も厳しき派(26:5)を捨てて、大なる喜びの音信を携えて帰って来
た人であった。彼はこゝでルカの書いたぺージから一応姿を消しているが、彼
は決して活動を停止したわけではない。彼自身のぺンは後になってこの間の歴
史の空白を埋め、彼 が そ の 後 シ リ ヤ 、 キ リ キ ヤ の 地 方 に 赴 いて 、 こ こ に そ
のかつて滅ぼさんとした信仰を宣べたということを、私たちに知らせてくれる
(ガ ラ テ ヤ1:21-24)。 そ して 私たち は 後 に 、 おそ らく 彼 の 伝道 に よって キ リス
トの許に導かれたであろう所の兄弟たちを、この二つの国に発見するのである
(使徒15:40,41)。私たちは更にまた彼がこの時期に、あのコリント後書11章に列
挙された苦難の幾つかを受けたであろうこと、またこの時期の終るに先立ってあ
の有名なパラダイスの異象を見たと信ずべき理由を見出すことが出来る ① 。さて
サウロがこのような経験を通りすぎつゝある間に、私たちの史家ルカは、使徒
ぺテロの働きにおける、重要にして教訓的な幾つかの場面を私たちに紹介する。
①彼がこの異象を見たということを記録している書簡は紀元57年に書かれた。そして彼
が そ の 異 象 を 見 た の は そ れ か ら 14年 前 で あ る か ら 、 時 は 紀 元 43年 で あ る 。 こ れ は 年 代
表 (緒 論 九 )に 明 か な よ う に 、 パ ウ ロ が シ リ ヤ と キ リ キ ヤ の 伝 道 を 終 えて 、バ ル ナバ と 共
にアンテオケに行った年である。
第三項
ペテロ、ユダヤに伝道し、また割礼なき者に遣される
(9:31-11:18)
1.教会の平和と繁栄(31)
31節
ルカはサウロの働きからぺテロの働きに遷って、ぺテロをしてエルサ
レムを去り外国に行かしめた事情を述べる。
9:31
こ う して 、 教会 は ユ ダヤ 、 ガリラ ヤ 、 サマ リアの 全 地方 で 平和 を保 ち 、 主 を
畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
この平和の時代は多分サウロがエルサレムに帰る以前に始まり、彼に対して
企てられた迫害のために一時中断されたであろう。しかしサウロがタルソに去
ってからは再び旧状を回復した。エルサレムの人々の中には、この教会は苦闘
と迫害の中に一時的に生まれたものであるから、反対が過ぎ去れば自然に衰乏
に赴くであろうと考えていたような人もあったかも知れない。しかし今教会が
再びこのような繁栄をとりもどしたことは、それが人間の強い反抗的な感情の
産物ではなく、真に変らぬ真理が当然生み出した正しい宗教であることを証明
- 176 -
し た。 ガ マリ エル の哲学 によ るならば(5:34-39)今その 神より 出でたものであ
ることが証明されたわけである。教会が『やゝに堅立し』というのは、キリス
ト的 性質 に 徳を 建てら れて 行った という意味であり、『人数いや増せり』は教
会員の数が急激に増加したことを示す。こゝで注意すべきことは『教会』或は
『集会』という言葉が、主が自ら伝道されたこの三つの地方に住む弟子たち全
部を含む言葉として用いられていることである。こういう用い方はこの単語の
第二義的用法であり、弟子たち全体があたかも一ヶ所に集っているかの如く全
体をさして『教会』又は『集会』というのである ① 。
①この語の原語
ἐκκλησία
(エクレシア)は普通人々の集まりを意味するギリシャ語
の単 語 で あ る 。 こ の 意味 で は 19章の 32,39及 び 41節 に 用 い ら れて い るが 、 そ れ は整 然 と
集 ま っ た も の で あ ろう と 無 秩 序 に 集 っ た も の で あ ろう と 、 と に か く エペ ソ の 人 々 の 集 ま
りを指しているのである(現行邦訳=32-会衆、39-議会、41-集会、何れも原語は同じ
ἐκκλησία
である…訳者)。以上はこの語の第一義であるが、次に第二義的には比喩的に
用 い ら れ 、 こ の 9:31の 場 合 の よ う に二 つ 以 上 の 集 会 を ふ く め て 全 体 が
“
ἐκκλησία
”と呼ばれることも多い。
2.ペテロ伝道してルダに至る
32-35節
(32-35)
サウロが主の命令によってエルサレムをはなれた時、主はサウ
ロを 『 遠 く 異邦 人に遣 す』 (22:21)と言い給うた。ルカ は今 その異邦人への救
の門をぺテロが如何に開いて彼らを教会に受け入れたかということを記そうと
するが、まずこの問題の端縁として、ペテロをこの異邦人伝道の任務に呼び出
した使者達が彼に会う場所へ、彼がどうして行くことになったかを語る。
9:32
ペトロは方 々を巡り歩 き、リダに住ん でいる 聖なる者 たちの とこ ろへも下っ
て行った。
9:33
そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。
9:34
ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自
分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。
9:35
リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。
この記事から見ると、ルダにはぺテロがこゝに来る前から幾人かの聖徒がい
たことがわかる。彼らはエルサレム教会の初期においてエルサレムでバプテス
マを受けた人たちが、或はピリポがアゾト・カイザリヤ間に伝道していた頃に
(8:40)、 ピリポ によって導 かれた人 たちであろう。『 遍 く 四 方 を め ぐって い た
- 177 -
ペテロをこのルダの地に来させるようになったのも、この町にこれらの人たち
がいたということが原因であったろう。こゝにいう『遍く四方の地』とは前の
節にあげられている。ユダヤ、ガラリヤ及びサマリヤの諸地方である。この記
事はぺテロがルダに至るに先立って遍くこれらの地にある教会を訪問して歩い
たことを示している。このルダにおけるたった一つの奇蹟がルダ及び周辺のシ
ャロンの平野に住む人々を多数、主に帰せしめたのは、第一にその療された人
がエルサレムの美麗門で療されたあの跛者と同じように(3:10、4:22)、不治の
病人として広く知られていたため、第二にこの地の人々が、ちょうど熟し切っ
た果実がちょっと木を揺すぶれば落ちるように、既に全く真理を受け入れる心
の準備が出来ていたためである。
3.ペテロ、ヨッパに喚ばれる
36-38節
(36-43)
このように幸福な楽しい福音の勝利の最中に、ペテロはヨッパ
の町の悲しみの家に呼ばれて行った。
9:36
ヤッ ファにタ ビタ ―-訳して言え ば ① ドルカス、す なわち「かもしか」―-と
呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。
9:37
と こ ろ が 、 そ の こ ろ 病 気 に な っ て死 ん だ の で 、 人 々 は 遺 体を 清 め て階 上の
部屋に安置した。
9:38
リ ダ は ヤ ッ フ ァ に 近 か っ た の で 、 弟 子 た ち は ペ ト ロ が リ ダに いる と聞 いて 、
二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。
①“by interpretation”(その名を解釈すれば)という言葉は英訳新約聖書中にしばしば見
られる言葉であるが、私たちはむしろ“by translation”(その名を直訳すれば)とすべきで
あろう。な ぜ な ら どの 例 を と って み て も 、 そ れ は translatio n(翻 訳 、 直 訳 )で あ っ て
interpretation(解釈)ではないからである。こゝではタビタという言葉はギリシャ語に訳
すれ ば ドルカス 、 英語 に 訳 す れ ば Gazelle(か も し か )な の であ る 。 (訳 者 註= 現 行邦 訳 は
『その名を訳すれば』で問題はない。)
ヨッパは、ヘロデ が一時カイザリヤに建設した 築港(①)が 使用され得た短い
期間を のぞいては、古来ユダヤ第一の主要港(②)であ った。 この町はエルサレ
ムの 北 西 の方 角 に あ た り 、エル サレムか らの距 離 は100km、今 日では 砂利を
敷いた 道路が両市 を連絡している。ルダはこの道路 から3-5km北にそれた所
にあり 、ヨッパからの距離は約19kmである。しかし今日用いら れているこの
道路の出来る前は、ヨッパからエルサレムに至る古い道路はルダを通過して北
方からエルサレムにはいっていた。しかし今日存する道路は西の方からエルサ
- 178 -
レムにはいっている。二人の使者は三時間歩いた後ペテロにこの悲しい知らせ
をもたらした。ペテロがヨッパに来るように望まれた目的が何であったか、現
代の牧師たちがこんな時にするように、この悲める信者の小さい群に慰めるた
めであったか、或はまた彼が眠れる聖徒を死より甦えらせるであろうという望
を以て迎えられたのであったか、ルカはこのことを記さずに私たちの推察にま
かせている。私たちはむしろ彼らの考えが前者にあったと信じてよいようであ
る。というのは既に死んだ兄弟姉妹を、単に生前の生活が立派で人のためにつ
くしたからという理由で甦えらせるということは、決して使徒たちの習慣とす
る所ではなかったからである。もしそうならば、ステパノをはじめ其他有用な
生涯の途中で惨殺された人たちは、当然甦えらされていなければならないこと
になるではないか。さてペテロが受取った知らせは、私たちが読むようにたゞ
『ためらはで我らに来れ』というだけであった。勿論心配にあふれた使者たち
はドルカスのことについて一部終始をペテロに告げたであろうし、ペテロもま
たこの二人と共にヨッパに向う途中、心に期するところがあったにちがいない。
①この港については10:1の説明を見よ。
②ソロモンの神殿を建てるために、レバノンの香柏を積んだ筏がついたのはこの港であっ
た (歴 代 下 2:16)。 二 度 目 に 建 て ら れ た 神 殿 (エズ ラ 3:7)の 時 も そ う で あっ た 。 ま た ヨ ナ が
タル シシ に 遁れ よ うと して船出したのもこの港からで あっ た(ヨ ナ1:3)。 現 在 で は 15,000
乃至20,000の人口を有し、毎週一回発着する汽船によって地中海沿岸諸港と連絡している。
39-43節
この暖い季候をもつ国では、死体を保存する方法が全然なかっ
たから、人が死ぬと直ぐ速かに埋葬され、たいていの場合その日の中に埋葬を
終るのが普通であった。従ってペテロがタビタの埋葬に間に合うように到着し
た以上、すぐさま事が運ばれようとした。
9:39
ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着す
る と 、 階 上 の 部 屋 に 案 内 し た 。 や も め た ち は 皆 そ ば に 寄 っ て 来 て、 泣 き な が ら 、 ド
ルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着 ① を見せた。
9:40
ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起き
なさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。
9:41
ペトロは彼女に 手を貸して立たせた。 そして、聖なる者たちとやもめたちを
呼び、生き返ったタビタを見せた。
9:42
このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。
9:43
ペ ト ロは しばら くの 間 、ヤッ ファで 革なめし職人 のシ モンという人の 家に滞
在した。
- 179 -
①英訳“coats and garments”「下衣・上衣」と訳されている二つの単語(
ἱμάτια )は 実は
χιτῶνας
と
tunics と mantles で ある 。 前者 は 当時 の 一種 の下 着 (古 代 ギリ シ ャ
のチ ュー ニッ ク は 短 袖 で 膝 下 又は 腰 ま で の 胴 衣 )であ り 、後 者 は外 に 着る ダ ブダ ブの 外 套
のようなものである 。
この短い物語ほど生々とした描写、またこの出来事ほど人の心を打つものは
ない。私たちの前を動いて行く多くの荘厳な出来事の中に現れるこの物語は、
あたかも亭々たる森林の中に咲く一輪の花である。それはこの歴史を通ずる死
という一つの大きな出来事における一つの明るい希望を示し、初代聖徒たちの
社会的悲哀の上に一点の光を投じ、私たちの経験にも親しい一つの光景をここ
に見せてくれる。ここにも私たちのすると同様に、すでに亡き人の死骸に対し
て親切な心づくしがなされ、同じようにすべての人が悲しみ、同じように宗教
的な慰め手の臨席が求められ、同じように泣く一群の婦人があり、同じように
悲しみに黙して立つ男子の一群があり、そして同じように、今は亡き人の生前
の善行を偲んではすすり泣く声があった。これらの光景は何れも私たちに親し
いものである。そしてまた幾人かの寡婦たちは今入って来たペテロの前に、故
人が生前彼らのため又はその子供たちのために作って与えた下衣・上衣などを
手に手に持って涙ながらに見せるのであった。それは何と貴い思出の形見であ
へつら
ったろう!それは 諛 いの美辞麗句を刻んだ大理 石の墓碑にも、青銅の記念碑
にもまして、貴い美しいものではなかったろうか。主にありて死ぬ者は幸福で
ある。そしてまたこのドルカスと同じ美しい思い出をのこして死ぬ人は本当に
幸福である。涙を流し黙ったまま立っていたペテロは、かつてラザロの墓にお
いてマリヤとマルタと共に泣き悲しむ人々に囲まれ給うた主のそばに、自分が
立った時の事を思い出さなかったであろうか。しかしあの情深かった主は既に
天に昇られて今はいないのだ。彼は沈痛な厳粛さを以て泣き悲しむ人々を外に
出し、死者の側に近づき、膝づいて祈った。信仰の祈は必ず聴かれる--彼は
それを知っていた。それから彼は厳粛な、しかしやさしさにあふれる声で、死
者に聞えるように--『タビタ起きよ』と冷い亡骸に向って呼びかけた。彼女
の両眼が開かれる。そしてその眼がまぶしそうにペテロを見る。彼女はペテロ
を知っていたであろうか。それとも彼女はそこに見知らぬ人を見たであろうか。
私たちは知らない。彼女はしずかに身体をおこす。そして彼の顔をじっと見る。
二人の間には一言も語られない。しかしペテロはやさしく自分の手をかし、彼
女をおこして立たせてやる。彼は聖徒たちと寡婦たちを呼び入れる。そしてそ
きょうかた びら
こに死んだはずのドルカスが生きて、白い 経 帷 子 のまま彼らの前に立ってい
るのだ。記事はここで終っている。それは当然である。ルカの巧な筆をもって
しても、おそらく続いておこった感激の光景を書きあらわすことは不可能であ
- 180 -
ったろう。そしてもしこのタビタという一女性が死別した小さき群に生きて再
会した情景が、筆舌につくせぬほど感激的なものであったならば、やがてすべ
ての死せる聖徒が 栄光をもって甦えり、生命の岸辺において互にその名を呼び
合う日の感激は如何ばかりであろうか?ヨッパにおいておこったこの小さい事
件は、果して私たちに復活の朝の喜びを先嘗させるためにおこったものではな
かったろうか?
この事件がひろく『ヨッパ中に知られ』、『多くの人が主を信
じた』のは不思議ではない。ヨッパは今や色づいて救獲を待つ豊な土地であっ
た。そしてぺテロはそこに日久しく留って働くだけの仕事を発見した。彼は泣
く者と共に泣かんために来り、そして喜ぶ者と共に喜んだのである。
4.異邦人コルネリオ、ペテロを迎えるよう命ぜられる(10:1-8)
1、2節
物 語 の 舞 台 は ヨッパ か ら48km 北 方 地 中 海 海 岸 の カ イ ザ リ ヤに 移
る。そして私たちはここに異邦人で軍人であった人の改宗の実例を紹介される。
10:1
さて、カイサ リア ① にコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる
部隊の百人隊長で、
10:2
信 仰心あつく、一家そろ って神 を畏 れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈
っていた。
①この町はヘロデ大王が、自然港を一つも持たないユダヤの海岸に、年中四季を通じて
い つ で も 船 舶 が 碇 泊 出 来 る 人 造 港 を 備 え る た め に 建 て た も の で あ る 。 そ して こ の 人 工 的
海港 の 落 成 と 同 時 に 、城 壁 で 囲 ま れ た 市街 も 完成 し 、落 成 式は 紀元 前 13年に 行 われ た 。
ピ ラ ト 以 後 の ユ ダ ヤ 総 督 は 皆 こ の 地 に 政 庁 を 置 いて い る 。 し か し そ の 後 ユ ダ ヤ が 蒙 っ た
破壊 の幾 世 紀の 変 遷を経 て、 1226年にこ の町 は全 く壊滅 に帰 した。 そしてそれ以 来、 港
は泥で埋まり、防波堤は絶えざる波浪に洗われ崩され、今ではすっかり浅くなって航海用
の船舶を留めることが出来ない位になっている。このカイザリヤ港の廃墟はパレスタイン
中でも最も興味ある大規模なものである。その描写については読者は著者の“Lands of the
Bible”275ページ以下を参照されたい。
先ず最初に不思議に見えることは、ここに記されたような性質をもった人が
なお改宗を要するということかも知れない。今日多くの人々は自分たちが最後
に救われるという信念を持っている。彼らは商売においては誠実であり、友人
との交際は立派であり、家庭においては良き夫、良き父であり、隣人に対して
は親切である。彼らは正義にして憐憫深い神の前に何一つ恐れなければならぬ
こ と が あ ろう か ? し か し コ ルネ リ オ は こ れ ら の 徳 を すべ て 兼 ね 備 えて い た 上
に、神に対して敬虔な人であり、常に祈る人であった。しかもそのコルネリオ
- 181 -
が なお 御 言 を聞 いて救 われ る (11:14)ことが必要 だった のである。今日世の中
の自ら義しとする人々は実は己を欺いているといわなければならない。彼らは
一方において立派なやり方で他人に対する義務をつくしておりながら、他方、
神に対しては神の命じたもうたことを守らず、神に直接仕える義務を怠ってい
るのである。およそあらゆる罪の中で最も大きい言訳の立たぬ罪は、私たちの
創造主でありまた救主である神に対する自分の義務である服従を拒むことであ
る。しかもそのような人は、それだけにとどまらず、更にそういう行動をとる
ことによってまわりの人、特に私たちを最も愛する人たちに対して悪例を示し、
大きな害を及ぼすのである。
コルネリオが異教国に生まれて育ったイタリヤ人であったということは、そ
のラテン語の名前と、また彼がイタリヤ隊の将校であったという事実から、殆
ど確実である。それではそのイタリヤ人であった彼がどうして、ここに書かれ
ているような敬虔な性質を持つようになったのか?異教国の教育が彼にそうい
う性質を与えたということは考えられない。この彼の性質はただユダヤ人と接
触することによってのみ得られた筈である。多分彼は、ロマに臣服させるため
に駐屯 軍としてやって来たその 土地の人々から、かえって唯一の真の宗教を教
えられたのであろう。彼は割礼なき者であったという事以外は、神の前に当時
或 は 今 日 の 未 だ キ リス ト を 信 ぜ ぬ 敬 虔 な ユ ダ ヤ 人 と 同 じ 全 く 敬 虔 な 人 で あ っ
た。しかしキリストは今すべての人と神との間の仲保となり給うたから、もは
やキリストによらずしては罪の赦を得る道は存在しない。私たちはこのヨルネ
リオが如 何にしてキリストの許に導かれ、如何にしてキリストによって神に導
かれたかを見よう。
3-6節
この善人をキリストに導くにあたってとられた第一段階は次のよう
な言葉で記されている。
10:3
ある日の 午後三時ご ろ、コルネ リウス は、神 の天使 が入って来て「コルネリ
ウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。
10:4
彼 は天使 を見つ めていた が、怖くなって、「 主よ 、何でしょう か」と言 った。
すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。
10:5
今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。
10:6
その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海
岸にある。」
ここに記された異象は夢あるいは恍惚状態の中で現れたのではなく、はっき
り眼の醒めた正気の人に、しかも後にわかるように(30)、祈祷している最中に
現れ た も ので あ る 。 彼が ユ ダ ヤ 人の 祈祷 の時 間 -夕 の香 をた く 時 間 (3:1)-を
- 182 -
守っていたということは、また彼がその宗教的性質をユダヤ的教育に負うとい
うことのもう一つの証拠である。天使の現れた時コルネリオにおこった畏れは
人間の本能的なおそれである。なぜなら人間は天使或は霊を恐れる理由は一つ
もないからである。しかし人間というものはすべて、いかに敬虔な人といえど
も、何か超自然的な存在を見た時、或は見たと思った時には、必ず驚きおそれ
るものである。
現 代 的な 観点から 見ると 、この天使の 言葉は 私たち を更に驚かせる(1、2節
註 解 参 照 )。 すな わち この よ う な 立派 な 人で すら、 改宗し なけ れ ばなら ないと
いうのだ。もし前にのべた彼の宗教的な性質に加えて、彼の祈祷が聴かれ、彼
の施済が神の前に上って記念とされたというならば、彼が罪から救われるため
にその上に何が欠けていることがあるだろう?もし今日彼と同じ経験をもった
人が 教 会 に 現れて次 のよ うに言ったと しよう、『私は 長年のあい だ神を敬い、
私の知る限りの方法によって神を礼拝し、貧しい人たちには沢山の施済をし、
常に祈り、そして私の家族に神を畏れることを教えて来ました。ところが昨日
の午後三時頃私がいつもするように祈っていますと、突然天使が私の前に現れ
て『汝の祈と施済とは神の前に上りて記念とせらる』というお告げがありまし
た。』 こ の 時、 この人 は全 く改宗した 人になって いると 宣言するこ とを躊躇す
る人があるだろうか? このコルネリオという人は異教からユダヤ教に改宗し
た人であったことはたしかである。しかしペテロが後に再びこのことについて
言って い る 言葉 から もわか る よ うに(11:14)、 天使はペテ ロ を迎えるよ うコル
ネリオに命じた後に『その人、なんじと汝の全家族との救はるべき言を語らん』
と告げた。即ち天使が彼に、現れたにもかかわらず、また神が彼の祈祷を既に
聴き給うたにもかかわらず、彼はまだ救われる前に人の口から語られる言葉を
聞かなければならなかったのである。私たちはこの物語を注意深く続けて読ん
で、果してどのような言葉が語られたか、そしてその言葉の中にふくまれていた、
それほど救に必要であったことは何であったかを見よう。
私たちはここで、未だ全くキリストに改宗していない人の祈りが記されてい
ること、しかもその祈りが答えられたということを、見逃してはならない。し
かしこれは、今日同様な霊的状態にある人が期待すべく教えられる誤った答と
如何に相違していることであろう。天使は彼の罪が赦されたという言葉を彼に
もたらさなかった。また彼の祈祷が聴かれたことが保証されたというだけで、
彼に罪の赦の喜びにひたらせることをもしなかった。天使が彼に告げた言葉は、
救われるために何をなすべきかを教える人を招けというのであった。もし同じ
ような祈りが今日答えられるとするならば、同じ神が同じ方法で、即ち求める
人に対して説教者或は正しく教えることの出来る他の弟子を招けと答え給うと
いうことを、誰が疑い得ようか?
- 183 -
私たちはまたここに、一人の人を改宗させるために天使の干渉があった第三
の実例を見る。これは甚だ興味ある事実であると同時に、多くの教訓を含んで
いる。この天使の働きを前の閹人の例で現れた天使の働き(8:26)と比較してみ
ると、後者が説教者に現れているに対し前者は改宗すべき人に現れているけれ
ども、何れも等しく同一目的のために現れたこと、即ち説教者と改宗する人と
を対面させるためであったことがわかる。このようにして私たちは、超自然的
な干渉というものがあっても、それは決して人間の導き手の働きを不要にする
ものではないことを知る。例えばサウロの改宗の場合のように、主が自ら罪人
に現れ給うた時ですら、人間の導き手は必要であり、主は自らアナニヤに命じ
て、未だ罪の赦されていないサウロに遣し給うたのであった。これらの事実は、
今日のように宗教的教師たちによってこのことが全く忘れられている時代にお
いては、如何に強調し注意を喚起してもし過ぎではない。これらの三つの例に
おいては、何れも超自然的な干渉を必要としたが、それはもしそれが行われな
ければ両者が全く相会うことが出来なかったであろうからである。もし天使が
現れなければ、ピリポはガザに下る道にエチオピヤの閹人がいることを知らな
かったであろうし、アナニヤは敢てサウロに近づこうとしなかったであろうし、
またコルネリオはペテロを迎えることが出来るということを知らなかったであろう。
7、8節
既に午後も夕に近かったにもかかわらず、コルネリオは直ちに三人
の使者を出発させることを躊躇しなかった。
10:7
天使がこう話して立 ち去ると、コルネリウスは二人 の召し使いと、側近の部
下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、
10:8
すべてのことを話してヤッファに送った。
ここでわかることは、彼が自分の家族をも導いて神を畏れしめていた宗教的
熱心が、既に彼の部下の兵士たちの一部にも及んでいたらしいことである。こ
の兵士はロマ軍の軍服を着て二人の僕の護衛のために遣された。昔も今も、王
国の絶対権を代表する兵士が一人でもついていることは、旅人にとっては大き
な力である。
5.ペテロ、コルネリオの許に行くべく命ぜられる(9-22)
9-16節
舞台は再び変り、私たちはカイザリヤからヨッパに帰る。ここは
私たちが前にペテロを皮工シモンの家にのこして来た場所である。私たちの著
者ルカはここでコルネリオの使者の到着を予期しつつ、主が如何にペテロの心
をこれらの使者を受け入れるにふさわしいよう準備したもうたかを語る。
- 184 -
10:9
翌 日、 こ の 三人が 旅をしてヤッ ファの 町 に近づいたこ ろ 、ペトロ は祈 るた め
屋上に上がった。昼の十二時ごろである。
10:10
彼は空腹 を覚え、何か食べ たいと思った。人々が食事の準備 をしているう
ちに、ペトロは我を忘れたようになり、
10:11
天が 開き、 大きな 布のよ う な 入れ物 が 、四隅 で つる されて、地上 に 下りて
来るのを見た。
10:12
その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
10:13
そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。
10:14
しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れ
た物は何一つ食べたことがありません。」
10:15
す る と、ま た 声 が 聞 こ えてきた 。 「 神が清 めた 物を、清くないな どと、あな
たは言ってはならない。」
10:16
こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
この時ペテロは恍惚状態にあったにもかかわらず、彼はなおも思想と感情に
おいては正気であり、いつものままのペテロであった。したがってこの天から
の命令を聞いた時、彼特有の性急な性格は『主よ、可からじ』という言葉とな
って口をついた。しかし彼がこの自分の断定を正しいとする根拠はと言えば、
単に彼が生まれてからこの方、今食べよと命ぜられたような穢れた物は一度も
食べたことがないという単純な事実以上の何ものでもなかったのである。彼は
このような動物を食べないことによって、神が自ら先祖たちに賜った律法を忠
実に遵守しているものと思っていたから、今神がその律法の一つを廃しようと
しておられるということなど考えることが出来なかった。しかし二度目及び三
度目に布が下りて声が聞えて来た時には彼は黙した。彼は神が正に今言われた
ことを命じておられるのだということを知った。そしてペテロは命令を理解す
れば直ちに之に服従することにおいては誰にも負けぬ人である。この幻影がペ
テロの祈っている時に現れたのは、このようなあまり好ましくない命令に服従
するには祈っている時が一番心がくだかれて服従し易い心の状態にあるからで
あり、また幻影がペテロの空腹時に現れたのは、この命令が動物性食品に関す
る律法上の区別に関するものであったからである。彼はまたこのとき屋上にい
た。これもまた考えて見れば二、三室しかない小さい家の中よりも屋上の方が
一そう落着いて孤独で神に接することが出来たからであろう。そしてもしこの
真昼の暑い時刻に、たとえ近所の家の屋上に人がいたとしても、この家の屋上
を囲んでいた胸壁が丁度よい具合に彼を人々の目からかくしてくれたであろう。
17-20節
この幻影の現れとコルネリオの使たちの足とは、ちょうどピリ
ポの 旅と 閹人 の馬 車 (8:26,27)との よ うに 、彼 らを 導いて いた天 使 によって、
時間的に一致させられていた。
- 185 -
10:17
ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れている
と、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、
10:18
声 をか け て、 「ペ ト ロ と呼 ば れる シモ ン という 方 が 、こ こ に 泊 まっ ておら れ
ますか」と尋ねた。
10:19
ペトロがなおも幻について考え込んでいると、”霊”がこう言った。「三人の
者があなたを探しに来ている。
10:20
立 って下 に行 き、ため らわないで一緒に 出発 しな さい。 わたしがあの者 た
ちをよこしたのだ。」
ぺテロはこの幻影によって、神が潔き動物と潔からぬ動物の律法的差別を廃
せられたのだということを、知ったに違いない。従って私たちは、この幻影の
意味に関してペテロが心に惑い長い間考えていたのは、潔き動物・潔からぬ動
物ということ以外の何らかの意味に関してであったと考えなければならない。
今廃されたことは神の律法の中でも目立った特殊な部分であった。彼は恐らく
神が何故それを廃し給うたかを解することが出来ず、心に惑ったに違いない。
彼はまたこの律法の外にも果して残りの律法が全部廃されたのであろうか、と
いう疑問を懐いたであろう。そうなると彼はますますわからなくなった。しか
し彼はこの疑念の中に長くは留らなかった。何故なら天使によって導かれてい
たコルネリオの使者たちの足は、彼の見た幻影の時間と巧みに合わされて、ち
ょうどこの時コルネリオの使者たちが表に到着し、一方ペテロの中にある聖霊
は、彼に三人の人が下に彼を尋ねて来ていることを知らせ、そして彼に直ちに
起って彼 ら と共に行くことを命じ た。多くの註解者たち が想像したように ① 、
シモンの職業は汚れたものと考えられていたから彼の家は市の郊外にあったと
考える必要はない。というのは、このことが如何に真実であったとしても、彼の
皮なめし場が市外にあって、家が市内にあったと考えることも出来るからである。
①この推測は全く後代のラビたちの言によっているものである。しかしモーセの律法の中
にはこの考えを裏書きするものは何らなく、また使徒時代においてこの職業がパリサイ人
たちから潔からぬ職業であると考えられていたかどうかも、甚だ確かでない。
21、22節
不思議な方法で到着を示されたこれらの人々に会うために階下
へ下りて行ったペテロは、なおも幻影の意味を考え惑っていた。しかしやがて
彼はこの幻影の中に、思いもかけなかった一つの大きな意味を発見するに至る
のである。
10:21
ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、
このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。
- 186 -
10:22
すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、
すべてのユダヤ人 に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、
聖なる天使からお告げを受けたのです。」
『聖なる御使』の命によって遣されて来た使者たちのこの言葉と、あの幻影
と、そしてこれらの人と共に行けという聖霊の命令を考え合せた時、ペテロは
何の疑もなく直ちにさとった。自分は神の権威によって召されているのだ。天
使を通じ、幻影を通じ、聖霊を通じて、自分が今まで罪深いことであるとばか
り思っていた或る事をせよと命じられているのだ。自分は異邦人の家へ行って
異邦人に神の言を語るのだ。彼にこのことを行わせるには、神の誤りなき召命
以外にはあり得なかった。彼は今それを実行するか、神に逆らう何れかを選ば
なければならなかった。そしてこの時彼は、後に彼が喜び溢れて言明している
ように、何人をも穢れたるもの潔からぬ者と言ふまじきこと(27)を知ったのである。
6.ペテロとコルネリオとの対面(23-33)
23、24節 この使者たち自身おそらく異邦人であったであろうし、護衛の
兵士が異邦人であったことは言うまでもない。普通の事情ならば、異邦人が皮
工シモンの家に迎え入れられて接待を受けるということは殆ど有り得ない。し
かしシモンの心もペテロの心も、既におこった色々な事件によって正しい方向
に動かされ、彼らを家に迎え入れて接待することに対する躊躇を全く取り除か
れていたのである。
10:23 それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこ
をたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。
10:24 次の 日、 一行 はカイ サリアに 到着した 。 コル ネ リウス は親類 や 親しい友人
を呼び集めて待っていた。
ペテロはカイザリヤへの出発を、コルネリオがその使者をヨッパに遣した時
のように急がなかった。彼が翌日まで待った理由はおそらく、同行する六人の
兄 弟(11:12)が用意 する のを 待ってい たのか、 或は一行が 途中で一泊 しなけれ
ばならぬ町があまり遠かったために、早朝に出発した方が都合がよかったので
あろう。一方コルネリオは一行が到着するまでにどれ位の時間がかかるかを知
っていたから、軍人特有の迅速さで、家中の選りぬきの聴衆を集めてペテロの
到着を待っていた。これらの聴衆は決して雑多の群衆の集りではなく、特に信
仰に対して興味を 持っていたコルネリオの親戚・友人たちであり、わざわざ神
の言を聞くためにこの席に招待されて来た人々であったことを、読者は注意し
なければならない。
- 187 -
25 -2 9節
生まれて始めて異邦人の家の戸口に近づいたペテロの感慨は如何
ばかりであったろう。そしてまた天使の命令によって迎えたその人に初対面する
コルネリオの感激も、それにもまして大きなものではなかったろうか。軍人コル
ネリオの行動には極度の謙遜の気持があらわれている。これに対して使徒ペトロ
は親しい中にも威厳をたたえてコルネリオの前に立った。一介の漁師にこの貴き
威厳を與えたものは実に彼の高貴な牲質と、高き召令とによるものである。
10:25
ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。
10:26
ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」
10:27
そして、話しながら家に入ってみると、大勢の人が集まっていたので、
10:28
彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際し
たり、外国人 を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわ
たしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示
しになりました。
10:29
そ れ で 、 お 招 き を受 けた とき 、 す ぐ来 た の で す 。 お 尋ね しま す が 、な ぜ 招
いてくださったのですか。」
コルネリオがペテロの足下に伏して彼を拝したのは、単に東洋の習慣に従っ
て高貴な階級の人々に払う尊敬を、ペテロに示したのである。拝すという言葉
は屡々こういった意味に用いられている。またコルネリオが真の神を知ってい
たということから考えても、彼が神に対すると同じ礼拝をペテロにささげた、
と想像することは誤りであることがわかる。彼は『聖き御使』がペテロに対し
て払った敬意に動かされて、この尊敬の行動に出たのであろう。しかしぺテロ
は未だこの人の人となりを知らず、また単にそういう意味の尊敬(マタイ2:2,8;
8:2; 9:18; 14:33; 15:25; 18:26; 20:20参照)をコルネリオがあらわしてい
るということを知らなかったため、
『我も人なり』という言を発したのである。
異邦人の家に入ることはユダヤ人の習慣に反するというペテロの説明は、彼が
今はっきりと、あの幻影の意味が人間に関することであったことを理解した、
ということを示し、この理解に基いて語られる彼の言葉は、彼の見た幻影を始
めから説明しなくとも、聴く者を満足させることが出来た。使者たちは多分前
以て自分たちが遣されて来た目的をペテロに告げていたであろうが、ペテロは
今話を進める前に、この人たち自身の口からその目的を語らせることが至当で
あると考えた。
30-33節
ペテロのこの質問はここに集った人全体に向けられたものであ
ったが、コルネリオは彼らを代表して答えるにふさわしい人物である。彼はこ
の問に対して最も直截に、しかも満足に答えた。
- 188 -
10:30
すると、コルネリウスが言った。「四日 前の今 ごろのことです。わたしが家
で午後三時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、
10:31
言うの です 。 『コルネ リ ウス 、あなた の祈りは聞き入 れら れ、あなた の施し
は神の前で覚えられた。
10:32
ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、
海岸にある革なめし職人シモンの家に泊まっている。』
10:33
それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいまし
た。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神
の前にいるのです。」
この答の初めの言葉は、当時行われていた計算法によれば、あの天使の顕現
から数えてこの日は四日目であったことがわかる。勿論今日私たちの用いる普
通の計算法によれば、実際に遡って勘定してみればわかるように、きっちり三
日である。彼はここで彼に語った存在を『輝く衣を着たる人』という言葉で表
現しているが、しかし彼はその輝く衣のさまによらずとも、そのもたらした命
令の内容からも、ルカが前に呼んだ(3)ように、また使者たちがそう呼んだ(22)
ように、天使であることを認めたことは明かである。この答の中の最後の言葉
は、この会衆全体が、ペテロに托された神の御言を聴くという目的のために、
今神の御前に集っていたことを示す。このような聴衆がこのような者の説く御
言を聞かんとして集まる時には、望まれた結果は必ず伴うものである。
7.割礼なき人に対するペテロの説教(34-43)
34、35節
上にのべたような環境は、ペテロにとっては今語らんとする説
教を切り出すに最も都合のよい糸口となった。ペテロは自ら決して雄弁家では
なかったけれども、あたかも熟練した雄弁家のように、この糸口を利用して話
を進めた。
10:34
そ こ で 、ペ トロ は口を開 きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、
よく分かりました。
10:35
どんな 国の人で も、神を畏れて正しいことを行う 人は、神に受け入れられ
るのです。
ここに述べられたこの包容力の広い言葉は、ペテロの心の中で排他的なモー
セの契約を粉砕するに充分であった。そしてそれはまた今日人々の心から、神
が特定の人と天使との運命を専断的に予定せられたという狭隘な神学説を駆逐
するに充分であろう。それは神が人を見給わず、かえってその人の心を見給う
- 189 -
ということの、霊感による絶対的な宣言である。神に入れられることの条件は、
神を敬い義を行う事であって、決してその他の人間的差別によるのではない。
36-39節
上に観察したように、コルネリオが今ペテロに語った彼の経験
は、今日のプロテスタントたちならば一も二もなく、直ちに彼をクリスチャン
であると認めさせるに充分である。しかしペテロは決してそのような考え方を
とらなかった。そして彼はコルネリ オに対して、よって救われるべき御言を語
り始めた。ペテロはまず、五旬節の時のように、イエスの御生涯について簡単
にのべている。
10:36
神 が イ エ ス ・キ リス ト に よ っ て― -こ の 方 こ そ 、 す べ て の 人 の 主 で す ―-
平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、
10:37
あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤか
ら始まってユダヤ全土に起きた出来事です。
10:38
つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注
が れ た 者 と な さ い ま し た 。 イ エ ス は 、方 々 を巡 り 歩 いて 人々 を助 け 、悪 魔 に 苦し め
られている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
10:39
わたしたちは、イ エスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさった
ことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、
このイエスの短い物語が『汝らの知る所なり』(36節、邦訳は37節)に導かれ
ていることから、既にナザレのイエスの物語はコルネリオとその友人たちにも
知られ、更に彼らはイエスがイスラエルに説き給うた『平和の福音』をも聞き
知っていたらしい。ペテロがイエスの短い伝記をもう一度ここに述べたのは明
かに、自分とその同僚たちがすべてこの事の証人であるということを断言する
ことによって、彼らの信仰を強めるためであった。彼らがまだ知らなかったこ
とはこの平和の福音と自分たちとの関係、即ちそれまでは単にイスラエルの子
孫たちだけに関する約束とされていたものが、自分たち異邦人をも救う喜びの
音信であるということであった。
40-41節
五旬節の説教と同じように、次に福音の中心的事実があげられる。
10:40
神は こ のイ エ ス を三日 目に復活さ せ、人々の前に現してくださ いました。
10:41
しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、
イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。
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ここでペテロは復活を証するに当って、聴衆に対し、その証人が予め選ばれ
ていたという事実をのべた。このことは往々不信者たちによって間違った風に
説明され反対論の基礎とされるものである。ペテロは証人たちが神によって選
ばれたことを言っているが、これは勿論イエスによって選ばれたことを指して
いるのである。これに関してペテロと不信者との何れが正しいかは、何故彼ら
が選ばれたかというその理由にある。もし彼らの言うように、この証人たちが
如何なる事実であろうが、かまわずに何でも立証するような人であったから、
或は欺瞞されやすい人であったから選ばれたというのならば、これは疑うべき
事実であると考えてよかろう。しかし何れの場合においても事実はそうでなか
ったことを証明する。即ちこれら証人たちの立場は当時の社会においては甚だ
危険な位置にあったのであって、このような証を立てるためには自らの生命と
財産を危険にさらさなければならなかった。この事を考える時、これら証人た
ちに不真面目な動機があったというような説は自から黙せざるを得ない。また
彼らは生前のイエスと復活後のイエスとが聖人であることを証するということ
においても、イエスと長い間親しく交わった人たちであったから、欺瞞された
というようなことも考えられない。他方もまた復活後のイエスが何故すベての
人に現れなかったかということについても、たとえイエスがすべての人に現れ
たとしても、その大多数の人々は彼が生前のナザレのイエスと聖人物であるこ
とを証することが出来ないではないか。したがってぺテロの言の言葉は全く正
しい。なぜならば、これらの証人が予め選ばれたという事実はそこに何らの偽
瞞もあり得なかったことを証し、またこれらの特定の証人を選び給うたという
ことは 、神が当時生きていた人々の中で最も信拠 すべき証人(①)を立て給わん
が為であったことを示しているからである。既に実際におこった事実に対する
このぺテロの立証は、天使の勧告によってぺテロを迎えたコルネリオにとって
は信ずるに充分であった。そして彼と共に並居る人々も、主のペテロに命じ給
うた御言を聞くために、全く心の準備をととのえて神の前にあった(33)。
①もしこれらの証人(使徒)たちの目的が、彼らの語る所を真偽にかゝわらず信じさせるこ
とにあったならば、或はまたその証しを、親しい目撃者としても歴史家としても如何にも
尤もらしい反論の余地ないものにしようという点にあったならば、言換えるならば、も
し彼らが自ら理解し信じている事が真実であるという正しい確信からそれに何ごとかを
考えていたならば、イエスの数度の顕現に関して彼らは少くとも「神の予め選び給える証
人 」 特 定 の 証 人 だ け に 限 らず 、 も っ と 多 く の 人 を 証 人 と 言 っ た 筈 で は な い か 。 し か し 当
時から時間的距離の久しくなっている今日では、かえってこゝに記された「神の予め選び
給 え る 証 人 」 の 方 が 多 く の 証 人 よ り も ど れ だ け 信 頼 し 得 る 証 人 で あ ろう 。 そ れ は こ の 記
事にあらわれている歴史家ルカの公平な率直さが、この記事が違った風に書かれていたと
仮定する時よりも、かえってはるかに大きな証明力を持つからである。しかしこういった
現代における効果はこの伝道者(ルカ)も考えていなかったであろうし、またこの書が書か
れた直後には人に知られることもなかったであろう(Palay, Evidences of Christianity)。
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42、43節
イエスの生涯を略説し、その復活を証明したペテロは、正しい
順序として次の歴史的事実、即ち使徒に授けられた委任について語る。
10:42
そしてイエスは、御自分 が生きている者と死んだ者との審判者として神 か
ら定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたち
にお命じになりました。
10:43
また預言 者も皆、イエスについて、こ の方を信じる者はだれでもその名 に
よって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
『 民 ど もに宣べ伝 ふる 事』、 即ち人々に 福音を 説くことは使徒委 任の 御言の
中に 明 言 (マルコ 16:15)されてお り 、 また 彼らが 『イエ ス は 己の 生ける 者と死
にたる者との審判主に神より定められしを証すること』は同じく委任の冒頭の
言 葉『 我 は天に て も 地 にて も 一切の 権を 与 へられた り』 (マタイ 28:18)の中に
含まれている。しかもこの委任が与えられる前にも、イエスはその生存中ユダ
ヤ人たちに対して、審判はみな子に委ねられたること、そして父は誰をも審き
給わぬ事(ヨハネ5:21,22)を教えておられる。43節の罪の赦しの約束に関しては、
私たちは『その名によりて』という言葉の意味の重要さを見逃してはならない。
これ ら の人 たちはこの 話がすむと直ちに 『イエ ス・キリスト の名の 中に』(48
節 直 訳 )バ プテス マさ れ る べ く 命 じら れ た ので あ り、 全員 『父 と子 と 聖霊 との
名の 中へ と』 (マタイ 28:19、 直 訳)バプテス マさ れた の で あっ た ら この ことは
ぺテロの最初の説教における『汝ら悔改て、おのおの罪の赦しを得んために、
イエス・キリストの名の中にバプテスマされよ』という命令と全く一致する。
『おほよそ彼を信ずる者の、その名によりて罪の赦しを得べきことを証す』と
いうこの言葉は、決して信仰のみによって義とせられるという教義を支持する
ものではない。ペテロがここでこの約束の証人として預言者たちに言及してい
ることは驚くべきことである。しかもこの約束を明言している使徒委任の言葉
をあげた後に、直ぐに預言者を持ち出しているということは、なおさら驚きに
値する。しかしペテロが言わんとした所は私たちがこの約束の根拠を主として
預言者たちに置くべきだというのではなく、この約束がイエス一人から偶然出
た新しい約束ではなく、旧約聖書の中に既に古くから教えられて来た古い約束
であるということを示すことであった。
8.割礼なき人、聖霊を受け、またバプテスマを受ける(44-48)
44-46節
ペテロのこの説教は突然、使徒の歴史中ただ一度しかおこらな
かった一つの事件のために中断された。この出来事はペテロにとっても、また
彼に同行したユダヤ人たちにとっても甚しい驚きであった。
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10:44
ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同
の上に聖霊が降った。
10:45
割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦
人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
10:46
異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。
ユダヤ人の兄弟たちが驚いた理由は、単にこれらの人々が聖霊を受けたとい
う事実にあったのではない。なぜなら、もしペテロがあの五旬節の時と同じ言
葉で信ずる者に聖霊を約束した後、彼らをバプテスマしたならば、彼らが聖霊
を受けるのは当然の結果であることを、これらの兄弟たちは知っていた筈である。
そしてまた更にその後で、ペテロがかつてサマリヤ人たちにしたように彼らの
上に手を按いて、聖霊の奇蹟力の賜物を与えたとしても、彼らはそれ程驚かな
かったであろう。彼らを驚かせたことは、先ず第一にこの聖霊が神から直接彼
らの上に『そそがれた』ことであった。このような例は五旬節の使徒たちの上
に聖霊が降り給うた時以来かつてなかった。そして第二にはこの特別な賜物が
異邦人に与えられたということであった。この第二の点に関しては更に47、4
8節に おいて この奇蹟の目的 を 論ずる 場合に取上 げら れるであろう 。この 聖霊
の賜 物 が外国 語で語 るこ と(speaking in tongues) ① によってあらわさ れたと
いう事実は、この賜物を、悔改てバプテスマを受ける人に例外なく約束される
聖霊の賜物(2:38)とはっきり区別し、同時にまたこの賜物が使徒の按手によら
ず、直接天から降ったという事実は、この賜物をかつてサマリヤ人たちに与え
られ た賜 物や、 後に多 くの教会の重要なメンバーにだけ与えられたあの賜物 ②
と区別する。私たちはこれに相当する賜物としては、五旬節の日に使徒たちの
上に与えられたあの賜物以外に同一例をもたない。そして実際にこれは五旬節
の賜物と同じものとして後にペテロによって説明されている。ペテロの言葉は
こう であ る、『ここ に 、われ語り出づるや、聖霊かれらの 上に降りたまふ、初
め我らの上に降りし如し。われ主の嘗て「ヨハネは水にてバプテスマを施しし
が、 汝 ら は 聖霊 にてバプテスマ を 施されん 」と宣給ひし 御言を思ひ出せり。』
彼はこの言葉の中でこの時の出来事が聖霊のバプテスマであったことをはっき
り証明しているが、新約聖書の中で聖霊のバプテスマと称せられているのは、
この時と五旬節の二回だけである。そして前者は新しきメシヤ王国に始めてユ
ダヤ人が入れられたことに関する神の宣言であり、後者は初めて異邦人が入れ
られたことの宣言であった。
①この奇蹟について Plumptre のような思慮分別ある註解学者が次のような意見を述べ
ているのを読んで私は驚いた。曰く『こゝには彼らが神を讃えるに際して、彼らの知って
いた国語以外の言葉を用いたということは記されていない。従ってこの時五旬節において
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与 えら れ た と 同 じ 賜 物 が こ ゝ に 再 現 さ れ た と す る 根 拠 は ど こ に も な い 。 む し ろ こ の 賜 物
の 本 質 で あ っ た と もい う べ き 喜 び に 酔 った 恍 惚 状 態 の 言 葉 は、 Ⅰ コ リ ン ト 14:7-9に 述 べ
られた現象に相当するものであったろう 。』Plumptre のような人がこのような意見を持
っているこ とを考えれば 、Meyer が 同じ意見を主 張している ことは驚く に足りない。こ
れ ら の 人 は 何 れも Alford が 注 意 を 喚 起 して い る 一 つ の 事 実 を 看 過 して い る 。 そ れ は ペ
テ ロ が 後 に こ の 時 の 事 を 語 る に 際 して 『 神 わ れ ら に 賜 ひ し と 同 じ 賜 物 を 彼 ら に も 賜 ひ た
り』 と言 って いる こと である (11:17)。こ のよ うに 、この 賜物 は五旬 節の 時に 与えられ た
γλῶσσα )の賜物であったことがわかる。ルカは先に五旬節の記事において使徒た
ち が 外 国 の γλῶσσα で 語 っ た と 記 して い る か ら 、 こ ゝ で は そ れ を 簡 単 に 省 略 して
γλῶσσα で 語 っ た と 言 っ た と し て も 何 の 不 思 議 も な い で は な い か 。 更 に も し
『 γλῶσσα で語った 』というルカ の言葉が語 る人の母国語 以外の外国 語を意味するも
異言(
のでないとすれば、ルカの言葉は意味をなさない。もしもこの時の現象にせよ、Ⅰコリ
ント14章に述べられた現象にせよ、それが全然人間の言語ではなくて Plumptre の言う
ように『喜びに酔った恍惚状態の言葉』であったと想像するならば、これらの霊感を受
け た 人 たち は 全 然 無 意 味 な 訳 の わ か ら ぬ 事 を 口 走 っ た こ と に な る 。 無 意 味 で 訳 の わ か ら
ぬこ とを 言 うの は 、む し ろそ う いう 解 釈を す る人 たちで あろう 。 Alford氏 註解 11:1-7及
び2:4参照。
②使徒19:1-7。Ⅰコリント1:4-6。ガラテヤ3:1-6。Ⅰテサロニケ5:19,20参照。
コルネリオと彼の友人たちが、水の中にバプテスマされる前に聖霊の中にバ
プテスマを受けたと いう事実は、しばしば、罪の赦がバプテスマに先立ってお
こるということの証拠として論じられて来た。もし罪の赦がこのような聖霊の
奇蹟力の賜物と同時に与えられるものであるならば、この聖霊の賜物もコルネ
リオたちの罪の赦を証明する証拠になるのであろう。しかし事実はそうではな
い。奇蹟力の賜物が与えられた他の場合を見てみると、何れも罪の赦が奇蹟の
賜 物に 先 立 っている。 これ は 五旬節における使 徒 た ち の 場 合 そ う で あ っ た 。
何故なら彼らは既に久しくキリストの弟子であったからである。またサマリヤ
人たちの場合もそうであった。彼らは使徒たちが彼らに奇蹟力の賜物を分け与
えようとしてペテロとヨハネを遣す以前に、既にピリポからバプテスマを受け
ていたのである。このことは更にパウロが後にエペソにおいてバプテスマを施
した後、この賜物を与えた12人 の弟子たち(19:1-7)についてもそうであり、
更にまたコリント教会内で同じ賜物を与えられていた人すべてにとっても、や
はり同じであった(Ⅰコリント1:4-7、12:1-7)。これらの例の中の一つとして、
この賜物が罪の赦と関連を持っていたためしはない。従ってこのコルネリオの
例においても、聖霊の奇蹟力の賜物と罪の赦との間には何の関係もないのである。
もしこの奇蹟力が未だ罪を赦されざる人の中に顕されるということが、不合理
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であると考える人があるならば、 そ の 人 は 次 の こ と を 思 い 出 して 頂 き た い 。
即ちこの奇蹟がこれらの人の上に行われたのは、これらの人々自身とはかかわ
り な く 他 の 人 々 の た め に 行 わ れ た の で あ る こ と (47、 48註 参 照 )、 そ して 賜 物
を与えられた人たちは、未だ罪を離れざる人々であったにもせよ、ユダヤ人の
信 仰 に よ れ ば 『敬虔 な 人』 (英 godly persons)で あっ た という ことで ある 。
ここに不合理な考えが許されるならば、このほんの一時的な奇蹟力の賜物を受
けたことが、先にコルネリオに遣された天使が、彼の祈りが聴かれ施済が神に
受入れられたということを保証した以上に、何らかのものをコルネリオに与え
たと考える考えほど、『不合理』な考えはないであろう。
コルネリオの改宗におけるこの出来事は、決して彼の時代にあてはまる先例
と考えてはならない。なぜならこれは明かに奇蹟であって、今日このような奇
蹟は行われないからである。今日罪人がコルネリオの受けたように聖霊を受け
ることを期待するのは、彼の罪が赦される前にコルネリオが見たと同じように
天使を見ることを期待するようなものである。
47、48節
この異常な出来事の正しい解釈は次章(11:15-18)ペテロの演説
の中に充分に説明されているけれども、それはまた次の言葉の中にも明瞭に意
味されている。
10:47
「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるの
を、いったいだれが妨げることができますか」と言った。
10:48
そ して、 イエ ス ・キリス ト の名に よ って洗礼を受 け るよ うに と、そ の人たち
に命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。
一つの出来事の行われた目的を確かめるには二つの方法がある。一つはその
目的が文中にのべられている時、一つはそれが結局何のために用いられたかを
見ることによって、その目的を知る場合である。この場合には聖霊の賜物が与
えられた目的は文中に記されていない。しかしその目的を知っていたペテロは、
彼がそれを何のために用いたかによってその目的を私たちにはっきりと知らせ
てくれる。彼はこの奇蹟を、彼に同行したユダヤ人たちの心から、異邦人にバ
プテスマを授けることに関してなおも抱いていた疑念と不安を取り去るために
利用した。従ってこのことこそ、この奇蹟の行われた目的である。更にまた私
たちは、後にペテロがエルサレムにおいて、これを用いてその地のユダヤ人兄
弟たちの心 から同じ 疑念を 取り去 ったことを知っている(前の引用を 見よ)。従
ってこの奇蹟の目的がここにあったことは疑うべくもない。また同時に私たち
はこの記事の中に、この種の事件がそれ以来どうして再び起らないか、また今
日 待 望 す る こ と が 出 来 な い か 、 その理由を発見する。それは、この時に割礼なき
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異邦人がバプテスマを受けてもよいことが一たび証明された以上、この問題は
永久に解決されたのであって、再び解決される必要がないからである ① 。
① こ の点 に つ いて Dean Plumptre は 次 の よう な 充 分 な 説 明 を 下して い る 。『 こ の 場 合
これらの人々に特別な賜物が与えられたのは、割礼ある人々が異邦人にバプテスマを許す
ということについてもっていた疑念を取り除くためであった。そしてこの賜物は決定的な
先例としてこの目的を達した後は、私たちの知る限りにおいて、決して再び同じような条
件の下に与えられることはなかった』(使徒行伝註解10:47,48)。
ペテロの説教がこの出来事によって中断せらるまでに、彼は信仰と罪の赦の
問題にまで説き進んでいた。したがって彼がもし五旬節の説教の形式に準じて
話を進めていたならば、彼の口から出た次の言葉は当然バプテスマであったろ
う。しかしこの中断は彼の説教の論旨を途中で中断してしまわなかった。それ
はか えって彼をして前よりも 一層大きな確信を以て、考えていた結論に向って
話を進めさせる結果になった。彼はまず兄弟たちに向って誰がバプテスマを禁
じることが出来ようかということを反問した後、次にこれらの異邦人たちに向
って主の御名の中にバプテスマされるように命じた。ここで私たちは、コルネ
リオが天使によって、ペテロを招いて全家族の救われるべき言を聞くように、
命ぜ られてい た (11:14)こと を 思い 出 してみ よ う。 今その ペテロ が彼 の 許に来
り、その救の言を語ったのである。彼はコルネリオの家族友人たちにキリスト
について語った。そして今彼らはそれを信じた。彼は彼らにバプテスマを受け
よと命じた。そして今彼らはその言 に従ってバプテスマを受けた。コルネリオ
の敬虔さ、祈り、及び施済を以てしてもクリスチャンたるに足りなかったもの
が今与えられた。彼にとっては今やキリストを信じてバプテスマされること以
外に、残されたことは何もなかったのである。この改宗の物語はここで終る。
そしてそれは根本的な点で、既にこの書に記録されたすべての改宗の記録と全
く一致するものである。
私たちはこのコルネリオのことから更に、たとえ平和の時においてでも軍人
の職にあるということが、平和の君なるキリストに仕える信仰と果して両立す
るものであるか、使徒たちはこの問題をどう考えていたかについて知りたい。
新約聖書中において軍人が改宗したという記録はコルネリオ一人だけである。
しかも私たちは彼の後半生について何ら知る所がないのである。この事件があ
って後間もなくコルネリオの属していたロマの軍隊は、ユダヤ人に対して最も
残酷な不正義な戦争を仕かけたが、この時に果して彼がなおも兵役にとどまっ
ていたかどうかは、私たちはこの世においては知ることが出来ない。しかし私
たちが忘れてはならないことは、この記事は軍人が悔改てクリスチャンになっ
た実例 であって、決してクリスチャンが軍人になって武器をとった例ではない
ということである。したがってこのコルネリオ改宗の記事は前者のためには先
例を供するけれども、後者の先例では決してないのである。
- 196 -
9.以上のことに関するペテロの弁明(11:1-18)
1-3節
カイザリヤにおいておこった、この類例を見ぬ驚くべき新事件は、
まもなく各地に言ひろまった。
11:1
さ て 、 使 徒 た ち と ユ ダヤ に いる 兄弟 た ち は 、 異邦 人 も 神の 言 葉 を受 け入 れ
たことを耳にした。
11:2
ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、
11:3
「あな た は割礼 を受 けて いない者た ち の とこ ろ へ行き、一緒 に 食事をした」
と言った。
ペ テロ に 対してこの 詰問 をした人 々は、『割礼ある 者ども』とここでは記さ
れて、使徒たちの中の誰をも含んでいないような言い方であるが、前後の関係
から明かにこの『割礼ある者ども』の中には、一節においてペテロのした事を
聞 いて 何 ら 賛 成 の 意 を 表 して い な い 使 徒 たち が 含 ま れて い た こ と は 明 かで あ
る。この使徒たちが、ペテロを詰った兄弟たちと同じことを考え、同じ感情を
持っていたことは疑もない。彼らは今この異邦人問題について、先にペテロの
心が開かれたように、ペテロの言によって開かれなければならなかった。次の
ペテロの言葉の中にあらわれているその方法は、実に教訓に富んでいる。
4-17節
11:4
そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。
11:5
「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見
ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで
下りて来たのです。
11:6
その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。
11:7
そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、
11:8
わた しは言いま した。『 主よ、とんで もないことです。 清くない物、汚れた物
は口にしたことがありません。』
11:9
すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、
再び天から声が返って来ました。
11:10
こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。
11:11
そのとき、カイサリ アからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わ
たしたちのいた家に到着しました。
11:12
する と、”霊”が わたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われま
した。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。
- 197 -
11:13
彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう
告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを
招きなさい。
11:14
あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』
11:15
わ た し が 話 しだ す と 、 聖霊 が 最初 わ た し た ち の 上 に 降 った よ う に 、 彼ら の
上にも降ったのです。
11:16
そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊に
よって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。
11:17
こ うして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくだ
さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、
神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
この演説の中でペテロはその語るところを、先に第十章に記された出来事を
もう一度注意深く話すことと、その出来事から彼自身が帰納した結論を述べる
ことだけにとどめている。彼の語ったことは次の事であった。彼は幻影を見、
声を聞き、そして遣わされて来た人たちと共に行けという聖霊の命令を受ける
や、その命令に従って直ちにその人の家に行ったこと、そして彼が異邦人たち
が語り始めた時に彼らが聖霊の中にバプテスマされたのを見て、神を阻むこと
が出来なかった--というこれだけの事実である。この最後の言葉(17節)の意
味は、その歴史的関係から考えるならば、もしペテロがその人々をバプテスマ
することを拒むならば、即ちもし彼らとユダヤ人との間に差別をおくならば、
それは神を阻むことになるということを言っているのである。ペテロはここで
異邦人をバプテスマしたことについては一言もふれていないが、それは彼を詰
った人々も言わなかったことである。彼らは単にペテロが異邦人の家に入って
彼らと共に飲食したことを咎めて、それよりも一層重大な過失、即ちペテロが
異邦人をバプテスマしたことを咎めていない。もし前者が罪であるならば、後
者は更に大きな罪である筈である。これはいわば小事の中に大事を含んだ事件
というべきであろう。ペテロはこれに答えて、強い言葉で異邦人の家に入った
ことが正しいことであったことを弁明し、これによってまた彼らをバプテスマ
したことも当然正しいという弁明を暗示しているのである。
18節
ペテロが再説したこの事実は、先にペテロの心を動かしたと同じよう
に、今反対者の心を動かした。
11:18
こ の 言 葉 を 聞い て人 々 は静 ま り 、「 そ れで は 、神 は 異邦 人 を も 悔 改 さ せ 、
命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。
- 198 -
ユダヤ人というものはこのような場合、たいてい頑迷なものであるが、それ
にひきかえて、これらのユダヤ人兄弟たちは、従来、神の教会と異邦人との関
係について何ら教えられていなかったにもかゝわらず、この時にはこの真理を
聞くとすぐにこれを受入れた。しかもそれを受入れるにしても、無理に受入れ
させられたもののように不平を言いながらではなく、あたかも今まで自分たち
をわずらわしていた思想の束縛から解放された者のように、喜んで受けたので
ある。彼らはこれを聞いて『黙念たりし』のみならず、やがて今教えられた真
理について『神を崇め』た。
こ の 書 のこ の 部分 で 、 私たちは使 徒たち が 主 の約 束 (ヨ ハネ 16:13)に従 って
すべての真理を悟らしめられた多くの方法の中でも、最も驚くべき一つの例を
見る。割礼なき者にもバプテスマが許されるということは、ペテロの受けてい
た霊感によっても知ることが出来なかったし、他の使徒たちも、ペテロが割礼
なき人々をバプテスマした後でさえ、ペテロのしたことが正しかったというこ
とを、彼らの霊感を以てしても知ることが出来なかった。しかし聖霊自身はこ
のことにおいても、他の一切のことについてと同じように、直接使徒たちの心
を照してこれを悟らせようと思えば、そうすることが出来たのは無論のことで
ある。しかし聖霊はこの方法を用いないで、他の方法を用い給うた。即ちペテ
ロは彼の眼に訴えられた幻影、耳に訴えられた声、天使によって伝えられた勧
告と、更にこれらの力を強める聖霊のたった一つの命令によって、ペテロは導
かれて新しい真理を悟った。そしてまたこれらの事実がペテロの口を通じても
う一度兄弟たちに対して語られることにより、彼らもこの真理を悟らしめられ
たのであった。従って兄弟たちにこの真理を悟らしめたものは、ペテロを悟ら
しめたと同一の事実であった。たゞ相違は、これらの事実がペテロにとっては
直接見聞するところとなって経験せられたのに対し、兄弟たちにはペテロの語
る言葉によって示されたという点にある。聖書の中に述べられた事実はすべて、
今日もこれと全く同じ方法によって私たちの心に達する。そして聖霊はこのと
き御言を通して私たちに働きかけ給うのである。この方法はこの実例からも明
かなように、他の兄弟たちが、霊感を受けていたものと受けていなかった者と
を問わず、この重要な問題に関してペテロの心に直接聖霊によって啓示された
ことを聞かずとも、ペテロの語る事実を聞くことによって、ペテロが悟ったと
同じようにこれらの証拠の真であることを確信することが出来たという点にお
いて、非常に重要であった。この事件の結果としては、後に割礼に関する論争
が教会のある会派を騒がせた時においてすらも、異邦人にバプテスマを授ける
という問題に関しては、何びとも何の疑いをもさしはさまなかったという事実
となってあらわれている。
- 199 -
第四項 教会新たにアンテオケに設立されること、
及びエルサレムにおける第三回の迫害(11:19-12:25)
19-21節
1.「アンテオケにおける伝道の端緒(9:19-21)
ルカは彼の著述のこの部分におけるかねての計画を追って、再びエルサレム
教会の離散にその筆をもどし、早速目前に横たわる広大な伝道の分野の一方面
を概観する。
11:19
ステファノの 事件 をきっか けにして起こった 迫害 のた めに散らさ れた人々
は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも
御言葉を語らなかった。
11:20
しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキア
へ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。
11:21
主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。
これらの節から私たちは、ピリポがサマリヤに、サウロがダマスコ及びアラ
ビヤに御言を宣べ、少しおくれてペテロがユダヤ・サマリヤ・ガリラヤのあら
ゆる地方に伝道していた間に、他の兄弟たちは北はピニケ・クプロ島から、最
北方は有名なアンテオケの市に御言を宣べ伝えていたことを知る。これらの兄
弟たちが『たゞユダヤ人のみに』御言を語ったのは、前項に記されたペテロの
異邦人に対する門戸開放まで、単に使徒たちの例にならっていたにすぎない。
彼 ら の 中 の 或 者 ど も が ア ン テ オケ に 来 た 時 ギ リ シ ヤ 人 に も 語 っ た と い う こ と
は、ギリシヤ人への伝道の行われたのがこゝにあげられた土地、即ちアンテオ
ケに限られていたことを示す。言いかえれば、彼らはアンテオケに到って始め
て、ギリシヤ人への伝道を開始したのであった。まだこれらギリシヤ人に語っ
た兄弟たちは、ユダヤ人にのみ御言を語った兄弟たちよりも、少しおくれてア
ンテオケに来たように思われる。このことはこの変化がおこる前に、何事かが
おこったことを暗示しているが、ルカがこの直ぐ前にのべた事件が異邦人のバ
プテスマと関連をもっていることから、ルカはアンテオケにおいてギリシヤ人
への伝道が開始される前に、この事件がおこったのだということを、読者に知
らせようとしているもののようである。この考えの可能性は、私たちがこれら
の事 件 に 関 す る 年 代 表を 見 る 時 、確 実 性 に わか る 。 即ち 第 12章に 記 され たヘ
ロ デ の死 がA.D.44年 にお こったこ と は、 既に 多く の学者 によって確証 された
- 200 -
事実である。そしてまたこの章からバルナバとサウロがアンテオケで共に働い
たのは、この事件に先立つ満一年間であったことがわかる(26節)。従ってバル
ナバがサウロをアンテオケに伴い来ったのは43年でなければならない。更に2225五節 の記事はバルナバがサ ウ ロ を 迎 え に 行 っ た 時 に は 、 バ ル ナ バ はまだ
アンテオケに来て何ケ月もたっていなかったことを暗示する。これらのことか
ら考えるならば、バルナバがエルサレムからアンテオケに遣わされたのは、早
く て も 42年 の 始 め 頃 で あ っ た 筈 で あ る 。 し か も 彼 は エ ル サ レムの 兄 弟 たち が
アンテオケでの伝道の成功を知ってから遣わされたのである。従って私たちは
ア ン テ オケ に お ける 伝 道 の 彼 の 部 分 、 即 ち ギ リシ ヤ 人 に 対す る 伝 道 は、 42年
の始或は41年の終りより早く行われたものではない、と決論せざるを得ない。
し か る に コルネリ オの バ プテス マ は40年或 は41年 である か ら、 コルネ リオの
バプテス マはアン テオケ におけるギリシヤ人への伝道 より先 であ る ① 。 このよ
うにルカの記事の順序から自然に暗示される結論は、最近の研究の結果と全く
一致するのであって、これらの割礼なき異邦人たちがバプテスマを受けたのは、
ペテロがカイザリヤにおいて彼らに門戸を開放した後であったのである。しか
しペテロの働きが異邦人に門を開いたことは事実であったが、一方このアンテ
オケにおける働きは、主の軍隊による異邦人世界への最大侵攻であった。
①緒論、使徒行伝の年代参照。
こゝに記されたピニケにおける伝道は、後にこの地に見出された諸教会の起
源を暗 示する(15:3; 22:3,4; 27:3)。またアンテオケにおいて初めてギリシヤ
人に語った説教者たちが、クプロ及びクレネの人であったということは、彼ら
がこの外国の地に伝道するに先立って、彼らの故郷であるクプロ及びクレネに
おいてある程度伝道していたであろうということを、私たちに想像させる。故
にこの時はあのステパノの殉教から五、六年経っていたことを考えても、彼ら
はこのことを実行するに充分な時間を持っていた筈である。また多くの人たち
が想像しているように、イエスの十字架をゴルゴダへの道の一部分背負って歩
いたあのクレネ人シモンが、これらクレネ出身の説教者たちの一人であったと
い う こ と も、 有 り 得る こ とで ある。 次に『数 多の 人 、 信じ て主 に 帰 せり 』(現
行 邦 訳 = 帰依 せり )と い う 言 葉 に ついては 、 主に帰 すると いうこ とは信 ずるこ
ととは自から別であって、それに続いておこることであることを知っている。
即ち3:19で主に転ずる(同じ原語)が悔改の後にのべられているように、転ずる、
或は帰するという言葉の意味は、人が実際に転ずる行為であるところのバプテ
スマを指しているのである。従って他の多くの場所に用いられている同じ意味
の表現を用いるならば、『 数 多 の 人 、 信 じ て バ プ テ ス マ を 受 け た り 』(18:8)
である。
- 201 -
2.バルナバ、アンテオケに派遣わされる(22-24)
22-24節
エルサレムは使徒たちの本部であったため、なおも活動の中心
地であり根拠地であった。使徒たちは他の説教者たちのすべての伝道活動の世
話を見、時に応じて彼らに助力と助言とをおくった。またたとえ使徒たちが一
人も母教会にいない時でも、なお他の能力ある人々によってこのような監督を
行うことが出来たに違いない。
11:22
このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナ
バをアンティオキアへ行くように派遣した。
11:23
バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そ
して、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
11:24
バル ナバは立派な人物 で、 聖霊と信仰とに 満ち ていたから である 。こ うし
て、多くの人が主へと導かれた。
ルカが特定の人物について語る時に、このバルナバに対してさゝげられた程
の讃辞を加えることは稀である。しかしバルナバがこの重要な使命のために選
ばれたのは、彼のこの高貴な性質を認められてであるから、ルカが特にこのこ
とをあげているのは至極当然である。彼の派遣の目的については、彼がアンテ
オケに行って何をしたかということからのみ、知ることが出来る。そしてこの
彼のなした事業から考える時、私たちは彼の遣わされた目的が、かつてサマリ
ヤ人に遣わされたペテロ及びヨハネの使命とは、やゝ異っていたことを知るの
である。彼の使命は聖霊の奇蹟力の賜物を分け与えることではなかった。第一
彼はそれを分け与える力を有していなかった。彼の使命は実に、彼自身がその
業によってすでに名声を得ていたところのもの、またその業にすぐれていたこ
とから今の名を得ていたところのもの、即ち兄弟たちを奨励して主を離れぬ固
い信仰を持たしめることであった。エルサレムの兄弟たちはアンテオケの信仰
浅い弟子たちに、このような奨励が必要なことをよく知っていたので、奨励者
としては申し分のない第一人者を派遣したのである。私たちはまた彼が兄弟た
ちを奨励している間に、多くの不信者が信者となって兄弟たちの中に加えられ
たことをも、見逃してはならない。人がイエスをキリストなりと確信するに至
った後、弟子たちに対する奨励の言葉を聞いて悔改に導かれることは屡々おこる。
3.バルナバ、サウロをアンテオケに連れ来る(25-26)
25、26節
バルナバはこれらの仕事に着手すること幾何もなくして、自分
- 202 -
が先任 者の助力よりも(もし彼らがまだアンテオケにい たならば)、なお一層有
力な助力を必要とすることを感じたらしい。彼がこの時なぜサウロのことを考
えたか、その理由はこゝには記されていないが、いずれにせよバルナバの考え
は、エルサレムで知り合ったかつての迫害者サウロのことに及んだ。エルサレ
ムの兄 弟たち が彼をタルソにおくって以来、サウロについてバルナバが知って
いた限りのことは、もし彼がアンテオケに来る前に何も彼について聞いていな
かっ た と すれば (聞いていな かったと考えられる向きが多いが)、エルサレムに
伝わっていた『われらを前に責めし者、曾て暴したる信仰の道を今は伝ふ』(ガ
ラテヤ1:23)という風説だけであったろう。しかしとにかく彼が今この大都会 ① に
於て開 始しつゝある事業のために、彼 の 周 囲 の 人 た ち の 中 か ら 選 ん だ 人 物 は
サウロであった。ルカは次のように記している。
①アンテオケの町をこゝに紹介する限り、私は読者にこの町の歴史について知って頂きたい。
このことについて、こゝに Farrar の描写的な記述を引用しよう。『東方の女王、世界第
三の首府、おそらくは五○万の人口を擁していたこの巨大な都会を知るに当って、私たち
は衰退し地震に破壊された今日のアンタキアの町を以て判断してはならない。アンテオケ
はあの平な屋根と暗く狭い市街とを持つ普通の東洋的な町ではなく、豪華なロマ文明に
彩られたギリシヤ的首府であった。町はレバノン・タウルス両山脈の接する結合点に建て
ら れ 、 シ ル ピ ウス 山 の 北 斜 面 に 当 る そ の 自 然 的 位 置 は 、 そ の 麓 に 舟 を 浮 べ る 広 大 な 歴 史
的オロンテス河と共に、荘大な美観を誇っていた。屈曲する河流は森林鬱蒼たる平野をう
るおし、また町は海岸からわずか26kmの位置にあったから、海上から吹きよせるそよ風
はこの町に健康と冷気とを与えていた。こういった地の利は更に古代文化芸術の精華によ
って、更に豊富なものとされた。セレウキダによって、王朝の所在地として建設されたこ
の 町 は 、 そ の 周 囲 を え ん え ん と 取 囲 む 驚 くべ き 高 い 厚 い 城 壁 を もち 、 こ の 城 壁 は 山 々 の
峯をめぐり谷をこえ、さながらこの町をこれらの山々によって、天然の城壁で囲んでいる
かの如き観を呈していた。シリヤの代々の諸王の宮殿は河から引いた人工の疎水によって
取 巻 か れ る 島 の 上 に 建 て ら れて い た 。 西 の 黄 金 門 、 別 名 ダ フ ネ 門 か ら は 街 路 樹 ・ 石 柱 ・
石像等 によって飾ら れた 広大 な道路 が殆 ど8kmも 続いてい た。この道路 はまず最初 セレ
ウコスによって建設され、その後ヘロデ大王によって工事を続行されたが、自らの建築美
術 に 対 す る 情 熱 を 満 足 さ せる と 同 時 に 、 ユ ダ ヤ に 対 す る こ の 国 の 人 の 好 意 に 報 い よ う と
したヘ ロデ は、そ の4 kmの 間を 大理 石の敷 石に よって舗装したの であった。 また河とそ
の支流には多数の大橋梁がかけられ、公衆浴場・公会堂・別荘・劇場等が平坦な土地に
集 中 して 建 て ら れ 、 さ な が ら 絵 の よ う な 美 し さ に 彩 ら れ た こ の 町 の 荘 観 は 、 ア レ キ サン
ドリヤとロマ以外には名声をゆずらぬ堂々たるものであった。
11:25
それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、
11:26
見つ け出してアンティオ キアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教
会に一 緒に いて多くの 人を教え た 。 こ のアン テ ィオ キアで 、弟子た ち が 初め てキリ
スト者と呼ばれるようになったのである。
- 203 -
福音が既に有利に輸入されていた社会において、満二年間にわたる二人のか
くの如き伝道者の協力は、大なる果を結ばないではおかなかった。しかもその
得られた結果は彼らが当初懐いていた希望にもまして大きなものであった。何
となれば彼らは今、使徒時代中でも最も立派な伝道者を派遣したキリスト教世
界の第二の首府を建設しつゝあったのである。
今やこゝにおこった新しい名称 Χ ρ ι σ τ ι α ν ο ι (クリスチャンたち) は、かつ
て人間の一団に対して与えられた名称の中でも、最も意味深い有力なものであ
った。ところで果して誰がこの名称の起源を作ったか、バルナバとサウロであ
ったか、或はアンテオケの弟子たちであったか、それともアンテオケの不信者
であったかという問題は、この名称そのものの意味の重要さに比して、不必要
なまでに色々な論議を生んで来た。ギリシヤ語を生かじりで聖書を読む人にと
っては、この個所は『彼らは一年の間教会と共に集って多くの人々を教えた。
そしてアンテオケにおいて始めて弟子たちを Χριστιανοι と呼んだ』と訳さ
れるように見えるかもしれない。そうするとバルナバとサウロとがこの名称を
作ったことになる。しかしこの訳は全く誤りである。現行訳聖書本文の訳文は
現代のすべての学者が一致して認めている所である。キリストの弟子をキリス
テアンと称することは、いやしくもギリシヤ語を学んだ人ならば、全く至当な
名であることがわかるであろう。しかしこの名称が果して不信者側からつけら
れたものか、それとも弟子たち自身がこう称えたのであるかということになると、
このギリシヤ語の意味から解釈することは困難である。前の仮説を取る人たち
は、人間の団体というものは常に人々に知られている性質又は内容によって、
それにふさわしい名を外部から与えられるのが普通であると言う。しかし多く
の人は次のように推測している。即ち、この名称が信仰の敵たちによって嘲笑
的に命名されたという考えは、この言葉の中に何ら軽蔑の意を含んでいないこ
とから考えても、全く根拠のないことである。むしろこの名称はこの道の友で
あった謹厳な高位の人たちが集って会議を開いたとしても、きっと採用された
に違いないような名称である。またこの名称が正しいものとして神に認められ
たことは、使徒たちがこれを採用したという確乎たる事実以外に何らの証明を
も要しない。勿論新約聖書中でも、やゝ後の頃にはこの名が、弟子たち自身が
自称するよりも、むしろ彼らが他の不信者側から呼ばれた名として現れている
こと は 確かである ① 。しか しキリス ト信者 にあてられたすべ ての書簡中にこの
名があま り用いられず、こ れ よ り も 一 層 親 し み の 情 を こ め た 呼 び 名 (例えば“
兄弟”)が用いられていることは、少しも不思議とするに足りない。
①26:28でこの言葉がアグリッパ王の口から出ていることに注意せよ。またペテロ前書4:
16では、ペテロはこの名の故に弟子たちが苦難を受けたことを記している。
- 204 -
4.バルナバとサウロ、ユダヤに派遣される(27-30)
27-30節
農夫がその耕作の働きと収穫の働きとを年々互に交代するよう
に、バルナバとサウロも一年間の伝道と教えの後、一時アンテオケにおける業
を措いて、彼らの耕した恩寵の結果をまた他の国の苦しめる者におくるために、
この国を去った。
11:27
そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。
11:28
その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると”霊”
によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。
11:29
そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助
の品を送ることに決めた。
11:30
そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。
弟子たちの間に預言の賜物が与えられていたという記録はこれが始めてであ
るが、このアガボとその同僚たちとが既に預言者として有名になっていたよう
に見える。従って彼らはこの賜物を既に何度も用いて働きをなしていたものら
しい。またアンテオケの兄弟たちの行為は、これらの預言者のなした預言をそ
のまゝ明白に信じたことを示している。彼らは預言された飢饉が実際におこる
のを待たず、予めそれに備えての対策に着手した。恐らくバルナバとサウロの
勧告を待たずに全く自発的におこって来たと思われる、このユダヤへ扶助を贈
ろうという義挙は、この飢饉が単にユダヤだけでなく彼ら自身の国にも及ぼう
としていた事実を考え合せる時、ますます立派な行為であったことがわかる。
彼らがもしその時代特有の利己主義の考えを以て動いていたならば、きっとこ
う言ったであろう。我々はまずこの飢饉が自分たちをどれ位苦しめるか、また
我々のすぐまわりの人々をどれ位苦しめるかということを考えようではない
か。そしてその上で、それでもまだ分け与えるだけの余裕が我々にあるならば、
遠いユダヤの兄弟たちをも助けることにしようではないか、と。しかし彼らは
決してその ような利己的な打算を行わず、かえって一層人口稠密なユダヤの地
は、豊年の時でさえ、外国貿易によって富むアンテオケ周辺地方より貧しかっ
たから、飢饉がおこれば一倍ひどい損害と苦しみを蒙るであろうことを見越し
て、自分たちの生命をかけてまでも、その貧しい兄弟たちの救助を、直ちに万
難を冒して確保しようと決心したのであった。このことから見ても、彼らがエ
ルサレム教会のあの驚くべき慈善の先例を、単に共産主義の熱狂的な運動のよ
うなものではなく、すべてのクリスチャンが同じような境遇に於て見習うべき
模範 で ある と考えてい たことが明かで ある。バルナバとサウロもおそらく数週間
- 205 -
の間説教を休んでも、この世界に稀に見る、否かつて見ざる慈善事業の計画を奨励し
てまわったことであろう。心のそこから溢れ出る慈善ほど雄弁な説教はない。
こゝにユダヤ諸教会の長老のことが、前後に何のことわりもなく、彼らが選任
されたことも記されぬまゝに突然出て来るが、これはルカのいつもの省略的記述
であり、また彼がこの書を記したのは教会の組織が既に完全に樹立された後であ
り、すべての教会役員とそのつとめとが人々に知れわたった後であったことを示
すものである。長老たちは教会の会衆を司る者であり、これらの扶助の贈り物を
受けてその貧者に対する分配を監督するには最もふさわしい人たちであった。
5.ヤコブ首斬られ、ペテロ捕えられる(12:1-11)
1、2節 史家ルカはこゝでバルナバとサウロのユダヤ諸教会巡回旅行のあと
を追わずに、彼らの働きを一時さし措いてエルサレムに帰り、当時この町に起
った事件について、一つの戦慄すべきエピソードを紹介している。
12:1
12:2
そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、
ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
私たちがこれまで見て来た迫害は、すべてエルサレムにおける宗教的な党派
の指揮によるものであって、政府の司たちがこれを助けて迫害したという例は
なかった。しかし今度の場合には迫害の主導者は当時ユダヤを治めていた王者
であり 、真理の仇敵たちは黒幕の か げ に か く れて 糸 を 引 いて い た の で あ る 。
このヘロデはアウグスト皇帝の有名な宰相アグリッパと同名であり、普通アグ
リ ッパ 王 と 呼 ば れて い た (訳 者 註 = アグ リ ッパ 一 世 、 パ ウ ロ を 裁 判 し た アグ リ
ッパ 二 世 の 父 、 ヘ ロ デ 大 王 の 孫 )。 ア ウ グス ト 皇 帝 につ いて は 、タ キ ト ゥス の
著したラテン古典文学の最高傑作の一と言われる伝記がある。このヘロデはあ
のベツレヘムの嬰児を殺戮したヘロデの孫であって、バプテスマのヨハネの首
を斬った分封の国守ヘロデの甥であった。彼はロマにおいて人となり、こゝで
譲り受けていた財産を大尽遊びに費してしまったが、その間に後に有名なカリ
グラ帝となったガイ ウス帝の知遇を得た。そしてこのガイウスがテベリヤ帝の
死後、帝位に登るに及んで、彼はその親友アグリッパをその祖父の管轄の一部
分であった小王国に封じたのである。この小王国は後にクラウディオ帝によっ
て拡張されて、最初のヘロデ王の統治していた全範囲に及ぼされた。したがっ
てヘ ロデ は 今やその勢力 の絶頂 にあり、そ の 生 活 は 栄 華 を 極 め て い た ① 。
この殺戮を起した原因については何ら暗示する所がない。一方これを刺戟した
らしい遠因は無数に考えられるため、色々な憶測がなされているが、みな失敗
に終 って い る 。私たちが考えるべきもっと重要な問題は、十 二人し かいな いその
- 206 -
使徒たちの中、この世界の教会から、神が大切な一人の使徒を容易に取り去り
給うことが出来たという一つの事実である。このヤコブの死はイエスの死後僅
か約十年頃におこったものである。神が突然残酷な方法で彼の生命が絶たれる
ことを許し給うた時、ヤ コ ブ は 彼 と 彼 の 同 僚 な る 他 の 使 徒 たち に 与 えら れ た
キリストのあの委任の命令を、まだほんの一部分しか成就していなかったに違いない。
これは神の途は測り難しという言い古された真理の、如何におどろくべき一
例であろうか。そしてまたこの時その頭を首斬台の上にのせたヤコブは、かつ
てイエスがヤコブ とその兄弟の野心ある質問に対して預言をもって答えられた
あの御言(マタイ20:20-28)を、如何に明白に思い出したことであろうか。この
時こそ彼は、イエスの御国においてイエスの右に坐するということが何を意味
するかということを、今更のように深く理解したに違いない。
①彼の生涯について更に詳しく興味ある記事は、ヨセフスの「古代史」18,19章に見られる。
最 初 の 殉 教 の 使 徒 ヤ コ ブ の 死 は 、 エ ル サ レム の 教 会 に 言 う べ か ら ざ る 悲 し み を 惹 起 し た
に違いない。霊感なき史家たちにとっては、それは数頁にわたる流暢な記事のネタになっ
たかも知れない。しかるにこの事を記すに当って、ルカが英語の十一語(現行邦訳十七字)
に 訳 さ れ る ギ リ シ ヤ 語 の 七 語 の 一 句 で 片 づ け て い る の は 、 如 何 に 解 すべ き で あ る か ?
