新約聖書エペソ1:15-19 「神を知るための知恵と啓示の御霊 ―御霊による照明と学究的熟慮」 一 獄中のパウロの視点から学ぶ 前回、エペソ人への手紙の 1:1~14 で学 んだことは、「天にあるすべての霊的祝福」 ということであった。夜、空を見上げると、 無数の星が見える。この書を書いたパウロに は、星空が見えたのであろうか?牢獄にいる パウロの状況を忘れさせてしまう、このエペ ソ書の内容である。そして、この書を見る と、パウロはすでに天にいるかのように、大 いなる褒め称えの声を上げている。 エペソ書の一章は2つの部分からなり、前 半は「キリストにあって、神はわたしたちを すべての霊的祝福をもって祝福してくださっ ている」ということ、後半は「このすべての 霊的祝福を理解し、自分のものとして把握で きるように、わたしたちの目をひらいてくだ さるよう、神に祈り求めている」ということ である。 この一章の構成から、「私たちが健全なク リスチャン人生を送るためには、どうすれば 良いのか?」を教えられる。 1つ目は「賛美」である。神様の祝福を感 謝する賛美を捧げるべきであるということ。 2 つ目は「祈り」である。神様の祝福を自 分のものとするためには、祈るべきであると いうこと。 二 極端な二極化現象 1, 霊的路傍生活者となる物乞いクリスチ ャン しかし、今日、そのバランスが崩れている と思われる現象が見られる。 それは、ある人たちは、神様の祝福が全く 無いかのように、「新たな霊的祝福」を求め て、次から次へと集会や教会、またムーブメ ントを追いかけるのである。本当に、その人 には「神様の祝福」が全く無いのであろう か? 聖書には、すでにキリストにおいて、神が 「すべての霊的祝福」をもって祝福してくだ さっている、と書いてあるのに、彼らはまる で「物乞いクリスチャン」「霊的路傍生活 者」のような状況にある。 2, 霊的食欲不振による自己満足クリスチ ャン また、ある人たちは、「キリストにおい て、すべての霊的祝福」にあずかっていると いう、疑問の余地のない真理に固く立ってい る、いや、立ちすぎている人たちがいる。こ れの何が問題かというと、彼らは「自己満 足」病、「霊的食欲不振」病を患っており、 さらにより深い恵み、より豊かな祝福を経験 しうる特権が与えられていることを「知りた い」「経験したい」という渇望が欠け、色あ せてしまっているのである。 3,模範的クリスチャン パウロ これらの2つの両極にある病を、パウロは 治したいと願っている。そして、その方法 が、パウロに学び、パウロに倣うという方法 なのである。 私たちは、キリストにあって、すべての霊 的祝福を与えて下さっている「神をほめたた える」ことと、その与えられている霊的祝福 のすべてを理解し、把握し、経験できるよう に「神に、求め続け、たたき続け、探し続け る-つまり、祈り続ける」という、2つの生 活のありようが必要なのである。 1:17 エリクソンは「神を知るために」 は、「神知識」が必要だと説いている。「神 知識」とは、神ご自身について知るだけでは なく、神がなされたみわざ、人間の本性と現 実の状況、神と人間との関係に関する知識を も指している。 パウロは、神を知るための知恵と掲示の御 霊を与えてくださるようとりなしている。こ の御霊は、新たに与えられるのではなく、神 を信じた時に与えられた「内住の御霊」であ る。この御霊によって、心の目が開かれ、福 音理解についての真理を理解し、把握し、経 験できるようになるのである。 三 霊的祝福を自分のものとするには では、私たちは、「天にあるすべての霊的 祝福」の内容として、前回触れた、「選び、 罪の赦し、御霊の内住」、今回の、「神の召 し」「聖徒の受け継ぐもの」「神の全能の力 の働き」等を、知り、理解し、自分の毎日の 経験としていくことが出来るのだろうか? 1, 思考停止型クリスチャンと思考過稼働 型クリスチャン ここでも、2つの極端な人たちがいる。 1 つ目は「天を仰ぎ、暗闇の中に光る稲妻 を待つように、聖霊の照明が降ってくるのを ひたすら待っている人々」である。これらは 「預言集会」や「預言運動」と言われ、自分 の理性で推測したり、熟慮する要素を一切考 慮に入れていない「思考停止」型の人々であ る。 2 つ目は「知性を使い、人間の能力を過信 してしまう人々」である。彼らは、内住の御 霊が、み言葉を通し、さとし、語りかける 「御霊の照明」の働きに、心を開く余地の無 い人々である。 2, 模範的クリスチャン パウロ では、パウロはどう言っているのだろう? パウロは2つの極端の真ん中にいる。「エペ ソ書の読者の心を照らし、心の目を開いてく ださるように」と、「御霊の照明」の働き、 助けを祈っている。と同時に、神が「イエ ス・キリストの客観的なみわざ」において、 そこで示された「死・葬り・復活」の意味に ついて知的にも教えているのである。 私たち人間に求められていることは、「心 を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神 である主を愛すること」である。そのために は、信仰と知識は、対立するものではなく、 補完するものである。 私たちの思慮・熟慮は、内住の御霊の照明 の助けなくして、有益な収穫は得られない し、また、同時に、御霊の照明の働きは、わ たしたちが知性を働かせることを無駄とはし ていない、ということを忘れてはいけない。 以 上
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