記者の心に何らかの超自然的制止が働いたことはたしかである。そしてそれはたゞ霊感と
いうことによってのみ説明されよう。
3-5節
人は奸悪な計画を行うに当って、自分ひとりの場合は良心のために
憶病になるものであるが、一たび多数の人々の拍手喝采を得るときは忽ち勇敢
になって、どんな狂暴な行動にも突進するものである。アグリッパもおそらく
この流血を行おうとした時、一時は遅疑逡巡したにちがいない。それはエルサ
レムでも今までどの迫害者も手をつけたことのない恐ろしい罪悪 -- 使徒殺
害である。しかしその彼も今民衆がこの企みに雷動して拍手した時には、手を
下すに躊躇しなかった。
12:3
そ して、 それ が ユダヤ 人 に 喜ば れる の を見て、更に ペト ロ をも捕ら え よう と
した。それは、除酵祭の時期であった。
12:4
ヘ ロデはペ トロを捕 らえ て牢に 入れ、四人一組の 兵士四組に引き渡して監
視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。
12:5
こ うして、ペト ロは牢に入 れられていた。 教会では彼のために熱心 な祈りが
神にささげられていた。
- 207 -
ヘロデ王は明かに、先にサウロの指揮の下に実行したパリサイ人たちと同じ
ように、エルサレムの教会をあわよくば壊滅せんものとはかっていた。しかし
彼はパリサイ人たちがしたように教会員たちを迫害するかわりに、指揮者たち
の首を斬ることによってその目的を達しようとしたのである。彼は今使徒の一
人を首斬り、又十二人の首領と目される人物を獄にとじこめて、いつでも処刑
出来る用意の出来た時、必ずやその新手段の智慧を自ら祝福したにちがいない。
彼はおそらくかつて十二の使徒たちが投獄されたことがあること、しかも守衛
の知 ら ぬ 中に 夜間 脱 獄し た事 件 (5:17-23)を 知っていたで あろう 。それで彼は
前の時よりも一層監禁法を厳重なものにしようとし、ペテロをとじこめる牢獄
も単に鉄の門だけに満足せず(10)、十六人の兵卒からなる監視をつけ、その幾
人か をそ の 鉄 門 の 前 に(6)、他 の 幾人 かを そ の 鉄門 にペテ ロを監 禁した 牢房の
間の要所要所に配置した。しかもなおあきたらぬ彼は更に二人の兵卒につけた
二本の鎖によってペテロをつないだから、ペテロは夜は二人の兵卒の間に眠ら
な け れ ば なら なか っ たわ けで ある (6)。こ の 三 つの 予防策 を講じ た後 、 彼は多
分 祭司 長 たちに 言った であろう、「囚人という ものは どういう 風に繋いでおく
ものか、わしが教えて差上げよう。これでこの男が逃げられるなら見たいもん
ですわい」と。
今教会がペテロのために捧げる熱心な祈りにおいて、兄弟たちはただ、あの
最 初の 迫 害の際 にお ける使徒 たち自身 の例 (4:23-30)に ならう外はなか った。
私たちは彼らがペテロの釈放のために祈ったのではないと考えてよかろう。そ
れは彼らがこのことは何か奇蹟的な神の御手が差し伸べられない限り全く不可
能であることをよく知っていたからである。しかも神がヤコブをこの方法で救
いたまわなかった以上、ペテロも救助される筈はない、と考える外はなかった。
更に また 後にペテ ロ が実際 に 救出 された時に 、私たち が13-15節 にみる よう
に、彼らは既にペテロ生還の希望を全く棄てていたため、はじめは彼の帰って
来たことを信ずることが出来なかった。もし彼らがペテロの救出を祈り求めて
いたのであったならば、容易に彼の生還を信ずることが出来た筈である。この
ような事情のもとで彼らの神に対する祈願の内容が、彼の救出ということ以外
の何かであったのは不思議ではない。おそらく兄弟たちは、ペテロがかつて非
常な危険に臨んだ時に取乱して失敗したことを思い出し、今斬首台に臨まんと
している兄弟ペテロのために、彼が最後の瞬間に信仰と勇気を棄てることがな
いよう、ステパノ、ヤコブの如く勝利の死を以て主の栄光をあらわすようにと、
祈っていたと考えられる。
- 208 -
6-11節
悲しみと不安の中に時は刻々とすぎ、遂に過越の最後の夜がやっ
て来た。そしてこの夜こそは兄弟たちにとって最も悲痛な夜であった。一方ペ
テロは明日は生命はないものと覚悟を決めていたにもかゝわらず、彼を繋いで
いる二人の兵卒と同じ位ぐっすり熟睡していたらしい。
12:6
ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつな
がれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。
12:7
すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわ
き腹 をつつ いて起こ し、「急いで 起き上が りな さい」と言った。 する と、鎖が彼 の手
から外れ落ちた。
12:8
天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおり
にした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。
12:9
そ れで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが 現実のこ
ととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。
12:10
第 一、第二の衛兵所を過ぎ、町 に通じる 鉄の門の所まで来ると、門がひと
りでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。
12:11
ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使
を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救
い出してくださったのだ。」
この救出がなされている間、ペテロが自分は夢を見ているのだろうと思った
こと 、 ま た我に返って空 を仰いだ 時、空に月と星を見 ① 、あたりを見まわして
町の家々を見てからやっと、本当に自分が救出されたことを知ったのは不思議
ではない。これよりも思いがけぬ不可解な奇蹟は未だかつて地上におこったこ
とはなかった。
①過越の羊を食べたのはちょうど満月の時、即ち太陰暦の月の十四日と十五日の間の夜
に あ た り 、 こ の 救 出 は そ れ よ り 七 日 目 の 夜 で あ っ た か ら 、 月 は 満 月 後 わず か に 一 週 間 、
し か も こ の 時 は 雨 の 降 ら な い 時 季 で あ っ た か ら 、 月 が はっ き り と 見 え た に ち が い な い 。
6.ペテロ脱出してエルサレムを去り、守牢死刑になる(12-19)
12-16節
ペテロは我に返るとやがて何をなすべきかを決心した。マリヤ
の家が弟子たちの家の中でも一番近かったのか、またこの家に住んでいた人々
が一番心安かったためか、何れにせよ彼は直ちにこの家に向った。
12:12
こ う分 かるとペトロ は、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。
- 209 -
そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
12:13
門の戸 ① をたたくと、ロデという女中 ② が取り次ぎに出て来た。
12:14
ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、
ペトロが門の前に立っていると告げた。
12:15
人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だ
と言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。
12:16
しか し、 ペトロ は戸をた たき続 けた。 彼 らが 開けてみる と、そこ にペ トロが
いたので非常に驚いた。
①『門の戸』は英語で“door of the gate”であり、全然無意味な表現のように見えると
おりなのである。パレスタインでは大きな家の入口には、荷を負った動物が通れる位の大
きな門の扉があったが、この大きな扉を閉じた後はこの扉に人一人をやっと通す位の小
さ い 戸 が あ って 、 人 は こ ゝ か ら 出 入 し た も の で あ る 。 日 本 の 古 い 家 、 或 は 中 国 の 家 屋 に
はこれと同じものが多い。
②こゝに婦女と訳されているギリシヤ語
παιδίσκη
は、普通若い女奴隷を意味する。
このロダという婦女が奴隷であったにせよ、傭人であったにせよ、彼女はペテロの身に
ついてはこの家の家族と全く同じ気持で心配していたように見える。
このマリヤが第二福音書記者のマルコの母であることは言うまでもないが、
彼女はまたバルナバの伯母又は叔母であった(コロサイ 4:10)。彼女は明かに経
済的には相当豊な寡婦であって、その広い家は教会の兄弟たちのよく集まる集
会所になっていた。しかしこの夜この家に集っていた数多のものは、或る学者
たちが想像しているように全教会であったわけではない。なぜならこの頃には
既に、教会の人数は甚だ多数になっていたから、とても一軒の個人の家に集ま
ることができた筈はない。これは多分、ペテロの生命も今夜が最後というその
夜、兄弟たちが共に祈るために夫々分かれて集った多くの家の中の一つであっ
たろう。度々迫害を受けて来た教会の兄弟たちにとっても、この夜ほど厳粛で
沈痛な夜はなかった。マリヤの家にいた人たちがロダの言葉を容易に信じよう
と しな か った こ と、 ま た その 眼で実 際 に ペ テ ロ を 見 た 時 の 彼 ら の 驚 き は 、
このような事情の下にあっては当然のことである。
また市内に同じように集っていた他のグループの兄弟たちも、この夜おそく
或は翌朝この知らせを聞いた時には、彼らと同じように自分の耳を疑ったであ
ろうことは言うまでもない。彼らが彼の顔を見るまで『それはペテロの御使で
あろう』と考えたのは、当時の人たちが人は各々自分の天使を持っていると考
えた思想に基くものであるが、実 は こ の 考 え は 聖 書 的 な 根 拠 を 持 って い る 。
(マタイ 18:10、 ヘブル1:14)。し かし この天使 がその被保護 者と同 じ姿、同じ
声で現れることがあるという考えは、明かに迷信である。
- 210 -
17節
天使によるペテロの救出は、ペテロが敵の手から逃れることが神の御
意志であったことを明かに示すものであったから、ペテロは直ちにこの事の実
行にとりかゝった。彼がマリヤの家を訪ねたのは、兄弟たちを心配から解放す
るためであった。しかし予定の計画を成就するためには外部には絶対秘密を要
したから、彼はマリヤの家にはほんの一時しか留らなかった。
12:17
ペ ト ロ は 手 で 制 し て 彼ら を 静か に さ せ、 主 が 牢 か ら 連れ 出 して くだ さ っ た
次 第を説 明し、「 こ の こ と を ヤ コ ブ と 兄 弟 た ち に 伝 え な さ い 」 と 言 っ た 。 そして、
そこを出てほかの所へ行った。
隣人たちを起してこの事をさとられれば、官憲に密告される恐れがあったた
め、沈黙が必要であった。しかしヤコブと他の兄弟たちには、ペテロに対する
心痛を朝までにしずめるため、直ちに通知しなければならなかった。ヤコブの
名がこゝにあげられている書き方から判断すると、このヤコブは年長のヤコブ
が死んだ後ペテロの留守中、エルサレム教会の最も主要な地位についていたこ
とを示している。このヤコブはおそらくアルパヨの子のヤコブではなく、主の
兄 弟 の ヤ コブ で あ っ たと 考 え る 可能 性 が 大 であ る ① 。「 ペ テ ロ 他の 処 に出 で行
けり」というその 『他の処』は、 勿 論 エ ル サ レム よ り 他 の 処 で あ っ た ろ う 。
なぜならエルサレム市内では、もはや安全な隠れ家を見出すことは不可能な状
態であったからである。彼はもし兄弟たちが、ペテロはどこへ行ったかと問い
正された時に、偽ることなくはっきり『知りません』と答えられるようにとい
う親心から、わざと行先を告げることを避けたのであろう。またこの事を記し
ているルカ自身も、この記事を書いた時までにペテロが何処へ行ったかを知っ
ていたということも、決して確かではない。恐らくペテロが再びエルサレムの
町に姿を現わした時には、彼の味方である兄弟たちもまた彼の敵たちも、同じ
ように好奇心にかられて、彼が一体どこに隠れていたのかを知りたがったにち
がいない。しかしその時でさえ彼は慎重にこのことを秘密として自分だけの胸
におさめておいたのであった。
①こ のヤコ ブは パウ ロが改 宗して後 、初めて エル サレム を訪れ た時 にペテ ロと 偕に いた
ヤコ ブ (ガ ラ テヤ 1:19)で あ り、 ま たガ ラテ ヤ 書の 文脈 の示 すよ うに、 割礼 問題に 関す る
会議の席上、ペテロ及びヨハネと共にいたヤコブ(同2:9)である。従ってこの二つの記事
の間にはさまって名のあげられているヤコブはやはり同じヤコブであったと考えるのは、
公 平 な 推 定 で あ る 。 使 徒 ヤ コ ブ (ア ルパ ヨ の 子 )に つ いて は エ ル サ レム 教 会 の 四 散 以 来 、
使徒行伝は何も語っていない。
- 211 -
18、19節
朝の光がさし始めると共に、兵卒たちの間に大混乱がおこった
ことは言うまでもない。これはまずペテロを繋いでいた二人の兵卒に、次にす
べての兵卒に及んだ。ヘロデもまた愕然として無念がったにちがいない。彼は
今やっと自分が使徒を禁錮しておく技術に関しては、先の祭司長たちに何らま
さる所のないことを知った。
12:18
夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、
大騒ぎになった。
12:19
ヘ ロデ は ペト ロ を捜 しても 見 つ から な いの で 、番兵 た ち を取 り 調 べ た う え
で死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。
ロマ軍法の明文によれば、これらの兵卒の処刑は止むを得ないことであった。
門前に立っていた兵卒が取調べを受けたとするならば、彼になし得た一の答は、
「我々は徹夜でその位置を守り、眼を覚しておりましたけれども、誰もこの門
を出入したものを見かけませんでした」ということであったろう。鉄門の鍵を
保管していた者が呼ばれたとしても、彼は正直に「自分は鍵を一晩中手からは
なしませんでしたし、いわんや錠にこれをさし込んだ覚えはありません」と言
った で あ ろう。外 の門 とペテロの監房 との間に配置 された二人の番兵は 、「昨
夜中、自分たちの前を通った者は絶対にありません」と断言することが出来た
で あろう し、ペテ ロ と 一緒 に鎖 につな がれて いた二人 の兵卒 は、「自分 たちが
寝た時にはあの男はたしかにこゝに居り、鎖も異常なかったのですが、眼をさ
ました時にはもう居なかったのであります、以上」と答えるだけであったろう。
勿論これらの報告は何れも驚くべき奇蹟が行われたのでなければ、真実であり
得ない。ヘロデにとってはこの奇蹟を認めるか、もしくはすべての兵卒が共謀
して囚人を逃がしたと頑固に言い張るか、この二つしかなかったわけである。
この二つの考えのディ レンマの間に立って、普通の人ならば後の考えは採用す
ることが出来ない。第一、兵卒たちはこの囚人を逃がせば自分たちの首があぶ
ないということを、百も承知していた筈である。従ってヘロデにとっても奇蹟
が本当に行われ、兵卒たちの報告がみな真実であったことを疑うということは
とても出来ることではない。しかるに彼はどこまでもこの奇蹟が事実であった
ことを否定しようと決心し、色々考え悩んだ末、十六人の罪もない兵卒たちを
殺す方の道をえらんだのである。しかし事実が知れわたった時、エルサレム市
内にはもはや事の真相を疑う者は一人もなかった。この残酷なる卑劣漢がやが
て自ら犯した悪行の地を去って、カイザリヤに居を移したのは無理もない。
7.ヘロデの死とバルナバ・サウロの帰還(20-25)
20-23節
ルカはこの殺人を犯した王ヘロデの伝記を追って、彼の死のさ
まを記録している。
- 212 -
12:20
ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住
民た ちは そろ って王を訪 ね、その 侍従 ブラストに 取り入って和解を願い出た 。彼ら
の地方が、王の国から食糧を得ていたからである。
12:21
定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、
12:22
集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
12:23
するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかっ
たからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。
ツロ とシドンの 二市はその食糧を全部ヘロデの国に頼っていたわけではない。
なぜなら彼ら自身の国にも穀物は幾らか産したし、また穀倉エジプトもさほど
遠くなかったからである。しかしピニケの領土はたゞ海岸に沿う狭い山地だけ
であったため、この二大市の人口をまかなうには全く不足であった。しかも穀
物を遠路エジプトから輸入するよりは、隣国から輸入した方が安上りである。
このため隣国との友好は政策上望まれた。この友好を求めるためにカイザリヤ
にやって来たのは使節の小さな一団ではなく、夥しい数の市民たちであった。
彼ら が王 の内侍の臣(大蔵大臣?)ブラスト に取入ったというのは、おそらく贈
賄行為をしたのであろうし、またその金の一部分は彼を通じて王の手に達した
と考えることも出来る。ヨセフスはヘロデの死の事件について更に詳細に記し
ているが、こゝに『定めたる日』と記されているこの演説の日は、ヘロデがク
ラウディオ皇帝の名誉を祝する祝祭日であったこと、またこの時ヘロデがまと
っていた王の服は全部銀で織り成された衣であり、朝日にキラキラと輝いてい
たと言っている。彼はまたヘロデがこの時激しい腹痛に襲われ、五日の間苦悶
し続けたと書いているが、この記事の内容に幾らかの細目を加え、またルカの
記した或事実を落としているけれども、決してこゝに記された事実と矛盾する
ものではない(「古代史」19:8)。こうして普通ならば来世に保留される筈の神
の審判が、このとき突然罪人の上に下ることによって、後の世まで悪人に対す
る神の警告、善を行う人に対する奨励となったのであった。
24節
エル サレムに お いて 殺人を 犯して 後 い く ば く も な く して 起 っ た こ の
ヘロデの摂理的死亡が、人々の心に深い印象を与えたのは当然のことであった。
従って私たちはルカが
12:24 神の言葉はますます栄え、広がって行った。
と書いているのを見ても少しも驚かない。こうして御言は人々が神をますます
畏れることによってひろまり、真理への改宗者は日と共に増し加わっていった。
キリストへの信仰を破壊しようとする新しい勇敢なおそろしい企みも、かえっ
てその信仰をますますひろめる結果となって終ったのである。
- 213 -
25節
私たちが今読み終ったヤコブの死、ペテロの投獄、ヘロデの惨めな死
といった一連の事実は、ちょうどバルナバとサウロが貧しい聖徒たちへの使命
を果すためにエルサレムに到着したという記事と、彼らがアンテオケに帰った
という記事の間に挿入されており、著者はこの記事の順序によって、これらの
事件がこの間に起ったものであることを知らせようとしているように見える。
バルナバとサウロがエルサレムに上った後、ちょうどペテロの投獄中に行われ
た過越祭に参加したかどうか、それは記されていない。容易に考えられること
は、彼らは多分身近の危険のために一時エルサレムを離れていたであろうとい
うことである。しかしヘロデがエルサレムからカイザリヤに移転してからはこ
の危険はなくなったから、彼らはアンテオケに帰る前にエルサレムの町にもう
一度入ったのであろう。しかし彼らがそこでペテロ或は他の何れかの使徒に会
うことが出来たかは、すこぶる疑わしい。
12:25
バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれる
ヨハネを連れて帰って行った。
こゝで私たちははじめて、ペテロが天使によって救出された時、先ず最初に
たずねた家の女主人マリヤの子、マルコに紹介される。多分彼はあの忘れられ
ぬ一 夜 、 母の 家に い た で あ ろう。 彼は 福音に よる ペ テロの 子であ っ た(Ⅰペテ
ロ5:13)。彼はあの過越 の 夜におこっ た事件を深く心 に印象づけら れたにちが
いない。彼が後に書いた福音書の中では、彼は自分自身の経歴については何ら
語っていないが、私たちはまたこの使徒行伝の後の方で一度ならず後に再会す
るであろう。アンテオケに帰ったバルナバとサウロは、彼らが派遣された本来
の使命達成の報告の外に、以上の極めて驚くべき事件のニュースを持って帰った。
使徒行伝の第二部はこゝで終り、ルカはこれを以て福音の一般的な伝播を説
き終る。そしてこゝから以後ルカの記述は使徒パウロの生涯中のおもだった事
件に限られ、ひとりの人の伝記の性質を帯びる。
- 214 -
第三部 パウロの異邦人伝道
(第13章1節-21章16節)
第一項
パウロの第一伝道旅行(13章-14章)
1.バルナバとサウロ、御業のために聖別される(13:1-13)
1節
使徒行伝のこの部の冒頭の一文は前の部と密接に連絡して、バルナバと
サウロがアンテオケに帰った所から始まっている。しかしこゝに新たに紹介さ
れる 主 題のた めに 、 その文体 ① はまるで新しい別な物語の冒頭のように見える。
13:1
アンテ ィオ キアで は、そ この 教会に バル ナバ、ニゲルと呼ばれるシメ オン、
キレネ人のル キオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者
や教師たちがいた。
① 著 者 の 文 体 が こ の 13章 で突 然 変 って い る と い うこ と は 、 こ ゝ に 全 く新 し い 話 題 が 導 入
されて いる こ とか ら 充分 に説 明 される 。従 って Meyer が挙 げて いるよ うな 仮説(その 中
一つは彼自身のものである)を必要としない。
預言者と教師とを区別する線は 新 約 聖 書 の 中 で は 明 瞭 に 引 か れて い な い 。
たゞ私たちの知る限りでは前者が霊感によって語ったのに対し、後者は或時は
霊感 に より 或時は霊感 によ らずに語ったと いうことで ある。『その 頃エルサレ
ムより預言者たちアンテオケに下る。その中の一人アガボというもの……』と
いう ルカ 11:27の記事も、 こゝにあげられてい る預言者たちを含んでいたかも
しれない。
こゝに記された五人の人名の順序は、多分彼らの名声の順序であろう。バル
ナバは都のエルサレムから派遣された人であり、またエルサレムでも目立った
存在であったから、当然最重要人物と目されていたのに対し、一方サウロはこ
の時はまだ最も人に知られぬ無名の存在であった。シメオンはその名の示す通
り生 粋 のユダヤ 人である。 彼のニゲル(黒人)とい う別名は決して彼がアフリカ
のユダ ヤ人 ① であったと いう結論を 正当化するものではないが、何れにせよこ
の名前が彼の顔色をあらわしていることは否めない。大体シメオンという人名
はユダヤ人の中にはざらにあったから、何らかの方法で何々のシメオンという
風に区別しなければならなかった。このシメオンも多分その顔色が人並以上に
黒かった為に黒人のシメオンと呼ばれたのであろう ② 。アンテオケに来た説教者の
- 215 -
第 二群 の ある者 がクレネ の人 であっ た(11:20)ことか ら 、 クレネ人ルキオもお
そらくこれら教会設立者たちの一人であったろうということが容易に想像され
る。マナエンはマナヘムというヘブル名のギリシヤ読みである。彼は彼の母が
国守ヘロデの乳母であったため、幼い時から乳兄弟として育てられ、その後も
生涯を通じてこの貴公子と親交をもっていたらしい。そしてまたルカもバプテ
スマのヨハネ及びイエスに関するヘロデの思想と言葉の幾分かをこのマナエン
か ら 聞 いて前 の 書 に 記録 し た (ルカ 9:7-9)と 考 え るこ と も 、 あな が ち あり 得な
いことではない。
①『ニゲルという名称から考えると、彼 は ア フ リ カ の 改 宗 者 で あ っ た か も 知 れ な い 。』
(Alford,上掲書)。
②アメリカでは同じ名前の人が二、三人近所に住んでいる時には、その人たちの顔色又は
髪の毛の色によって夫々名前をつけて、例えば Red Tom, Black Tom という風に区別
するというのが、普通の習慣になっている。
2、3節
シメオン、ルキオ、マナエンの三人は、バルナバとサウロがエルサ
レムに派遣されていた間、アンテオケ教会の主導的教師の任務を托されていた
が、今再びこの仕事が帰って来た二人の上に委ねられた。
13:2
彼 ら が 主 を礼 拝 し 、 断食 し てい る と 、 聖霊 が 告 げた 。 「 さ あ 、バ ル ナ バと サ
ウロをわた しのた めに選び出 しな さい。 わたしが前 もって二人に 決めておいた 仕事
に当たらせるために。」
13:3
そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
こゝで彼らが『主に事え』ていたというのは、決して公開礼拝を指すのでは
なく、むしろ彼らが兄弟たちの乏しき者に対して施済の仕事に事えていたこと
を指す。なぜなら、この言葉の原語はクリスチャンの奉仕に関して用いられる
時に は、 常にそういう意味をあらわすからである ① 。即ちこ の『主に事え』る
ことは、彼らが常に日々行っていた仕事であった。彼らがこの時、たまたまど
ういう理由で断食していたかということについては、私たちは何も知ることは
出 来 な い 。 し か し この 断 食 と い う こと に つ いて嘗 て 主 が 教 え 給 うた こ と (マタ
イ9:15)から 考えて、 多分 彼らの 上 にふりかゝった何 らかの苦難の結果であっ
たと考えてよかろう。
λ ε ι τ ο υ ρ γ έ ω( 事 え る ) と い う 動 詞 、 及 び λ ε ι τ ο υ ρ γ ι α( 事 え る こ と ) 、
λ ε ι τ ο υ ρ γ ο ς (事える者)という名詞がこのような意味に用いられていることは、ロマ
①
- 216 -
15:16,27、Ⅱ コリ ント9:12、ピ リピ 2:17,30に 明かであ る。 英語の liturgy(礼拝式 、祈
祷 書 ) と い う 単 語 が こ の 言 葉 か ら 出 て い る こ と は 、 昔 か ら 現 代 ま で の す べ て の li
turgies が如何に聖書的な考えから離れたものであるかを示すものである。
バルナバとサウロとを選び別てという聖霊の命令は、この二人以外の三人に
対して命ぜられたにちがいない。そして明かに彼らによってこの二人に伝えら
れ たの で あ ろう 。『 我が召 して行は せんと する 業』という句 は、彼らが二人と
もこの時に先立って既にその事業のために召されていたことを暗示する。パウ
ロがこの召命を嘗てあの改宗の時に主から直接の委任によって受けていたこと
は、後に私たちが彼自身の口から知る通りである(26:16-18)。しかしバルナバ
の召命に関しては、それが何時であったかを私たちは知ることが出来ない。私
たち はサ ウロがこ の 時まで 異 邦 人とユダヤ人 の両方に福音 を宣 べ伝えていた
- - 少 くと も コ ルネ リ オ が ペテ ロ によって バプテス マを 受け たこ と を聞 いて
以来 -- と考えてよかろう。しかし彼はこの時までは異邦人に対する伝道と
いうことを、彼の主な事業としてはいなかった。私たちはこゝで一つのことに
注意したい。それはこの二人をこの御業のために選び別つという考えが兄弟た
ちの発案ではなく、特に聖霊によって明白に示されたものであったということ
である。
この場合の断食・祈祷及び按手の目的は明かに前後の文脈にあらわれている。
即ちこゝで彼らが行ったことは実際に行うようにと命ぜられたことであったに
違いない。そして彼らが命ぜられたことはこの二人を示された御業のために選
び別つことであった。従って断食と祈祷と按手とは彼らを選び別つための方法
であった。これは聖霊の導きの下にある人たちが人を選び別つ場合にふさわし
い儀式とされていた。そしてその後いつも同じような場合には、例えば或一人
の兄弟を御言の伝道のために選び別つ時、或はこのバルナバやサウロと同じよ
うな既に経験を積んだ説教者を、他の新しい事業の分野に選び別つ時には、そ
の事業に関係している人たちが断食と祈祷を行った上で、選ばれる人の上に手
を按くという事がふさわしい。この場合選ばれる者の職務よりも高等な職務を
帯びた人たちだけが按手を許されるべきであるという近代の思想は、非聖書的
教権の案出したものであって、何ら新約聖書に根拠を持つものではない。この
実例においては、バルナバの上に手を按いたのは教会の中でもバルナバより尊
敬されていない三人の人たちであり、またパウロの場合には、この召されてイ
エス・キリストの使徒となった人の上に手を按いたのは使徒でない人たちであ
り、私たちの知る限りこの教会の長老でもなく単に教師、預言者にすぎない人
たちであ った。この 事件は 明白に この儀式(按手)に関する他 の事実、即ち按手
が霊的な恩恵を与える魔術的な力を有するという迷信的な考えは誤りであると
- 217 -
いうことを証明する。なぜならば、バルナバもサウロも、シメオン、ルキオ、
マナエンが彼らに与えることの出来た恩恵を一つも欠いていなかった筈だから
であ る。 事実この儀式 (現行英訳 聖書では ordination とい う言葉はもう使わ
れて い な い)は 単 に 御業 に 事 える た め に 特定 の 人 を選 んで 神に 推薦 す る厳 粛な
方法 以 上の 何もので もなか っ た。この問題 は後に再びテモテに 関して使徒26:
1-3で私たちの前に現れるであろう。
この手続に関してはこゝでは教師と預言者だけが挙げられているが、私たち
は彼らがこの手続を自分たちだけでこっそり執り行なったと想像してはならな
い。この按手の儀式は恐らく教会の面前で行われたであろう。また彼らが聖霊
の命令を受取ってから使徒たちには旅行の準備をする時間、教会には通知を受
ける時間が許されたであろう。これらのことから考えるならば、この按手に関
連して行われた断食は、決してそれま でこれらの教師・預言者たちが行なって
いたようなものではなくて、この場合のために特別に命ぜられたものであった
ことがわかる。
2.クプロにおける伝道(4-12)
4、5節
サウロが今開始したこの旅行は、かつて行われた如何なる個人或は
団体の旅行にもまして重大な旅行であった。従ってこの旅行は実に使徒行伝著
者がその記録にさいた紙数に価し、またいやしくも人類の進歩に興味を有する
すべての人の研究に価するものである。
13:4
聖 霊 によ って送り出 さ れたバル ナバとサウ ロは、セ レウ キアに 下り、そこ か
らキプロス島に向け船出し、
13:5
サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、
ヨハネを助手として連れていた。
セル キヤはアンテオケ から25.7kmはなれた同市の海港であり、当時は多数
の大船舶の碇泊する大港であった。というのは、アンテオケがその岸にのぞむ
オロンテス河は甚だ浅く、小船を通ずることは出来たが吃水の深い船は通るこ
とが出来なかったからである。彼らはこゝで多分商船に便乗して、クプロ島の
東端サラミス ① の港に上陸した。
①サ ラ ミ ス は そ の 後 、戦 争 と 地 震 によって 破壊 さ れ、 そ の位 置 は現 在 の Famagosta の
町の約6.5km北に残っている廃墟によってわずかに知られるのみである。
- 218 -
彼らが今乗出した大世界は第一歩を印する土地としてこの島をえらんだのは、
一つにはおそらくこの島がバルナバの生地であり、バルナバの旧知の人々のい
ることが伝道に有利であるということからそうしたのであろうが、また他方こ
の島には多数のユダヤ人会堂があったため、これらの会堂を伝道の事業の出発
点にすることが出来ること、また既にこの地には福音の種がまかれて幾らか果
を結んでいたこと(11:19,20)もこの決定を大いに左右したことは否めない。
バ ル ナバ とサウロ の助手としてこゝに名のあげられている ヨハネは12:25の
『マルコと称ふるヨハネ』である。彼はバルナバとサウロのようにこの業のた
めに選び別たれたのではなかったが、自ら進んで二人の助手として同行するこ
とを願い出たのである。彼の仕事は若者として出来る限り先輩に仕え、二人を
助けることであった。
ルカはサラミスにおける伝道の成果については全く一言も語らず、私たちに
甚だしく大きなものではなかったろうという想像にまかせている。おそらく二
人の滞在中には何ら驚くべき事件もなかったにちがいない。
6、 7節
これ ら の 説教 者 たちが 約160kmはなれ た島の 反対側 の端 に 到着す
るまで、記者はクプロにおける彼らの働きについて何の事件をも語っていない。
13:6
島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスとい
う一人の偽預言者に出会った。
13:7
こ の男は、地方総督 セル ギウス・パウルス ① という賢明な人物と交際してい
た。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。
パポスは同名の最初の都市、即ちギリシャ神話のヴィナスの生地とされてい
る所ではなく、この町が荒廃に帰した後におこって同じ名をつけられた小市で
ある。今では Baffa 或は Bafo と呼ばれる名もない小村になっている。この
テキストにあらわれる時代には、この町は島の最西端にあったにもかゝわらず、
ロマ総督府の所在地になっていた。
①近代の懐疑論者たちは久しい間、ルカがこゝで国守(propraetor)と呼ぶべきセルギオ・
パウロを総督 (proconsul)と呼んで いることについて誤りを指摘し、後者にあらず前者こ
そこ の 島 の 主 宰 者 の 負う ロ マ 的 称 号 であ る と主 張 し つ ゞ け て 来 た 。 ま た 信 者 もい た ず
ら に 、 前 者 が 普 通 の 称 号 で あ っ た け れ ど も 必 ず 例 外 も あ っ た に ち が い な い か ら 、ル カ の
記 事 は 信 ず る に 足 る と い う こ と を 主 張 して 来 た だ け で あ っ た 。 Farrar は 言 う 、『この
疑問を永久に解決すべく、その当時の貨幣と碑文が Curium 及び Citium で発見され、
- 219 -
その中で総督という称号が Cominius Proclus, Julius Corduo 及び Annus Bassus に冠
せら れて い る 。 こ れ ら の人 々 は ど う 考 えて も セ ル ギ オ ・ パ ウ ロ の す ぐ 前 の 先任者或はす
ぐ彼の後任者でなければならない人々である』(Life of Paul, Excusus, XVI)また更にその
後 M. de. Cosnolo はこの島の Soli において『総督パウロ』という刻印のある貨幣を
発見した(Cuprus, P.125)。こうして初めは単にルカが信ずべき歴史家であるという根拠
だけから弁護されていたことは、今や事実の証明するところとなったのである。
セルギオ・パウロが既に偽預言者をかゝえていたことから考えて、ルカが彼
を『慧き人』と称しているのは過賞であると読者が思うことのないように、私
たちは当時の政治家や将軍たちが、大事のある度に神託又は卜筮にはかる習慣
であったこと、また往々来らんとする禍福の徴候を説明することが出来ると信
ぜられていた人をかゝえ る習慣を持 って い た こ と を 知 ら な け れ ば な ら な い 。
セルギオ・パウロは恐らくユダヤ人の中に真の預言者のいることを知っていた
から、他の国人を用いないでユダヤ人中の預言者と呼ばれていた人を用いたこ
とは賢明であった。そして今イスラエルの神から新たな黙示を得たという二人
のユダヤ人がパポスに来た時にも、彼の賢明さは直ちに彼らを召さしめたので
あった。このような考えを持った人がバルナバとサウロの説く所を聞いて益を
得たことは当然である。
8節
バルイエスは、バルナバとサウロが総督を説得することに成功するなら
ば、自分の総督に対する勢力も終を告げ、また彼がこれまで詐って見せかけて
来た魔術の利益も終ることを直ちに感じたから、全力をつくしてこの二人を撃
退しようとした。
13:8
魔術師エリマ― -彼の名前は魔術 師という意味である ① ―-は二人に対抗
して、地方総督をこの信仰からと遠ざけようとした。
彼が用いた弁論と誹謗の方法がどんなものであったかを、私たちは想像する
ことは無駄である。その方法がどうであったにもせよ、パウロは直ちに彼が自
ら正しい真理であると知っている事実に反抗する極悪の悪漢であることを見抜
いた。おそらくこの時までは一行の主導者であったバルナバが語る役を引受け
ていたであろうが、今サウロは言葉ではあらわせない決定的なものの必要なこ
とを見、こゝに未だ嘗て見ない異常な事件がつゞいておこった。
①むしろ『その名を直訳すれば』である。エルマ Elymas なる名は或人はアラビヤ語、
或人 は ア ラム 語 (Grimm's Lexicon)で あ ると 想像 して いる が 、ル カは こ の言 葉 をこ ゝ に
魔術師と訳されているギリシャ語に直訳したのである。
- 220 -
9-12節
13:9
13:10
パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義
の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
13:11
今こ そ 、 主の 御手 はお前の上 に 下る。 お前は目が 見 えなくな って、時 が来
るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっ
かり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。
13:12
総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。
使徒が人に危害を加えるために行ったという奇蹟は、後にも先にもこれがた
った一つの例である。これはちょうどあのエジプトにおけるモーセの場合と相
通ずる。モーセはパロ王の魔術師に対する信任を打砕くためには、どうしても
彼らの上に不可抗的な苦しみを投げることが必要であることを知った。サウロ
も ま た こ の 場 合 バ ルイエ ス が 卑 劣 な 山 師 で あ る こ と を 総 督 に 悟 ら せる た め に
は、まずこの男の正体を暴露した上で、彼を盲目にすることによってそのイン
チキを証明することが一番の早道であることを知ったのである。彼が驚きあわ
てる傍観者たちの中を手さぐりでよろめきながら、手をとってくれる者を叫び
求めた時、彼が今まで詐って見せかけて来た虚偽と不正は白日の下にさらされ、
神から遣わされた使徒たちの権威は明かに立証された。この奇蹟は総督には期
待された通りの効果を与え、同時にバルナバとマルコも、集っていた他の人た
ちのように畏れを抱かなかったにせよ、同様に少からず驚いたに違いない。こ
の総督が果してこの信仰につゞいて正しい服従を以てそれを完うしたかどうか
について、ルカは知らせてくれないが、この省略はむしろ総督が服従しなかっ
たことを示すものであろう。この異教徒の高官にとっては、クリスチャンにな
ることをはゞむ障害は、殆ど打克つことの出来ぬ位大きなものであった。また
もし総督パウロがクリスチャンになっていたならば、その結果が三日も言及さ
れないということは考えられない。バルイエスが盲目となるべき『暫く』の間
が果してどれだけの時間であったかは推測する以外に方法はない。もしこの不
幸な状態が彼に何か役に立ったとするならば、おそらくこの盲目は彼が悔改て
信者となるまで続いたであろう。
さて『サウロ又の名はパウロ』という一句を以て、この使徒がサウロと呼ば
れることは止み、以下パウロという名で呼ばれることとなる。これまで彼は常
に従属的な位置を占め、その名前は同僚の名と一緒にあげられる時にはいつも
最後に書かれていた。しかしこの節から以後は彼のあらわれる場面においては
殆ど最前位を占めている。これまで『バルナバとサウロ』であった呼び方は『パ
ウロとバルナバ』に変る。こ の 変 化 は 色 々 な 意 味 で 、 パ ウ ロ の 勇 敢 な不意の
- 221 -
行動 に よって信じさせられた総督パウロの名前と結びつけて考えざるを得ない。
多くの有名な学者たちは彼が既に以前から二つの名前、即ちヘブル名と帰化し
たロマ名とを持っていたから、この変化はこの後、後者だけを用いることにな
ったのであると考えている。この説明は、もしこれ以前既に彼がパウロという
名を持っていたとする何らかの証拠があるならば、満足な解答となるであろう
が、不幸にしてそのような証拠はどこにも発見出来ない。というのは単に当時
多 く の ユ ダ ヤ 人 たち が ギ リ シ ャ 名 あ る い は ロ マ 名 を 持 って い た と い う だ け で
は、パウロがロマ名を持っていた証拠にならぬからである。これに対する明白
な説明は次のようなものであろう。即ち彼の同僚バルナバが本名ヨセフである
の に、 彼がよ き奨励者 (或 は慰 むる者)のためにバルナバと呼ばれた (4:36)よう
に、パウロもまた世界で始めてロマの総督にキリストの信仰を説いて信じさせ
たために、また特にその場合の非常に大胆な驚くべき態度から、彼自身でなく
彼の友人たちが彼の名前をパウロと変えたのであろう。しかもこの改名は二人
の名の相違が唯一字だけであったことから考えても、一層容易になされ、また
一層自然に思いつかれたであろう。従って、こうして彼以外の人たちが皆そろ
って彼に新しい名前をつけてしまった以上、パウロも好むと好まざるとに拘ら
ず、後に彼がその書簡に用いているように、パウロという名を用いざるを得な
かったに違いない。
3.パポスよりアンテオケに至る(13-15)
13節
パポスでおこった事件の記事をこれで終り、私たちの好奇心をがっか
りさせたルカは、さらに私たちを促して二人の使徒のあとを追う。
13:13
パウ ロ と そ の 一行 は 、 パフォ スか ら 船出 してパン フィリア州の ペ ルゲに 来
たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。
今やパウロは全くルカの記事中の中心人物となって、バルナバとマルコとは
単に『之に伴ふ人』と呼ばれるに至る。彼らがなぜ小アジヤのこの部分を伝道
地として選んだかは記されていない。しかしおそらくそれは、既にパウロがキ
リキヤに福音を宣べていたため、今度はキリキヤのすぐ西隣の地方に福音の種
を播こうとしたのであろう。これはかれらの全小アジヤ半島の組織的福音化計
画 に よ る 。 こ の よ う な 計 画 に つ いて は 更 に 16:1-8で 知 る こ と が 出 来 る 。 パ ウ
ロは以前長い間キリキヤに住んでいたから、今はいって行こうとしているその
地方の社会の状態についても、多少知る所があったにちがいない。彼がこの地
方をえらんだのは先見の明というべきである。
- 222 -
ルカはまたヨハネマルコのペルガからの帰国についても同じように黙している。
ルカは こゝでヨハネ帰国の理由が、彼 の 同 行 者 の い ず れ か に と って 不 愉 快 な
ものであったかということについても、暗示さえしていない。たゞ後になって
(15:37-39)、この事件がパウロにとって甚だ不愉快なものであったということ
は、はっきりのべている。Howson氏はこの事について、マルコは奥地にはい
って行く時に出会うかもしれぬ山中の盗賊を恐れたのであろうと想像している
が、これも甚だありそうなことである。Howson氏によれば『パウロが旅行し
たありとあらゆる地方の住民の中で、このピシデヤ高原の無頼漢たちほど、彼
の言 う「 盗賊の 難」の 危険性をもっているものはなかった』 ① 。勿論これ らの
説教者たちは盗賊をひきよせるほど多額の金銭を所持してはいなかったであろ
うが、ヨハネの恐れたのは、盗賊たちが時として人を殺しておいてから金をさ
ぐり出すということであった。
①Life and Epistle of Paul, 1:162,163
14、15節
ルカはこの山中をこえる旅行に起った危険についてはのべずに、
ペルガからアンテオケまでだまって二人の旅人の後を追っている。
13:14
パウロとバルナ バはペル ゲから 進んで 、ピシディア州のアンテ ィオキアに
到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
13:15
律法と預言者 の書が朗読された後、会堂長 たちが人をよこ して、「兄弟 た
ち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。
この記事はユダヤ人の会堂における礼拝の順序を略式だが生き生きと描写し
ている。まず最初に律法の一部が朗読され、次に預言者の一部が朗読されると、
それにつゞいて今朗読された聖句についての奨励がなされる。パウロとバルナ
バは謙遜な態度で人々の中にまじって聴衆席についていた。かつてイエスが弟
子たち に そう す る よ うに と 教 えた もう たか らで あ る (マタイ23:5-12)。司 たち
が彼らに語ることを許したのは、多分二人が前以て申出てあったからであろう。
彼らがこの町にやって来たのは町の人々に語りたいためであった。彼らは当時
の習慣に従って、会堂で話をするためには充分の準備を怠らなかった。それは
今日の説教者たちが同じような事情の下でするのと同様である。即ち彼らは礼
拝の始まる前にまず会堂司たちに慇懃に自己紹介し、礼拝が解散になる前に聴
衆に語る特権を得るのに苦心したのである。
このアンテオケ は セレウコス・ニカノル によって創立され拡張された諸都
市の中の一つであって、アンテオケという名前も彼の父アンティオカスの名を
- 223 -
記念してつけられた ものである。この アンティオカスはアレクサンダー大王の
没後シリヤの王となった人である。
4.アンテオケにおけるパウロの説教(16-41)
Ⅰ
16-22節
序
論(16-22)
会堂司たちの所望に応じてパウロはすぐに立ち上り、聴衆に向
って演説の口を切った。こうしてパウロが立って主として話すことについては、
明かにバルナバとの間に前もって了解があったのであろう。彼はまず出エジプ
トよりダビデの時代にいたるイスラエル史の短いスケッチを序言として本論を
導き出す。
13:16
そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人
たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。
13:17
こ の 民イ スラ エル の神 は、わ たしたち の先祖 を選び出し、民がエ ジプトの
地に 住 ん で い る 間 に 、 こ れ を強 大 な も の と し、 高 く上 げ た 御腕 をも ってそ こ か ら 導
き出してくださいました。
13:18
神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、
13:19
カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださ
ったのです。
13:20
これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエル
の時代まで、裁く者たちを任命なさいました。
13:21
後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシ
ュの子サウルをお与えになり、
13:22
それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のよ
うに宣 言な さいました。 『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを
見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』
パウロが語り始めた時にしたジェスチュア即ち『手を揺し』たのは、彼の常
套手 段 ① である。これ は甚 だ変ったジェスチュアでは あるが、聴衆の注意を引
くには十分なパウロならではのジェスチュアである。それはあたかも彼が今語
らんとすることについて全くよく知っていることを、その重要さについては信
念も持っていることを示すものである。
①21:40、26:1を見よ。
- 224 -
イスラエルの歴史に関する彼の短いスケッチは、序論として二つの主目的を
果した。即ち聴衆の心を次に来る本論の主題に導く準備をし、しかも彼らの興
味と好意をひきつけたのである。ユダヤ人は誇るに足る輝かしい歴史を持って
いた。そしてその歴史の中でも一層輝かしい史実をたくみに引用することは、
常に彼らの感激を強く呼びさました。そしてこういった宗教的感激が彼らの歌
となり、演説者たちに霊感を与え、迫害の時にも慰めを与えたのであった。こ
れらの諸事件について十分感激の情を示して共鳴した彼らの心に近づくという
ことはいとも簡単なことである。このことをよく知っていたパウロは、この開
かれた門を通ってすぐに聴衆の心の中に入り込んで行った。
『カナンの地にて七つの民族をほろぼし、その地を彼らに嗣がしめて、凡そ
450年 を経 たり』という 19節 ① の言葉の中で、こゝにのべられている期間は、
これらの民族がほろぼされる前から始まると解してはならない。またヨシュア
の征服の時期(25年位とされている)だけに限定することも誤りである。そうす
るとこ の450年という言葉は、どうしても、神が彼らに対して徐々にこの全地
の所有を与えて行った全期間を含むものと見なければならない。ヨシュアの死
後なおも多くの城砦がカナン人の手にあったことは事実であり、又言うまでも
なくそれら城砦都市の周囲の地域も彼らの手に帰していたことは明かである。
またこれらすべての民族の中でも最も不屈の民族であったペリシテ人も、サウ
ル の 死 後 ま で は 殆 ど 他 民 族 と の 争 い も な し に 自 分 の 領 地 の 実 権 を に ぎって い
た。サウロが戦死したのは彼らがイスラエル軍を撃破した時の戦であった。こ
の執拗な勢力がついに完全に破壊されて、イスラエルに向って二度と戦いを挑
ま な い よ う に な っ た の は 、 ダ ビデ の 治 世 も 晩年 に な ってか らで ある (Ⅱ サム エ
ル8:1、 Ⅰ 歴代18:1)。さてこゝで、もしⅠ列王 6:1に出エジ プトからソロ モン
の神殿建立 --ソロモンの治世第四年-- までの期間としてあげられている
480年という数字が、エジプト出発の時からの計算ではなくて、カナン到着か
らの年数であると解されるならば、そしてヨシュアによるカナンの諸民族の征
服 の 時 期 が 25年 ぐら い と 考 えら れ る な ら ば 、 カ ナン 到 着 か ら ダ ビデ 治 世 の 終
までは ちょうど451年であった勘定 になる。こう して神がヨシュアの 残した異
教民族を徐々に平定して、そ の 土 地 を イ ス ラ エ ル に 与 えて 行 っ た 全 期 間 は 、
パウロの言っているようにたしかに『凡そ四五〇年』であった。
①訳者註=日本語現行訳では20節にまたがっている。
この数字に欠けている一年という年は、大体ペリシテ人の最終的鎮定とダビ
デ治世の終との間の時間に相当する。しかもこの間の時間については旧約聖書
はたゞの一数字をもあげていないのである。ステパノもまたパウロと同じように、
- 225 -
カナン人平定の時期を、ダ ビ デ の 時 ま で つ ゞ い た も の と して 計 算 して い る 。
『先祖たちの前より神の逐ひいだし給ひし異邦人の領地を収めし時、ヨシュア
とともに携へ来りてダビデの日に及べり』(7:45)。
次 の 20節 の 『 此 の の ち 預 言 者 サム エ ルの 時 代 まで 審 判 人 を 賜 ひ し を 』と い
う言 葉 は 、 決してこの 450年の後も 審判人 (士師 )を与 え給うたと いう意味 では
ない。なぜならこの450年はこれらの士師時代とサウル・ダビデ両王の治世の
両方をふくんでいるからである。したがってこの言葉は『この時の後』ではな
く『これらのことの後( μετα
ταυτα )』であり、当然この数字に先立つ事件に
ついて言っているのであると考えなければならない。そしてその事件の最後の
ものは七つの民族の滅亡、即ちヨシュアによるこれら諸民族勢力の打倒である。
そして士師記によるならば、これらの士師たちが勢力を得たのはこの時からで
ある か ら、『これら のこと の後 、審判 人を 賜うた 』ということも事実である。
サウルの治世がどれだけ続いたかについては、旧約聖書には何も書かれてい
な い か ら 、 パ ウ ロ は 多分 こ の 40年 とい う 数 字 を、 当 時 存 在し た 何 か 聖書 外の
資料から得て知ったものにちがいない。
『 我エッサイの子ダビデという我が心に適ふ者を見出せり、彼わが意をことご
とく行はん』という言葉は、詩篇89:20『われわが僕ダビデを得て』及びⅠサム
エル13:14『エホバその心に適ふ人を求めてエホバ之に其民の長を命じたまへり』
から集めた思想を表現している。これらの言葉は必ずしもダビデの全生涯につい
て言っているのではない。ダビデの生涯には神の御心におゝよそ適わぬようなこ
ともあった。この言葉はしたがってむしろダビデがサウルの後任者として選ばれ
た時のダビデの性質をあらわすものである。ダビデはサウルが為し能わなかった
色々なことにおいて、神の御意をなすべき人物であったのである。
殆どすべての註解者たちは、この序論とかつてパウロが聞いたステパノの序
論(7:36-45)の一部 との 間の 相似を 認めている。しかし相 似点 というの は両説
教者が何れもエジプトの奴隷状態からの救出ということを取り上げていること
だけである。しかも両者の語る細目に関しては殆ど全く異っている。それもそ
のはず、彼らの目的とする所が全く異っていたのである。即ちパウロの目的は
人々の好意を得て話の主題をひき出すことであったのに対し、ステパノのそれ
は先祖たちの歴史中に多くの誤った行動を指摘して、これら祖先たちの悪例に
ならって聖霊に逆う子孫たちの良心を鞭うつことにあった。
- 226 -
Ⅱ.イエスを救主として説く(23-29)
(a)提言(23,24)
23、24節
序論のスケッチでダビデの名に達したパウロは、この名前から
直ぐにその主な論題であるダビデの約束の子の出現とその働きに入って行く。
13:23
神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送
ってくださったのです。
13:24
ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔改の洗礼
を宣べ伝えました。
この簡潔な文章によって、パウロは巧みにイエスをイスラエルを救うところ
の約束のダビデの子(詩篇89:19-37)として紹介している。そしてまた主の公け
に現れ給うた時についても、福音書の記事と寸分たがわずに、ヨハネの伝道の
直後であると言っている。こうしてパウロは聴衆の注意をその誕生の時にもっ
て行かずに、神が『イスラエルの為に救主をもたらし給ひし』時へとひきつけ
るのである。
(b)ヨハネの証(25)
25節
イエスが救主としてイスラエルに遣わされた時として、ヨハネの伝道
時代の終を指し示すと、説教者は次にこの点に関するヨハネの直接の証を人々
に紹介する。
13:25
その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと
思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわ
たしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』
このヨハネからの引用は私たちの福音書の何れに書かれている言葉とも違う
が、それにもかゝわらずこの言葉は実際にヨハネが言った通りそのまゝの引用
である。なぜならヨハネは当時人々の中に行われていた考え、すなわちヨハネ
こそキリストならんという考えを、何度も何度も、色々な形の表現で否定し訂
正していたからである。パウロがこの引用を用いた趣旨は、ヨハネが自分の後
に来る人があり、この人はヨハネ自身よりはるかに尊い方であり、自分はその
人の鞋のひもを解くという賤しい奉仕にも値しないということを正式に証言し
たという事実である。しからばこのダビデの子とはキリストにあらずして誰で
あろうか?彼の聴衆たちにとっては之以外の結論が見つかるはずはなかった。
こうしてヨハネの言った言葉はパウロが提示した主題に含まれている二つのは
っきりした事実の証拠を提供する。第一に救主が現れたこと、そして第二にそ
れはヨハネがイスラエルのすべての人々に悔改をのべた後に現れたということ
- 227 -
である。ヨハネのこの説教はおそらくパウロの聴衆の中の或人たちがエルサレ
ムの祭に参詣した結果、ヨハネのことについて色々聞き知ったことから、聴衆
たちもよく知っていたにちがいない。したがってパウロはこのことについて詳
しくのべる必要をもたなかった。
(C)イエスの死によって成就された預言
26節
(26-29)
パウロはその演説のこの点で、おそらく聴衆の顔にあらわれた好意的
な表情に動かされたか、あるいは彼らの注意を急に中心的に引きつける必要を
認めたのか、突然その議論の緒を断って、彼の言わんとすることに対する聴衆
の個人的関心に対して激しく、単刀直入に切込んで行く。
13:26
兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を
畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。
しかしこのはげしい感情の中にも、彼はこれらの人々を確信させ説得するだ
けの証拠を提出することを忘れなかった。そして更にその論旨を押し進めて行く。
27-29節
イエスのメシヤであることがヨハネの証によって確証されたと
いうことを断言したパウロは次にエルサレムのユダヤ人たちがこのイエスを詐
偽師として死刑に処してしまったという奇怪な事実を説明しなければならなか
った。しかしもしこゝでパウロがこの事実を何の制限的説明をも加えずにその
まゝ語ったならば、彼の聴衆たちにとってはそれはイエスがキリストであり得
ない証拠としてしか眼に映らないであろう。従って彼はこの事実をのべるにあ
たって、そのような反対に対して十分警戒するのみならず、更にそれに外の証
拠をも附け足すほどの注意をはらっている。
13:27
エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息
日ごとに読まれる預言 者の 言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、そ
の言葉を実現させたのです。
13:28
そして、死 に当た る理由は何も見いだせなかったの に、イエスを死刑にす
るようにとピラトに求めました。
13:29
こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイ
エスを木から降ろし、墓に葬りました。
この事件をこういう風に話すと、本当にエルサレムのユダヤ人がイエスを知
らなかったがために彼を十字架につけたということ、彼らがイエスを知り得な
かったのはキリストについて預言者が語った所をよく知らなかった結果である
- 228 -
こと、しかもイエスの断罪においても十字架刑のあらゆる細かい点においても
彼らはキリストに関する預言者の言を成就したことをはっきりとわからせる。
おそらくパウロはこゝで聴衆たちに自分の語る所が正しいことを一層よくわか
らせるために、これらの預言のあるものを引用したと思われる。しかしルカは
文章の簡潔のためにこれを省略している。
こうして、そのまゝではどうしてもユダヤ人にはイエスがメシヤであり得な
い証拠に見えるイエスの十字架の事実は、一転して彼のために争うべからざる
論証となったのみならず、同時にユダヤ人特有の誤ったメシヤ観自体をも訂正
したのである。
イエスの死と葬りに関するこの短い物語の中で、彼が木に懸けられたことを
何も言わないで、彼が木から下されたことを言っているのは、パウロの聴衆た
ちが十字架刑についてよく知っていたものか、或はルカが文章を簡潔にするに
当って、パウロが実際に言った言の多くを省略したのであろう。後者であった
と考える方が妥当である。それはパウロが始めから終りまで、まるで聴衆がイ
エ ス の こ と に つ いて 何 も 知 ら な か っ た か の よ う な 話 し 方 を して い る か らで あ
る。彼はイエスを断罪した人たちとイエスを木から下した人たちとを特に区別
していないが、これも明かに彼が『エルサレムに住める者およびその司ら』が
これをしたのであるということを言うためであり、もちろんその中にはイエス
を葬ったヨセフもニコデモも含めての話なのである。パウロはペテロと同じよ
うに(5:30、10:39、Ⅰペテロ2:24)十字架のことを木(tree) ① と呼んでいるが、
その理由はおそらくその縦の柱が一本の樹の幹を削らずにそのまゝ使ってあっ
たからであろう。当時は鋸でひいたきれいな材木などはまだ用いられなかったし、
兵卒たちも外観のためにわざわざ十字架の木を削るようなことをする筈はない。
① こ ゝ に 使 わ れて い る 言 葉 は 普 通 「 樹 、tree」と い う 意 味 で 使 わ れる
なくて、
ξυλον
δενδρον
では
で あ る 。 こ の 言 葉 は 厳 密 に は 「 木 、 wood」 で あ る け れ ど も 、 パ ウ ロ
やペテロやまた黙示録中ではヨハネによっても「 樹 、 tree」 の 意 味 で 用 い ら れて い る 。
上の引照の外、ガラテヤ3:13、黙示録2:7、22:2,14を見よ。
(d)イエスの復活(30-37)
30-33節
パウロは次に福音の証拠の中でも最も顕著な事実を紹介する。
彼はこの事実を旧約聖書の預言と結び付けることを忘れない。そしてユダヤ人
の聴衆が一層よろこんでその言を受けられるようにと考えているのである。
- 229 -
13:30
しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。
13:31
こ の イ エ ス は 、御 自 分 と 一 緒に ガリ ラ ヤ か らエ ル サレ ムに 上った 人々 に 、
幾 日にも わた って姿 を現さ れました。 そ の人たち は、今、民に 対してイ エス の証人
となっています。
13:32
わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ
知らせています。
13:33
つまり、神はイエスを復活 させて、わたしたち子孫のためにその約束を果
たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたし
は今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。
『天下の諸の宗族、汝と汝の裔によりて福祉を得ん』という先祖たちへの古
い約束が既に成就されたということは、この場合の性質上これらユダヤ人たち
にとってはよき音信であった。しかしこの約束がイエスの甦りによって成就さ
れたということは彼らにとって新しい思想であったし、またこれによって『な
んぢは我が子なり、われ今日なんぢを生めり』という詩篇第二篇の言葉が成就
したということも、同様に耳新しい驚くべきことであったにちがいない。この
二つの提言は何れも証明を必要とした。パウロが復活の目撃者の立証をこゝに
書いてある通りにこんなに簡単に話したことは殆ど考えられない。なぜならば、
この事実こそこの説教全体の中心事実であり、聴衆にとっても最も十分な確証
を必要とすることであったからである。彼が当初の目撃者たちの証言を十分に
列挙したであろうことは疑もない。しかし彼は自分自身の証言だけは省略した
ように見える。これは彼が今語っている聴衆たちが全く彼の知らない人ばかり
であったため、慎重を期してのことであった。パウロは自分自身の証を立てる
よりも、他の人たちの証言を引用する方が、彼らを信じさせるにはより効果的
であったろう。それは彼が前者の方法をとるならばむしろ彼らの不快を買うに
ちがいなかったからである。
『なんぢは我が子なり、われ今日なんぢを生めり』という言葉は、一見して
こゝに呼ばれている人の誕生について言っているように見える。しかしこれは
イエスの復活をさすのである。新約聖書中他の個所で現れている場合にも同じ
意 味 に適 用さ れて い る 。 ヘブル 5:5に は 『 斯くの 如 くキリストも 己を 崇 めて 自
ら大祭司となり給はず。之に問ひて「なんぢは我が子なり、われ今日なんぢを
生めり」と語り給ひし者、これを立てたり』とある。さてこの聖句においてキ
リストが犠牲者として死ぬまでは大祭司となり給わないならば、そして自らの
血を以て天に入るまでは大祭司となり給わないならば、この言葉は当然キリス
トが 死 者 の 中から 『生まれた』ことを指すものでなくてはならない。 ヘブル1:5
- 230 -
の『 神 は孰 れの御使 に曽 てか くは言ひ給 かしぞ、『なんぢは我が子なり、われ
今日なんぢを生めり』と」という問は、キリストが御使よりもすぐれた存在で
あっ た こ とを示すも のであ り、『これ を御使 より も少しく卑う』せられた誕生
のことをさすのではない。詩篇第二篇の前後の文脈もやはりこの解釈を裏書し
ている。即ちこの言葉はあの日生まれた無意識の幼児に向かってではなく、理
解力のある人間に対して語りかけられているからである。
『われ詔命をのべん、ヱホバ我に宣へり、
汝はわが子なり、今日われ汝を生めり。』
この引用のなされた詩篇第二篇全体は明かにメシヤを指し示すものである。
なぜならこの詩篇のどの言葉といえども、キリスト以外の何人にも当てはまら
ぬものだからである。
34-37節
パウロは今この復活の目撃者たちの証言に加えて、このことが
キリストに関する神の御計画であったという更に本格的な証拠を以てする。
13:34
ま た 、イ エ スを死者 の 中 か ら 復活 させ 、も はや 朽 ち果てる ことが ないよう
になさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあ
なたたちに与える』と言っておられます。
13:35
ですから、ほかの個所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるま
まにしてはおかれない』と言われています。
13:36
ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加
えられ、朽ち果てました。
13:37
しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。
『われダビデに約せし確き聖なる恩恵を汝らに与へん』という引用句はイザ
ヤ 55:3か ら と ら れ た も の で 、 そ の 前 後 の 文 脈 か ら 、神 が 彼 を 挙げ て ダ ビデ の
位に坐らせようと約束されたその人について言っていることがわかる。パウロ
はこの約束の成就に関して過去の時称を用いているが、それは聴衆が預言を信
じており、預言はすべてそのよき時期において成就されるにちがいないという
ことを容易に納得出来たからである。もしパウロが今実際にしたように、イエ
スが死者の中から甦えらせられたということを証明するならば、彼らは容易に
この預言が成就されたことを信ずる筈である。
読者はここで次の預言の引用が、かつてペンテコステの日にペテロがその説
教の初の部分に用いたものと同じであり、しかもこの聖句に基いた以下二節の
議論もペテロがあの時に使ったものと全く同一であることに気づかれるであろう。
- 231 -
おそらく旧約聖書全体を通じて、この聖句ほどキリストの復活を明白に預言し
ている言はない。この理由からこの句は初代の説教者たちによってよろこんで
用いられ、復活立証の好テキストとなった。或人たちの言うように、パウロが
この言葉をペテロから失敬したか、またルカがパウロには借用する気のなかっ
たこの言葉をパウロの口に入れて書いたというのは、滑稽極まる誤りである。
なぜなら、もしここに二人の人がいて、何か一つの命題を証明しようとする時
には、どちらもそれを支える所の証拠を用いないでどうしてそれを証明するこ
とが出来ようか?そしてこれらの証拠というものは、その命題の性質が如何で
あれ、当然大抵の場合同一であるべき筈である。
(e)イエスを通してのべられた罪の赦し(38、39)
38、39節
今やイエスがメシヤであることに関するこの決定的証拠を示し
たパウロは、更に進んでその仲保の功績を聴衆の前に提出する。
13:38
だ から 、 兄弟 たち 、 知 っ ていた だ きた い。 こ の 方によ る 罪 の 赦しが 告げ知
らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
13:39
信じる者は皆、この方によって義とされるのです。
ここでパウロはバプテスマのヨハネやイエス御自身やペテロと同じように、
罪の赦しということをキリストにおいて受けるべき最大の祝福であるとしてい
る。 英 語 の Revised Version 及び King James Version はこの個所 を訳
するに当って、何れも“by him”(彼によりて) ① 、“by the law”(律法によりて)
と訳しているが、これは誤りである。原語は“in him”(彼の中に、ἐν
“in the law”(律法の中に、 ἐν
τούτῳ )、
τῷ νόμῳ )である ② 。この思想はパウロ特有の
表現 であ る『キリス トの中にある』(現行訳「キリストにある」)信者が義とせ
られる、言い換えれば罪の赦しを受けることをあらわす。この赦しは律法の中、
または下においては決して受けることの出来ぬものである。彼はここで、彼が
後にその書簡の中で屡々教えたこと即ち律法について、この中には決して罪の
赦しはないこと、また律法の犠牲をささげた人たちに与えられた罪の赦しの約
束も 、後 に流されたキリス トの血によってはじめて意味をもつこと(ヘブル10:
1-4、9:15)を教えている。ユダヤ律法の恩典は、ただこの律法をもつユダヤ民
族の中の一人として生まれて来るか、或は正式にこれに加入した者だけにしか
伝えられない。それとちょうど同じように、罪の赦しも『キリストの中に』入
って来る人だけに伝えられるのである。そしてもう一つのパウロ特有の表現か
ら私たちが学ぶように、信ずる者は『キリストの中へとバプテスマされる』即
ちバプテスマされてキリス トの身体の中へ入れられるのである(ロマ6:3、ガラ
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テ ヤ 3:27、 1 コリ ン ト 12:13)。 こう して 前 に は ペテ ロ の 最初 の説 教 の中 には
っきりとのべられていた罪の赦しとバプテスマとの関係は、このパウロの最初
の記録された説教の中にも含まれているのである。パウロがペテロのように聴
衆に対してキリストにおいて罪の赦しをうけるために、直ちに悔改てバプテス
マを受けよとすすめなかった理由は、次に見るように、また彼らの心がそのよ
うなすすめを受け入れる準備の出来ていないことを知ったからである。
① 訳 者 註 = 現 行 邦 語 訳 も や は り 同 じ で あ る 。 た ゞ 「 彼 」 が 「 こ の 人 」 に な って
τούτῳ
の意味がよく出ているが。
②文字通りに訳すれば「彼の中に」であって、赦しの与えられる手段というよりも、むし
ろ赦しの存在する場所を示す。Meyer, Alford 及び Lechler も同じように訳している。
Ⅲ.警告(40、41)
40-41節
パウロの説教中、このすぐ前の部分は、聴衆たちにとっては最
も聞きたくない言であった。なぜならそれははっきりとモーセ律法の権威をお
とすものであり、このような言葉はユダヤ人の耳には暴言として聞えざるを得
ない。かつてぺテロはこれと同じことをサンヘドリンにおいて『天の下には我
らの頼りて救はるべき他の名を、人に賜ひし事なければなり』という言葉の中
に含めて表現した。今パウロはこのペテロがかくして表現したことを、大胆に
もあからさまに言ってのけたのである。彼は疑うべくもなくこの発言につゞい
てユダヤ人聴衆の顔に快からぬ表情を認めたであろう。そうでないならば、彼
ほどの注意深い説教者がその説教を次のような激しい言葉で閉じる筈はない。
13:40
それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。
13:41
『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事
を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。』」
この引用は今彼が伝えたとき音信を拒むことに対する警告であり、もし彼ら
が拒むならば彼ら自身に預言者の言うこの恐ろしい言葉があてはまるのだとい
う警 告 で ある。『これ を 汝らに具さに 告ぐる 者ありと も』という言葉は 、この
ことが拒み得ないほどの総体的証拠をもっているという意味である。この言葉
はハ バ クク 1:5(七 十 人訳 )か ら の 引 用 であ り 、 こ の句 の前 後の 文脈 か らカ ルデ
ヤ人の手によって特に来らんとする滅亡を言っていたことがわかる。パウロは
この言葉を、福音を拒むすべての人の上に特に来らんとする滅びの意味に適用
している。この意味でもこの預言は成就したのである.
- 233 -
5.この説教の直接効果(42、43)
42、43節
この説教を聞いた人たちの中で、一人としてこの福音に従うだ
けの心の準備の出来た人がいなかったにもかゝわらず、またおそらく一人とし
てこの説教の内容を全部信じた者もいなかったにもかゝわらず、一応大部分の
人たちはよい印象をうけた。それは彼らの言葉や行動にあらわれている。
13:42
パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話
してくれるようにと頼んだ。
13:43
集 会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて
来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。
はじめの節にある要請は、二人の使徒が席をはなれた後にどっとまわりに押
寄せた人たちによってなされた。そして次の節にある集会の解散は実際に人々
がその場所から去って行ったことをさす。長老たちによる散会の宣言はこの二
つの前になされたはずである。こゝで最初にあげられている『改宗者』とは、
説教の中で二回『汝ら神を畏るゝ者よ』と呼びかけられている、聴衆の一部の
人たちであった(16、26)。群衆の中にまじって宿所までパウロとバルナバに同
行し、熱心な会話をかわしたこれらの異邦人と多数のユダヤ人とを描写してい
るルカのすばらしい絵は、この人たちのまじめな習慣と、この説教の新しいま
た激しくも驚くべきテーマに対して感じた彼らの深い関心とを、余す所なく画
いて い る 。 彼 ら は す で に 『神 の 恩 恵の 中 に 』 いた こ と が 43節 か ら わ か る け れ
ども、これは単に神が、すべての熱心に真理をもとめる者に与え給うように、
彼らに好意をよせ給うということを表現する言葉にすぎないのである。そして
もし彼らが使徒たちにすゝめられたように神の恩恵にとどまるならば、やがて
彼らには神がキリストにおいて与えようとし給う罪の赦しを得るに至るのである。
6.次の安息日における結果(44-48)
44節
会堂におけるパウロの説教と、またその後で宿所までついて行った人
々が二人の説教者と直接かわした会話から受けた強い印象が、まるで伝染する
ように一週間の中に町のすみずみまで伝わったことは不思議ではない。また同
時に私たちはこの間二人の説教者たちが無為に日を過していたとも考えられない。
後に ア テネ では『 この 囀る者 』(17:18)と言 われた程の 熱心 なパウロである 。
まわりの人たちの輿論がかくも急に優利になって来た時に、おめおめと一週間だ
まって坐っている筈はない。まず最初の結果は次回の会堂での集会であらわれた。
- 234 -
13:44
次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まっ
て来た。
前の集会に集った人々は単に会堂で恒例の聖句朗読と奨励を聴くために来た
人たちであったが、今度の集会の聴衆は皆パウロが説こうとする言葉を聞こう
として集まった人たちばかりである。会堂はこのような大群衆を考えに入れて
建てられていなかったから、いきおい説教者は入口に立って、ちょうど米国で
もよく行われたように、会堂外の群衆と会堂内の人たちとに同時に話しかけた
ということが考えられる。その上ユダヤ人の会堂では現代の教会建築のように
ベンチがあゝして邪魔になるというようなこともなかった。人々は床の上に筵
をしいて坐っていたから、自由に後の戸口の方へ向きをかえることが出来た。
一方戸外の群衆も同じようにして地べたにすわって話を聞いた。
45節
モーセの律法の権威を害うかに見えたこの教理はすでに多くのユダ
ヤ人の憤激を買っていた上に、またまたこのような大群衆がその教えを聞くた
めに集ったからたまらない。既に感情を害せられていた人々はますます憤り立
ったのは勿論、前の安息日には割合に好感情を抱いていた人たちまでが腹を立
てるような始末となった。この人たちの主導者連中がとった行動は、洋の東西
を問わず、常に同じような考えの人たちによって、同じような環境の下でくり
かえされる。
13:45
しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウ
ロの話すことに反対した。
この言い逆いと涜神的な言葉は、勿論パウロの説教の後でおこったものである。
ルカは省略しているけれども、彼はたしかにこゝで一つの説教をして、その中
で前週安息日にのべた教理をもう一度論じたところが、説教の途中で突然おこ
った言い逆いと、罵りの言葉によって中断されたのである、と解するべきであ
ろう。このような中断は今日でも東洋ではめずらしくない。
46-47節
さてこゝまでは、 使 徒 パ ウ ロ は 直 接 ユ ダ ヤ 人 に 対 して 語 り 、
集って い た異邦人たちに対してはい わば 間接 的に語 ってい るに過 ぎなか った。
しかし今やこれ以上ユダヤ人と論じ彼らをなだめることは無益と見えた。
13:46
そ こ で 、パ ウロ とバ ル ナバは 勇敢に 語った 。 「神 の 言葉は 、ま ずあな たが
たに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得
るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。
- 235 -
13:47
主はわたしたちに こう命じておられる からです 。『わた しは、あなたを異邦
人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」
上の言葉はパウロ・バルナバの両者が共に発言したことになっている。しか
もこのような言は必ずユダヤ人の憎悪を刺激し、暴動をおこすことは日を見る
よりも明かであったことを考えれば、たしかに大胆な発言であったと言わなけ
ればな らない。この言葉の中で『神の言葉は先ず汝らに語らるべき』(直訳)と
いう考えは、この福音は単にエルサレムを始めとして宣べられるべきである(ル
カ24:47)のみならず、どの町どの村においても、まずユダヤ人に対して宣べら
れ るべ き も のであ る という 、 使徒 たち の信念 をあらわ している。『ユダヤ人を
はじめギリシヤ人にも』(ロマ1:16、2:10)というのはパウロの持論であった。
このことが至当であることは、すでに1:8で論じておいた。
48節
これにつぐルカの記事は古来少からぬ論議の的となっている。
13:48
異 邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命
を得るように定められている人は皆、信仰に入った。
議 論 の 中心 は こ ゝで『定 めら れた る』- ordained - と訳されている言葉
(ἦ σ α ν
τ ε τ α γ μ έ ν ο ι )である。カルヴィン主義的な記者たちは例外なくこの
言葉を、彼らの信条の中に教えられる永遠の選択と予定をさすとする。しかし
もしこれがこの言葉の正しい解釈であると仮定するならば、彼らが気付いてい
ない少々面倒な問題がおこってくる。それはもし『永遠の生命にはじめから予
定されていたものがみな』この日に信じたというなら、その残りの人たちは全
部 が 全 部 、 棄 て ら れて 永 遠 の 刑 罰 に 定 め ら れ た 人 た ち と い う こ と に な り 、
パウロの彼らに対するその後の説教は全く余計な駄骨ではないか。また救いに
予定されたものと滅びに予定されたものとが、この大集会の中からたった一日
の中に分離されたということはとても考えられないし、またこの事を記録にの
こすことが出来るようにルカに啓示されたというに至ってはなおさらである。
のみならず私たちが一層驚かされることは、この説に従うならば、選ばれたる者
自身すら実際自分たちが選ばれているのかどうかを、はっきり知ることが出来
ないと言うのである。故に私たちはこゝに用いられている言葉がどうしてもそ
う解釈するほか許さないというのでなければ、このような結論は誰も決して認
め る こ と は 出来 な い 。Hackett 博 士 は『 とこし えの 生命 に定め られた 者は皆
信じた 』(and as many as were appointed to eternal life believed)と
訳し た 後 に 、『 この訳 はこ の章句の 哲学が訳す唯一の 訳であ る』とことわって
- 236 -
い る 。ま た Grimm は そ の ギ リ シ ヤ 語 字 典 の 中 に お い て 『 (神 に よ って )と
こしえの生命に定められた者は皆 信 じ た 、 或 は 、 神 が 永 遠 の 生 命 に 命 じ たと
ころの者は……』として、カルヴィン主義的思想を一層よく表明している。
と こ ろ で 、 こ ゝ に こ う 訳 さ れて い る 語 の 語 源
τάσσω
τάσσω
であるが、この
という動詞の第一義的意味は to set in order(整える)又は Grimm
が言っているように to place in a certain order(一定の秩序の中におく)と
い う こ と で あ る 。 1 コ リ ン ト 11:34の 文中 で は
δια
と 組 合 さ れて い る が、 次
の よう に 訳 されてい る『その ほかのこ とは私の来る時 にちゃんときめ よう』。
この言葉が定められた(ordained)と訳されているのは、新約聖書全体を通じて
この語が八回使われている中で、この場合をのぞいてはたゞの一回だけである。
『 あ ら ゆ る 権 威 は 神 に よって 立 て ら れ る 』 直 訳 (神 に よって 定 め ら れ た も ろ も
ろの力』“The powers that are ordained [set in order] by God”(ロマ1
3:1)こ の言葉は普通『定める』(appoint)と訳される。例えば場所を定める(マ
タイ28:16)とか、何かすることを定める(使徒22:10)とか、日を定める(同28:23)
とかである。しかし定めるという以上は、定められる秩序はそれに先行する混
乱或は無秩序の中から定められるのであって、この場合にもこの語の第一義的
意味は失われていない。このことは知的な行為に適用された時にも変らない。
例え ば人 間の頭 (マインド )が一つの 主題について混乱し、どう考えるべきかに
迷い悩んだあげく、遂にはっきりした結論又は決心に到達したとする。すると
この時その思想は混乱の中から秩序へと移されたことになるから、この語はこ
の場 合 の変化 を言い 表すに もふさわし い。この 例を裏書する驚くべき実例 は
15:2に 見 ら れ る 。 即 ち ア ン テ オケ の 兄 弟 たち は パ ウ ロ 、 バ ル ナバ 側 と 、 ユ ダ
ヤより下った或る人々の側との間に、重要な問題に関して大なる紛争と議論』
がおこるのを見た。この紛争が続いている間、おそらく兄弟姉妹たちはすべて
極度に混乱していたにちがいない。しかし最後に彼らが何をなすべきかに関し
て結論を見出した時『彼らはパウロ、バルナバ及びその中の数人をエルサレム
に上ら せ、此 の 問 題 に つ い て 使 徒・長老たちに問 わせようと決心した』“they
determined(ἔταξαν)”のである。これは欽定訳(A.V.)の訳であるが、こゝでお
こっ た 知 的 な 変 化 を 正 し く 表 現 して い る。 Hackett 博士 はこ の語 は 『決 して
智 性 (mind)の 行 為 の 意味 で 用 い られ る こ とは な い 』 とい う が 、 その 彼 を して
もこ の15:2の個所を次のように訳さざ るを 得なかった こ と は 、 彼 の 説 の 正反
対を 証 す る動か ぬ 証拠 であ るとせね ばなら ない 。問 題 の 個 所 の 同 氏 訳 は『彼
らは彼 ら が 行 くべ き こ と を 任 命 し た 云 々 』 “ t h e y appointed that they
should go” etc. 改訂訳R.V.の著者もこれに従っている。 しかしこ れは甚だ変
な英語である。これは appoint という語の文法的用法から見ても、明かに誤
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りである。私 た ち は 人 を 派 遣 し よ う と 決 心 し た 時 に 、 派 遣 さ れ る 人 を 任 命
appoint するけれども、『彼らが行くことを』任命 appoint しは しない。明
らかにこの場合の事情はこうであったろう。兄弟たちははじめ何をなすべきか
を決心 determine していなかったが、遂に何をなすかを決心 determine し、
そしてそうしたのである。disposed すなわち『配置された、する気になった』
という英語も同じ様な意味に用いられる。この言葉は一定の秩序に配置すると
いう意味で、普 通 は 外 部 の 対 象 に 関 して 用 い ら れ る 。しかし人間の頭(mind)
が同じように一定の行動にしたがって配置された時にも、やはり『彼はそれを
する気になった』“he is disposed to pursue it”と言うのではないか。
上のように考えて来た私たちには明かなように、今私たちが取り上げている
個所でのこの動詞の意味は文脈から考えて『決心する、決意する』ことである。
神によって何かこの聴衆の一方に対しては為され、他方に対しては為されない
というような行為、或は一方にのみ関し、他方に関せない何らかの目的という
ような考えは、この節の文脈からはヒントすら得られない。この動詞はこの人
たち の 中 にお こった二 つの 対照的 な mind の状態 とそ れにつづく行動とをさ
すのである。まずこの場にいたユダヤ人について言うならば、彼らは第一に嫉
みに満たされ、第二にパウロの語ることに言い逆って罵り、第三に自分たちが
永遠の生命に値せぬと判断した。これに対して異邦人たちは第一に喜び、第二
に 主 の 言 を あ が め 、 第 三 に 彼 ら は永 遠 の 生 命の た め に
である。さあ、こゝで
τάσσω
τεταγμένοι
した の
というギリシヤ語の色々な意味の中で、どれ
をここに挿入すべきか?しかるにこの語はユダヤ人たちが己を永遠の生命に相
応し から ぬ も の と自 ら 判断 (judge)したとい う智的行為と 対照の位置 に置かれ
ているから、当然、対照法の法則に従ってその反対の何らかの智的行為を指す
ものと見なければならない。この場合に許される唯一の訳は、永遠の生命に決
心し た (were determined)或 はその気 になっ た(were disposed)であ る 。こ
の動詞はこゝでは受動態、過去の時称になっているから、今記者が書いている
そのことの瞬間の直前におこった智的状態をあらわす。言いかえるならば『永
遠の生命に決心したものは皆信じた』という文章の意味は、彼らは信ずる前に
この決心に達したということなのである。異教の中に生まれ異教の中に育った
これらの異邦人たちは、この時に先立つ何れかの時期に、永遠の生命について
はユダヤ人たちから教えられて聞いたことがあった。そしてこれらユダヤ人の
教えの下に、またパウロのアンテオケ到着以来彼の教えの下に、或はその両方
の条件の下に、彼らはこの重大な問題に関する智的混乱状態から脱して、遂に
もし可能ならば永遠の生命を得よう、という決心に到達したのである ① 。
- 238 -
①この個所の英訳及び説明例--
“ 'as many as disposed for' と訳す方がよい”(Plumptre).
“all who, by the grace of God, desired to range themselves in the ranlss of
those who desired eternal life accepted the faith” (Farrar, "Life of Paul", 211).
“Rather, were set in order for, i.e., disposed for eternal life” (Jacobson in "
Speaker's Com.")
“As many as were disposed to eternal life. disposed という語の意味は文脈によ
って決定されなければならない。ユダヤ人たちは己を永遠の生命に相応しからぬ者と自ら
判断した。異邦人たちは永遠の生命を得ようという気になった(決心した)人たちだけが全
部信じたのである”(Alford)。
ここで、永遠の生命に決心したことと、信じたこととが、原因と結果の関係、
或は少くとも先行と後行の関係に立っていることを忘れてはならない。このこ
とは決して不自然でも珍しいことでもない。永遠の生命が得られるということ
を知って、もし出来るならばそれを得ようと決心した人こそ、それを得る道が
明かに示された時、直ちにその真の道を受け入れる人ではないか。またあまり
にもこの世の事に心を奪われて永遠の生命に対して無関心なような人こそ、そ
れを得る真の道を聞いても、右の耳から左の耳へ抜けさせてしまうような人で
はないか。今日私たちはこのような例を教会に集まる人々の中にやはり見る。
二人の人が全く同じ福音の説教の声を聞きながら、隣同志に並んですわってい
るとしよう。一人は来るべき生命の重要さに眼ざめるが、一人は今の生命とい
うことにあまりに気をとられすぎている。後者はその説教に対して自ら聾とな
って聞こうとせず、パウロがはげしく非難したように、己を永遠の生命に相応
しからぬ者と判断するであろうが、後者は直ちにこの喜ばしき音信を信じて恩
恵の御座に飛んで行くであろう。ルカがこゝで示しているのは、実に永遠の生
命に関するこの相違なのである。そしてルカがここでそれを指し示しているの
は、この相違こそパウロの聴衆の中、一方の組が信じ、他の組が信じなかった
事実を説明するからである。この事は永遠の運命の責任が信ずるか信じないか
の問題として人間側にあり、決して神の側にあるのではないことを明かにする。
7.アンテオケにおける最後の結果(49-52)
49節
パウロの第二回の説教によって信じた敬虔な改宗者たちは、大きな収
穫の初穂となった。
13:49
こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。
- 239 -
これは単にアンテオケのみならず、それにつゞくピシデヤ地方一帯に、真理
への改心者が多数得られたことを意味する。もちろんパウロの働きはおそらく
市内だけに限られていたろうが、しかしこの彼の働きの噂が町から村へと伝わ
るに従って、これに興味をもって聞こうとする人たちが四方八方から、我も我
もとアンテオケへ押寄せたのであろう。これは今日私たちの時代でも見られる。
50節
パウロの第二回の説教を聞く多数の聴衆を見て嫉に満されていたユダ
ヤ人たちは、そのパウロの語った御言が輝かしい勝利を収めたのを見て嫉視そ
の極に達し、かつて同じような御言の勝利が既にエルサレムの発端の時に暴動
となったように、ここでもパウロ とバルナバがかねて予期していた(46)暴力行
為となって彼らの上にふりかかって来た。
13:50
とこ ろが 、ユダヤ人は、神をあが める貴婦人 たちや町のおもだった人々を
扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
こゝに言われている敬虔なる貴女たちとは、パウロの説教を聞いた異邦人改
宗者たちの一部である。それはここに敬虔なると訳されている原語がそういう
意味に用いられる言葉だからである。しかしこの人たちは決して、すでに永遠
の生命に決心していた人たちではない。このことから第二回の説教において会
堂に集った異邦人の全部が全部信じたわけではないことがわかる。これらの婦
人たちが名誉ある地位にあったこと、言いかえれば政界においても高い権力と
関係をもち、現在の生活に満足していた婦人たちであったことは、彼女らが永
遠の生命というものについて、信じた他の人たちよりも関心を持っていなかっ
たことをよく説明してくれる。この人たちはおそらく『町の重立ちたる人々』
の家族に属する人々であったろう。そしてこれらの婦人たちの権力が町の重立
ちたる人々をそゝのかして、使徒たちを迫害させ、遂に二人を町から追放させ
るようなことにしたのであろう。婦人は昔から最も忠実なイエスの友でもある
けれども、また時にはイエスの敵たちの恰好の道具として利用されることも少
くない。ユダヤ人たちが事実上一人のこらず立ち上って、この悪事に参加した
ことから見ても、パウロの第一回の説教によって一部の人たちが得た好印象は
(43)ごく一時的なものにすぎなかったように思われる。
51、52節
このように無礼なやり方で町を追放されたパウロとバルナバと
が、はげしい憤りを抱いたことは言うまでもない。そしてこの町の忘恩的行為
を考えるにつけ、またこのような侮辱を受けたまゝで他の町に入って行く時に
受けるかも知れない誤解を予期するにつけ、彼らの心は痛んだ。ルカは私たち
に二人が如何に振舞ったか、また二人が追出された後、弟子たちがどんな感じ
をもったかを簡単に告げる。
- 240 -
13:51
それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。
13:52
他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
去って行く使徒たちが、今彼らを追出す人たちの目の前でしたこの行為は、
決して単なる憤激の情から出た無意味な子供っぽい行為ではない。霊感なき教
師たちがしたものならばそうであるが。彼らのこの行為は厳粛な『彼らに対す
る証し』のためになされたのであり、彼らが神の使者たちを拒んだために拒ん
だ神 が 、 彼らの上 に義 の審判を 下したまうという預言であっ た(マルコ6:11、
ル カ 10:16)。 一 方 弟 子 たち が こ の よ う な 苦 し い 条 件 の も と で 、 し か も 『 喜 悦
と聖霊とにて満され』ていたという記事は、私たちにとって驚異である。普通
ならば悲歎と恐怖に満たされる所である。このことは、彼らが先に決心した永
遠の生命を与えられたという確信と、そして今神の霊が自分たちの死ぬべき身
体にも宿りたまうという信仰が、今何ら人間の教師の助けなしに彼らの喜びを
支え、如何なる人間能力もこれを奪うことが出来なかったことを示す。彼らは
今や夫々一人立ちし、お互に兄弟の徳を建て合うことが出来るのである。
8.イコニオムでの出来事(14:1-7)
1節
アンテオケを去った使徒の一行は、道を南東にとり、ちょうどパウロの
生れ故郷キリキヤに達せんとするかのように進んだ。彼らはこの道をたどって
約145kmの間 ① 、無数の羊の群が草食む大平原を横切った後、今も昔も小アジ
ヤのこの地方における最大最重要の町イコニオムに到着した。この町は西、北、
南の三方に高い山々がそゝり立ち、東の方はやゝ開けて大平原につゞき、平原
の真中には美しい湖がある。特にこゝではこの地方の諸要所から通ずる主要な
道路が一点に会しているために、イコニオムをしてこの地方の交易及び交通の
中心たらしめていた。使徒たちが沿道の小さな町々を看過して、この町々に目
をつけたのは、その位置がこのような中心点であったためと、またこの町には
ユダヤ人の会堂があり、附近に福音を聞こうとするような人たちを見出すこと
が出来たからである。
14:1
イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話
をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。
信じた人たちの数が多かったというのは、町の全人口に比較してではなく、
普通このような場所で信ずる人たちの数、特にアンテオケの場合と比較してで
あ る。 これら信じた人々の一部を形成するギリシヤ人たちは、主としてユダヤ教
- 241 -
への改宗者であったろう。彼らが信じた直接原因をルカは簡明にのべる。即ち
使徒たちは『そのように 語ったから』 彼らは信じた(語りたれば… 信じたり)。
聴者にこの確信を与え、『信仰は聞くにより、聞くはキリストの言による』(ロ
マ10:7)とい うパウロ の後に 教えた教義 を裏書したも のは、この証の確乎 たる
力と、証する人の熱心とであった。
① 小 ア ジ ア 内 部 の 地 理 は 、 今 日 の 西 洋 の 学 者 たち の 知 識 を 以 て して も 甚 だ 不 完 全 に し か
知り得 ない 。このことは最近の註解書の中に示されているアンテオケ・イコニオム間の距離
が甚だまちまちであることからもうかゞい知られる。Farrar Iacobson 及び Plumptre
は60マイル(95km)とし、Gloag は50マイル(80km)とし、Hankett は45マイル(72km)
と算出している。Ramsey教授はその最近の同地踏査研究から見ても、この問題について
の権威と認めなければならないが、上の数字はこの Ramsey教授の提供によるものである。
2、3節
この町でキリストに勝ち得られたユダヤ人の数はアンテオケでの数
よりもはるかに多かった。しかし一方信じなかったユダヤ人たちはこゝでもか
わらぬユダヤ人特有の精神を発揮した。
14:2
とこ ろ が 、 信じ よう としな い ユダ ヤ 人 た ち は 、異 邦人を扇 動し、 兄弟 た ち に
対して悪意を抱かせた。
14:3
そ れ で も 、二人 はそ こ に長 くと どま り、主を頼み として勇敢に 語った 。 主は
彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。
従わぬユダヤ人たちに唆かされた異邦人の中には、ギリシヤ人以外の人たち
もいた。ルカオニヤの土地の人々やまたおそらくこの町に住む他の色々な国人
もいたことだろう。ユダヤ人たちが彼らをうまく唆すことが出来たのは虚偽の
悪意ある誹謗によったものにちがいない。この反対運動はかえって侍従たちを
大胆にさせ、彼らをして『久しく』この町に留らせることになった。しかしそ
れが何日であったか、何週間であったか、或は何ケ月であったかは私たちは知
ることが出来ない。この『久しく』という表現は、この回の旅行を通じてルカ
の使っている唯一の時間をあらわす言葉である。
ルカがここで言っている『主が自らその御言葉を証したもうた』方法は、近
代しばしば用いられるこの言葉の使い方とは甚だ異っているから、注意する必
要がある。今日多くの人は主の証ということを次のように考えがちである。即
ちある特定の人の伝道の働きが主に『全く支配され、認められている』ことの
証拠 は 、『 聖霊が豊 かに 流れ出 す』ことに見出される とする 。その 意味は彼の
働きの報いたる『能力ある改心の 業』の 数 を さ す 。 し か し 実 は 主 の 方 法 は 、
- 242 -
ルカによるならば、説教者の手によって『徴と不思議とを行わせる』ことであ
った。今日専ら言われているような意味の主の証というようなものは、ルカは
もちろん、他のどの霊感論者も一言も語っていない。この違いから明かなよう
に、近代のいわゆるリヴァイヴァリストたちは、使徒たちの時代よく行われた
この『徴と不思議』というものを、今日のリヴァイヴァルの際などによく見ら
れる一種の興奮的なシーンと混同しているのである。しかしそのような『徴と
不思議』は、初代の伝道者たちが夢想だにしなかったことである。この問題は
つねに使徒行伝から発する光に照して考究されなければならない。
4-7節
パウロとバルナバの大胆にして、しかも一歩も後へ引かぬ努力は、
この町を底の底までかきまわしたが、なお彼らはユダヤ人の頑固さと異邦人の
腐敗とに勝つことは出来なかった。
14:4
町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。
14:5
異 邦 人 とユ ダヤ 人が 、指導者と一緒 に なって二人 に乱暴を働き、石を投げ
つけようとしたとき、
14:6
二 人 はこ れ に 気 づいて、 リ カ オ ニ ア 州 の 町 で あ る リ ス ト ラ と デ ル ベ 、ま た
その近くの地方に難を避けた。
14:7
そして、そこでも福音を告げ知らせていた。
こゝではユダヤ人は、アンテオケのように説教者たちに向って直接暴力をふ
るうことはしなかった。それは自分たちが人々から平和を乱すものと見られる
のをおそれたためである。そこで彼らは他の人々を通じて町の司たちに働きか
け、遂に司たちを動かすよう工作したのである。彼らの仕組んだこの卑劣な襲
撃には、石打ちや他の色々な辱しめが用いられたことから、私たちはユダヤ人
らがこのような仕業を実行する許可を得ていたのであろうと考える。なぜなら
石打ちの刑はこの民族に許された極刑の唯一のやり方だからである。さてこの
ような場合には常にそうであるが、この場合にも、町の大衆は二派にわかれて
いたにもかゝわらず、真理と正義に与する側は暴力に与する側に比べて、さほ
ど活発に動いていない。それは彼らがどこまでも真理の味方であったがために、
暴力を用いることを好まなかったのである。二人の宣教師がこの町からのがれ
得る道は甚だ狭いものであったにちがいない。そしてこの脱出が成功したのは、
おそらく或る友の注意深い親切によったものであろう。或は従わぬ人たちの中
でこの陰謀をもらしたのが、脱出に間に合ったのかもしれない。使徒たちは引
つゞき、別の旅の時と同様、南東へと進み、私たちがすでに挙げたあの大平原
を横切って、イコニオムから約65kmのルステラに向った。
- 243 -
9.ルステラでの伝道とその結果(8-20)
8-12節
使徒たちがのがれて行ったルカオニヤの地方は、ピシデヤの東に
あり、タウルス山脈の北方にあたる。ルステラの正確な位置に関しては、最近
Ramsey 教授によって 発見されるまでは、ごく近年まで知られていなかった
(Historical Geography of Asia Minor)。
ルステラで、敬虔な聴衆を集めるべきユダヤ人の会堂を見出し得なかった宣
教師たちは、野外で説教しなければならぬこととなった。当時どこの町にも見
られた狭い道路は、人々を集めるのには甚だ不便である。しかし大ていの町に
は門の内側及び外側に多少の空地があって、集会には恰好の場所を提供してい
た。 下 の 文 章 の 前 後 関 係 か ら 見 て(:13)、 次 の事 件 が おこった 時に パ ウロ は町
の正門の所で群衆に語りかけていたことがわかる。
14:8
リストラに、足の不自由な男が座っていた。 生まれつき足が悪く、まだ一度
も歩いたことがなかった。
14:9
この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされる
のにふさわしい信仰があるのを認め、
14:10
「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍
り上がって歩きだした。
14:11
群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神
々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。
14:12
そ して、バ ル ナバ を「ゼウ ス」と 呼 び、ま た おも に 話す 者 であ るこ と から 、
パウロを「ヘルメス」と呼んだ。
パ ウロ がこ の 跛者 の 顔に 見 出した 『癒され る べき 信仰 』 (現行 訳= 救 はるべ
き信 仰 )とは 、 パウ ロ が 自分 を癒し得 るとい う、こ の 人の 信仰で ある 。 パウロ
が彼を癒すことが出来る程の信仰をこの人が持っていたという考えは、聖書の
どこからも出ていない。(3:16の説明を見よ)。この男はこの信仰を決してパウ
ロがそれまでになした奇蹟から得たのではない。なぜならルステラにおいては
これは最初の治療だからである。従って彼の信仰のよって来る源はどうしても
パウロの語った言葉の内容でなければならぬ。おそらくパウロはイエスのかつ
てなし給うた奇蹟的治療について語り、又同時に遣わされた使徒たちに対して
与えられた同じ様な奇蹟を行う力についても語っていたのであろう。或は彼は
イコニオムで行った奇蹟についても語り、群衆を見まわして適当な患者を物色
したかもしれない。パ ウ ロ は こ の 跛 者 に 目 を と め 、 彼 を じ っ と見つめた時、
- 244 -
この跛者が慢性の病気をもつ気の毒な人たちが常にもっている信心深さをもっ
て、パウロの厳かな説教に耳をかたむけていたことを、そしてパウロの持つ能
力を信じていることを知った。即座に、パウロは大声で命令した『なんぢの足
に て真 直 に 立て !』。 する とど うだろう、跛者 は躍り上 って歩いた。群衆 の驚
き!人々はまるで恐ろしいものを見たかのように、跛者からはなれて後へとび
退った。瞬間、彼らの心に閃いた結論、彼らの異教的教育から出て来た唯一の
結論は、二人の神が人間の形をとって今自分たちの前に天降ったということで
あった。私たちは 又更に後に(28:1-6)やはり同じような異教徒の一群が、同じ
ような状況の下に同じ結論に飛躍しているものを見る。さてこの説教者たちが
神々であるという確信が来るや否や、彼らが考えたことはそれでは一体どの神
様だろうかということに関する意見である。二人の説教者の中一人は今彼らの
門の前にそゝり立つ神殿の、こ の 町 の 守 護 神 ゼ ウス で な く て 誰 で あ ろ う か 。
また他の一人はおもになって語る人であったから、ゼウスの通訳者、雄弁の神
ヘルメスにあらずして誰であろう?興奮した彼らが、パウロの使った言葉また
彼らの既知の言葉であるギリシャ語を使わずに、土地の方言で叫び出したのは
当然である。彼らの叫び声にはさすがのパウロも一時沈黙せざるを得ず、一方
彼が黙って人々の静まるのを待っている間に、群衆の一部はいつのまにどこへ
行ったか、ゼウスに捧げるべく用意されていた二頭又はそれ以上の肥えた犢を
連れて来る、また或る者はその犠牲の角を飾る花輪をうやうやしく持って来る
始末である。
13節
パウロが更に、説教をつゞけようとして時をうかがっている中にも、
人々はどっと宮の中へなだれ込んで行く。そしてパウロは彼らのたゞならぬ叫
び声から、今まさに何が行われんとしているかを知ったのである。
14:13
町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門 ① の所まで雄牛 ② 数頭と花
輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。
①Howson 氏 は その 著 Life and Epistles of Paul の中 で、こ こで 門と 訳されてい る
語
πυλῶνας
は決して町の門を意味せず、常に個人の家の門をさすとし、従ってパ
ウロとバルナバとはこの時自分たちの宿所に引きあげていたが、偶像礼拝者たちが犠牲を
ささげるためにわざわざ彼らの家の門前まで牛を引っぱって来たのだと主張している。ま
たこの考えは何人かの註解者たちによっても取上げられている。しかしこのギリシャ語に
対する彼らの批評は実は不正確極まるものであり、事実黙示録の中ではこの言葉は町の
門の意味で、何度も何度も繰返し使われているのである。ヨハネ黙示録21:12,13,15,21,
25、また22:14参照。更にまたゼウスの神殿が町の門前にあった(13)ことから考えても、
祭司はまさかわざわざ神殿をはなれて、町の通りまで犠牲をささげに出かけて行きはしまい。
- 245 -
以上のことから考えて私たちは、私たちがすでに論じたような解釈に落着かざるを得ない。
②原語は
ταύρους
14-18節
パウロとバルナバは今自分たちが神として崇められようとして
いるのを見て、愕然とした。
14:14
使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと ① 、服を裂いて群
衆の中へ飛び込んで行き、叫んで
14:15
言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなた
がた と同じ人 間 にす ぎ ま せん 。 あな たが た が 、こ の よう な 偶像を離 れて、 生ける 神
に立 ち 帰る よ う に 、 わた し た ち は福 音を告 げ 知ら せている の で す。 こ の 神こ そ 、天
と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。
14:16
神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにし
ておかれました。
14:17
しかし、神 は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵
みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがた
の心を喜びで満たしてくださっているのです。」
14:18
こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、や
っとやめさせることができた。
①英訳では “
heard of it ”『これについて聞いて』となっており、あたかも使徒たちが
遠い所にいて、おこったことを実際見ていなかったか、或は使徒たちが彼らの語るルカオ
ニヤ方言を解せず、人々の中でギリシヤ語を話す者が告げるのを聞いてはじめて、自分た
ち が 神 だ と い わ れて い る の を 知 っ た か の よ う に 見 え る が 、 実 は そ う で は な く て 、 た だ 単
に『 これ を 聞いて』 (
ἀκούσαντες )である 。彼 らは祭 司たち やその 他の 人々が 牛と 花
を 持 って 来 る の を 、 わ け の わ か ら ぬ ま ゝ に 見 て い た か も し れ な い が 、 お そ ら く 祭 司 の 叫
び 声 又 は 群 衆 の 叫 び 声 か ら 直 ち に 事 情 を さ と っ た の で あ ろう 。 以 上 の 記 事 は 、 パ ウ ロ も
バルナバもこの時ルカオニヤ人たちの言ったことを解しなかったとする説に、何ら根拠を
与えるものではない。
こゝで私たちはルカが使徒という称号をバルナバに対しても、パウロと同じ
ように用いていることに注意しなければならない(14)。勿論バルナバは十二人
の一人ではなかったから、十二使徒と同じ意味においては使徒ではなかったけ
れど も 、なお かつ 他 の幾人 かの人たちと共に使徒と呼ばれている(ロマ16:7、Ⅱ
コ リン ト 11:13、ガラテ ヤ10:19、黙示録2:2)。これは おそらく、これらの人
たちがかつてイエス から直接教育をうけたためか、或はマタイによって記録さ
- 246 -
れている大委任が 与えられた時に列席していたため、そう呼ばれているのであ
ろう ① 。
① 使 徒 と い う 称 号 の 新 約 聖 書 に お ける 用 法 に 関 す る 念 入 り な 説 明 は Lightfoot著 「 ガ ラ
テヤ書註解」中の論文を見よ。
突然はげしい心の動揺を経験した時に衣を裂くというこのユダヤの習慣は、
既に古くヤコブの時代に端を発するもの(創世記37:29-34)であるが、この個所
(14)は聖書の中にあらわれる最後の例である。クリスチャンの信仰が教え養う
所の沈着の精神は、やがてユダヤ人のキリスト教徒たちの習慣の中からこの風
習を取りのぞいたらしく思われる。
この場合バルナバは人々から主な尊敬を受け、ルカもこのために上のパラグ
ラフ中では彼の名をはじめにおいているけれども、なおかつパウロはこの騒乱
の場面全体を通じて立役者であった。彼は民衆が彼に帰したその名ヘルメスの
役を続けて演じたのである。事実、偶像礼拝者たちにとっては彼の言葉は、全
くヘ ルメ ス の 御告 げで あっ た。Howson 氏は 『斯 かる虚 しき 者 より離 れて神
に帰れ』というパウロのルステラ人に対するすゝめと、彼がテサロニケ人に対
して『汝らが偶像を棄てて神に帰しし』といっている言の間に、また『過ぎし
時代には神、すべての国人の己が道々を歩むに任せ給ひしかど』という言葉と、
アテネ人に対する『神はかゝる無知の時代を見過しにし給ひしが』という言葉
との間に、そして最後にまた神が決して異邦人の中に自己を証し給わなかった
わけではないとする議論と、ロマ書において彼が(1:20)『それ神の見るべから
ざる永遠の能力と神性とは、造られたる物により世の創より悟りえて明かに見
るべければ、彼ら言ひ遁るる術なし』といっている個所との間に、それぞれ一
致のあることを指摘している。これに対して私に一言つけ加えることを許され
るならば、この説教と、アテネにおいて同じような偶像信者たちに対してなさ
れた説教(17:22-31)との内容の一致は驚くばかりであり、殆ど、彼が全く同じ
説教を異る聴衆のために少 し く 変 えて 話 し た と 考 えら れ る 程 で あ る 。いずれ
にせよこの演説は今まさに行われんとしていた犠牲を捧げる行為を防止するに
は成功したが、偶像礼拝者たちの方は突然天降ったこの二人の客人が誰である
かを判じかねて、いたく困惑した。
19節
こうしてパウロは日々伝道の働きをつゞけて行ったが、しかしこれら
偶像信者たちをおゝう暗黒の深さはあまりにもひどいものであって、彼がもた
らした啓示を彼らに理解させようとする彼の懸命の努力も遂に水泡に帰すよう
であった。一方この時二人の人が神として危く礼拝される所であったという珍
- 247 -
妙なるニュースは、町から町へと風のように伝わり、遂にイコニオムやアンチ
オケにいるパウロの敵たちの耳にも入ったから、憎悪にかりたてられたこれら
の人たちは大挙して、ルステラめがけて急ぎせまって来た。
14:19
ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群
衆を抱 き込 み、パウ ロに石を投げつけ 、死んで しま ったも のと思って、町の 外へ引
きずり出した。
これらユダヤ人の悪意は私たちの了解に苦しむ所である。一人の何の害も与え
なかった人を理由なくして憎み、このたった一人の人に危害を加えるために、ア
ンテオケから来た者は210km、イコニオムから来たものは65kmの大旅行をして
やって来たのである。彼らがルステラ人たちを唆かした演出法は想像に難くない。
彼らはおそらく言ったろう『諸君がこの二人の私たちの同国人を神様だと思っ
て礼拝 したという 話は聞いた。我 々 は こ の 男 た ち の 正 体 を 教 えて あ げよ う 。
この男たちはユダヤ人でこの間からアンテオケへやって来て、この町の同国人
の最も忌み嫌う卑劣なことを行い、そのために町の司や貴女たちによって町か
ら追放された連中なのだ。この男たちはそれからイコニオムへ行って又そこで
も害毒を流したものだから、町の司たちはユダヤ人と異邦人の助けをかりて石
で打とうとしていた。それをうまくのがれて今こそこそと泥棒のようにルステ
ラへ逃げ込んで来たのだ。我々はこの男たちがこれ以上我々や我が国の名誉を
汚すのを見るに耐えない。諸君のお許しを得てこの男たちのインチキ魔術を終
にしてしまいたいのだ。彼らが諸君の中でやって見せている不思議なことは、
あれは悪霊の力をかりてやっているのだから』と。パウロとバルナバの同国人
の口からこのような説明を聞いたルステラの人々は、忽ち容易に彼らの言う通
りにさせることに同意した。
過去の苦い経験から、ぐずぐずしていればパウロに逃げられてしまうことを
知っていた彼らは、パウロが例のように御言を語ろうとして町の門近くに来た
時、突然手に手に石を持ってパウロに向って突進し、一瞬間の中に石で打ち殺
してしまった。彼は町の門の内側に倒れた。群衆の中でも一番乱暴で強そうな
二三 人が パウロの死体の 手を(或は足を)つかんで町の外へ引 きずり出した。そ
こで彼の死体は丁度獣の死体のように、鳥か野獣の餌食になろうというわけで
ある。彼らはこの成功に満足し、他方この残酷な行為について町の司以上の権
力から或は呼び出されることをおそれたのか、これらの殺人者たちは直ちに郷
里に向って逃げ帰ったにちがいない。彼らはおそらく、以後二度と再びパウロ
と称する平和の撹乱者が生きてやって来るとは夢にも思わなかったろう。
- 248 -
20節
この時までルカは、パウロのルステラでの伝道の報いとして回心者が
与えられたということは記載していない。しかしこのページにおいてルステラ
で回心した弟子たちが登場する。しかも最も憐むべき状態において…
14:20
し か し 、 弟 子 た ち が 周 り を取 り 囲 む と 、 パ ウ ロ は 起 き上 が って 町 に 入 っ て
行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。
弟子たちが危険をおかして死体のある場所へ出かけて行くまでにどれ位待っ
たか、パウロの死体の囲りで彼が息を吹きかえす徴候が見えるまでどれ位の時
間が経っていたか、またそれからどの位経って彼らが危険な町の中へ帰ったか
…ルカは読者の想像にまかせている。私たちの想像にすぐ浮ぶのは次のような
シーンだ。彼らが深く愛するその人の痛々しい傷と血とを見た時、彼を殺した
その残酷な方法を想像した時、また狼の中に囲まれた小羊のような自分たちの
運命を思った時、この小さい群の痛涙と絶叫とはいかばかりであったろうか。
しかしパウロがその両眼を開いた時私たちは彼らと共に喜ばなければならない 。
私たちは今、石で打たれて無意識状態になったパウロの中に、なお生命の最後
の光が残っており、硬い敷石の上や町の中、又郊外の道路の上を引ずられて、
この場所に捨てられるという恐ろしい取扱の中にも、その最後の光が消えつく
さなかったことに驚くのだ。だが、彼はどうしてこんなに速かに立って歩くこ
とが出来たのか?どうして彼がすぐ翌日バルナバと一緒に次の旅行に出発する
ことが出来たのか?その晩徹夜でやさしい手と愛の看護とが、彼の身体の多く
の傷を包み血を洗い、深い同情の言葉で彼をなぐさめ励ました事実がこれを説
明するのではないだろうか?
神に感謝せよ。私たちはこれらの親切な愛にみちた友人たちの名を、全然想
像だけにまかされているのではない。テモテはルステラの土地の人であり、パ
ウロのこの時の伝道の際にバプテスマを受けていた。そしてこのことがあって
から長年の後、私たちはパウロが遂にあの斬首台にひき行かれることとなった
ロマの獄中から、彼がかつて告発の中で友となった人たちの中、彼が最も愛し
た青年テモテにこの心あたゝまる美しい言葉を書き送っているのを聞くのであ
る。曰く『われ夜も昼も祈の中に絶えず汝を思ひて、わが先祖に倣い清き良心
をもて事ふる神に感謝す。我なんぢの涙を覚え、わが歓喜の満ちんために汝を
見んことを欲す。是なんぢにある虚偽なき信仰をおもひ出すに因りてなり。そ
の信仰の真に汝の祖母ロイス及び母ユニケに宿りし如く、汝にも然るを確信す』
(Ⅱテモテ1:3-5)。パウロが思い出す涙とは、当時十五才 ① の少年であったテモ
テが彼の傷ついた身体の上に流した涙ではなかったか?死の苦しみの中から息
を吹 き かえす寸前 の息づまる 一瞬、彼 を と り か こ んで 立 つ 人 々 の 中 に 、信仰
- 249 -
深いユニケと高徳のロイスとがいたのではなかったか?パウロの連れて行かれ
た家が果 してこの人たちの家であったならば、そしてこの人たちの手によって
徹夜の看護がさしのべられたのであったならば、彼の速かな恢復は少くとも一
部説明されるではないか。この十五才の少年が見た光景は如何に美しいもので
あったろう。しかも彼は幼い時からユダヤ人の聖書の教える最も聖なる情操の
中に育って教えられ、この時には丁度新に贖主の御国に生まれたばかり、その
魂は人間の性質の中のあらゆる崇高なものに敏感に感ずる無垢の魂である!
彼
の心がこの時以来まるで孝子が慈父に対するかのように、パウロの心に結びつ
けられてしまったことも不思議ではない。パウロ自身またこのルステラにおけ
るすべての苦しみの報いとして受けたものは、いかに尊い大きなものであった
ろう。なぜならば彼は後に自ら『彼のような心を持った人を私は知らない』(ピ
リピ2:20)と告白している。全世界が彼を棄て彼を憎むと見えたその同じ時に、
彼が未だかつて知らぬ最も親愛なる友人が彼のそばに近づいていたのである。
①こ の事 件 がお こった のは 紀元48年よ りお そくは ない 。そ してパ ウロ が64年以前 にテ モ
テに書きおくった第一の書簡(Ⅰテモテ4:12)の年に、彼はまだ一青年であったから、この
石打ちの刑の時にはテモテの年は十五より上ではない。
10.デルべにおける成功とアンテオケへの帰還(21-28)
21、22節
アンテオケから、イコニオムから、そして又今ルステラから追
出され、身には生々しい侮辱のしるしをおびて新しい異教の町に近づいた時、
傷ついた宣教師の感情は如何ばかりであったろう。しかし暗黒の中より光をも
たらし給う神は、新にする光をこの忠実な僕の暗い前途に輝かせ、この町にお
いて平和な豊かな魂の収穫を後に与え拾うた。
14:21
二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、
イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、
14:22
弟子た ち を力づけ、 「わ たした ち が 神の 国に入 る に は、 多くの 苦しみを経
なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。
使徒たちが全然迫害を受けなかったように思われるこのデルべの町はルステ
ラより何マイルか東の方にあり、キリキヤの門と呼ばれる有名な山間筒道に程
遠くない。このキリキヤの門はタウルス山脈の間を縫って、キリキヤの平野を
タルソに向って通じている。もしパウロが旅程を変更して一時友人や親戚たち
のもとに休息しようと思えば、かつて少年時代をすごしたなつかしい故郷に足
を向けたであろう。しかし彼は何よりも自分が後にのこして来た弟子たちの安
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否を案じ、万難をおかして再び彼らを訪れようと道をとって返した。彼がいか
にして再びルステラ、イコニオム、アンテオケに入ることが出来、また弟子た
ちを教育し組織するだけの時間そこに滞在することが出来たか、どうしてかつ
て彼を町から追出した迫害者たちが再び彼を迫害しなかったのか、ルカは私た
ちに何も手がかりを与えてくれない。或は暴徒の激情も既に時がたって多少静
まり、パウロもまたこの新しい信仰への新しい回心者を得るためにさほど努力
しなかったということも考えられる。集会は個人の家でそしておそらく夜に行
われたにちがいない。使徒たちは弟子たちにその信仰にとどまることをすすめ、
また少くとも彼らの時代において永遠の御国に入ろうとする者は、彼らが既に
受けていたような多くの患難の道を通らなければならないことを教えて、彼ら
の魂を堅うした。弟子たちはこのパウロの言によって、クリスチャン生活とい
う旅路の終において与えられる褒美は、その途中のあらゆる苦難をつぐなって
あまりあることを教えられ、苦しみに耐える力を与えられた。そしてさながら
天国からの訪問客のごとき二人の兄弟が、今彼らに最後に別れの言葉をのべ、
後にのこる兄弟たちの前途に横たわるさまざまの誘惑と苦闘を自ら彼らが切り
ぬけるように、彼らをのこして去る時、涙の光景があったにちがいない。
23節
彼らは『狼の中の羊のように』のこされた。しかし、彼らは同時に偉
大なる牧者キリストの御手にゆだねられ、そしてその檻の中にはこの大牧者の
下に彼らをまもるこの世の牧者が与えられた。
14:23
また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し ① 、断食して祈り、彼ら
をその信ずる主に任せた。
①こゝに『えらび』(英 appointed=定めた、任命した)と訳されている語(
χειροτονέω )
は、第一義的には手をさしのべること、二義的には手を動かして指し示し任命すること、
第三には方法にかゝわらず任命することである。Grimm 著 新 約 聖 書 ギ リ シ ヤ 語 字 典 。
はたしてこれがパウロとバルナバが自らした行為であったのか、それとも一人が人々にな
さ せ た 行 為 な の か は 明 かで な い 。 こ の 語 の 意 味 か ら 考 え れ ば 前 の 見 方 が 正 し い よ う で あ
り、 十 二 使 徒 たち が 人 々 に 執事 を 選 ばせ た 前 例 (6:1-3)か ら考 え れ ば 、 後 の見 方 が正 し い
ようである。この問題に関する色々な意見については、Meyer 著註解書14章末尾アメリ
カ版編者註Lに概略あげられているから参照されたい。
私たちはここで長老たちが立てられるに際して断食と祈りが行われているの
を見る、それはちょうどエルサレムにおける七執事選任の時に祈りと按手とが
あ っ た (6:6)こ と と 相通 じ 、 ま たア ン テ オケ 教 会 が バル ナバ と サ ウ ロ と をそ の
召さ れた 業のために選別する時に断食と祈りと按手とがあったことに相通じる。
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上の二つの場合に何れも行われた按手ということは、こゝでは言われていない
けれども、上の例で按手がこれら二つの儀式の何れも一部分であったことから
考えて、この場合にも行われたものと推論して差支なかろう。
こ ゝ で注意 しなけ ればな ら ないこと は、『教会 毎に』立てられた長老が複数
であったことである。そして私たちの知る限りにおいては、これはすべての使
徒たちがあらゆる場所で行ったことであった。これらの長老を選任するにあた
ってパウロとバルナバは、かつてユダヤの諸教会に同じ職を立てた古い使徒た
ち の例 に その まゝな ら ったのであった(11:30)。この 問題に 関する精密な議論
は別な論文に、或はテモテ前書註解にゆずった方がよいようである。もしこの
新しく建設された教会の中に、パウロがテトス書やテモテ書に示している職員
の資格にふさわしい人が果して、いたかどうかを疑う人があるならば、その人
は、これらの弟子たちは教会生活の日がなお残かったとはいえ、その多くは聖
書の知識と聖書的性質においては、ユダヤ人の会堂からとれた真に熱した果実
であったことを思い出さなければならない。彼等にとって必要なのはこの聖書
の知識の上に福音の知識を加えることだけであった。だから彼らは決して所謂
悪の道 から新しく 帰った『新に教に入りし者』(Ⅰテモテ6)ではなかった。百
卒長コ ルネリ オが異邦人 の回心者としてこのクラスを代表するならば、ナタナ
エルはユダヤ教信者から回心して教に入ったものを代表するということが出来よう。
24-26節
かつて植えつけたこれらの教会のために出来る限りのことをし
終えた使徒たちは、帰路をつゞけてアンテオケからぺルガに下った。こゝはク
プロから船に乗ってはじめて上陸した所である。
14:24
それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、
14:25
ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、
14:26
そ こ か ら ア ン テ ィ オ キ アへ 向 か っ て船 出した 。 そ こ は、 二人 が 今成 し 遂げ
た働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。
彼らが最初ぺルガを訪れた時になぜ『御言を宣べ』なかったか、また彼らが
今どのような成功をおさめたか、これもやはりルカによって記されていない。
しかしこの省略された部分は記録された他の部分に比して重要でないというの
では決してない。他の新約記者たちの場合にも言えることである。おそらくこ
の町での説教はそれに伴う見るべき結果を得ようとする希望よりも、むしろア
ンテオケ行の船を待つ間の時間を充分有効に利用しようというのがその目的で
あっ た と思 われる。 この 見方はまた彼らが 結局 、陸 路 ア タ リ ヤ ① に ま わ っ て
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そこから船に乗ったという事実から確証される。アタリヤで彼らが便船を得る
確率はケルサス川をのぼったアタリヤよりは高かったのである。彼らはここか
ら途中どこにも寄港せずに海路『アンテオケへ行った』。
①アタリヤ は今でも重要 な海港であ ってレヴァント(地中海東岸の総称)の沿海航路の定期
寄港地になっている。
27、28節
パウロとバルナバが最初ぺルガを出発して以来、アンテオケの
教会が二人から何らかの情報を受取っていたかは甚だ疑わしい。マルコはアン
テオケに帰って、 自分のついて行った所までのニュースを教会に伝えたかも知
れない。従って彼らが三~四年の不在の後、何の前触れもなくこの町に現れた
時、私たちは彼らが心からの歓迎と、たてつづけの質問攻めに会ったであろう
ことを想像出来る。彼らは実に異邦人に対する世界最初の伝道旅行から帰って
来たのである。彼らがその一部始終を語って聞かせたい熱心は、弟子たちが聞
きたい熱心にまさるとも劣らない。苦しい戦いに勝って良き音信をもって帰って
来た人は、これから話したい、つきない話の重荷をかついで喘ぎ喘ぎ話を始める。
14:27
到 着 す る と す ぐ 教会 の 人 々を 集め て 、神 が 自 分 た ち と共 に い て行 わ れ た
すべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
14:28
そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。
人々が福音の特権に近づくことを、また説教者が人々の心に近づくことを、
開かれた門によってたとえるこの比喩は、かつて私たちの主がお用いになった
もの で あ る(ヨハネ10:1、2、 7、9)。そしてそれはパウロ の好 んで用いたたと
えで も あ る (Ⅰ コリント 16:9、 Ⅱ コリント2:12、 コロサイ4:3)。また栄光 に入
り給うた後の主の口からも語られている(黙示録3:8,20)。今二人の使徒の派遣
によって異邦人の世界に開けた信仰の門の比喩がここに用いられているのは、
Plumptre が暗示しているように、パウロ自身の用語法がこの記事のルカの文
章に反映しているのであろう。使徒たちがアンテオケに留った『久しく』とい
う期間は、その後次の章に記されるエルサレム行の旅行までの間を言っている。
そしてもしこれを前回のアンテオケ滞在と比較して概算するならば、その間一
年以上であったと思われる(11:26と比較)。
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第二項 割礼に関する論争
(15:1-35)
1.論争のおこり(1-5)
1節
ここでルカはユダヤ人と異邦人に対する弟子たちの戦いの記録から突然
筆を転じて、弟子たち自身の内部における重要な論争に移る。この論争の一面
の問題は既に早くコルネリオの家の割礼なき異邦人たちがバプテスマを受けた
ことに端を発していた。問題はこのような人々をバプテスマすべきや否やとい
うこ と で あった。しか しこの 第一の問題は既にペ テ ロ に 示 さ れ た 神 の 御 旨 が
ペテロによって兄弟たちに示されていたから、明瞭にしかも最後的に解決して
い た (11:18)。 この 事 実 は 不思 議に も多 く の註 解者 たち によって 看逃さ れてい
るけれども、私たちが次につゞいておこった問題のもう一つの面を明瞭に区別
して認識しようとするならば、この事実をはっきりと心にとめなければならない。
さて今アンテオケにもち上った問題は全く別の問題であった。論争者たちは、
パウロやバルナバがしていたように外国の伝道地においてもまたアンテオケに
おいても、異邦人をバプテスマすることの可否を論ずるのではなくて、これら
の人 たちが 既に バプテスマされて罪の赦を受けた後、最後の救の条件として割礼を
受けなければならぬという議論を提出したのである。彼らの論旨とこれを主張
する人たちとは次の文章に紹介される。
15:1
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなけ
れば、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
これらの人々がユダヤから、言 い か え れ ば 福 音 の は じ めて 宣 べ ら れ た 地 、
しかも最初に使徒となった十二人の人たちが教師として教えていたユダヤから
来たという事実は、彼らのアンテオケの兄弟に対する発言に大きな権威を与え
た。従って彼らが必ずしもその教について使徒たちから権威を受けて来たとい
うことを主張したと想像する必要はない。勿論それを主張したということも考
えられるが……。彼らが割礼を特に主張したのは、この割礼をユダヤ人に義務
づける第一の根拠であるアブラハムとの神の契約のためではなく、むしろモー
セの律法のためであった。そして彼らがモーセの律法によって割礼を主張した
理由は、割礼はモーセの律法の一部分として、これを守るものに律法全体を守
ることを要求し束縛するからであった。しかし単なるアブラハム的儀式として
の割礼は人を律法に束縛するものではない。なぜならイシマエル人、エドム人、
ミデアン人及び他のアブラハムの子孫は、割礼を受けたけれどもモーセの律法
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に束縛されぬこと明らかだからである。ここに用いられている言葉の使い方か
ら見て彼らはモーセの例にしたがう割 礼 と い う も の を 主 張 し た よ う で あ る 。
それは彼らがすべてバプテスマを受けた者は、ユダヤ人たると異邦人たるとを
問わず、最後の救いを得るためにはモーセの律法を守らなければならないと言
っているからであ る。彼らはかくも長い年月存在して来たこの律法が、そして
そ の 祖 先 たち が そ れ を ま も る た め に 多 く の 苦 難 を も い と わ な か っ た こ の 律 法
が、永遠の生命の嗣子となったものにとってはもはや守る必要のない事に考え
及ば なか っ た 。 彼らは その 使 徒の委任 を考える にあたっても 、『わが汝らに命
ぜし 凡ての事を 守るべきを彼ら(バプテスマを受けた者)に教えよ』(マタイ28:20)
という言葉に含まれている事柄の中に、割礼と律法を守ることとを含めて考え
ずにはいられなかったのである。
2節
既に久しい以前にキリストから直接の黙示によって、その説く所の福音
の真 の知 識を 与えられて い たパ ウロ(ガ ラテヤ 1:11,12)は 、この 教えが 全く誤
ったものであることを知っていた。そしてまたバルナバもたとえ他の何らかの
資料からこの事を知ったのでないとしても、当然パウロから学んで知っていた。
そのような理由から二人は全力を合せてこれらユダヤ的教師たちに反対した。
この争論が継続している間アンテオケの兄弟たちの心を撹乱した教会の混乱と
苦しみを私たちが理解するためには、今日の教会内において色々教理的な重大
な論争が教師たちの間におこった時の教会の状態を想像してみればよい。パウ
ロとバルナバはその反対者たちを説き伏せて沈黙させることには成功しなかった
けれども、遂に非常に優利な仮決議までことを運ぶよう、その論議を推し進めた。
15:2 そ れ で 、 パ ウ ロ や バ ル ナ バ と そ の 人た ち と の 間 に 、激 しい意 見の 対立 と論
争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナ
バ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった ① 。
①こ の動 詞 を appointed(任命 した 、R.V.)と 訳さ ず determined(決心し た、 決定 した)
と訳すことが正しいことについては、13:48の説明を見よ。
もしこの時アンテオケの兄弟たちが霊感をうけた使徒の権威を正しく認めて
いたならば、このようにエルサレムに派遣するようなこともせずに、パウロの
裁定にすぐさま従った筈である。しかしかつてナザレの人たちがイエスにあま
りにも親しかったように、彼らがパウロという人に対してあまり親し過ぎたた
めに、アンテオケの兄弟たちはパウロが神よりの権威をもって語っていること
を直 ち に受入 れるこ とが 出来なかった。 またパウロが最初に使徒になった十二人
の一人でなかったという事実も、彼らをして彼の言葉が十二使徒のそれよりも
権威において劣ると考えさせた。しかし彼らはこの派遣の結果、この時にはま
ず悟らなければならなかったことを結局悟ったのである。そしてこの時以来恐
らく彼らはパウロの教えを二度と再び疑うようなことはなかったであろう。
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パ ウ ロ と 他 の 人 たち を こ の 事 件 の た め に エ ル サ レム に 派 遣 す る と い う 提 案
は、当然パウロがエルサレムにある使徒たちや長老たちより権威において劣る
ということを内に意味するものであったから、パウロはこの時、もし主が明か
に直ちに行けと命じ給わなかったならば、その使徒としての特権を維持するた
めに多分行くことを拒んだにちがいない。実際彼自身この時の旅行のいきさつ
に つ いて 『 我 が 上 り し は 黙 示 に よ り て な り 』 と 言 ってい る (ガラ テ ヤ 2:2)。 彼
をエルサレムに上らせたこの黙示は、たゞにアンテオケ教会のためのみならず、
全世界とあらゆる時代の人々のために、この問題を解決すべきであるという神
の計画に出でたものであった。
こゝでこの節をはなれる前に、私たちはこの措置が決して教会の決定を何か
或る他の一層高い裁判法廷に上告したものではないということに注意したい。
何故なら実際上そこでは何らの決定もなされていないからである。またこの事
は教会が一つの代表団体に対して特別な訓令を請うた前例でもない。なぜなら
この時の団体はエルサレムにいた使徒たちとエルサレムにあった一教会の長老
とか ら な って いたに す ぎないからである 。実 際 、 後 の 記 事 で わ か る よ う に 、
た ゞ 古 い 三 人 の 使徒 だけ が こ の 決定 を行 うの に 与っ た(ガラ テヤ 2:9)ので あっ
た。これら二つの重要な点からみても、この時アンテオケ教会がとった処置は、
今日の教会によくある下等の教会法廷から高等の教会法廷に上告する方法とは
全く異るものであり、聖書は後者について何らの先例をも提供していないのである。
3節
エルサレムへの旅行は陸路をとり、使者たちは既にかなり福音化されて
いた二つの地方を通って上京した。
15:3
さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通
り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
サマリヤ人はユダヤと同じく割礼を受けた人たちであったが、異邦人に対す
る反感はユダヤ人程はげしくなかったし、ピニケの弟子たちも概してユダヤ人
からなっていたけれども殆ど異邦人に同化していたから、異教世界における福
音の勝利を聞いた時には、どちらも心から喜んだにちがいない。
4節
喜びにみちた諸教会の間を通って楽しい旅行をした後、彼らはエルサレ
ムに到着した。こゝではバルナバの名がかつて教会の草分け時代『なぐさむる
者』としての働きによって、神聖な記憶に留められており、またパウロの名は
今や勇敢な献身的伝道者として有名であり、異教諸国におけるパウロ・バルナ
バの二人の伝道旅行の噂も、既に二人の到着に先立って人々の間に言いはやさ
れていた。彼らが受けた歓迎は当然のことである。
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15:4
エ ル サレ ム に 到着 す る と 、 彼ら は教会 の 人 々、 使徒 た ち、 長老た ちに 歓迎
され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した ① 。
①パウロのこの時のエルサレム行が、ガラテヤ書第二章に記録されているそれであるかど
うかについては色々な議論がある。しかし近代の記者たちは殆ど一致して、同一であるこ
と を 認 めて い る 。 Farrar は こ の こ と に 関 して 次 の よ う に はっ き り と 断 定 して い る 。『 こ
の 二 つ の 記 事 に お いて は 、 同 じ 人 々 が 、 同 じ 時 に 、 同 じ 場 所 か ら 、 同 じ 目 的 の た め に 、
同じ煽動者たちによる、同じ干渉から生じた事件で行き、そして同じ結果を得て帰った。
こ の 二 つ の 場 合 が 全 く 同 一 で あ る と い う 結 論 の 絶 対 確 実 性 に 対 して 提 出 さ れ る 反 対 論 の
論拠はといえば、ただ細かい点での些細な差異にすぎない。しかもこれら一つ一つにつ
いては、聖書本文の中からちゃんと説明がつくのである 。』(Farrar, Life and Work of
Paul, 228,n.5)合理主義者たちはこのことを認めるけれども、この事実を利用して次の
ようなことを証明しようとする。パウロはこの旅行を彼の改心後第二回目の旅行である
としているから、従って十一章に記されているパウロがバルナバと一緒に、施済のために
エルサレムに上ったという記事は偽りであると(Bauer, Life of Paul, i.114,115; Zeller
on Acts 2:8)。し か しパ ウロは 決してガ ラテヤ 2:1の旅 行が彼 の第 二回エ ルサ レム訪 問
であるとは言っていない。彼はたゞ『その後十四年を歴て、またエルサレムに上れり』と
言って い る の で あ る (ガラ テ ヤ 2:1)。 し か し こ れ は 彼が ガ ラ テ ヤ 書 で論 じ てい る こと に 関
する限りは、本当に第二回目の訪問であった。なぜなら彼がガラテヤ書のこの個所で言
わんとする時は、彼がこの時の旅行以前には、十五日間滞在した最初の訪問(ガラテヤ1:18)
以来、一度も自分より古い使徒たちに会って教えを受ける機会がなかったということであ
っ た か らで あ る 。 そ して 使 徒 行 伝 十 一 章 に 記 さ れて い る 短 い 訪 問 の 時 に は 、 そ の 頃 エ ル
サレムにいた、たゞ一人の使徒ペテロも、過越週中牢獄につながれ、そして都から脱出し
た よ う な 事 情 で あ っ た 。 パ ウ ロ と バ ル ナバ と は こ の 時 ユ ダ ヤ の 諸 教 会 の 間 で の 伝 道 が 終
る ま で 、 エ ル サ レム 市 内 へ 入 ら な か っ た よ う で あ る し 、 ま た 市 内 で の 滞 在 も 身 近 な 危 険
のためにごく短いものであったように思われる。11:29-12:25を見よ。
彼らの語った物語は人の心をわ く わ く さ せる ほ ど 感 動 深 い も の で あ っ た 。
そして同情ある聴き手には涙を流させたにちがいない。と同時にそれはまた彼
らの心の中に人間を贖う御業への新たな熱心をもえたゝせた。
5節
このようにこの時の光景は感 動 深 い 感 激 的 な も の で あ っ た け れ ど も 、
一方、教会内のある兄弟たちは、パウロとバルナバがその異邦人の改心者に与
えた教えの中に、彼らが重大な誤りと考える所を指摘する絶好のチャンスを逃
がそうとはしなかった。
15:5
とこ ろ が 、ファ リ サイ 派か ら 信 者に な った 人が 数 名立っ て、「 異邦人に も割
礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った ① 。
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①Bauer(Life of Paul,i.117-119; Church History, i.52)その他彼の代表する同じ学
派に属する人たちはそろって次のように言っている。即ちルカはこゝで事実を欺瞞してい
る。パウロの敵であったのは或るパリサイ人たちではなくて、パウロより古い使徒たち自
身であったと。しかしこれは全く論理を無視したものであり、その名をあげるにも足り
な い 。 パ ウ ロ と 他 の 使 徒 たち と の 間 に は 完 全 な 意 見 の 一 致 が あ っ た と い う パ ウ ロ 自 身 の
言葉(ガラテヤ2:6-10)は明かにこの断定が誤りであり、ルカの記事が真相を書いているこ
とを示すものではないか。
使徒行伝の始めの方の各章で教会に対するパリサイ人たちの敵意をいやとい
うほど読まされた私たちは、今そのパリサイ党の人たちのある者が教会の中に
いるのを見、また彼らが教会内で比較的有力な地位を占めているのを見て驚か
される。もっとも彼らが重要な問題について誤った意見を代表する側にいるの
を見るのは、さほど怪しむに足りないけれども。彼らは既にイエスをキリスト
であると証する証を拒み切れず、遂に彼の名の中へとバプテスマされていた。
しかしなおも彼らはその従来の考えを頑迷にも固執していたのである。パウロ
はこの時にはまだ彼らを偽り者と呼んでいないが、この会議の後久しくたって
か ら十 分に 彼らの 動機を 理解した末、彼 らを次のように呼 んでいる。『これ後
に入りたる偽兄弟あるによりてなり。彼らの忍び入りたるは、我らがキリスト
・イエ ス に 在 りて 有 て る 自由 を窺 ひ、 且われ ら を奴 隷とせ ん為 な り』(ガラテ
ヤ2:4)。パウロのこの彼らに対する判決文から私たちは断定出来る。彼らは遂
に外部からの迫害によって教会をほろぼすということに絶望し、故意にキリス
トを告白して教会に入り、今度は内部から教会を支配しようとしていたのであ
る。彼らの目的は教会をいつまでも律法の束縛の下におくことによって、パリ
サイ人自身が指導するユダヤ人の中の旧態を保存しようとすることにあった。
党派的熱心、過去の生活の毒、それがなおも彼らの情熱を支配していた。パウ
ロが彼らの中に何人かの古い友人を、しかもかつてはキリスト教徒迫害の自分
の助け手であり、近くはパウロを殺そうとした人たちの仲間に入っていた人々
を発見したであろうことは、容易に想像される。彼は彼らの心を奥の奥まで知
りぬいていた。
パウロとパリサイ人たちとの論議の中心は、神の教会の中にモーセの律法が
今なお存続するか否かという点であった。そしてこの同じ問題がこの時以来今
日に至るまで、色々形をかえて論じられて来ている。パウロはこのとき割礼を
教会にくっつけようとする試みを打ち負かした。しかし後代のユダヤ主義者た
ちは同じ思想を、幼児浸礼また後には幼児滴礼という形で教会の中に持ち込ん
でしまうことに成功した。つまりパリサイ人たちが公然となしとげるに失敗し
たことを、こ れ ら の 人 々 は 浅 膚 な る 仮 面 の 下 に 行 う に 成 功 し た の で あ る 。
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パリサイ人たちはかつて律法と福音とを結合させることに失敗した。しかし彼
らの模倣者たちは、キリストの教会がアブラハムに起源を発すること、ユダヤ
の民族とキリスト教会の会衆とが一つの全く同じ教会を形づくるものであると
いうことを教えるのに、少なからず成功しているのである。堕落せるロマ教会
は 今 日 も な お 宮 に お ける 日 々 の 犠 牲 と 華 美 な 儀 式 と を 教 会 の 中 で 維 持 して い
る。宗教的熱狂者は今日、近代異端者たちの中にカナン人殺戮をくりかえして
良しとしている。自称クリスチャンたちは『エホバの剣、ギデオンの剣』とい
う古 い 鬨 声をあ げて 戦 場 に走る 。『末日聖 徒』たち は妻 の 多数をほこってソロ
モンと太刀打しようとする。そしてこれらの腐敗を行う権威はどこから来るか
といえば、すべて古代イスラエルの律法と習慣の中から出て来るのである。賢
明なる新約聖書読者ならばこれらの誤りの何れもが同じく、甚だしく真理より
はなれたものであることを知っている。そしてこのような誤りを人々の頭の中
から根こそぎ取り除いてしまわなければならない、はげしい義憤を感ぜずには
いられないのである。
2.二度目の会合とペテロの演説(6-11)
6節
パリサイ人たちが異邦人も割礼を受け律法を守らなければならないと断
じてその弁論を終ると、集会はこれ以上問題を討議することなく延期された。
第二回目の会合については次のようにのべられている。
15:6
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
この会にせよまた前の会にせよ、いずれも単に使徒たちと長老たちとだけで
行われたのではない。なぜならば私たちははじめの個所で二人の使節が教会に
受入 ら れた ことを 見 (4)、 また彼の第22節からはこの会合に教会員 が出席 した
ことを知るからである。しかしこの二回にわたる公の集会の間に、パウロ、バ
ルナバとちょうど市内にいた三人の使徒たちとの間に私的会合があったことが
明かである。このことはガラテヤ人へのパウロの書簡からわかるが、彼はその
中でこの事実を語り、同時に面会を求めた理由をも記している。彼は言う『そ
の後十四年を歴て、バルナバと共にテトスをも連れて、再びエルサレムに上れり。
我が上りしは黙示に因りてなり。かくて異邦人の中に宣ぶる福音を彼らに告げ、
また名ある者どもにひそかに告げたり、これは我が走ること、又すでに走りし
こ と の 空 し か ら ざら ん 為 な り 』 (ガ ラ テ ヤ 2:1-2)。 彼が 使 徒 たち を 訪 問 した 理
由の中心点は、もし古い使徒たちが万一パリサイ人側であることがわかれば、
彼らの影響力に兄弟に対するパウロの影響力を圧倒し、彼の過去未来のあらゆ
る勤労はくつがえされて、彼が折角回心させた人たちを再び律法の束縛の下に
- 259 -
おかな ければなら ない ① ということにある。この会見の結果を彼は次のように
記して い る 。『 しか るに、 かの名ある 者どもより-- 彼らは如何なる人なるに
もせよ、我には関係なし、神は人の外面をとり給はず--実にかの名ある者ど
もは我に何をも加へず、反ってペテロが割礼ある者に対する福音を委ねられた
る如 く、 我が 割 礼 なき 者に 対 する福 音 を委ね られた るを認 め、 (ペテロ に能力
を与へて割礼ある者の使徒となし給ひし者は、我にも異邦人のために能力を与
へ給 へ り )ま た我 に賜 は り た る恩 恵を さと り て、 柱と 思は るる ヤコ ブ、 ケパ、
ヨ ハ ネ は 、 交 誼 の 印 と して 我 と バ ル ナバ と に 握 手 せ り (ガ ラ テ ヤ 2:6-9)。こ の
会見の記事によると三人の古い使徒たちは、パウロがこの事件に関する自分の
見解をのべるのを聞いて、直ちに心よりこれに賛同し、交わりの右の手を彼と
バルナバにあたえて賛同の事実を証明した。
『我に何をも加へず』という言葉がこゝに書かれているのは正に大切な点を
言っている。なぜならばこの時の問題はパウロが果して異邦人たちに果すべき
義務をあます所なく完全に教えていたかどうかということであったからだ。つ
ま り そ う で な け れ ば 何 か 使 徒 たち に よって 附 け 加 えら れ ね ば な ら ぬ こ と に な
る。霊感にみたされたこれら使徒たちの間に完全な理解と一致があったという
この記事から、私たちはこの第二回目の公の集会は決して使徒たちの間の意見
の一致をもたらすために開かれたのではなくて、使徒たちが教会全体を自分た
ちの意見に一致させることが出来るようにとの目的で開かれたことを、明かに
知ることが出来る。この事実に照してこの会議を研究しなければ、私たちは全
くの誤解に陥ってしまうであろう。
①Farrar はこの個所について『パウロは「自分の説いた福音について彼らと相談した。
自 分 の 走 って い る こ と 、 又 す で に 走 っ た こ と が 無 駄 で あ る こ と の な い よ う に 」 と 言 っ た
時、彼はまだ「されど我らにもせよ、天よりの御使にもせよ、我らの曽て宣べ伝えたる
所に背きたる福音を汝らに宣べ伝ふる者あらば詛はるべし」と後に言っいるような、全
く動かぬ確信の時期に達していなかった』という風に言っているが、これはパウロの意味
を全然 取り ちがえ たものであ り、驚く外は ない。(Life of Paul, 228)。 これは明か に、
パウロがガラテヤ書の前の章でくり返しくり返しのべていること、即ち彼が福音の知識
を 受 け た の は 直 接 の 黙 示 に よ る も の で あ り 、 彼 は そ の 福 音 に つ いて 何 ら の 疑 い も 持 ち 得
ないということに矛盾する。Lightfoot著ガラテヤ書註解中同じ節の説明を参照。
7-11節
誤った考えを持っている人たちに、その誤りを悟らせることは、
決してその人 々の言論の自由を 否 定 す る こ と に よ って 出 来 る も の で は な い 。
むしろ彼らがその腹の中に持っていることを最後の一言まで充分に話させ、次
に彼らが冷静になって他の側の発言に耳を傾けるようにしなければならない。
- 260 -
使徒たちはこのことをよく知って、或は少くともこの法則にしたがって、教会
内部のユダヤ主義者たちに対して、彼らの立場や議論に対して何らかの答弁の
行われる前に、充分彼らの言いたい所を腹蔵なく発表することを許した。こう
して、彼らが腹の中にあったものを全部出してしまうと、使徒たちは一人ずつ、
しかも明かに準備しておいたと思われる順序で次々と立って、事実と判断とを
のべて会衆の同意を要求した。
15:7
議 論 を 重ね た 後 、 ペ ト ロ が 立 って 彼 ら に 言 っ た 。 「 兄弟 た ち 、 ご存 じの と お
り、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異
邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
15:8
人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人
にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。
15:9
また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別を
もなさいませんでした。
15:10
そ れな のに 、なぜ今あな たが たは、先祖もわたしたち も負いきれな かった
軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
15:11
わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、こ
れは、彼ら異邦人も同じことです。」
七 節 で 『質問 』(questioning, 現 行邦訳 「議論 」)と 訳されて いる ギリシャ
語 ( ζ ή τ η σ ι ς )は 、 文 字 通 り に は 質 問 を 意味 す る 。 が こ ゝ で は む し ろ 議 論或 は
論 争 (Grimm's Lexicon)の 意味 をもつ。 ま たこゝ では普 通一 般 に議論 という
意味で多く用いられる語( σ υ ζ ή τ η σ ι ς )と比べて、どちらかと言えばこの討論
が主として質問をすることによって行われたことを示している--と私は思う。
これは敵を窮地に追い込むには持って来いの方法である。この議論はおそらく
一方的にパリサイ人が質問の全部を提出し、しかもその質問の一つ一つが議論
となり、又結論を含むようなやり方で提出したのであろう。ペテロがその答弁
の要点をこれと同じ形式で行っているのも、多分彼らがこのような形式をまず
取ったからであろう。
ペテロの演説は正に三つの論点を含んでいる。第一に、コルネリオの家での
異邦人の最初の改宗の有名な事実において、神はちょうど使徒たちに聖霊を与
えたと同じように彼らにも聖霊を与えて、ユダヤ人と異邦人との間に差別をな
し給わなかった事。そしてこの事から来る当然の暗示--神が差別をし給わぬ
以上、人も差別をすべきでないという事。第二に、これら異邦人回心者の首に、
ユダヤ人の子孫も負うことの出来なかった律法の軛を置くことは、上の事実に
- 261 -
照して考えて見るとき、神を試みることになる--彼ら自身の勝手な臆測によ
って神の忍耐を試みることになる。第三にユダヤ人も異邦人も、いずれも恩恵
により、主イエス・キリストの恩恵によって救われることを『我らは信ず』と
いう言葉の中に示された固い信仰は、必然的に、ユダヤ人も異邦人も律法を守
って救われるのではないことを意味する。また律法はユダヤ人も負うことの出
来ぬ軛であったという断言は、彼らがそれによって救われるほど完全にこれを
守ることが出来なかった事を意味している。この演説は私たちの眼にはそれだ
けでもすべての論争を終結させるもののように見える。しかしこの問題に関す
る証しが、再び後になって議論や疑問の余地がないよう、使徒たちは賢明にも
確実な計画をおし進めた。
3.「バルナバとパウロの説教(12)
12節
ペテロが腰を下すとバルナバがつゞいて立ち、次にパウロが立って、
今論じられている問題に関する神の意志を、今度は別な面から明らかにした。
15:12
す る と全会衆 は静か にな り、 バルナ バとパウロ が、自分た ちを通して神が
異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。
議論の論旨はペテロのそれをつゞけたものである。コルネリオとその友人た
ちとの場合、聖霊を賜わった奇蹟が、その場合における神の嘉納を証するもの
であるならば、当然、バルナバとパウロが異邦人を導いて割礼を施さずに彼ら
を教会に入れ、これに律法を守ることを命じなかったにもかゝわらず、神が二
人の手によって『徽と不思議』とを行い給うた事実は、この場合も神が嘉納し
たもうた証でなければならない。以上三人の演説の論旨は異った事実の上に基
いているにもかゝわらず、根本的には全く同一であり、しかもそれらの事実は
時間的に順序を追ってのべられている。
4.ヤコブの演説(13-21)
13-21節
メシヤの死と復活に関しても、一般のユダヤ人を説き伏せるには、
このような死と復活が預言の中に言われていることを理解させなければ、同時
代の証拠だけでは容易に彼らを納得させることが出来ないのだが、今論じられ
ている問題についても彼らは、何か預言からの証拠がなければ仲々納得しよう
としなかった。この点に関する証しを彼らに示し、また前以て行われた使徒た
ちの私的会合の結果と同じ結論を発表する仕事は、ヤコブに負わされた。
- 262 -
15:13
二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。
15:14
神 が 初 め に 心 を配 ら れ 、 異邦 人の 中 か ら 御 自分 の 名 を信 じる 民を 選 び 出
そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。
15:15
預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてある
とおりです。
15:16
『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破
壊された所を建て直して、元どおりにする。
15:17/18 それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、
主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』
15:19
そ れ で 、 わ た しは こ う 判 断しま す 。 神 に 立ち 帰る 異 邦人 を 悩ま せて はな り
ません。
15:20
ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉
と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。
15:21
モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに
会堂で読まれているからです。」
『ヤコブ答えて言ふ』(13)という言葉は、このヤコブの演説がパリサイ人の
立場に答えて語られたものであることを示す。ヤコブが言わんとする所はこう
で あ る 。 ペテ ロの 述 べた こと (バ ルナバと パウ ロの 述 べた こ と はそ れに 対する
ほ ん の 附 け 足 しで あ って 、 特 に取 り 上 げ る 必 要 は な い が )は 、 そ っ く り そ の ま
ゝメシヤの支配に関する預言の成就であるというのである。このヤコブの言葉
は兄弟たちを理解させるのに欠けていたものを補った。こゝで彼はただ一人の
預言者(アモス9:11,12)を引用しているだけであるが、『預言者たちの言もこれ
と合へり』と言う以上、こゝに引用された預言者以外の預言者たちも同じ意味
のことを預言しているのだ、ということを暗に意味している。この引用が七十
人訳によったことは、その言葉がヘブル語原書よりも七十人訳に近いことから
わかる。預言者アモスはこれに先立つ数節において、ユダヤ王国の没落を預言
してダビデの幕屋が倒れるであろうとのべ、更に今引用されている三節ではこ
の倒れたダビデの幕屋が再建されること、しかもその再建はただダビデの或る
子孫が再び位に昇ることによってのみ行われることを預言しているのである。
しかしダビデ王国の没落以後、イエスが天の御座位に昇るまではダビデの家系
からは誰も王位に上っていない。しからばこのことこそ倒れた幕屋の再建であ
り、それにつゞいて『残りの人』が主を尋ね求めることが行われる筈である。
それはペテロがコルネリオの家を訪れて以来、主を尋ね求めて来た異邦人たち
の姿でなくて何であろう。
- 263 -
ヤコブがその決議案を提出するに当って『之によって我は判断す』という言
葉で始めていることは、昔から多くの人々によってヤコブがこの会議の議長で
あったとし、そのうえ議長ヤコブの決断はすべての人々が否応なしに受け入れ
な け れ ば な ら ぬ も の で あ っ た と い う こ と を 証 明 す る 証 拠 と して 論 じ ら れて 来
た。しかしながら、この時ヤコブがそのような地位において行動したとか、ま
たこの場合の彼の判断がこの時出席していたペテロやヨハネの判断にくらべて
一層有力だったというような証拠は何もない。ヤコブが提案した四つの事項即
ち異 邦 人が 慎むよう に命 じら れたこと は、モ ー セ の 律 法 に よ って で は な く 、
父祖時代の啓示にもとずいて不法とされて来た事項である。偶像と関係をもつ
ことと、淫行にふけることとが罪であることは、はじめから父祖たちに知られ
たものであり、またノアの家族から出た民族に与えられた律法の時代以来は、
血を食うことまた絞め殺されて血を体内に含む動物を食うことは悪いとされて
来た 。 そ して またそ れ は世の終ま で続 くであ ろう ① 。したがって 、異邦人がモ
ーセの律法を守らなければならないかどうかというこの問題に対して、ヤコブ
が『彼らを煩わさぬ』ようにと提出したこの案は、モーセの律法に特に含まれ
ている事項を一つも彼らに課することなしに、充分大切な点をついているのである。
①Farrar 及 び Lightfoot 及 び その 他 の人 たち はこ れ らの 神 の処 置は 一 時的 の もの で あ
り 、 ま た 地 域 的 な も の で あ っ た と い う 見 解 を と る 。 何 れも こ れ を 裏 書 す る 証 拠 と して 、
後にパウロが言っている偶像に供えられたものを食うことを、彼は許しているのだとする。
又 Farrar は 教 会 内 の ユ ダ ヤ 主 義 派 も 、 後 に は こ の よ う な 法 令 を 無 視 して い た と 言 う
(Farrar's Life of Paul, 243,244; Lightfoot on Galatians, 127〔1〕)。
しかし単にユダヤ主義派だけが後になってそれを放棄したという事実は、かえって彼ら
がパウロがガラテヤ書(1:6-9。4:17。5:1。6:12,13)の中で彼らに与えている叱責に彼ら
がふさわしかったことを示すものである。またこの問題に関する論議の中で、パウロは
偶 像 に 供 え た 肉 を 食 う こ と は 、 食 う 人 が そ の 肉 が 偶 像 に 供 えら れ た こ と を 知 ら ぬ 場 合 に
は 罪 で は な い こ と を 認 めて い る け れ ど も 、 一 方 ま た 彼 は も し そ の 飲 食 が 弱 い 兄 弟 たち に
つ ま づ き と な る 場 合 に は 、 そ れ を 悪 鬼 と の 交 わ り な り と して 禁 ず る と い う 、 こ の 禁 令 そ
のまゝの立場をとっているのである。参照:Ⅰコリント8:8-13、10:14-22。
ヤコブの演説の結びの言葉、即ちモーセがいずれの町でも諸会堂にて読まれ
宣べられているということは、考えるに、彼の聴衆のある者が心に抱いている
であろう反対論にむけられているのである。この反対論は或は既に反対側の人
たちの発言の中で論じられていたのかもしれない。その反対とは--もし異邦
人がモーセの律法を守るよう命じられなければ、律法はその権威を失墜し遂に
人々から忘れ去られるであろうということだ。この点に関してヤコブはそのよ
うな危険はないと保証するのである。それは会堂での礼拝が当然そのような結
果を防ぐであろうから。
- 264 -
使徒たちが『偶像と淫行のけがれ』を異邦人の弟子たちにいましめなければ
ならなかったということは、今日の私たちには甚だ不思議に見える。しかし実
際彼らは昔から何代にもわたって異教の中に育って来、自然的欲望を満足させ
ることは勿論罪ではないと考え、また偶像崇拝はいわば荘厳な宗教的義務であ
ると見なしていた。したがって彼らが信者となった時にもこのように彼らの道
徳性の 中に根をはって固まってしまった考えを、完全にとり去ってしまうとい
うことは容易ではなかった。今日異教徒中に伝道する宣教師たちも、やはりこ
れと同じ困難にぶつかるのである。
5.使徒・長老たちの決議(22-29)
22-29節 ヤコブの演説はこの論争を終結させた。そしてこの四つの演説
の力は一つとなって神の意志を充分に説明したから、さすがの反対論者たちも
遂に全く沈黙せざるを得なかった。今や残された問題は、ただ一つヤコブの提
案を如何に最善の方法により実行にうつすか、ということである。
15:22
そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を
選ん で、 パウロ やバルナ バと一緒にアンティオキアに 派遣す るこ とを決定した 。選
ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な
立場にいた人たちである。
15:23
使 徒た ち は 、次 の 手 紙 を 彼ら に 託 し た 。 「 使 徒 と 長 老た ち が 兄弟 とし て、
アンテ ィオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。
15:24
聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたした
ち から 何 の指示 もな いの に、 いろ いろ なこ と を言って、あな た がた を騒が せ動 揺 さ
せたとのことです。
15:25
それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させ
て、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。
15:26
このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身
を献げている人たちです。
15:27
そ れ で 、ユ ダ とシ ラ ス を選ん で 派 遣しま す が 、 彼ら は同 じこ と を口頭 で も
説明するでしょう。
15:28
聖 霊 と わ た し た ち は 、 次 の 必 要 な 事 柄 以 外、 一 切 あ な た が た に 重 荷を 負
わせないことに決めました。
15:29
す なわ ち 、 偶像 に 献 げら れ たも の と、血 と 、絞 め 殺した動物 の肉と 、みだ
らな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
こ の 手 紙 は 『 使 徒 及 び 長老 た る 兄 弟ら 』 の 名に お いて 書か れ 、 22節 の『 長
老たる兄弟ら』は『長老たち』と同じであるが、しかしこの席にはまた『全教会』
- 265 -
(22)が出席していた。したがって25節の『心を一にし』という表現は、使徒た
ちが全教会員を自分たちのあらかじめ一致していた判断に同意一致させたこと
をあらわす。この手紙はまずアンテオケで問題をひきおこした人々の教えに関
して、彼らは少しも責任を有しないことを明かにし、使徒・長老たちは彼らに
何の命令をも与えたのではないことを明言していることに注意せよ。ユダとシ
ラスとを派遣した明断は、彼らが異邦人の間における働きに全然関係していな
かったこと、又彼らは夫々たとえ頑迷なユダヤ側からの反対があった場合にで
も、 容易にそれを沈黙させるだけの勢力を持っていたという事実に見られる。彼
らはこの手紙に書かれていることの中で、もし曖昧と見える所があるならば、
全く偏見の疑を受けることなしに、充分それを説明することが出来たであろう。
これは私たちの知る限りでは、使徒の筆になる最古の文書である。そして四
福音書にもすべてのパウロ書簡にも先立つものである。これははじめ別冊の文
書として諸教会の間に廻覧されたが、後に使徒行伝の一部として編入された時
に、 先 に存在 した原本 が 自然消滅したのであろう 。それは書簡(epistle,30)と
よばれ、また『エルサレムに居る使徒・長老たちの定めし規( τα ζογματα )』
ともよばれている。また『聖霊と我らとは…可しとす』という言葉はこの書の
霊感を堂々と主張する。霊感を受けた人でなくて誰がこのような言葉を用いる
ことが出来ようか。この霊感という事実は今日に至るまでこの書を、あらゆる
教会法廷のすべての法令条規と区別するものである。勿論無謬を自ら主張する
ロマカトリック教会の法令もその例外ではない。またロマ教会や監督制度の擁
護者たちが、この会議を世界最初の教会会議であると言っているけれども、そ
れは決して教会会議ではなかったという事実にも注意しなければならない。こ
の会 議は 決して各地方 教会 (たと えどんな小さな教会 であるにせよ)の代表 者に
よって組 織せら れた 会議ではな く、一 つの教会の教会員 の会議であった ① 。更
にまたこの会議を導き、霊魂の救いという大切な教理に関する問題を決定した
のも、実に霊感を受けた人たちによったのであり、使徒以外の何人といえども
このような問題を決定する権利はありえない。故にこの会議で行われたことは、
決してどのような意味においても、一教会外の何らかの教会法廷の先例ではな
く、また教理に関する問題を権力によって決定した先例とすることも出来ない。
①Farrar 副主教が自ら英国教会の高位にありながら、上にのべた見解において、非監督
主義の筆者と同じ見解をとっているのは嬉しい。彼は言う『所謂エルサレム会議なるもの
は、その歴史においても、その組織においても、その目的においても、決して今日の各教
会間の総会のようなものではなかった。それは任命された代表者たちのコンヴェンション
ではなく、単にエルサレム教会の教会員全体が、アンテオケ教会の派遣団を迎えて集った
会であった』(Life of Paul, 243)。
- 266 -
6.アンテオケの教会に再び平和訪れる(30-35)
30、31節
使節の帰りの旅行と、そして彼らがアンテオケに持って帰った
使徒たちの決議文の効果とが、次に簡単に記される。
15:30
さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着すると、信
者全体を集めて手紙を手渡した。
15:31
彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。
アンテオケにあるユダヤ人の兄弟たちは前からこの論争において一党一派に
与していなかったから、彼らがこの結果を聞いて喜んだのは至極当然である。
もしこの時アンテオケの町に、最初この問題を持ち出した人たちが残っていた
ならば、彼らは明かに意気沮喪したにちがいないが、恐らくはエルサレムにい
た共鳴者たちと同じく自ら沈黙して、この決定を甘受したのであろう。こうし
てパウロとバルナバの勝利は今や完く明かなものとなった。またルカはこゝに
記 録 して い な い が 、 パ ウ ロ が ガ ラ テ ヤ 1:14に 記 して い る 事 実 、 即 ち 異 邦 人 で
あるテトスがパウロに同行したこと、テトスに割礼を受けさせようとする懸命
の努力が外部からなされたこと、しかるにパウロはユダヤ主義者たちに一歩も
ゆず らず、 遂にテトス は割礼を受 けずに 帰って 来た ① こ とから見ても、アンテ
オケの兄弟たちの眼にはパウロとバルナバの勝利は一層明かであった。
①Farrar を含む一部の記者たちがテトスは実は割礼を受けたとし、この事件に関するパ
ウロの 言葉 を 、『テトスは 決して強 いて 割礼 を受 けさせ られ はしな かっ た。 しかし私 は平
和のために割 礼した』(Life of Paul, 233-237)と解しているのは、単なる独断としか見
えない。Bauer ですらこれを否定して『これほど馬鹿げたことはない』(Life of Paul, i.
122.n,1)と言っている。
32-34節
ユダとシラスは今アンテオケ派遣の主要目的を達して、更に一
層大切な働きをする機会を持つことが出来た。彼らが『兄弟たちの中の主立ち
たる者』であったことは、アンテオケの兄弟たちをして彼らに耳を傾けさせる
原因となった。
15:32
ユダ とシ ラ ス は 預言 す る 者で もあっ たの で 、いろ いろ と話をし て兄弟たち
を励まし力づけ、
15:33
しば らくこ こ に 滞在 した 後、兄弟 たち から送別の 挨拶を受 けて見送ら れ、
自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。
15:34
(34なし) ①
- 267 -
①Texus Receptus から訳された A.V.の34節は、正しくは最新の改訂ギリシヤ語原典
に削除されているように、写本の証拠をもたない。R.Vにも削除されている。
彼ら自身『また預言者であった』という事実は、彼らの語る言葉に霊感の権
威を与え、彼らの勧めの言葉を一層兄弟たちに有益なものにした。
35節
アンテオケの町はなおも使徒たちの伝道のために有利な土地であり、
色々興味ある出来事の舞台であった。
15:35
しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの
人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。
多くの立派な人たちが力をあわせて働いた結果として、御言を教えられた弟
子たちの数、御言が宣べ伝えられるのを聞こうとして集った人の数は、相当な
も の で あ った に違 い な い 。多 くの 賢明 なる 註解者 たち は(近代の 学者全 部と言
って も よ いか も 知 れ な い )ガ ラ テ ヤ 書 第 二章 に 記 録 されて い る ペ テ ロ の アン テ
オケ訪問、及びパウロがぺテロを非難した事件をちょうどこの時期においてい
る。これらの人たちはこの事件においてぺテロのとった行動は、彼がつい最近
この教会にあてゝ他の使徒たちと一緒におくった書簡の内容と甚だ矛盾してい
ることを指摘する。そしてこの乱暴な考えは或る人々をして、この書簡につい
てのルカの記事の真実性をも疑わしめるに至っている。彼らは言う、ペテロは
決してそのような矛盾をおかした筈はない。そしてもしペテロが矛盾をおかし
ていたとするならば、パウロはガラテヤ書に記録しているように何もぺテロを
非難せずとも、例のエルサレム教会からの書簡をもち出せば、それで充分ペテ
ロを 論破 出来た 筈では ないかと ① 。これらの考え 方はいずれも、書簡とペテロ
のこの時の行動との関係を誤って解釈している。書簡或はむしろ布令と呼ぶ方
がよいかも知れないエルサレムの使徒たちの手紙は、異邦人にモーセの律法を
課するかどうかという事を扱ったものであり、異邦人とユダヤ人との間の社会
的交際に関しては一言もふれていない。ペテロがアンテオケにおいて誤ってい
たというのは、たゞ後の方の問題に関してだけであった。パウロは言う『され
どケパがアンテオケに来りしとき、責むべき事のありしをもて面前これと争ひ
たり。その故はある人々のヤコブの許より来るまでは、かれ異邦人と共に食し
てゐたるに、かの人々の来りてよりは、割礼ある者どもを恐れ、退きて異邦人
と別 れ た り 』(ガラ テ ヤ2:11,12)。 この問題について彼を 論駁するのに 例の布
令を持ち出すのは見当ちがいである。だからパウロはこの布令については一言
もふれず、問題の急所であるペテロがコルネリオの家で異邦人と共に飲食した
事実を、しかもペテロ自身エルサレムでその事について非難を受けた時自ら弁
明し正当なりと主 張 し た そ の 事 実 (11:1-3)を 、 は げ し く 突 い た の で あ る 。
- 268 -
パウロは次のような言葉でこの点にふれている『なんぢユダヤ人なるにユダヤ
人の如くせず、異邦人の如く生活せば〔ぺテロはこの時以前そんなことをした
のはカイザリヤでだけだった〕何ぞ強ひて異邦人をユダヤ人の如くならしめん
とするか?』彼はまた言う『我もし前に毀ちしものを再び建てなば、己みづか
ら犯 罪者 たる を 表す』 (ガラ テヤ2:14-18)。ぺテ ロは実際 あのコルネリオの家
では異邦人のごとく生活し、またアンテオケでも一時は異邦人のごとく生活して
いた。しかし今かれはこれを再び避けることによって、事実上異邦人に対して、
もし君たちが私と社会的な交際を保ちたいならユダヤ人のするように生活しな
げ れば な らな い のだよ 、 と言 ってい ること になる。 こ の 問 題 の 理 由 は 異 邦 人
は 、ユダヤ人が不潔と教えられて来た食物を食卓にのせること、また彼らが自
分たちの身体を律法に定められているやり方で潔めることをしないという点に
あった。次にヤコブが自分の所からアンテオケへ行った人々と同意見であった
と結論することも甚だ危険である。なぜならば私たちはすでに、アンテオケで
最初の紛争をおこしたエルサレムから来た人たちが、何らの命令をエルサレム
か ら受 け てい な かった こ と を 知って いるか らであ る(15:24)。彼の 学派の人た
ちもすべて彼に従っている。
①Bauer, Life of Paul, i.28 ff
合理主義者たちは、パウロ、バルナバのエルサレム派遣に関するルカの一事
全体の真実性を否定するが、これはガラテヤ書に書かれているパウロ自身の記
事の細かい一つ一つの点を殆ど全部見落していると言わなければならない。既
に私たちが見て来たように、これら二つの記事の間には、実は何の矛盾も存在
しない。しかし上にのべたような相違が存することは否定出来ない。これを説
明する最も自然な理由は、パウロの書簡は使徒行伝の出来る少くとも五年以前、
合理主義者の計算ではなおそれ以上以前に書かれた為である。そしてガラテヤ
書に書かれている事実は多分ルカの読者には周知のことであったため、繰返す
必要はなかったのであろう。ルカに必要なことはたゞパウロが書きおとした細
かい事実を記録することであった。
第三項
パウロの第二伝道旅行
(15:36-18:22)
1.同行者の変更と旅行のはじめ(36-41)
36節 私たちはパウロとバルナバのアンテオケ滞在期間にすっかり時間をと
ってしまった。今からいよいよ彼の異邦人の間の第二伝道旅行のあとをつける
ことにしよう。
- 269 -
15:36 数日の後 、パウロはバルナバに言った。「さ あ、前に主の言葉 を宣べ伝 え
たす べての町へも う一度行って兄弟たちを訪問 し、どのよう にしているかを見て来
ようではないか。」
私たちは今回のパウロの訪問が、彼が前に設立した中でも一番遠方の教会に
まで及んでいるのを見るであろう。しかしこの旅行の最初の目的としてパウロ
が考えたことは、彼が既にこれらの地でバプテスマした兄弟たちの世話を見よ
うということであった。このことは、彼の植えた教会の会衆に対するパウロの
心づかいは、彼が罪人を回心させようとする熱心に決して劣らぬものであった
ことを示している。
37-39節
最上の友も時には便宜上の問題や個人の選択の問題に関しては
意見を異にする。私たちはこゝに霊感を受けた人々でさえ、このような問題に
ついては意見を異にしたということを知るのである。
15:37
バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。
15:38
し か し パウ ロ は、 前 に パ ン フィ リ ア州で 自分た ち か ら 離れ 、宣 教 に 一緒 に
行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。
15:39
そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バ
ルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出した
この場合パウロの判断は、福音の宣教者たる者の資格として勇気と自己犠牲
の精神ということに非常に高い標準を要求したのに対して、一方バルナバは明
かに、自分の従兄弟であったマルコに対する個人的関係に動かされていたので
あろう(コロサイ4:10)。二人の中どちらの行動が賢明であったかは、私たちに
は今決定することは出来ない。それはマルコが途中から帰ることになったその
動機、またその時の状況について知ることが出来ないからである。そしてまた
たとえ私たちがこのことについて決定して結論を出してみたところで、何の役
にも立たないであろう。私たちにとって十分なことは、マルコが後に充分パウ
ロの信任を回復したということ、またパウロがバルナバと別れたのも永久的な
離間ではなかったことを、パウロがこの二人について後に言ったことから知る
こと (Ⅰ コリ ント4:6、 コロ サイ4:10、Ⅱテサロニケ 4:11)である。このよ うな
意見の相違と離間があったにもかゝわらず、彼らは決してそのよき業を中止す
ることなく、またパウロが一緒になしとげようとして提議した仕事を、別々な
がら立派になしとげた。すなわちバルナバはクプロを再び訪れることによって、
彼とパウロとからかつて福音を聞いて信者となった兄弟たちの一部に会うこと
が出来たし、一方パウロは別な経路によって残りの人たちを訪ねることが出来
たからである。
- 270 -
バルナバがパウロと別れたことは、その結果として私たちがバルナバと別れ
ることになる。なぜなら彼の名はルカのこの書に再び現れないからだ。しかし
私たちが今彼に最後の訣別を告げると同時に、海上には彼を運ぶべき船が満帆
に風をはらみ、彼はその救いの知識によってこの島の人々を喜ばすべく、クプ
ロをさして船出して行くのである。そして彼の貴い生涯にこれから後におこっ
た事件については、やがて私たちが永遠の御国で彼と膝をまじえて話す時に知
ることが出来るであろう。
40、41節
私たちはこゝからルカと一緒に、どの使徒よりも多くの働きを
し、どの使徒よりも度々投獄の苦しみをなめた人の足跡を追い、又彼の新しい
道づれとなじみになろう。
15:40
一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出
発した。
15:41
そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。
エルサレムの『兄弟たちの中の重立ちたる者』(22)の一人であったシラス、
またアンテオケでの論争を解決するためにエルサレムの使徒及び長老たちに選
ばれて派遣されたシラス、そのシラスが今パウロに協力して異教徒の中の伝道
の仕事に働くようになったという事実は、パウロとエルサレムの教会の権威筋
との間に完全な一致が成立したことを裏書する。そして又同時にこれは、彼ら
がこれから訪れて行く先のユダヤ人兄弟たちに対して、彼らの教えと先輩使徒
たちの教えとの間には何の相違もないことを保証した。これに加えてシラスが
預言者であった(32)ことは、パウロの共労者としての彼の資格をこの上ないも
のにした。
彼らが『兄弟たちより主の恩恵に委ねられた』という記事は、この目的のた
めに教会が集ったことを暗示する。そしてこの時二人のための推薦の祈りが、
最初バルナバとパウロを派遣した時と同じように按手によって行われたであろ
うことは、不思議ではない。(8:3註解参照)
パウロはかつてタルソに去って(9:30)からアンテオケにやって来る(11:25,2
6)までの間、シリヤとキリキヤに福音を宣べ伝えたことがある(ガラテヤ1:21)。
したがって今回のシラスとの旅行は、かつて植えつけた諸教会の再訪問である。
彼のバルナバに対する提案(36)は、ただ二人で一緒に設立した諸教会を訪問し
ようということだけであった。が今バルナバはマルコと共にこれらの教会のあ
るものを訪ねて行ったから、パウロはかつて自分ひとりで植えた諸教会を自由
- 271 -
に訪ねることが出来た。このようなことから諸教会再訪の仕事は、分離のおこ
ったためにかえって完成される結果となった。
堅信 礼という監督教会 (聖公会)の儀式を主張する人々は、この儀式を『諸教
会 を 堅 う せ り 』 と い う 言 葉 (41)で 権 威 づ けよ う と す る 。 し か し こ の 原 語
( ἐ π ι σ τ η ρ ί ζ ω )の 見えて いる 四ヶ所 の文章 を 一見 す るな ら ば、こ の 語が決し
て新しい信者に手を按いて完全な交わりの中に迎え入れるという儀式ではなくて、
既に教会の完全な交わりの中に入れられている人の魂を、更に教えと勧めによ
って竪くすることを指しているのだ、ということが容易にわかる ① 。
①Plumptre はこのことをはっきりと知って認めているが、それでもまだ次のようなこと
を言って、 この 語を堅 信礼 とい う監督 教会 的儀式 と結 びつけよ うと試 みてい る。『言 うま
で も な く 、 堅 う す る と い う 語 は 、 強 く す る と い う 普 通 の 意 味 で 用 い ら れて い る 。 し か し
按 手 に よ る 霊 的 賜 物 の 分 与 が 強 め る 業 の 最 も 主 要 な 部 分 で あ っ た こ と か ら 考 えて 、 こ の
堅うするということも、少くとも更に後代の術語的意味に解して差支えなかろう。
2.第一次伝道旅行の諸教会再訪(16:1-5)
1、2 節
シリヤ・キリキヤでのパウロの働きの詳細をはぶいて、ルカは私たち
をパウロのデルベ・ルステラ到着まで急がせる。こゝは彼の前回の旅行で最大
の苦痛と最大のなぐさめとのあった場所である。もしルカが景色の描写に夢中
にな るよ うな人 ならば(彼は決 してしないのだが)、彼 はきっと私たちにキリキ
ヤの門や、キリキヤの平原よりルカオニヤ高原に通じるタウルス山間の雄大な
山 道 を手 にと るよ う に 見 せてくれ た であ ろう。 現代の旅行者たちに忘れ得ぬ印
象を与えるこの荘厳は、パウロとシラスにも深い印象を与えたにちがいないが、
ルカはこの貴重な書の生きたページの上に、このようなものに一言をふれる余
地を見出さなかった。彼は私たちをうながして、この物語の以後の部分で重要
な役割を演ずる興味ある新人物を紹介してくれる。
16:1
パウ ロは、デ ルベに もリス トラに も行った 。そ こ に、信者のユ ダヤ 婦人 の子
で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。
16:2
彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。
この弟子の祖母も母も信者であり、またいずれも彼に先立って御国に入って
い た 。 こ の 二 人 の 婦 人 に よって 彼 は 幼 い 時 か ら 聖 な る 書 を 教 えら れて い た(Ⅱ
テモテ3:14,15)。彼はパウロがさきにルステラを訪れた際にバプテスマを受け、
パウロが石打ちにされるのを目撃し、うつ伏せに倒れた師のいたましい姿に泣き、
彼が死 から甦ったかのように立 ち 上 って 町 へ 帰 る の を 喜 んで 見 守 り 、又翌日
- 272 -
彼が当るべからざる決意をもって、キリストのために新戦場を求めて去って行く
のを目撃した ① 。その彼がその後数年のクリスチャンとしての経験を重ねて、今兄
弟たちの間によき聞えを得ていることは不思議ではない。彼の名が自分の生れ
故郷に近いデルベとルステラだけでなく、遠く離れたイコニオムの町まで聞え
て い た と いう 事 実 は 、彼 が 既 に 青年 説 教 者 であ っ た こと 、 また後にのべられて
いる教会の長老たちの按手も既に受けていたと考えることを可能にする②。
①14:19の註解を見よ。
②Ⅰテモテ4:14を参照。こゝでは原語
πρεσβυτέριον
は presbytery と訳されて
いるが、これは正しくない。むしろ eldership と訳すべきである。
3節
パウロの慧眼は直ちに、この青年の中に自分の同行者・助力者にふさわ
しい資格を発見し、そして彼を実際に助力者としてえらんだ。
16:3
パウ ロ は 、こ の テ モ テ を一 緒に連 れて行きた かっ たの で 、そ の 地方に 住む
ユダヤ人の 手前、彼 に 割礼を授 けた 。父親が ギリシア人であるこ とを、皆が知って
いたからである。
その辺に居るユダヤ人はあらゆるユダヤ人がそうであるように、ユダヤ人の
血を受けていながら割礼を受けていない人を喜ばなかった。彼は自分の国籍を
拒否している ように 見えた。彼 の 父 が ギ リ シ ヤ 人 で あ っ た こ と は 、テモテが
幼児割礼を受けていない理由を示すために書かれている。
割礼に関するパウロの立場を充分に知らない人にとっては、彼がエルサレム
でテトスに割礼を施すことを拒絶(15:30,31註)しておきながら、いくばくもた
ゝぬ中に今テモテに割礼を施したことは不思議に見えるであろう。又たしかに
これ は パ ウロが書簡 に書 いてい る思想、 特にガラテヤ 5:2-4の記事と矛盾 する
よう に も見 える。『 もし 割礼を 受けば、 キリストは 汝らに 益なし。又さらに凡
て割礼を受くる人に証す、かれは律法の全体を行ふべき負債あり。律法に由り
て義 と せら れんと 思 ふ汝 らは、キリストより離れたり 。恩恵 より堕ちたり。』
しかしこの文章の中に使われている言葉をよく見ると、彼は律法の下に来るた
めに割礼を受け、律法を守ることによって救われようとする人のことを言って
いることがわかる。割礼を受ける目的がこれでないような場合には、この非難
は当てはまらない。テトスの場合、もし彼が割礼を受けたならば、彼はこのよ
うな意味において割礼を受けたことになったろう。なぜなら救いの手段として
彼を律法の下に入れようというのが、パリサイ人の要求であったからだ。しか
しテモテの場合は全く異なった立場にあった。もともと割礼は主が教え給うた
- 273 -
よ うに 、『モー セより 起 りし とにあ らず、先 祖より起 りし』 (ヨハネ 7:22)もの
である。割礼を守る義務は律法に起源するのではなく、アブラハムとの契約に
始る。そして割礼の律法との関係は、律法がアブラハムの割礼を受けた子孫の
一部分に与えられたという事実から来ているのである。こうして割礼を守る義
務が律法に発しない以上、律法の廃止もまた割礼を無効にしない。この理由に
よりユダヤ人の血統をうける子らを割礼することの正当なことを、パウロは少
しも疑っていない。むしろ彼も弟子たちもみなこれを徹底的に認めているので
ある(21:20-25)。この儀式に関するアブラハムとの契約は永遠の契約であって、
これを破る者の唯一の刑罰、即ちアブラハムの子孫としての認識から絶たれる
こ とは 昔 も 今も 変らな い(創 世 記17:9-14)。割礼は大体国民的記号であるから
勿論救いとも、人間のキリストとの関係とも関係をもっていない。故にパウロ
は言う『キリスト・イエスにありては、割礼を受くるも受けぬも益なく、たゞ
愛によりてはたらく信仰のみ益あり』(ガラテヤ5:6)。
パ ウロ は或 時 テ モ テ に 霊の 賜物 を授 ける た めに 、 彼 の上 に手 を 按 いた (Ⅱテ
モテ1:6)が、それがこの時であったか、或は又彼をしばらく伝道の仕事の面で
試して 見 た 後であった か、私たちには知る由もない 。同じこと はⅠ テモテ4:1
4に 言 われ る長老 職の按手についても 言える。パウロ自身、按手という方法に
よってこの業のために選び別たれたことから考えても、長老たちがこの先例に
したがったということは考えられる。何れにせよ長老たちが行ったこの儀式の
目的が、彼を伝道の業のために選び別つためであったことは疑うべくもない。
何故ならこれ以外にこれを説明出来る目的はないからである。パウロが二、三
の教会の推薦によって彼を任命(ordain)したという考えを、聖書の中に見出す
という人もあるが、聖書には何らの根拠もない。
4、5節
ルカはテモテのことから再び物語の本筋に帰って、使徒たちが到着
した町々でなした仕事を私たちに語る。
16:4
彼ら は方 々の町を巡回して、エ ルサレムの 使徒と長老たち が決めた 規定を
守るようにと、人々に伝えた。
16:5
こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。
この 記事から見 て、使徒・長老たち の定めた法令(規)は単にシリ ヤ・キリキ
ヤ地方だけでなく、異邦人教会全体にあてたものであったことがわかる。彼ら
は至る所でユダヤ人信者とユダヤ人信者とを完全に一致した交わりに結ばなけ
ればならなかった。一方これらの教会はもともとパウロによって建てられたも
のであり、また先にはシラスがこの規を守らせるためにパウロと協力すべくエ
ルサレムからこれら諸教会に派遣されていたから、この規はユダヤ人の耳にも
- 274 -
異邦人の耳にも強力に響いて、最もさいわいな効果をもたらした。諸教会は『そ
の信仰を竪うせられ』た結果、『人数も日毎にいや増した。』
3.フルギヤ・ガラテヤ伝道、及びマケドニヤへの召命(6-10)
6-8節
デルべより西方ピシデヤのアンテオケへ引いた線は、小アジヤ内部
への福音伝播という点から見て、軍隊用語を使うならば、パウロの小アジヤ内
部への進軍の兵站線とも言うべきである。もちろん彼自身はこの方向にはアン
テオケ西北に当るフルギヤ、又北に当るガラテヤより向うへは行かなかったけ
れども、この地方に建てられた多くの教会は、もし活発で熱心なものであった
ならば、たちまちにしてこの真理を遠隔の地方にまで波及させたに違いない。
さておそらく何ヶ月も費したであろう彼らの旅行と伝道の働きとを、ルカは次
のただの数語で記録している。
16:6
さて、彼らは アジ ア州で御言葉を語 るこ とを聖霊か ら禁じられたので 、フリ
ギア・ガラテヤ地方を通って行った。
16:7
ミ シ ア地方の 近くま で行 き 、ビ ティ ニア州に入ろ うとした が、イ エ スの 霊が
それを許さなかった。
16:8
それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。
この簡略な文章を読む時、私たちはルカがこの中で記事を簡潔に片づけてい
るからといって、決してこのことからこの旅行には何も語るに価する興味ある
ことがなかったのだと、早合点してはならない。なぜならパウロの記録によれ
ば全く正反対だからである。ガラテヤでは彼の働きによって多くの教会が生れ
た(Ⅰコリント16:1)。そしてその後この教会におこった不幸な状態が、彼の書
簡中でも最も価値あるものの一つを生む結果となったのである。大体ガラテヤ
人と いわ れ る 人 々はゴール 族であって、 そ の 先 祖 は 侵 略 的 武 族 と して 紀 元 前
ゴール (現 代 のフラ ンス )から 小アジヤ へ漂泊して入って 来、 パウロの時代 には
この地方に定住して農民となっていた ① 。
①ガラテヤ人 に関しては Lightfoot 監督のガ ラテヤ書註 解附録に、彼 らの歴史と 性質に
関する詳しい論文がある。
彼らの間で働くということは、最初パウロの意図する所ではなかった。なぜ
なら彼はおそらく一層ゆたかな実りを得られると思うような畑を探していたの
であろうから。しかし偶然に病のためにこの地に滞在しなければならないこと
となった彼は、ガラテヤ人の中に意外にも、熟して鎌を入れることの出来るゆ
- 275 -
たかな畑を発見したのである。彼は後に彼らに書きおくって『わが初め汝らに
福音を伝へしは、肉体の弱かりし故なるを汝ら知る』と言っている。この弱さ
(病 気)は、 後に彼 がそれにつ いて告白していることから見て、 彼が取り去られ
んことを主に祈り求めて遂に得なかった例の『肉体の棘』であったことはたし
かである。それはパウロをはじめて見る人でもすぐに軽蔑して棄てるような性
質のものであったけれども、彼らはそれにもかゝわらずパウロを親切に受入れ
た ため 、 彼は後 に彼 ら に 感謝 して次 のよう に 書きお くって い る。『 わが肉体に
汝らの試練となるものありたれど汝らこれを卑しめず、又きらはず、反って我
を神 の 使 の 如く 、キリスト ・イエスの如く 迎へたり。』 彼 はまた附加 えて言う
『汝らの其の時の幸福はいま何処にあるか。我なんぢらにつきて証す、もし為
し得 べ く ば 己が 目を抉 りて 我 に 与へんとま で思ひしを 」 (ガラテヤ 4:14,15)。
彼の精神の不幸な苦しみと、肉体の虚弱は、彼の説教に謙遜な調子を与え、感
激しやすい人々の強い同情を喚起し、又一方彼自身を鞭うって最初意図した以
上にガラテヤでの働きをつゞけさせたのかもしれない。彼が新しい町に福音の
種をまく度毎に遭遇する、幸先のよくない条件の中でも、あのルステラからデ
ルベに向った時をのぞいては、最も不幸な境遇の中から、実に彼の働きの最も
美しい実が結んだのであった。なぜなら、どの教会もこのガラテヤの教会ほど、
彼のこの言葉に値する献身を彼に対して示したものはないからである。そして
このような経験こそ彼が肉の棘について祈ったとき主が答え給うた『わが恩恵
なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』という言の意味
を彼に教えたのであり、また彼をして『さればキリストの能力の我を庇はんた
めに、寧ろ大に喜びて我が微弱を誇らん。この故に我はキリストの為に微弱・
恥辱・患難・迫害・苦難に遭ふことを喜ぶ、そは我よわき時に強ければなり』
と言わしめたのも実にこのような経験であった(Ⅱコリント12:9,10)。
この間にもう一つの新しい不思議な経験がパウロの上におこった。彼は病気
のために意図に反してガラテヤに伝道することになったのみならず、続いて彼
がアジヤの地方に福音をもたらそうとした時、聖霊は彼にそうすることを許さ
なかったのである。当時アジヤという名は主として、エペソを首府とするロマ
属領地方を指して用いられた。おそらく、彼が後に二年と三ヶ月伝道したエぺ
ソは、この時彼の目的地であったろう。パウロが自ら次の伝道地として決定し
た判断が、聖霊によって禁じられたということを私たちが読むのは、これが初
めてである。しかしこのことはこれだけに留らなかった。即ち彼が自分の南西
に当るアジヤに行くことを禁じられて、北方の重要な地方ビテニヤに行こうと
いう計画を立てた時、聖霊は再びこれを禁じ給うたのである。こうして彼は自
分の後にある仕事をなしおえた後、右に行くことも左に行くことも禁じられた
- 276 -
以上 、 真っ直ぐ前方に進む以外に道はなかった。そしてこの事が彼をしてムシヤ
を通 って 西北 の 方 向 に 進 ま せる結 果 と な っ た 。 彼はこの地方を通って途中でど
こへも止らずに進んだ(「ムシヤを過ぎて」という言葉の意味はこうである)。それ
は多分彼が途中に伝道の門戸を発見出来なかったからであろう。こうして彼は
トロアスに着いた。トロアスは海岸にのぞんでいる。彼は海という障壁にぶつ
かってしまった。パウロとその一行がこのような聖霊の不可解な道案内に、い
たく惑わされたのであろうことは当然である。この疑問は一歩進む毎に彼らの
上におゝいかゝって来た…何故自分たちはこれらの有望な地域を避けさせられ
るのか?主は果して自分たちを何処へ導き給うのか?
9、10節
彼らがトロアスに泊った最初の夜、この秘密は解かれた、少くと
も一部分解かれた。
16:9
その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケ
ドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
16:10
パ ウロが こ の幻を見たとき、わた したち はすぐにマ ケド ニアへ向けて出発
す る こ と に した 。 マ ケド ニ ア人 に 福 音を 告 げ 知 ら せる た め に 、 神が わ た した ち を召
されているのだと、確信するに至ったからである。
彼らは今はじめて神の目的の一部を察した。そして後にはそれを全く理解す
るこ と が出来 たので ある 。こゝではじ めて著者 は『我らは』『我 らを』 という
代 名詞 を 用いて 、彼自 身 この 場に居合せたこと を示してくれ る。『 神のマケド
ニヤ人に福音を宣べ伝へしむる為に我らを召し給ふことと思ひ定めて』という
言葉は、著者ルカもまた、最初福音をのべようとした目的地から転進させられ
て 来 た (6,7)一 行 の 一人 で あ った こ と 、 従って 著 者は お そ ら く 小 ア ジ ヤ の内 部
で一行に加わったものであることを暗示している。今や一行はパウロ、シラス、
テモテそれにルカの四人となった。
4.マケドニヤ到着、或る婦人たちにバプテスマを施す(11-15)
11 、1 2節
トロアスの港では毎 日 便 船 を 得 る こ と は む づ か し い 。まして
ネアポリスのようなあまり重要でない港に向って出航の準備の整った便船を見
つけるというようなことは、甚だ稀である。したがって使徒の一行がその目的
に合って、正に碇を上げんとしている便船を発見した時、神がいよいよこの旅行
を有利に導き給うことを悟ったにちがいない。
16:11
わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリス
- 277 -
の港に着き、
16:12
そ こ か ら 、マ ケド ニ ア州 第一区 の 都市 で、 ロマ の 植民都市 で ある フィリピ
に行った。そして、この町に数日間滞在した。
『真直にはせてサモトラケにいたり』という言葉は、この航海が順風にのっ
たことを暗示する。それは帆船がこのようなコースを取り得るのは順風の時だ
けだからである。私たちはまたこの順風が船を相当な快速で走らせる程強く吹
いたという証拠をもっている。なぜなら次の旅行においては(20:6)この同じ航
路に五日間を要しているからである。船中の一行は前の不思議な経験のあった
直後のこととて、こゝでも摂理の奇しさに気附いたであろう。
サモトラケは多島海の中の一島であり、ネアポリス(意味はニュータウン -
新市- 今ではカヴァラと呼ばれている)はピリピの外港であった。ピリピの町
はネアポリスの西北方約16kmの位置にある。道は東西に走る高い山脈をこえ、
それから広い平原に下る。ピリピはこの平原のやゝ高くなった所にある。一行
はこの町に近づく時ガンギデス河を渡った。この河の両岸は、かつて片やブル
ートゥス及び カシウスの 軍勢、片やオクタヴィアヌス及びアントニウスの軍勢
が、ロマ共和国の運命を決した一戦にそなえて陣を張った所である。宣教師た
ちはこの古戦場を通って町に近づいた。この町はロマの都市であったが、まわ
りには多数のギリシャ人が住んでいた。植民地であったという言葉の意味はそ
う い う 意 味で あ る 。 ア ウ グ ス ト ゥス ・ シ ー ザ ー Augustus Caesar はこの
大きな戦を記念して、イタリヤからロマ人を移し、ロマ人による植民地として
いた。使徒たちは今ヨーロッパ大陸に入り、しかも初めてロマ人の社会と接触
を持ったのである。ピリピが『この辺の第一の町』であったということは、マ
ケドニヤの四大部分の一つの中で最も重要な町であったという意味ではない。
なぜならピリピのあった地方ではアンピポリスが最重要市と認められていたか
らで ある 。『この 辺』 とい う言葉はむしろもっと狭 い区域 をさすのであり、あ
まり遠くない町や村に比較してのことなのである。
13-15節
この未知の町に入った使徒たちは、招かれて『民に勧めの言葉を』
語るべきユダヤ人の会堂も見出すことが出来なかったから、彼らはこの異教の民
にいかにして福音を紹介すべきかについて、少からず当惑したことは明かである。
彼らがこの問題をどう解決したか、それは本文の次の言葉が語っている。
16:13
安息日に 町の門を出て、祈りの場所が ある と思われる川岸に 行った。 そし
て、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
16:14
ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話
を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
- 278 -
16:15
そ して 、 彼女 も 家族 の 者 も 洗礼 を受 け た が 、そ の と き、 「 私が 主を信 ずる
者だ とお 思いでしたら、どうぞ、私の家 に来 てお 泊まりくだ さい」と言ってわたした
ちを招待し、無理に承知させた。
この記事から見ると、彼らはまずどういう風にして仕事をはじめるかを決定
する前に、安息日まで待ったようである.しかし彼らがもしもう少し早くルデ
ヤとその家族に会っていたならば、違った結果になっていたろう。河のほとり
に祈り場があると考えた理由は、この町に入ろうとして河を渡った時に、何か
祈り場にでもなりそうな場所があるのに気づいたか、或はこの町にユダヤ人が
いるかどうかを尋ねまわっている中に、誰かから、或る女たちが何かの目的で
いつも七日目毎にこの場所へ出かけるらしいという噂を聞いたのであろう。
ルデヤの故郷であるテアテラは属領アジヤ(黙示録1:11)の一都市であって、
アジヤの北の境にあった。おそらくパウロの一行も『ムシヤを過ぎて』トロア
スに下った時に、この町の近くを通ったのであろう。この町は当時紫色の上質
の染 料 ① に よって 有 名 で あ り 、 ま た 現 在 で も約 一 万 の人 口 を もつ ② 位 置的 にも
恵まれた町である。大体紫色の染料というものは甚だ高価であったから高価な
品物を染める時以外には使われなかった。したがってこのような高価な商品を
売っていたルデヤは、勿論働かなくてよい程には裕福ではなかったにせよ、比
較的楽な生活をしていたことがわかる。また彼女が自分の家を持ち、しかもそ
の家はパウロと三人の同行者を接待出来るだけの広さがあり、家族の中には何
人かの女の人もいたこと等からも同じことが言える(13 cf.15)。彼女の性質は
『神を敬ふ』という言葉からだけでなく、安息日を知る人もないこの異教の町
で忠実にこれを守っていたこと、また紫布を商う他の商人たちが忙しく働いて
いるにもかゝわらず、彼女がひとり店を閉じて競争意識をも忘れていたこと、
またこの地には神を礼拝すべき会堂も一つとてなく、毎週の礼拝を指導すべき
一人のユダヤ人男子もいなかったにもかゝわらず、彼女とその傭人とだけはい
つも喧騒な市内をはなれて、聖日を河のほとりで祈りに過したこと等から考え
て、よくわかるではないか。このように不便な境遇にあってしかもなお忠実に
神に仕えようとする精神は、今日数倍も便利な世の中にさえ見ることが出来ない。
しかしこの敬虔な魂はいま上より見られ、そのむくいを受けた。
①このことについての引用は、ホメロスの Odyssey,i.14;ⅲ.9 又 Strabo, xⅲ.4-14 より。
②この町の現在の状態、外観等の描写については、拙著 Lands of the Bible 585ページ参照。
私たちは今はじめて、神の目的を、即ちアジヤ・ビテニヤに行こうとしてい
たパウロをとゞめ、彼を導いてムシヤを過ぎてトロアスに至らしめ、この町で
夜彼に幻をおくり、不思議な摂理の連続により彼と彼の一行をこの植民地に呼
- 279 -
び寄せた、神の目的を知ることが出来る。これらの婦人たちは安息日毎に祈り
のためにこの河辺に行くのが常であった。神はちょうどコルネリオの場合と同
じく、彼らの祈りを聞き入れ給い、彼らが御言葉を聞いてキリストを信じ救い
の道を学ぶことが出来るように、この不思議な方法で説教者たちを彼女らのも
とにおくり給うたのである。神はパウロの旅行を陸路にも海路にも導き給い、
かつて天使を飛行を導いてピリポの歩行を閹人の馬車の運動に合せた時のよう
に、パウロをのせた船の進行と河のほとりの毎週の祈り会とを、時間的に一致
させ給うたのであった。
コルネリオの場合にそうであったように、今また神はまだキリスト教に改宗
していない人の祈りに答え給うたが、その答は彼らの中に直接御霊を働かせる
の では な く 、生 きた説教 者 の唇から語られる 福音による 答であっ た。そして
Alford が 言っているよ うに、 この場合、 パウロはアジ ヤで 伝道するのを禁じ
られながら、彼が最初にキリストにかちえた改宗者がアジヤ人であったことは、
不思議というの外はない。
『主その心をひらき』という言葉は、ルデヤの心が主によって開かれる前は、
何らかの方法で閉ざされていたことを暗示する。勿論それは罪深い生活から来
る頑迷さや、民族特有の堕落によって閉ざされていたのでないことは確かである。
なぜなら彼女がこの大きな誘惑の中で、しかも神を礼拝することを決して忘れ
なかった、変らぬ信心深さを考える時、そのような想像は許されないからである。
彼女の心が閉ざされていたという意味は、丁度どんなに神を拝するのに熱心な
ユダヤ人の心でも閉されていると言えるような意味においてであった。すべて
のユダヤ人及びユダヤ教改宗者たちは当時、来らんとするキリストは地上に王
国を建てることを堅く信じて疑わなかったから、従って純精神的な王、十字架
に釘 け ら れ た キ リス ト と い う よ うな 考 えに 対 して は、 堅 く 心 を 閉 して い た 。
キリストが地上にいた時に、ユダヤ人大衆をして彼を棄てしめたのもこの閉さ
れた 心 で あり、それ はまた な おも彼らの 『躓物 』(ヨハネ5:45、Ⅰコリント1:
23)と して 残って いた 。 ルデ ヤ が果 して ユダヤ 人であ っ たに せよ、 また改宗者
であったにせよ、彼女が教えられていたのはやはりこの『イスラエルの希望』
であり、この希望のために常に敬虔に祈ることを教えられていたのであった。
したがってもしこの考えから来る当然の影響が彼女の心から取り去られなか
ったならば、彼女は自分を教えてくれた人々の大部分がそうであったように、
福音を棄てたに違いない。したがって主が『彼女の心を開いた』という言葉の
意味は、彼女が主を受け入れることを妨げるような誤った観念を、主が取除き
給うたということになる。主が心を開き給うたことの効果は主の意図し給うた
- 280 -
通り であ っ た 。即 ち 彼女 をして『 パウ ロの 語る こ と を 心 に留 める』 (直訳 ) ① よ
うにさせた。こゝに『心に留める』(to give heed)と訳されているギリシャ語
動詞は、或る場合には心を一つの事にとめることを意味し、又或る場合には何
事か を実 行に移 すこと を意味する ② 。 とこ ろでこ の場合は前者の意味にと るこ
とは出来ない。なぜならば、ルデヤは既に『ルデヤという女聞き居りしが』と
いう言葉に示されるように、説教の内容に心を留めていた筈だからである。彼
女は最初に聞いた、それから主が彼女の心を開いた、すると彼女はパウロの語
ることを心に留めた(gave heed)。その意味は、彼女がパウロの語ったことを
そのまゝ実 行に移したというこ とである。 パウロの語ったこ れらの事が何であ
ったか、ルカは既に何度もこれを語っているから、こゝでは繰返さない。しか
し彼は、ルデヤがバプテスマを受けたという記事によって、彼女が聞いて実行
に移した事柄の中にバプテスマが含まれていたことを、間接的に意味している。
私たちはパウロがこのような人たちに説教する場合、常にまず福音を信じ、罪
について悔改、そしてバプテスマを受けよと教えたことを知っている。したが
って、もしルデヤが彼の語ったことを心に留めたとするならば、上の三つの事
を実行した筈である。
①訳者註=現行邦訳『謹みてパウロの語る言をきかしめ給ふ』キングジェームズ訳(A.V.)
“that she attended unto the things which were spoken of Paul.”アメリカン・
スタンダード訳(A.S.)“to give heed unto the things which were spoken by Paul.”、
リヴァイズド・スタンダード訳(R.S.)“ to give heed to what was said by Paul” 、
ルター訳“das sie grauf achithatte, wass von Paulus geredet ward.”
②原語は
προσεγειν
である。この語は次のような表現で、注意を固定するという意
味に 用 い ら れ る 。『 汝ら 己 が義 を 人の 前 にて 行 はぬ よ うに 心せ よ 』(マタイ 6:1)、『偽 預 言
者に心せよ』(7:15)、『汝ら自らに心せよ』(ルカ17:3)、『昔話と窮りなき系図とに心を寄
する事なからしめよ』(Ⅰテモテ1:4)等々。しかし次のような節では別な意味をもつ。『多
くの酒に耽らず』(直訳=Ⅰテモテ3:8)、『読むこと勧むること教ふることに心を用ひよ』
(4:13)、『曽て祭壇に事へたることなき』(ヘブル7:13)。
〔訳者註〕後の三例では注意というよりも実践の意味に用いられている。
私たちはこの改宗の実例中、他のどこにも見られぬこの個所特有の表現、主
がルデヤの心を開いたということを、更に他の観察点から注意して見なければ
ならぬ。既に私たちは開くということは何であったか、また開くことの効果は
何であったかを知ったから、今度はどのような方法によって主が開き給うたの
かということをしらべてみよう。このような表現を解釈する時には大抵の人は、
- 281 -
これを神あるいは聖霊の直接の働きであると考えて、そこに用いられた中間時
代的行者或は手段というものを忘れがちである。この場合でも私たちはどうか
すると主が彼の御霊の直接の働きによってルデヤの心を開いたのだ、という結
論に走って、実はそれとは異った方法が明かに文脈に示されているのを見逃し
てしまう。このことをはっきりと知るためには、私たちはまずルカ自身の立場
に自分を置いてみて、ルカが改宗を記録している他の人たちについては書かな
かった事柄を、ルデヤの場合だけに限って書いているのかということを、自ら
質問して見なければならない。それは決して神が他の人の場合にはなし給はな
かったことを、ルデヤの場合に限ってなし給うたわけではない。何故ならばす
べてのユダヤ人、ユダヤ教改宗者たちがキリスト教に改宗する場合には、当然
同じ道順を踏まなければならぬ筈だからである。相違はたゞ言葉の使い方にす
ぎ な い 。 こ の 言 葉 の 使い 方 は 次 の事 実 によって 説 明さ れよ う。 即 ち ル カは (パ
ウ ロ も そ の一 行 も )神 は 何 の た め に自 分たち を最も 有望と 思われ た伝道 地 に行
くことを禁じて、自分たちをどこへ行くとも知らぬままに導き、遂に福音を持
ち込 むべき開いた入口(opening)もありそうにないこの異教の町まで連れて来
給うたのかということについて、過去数週間来甚だ当惑しつゞけて来た。そし
てこの当惑の真最中に彼らは意外にもこれらの婦人たちに会った。そして彼ら
がそれまでに全然この婦人たちと会ったことがなかったにもかゝわらず、又色
々な客観的事情から考えても十字架につけられたメシヤという考えに対する彼
らの当然な嫌悪に打ち克つには、長い火の出るようなはげしい戦をしなければ
な る ま い と 予 期 して い た 矢 先 、 意 外 に も ル デ ヤ の 心 が 直 ち に 開 か れ た の を 見
て驚いたのである。そして今彼らはアジヤに行くことをを禁じられて以来主が
なし給うたこと、またなし続けて居給うことを悟ったのである。もしあのとき
主の干渉がなかったならば、パウロは今頃アジヤかビテニヤにいたであろう。
そしてこれらの素朴な心をもった婦人たちは、今もなお自分たちに備えられた
救の道を知らないで、河ばたの祈り場で祈りつゞけていたであろう。主のなし
給うことは何と驚くべきことであろう!
この気持がルカにこのような表現を
させたのである。主がルデヤの心を開き給うたのは、ちょうどかつて閹人の心
を開き給うた時と同じ奇しき方法で、生きた説教者を遙かに遠隔の地から導き
寄せて、至当な場所で至当な瞬間にルデヤたちと会わせ、この説教者たちによ
ってその目的を達し給うたのであった。
ルデヤの家族が彼女と共にバプテスマを受けたという事実は、幼児洗礼論を
となえる一部の学者たちによって、幼児洗礼を可とする証拠として取上げられ
てい る。 例えば Albert Barnes の論旨は 次の通りで ある。『この場合は取り
も直さず全家族の受洗、即ち幼児洗礼の実例であるという有力な証拠をもって
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いる 。何 故ならば(一 )ルデヤが信じたと いうこ とが特にはっきり とのべられて
いる。 (二)ルデヤの家族が信じたということはヒントだに得られない。むしろ
反 対に 彼 らが 信 じな かった と い う意味の 方が強い。 (三)従って彼らがバプテス
マを 受 け たの は 彼女が 信じた ためであ ったことは 明かで ある。』これほど出鱈
目な 推 論はな い。まず 第一 、『 全家族 の受洗即ち 幼児洗 礼』という 表現では、
この二つのものが全く同一であると暗に勝手に決めこんでいるけれども果して
そう か 、この ことが 証明 され なければ ならな い。『彼女が信じたと いうこ とが
特にはっきりと述べられている』という文章が次に甚だ怪しい。なぜなら特に
彼女が信じたということはどこにも書かれていない。たゞそれは文脈に暗示さ
れているだけである。最後に『彼らが信じなかった』また『彼らがバプテスマ
を受けたのは彼女が信じたため』などという一人合点は、聖書本文のどこから
も出 て来 る筈 はな い 。そ れ は Barnes 氏 のた く ま し い想 像力 が聖 書 の中へ無
理に作り上げて読んだとしか考えられない。この実例について Alexander 博士は
次のよ う に 言う、『 この 議論の 本当の論拠 は特にどの場合にある というので は
なく、全家族がバプテスマを受けたということが繰返し繰返し記されているこ
とにある。』そしてこれを言うために彼は屡々引用される Bengel の意見に従
う。『 こ のように 多 くの 家族の 中に一人も 幼児がいな かった というよう なこと
を、誰が信ずることが出来ようか?』答はこうである。新約聖書中で全家そろ
ってバプテスマを受けたと書かれている家族は四つしかない。しかもこれら四
家族の中、三家族には幼児が一人もいなかったという確かな証拠がある。まず
コルネリオの家族には幼児は一人もいなかった。それは彼らが一人のこらず異
言を 語 り そして信 じた からである (10:46、15:9)、次に獄守 の家族 にも幼児は
一人もいなかった、それは彼らが一人のこらず主を信じ主にありて喜んだから
である(16:34)、またステパナの家族にも幼児は一人もいなかった。それは『彼
らが 身を 委ねて 聖徒に 仕え』(Ⅰコリ ント 1:16、16:15)からである。故にルデ
ヤの家族に関する前の推論は覆えされてしまう。なぜならば全家そろってバプ
テスマを受けた三つの家族に共通の特徴はその家族に幼児がいなかったという
点であるならば、このことがルデヤの家族においても同じであったということ
を否定する証拠はないのである。たとえ全家そろってバプテスマを受けた家族
の数がこれより多かったとしても、議論に変りはない。事実今日アメリカ西部
諸州で多くの人たちにバプテスマを施している多数の伝道者たちは、幼児をも
たない家族全体をバプテスマしている例が少くないということを、忘れてはな
らない。いやしくも活動的な伝道者ならば自分の経験の中からこのような実例
を幾つも語ることが出来るであろう。幼児洗礼論者の中でも最も有能と思われ
る或る註解者は、この問題についてむしろ穏健な立場をとっている。即ち Alford
は この ル デヤ の 実例を 註解 して 言う、『幼児洗礼 について何 らの推論もこの 個
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所からはひき出し得ないと言えるかもしれない。』Gloag は言う『明かにこの
章句自体は幼児洗礼の擁護のためにも、また反対のためにも証拠としてあげる
ことは出来ない。この中にはルデヤの家族に幼児がいたという手がゝりも、ま
たいなかったという手がゝりもない。』Meyerは幼児のバプテスマについて『新
約 聖 書 中 に は 何 の 形 跡 も 見 ら れ な い 』 と い い 、 Plumptre 副 監 督 も そ の意 見
を次のような言葉で言いあらわしている『このようにして彼女の一家がバプテ
スマを受けたという記事は歴々、使徒時代に幼児洗礼が実行されていた証拠と
して主張されて来た。しかしながらこれはあまりにも言外の意味をとりすぎた、
行過ぎた解釈であることを認めなければならない。この文章からせいぜい言え
ることは、ルカの使った言葉が幼児を除外しないということ位のものである。
しかもこの場合にはルデヤが子供を持っていたということも、彼女が結婚して
いたという証拠さえない。彼女の一家はおそらく彼女が傭っていた女奴隷たち
と、 解 放 され た 女たちとか ら な っていて 、これらの人々が彼女の family を形
成していたのかもしれない。この最後の言葉で、この鋭敏で公正な記者は実際
に聖書本文に出ている説明の核心をついている。なぜならば、まずパウロが河
岸についた時、彼は『集れる女たちに語った』(13)、この節のすぐ二つの後の
節ではルカは急にルデヤの家族のことを言っている。ルカは明かに先の女たち
が、即ちルデヤの家族であることを言おうとしているのだ。これらの女たちの
中に ユ ウ オデ ヤ とスン トケ が い たとい うことは、Plmptre も暗 示しているよ
うに、全く有り得ないことではない。この二人の女性は後にパウロと共に福音
のために働いたが、その後お互に仲違いをしてしまったことが使徒パウロをひ
どく悲しませることになった(ピリピ4:2,3)。
この全家がバプテスマを受けたことは、使徒とその同行者たちに宿所が与え
られる結果となった。この新しい宿所は彼らがそれまで我慢して泊っていた異
教徒の家より数倍も居心地のよいものであったろう。しかしこのような場合に
当然な、パウロのデリケートな心遣いは、ルデヤの親切な申出を拒絶させたが、
ルデヤが遂にどこまでも断られるのは自分がまだ主の信者と思われていないの
かと言わんばかりに、はげしく懇願するに至ってとうとう彼女の親切を受ける
ことになった。この懇願によって『強いて我らを留めた』とルカは言う。
5.パウロとシラス鞭うたれ投獄される(16-24)
私たちは次に使徒たちがはじめて異邦人のそゝのかしによる迫害を受けるに至
った一事件を紹介される。
16:16
わ たした ち は、 祈りの場 所に行く 途中 、占いの 霊に取りつか れている女奴
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隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。
16:17
彼女は、パ ウ ロ や わ た し た ち の 後 ろ に つ い て 来 て こ う 叫 ぶ の で あ っ た 。
「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」
16:18
彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、
その霊 に言った 。「 イ エ ス ・ キ リ ス ト の 名 に よ っ て 命 じ る 。この女から出て行け。」
すると即座に、霊が彼女から出て行った。
直訳すると、この女の憑れていた霊はピソン Pythonの霊であった。Python
と い う 言 葉は ギ リ シ ヤの デルフォイ Delphi で 神託 を授 ける 女の 宣 託を さす
言葉 と 同じで ある 。 これ らの女たち を異教徒たち は Python という蛇 の霊を
受けるものであると考え、その神託はすべてこの蛇の智慧によるとされていた。
ルカの言葉はこのような想像上の霊の霊感によるものと解することは出来ないが、
とにかく彼はこの婦女の中に一つの実在の霊をはっきりと認めており、またこ
ゝにのべられているような理由からこの霊を Pythonと呼んでいる。この症状
は明かに福音書に度々あらわれる悪鬼憑きの一例であり、ルカの読者は彼の前
の書でおなじみのはずである。またこの霊が使っている『いと高き神』という
称号は、ガダラにおいて『レギオン』が使った称号と全く同じであることに注
意して見るのも面白い。
この婢女が彼女の言を多少とも信頼している人々に対して真理を、しかもパ
ウロが人々に受入れさせようと懸命の努力をしているその真理を宣べ伝してい
るのに、何故彼は彼女の協力を拒絶したのか?何故この明かな味方の口をわざ
わざふさいだのか?
その答はただ一つ、福音の証人として悪鬼を受け入れる
ことは、これらの悪鬼と使徒たちが関係しているのだと人々に思わせる結果に
なるからである。そして使徒たちの良い評判が悪鬼の上にまでかゝり、同様に
悪鬼の悪い評判が使徒たちの上にまでかゝることになるからである。この二重
の害をさけるために、イエスも使徒たちも常にあらゆる悪鬼を、自分たちの味
方になってくれるにもかゝわらず、必ず逐出したのであった。パウロはこの場
合『いたく憂へ』た。そしてどうしてもこの悪鬼を逐出さなければならなくな
るまで『幾日も』待たなければならなかった。それは彼がもし悪鬼を逐出せば
この奴隷の金銭的価値が甚だ下ることを知っており、又このような異教の町で
人の財産の権利に干渉するように見えるような結果を恐れたからである。婢女
が、悪鬼が逐出されるまで数日間、毎日祈り場までこの説教者たちについて行
ったという事実は、この祈り場が彼らの日々の説教の場所として選ばれていた
ことを示している。第一、彼らが市内にこのような恰好の場所を見出すことは
殆ど不可能であったにちがいない。こうして奇蹟的に悪鬼憑きから解放された
この婦女がどうなったか、私たちにはわからない。しかしこの大きな力からの
- 285 -
解放の喜びは、さぞや彼女をパウロの教えの下にひれふさしめ、また今はパウロ
と共に働いている善良な婦人たちの感化の下にもたらしたと考えなければなら
ない。これらの婦人たちは当然彼女に同情し彼女を助けたであろう。
19-21節
パウロがひそかに予期し恐れていた結果(18)は今や現実となっ
てあらわれた。
16:19
ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまった ① ことを
知り 、パウ ロ とシ ラス を捕 ら え、 役人 に 引き渡 すた め に広場 へ 引 き立てて行 った。
16:20
そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人
で、わたしたちの町を混乱させております。
16:21
ロ マ帝国 の市民 である わた した ちが 受 け入れる ことも、実行する ことも許
されない風習を宣べ伝しております。」
『上役』と呼ばれている官吏はラテン語で duumviri ② という名で呼ばれ、
ロマ植民市の最高権という名で呼ばれ、ロマ植民市の最高権をもつ二人の官職
であ る。 使徒たちははじめ 市場(この訳語 は正しくない)と訳されている広場、
アゴラ agora で、比較的低級の官吏の前に曳き出され、それからこれらの官
吏たちによって二人の最高の司に引き渡されたらしい。こゝでは訴訟の真の理
由はかくされて、偽りの理由がのべたてられている。それはまず第一に、事実
を正直に語ってしまえば上役はパウロの力を信じるであろうし、第二には、こ
のような異教の町ではどんなでたらめな口実を作ってでも、ユダヤ人に対する
敵意の叫びをよびおこすことは、いとも容易であったからである。パウロがこ
の旅行 でコリント につい た時には、す べ ての ユ ダ ヤ 人 は 皇 帝 の 命 令 に よ りロ
マから追放されて いたが(18:2)、すでにこの追放命令はこの時に出ていたのか
もしれない。もしそうとするならば如上の事実はおよそ忠良なロマ市民の心に、
この迫害された民族に対する共通の敵慨心をますますあふり立てていたと考え
られる。
①ルカはこゝで仲々ユーモラスなしゃれを使っている。彼 曰 く 、 悪 霊 が
(出で去った)時、主人が自分の利を得る望も
②こゝに用いられたギリシャ語は
ἐ ξ ῆ λ θ ε ν であった、と。
στρατηγοῖς
ἐξῆλθεν
であって、ラテン語の praetos に
等しい。
22-24節
奴隷の主人のこの偽善的な叫びは、直ちに異教徒の群衆と上役
- 286 -
との上に、望み通りの効果をもたらした。
16:22
群衆 も 一緒 に なって 二人を責め立てた の で、 高官た ちは 二人 の 衣服 をは
ぎ取り、「鞭で打て」と命じた。
16:23
そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張る
ように命じた。
16:24
こ の 命 令 を 受 け た 看 守は 、 二 人を いち ば ん 奥 の 牢に 入 れ て、 足 に は 木の
足枷をはめておいた。
こゝに私たちは再び、あのポンテオ・ピラトの名を有名にした、群衆の叫び
への媚び諂いの例を見る。上役らは被告に自ら弁護する機会を全然与えずこれ
を獄に投じ、裁判の正しい手続さえ全く無視されている。使徒たちが打たれた
笞(棒 )は 、 ロマの執政 官 のそば についている役人がいつも束 にして持っている
ものである。そしてこの棒の効果を増すために、おそらく打たれる人は例によ
って鞭笞柱にしばりつけられて打たれたであろう。獄守も全くこの暴民の精神
を そ の ま ゝ受 け つ いで 、 最 大 の いか め しさ を もって彼 らを 『 安 全に 守 る』 (現
行 訳 =固 く守 る)ため に 二人 を 曳 いて 行っ た 。彼ら を 安全 に守る には 奥 の牢舎
に入れてかたく錠を下せばそれでよかったろう。しかし彼は安全に守ることに
つけ加えて、二人の足に桎をかけて苦痛を与えることにした。こうして脛を桎
でしめつけられ、足がその向うに突き出ているというような恰好では、寝るに
も坐るにも苦痛はまぬかれず、姿勢をかえて苦痛から解放されることさえ不可
能であったろう。この苦痛は時間のたつにしたがってはげしくなり、その苦痛
がいかにはげしいものであるかは、それを経験した人でなければ想像すること
も出来ない。
6.獄守とその一家バプテスマを受ける(25-34)
25、26節
夜が更けると共に、二人の囚人の状態は極度に苦しくなった。
真っ暗な牢獄の中に不自然な姿勢で坐っている苦痛、笞で打たれた傷からは血
が流れる、足は桎でしめつけられる、その上自分たちがせっかく祝福を与えよ
うとして来たその人たちの手で苦しめられる残酷な不法を考える時、彼らの心
は痛んだ。そしてもしこの時彼らが、何故神はこの忠実な働き人にこんなひど
い報いを与え給うのかという、沈痛な疑問に沈んでしまわなかったとするなら
ば、彼らの信仰は正に英雄的である。ルカはこのようなことについては、この
夜の前半に関する限り、全く私たちの想像にまかせている。
16:25
真夜中 ご ろ 、パ ウ ロ と シ ラ ス が 賛 美 の 歌 を う た っ て 神 に 祈 っ て い る と 、
- 287 -
ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
16:26
突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開
き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。
人間というものは、決して怒っている時に祈ったり、深い歎きの中で歌った
りしない。したがってこれらの人が真夜中に祈ったということは、笞鞭柱で笞
を受けた時、また暗い牢舎に投げこまれて足桎をかけられた時には殆ど彼らを
怒させんばかりであった感情の嵐も、既に鎮まっていた証拠である。歌うのに
必要な喜びの気持は彼らの祈の結果であったろう。こうしてパウロは後日彼が
この 町 の弟子 たちに 教 えた教訓をこの 時に得たのであ った。『何事 も思 い煩ふ
な、たゞ事ごとに祈をなし、願 を な し 、 感 謝 して 汝 ら の 求 め を 神 に 告 げよ 。
さらば凡ての人の思いにすぐる神の平安は、汝の心と思いとをキリスト・イエ
スに よ り て 守 ら ん 』 (ピ リ ピ 4:6,7)。 こ の歌 声 は 獄 中 の 囚 人 たち に は 異 様な 物
音であった。そして彼らが熱心にこの歌声に聞き入っている最中、突然はげし
い地震の震動を感じ、牢舎の戸がバタンバタンと開くのを聞き、同時に自分た
ちをしめつけている桎が身体からはずれて落ちるのを感じた時、彼らは直観的
にこの恐ろしい現象を、今歌っていた人々及び彼らが讃美するその神と結びつ
けて考えた。効果は腰を抜かす程のものであった。
27、28節
獄守は讃美の歌は聞かなかったらしい。彼は地震の振動で眼を
さました。おそらく彼は戸のバタンバタンと開く音、足桎の石の床の上におち
る響を聞いたであろう。
16:27
目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてし
まったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28
パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」
囚人を逃亡させた罰は死刑であることを瞬間に考えた獄守は、敵の手や死刑
執行吏の手にかゝるよりは自らの手で死を選ぶという、ロマ人の名誉の律にし
たがって行動しようとした。おそらく彼はこの早まった行動に走る前に、自分
の決意をあらわす何かの叫声を上げたに相違ないから、パウロの早い耳は直ち
にこれをとらえ、大声で獄守を呼びとめ、彼を間一髪の瞬間から救った。
29、30節 正気をとりもどす否や、獄守は彼を呼び止めたその人が、イス
ラエルの神の名によって救を宣べていた人であることを思い出し、瞬間的に今
しがたの地震と、戸の開いたことと、桎がはずれたことを彼に連想し、彼の神
の働きに連想した。この考え、それに彼によって救われたおそろしい運命を思
い合せた時、彼の心は彼のあずかる囚人たちの安全よりも、自分自身の救いと
- 288 -
いうことに集中した。
16:29 看守 は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前
に震えながらひれ伏し、
16:30
二人 を外へ 連 れ出して言った。 「 先生方 、救われる ため にはどう すべ きで
しょうか。」
夕暮、冷酷に使徒たちを牢獄にほうり込んだ時、彼は使徒たちをも、彼らの
宣べる救のことをも、何の気にもとめていなかった。なぜなら彼はその時、い
のちと健康にあふれていた。すべてが彼にとってうまく行っていた。しかし今
この夜半、彼が死の寸前に直面したとき、地震ほどの大変化が彼の心におこり、
彼は自分の囚人であるこの人たちの前にふるえながらひれふした。他の囚人た
ちのことはもう全く念頭にない。ルカ自身でさえ獄守のあまりの興奮に気を奪
われてしまって、他の囚人がどうなったかを書くのを忘れているではないか。
私たちに想像出来ることは、彼らが恐怖のために腰を抜かす程驚いてしまった
ため、パウロとシラスが外に連れ出されて外の扉に錠がかけられるまで、その
場に動けずにいたということである。
31-34節
使徒たちを自分の家族の住む家に案内した獄守は、直ちにこの
二人から自分の質問に対する満足な解答を得た。
16:31
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救わ
れます。」
16:32
そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
16:33
まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、
自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
16:34
こ の 後 、 二人 を自 分 の 家 に 案 内し て食 事を 出し ① 、 神を 信じ る 者に な っ た
ことを家族ともども喜んだ。
①文字通りには、彼らの前に食卓をととのえた(
παρέθηκεν τράπεζαν )であって、
普通私たちが家庭で使う英語の表現 set the table というのに等しい。
獄守はこの時までにパウロの言を聞いたことがあるにしても、あまりよく注
意して聞いたことはなかった。もし聞いていたならば救われんために何をなす
べきかは知っていた筈である。なぜなら使徒たちは決して、現代の多くの説教
者たちのようにこの最重要な質問を疑のまゝで放っておくようなことはしなか
ったからである。パウロの答のはじめの部分はその後の部分がなければ意味を
なさない。
- 289 -
もし彼が『主イエスを信ぜよ』だけでやめていたならば、獄守はちょうどあ
の生れつきの盲人(ヨハネ9:36)のように、『それは誰なるか、われ信ぜまほし』と
答えていたかもしれない。この理由のために二人の説教者は『神の言を後に語
った 』 の である。Plumptre がいみじくも説明しているように、『キリストと
いうその称号、イエスがキリストであることを証明するその言行、彼の生涯と
死と復活、罪の赦と彼との交わりという真理、そして彼がこれらの真理の証し
として 行 っ た数々の徴、このすべてのことが、この真夜中と夜明けの間という、
時ならぬ時に集った会衆に向って、パウロの説教した神の言の中に含まれてい
たに違いない。このすべてのことが『救われんために我何をなすべきか』とい
う質問への答の中に含まれていた。そして『主イエスを信ぜよ、然らば汝も汝
の家族も救われん』という言葉は、たゞその切り出しにすぎない。したがって
パウロのこの言葉だけをつかまえて、救いは信仰だけによるという結論を引き
出す人々は、この牢獄をあまりにも早く去ろうとするあわてものである。彼ら
は全部聞いてしまうまで居なければならない--パウロがこの人に悔改てバプ
テスマを受けよと命ずるまで、バプテスマの目的の説明がすむまで、彼が実際
にバプテスマを受けるまで、彼がバプテスマを受けてすぐに大いに喜ぶのを見
るまで、それは大して時間のかゝる仕事ではない。それは全部『この夜即時に』
行われたことであるから、もし私たちがパウロの答を、同じ質問に対してペテ
ロ及びアナニヤの与えた解答と比較するならば、アナニヤは『起て、その御名
を呼び、バプテスマを受けて汝の罪を洗ひ去れ』といい、ペテロは『悔改てバ
プテスマを受けよ』と言っていることを発見するであろう。それはこれらの質
問を発した人たちはその時既に信じていたからである。これに対してパウロは、
以 上の 三 つの段 階 の 何 れを も 踏んでいない この質問 者 に対して、『主 イエ スを
信ぜよ』と言っておいて、それから後の二つの命令を附加えたのである。こう
してこの三人の霊感による神託は完全に一致する。信仰から来る結果『汝も汝
の家族も救われん』は、決して信ぜよという命令に関連して救いが、悔改もバ
プテスマも伴わなくても信仰につゞいて与えられるという意味で言われたので
はない。何故ならば正しい程度の信仰は常に悔改を生じ、使徒たちの行った例
によれば、必ずバプテスマが直ちにこれにつゞいたからである。言い換えるな
らば、信ずるということは常につゞいておこるこれらの手続をふくめて用いら
れているのである。
さて幼児洗礼論者たちの中でも、この獄守と彼の家族とがバプテスマを受け
たということは、決して幼児洗礼の証拠を提出するものではないということを
認めてい る人もあるけ れども ① 、こういう 一部の人以外はこ れは幼児浸礼をも
潅 水礼 をも裏書する証拠であるということを見せかけようとして努力している。
- 290 -
潅水礼を支持する証拠としては、まずバプテスマは当然牢獄の中で行われたも
のと認め、次にこのような場所ではバプテスマの設備を見出すことは殆ど不可
能であったと主張するのである。しかし二人が『獄守とその家に居る凡ての人
々と に 』 説教 する 前に 、『 彼ら を牢舎から 連れ出した 』(30)とはっきり書かれ
ている。また彼が二人の傷を洗うために、そしてバプテスマを受けるために、
二 人を ど こか へ 連れて行った “took them”somewhere ことも 同様に明瞭で
あり、またバプテスマを受けた後、彼が『二人を自宅に伴った』(34)とも書か
れている。したが って、バプテスマは牢獄の中で行われたのでも、家で行われ
たの でも なく、 それは『彼が彼らを連れて行った』 ② その場所で行われたので
なければならない。これが牢獄の庭であったのか、それともあのルデヤがバプ
テスマを受けた河であったかは、私たちはそれを決定するたしかな手段をもっ
ていない。しかしいずれにせよ浸礼を行うに不利な条件はどこにもない。
①Plumptre はこうしてこの個所を説明しながら次のように言っている。=『この記事の
幼児洗礼問題に関して占める位置について上にのべたこと(15節の説明を見よ)は、更にこ
れに附け加えて、こゝにバプテスマを受けたと書かれている人々が、明かに聖パウロが説
教した 対象 (いずれ の場 合にも all-- 凡て 、みな -- とい う言葉 が使われている)と 全く
同 一 で あ る と い う 事 実 に も あて は ま る 。 故 に 彼 ら は み な 、 こ の 獄 守 と 一 緒 に パ ウ ロ の 教
を受けるだけの年齢であった筈である。(Commentary in loc.)
π α ρ α λ α β ὼ ν を『引
π α ρ α λ α β ὼ ν を『連れて行く』
②訳者註=31節現行訳は『かれらを引き取りて』となっており
き取り』と訳しているが、英語では took them と
意味にとれるように訳している。
使 徒 行伝の 英文訳をしている Lechler の 考えもまたこゝで注意 してみ る価
値があろう。なぜならそれは極端な反対論者の立場からこの問題を論じている
からである。彼は言う『もしパウロが近くの河で獄守にバプテスマを施すため
に、夜 ひ そかに出 て行った もの とする ならば、彼はどの正直な人が翌日、「こ
のような不名誉な方法で投獄された以上は、上役たちが自ら来て自分たちを連
れ出すのでなければこの牢舎の中から離れない」などとどうして公言すること
が出来たろうか?』……これに対して私は答えよう、パウロがこれは翌日まで
のば すべ きで ないと考 えた主の礼典を 行うた めに行 ったのであるな ら、『ひそ
かに』行ったなどということは凡そ馬鹿げている。またこの時、神自ら牢獄の
扉を開いて彼らのバプテスマのために道を作られたならば『ひそかに』という
ことは出来ない。また或る人々が考えるように、獄守はバプテスマのためとは
いえ 自分 の囚人たち (パウ ロとシラスの二人)と一緒に出て行 くことを躊躇した
であろうとする想像も同様に馬鹿げた考えであろう。なぜなら彼がそれを実行
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したのは、神の聖なる力と権威との顕れに対する服従行為として行ったのであ
るから。次に夜出かけておきながら、翌日上役が宥めるまで獄を去らなかった
パウロの誠実さについては、誠実だとか正直だとかいうことはこの場合問題に
ならない。なぜならば彼が改宗させたこの新しい信者の救について、神への義
務は前者を要求したであろうし、パウロ自身の評判をまもるためには後者の行
いも必要であったからである。この記事の中に幼児洗礼の証拠があるという想像
は、全く根拠をもたぬばかりか、むしろ事実はこの考えを排除する。なぜなら
パウロはこの家族全部に向って御言を語り、彼らはこの家の主人である獄守と
同じように喜び、また神を信じたからである。この家族に幼児が一人もいなか
ったことは確かである。
7.囚人たち釈放される(35-40)
35、36節
はじめ上役らがパウロとシラスとを投獄するよう命じた時、私
たちは当然彼らが二人に対する訴訟事件について、あらためて訊問をし直すも
のと考えたであろう。ところが…
16:35
朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」
と言わせた。
16:36
そ れで 、 看守 は パ ウロ に こ の 言 葉を伝 えた 。 「高 官た ち が 、あな た が たを
釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」
私たちの知る限りでは、この命令はその夜おこった事件の知られない中に発
せられた。或る学者たちの想像するように、上役たちが地震に驚かされたとい
うことについては、この地震が明かに奇蹟的なものであり、自然の地震でない
以上、それがこの牢獄の外にまで及んだと想像する根拠はない。釈放命令を最
も自然に説明するものは、前日の笞と投獄はたゞ異教徒の叫号をしずめるため
に課せられただけであったから、もうこれ以上留置期間をのばす必要がなかっ
たという事実である。彼らは囚人をこのように朝早く釈放してやれば、囚人は
喜んで町から逃れ出るにちがいないから、これ以上暴徒の騒擾を起さずにすむ
と考えた。上役たちは彼らの相手がどんな人間であるかを少しも知らなかった
のである。
37-39節
このようにまるで当然の刑罰を受けたかのようにして獄から釈
放されるということは、もしその噂が他の町にひろまるならば、使徒たちにとっ
ては甚だ有害である。しかし幸いなことに、これをのがれる手段は手近にあった。
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16:37
とこ ろ が 、 パ ウロ は 下役 たち に 言 った 。 「 高官 た ち は、 ロ マ帝 国の 市民権
を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、
今ひ そ か に 釈 放 しよ う と す る の か 。 いや 、そ れ は いけ ない 。 高官 た ち が 自分で こ こ
へ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」
16:38
下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がロマ帝
国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、
16:39
出向 いて来てわびを言い、二人 を牢か ら連 れ出し、町か ら出て行くよう に
頼んだ。
38節の 『警吏 』は英語 訳(KJV)で“ serjeants”となってい るが、現代英 語の
この言葉はこの場合あまりよく当はまらない。この官吏の本当の職名はむしろ
lictor(リクトル、 古代 ロマで 束桿 fasces を携えて上長官 に従い、罪人処罰
を職 と し た官 吏 )であ る 。彼 らは いつ も細 い 棒 の 束を もってロ マ の 執 政官 につ
き従ったものであり、前日パウロとシラスを『多く打った』(23)のもこのリク
トルであった。パウロの要求の目的は明白である。即ちもし彼がこの町で笞を
受けて釈放されたという事実が他の町にまで彼につきまとうならば、一方また
それを命じた司が後で自らこれに対する償いをしたという事実も彼らの行先に
ついてまわる。しかも迫害を受けたパウロは迫害者には当然の仕返しをもしな
かっ た と いう評判と 共に 。「ロマ人を鞭うつことはロマ法を破る罪であっ たた
め ② 、 使 徒 たちは自分 たちへ の虐待に 対して復讐 しよう と思えば復讐出来た。
し か し パ ウロ は兄 弟 たちに 決 して復 讐する なと 教 えてい た(ロマ 12:19)、そし
て彼 は そ れ を そ の 通 りに 実 行 し た。 上の事件はクリスチャンが自分を護るために
国法に訴えることを義とする。しかしそれは敵を罰するためにではない。
①紀 元前 300年 に発 布 され たポ ルシ ア法 “Porcian Law”は 、ロ マ市民 を鞭 うつこ とを 全
く禁じている(Livy,10:9)。ヴェルレス Verres がこの法律を破ったことに対するキケロ
Cicero の 糾 弾 演 説の ク ライマ ッ クスは 、 こ の こ と に 関 して屡 々 引 用さ れ る 。『 ロマ 市 民
を捕縛することは悪事である、これを鞭うつことは犯罪である、これを死刑に処するは
正に親殺しにも等しい大罪である。』
Bauerはこの記事全体を否定して論じて曰く、両使徒がもし本当にロマ市民
権を 持 ってい た な らば 彼らは 、パウ ロが 後 にしたよ うに (22:25)、笞 を受ける
前にこれを宣言したはずである。そしてもし彼らがこのように簡単な方法で笞
をさけることが出来たにもかゝわらず、実際笞に身を委ねたとするならば、そ
れは誰が悪いのでもなくて、使 徒 たち 自 身 が 悪 い の で あ る (Paul,1:154)と 。
しかし、彼らが笞を受ける前にこのことを全く主張しなかった、ということを
Bauer氏はどうして知ることが出来るのか?史家ルカがこのことについて沈黙
- 293 -
を守っているからといって、それがこの事の証拠にはなるまい。このことはそ
れ自体全く有り得ないことである。む し ろ 有 り 得 た 事 情 は 次 の 通 り で あ る 。
この人たちは不法な習慣をこの町に持ち込んだとんでもないユダヤ人として起
訴されたから、彼らがロマ市民権を持っていることを主張したとしても、興奮
した民衆には全く相手にされず、嘲弄されるばかりであった。ところが翌朝に
なって彼らが、上役の弁解がなければ獄を出ないと坐り込んだ時は、さすがの
彼らも二人の言うことを信用し、これを重んじたのであろう。
40節
二人の囚人は釈放されるにあたって、自ら上役と会見してその要請を
容れ、やがて威厳を正して獄を出た。
16:40
牢を出た 二人 は 、リディ アの 家に 行って兄弟たち に会 い、彼らを励まして
から出発した。
こゝに出て来る『兄弟たち』は、多分使徒たちが投獄される前、この町です
ごした『幾日』(18)かの間にバプテスマを 受けていた人たちであった。ルカ及
びテモテもまた、私たちが後に見るように(17:1)、その中に含まれていたろう。
これらの人々は獄守の家族と共に今ピリピに植えられた教会を形成したのである。
そしてパウロは今一層深く、彼がアジヤ、ビテニヤに行くことを禁じてこの地
に導き給うた神の聖旨を解することが出来た。
8.テサロニケでの伝道と迫害(17:1-9)
1-3節 使徒の一行がトロアスを発って以来久しく用いられて来た一人称代
名詞は、こゝで再び三人称代名詞にかわる。これはルカがピリピに留ったこと
を暗示する。そしてまたこの三人称代名詞が文法的にパウロとシラスとを指し
ていることからみて、テモテもまたルカと共にピリピにとゞまり、教会を更に
教え、かつ組織する任務を果していたらしいことがわかる。私たちは後にこの
教 会 に も 充 分 な 役 員 の 陣 容 が と ゝ の えら れて い る の を 見 る (ピリ ピ 1:1)が、 こ
れらの役員を任命したのはこの二人の兄弟の仕事であったことは言うまでもない。
教会の問題にこのように充分な対策を講じてピリピを後にしたパウロとシラス
は、つゞいてまた新しい伝道の野にわけ入って行く。
17:1 パ ウ ロ と シ ラ ス は 、 ア ン フ ィ ポ リ ス と ア ポ ロ ニ ア を 経 て テ サ ロ ニ ケ に 着 い
た。ここにはユダヤ人の会堂があった。
17:2 パ ウロ はいつ もの よう に、 ユダヤ人の 集ま っている とこ ろへ 入 って行き、三
回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、
17:3 「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、
また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。
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ピ リピ か ら テサ ロニ ケま で の道 程は約 160kmあ る。 使 徒たち をアン ピポ リ
スでもアポロニヤでも止って説教させずに、この町に引きよせたのは、おそら
くこの町に会堂があったということであろう。なぜならば、一つの町に会堂が
あるということは、相当のユダヤ人人口がその町にあることを示すものであり、
同時に一団の異邦人改宗者がいることでもある。このことは福音をもち込む立
派な入口があったということである。テサロニケは商業上の重要都市であるた
め、当時はもちろん今日でもサロニカという名で、ユダヤ人の集まる町である。
この三つの安息日にわたってパウロが論じたことは、本質的にピシデヤのア
ンテオケでの彼の説教及びペンテコステの日のペテロの説教と同じであった。
そしてまた、もし彼が各地でユダヤ人に向ってした説教の記録が残っているな
らば、疑もなくそれは全部大同小異であることを、私たちは発見するであろう。
それはユダヤ人という共通の聴衆の精神状態に応じて語られた共通の説教だか
らである。キリストが十字架につけられたというような説教は、大部分のユダ
ヤ人たちにとっては聞くにたえない恥ずべき話であった。なぜならそれは彼ら
が預言者の中に読んだキリストの栄光的支配とは全く矛盾するように見えたか
らである。彼らがこの点に関して預言者を誤読していたということを悟るまで
は、十字架につけられたイエスがキリストで有り得るというようなことを信じ
させるのは、不可能であった。この故にパウロはまず彼らの誤解を悟らせる目
的で、預言者にもとづいて『キリストの必ず苦難を受け、死人の中より甦るべ
き こと 』 を 証明 した後 、『わが汝らに伝ふるこのイエ スはキリストなり』と説
かなければならなかった。イエスという人が苦しみを受けて殺されたことは周
知の事実であった。そしてパウロはこのイエスが復活したことについては、そ
れを証明する充分な証拠をもっていた。このイエスの復活の証拠は必ずしも直
接それを目撃した証人に限らなかった。パウロはイエスの名によって数々の奇
蹟を行うことによって、イエ ス の 生 ける 聖 な る 能 力 の 明 白 な 証 拠 を 示 し た 。
この こ と を私たちは 彼がこの地に建てた教会へ後におくった手紙の内容から知る。
『それ我らの福音の汝らに至りしは、言にのみ由らず、能力と聖霊と大なる確
信とによれり。且われらが汝らの中にありて汝らの為に如何なる行為をなしし
か は 、 汝 ら の 知 る所 なり 』 (Ⅰ テ サ ロニ ケ1:5)。 彼ら の 目 前に 奇蹟 を 行う 聖霊
の力は、その名によってこの奇蹟の行われる人、即ちイエスの復活と栄化とを
確実に証明した。これこそいかなる人も『言のみ』によって証明することが出
来なかったところのものである。言いかえるならばこのような力づよい能力の
裏付けをもたぬ人間の言は、天国に関して何の感銘も確信も人に与えることは
出来ない。しかしこの能力の証明をもって語られる言は、何びとといえども、
少くとも正直な人ならば受入れざるを得ないのである。
- 295 -
上にのべられた三つの安息日の間にはさまる二週間の間、二人の兄弟は自分
たち が 利 己 的 な 動 機 か ら こ の こ と を して い る と い う よ う な 嫌 疑 の お こ る こ と
を、極力避けるようにつとめた。彼らは自分たちの日々のパンを求めることに
よって、他の人をわずらわすということもさけた。またたとえピリピの教会か
ら幾分かの寄附を受けていたとは言うものの、その額は甚だわずかなものであ
った ため 、彼らは『 夜 昼 工 を な さ な け れ ば な ら な か っ た(Ⅰテサロニケ2:9、
ピリピ4:15,17)。
4節
このような生活のともなった、このような教えと、能力の証明は、やが
てよい結果をもたらさずにはおかなかった。
17:4
それ で 、彼 ら のう ち の ある 者 は信じて、 パウ ロと シラ ス に従っ た。 神 をあが
める多くの ギリシア人 や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。
この記事から見ると、この時にキリスト教に改宗した人の中で最も人数の多
か った 階 級 は、『敬虔 なる ギリ シヤ人』即ちユダヤ人 の例になら って神を礼拝
することを知っている異邦人たちであったり、これにつゞいて『重立ちたる女
たち 』、 また 異邦 人改 宗 者 、 そ して 一 番 少 な か っ た の は ユ ダ ヤ 人 で あ っ た 。
したがってその大部分は異邦人である。このことについてパウロは後に彼らに
『また汝らが偶像を棄てて神に帰し、活ける真の神に事へ』(Ⅰテサロニケ1:9)
と書きおくっている。
5-9節
敬虔な異邦人の間におこったこのような運動は、この人たちが会堂
にいることを自ら誇りとする、イエスを信じないユダヤ人たちにとっては甚し
い屈辱であった。そしてこれらのユダヤ人たちはその多数と町の無頼の徒に対
する勢力を利用して直ちにパウロとシラスの上に大災難をふりかけることを躊
躇しなかった。
17:5
しかし、ユダヤ人た ちはそれをねたみ、広場 にたむろ しているならず者を何
人か抱 き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前
に引き出そうとして捜した。
17:6
しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者た
ち の とこ ろ へ 引き 立てて行 って 、大 声で 言 った 。 「 世界中 を騒 が せてきた 連中 が 、
ここにも来ています。
17:7
ヤ ソ ン は 彼 ら を か く ま っ てい る の で す 。 彼 ら は 皇帝 の 勅 令に 背 い て、 『 イ エ
スという別の王がいる』と言っています。」
17:8
これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。
- 296 -
17:9
当 局 者 た ち は 、 ヤ ソ ン や ほか の 者た ち か ら 保証 金 を取 った う え で 彼 ら を釈
放した。
この町のユダヤ人たちはピシデヤのアンテオケにおけるほど、町の主だった
人々 の 間 に勢 力 をも ってい な かった と見 え る(13:50)。そ れで彼 らは 無 頼の徒
を扇動して、彼らの手でこの事件を司たちの前へ持って行かせるようにしむけ
た。パウロとシラスがヤソンの家に泊っていることを知った彼らは、二人を暴
徒の手にわたそうという明かな目的で『二人を集民の前に曳き出さんとした。』
しかし二人を見つけることが出来なかった彼らは、ヤソンと数人の弟子たちと
を町司の前に曳き出して、今度はやゝ法的な手続を踏んで訴訟をおこした。こ
の司はギリシヤ語でポリタルカイ即ち city-ruler(町司)と呼ばれた。天下をく
つがえすという彼らの非難は、他の町々で使徒たちが伝道する時必ずおこる暴
徒の騒擾をさしているのであろうが、これはテサロニケのユダヤ人の耳にもす
でに入っていた噂なのであろう。しかし実はこの非難は当然彼らユダヤ人自身
に向けられるべき非難であり、事実彼ら自身このテサロニケの町に他市の暴徒
の二の舞を演じようとしていたのである。第二の非難は正しい意味において真
理であった。というのは彼らは実際イエスを王として宣べ伝えたからである。
しかしこの訴えの下心は実は全く反対であって、ユダヤ人が故意にこね上げた
理屈であった。それに気付かないのは無頼の群衆であったが……。人々と司た
ちが恐れたのは、カイザルに対する叛逆運動をこの町で黙認したという嫌疑を
うけることであった。こゝでもしパウロとシラス本人が町司たちの前へ曳き出
されていたとするならば、二人がピリピの執政官から受けたよりも寛大な処分
は受けなかったであろう。しかしヤソンに対する唯一の訴えは、たゞ彼がこの
説教者たちを家に泊めて接待したことであったから、ヤソンは町の平安を乱さ
ないという保証を与えただけですぐ釈放された。
ルカ がテサロニ ケの司に適用 した町司( π ο λ ι τ ά ρ χ α ς )という称号は、この
個所以外どのギリシヤ語文献にも全然見えていないために、もしこれを証明す
る或る一つの事実がないならば、例によって信仰の敵たちからさんざん攻撃を
うける所である。しかし事実は存在する。それはごく最近に至るまでこの町の
主な通りにまたがっていた古い大理石の凱旋門に、この称号が刻まれており、
七人の町司の名が今もその上に残っている。この凱旋門が取壊された時、この
記銘をもつ石板は、当時テサロニケに駐屯していた英国領事の手に渡って、現
在では大英博物館に保存されている。これらの名の中の三つはソパテロ、セク
ンド、及びガイ オであり、い ず れ も パ ウ ロ と 一 緒 に 働 い た 有 名 な 人 で あ る
(19:29、20:4)。
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9.ベレヤでの成功(10-15)
10節
パウロとシラスとがテサロニケで受けた苦しみは、ピリピでの苦しみ
ほどひどいものではなかったけれども、テサロニケの町をはなれる時の二人の
姿は、ピリピを去った時ほど堂々たるものではなかった。二人は自分たちを捕
縛しようとして行われた計画の結果を知った時、これ以上この地に留るならば
必ず例の保証は没収されて禍がヤソンやその他の人々の上に及ぶことを考え、
彼らの安全のためにこの町から逃れることにきめた。
17:10
兄弟たちは、直ちに夜のうちにパ ウ ロ と シ ラ ス を ベ レ ア へ 送 り 出 し た 。
二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。
この夜中の逃避行はパウロに、かつて使徒としての生涯のはじめにダマスコ
から逃亡したことを思い出させたにちがいない。またこの時の逃亡もダマスコ
の時と同じような方法で実行されたのかもしれない。
ピリピからテサロニケまで、パウロとシラスは、当時一年中軍隊を通す目的
のために建設された、ロマの軍用道路の一つをたどって来ていた。この道路は
凹凸や勾配を適当にならした上、その上を敷石で舗装してあった。これらの軍
用道路の名残は当時ロマ帝国に含まれていたあらゆる地方に、今でも見られる。
彼らのたどったこの道路はこれらの中でもイグナチア街道と呼ばれるもので、
ヘレスポントとアドリヤ海とを結び、マケドニヤ半島を横断して遠東地方にの
びる大通路であった。したがって夜中テサロニケを発った二人は道を模索する
必要はなかった。なぜなら彼らはなおもこの街道を西へ進みつゞけて、おそら
く夜明け後この本街道から分かれて南西に転ずればベレヤに着くことが出来た
であろう。彼らの通った道は終始、歴史的な川の幾つも流れている平坦な土地
を通る 。そしてこのテサロニケから95kmの位置にあるベレヤ自体、次のよう
に描写されている。
『ベレヤはエデサと同じくオリンピヤ山脈の東斜面にあり、
ハ リ アク モ ン 川 と アク シ ウス 川 に よって 潅 漑 さ れ る 広 大 な 平 野 を 見 下 して い
る。 こ の 町は色 々自然 の 条件 にめぐ まれ今 日 ではル ミリ Rumili 地方の町々
の中でも最も気持の良い町となっている。鈴かけの木がこの町の園を緑のかげ
でおゝい、水の流れは町中の通りに通じている。この町の古い昔の名前は水流
の豊富なことから由来しているといわれ、その名は今でもヴェリア又はカラヴ
ェ リ ア と い う 現 代 名 の 中 に 名 残 を と ど めて い る 。』 ① 町 は 今 日 でも 城 壁 によっ
てかこまれており、人口は1万5千乃至2万である。こゝに使徒たちは再び会
堂を発見し、伝道の働きの出発点とした。
①Conybeare と Howson, 旅行者 Leake の描写にしたがっている。
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11、12節
私たちが今こゝに、ユダヤ人の一社会が、心から真理に耳を傾
け、これを純理性的なものごとを調べる時のように熱心に調べているのを見る
のは嬉しい。
17:11
こ このユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心
に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。
17:12
そこ で、そのう ちの多 くの人が 信じ、ギリ シア人の上流婦人や男たちも少
なからず信仰に入った。
これらのユダヤ人の行為はいかに称讃してもすぎることはなく、いかに忠実
にこれを真似るともすぎることはない。人間の共通におかす罪は実にこの福音
の主張する所を、公平な態度で忍耐づよく調べて見ようとしないことである。
ユダヤ人たちは彼らの伝統から来る誤りによって、彼らに真の光を与えようと
する努力に対して、いつも激昂と喧擾によってこれを拒絶し、これに反抗した。
そして、以来彼らの愚かな行いは、不信者及び誤った宗派心をもった人たちに
よって踏襲されて来た。もしこのような人たちが真理に対する無知の中に一生
を終り、義務の怠慢の中に死んでしまうとしても、無知であったということは
決して 言訳にならず、かえって 大罪の一つとなるであろう。神の語り給う時に
私たちの耳をふさぎ、神が真理を私たちに見せようとし給う時、私たちの眼を
とじることほど大きな罪はない。いやしくもキリストの弟子であると自ら称え
る者は、みな、神の真理であるとして主張されていることに対しては、一つ一
つに つ いて 聖書をさ ぐり 、『この事正しく然るか 然らぬか』をしら べなければ
ならない。たゞ神の言の導くまゝに従うという態度は、その言の著者たる神に
受け入れられずにはおかぬものである。ベレヤのユダヤ人たちのこの貴い行為
の結果は、テサロニケのようにユダヤ人の中の或る人々と数多のギリシヤ人が
信じたというのではなく、ユダヤ人の中多くの者が信じ、ギリシヤ人の中で信
じた者も少くなかった。私たちはこゝでもルカが彼らが信じたという事実を、
彼 ら が こ の 事 正 し く 然 る か 然 ら ぬ か 日 々 聖 書 を し ら べ た こ と の 結 果 と して 述
べ、再び信仰は神の言を聞くことによって来ることを教えているのを、忘れて
はならない。
13-15節
ベレヤではこのように福音に対する大した障害もなく、弟子た
ちは全市を主に転じさせる希望に自ら喜んだが、そのとき意外な敵が背後から
襲いかゝった。
17:13
とこ ろ が 、テサ ロ ニ ケの ユ ダヤ 人た ち は 、ベ レ アでも パウ ロ によ って神の
言 葉 が 宣 べ 伝え ら れ て いる こ と を知 る と 、 そ こ へ も 押 しか けて 来 て、 群衆 を扇 動 し
騒がせた。
- 299 -
17:14
それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせた
が、シラスとテモテはベレアに残った。
17:15
パ ウロ に 付き添 った 人 々 は、 彼をアテネ まで 連れ て行った 。 そして できる
だけ 早 く来 る よう に という 、シラ スとテモテに 対す る パウロ の指示を受け て帰って
行った。
パウロをルステラまで追いかけたアンテオケ、イコニオムのユダヤ人がもっ
て いた 同 じ熱心 な悪意 (14:19)はこゝ でもまたあ らわさ れて、ユダヤ 人は世界
中どこへ行っても同じであることがよくあらわれている。ユダヤ人たちが煽動
したのは又も異教徒たちであった。そしてその口実の一つはルステラの時と同
じく、これらの人々はテサロニケから逐出された者であるということであった
ことは、疑もない。こうして前の迫害は新しい迫害に口実を与えることになった。
パウロがベレヤを去った時には、ルカの表現から判断すると、彼はたゞ約26km
離れた海岸まで行く考えを持っていたらしい。 し か し 海 岸 ま で 来 た 時 彼 は 海 路
アテネにわたろうと決心した。そしてこの決心が彼にシラスとテモテに伝言を
おくる必要を生じさせた。この二人の兄弟を彼らの身の安全を賭してまでも後
にのこした目的は、明かにこの新しくバプテスマされた弟子たちが自ら徳を建
てることが出来るようになるまで、彼らを更に深く教え勧めるためであった。
テ モテ は 先 にルカ と一緒 に ピ リ ピに残され (16:40)、 こゝで 始めて再び登場し
ているから、彼がテサロニケでパウロに追付いたかどうかは、はっきりわから
ない。パウロはこうしてマケドニヤを去る時、三つの教会を夫々周囲に福音の
光を発散すべき中心点にのこして行った。したがってもしこれらの教会の弟子
たちがその信仰と熱心とを実際にあらわしたならば、福音はこの三点からマケ
ドニヤ領内の四方に有効にひろがったにちがいない。テサロニケは中心の位置
を 占 め 、 ピ リ ピ ま で は 北 東 160km、 ベ レ ヤ ま で は 南 西 80kmで あ る 。 私 たち
はパウロ自身の証から、これら三点の中少くとも一つから福音の光が偉大な光
輝を以て輝いたという証拠をもっている。それは後に彼がテサロニケ人に対し
て次 の よ う に書 きお くって いる か らであ る、『 それは主の 言汝等より 出でて、
つとにマケドニヤ及びアカヤに響きしのみならず、神に対する汝らの信仰のこ
と は 諸 方 に弘 ま り たる な り。 されど 之に就き ては 何 をも 語 るに 及 ばず 』 (Ⅰテ
サロニ1:8)。彼がこのような教会を中心点にのこして行った以上は、彼自身は
これら中心点以外に声を発する必要がなかった。そしてこれら弟子たちの忠信
と熱心とは、彼らをはぐくみ育てるために交互にパウロの後にのこされて留っ
たルカ、テモテ、シラスの働きに負う所大きいことは言うまでもない。
- 300 -
10.アテネにおけるパウロ(16-21)
16、17節
古代世界には二つの特異な文明があった。そして既に使徒たち
の時代には何れも爛熟の絶頂に達していた。その一つは人間の哲学から生まれ
たものであり、他の一つは神の啓示によるものである。前者の中心地はアテネ
市、後者の中心はエルサレム市であった。私たちがもしこの両者について、各
々の影響下にある人間の道徳的性質及びキリストの完全な宗教への準備という
ことを比較するならば、私たちは後者の優越を見出すであろう。この時より五
百年前、神は早くもユダヤ人をその啓示の下におき、地球上の他の国民を『己
が道々を歩むに任せ』給うた。後者は何世紀も通じてきびしい訓練によって、
彼らが最初陥っていた偶像崇拝から救い出された。しかし他の国々になおも偶
像崇拝がはびこっていた。こうして偶像崇拝から救われた結果、ユダヤ人はキ
リスト降誕に先立つ古代史上において他に比べることの出来ないような、個人
道徳の純潔の模範を示すことが出来た。しかし他方、異教国民の中でも最も優
雅な文化をもつ一国民は、当時パウロがそのロマ書の第一章に証明しているよ
うに、男も女も恥づべき獣的習慣の一つ一つを彼らの社会生活の中に犯しつく
していた。世界の眼がかつて見ることの出来た最も深遠な哲学、最も力強い演
説、最もたくみな詩歌、最も洗練された造形美術の輝いたアテネでは、人間の
肉慾から生ずる限りの、想像出来る限りの罪悪への耽溺が行われていた。ユダ
ヤ文明の中心では折しもキリストの福音がのべられ、これを受け入れた数千数
万の人々は、人類の堕落以来かつて知られなかった崇高な人間道徳を得ていた
のである。そしてその周囲の国々では至る所にユダヤ人の会堂があり、敬虔な
男女は同様の美徳を世にあらわしていた。しかしこの祝福された光は異教の暗
黒の中へはまだ一歩も射し込んではいなかった。今まさにアテネに起ころうと
している競争は、律法と預言者がいかによき『キリストへの守役』としての役
目を果したかを、二つのものの対照によって如実に示している。パウロはアテ
ネの評判をよく知っていたけれども、それを実際に見るまでは、この町がどれ
位偶像崇拝の悪の中におちいっているかを知ることが出来なかった。
17:16
パウロはアテネで 二人 を待っている間に、こ の町の 至る ところに 偶像 があ
るのを見て憤慨した。
17:17
それで、会堂ではユダヤ人や神をあが める人々と論じ、また、広場で は居
合わせた人々と毎日論じ合っていた。
この大都会の中に人間の罪が築き上げた壮大な文化を見た時、普通の旅人な
らばそのあまりの壮観に驚いて黙する所であろうが、パウロの魂はこのような
- 301 -
土地においてさえ、福音の勝利のために雄々しく戦おうという闘志をかき立て
られた。彼の最初の努力は例によってユダヤ人の会堂でなされた。しかしユダ
ヤ人と異邦人改宗者は既に全く周囲の美しく金メッキされた罪悪の魔力の下に
とりこになってし まっていたから、彼の努力は何の甲斐もなかった。こうして
外には何の正式の集会にも近づく方法をもたなかったパウロは、次に町の街路
や広場に出かけて、そこで『逢うところの者』と論じた。
18節
熱心な努力によって、パウロは人ごみの中からブラブラしている人た
ちの注意をとらえることが出来たが、それは当初あまり喜んで良いような性質
のものではなかった。
17:18
ま た 、エ ピク ロス 派 やス ト ア派の 幾人か の哲学者 もパ ウロ と討論した が 、
その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼
は外国の神々の宣べ伝をする者らしい」 ① と言う者もいた。パウロが、イエスと復活
について福音を告げ知らせていたからである。
① 現 行 訳 に あ る 『 異 る 神 々 』 "strange gods"と い う よ り も 、 こ の 語 は む し ろ 正 し く は
"foreign demons"『外国の悪鬼』である。英語聖書の翻訳者たちはこの
δαιμονίων
という語を甚だ変な風に訳している。この他の個所では devil(悪魔)は一つしかないにも
かゝわらず devils(悪魔たち)と訳し、その上この個所では前後不一致にもことをかいて
gods(神々)と訳している。しかし悪鬼たちはギリシヤ人によって礼拝されていたとはいえ、
そ れ は ユ ダ ヤ 人 の 考 えで は 明 か に 悪 魔 や 堕 落 し た 天 使 たち と は 別 個 の 存 在 で あ り 、 ま た
ギリシ ヤ人 の目か ら見 ても それは 、彼 らが『 不死 の神 々』 "The Immortals" と 呼ん だ
神々とは明かに区別さるべきものであった。であるから聖書翻訳者がこのように原語で
明白なものを混同して読者に伝えるということは、許すべからざることである。アメリカ
改訳 委員 会 が主 張 した 、 新約 聖 書全 体を 通じて demon と いう訳 語を 統一 して使 うと い
う案は、明かに原語に忠実という点からも守られなければならない。次に現行訳で strange
(異なる、不思議な、見なれぬ等の意)と記されている語
ξένων
は、聖書中ただ一ケ所
少し変 った 訳をし なけ れば ならぬ 所(ロマ16:23、家 ある じ、外 来客 を迎えて もてなす人)
以外、すべて strange というよりはもっと限定された意味をもっている。意味は foreign (外
国の)であ って 、外の 国に 属す るとか 異るシステムに属する ことをさす 。この個所と 20節
で は あ き ら か に 、 こ ゝ に 言 わ れ る 教 え が 外 国 に 起 源 を もつ 、 即 ち ユ ダ ヤ か ら お こっ た こ
とをさしているのである。また21節で英訳に stranger (邦訳=旅人)となっている所もfo
reigners(外国人)であって、たとえばアテネをはじめておとずれたというような、アテネ
人にとっての strangers ではない。
逢う人毎に教えをおしつけようとする彼のあまりの熱心さは、まさに『囀る
者』という形容詞にふさわしく見えた。そして一方彼がこの死んで復活したと
- 302 -
いうイエスの名をあまりも強調したことは、悪鬼礼拝という考えを人々の頭に
おこさせた。なぜならばギリシヤ人の礼拝した悪鬼とは死人の神格化されたも
のであったから。
彼 が ぶ つ か っ た 二 つ の 派 の 哲 学 者 たち は 互 に 反 対 の 立 場 を と る 人 たちで あ
り、その実践哲学はいずれもパウロの教えとは全く正反対であった。ストア派
は人生の最大の善はこの世の悲哀にも快楽にも全然無関心になることによって
得られると教え、一方エピクロス派は、それは一切の情慾と嗜好とを上手に満
足させることから得られると教えた。また両者はいずれも死後の自覚的実在を
否定した。これに対してパウロは、前者に反対して、われらは泣く者と共に泣
き、喜ぶ者と共に喜べと教え、後者に反対して、一切の不敬虔と世の慾とを避
くべしと教えた。パウロは又これらの両方の思想に反対して、人間の希望の窮
極のゴールは死より永遠の生命に復活させられることであると教えた。
19-21節
多くの人からこのような軽蔑を受けたにもかゝわらず、パウロ
は最後に少数の熱心な人々の注意をとらえることが出来た。
17:19
そこで 、彼 らはパウロをアレ オパゴスに 連れて行き、こう 言った。 「あな た
が説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。
17:20
奇妙なこ とをわたしたちに 聞かせている が、それが どんな 意味 なのか 知り
たいのだ。」
17:21
す べ ての アテネ人 やそ こに 在留す る 外国人 は、何か 新しいこ とを話したり
聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。
彼らは例によって『彼をつかまえ』ると、彼を騒がしい群衆の中から話を聞
くのに都合のよい場所へ連れて行った。パウロがそれまで人々に語っていた広
場 agora(市場という訳は不正確である)の北側は、約9メートルの高さに隆起
したごつごつした大理石の丘で境されている。この岩の丘は西の方に向って徐
々に低くなり400メートル位で平地まで下る。これがアレオパゴス又は英訳に
い う hill of Mars(マルスの 丘 )で あり 、 か つてその 頂に マルス の 神 殿が 建っ
ていたことからそう呼ばれた。アゴラから丘の山頂へは自然の岩をけずって作
った階段によって上ることが出来るが、この階段の一つ一つの段は殆ど壊れな
いまゝで今日までのこっている。そしてこの野外の集会場でアレオパゴスの法
廷が開かれ、宗教上の重大問題の解決や大犯罪人の罪の判決等の決議がなされ
た。この場合の会の進行が形式的でなかったことから見て、これはパウロを呼
出して開かれた法廷ではなく、たゞ静かな場所で彼の話を聞こうとした哲学者
たちが、この目的のためにこの場所をえらんだことがわかる。アゴラは眼下一
望の中にあり、広場の混然とした物音もこゝからははっきり聞きとれたであろう。
- 303 -
しかしその程度の雑音は少数の聴衆がこの演説者の話を聞く妨げにはならなか
った。アテネ人たちもこの町に住む外国人たちも皆何か新しいことを聞いたり
話したりしてのみ、日をおくっていたという、ルカの挿入記事は、勿論労働者
たちや商人階級にはあてはまらないが、明かにこれらの階級についてはこゝで
は考えていないから、このことはたしかに市民の大多数についてはその通りで
あったといえよう。事実、当時このアテネには多くの国々から人が集まり、あ
らゆる話題について無数の講演を聞いてその知識をひろめようとし、また諸外
国から来ている色々な旅人からその国々の事情を聞いて知ろうとしていた。し
たがってすべての人は何かお互に新しいことを聞いたり語ったりして生きてい
た。これらの哲学者たちがパウロの語ろうとする外国の教えを聞きたいと思っ
たのも全くこの習慣にしたがってのことであった。
11.『知らざる神』に関するパウロの説教(22-31)
22、23節
アゴラでは熱心な会話をしても遂に断片的な話に終らざるを得
なかったパウロは、今わざわざ彼の話を聞こうとして集った聴衆の前に立って
喜んだ。しかし彼は始めから聖書を開いて長い間待望されて来たメシヤの話を
するわけにはいかなかった。なぜならその聖書についても、またそれを与え給
うた神についても、彼の聴衆は全然何も知らなかったからである。彼はイエス
が神の子であると宣べる前に、まず彼らに神そのものを知らせてやらなければ
ならなかった。そしてこの目的のために、この町の人心を見とおした彼の観察
眼は、こゝにこの最も立派なテキストを準備していたのである。
17:22
パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆ
る点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。 ①
17:23
道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られ
ざ る 神 に 』 と 刻 ま れ て いる 祭 壇 さ え 見 つ け た か ら で す 。 そ れで 、 あな た が た が 知 ら
ずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
①こゝでA.V. に “too superstitious” (あ ま り に も 迷 信 的 な )と 訳 さ れ 、 R. V. で は
“somewhat superstitious”(少々迷信的な)と訳し、欄外に “religious”(信心深い、宗
教的 な)と 出て い る語 、 日本 語 訳で 『 神々 を 敬ふ 心 の篤 き 』と 訳さ れて いる ギリシ ヤ語 は
δεισιδαιμονεστέρους であって、これは『悪鬼をおそれる』 “ demonfearing” と い
う意味の語 δεισιδαίμων の比較級である。単語は δ ε ι σ ω --おそれる to fear
と δ α ι μ ω ν -- 悪鬼 a demon から出来ている。そして θεοσεβης が正しく[神を
おそれ る] と訳さ れて いる 以上、 δεισιδαίμων も同様 に正しく訳せ ば[悪鬼を おそ
れる 』と な らな け れば な らな い 。この形容詞が比較級になっていることは、決 してこ の点 に
- 304 -
関してアテネ人と他の人々とを判然と比較しているわけではない。何故ならこのような比
較 の 根 拠 は 前 後 の 文 脈 の 中 に 少 し も 見 出 さ れ な い 。 し た が って ギ リ シ ヤ 語 文 法 の 一 般 的
法 則 に し た が い 、 そ れ は こ ゝ に 言 わ れて い る 性 質 が 非 常 な 程 度 で あ る こ と を 示 す と 見 、
英語訳の中に very という副詞を補って読 ま な け れ ば な ら な い 。そうすると “very
demon-fearing”(とて も悪 鬼 を お そ れ る )とい う の が 、 こ の 単 語 の 正 確 な 意 味 で あ る 。
アテネ人たちはクリスチャンの目から見てもユダヤ教的な目から見ても、このように悪鬼
を お そ れ る こ と に お いて 『 少 々 迷 信 的 』 で あ り 、『 あ ま り に も 迷 信 的 』 で あ り 、『 幾 分 信
心 深 』 か っ た こ と は た し かで あ る け れ ど も 、 こ れ ら の 表 現 は いず れも パ ウ ロ の 使 っ た 言
葉 の 意 味 を よ く 出 して い な い か ら 、 使 う べ き で は な い 。 こ れ ら の 表 現 は 実 は 翻 訳 者 の 推
論 を あ ら わ して い る か ら 、 翻 訳 と い う よ り む し ろ 註 解 と い う べ き で あ る 。 ち ょ う ど そ れ
は何か外国の 言語から『 幽霊をおそれ る』という 単語をとり出 して 、『 あまりにも迷信的
な』と訳してみたり、『霊廟をおそれる』という意味の支那語の単語をとって来て、『幾分
宗教的な』と訳すようなものである。悪鬼礼拝に関しては、左の次の註と25:19註とを見よ。
アテネの人々は悪鬼礼拝者、言いかえるならば死人の神格化されたものをお
がむ人たちであった。そして彼らはこの礼拝のあらゆる形式をつゝしんで行う
こと を立 派な徳 の一つと考えてい た ② 。このためパウロの聴衆は彼の演説の冒
頭の言葉には少々気をよくした。彼の次の言葉は右の言葉を証明しようとする。
②パ ウロ は 『異 邦 人の 供 ふる 物 は神 に 供ふ る にあ らず、 悪鬼 に供 ふるな り』 (Ⅰコ リン ト
10:20)と 言 う 。 お そ ら く 彼 は 異 邦 人 が 神 と して 崇 め るすべ ての も の に 悪 鬼 と い う 烙 印 を
押したのか、或は彼は異邦人たちが悪鬼と神々とを区別しているのを知っていて、彼らの
捧げる供物の大部分は前者即ち悪鬼に捧げられていると言ったのであろう。これは事実で
ある。第二世紀にケルスス(Celsus)がキリスト教徒に与えた非難の中、最も大きなものも、
キ リス ト 教 徒 が 悪 鬼 を 敬 う こ と を 拒 む と い う こ と で あ っ た 。 彼 は こ の こ と を 熱 心 に と り
上げ て責 めて 言 う 、『 我々 は この 世 界万 物 の上 にまし ます 悪鬼 demons に 対して 、感 謝
の 初 穂 と 祈 祷 と を 捧 げ ざ る 限 り は 、 生 き る こ と も こ の 世 に 生 ま れて 来 る こ と も 許 さ れ な
い。我らは悪鬼たちが我らによく親切にしてくれるよう、常に祈り、供物をしなければな
らない』(Origen vs.Celsus.ⅷ,33)。『ペルシャやロマの君主、総督、あるいは司、ある
いは知事、或は将軍、また国家においてこれよりも下等の職を委任されている者ですら、
自分を侮辱する者に対して大きな害を加えかえすことが出来ように、ましてこれら天地の
総 督 、 天 地 の 司 た る も の を 侮 辱 しで罪 な き を 得 る で あ ろう か ?』 (ib.35)。 彼 は イエ ス を
クリスチ ャン の demon と して呼 び 、 次 の よ う に 言う 「 賢 明 な る 君 たちよ 、 君たち 自 身
の demon で すら 人々か ら罵 られる ばか りで なく、 一切 の海と 陸とから 追放される 憂目
に 会 い 、 そ の 悪 賢 な す 人 々 に 何 の 復 讐 も し な い 中 に 、 君 たち 自 身 、 君 たち が 神 の 子 と と
なえる demon のために、火焙りの柱にしばられて死ななければならないではないか?』
(ib.39”また ⅶ.67-69を見よ)。こ れら悪鬼というものの性質に関してギリシヤの記者た
ち の 意 見 は や や 統 一 を 欠 いて い る け れ ど も 、 そ れで も プ ラ ト ン は 「 善 人 は 死 して 大 な る
名 誉 と 尊 敬 と を 受 け て demon に な る と 詩 人 が 言 っ た の は 素 晴 ら し い こ と だ 』
- 305 -
(Cratulus)と言っている。彼はまた『すべての demons は神と死ぬべき人との中間に位
する』 といい、更 に こ れ ら の 善 良 な d e m o n s を 礼 拝 す る 根 拠 に つ い て 『 こ れ ら の
demons は人より神 に そ の 請 願 と 祈 祷 と を 、 神 よ り 人 に 命 令 と 鞭 酬 と を 伝 達 す る 』
(Symposium ⅲ.202-203)と言っている。ギリシヤ及びロマカトリック教会に行われる
死せる 聖 徒の 名 を呼 び頼 む 習慣 も 、お そ らく こ のよ う な demon の思 想に 発して いる の
であろう。し か し ギ リ シ ヤ の 教 え に よ る な ら ば 、 ま た 悪 い demon も あ っ た 。プルタ
ークは『demon の中には甚だよくない悪性のものもあって、善良な人を妬み、徳を追い
求めようとするのを阻み、よりよき幸福をその人が持ち得ないようにする、という古来
の説がある』と書いている(Dion. i. 958)。ユダヤ人の悪鬼に対する概念もこれと全く同
じである。ただ彼らはこの言葉を悪人の霊だけに限って用いた。『悪鬼 demon とは悪人
の 霊 に す ぎ な い 。 そ れ は 生 き た 人 間 の 中 に 入 って そ の 人 を 殺 す こ と が あ る - -も し 悪
鬼 に つ か れ た 人 が こ れ を 退 散 さ せ る 何 ら か の 助 け を 得 な い 限 り は 』(Josephus, Wars
ⅶ . 6.3)ユ ダ ヤ 人 及 びギ リ シ ヤ 人 が 考 えてい た 悪鬼 の 意味 が 右の よう な もの で あっ た な
らば、私たちは、この言葉がイエスやパウロによって用いられた場合にも、同じ意味に解
しなければならない。以上のべたようなことは Liddell and Scott 共著ギリシヤ語辞典
にも、
δαιμων の項に見えている。
この祭壇が捧げられた『知らざる神』は、すでに人々によく知られていた不
死の神々の一つであったとは考えられないから、多分それまで拝まれていたが
名前の知れてなかった悪鬼(demon)であったにちがいない。アテネでは人を見
つける より神様を見つける方がやさしい、とロマの一諷刺家(Petronius, Satire
17)をして言 わしめた ほ ど沢山 の知 られた神々に、祭壇 や神像をさゝげ た揚げ
句、これらの人たちは更にあきたらずに『知らざる』demon をあがめようと
していたのである。註解者たちはこの祭壇が捧げられた理由を説明しようとし
て、多くの仮説を発表している。しかしその理由は実は色々あって、はっきり
どれ と確 定することは出来ない ① 。このことはアテネ人が非常に悪鬼をお それ
る人々であるというパウロの言を裏書し、またこれによって唯一の真の生ける
神を、あたかも彼らがそれまで拝んでいたこの『知らざる神』であったかのよ
うに、教えの糸口をつけているという点で意味があった。そしてそうすること
によって彼は、アテネ人たちの習慣に合わない非合法な外国の神様を持ち込ん
だように見られることを避けた。
① 当 時 の 習 慣 と して 一 個 人 も 国 家 も 、 自 分 が 特 別 な 恩 寵 を 受 け た と 信 ず る 神 々 或 は 女 神
たち に 対 して は 、 小 さ な 大 理 石 の 祭 壇 を 建 て た 。 諸 処 の 廃 墟 か ら 発 見 さ れ た こ れ ら 祭 壇
の中には、今でもかつてアクロポリスの庭に立っていたとそのまゝの姿で立っているもの
もある。
- 306 -
24-28節
彼は次に、彼の言うその神を紹介しようとして、神に関する色
々な事実を列挙するが、これらの事実はいずれもギリシヤ人たちの拝む神々と
は全く対照的な驚くべきものであった。
17:24
世 界と そ の 中 の 万物 と を 造 ら れ た 神 が 、 そ の 方 で す 。 こ の 神 は 天 地 の 主
ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
17:25
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう
必 要も あり ませ ん 。 す べ ての 人 に 命と息と、 その 他 す べ ての もの を与え てくだ さる
のは、この神だからです。
17:26
神 は、一人 の 人か らす べての 民族 を造り出して、地上の至るところ に住 ま
わせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
17:27
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば 、
神を 見 い だ す こ と が で き る よ う に と いう こ と な の で す 。 実 際、 神 は わた した ち 一人
一人から遠く離れてはおられません。
17:28
皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』
『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。
パウロの聴者たちにとっては『世界とその中のあらゆる物とを造り給ひし神』
というようなものはなかった。故にこの思想によって彼は彼の神を、彼らの考
えていた神々より一段高い所において見せた。そしてこの神がすべての物を造
った以上、この神は主である。しかもネプチューンのように海の主というので
な く、 ジュピタ ーのよ うに空 の主 というの ではな く、『天地の主なのである。
このことから当然、神は手で作った宮には住み給わないこと、そんなものは神
を入れるには小さすぎることは明かである。こゝにパウロが言っているのは、
彼のまわりに見える数々の大理石の壮大な神殿、中でもアレオパゴスの真上に
西に向って建つ、ギリシヤ建築美術の粋とされるパルテノンの神殿をさしたの
であろう。このことから考えても、また次にのべられることから考えてもこの
神は、まるで人が物を供えてあげなければ生きられないもののように、人の手
で仕えられる神ではない。むしろこの神こそ人間必要の窮極の源泉なのであっ
て、人間がこの神から生命も呼吸もその享有するあらゆるものを受けているの
である。異教の神々の中には、どれ一つとしてこういうことが言える神はない。
第一、彼らを礼拝する人たち自身、誰も神様がそんな力を持っているとは考え
られないのである。彼は次にこの神が単に国民の神としてその国民の運命を支
配するのではなく、もちろん一つの国民を他の国民から防ぎ守りはするけれど
も、実は地上のすべての国民を創造した。しかも一人の人からこれを創造し世
界の表面に住まわせたことを示し、更にこれらすべての国民の繁栄と衰亡の時
期もまた彼らの国境も、異教徒たちが想像するように夫々の国の神々によって支配
- 307 -
されるのではなく、この一人の神によって支配されるのだということを示した。
最後に彼は、これらすべてのことにおける神の計画は、結局パウロが今彼らに
教えようとしている内容を、人間が知るに至るためであることを示している。
私たちは勿論この神をまるで盲人のように『手探りで』求めなければならない
けれども、このような神を求めることほど崇高な知識は又とあろうか!
しか
しこのような曖昧な模索は必ずしも必要ではない。それはこの神が私たちから
遠からぬ所に、むしろすべての時すべての場所において私たちのそばにいます
からである。彼ら自身の詩人の一人はこの思想を殆ど正確にのべて『我らは又
そのすえなり』とうたった。なぜならば神はちょうど地上の父親と同じように、
自分の子供たちを 決して暗中摸索の状態に放っておきはしない。決して自分を
『知らざる神』などと呼ばせ給わないのである。
ルカのこゝに記録している梗概よりも明かに詳しく述べられたであろうこの
一連の思想は、彼らが今まで知らずに拝んでいた神を彼らの前にはっきりと見
せた。こゝで注意しなければならないことは、彼らがこの神を礼拝していたと
いうのは、私たちが普通想像する以上にもっと親密な意味で礼拝していたとい
うことである。何故ならば或人をして『知られざる神に』この祭壇を立てさせ
た御利益がどのようなものであったにせよ、考えてみればその御利益は実は真
の神から来ていたのであり、そしてこれに対する感謝の気持ちが知らず知らず
の中にそこにあらわされていたからである。
29節
以上の考え、特に最後の考えから、パウロは次にあらゆる形の偶像礼
拝を否定する論理的結論をひき出す。
17:29
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造
った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
彼らが神のすえであるという自尊心は、自分たちのよって来るところのその
神を、如何に巧妙美麗に出来ているにせよ、自分の手で作った、死んだ彫刻作
品に等しいと考えられない筈だ。神が『一人よりして諸種の国人を造りいだし』
た と い う 26節 の 言 葉 は 、 た ま た ま 、 人 類 が 一 つ で ある こ と を 断言 して いる 。
またそれはモーセの歴史とも一致する。これを単に現代の色々な人種の相違を
説明することが出来ないという理由から否定することは、聖書の断言している
事実を否定することであり、しかも私たちの知っていることに基いてではなく、
私たちの知らないことに基いて否定することである。なぜなら、もし私たちが
人類の全歴史を知るならば、必ずこれら人種の相違の原因を知り、また彼らが
夫々いつ頃から存在するに至ったかを知ることが出来る筈である。
- 308 -
30-31節
こうして聴衆に真の神を知らせたパウロは、次に彼らに対して
偶像礼拝をすてて悔改るよう呼掛け、悔改るべき動機として、未来の審判とい
う厳粛な事実を彼らにも示す。
17:30
さ て、 神 は こ の よ う な 無知 な 時 代を 、 大目 に 見て く だ さ いま し た が 、 今 は
どこにいる人でも皆悔改るようにと、命じておられます。
17:31
それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお
決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にその
ことの確証をお与えになったのです。」
神が無知の時代を見過し給うたという言葉によって、パウロは決して神がそ
れを許し給うというのではない。なぜならそれはこの悔改の勧めと矛盾するも
のであるから。彼のいう意味は、神は今までこの無知の人たちに干渉しようと
し給わなかったけれども、今これをとどめて、真理の説教者たちを遣わして悔
改させようとし給うというのである。実際ニネベへのヨナの派遣、ネブカドネ
ザル、ダリウス及びクロスの筆が書かざるを得なかった真の神に関する宣言、
並びにセナケリブの覆滅のような異教国軍隊の覆滅等の事実は、異教国民たち
に彼らの忘れていた神を思い出させる天からの大きな声であった。しかしこれ
らの事実も未だそれぞれ孤立した小さな行為にすぎず、使徒たちの派遣と共に
おくられた悔改への絶え間ない組織的な呼びかけの一部ではなかった。
神が『義をもて世界を審かんために日を定め』たという、魂を震撼させる事
実は、悔改に対する有力な一動機である。なぜならば義による審判ということ
には、当然不義の処罰ということは避けられないからだ。パウロの聴者たちは
今こそ偶像礼拝の不義なることを知った。こうしてパウロが最後の審判という
ものを、人を悔改に導く最初のそして最高の動機として示したのは、実はたゞ
主イエスの例にならったのであり、また同時に人間というものの性格から見て
もそうせざるを得なかったのである。この大いなる日に対する恐れ、またその
時、罪に定められる人たちを待つ恐るべき運命への恐怖というものは、福音と
いうやさしい動機が人間の心に入り込む前に、まず悪人の心のまわりに罪が築
き上げた頑強な堡塁を砕く、福音の重砲火である。神のやさしさが彼を悔改に
導くに先立って、悪人はまず罪をおかしつゞけることの恐しさを知らなければ
ならない。この天の大砲の響を用いることを劣る説教者は、神の示し給うた模
範にしたがって説教することに失敗するのみならず、決して心の奥底に根を下
した悔改を生じ得ない弱い福音を説いているのである。
- 309 -
ちょうどこゝの所でパウロははじめてイエスを彼らに紹介する。そして彼は
イエスを、はじめ愛し給う救主としてではなく、世界をさばく審判者として紹
介するのである。彼はイエスを紹介するに当って、その処女降誕を、ヨハネに
よるバプテスマを、その癒しの能力を、また人間の罪のための死を語らない。
そして彼のメシヤ的支配の最後の行為、永遠の審判をまず語るのである。そし
て彼はイエスがこのように世界を審き給うということの証拠として、神が彼を
死人の中より甦らせ給うたという事実をあげる。ところでこの事実はそれ自体
について考えてみると、別段このことに対する証拠にはならない。しかしこの
事実をイエスが死に給う前の言葉、すべての審判は我が手に委ねられたという
あ の 御 言 (ヨ ハ ネ 5:22-29)と 結 びつ けて考 えてみる と、立 派に上 の事実 を証明
するのである。もちろんパウロの聴者たちはまだ本当にこの事実の真意を解す
ることが出来なかった。なぜならば彼がこゝでイエスのことをはっきりと名を
示さないで言っているということは、明らかにパウロがこれを彼の本論のほん
の緒論にしようとしていたことを物語り、彼はこの本論の主題を以下の演説の
中で展開しようとしていたことがわかる。実際、彼は今やっと演説の中心主題
に到達した所であった。そして私たちの知り得る限りは、彼の論旨の計画は第
一にこれら偶像礼拝者たちに真の神を知らしめ、第二に彼らに向って悔改て神
に帰れと呼びかけ、そして第三に彼らが悔改て罪の赦と永遠の生命を得られる
唯一の道であるキリストを提示することであった。
32、33節
しかしパウロはその演 説 を 完 結 す る こ と を 許 さ れ な か っ た 。
まさに彼が最も肝心な点まで来た時に、彼はさえぎられた。
17:32
死者 の復活というこ とを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それにつ
いては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
17:33
それで、パウロはその場を立ち去った。
現代的な頭でこの記事を見ると、この聴衆の行動には私たちには理解出来な
い二つの奇妙な点がある。それは第一に、パウロが彼らの偶像礼拝の愚かさを
指摘している間、私たちは当然彼らが自分を弁護するであろうと考えるにもか
ゝわらず、だまって謹聴していたこと。第二に、彼が死人の中よりの復活とい
うことを口にした時、私たちなら当然彼らが死という暗い考えから救われる思
いで歓迎したであろうと考えるこの復活という言葉に、彼らが突然パウロをさ
えぎった事である。しかし前者は異教の悪鬼や神々に対して、当時の哲学者た
ちの中に行われていた不信仰の精神から説明される。彼らのこの不信仰は当時
未だ無教育の一般大衆が真面目に忠実に礼拝していた所のものに対して、彼ら
を単に形式的に又無関心にしていた。これに対して後者は彼らの意見に関する
- 310 -
自惚れとはげしい党派心によって説明することが出来よう。彼らの属する二派
の哲学はプラトン主義者といえども、うちまかすことが出来ない、と彼らが自
ら誇った議論によって、未来の生命というようなものは有り得ないということ、
し た が って 死 よ り 復 活 す る と い う よ う な こ と は 荒 唐 無 稽 き わ ま る と い う こ と
を、長い間論証して来ていたのであった。こうしてこの誤った哲学は彼の心の
中から、人間本来のよりよき天性を破壊し去り、彼らをして人間の希望の中、
最も貴重なものに対してこれを嘲笑させる結果となった。しかしまた『われら
復この事を汝に聞かん』と言った人たちも或はよりよきものへの熱情を再び燃
やし、この中の幾人かは光の子らの中に入ったかもしれないと想像させる。
34節
パウロの演説は聴衆の一部の嘲笑によって中断されてしまったけれど
も、彼の努力はあながち無駄ではなかった。
17:34
しかし、彼について行って信仰に入 っ た 者 も 、 何 人 か い た 。 そ の 中 に は
アレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。
こ れ ら キ リス ト へ の 改 宗 者 の 中 で 特 に デ オヌ シ オ の 名 が あ げら れて い る の
は、その官名が示すように、彼はアレオパゴスの裁判官であって、この町では
高官の位置にあったからである。またダマリスの名があらわされているのは、
哲学者ばかりの聴衆の中に婦人がいたことは珍しかったからであろう。
しかし彼女がこの場に居たということは、当時のギリシャ婦人の自由を裏書
し、 同時 にパウロ書簡中にある婦人に 関する或る記事 ① につ いて、浅薄な解釈
を施す人たちの称える議論とは正反対の証拠を提供している。
①Ⅰコリント14:34-37、Ⅰテモテ2:8-15。
12.パウロ、コリントの伝道に着手する(18:1-4)
1節
アテネにおけるパウロの比較的失敗は、彼が後日コリント人に書きおく
って い る 言葉 を 、 たと え 暗示 はしない にせよ、適切に 説明 している。『神は世
の智慧をして愚ならしめ給へるにあらずや、世は己の智慧をもて神を知らず(こ
れ神 の智 慧に 適へ る な り )こ の 故 に神 は宣 教 の愚 をもて、 信 ず る者 を 救 ふを善
し とし 給 へり(Ⅰコリ ント1:20,21)。 こう してギ リシャ の文学 の都で 失 敗した
彼は、次に政治と商業の都へおもむいた。
18:1
その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。
- 311 -
この町はぺロポネソスとアッチカを結ぶ地峡の西海岸にあった。位置はサロ
ニク湾 頭にあるケンクレヤから 地峡をわたることわずか14km、東方にはアジ
ヤのあらゆる大都市への交通の便をもち、西方においてはその位置がコリント
湾頭にある関係上、コリント湾及びアドリヤ海を通じて、イタリヤ及び西洋と
の密接な連絡をもっていた。したがってこの町は商業的には非常に有利な地歩
をもった都市であり、このことが多数のユダヤ人人口をこの町にひきよせていた。
2-4節
この大都会に今足をふみ入れたパウロは、ひとりぼっち、誰一人知
る人とてない外国人の身、しかも財布には金は一文もなかった。彼がマケドニ
ヤからもって来たいくらかの旅費も使い果たしていた。彼はまず日々のパンを
得る方法を考えなければならなかった。が、色々な摂理の結びつきによって彼
は最も望ましい宿所と、生計の道とを得ることが出来た。
18:2
ここで 、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会
った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をロマから退去させるようにと命令したので、
最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、
18:3
職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その
職業はテント造りであった。
18:4
パ ウ ロは 安息 日ご とに 会堂で 論じ、 ユダヤ 人や ギリシ ア人の 説得に 努めて
いた。
この傲慢しかも殷富な町を単身福音化しようとしている矢先、彼がこのよう
に一人の旅の天幕職工として働かなければならなかったことは、たしかに彼を
がっかりさせたろう。ルカの記事の平静な文体から見ると、私たちはパウロの
感情がこのような考えにはまるで平気であったかのように想像するかもしれな
いが、しかし屡々ルカの気づかぬ情緒をもらすパウロ自身のペンは、非常に異
った説明を与えている。数年後一時的な愛情がすべて忘れ去られた時に、彼は
コ リン ト 人たち に 書き お くって 言 う、『我な んぢらと偕に 居りし時 に、弱くか
つ懼 れ 、 甚 し く 戦け り』 (Ⅰ コ リ ン ト2:3)。 彼 は 自分 の立 場の 弱さ 心 もと なさ
を、ひしひしと感じていたのである。彼はアテネにおけると同じような失敗に
なるのではなかろうかと恐れたのである。彼はこの町のかくも多数の魂の救い
がこのような弱い人間の肩にかゝっていることを考えた時、自分の任務の重大
さにおののいたのである。さて彼がアクラとプリスキラに、直ちにクリスチャ
ンの交わりとなぐさめとを得たかどうかは明かでない。なぜならばこの二人は
か の 五 旬 節の 日 にポ ン ト か ら 来 てい たユ ダヤ 人 (2:9)の中 にい たか も しれ ない
し 、 ま た そ の 時 ペ テ ロ の 大 説 教 を き い た ロ マ の 弟 子 たち (2:9)によって も っ と
最近にバプテスマを受けていたのかもしれないし、またルカは二人がパウロから
- 312 -
バプテスマを受けたとは言っていないけれども、しかし、もし二人が既に弟子
であったならば、ルカがその事実について一言もふれていないのは不思議である。
いずれにせよパウロはこの二人が真心をもって神を礼拝する人であることを発
見し、 彼の生涯の 晩年まで続く親交を結んだ。私たちはこの物語の進むに従って
何度も何度もこの二人に逢い、二人の立派な行いを聞かされるであろう。
多くの安息日を通じての会堂での説教は、その効果においては平常よりも甚
だ遅々として進まなかった。これは多分パウロが天幕作りの職人であったこと
と、またこの土地には未知の人物であったからであろう。あるいはまたそれは、
パウロの上述の弱さと恐れとおののきから来る、いつもより積極的でない態度
の結果であったのかも知れない。
13.シラスとテモテの到着、ユダヤ人たちとの決裂(5-11)
5-7節
パウロの孤独の立場は遂にすくわれた。そして彼の説教の態度にも
変化が来た。
18:5
シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語るこ
とに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。
18:6
しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って
言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がな
い。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」
18:7
パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移っ
た。彼の家は会堂の隣にあった。
読者はこゝに到着を記されているシラスとテモテの二人がベレヤに滞留して
いたこと、パウロがなるべく早く自分の所へやって来るよう二人に伝言したこと、
及び彼がアテネで彼らを待っていたこと(17:15,16)を思い出されるであろう。
ルカは果して彼らがアテネでパウロに追ついたかどうかについては語っていな
いけれども、私たちはパウロから実際テモテが追ついたことを知らされる。パ
ウロ は 次のよ うに 書 いてい る、『この故 に、もはや 忍ぶこと 能はず 、我等 のみ
アテネに留ることに決し、キリストの福音において神の役者たる我らの兄弟テ
モテを汝らに遣せり。これは汝らを堅うし、また信仰につきて勧め、……』(Ⅰ
テサロニケ3:1,2)。この言葉は単にテモテがアテネでパウロに追いついただけ
でなく、彼がこゝからまたテサロニケへ送り返されたことを示している。この
言葉はまたパウロが自分の建てた教会を後にする時には、殆ど例外なく誰か自
分の共労者を一時のこして行った理由に関する私たちの判断が正しかったこと
- 313 -
を証明する。すなわち『彼らを堅うし、また信仰について勧める』ためである。
私たちが今こゝに見るテモテの到着は、したがって、初め滞在していたベレヤ
から直接ではなく、二度目に訪れたテサロニケからであった。
シラスとテモテがマケドニヤから到着した時に、パウロが『専ら御言を宣ぶ
ることに努め、イエスのキリストたることをユダヤ人に証した』という記事の
意味は、それまで彼はかつてテサロニケでしたように、キリストは聖書に応じ
て苦難を受けた後、死人の中より復活しなければならないということばかりを
論じ て 、『 わが 汝らに 伝ふる このイエ スは キリストなり 』という 次の命題 にま
で進まなかったという意味であろう、と私は考える。前のやり方は何の破綻を
も来たさなかった。しかし今、後のやり方はイエスのことについて多少とも聞
き及んでいたユダヤ人たちの間に、一波瀾を巻きおこさずにはおかなかった。
おそらくコリントのユダヤ人は実際イエスの噂くらい聞き知っていたにちがい
ない。やがて予期された危機は来た。そしてそれにつゞいてユダヤ人との決裂
がおこった。幸いユダヤ教の異邦人改宗者で、ある程度の財産を持った一人の
人が、パウロの語る言葉に感銘を受けていた。そしてちょうどこの人の家が会
堂にごく近い場所にあったので、彼はこの自分の家を以後の集会用に開放した。
ユストはまだ弟子ではなかったけれども、その名前にふさわしく、パウロとそ
の教えのために正義のなされんことを望む人であった。
8節
こうしてパウロは表面上は挫折のために会堂を去ったとはいうものゝ、
彼の働きは無駄ではなかった。
18:8
会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリント
の多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。
会堂において高い地位を占める人が福音に聞き従ったという例は、甚だ稀で
ある。故にクリスポが福音を受入れて従ったということは、非常に立派なほめ
るべき行為である。ことに他のユダヤ人たちの反対と涜神が最高潮にある時に
おいては尚更のことである。彼は余程独立実行力のつよい人、また誠実な人で
あったにちがいない。このような人は弟子たちの会衆の中核を作るにはもって
来いの人である。彼のキリストへの改宗、及びこゝに書かれているコリント人
たちの改宗は閹人の場合や、サウロの場合やコルネリオの場合のように詳しく
描写されてはいないが、それでもその改宗の経過、順序が全く同一であったこ
とを示すには足る。『聴きて信じ、かつバプテスマを受けたり。』福音の説教を
聞くこと、信ずること、そしてバプテスマを受けること、これが簡単にのべる
と改宗の全プロセスである。
- 314 -
9、10節
この成功は会堂を去るにあたってのパウロにはせめてもの慰めで
あったが、私たちはまた彼がこの時あのコリント到着以来彼におゝいかぶさっ
ていた『弱さと恐れと多くのおののき』から殆ど少しも救われていなかったと
いう証拠をもっている。さて私たちは今やパウロの書簡執筆時代に到着した。
そしてこれから以後はこれらの書簡を彼の伝記の中ルカが書き落としている部
分を埋める同時代の大切な記録文書として取扱って行こう。テサロニケ人への
前の書は、シラスとテモテが到着して間もなくコリントから書きおくられた。
それは次の二つの証拠から裏書きされる。即ちこの二人の兄弟はコリントでパ
ウロに追いついたこと、そしてこの書簡の中で丁度この手紙を書こうとしてい
る時 に テ モテ が 到 着 した よ う に 書いて い るこ と で あ る(3:6)。 この 書 簡中 の幾
つかの記事は、また当時のパウロの内的経験を説明している。彼は当時テサロ
ニケの兄弟、即ち彼がこの人たちのために喜んで命を捨てようとしたその兄弟
たち、また今最もはげしい迫害を受けていると兄弟たちのために非常な心配を
心に抱いていた(2:8、14-16)。そこへテモテによってもたらされた彼らの信仰
の忠実さの報せは、後に大きな喜びを与えた。しかしそれは苦難の中の喜びで
あった。彼は言う『然るに今テモテ汝らより帰りて、汝らの信仰と愛とにつき
て喜ばしき音信を聞かせ、又なんぢら常に我らを懇ろに念ひ、我らに逢はんこ
とを切に望み居るは、我らが汝らに逢はんことを望むに等しと告げたるにより
て、兄弟よ、われらは諸般の苦難と艱難との中にも、汝らの信仰によりて慰安
を得 た り 。 汝 ら も し 主に 在 り て 堅く 立 たば 我 ら は生 く るな り』 (3:6-8)。 明か
にこの『苦難と艱難』は彼がコリントにおいて救うことの出来なかったユダヤ
人たちが、今彼に反対し彼を罵り、彼をこの町から追出す為には手段をも選ば
ない勢にあった結果であった。そしてまさにこの時、彼がその人のためにかく
も苦しみを受ける主イエスが、へだての幕を開いて、彼に力づけの言葉を与え
給うたのである。
18:9
あ る 夜 の こ と 、 主は 幻 の 中 で パ ウ ロ に こ う 言わ れ た 。 「 恐 れ る な 。 語り 続け
よ。黙っているな。
18:10
わ た し が あ な た と 共 に い る 。 だ か ら 、 あ な た を 襲 っ て 危害 を 加 え る 者は な
い。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」
主は慰めの言葉が本当に必要である時以外は、いつもの沈黙をわざわざ破っ
てその僕を慰めるということをなさらない。この場合主が与え給うた慰めは単
にパウロの身の安全を保証するというようなものではなく、むしろパウロにと
ってもっと大切なこと、彼のコリントでの働きがこれから多数の魂の救いによ
って報いられる、という保証であった。
- 315 -
『此の町には多くの我が民あり』という言葉によって、主はまだ信者になっ
ていない人たち、おそらくはまだ偶像を礼拝しているであろう人たちを指して
居られる。このことは一見、神の民には永遠より個々に選び出された一定の数
があるという、カルヴィン主義的思想と一致する。しかし実はこの聖句は決し
てカルヴィン主義を証明しない。なぜならばこの個所の語法はまた、主はパウ
ロの説教によって彼らが信じるであろうことを予見された故に、彼らを我が民
と呼び給うたという想像とも一致する。同じ様な呼びかけは黙示録の中にも用
いられている。即ち天使が神秘的バビロンの滅亡を告げるに当って『わが民よ、
かれの罪に干らず、彼の苦難を共に受けざらんため、その中を出でよ』(18:4)
と言っていることである。神は御自分の呼びかけに応じて一つの民がバビロン
から出で来ること、そしてそれを神が受入れ給うことを知り、予想によって彼
らを我が民と呼び給うたのである。
11節
幻による主の確証にはげまされて、パウロは長い間忍耐づよく働きを
つゞけた。
18:11
パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。
この滞在は彼がかつてどの町に滞在した期間よりも長い。そして『教えたり』
という彼の働きを示す言葉は、この長い期間にわたって彼が主として使徒委任
の第 二 の 部分 『わが 汝らに 命ぜし 凡ての 事 を 守る べき を 教 え(マタイ 28:20)を
実行していたことを示している。この事から私たちはこのコリントの教会が、
後に色々な混乱があったとはいえ、少くともこの時までにパウロによって植え
られた教会の中では、最もよく教えられた教会であったことを知ることが出来
る。もし彼らがこれほどまでに充分な教えを受けていなかったならば、彼らの
後の状態はどんなになっていたことであろうか?
14.パウロ、ガリオの前に訴えられる(12-17)
12、13節
パウロが会堂を去った時以来予期しつゞけて来た彼の伝道の働
きを圧迫阻害しようとするユダヤ人の陰謀は遂にやって来た。がしかしそれは
異常な形をもってやって来、異常な結果に終った。
18:12
ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たち
が一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、
18:13
「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を
唆しております」と言った。
- 316 -
こゝでとりあげられた訴因は、ピリピやテサロニケの時と同じく、律法を破
るということであった。しかし前者の場合にはこれをとり上げたのは異邦人で
あって、それもロマの法律に関してであったが、こゝではユダヤ人たちが自ら
大胆にも自分たちの律法にかなわぬということを、自分たちの名によってとり
上げて訴えたのである。このことはこの町のユダヤ人たちが他のどの異邦人の
町にも見られなかった程の自己の勢力に自信をもっていたことを示す。彼らは
ガリオがユダヤ人の律法にかなわぬ教えをのべるこの一ユダヤ人を、喜んで黙
させてくれることを期待したのである。
14-16節
しかしこの場合ユダヤ人たちは、ピリピの執政官やテサロニケ
の町司とは一寸違った人物に対しなければならなかった。ガリオはロマの有名
な道徳学者セネカの兄弟であって、セネカから「尊敬すべき高潔の士、愛すべ
く人望 ある男」 ① と云われた人 である。彼のこの場合にとった行動は正にこの
讃辞にふさわしかった。
①セネ カは 言う 、『如何なる人 といえども 、彼が全人類 に対してもつ所の やさしさを 、た
と え 一 人 の 人 に 対 して す ら 持 つ こ と は 出 来 な いで あ ろう 。』『 我 が 弟 ガ リ オ を 最 も 愛 す る
人たちといえども、彼を充分に愛しているとはいえない』(Questiones Naturales, ⅵ.
Praef. Sects. 10.11.)こ の 兄 弟が いず れも自 殺 によってそ の 生命 を絶 っ たこ と は、 彼 ら
の考をおゝっていた暗い迷信を悲しくも説明している。
18:14
パウロが 話し始めよ うとした とき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。
「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の
訴えを受理するが、
18:15
問 題 が 教 え と か 名称 と か 諸君 の 律法 に 関す る も の な ら ば 、自 分た ち で 解
決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」
18:16
そして、彼らを法廷から追い出した。
『言・名あるひは汝らの律法』というガリオの言い方は、彼がこのパウロ対
ユダヤ人の問題について非常に混乱した概念を持っていたことをあらわしてい
るけれども、とにかく彼は自分の決断を正当に裏づけるだけのことは知ってい
た。この裁判はパウロのあらゆる経験を通じて、彼を訴えた敵側が正当に簡単
に取り扱われた唯一の例である。
17節 正しい者に対する即座の力強い無罪宣言は常に民衆の称讃を博する。
そして時には民衆のもっている偏見をがらっと変えてしまう。私たちはこの町
の民衆がなぜこの判決に関してパウロに味方したかは知らない。しかし判決が
下されるや否や彼らはこの気持を甚だはげしい行動にあらわした。
- 317 -
18:17
する と、群衆 は会堂 長のソ ステネを捕まえ て、法 廷 の 前 で 殴 り つ け た 。
しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。
当時の裁判官の座席、地方総督の坐った国家の椅子というものは、今日のよ
うに 法廷 の内部にあった のではなく、野外、 普通アゴラ又はフォルム (広場)に
あった。したがって大衆の興味をひくような裁判は皆、主として町の野次馬た
ちからなる傍聴者の群によって目撃された。ユダヤ人のリーダーとしてパウロ
を訴えたソステネに向って手を下したと考えられるのは、この野次馬連であっ
た。彼らはこのような群衆を屡々特徴づける物事に対するきびしいセンスをも
ってこの事件を見まもり、パウロを打とうと準備していたソステネが当然打た
れるべきであると結論した。そして恐らく笑声と叫声をあげながら彼を打ちす
えた ① 。ガリオが『凡てこれらの事 を意としなかった』理由は、彼がパウロと
ユダヤ人たちとの問題については何もわからなかったからであり、ソステネを
打つことに関してはむしろ面白かったのであろう。何故ならソステネはたしか
にそれだけの罰を受けるだけのことをしていたからである。一方ユダヤ人たち
の失望と怒りはおさえ切れぬものがあった。しかし彼らは過去の苦しい経験か
らこうした感情を殺してしまう道を知り、沈黙を守った。
①この個所の文法的前後関係は、す ぐ 前 の 文 脈 に あ ら わ れ る ユ ダ ヤ 人 を 17節 の『 彼 ら 』
(they 邦 訳「 人 々」 )の先 行 詞か のよ う に見 せる 。し か しこ れ はソ ステネ を打 った人 たち
が ユ ダ ヤ 人 で あ っ た こ と に な り 、 全 く 不 合 理 で あ る 。 な ぜ な ら ガ リ オ が ソ ス テネ と 彼 ら
ユ ダ ヤ 人 を 審 判 の 座 か ら 追 出 し た 位 の こ と で 、 ど う して 彼 ら は 自 分 たち の 会 堂 司 を 打 た
な け れ ば な ら な い 理 由 が あ ろう ?
し か ら ば 文 法 的 に 結 びつ き と い う こ と は こ の 場 合 ま
ずおいて、19:33及びヨハネ8:33の平行聖句の場合と同じく、文脈にしたがって意味を決
定 し な け れ ば な ら な い 。同 じ 見 解 を と る Farrar も 『私 は 色 々 無 駄 な 推 測を 読 んで み た
後、この最も可能な見方におちついた(Life of Paul, 323,n.4)と言っている。
パウロはコリントを去る前、そして多分ガリオの前に訴えられる前に、テサ
ロニケ人への後の書を書いた。この書簡が書かれたはっきりした時期と場所に
関する手がかりは甚だ不充分であるけれども、反対の証拠がない以上こう考え
て間違いはないと言える。その手がかりは、第一に、この後書と前書との間に
存在する思想と主題の連絡から、二書の間に時間的にさほどの開きがないこと
がわかること。そして第二に、この手紙ではシラスの名がパウロと一緒に挨拶
の 中 に 出 て 来 る (1:1)が 、 し か し シ ラス は パ ウ ロ が コ リ ン ト を 発 って か らは 彼
と一緒にいなかったこと。こゝで私たちがもしパウロがシラスと別れたのがパ
ウ ロの コ リン ト を去った時であ ったか、或はそれより先であったかを知ることが
出来れば、私たちは正確な日附にもう少し近い所まで来ることが出来るであろう。
- 318 -
しか し普 通一般 に認められている ことは、第一の書(テサロニケ前書 )と同年に
書かれたということである。果してそうすると、この二つの書簡はいずれも紀
元52年に書かれたことになる ① 。この書簡はこの教会がなおもはげしい迫害を
受けつゝあったけれども、彼らは驚くべき忍耐を以てこの迫害に耐えたという
こと を 明かに する 。 この 故にこそパウ ロは次のよ うに言うこ とが出来た 、『兄
弟よ、われら汝等につきて常に神に感謝せざるを得ず、これ当然の事なり、各
自みな互の愛を厚くしたればなり。されば我らは、汝らが忍べる凡ての迫害と
患 難 と の 中に あ り て 保ち た る 忍耐 と信 仰 と を 、神 の諸 教会 の間に 誇る』 (1:3,
4)。前の書を書いた時彼らに対して感じていた極度の心配、またテモテを彼ら
の許におくり返し彼らに手紙を書く等の彼の熱心は、彼らのこの忍耐によって
充分に報いられた。パウロはこれに感激して心から神に感謝したのみならず、
また彼らのためにやさしい思いやりの祈りを常にさゝげたことを、書簡の中で
短くの べている ② 。彼はまた彼 らが『或は霊によ り、或は言により、或は』彼
から出た如き『書により』主の再臨に関する問題で頭を悩ましていることをも
聞 き 知 っ た (2:2)。 そ して 将 来に お ける こ の よ う な 虚 偽 か ら 彼 ら を ま も る た め
に、彼はパウロから来たと主張する書簡の真偽をためすしるしを与えている。
彼は 言 う、『我パウ ロ手 づから筆を執りて汝らの 安否を問ふ。これ 我がすべて
の書の記章なり。わが書けるものは斯くの如し』(3:17)。このことからも彼は
普 通手 紙 を 書く 時には 筆記 者を使ったこ と (ロマ16:22)、しかし 彼はそれが真
正の書簡である証拠として、手づから挨拶の言を書いたことがわかる。こうし
てもし彼が字の上手な同行者を有していなくても、どの町にもいる熟練した書
記を使えば、一語の不明瞭な言葉もない完全な写本が得られたし、一方彼の自
筆の挨拶はその書簡の真正を証明した。この二つの書簡は新約聖書の各書の中
でも最も古いものであったから、このように霊感の書を偽作の危険からまもる
ためにパウロのとった予防策は、後の記者たちによっても踏襲されたと容易に
信じられる。
①緒論25-28ページを見よ。
②1:11,12。2:16,17。3:16を見よ。
15.パウロ、アンテオケに帰る(18-22)
18節 コリントでの出来事の中でルカが記録している最後の事件はガリオの
前の訴訟であったけれども、実はパウロはその後も相当長い間この地に留った。
18:18 パ ウ ロ は 、 な お し ば ら く の 間こ こ に 滞 在 した が 、 やが て兄 弟た ち に 別れ を
告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を
立てていたので、ケンクレアで髪を切った。
- 319 -
彼 が コ リン ト に 18ヶ 月滞 在 し た とい う こ と は、 言 い か える と、 も し彼 が滞
在す る こ とを 許 さ れ る な ら ば 、 どこ の 教 会 でも 大 体 18ヶ 月位 滞在 し たも のと
解することが出来る。ガリオに感謝すべきかな、これはマケドニヤ及びギリシ
ヤを通じて、彼が適当と思う期間だけ自由に滞在することを許された唯一の教
会であった。しかし私たちは後に、迫害を免かれたこの教会がテサロニケやピ
リピの教会に比べて何のまさる所もなかったことを知るであろう。
船でシリヤにわたるためには、地峡を横切ってまずケンクレヤまで行かなけ
ればならなかった。私たちは後にこの地に教会が出来ていたことを知るが、こ
れはおそらくパウロのコリント滞在中に建てられたものであったろう。この港
町についた時、彼が前から立ててあった或る誓願の期限が満ちた。彼はそれま
でナザレ人にならって誓願中頭髪をのばし放しにしていたが、誓願の期限が来
たので、普通ターバンを巻く国民の習慣通りに再び頭を剃ることにした。多く
の人々はこの誓願をナザレ人の誓願と間違えているが、彼らはナザレ人の誓願
の終には髪を宮で剃らなければならぬこと、そして剃った髪は祭壇の火で焼か
なければならないこと(民数記6:13-18)を忘れている。
19-22節
ケ ンク レ ヤ か ら シ リ ヤ に わ た る 船 が 途 中 エペ ソ に 立 ち 寄 る の
は、普通のことでもあり甚だ便利であった。このエぺソはアクラとプリスキラ
の目的地であった。
18:19
一行 がエ フェソに到着 したとき、パウロは二人 をそこ に残して自分だ け会
堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。
18:20
人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、
18:21
「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから
船出した。
18:22
カ イ サ リ ア に 到 着 して 、 教 会 に 挨 拶 をす る た め に エ ル サ レ ム へ 上り 、 ア ン
ティオキアに下った。
パウロは今自分が再びアンテオケに帰って、次の大都市伝道の前に兄弟たち
に福音の進展を報告すべき時期であると決心した。そして自分が次に攻略する
地点をこのエぺソと定めると、会堂で少しばかり話すことによって、いわばこ
の町のユダヤ人たちの意向を探り、それがどうやら有利であることを見定める
と、プリスキラとアクラの二人をこの地にのこした。彼の目的は明かに二人に
出来る限りの準備をさせ、彼が帰って来るまでそこにいて、コリントでしたよ
うに彼を助けられるようにというつもりであった。こうしてのち彼は再来を約
すると帰路を急いだ。カイザリヤまでの航海、またそこからアンテオケまでの
- 320 -
航海については、カイザリヤに上陸した時彼が『上りて教会の安否を問ひ』(現
行邦訳には「エルサレムに上り」とエルサレムが入っているが、改訂されたギ
リシヤ語原典では
ἀναβὰς καὶ ἀσπασάμενος τὴν ἐκκλησίαν
と な って おり 、 エ ル サレム の 文字 は な い- - 訳 者 )と あ る 以外 は何 の 出来 事も
記録されていない 。この教会はかつてコルネリオとその友人たちとがバプテス
マを 受 け たことに よって、この地 に建てられ た教会である ① 。アンテオケ につ
いた時、私たちは彼がかつてシラスと共に自分を主の恩恵に委ねた兄弟たちに、
おゝよそ神が彼を用いてなし給うたこと、そして神は『異邦人たちに対する信
仰の戸』を如何に一層広く開き給うたかを語ることによって、彼らの心を喜ば
せたであろうことは疑うべくもない。シラスは彼より一足先に帰っていたかも
しれない。そしてもし帰っていなかったとするならば、パウロはルカの述べて
いない、二人が別れた時の状況をも兄弟たちに語ったであろう。パウロの三年
間の留守中にアンテオケにおこったことがらについては、ルカは同様に沈黙を
守っている。それは彼が、パウロと同じように、次の伝道地エぺソに目を向け、
その記録へとペンを促すからである.
①註解者たちは一般に Textus
Receptus 及び古い英語訳中にある加筆挿入句“I must
by all means keep tbis feast that cometh in Jerusalem”(我この来らんとする祝
節 を エ ル サ レム に て 守 ら ざ る べ か らず )(21節 )に 誤 ら さ れて 、 パ ウ ロ が 上 って 安 否 を 問 う
た の は エ ル サ レム の 教 会 で あ っ た 、 と 勝 手 に 決 めて い る 。 し か し こ の 挿 入 句 が な い も の
と す る な ら ば 、 こ の 結 論 を 裏 付 ける 証 拠 は 何 も な い 。 彼 が カ イ ザ リ ヤ に 上 陸 し た の は 、
明かに彼の乗っていた船がカイザリヤ行だった為であり、またこゝで他の船を待って時間
を費すよりは、この船で直ちに行こうと思ったのであろう。カイザリヤからアンテオケま
ではごく近く、沿岸の便船も殆ど毎日守った。
第四項 パウロの第三伝道旅行
(18:23-21:16)
1.「ガラテヤ、フルギヤへの第二回訪問(23)
23節
少くとも数ヶ月はかゝったに相違ない旅行を、ルカは次の簡単な一
文によって片づけている。実際この旅程は800乃至1000kmにわたった。
18:23
パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの
地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。
- 321 -
こゝに書かれている経路の中で名前があげられている二つの地方、ガラテヤ
とフルギヤに達するためには、彼はアンテオケより再びシリヤをまわってキリ
キヤに入り、そこからキリキヤの門を通ってルカオニヤ及びピシデヤの高原に
出て、デルベ、ルステラ、イコニオム及びピシデヤのアンテオケを通ったにち
がいない。これはこれらの町に対するパウロの第三回の訪問であり、ガラテヤ、
フルギヤを通つたのは彼がそこに植えつけた諸教会への第二回訪問であった。
この旅行の速さから判断することが許されるならば、彼はこれらの教会の中に
特に彼の長期の滞在を必要としない良好な状態を見たので、これらの諸教会の
間での彼の働きも『凡ての弟子を竪う』することにあった。彼がエペソに留る
ようにとのたのみをことわったのも、アンテオケへの報告の外に、この仕事の
ことをも考えていたのである(20,21)。
2.エペソ及びアカヤにおけるアポロ(24-28)
24-26節
私たちは先に、パウロがアクラとプリスキラをエペソに留らせ
た目的は、パウロの留守中、彼らになし得る限りの基礎工作をさせるためであ
った(19)という意見を発表しておいた。今ルカは彼らがした仕事の一つの見本
を私たちに見せる。
18:24
さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄
弁家が、エフェソに来た。 ①
18:25
彼は主の 道を受け入 れており 、イ エ スの ことに ついて熱心 に語 り、正確 に
教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。
18:26
このアポロが会堂 で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラ
は、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
①アポロはこゝで A.V.のように『アレキサンドリヤ生れ』(Alexandrian by birth, 現
行 邦 訳 も 同 じ 、 直 訳 は 『 生 れ に よ れ ば ア レ キ サン デ リ ヤ 人 』 で は な く 、 正 し く は 『 人 種
によればアレキサンドリヤ人』(Alexandrian by race
τῷ γένει )と呼ばれている。
これは彼がこの町で生れたというだけでなく、この町出身のこの土地の人を先祖とする
人 で あ っ た こ と を 示 す 。 18:1で アク ラ に つ いて 使 わ れて い る 時 に も こ の 言 葉 は 同 じ よ う
な意味に用いられている。
アポロが後にコリント教会内で占めた重要な位置、また彼の名がこれにつゞ
く時代の兄弟たちの間に非常に有名になったことから考えて、このアポロに関
する記事を詳しくしらべることは興味深いことである。彼がアレキサンドリヤ
の出身であったということは、彼 の 身 に つ け て い た 学 問 を あ る 程 度 説 明 し 、
- 322 -
またその学問の性質をも示す。なぜならば、アレキサンドリヤは少くとも二〇〇
年の間ギリシヤとヘブルの学問の最も大切な接触点であったし、丁度この時に
は特にヘブル学の中心地となっていた。この学問はギリシヤ訳旧約聖書の知識、
また旧約聖書以後のユダヤのギリシヤ語文学、それにある程度のギリシヤ哲学
の知 識 を 含む も の で あっ た。 彼が 「聖 書 に 通 達 』 して いた (直 訳 = 聖 書に おい
て能 力 あ る- - 訳 者 )と い う の は 、彼 が聖 書 を よ く知 って いた とい う だ け でな
く、議論においても説明においても聖書の言を自由に使いこなして大きな効果
をあげる能力を持っていたことを意味する。聖書の知識は写本から得る外なか
った時代、しかも字を読める人の数も甚だ僅かであった時代においては、この
ように聖書に通達しているということは相当なことである。このような立派な
能力は、今日聖書が印刷されていくらでも手に入る時代においてさえ、またこ
の聖書の研究に一生を捧げている筈の説教者たちの中においてさえ甚だ稀であ
る。もし多くの説教者たちがもっともっとこのアポロを見習うならば、彼らは
説教において一層能力あるものとなり、ありもしない所に力を求める必要はな
くなるであろう。
し かし こ の ように アポ ロ は 聖書 に通達 し、『熱心 にして詳細 にイエ スの事を
語り、かつ教えた』けれども、プリスキラとアクラは彼の話を聞いた時、すぐ
に彼がクリスチャン のバプテスマを理解していないこと--彼が『ヨハネのバ
プテスマを知るのみ』であることを看破した。彼らはこの問題に関して、今日
の或人たちのようにこれら二つのバプテスマの間には何の相違もないと考える
ほど無智ではなかった。また『単なる外面的儀式』としてこの二つを区別する
のは重要ではない、などというほど無関心でもなかった。反対に、彼らはこの
力ある熱心な説教者を自分の家に招いてこの問題に関する真理を彼に教えたの
であった。一方アポロも冷静な真理の探究者としての評判を裏切らず、この訂
正をすぐ喜んで受入れたようである。彼はヨハネのバプテスマが何ら聖霊の約
束を伴わないのに対して、聖霊を与えられるということがクリスチャンのバプ
テスマの最も大きな特徴であること、またヨハネは何の名の中へもバプテスマ
しなかったに対して、使徒たちは父と子と聖霊の御名の中へとバプテスマせよ
と教えら れていたこと(2:3、マタイ28:19)を学んだ。彼が果して 再度のバプテ
スマを受けたかという問題は、19:5と関連して後に出て来る。
こゝで注意すべきことは、プリスキラが彼女の夫アクラを助けて、アポロに、
より完全な教えを与えるのに一役買っていることである。このことは当時一部
の信仰深い婦人たちがどのような方法で、使徒たちや伝道者たちのために福音
宣べ伝の立派な助力者となったかを私たちに教える。しかしこのことから、当
時の婦人助力者の中の最も立派な人たちといえども、公開説教を実際に行った
ということを証明することは、聖書の言葉をまげない限り不可能である。
- 323 -
27、28節
こゝに書かれていない、ある理由のために、アポロはエぺソを
去って、パウロによって植えられたアカヤの諸教会を訪れることになった。
18:27
そ れか ら、 アポロが アカ イア州 に渡る こ とを望ん で いたの で、兄弟 たち は
アポ ロ を励 ま し、 か の 地の 弟子 た ち に 彼 を歓 迎し てく れる よう に と 手紙 を書いた 。
アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。
18:28
彼 が 聖書 に 基づいて、メ シ アはイエ スで あると公然 と立証 し、激しい語調
でユダヤ人たちを説き伏せたからである。
これは一つの町の教会から他の町の教会へ行く弟子に推薦の手紙を与えた最
初の例である。後にはこのことは普通の習慣として記されている(Ⅱコリント3
:1,2)。 兄 弟 たち が 彼 を 行 く よ う に 『 励 まし た 』 の は、 彼 ら が特 に 彼 の もって
いた能力を知り、またアカヤの諸教会が彼のこの能力をユダヤ人との論争に必
要であることを知っていたからであった。これらの兄弟たちとは、アクラ・プ
リスキラ以外に誰々であったか、ルカは今こゝに記していない。しかし私たち
は後にこれを知る(19:1)。さてアカヤでのアポロの働きについての兄弟たちの
期待は、彼が弟子たちに与えた大きな助力とユダヤ人たちを論破する功績によ
って充たされた。彼の特有の能力は聖書の言を用いることにあったから、ユダ
ヤ人に対するには、また信者の信仰を強めるにはもって来いの人であった。大
体、議論するということは説き伏せて納得させるということとは別である。し
かし私たちはアポロがユダヤ人たちと議論を戦わしただけでなく、実際多くの
人を教会に導いたという証拠をもっている。パウロは後に彼の働きを自分の植
えた教会に水を注ぐ働きにたとえて『我は植え、アポロは水灌げり』といい、
更にたとえを変えて「我は基を据えたり、而して他の人その上に建つるなり』
と言った(Ⅰコリント3:6-10)。パウロがコリントのユダヤ人たちに対して比較
的失敗したのに対して、アポロがユダヤ人の間に成功したことは、一つの教会
の中に屡々見られる色々な考え方と性質をもった人たちに、有効な伝道を行う
ためには、説教者は色々な才能と特別なたまものとをもっていなければならな
いことを、明かに証明している。
3.パウロ・エペソに到着し、十二人に再浸礼を施す(19:1-7)
1-7節 ルカは、パウロの旅行を海路エペソからアンテオケヘ、またそこよ
り陸路ガラテヤ、フルギヤの地を次々に経てあわたゞしく記録した後、今日指
す目的地に到着する。パウロは遂に、彼が前回の旅行の途次『アジヤにて御言
を語 る こ と を聖霊 に 禁ぜら れ』 た時 に(16:6)心 に 抱 い て い た 仕 事 に 着 手 し 、
ま た同 時 に 、旅行 の帰途 にお いてこの地 にのこし た約束 (18:21)を実現するこ
とを許されたのである。
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19:1
アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエ
フェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、
19:2
彼らに、「 信 仰 に 入 っ た と き 、 聖 霊 を 受 け ま し た か 」 と 言 う と 、 彼 ら は 、
「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
19:3
パウロが、「それなら、どんな洗礼 を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの
洗礼です」と言った。
19:4
そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを
信じるようにと、民に告げて、悔改の洗礼を授けたのです。」
19:5
人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。
19:6
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話した
り、預言をしたりした。
19:7
この人たちは、皆で十二人ほどであった。
こ の 個 所 は、 前段アポ ロ のこ とを記した 個所(18:25)と共 に、ヨハネのバブ
テスマがなおも当時或地方で説かれ、又行われていたことを示している。又こ
の記事は当時使徒たちがヨハネのバプテスマを受けた人々を、実際上如何に取
扱ったかをも示すものである。ま ず こ れ ら の 人 た ち は イエ ス の 弟 子 と して 、
パウロに紹介された。従って彼らは多分、さきにアクラと共にアポロに紹介の
手紙を書いて与えた『兄弟たち』(18:27)であったろう。
『なんじら信者となりし時、聖霊を受けしか』というパウロの最初の質問は、
信者に常に内住する聖霊自体をさしたものではない。なぜなら内住の聖霊はす
べて悔 改てバプテス マを受ける 者に例外なく与えられる(2:38)もの であり、果
して彼らがこの意味で聖霊を受けたかということは、パウロにとって疑う理由
はなかった筈である。しかし当時一部の弟子たちはバプテスマを受けた後に、
使徒の按手によって奇蹟を行う聖霊の賜物を受けた。パウロが彼らに質問した
の は こ の 奇蹟 を行 う 聖霊 の賜物 (聖霊の 奇蹟力 ) ① に ついて であっ た こと は、以
上の観察からのみならず、又彼がこの会話が終って後に彼らに与えたものが実
にこの賜物に外ならなかったことからも明かである。ところで彼らが『我らは
聖霊 の与 えられ しこと すら聞かず』 ② と答 えた時、パウ ロは 直ちに彼らの受け
たバプテスマに、どこか誤っている所があることを発見した。そこで彼は次に
『さ れ ば 何 の 中 へ と バプテス マさ れし か』 (現 行 邦訳 …… され ば 何 に より てバ
プテス マ を 受 け し か… は 原 語 にも 、意 味に も忠 実 でな い )と問 うた の であ る。
パウロが言ったのは、如何なるバプテスマによってというのではなく、何の名
の中へとバプテスマされたかという点であった。このことは彼が弟子たちの答
を聞 い た 後に 『主 イエ ス の名 の中 へと (現 行邦 訳 「主 イエ ス の 名 に より て」は
正し く な い )バ プテス マ さ れ るよ うに 命 じ てい る こと から もわ かる 。 この 『主
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イエスの名の中へと』いう表現は、イエスが自らお用いになった『父と子と聖
霊と の 名 の中 へ と 』の 省略 し た形で ある 。(現行訳 「父と 子と聖 霊との 名によ
り て 」は 正し く な い )。 そこ で 、 もし こ れ らの弟子 たち が この正 しい 方 法でバ
プテスマを受けていたならば、彼らは自身その中へとバプテスマされた聖霊を、
バプテスマを受けて入れられた聖霊によって無智である筈はない。更に又、彼
らが正しいバプテスマを受けていたならば、彼らは、五旬節の日にペテロが人
々に教えたように、バプテスマを受ける時には聖霊を受けるということを既に
教えられて知ってい た筈である。しかし、一つの名の中へとバプテスマされる
というようなことを知らなかった彼らは、パウロの第二の質問の意味を正しく
解す るこ と が 出来ず、『 ヨ ハ ネ の バ プ テス マ の 中 へ 』 と い う 愚 答 を 返 し た 。
こゝにおいてパウロは、彼らが聖霊に関して無智である理由を発見した。そも
そもヨハネのバプテスマには聖霊の約束はなく、又何らかの名の中へとバプテ
スマ さ れる (バプテス マされて 何らかの名の中へ入れられ る)という ことも ない
のである。パウロはこのことについて簡単に説明したが、彼らは直ちにパウロ
の言を受け入れてバプテスマを受けた。そして彼らがバプテスマを受けた時に、
パウロは彼らに最初の質問で聞こうとしたあの聖霊の奇蹟を行う賜物を与えた
のである。
①訳者註=この場合『賜物』は聖 霊 の 与 え る 賜 物 、即 ち 、聖 霊 の 示 す 個 々 の 異 る 能 力(Ⅰ
コリント12:1-11参照)の意味であり、賜物としての聖霊(使徒行伝2:38訳者註参照)の意味
ではない。
Ἀλλ᾽ οὐδὲ εἰ πνεῦμα ἅγιόν ἐστιν, ἠκούσαμεν
(我らは聖霊のあることすら聞かず…邦訳)であるが、又多くの写本は αλλ'
ουδ' ει
πνευμα αγιον λαμβανουσιν τινες. と い う 風 に ἐστιν の 代 り に
λαμβανουσιν τινες が入っている。この テキストに よれば(我ら は聖霊の与えられ
②訳者註=原文は
しことすら聞かず)ということになり、解釈には便利である。し か し The Expositor's
Greek Testament の
Acts の著者 R.J. Knowling氏は
λαμβανουσιν τινες
ἐστιν と い う 、 む し ろ 難 し い 語 で 置 き か えら れ る 筈 は な い と 言 って い る 。 著 者 は
λαμβανουσιν τινες をとっているようである。
が
この事件がヨハネのバプテスマを受けた人々の再浸礼の一例であることから、
すべてヨハネのバプテスマを受けていた弟子たちは、教会に入れられるために
は必ず再度のバプテスマを受けたのかということ、或はもし受けなかったのな
らば、これらの弟子たちだけが特に再浸礼を受けたのは何故か、ということが
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当然問題になって来る。さてこの問題の前半に関しては否と答えなければなら
ない よう だ。その理由 は、使徒たちの中の或人々(全部でないにしても)また五
旬節の日までこの十二使徒たちと共に最初の教会を構成していた百二十人の弟
子たちの或人々も、多分ヨハネのバプテスマを受けていたのであろうが、これ
らの 人々 は何れも再浸 礼を 受けていないので ある ① 。そしてもし事実彼らが再
浸礼を受けていないならば、他の最初からのヨハネの弟子たちについても、同
じことが言える筈である。それではなぜこのエぺソの弟子たちだけがもう一度
バプテスマし直されなければならなかったのか?この問題に対して、最も信ず
べくして、又同時に事実と符合する答はこうである。彼らはヨハネのバプテス
マが神の命令による礼典としての効力が廃れた後に、アポロ、又はアポロと同
じ教えを説く 或る人々によってバプテス マを 受けた。ヨハ ネの バプテスマとい
うものは、あの五旬節の大なる日に、使徒委任のバプテスマが紹介されると共
に効力を消失した筈であり、又ヨハネが投獄されてからというものは、このバ
プテスマを正しく行う人はいなかった。イエス自身ですら、ヨハネの投獄以前
のごく短い期間このバプテスマを行われたが、以後は行い給わなかったらしい。
即ち以上のようなことから考えると、ヨハネのバプテスマというものは、神の
命令による生きた礼典としての意味を失った時からは、もはやバプテスマとし
て認められなくなったのである。従ってこの十二人は、未だ全然バプテスマを
受けたことのない者とみなされ、今初めて真のバプテスマを受けたのであった。
もし仮にアクラが、パウロのエぺソに到着する以前に、これらの弟子たちの状
態を知っていたならば、彼は多分、この問題に関して自らの考えで解決するこ
とをせず、明かにパウロの裁決を待ったであろう。彼は恐らく、自らこの困難
な問題に関しての処置を教える資格がないと考えていたであろうから。彼らが
果して聖霊の奇蹟力の賜物を与えられているか、たしかめんとしたパウロの質
問は、もし仮にアクラ自身が既に同 じ質問を発していたならば、アクラにして
も、パウロが知ったと同じ彼らの信仰状態の事実を知ることが出来たであろう。
一 方 も し アポ ロ が 再浸 礼を 受 けなか ったとす る なら ば(む しろ受 けなか った方
が た し か だが )、 そ の 理 由 は 多分 アク ラが こ のよ うな 場合 どう 処置 すべ き かを
知らなかったか、或はアポロ自身、かつてユダヤを訪れた時に、ヨハネその人
から直接バプテスマを受けていたのであろう。
このエペソの十二人の弟子の事件は、パウロが何れの地においても、そこに
見出される弟子たちの信仰状態をよく調べた上で、はじめて教会に加えるとい
う習慣をもっていたことを示すものであり、またこのことは現今の伝道者たち
も慎んで学ぶべき先例である。
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①これ らの 人たちが 再浸 礼を受 けな かった こと は、 五旬節の日にバプテスマを受けた人々が
「弟子に加はりたり」(2:41)という記事から明かである。そしてもしこれらの使徒たち或
は百二十人の弟子たちがこの時バプテスマを受けなかったならば、この時までに既に何ら
かの形でバプテスマを受けていた筈である。しかもこの時以前に行われていたバプテスマは、
イエスの弟子たちが行ったバプテスマ(ヨハネ伝4:1,2)でさえ、すべてヨハネのバプテスマ
であったから、使徒たち或は百二十人が既に受けていたのは当然、ヨハネのバプテスマで
あった。のみならず、イエス御自身、ヨハネのバプテスマに服することは、凡ての人の義
務で あ る こ と を 強調 されて い る(ルカ 7:29,30)。 勿論 イエ スが ヨ ハネ の バプテス マに 服 す
ることを拒む人を弟子として認められたとは、殆ど考えられない。又確かに、イエスが自
ら バ プテス マ を 受 け 給 っ た 直 後 に 、 ヨルダンのほとりで召された五人の弟子たちは、 イエ ス
の弟子 とな る前か らヨ ハネ の弟子 であ り、既 にバ プテスマ を受 けて いた(ヨハ ネ1:35-51)
のである。
4.会堂及びツラノの講堂における説教(8-12)
8、9節
こうして弟子たちの一つの小さな群の中に発見した誤りを訂正した
パウロは、次にこの町に充満していたユダヤ的及び異教的誤謬に対していどみ
かゝった。
19:8
パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々
を説得しようとした。
19:9
しか しある 者た ち が 、か たくな で信じよ うとはせず 、会衆の 前でこ の 道を非
難し た の で 、 パ ウ ロ は 彼 ら か ら 離 れ 、 弟 子 た ち を も 退 か せ 、テ ィ ラ ノ と いう 人 の 講
堂で毎日論じていた。
この会堂内での光景は、私たちが既に見て来た他の場合と、あらゆる点で全
く一致している。即ち同じ変らぬテーマに関するパウロの同じ熱心な議論、信
じないユダヤ人側の同じ頑なな心と悪口、そして最後にパウロ及び信者たちと、
会堂及びそれを支配する大多数の人たちとの分離。コリントにおいては個人の
住居かパウロの隠れ家となったように、エペソではツラノの講堂が彼の次の集
会所となった。このような出来事は、およそ同時代の宗教的教義を訂正しよう
と改めた人々の上に、古今を問わずかならずふりかゝるものである。
10-12節
こゝで再びルカは、パウロのコリント滞在の時のように、正確
な時間を記している。
19:10
このよ うなこ とが 二年も続いた ので、アジア州に住む者は、ユダヤ人 であ
れギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。
- 328 -
19:11
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。
19:12
彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病
気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。
こゝにのべられている二年間に、会堂における三ケ月を加えると、パウロの
エペソ滞在期間は二年三ケ月であったことがわかる。これは彼が一つの町にお
ける滞在期間では最も長いものであり、またそのために特にこゝに書かれてい
るの であ ろう ① 。こゝ に記録されてい る奇蹟は特にそ の尋常でな い性質のため
に『世のつねならぬ』という形容が冠されているが、この言葉は私たちにかつ
て ペ テ ロ の 生 涯 中 に 見 ら れ た 奇 蹟 (5:15)や、 ま た 主 のな し た もうた 奇 蹟 (マル
コ6:56)を思い出させる 。 このパウロ の奇蹟はこれ らペテロや主の奇蹟と全く
同じく信ずべき事実である。それらは皆この治療の力を求める人々のいやます
熱心に従って行われた。『アジヤに住む者はみな』、即ちアジヤという名で知ら
れていたロマの属州に住む人がこぞって『ユダヤ人もギリシヤ人も主の言を聞
いたのは不思議ではない。およそエぺソまで出て来られる人はみな来て御言を
聞いたであろうし、来て聞いた人は例外なくその行く先で彼らの聞いたことを
繰返して人に伝えたであろう。その結果は私たちが後に『アジヤにある七つの
教会』について読む所である。
①パウ ロが 後日そ の期 間を 三年と 言ってい るのは (20:31)、 期間の始り又 は終りの一 部分
を満一年に勘定する、普通のユダヤ式の方法に従っただけである(10:30の註参照)。
5.呪文師暴露され、魔術書焼却される (13-20)
13-17節
上のような奇蹟を目撃しては、いかなる人も神の能力の存在を
認めずにはいられない。私たちは無神論者でさえこの奇蹟を見ては狼狽し、最
も頑固な罪人でさえも恐れおののいたと想像することが出来る。しかし魔術師
シモンはかつてこの力を金銭によってペテロから買おうとし、バルイエスはセ
ルギオパウロにそれがインチキであると信じさせようとした。今エペソでも同
じような人間の堕落の姿があらわされ、前の二つの場合と殆ど同じ位きびしい
懲戒をともなった。
19:13
とこ ろ が、 各地を巡り 歩くユダヤ 人の祈祷師たち の中にも、悪霊どもに取
り つ か れ て いる 人々 に 向 か い、 試 み に 、 主 イ エ ス の 名 を唱 え て、 「 パ ウ ロ が 宣べ 伝
えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。
19:14
ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。
19:15
悪 霊 は 彼 ら に 言い 返 し た 。 「 イ エ ス の こ と は知 っ てい る 。 パ ウ ロ の こ と も
- 329 -
よく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」
19:16
そ して、悪 霊 に取りつ か れている 男が 、こ の祈祷師 たち に飛びか かって押
さえ つ け、ひどい目 に遭わせた ので 、彼 らは裸 に され、傷つ けられて、そ の家か ら
逃げ出した。
19:17
このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったの
で、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。
この呪文師たちはその名の意味が示すように、悪鬼を追出す力を持っている
と自ら称えていた。そして彼らは人々の目からはその評判を保ちつゞけるだけ
の成功をおさめているように見えていた。彼らが七人兄弟であったという事実
が彼らの自称に更に一段の魔力を附加えたことは、ちょうど今日七番目の娘の
七番目の娘だという女占師が同じ占師仲間の中でも特に信用されるのと同じで
ある。彼らは悪鬼つきから悪鬼を追出す時に呪文をとなえ、ソロモンから伝わ
ったと 称するわけ のわか らぬ怪しげな言葉を口にし た ① 。であるから、当然彼
らはパウロの力の秘訣も同じような種類のものであると想像した。そこで彼ら
はパウロが悪鬼を追出す場合にそれをよく観察して彼の呪文を見破ろうと努力
した。やがて彼らはパウロがどの場合にもイエスの名を使うことを発見し、さ
ては魔力はあの言葉にあるぞと結論した。それで彼らの中の二人はまず試験的
に一人の悪鬼つきを連れて来、失敗しても人に見られぬよう一室にとじこめ、
うまく行けばいよいよパウロの競争者として名乗をあげようと試みた。一方悪
鬼の方ではこの二人の悪漢の悪らつさに憤慨したらしい。そして悪鬼が二人を
暴露した方法も甚だたちのわるい悪戯だった。彼らが裸で傷だらけになって街
の通りをとんで逃げるのを見た時、エペソの町中の人たちは腹をかゝえて大笑
したにちがいない。しかし彼らが止って考えた時、次に心にうかんだことは、
この醜態はイエスの名をみだりに用いた結果であるということであった。イエ
スの名が崇められ、恐れの気持がすべての人の上におこったのは当然である。
①ヨセフスはエルサレム攻城の際、ヴェスパシアンの面前でおこなわれた悪鬼駆逐の実例
を詳細に記録している(Ant. viii.2,5; Wars)
18-20節
七人の呪文師がこの神秘的なしかも有力な方法でそのインチキ
を暴露された事実は、エペソ市内に住むあらゆる自称魔術師たちが信用するに
足りないことを示した。目に見えて現れたその結果は驚く程大きなものであった。
19:18 信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。
19:19 ま た、魔術を行 っていた 多くの者 も、そ の 書物 を持 って来て、皆 の 前 で焼
き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。
19:20 このよう にして、主の言葉はます ます勢 いよく広まり、力を増していった。
- 330 -
自らの行為を告白した信者たちが、必ずしも信者となってからも魔術を行っ
ていたと考える必要はない。彼らはたゞ彼らがかつて人々をだましていたその
魔術の方法を告白し発表したという意味である。書物を焼いた人々の中で明ら
かに多くの人は、恐らく大部分の人は未信者であったが、彼らは自分たちの過
去の偽瞞的行為を深く悔いていた。銀五万は疑もなく当時のアッチカのディド
ラクマによる計算である。エペソはギリシヤ式の都市であってこの銀貨は最も
広く流 通して いた。その価値は 殆どロマのデナリ(英訳にpennyとなっている)
に 等 し く 、 アメ リ カ 通 貨 に して 16セ ン ト 強 に 相 当 し た 。 し た が って 焼 か れ た
書 籍の 全 価格は 8000ドル以 上 に上 った。これら 魔術書の 価格は数 や本の大き
さというよりもその内容にあった。なぜならこれらの書籍はその中に魔術の種
あかしを記してあり、これを買う人はもとの所有者と同じ位上手な魔術使いに
なれたからである。この本はちょうど一枚の紙片に書かれた特許薬剤の調合法
と同じように、魔術使いたちの資本であって、その価値もその秘密保存にあっ
た。この記事全体は当時エペソが全ロマ帝国を通じて魔術の中心地であったと
いう、古代記者たちの記録を裏書している ① 。
①この問題については Conybear と Howson 共著 ii.21 並びに Farrar の Life of
Paul, p.358にある引用を見よ。
6.パウロ、将来の旅行を計画する(21-23)
21、22節
魔術書焼却につゞく主の御言の大勝利は教会の色々な問題を有
利に運んだので、やがてパウロはエペソを離れることを考えはじめた。
19:21
こ の よう なことがあった後、パウ ロは、マケド ニア州とアカイ ア州を通 りエ
ルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ロマも見なくてはならな
い」と言った。
19:22
そ し て、自 分 に 仕 え てい る 者の 中 から 、 テモ テ と エ ラ ス ト の 二人をマ ケド
ニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。
私たちは後に、この将来の旅行の計画が文字通りに実行されたことを知るであ
ろう。しかしそれはパウロが最初意図したものとは甚だ異る方法で実現した。
『霊において決意した』(“he purpose in the Spirit --
ἐν τῷ πνεύματι
ἔθετο ὁ Παῦλος
”--現行訳は単に『心を定め』=訳者)という言葉は、大
部分の註解者たちは単に彼が決心したという意味にとっており、英語聖書改訳
委員たちも spirit という語に小文字の s を使っている所から同じ見解をとっ
- 331 -
ているように見える。しかしもしこれがこの表現の本当の意味であるとするな
ら ば、 “in the spirit” という一句 は蛇足であり 、この 表現は冗長以外の何も
のでもない。こういうことを言う学者たちは、この表現を説明するルカの前に
言った事実を忘れているのだ。パウロははじめこのアジヤの都エぺソに来よう
と決意した時、その計画を聖霊によって禁じられ、それからビテニヤに行こう
と決意した時も同じように禁じられた(16:6,7)。この経験から彼はこの神によ
る支 配力 の明白な許可 がない限り、将 来 の 計 画 を 立 て な い こ と に し た 。アク
ラとプリスキラをエペソに残して、自分が再びこの町に帰ることを約束した時
でさ え 、彼 の言葉は 、『 神の御意ならば 復なんぢらに返らん 』であ った。少数
の解釈者たちはこの表現を聖霊が彼を動かしてこの決心をさせたという風に解
しているか、もしそうならば彼が後にこの計画が実現するかどうか確信をもっ
て い な い (ロ マ15:24、 30-32)のは おか しい 。この 表現の 本当の 意味 は 、パウ
ロのそれまでの経験及び以後の経験に照し合せて、こうであろう。彼はこの決
意を、聖霊の許可を得ることを条件にきめた。そしておそらくは御霊がそれを
支配する可能性を意識しながらこの決意をした。テモテがマケドニヤに遣わさ
れたのは、彼がそこからコリントに行きコリントにいる兄弟たちに、パウロの
方針や 教えについて 教えるためであった(Ⅰコリント4:17)。一方エラストは故
郷コ リン ト の会計 官(町 の庫司 、ロマ16:23)であっ た関係上、テモテの助力者
として一緒に派遣された。
或る学者たちは、パウロがこの前に一度コリントを短い期間訪れ、それから
エペソに帰ったということを、コリント後書のある個所を証拠にして論じてい
るが、これは可なり尤もらしい説である。しかしこの問題はさほど重要なもの
ではない。私としてはこの立場に対する証拠は不充分だと思うが、こゝには論
じようと思わない。こ の こ と を 研 究 し よ う と い う 好 奇 心 をお 持ちの読者は、
Howson にその肯定論を、Paleyに否定論を見出されるであろう。
コリント前書はエペソから書きおくられた。そして書中の言葉に見えている
よう に 、その 書かれ た時期 は正にエペ ソ伝道の 最盛期であっ た。『われ五旬節
まではエペソに留らんとす。そは活動のために大なる門わが前に開け、また逆
ふ者も多ければなり』(Ⅰコリント16:8,9)。この言葉は単にこの書が書かれた
場所 を 決 定するだ けでな く、書かれた 時期をも殆 ど正確に決定する 。『 大なる
門』が開けたということは、魔術書焼却にともなう勝利をさしているに外なら
ない。したがってこの書簡は、テモテとエラストをコリントに行かせる為にマ
ケドニヤへ送り出した頃に書かれたものであり、二人の中のどちらかがこの手
紙をもって行ったことは疑をさしはさむ余地もない。
- 332 -
この書は実はパウロがコリントの教会に書きおくった第一の書簡ではない。
というのは彼がこの書の中で前に淫行について書きおくったもう一つの書があ
る こと を 言 っている か らで あ る。『われ 前の書にて 淫行の者 と交わるなと書き
送 り し は 』 (5:8)。 こ の 短 い 一 句 は こ の 書 簡 に つ いて 私 たち の 知 り 得 るすべ て
である。この手紙はおそらく、その内容が再び繰返して書かれ、今日、前書と
いわれている書簡の中に一そう詳しく取扱われているので、消滅することを許
されたのかもしれない。
失われた書簡の書かれた時から後、クロエの家の或る者が、この教会内にと
んでもない乱脈と腐敗が生じていることをパウロに報じた(1:11)。コリント前
書はこれらの間違いを正すために書かれたのである。彼はコリントの教会が党
派争 い によって乱 されて いたこと(1:12,3:1-4)、 淫行、はな はだしきは 近親相
姦まで が黙認されていた こと(5:1-13)、或る教会員たちは主にあ る兄弟たちを
国家の法廷に訴えていたこと(6:1-8)、彼自身の使徒としての権威が問題にされ
出したこと(4:1-6、14-21)、教会内の婦人たちがそのつつましさを忘れてヴェ
ール も か ぶらず に 公け の礼拝 に 出席したこ と(11-16)、霊 的賜物 についてある
種の 混 乱 と嫉妬 が生 じ た こと (12、13、 14章)、 教会員 の 中に は復活 を否定す
る 者 さ え あ る こ と (15:12)、 そ して 主 の 晩 餐 が 宴 会 に よ って 汚 さ れて い る こ
と(11:17-32)を知った。それに加えて、 彼は教会から結婚 と離婚 及び偶像に
供えられた肉を食うことについて、問 合 せ の 手 紙 を 受 取 って い た (7:1,8:1)。
これらの質問に答え、これらの無秩序を責めているこの書簡は、平静ながらも
きびしい語調で書かれているけれども、彼がかくも大きな労力と苦心とをつい
やしたこの教会が、今このような状態に陥っているのを聞いて、甚だしい苦痛
と悲しみを感じなかったとは考えられない。彼は手紙の中ではこの感情を抑え
ながら書いたけれども、後にこの時のことを告白して『われ大なる患難と心の
悲 哀 と に よ り 、 多 く の 涙 を もて 汝 ら に 書 き 送 れ り 』 (Ⅱ コ リ ン ト 2:4)と 言って
いる。彼がこの書を持たせてテモテとエラストを遣したのは、ちょうどこのよ
うに自分の過去の働きの結果について悩み、同時に目前に開かれた広い有望な
門に勇気づけられていたその時であった。一方パウロ自身はなおしばらくの間
アジヤに留った。
7.銀細工人の蜂起(23-41)
23-27節
コリント人に『そは活動のために大なる門わが前に開け』と書
いたその同じペンで、パウロは『また逆う者も多ければなり』(Ⅰコリント16:
8,9)と書いた。これは彼がこの時うち破った強力な敵のことを少くとも念頭に
おいていたことを示している。偶像礼拝と迷信の城砦は一部破壊された。しかし
それを完全に殲滅するにはまだまだ必死の努力がはらわれなければならなかった。
- 333 -
そしてパウロがこのことを覚悟するが早いか、やがて暗黒の力は力を合掌し彼
の上に襲いかかって来た。
19:23
そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。
19:24
そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミ
スの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。
19:25
彼は、 こ の 職 人 た ち や同 じよ う な 仕事 をしてい る 者た ち を集 めて 言った 。
「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、
19:26
諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神では
ない』と言 って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説
き伏せ、たぶらかしている。
19:27
こ れで は、 我 々の 仕事 の評 判 が悪 くなっ てしまう お そ れが あるば かりで な
く、偉大 な女神アルテミ スの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があ
がめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」
これはパウロが生存中彼に対して行われた反対演説の中でも、最も率直な真
相をかくさぬ演説である。こゝにあげられた訴因はみな全く真実であり、パウ
ロの影響から生ずる危険も正確にのべられている。この演説者の動機までが包
みかくさずに外にあらわされている。彼はあつかましくも、自分のもうけへの
慾望がこの熱心に火をつけたことを暴露しているではないか。しかし同時に彼
とその同業の職人たちは、自分たちの手できたえ磨きあげてこしらえたものが
神様でないことを、他の誰よりも知りすぎる位知っていたのだから面白い。彼
が宮のことにふれている理由は、この宮が古代世界の七不思議の一つであり、
エペソ市の誇であったことを考える時、一層よく理解することが出来る。宮は
長さ425フィート、幅120フィートあり、この広大な面積のまわりには高さ60
フィ ー ト 4フィー卜弱 間 隔 の白 い大理石 の柱廊が多数 立 ちならんでいた 。その
数は全部で120あり、その上には列柱廊の天井をなす巨大な大理石の石板を支
えていた。内部は古代美術の巨匠の手になる絵画と彫像で美しく飾られ、奥の
聖所には多産の象徴である多数の乳房をもった婦人のあまり立派でない像がま
つら れて い た。この 像 はジュピター (ゼウス)が 天から 落したも のだと一般 に信
じられていた。その壮大な柱廊の内部にはソロモンの神殿くらいの大きさのも
のなら三つや四つは入れることが出来たろう。このすばらしい建物がパウロの
説教によって侮辱されるように見えたのだからたまらない、異教信者たちの憤
りがパウロに対して忽ち燃え上がったのは不思議ではなかった。 ①
①この神殿が長い年月の中に完全に廃墟になってしまった経過は、幸いにも Plumptre
によって スケ ッチさ れて いる から、 ここ に彼 の言葉 全部 を引用 しよ う 。『こ のように 久し
- 334 -
い間つづいて来たこの礼拝に対して最初の一撃を加えたのは、実にパウロの二年間にわた
る 伝 道 の 働 き で あ っ た 。 そ して 次 に 歴 史 の 不 思 議 な 皮 肉 で あ ろう か 、 第 二 の 打 撃 は ネ ロ
皇帝の 手によって来り、 ちょうどデルフォイやペルガモやアテネの諸神殿から小さな村々の
宮 に 至 る ま で 、 そ の 数 々 の 美 術 的 宝 物 が 掠 奪 さ れて 、 ロ マ に あ る ネ ロ の 黄 金 宮 殿 の 装 飾
に使われた例にもれず、この神殿の壮観をはぎ去ってしまった。またトラヤヌス皇帝はそ
の 立 派 な 彫 刻 を 施 さ れ た 門 を ビ ザ ン チ ウ ム の 神 殿 に 奉 納 し た 。 や が て キ リス ト の 教 会 が
発 展 す る に つ れて 、 そ の 礼 拝 も 当 然 下 火 と な り 、 多 数 い た 祭 司 や 女 祭 司 も 次 々 と 宮 を 棄
てて去って行った。そして遂にロマ帝国がキリスト教国になった時には、このエペソの神
殿はデルフォイの神殿と共に、ユスチニアヌス皇帝が神の智慧をあがめて建立した教会堂
をたてる材料となった。現在の聖ソフィア寺院がそれである。ガリエヌス皇帝の治世、ゴ
ート族が小ア ジヤを蹂躙 した際に(紀 元263年 )、侵入者たちは無 暴の手でこれを徹底的に
掠奪し、こ の 掠 奪 の 破 壊 の 仕 事 は 後 に 数 百 年 た っ て ト ル コ 人 に よ っ て 完 成 さ れ た 』
(Commentary, in loco)。
28、29節
細工人たちは金銭的損失を予期してかんかんに憤ったけれども、
反面民衆の前に大声で叫ぶべき大義名分として宮と女神への尊敬ということを
取り上げるだけの狡猾さを失わなかった。
19:28
これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」
と叫びだした。
19:29
そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニ
ア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。
この叫び声と叫び声のはげしい調子とは、これを聞いた頭の古い偶像礼拝者
たちの熱心を呼びさまし、あたかも大切な女神に不らちな攻撃が加えられたか
のような感を人々に興えた。集って来た暴徒たちはまるで狂乱状態であった。
この時パウロが彼らの手のとどかぬ所にいたのは正に奇しき摂理といわなけれ
ばならない。
彼らが劇場に押し入ったのは、普通アジヤの都市の狭い町の通りにはこのよ
うな大群衆を収容する場所がなかったからであった。この劇場は今日でも昔の
エぺソの廃墟の中に、殆ど完全なまゝにのこっている大理石の観客席とともに、
最も よく 保存された形 で現存している ① 。 観客席には数千人 の観客を収容する
ことが出来る。
①著者 が1879年 にこの 場所 を訪 れた時 、そ の大理 石の 客席 の一番 上の 段に立 って 、同 行
の友人 たちに、次に出て来る町の書記役の演説を暗唱して聞かせたのは甚だ愉快であった。
- 335 -
30、31節
二人の友人が暴徒の手にとらえられ劇場内に引き込まれたとい
うことを聞いた時、パウロは破らが自分の代りに八裂きにされるのではないか
と恐れ、直ちにそんなことがあってはならぬと決心した。
19:30
パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。
19:31
他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに
使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。
この時、彼を圧したこの感情を、彼は後にコリントの兄弟たちに向って告白
している。
『兄弟よ、我らがアジヤにて遭ひし患難を汝らの知らざるを好まず、
すなわち圧せらるること甚だしく、力耐へがたくして、生くる望を失ひ、心の
うちに死を期するに至れり。これ己を頼まずして、死人を甦へらせ給ふ神を頼
ま ん 為な り。 神 は 斯か る死 よ り我ら を 救ひ給 へり 、 また 救 ひ給 は ん』(Ⅱコリ
ン ト1:8-10)。 彼 も 兄弟 たち も、劇場 に入って行けば必ず 殺される ことを知り
すぎるほど知っていた。したがってこの彼の決心は今そこで死のうという決心
であった。そしてこの時早く、彼の兄弟たちと親切な司たちとの時宜を得た制
止は、彼にとっては正に『斯かる死』より救い出し給うた神の御手にちがいな
かっ た 。「 アジヤの 祭の 司」という言葉は原語では
Ἀσιαρχῶν (英
Asiarchs)
という一語であって、毎年この地方で行われる運動競技を主宰するためにえら
ばれる十人の財産もあり名誉もある人の称号である。これらの司たちの中の或
る者がパウロの味方になったということは、彼の説教の対象範囲がどの辺まで
及んでいたかを示し、同時に彼自身が当時アジヤの異教社会の最高階級の間に
個人的に知られていたことを示している。
32-34節
パウロを劇場内に入れさせないで彼の生命を救った事情をのべ
たルカは、次に私たちを劇場内に案内してその後の暴徒の集りの成行を目撃さ
せてくれる。
19:32
さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多
数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。
19:33
そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中
のある 者た ち が 話 すよ う に 促した ので 、彼は手で制 し、群衆に向 か って弁明 しよう
とした。
19:34
し か し 、 彼 が ユ ダ ヤ 人 で あ る と 知 っ た 群 衆 は 一斉 に 、 「 エ フ ェ ソ 人 の アル
テミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。
- 336 -
ユダヤ人たちには暴徒の怒りを恐れる十分な理由があった。それは彼らが偶
像礼拝に関する限りパウロと同じ位強い反対者であることは周知の事実であ
り、またパウロ自身ユダヤ人であることも既によく知られていた。彼らの自分
たちの主義に対する忠誠が彼らを一見パウロの味方のような立場に立たせるこ
とになったのは言うまでもない。しかしもしこの時アレキサンデルの弁明を聞
くことが出来たとするならば、それはパウロがユダヤ教の信仰からの背教者で
あって、ユダヤ人たちはパウロの言うことに関して何の責任もないという弁明
であったろう。群衆中の敏感な人は直ちにこのトリックを見破り、当然の報い
として大勢の叫び声でアレキサンデルの声を全く消してしまった。
35-41節
暴徒が激昂の絶頂にある時にこれに反対することは、ちょうど
火に油を注いだように、ますますその怒りをかき立てるものである。しかし暴
徒の熱がやゝ冷めはじめた頃合には、ほんの短い慎重な言葉が彼らの平静を取
りもどすことが多い。このことをよく知っていた市の権威者たちは最初の中は
何の干渉をもしなかった。しかし今長時間つづいた絶叫が彼らの力をすっかり
使い果してしまった頃、次の時宜を得た慎重に仕組まれた演説が彼らに向かっ
てなされた。
19:35 そ こ で 、 町の 書記 官が 群衆 をな だ めて 言っ た 。 「 エ フェ ソの 諸 君、 エ フェ
ソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であるこ
とを、知らない者はないのだ。
19:36 これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なこ
とをしてはならない。
19:37 諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を
冒涜したのでもない。
19:38 デ メ トリオ と仲間 の職人 が 、 だれ かを訴 え出 た いの なら 、決め られ た日 に
法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。
19:39 それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべき
である。
19:40 本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この
無 秩序 な集 会 のこ と で、 何一つ 弁解す る 理由 はな いからだ 。 」こ う 言っ て、書記官
は集会を解散させた。
これは明かに、昂奮した群衆を扱うのになれた人の演説である。町の書記役
はこの特殊才能のために司から選ばれてこの役に当ったということが想像され
る。エペソの人たちのアルテミス礼拝に対する熱心及び神像が天から降った事
実は何人も知る所であるという彼の断言は、公然と群衆の肩をもつ事であり、
- 337 -
またこれらの事実は誰も疑問をさしはさむ余地はないから、一人や二人反対者
があっても静かにせよという言葉は、群衆の平静をとりもどそうとする彼の中
心論点であった。
次に彼は騒擾の原因に進んで、まるで熟練した弁護士のように、弟子たちに
対する実際の非難であった手にて作れる像が神であることを否定したという事
実を無視して、この人たちは宮の物を盗む者でも女神を冒涜する者でもないと
宣言した。そしてこの疑をはらしたことは『大方はその何のために集まりたる
かを知ら』ぬ群衆にとっては、被告の完全な無罪宣言と見えた。それから、次
に自分たちの私事のために群衆をわずらわした者共に対しては、正当な要求は
総督の裁判においてせよと命じた。これは民衆の感情を紙細工人に対して反対
の気持へと導き、自分の商売の利益のために隣人を道具にする不らちな連中を
憎ませるのに充分だった。最後に、この会合の非合法性に言及し、この騒擾の
正当な利益を説明することが出来ないならば、ロマの権威筋から全市に対して
罰金が課せられるかもしれないという危険をほのめかして、すべての財産家に、
そんなことになっては大変だという心配をおこさせた。この集合をまるで事務
を全部終えた集合のような形で、また議事延期の動議が採択されたような形で
正式に解散させたのは、書記の最後の巧妙な計略であって、おかげで民衆も全
く静粛に町へ退散して行った。町の権威者たちは、これほど狂暴な群衆をやす
やすと鎮圧出来たことについて、自分たちとこの書記役を祝し、一方弟子たち
はこのように容易に危険を免かれたことを神に感謝した。おそらく生命はない
ものと諦めていたにちがいないガイオとアリスタルコも助かり、その後長く生
きて主の御業のために働き、苦難に耐えて戦った ① 。
①こ の 二 人 は い ず れ も 後 に パ ウ ロ と 共 に コ リ ン ト よ り エ ル サ レ ム に 旅 行 し(20:3,4)、
アリス タル コ は パ ウ ロ と 一 緒に 囚 人 と して エ ル サ レ ム か ら ロ マ へ お く ら れ た (27:1,2。
コロサイ4:10)。
8.パウロ再びマケドニヤとギリシヤを訪れる(20:1-6)
20:1
この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げ
てからマケドニア州へと出発した。
- 338 -
こうしてパウロの長いエペソ滞在は終った。ほんの数週間前まで彼に向って
開いていた『活動のために大なる門』は俄かに閉され、彼が反抗して五旬節ま
でエペソに滞在しようと決心していたその相手の敵、『多くの逆らう者』(Ⅰコ
リ ント 16:8,9)は今 や彼を 圧倒せんと した。彼は既にこの町 とこの地方にかな
りの働きをなしとげていたが、久しい間続いて来た偶像崇拝を守ろうとする恐
ろしい反動の力は、今や彼の長い熱心な働きの結果を水泡に帰しようとして襲
いかゝって来た。彼が三年という年月の間涙をながして、公けにも又家々をま
わ って 教 え 訓 戒 し た 弟 子 たち が 最 後 の 別 れ を 惜 んで 彼 の ま わ り に 集 って 来 た
時、そして彼が今 この人たちを苦難の大火炉の中に残して去って行こうとする
時、いかなる言葉もこの悲痛な訣別の気持を表すことは出来なかったろう。彼
がかつて鞭と牢獄によって迎えられたエーゲ海の向う岸に面を向けた時、彼の
背後はすべてが暗黒であり、彼の前途はすべてがふさがった苦難の道であった。
彼がトロアスにつくまで、私たちは彼の感情の表現を少しも見ることが出来な
い。このトロアスで彼はマケドニヤ行きの船に乗る筈であり、またこゝで彼は
コリントからの報せを持って来るテトスに会うつもりであった。この点で彼自
身の言葉は彼の心の奥に秘められた悲しみをもらしている。
彼はコリント人に対して書いた『我キリストの福音のためにトロアスに到り、
主われに門を開き給ひたれど、わが兄弟テトスに逢はぬによりて心に平安を得
ず、 か し こ の者 に別 れ を 告げ てマケ ドニヤ に 往 けり』(Ⅱコリント 2:12,13)。
私たちは既に何度も彼と共に絶望的なシーンに出くわした、しかもなおこれか
らも一層多くの絶望的シーンを目撃しなければならぬであろう。さすがにこの
時だけはパウロの心もすっかり沈んでしまって、主の開き給うた折角の門の中
へも入って福音を説くことの出来ない状態であった。彼は耐え切れぬ程の悲し
みの重量が、テトスのやさしい同情によって、またコリントの乱れた教会から
の或はよきニュースによって軽減されるようと望んでいた 。しかし絶望のはげ
しい苦痛は彼を圧しつぶそうとするこの重量に最後の重みを加えた。そして彼
は涙に目を曇らせつゝテトスの来る方向に向って突進した。耐えに耐え抜いて
来た強い心も、一たび圧し沈められてしまうと容易にいつもの浮力を取りもど
すことは出来ない。海がエペソと彼とをへだてゝしまった後ですら、ピリピの
愛する弟子たちの中に再び至った後ですら彼は『マケドニヤに到りしとき、我
らの身はなほ聊かも平安を得ずして、様々の患難に遭ひ、外には分争、内には
恐 懼 あ り き』 (Ⅱ コ リ ン ト 7:5)と 告 白 しな いで は いら れ な かっ た 。 が 遂に 長い
間待ち こがれていた テトス が、 コリントからのよきニュースをた ずさえて彼に
会った。こうして、その苦難の中にある僕を決して忘れ給わない主は、たえ切
れぬ重荷にあえぐパウロの心を重荷から解放し、彼のコリント人への第二の書簡
- 339 -
の語調を変えさせて『然れど哀なる者を慰むる神は、テトスの来るによりて我
らを慰め給へり。唯その来るに因りてのみならず、彼が汝らによりて得たる慰
安をもて慰め給へり。即ち汝らの我を慕ふこと、歎くこと、我に対して熱心な
る こ と を 我 ら に 告ぐ る に よ り て 、我 ます ます 喜 べり 』(同6,7節 )と 言 わせ 給う
たのであった。またこのことは、彼がこのように苦しみ歎いたのは彼自身のこ
とについてではなくて、福音における彼の子供たちのためであったことを示し
ている。テトスは彼にその前の書の良い効果を知らせた。教会の大多数の人た
ちが彼らの悪い行いについて悔改たこと、彼らが親族相姦を行う人を交わりか
ら除名したこと(2:5-11)、また彼らがユダヤにいる貧しい聖徒への施済という
点で、他の人々よりもはるかに進んでよき準備をしていたこと(9:1,2)。しかし
ニュースは決 して全部が全部喜んでいゝようなものではなかった。テトスはま
た教会の中には何人かのパウロに対する個人的な敵がいて、彼の勢力を害おう
とし彼の使徒としての権威をおとそうとしている、という知らせをも持って来
た (10:1、 11:13-15)。 こう い つた 『 サタ ン の 役 者 たち 』 の 陰謀 を 挫 く 目的 の
ために、彼は熱心を再びとりもどした忠信な兄弟に勧め、また彼自身の数々の
苦難によってすべての兄弟たちにもう一度かつての感激 を思い出させようとし
て、彼はもう一つの書簡を書き、これをテトスと名前を書いていないもう二人
の兄 弟 と の 手に 托した のであ っ た。(8:16-20)。この 書簡の 書かれた時期 に関
する私たちの結論が正しいことは次の諸点から容易にわかる。第一、書簡の中
でパウロがごく最近アジヤからマケドニヤに来たと書いていること(1:8、7:5)。
そしてこのことは私たちが次に読む歴史のパラグラフの直前におこったことで
ある。第二、彼はこの手紙をちょうどマケドニヤからコリントに向って出発し
ようとしていた時に書いた(9:3,4。12:14。13:1)。そしてそんな事があったの
はコリントにまだ教会がなかった時を除いては、この時以外にはなく、それ以
後は彼がマケドニヤからコリントに向ったということは一度もない。従ってこ
の書が書かれたのは紀元五七年の夏であって、前書はその前の年の春にエペソ
で書かれたことになる。(緒論「使徒行伝の年代」参照。25ページ)。
2、3節
この時のマケドニヤ・ギリシヤ訪問における使徒のはたらきは、次
の短い記事の中に要約されている。
20:2
そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシア
に来て、
20:3
そ こ で 三 か 月 を 過ご し た 。 パ ウ ロ は 、 シ リ ア州 に 向 か って 船出 しよ う と して
いたと き、彼 に 対す る ユダヤ 人の 陰謀が あった ので 、 マケド ニ ア州を通って帰 るこ
とにした。
- 340 -
このあわたゞしくすぎ去った期間の中に幾つかの非常に重要な事件がおこった。
私たちはパウロの書簡からそれについての知識を得ることが出来る。
私たちはまずパウロがペテロ、ヨハネ、ヤコブに対してなした一つの約束が
あったことを思い出す。それは彼が異邦人の中に働きながらユダヤにある『貧
しき者を顧みんこと』であった(ガラテヤ2:6-10)。この約束を守ってパウロは
今、かつてガラテヤでしたように、同じ目的のためにマケドニヤとアカヤの教
会に広く寄附金を募って歩いていた(Ⅰコリント16:1,2。Ⅱコリント8:1-15)。
そして彼自身は、屡々無報酬で働いたあの慎重な考慮から、マケドニヤの諸教
会が後に懇願したのをも押し切って、自分がその献金を持って行くことを断っ
た (Ⅱ コ リ ン ト 8:4)。 最 初 彼 は こ の こ と に 関 連 して エル サ レムに 上 る と い う 気
持は全然なく、諸教会に対しても「汝らが選ぶところの人々に添書をあたへ、
汝らの恵む物をエルサレムに携へ行かしめん。もし我と往くべきならば、彼ら
は我と共に行くべし』と言っていた(Ⅰコリント16:3,4)。
しかしこの派遣の重要さは時と共に高まったため、遂に彼自ら出かけること
に決心したが、この仕事は結局、人々の興味を一つに集める程の重大なものと
なった。
彼にこのような決心の変化をもたらした事情は、教会内においてますますは
げしくなるユダヤ人と異邦人の離間であった。すでに見たように使徒たちの布
令(15章)は、論争の起ったアンテオケの教会に大きな慰めをもたらし、またこ
の書 の到 る所どこで も役に立った(15:31、16:4,5)。しかし 教会をユダヤ化せ
んとする教師たちは再びこの論争をむし返し、布令を無視しようとしていた。
そして彼らの分争をおこそうとする努力は、遂に教会の中に相当広範囲にわた
るこれら二階級の不和を生じさせるまでに至っていた。ガラテヤの教会は既に
彼らの感化を受けてパウロからはなれてしまった。かつてはパウロのためには
自分たちの眼を抉り出して与えようとまで思ったその人たちが、今は速くも再
び律法の軛の下に帰ろうとしていた(ガラテヤ1:6、4:15-20)。また既に福音の
種がまかれた地域でも最も西の果にあるロマの教会も、同じようにこの論争に
よってかきまわされ、ユダヤ人たちは、義とされることは律法のわざによるこ
と、 食物 に関する区域や聖日に 関する規 則 を 教 会 内 に 持 ち 込 も う と して い た
(ロマ4,5,14章)。このような状態は、パウロの心を言い表し難い心配でみたし、
危険がその身に迫っていたにもかゝわらず、全力をつくしてこれを避けようと
つとめた。
- 341 -
既にユダヤの貧しい人たちのために異邦人教会の中に募金運動をしながら、
この親切な愛の行いによってこそ離れている二つのものを一つに結び得ること
を知っていたパウロは、ま た 別 な 見 地 か ら も こ の 運 動 を 強 力 に 推 し 進 め た 。
それはコリント人に対する次の訴えの中にあらわれている。
『この施済の務は、
たゞに聖徒の窮乏を補ふのみならず、充ち溢れて神に対する感謝を多からしむ。
即ち彼らはこの務を証拠として、汝らがキリストの福音に対する言明に順ふこ
とゝ、彼らにも凡ての人に吝みなく施すことゝに就きて、神に栄光を帰し、か
つ神の汝らに賜ひし優れたる恩恵により、汝らを慕ひて汝らのために祈らん』
(Ⅱコ リント 9:12-14)。この 事業 の結果が 絶対間違いないという彼の確信 の大
きかったことは、まるでもう既にこの事業が完成されたかのように--まるで
ユダヤ人が既に異邦人の親切な慮かりについて多くの感謝と祈りを捧げている
かのような口ぶりで語っている程である。
異邦人兄弟たちの慈善的行為をはげましている間、パウロは大体上のような
考えを持ってした。しかし施済の募金がすっかり完成されて、いざ彼自身がそ
の金をもってコリントからエルサレムに出発しようという時、彼はパレスタイ
ン に い る ユ ダ ヤ 人 たち が 或 は こ の 贈 物 を 受 容 れ な い か も し れ な い と い う こ と
を、またその拒絶が彼が今までふさごうふさごうとして来た両者間の溝を却っ
て大きくしてしまうのではないか、ということを恐れはじめた。私たちはこの
ことを、彼がロマにいる兄弟たちに向って、願わくばこの不幸がさけられるよ
う我と共に祈れ、と悲痛な気持で懇請していることから知る。彼は言う『兄弟
よ、我らの主イエス・キリストにより、また御霊の愛によりて汝らに勧む、な
んぢらの祈のうちに、我とともに力を尽して我がために神に祈れ。これユダヤ
におる従はぬ者の中より我が救はれ、又エルサレムに対するわが務の聖徒の心
に適ひ、かつ神の御意により、歓喜をもて汝等にいたり、共に安んぜん為なり
『(ロマ16:30-32)。もし彼が遠隔の地ロマの教会の祈りをこのように熱心に求
めたのならば、まして彼がこの事業に直接参加したアカヤ・マケドニヤの教会
の祈りをどれ程熱心に求めたかは想像出来る。こゝに一人の人の姿がある。彼
は彼の兄弟のうち大部分の人々から明かに憎まれているとは言わないまでも、
猜疑の目で見られている。一方彼は自分と同じ非難を受けている他の側の人か
らは信任を受けている。のみならず彼らを好まない側の人たちの一時的窮乏を
助けるための自己犠牲的な寄附金を托されている。しかも彼らを好まない人た
ちの偏見が恐らくは折角の贈物を受け容れないのではないかという恐れを彼は
持っている。この、普通の人ならばこの仕事を投げ出してしまうような恐れを
持ちながら、彼はこの施済をした人々に向って、彼らの贈物が拒絶されないよ
うに自分と一つになって祈ってくれと懇願するのである。これほど崇高な私利
- 342 -
をはなれた慈善が歴史上にまたとあるであろうか。後に見るように、この事業
の遂行もまた最初のこの寛大さをそのまま実行したものであった。さてこの事
について更に考を進める前に、私たちはしばらくこれと関係のある或る事実に
注目しなければならない。
この大きな募金を行ったと同じ高貴な目的を以て、パウロはコリントにいた
三ヶ月の間にガラテヤ人への書及びロマ人への書を書いた。これらの書の書か
れた時期については、私たちは既にこの二書が同じ頃に書かれたものであると
仮定した。この両書簡が同じこの時期に書かれたという最も確定的な証拠は簡
単に次のように言える。ロマ人への書の中でパウロは明かに彼がマケドニヤ及
びアカヤの教会から集めた寄附金をもってエルサレムに出発しようとしている
ことをのべている(ロマ15:25,26)。こういった事情はこの時のコリント滞在の
終にだけ当はまるものである。のみならずこの書が書かれた時コリントの住人
ガイオは 彼の家主であっ たし(16:23、参照 Ⅰコリン ト 1:14)、またコリントの
外港ケ ンクレ ヤのフィベはこのロマ書を携えて行った人であった(16:1)。次に
ガラテヤ書については、この書はパウロの第一回ガラテヤ訪問のことにふれ、
彼が既にガラテヤを二回訪れていたことを暗に示している。彼の言はこうであ
る、
『わがはじめ汝らに福音を伝へしは、肉体の弱かりし故なるを汝らは知る』
(4:13)。そうとするならばそれはこの第二回訪問の後に書かれたものであり、
また他の個所の言葉はこの訪問の後、さほど時の経っていなかったことを示し
て いる 。 彼 は言 う、『 我は 汝ら が斯くも 速かにキリストの恩恵 をもて召し給ひ
し 者 よ り 離 れて 、 異 な る 福 音 に 移り ゆ く を怪 し む 』 (1:6)。 と ころで コ リン ト
にいた時彼はガラテヤを離れてから三年とそこそこであった。そして三年とい
う期間はこれらの教会の中に今おこっているような感情と信仰の大変化がおこ
るには、あまりにも速かではある。最後にこの書の主題とロマ書のそれとが緊
密に一致していること、即ちユダヤ化主義者によって宣べ伝された律法の行為
によって義とせられるという思想に対して、何れも信仰によって義とせられる
という教義を主張していることは、両者が大体同じ事情の下で書かれたことを
示している。ロマ書の中でパウロは彼のエルサレムの出発が間近に迫っている
ことを言っているから、恐らくガラテヤ書の方がそれより少し前に書かれたも
のであろう。どちらの書簡の中でも、パウロは激しい議論と権威とを以てユダ
ヤ化主義者たちの破壊的教義に反対すると同時に、又彼らの好意を再び自分に
対して、また彼が生涯をそのために捧げた彼ら異邦人に対してとりもどそうと、
崇高な自己犠牲的努力を払っている。
こうして二通の書簡を発送し終ったパウロは、各地の教会からの使者たちを
自分のまわりに集めて、海路シリヤに向って出発しようとしていた。シリヤへ
- 343 -
の海路は陸路を通るよりもはるかにはやい近道であったけれども、ちょうどこ
の時、上に引用した聖句からわかるように、彼は自分に対してユダヤ人の或る
陰謀がめぐらされているのを知ってコース を変更した。この陰謀とはおそらく
パ ウ ロ の 一 行 が エ ル サ レム へ の 大 金 を 携 えて い る こ と を 知 っ た ユ ダ ヤ 人 たち
が、コリント・ケンクレヤ間の道路をおびやかす追いはぎ共に密告して、途中
で一行を待伏させ一行から金を奪わせようとしたのであろう。行路の変更によ
ってケンクレヤへの道は避けられ、またそこにひそむ盗賊を待ちぼうけさせる
ことが出来た。こ う して 予 定 し た よ り も 長 い 旅 行 が 必 要 と な っ た 。けれども
パウロはもし海路をとっていたならば再び訪れることの出来なかった諸教会を
次々と通って行くことが出来た。
4、5節
20:4
同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコ
とセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモ
であった。
20:5
この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていた。
こ の 七 人 の 兄 弟 たちは パ ウ ロ の 指 図 に よって 各 教 会が 選 出 し た使 者 たち(Ⅰ
コ リン ト 16:3)であ り、 共 に寄附金 をエルサレム まで持って行く任務 をおびて
いた。当時は銀行も紙幣もなかったから、金銭は銀貨のまゝで使者が身につけ
て持って行かねばならなかった。そして盗賊の鋭い眼でそれを看破られぬよう
にするためには、誰も人の目につく程大かさの金をもつことは出来なかった。
ソパ テ ロ(ソシパ テ ロの略 )はパウロの親戚、 またベレヤにお ける彼の改宗者の
一人であり、ロマの教会に対する挨拶の中でもパウロと一緒に名を連ねている
(ロ マ16:21)。 アリス タ ル コ は 明か にエペ ソで暴 徒 に捕えら れた マケドニヤ人
ア リスタ ル コ (19:29)と 同一 人 物である。 彼はあの時難 をのがれて 故郷テサロ
ニケに帰っていた。セクンド(Secundus=second=第二)はおそらく父の第二
子であ ったためこう名づけられた のであろう。テル テ オ (Tertius)や ク ワ ル ト
(Quartus)も同じように夫々第三子、第四子というわけである(ロマ16:22,23)。
この三人が全部パウロと一緒にコリントにいたということから見て、彼らが兄
弟であったということも考えられないことはない。デルベ人ガイオは勿論銀細
工 人 の 暴 動 で ア リス タ ル コ と 一 緒 に と ら えら れ た マ ケ ドニヤ 人 ガイ オ で は な
い。こゝで彼が故郷を遠く西にはなれたコリントにいたということは、彼がパ
ウロの仕事に特に興味をもって故郷からはるばるパウロに従って来ていたこと
を暗 示 す る 。 テキ コ(幸運 者 )と トロピ モ (養子 )はこ ゝでパ ウロ の 一行 に 始 めて
加 わ る 新 し い 名 で あ る 。 彼らがアジヤ出身であることは、疑もなく彼らが パウ ロ
- 344 -
がエぺソで伝道中主に帰し、そしてエペソからギリシヤまで同行して来ていた
ことを示す。こゝでルカの『我ら』がまた現れる。即ちルカもまたピリピで一
行に加わったのである。第一回の旅行でこの代名詞が消えてなくなったのも丁
度この地であるから、ルカは六ないし七年前パウロとシラスがこの地を離れた
時以来ピリピに留っていたということが推測される。このルカの不在中、使徒
行伝の記事は多分に短縮されて駆け足で進んでいる。けれどもこれから後の部
分の記事はずっと詳細になっていることを、私たちは発見するであろう。
6節
もしパウロのマケドニヤを通る目的が単に安全のためというだけであっ
たならば、彼はわざわざ本道からそれて少くとも一日はかゝるピリピの町を訪
れるようなことはしなかったろう。しかし次の節で私たちは彼がこの町に居り、
トロアスに向って出発しようとしているのを見る。
20:6
わたした ちは、除酵 祭の後フィリピから 船出し、五日で トロアス に来て彼ら
と落ち合い、七日間そこに滞在した。
他の兄弟たちは先立ち行きてトロアスに向ったとあるが、おそらくテサロニ
ケかネアポリスあたりから北方ピリピへ巡回せずにすぐ船に乗ったものであろ
う。彼らが先に行った目的は一日も早く自分たちが大金を持っていることが知
られている国を出たかったのであろう。一方パウロはその心配をさほどに感じ
なかったから、ピリピの教会をほんのしばらく訪問して、彼と共にエルサレム
に上 ろう としていた この 教会の 偉大な教師 (ルカ)を迎えに行 った。たまたま過
越の晩餐につづく七日間の除酵節は、ちょうど彼とルカがトロアスに出帆した
日に終ったから、私たちはパウロがエペソを発って以来既に丸一年近く経って
いたことを知ることが出来る。なぜならパウロのエペソ出発は彼が予期したよ
りも、即ち前年の五旬節よりも早くなったからである(Ⅰコリント16:8)。
ピリピからトロアスまでの航海が五日かゝったということは、前にトロアス
からピリピまで二日で着いている(16:11,12)ことから考えて、逆風に見舞われ
たことを暗示する。
パウロがこの前トロアスに来た時には、大なる働きの門が主によって開かれ
たが、彼はその門に入らずにこの町を素通りした(Ⅱコリント2:12)。今遂にそ
の時出来なかった仕事がなされた。なぜならば七人の兄弟たちは五日以上パウ
ロたちに先立っており、また一行全体はこゝに七日間滞留したからである。こ
のような九人の人たちが、このような町に二週間留っていれば相当の働きがな
されたに違いない。
- 345 -
9.トロアスにおける主の日の集会(7-22)
7節
トロアス滞在の七日間は主の日に終った。
20:7
週 の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日
出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。
この文章は週の第一日は弟子たちがパンを擘く日であったこと、週の第一日
の集会の第一目的はこ礼典を守ることにあったことを示す。パウロがこの場合
に説教したのはたまたまそうなったのであった。最初主の晩餐がキリストによ
って定められた時には、それをどの位屡々行うべきものであるかについては何
も言 わ な か っ た。 主 の言 葉は 『飲 むご と に 我 が記 念と して 之 を 行 へ 』 (Ⅰ コリ
ント11:25)である。もしこの言葉に何らそれ以上附加えて言われていなかった
ならば、信者のすべての会衆はこの礼典を何回守るかについてその判断に委ね
られたであろう。しかし使徒たちはその後、この問題以外の、主が自ら不確定
の中にお残しになった教えについてと同じく、この問題についても聖霊の導き
を与えられたから、彼らの先例は私たちのガイドとなってくれる。この問題に
ついてこゝに述べられているのはほんのわずかな言葉である。しかしそのわず
かな言葉こそ、この礼典を毎週守るのが正しいことを決定的に証明するのである。
この個所で聖餐は主の日の集りの主目的であったとして書かれている。同じ思
想がコリント人に対する非難の言葉の中にも見られる。曰く『なんぢら一処に
集まるとき、主の晩餐を食すること能はず。食する時おのおの人に先だちて己
の晩餐を食するにより』(Ⅰコリント11:20,21)。これが主の日の集会の目的で
あったならば、彼らが主の日毎にパンを擘いたことは、彼らが主の日毎に集っ
た事実と同じ位確実である。この証拠は甚だ小さなものではあるけれども、第
二世紀及びその後長く続いた教会の世界的習慣に照し合せて考える時、このこ
とが使徒の習慣であったことを聖書学者全体の同意を得させる程充分に裏書す
る証 拠 で ある 。 そ して使 徒 たちの 習 慣 (実行 し た こ と practice)が 聖 霊の 導き
によったものである以上、それは明かに主の御意であったことを示すから、私
たちも使徒たちと同じように実行しなければならない。したがってこの習慣を
否定するためにこね上げたあらゆる巧妙な言訳はすべて無効である。私たちを
何ものにもまして主の苦難に近づけるものは、実にこの礼典である。そしても
し私たちが、主が私たちを義とするために復活された事実を毎週記念するなら
ば、どうして私たちは主が私たちの罪のために死に給うた事実を同じように毎
週記念してならない理由があろうか?
- 346 -
パウロのこの時の説教が極端に長かったということは、彼が『明日出で立た
んと』していたことから説明される。更にまた私たちは彼がこれらの兄弟の顔
を二度と見ることは出来まいと考 えていた(38)ことを知る。したがって彼は今
彼らと一緒にいる間に、出来る限りの教訓と警告とを与えておきたかったのである。
8-10節
長い厳粛な説教は突然聴衆に大きな驚きと混乱をよびおこした真
夜中の一事件によって破られた。
20:8
わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。
20:9
エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続い
たので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起 こしてみる
と、もう死んでいた。
20:10
パ ウ ロ は 降り て 行 き 、 彼の 上 に か が み 込 み 、 抱 き か か え て 言っ た 。 「 騒 ぐ
な。まだ生きている。」
この文章から集会は夜行われたこと、また建物の三階で行われたことがわか
る。三階というのは家賃の安かったことを思わせるし、また道路上でペチャペ
チャと大声でわけのわからぬことを言って礼拝する異教徒たちに邪魔されぬた
めでもあったろう。もしメンバーのある者が奴隷であったならば、この時間は
彼らにとって最も都合のよい自由な時間であったろう。おそらくパウロの話が
聞けるというので部屋は超満員、そのためにこのユテコという青年も年長者た
ちに席をゆずるため窓に腰をかけていたものと思われる。彼は多分労働者であ
ったろう。睡眠不足には慣れていない。勿論深い興味をもって聞いてはいたが、
ついに眼をあけていられなくなった。説教を聞きながら眠ってしまうことは必
ずしも罪とはいえない。彼らがユテコを抱き起した時ユテコはすでに死んでい
た。しかしパウロが彼を抱いた時、彼の生命は内に生じ、墜落によって消され
た生命は再び呼びもどされた。これはヤイロの娘の場合と同じような復活の一
例である(ルカ8:49-55)。
11節 ユテコの墜落によっておこった驚き、彼を復活させるという驚くべき
神の力の発揮、そしてこれらすべてがおこった真夜中の静けさは、既に会衆の
心を打っていた厳粛さに一層の厳粛さを加えた。彼らはもはや眠ることも考え
られず集会はなおもつづけて行われた。彼らは三階にかえった。そこには燈火
があかあかと輝き、主の晩餐のパンと杯はまだ配られずに準備されてあった。
長い熱心な説教にもかゝわらずパウロは疲れも見せなかった。
20:11 そ して 、 ま た 上に 行 っ て、 パ ン を裂 いて 食 べ 、 夜明 けま で 長い 間話 し 続け
てから出発した。
- 347 -
こうして死と復活のために中断された真夜中の集会は、更によき復活の希望
をもたらす主の死を記念して、その夜は徹夜の説教と会話のために費された。
夜明けになって集会が終ると会衆は口々にやさしい別れの言葉をかけ合った。
それは信者の間にいつもかわされる、別離の苦しみと再び別れることのない再
会の喜びとのもつれあったやさしい別れの言葉であった。それはこの場に居合
せた人々にとっては決して忘れることの出来ない一夜であり、そしてまたそれ
は永遠の御国において多くの会話の話題となるであろう。
さてこの別離が日曜日の朝であったものか、月曜日の朝であったものかを考
えてみることは興味ある問題である。兄弟たちはその夜早く夕方頃から集った
が、それは『一週の首の日』であった。私たちはユダヤ人にせよ異邦人にせよ
この時すでに一日の時間を真夜中から真夜中にかけて計算する方法を採用して
いたというような証拠を一つも持 っていない。従って私たちは今問題になって
いる夜が当時日曜日と考えられていた一日に属すること、言い換えれば今日私
たちの言う土曜日の夜であったと考えなければならない。それは今日でもユダ
ヤ人たちが守っているユダヤ教の安息日にすぐつづく夜であり、またこの事件
から、トロアスの弟子たちは毎週この夜にパンを擘くために集まる習慣であっ
たことがわかる。彼らの計算法によれば安息日の日没以後の夜の時間はすべて
主の日であり、また彼らがパンをさいた真夜中以後の時間は私たちの計算法で
も主の日である。
12節
20:12
話は再びユテコのことにもどり、ルカは次のようにのべる。
人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
これは彼らが彼を集会から彼の家まで連れて行ったという意味である。これ
は朝パウロがこの人たちと別れた後、即ちユテコが窓から落ちてから四、五時
間後のことである。彼の死体をおくり返して恐らくはその死について非難を受
けることと一時は予期した彼らが、今彼を生きて家までおくり返し同時にその
友人や隣人たちにこのような物語を語ることが出来たのは、さぞや少なからぬ
慰めであったにちがいない。
- 348 -
10.トロアスからミレトまでの航海(13-16)
13節
トロアスの兄弟たちは夫々自分の家に帰り、一方パウロとその一行は
長い旅路の先を急いだ。
20:13
さ て 、 わ た した ち は 先 に 船 に 乗 り 込 み 、ア ソ ス に 向 け て船 出し た 。 パ ウ ロ
をそ こか ら乗船させる 予定であった。こ れは、パウ ロ自身が徒歩で 旅行する つもり
で、そう指示しておいたからである。
トロアスとアソスはレクトウム岬につきる半島の丁度反対側にある。両市の
直線 距 離は 約32kmであ るが、海岸線 をまわ ると約64kmある。船が海岸線を
ま わ って 航 行 す る 間 に パ ウ ロ が 歩 いて ア ソ ス ま で 行 く こ と は た や す い 事 だ っ
た。し かし説教と会話に夜を徹 した暁、パウロは何を好んでその上に32kmも
歩くという無理なことをしたのだろうか?彼は当然、船のハンモックの方をえ
らんだろうと誰でも想像出来るであろう。この理由を説明出来るものはただ一
つ、精神も肉体も休むことを許さない彼の昂奮状態である。しかも彼の行手に
るいせつ
は ど こ の 町 に お いて も 彼 を 待 ち 受 ける 縲 紲 と 牢 獄 の警 告 が あっ た (23)。彼 は
至る所の教会にある危険な状態のために心をなやました。彼は途中各地の教会
に最後の別れの言葉を与える度毎にその心を暗くされた。そして彼は孤独の中
にのみ見出し得る瞑想と祈りの機会を切に得たいと望んだのであった。私たち
は使徒パウロの生涯の中で、特に私たちの心をかき立てるような色々な光景、
彼が神託的権威を以て神の意志を伝える姿、またその御言葉をそれにつゞく人々
をふるえ上らせるような徴と不思議によって確証する華々しい姿を見る時に、
ともすれば使徒パウロに対するあまりの尊敬のために、人間パウロに対する同
情を失いがちである。しかし私たちが彼をこの時のような環境の中に、徹夜の
説教に疲れ果て、霊においては同情ある兄弟たちとの交わりの中にかえって重
荷を負い、しかもそれだけの心身の疲労をにないながら、ともすれば自分をお
しつぶしそうになる暗い気持をいやが上にも満喫すべく、殆ど一日はかゝる距
離をたゞ一人徒歩で歩いて行く彼の姿を見る時、私たちは自分たちの苦しみの
中に私たちの心を彼の心と結ぶ人間的な絆のあることを思い出させられるので
ある。主の葡萄園の熱心な働き人たるものの一人として、このような憂慮と絶
望の重荷にひしがれそうになりながら、耐えられぬ悲哀を沈黙と孤独の中にと
かすことによって重荷から救われるという経験を持たぬ者があるであろうか。
そのような時に私たちがパウロと一緒にこのトロアスからアソスへの道を歩い
てみることは大きな慰めであり、私たちよりも更に偉大な更に立派な人々が私
たち以上の苦しみに耐えたのだということを思い出させてくれるであろう。
- 349 -
14-16節
20:14
船と徒歩旅行者はさほど時間の隔りもなくアソスに着いた。
アソ ス でパ ウロ と落ち 合 った の で 、わ たしたち は彼を船に 乗 せてミテ ィレ
ネに着いた。
20:15
翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港
し、更にその翌日にはミレトスに到着した。
20:16
パウ ロ は、アジ ア州 で 時 を費や さないよ うに 、エフェソ には寄らな いで航
海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていた
かったので、旅を急いだのである。
船は地図を一見すればわかるように、エーゲ海の東岸に沿って散在する島々
の間を縫って進んだ。そしてこの航海のこゝに記されている部分は四日かゝっ
た。第一日目の夜、彼らはミテレネの港に碇を投じた。この町は当時レスボス
と呼ばれ今日、ミテレネとよばれる島の北岸にある美しい町であって、今日で
もミテレネ市は商業の盛んな美しい町である。第二日目の夜の碇泊地は『キヨ
スの彼方』であって入港はしていない。第三日目に彼らはエペソに導く湾の口
を通 って 『 サモ スに立寄 った 』。多分安全 な碇泊地という意味 の外に事務的 な
用件もあったのであろう。そして第四日目の短い航海は彼らを大陸岸の要港ミ
レトに着けた。ちょうど彼らがエペソを通りすぎ、このパウロの長い勤労と苦
難の場所からまだ程遠くない時に、ルカはこゝに書いている理由をあげなけれ
ばならないと感じた。もしもこの船がパウロの思い通りになるものであったな
ら ば 、彼 はミ レ ト で 過 した 時間(17,18)を 先にエペ ソで 過しても 、エル サレム
には遅れずに到着出来た筈である。しかし船は彼の意志などにかまわず自分の
針路を渉りつづけたから、パウロはエペソを訪れようとすればどうしてもキヨ
スから乗りかえてエペソに上陸し、その上すぐにあるかどうかもわからないエ
ペソからシリヤ行の便船を待つという冒険をしなければならなかった。彼が五
旬節までにエルサレムに着きたいと願った理由は、五旬節の祭にはパレスタイ
ンの国中あらゆる村々からの人々が都に集っているから、彼の同行者たちが携
えて来た施済を国中の全部の教会を廻らずに分配することが出来る、というこ
とを知っていたからであった。さて私たちは後に彼が遂に祭に間に合って都に
到着したことを知るであろう。
11.エペソの教会の長老たちとの会見(17-38)
17節
パウロの船はミレトの港で少くとも二、三日碇泊しなければならなか
ったので、彼はこれを利用してもう一度エペソの兄弟たちと連絡を取りたいと
いう気持を満足させた。
- 350 -
20:17
パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
ミレ トからエペソ までの距離は約48kmであ った。彼は出かけようと思えば
長老たちを呼寄せなくても自分でエぺソまで出かけて行けたろう。しかし船の
出帆の時間が何時変るかもわからぬという状態はこれを許さなかった。もしも
彼がこの船に乗り遅れるならば、彼は祭に参加するという目的を達せられない
かもしれない。一方もし長老たちが彼の出航後に到着したとしても、それは彼
らの方で短い旅行の不便を忍ベばすむことである。
18-21節
パウロがこの時エペソの長老たちとなした会見は、彼がこの悲
痛な旅行の途中いろいろな弟子たちの集りとなした会見の型と見てよいであろ
う。彼はまず彼らの町における彼のかつての働きをふりかえることによって、
兄弟たちへの話をはじめる。
20:18
長 老 た ち が 集 ま っ て 来 た と き 、 パ ウ ロ は こ う 話 した 。 「 ア ジ ア 州 に 来 た 最
初の 日 以来 、 わ た し が あ な た が た と 共 に どの よ う に 過 ご し て き た か は 、 よ く ご 存 じ
です。
20:19
すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユ
ダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主に
お仕えしてきました。
20:20
役に 立 つ こ と は 一つ 残 ら ず 、 公 衆 の 面 前 で も 方々 の 家 で も 、 あ な た が た
に伝え、また教えてきました。
20:21
神に対 する 悔改 と、わたした ちの主イエ スに対する信仰とを、ユダヤ人 に
もギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
この長老たちはパウロがアジヤに足を踏み入れた最初の日から彼の生活のさ
まを知っていたことから見て、エペソにおけるパウロの伝道の働きの初穂であ
ったに違いない。彼が言っている謙遜の限りを尽し、涙を流したという彼らし
い性質のあらわれは、私たちが先に金細工人の暴動の中に見たあの大きな患難
が、決してエペソでの彼のこの種の経験の最初のものではなかったことを示し
ている。またユダヤ人の計略によって迫った患難という言葉も、彼のこの地で
の経験に私たちの知らない一つの新しい事実を示してくれる。ルカの記録の中
ではこのような計略が存在したということを示す事実は唯一つだけ見えるよう
である。即ち彼らが劇場の中で暴徒の前にアレキサンデルを推し出そうとした
試みである(19:33,34)。パウロがその生涯を通じて更に多くの苦難を異邦人か
らよりも同胞たるユダヤ人から受 け な け れ ば な ら な か っ た と い う こ と は 、パ
ウロにとって悲しい経験であった。
- 351 -
彼が益となることは何くれとなく憚らずして告げ、公然にても家々にても彼
らを教えたというこの言葉は、今日の説教者たちが深くかみしめて味わうべき
厳粛な言葉である。前者は現今の教会に甚だ多いような、決して面と向って罪
を非難しない、教会の腐敗に対してもほんの当りさわりのない言葉しか発し得
ない、そして自らの人気を集めるためにキュウキュウとしている日和見主義者
と対照してパウロの毅然たる姿を示してくれる。こういう人たちは何らかの方
法で自分をほめてくれる人だけしか世話をしない。彼らは自分の勢力をのばす
と い う こ と に あ ま り に も 忠 実 で あ って 、神に対する忠実を考える暇もない。
この言葉の後半はパウロを今日よくある説教者と対照させている。彼らはその
牧会において家から家へ廻って教えることを怠り、その怠慢のためにつまらぬ
口実を作り上げるか、そ う で な け れ ば 家 々 に 行 って 『 教 え る 』 た め 行 かず 、
ただ交際を楽しみ世間話に時を費やすという連中が多い。こういう人たちは一
人残らず、この真の伝道方法--家々における熱心な教えが講壇のそれと同等
であることを知らなければならない。
パウロがこゝで神に対して悔改、主イエス・キリストに対して信仰という順
序をとっているためにこの句に関する解釈は昔から非常に混乱し、ある人たち
はこのテキストを証拠にして罪人がキリストに改宗する場合には悔改は信仰に
先行するという立場を主張する。勿論パウロはイエス・キリストへの信仰を説
く前に神への悔改を説いた。そして彼の目的はキリストへの信仰に至る準備と
して神に対して悔改ることを教えたということも事実である。バプテスマのヨ
ハネは神への悔改を説くことによって人々の心をキリストのために準備した。
イエスも同じことを説いた。またパウロはアテネの異教徒たちに対する演説の
中で、まず彼らに真の神を示し、次にこの神を汚す行為である偶像崇拝から悔
改よと説き、それから彼らに復活せるイエスを示した(17:29-31)。この二つの
テー マ が この順序(悔改-信仰 )で 示されている理由 は決して 、人は悔改ない前
にキリストを信ずることが不可能だからではない。その理由は、もし彼らが既
に信じている神に対して悔改の気持をおこすように導かれているならば、キリ
ストの福音を聞くにも一層都合のよい心の準備が出来ており、キリストを信ず
る信仰に導かれやすいからである。一般に言うならば、もし私たちが神の与え
た一つの光に対して罪を犯したことを悔改るならば、神がこれから私たちに与
えるどのような新しい光をも受け入れる態勢が出来ている筈である。それに反
して、もし私たちが前者に関して悔改ない場合、私たちはおそらく後者を受入
れることも出来ないのが普通である。あらゆる時代あらゆる国を通じて、神に
ついては何らかの知識をもっているがキリストについては何も知らないという
罪人に信仰と悔改を説くに当っては、この方法が明らかに最上である。しかし
- 352 -
ながらキリスト教国に育って、伝統的に神に対する信仰とキリストに対する信
仰とは同じであると考え、自分たちの過去の罪はキリストに対する罪であると
いうことを知っている罪人たちに対しては、この方法は最上とは言い得ない。
いずれにせよこの方法は決して、普通この議論を持ち出す人たちが言うような
意味で悔改が信仰に先行するという考えを裏書きするものではない。なぜなら
こ の 考 えを つ き 進 め れ ば 人 間 は 神 を 信 じ る 前 に 神 に 対 して 悔 改 な け れ ば な ら
ず、キリストを信ずる前にキリストに対して悔改なければならないことになるか
らである。言うまでもなくこれは明かな不合理である。
22-27節
エペ ソ で の 働 き に つ いて 上 の よ う に 簡 単 に の べ 終 っ た パ ウ ロ
は、次に自分の将来に言及し、彼のこの旅行において彼の心におゝいかぶさる
暗い不安の原因を、長老たちに示そうとする。
20:22
そして今 、わたしは、 ”霊”に 促されてエル サレムに 行 きま す。 そ こで どん
なことがこの身に起こるか、何も分かりません。
20:23
た だ 、 投獄 と苦 難 とが わた しを待 ち 受 けている という こ とだ け は、聖霊が
どこの町でもはっきり告げてくださっています。
20:24
しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただい
た、 神 の恵 みの 福音 を力強 く証 しす る という 任務 を果た すこ とが できさえ すれば 、
この命すら決して惜しいとは思いません。
20:25
そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしに
は分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。
20:26
だ か ら 、 特 に 今日 は っ きり言い ま す 。 だ れの 血 に つ いても 、 わた し に は責
任がありません。
20:27
わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。
るいせつ
『心搦められて』という表現によってパウロは、エルサレムで彼を待つ縲 紲
をさしていう。彼のいう意味はまるでその縲紲がすでに自分をしばっているか
のように感じるというのである。彼は聖霊の預言が必ず成就するということを
確信していたから、それはすでに現実に今あるものと見えたのである。聖霊の
この証は明かに、彼が行く町々で会った預言者たちから与えられたものであろ
う。なぜなら、もし聖霊が直接彼に与えた証であったならば『いずれの町に』
も制限される筈はないからである。このことから使徒たちに与えられていた預
言的能力は使徒たち自身の将来を予見するためには用いられなかったことがわ
かる。それはちょうど使徒たちが癒しの能力を用いて自分の病気を治療しなか
ったのと同じことである。彼は次に『視よ、今我は知る、前に汝らの中を歴巡
りて御国を宣べ伝へし我が顔を、汝ら皆ふたたび見ざるべきを』と附言しているが、
- 353 -
このことから私たちは前に預言者を通じて彼にその将来のことを啓示した聖霊が、
今このことを直接彼に啓示したと解すべきではない。私たちはむしろこれを、
彼がこゝでこれらの預言に基き、また神の御意ならば残る生涯を新しい伝道地
においてすご したい (19:21。ロマ15:23,24)という決心に基いて、自分の確信
を 表 明 し た も の と 解 すべ き で あ る 。 し た が って テ モ テ 前 書 の 中 で(1:1-3)彼 が
後に再びエペソを訪れたことを知っても、この事実は決して私たちを驚かせる
ものではない。
演 説 の この 部分 の結 びの 言葉の中 で(26,27)、パウロ は彼 らに益となること
は何くれとなく忠実に教えつくしたことをあげ、これを以て彼が凡ての人の血
について責任がない証拠としている。
『我は凡ての人の血につきていさぎよし。
我は 憚 らずして神の 御意 をこ と ご とく汝らに告げしな り。』 いやし くも宗教的
教師たるものが、もし何らかの偏った、或は利己的な考えから、教えられる人
たちに神の全き勧告を欠けなく説くことを避けるならば、或意味において、彼
の怠 慢 の ために失われ た 人々の血は彼の 上に帰 せられる のであ る(参照 18:6、
エゼキエル3:16-21)。これは言うも恐しい大きな責任であって、決して看過し
てはならないことである。
28-35節
自分の過去と自分の未来とについて語り終えたパウロは、次に
長老たちとその教会の未来についてのべ、そして彼自身の模範を彼らに示すの
である。
20:28
ど う か 、あな た が た 自 身と群 れ全 体 とに 気 を配っ てくだ さい。 聖霊は 、神
が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あな
たがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。
20:29
わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来
て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。
20:30
また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようと
する者が現れます。
20:31
だから、わたしが三年間 、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教え
てきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
20:32
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉
は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継が
せることができるのです。
20:33
わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
20:34
ご 存 じ の と お り、 わ た し は こ の 手で 、 わた し自 身の 生活 の た め に も 、 共 に
いた人々のためにも働いたのです。
- 354 -
20:35
あ なた が た も こ の よ う に 働 いて弱い 者 を助 ける よ う に 、 ま た 、主 イ エス 御
自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、
わたしはいつも身をもって示してきました。」
こゝでパウロは、ルカが17節で長老と呼んでいる人たちを監督と呼んでいる。
即ちこの二つの称号は教会の同じ役員にあてはめて用いられており、使徒時代
の教会の監督たちは今日監督派の組織にあるような管区支配者としての監督で
はなく二つの教会(会衆)の役員たちであったことがわかる。英語の bishop と
い う 言 葉 は も と も と こ こ に 使 わ れて い る 原 語 ( ἐπισκόπος )か ら と っ た も の で
ある け れ ども、この 語は 原語の真の意味を忠実に 訳出しない 。なぜ なら現在
bishop と い う 語 に 普 通 附 さ れて い る 意 味 は
ἐπισκόπος
とはまるで違った
ものだからである。このギリシャ語に相当する正確な英語はキングジェームズ
訳(A.V.)にある通り(overseer)であって、改訳委員たちはこの訳語をそのまま
にして残すべきであった。これらの兄弟たちに彼らの大きな責任を一層つよく
印象づけるため、パ ウ ロ は 彼 ら が 聖 霊 に よって 立 て ら れて エペ ソ の 群 の 監 督
(overseer)とされたことを思い出させる。聖霊は彼らに霊的資格を与えてこの
務に適わしい者とすることによって、また教会が彼らを選び、使徒が任命する
という経過全体を導くことによって、彼らを立てゝ監督となした。彼らは第一
にみず から心することを 、第二に『すべての群』(訳者註=単数で 「群全体」)
に心 する ことを 、そして第三に教 会の 牧者となれ と勧 めら れた。英語に feed
と 訳 さ れて い る 語 (和 訳 「 牧 せ し め 」 )の 意 味 は 羊 を 飼 う こ と で あ る 。 即ち 第
一には 監督自身の 敬虔(神のごとき性質)が要求された。これがなくては誰の牧
会も価値がない。第二には教会の状態の中にどんな小さな出来事をも見のがさ
ない常に眼を醒している注意が要求された。そして第三には彼らが教会に対し
て、東洋の羊飼いが自分の羊に対してするあらゆる細心の世話をすることが要
求された。彼らはこの教会が神によって買われたこと、しかも神の御子という
人格において流された神御自身の血を以て買われたことを思い出させられ、神
が払い給うた価の故にあらゆる必要な犠牲を喜んで払わなければならぬことを
思い出させられた。彼らはまたパウロの予見した二つの危険に対して警告を受
けた。彼が『暴き狼』と呼んでいる『群を惜まぬ』外部よりの侵入者、そして
彼ら自身の内部からおこって、弟子たちを主から離して連れ去る党派主義者だ。
しかしもしこれらの危険から教会を守る手段がなければ、彼らに危険を警告す
ることは無意味である。それ故に彼らは『眼を醒し居れ』と命じられた。もし
も常に眼を醒しているならば彼らは迫って来る難問題の兆侯を速かに見ること
が出来ようし、またその問題の弱い中に攻撃することが出来る。外部から入っ
て来る教師たちに対し、また教会内部からおこる野心家に対して、眼を醒して
- 355 -
いないような教会の牧者は、文字通り狼が檻に入るまで、或は群が散り始める
まで眠っている羊飼いのようなものである。第二に彼らは彼がエペソ滞在中こ
のような問題について如何になしたかを思い出すように--そして彼らがそれ
にならうように--と命じられた。即ち彼は『夜も昼も休まず涙をもっておの
おのを訓戒した』のであった。このような警告によって、彼らは外部から問題
発生の最初の兆候を見たならばすぐに、委ねられた羊の群を危険から守るべき
ことを教えられた。彼は彼らにこの大きな責任を与えて去るに際して、彼らの
ために充分な勇気と励ましの唯一の源を指摘して、彼らを神と神の言に委ね、
神の言こそ彼らの徳を樹てるものであり、また彼らをすべての潔められたる者
と共に嗣業を受けさせ得るものであることを保証した。あたかもこの説教を結
ぶかのように見えるこの祈祷の後に、彼は更に一つの訓戒を附加えている。そ
して彼はこの訓戒を彼自身の模範と主イエスの自らお使いになった言葉によっ
て強めている。それは「神の貧しき者」を助けることである。この教えは彼ら
に、長老であるにもかゝわらず『弱き者を助ける』ために自らの手で労働する
ことを要求した。彼自身の模範は次の言葉の中に最も生き生きと、しかも私た
ち の心 を うつ 風 に措かれて いる。『 我は人の金銀・衣服 を貪 りし事なし。この
手は(手をあげなが ら)我が必要に供へ、また我と偕なる者に供へし ことを汝等
みづ か ら知 る。』また 主 イエスから引用 され た一文 『与ふるは 受くるよりも幸
福なり』は私たちの四福音書には記録されていないけれども、主の口からもら
された聖なる真理の宝玉の一片ともいうべきものである。
36-38節
語る者にとっても聞く者にとっても厳粛な、しかもやさしい、
心を打つこの訓戒の後には彼らはただ恩恵の御座にひれふす外はなかった。
20:36
このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
20:37
人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
20:38
特に 、自 分の 顔 をも う 二 度と 見 る こ とは ある ま いと パウ ロ が 言っ た の で 、
非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。
ルカはこの祈りの一語をも記録していない。私たちの祈りの中でも時として、
あまりにも感動に破られ、涙に妨げられるため、祈る人の心の中には聖なる祝
福をのこしながら、外部から見た場合に連続した言葉としては思い出せないよ
うな祈りがある。女や子供の涙は多くの場合浅い。しかしこの人たちのような
立派な大人が、長年の人生の苦難と危険に耐えてかためられた白髪の老人たち
が、まるで子供のようにオイオイと泣き、お互の頚を抱き合って泣きさけぶ時、
彼らの悲痛は筆舌につくし難い。世の人がこのような悲しみに打ちまかされる
時、 彼 の 心 は悲 しみ に沈みつ ゝもかえって一 層 か た く 冷 く な る も の で あ る 。
- 356 -
しかし信仰の人の悲しみは彼をやわらげ清める。その悲しみは悲しむ者同志を
一層近く結びつけ、また彼らを神に結びつける。そして彼らの祈によって潔め
られるのである。それは私たちが喜んでもう一度感じたい悲しみである、思い
出したい悲しみである。教会の歩む道には至る所このような光景がまかれてい
る。多くの巡礼者たちの道が一つの場所に会し、何日かの間、互に交って祈り
を共にし、讃美の歌を捧げ、勧告と涙とを共にするとき、その別離の時という
ものは屡々このミレト海岸の光景の再現である。互の胸の中に相争う悲しみと
愛と希望を物語る涙と胸のときめき、別れの握手、愛のこもった抱擁、神の祝
福を求める祈り、そして各々の魂がそれを行うにはあまりにも自己の弱さを感
ぜざるを得ない自分の務に向って再び去って行かなければならぬ悲哀--これ
らはすべて神のために苦しんで働く僕たちの誰もが知る所である。パウロがこ
れらの 兄弟たちと別れるに当って、た と え 自 分 の 前 途 に 又 彼 ら の 前 途 に 喜 ば
し い予期を抱いていたとしても別離は苦痛であったろう。しかし最後の別れの
苦痛に加えて、彼らには自分たちの不安な前途に関する暗い予想があった。そ
して一方彼を待ちうける何か分からぬ苦難の暗影があった。彼はすでに過去十
二ケ月の間、他のどの人間の上にふりかゝった運命よりも多い苦難をなめてい
た。彼は屡々獄につながれ、或時には死の縁に瀕したこともあった。ユダヤ人
たちからは四十に一つ足りぬ鞭を五回受けた。笞では既に三回打たれていた。
或時は石で打たれ死人だと思われて地べたに捨てられたこともあった。彼は既
に三回難船の経験をした。海上を一日一夜ただよったこともあった。何度もの
旅行では水により、強盗により、同国人により、また異教徒により危険にさら
された。町でも、荒野でも、また偽兄弟たちの中でも危険は彼を訪れた。彼は
疲労と苦痛と不眠になやまされた。彼は飢と渇きに耐え、衣服の不足のために
寒い思いもした。そして彼が今まで耐えて来たあらゆる苦しみ、そして今も耐
えている苦しみに比べて、諸教会に対する彼の心遣いはそれにもましての重荷
であった。同時に彼は肉体に棘を、彼を打つサタンの使を持っていた。彼はこ
のために難きそれが取り去られるよう、三度までも主に祈った。彼はガラテヤ
の兄弟たちに対して『今よりのち誰も我を煩すな、我はイエスの印を身に佩び
た るな り 』 と言 わざ るを得 なか った。(以上 Ⅱコリン ト11:21-28、12:7-10、
ガラテヤ6:17)大概の人なら言ったであろう、「私は既に充分苦しんだ。私の今
やっている仕事は結局成功するかどうか疑わしい。私自身もう一度獄に入れら
れて、予期せぬ苦しみを受けるかもしれない。だから私は今の場所に留ろう。
私を愛してくれる兄弟たちの中に居よう。そして私がやりかけたこの仕事を仲
間に 完 成 しても らおう。」 しか しその ような考えは一 つ として彼の 心に起こら
なかった。それでこそエペソの長老たちはこのような人と今別れるに当って、
涙を流し、無言で海岸に立って、彼の船の船影が遙か波間に見えなくなるまで
- 357 -
見送ったのは不思議ではない。やがて船の影がすっかり見えなくなると、彼ら
はこれから偉大な教師の助けなしに直面して行かなければならない苦難と危険
に向って淋しく帰って行くのであった。私たちはこれらの人たちと一緒にエペ
ソに帰ることも、また途中における悲しい会話を聞くことも許されない。なぜ
ならば、私たちは今遙かに去って行く船の後を追って、この船にいる最も偉大
な船客の前途に彼を待つ縲紲と苦難とを目撃しなければならないからである。
12.ミレトよりカイザリヤへの航海(21:1-9)
1-3節 船は小アジヤの沿岸をしばらく廻航すると、やがて大海原に乗り出した。
21:1
わたしたちは人 々に別 れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島
に着き、そこからパタラに渡り、
21:2
フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。
21:3
やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向
かって船 旅を続けてティル スの 港に 着いた。 ここ で 船は、荷物 を陸揚げするこ とに
なっていたのである。
彼らがミレトからコス島まで『真直に』馳せたということは、第一日目は順
風に幸されたことを意味する。ロドス島にある同名の町で彼らは一夜この港に
投錨した。この港の入口はかつて世界の七不思議の一つであった巨像が立って
いた 所で ある。 それは高さ46 メートルもあ るヘリオス(大陽 神…アポロ)の青
銅像であった。像は紀元前224年に地震で倒壊したが、パウロがこの港を訪れ
た時にはその残骸の破片は現場にのこっていた。彼らが船を乗り換えたパタラ
はルキヤの南海岸にある。彼らが乗換えた理由は、今度の船が彼らの航海の目
的地の殆ど同方向にあるツロの港に直行することになっていたからである。そ
してこのことは彼らがそれまで乗って来た船がパタラまでしか行かない船であ
ったか、或は更に小アジヤ沿岸にくっついて廻航する予定であったことを暗示
している。クプロを望み見ながら過ぎ去る時パウロは、彼とバルナバがかつて
第一回伝道旅行の際、こ の 島 で 働 い た 時 の 経 験 を 思 い 出 し た に ち が い な い(1
3:4-12)。 パタ ラ から ツ ロまで の航海 は 、ト ロア スを 発って 以来して来た毎日
の投錨をせずに数昼夜かゝる航海であった。当時、船は夜月か星の光を当てに
出来る時以外は、決してこんな長航海はしなかった。パウロはピリピを満月の
七日後に発って、五日でトロアスに着き、そこで七日留った(20:6)。トロアス
を発った彼らは四日でミレトにつき、ミレトからパタラまでの航海には三日を
要し た (20:13-15、 21:1)。こ の 七 日 間と 一 九 をた す と 二 六日 にな る 。そ して
彼らがもしミレトで三日間を過したならば、前の満月から数えて合計二九日に
- 358 -
なり、再び満月の時にあたる。地中海を夏の月夜、海面のしずかな時に航海し
たことのある人ならば誰でも、それが楽しい経験であったことを思い出すであ
ろう。それはまた苦難の中にあるパウロとその一行の心をもなぐさめるのに役
立ったにちがいない。
4節
ツロの港で水夫たちが積荷をおろし、またおそらく新しい荷物を積込ん
でいる間、陸上の兄弟たちと交わる機会がまた与えられた。
21:4
わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは”霊”に
動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。
『弟子たちに尋ね逢ひて』という言葉は、彼らを尋ね出す何らかの努力がは
らわれたことを暗示する。これはパウロがこの地に教会が設立されるまでにこ
の地を訪れたことなく、また彼の同行者たちは皆外国生れであったから、この
町では全くの知らぬ旅人であったゝめである。しかし何れにせよ教会がツロに
出来ていたことは、主がガリラヤの町々に向って発せられた御言葉『汝らの中
にて行ひたる能力ある業を、ツロとシドンとにて行ひしならば、彼らは早く荒
布を 着、 灰の 中に て 悔改 しな らん 』(マタイ 11:21)を裏書 してい る 。私 たちは
これらのツロ人たちの懇願が聖霊の語り給うまゝをのべたものと解すべきでは
ない。なぜならば、もしこれが聖霊の命令であったならば、パウロは当然その
命令に服しなければならぬ義務があり、実際パウロはそれに従ったに違いない。
私たちはむしろ、次のように解すべきである。聖霊は他の町でもそうであった
ように、ツロの兄弟たちのあるものに対して何がパウロをエルサレムで待って
いるかを黙示した。そしてそれを知った兄弟たちが自分たちの考えにより彼に
そこへ行くなと懇願した。彼らのこの懇願から、彼らがパウロから福音を聞い
てはいなかったけれども、この人がキリストの福音のために大切な人であるこ
とを知っていたことがわかる。
5、6節
弟子たちがパンをさくために集まる主の日を含んでいたに違いない
七日間がやがて過ぎると、再びミレトの時のような悲しい別れの光景がおこった。
21:5
しか し、 滞在 期間 が 過 ぎた とき、わ たした ち はそ こ を去って旅を続けるこ と
にした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共
に浜辺にひざまずいて祈り、
21:6
互 い に 別 れ の 挨 拶 を 交 わ し 、 わ た し た ち は 船 に 乗 り込 み 、彼 ら は 自分 の 家
に戻って行った。
- 359 -
こゝでの別れの光景はミレトでの別れよりも更に名残おしいものであった。
なぜなら女や子供たちのすゝり泣きが、男たちのそれにまじって聞えた。しか
しすべては一人一人の心をなぐさめる祈りによって潔められて、今日に至るま
でツロの聖徒たちと結びつく祝福された記憶として残っているのだ。
7節
海路の残りの旅程は一日の中に尽きた。なぜならこの間の距離は陸路を
歩いても一日以内で行けるからである。
21:7
わた した ちは 、ティルス から航海を続けてプト レマイスに 着き、兄弟 たち に
挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。
トレマイは現代のアクレ市 Acre の当時の名であった。その原名はアッコ
Accho であり 、カナン 人が 占領している間中この名で 呼ばれてい たが、エジ
プトのプトレマイオス王家の一人が自分の名誉を記念してプトレマイと改名し
た。しかしちょうどパレスタインの町々が一時ギリシヤやロマの征服者たちに
よってそ の名 を変えられても、やがて征服勢力が去ってしまうと、それぞれ昔
の名 前 が ほ ん の 少し 変っ た形 で 復活 した よう に、 Acreと いう 名に な って 残っ
た。パウロがこゝでもツロと同じように兄弟たちを見出したことは、この地方
に福音があまねく行きわたっていたことを示す証拠である。アクレはかつてア
セルの支族によって所有されていた領土内にあるが、既に捕囚以後の或る時期
にギリシヤの都市になっていた。
8、9節
トレマイの兄弟たちと共に過した一日は、パウロが全教会に勧めを
残し、再び悲痛な別れを惜しむに充分な時間であった.
21:8
翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィ
リポの家に行き、そこに泊まった。
21:9
この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。
トレマイから道はアクレ湾のまわりをまわって、スムーズな海岸にそい、殆
ど半円形を描きながらカルメル山の海端に至り、そこから殆ど真直ぐに地中海
岸 に そ って カ イ ザ リ ヤ ま で の び る 。 距 離 は 約 56k m 、 お そ ら く 二 日 間 の大 部
分はかゝったろう。
『七人の一人』であった伝道者ピリポという呼び方は、明かにこの人が第八
章にその初期の伝道の働きが記録されているあのピリポに相違ないことを示し
てくれる。前の記事の終では彼はアゾトからカイザリヤ間のすべての町々に福
音を 宣 べ 伝えた (8:39,40)と書 か れてい る が、 今その彼が カイザリ ヤの町に住
- 360 -
んでいるのを私たちは見るのである。預言の賜物を持っていたという彼の四人
の未婚の娘たちは、明かにこの敬虔な父の手でしっかり訓練され、従って聖霊
が彼女たちに授けたこの賜物にふさわしい立派な娘であった。彼の家はパウロ
の一行九人を接待出来たことから見て、相当広い家であったに違いない。
13.アガボ、パウロの投獄を預言する(10-14)
10-14節
ピリポの家族と共に時を過している間に、パウロがこの航海中
受けとった最後の預言が附加された。そしてこの預言はミレト及びツロでの時
と同じような場面を現出した。
21:10
幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。
21:11
そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足
を縛 っ て言 っ た 。 「 聖霊が こ う お 告 げに な っ ている 。 『 エ ルサレ ム で ユダ ヤ 人は、こ
の帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」
21:12
わ たした ちはこ れを聞き、 土地の 人と一緒に なって、エ ルサレ ムへは上ら
ないようにと、パウロにしきりに頼んだ。
21:13
そのとき、パウロは答えた。「泣いたり 、わたしの心をくじいたり、いったい
これはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られること
ばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」
21:14
パ ウ ロ が わ た し た ち の 勧 め を聞 き 入 れ よ う とし な いの で 、 わ た し た ち は 、
「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。
ルカはこゝでアガボを、まるでそれまでに挙げたことがないかのような口ぶ
りで紹介しているけれども、彼は明かに、先にアンテオケで、パウロとバルナ
バとをエルサレムへ第一回の派遣をすることになったあの飢饉を預言したと同
じ預言者(11:27-29)である。この預言がなされた時の、旧約の預言者たちの或
者にも似た劇的なやり方は、この預言を一層印象的なものにし、一方アガボの
語った言葉はパウロに彼を待つ患難の一層はっきりした概念を与えた。もし彼
の同行者たちがこれまで各地の兄弟たちが彼にエルサレムに上るなと懇願した
時にも黙っていたとするならば、この時こそはさすが彼らの勇気も挫けて、カ
イザリヤの兄弟たちと一緒に彼に懇願したのである。彼の前途はそれまで勇敢
な共労者たちの無言の同情を受けている間も、充分苦しいものであった。しか
るに今この重荷の上に共労者たちの懇願という重荷が加わった時、彼の心は圧
し潰されんばかりの重圧にあえいだ。しかし彼の確乎たる決意は動かなかった。
彼が受ける苦しみそれは何れも皆イエスの御名のためであった。何故ならばそ
れはこのイエスの名を人々の中に高くかゝげる教会のための苦しみであったから。
- 361 -
そしてこの高い目的のために仕えることは、あらゆる個人的な問題を超越した
最も崇高な仕事であったから。神の摂理ということにパウロの一行ほどの信仰
を持たない人たちならば、自分たちのあらゆる懇願が無駄に終った時は、彼を
我侭勝手だと言って非難したかもしれない。しかしこれらの人たちは、彼のこ
の変らぬ決意の中に神の導きの手を見た。そして『主の御意の如くなれかし』
と叫んだ。
14.カイザリヤよりエルサレムへの旅(15、16)
15、16節
アガボの預言はパウロ一行のカイザリヤ滞在のまさに終らんと
する頃に発せられたものらしい。したがってこの滞在の始の期間は東西から集
っ た 聖 徒 たち に と って 宗 教 的 な 交 わ り に め ぐ ま れ た も の で あ っ た ろう け れ ど
も、その終は悲しい結末であった。
21:15
数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。
21:16
カイ サ リアの 弟 子た ち も 数人同 行して 、わ た した ち が ムナ ソ ン という 人の
家に 泊 ま れ る よ う に 案 内 し て く れ た 。 ム ナ ソ ン は 、キ プ ロ ス 島の 出身 で 、 ず っと 以
前から弟子であった。
旅行は遂に五旬節に間に合うように終った。なぜなら既に過越節とパタラ到
着との 間に数えた 二九日に(三節註解を見よ)パタ ラからツロまでの三日、ツロ
での七日、それにそこからカイザリヤに至る四日を加算すると、合計四三日に
なり、過越と五旬節の間の五〇日から引けば、カイザリヤ滞在日数として六日
間の余裕が出る。こ の 最 後 の カ イ ザ リ ヤ で の 滞 在 を ル カ は 『 多 く の 日 』
(many days--邦訳は「数日」)と言っているが、これはこの旅行中他の町での
滞在に比べて『多くの日』というのではなく、大切な使命を帯びてエルサレム
に派遣された人たちとしては多くの日、また聖都へわずか二日という短い距離
にいる人たちとしては多くの日留まったという意味である。当然彼らは旅程の
終点へ急ぐ筈と考えられたからである。クプロのマナソンがエルサレムにパウ
ロの一行が泊れる程の家を持っていたという事実は、彼が非常な金持でなかっ
たとしても、クプロにある家の外にエルサレムにも家を一軒持っていた、相当
の財産家であったらしいことを暗示する。彼は旧き弟子の一人と呼ばれるが、
それは彼が教会の歴史上、ごく初期の頃に弟子となったからである。
- 362 -
第四部 パウロの五年問の獄中生活
21章17節-28章31節
第一項
パウロのエルサレムにおける禁錮
(21:17-23:30)
1.長老たちによる歓迎と忠告(17-26)
17節
何ヶ月もの間、祈りと心配の中に待ちに待った時は遂に来た。
今やパウロは彼がエルサレムのために帯びて来た任務が聖徒たちによって受入
れ られ る か 否かを (ロマ 15:31)、否 でも応でも 知らなけ ればならな かった。嬉
しいことに史家ルカは次のように言うことが出来た。
21:17
わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。
こゝでルカがもし何か少しでもパウロの持って来た寄附金のことにふれてい
たならば、彼は少くともこの言葉にある受入れられたということ以外にもっと
詳しい事情を書いたであろう。しかしルカがここで寄附の事業について全然何
も書く必要がないと考えたことは、使者たちの喜ばしい歓迎から見て、彼らの
贈物もまた感謝して受入れられた証拠と考えても間違いはなかろう。パウロの
旅行及び彼の祈りの主な目的は今や達せられた。彼はその務の大部分を達成し、
喜びの中に兄弟たちに事える業をなしとげた。従って次におこる問題、主がエ
ルサレムの従わぬ者共より自分を救って下さるかということは、大して重要な
ことではなかった。
18-26節
一行がエルサレムの兄弟たちから喜んで受入れられたという一
般的な記事の後に、ルカはそれにつづいておこったことをやゝ詳しくのべる。
21:18 翌 日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆
集まっていた。
21:19 パ ウ ロ は 挨 拶 を済 ま せ てか ら 、 自 分の 奉 仕 を通 して 神が 異 邦 人の 間 で 行
われたことを、詳しく説明した。
21:20 これを聞いて、人 々は皆神を賛美し、パウロに言った。「兄弟よ、ご存じの
ように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。
21:21 こ の 人 た ち が あ な た に つ い て聞 か さ れ て いる と こ ろ に よ る と 、あ な た は 異
邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言っ
て、モーセから離れるように教えているとのことです。
- 363 -
21:22 い った い、 どう した ら よ いで し ょう か 。 彼 らは あな た の 来 られ た こ とを きっ
と耳にします。
21:23 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を
立てた者が四人います。
21:24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそ
る費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉
もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。
21:25 また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を
書き送りました。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にし
ないように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」
21:26 そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて
神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることが
できるかを告げた。
18節 で ヤ コ ブ と 長 老 たち と が 区 別 さ れて い る が 、 こ れ は ヤ コ ブ が 長 老 と い
う称号をもっていなかったことをあらわす。後に教会の組織が霊感なき人々の
手によって変えられて行った時に、今日でも監督派の人々の間に主張されてい
るように、このヤコブをエルサレム教会の監督(bishop)と呼ぶ習慣がおこった。
その理由は彼がこゝで長老たちよりも上位を占めていたように見えるからとい
うのである。しかし新約聖書中どこを探しても監督という称号のこのような用
法は見出すことが出来ない。従ってこの習慣は後世の権威なき考えが、不当に
も非霊感記録の中に持ち込まれたものと考えなければならない。既に見たよう
に、ヤコブは使徒たちの中でも第二級的な地位を占めていたから、十二人の誰
もエルサレムにいない時には、当然エルサレム教会の頭の位置に立ったのであ
る。『 一 々』 とい う神 が彼 のつ とめに よってなし給うた事どもに 関するパウロ
の細かい言及は、おそらく一五章に記録された会議の時から先には遡らないで
あろう。なぜならこの会議において彼はそれまでに起った事がらを一々ヤコブ
とその他の人々に語っていた(25:4)からである。彼らがこの話を聞き終った時、
彼らが『神を崇めた』という事実は、彼らがパウロの教えていたこと、実行し
ていたことにつき全く彼に同意したことを充分明白に示すものであって、この
点パウロとエルサレム教会指導者たちとの間に反対があったという近代合理主
義者の仮定と正面から矛盾する。これらの兄弟たちがパウロに言った言葉は、
明かに彼らのスポークスマンであったヤコブの口を通して言われたものであろ
うが、律法と割礼に関しエルサレム教会のとっていた立場をはっきりと示し、
同時にまたパウロに関する誤った知識をもって働いていた人たちの反パウロ的
偏見の根源の所在を暴露して見せる。彼らは第一にこれらの弟子たちが『律法
に熱心』(20)なることを示し、第二に彼らが今も忠実にその子供たちの割礼を
実行していること(21)を、第三に律法の潔めは或る場合、犠牲を捧げることが
- 364 -
必要であったが、これは今なおク リスチャンにとって正しいことゝ考えられて
い た こ と (12、 24)、 そ して 第 四 に 彼 ら は こ れ ら の 義 務 を 行 う こ と を 異 邦 人 の
兄弟たちに課しはしなかったけれども、なおもあの会議の決定事項として全教
会の名 によって発布されたことを忠実に守ろうとしていたことを示し(25)てい
る。大衆側のパウロに対して抱いていた偏見の根拠も同じように明瞭に述べら
れている。それはパウロが異邦人の間にいるユダヤ人に対してモーセを棄てよ
と教えたということであった。これには二つのことが含まれる。第一、彼が彼
らに対してその子供たちに割礼を施すなと教えたこと、第二、彼が彼らに『習
慣に従ふな』と教えたこと--即ち律法自体には書かれていないが当時既にユ
ダヤ人の良心にとっては律法の力を持つようになっていた色々な行事を守らな
いこと(21)である。この言葉の中にある忠告は、それが明かに民衆に対してこ
れらの事が事実ではないことを示すためであり、またパウロが実際に律法を守
って正しく歩んでいること(24)を示すためにわざわざなされたものである事を
考える時、ヤコブと長老たちが実際にこれらの知らせが偽りであることを知っ
ていたことがわかると同時に、一方パウロが彼らの忠告通りに行うことに同意
したことはこの報せが絶対に偽りであることを証明する。彼は決してユダヤ人
たちに習慣を捨てよと教えたことはなかった。むしろ彼はこの時より二年間に
コリント人たちに書きおくって、自分はユダヤ人をキリストにかち得るために
はユダヤ人にはユダヤ人の如くなったと言い、また律法一般に関しては未だに
自 分たちが 律法 の束縛 の下 にあると考える 人たち を得 るためには、『律法 の下
に ある 者 の如く 』なっ たと 言 ってい るので ある(Ⅰ コリン ト9:20,21)。パウロ
のこの立場をそれ以前の書簡にあらわれている教えと調和させるためには、私
たちはたゞ彼が常に忘れなかった区別、即ち他の人たちのためになしてもよい
ことと、神に服従するためになさなければならないことの区別を考えれば事足
りるであろう。彼は律法は『我らをキリストに導く守役』であったこと、従っ
て信 仰 の 来っ た 今 は 『我等はもはや守役の下に居ない』こと(ガラテヤ3:24,25)
を教えた。またユダヤ人は『 キ リ ス ト の 体 に よ り 律 法 に つ い て 死 ん だ 』
(ロ マ 7:4)こ と を 、 し た が って キ リス ト に お いて は 割 礼 も 無 割 礼 も 無 意 味で あ
るこ と (ガラテヤ 5:6、6:15、Ⅰコリント7:19)を教 えた。しかしこう教 える一
方、彼はユダヤ人たちが律法を守りつゞけることを決して悪いことだとは考え
なかった。彼はたゞ彼らに律法を守ることはもはや彼らの良心を束縛するもの
ではないことを教え込もうとしただけであった。ヤコブがこゝで言った多数の
信者たちの中にも居たと思われる極端なユダヤ化主義者とパウロとの間の相違
は、前者がこれらの律法の事項を義務として守ったのに対して、後者はどうで
もよいといった態度で守ったことにある。
- 365 -
彼が誤った観念をもった民衆を納得させるために誓願のあった四人の弟子た
ちと一緒になって潔めをなしたという慎重な考えは、パウロの律法に対する関
係全体を更に明るい光の下に示してくれる。この四人の人たちはこの記事とナ
ザレ人の律法の記事とを比較対照すればすぐわかるように、ナザレ人の誓願の
下にあった。そしてこの誓願の期限の満ちる前に死体にふれたことにより穢れ
た もの と な って いた(23、24、26。参 照:民数記 6:12)。このこ とは彼らが潔
めを受けることを必要にし、しかもそれをすませるのに、祭壇の前で頭を剃り、
一人一人について罪祭と燔祭を捧げ、また誓願のそれまでの時間の損失を償う
等のためにどうしても七日間はかゝった。パウロが彼らと共になすべきことは、
まず第一に『彼らのために費を出す』こと、即ち彼らが捧げるべき犠牲の動物
の代価の幾分或は全部を支払うこと、そして第二に宮に入って祭司たちに彼ら
の潔めの期が満ちた時を告げ、各々のために献物をさゝげてもらうことであっ
た (23、 26)。 後 の 方 の こ と は 彼 ら は 自 分 で す る こ と が 出 来 なか っ た 。 それ は
律法によれば彼らはその身が穢れている間は、宮のユダヤの庭に入ることが許
されなかったからである。しかしパウロの穢れは死体にふれたゝめではなく、
律法の中に規定された他の色々な条項の中の或るものゝためであったから、彼
は自分の衣を洗い、自分の肉を水に浴して夕方まで待ちさえすれば、身を潔め
る こと が 出来 た (レビ15:1-30、その 他)。 この行為の 中でも特にパウロの律法
に対する今の態度を最も顕著に表明しているのは、彼が犠牲を捧げることに関
与した事実である。これは彼が常々キリストの血は罪の贖いとして充分であり、
何ものをも加える必要はないと繰り返し言明していたことゝ矛盾するように見
える。特にエペソ書を書いた後、殊にヘブル書を書いた後に至っては、たしか
に矛盾としか考えられないように思われる。なぜならこれらの書簡においてパ
ウロはキリストの死において神は『隔なる中籬』とパウロが呼ぶ『様々の誡命
の規 よ り 成る律 法 』 を 毀 って 廃し給 うこと (エペ ソ 2:13-15)、 またアロ ン の祭
司 職は 廃 れた こと (ヘブル書七 章 、八章)、そしてまた キリストの犠牲は物言わ
ぬ動物 の犠牲に遥 かにす ぐれた ものであること(九章、一〇章)をはっきり教え
ているからである。しかし彼の初期の書簡をしらべてみると、その中には論理
的結果まで推論すれば大体上のような趣旨を含んでいるけれども、以上のはっ
きりした諸点は未だ彼の頭の中にも啓示されておらず、まして他の兄弟たちの
頭の中には殆ど知らされていなかったらしい。神はこのパウロをこの方面に関
する御意志を啓示する道具として用いることをよしとされたのである。彼の考
えもすべての兄弟たちの 考えも、この時はまだちょうどコルネリオの改宗以上
に初期の弟子たちが異邦人の救についてもっていた考えから、殆ど一歩も出て
いなかった。そしてもしペテロがコルネリオにつき自分に示された黙示の光に
よって、彼がかつ て五旬節の日に語 った(2:39)自分の言葉の本当の意味を今更
- 366 -
のように悟ったとするならば、パウロがその初期の書簡の中で、後に黙示がそ
の意味を明かにするまでは、彼自身その全き意味を理解出来なかった意味深い
思想を所々もらしているということは、何ら怪しむに足らない。この事実はま
た、聖霊は使徒たちを導いてすべての真理を悟らせるに当って、一時にではな
く徐々に啓示し給うたということ裏書きする一つの証拠である。神の奇しき智
慧により、モーセの下における犠性と祭司職をキリストの下におけるそれとは
っきり区別することを主目的とするヘブル人への書は、ユダヤ教神殿の壊滅の
ごく数年前、すなわち律法の犠牲がどうしても廃止されざるを得なくなる直前
に書かれた。そして祖先たちが神から与えられた習慣に対する尊崇一念によって、
この真理を見ることを妨げられていたすべてのユダヤ人クリスチャンたちも、
今や否応なしにその眼を開かれたのであった。
2.パウロ暴民に襲われ、千卒長に捕らえられる(27-36)
27-30節
こ ゝ ま で は エ ル サ レム で の パ ウ ロ の 歓 迎 は 満 足 な も の で あ っ
た。そして人々の眼には彼が暴力から逃れ得る見通しは良好であった。そして
それは数日の間つゞいたが……
21:27
七日 の期間が 終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが
神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、
21:28
こう叫 んだ。 「イス ラエルの人たち、手伝ってくれ。こ の男は、民と律法と
この場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア
人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」
21:29
彼 らは、 エフェソ出身 の トロフィモが前に都 でパウロと一緒に いたの を見
かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。
21:30
それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕ら
え、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。
この叫び声をあげた『アジヤより来りしユダヤ人ら』は、その陰謀によって
パ ウロ が エペ ソ でさ んざん 苦しめら れ た人 たち (20:19)の 一部で あった 。彼が
いたる所で教えたことに関する彼らの偽りの告発はヤコブが言ったこと(21)と
同じことであって、これは既に偏見をもったユダヤ人兄弟たちのその偏見をい
やが上にも刺激していたものである。彼らはパウロがトロピモを宮の中に入れ
たと信じる理由は一つも持っていなかった。しかしパウロがトロピモと一緒に
いるのを市内で見かけた彼らは、群衆の激昂をひきおこす手近な方法としてこ
の偽の非難を頭の中に考えた。おそらくかつてデメテリオがアルテミスの宮に
- 367 -
ついて叫ぶことによってエペソの町の異教徒たちを煽動するのに成功したこと
(19:23-28)から、この工夫を思いついたのかも知れない。パウロが汚したと言
って彼らが非難した宮の部分はユダヤ人の庭であった。なぜなら異邦人は宮の
外庭に入ることを許されていたからである。また彼らがパウロを捕えて宮の外
に曳き出したという時も、それは彼らが彼をユダヤ人の庭から異邦人の庭へ曳
き出したという意味である。今日14万1千平方メートルの土地を占めるこの
異邦人の庭の外側は狭い町の通りであって、このような群衆が動けるはずはな
かった。
31-34節
パウロの生涯を通じて、ロマの官憲が彼を同国人の手から救っ
たのはこれが二回目である。第一回はコリントでおこった。
21:31
彼ら が パウ ロを殺そ う としていた とき、エル サレム中が混乱状態 に陥って
いるという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。
21:32
千人 隊長は 直 ち に兵士 と 百人隊長 を率いて、 その 場 に 駆けつ けた 。 群衆
は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。
21:33
千人隊 長は近寄 ってパウロ を捕ら え、二本 の鎖で 縛るよ うに 命じた 。 そし
て、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。
21:34
し か し 、 群 衆 は あ れ や こ れ や と 叫び 立 てて いた 。 千 人隊 長は 、 騒々 し くて
真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。
「 千 卒 長 」“ chief captain of the band” (A.V.)とい う 表現は 、実はロマ
軍隊の 千卒長
“chiliarch”を指す。原語の意味がそうなのである。ロマ軍の
軍団(legion)は千人毎のコーホルト cohort にわけられ、各コーホルトの長は
千卒長とよばれて、百卒長が百人の隊長であるように、千人の隊長であった。
千卒長にひきいられて来た百卒長が複数になっていることは、それぞれ自分
の部下を連れて来たにちがいないから、彼が数百人の兵卒を連れて駈せつけた
ことになる。それより少い数の兵卒では怒り狂う群衆に圧倒されたかも知れな
いの で あ った。『馳 せ下 る』という表現は 実際に 目撃者の言葉であ る。 なぜな
らロマ駐屯軍本部のあった城砦、アントニヤの塔は宮の庭の北西の隅に立って
おり、その基礎は庭の平面から6メートル高くなった岩の上に築かれ、石の階
段が陣営の門の所から、宮の庭のちょうど自然岩の床になっている所まで下っ
てい た ① 。 千卒長は 直ちに彼らが今打 ちす えている男がこの騒動 をひきおこし
たらしいことを知った。そしてこの男は犯人であって、ユダヤ人によって即時
の復讐をされているのだと早合点した。彼はこの男を鎖につないで安全にし、
その上で彼をどう処置すべきかを知るために、彼が誰であるか、また何をした
- 368 -
のかを尋ねた。しかし群衆の大部分は彼が誰であるかも何をしたのかも知らな
かったから、たゞ彼らのとぎれとぎれの叫び声の中から得た混然たる答えから
判断して千卒長は他の方法によって知識が得られるまで待つべく、彼を陣営に
連れて行けと命じた。
①詳しい描写については拙著“Lands of the Bible”177ぺージを見よ。
35-36節
21:35
兵卒たちは直ちに勇敢に彼らの指揮官の命令に従った。
パウロが階段に さしか かったとき、群衆の 暴行を避けるために 、兵士たち
は彼を担いで行かなければならなかった。
21:36
大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。
パウロは多分打たれた為に殆ど気絶していたか、或は自分の敵の前から退く
ことをいさぎよしとしなかったか、兵卒たちについて行くだけ早く走らなかっ
たから、二人の兵卒が彼の腋に手をかけて彼をひき上げたか、或は彼を肩にか
ついで急 い で 引 上 げ た 。追 手 た ち は 彼 を 捕 え る こ と が 出 来 な か っ た か ら 、
『彼を除け』と叫ぶことによってようやく憤りをしずめるのだった。
3.パウロ暴民に語ることを許可される(37-40)
37-40節
パウロは今肉体が傷の痛みに苦しみ、魂は精神的逆境の苦しみ
にあえぎ、他の人ならば一語も語りたくない状態にありながら、狂乱せる同胞
と自分との間に、今まさに牢獄の扉が閉されようとするのを見た時、そして彼
らが今偽りの口実のために煽動された怒りの餌食とされたまゝ残されようとし
ているのを知った時、彼は直ちにこの群衆の怒りを緩らげなければならないと
考えた。
21:37
パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししても
よいでしょう か」と千人 隊長 に 言っ た。 する と、千人隊 長が 尋ねた。 「ギ リシア語が
話せるのか。
21:38
それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野
へ行った、あのエジプト人ではないのか。」
21:39
パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとし
た町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」
21:40
千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。
すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。
- 369 -
この短い会話は千卒長がこの一瞬の騒ぎのために、如何に全くこの囚人を誤
解していたかを示す。彼がパウロを間違ってそうと思ったエジプト人とは、多
分ヨセフスが記している者であろう。ヨセフスによれば彼は四千人ならず三千
人の 刺客 を率いたと なっている ① 。ユダヤ人 たち がこの ようなはげ しい憎悪を
感じるような人としては、千卒長にはこの時このエジプト人以外には考えられ
なかった。彼がパウロがユダヤ人であって、そのうえタルソのような立派な町
の市民であることを知った時、この騒ぎの原因に関する彼の不審はますます高
まった。そこで彼は考えた。この男の願いを聞き入れて話をさせてやれば、そ
の演説の中から彼らが彼を告発した非難の理由をつかめるかもしれない。なぜ
ならこの男は勿論自分に対する非難について明白に弁明する筈だ。許可が与え
られるや、兵卒たちは彼を自分の足で立たせ、少くともパウロの片腕から鎖を
はず し た ようであ る。とい うのはパウロ は例の ジェ スチュアを使って ② 『民に
向って手を揺かし』たからである。それはアレキサンデルがエペソの暴民に対
して 用 いて 失 敗 に 終っ た と 同じ ジェ スチ ュア (19:23)であ っ た 。つ ゞ いて おこ
った沈黙は『大いに』と形容されているが、このような大群衆を静めることは
並大抵のことでないことを思えば、文字通り『大なる』沈黙というべきである。
彼が彼らの国語で語り始めた時、この沈黙はますます静かになった(22:2)。
①彼は自ら預言者であると称え、うまくだまされて従った人たちに対してはエルサレムを
ロ マ 人 の 手 か ら 奪 回 す る こ と を 約 束 し 、 そ の 上 そ の 証 拠 と して 、 自 分 が オ リ ブ 山 の 頂 き
に達した時には自分の持っている奇 蹟 の 力 で 市 の 城 壁 を 崩 し て や ろ う と 放 言 し た 。
ヨセフスはこの乱で捕えられた者及び殺された者の人数に関して、少々自己矛盾している
(Ant.20:8,6; Wars, ⅱ,13.5)
②上の例の外に、ルカはこのことをピシデアのア ン テ オ ケ に お け る 演 説 の 冒 頭 に 、 ま た
アグリッパ王の前での演説の際にも認めて記録している(13:16、26:1) 。
4.暴民に対するパウロの演説(22:1-21)
Ⅰ.彼の改宗以前の彼自身の履歴(22:1-5)
1-5節 千卒長の自分の人格に対する甚しい誤解を見、また千卒長の質問に
答える群衆の叫び声から彼らの大部分が千卒長と同じ位自分を知らないことを
見てとったパウロは、まずその演説を自分の履歴から語り始めた。
22:1 「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」
22:2 パウ ロ が ヘブラ イ 語で 話す の を聞 いて、人 々 は ま す ま す 静 か に な っ た 。
パウロは言った。
- 370 -
22:3
「 わ た し は 、 キ リキ ア 州 の タ ル ソ ス で 生 ま れ た ユ ダ ヤ 人 で す 。 そ し て 、 こ の
都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さ
んと同じように、熱心に神に仕えていました。
22:4
わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえ
したのです。
22:5
このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれ
ます 。 実 は、 こ の人 た ち か らダ マス コにいる 同志に あてた 手紙ま でも らい、そ の地
にいる者 たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったの
です。」
聴衆の中でかつては迫害におけるパウロの同僚、今は敵である人たちはパウ
ロがこゝにあげたすべての事実をよく知っていたが、大部分の人たちは何も知
らなかった。彼がこの古い事実をわざわざこゝで引出した目的は、明かに、ま
ず 第 一 に 千 卒 長 と 同 じ よ う な 考 えを も って い るすべ ての 人 々 の 誤 解 を 解 く た
め、第二にかつては彼らと共にキリストの道に対して同じ態度をとっていたも
のとして、大衆の同情をひこうとすることであった。
Ⅱ.彼の改宗のこと(6-16)
6-16節
上の演説の第一段、すなわち序論にあたる部分は、たゞ演説者に
対する人々の同情をよびさましたのみならず、また彼がかつては彼の聴衆と同
じく一人の迫害者であったと宣言したから、それではその彼をしてその立場か
ら今日居る立場に転じさせたものは何であるかということを知りたいという慾
望を聴衆の心におこさせた。
22:6
「旅を続けてダマ スコに近づいたときのこ と、真昼 ごろ 、突然 、天から 強い
光がわたしの周りを照らしました。
22:7
わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言
う声を聞いたのです。
22:8
『 主 よ 、 あな た は ど な た で す か 』 と 尋ね る と 、 『 わ たし は、 あな た が 迫 害 して
いるナザレのイエスである』と答えがありました。
22:9
一 緒に いた 人 々は、 その 光は 見たの で す が、 わた しに 話しか けた 方の声は
聞きませんでした。
22:10
『 主 よ 、 ど う し た ら よ い で し ょう か 』 と 申し ま す と 、 主は 、 『 立 ち 上が って ダ
マスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。
22:11
わた し は、 そ の 光 の 輝 きの た めに 目 が 見 え な くなっ ていました の で 、一緒
にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
- 371 -
22:12
ダマスコにはアナニアという人がいました。律法 に従って生活する信仰深
い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。
22:13
この人がわたしのとこ ろに来 て、そばに立ってこう言 いました。 『兄弟サ ウ
ル 、 元 ど お り 見 え る よ う に な り な さ い 。 』 す る と そ の と き、 わ た し は そ の 人 が 見 え る
ようになったのです。
22:14
アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになっ
た。 それは 、御心を悟 らせ、 あの 正しい方に 会わせて、その 口から の声を聞かせる
ためです。
22:15
あな たは 、見聞きした こ とに つ いて、す べ ての 人に対 してその 方の証人 と
なる者だからです。
22:16
今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗
礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」
パ ウ ロ の こ の 話 は 先 に ル カ が その 短 い 記 事(9:3-8)の 中 に 書 き落 して いる 興
味あ る細 目の幾 つかを提供してくれる ① 。 即ち天 よりの光が彼をめ ぐり照した
のは『正午頃』であったこと、彼の同行者たちはその声は聞いたけれどもそれ
を聞かなかった、即ち語られた言葉の意志をキャッチすることが出来なかった
こと、また「ダマスコへ行け。汝のなすべきことはそこで告げらるべし」とい
う命令は『主よ我なにを為すべきか』という質問に答えて与えられたことがわ
かる。一方パウロは自分が盲目であった期間がどれ位であったか述べていない。
また断食と祈りについても何も言わない。そして主がアナニヤに向って言い給
うたことを語らずに、アナニヤがダマスコのユダヤ人の間に博していた名声を
あげている。彼がわざわざこのことを挙げたのは、自分がバプテスマを受けた
ことを聴衆の尊敬の念と結びつけるためであった。彼はまたルカが引用したア
ナニヤの言葉をも省略して、そのかわりに別な言葉を引用している。したがっ
てアナニヤの話全体はこの両方の断片をつなぎ合せれば得られる。アナニヤが
パウロの上に行った奇蹟が言われているのは、単に彼の視力が如何に恢復され
たかを示すためだけではなく、特に彼の受洗が神によって嘉納されたことを示
す ためで あった。『今 なん ぞためらう か』という 表現 の中には 、彼が信じてか
ら後バプテスマを受ける事を特に延ばしていたことが指摘されている。この遅
延の 理 由 をこ の 時アナニヤ は知る由 もなかった。『汝 の罪を 洗い去れ』という
表現の中では、バプテスマに伴う罪の赦しが言及されていることは疑う余地も
な い 。 そ して 『 洗 い 去 る 』 と い う 言 葉 ( ἀπόλουσαι )の 比 喩 は 、 バ プテス マ の
際に身体が洗われることから暗示されたものであろう。彼は神がそれによって
罪を赦し給う、あの洗いに服することによって罪を洗い去らなければならない
のだった。彼はこれを『その御名を呼び』つゝなすべく命じられた。なぜなら
- 372 -
私たちが今受けるあらゆる祝福、特に罪の赦しはイエスの名を通して与えられ
るものだからである。
①彼 ら が 声 を聞 いた と いう ル カの 記 事(9:7)と 、 彼ら が それ を 聞か なか っ たと い うパ ウ ロ
の記事とは、昔からキリスト教を攻撃する批評家たちによって矛盾として指摘されて来た。
し か し 私 たち は 話 す 人 の 声 の 音 響 は 聞 い た が 、 話 さ れ た 言 葉 を 聞 き と る こ と が 出 来 な か
ったような場合、私には聞えなかったというのが、一般の習慣ではないか。パウロ自身
こ の 外 に も こ れ と 同 じ 用 法 の 例 を 提 供 して い る 。 即 ち 会 衆 の 中 で 誰 も 知 ら な い 異 言 で 語
ることについて言って曰く『異言を語る者は人に語るのではなく、神に語るのである。何
故なら誰も聞く人はないのだから』(直訳)。こゝで私たちの翻訳者たちは『聞く』のかわ
りに『悟る』という語を用いて、こ の 語 の こ の 特 別 な 用 法 を 曖 昧 に して し ま って い る 。
もし彼らが今私たちの前にあるこの個所に関して、同じ自由な態度をとっていたならば、
矛盾という問題は少くとも英語の読者にとっては問題にはならなかったであろう。そして
またパウロの言おうとした意味も彼の言葉とは違った方法で表現されることが出来たに
ちがいない。
演説のこの一段の目的は彼のことについてユダヤ人の同情的な考えをかち得
ることにあったことは明かである。彼はこの目的を果すために自分は彼らと同
じ迫害者の立場から、イエスが自ら主張し給うたことの忠実な信者また弁明者
に転向させられた理由は、誤解する余地のない奇蹟的な天よりの証拠によって
ゞあったこと、しかもその証拠はあらゆる先祖たちの格言によるも、彼が実際
に服従したように服従することを避くべからざる義務とするような証拠であっ
たことを人々に示した。彼はまた同時にそれに附加えて、イエスの復活と頌栄
という、後にこの信仰を確信させたように彼らをも確信させずにはおかぬ証拠
を聴衆に提示するという目的をも果した。彼は自分を訴える人々を自分の立場
にかち得ることによって、自分の立場を弁明しようとねらったのであった。
Ⅲ.異邦人に対する彼の派遣(17-21)
17-21節
パウロの次の段階は、彼を迫害者からこの『道』の主張者に変
えた神の権威は、同時に彼を他の使徒たちとは異った特殊な伝道地へ遣わすべ
く任命した事実を示すことであった。
22:17
「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘
れた状態になり、
22:18
主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て
行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』
22:19
わた しは申 しました 。 『 主よ、 わた しが会堂 から 会堂へ と回って、 あな たを
- 373 -
信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。
22:20
また 、あな たの 証人 ステファノの 血が流 された とき、わた しも その 場にい
てそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』
22:21
すると、主は言われました。『行 け。わたしがあなたを遠く異邦人のために
遣わすのだ。』」
パウロはこゝで、ルカが前の記事で略している面白い事実を提示してくれる。
即ち 兄 弟 たちが 彼 をエ ル サレム から タ ルソへ 遣り出した 時(9:28-30)に、彼は
主の命令があるまでは行くことに同意しなかったこと、また行くようにと主か
ら命じられた時にも、彼は主の命令に軽く抗議したことである。彼が行きたく
ないと言った理由は、彼がかつてステパノの死と教会の分散に関与したことを
ユダヤ人はよく知っているから、今その自分が彼らにこの真理を伝えるという
ことは難しいと信じていたからであった。彼は今自分の眼の前にいる人々が自
分にユダヤ教の背教者また裏切者という烙印を押し、はげしい憎悪を浴せてい
ることをも忘れていた。彼がユダヤ人が正に自分を殺さんとしている時に正々
堂々とこの抗弁をしたということは、もし必要とあらばかつてステパノの死を
自ら目撃したその場所で死ぬ用意があるという、彼の勇気の証拠である。
5.演説の直接効果(22-29)
22-24節 信じないユダヤ人たちは、この時までは割礼ある者の間にキリ
ストを宣べ伝えるということを、どうやら我慢して認めて来た。しかし彼らは
なお割礼なき者をユダヤ人と一緒に宗教的な交わりに容れるというようなこと
には、大きな憎悪を懐いていた。従ってパウロ自身に対して特別な憤激を挑発
したのは、実に彼が異邦人への使徒となったという事実であった。この暴徒た
ちは今までパウロがキリスト信者となった自分の立場を弁明するのを熱心に傾
聴し、また生れて始めてパウロの口からイエスの復活と昇天という不思議な証
を聞いた。故にもしパウロが彼の演説をこゝの所で止めていたならば、彼等は
むしろ同情的な印象を持ったまゝで解散したかもしれなかった。しかし一たび
彼が、彼らには最も恥ずべきことと思える、異邦人への使徒であると自ら主張
した時、しかもそれがパウロの選択をも許さぬ天よりの決定的な命令に帰し、
人々が彼について聞いていた一切の非難を神の名において否定し、正当化しよ
うとするのを聞いた時、彼らはもはやこれ以上聞くことが出来なかった。
22:22
パ ウ ロ の 話 をこ こ ま で 聞 い た 人 々 は 、 声を 張り 上げ て 言っ た 。 「 こ ん な 男
は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」
22:23
彼 ら が わ め き 立 てて 上 着 を投 げ つ け 、 砂 埃を 空 中 に ま き 散 ら す ほ ど だ っ
たので、
- 374 -
22:24
千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパ
ウロに対 してわめき立てるのかを知るため、鞭で打ちたたいて調べるようにと言った。
彼に 石を投げつけようとすれ ば、ど う して も 兵 卒 に も 当 て ざ る を 得 な い 。
それは許されないことである。そこで彼らは狂った猛獣のように塵を空中に撒
きちらした。彼の演説がこのように中断されなければ当然続けられる筈だった
残りの部分は、既に語られたことから容易に推察することが出来る。
彼はそれから自分を今まで各地で熱心に働かせたこの神の権威について、更に
詳しく聴衆に語り聞かせようとしたであろう。なぜならば彼としては自分の生
命までかけたこの道の弁明をすることなしに自己弁明をするという気持は全然
なかったからである。さてルシヤはパウロの語ったヘブル語を解したか、それ
とも彼の一語一語を通訳を通して聞いたか、何れにせよユダヤ人がパウロを告
発した理由を彼の話の中からつかもうという希望をすっかり裏切られた。そこ
で彼は即座に拷問という手近な方法でパウロ自身の口から、求める知識を引き
出そうと決心した。当時ロマ属領の司たちの間では、犯罪人として捕らえた容
疑者から適当な手がかりが得られない場合には、彼を鞭で打って自白させると
いうことがよく行われた。
25-29節 パウロが陣営の中に曳き入れられると、執行者は百卒長の指揮
の下に、この残酷な任務を行うべく直ちに準備をとゝのえた。
22:25 パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立って
いた百人隊長に言った。「ロマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打っ
てもよいのですか。」
22:26 こ れ を 聞い た 百人 隊長は 、 千人隊長 の とこ ろ へ行 って報 告した 。 「 どう な
さいますか。あの男はロマ帝国の市民です。」
22:27 千人隊長 はパウロのところへ来て言った。「あなたはロマ帝国の市民なの
か。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。
22:28 千 人 隊長 が 、「 わ た しは、 多額 の金 を出してこ の市 民権 を得たの だ 」と言
うと、パウロは、「わたしは生まれながらロマ帝国の市民です」と言った。
22:29 そ こ で 、 パ ウ ロ を 取 り 調べ よ う と し てい た 者た ち は 、 直 ち に 手 を 引き 、 千
人隊長もパウロがロマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知
って恐ろしくなった。
鞭を当てるに先立って、打たれる人はまず傾いた柱の上にうつ伏にもたれさ
せられ、革の紐でその柱にしばりつけられた。千卒長が懼れたのはこの柱にし
ばりつけたことであって、前に鎖でつないだことではない。後者は法的であり、
- 375 -
パウ ロは ずっ とこの 方法でつながれた(30、26:29)。パウロ は我はロマ人なり
という一言の外はロマ市民たる証拠を何一つ見せなかった。しかし彼が生れな
がらの市民であると宣言した堂々たる態度は、ルシヤにとっては、自分が同じ
市民 権を 賄賂によって 買ったこ と ① を 思い 出させ られると同時に、また先刻パ
ウロが暴民の前でなした毅然たる演説を考え合せるにつけても、パウロの主張
が真実であることを疑わせる余地もなかった。こうしてパウロは再び自分自身
を不名誉から救った。しかもこの時はロマ市民としての権利を静かに宣言する
ことによって、計るべからざる苦痛から己を救った。私たちはロマ本国から遠
く離れたこの属領において、しかも牢獄の壁の中において『我はロマ人なり』
という一言が、既にふり上げた拷問の道具を地におとすほどの、ロマ法律の威
厳に驚歎するの外はない。
① ロ マ 市 民 権 を 法 的 に 獲 得 す る 方 法 は 三 通 り あ っ た 。 ま ず 功 績 あ る 行 為 に 対 して 元 老 院
か ら 授 与 さ れ る も の 、 次 に 市 民 で あ る 父 か ら 継 承 し た も の 、 そ して 自 由 市 に 生 れ た も の
が生れながらにして与えられるもの、即ちロマ帝国のために特別の奉仕をした都市に対し、
褒美としてその都市内で生れたもの全部に与えられる市民権である。帝国に対して何ら功
績ある行為なしに金の力でこれを買うことは非合法であった。しかしクラウデオの治世
に は こ の 市 民 権 は 殆 ど 商 品 化 して し ま い 、 皇 帝 の 妃 メ ッ サ リ ナ は 始 め こ れ を 莫 大 な 金 額
で、しかし後には二束三文で公然と売ったということである。
6.パウロ、七十人議会の前に曳き出される(22:30-23:10)
30節 千卒長は一人の囚人が偶然彼の手の中に落ちこんで来たゝめ、この囚
人に関して自分のなすべき義務を行いたいと思ったが、彼はその義務が一体何
であるのかを知ることが出来ずに思い惑った。彼は最初暴民にたずね、次にパ
ウロの演説を聞いた。最後に彼は鞭をあてゝ吟味しようとまでした。しかしそ
れでもまだパウロの受けた非難の原因は相変らず分らなかった。だが彼はもう
一つの努力をしてみようと決心した。
22:30 翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確か
な こ と を知 りた いと 思い 、 彼 の 鎖 を外 し た 。 そ し て 、祭 司長た ち と 最高法 院 全体の
召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。
この会議は異邦人の庭で開かれた。なぜならルシヤとその兵卒とはユダヤ人
の庭に入ることを許されなかったからである。そして『パウロを携へ下りて』
(30節、現行邦訳=パウロを曳き出して)という言葉もこの事実と符合する。そ
れは兵卒たちの屯所アントニヤの塔は丁度この異邦人の庭の上の高い所に立っ
ていたからである(21:31-34註解を参照)。
- 376 -
1、2節
囚人と告発者たちとが顔を合せて立つや否や、千卒長は再びがっか
りせざるを得なかった。それは彼らがパウロに対して正式の訴因を以て非難せ
ず、かえって先づパウロに語ることを要求したからである。
23:1
そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わた
しは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」
23:2
すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を
打つように命じた。
この打撃は言下に行われたことは疑いもない。アナニヤはこの言葉を聞いて、
重罪犯人として告訴されている男が、事毎に良心に従って神に事えて来たなど
と高慢な言を放つとは、この議会に対して無礼も甚だしいと思った。このため
に彼の口を打つことはこれを論駁するよりもはるかにやさしいことであった。
私たちにとってはこのパウロの言葉は疑問をさしはさむ余地もない。ただ問題
になるのは、彼がここで自分の改宗前、教会を迫害していた時期をも含めて言
っているのか、それとも今ユダヤ人が彼を迫害している時期だけを言っている
のかということであるが、後者であったことは勿論である。又別な意味では彼
がかつてイエスの名に逆って様々の事をなすのを宜きことと自ら思っていた(2
6:9)という後の言葉から考えれば、彼がまた前者をも頭に考えていたというこ
とも出来る。
3-5節
この全く不意の激烈な中断は、パウロの口から、昔セルギオ・パウ
ロの面前でバルイエスを責めた時(13:10)と同じ憤怒を爆発させた。
23:3
パウロは大祭司に向かって言った。 「白く塗 った壁よ、神があなたをお打ち
になる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に
背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」
23:4
近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。
23:5
パウロは言 った。「 兄弟たち、その 人が 大祭司だ とは知りませんでした。確
かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」
この言葉は決して不正な激情の爆発ではない。それはむしろ神がこのような
不正な偽善的な人をどのように処罰されようぞという、正義の審判の怒れる表
現であった。それはちょうど私たちの主が同じような性根をもった人たちを『怒
り 』 見 回 して (マル コ 3:5)、 それ か ら 彼 らが 罪 で ある と 考 え た 正 し い 行 為を さ
れた時の経験とよく似た出来事である。それはパウロ自身の表現をかりるなら
ば『怒るとも罪をおかすな』(エペソ4:26)であった。しかし彼の叱責した相手
- 377 -
が大祭司であったことを知ると、パウロは自分の非を認めた。といっても決し
て彼は自分の言った非難が正しくなかったということを認めたのではなく、も
し自分が相手をそのような高官であることを知っていたならば、そんな言い方
をするのはよくなかったということを認めた。ここに明瞭な正しい区別がある。
それ自体全く公明正大な非難であっても、その相手の人が特別な職掌をもって
いる場合には正当でない場合があるということである。もしパウロがこの時ア
ナニヤが大祭司であることを知っており、またこのような場合に約束された聖
霊の導き(マタイ10:17-20)なしに自分の判断にまかされたとしたならば、彼は
この非難を敢えてしなかったであろうし、また世界の人たちもここで一つ損を
したであろう。なぜならば、このような非難こそ人間の道徳性を強めるに役立
つものだからである。
彼はアナニヤにまだ会ったことがなく、直接には知らなかった。なぜならこ
のアナニヤは福音書に出て来るあのアナニヤではないからだ。彼はその後、新
たに大祭司の地位を簒奪した人である。おそらくこの時には彼の職をあらわす
衣をも徽章をもつけていなかったことだけは確かである。もしつけていたなら
ばパウロが彼の地位を見誤るわけはない。またこの場合、彼が会議を主導した
という事実も、パウロが彼が大祭司であることを知っていなければならぬ理由
にはならない。当時大祭司は必ずしも七十人議会には出席せず、特にこの場合
のような緊急の議会にはあまり顔を見せなかった。このアナニヤはかつて大祭
司の衣を身にまとった人の中でも最も悪らつな人物の一人であった。彼の犯罪
と強奪の生涯、そして最後は暗殺によって倒れたその末路はヨセフスの各章に
詳しく記されている。
6-10節 今パウロが立つ場所の前に居ならぶ人たちは、彼にとっては全く
未知ではなかった。彼は明かに議会の中の多くの顔を思い出した。彼はまた屡
々会議の秩序を撹乱する二つの党派の争についてもよく知っていた。彼はこの
迫害の煽動者が昔と同じく、サドカイ人であることをも知っていた。そこで彼
はもし出来るならば、パリサイ人を自分の側に引き入れてやろうと心をきめた。
それでいよいよ次のようなことになる。
23:6 パウ ロは、議員 の 一部が サ ドカイ 派、一部 がファ リサイ 派である ことを知っ
て、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派で
す 。 死 者 が 復 活 す る と いう 望み を抱 いている こ とで 、 わた し は裁判に か けら れてい
るのです。」
23:7 パ ウ ロ が こ う 言 った の で 、 フ ァ リ サ イ 派 と サ ド カ イ 派 との 間に 論 争 が 生じ 、
最高法院は分裂した。
- 378 -
23:8
サ ドカイ 派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこ のいずれをも
認めているからである。
23:9
そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がっ
て激 しく 論 じ 、 「 こ の 人に は 何 の 悪 い点も 見い だ せな い 。 霊か 天使 か が 彼に 話し か
けたのだろうか」と言った。
23:10
こ う し て 、 論争 が 激 し く な っ た の で 、 千 人 隊長 は 、 パ ウ ロ が 彼 ら に 引 き裂
か れ て し ま う の で は な い か と 心 配 し、 兵士 た ち に 、 下 りて いっ て 人々 の 中 か ら パ ウ
ロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。
パウロの自分はパリサイ人であるという宣言は一部の学者たちによって欺瞞
的であるとされ、パウロが自分の敵の中にこのような分裂を生じさせたのは卑
怯だ と して 非難され る 。この非難は当らない ① 。なぜならば、彼がすべての点
においてパリサイ人であると言えなかったことは事実であるけれども、この言
葉を聞いた人がパリサイ人という語から考えた意味においては、たしかにパリ
サイ人に違いなかった。議会の人たちは皆彼がクリスチャンであることはよく
知っていた。従って彼らはパウロの「我はパリサイ人なり」という言葉を、た
ゞパリサイ人がサドカイ人に反対する色々な点においてパリサイ人側に同意見
で ある と い う意味 で言 った だ けである ことを知っていた。「 我が今審かるる は
死人の甦ることの希望につきてなり」という彼の言葉も、やはり同じ制限内で
解しなければならない。人々は皆それが彼の捕えられた直接原因でないことは
知っていた。しかし人々は皆同じようにこのことこそ、サドカイ人の彼を憎む
究極の原因であることも知っていた。パウロの言った二つのことは、人々が取
った意味においては何れも全く事実であって、両党派とも明瞭に感知できた所
であった。彼は自分の立場に関して一層正当な考慮が払われるようにとの気持
でパリサイ人の同情を自分に引こうとした。また、より平和的な解決をのぞん
だことも確かである。しかしそれにつづいて起った騒擾については彼には何の
責任もなかった。そしてまた彼がたとえその結果をすっかり予期していたとし
ても、それを以て彼を責めるということはあまりにも道徳的に小さな点をほじ
くりすぎると言わざるを得ない。それは丁度二頭のブルドッグの鼻と鼻をつき
合せて おいて、自分が喰いつかれることを免れた人を責めるようなものである。
①Farrarはこの非難を主張する。曰く『彼が復活したメシヤを信じていたということは、
こ の 場 合 こ の 場 に 呼 び 出 さ れ た 本 当 の 理 由 で は な い 。』『 し か ら ば 使 徒パ ウ ロ の こ の 言 葉
は偽り の言 葉ではな いか? 』『 果して彼は 議会に存在 した党派争い に火をつける権利 があ
ったか ?そ して 「我は パリ サイ人 なり 」と、いう価 値があった か?』『彼 の言った言 葉の
中 に 偽 り を 暗 示 す る も の が 少 し も な い と 言 え る で あ ろう か ? 』 こう い っ た 遠 ま わ し の 非
難 に つ いて は 上 に 充 分 に 答 えて お い た 。 そ して 面 白 い こ と に Farrarは こ の 非 難 を パ ウ ロ
- 379 -
のアグリッパ王の所での同じ宣言(26:6-8)またロマにいる信ぜぬユダヤ人たちの前での同
じ宣言(28:20)に関しては繰返していないということである。
それよりも私たちを驚かせることは、この議会においてパリサイ人の一部の
人たち(全部ではないにしても)が実に簡単にパウロの味方に転じたことである。
しかしながら一方、議会全体は甚だ厄介な状態を呈して来た。彼らはそもそも
千卒長に召集されて、何故彼らとそれに従う人たちとがパウロを殺そうとして
騒いだのかを示す筈であった。しかるに彼らはその理由をこの異教徒の士官に
対してすら満足の行く説明の出来ないことを知った。彼らがこの会の始めにパ
ウロに対して正当な非難をつきつけずに、まずパウロに語ることを要求したの
もこのためであった。誰も皆この事件において自分の側の困惑を切り抜けるた
めに、何か変ったことがおこるのを望んでいたのだ。したがってパウロが自ら
大胆にも我はパリサイ人なりと宣言した時、パリサイ党の中の利巧な連中は、
今こそこの混乱の泥沼の中から抜け出して、サドカイ人を泥の中にほうり込む
絶好のチャンスと考えた。後者はこのトリックに憤激し、ここに一大分裂が起
った。このトリックはたまたまパリサイ人の代弁者が、パウロは或は本当に天
使又は霊の声を聞いたのだったらどうだと敵方に矢を向けるに及んで、天使も
霊も否定するサドカイ人をますます憤激させることになった。ここで必ずしも
パリサイ人たちが実際に天使或は霊がパウロに語ったことを認めたと考える必
要はない。たゞ彼らはここで自分たちはパウロに御使又は霊が語ったというこ
とを否定するのではないことを明かにしておかないと、今サドカイ人に投げつ
けた矢が皮肉で野次られてしまうからである。
サドカイ人は復活も御使も霊もなしと言い、パリサイ人は両ながらありとい
うルカの文章の中で、私たちは彼が三つともありと言わずに、両ながらと言っ
ていることを不思議に思う。しかし彼は疑もなく御使と霊という考えの中に肉
体をもたぬ存在という概念をひっくるめて言ったのであろう。
ルシヤは又してもパウロ事件の真相を知ろうとする努力が無駄に終ったのを
見てがっかりした。しかし彼はとにかくパウロの敵たちがパウロに何一つまと
まった非難をなし得ないことだけは知ることが出来た。
7.パウロ、幻に励まされる(11)
11節
もしもこの時にパウロが書いた書簡が残っているならば、それはおそらく
彼の大きな苦境と失望について語っているであろう。なぜなら文字通りこのよう
な精神状態が次に記される事件の中からありありと覗い知られるからである。
- 380 -
23:11
その 夜 、 主はパウ ロ のそ ば に 立って言わ れた 。 「勇気 を出せ 。 エ ルサレ ム
でわたしのことを力強く証ししたように、ロマでも証しをしなければならない。」
主御自身の口からこのような励ましの言葉が語られることは、それが絶対必
要である時だけである。そしてこのことはその夜パウロが精神的に悩み、元気
を失っていたことを裏書きする。それは無理もない。コリントからエルサレム
に至る道中預言されつづけて来たその縲絏と患難が今一度に彼の上にふりかか
ったのだ。彼がエルサレムの信ぜぬ者共より救われるようにと日夜神に捧げた
彼自身の祈り、また兄弟たちの祈りが聴かれたのかどうか、それも明かではな
かった。牢獄の外には死あるのみ、牢獄の中には働く場所も見出すことが出来
なかった。どちらを向いても牢獄の壁と死とが行手をさえぎっていた。ちょう
どこのような瞬間に彼は自分の将来に関する最初の光明によって励まされたの
である。そして彼にとっては、そのことがどうして実現するかは想像も出来な
かったけれども、彼はきっと神は何らかの方法と時を用いて自分を今の危険か
ら逃 がし 、ロマに福音を宣べ伝えさせて下さるのだという確かな保証を受けた。
8.暗殺の陰謀と露見(12-22)
12-22節 その夜パウロに与えられた一条の希望の光にもかかわらず、彼
の前途は翌朝一層暗いものとなった。
23:12 夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀 をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み
食いしないという誓いを立てた。
23:13 このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。
23:14 彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「わたした
ちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、固く誓いました。
23:15 ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼を
あなたがたのところへ連れて来るように、最高法院と組んで千人隊長に願い出てく
ださい。わたしたちは、彼 がこ こへ来 る前に殺してしまう手はずを整えています。」
23:16 し か し 、 こ の 陰 謀 を パ ウ ロ の 姉 妹 の 子 が 聞 き 込 み 、 兵 営 の 中 に 入 っ て 来
て、パウロに知らせた。
23:17 それで、パウロは百人隊長の一人を呼んで言った。「この若者を千人隊長
のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです。」
23:18 そ こ で 百 人 隊 長 は 、 若 者 を 千 人 隊 長 の も と に 連 れ て 行 き 、 こ う 言 っ た 。
「 囚 人 パ ウ ロ が わ た し を 呼 ん で 、 こ の 若者 を こ ち ら に 連れ て 来 る よ う に と 頼 み ま し
た。何か話したいことがあるそうです。」
23:19 千人 隊長 は、若者 の手を取っ て人の いない所 へ行き、 「知らせた いことと
は何か」と尋ねた。
- 381 -
23:20
若者は言った。「ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳 しく調べるとい
う口 実で、 明日パウ ロを最高 法院に 連れて来る よう にと 、あな たに 願い出るこ とに
決めています。
23:21
どうか、彼らの言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、
パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。そして、
今その手はずを整えて、御承諾を待っているのです。」
23:22
そこで千人隊長は、「このことをわたしに知らせたとは、だれにも言うな」
と命じて、若者を帰した。
これらの陰謀者即ち発起人とこれを許可した祭司たち長老たちの悪意は想像
に余がある。後者の階級は前日の議会の成行に憤激したサドカイ人たちであり、
一方前者は死を決した町の無頼の徒であった。彼らの計画はもしそれが露見し
なかったならば、確かに大成功を収めたに違いない。なぜなら既にすっかり困
惑していたルシヤは喜んで彼らの要求を聞き入れたに違いなかった。そして囚
人が町の狭い通りや広い庭の石畳の上を曳かれて行く時、申し合せた四〇人の
向う見ずな男たちが兵卒の不意をついて、防禦のすきもあたえずパウロを殺す
ということはいとも容易なことであった。しかしこれほど大胆な、しかも相当
多数の人に知れわたり、また町中のすべての人が極度に昂奮して憎んでいる一
人物を目標とした陰謀は、完全に秘密を保つことが出来なかった。この事は早
くもパウロの友人たちの或る者と、何らかの事情でこの町に来ていた彼の甥と
の耳に入ったから、後者は直ちにこのことをパウロと千卒長の耳に伝えるとい
う厄介な仕事を買って出た。ロマの士官の前に案内された若者はおそらくぶる
ぶる震えていたろう。しかしルシヤは親切に彼を迎え、彼の手をとって安心さ
せ、若者が知らせを内密に告げられるように人のいない場所へ連れて行った。
それから彼はこの若者の行為がもし知られたならば生命が危ないことを思いや
り、また彼がこれから直ちに決行しようとする囚人移動の原因を陰謀者たちに
知らせぬため、絶対秘密を守ることを命じて彼を帰した。
9.パウロ、カイザリヤに護送される(23-30)
23-30節
この知らせを受けとった時、ルシヤには少くとも三つの方策が
考えられた。もし彼がユダヤ人の心を喜ばせようと思ったならば、彼は上官か
ら殺人の従犯ということを知られずに、彼らの計画を遂行させてやることが出
来た。もし彼がユダヤ人の力に対して自分の力のデモンストレーションをやろ
うと思ったならば、強 力 な 護 衛 を パ ウ ロ に つ け て 送 り 、 そ の う え 兵 士 たち
- 382 -
に陰謀者たちを見つけたら殺せと命令することも出来た。或はもし彼がパウロ
を保護してユダヤ人の怒と流血をさけようと思ったならば、彼はその夜ユダヤ
人たちの要求が来る前にこっそりパウロを安全な場所に移すことが出来た。彼
が正義と慎重の声を聞いてこの最後の方策をとったということは、彼の軍人と
しての熟練と人間としての人格の立派さを証明している。
23:23
千人隊長は百人隊長二人を呼び、「今夜九時カイサリアへ出発できるよう
に、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ」と言った。
23:24
ま た 、馬 を用意 し 、パ ウ ロ を乗せ て、 総督 フ ェリ クス の も と へ無 事に 護送
するように命じ、
23:25
次のような内容の手紙を書いた。
23:26
「クラウディウス・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。
23:27
こ の 者 が ユ ダ ヤ 人 に 捕 ら え ら れ 、 殺 さ れ よ う とし てい た の を 、 わ た しは 兵
士たちを率いて救 い出しました。ロマ帝国の市民権を持つ者であることが分かった
からです。
23:28
そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。
23:29
ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であっ
て、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。
23:30
し か し、 こ の 者に 対 す る 陰謀 が あ る と いう 報告 を受 け ま した の で 、 直ち に
閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出
るようにと、命じておきました。」
もしこの手紙の中にたった一つの誤述がなかったならば、ルシヤの取った処
置の中には何一つ非難すべき点はない。彼は正しい慎重な人のように行動した。
しかしたゞ彼は上官に報告するに当って、まるで自分がパウロのロマ市民であ
ることを知って救助したかのように述べて自分の功績を上官に示そうとしてい
る。実は彼はこの事実を正に彼を鞭で打とうとした瞬間に知ったのであった。
彼がパウロに訴える者共に総督の前に出て訴えることを命じたという記事は、
それが書かれた時には絶対に事実であったとはいえないけれども、彼はこの手
紙が読まれる前にこのことを事実にしようというつもりであった。したがって
これは総督をだますためではなかった。この手紙はまた彼がパウロに対する訴
訟の性質は理解していなかったけれども、少くとも彼が何ら法的犯罪のために
告訴されているのではないことを知っていたことを示している。この確信にも
とづいてルシヤは、もしもユダヤ人の陰謀がなかったならば彼を釈放するつも
りであったろう。従ってユダヤ人たちは、後に知らなければならなかったよう
に、自分たちの熱心な陰謀のおかげで、折角の一犠牲者を手中から逸してしま
ったのであった。ルシヤの堅実な判断と慎重さとは、またパウロと共に有力な
- 383 -
軍隊を派遣した事実によっていよいよ明かである。これはこの移動がユダヤ人
に発見された場合でも流血をさけるためであった。なぜならこの強力な護衛隊
では武器をもたぬ暴徒には歯が立たないであろうから。
10.パウロ、ペリクスの手にわたされる(31-35)
31-35節
23:31
命令を受けた百卒長は智慮と忠実を以てこの使命を遂行した。
さて、歩兵たちは、命令どおりにパウロを引き取って、夜のうちにアンティ
パトリスまで連れて行き、
23:32
翌日、騎兵たちに護送を任せて兵営へ戻った。
23:33
騎兵たちはカイサリアに到着すると、手紙を総督に届け、パウロを引き渡した。
23:34
総督 は手紙を読んでから、パウロがどの州の出身であるかを尋ね、キリキ
ア州の出身だと分かると、
23:35
「お前 を告発する者たちが到着してから、尋問することにする」と言った。
そして、ヘロデの官邸にパウロを留置しておくように命じた。
アンテパトリスに達するにはエフライム山脈からシャロンの平野に下る。今
日こ の町 の廃墟はこの平野のアウイエ川の源 の所にある ① 。町はエルサレムと
カイザリヤの大体中間位の位置に あり、双方から各々50kmの距離にあった。
一 隊 は 徹 夜 急 行 して エ ル サ レム か ら 攻 撃 を 受 ける あ ら ゆ る 危 険 の 区 域 外 に 出
た。そこからは七〇人の騎兵だけで護衛は充分であった。騎馬の旅行には馴れ
ないパウロにとっては、終夜この長距離の快速な馬上旅行は疑もなく非常な疲
労を覚えたであろう。ペリクスがパウロの生れ故郷を尋ねた理由はあまりはっ
きりしない。或は彼の自然の好奇心から出たものか、或はもし近ければ彼の故
郷の属領総督に彼を送りとどけようという目的であったのか。しかしそれが海
路でなければ行けないキリキヤであると知った時、彼は躊躇なく彼を自分の手
で保護することに決心した。パウロが護衛をつけてとじこめられたヘロデの官
邸、正しくは近衛兵営には、このような囚人を監禁するための留置所があった。
①この場所はその北側と西側の土地から多量の水が湧き出してアウイエー川をなしている
ために 、「泉の岬」(Ras el Ain)と呼ばれている。この丘の頂にかつて十字軍の建てた大
きな城の廃墟がのこっているが、この場所こそアンテパトリスであるとして知られている。
それはヨセフスがアンテパトリスは平原にあり、丘陵に近く、川によって取巻かれている
(古代史, 16:5,2)と書いており、この場所がこの描写と符号する唯一の地点であるからで
ある 。 位 置 は ル ッ ダ から 20km、 カ イ ザ リ ヤ か ら は50kmあ る。 Conderに よ れ ば『 こ ゝ
か ら 一 す じ の 急 流 が 西 に 歩 く 深 い 崖 の 間 を 通 って 、 黄 色 い 汚 っ た 砂 の ま じ っ た 水 量 を 海
に流し込んでいる。水 は 冬 に は 歩 い て 渡 る こ と は 出 来 ず 、夏 で も 涸 れ る こ と が な い 』
(Tent Work in Palestine)。
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第二項
カイザリヤにおけるパウロの禁錮
(24:1-26:32)
1.パウロ、ペリクスの前に訴えられる(24:1-9)
1節
エルサレムのユダヤ人たちは、パウロに対する訴訟はペリクスの前に提
出せよとルシヤから命じられた時、陰謀の失敗に甚しく失望したが、なおも彼
の死をあきらめず直ちに訴訟の手続をとった。
24:1
五 日 の 後、大祭 司 アナ ニ アは、長老数名と弁護士テル ティロという 者を連
れて下って来て、総督にパウロを訴え出た。
この五日間の計算はパウロがエルサレムをはなれた翌日、即ちルシヤが彼ら
に通告を与えた日から計算して彼らがカイザリヤに到着するまでと考えるのが
最も自然であろう。テルトロはその名が示すようにロマ人であった。そして彼
らがこの人を雇ったのは、今彼らが正式のロマ法廷に立とうとしており、した
がって自分たちを代表すべき、法的手続に熟練した人を必要としたからであった。
2-9節
正式の裁判は、今日の法廷におけると同じように、まず原告を代表
する検事の陳述によって開かれ、これにつづいて原告側の証人の証言が聴取さ
れた。
24:2/3
パウロが呼び出されると、テルティロは告発を始めた。「フェリクス閣
下、閣 下の お陰で 、私どもは十分に平和 を享受しております。また、閣下の御配慮
によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、
至るところで、このことを認めて称賛申し上げ、また心から感謝しているしだいです。
24:4
さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもって
お聞きください。
24:5
実 は、この男は疫病 のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き
起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。
24:6a この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。
(六節の後半及び七節なし)
24:8
閣 下御 自身 で こ の 者を お 調 べ くだ さ れ ば 、私 ど も の 告発 し た こ とが す べ て
お分かりになるかと存じます。」
24:9
他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた。
- 385 -
ペリクスという人はその行政上数々の腐敗と罪悪をおかしているけれども、こ
こにテルトロが陳述の冒頭で述べた称讃の辞は全く根拠のないお世辞でもない。
なぜなら彼はこの国の内乱のある度毎にそれを鎮圧して大きな功績を立てていた
からである。彼の鎮めた乱は第一回目は盗賊団の乱、第二回目は刺客団の乱、最
後は最初ルシヤがパウロと人違いした、あのエジプト人の乱であった(21:38)。
パウロに対する訴訟はただ漠然と『疫病の如き』男だというのであったが、
この一般的非難には三つのことが含まれていた。第一、彼は至る所でユダヤ人
を騒がせたということ。第 二 、 彼 は ナ ザ レ 人 の 異 端 の 首 で あ る と い う こ と 。
第三、彼は宮を汚そうとしたことであった。この三ヶ条の中一つでも成立する
なら ば 、この 訴訟は 成立 する。テルトロは陳述 を次のように結んだ 。『 ペリク
ス様、もしこのパウロという男を問い訊されますならば、私の申し上げました
こ との 証 拠 がわ かり ましょ う。』これは パウロ を鞭で 打って訊問せよというこ
とを暗に閃かしたものである。パウロはこの鞭をルシヤの手からのがれていた
のだが、テルトロはその事情を知らなかった。証人たちはこれらの事柄が皆そ
の通りであると証言して、訴訟の理由を裏づけた。
2.パウロの弁明(10-21)
10-21節 パウロは今、全く予告なしに、また前以て考える時間も与えら
れずに、もしこの法廷の裁判において成立するならば自分の生命に関するよう
な重大訴訟に対して、自己を弁護しなければならない破目に立った。後には自
分の陳述を支えてくれる一人の証人もなかったから、彼はこれから言おうとす
る事柄の自明の真実性に頼る外はなかった。しかし彼はイエスの『されば汝ら
如何に答えんと予め思慮るまじき事を心に定めよ。われ汝らに、凡て逆ふ者の
言い逆い言い消すことをなし得ざる口と智慧とを与ふべければなり』というあ
の御言葉によって支えられた。この保証の上に立って彼は答えることが出来、
また実際に答えた。
24:10 総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が
多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので①、私
自身のことを喜んで弁明いたします。
24:11 確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上っ
てから、まだ十二日しかたっていません。
24:12 神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動
したりするのを、だれも見た者はおりません。
24:13 そ して彼ら は、私を告発 している 件 に関し、閣下 に対 して何の 証拠 も挙げ
ることができません。
- 386 -
24:14
しかしここで、はっきり申し上 げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこ
の道 に従 って、先祖の神を礼拝 し、また 、律法に 則したことと預言者 の書 に書いて
あることを、ことごとく信じています。
24:15
更 に 、 正 し い 者 も 正 し くな い 者も やが て復 活す る と いう 希 望 を、 神に 対し
て抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。
24:16
こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良
心を絶えず保つように努めています。
24:17
さ て、 私は 、同胞 に 救援金 を渡す ため 、ま た 、供え 物 を献げる た めに 、何
年ぶりかで戻って来ました ② 。
24:18
私が 清 めの式 に あずかってか ら、神殿で供え物を献 げているところ を、人
に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。
24:19
た だ 、 アジ ア州 か ら 来た 数人 の ユ ダ ヤ 人 は い ま した 。 も し 、私 を訴 え る べ
き理 由が ある というのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべ
きだったのです。
24:20
さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にど
んな不正を見つけたか、今言うべきです。
24:21
彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁
判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」
① 彼 は こ の 時 ユ ダ ヤ の 収 税 官 の 地 位 に つ いて か ら 七 年 目 で あ っ た 。 同 職 の 先 任 者 たち に
比べれば『年久しく』である。
②もし私たちが、18:22に関して多くの学者たちが想像している訪問をなかったものと考
えるならば、15章に記された八年前の訪問以来彼はこの町に来たことがない。
この演説はテルトロの陳述の中の一つ一つの個条に直接答えるものである。
彼がエルサレムに上ってから僅か一二日にすぎなかったということは、少くと
もこの市内に関するかぎり騒ぎをおこしたという非難に答える。なぜなら彼は
既に 五 日前 からエル サレムをは な れ、エルサレムでは牢獄内に一日いた。従って
残るのはわずか六日、そのような運動をおこすには充分ではない。のみならず
彼は常においても会堂においても、またその他、町のどんな場所でも人と議論
し争ったことはなかった。次にナザレ人の首であるということに対しては、首
という言葉には全然ふれないで、とにかく自分はそのナザレ人と呼ばれる宗に
属するものであることを認め、但し自分はすべての律法と預言とを信じ、死者
の復活の希望をもち、良心に従って生活していると言明した。最後にアジヤよ
り来たユダヤ人が彼を宮で発見した時、彼は潔めを受けて民に施済を行い、宮
に献物をしていたということは、21:28で宮を汚したといい、14:6では宮を汚
- 387 -
そうとしたと変っている非難に弁駁するものである。結論として彼は、最初自
分を捕えるもの、即ち彼が宮でしていたことを実際に目撃した人たちが、証言
のためにこの席に出席していないことをあげ、それから七十人議会でおこった
ことだけを目撃したアナニヤと長老たちとに向って、あの時アナニヤとその我
方の長老たちをそれ以外の長老たちと激しく分かれ争わせた所の、自分がパリ
サイ人であるという宣言以外に、議会の席上でおかした罪を挙げられるなら挙
げて見よと要求した。この最後の言葉は彼が決してあの時のことを悪かったと
考えたからではなく、これによって彼を訴えたサドカイ人たちに痛烈な皮肉を
浴びせ、あわせて彼らが党派的嫉妬心から自分を訴えたのだということをペリ
クスに示すためであった。
3.裁判延期される(22,23)
22、23節
パウロの弁明は彼自身の陳述の外に何の証拠もなかったから、
この時ペリクスがパウロに有利な裁決を下したことは、彼にとっても起訴者た
ちにとっても、明かに意外であった。
24:22
フェリ クス は、この道 についてかなり詳しく知 っていたの で、「千人隊 長リ
シアが 下 って来 る の を待 って、 あなた たち の申 し立てに対して判決 を下すこ とにす
る」と言って裁判を延期した。
24:23
そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある
程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。
この裁決はペリクスが『この道』について比較的正確な知識を持ち合せてい
たことによる。ペリクスはこの知識をこの時のパウロの演説から得たのではな
い。実際パウロの演説はこの点に関してはほとんど何も知識を与えてくれない。
従ってペリクスはこの時すでにサドカイ人の陳述に瞞着されないだけの正確な
知識を持っていたと解すべきである。ユダヤに赴任して以来既に六年になる彼
は、好むと好まざるとにかゝわらず、自分の治下の民を二つに分割しているこ
の宗教的党派についても熟知し、またこの党派間に存在する嫉妬心についても
知りすぎる程知っていた。彼 が こ の 訴 訟 を 延 期 す る た め に 宣 告 し た 理 由 は 、
おそらくサドカイ人たちには見えすいていたにちがいないが、単なる遁辞であ
った。一方パウロの禁固は寛かに守るようにとの命令通り、今までよりはずっ
と楽になった。
- 388 -
4.ペリクスとドルシラに対するパウロの説教(24-27)
24節
パウロが友人たちと会うことも許されたという寛大な取扱いは、単に
カイザリヤに住むピリポやその他の兄弟たちの親しい訪問を彼に許しただけで
はなく 、また彼の 言を聞こうと 誘われてやって来るすべての不信 者たちに福音
を宣べ伝える機会も彼に与えた。次に記載された事件がおこるようになったのも、
もとはといえば彼のこの働きからであったかもしれない。
24:24
数日 の 後 、 フェリ ク スは ユダヤ 人で ある 妻 ド ル シラ と一緒に 来て、 パウ ロ
を呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。
『来り』という言葉は彼がしばらく町をはなれていて帰って来たという意味
か、あるいは彼が自分の邸からわざわざパウロの捕えられているヘロデの近衛
兵営までやって来たという意味である。ヨセフスによればドルシラという女は、
使徒ヤコブを殺し、後に悲惨な死をとげた(12:1,2,20-23)ヘロデ・アグリッパ
の 娘 で あ っ た 。紀 元 44年 父 が 死 ん だ 時 彼女 は 、 わず か 六 才 であ っ た と いう か
ら、今この物語の中で登場する紀元58年にはやっと二〇才そこそこであった。
彼女はこの時すでにエメサの王アジズに嫁いでいたが、彼女を見そめてその美
貌に魅せられたぺリクスは、シモンという魔術師の詭計によって彼女をおびき
出し、彼女に今の夫を棄てて自分の所へ来るようにと口説き、今は公然と姦通
の生 活を して いたの で あった ① 。ロマの歴史家中最も慎重で 公平な一人タキツ
スは ペ リ クスに つ いて 断じて 言う、『彼は奴隷 のような気 質をもって 王者の権
をふ るい 、あらゆる残虐と肉慾をほしいまゝにした』 ② 。彼と彼の 兄弟パラス
とははじめ実際にクラウデオ皇帝の母にあたるアグリッピナの家の奴隷であっ
たが、クラウデオがこれを見出して奴隷の位置から一属領の支配者に登用した
のであった。
① Josephus,Antiquities.20:7.2.
② "Antonius Felix, per omnem saevitiam et libidinem, jus regium servilli in
genito excercuit" (History, v.9)
25節
キリストに対する信仰について語れと命じられたパウロは、この説
教の話題を自分で自由にえらぶことが出来た。そして彼は今自分の前にいる聴
衆には最も痛い精神的欠点を直接衝く話をした。
24:25
し か し 、パ ウ ロ が 正義や 節制 や来 る べ き裁き に つ いて話 す と、 フェリ ク ス
は恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことに
する」と言った。
- 389 -
このような悪行の人に向って正義を語ること、このような抑制のない肉慾の
人にすべてのことに関する節制を語ること、またこれらのことに関して語った
ことから来るべき審判を描いて痛い所に打ちこむこと程、聞く人にとって恐ろ
し い こ と はな い 。 私 はこ こ で Farrarの 烈 火 の如 き言 葉 を 引用 しよ う。『 彼は
自分の罪に汚れた過去をふりかえって一瞥した時、恐ろしさにふるえ上った。
彼はあらゆる地位を通じて、あらゆる時代を通じて、あらゆる町を通じて最も
卑しむべきもの、奴隷であった。彼はその兄弟パラスと共に古今の王朝を通じ
て最も堕落した朝臣の地位に上った。彼はあらゆる軍隊の中でも最も悪らつな
一援軍の将校であった。彼の若い頃の生活の中にどれだけの肉慾と流血の歴史
が秘められているか、それは私たちにはわからない。しかしありとあらゆるユ
ダヤ人の歴史、異邦人の歴史、聖なる歴史、世俗的な歴史の証拠は、彼が最初
サマリヤの政府において、次にパレスタインの政府において過した八年の間に、
いかに貪慾であり、いかに野暮であり、いかに叛逆的であり、いかに不正であ
り、いかに隠れた殺人と公然たる殺人の血に染まっていたかということを暴露
して余す所がない。彼の背後には消すことの出来ない足跡があった。彼は今薄
氷を 踏 む 思 いを 感じは じめた (Life of Paul, 550)。 彼をとら えた恐怖は生活
の転換になくてはならない出発点であった。しかし肉慾と野心は今まさにもえ
始めようとしたこの良心の火をふみ消して、ちょうどあまりにも正直な忠告者
の言葉に驚きおそれつゝなお悔改ることが出来ない罪人特有の言訳をこしらえ
て、この忠告者の面前を逃れようとした。しかし彼が延ばした『よき機』は彼
の上に再び来なかった。また来ることが出来なかった。なぜなら共に罪の中に
生活するこの美しい婦人と縁を切って、すぐに今までの生活をあらためるとい
うことは、決して都合のよいことではなかったからである。このような生活の
転換を行うためには、悪人は多くの自分の都合や便利と倣慢とを棄てなければ
ならない。ドルシラがこれを聞いてどう感じたか、ルカは記していない。しか
しこの女が頑固なペリクス以上に正しい生活へ帰そうという意慾を持ったであ
ろうということは殆ど考えられない。
26、27節
24:26
ペリクスは実にタキツスの言った最後の言葉を裏切らなかった。
だ が 、パ ウ ロ か ら金 をも ら おう とす る 下心 も あった の で 、 度々 呼び 出して
は話し合っていた。
24:27
さて 、二 年 た って、 フェリク スの 後任者 と してポル キウス ・フェ スト ゥ スが
赴任 した が、フェリクスは、ユダヤ人に 気に 入られようとして、パウロを監禁したま
まにしておいた。
- 390 -
ペリクスは裁判の際パウロの口からもれた、彼が遠方の教会から施済を携え
てエルサレムに上ったことをたまたま知ったゞけではなく、更に不幸の際には
互に助け合う弟子たちの同情を知っていたから、パウロがこの禁固から解放し
てもらいたいならば、多額の金を募集して自分の所へ持ってくれば喜んで受け
取る、ということを閃かしさえすれば、金が自分の手に入って来るということ
を疑わなかった。たしかに、もしパウロがこのような方法で釈放されることが
正しいと考えたならば、金はすぐ手に入ったであろう。彼の兄弟たちがどうし
て、彼をこの牢獄の恥辱から救い再び使徒としての立派な働きをしてもらうた
めに、喜んで金を出さないことがあろう。しかし賄賂をおくることは賄賂を受
けるに次いで卑劣な行為である。パウロはどんな犯罪にも与し得る人ではなかった。
ペリクスの免職は、ユダヤ人が彼の失政を訴えたことに起因する。彼はネロ
帝によってロマに召還されてその犯罪をたゞされ、かろうじて死刑だけは免れ
たが、ゴオルへ追放されてそこで死んだ。ドルシラは彼のこの落目にも最後ま
で彼に従った。しかし彼女が生んだ彼の息子、ドルシラの兄弟にならってアグ
リッパと名づけられた息子は、ヴェスヴィアス火山の爆発の際、ポンペイとヘ
ルクラヌームの両市が埋没した時に死んだ ① 。
①Josephus, Ant. 20:7,2.
パウロのカイザリヤでの二年間の獄中時代は、もしこの使徒行伝の沈黙から
判断することが許されるならば、パウロの全生涯においても最も無活動の時期
であったといえる。この時期に書かれた書簡は一つもない。また彼の兄弟たち
やその他の人たちが始終自由に彼と接触していたにもかゝわらず、彼との面会
の結果得られた収穫については一つも記録にのこっていない。彼が私たちの前
にあらわれるのは、ただ時々取調べのために彼が裁判官の前に呼び出される瞬
間だけである。
5.パウロ、フェストの前に取り調べを受ける(25:1-12)
1-5節 パウロの長い間の禁錮も、彼の敵たちの憎悪を少しも和げなかった
ように見える。それで総督の交代を機に、彼らは再び彼を殺そうとする努力を
むしかえした。
25:1
フェストゥスは、総督として着任して三日たってから、カイサリアからエルサ
レムへ上った。
25:2/3 祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエル
サレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そ
うと陰謀をたくらんでいたのである。
25:4
ところがフェストゥスは、パウロはカイサリアで監禁されており、自分も間も
- 391 -
なくそこへ帰るつもりであると答え、
25:5
「 だ か ら 、 そ の 男 に 不 都 合 な と こ ろ が ある と いう の な ら 、あ な たた ち の う ち
の有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」と言った。
彼は又彼らに対して、彼の言葉(16)から知られるように、訴えられる者が未
だ訴える者の面前で弁明する機を与えられる前に付するのはロマの法律に反す
るということも告げた。これらのことは皆フェストが正義を行おうと欲したこ
と示している。彼はもちろんこの時パウロ待伏せの計画については何も知らな
かった。
6-8節
25:6
彼は約束した聴取を行うことを遅らせなかった。
フェ スト ゥ スは 、八日か 十 日 ほ ど彼らの 間で 過ご してから 、カ イ サリアへ下
り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。
25:7
パ ウ ロ が 出 廷 す る と 、 エ ル サ レ ム か ら 下 っ て 来 た ユ ダ ヤ 人 た ち が 彼 を取 り
囲ん で 、重 い罪状 をあれこ れ 言い立てたが 、 それ を立証 す る こと はで きな かっ た。
25:8
パウロ は、「私 は、ユダ ヤ人 の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝 に対
しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。
パウロのこの弁明の個条は前にテルトロの起訴に対してペリクスの前でなし
たものと(24:10-21)全く同じであり、この時の訴因が前と同じであったことを
あ らわ してい る 。『 ナザ レ人の異端 の首』である という ことは、律法に対する
罪であり、宮を汚そうとしたことは聖なる所に対する罪であり、ユダヤ人を騒
がしたことはカイザルに対する罪であった。最後の点に関しては、ユダヤ人が
彼に対しておこした暴動の罪を彼になすりつけたわけである。
9節
起 訴 者 はそ の 起訴 の理 由 を 証明 する こ とが 出来 ず(7)、囚 人は 起 訴者た
ち全部に対して自己の無罪を主張したから、彼は当然無条件で釈放されるべき
であった。しかしフェストは遂にこゝまで来てその正義感を人気取りの慾望に
よって曲げてしまった。
25:9
しかし、フェストゥ スはユダヤ人に 気に入られようとして、パウロに言った。
「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を
受けたいと思うか。」
カイザリヤはこの属領の政府所在地であったから、彼はその被告たるロマ市
民をこの地以外で裁判する権利はなかった。したがって彼はパウロにわざわざ
エ ルサ レム で裁判 を受 けること を欲 す る か と い う こ と を 聞 い た の で あ る 。
- 392 -
3節に記された陰謀については勿論彼は何も知らなかった。けれども彼はパウ
ロを裁判のためにエルサレムに移せというユダヤ人たちの請願のかげには、何
か悪意ある計画が存在している位のことは気づいていたろう。ために彼はどう
してもこの願いを即座に却下しなければならなかった。
10-12節
ユダヤ人たちのこの計画はパウロにはよく見えすいていた。彼
は四〇人の陰謀者たちの誓いを忘れてはいなかった。そしてまた彼らはこの時
までに既に断食の誓願(23:12,13)を破っていたには違いないけれども、このこ
とは彼をして、もし出来るならば自分を殺そうという決心を一層かたくさせて
いることをも知っていた。幸にも、彼をこの新しい危険にさらすことになった
この禁錮は、かえってその危険からのがれる道を彼にそなえた。そして瞬間、
心の中にきめた決心の中に、彼は遂にロマの片影をちらりと見た。
25:10
パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁
判を 受 け る の が 当然 で す 。 よ く ご 存じ の と お り、 私 は ユダ ヤ 人 に 対 して 何も 悪 いこ
とをしていません。
25:11
も し、悪 いこ と をし、何か死罪に当た るこ とをしたの であれば 、決して死 を
免れ よ う と は 思 い ま せ ん 。 しか し 、 こ の 人 た ち の 訴え が 事実 無根 な ら 、 だ れ も 私 を
彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」
25:12
そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだ
から、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。
『我はわが審かるべきカイザルの審判の座の前に立ちをるなり』というこの
言葉は、エルサレムに送られるということに対する彼の抗言であった。またフ
ェストが自分がユダヤ人に対して何の害をも行わなかったことをよく知ってい
るという彼の宣言は、審問の進展に基いて言ったものであった。すべてのロマ
市民が持っていたカイザルへ上訴の権利は、この上訴をうけた裁判官に対して、
即 座 に 裁 判 を 中 止 してそ の 囚 人 を 起 訴 者 と 一 緒 に ロ マ に お く る こ と を 要 求 し
た。そして上訴者は皇帝の法廷において裁かれることになっていた。パウロの
場合この上訴は自由な人が軍隊の力に保護を要求したというのではなく、彼を
不当に拘留している軍隊に対して、この不正の上に更に暗殺の危険を加えて更
に大きな不正をなさぬようにという要求であった。フェストの答はこの上訴の
中に含められた非難に対して、少からぬ苛々しい感情を洩らしていると同時に、
パウロ自身がこれから耐えなければならない不便の覚悟はいいかという語気を
あらわしている。即ち彼はこの上訴のために監視兵をつけられてロマまで囚人
として護送されること、又証人の到着がおくれたり皇帝の法廷自体の猶予から
おこる一切の裁判の遷延をも覚悟しなければならなかった。この不便は余程の
場合でない限り市民の上訴を断念させる程のものであった。
- 393 -
6.パウロ裁判事件、アグリッパ王の耳に入る(13-22)
13節
新しく隣の属領に封せられた同級の君主がお互に祝賀の挨拶をし合う
という当時の習慣は、たまたまパウロの禁錮中、次に記された一事件をおこす
ことになった。
25:13
数日たって、アグリッパ王とベルニケが、フェストゥスに敬意を表するため
にカイサリアに来た。
こ の アグ リ ッパ は 使 徒 ヤ コ ブ を 殺 害 し た ヘ ロ デ (12:1,2)の 独 り 息 子 で あ っ
た。彼の父が死んだ時、彼はまだわずかに一七才であったため、父の領地の政
治をひきつぐには若すぎると考えられて、時の皇帝からヨルダンの東にある一
小地方カルキスの王にされた。彼は今三一才であった。彼の姉妹に当るベルニ
ケは彼女の妹ドルシラと共に美貌をもって知られていた。彼女はそれまで自分
の叔父であるカルキスの前王の妻になっていたが、今は寡婦となって、自分の
兄弟と同棲していた ① 。
①Josephus, Ant.20:7,3.
14-21節
フェストはパウロに対する訴訟がユダヤ人の律法に関する問題
であることを知っていたけれども、この問題のはっきりした性質については全
く暗かった。そのうえ彼は今皇帝にその上訴の説明を送る必要があったので、
今アグリッパの来たのを機会に、アグリッパのユダヤ事情に関する詳しい知識
に訴えて、この事件ついて何らかの光を得ようと決心した。
25:14 彼 ら が 幾日 もそ こ に 滞在し ていた の で 、フ ェスト ゥ ス はパウ ロ の件を王 に
持ち出して言った。「ここに、フェリクスが囚人として残していった男がいます。
25:15 わたしがエルサレムに行ったときに、祭司長たちやユダヤ人の長老たちが
この男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです。
25:16 わたしは彼らに答えました。『被告が告発されたことについて、原告の面前
で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはロマ人の慣習ではない』と。
25:17 そ れで 、彼ら が 連 れ立って当地 へ来ま したか ら、わた しはすぐそ の翌日、
裁判の席に着き、その男を出廷させるように命令しました。
25:18 告発者 た ち は立 ち 上 が りま したが 、 彼につ いて、 わた しが 予想していた よ
うな罪状は何一つ指摘できませんでした。
25:19 パ ウ ロ と 言い 争 っ て いる 問 題 は、 彼 ら 自身 の 宗 教 ① に 関 す る こ とと 、 死 ん
でしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張
しているのです。
- 394 -
25:20
わたしは、これらのことの調査の方法が分からなかったので、『エルサレム
へ行き、そこでこれらの件に関して裁判を受けたくはないか』と言いました。
25:21
しかしパウロは、皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにとどめておいて
ほしいと願い出ましたので、皇帝のもとに護送するまで、彼をとどめておくように命
令しました。」
①マガー ヴィはこ の語 を“ demon-worship” (悪 鬼礼拝 )と 訳し、 脚註 で次 のよう に言って
いる、『この訳が正しい理由については、17:18,19の註解を見よ』(訳者)
この言葉から私たちはフェストが今回のパウロ事件に関して持っていた概念
を正確に知ることが出来る。彼はパウロが死んだイエスという人を神に対する
敬意を以て礼拝することを強く主張するのを見、ギリシャ人やロマ人の考えに
従って、彼がこゝで言っているように悪鬼礼拝という呼び方をした。彼はユダ
ヤ人が他の国民と同じように悪鬼礼拝の習慣を持っているものと考えたから、
従って彼らとパウロとの論争は多分、彼 ら が 果 し て こ の イ エ ス を 他 の 悪 鬼
demons と 同 列に お いて 礼 拝 すべ き である か とい う問題 だと思 った 。 彼がユ
ダヤ人の宗教思想について無智であったこと、またイエスについても「イエス
と云う者」とまるで全然名前も聞いたことがないほど無智であったことは、彼
が当時の一般の政治家たちの例にもれず、宗教問題に関して何の勉強もしてい
なかった証拠である。アグリッパ王は彼の無智を心の中で苦笑したに違いない。
22節
アグリッパ王がパウロ又はイエスのことを聞いたのはこれが第一回目
であったとは言えない。使徒ヤコブを殺し、またペテロを殺そうとし、常にキ
リスト教の信仰を圧迫しようと努力したヘロデの子として、バプテスマのヨハ
ネを殺し、イエスが十字架につけられた時には主を嘲笑したヘロデの甥として、
ベツレヘムにおいて揺籃のイエスを殺そうとしたヘロデの孫として、イエスの
名と彼の使徒たちの名とは数代の間、彼の家庭の常用語となっていた。パウロ
の名は他の始からの使徒たちの名よりは耳新しかったかもしれないが、彼が全
然何も知らなかったと言うことは出来ない。彼はもちろん先祖たちと同じく、
一使徒の説教を聞くためにわざわざ身を卑しくして教会を訪れようとはしなか
ったであろうが、しかし今人目を避けたこのパウロの捕えられている近衛兵営
の中で、彼は充分に自分の好奇心をみたし、同時にフェストにも幾らかの助力
をしてやることが出来た。
25:22
そこで、アグリッパがフェストゥスに、「わたしも、その男の言うことを聞い
てみたいと思います」と言うと、フェストゥスは、「明日、お聞きになれます」と言った。
- 395 -
この申出はフェストを喜ばせた。なぜなら彼はそれによって自分が得たいと
思っていた知識を得られる上に、この賓客をもう一日歓待することが出来たか
らである。
7.パウロの裁判に関するフェストの公開声明(23-27)
23節
パウロに対する敬意からでなく、むしろこの貴賓の心を楽しませるた
めに、フェストはパウロがそれまで話したことのないような、この世的には最
も位の高い聴者をパウロのために準備した。
25:23
翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおも
だ った 人 々 と共に 謁 見 室に 入 ると 、フェス ト ゥ スの 命令 で パウ ロ が引 き 出 され た。
パウロを呼び出しによこされた役人がもしこの時、アグリッパ王がヤコブの
首を斬ったように彼の首を斬ると言ったとしても、パウロは大して驚かなかっ
たろう。しかしこのヘロデの家族の公達が自分の説教を聞こうとしているのだ
と聞かされた時の彼の心を誰が想像することが出来ようか。キリストとこの始
めからキリストに逆った家族の中でも最も残虐な家族との間の深淵が、今その
家族の一人を通して架けられようとしているのは、そして王者である彼が福音
を聞こうとしているのは、果して本当であろうか?自分を待つ素晴しい聴衆の
前に出るべく準備をしながら、パ ウ ロ に は こ の 疑 問 が 閃 い た に ち が い な い 。
ヘロデ家の一人をキリストの道に勝ち得ることが出来るかもしれないという、
かすかな可能性は彼の心を戦慄させ、この幸先のよい機会にふさわしい努力を
しようという決心が彼をふるい立たせたにちがいない。彼は今自分に与えられ
た特権によって、二年間の禁錮の苦しみを殆ど償われる思いであった。後にも
先にも 始めて(ヤコブは)この 時一人の使徒 がヘロデ家の一員 と顔を合せて会見
するという機会が与えられたのだった。
24-27節
会見の一部始終はこの尊厳な聴者にふさわしい威厳と正式を以
て行われた。
25:24
そ こ で 、 フェ ス ト ゥ ス は言 った 。 「 アグ リ ッ パ王 、な ら び に列 席の 諸君 、こ
の 男 を 御 覧 な さ い 。 ユ ダ ヤ 人 が こ ぞ っ ても う 生 か し てお く べ き で は な い と叫 び 、エ
ルサレムでもこの地でもわたしに訴え出ているのは、この男のことです。
25:25
しかし、彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わ
た し に は 分 か り ま した 。 と こ ろ が 、 こ の 者自 身 が 皇帝 陛 下 に 上 訴し た の で 、護 送す
ることに決定しました。
- 396 -
25:26
しか し、 こ の 者に つ いて 確実 な こ と は 、 何も 陛 下 に 書き 送る こ と が で き ま
せん。そこで、諸君の前に、特にアグリッパ王、貴下の前に彼を引き出しました。よ
く取り調べてから、何か書き送るようにしたいのです。
25:27
囚人を護送するのに、その罪状を示さないのは理に合わないと、わたしに
は思われるからです。」
これは輝かしい聴衆の前に立つフェストとしては、既にロマ帝国内の隅々に、
また帝都ロマにまでうち立てられている一つの信仰について、異教徒としての
全くの無智を暴露した正直な告白であった。この彼の無智に驚いたのはアグリ
ッパ王以外にも、聴衆中には沢山いたであろう。なぜならその場に居並ぶ『市
の重立 ち たる者ども』、 また彼 の配下である 千卒 長でさえもパウロの地位 を全
然理解していないということは、殆ど考えられなかったからである。しかし誰
もみな、フェストがこの自由権をもつ人を囚人として捕らえながら、カイザル
に対して上訴されるまで彼をどうにも処置しようがなかったという窮境に立っ
ていることを見抜くことが出来た。
8.アグリッパ王の前におけるパウロの弁明(26:1-29)
1.彼の序論(1-3)
1-3節 フェストが着席すると、今度はアグリッパがこの取り調べの主宰者
となった。
26:1 ア グ リ ッ パ は パ ウ ロ に 、 「 お 前 は 自 分 の こ と を 話 し て よ い 」 と 言 っ た 。 そ こ
で、パウロは手を差し伸べて弁明した。
26:2 「 ア グ リ ッ パ 王 よ 、 私 が ユ ダ ヤ 人 た ち に 訴 え ら れ て い る こ と す べ て に つ い
て、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。
26:3 王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どう
か忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。
こ れは この 場合のパウ ロの幸福を感じた率直 な表現であっ た。 彼は次 の口に
出しては不利な理由から本当に幸福を感じていた--即ちこの若い王をイエス
にかち得ることの希望、そして特にまたルシヤやペリクスやフェストとは違っ
て、ユダヤ人の問題と習慣とによく通じており、この事件をも理解出来るであ
ろう人物に向って語ることが出来るという理由である。アグリッパはユダヤ教
の信仰の中に育ち、そのために彼はユダヤがロマの収税官の下にあった間、エ
ル サ レム の 宗 教 事 件 に関 す る 監 督者 と しての 委 任 を 皇帝 か ら 受け て い た (ヨ セ
フス, 20:1,3)。
- 397 -
Ⅱ.ユダヤ教の党派に対する彼の立場(4-8)
4-8節
前置きを述べ終った彼は、次に自分がかつてはパリサイ人として訓
練を受けたこと、また今でもこの党に特有の希望を信じつゞける者であること
を宣言する。
26:4
さ て 、 私 の 若 い こ ろ か ら の 生 活 が 、 同胞 の 間 で あ れ 、 ま た エ ル サレ ム の 中
であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。
26:5
彼ら は 以 前か ら 私を 知 っ てい る の で す 。 だ か ら 、 私た ち の 宗 教 の 中 で いち
ばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは
証言しようと思えば、証言できるのです。
26:6
今、 私 が こ こ に 立 って 裁判 を受 け てい る の は 、 神 が 私た ち の 先祖 に お 与 え
になった約束の実現に、望みをかけているからです。
26:7
私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されるこ
とを 望 ん で いま す 。 王 よ、 私は こ の 希望 を抱い ている た め に 、ユ ダ ヤ人 か ら訴 え ら
れているのです。
26:8
神 が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いと
お考えになるのでしょうか。
この言葉の中にある彼の目的は、決してどのような非難からも自分を弁護す
るものではない。第一、上の言葉はこゝに挙げられたどの訴因にもふれていない。
彼の目的は王の心の中に自分に対する一片の同情を喚起し、これによって彼が
王の心に刻みつけようとする深い印象を与え得る道を開くことにあった。この
目的のために彼はまた自分が青年時代を同国人の中で、しかもエルサレムで過
したという事実を強調した。というのはもし彼がその時代を外国人たちの間で
過していたならば、彼はユダヤ人の希望や興味についても無関心であったかも
しれ な い からである。 彼 が 復 活 の 希 望 の た め に 裁 か れ る と い う 宣 言 は 、23:
6及 び 24:21に お ける と 同様 に解 すべ きであ る。彼 の言わ んと す る意味 は、彼
を今こうして獄につなぐことになった真の発起人たるサドカイ人の迫害は、主
としてパウロが復活を説いたこと、特にそれをイエスの名によって説いたため
に怒 って 起 った もので あ る、 とい うことだった。『神 は死人を甦へらせ給ふと
も、汝等なんぞ信じ難しとするか』という詰問において、彼は話のほこ先を、
この複数代名詞が示すように、今まで専ら話しかけていた相手のアグリッパか
ら、フェストを含む復活を信じない残りの全会衆に転じた。詰問の目的は彼ら
の心に強く呼びかけることによって彼らの心の中に、今まで彼らが復活を信じ
なかった理由を思いおこさせることにあった。それはまた前にのべたことによ
って得たアグリッパ王の心を、一層かたくつかまえることにあった。
- 398 -
Ⅲ.イエスに対するかつての彼の立場(9-11)
9-11節
パウロはこの演説の次の区分の中で、王の同情を得るためにもう
一つの一層明白な企図を実行した。
26:9
実 は、 私自 身も 、あの ナザ レ の人 イエ ス の名に 大いに 反対す べきだ と考 え
ていました。
26:10
そして、それをエルサ レムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を
受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示
をしたのです ① 。
26:11
また 、至るとこ ろ の会堂 で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように ②
強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」
①〔訳者註〕『これに同意し』は『一票を投じ』
〔著者註〕この言葉から、パウロが迫害の犠牲者として選ばれた人たちに対して、その
中 の 誰 を 殺 す か と い う こ と に つ き 一 票 を 投 ず る 権 利 を も って い た こ と が わ か る 。 こ の 事
実 は 普 通 彼 が 七 十 人 議 会 の 議 員 で あ っ た 証 拠 と して と り あ げら れ る 。 し か し 彼 の 一 票 は
或は七十人議会によって迫害を指導すべく任命された委員会の一員として投ぜられたのか
もしれない。そしてこのことを彼は『祭司長らより権威と委任とを受けたという言葉(16:12)
によって閃めかしている。
②「涜言』は神の名を涜すことではない。彼は決して神を涜させようとは思わなかったろう。
これはイエスの名を涜すことである。
迫害者としての彼の過去半生の短い物語は、短いながらも、ルカの書いた記
録(8:1-3、9:1,2)に幾 つかの新しい事実を附加 えている。何と、この男は自分
の家族とかつては同じ側にあり、自分の父がしたように例のナザレ人事件を抑
圧しようという同じ熱意をあらわしていたのだ。それはこの効果を与えるため
であり、驚きにみたされたこの青年の心にこの疑問を生じさせるためであった。
それではこの迫害者がかくも大きな変化をこうむった事情はどうであったか?
Ⅳ.イエスとの出会い(12-18)
12-18節
彼が自らアグリッパの頭の中におこさせた疑問に答えるかのよ
うに、次にパウロは自分がこの残虐な迫害者から、イエスの道の熱心な弁明者
に変った原因をのべる。
- 399 -
26:12
「 こ う し て 、 私 は 祭 司 長 た ち か ら 権 限を 委任 さ れ て、 ダ マ ス コへ 向 か っ た
のですが、
26:13
その途中、真昼の ことです 。王よ、私は天からの光を見たのです。それは
太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。
26:14
私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するの
か。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声
を聞きました。
26:15
私が 、 『 主 よ 、 あ な た は ど な た で す か 』 と 申 し ま す と 、 主 は 言 わ れ ま し た 。
『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16
起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわ
たし を見 た こ と 、 そ して、 こ れ から わ た しが 示 そ う とす る こ と に つ いて、 あな た を奉
仕者、また証人にするためである。
26:17
わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。
26:18
それは、彼らの 目を開いて、闇から光に、サタンの 支配から神 に立ち帰ら
せ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々
と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
パウロが真実を語っていることを認めるならば、アグリッパは上のパウロの
言葉の中に、イエスの復活と受栄をパウロと同じ位かたく確信出来るだけの証
拠を見ることが出来た。しかもこの証拠は彼の耳には全く新しいものであった。
というのは彼は既に始からの使徒たちの証言については久しく聞き知っていた
かも知れないが、パウロの証言はまだ一度も聞いたことがなかったからである。
この証言の中にはまたパウロが、かつては棘あるむちで打たれて蹴り返してい
る、手に負えない牛のようなものであり、教会を迫害しながら自らの苦痛を増
し加えているようなものであったという事実をも含んでいる。この経験はまた
疑もなくアグリッパの先祖たちについても同じであったろう。人間は抵抗せぬ
男女を迫害して殺しながら非常な苦痛と悔恨を感じずにはいられない。それが
たとえかつてのパウロのように、神に奉仕している(9節参照)と考えている時も ① 。
更にアグリッパはこの演説のこの部分から、パウロが天よりの委任を、しかも
栄光を受け給うたイエスよりの委任を受けて、彼が今行っているこの任務を遂
行すべく命じられていることを知った。
①彼が神に奉仕していたと考えていたことは、このとげあるむちという言葉を、良心のと
げと解釈することを許さない。
- 400 -
Ⅴ.彼が今捕えられている理由(19-23)
19、20節
このような委任を受けたという演説者は、次に彼がこの委任を
如何に遂行したかを王に語る。
26:19
「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、
26:20
ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々 ① 、
そ して異 邦 人に 対 し て、 悔改 て神 に 立ち 帰り、悔 改にふ さ わしい行いをす る よ う に
と伝えました。
① こ の 個 所 の パ ウ ロ の 言 葉 を 彼 が 福 音 を 宣 べ 伝 え た 国 々 を 彼 の 訪 れ た 順 番 に 言 って い る
と解釈し、使徒行伝の前の記録と比較してパウロの言うことはルカと矛盾していると指摘
する人がある。しかし彼は決してそのような順序に従っていることを少しでも閃かす表現
を用いていない。彼は時間の順序をのべたのではなく、場所の順序をのべた。したがって
矛盾は少しもない。パウロのこの陳述は前の記事に照し合せて解さるべきである。
王 は 内 心答えなか ったか 、「 パウロ よお前の言 うこと は正しい。お前 が見た
という通りのことを実際にお前が見たというなら、お前が天の幻に従ったのは
正しい。そして私たちの側の人々がお前に反対したのは誤っていた」、と。
21-23節
パウロは自分の敵たちが間違っていることを更に示すため、次
に彼らが如何に行動したかを語る。
26:21
そのためにユダヤ人 たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとした
のです。
26:22
とこ ろ で、 私は神 か ら の助け を今日まで いた だいて、固く立ち、小さ な者
にも大 きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必 ず起 こると語っ
たこと以外には、何一つ述べていません。
26:23
つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、
民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」
パウロがそのなしたこと、教えたことについて真実を語っていないと考えぬ
限り、アグリッパはユダヤ人のパウロに対する扱いが不正であったことを認め
ないわけにはゆかなかった。しかも彼は明らかにパウロの誠実を疑う余地を見
出すことは出来なかった。更にまたパウロは自分が律法と預言者に反すること
は何一つとして教えなかったと主張すると同時に、彼の議論の中にこの演説の
肝心の点である、キリストの死人の中よりの復活が預言の中に霊感されている
- 401 -
という事実を、いとも巧妙に織込んだ。実際彼は、預言に従うならば、復活せ
るキリストこそはイスラエルの栄光、また特にパリサイ人の栄光である復活の
希望を、間違いなく証明するものであることを示している。これらの言葉はす
べ て一つ一つ王の心に深い印象を与えるために慎重に考えられた言葉であった。
Ⅵ.妨害と結論(24-29)
24節 この瞬間、パウロの演説はフェストによってさえぎられた。この困惑
した異教徒の耳には、この演説は甚だ不思議なものに聞えたろう。それは彼に
一人の人を示した。彼は若い時から死人の復活を信じるという一つの主義を持
っていた。そしてかつては今の彼の友たちを迫害して殺していたが、天の幻に
よって生涯の行路を変えてしまうことになった。そしてその変化の瞬間以来、
自分のもつ復活の希望を他の人に吹き込むことのために、鞭で打たれ、獄に投
ぜられ、常に死の危険にさらされて来たというのだ。安楽と野望という格言を
人生最高の理想とするフェストには、この博学でしかも才能にとんだ人物がわ
ざわざそのような生涯を送るということは考えることも出来なかった。その上
彼にはこの不思議な人物が敵の訴訟に対して答えるよう命じられていながら、
何 も か も 忘 れて 自 分 の 裁 判 官 を 改 宗 さ せ よ う と 懸 命 に な って い る よ う に 見 え
た。彼の過去の生活にも現在の生活にも、この敏感な政治家の理解出来ない腹
の大きさがあった。フェストはこの太っ腹を健全な理性と調和させるすべを知
らなかった。彼はパウロの話を聞くことと考えることにあまり夢中になったた
め、その場の作法をも忘れてしまった。
26:24
パ ウ ロ が こ う 弁 明 し て いる と 、 フ ェス ト ゥ ス は 大声 で 言っ た 。 「 パウ ロ 、 お
前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
後世の信者にも不信者にも、あらゆる考えのある人たちの尊敬の的となった
パウロのこの生涯を、このような見方で見る人の心は、何と暗いものであった
ことか!
25節
パウロはフェストの態度と口ぶりとから、また彼が自分の博学を認め
たことから、この狂人という非難が単なる軽蔑からではなく、昂奮し当惑した
総督の頭から突然爆発したものにすぎないことを知った。それで彼の答も同様
に尊敬と礼儀とがこめられている。
26:25
パウ ロは言 った。 「フェス トゥ ス閣下 、わた しは頭がおかしいわけで はあり
ません。真実で理にかなったことを話しているのです。
- 402 -
この言葉はこの演説会全体を通じて、はっきりフェストに向けられている唯
一の言葉である。パウロは既にフェストが福音のとどかない所にいるのを見て
とった。狂人というそしりは更にこのことを裏書きする一つの証拠にすぎなか
った。そのため彼はアグリッパ王の心を獲んと努力をしながら、フェストのこ
とは殆ど頭においていなかった。
26、27節
しかしアグリッパという聴手は少々違っていた。彼の受けたユ
ダヤ教育はパウロの議論を解するだけの素地を彼に与えていたし、またフェス
トには全くの謎であった自己犠牲の生活の中に、昔の預言者たちのヒロイズム
の再現を見ることも出来た。パウロはその眼をフェストから転じてこの王に注
いだとき、王の心を捕えたことを見、これを極度にまで利用しようとして話を
おしすゝめた。
26:26
王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。
このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存
じないものはないと、確信しております。
26:27
アグリッパ王 よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと
思います。」
彼がアグリッパの知識と信仰とをこのように確信をもって喝破することが出
来たのは、彼が王の過去の歴史を知っていたからである。彼はイエスとその使
徒たちと の名が何代 にも わたって アグ リ ッパ 家 の 常 用 語 と な って い た こ と 、
また彼らと信ぜぬユダヤ人たちとの間の問題が彼の子供時代から、勿論この信
仰に反対の立場からではあるが、彼の耳の側で論じられて来たことを知ってい
た。『 こ れらの事は 片隅 で行われたる にはあらね ば』という言葉 は特にフェス
トに向けられていた。そしてこの問題に関する彼の無智は決してこの問題が人
に知られぬ隠れた問題ではないことを知らせるためであった。
28節
使徒パウロは誰も及ばぬ手際をもって、証拠を彼の主なる聴者アグリ
ッパの上に持って行き、成功を確信している演説家でなければ持つことの出来
ない大胆さを以て、不意にこの個人的訴えをつきつけたので、さすがの王もフ
ェストに負けず劣らず驚きあわて、率直にその考えを表明した。
26:28
アグリッ パはパウロに言った。 「短 い時間 でわたしを説き伏せて、キリスト
信者にしてしまうつもりか。」 ①
- 403 -
この言葉はアグリッパが使徒の意図を明白に見てとったことをあらわしている。
そしてこの明かな企図の前に怒を発しなかったことはヘロデの一人としては上
出来である。それはたしかに彼には迷惑千万なことであったろう。しかしこの
迷惑を冷静な態度でおさえたことから見て、彼のパウロを見る眼は、彼の先祖
のどの一人が使徒のどの一人に対して持ったよりも遙かに大きな尊敬をこめて
いたことがわかる。これは福音の大きな勝利であった。なぜならば迫害に耐え
て人々に福音を主張して来た努力が、遂にその残虐な敵の子孫を福音の尊敬の
念をもって聞かせるようにしたからである。
①「あわよくば」という廃語をわざわざ使っていること以外は、この訳は今日の学者によ
って支持されている。この文の意味を決する
Ἐν ὀλίγῳ
という表現は A.V.に訳出さ
れている“almost”(殆んど)という意味を持つものではない。
29節
パウロの答は言葉づかいのふさわしさから見ても、そこに含まれる感
情の雅量から見ても比類のない立派なものであった。
26:29
パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでな
く、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神
に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」
パウロはその聴衆と獄卒たちに対して自分の善意を発表し、かつキリストに
お いて 受 ける 幸 福 を受 けんこ とを願 うと表現するまで、自分のことを考え、また
自分が鎖につながれていることを思い出さなかった。
9.演説の直接結果(30-32)
30-32節
王服の下に脈搏つ心はあまりにも深くこの世の思慮にとらわれ
て、屡々イエスの宗教の主張を真面目にとり入れることが出来ない。真の主張
を聴者の階級に応じて変化させるような腐敗したキリスト教は、昔から各国の
高官たちの間にも受入れられて来た。それは痛む良心をうまく和げ、また屡々
無智の民衆を制御することが出来たからである。しかし実際官位もあり権力も
ある人でパウロのようになろうと思うような人は殆どいないと言ってもよい。
彼らはこのパウロの聴者であった王がしたように、真理の身近な圧迫から逃れ
去ってしまうのである。
26:30
そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。
26:31
彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もし
- 404 -
ていない」と話し合った。
26:32
アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなけれ
ば、釈放してもらえただろうに」と言った。
パウロの言葉をはじめて聞いた人たちの、この人は死罪にもなわめにも当ら
ないという判決は今、聞いたパウロの演説の何ものに根拠をおくものでもなか
った。しかもこの演説の中には訴訟の理由もそれに対する答弁をしようとする
試みも含まれていないのである。したがってこの判決はパウロの演説の中に流
れる彼の誠実の調子の結果であり、この世の経験を積んだ人たちをいつわるこ
との出来ぬ真の誠意の結果であった。アグリッパが他の人たちと同意した時、
フェストはパウロが皇帝に上訴せぬ前に彼を釈放しなかったことを深く後悔し
た。なぜなら彼は今、最初彼が聴衆にこの事件に関する声明を発表した時と同
じ窮地に立っていたからである。フェストは今訴訟の原因を明瞭に記すことの
出来ない、そして自らこの男は何もロマにおくられるようなことをしていない
とでも書かなければ仕様がないような困った囚人を、どうしても皇帝におくら
な け れ ば なら ぬ立 場 に立 った 。そ して 彼が 実際 そ のよ うな 書面 (エ ロ ゲウ ムと
い う の が その 正式 の 名称 であ る)を皇 帝に お くった とい う こ とが 、後 に パウロ
がロ マに 着いた時、彼 が禁錮されながらも寛大に扱われ(28:16,30,31)、また
後に釈放されたことに与って力があったにちがいない。
第三項 パウロのロマへの航海
(27:1-28:16)
1.カイザリヤから『よき港』まで(27:1-8)
1、2節
アグリッパ王の前での弁明の後、間もなく、パウロは自分が長い間
待 ち 望 んで いた ロ マ への 旅 路 に 上 ろう と して い る こ と を 知 っ た 。 彼 の 祈 り(ロ
マ15:30-32)は今や聞かれようとしていた。そしてクラウデオ・ルシヤの獄中で
与えられた彼がロマで証をするという約束は 今 や 実 現 し よ う と して い た。これ
らの出来事は単なる奇蹟的突然の挿入ではなく、実に神の摂理の連続であった
ので ある 。ユダヤ人たちの 策謀、ペ リ クス の 貪 欲 、 フェ ス ト の 不 決 断 、パウ
ロの慎重、ロマ法の市民保護規則がいとも奇しく結び合されて、祈りに対して
答え給うた神の約束を実現する結果となったのである。
27:1
わ た し た ち が イ タ リアへ 向か っ て船出 す る こ とに 決 まっ た とき 、パ ウ ロ と他
の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。
- 405 -
27:2
わたした ちは、アジ ア州沿岸の 各地 に寄港す るこ とに なっている、アドラミ
ティ オン港の 船に 乗って出港した 。テサロニ ケ出身のマケド ニア人アリス タルコも
一緒であった。
ここで私たちはもう一度、ルカの意味深重な『我等』に出喰わす。これは彼
がこの時パウロの一行の中にいたこと、そして一緒にロマへ旅立とうとしてい
たことを示す。彼がパウロと一緒にエルサレムに来ていた(21:17,18)ことから
考えて、多分、次のように考えることが可能である。
即ち、ルカはパウロの獄中つねに彼の身近にいた。こうしてルカが二年以上
もパレスタインに留ったことは、もしそれ以前にそういった機会がなかったと
するならば、彼の福音書に記された数々の事実を、人々の口から聞き知る機会
をルカに与えたであろう。そしてまた彼はその福音書を彼の比較的不活動であ
ったこ の時期に ① 著したと考えるこ とも可能であ る。 アリスタルコもまたパウ
ロと一 緒にエルサ レムに上京している(20:4)。そしてパウロがロマに到着後に
書いた書簡の中で、彼を『我と共に囚人となれるアリスタルコ』(コロサイ4:10)
と言っているのを見れば、彼もまたここに記されていない何らかの理由からユ
ダヤで捕えられ、カイザルへの上訴のためにロマへおくられたのであろう② 。
①もしも使徒行伝が、緒論において私が論じたように(21ページ)ロマ幽囚中に完成された
もの で あ る なら ば、 明 かに そ れよ り 先に 書 かれ た (使 徒 1:1)と 思わ れる ル カ伝 福 音書 は 、
ロマ幽囚の初期、又はカイザリヤ幽囚時代に書かれたものと考えることが出来る。彼が
ルカ 伝 序 文 の 中 で の べて い る (1:1-4)色 々 な資 料 を集 め るよ う な暇 と機 会 は、 こ れよ り 外
にはなかったと思われるからである。
②こ の考 え は Alford や Gloag によって 疑 わし い もの と されて いる (両氏 著 註解 書を 夫
々参照)。彼らの説によれば『共に囚人となれる』は全く比喩的に用いられているという。
しかしどちらもこれを証明する事実をあげていない。
ユリアスが百卒長をしていた近衛隊(原語
σπείρης Σεβαστῆς ;直訳:
アウガスタス隊)は、皇帝の名に敬意を表してアウガスタス隊と呼ばれていた。
船 は ア ド ラ ミ テ オ の 船 (ア ド ラ ミ テ オ は ム シ ヤ 西 岸 の 都 市 )で あ っ た 所 か ら 見
て、帰路の航海であった。したがってそれは当然兵卒や囚人たちをロマまで送
りとどける船ではなかった。百卒長は多分どこかでイタリヤ行の船に出会わせ
て、それに囚人たちや兵卒たちを乗りかえさせる期待で出発したらしい。この
期待は後に実際に実現することになったのだが。
- 406 -
3節
パウロとその一行が乗り込んだ船の航海に関するルカの物語は、聖書全
体を通じてこういった種類の唯一の物語であり、始から終まで興味にみちている。
27:3
翌 日シ ドンに着いたが 、ユリウス はパウ ロを親切に 扱い、友人たち のところ
へ行ってもてなしを受けることを許してくれた。
シドンで見出した友というのは、明かにキリストにある兄弟たちであったろ
う。そしてこのことから私たちはシドンがツロと同じように既に福音を受け入
れていたことを(21:3-6参照)推論することが出来る。ツロではパウロはエルサ
レムへの悲しい航海の途中で一週間留り、今シドンではロマへの途すがら兄弟
たちの親切に勇気づけられた。彼が出帆の翌日この休養を要したことは、彼が
多 分 船 暈 にか かり や す か っ た こと と丁 度 こ の 頃盛 に吹 いていた 横から の 風(4)
が船を揺れさせ船暈の原因をつくったと想像することによって説明がつく。陸
上のほんの二、三時間も疲れたパウロにとっては、一時的ながらも大きな救助
であったにちがいない。
4-6節
船はしばらくの間、北に向って進みつづけ、大海原に乗り出すこと
を避けた。
27:4
そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、
27:5
キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。
27:6
ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたし
たちをそれに乗り込ませた。
船の正しい航路は西であったから、クプロの風下はその東端であった。そし
てもし風向がよければここから南海岸をえらんで航海したのであろう。またク
プロの北、キリキヤの南をはせた今一つの理由は今日の船員たちが知っている
ように、この海域の海流は西に向って流れており、逆風を乗り切るにはここを
過ぎるのが便利であることを知っていたからかも知れない。彼らが期待通りに
出喰わしたアレキサンドリヤの船は、やはり同じ西風に会い、アレキサンドリ ヤ
--イタリヤ直線航路からずっと東にそれてしまっていた。この船は穀倉ヱジ
プトからの小麦の積荷を持ち(38)、また新しい船客を収容してから船員共に2
76人を乗せていたこと(38)から、最大級の船であったらしい。
7、8節 彼らは新しい船に乗りかえてミラを出船したが、風はなおも逆であった。
- 407 -
27:7
幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、
風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、
27:8
ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所 に
着いた。
ミ ラ か ら クニド 島 まで の 距離 は ただの 210km位 である 。しか も この 間を航
海するのに『多くの日の間』かゝったことは、船の歩みが本当に遅かったこと
を裏 書してい る。この 島からサルモ ネ岬(クレ テ島東 端)までは、航路は殆ど正
南である。従ってこの航路は風向とちょうど直角にとられたことになる。この
目的はクニドの西の大海をさけ、しかもクレテ海岸の風下を利用するためであ
り、 ま た そ うす る こ とに よって、 もう 一 度大 海に 出 る まで に 目的 地 に 160km
近づくことが出来た。
こうする間にも彼らは毎日風向の変化を待っていた。クレテ沿岸航路が困難
だったのは逆風のためである。風は常に彼らを大海原に追い出そうとおびやか
した。それは島のいくつかの岬がはげしい風に逆流をつくって船をもてあそん
だからであった。船員たちの腕のよさが必要とされたのは、他のどの時にもま
して、この時であった。
『良き港』はこの島の全長のちょうど真中辺にあった。
2.航海を継続することについての議論(9-12)
9-12節
こゝまでの航海が甚だ退屈な長いものであったゝめ、そろそろ冬
が近づいて来た。そして春が来るまでに航海を全うしようとする試みは危険だ
と思われた。従って問題は、今いる場所に留って冬をすごすか、それとももっ
とよい避冬港をさがすかということであった。
27:9
かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であっ
た。それで、パウロは人々に忠告した。
27:10
「 皆 さ ん 、 わ た し の 見る と こ ろ で は 、 こ の 航 海 は積 み 荷や 船 体 ば か りで な
く、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」
27:11
しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。
27:12
この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見によ
り、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港
に行き、そこで冬を過ごすことになった。
こゝにのべられている断食はユダヤ人の『贖いの日』の断食であり、ユダヤ
暦第 七 月 の 第 十 日 に あ た り (レ ビ 23:26,27)、 普 通 、 現 代 暦 の十月にあたる。
- 408 -
パウロの忠告は、以後この航海の記事の中心人物となるパウロの活動の始まり
であった。彼はこのことを経験から言ったのであって決して霊感(21-26のよう
な)か ら 言っ た の で は な か っ た 。 し か し彼 の 言葉 はや が てその 通り と な って実
現した。百卒長がどんな航海上の経験をもっているものやらわからないパウロ
の意見よりも、船長と船主との意見を重んじたのは当然である。百卒長が船主
のいるにもかゝわらずこの船の制御権を握っていたのは、彼が皇帝の公用を帯
びていたからであった。ピニクスの港が海に向って東北と東南に開き、反対に
開いていなかったことは、それまで吹きつゞけていた西風を防ぐのに役立った
にちがいない。距離は『良き港』からクレテ南岸に沿って、たった55kmであった。
3.ピニクスに達せんとする努力の失敗(13-26)
13節
『良き港』という港はマタラ岬の東側にあり、ピニクスに行くにはこ
の岬を廻航しなければならない。しかしそんなことは西風或は西北風の吹く時
には不可能である。そこで彼らは風の変るのを待った。
27:13
ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考
えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。
『志望を得たりとして』という言葉は、待ちにまったやわらかい南の風を得て出
帆した彼らが、外海もこゝと同じように穏かにちがいないと思ったことをあらわ
している。しかしこれは人をあざむく凪であり、恐ろしい激変への序曲であった。
14-20節 船は波もない静かな海をしばらくの間進んだ。舷側にはピニク
スでの上陸を予想して小舟が吊されていた。
27:14 しか し、間 もな く「エウ ラキロン」と呼 ば れる暴風 が、島の 方から 吹き降ろ
して来た。
27:15 船はそれに巻 き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わた
したちは流されるにまかせた。
27:16 やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかり
と引き寄せることができた。
27:17 小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に
乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。
27:18 しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、
27:19 三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。
27:20 幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助
かる望みは全く消えうせようとしていた。
- 409 -
ユーラクロンという風の名前は、北東風というのと同じ意味の言葉であって、
風の吹いて来た方向を示すものである。この風は突然クレテ島の山上から吹き
おろし、しかも船が目的地につく数時間前に不幸にもこれを襲った。クラウダ
の風下では風はさほどはげしくはなかったので、再びはげしい波の中へ乗り入
れる前に、水夫たちはこゝに記された三つの予防措置を講ずることが出来た。
先ず彼らはボートが船側にあたってくだけてしまわぬよう、これを本船の上に
引上げた。次に船体をケーブルでしばり、補強工作をして錨の巻上げ車地にし
ばりつけ、ボートの木材がバラバラにならないようにした。帆の滑車或は乗員
は低くおろされ、船のかじをとるのに必要なだけの帆のみがのこされた。そう
しなければ風のむかう方向にあるアフリカ海岸沿いの大砂洲に乗り上げてしま
うかもしれなかった。翌日船は積荷の一部分を投げ捨てることによって軽くさ
れた。これにより吃水は低くなり舷側に当る水の量は加減された。次の日には
同じ目的のために船具が捨てられた。この捨てられた船具は多分修繕用の円材、
板材、索具等であったろう。当時の船員たちは船の針路を知るに当って、全く
太陽と星の位置だけにたよっていた。だから幾日もの間、日も星も見えず、嵐
がはげしく吹き荒んだならば、自分たちのいる位置も全然わからなかったであ
ろうし、『救わるべき望み遂に絶えた』と考えたのも当然である。
21-26節
船主、船長、百卒長をはじめすべての乗員は、この時までにパ
ウロの判断を一そうよく評価するに至っていた。従ってパウロが次の演説をし
た時には彼らもすっかり敬意をはらって彼の言葉を聞こうとしていた。
27:21
人 々は 長 い間 、 食事 を とっ ていな か っ た 。 そ の とき、 パ ウ ロ は彼ら の 中 に
立っ て 言 っ た 。 「 皆 さ ん 、わ た し の 言 っ た とお りに 、 ク レ タ 島 か ら 船 出し てい な け れ
ば、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。
27:22
しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さん
のうちだれ一人として命を失う者はないのです。
27:23
わたしが仕え 、礼拝 している神からの天使が 昨夜わたしのそば に立って、
27:24
こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければな
らない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』
27:25
ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたし
に告げられたことは、そのとおりになります。
27:26
わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」
こうしてパウロの預言があまりにも早く実現したゝめ、聴衆は彼の一見自己撞
着する言葉をも疑って詮索してみようとは思わなかった。そして今パウロが、前
には主張しなかった神の直接啓示によって彼らの安全を預言するのを聞いたとき、
彼らは彼の前の預言が全く彼自身の判 断に よっ た もの であ っ た こと を 知っ た。
- 410 -
その上『神は汝と同船する者をことごとく汝に賜へり』という言葉は、反面こ
の保証なしには彼らは全く亡びる外はないという意味をもつと共に、またこの
委任がパウロの人々のための祈りに答えて与えられたものであることを示す。
私たちはこの答の一番始の言葉が『なんぢ必ずカイザルの前に立つべし』とい
う保証であったことを忘れてはならない。なぜならパウロにとっては目前の危
険からのがれたい主な理由は、どうしてもロマを見たい、アグリッパの前でし
た よ う に カ イ ザ ル の 前 で 弁 明 し た い 。 そ して 釈 放 さ れ た な ら ば こ の 『 永 遠
の都市』でユダヤ人と異邦人に福音をのべたいという願だったからである。
4.碇泊及びパウロの警戒(27-32)
27:27
十四 日 目 の 夜 に な っ た と き 、 わ た した ち は アド リア 海を 漂流 し てい た 。 真
夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。
27:28
そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。も
う少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。
27:29
船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ
込み、夜の明けるのを待ちわびた。
27:30
ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをし
て小舟を海に降ろしたので、
27:31
パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、
あなたがたは助からない」と言った。
27:32
そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。
船は現在マルタとよばれている島に近づきつゝあった。この島は現在アドリ
ヤ海とよばれる海域より遥か南にあるから、当時アドリヤ海という名は今より
も遙かに広い区域をさしていたことがわかる。彼らが陸に近づいたらしいとい
う推測は、多分岸の岩に打ちかゝる波の音によったのであろう。そしておそら
くは、最初の中はあまりかすかなので、何の音だかはっきりわからなかったろう。
この推測をたしかめるために海深がはかられた。そして進むに従って浅くなる
水深から船が本当に陸に近づいていることがわかった。この嵐の中でこのよう
な岸に乗り上げれば、船も人命も失う結果になることはわかり切っている。持
っていた錨を全部投げることは、もし綱が切れて船が岩に激突するようなこと
が決しておこらなくても、綱の張力によって船ははげしい波に直接ぶつかり今
いる場所で難船してしまうことも有り得ることだった。水夫たちはそのどちら
かがきっと朝までにおこると思ったので、暗闇と岩にもかゝわらず、むしろ陸
地に着くためには自分たちの生命の危険をも冒そうとした。
- 411 -
彼らは艫においてあるもう一つの無用の錨を舳から投げるという口実によっ
て、船になれぬ人たちをまんまとだますことが出来た。しかしパウロは、どっ
こいそうは行かぬ。彼は航海には馴れた熟練な男だった。そしてパウロのこの
注意深い警戒は乗組員全体の生命を救った。彼は神から船の中の一人も生命を
失うものなかるべしという保証を与えられていたけれども、しかしこの約束は
『神は汝と同船する者をことごとく汝に給へり』という言葉と一緒であったこ
とを思い出した。それでパウロはまるで誰も逃げてはならぬという命令があっ
たかのように、自分に委ねられた者の生命を全部救うということに懸命に注意
した。実際彼は兵卒たちに向って『この者どももし船に留らずば、汝ら救はる
ゝこと能はず』とまで言っている。このことは、このような風と岩の中では、
最 も 熟 練 し た 水 夫 で な い 限 り 安 全 に 船 を 陸 に つ ける こ と は 出 来 な い か らで あ
る。この言葉から私たちが受ける教訓は、神が何か約束をし給う場合、その約
束の実現は一部私たち自身の努力にかゝっていること。そしてその努力は神の
約束の条件の理解にあるということである。この鉄則は一時的な事物にもまた
霊的な問題にもそのまゝ当てはまるが、こゝにはそれらを一々あげるといとま
が な い 。『 か く な る べ し 』 と 定 め 、『 か く な さ る べ し 』 と 預 言 さ れ る 場 合 に 、
神は必ずその関係者の自発的行為を期待し給う。そして神が直接干渉し給うの
は、そうしなければ人間が失敗する時のみである。故に私たちが神に対する場
合、私たちは一面何も神の助力の約束がないかのように自ら活動的であり、よ
く働かねばならないと同時に、他面また神のみによってなされるかのように、
全く神の助けに頼り切らなければならない。
5.パウロ、船客にすゝめ、船重を軽減する(33-38)
33-36節
こうして水夫たちの謀叛の企てが頓挫すると、もはや錨にたよ
ることと夜明けを待つこと以外はないように見えた。甲板は大きな波の来る度
に舳から艫まで洗われたから、そのため疑いもなくハッチは全部しめられ、全
員下におりていた。このような極度の恐怖の瞬間に完全に沈着を失わない人は、
常に他の人々から本能的に信頼される。パウロはこの人であった。彼は水夫た
ちの裏をかくことによって、水夫たちにも兵士たちにも、彼の冷静と用心深さ
とを印象づけていた。そしてこのことが一躍彼を船中の指導者にした。そして
今彼らが錨鋼の端をゆられる船の中で床の上に転げぬようにする以外は何も出
来ないでいる間に、彼は人々に自分のもっている喜びとをわかち与えようとした。
27:33
夜 が 明けか けた ころ 、パウ ロは一同 に食事をする よう に勧めた 。「 今日で
十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。
27:34
だ から 、どう ぞ何か 食 べ てくだ さ い。 生き延 びる た めに 必要だ から で す。
あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」
- 412 -
27:35
こう言 ってパウロ は、一同の前で パンを取 って神に感謝の祈りをささげて
から、それを裂いて食べ始めた。
27:36
そこで、一同も元気づいて食事をした。
疲れて飢えた人にとって、御馳走ほど嬉しいものはないという事をパウロは
知っていた。そして又、安全に陸地に到着するためには、今の弱り切った皆の
体では出来ないもう一ふんばりの努力が必要なことも知っていた。彼らが既に
一四日間食事しなかったというパウロの言葉は、もし文字通りにとっても、例
のフィラデルフィアのタナー博士の有名な四〇日の断食を知っている人にとっ
ては信じられないことではない。しかしこれを正しく判断する場合、私たちは
これがルカの読者に対する言葉ではなくて、パウロの聴衆に対する言葉であっ
たということを思い出さなければならない。故にもし彼らがそれまでに幾らか
でも食事していたならば、彼らはパウロのこの言をそれに応じてどう解釈した
らよいか知っていた。たとえば今日親切な主婦がお客さんたちに向って、皆さ
んは何も召し上らないからと言って食物をもう少しすゝめたからといって、誰
も彼女の意味をとり違えをしまいし、また間違った陳述をしたと言って文句を
つける人もあるまい。それは普通の会話に使われる誇張的表現であり、誰から
も認められている。パウロの話を聞いていた人たちは、たしかにほんの少しし
か食物をとっていなかったろう。またひどい船暈になやまされていた人たちは
殆ど 頭 を 枕 から 上げた ことも な かった ろう。 そ して 一 番 元 気 な 人 た ち で も 、
おそらくじっと坐って食事するなどということはとても出来なかったろう。多
分、中ではこの期間、炊事は一度も行われなかったかもしれない。パウロがこ
のことについて、自由にやさしい言い方でのべたのはそれ自体彼らにとって嬉
しいことであり、また彼らの安全のために食事をすすめたことも、また約束さ
れた救いが一部彼らの努力にかか っていることを示している(31節註解参照)。
37、38節
この食事の際、船の全乗員が一堂に会したことが、ルカにここ
に記された人数に言及することを暗示したと思われる。そしてまた多分この時
はじめて人数の計算がなされ、上陸後の再計算によって死んだものがあるか、
もしあれば何人が死んだかをしらべるための参考にするつもりであったのだろう。
27:37
船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。
27:38
十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。
こうして船を一層軽くしたのは、船底を陸に乗り上げるまでに、そのままで
は出来ないほど一層岸に近づける目的のためであった。穀物を船倉から運び出
して海に投げ捨てるということは、この時のように船が前後左右に揺れ動く中
では決して生やさしい仕事ではなかった。彼らは今食べた食物によって与えら
れた力をすべてこれに要したのである。
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6.船は洲に乗上げるが人は皆救われる(39-44)
39-41節
夜明になって暗礁と陸地とがはっきりとあらわれるまでになす
べきことは、すっかりなされた。
27:39
朝 に なっ て、 どこ の 陸 地で ある か分か ら なか った が 、砂浜の ある 入り江 を
見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。
27:40
そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を
上げて、砂浜に向かって進んだ。
27:41
とこ ろ が 、深 みに 挟 まれた 浅瀬に ぶつ か って船を乗り 上 げてしま い、船首
がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。
水夫たちの相談から見て、辛うじて岸にあるたった一つの平かな所へ乗り上
げるように船を操ることが出来ると考えたらしい。しかしたまたま困難はその
間に介在する岩礁によっておこった。船はその間を無事にかじとって行かねば
ならなかった。このことは前夜水夫たちが脱れ出そうとした時にこれをとどめ
たパウロの智慧を乗客たちにわからせた。錨は海に捨てられた。それはもはや
この船には役に立たないからでもあり、またどんなに必要でももう引上げるこ
とは出来なかったからでもあった。舵というのは、艫の両角にある櫂のような
舵であり、そして船が錨にのっている間、その把手は甲板の上におし下げられ、
しばりつけられていた。こうすることによって櫂の先端は水面から離れ、波に
打ち破られることを防いでいた。今これらは解かれ、船をあやつるために用い
られた。それと同時に舳の帆が上げられ、船を前進させる役目をした。これが
なければ舵も何の役にも立たない。こうして水夫と舵とを巧みに使うことによ
って、船は岩の間を切り抜け、予期した地点近くに乗り上げた。船は風と波に
よって前へつけられたハズミで、舳を砂の中に深く突込みがっしりと動かぬよ
う に な っ た。 岩の ま わ り の二 つの 違う 方向 から 打ち よせる 二つの 大波 (水夫の
言 葉 で は 『二 つ の 海』 とい う )が、が っしり と動か ぬ 船の 艫を巨 人のふ るう 二
挺のハンマーのように交互に打った。そして既に一晩中、索で引っぱりまわさ
れていた船体は直ちにこわれ始めた。もし逃れるなら今を除いて船を脱出する
チャンスはなかった。
42-44節
この危険の場合に、兵士たちは前夜の水夫たちとかわらぬ残酷
ぶりを発揮した。彼らは今明らかに自分たちの生命をパウロに負うことを知っ
ていた。しかも彼らはそれに対する感謝をもたなかったのである。
- 414 -
27:42
兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、
27:43
百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせ
た。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、
27:44
残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。
このようにして、全員が無事に上陸した。
この航海中、親切な人がらをよくあらわしいる百卒長は、パウロの貴重な奉
仕について、パウロに感謝するという正しいセンスを持った唯一の軍人であっ
たらしく見える。しかし彼も他の囚人たちに対して殆ど或は全然関心をもって
いなかったらしい。これは彼らを救ったのがただパウロだけのためであったこ
とから見てもわかる。船が乗り上げてからも彼らが泳がなければならなかった
ことは、船がなおも歩いては渡れない程の深い水の中にあったことを示す。な
ぜな ら こ のように大 きな 船は、軽い時でも 吃水が2.5乃至3メートルを 下らな
いからである。或はまた大きな波が海原からおしよせて陸の上を高くあれ狂っ
ていたのかもしれない。陸地につくことは容易なことではなかった。従って全
員が一人のこらず難をのがれたとは特筆すべきことであり、パウロがこのこと
を預言したならば尚更のことであった。
7.パウロ、もう一つの危険を免れる(28:1-6)
1、2節
難船した乗客にとって幸なことには、彼らは親切な海岸に乗り上げ
た。この島には多くの住民がいたのである。夜が明け始めるや否や海岸沿いの
住民たちは難船を発見し、危険な乗上げ作業を熱心に見守っていたであろうこ
とは疑いもない。そして船が岸に乗上げた時には彼らは既に現場にかけつけていた。
28:1
わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。
28:2
島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をた
いて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。
彼 は島 の名メリタ(今の名は マルタ)を島の住民から聞いて知った。ルカが島
民を蕃人と呼んでいるのは、ロマ人及びギリシヤ人は自分たち以外の人々を全
部こう呼んだからである。この言葉は今日私たちが『蕃人』という言葉を使う
時に感じるような恥辱をそれほど与えない。これらの土人たちは野蕃人という
類からは甚だ遠い。雨の中で焚火を燃やすということは並大ていの仕事ではな
い。しかも276人の人間があたれるような大焚火である。この人たちは既に岸
まで泳ぎつくだけでびしょ濡れになっていた以上に、ふりしきる雨は着物を乾
かすことを妨げた。しかしそれでもこの大きな柴の焚火は彼らの気持の悪さを
- 415 -
いくらか救うことが出来た。この雨は十月から十一月にかけて降る冷い霧雨で
あって、時には真冬のもっと冷い雨よりも不愉快なものであった。
3-6節
パウロは決して、現代によくあるような、卑しい労働には決して手
を触れず、他の人々が自分に仕えることを期待して、自らは威厳を保って見て
いるというような、いわゆる牧師さんタイプの伝道者ではなかった。パウロは
他の人々が燃やしつけた焚火のそばに黙って立って、他の人々が木をくべて燃
やすのを手を拱いて見ているというようなことは、決してしなかった。彼はむ
しろ土人たちや水夫たちと共に、このあまり有難くない仕事に手をつけた。
28:3 パウロが 一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気の ために出
て来て、その手に絡みついた。
28:4 住民は彼の手 にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この
人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生か
しておかないのだ。」
28:5 ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。
28:6 体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子
をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変
え、「この人は神様だ」と言った。
これはルステラの反対である。ルステラではパウロは始めは神と間違われ、
後には石で打たれた。ここでは彼は始めは人殺しと思われ、後には神と思われ
た。彼に対する人々の悪い意見は単に彼が蛇に咬まれたという事実だけによる
ものではなかった。なぜなら善人もやはり蛇にかまれるということを彼らはよ
く知っていたであろうから。それよりもむしろ彼のこの危険が、あの殆ど絶望
的な難船の生命拾いにつづいておこったからであった。もし彼らがパウロが囚
人であることを発見していたならば、これはこの結論を出すのに役立ったであ
ろう 。彼 らは パ ウ ロに 対する 罰 を正 義の女神 ディケ ー ( Δ ί κ η )に帰 した。女神
が今度こそ彼を許さぬと決心したかに見えたのである。しかし咬まれたら生命
がない事を彼らがよく知っていた蛇が、咬んでも彼に何の害をも与えなかった
ことを知ったとき、彼が神であるという結論は、彼が人殺しであるという前の
結論と同様に自然に出て来た。この奇蹟は直接神の力によってなされた。そし
てこの奇蹟はこの時に与えたその印象を強く島民の心にやきつけるためであっ
た。こ の印象はやがてパウロの人格と職務に関する正しい知識へと導いた ① 。
①この航海に関連して聖書本文にはない航海上の色々な知識を、私は Howson氏の Life
and Epistle of Paul, vol.2, chap.23 にあるこの問題に関する造詣深い論文に負うと
ころが多かった。
- 416 -
8.マルタ島におけるパウロの働き(7-10)
7-10節
これらの難船者たちは上陸地において甚だ幸運であった。それは
単にこの島に住民がいたからというだけでなく、住民たちがとてもよい性質の
人々であったからだった。
28:7
さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があっ
た。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。
28:8
と き に 、 プ ブ リ ウ ス の 父 親 が 熱 病 と 下痢 で 床 に つ い て い た の で 、 パ ウ ロ は
その家に行って祈り、手を置いていやした。
28:9
このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。
28:10
それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたち
に必要な物を持って来てくれた。
こゝでポプリオに冠せられている『島司』という称号は甚だ曖昧な言葉である。
しかしこう訳されているギリシヤ語( πρώτῳ τῆς νήσου )はロマの司の称号
としてこの島の碑文の中に発見されており、ポプリオが実際にこの職について
いたという事実を裏書する。もし七節の『我ら』という言葉でルカが乗組員全
体を 指してい るもの と すれば(こ れが最も自然な解釈である)276人に食物と
住所とを供給したポプリオの接待は賞讃に価する。恐らく彼はその中の一部の
人たちを自分の領地の借地人の家に割当てたであろう。しかし三日間の費用は
彼が支払った。そして31日たつと彼らのために他の何らかの措置がとられた
らしい。彼のこの奉仕はパウロが彼の父の熱病を医したことによって、充分な
報酬を受けた。この病気は医学の進歩した今日においても甚だ危険なものと考
えられているものである。また船に乗っていた一行が、同じような方法によっ
て病を医された人たちの家に宿所を提供されたとも考えられる。こうして航海
の始には船牢の中でも最も注意を払われなかったパウロは今や全員の綱とな
り、すべての人の上に支配権を振うに至った。この島の住民たちをして遂に残
の航海に必要な供給を一行全員に供せしめたのも、彼に対する感謝であった。
こ の頃 に はさ すがの 兵士たちも、船 を去る 前に彼を殺さなか ったこと(27:42)
を喜んだのは疑もない。
私たちはパウロがこのように気前よく沢山の住民の病気を医しながら、イエ
スの名を口にしなかったとは想像することが出来ない。むしろ、ルカはこのこ
とを記録はしていないけれども、私たちは島の総督の館から島中の最も遠い小
舎に至るまで、イエスの名と権威とが彼の三ケ月の滞在中に充分示されたと考
えなければならない。
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9.旅行の終了(11-16)
11-14節 この島ですごしたのは冬の三ヶ月であった。そして早春になり
航行が安全と考えられるに至るや、航海は再び続行された。
28:11 三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に
乗って出航した。ディオスクロイを船印とする船であった。
28:12 わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、
28:13 こ こ から 海岸 沿 いに 進 み、 レ ギオ ンに 着 いた 。 一日 た つと 、南風が 吹 いて
来たので、二日でプテオリに入港した。
28:14 わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。
こうして、わたしたちはロマに着いた。
このアレキサンデリヤの船は前に難破した船と同じく、イタリヤの市場に輸
入する小麦を積んだ船であった。しかもこの船は航海中、前の船を難破させた
同じ嵐のために、前年の春以来途中で寄留させられ、わずか三、四日の目的地に、
三ヶ月或は四ヶ月遅れて着くことになった。舳又は艫に立ってこの船の記号と
な り 、ま た今 日 の 言 い方 によ るな らば こ の 船 の名前 ともな ったデ オスク リ (双
生児の兄弟)は、ジュピター(ゼウス)神の双子カスターとポラックスであった。
この二人は水夫たちの特別の守護神とされていた。このように異教的なしるし
は初代クリスチャンたちの眼前至る所に見られたのである。有名な古代シシリ
ーの首府シラクサに滞在したのは、逆風のためか又は積荷をおろすためであっ
た。 マル タ 島から の 距離 は せ いぜ い160km以内で あり 、 船はこ の間 を 二十四
時間以内で走った。彼らが次についた港レギオンはイタリヤの南端にあり、メ
ッセナの海峡の口から遠くない。この町は今日レギオと呼ばれている。こゝに
達するためにずっと迂回航路をとっているのは多分逆風のためであったろう。
彼らがレギオンを出港してから吹き起った南風は、彼らには真直な順風であった。
そ して こ ゝか ら 290kmのポ テ オ リま で 一日 で走 った の は 、 相 当 なス ピー ドで
あった。ポテオリの廃墟は今日もなお旅行客の訪れる所で、今日ナポリ湾とよ
ばれる湾の北岸にあった。当時ナポリは一小村に過ぎなかったが、漸次イタリ
ヤのこの地方の海港として古いポテオリをしのぎ、同時に古いポテオリは漸次
壊滅に帰した。パウロがポテオリに兄弟たちを見出したことは、既に福音がひ
ろくイタリヤにまでも宣べられていたという証拠である。パウロが百卒長ユリ
アスから、この兄弟たちと共に七日の間留ることを許されたことは、ユリアス
が彼を尊敬していたことを更に裏書する証拠である。この七日の間には主の日
があり、パウロとその一行はこの日始めて発見した兄弟たちと共にパンをさく
ことが出来た。
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15、16節
ポテオリからの旅行はずっと輔装道路であった。これはロマか
らブルンドウジウム即ち今日のブリンディシに至る有名なアピヤ街道の支線で
ある。この場所は今日鉄道が横切っている。アピヤの本街道にはポテオリから
53kmのカプア Capua で達し、カプアからは彼らの行程はこの道路に沿って
ロ マに 至 った。 その 距 離 は陸 路全部 で240kmであった。 船が、ロマ からこの
ように離れた土地についた理由は、この吃水の深い船を入れることの出来る一
番近い港がポテオリだった為であろう。ポテオリでの遅延、そしてこの町から
の長い陸路の旅行は、ロマにいる兄弟たちにパウロが来るというニュースを聞
く時間を与えた。
28:15
ロマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムと
トレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づ
けられた。
28:16
わたした ちがロマに入ったとき、パウロ は番兵 を一人つ けられたが、自分
だけで住むことを許された。
ア ピオ の市場(正しくは 広場、日本 訳は音訳してアピオポロ)はアピア街道上
ロ マか ら 70kmの位 置 にあ る 町で あった。 またト レスタ ベルネ (三つの宿 )はこ
の町か ら更に16km進 んだ所 にある村であった。この トレスタベルネでパウロ
に会ったのは多分、後からおくれて出発した人たちであったろう。パウロが彼
らに会って神に感謝しその心勇んだということは、彼がこの時まで兄弟たちが
自 分 を 受 入 れ る か と い う こ と に つ いて 恐 れ を 抱 いて い た こ と を 暗 に 示 して い
る。彼がこの誇り高ぶる都市に、鎖につながれた一囚人としてやって来たとき、
かれらはロマにおけるこの道の名声が彼をこの道の偉大な人物の一人として認
めることをはばからせるのを感じるかもしれない。そしてもしこの町の兄弟た
ちが彼をうとんじるようなことにでもなれば、彼は囚人としての間も、また自
由を得た後にでも、この故に大きなよき働きをなし遂げようとしても無駄に終
るであろう。しかし兄弟たちがこの無節操な考えを捨てて、真実のクリスチャ
ンの同情を彼に示した時、そして自分たちの上に名誉を与える人を迎えるよう
に彼を迎えにやって来た時、彼のあらゆる危惧は一時に消散して、勇気にみち
た希望がそれにとってかわった。私たちはこれらの兄弟の中、少くとも幾人か
の人々を彼が認めたと想像することが出来る。即ち彼がロマの教会に対してお
くった書簡の最後の章で高い讃辞を与えている貴い人名中の或る者、過ぎにし
年を彼と信仰の試練を共にした人々である。彼はこれらの忠実な兄弟たちに、
航海中におこった驚くべき物語を語ったことであろう。そして彼らはまた、パ
ウロが一囚人の身を以て彼の護送の責任をもつ百卒長の信頼と尊敬を得、また
私たちが容易に想像出来るように、一たびは彼が或は逃げるかもしれないと思
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って彼を殺そうとした兵卒たちまでがみな彼を尊敬したことを聞いて大いに喜
んだことも確実である。彼らはまたロマに到着すると彼に対して一層大きな尊
敬がはらわれるのを見た。即ち彼は普通の軍隊の牢獄に投ぜられずに、一人の
護衛兵をつけられるということ以外は外に何の制限も受けることなしに、自分
一人で住むことを許された。この恩典は彼が死又はなわめに当ることを行わな
かったというフェストの報告、及び航海中の彼の行為についての百卒長ユリア
スの報告の結果であった。ポテパルの家に奴隷となり、エジプト王の牢獄内に
囚人となっていたヨセフのように、彼もまた禁錮の始から終まで自分を管理す
る人たちの信用を得るように行動した。どんな事情の下にも謹厳なクリスチャ
ンとしての行状を維持する人は、常にこうでなければならない。
第四項
ロマの牢獄に於けるパウロの伝道
(28:17-31)
1.ユダヤ人の重立ちたる者との面会(17-22)
17-20節
パウロは今や多年の間思いつづけて来た旅行を完遂し、三年以
上も前から「われと共に力を尽して我がために祈れ、これ我が歓喜をもて汝等
にい たり 、共に 安んぜんためなり 」(ロマ 15:24,30-32)と言った相手の兄弟た
ちのある者に会うことが出来た。しかし今彼がこの帝都に入って行くさまは、
彼が従来望んでいた所とどれだけ違っていたことか。自由人として来り、イエ
スの名を宣べるために会堂や広場に現れようと思っていたのに引換え、彼はい
ま兵卒の隊伍の間に護送され、裁判のためにおくられて来た囚人として司たち
の前に引立てられ、夜も昼も監視兵の下におかれるのである。ロマにいる人々
に福音を宣べ伝えるという彼の期待は何と前途の暗いものであったろう。もし
この一文なしの他国者の天幕職工が、ギリシヤの商業中心地において働きに着
手す る 際 『 弱 く か つ 懼れ 、 甚 く 戦い た』 (コ リン ト 前2:3)なら ば 、 今 鎖に つな
がれた囚人パウロが全世界の首府において同じ働きを始める時に、どのような
思いを経験したことであろうか。前途は殆ど絶望的であった。しかしこの地で
はパウロはコリントでは持たなかった一つの励ましを持つことが出来た。それ
は彼が偉大なる指揮官の命令を直ちに実行する忠実な部下の将校たち、試練を
経た勇敢な男女の神の士官たちの助力を得ることが出来たことである。そして
これら一人一人は皆パウロの話に興味を持って聞こうとする人を連れて来る彼
の手であった。彼はその働きを開始するに躊躇しなかった。そして彼のまず最
初の運動は、この町の重立った信ぜぬユダヤ人たちを招き、これと親しく会見
することであった。
- 420 -
28:17
三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。 彼らが集まって来
たと き、 こ う 言 っ た 。 「 兄弟たち 、 わた しは、 民に対し ても先祖 の 慣習に 対しても 、
背くよう な こ とは何一 つして いないの に 、エ ル サレ ムで囚人 としてロマ人の 手に引
き渡されてしまいました。
28:18
ロマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かっ
たので、釈放しようと思ったのです。
28:19
しか し、 ユダ ヤ 人た ち が 反対 した の で 、 わた しは皇帝に 上訴せ ざる をえ ま
せんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。
28:20
だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。
イ ス ラ エ ル が 希 望 し て いる こ と の た め に 、 わ た し は こ の よ う に 鎖 で つ な が れ て いる
のです。」
パウロがこの人たちと面会して、こゝに記録された言葉を伝えた目的は明か
である。ロマにいたユダヤ人たちは、彼がユダヤで同国人たちから訴えられた
という事実から、彼が何らかの罪を犯したと想像し、また彼がカイザルに上訴
したことから、彼 は 自 分 を 訴 え た 者 たち に 対 して 重 大 な 反 訴 を お こ そ う とし
ているのではないかと想像したのは当然である。ロマ人がもしユダヤ人の反対
さえなければ彼を許そうとしたという弁明は第一の点に関してパウロの無罪を
証立てた。また第二の点に関しては彼自身の否定で充分だった。彼の最後の言
葉、我はイスラエルの懐く希望の為にこの鎖に繋がれたりは、前途は二つの場
合と 同じ ように 解釈しなければならない(23:6。26:67)が、 これは彼らの同情
を得るために考えられたものであった。なぜならこの望を追い求めるために迫
害されるということは、ユダヤ人にとっては少しも珍しくないことであり、ま
た彼が今でも敬虔なユダヤ人の最も大切なこの望を捨てていないことを彼らに
保証したからであった。
21、22節
28:21
ユダヤ人たちの答は公平でふさわしいものだった。
すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤ
か ら 何 の 書面 も 受け 取 って は お り ま せ ん し、 ま た 、 こ こ に 来 た 兄弟 の だ れ 一人 とし
て、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。
28:22
あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、
至るところで反対があることを耳にしているのです。」
彼 ら が パ ウ ロ の こ と に つ いて ユ ダ ヤ か ら 何 も 聞 いて い な か っ た と い う こ と
は、むしろ私たちを驚かせる。しかし世の中には、後世には歴史上の重大事件
とされることが、その時には少しも人々の注意を受けずにすぎてしまうという
- 421 -
ことがよくある。彼らはパウロについて何も聞かなかったから、彼について『善
からぬ事』をも聞いたことがなかった。ただ彼らは彼の宣べ伝える『宗旨』に
ついては色々偏見の加わった噂を聞いていた。ここで彼らがもし今日多くの人
が行うように行動したならば、彼らは当然この至る所で非難される宗旨を彼か
ら聞くことを全く拒んだにちがいない。しかるにこの宗旨が至る所で非難され
るという事実が、反って彼らがパウロから話を聞きたいというその理由であっ
た。おそらく彼らはパウロに先立ってロマに来ていた説教者たちから話を聞こ
うとはしなかったかもしれない。しかしパウロが彼らを自分の寓居に招いた鄭
重な態度と、彼らに話しかけた友好的なやり方とは、彼らのよりよき感情を博
していた。もし彼らが今持っているような感情を常に持っていたならば、彼が
三年前にこの教会に書きおくった書簡によって、これより以前に既に好意をも
ってパウロから福音を聞いていたであろう。
2.ユダヤ人たちとの第二回の面会(23-28)
23、24節
ユダヤ人たちはパウロと別れるに際して、もう一度やって来て
正式に彼の話を聞こうという約束をした。
28:23
そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。
パウロは、朝から 晩まで 説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律
法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
28:24
ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。
この説教は相当長いもので、すべての主題を彼らの前に提供し、それぞれの
命題を適当な証拠によって論証するために充分な時間を必要とした。しかしそ
の結果はユダヤ人の会衆において彼が常に経験して来たものと同じであった。
25-28節 次におこったことから、私たちは不信のユダヤ人の一党が、何
らかの無礼な言葉によってその感情を発表したと想像することが出来る。
28:25 彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言
次のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、
28:26 語 られました。『 この民のところ へ行って言え。あなたたちは聞くには聞く
が、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
28:27 こ の 民の 心は 鈍り 、耳 は遠 く な り、 目は 閉 じてし ま った 。 こ う して、 彼ら は
目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼ら
をいやさない。』
28:28 だか ら 、こ の こ とを知 っていただ きた い。こ の 神の 救いは異邦人に 向けら
れました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
28:29
(本節なし)
- 422 -
パウロほどの熟練した説教者が、このイザヤ書の烈火の如き言葉で説教を結
ぶということは本当にその聴衆の中にこのはげしい言葉を受けるにふさわしい
行動を見るか言葉を聞いたのでなければならない。この聖句はかつてイエスに
よって、ガリラヤ の信ぜぬユダヤ人 に適用して引用され(マタイ13:14,15)、ま
た後には使徒ヨハネによって、エルサレムにおいてイエスの教を聞いた人々の
不 信仰 を 説明 する ため に用 いら れた(ヨハネ 12:40)。 この言葉 は福音の宣べ伝
を充分に聞きながら、遂に福音に従わなかった一部の人たちを正しく説明する
ものであり、同時に又これは一時一世を風靡した教義--人は福音を受入れる
前に聖霊が直接にその力をその人の霊魂に作用させて彼を更生させなければな
らないという説に真向から反対する。この教義によるならば、パウロの聴衆の
中の或る者たちが信じないまゝに去って行った理由は、神の聖霊による感化が
他の人たちには与えられながらこの人たちに与えられなかったということにな
る。しかし上の個所にあらわれた見方によるならば、主は一方のクラスの人に
も他のクラスの人にも同様に行い給うた。そして或者が信者となり、或者がな
らなかった理由は、後者が『耳は聞くにものうく、眼は閉じていたからであった。
彼らの目と耳は彼ら以上の何らかの力によって閉じられたのではない。なぜな
らば彼らはそれを閉じていたことをはげしく非難されているからである。彼ら
はこの目と耳を自らの意志で閉じた以上、これを自分で開いている力も持って
いた筈である。そしてこの聖句の言外には、もし彼らが自分たちの目と耳とを
開いていたならばその結果は全く反対になっていたであろう--彼らは真理を
見たであろう、それを喜んで聞いたであろう、それを理解したであろう、そし
て主に帰って癒されたであろう。これは実にそのまゝ信じた側の人たちの経験
であった。彼らは自らそれまでロマにいた説教者たちに向かってその心を鈍く
し、耳をものうくしていた。しかし今彼らは自分たちの目と耳をパウロの示す
真理に 向かって開き、その結果として心にてさとり、ひるがえって癒されたの
であった。このように神は決して人を偏り見給うものでもなく、また誰も自分
の最後の滅びの責任を神が聖霊の救う力を拒み給うたことに転嫁することは許
されない。
3.禁錮の継続と伝道の継続(30、31)
30、31節
物語は今や突然終結に来る。
28:30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとな
く歓迎し、
28:31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについ
て教え続けた。
- 423 -
こ の 『 借 り う け た る家 』 は 16節 に『 パ ウ ロ は己 を 守 る 一人 の兵 卒 とと もに
別に住むことを許さる』とあるその家である。この兵卒は『我はこの鎖に繋が
れたり』(20)という言葉から知られるように、夜も昼も鎖でパウロと一緒につ
ながれていた。監視兵は特にこの場合睡眠時間について特別な例外があった以
外は、普通当時一般に行われた習慣に従って、三時間毎に交代させられた。こ
のようにして、毎日五、六人の兵士はパウロから直接説教と教訓を聞くことが
できた。このような状態が満二年も続いたのであるから、パウロがピリピ書の
中で『即ち我が縲絏のキリストの為なることは、近衛の全営にも、他の凡ての
人にも顕れ』(1:13)と言っているのは少しも不思議ではない。衛兵とは皇帝を
護衛し、また皇帝の法廷における裁判を待つ囚人たちを監視する目的のために、
ロマ市外の兵営にすむ一団の兵士たちのことであった。そしてこれらの兵卒の
一人一人はパウロ監視の役目をおえて兵営に帰ると、一つの不思議な話を同僚
たちの耳に持ち帰るのが常であったから、やがてこの話は人の口から口へと語
り伝えられた。それはやがて王宮を守る兵卒たちによってカイザルの家の或る
者の耳にまで達した(ピリピ4:22)。
『その許にきたる凡ての者を迎へて』という言葉の中には、沢山の訪問者が
あったということが含まれている。これらの人たちは一部、この獄中にある説
教者の高まる名声に引きつけられて来たのであろう。しかし私たちはこれらの
人々は主として忙しくこの道のために働いた所の、市内に住むパウロの兄弟た
ちの働きの結果であったとしなければならない。そしてこの兄弟たちの熱心に
よって彼の借りうけていた家の家賃も支払われた。しかし兄弟たち自身は夫々
貧しい人たちであったため、遠方ピリピの教会からの献金が後に送られて来た
時にやっと彼の切実な窮乏が救われたような状態だった。
使 徒 行伝 全体を通 じてそ うであ るように、『宣べ 伝えるこ と』と『教 えるこ
と』とはこゝでもはっきりと区別されている。前者は未信者に対し、後者は信
者に対してのものである。彼がその両方を行ったということは、彼の家を訪れ
た人たちの中には信者も未信者もいたことを示す。彼の活動が途中で妨げられ
なかったのは、彼の所に来た人たちが皆わざわざ彼の私宅にまで喜んで話を聞
きに来るような人たちばかりであったため、他の町でのような騒ぎがおこらな
かったのであろう。これらの働きの結果をルカは一々ここに上げようとしない
し、またパウロのカイザルに対する上訴の結果を語って読者の当然の好奇心を
も満足させない。しかしこの最後の問題に関しては、私たちは、既に緒論にお
いて論じた様に、この書の最後の文章がこの二年間の終、そして裁判の前に書
かれたと想像することによって説明することが出来る。しかしこのことが省略
されてい ると いうこ と を除 いては、こ の 書 の 主 た る 目 的 か ら 考 えて も こ ゝ が
- 424 -
適当な終りであることが誰にもわかる。記者は使徒たちがその委任を遂行して
如何に罪人を主に帰らせたかを書きおこして、まず私たちをエルサレムからユ
ダヤ、サマリヤを通って、小アジヤの諸属領、地中海の諸島、マケドニヤ及び
アカヤから帝都ロマに導いて来た。そして今なおも『更に憶せずまた妨げられ
ずして、神の国をのべ、主イエス・キリストの事を教え』ている偉大な伝道者
をこの町にのこして、彼の主な目的は達せられ、物語は終結するのである。
使徒行伝の註解は、もし厳密に本文だけにもとずくならばこゝで終らなけれ
ばならない。しかし霊感よる他の資料から引照してこの物語を一そう詳しく説
明しようというのが、始から私たちの計画であったから、私たちはこゝでペン
をとってあと数段の言葉を書き加えよう。この書の末尾の数章から、考え深い
読者ならばきっと持たれた所の、パウロの生涯を更にもう少したどって見たい
という欲望は、或程度みたされることが出来る。この欲望は主として二つの疑
問からなる。彼の長期の禁錮の結果キリストの道はどうなったか?そして彼の
カイザルへの上訴の件はどうなったのか?
第一の問題に関しては、私たちはすぐに彼のロマ入りが、彼がそれまで望ん
でいた所と非常に相違しており、そのため彼がこの町でよき働きをなすという
希望も甚だ暗いものであったことをのべた。しかし彼がその借受けた家で満二
年の間妨げられることなく宣べ伝え、また教えることを許された時、私たちは
彼が 囚 人の 身であっ たにも か ゝわらず、、多くのこと をなし とげたとい うこと
を疑うことは出来ない。私たちは幾つかの書簡の中から、彼がこの期間になし
とげた結果を知ることが出来る。
エペソ書、コロサイ書及びピレモン書はこれらの書簡中でも最も早期のもの
である。この三つの書簡はみな同時に書かれ、最初の二つはテキコに、最後の
もの はオ ネシモ に托せられて、二 人の 使者は一緒に旅立 った ① 。前の二つの書
簡では彼は神が『御言を伝える門』を彼のために開き、彼が福音を語るべき如
く語ることが出来るように祈れ、と兄弟たちに勤めることによって、彼の立場
にやゝ困難を感じていることをあらわしている。三番目の書簡は同時に彼が既
に幾らかの働きをなしとげていたことを明かにする。首府の放蕩な社会の泥の
中から、一人のギリシヤ人である脱走した奴隷がふとしたことから使徒にひき
つけられて来り、福音を聞くことになった。このことははしなくも福音の力が
彼 が 脱 れて 来 た 奴 隷 の 軛 よ り も 遙 か に 不 幸 な 軛 か ら 彼 を 解 放 す る こ と ゝ な っ
た。彼が奴隷になって後、パウロは彼が『事える業において彼に益ある者』で
あり、彼の昔の仲間達の多くを福音の中に連れてくる働き人になるることを発
見した。彼の主人はピレモン、パウロのコロサイ滞在中の改宗者の一人であった。
- 425 -
パウロはオネシモを自分の許において仕えさせたいと思ったが、ピレモンの法
的権利を重んじ、書簡を託して彼をピレモンに送り返した。彼はこの書簡の中
でこのように有用な奴隷を奴隷の身分から解放することの正しいことをやさし
く説き聞かせ、またオネシモが何らかの方法で主人のものを詐取していた可能
性を想像して、その金額がどれだけであろうとも自分がその額弁償しようと約
束した(ピレモン8-21)。彼が伝道の門が自分に向って開かれるよう祈れと兄弟
たちにすゝめている間にも、彼の説教は既にこの町の住民の中で最もみじめな
階級の人たちに影響を与え始めていた。そしてしかもこの門は実際に彼が期待
していたよりもはるかに広く開かれた。その後少しおくれて彼が裁判と釈放を
待望している頃に書いたピリピ人への書簡の中で彼は次のように言っている、
『兄弟よ、我はわが身にありし事の反って福音の進歩の助となりしを汝らが知
らんことを欲するなり。即ち我が縲絏のキリストの為なることは、近衛の全営
にも、他の凡ての人にも顕れ、かつ兄弟たちのうちの多くの者は、わが縲絏に
よりて主を信ずる心を厚くし、懼るゝ事なく、ますます勇みて神の言を語るに
至れ り 』 (ピリ ピ1:12-14)。 彼はまた 同じ書簡 の終の方で 『凡 ての 生徒、殊に
カイザルの家のもの、汝らに安否を問ふ』(4:22)と言っている。これらの結果
は、前にものぺたように、交代でパウロを守りながらパウロが訪問者たちに教
えまた説教するのを聞いた兵卒たちが、一人一人近衛の兵営に運び込んだ言葉
によって最も自然におこった。なぜなら近衛の兵卒たちとカイザルの王宮の使
用人たちが、パウロの話を聞くために彼の寓居を訪れた最後の人たちの中に含
まれていたにちがいないと思われるからである。
① パ ウ ロ は オ ネ シ モ を ピ レ モ ン に お く り か えす 際 、 こ の 書 簡 を 托 す る 使 者 を 必 要 と し た
から、私たちは彼がピレモン書をオネシモによっておくった(8-12)と結論する。また彼が
他 の 二 つ の 書 簡 を 宛 て た 兄 弟 たち に テ キ コ を 遣 し た こ と か ら 、 私 たち は 彼 が こ れ ら の 二
書をテキコに托したと結論する(エペソ6:21,22。コロサイ4:7,8)。またオネシモがテキコ
と一緒に遣わされたことははっきりと書かれている。
これらの熱心な、しかも困窮の中での働きの間に、パウロはロマの教会内に
見出した忠実で勇敢な男女の信者たちのみならず、かつて彼と共に他の伝道地
で働き、また遠方から彼のもとにやって来た他の同労者たちの協力を得ること
が出来た。コリントからエルサレムへの旅行で最後に名が記されたテモテはコ
ロサイ書、ピレモン書、ピリピ書の挨拶の中でパウロと名を連ねている。アリ
スタ ルコ とエパフラスは 彼の同囚 者であった (コ ロ サイ 4:10、 ピ レ モ ン 23)、
かつて彼を棄ててバルナバと共に働きに出かけたマルコも今彼と共に居り、彼
の要請 に従って遠路の旅 に出発しようとしていた (コロサイ4:10)、後に『この
世を愛 し』パウロを棄ててテサロニケに行ったデマス(コロサイ4:14、Ⅰテモテ
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4:10)、 及びカイ ザリ ヤ から の危険な 航海に彼と行 を共にし た愛する医者 ルカ
も、たえず彼と共にいた(コロサイ4:14)。
パウロのカイザルに対する上訴に関しては新約聖書の中には何もはっきりし
たことは書かれていない。しかし彼が釈放される事に成功したことを推論する
に足る決定的な手がかりはある。この証拠はテモテ、テトス両書簡に記された
事件と旅行の中に見られる。というのは、使徒行伝によってカバーされる時期
の中にはこれらの事実を入れる場所がないからである。これらの中には彼がテ
モテをエペソに残して或る教師たちの影響を食い止めさせ、同時に自分はマケ
ドニヤに行ったこと(Ⅰテモテ1:3)、彼がテトスをクレテに残してその地に必要
な こ と が ら を 整 理 さ せ た こ と (テ トス 1:5)、 彼 が ミ レ ト を 訪 れてそ こ で 病 気 に
なった トロピモを 残して来たこと(Ⅱテモテ4:20)、またニコポリへ旅行してそ
こで冬を過したこと(テトス3:12)等がある。
もし使徒行伝註解書の限界をこえないことであるならば、これらの働きの一
つ一つを追って、遂に確実な歴史の幕がおり、彼がキリストと共にならんため
に地上 を去って行く姿を 私たちの目からかくしてしまうまでたどってみること
は、面白いことであろう。彼をロマにもたらした上訴の願が聞入れられて審問
が開かれた時、彼の敵たちはかつてペリクスとフェストの前での陳述以上に何
の不利な訴因をも彼の前にあげることは出来なかったであろう。そしてまたペ
リクス、フェストの前での彼の弁明及びアグリッパ王の前での彼の弁明は、パ
ウロが多分皇帝とその審議会の前でどのような事をどのような方法で弁明した
かをも大体暗示する。しかし私たちは想像を逞しうしてこれらの光景を描写し
ようとはしまい。私たちは私達がこゝまで註解してきたこの物語の終わりまで、
このように長く彼と一緒に居られたことをに満足して、復活の朝まで彼に別れ
を告げよう。
- 427 -
バプテスマと罪の赦しとの関係
バプテスマと罪の赦しとの間に何か関係があるという考えは、今日のプロテ
スタント信者の多くが嫌悪する所である。しかしこういった感情は多分に、罪
の赦 し に 関す る 誤解 から 来 ている と私は 思 う 。彼 らは罪 の赦し を 心(heart)の
変化と混同し、聖霊の直接作用によって起される霊魂の革新であると考える。
彼らはまた罪の赦しとは心の内面的な経験であり、赦されたか赦されないかは
意識するかしないかであると考え、罪の赦しが与えられた証拠は私たち自身の
心の中に見出さるべきであり、またそれにともなって起こる歓喜の状態によっ
て証明されなければならないと人に教える。罪の赦しおよびそれを起こす作用
力に関 してこ のような考えを持 っている人たちにとっては、罪の赦しが何らか
の方法でバプテスマによるなどということを想像するのは、ロマ・カトリック
教徒のようにバプテスマの中に霊魂の変化を起すべき或種の魔力が存在すると
でも考えない限り、全く不合理な考えと見えるにちがいない。
しかし罪の赦しに関する以上の様な概念は全く誤った考え方である。新約聖
書の中にはこのような考えを見いだすことはできない。むしろ新約聖書の中で
は、罪の赦しということは普通私たちが心の変化と呼ぶところの内面的変化と
は、 はっ きり区別されてい るのであ る。この後者 (内心 の変化 )はそ もそも悔改
の際に起こる。なぜなら、この悔改の過程に於いて、人間の罪を愛する気持ち
が取り除かれ、罪を悲しむ気持ちがそれに代わって入って来、義を愛する気持
ちがおこり、そして再び罪を犯すまいという決心が出来るものだからである。
しかし聖書の中では悔改は常に罪の赦しとはっきり区別され、しかも後者は
前者の中に含まれるのではなく、前者に続いて起こるということが書かれてい
る。このことは聖書の中に屡々出て来る『悔改と罪の赦し』というような表現
に見られ、また『罪の赦しを得さ する悔改のバプテスマ』(マルコ1:4、ルカ3:
3)、『 な んぢら 悔改 て、お の おの罪の 赦しを得んため に、イエ ス・キリストの
名によ りてバプテスマを受けよ』(使徒2:38)等の表現の中にも見られる。こゝ
ではこの二つのものが非常に明瞭に区別されているだけでなく、罪の赦しが明
らかに悔改に続いて起こることが示されている。
さてこの誤った概念は『赦し』と訳されている語( ἄ φ ε σ ι ς )の意味を観察す
ることによって、更に一層訂正され、正しい意味がはっきりして来る。この言
葉は辞書に定義されているように、第一義として『束縛または牢獄からの釈放』
と い う 意 味 を もつ 。 そして 第 二 義的 に は 罪と 関 連 して罪 を 赦 すと 、 寛 恕 (正 し
- 428 -
く は 罪を おか さな か っ た かの 如く 罪を 去 ら せること )言い かえ れ ば罪 の 刑罰を
ゆるすことを意味する ① 。ルカ4:18、19の七十人訳の引用に於いては、この語
は第一次的意味に用いられ、二回とも捕らわれた者の釈放という意味で使われ
ている。第二義的な意味では新約聖書中この外いたる所で使われており、その
中で た った 一ケ所だけ (マルコ 3:29『永遠 に赦されず 』)英語の forgiveness
という訳語のあてはまる所がある。しかしこの容赦(forgiveness)も寛恕(pardon)
も、 決 して 罪 を 犯 し た 人 の 思 い (mind)の中 に 起 こる も の で はな い 。 そ れは 赦
す側の人の思いの中に起こるものであり、しかも何らかの媒介によらなければ
赦されたことは赦された人に知られることが出来ない。このことは一人の人が
他の人を赦すという場合に真である。そして当然赦す者が神である場合にも、
赦し は 罪 人自 身 の変 化で は な く て 、 その 罪人 に関 する 神 の思 い(mind)の 行為
でなければならない。更にまたこの赦しは、まず罪人の内部に心の変化がおこ
り、赦しをさしのべ給うキリストの贖いにもとづいて、変化した心を神の前に
正しくなそうという決心が出来た上でなければ、起こることが出来ない。言い
かえるならば、罪人が行わなければならないと命じられているあらゆる心の中
の変化が、罪の赦される前におこっていなければならないのである。
さて、このことが真理であるならば、罪の赦しが何らかの方法でバプテスマ
と関連していることは不合理だという考えも取除かれるから、次に起こる明瞭
な問題は、しからば信仰と悔改につけ加えて、神はバプテスマを赦しの前に要
求し給うかということである。今日の大部分のプロテスタント信者の頭にとっ
ては、単にこの問題を発表することだけでさえ、義とされることは信仰のみに
よるのだから、バプテスマが必要条件だというような考えはこの事実によって
排斥されねばならない、という強い反対をひきおこすであろう。しかしながら、
罪の赦しを含む義とせられること全体が、一つの条件たる信仰によることは疑
うべくもないけれども、義とされることが信仰だけによるということはどこに
も書かれていない。即ち外部にあらわされた信仰の顕れというものから切り離
した信仰だけという考えは、聖書のどこにもない。もし義とされることが、信
仰がそれ自体を外部にあらわれた何らかの行動をまってはじめて与えられるも
のとしても、罪人はやはり信仰によって義とされるということが出来るではな
いか 。 つ まり罪人は 単なる 思いの状態(state of mind)としての信仰とは 区別
された行動における信仰によって義とされるのである。アブラハムは信仰によ
って義とされた典型的な例である。しかし今私たちが上に言ったことは彼につ
いても真であって、使徒ヤコブも彼の場合について次のように論じている。
『我
らの父アブラハムはその子イサクを祭壇に献げしとき、行為によりて義とせら
れ たる に 非ずや 。なんぢ 見 る べ し、 その信仰 、行 為 と 共 に は た ら き 、行為に
- 429 -
よりて全うせられたるを。またアブラハム神を信じ、その信仰を義と認められ
たりと云へる聖書は成就し、かつ彼は神の友と称へられたり』(ヤコブ2:21-23)。
こゝでヤコブは、信仰によって義とされることと、行為にあらわされた信仰に
よって義とされることとの間に何らの矛盾を認めることなく、アブラハムの場
合に後者は前者の成就であったと 考 えて い る の で あ る 。 言 い か え る な ら ば 、
アブラハム神を信じその信仰を義と認められたりという聖書の言葉は、アブラ
ハムが信仰によってその子を祭壇に捧げた時に実現したのである。それとまっ
たく同様に、しかも信仰によって義とせられるということと矛盾することなし
に人は信仰の行為としてバプテスマされた時に、信仰によって義とされること
が出来るのである。しかし問題はなおも開かれている。しからばこのことは実
際の場合について事実であるか。
①Grimm.Greek Lexicon NT. 及び Trench, Greek Synonymns sub verb. 参照。
次に出て来る反対論は、信仰と義との関係を述べた以外の或る聖句から考え
ても、赦しがバプテスマと関係があるというようなことは有り得ないという主
張である。たとえば『それ神はその独子を世に賜うほどに世を愛し給へり、す
べて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり』(ヨハネ3:16)。
また『御子を信ずる者は永遠の生命をもち』(同36節)こゝでは信ずる者が永遠
の生命を持つということがはっきり断言されている。しかしこゝにも問題はあ
るのであって、果してこれが服従する信者であるか、それともまだ彼の信仰を
あらわしていない信者であるか、ヤコブの言をかりるならば、信仰の行為によ
って全うせられた信仰であるか、それともまた霊魂の中に黙している信仰であ
るかということを考えてみなければならない。この問題は上のような一般論に
よってではなく、罪の赦しが提供されている条件に関する一つ一つの記事から
決定されねばならない。
頑固な反対論者は、なおも別のいくつかの聖句を持ち出して私たちの言う関
係を否定しようとする。これらのテキストはいずれも律法の行為なき信仰を肯
定するものである。たとえば『人の義とせらるるは、律法の行為によらず、信
仰に由るなり』(ロマ3:28)である。しかしパウロがこゝで『律法の行為』と言
ったのは、人を義とし無罪とするような律法への服従行為の意味であって、そ
れによって人が赦しにあらわれた恩恵によらずにすむというような行為を否定
しているのである。したがってイサクを祭壇にささげるような信仰の行為はこ
の律法の行為の範疇には属しない。むしろ反対にアブラハムのこの行為は、律
法の見地から見た場合には犯罪になるであろう。同じことはラハブが間者を受
けて彼らを保護した行為についてもいえる。ヤコブはこのことを彼女はこの行
- 430 -
為によって義 とせられた と言っている が(ヤコブ2:25)、この行為は律法の見地
からすれば明かに裏切であり、アブラハムのそれは殺人であった。さてバプテ
スマは確かに信仰の行為であり、その正当性を絶対的な命令からとったもので
あって、決してパウロの表現の中にある意味での律法の行為ではない。従って
信じた者がバプテスマされて始めて罪を赦されたとしても、その義とされるこ
とは『律法の行為』とは関係ない。バプテスマと罪の赦しとのあらゆる関係は、
また別な理由からも否定さるべきだと考えられている。それは救いは恩恵の問
題で あって 行為 の問題 では な いと いうのである。『汝 らは恩恵 により、信仰に
よりて救はれたり、是おのれに由るにあらず、神の賜物なり、行為によるにあ
らず 、 こ れ 誇 る 者 の な か ら ん 為 な り 』 (エペ ソ 2:8,9)。 し か し こ ゝ で も また ロ
マ書におけると同様、行為といわれているのは律法への完全な服従行為、つま
りそれを行うならばその功績によって救われるというような行為が救いをもた
らすのではないと言っているのである。この行為は恩恵と相反する。しかし罪
の赦しはその本質上与えられた恩恵であって、支払われた借金ではない。した
がってそれが或る条件の下に与えられようが、無条件で与えられようが、それ
はなおも恩恵のことである。ただ、その行為が、その行為をする人が救われる
に価するというような行為である場合には、恩恵と相いれない。そしてそのよ
うな場合には罪の赦しもまた有り得ない。なぜならそこには赦されるべき罪が
そもそもないからである。そうとするならば、もし神が、信じた者を赦す前に
彼がバプテスマされることを命じるのが正しいとお考えになったとしても、赦
しはやはり恩恵の事であり、このような必要条件のない場合と少しも変らない。
たとえば国家の司法官が犯罪人を赦すに当って、条件として彼が再び罪を犯し
ませんという誓約書にサインすることを要求したとしても、誰もこの赦しが恩
恵の行為ではなかったと考えたり言ったりはしないであろう。そしてまた知事
が赦しの条件として彼の盗んだ他人の財産を弁償することを命じたとしても、
誰もこの赦しが恩恵の行為であることを否定しようと考える人はないであろう。
こうして、普通バプテスマと 罪の赦しとの関係を否定する聖句と考えられて
いる聖句が、一つとしてバプテスマと罪の赦しとの関係を否定するものではな
いことを知った。私たちは、これから自由に、偏見をさしはさまずに、このよ
うな関係を主張しているように見える聖書の各個所をしらべ、もし出来るなら
ば、その関係が何であるかを確かめてみることが出来る。それでは先ず第一に
私たちは罪の赦しが時間的にバプテスマに続いて起こるということを明瞭に教
える聖句を調べてみよう。
- 431 -
これらの聖句の中でまず頭に浮かぶのは、五旬節の日の説教の中でペテロが、
『兄弟たちよ、我ら何をなすべきか』という質問に対して答えた答えである。
こ れを 最 初に挙 げた 理 由 は、 ペテロ が自分 に 委ねられ た鍵 (マタイ 16:19)を用
いて、受け入れられるために何をなすべきかを告げることによって王国の門を
開いたのは、これが最初だったからである。彼は言った『なんぢら悔改て、お
のおの罪の赦しを得んために、イエス・キリストの名によりてバプテスマを受
けよ 、 然らば 聖霊 の賜物 を受 けん 。』こゝの所 で、既に私 たち がこ の聖句 の註
解の個所で指摘したように、この前置詞が unto for あるいは in order to
と訳されようとも、罪の赦しが悔改とバプテスマの後に置かれていることは間
違いがない。このことが絶対確かなことは、これ以上どんな言葉を使っても表
現出来ない。これと全く同じ関係をマルコとルカは共に殆ど全然同じ表現を使
って、ヨハネのバプテスマについて述べている。彼らはいずれもヨハネが『罪
の赦しを得さする悔改のバプテスマ』を宣べ伝えたと言っている。ヨハネのバ
プテスマはこゝで『悔改のバプテスマ』と呼ばれているが、これは悔改が信じ
るユダヤ人にとって唯一の必要条件であったからである。もしもキリストによ
って創始されたバプテスマがこれに対応する形容句によって前者と区別される
ならば、後者は『信仰のバプテスマ』と呼ばれるべきであろう。というのは信
仰だけが唯一の必要条件だからというのではなく、この信仰ということが使徒
たちの説教したことの中で最も卓絶したことであったからである。この悔改の
バプテスマが 『罪の 赦しへの』 ものであった ("unto remission of sins"邦訳
『罪 の赦 しを 得さ す る 』 )と い う こと は、 罪 の赦 しが 時間 的順 序と して悔 改に
つゞいて起こるものであることを示していることは間違いない。しかしすべて
これら の聖句に於 いて、 もし"unto"(~へと)が厳密に用いられるならば、バプ
テス マは バプテス マ され た人を 赦 しへと (to)もたらす もので あり、バプテスマ
と、そ の人がもた らされ るところ(罪の赦し)との間には時間の経過は全然考え
られない。従って私たちが罪の赦しはバプテスマにつゞくという場合、それは
直ちにつゞくという意味である。アナニヤのパウロに対する命令も同じことを
教える。『立て、バプテスマを受けて汝の罪を洗ひ去れ』(使徒22:16)という言
葉は 、彼 の罪が バプテスマ の結果直ちに洗い去られた(罪の赦しの隠喩)ことを
明かに意味する。これは罪とバプテスマの直接の関係を言いあらわした唯一の
聖句であるが、罪の赦しということがバプテスマにつゞいて直ちに起こること
を同じように示している。
他 の 聖 句からは これと 同じ真理が言外 の意 味 に よ って 知 る こ と が 出 来 る 。
パウロは私たちが キリストの中へと(into)バプテスマされる(バプテスマによっ
てキリストに合わされる)ということを述べ、それを反復していう、『なんぢら
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知らぬか、凡そキリスト・イエスに合うバプテスマを受けたる我らは、その死
に 合 う バ プテス マ を 受 け し を 』 (直 訳 = そ れと も 君 たち は 、 キ リス ト ・ イエ ス
の中へバプテスマされたものは皆、彼の死の中へとバプテスマされたというこ
とを知らないのか 、(ロマ6:3『凡そバプテスマによりてキリストに合ひし汝ら
は 、 キ リス ト を 衣 た る な り 』 (直 訳 = 君 たちすべ て キ リス ト の 中 へ と バ プテス
マされたものは、キリストを着たのだ。ガラテヤ3:27)。
さて人がキリストの中にある時は彼の罪が赦されていることは確かである。
そして彼がキリストの中に入る前は罪が赦されていなかったことも確かである。
その罪は彼がキリストの中へ入る時に赦されるのであり、人がキリストの中へ
入るプロセスの一部分はバプテスマの行為である。従って、彼がバプテスマさ
れるまではキリストの中にいなかったならば、彼はバプテスマされるまでは赦
されていなかった。使徒委任の中の言葉もまったく同じ推論を是認している。
『されば汝ら往きて、もろもろの国人を弟子となし、父と子と聖霊との名によ
りてバプテスマを施せ』(マタイ28:19末尾の直訳は『父と子と聖霊の御名の中
へとバ プテスマせよ』)。『父と 子と聖霊との中へと』という表現によってあら
わされる関係にまだ入っていない人は、彼の信じていること、彼の感じている
ことがどうであれ、なおも赦されていない状態にある。そしてこの関係は彼の
すべての罪が赦されるや否や成立する。しかし彼はこの関係の中へバプテスマ
という行為によって入るのであり、彼はまずその中へとバプテスマされ、それ
につゞいて彼のバプテスマに関連して彼の罪が赦されるのである。
バプテスマと赦しの関係を言外に意味する事実を提供する聖句は、まだこの
他にもある。赦しの性質上、赦しは赦された人に喜びを与えるものである。そ
してまた赦されざる罪の意識が霊魂にとって重荷となることは誰も経験する事
実である。それならば、もし私たちが新約聖書の中にその改宗を描写されてい
る人物の経験をたどって、もし彼らがバプテスマされる前に喜んだという事実
を発見することが出来るならば、それこそ罪の赦しがバプテスマに先行すると
いう証拠になるであろう。これに反してもしこの喜びがどの場合にも例外なし
にバプテスマの後で経験されているということが発見されるならば、この反対
の結論を受入れなければならない。ところで前者の例は一つとして記録されて
いないのに反して、この喜びを述べているどの例においても、喜びはバプテス
マの後に来ている。例えば閹人が『喜びつつ』其の途に進み行ったのは、彼が
バプテスマされた後であって、バプテス マの前の彼は不安と困惑の状態にあっ
た(使 徒 8:34,40)。 サウ ロも バ プテス マ され る 前 、ア ナニヤが 彼に 起 きてその
御名を呼び、バプテスマを受けて汝の罪を洗ひ去れ』と命じるまでの間、彼は
非常 な霊 魂の苦悩の中 にいて、三 日 の 間 と い う も の は 飲 食 も し な か っ た 。
- 433 -
しかし彼がバプテスマされるや否や彼の霊魂は安らぎを得『かつ食事して力づ
いた』 (9:9-18)。同様にしてピリピの獄守 もバプテスマの前は不幸と困惑の中
にいたが、バプテスマされた後は、パウロとシラスを自分の家に導き、二人の
前に食事を供えて『全家ともに神を信じて喜んだ』(16:30-34)。
第四番目にここにあげる一組の聖句は、同じ教えをバプテスマと救いとを結
びつけることによって教えている。そもそもキリストにある救いは根本的に罪
の赦しからなる。なぜならば霊魂が内に働くキリストの力によって罪から贖わ
れ、罪の罪悪が赦しによって取り去られた時にのみ、人は救われた状態にいる
ことが出来るからである。しからばもし救いとバプテスマとが一緒に述べられ
ている場合、両者の間に何の関係もないように示されているならば、私たちは
既に説明した聖句をもう一度調べ直して、或は私たちがそれを誤読したのでは
ないか確かめなければならない。或は、もしこのような聖句の中に教えがバプ
テスマに先行するように書かれていることを私たちが発見するならば、やはり
同じように再検討が必要である。しかしこれらの条件はどちらも聖書中に発見
できない。私たちの発見する順序はいつも決まってその逆なのである。委任の
中に私たちは次の言葉を読む、
『信じてバプテスマを受くる者は救わるべし』(マ
ルコ16:16)。ここでは救いはバプテスマの後におかれており、その救いとは罪
の赦しからなる救いであることは確かである。なぜなら窮極の救いとは信仰と
バプテスマ以上の何ものかによっている筈だからだ。テトスへの書簡の中では
私たちは 次のよう な言葉 を読む、『されど我らの救主 なる 神の仁慈 と、 人を愛
し給ふ愛との顕れしとき、我らの行ひし義の業にはよらで、唯その憐憫により、
更生の洗いと、我らの救主イエス・キリストをもて豊に注ぎたまふ聖霊の維新
とにて、我らを救ひ給へり。これ我らがその恩恵によりて義とせられ、永遠の
生命 の 望にし たがいて世嗣 とならん為なり 』(3:4-7)。ここで は更生の洗い(文
字 通 り に は 『 ア ライ 』 )と い う 言 葉 に よって 使 徒 は バ プテス マ の こ と を 言 って
いる。これは更生のプロセスと関連した一種の洗いであるためこうよばれる。
そ して こ の(洗 い )行為 と聖 霊 の 維 新 (バ プテスマ に 先行 する 聖霊 の内 面 的作 用)
とによって私たちは 救われることを断言している。同時に誰もどのような功績
をも救いの理由と考えることがないように、彼はこの救いは決して私たちが既
に正義の道において行なったことによるのではなく、ただ神によるものである
と述べている。更にまた彼はこのように述べた救いが義とされることと同じで
あることを言うために『これ我らがその恩恵によりて義とせられ、永遠の生命
の望みにしたがひて世嗣ぎとならんためなり』の一句を加えている。またペテ
ロ前書には『水を経て救われし者に僅かにして、ただ八人なりき。その水に象
れるバプテスマは肉の汚穢を除くにあらず、善き良心の神に対する要求にして、
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イエ ス ・ キリスト の 復 活に よ り て 今 な ん ぢ ら を 救 ふ 』 (Ⅱ ペ テ ロ 3:20,21)。
ここで肉の汚穢を除くということを否定しているのはユダヤ人の誤った考えを
否 定す る ためであり、 私たちにはその 意味は明白である。『 善き良心の神に対
する要求にして』と訳されている一句は、たしかにその意味が曖昧である。し
かしその意味がどうであろうとも、その前に述べられたこと即ち水が今もあの
洪水の時の水と同じようなかたちで、バプテスマによって私たちを救うという
事実は全然動かされない。そしてもしバプテスマがどんな意味においてでも救
うものならば、それは当然救いに先行し、人に救いをもたらすものでなければ
ならない。
最後に、この問題の関係は神の国に入る条件について主がニコデモにお話し
に なっ た 言葉の 中に 暗 示 されてい る。『人 は水と霊とに よ りて 生れずば、神の
国に 入 る こと 能 はず。』すべての 昔の キリスト教の学者及び 現代のあらゆる有
能な註解者たちは 、異口同音にイエ スがここで水という言葉によってバプテス
マのこ とを言い給 うたということを認めている。Wall 博士はその『幼児洗礼
の歴 史 』 で次の よ うに 言 う、『水に よる 新生という ことが バプテス マを指して
いると解釈しない記者は、どのような古代にも、どの国語で書いた人の中にも
一人もいない。第一そう解釈しなければ、人が自ら生まれるということ以上に
説明が困難である』(vol.1,110)。Alford は証しして『私よりも優秀で造詣深
いすべ ての註解者 も、この両者 、水と霊 の両立を認めている』 (同上 註解書)と
言う。同じ事を Westcott博士は『ここに言 われている水という言葉を、聖霊
の潔める力を描写する単なる象徴的表現として扱うやり方は、根本的に不完全
な解 釈 で あり 、 また あ ら ゆる 古代の 口伝に反 するも のであ る』 (同、 ヨ ハネ伝
註解)と言っている。Alford は更にこのヨハネ伝の箇所の註解の別の部分で、
上の断定をもう一歩推し進めながら、この節の意味を説いて次のように言って
いる 。『この 言葉を 正直 に解するかぎり、 水によ りて生れる ということ はバプ
テスマという外部にあらわれたしるしを、聖霊によりて生れるということはそ
の中に象徴化されているもの、即ち聖霊の内的恩恵をさしていることは、疑う
ことが出来ない。この二つの明白な事実をさけようとするあらゆる試みは教理
的偏見から出たものであって、この偏見のために、多くの註解者たちの見解は
ゆ が め ら れて い る 。』 従 って 私たち は この 聖句 から バ プテス マ に 対 する 明白な
暗示を取除こうとする一切の解釈を、例外として宗派的なものとして排除して
次のように言うことが許される。即ちあらゆる教会の公平な学者たちの一致し
た判断にしたがうならば、イエスはここで人は聖霊の内的な作用を経験し、そ
してバプテスマされなければ神の国に入ることが出来ないと言い給うたのである。
さて 人が 神の国 に入 る 前 に は 彼 の 罪 は 赦 さ れて い な い 。そして彼の罪が赦さ
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れた時には、もはや彼は外国人ではなくて、その王国の市民である。そうとす
るならば、彼がどの ような過程を通ってその王国に入るにしても、それによっ
て或はそれの中において彼は罪の赦しを受ける。しかるにその過程とはとりも
なおさず水と霊とによる誕生である。しかも水と霊のいずれか一方ではなくて
両方による誕生である。従って彼はバプテスマされる前に赦しを受けるのでは
なく、バプテスマされた時に受けるのである。パウロが主は『更正の洗いと聖
霊 の 維 新 と に よって 我 ら を 救 い 給 う た 』 (テ トス 3:5)と 言 っ た の は 、 単 に 主 の
これらの言葉の反響に過ぎない。
以上の証拠は、あらゆる真の事実が証明されると同じ位明白に、バプテスマ
と罪の赦しとの直接関係を証明し、またそれと変らぬ明白さを以て、罪を赦す
という神の行為は、聖霊によって心の中に信仰と悔改を生じさせられた罪人が、
キリストの 中へとバプテスマされる時にはじめて起こるものであることを示す。
もしこの結論に対して『これは過去にも現在にも学者によって支持されない
異端的教理である』と想像する多くの人たちがなかったならば、ここで私たち
はこの議論を結んでもよい。しかし実際にはそういう考えの人が甚だ多い。も
しこのような印象を読者が持っているならば、その謎を解くために、更に一歩
進んでこれらの証拠がいかに立派な学識ある人たちによって認められて来たか
を示そう。まず古代の声は『水と霊とによりて生れる』ことの意味について一
致する。これを証明する充分な証拠としては、一人一人の著者から引用しなく
とも、第四世紀のはじめに満場一致で解決されたニケヤ信条の、この問題に関
する一条を引けば足りるであろう。曰く『我らは罪の赦しのための一つのバプ
テス マを 信ず 。』 ギリ シヤ教会 、アルメニヤ 教会及 びロマ ・カトリ ック教会が
この教理を教えて来、また今も教えていることは周知の事実である。彼らはこ
の教理に付け加えてバプテスマが幼児の場合に、信仰と悔改とによらずに原罪
を取り除くという非聖書的な教理を教えていることもあまりにも有名である。
実際、幼児洗礼はこの誤った観念にその源を発している。その経過は次に引用
す る ニア ンダー の 有名 な 言 葉 の 中に 一 々述 べら れて い る。『しか し一方 には最
初の罪の結果として腐敗と罪悪が人間にはじめから附着するようになったとい
う教理が、一層簡明な系統的な形にまとめられると共に、他方にはバプテスマ
の 外 面 で あ る も の と 内 面 で あ る も の (水 に よ る バ プテス マ と 霊 によ る バ プテス
マ)と の 正 当 な 区 別 の欠 如 か ら 、 なに び と も 外的 バプテス マ な くて は その 遺伝
的罪から解放され得ず、彼を脅かす永遠の刑罰から救われ得ず、また復活して
永遠の生命に入ることも出来ないという誤った思想がだんだんと確立されて行
った。そして魔法的感化力、即ち奇蹟に伴う魔力という考えが漸次地歩を占め
るに及んで、この学説は遂に幼 児 洗 礼 を 無 条 件 に 必 要 と す る 所 ま で 発 展 し 、
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第三世紀の中頃にはこの学説は北部アフリカ教会の中に一般に受入れられた。』
彼はこの主張を証明するために色々な証拠をあげているが、その中にキプリア
ヌスか ら引用した 一節がある(書簡59)。キプリアヌスはその中で誕生後すぐ
に行 う 幼 児洗 礼 を弁護 して、次 の言で 結んでいる、『しかし 、もし も神の前に
甚し い罪 を犯した罪人 の首(かしら)でさ え、信仰に来るこ とによって罪の赦し
を受け、誰もバプテスマから、また恩恵から除外されることがないならば、ま
して今生れたばかりの、ただアダムの子孫であるという理由だけで古き死の感
染を受けて来ている幼児がバプテスマと恩恵から除外されることがあろうか。
むしろその赦される罪は彼自身のお か し た 罪 で は な く 他 人 の 罪 で あ る か ら 、
一層容易に罪の赦しを受けられる筈である(Church History, i. 313,314)。
罪 の 赦 し の た め の バ プテス マ と い う こ の 教 理 が 古 代 教 会 全 体 を 通 じ て 教 えら
れ、そして暗黒時代の教会のために腐敗させられたという不幸な事情こそ、実
に宗教改革の指導者たちがこれに対して反動をおこしたその原因であった。し
かしルターもカルヴィンもロマ教会の教えたこの教理を破棄しながら、それを
原始の形において採用することに失敗し、一方この正しい教理を明白に教える
聖書中の色々な章句を註解するに当って、いずれもこのバプテスマの教理の上
につまずいている。こうしてルターは『凡そバプテスマに由りてキリストに合
いし汝らは、キリストを衣たるなり』(ガラテヤ3:27)という言葉を註解して次
の よ う な こと を言 って い る 。『古き 人即ち アダムの 子は其 行為と 共に 之 を脱ぎ
捨て、そして神の子として新たに生れなければならない。これは衣服を更えた
だけでは出来ず、又律法や行為によっては出来ない、新しく生れる事即ち中な
る人の更生によるのであって、これはバプテスマによってなされる事であり、
パウロが『凡そバプテスマによりてキリストに合ひし汝ら』と云った通りであ
る。従って福音的にキリストを衣ることは律法や行為を着ることではなくて、
比較することの出来ぬ尊い賜物を着ること、即ち罪の赦し、義、平和、慰め、
霊の喜び、救い、生命、そしてキリスト自身を着ることである。このことはバ
プテスマの尊厳を否定しこれを悪く言うあやしげな思想を持った人々の多い今
日、慎重な注意を要することである。パウロは反対にこれを推賞し、名誉ある
称 号を 冠して『 更正の洗い、 聖霊 の維新 』(テトス3章 )と言った 。そしてここ
ではまた彼は凡てバプテスマを受けた者はキリストを衣ていると言っている。
それはちょうど、彼らは律法の中から運び出されて新しい誕生に入れられた。
そしてそれ はバプテスマ によってな されたというかのようで ある。したがって
汝らはもはや律法の下にはいない。汝らは新しき衣、即ちキリストの義を来て
い る の で ある 。 故 に バプテス マは 大き な力 と効 能 を 持 つ 』 (ル ター 著 『ガ ラテ
ヤ書』註解)。この引用の中でルターは今直接とりあげている聖句だけでなく、
また新生に関する主の教え、また更正の洗いに関するパウロの言葉についても、
- 437 -
上のような見解をはっきりと述べているのである。しかもこれらのことはみな、
信仰のみによって義とされるという近代の教理の発明者自身から出ているので
ある。
ジョン・カルヴィンも同じ意味のことを主張し、私が上に引いたよりも更に
多 数の 聖 句を引 用 して いる 。 彼 は言 う、『さて バプテス マ は我々の 信仰に三つ
のことをもたらし、而してそれは我々の浄化の表象かつ証拠たらんがために、
主によって我々に提示されたということである。或は予の意味するところを一
層よく解明するために、それは我々の凡ての罪が、全く払拭され、蔽われ、忘
却され、かくして罪が決して主の御前に到りもせず、記憶もされず、負わされ
もしないであろうことを我々に確信せしめるところの、印せられたる証書の如
きものである。蓋し、信ずる凡ての者らが、罪の赦免のためにバプテスマを受
くべきことを彼は欲し給う。それ故にバプテスマを以て、我々が我々の宗教を
人々に対して表白する標識かつ記標たらしめること、正に兵卒らが彼らの号令
者の徽章を帯びて彼らの職務の記票となすのに異らぬと見た者らは、バプテス
マに於て首位的であったものを考慮しなかったのである。然るにこの事たるや、
『凡て信じてバプテスマを受くる者は救はるべし』マルコ16:16)と共に、我々
の受くるべきものである。
教会 が新郎キリストによって、『水の洗ひをもて 生命の 言によりて』(エペソ
5:26)聖なる 者 とな され、 また 潔 められ る とパウ ロ によって記 されている こ と
は、 こ の意味 に解せら れるべ きである 。また他の 処に、『唯その憐憫により、
更 正 の 洗 ひ と 聖 霊 に よ る 維 新 と にて 我 ら を 救ひ 給 へ り』 (テ トス 3:5)と 記さ れ
ている 。ま た ペ テ ロ に よ り 『 バ プ テス マ は 我 ら を 救 う 』 (Ⅰペテ ロ3:21)--
カルヴィン著「基督教綱要』 ① 中山昌樹訳、第四篇第一五章の一及び二。
①カルヴィン著『キリスト教綱要』第四編一五章一,二。同様の見解は三,四にも述べら
れている。しかし一五では彼は矛盾をおかしてコルネリオの罪が彼のバプテスマを受ける
前に赦されたと述べている。
この引用から読者はカルヴィンがここに引用したすべての聖句を解釈するに
当たって、私が前にこれらに附した同じ意味を採用していることを、一見して
知ることが出来るであろう。しかもこれらの解釈が一人の神学者によって施さ
れ、しかも彼がそれを自分のシステムの中で適用するに当たって前後矛盾して
いるという事実は、これらの解釈に一 層 大 き な 重 み を も た せ る も の で あ る 。
それはこの事実が教理的な先入観の結果ではなくて、聖句自体の表現の簡単明
瞭さの結果であることを裏書きしているからである。
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また更に降った近世のもう一人の改革者ジョン・ウエスレイが、この教理を
彼のシステムの一部とはしなかったにせよ、その注釈的研究の中でこの教理に
ぶ つか ってい る こともよ く 知 られている。彼は 言う。『真 に悔改た 者に施され
るバプテスマは赦しの手段でもあり、また印でもある。神もまた原始教会に於
いては、普 通 こ の 手 段 に よ ら な け れ ば 、誰 に も 赦 し を 与 え 給 わ な か っ た 』
(Notes on N.T. p.350)
こういった種類の証拠をこれ以上並べ立てることは無用であるから、私たち
は正統的な諸教会のこの多数の立派な学者たちの言葉を省略して、最後に現代
の学者中でも特にその学識とすぐれた註解によって有名な数名の学者の言葉を
引用しよう。
アメリカ・バプテスト教会の中で最もすぐれた学者であり、また註解者であ
る H.B. Hackett は 使徒 行伝2:38を 註解して 言う、『“ 罪の赦しのため に ”を
私たちは当然それに先行する二つの動詞と結びつける。この節は彼らを悔改さ
せまたバプテスマを受けさせようとする動機あるいは目的をあらわしている。
それはこの勧め全体に力を与えるのであって、悔改あるいはバプテスマのいず
れも 除 外すべ きで はない 。』 また 使徒行伝 22:16では 『“ 汝の 罪を洗い去 れ”。
この節はバプテスマの結果をこの礼典の性質からとった言葉で表現する。それ
は 2:38の 『 罪 の 赦 し の た め に 』 に 対 応 する - - 即 ち 赦 さ れ る た め に こ の儀 式
に服せよというのである』と言っている。この附録文の中に主張した教理を、
これ以上に明瞭に判然と証言することはおそらく出来ないであろう。
チ ェ スタ ーの監督 Jacobson博士は、T h e S p e a k e r s C o m m en t a r y の
使徒行伝註解の著者であるが、使徒行伝22:16の所でウォータランド Wataerland
の言葉を引用してこれを承認している。『バプテスマは結局、彼(パウロ)にとっ
ては、彼の赦免の宣告、赦免状、上より彼に賜った義認の証書であった。彼は
この神よりの印を受けるまで義とせられず、彼の罪はその瞬間まで彼の上にあった。
プ リン ストン の J.A.Alexander 博士は次のよ うに書いている。『罪の赦し
へと (に 向って )という句全体は 、群衆の言 った究極的目的であったから、この
答の 中 で とり 上 げられな け ればな らなかった』。また 『これ が導いて行った究
極の目的は罪の赦しであった』(使徒行伝註解2:38)。
Lange の聖 書 研究中 使 徒行伝 註解 の著者 である Lechler は 2:38で言う。
『使 徒 は 悔 改 て バ プテス マ を 受ける 者 に対 して 、 (1 )罪 の赦 し と (2)聖 霊 の賜
物 と を 約 束 す る 』。 22:16で は 『 私 たち は ここ に 聖 な る バ プテスマ に 対 して 、
- 439 -
純粋 の使 徒教会 によって与えられていた価値について貴重な証言をもっている。
それは単なる外的儀式ではなく、 罪を洗い去る恩恵の手段であり、事実上イエス
の教会に入る最初の行為である。』
Gloag 博士 (長老 派)はそ の註 解書の 22:16の 個所で言 う。『大人 の場合にお
けるバプテスマは、私たちの主が自らお受けになったバプテスマの例外を除い
て、罪の告白を伴うものであり、罪の赦しの記号であった。この故にそれは罪
の赦しのためのバプテスマ(2:38)と呼ばれる。』
Plumptreはパウロに対するアナニヤの言葉を引用した後に次のように言う。
『この言葉は、使徒にとってバプテスマは決して外的なあるいは儀式的な行為
ではなく、悔改と結びついたものであり、信仰を前提として、真の赦しの保証
をもたらすものである。
『更正の洗い(浴み)』という聖パウロの言葉(テトス3:5)
の中に、私たちは、彼がはじめてキリストの教会に入れられる際に教えられた
教えを 、いつ までも 持ち続けていた証拠を見 るこ とが出来る』(使徒行伝註解,
22:16)
最 後 に私たちは二人の有名な言語学者の証言 を引こう。Meyer は使徒行伝
2:38の 個 所で言 う、『 εἰς は バプテスマの 目的を 指す。そ してそ の目的 とは、
μετάνοια
に 先 立 って 契 約 さ れ た 罪 悪 の 容 赦 で あ る 。』 ま た Grimmは そ の 新
εἰς ἄφεσιν τῶν ἁμαρτιῶν を
『罪の赦しを得るために』と定義している( β α π τ ί ζ ω Ⅱ.b.aa.)。
約ギリシヤ語辞典の中で、使徒行伝2:38の
以上の引用は、私たちがこの問題に関する聖句を誤解しているのではないこ
とを示 して余 がある。そして私 たちが“unto the remission of sins”という
訳を排 して、 “for the remission of sins”という A.V.の訳を認めるのが正
しいことをも示してくれる。この表現を用いたペテロの目的は、バプテスマが
人を罪の赦しにもたらすという単なる事実を示すためではなく、この祝福を得
るために彼の聴衆はバプテスマを受けるべきであることを示すためであった。
言い換るならば、彼はこの行為の動機を述べたのである。この他多くの章句に
お いて R.V.は
εἰς
という前置詞の訳出について同じ批判を受ける余地がある。
私たちはもし必要ならば更に沢山の証言をつけ加えることが出来るであろう。
そしてそれらの証言はみな、私たちが今主張するバプテスマと罪の赦しとの関
係が、新約聖書の中でも最も世界的に広く認められている教理であることを示
すであろう。私たちは既にこのために多くの紙面をさいた。それは私たちの主
の最も荘厳な礼典を、原 始 教 会 に お いて 占 めて い た 位 置 に 復 原 し 、あらゆる
- 440 -
学派 と 時 代の学者たちがこ のように明瞭 に表 明 して い る 見 解 を 実 際 に 実 践 に
うつしたいという願望からであった。
今日の多くの人たちは、もしバプテスマを受けなければ罪が赦されないとす
るならば、バプテスマを受けなかった過去の無数の敬虔な人々の救いはどうな
るかという理由から、この問題をバプテスマの正しい方法と結びつけて非難する。
しかしこのような理由は、たとえそれが現実であれ想像だけであれ、聖書の真
理を変えることは出来ない。しかしこういった考えは、私たちの正しい判断を
まげて真理を私たちの目から隠す傾向がある。私たちが真理を発見するときに
それをそのまま躊躇することなく受入れるのは、智慧の一部である。私たちは
大なる日に私たちが今持つ光、あるいはこれから持つであろう光に基づいて審
かれるであろうことを忘れてはならない。そしてもし私たちの祖先がその知ら
なかった義務を怠ってそれでも救われたとしても、私たちは明瞭に指示された
義務を怠って救われることを期待してはならない。バプテスマの正しい方法は
今日の真面目な人たちの間に急速に認められつつある。私たちはまたその正し
い目的を復原すべく努力しようではないか。そして私たちは『バプテスマの尊
厳を汚してそれを誹謗する愚かな熱狂的な精神』とルターが呼んだ輩を沈黙さ
せたいものである。
- 441 -
PDF電子化版についての覚え書き
本書はJ・W・McGarvey著New Commentary on Acts of Apostles
(Cincinnati: Standard,1892)を、織 田 昭 氏 が 翻 訳 し 、 1956年
3月 15日 に 「キリストの教会宣教師会」によって発行されたものを、
千田俊昭が2014年に電子化したものである。
訳書は印 刷直後か ら訳 者 自 身 に よ っ て 多 く の 誤 植 が 指 摘 さ れ 、
改訂版発行を期されていたが実現叶わなかったと聞き及んでいた
ので、電子化に当たって可能な限り訂正を試みた。
翻訳にあたっては聖書本文に文語訳が用いられていたが、電子版
では新共同訳に置き換えた。た だ し 、 翻 訳 文 中 の 文 語 訳 は そ の
ま ま と し た 。従って、新共同訳と翻訳文の用語や固有名詞の表記
に差異が出ても敢えて統一せず、原翻訳のままとした。
本電子版はPDFの特性を生かし、「目次」が該当ページにリンクさ
れているので活用されたい。
2014年
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千田俊昭