「量的緩和」解除にみる日銀総裁の執念

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「普通」の状態にもどすだけ
2006・ 3・13 474号 「量的緩和」解除にみる日銀総裁の執念
財部誠一今週のひとりごと
4月から始まるBS日テレの新番組の取材で、みずほフィナンシャル
の前田晃伸社長とお目にかかりました。彼が40歳頃、川崎支店長時代
の話におよびました。前田さんは部下とのコミュニケーションをはかる
ために、さまざまな工夫をこらしていましたが、そのなかに笑ってしま
うような、しかし、なかなか深いアイデアがありました。それは支店の
行員たちに上司に対する「イエローカード」を配ったことです。有効期
限は3年間。一度だけ使用してかまわない。「この上司はおかしい!」
と自分に言ってこい、とやったそうです。サラリーマンなら、誰でも直
属上司に対して文句がある。不満があります。それをイエローカードで
解消しようというわけですが、聞けば、この権利を行使した行員は3年
間でゼロ。いつでも出せるぞ、という手段をもっただけで、行員たちの
ガス抜きがはかられたということでしょうか。面白い話でした。
(財部誠一)
※HARVEYROADWEEKLYは転載・転送はご遠慮いただいております。
与党からの厳しいプレッシャーを押し返して、ついに
日銀が「量的緩和」の解除に踏み切りました。「量的緩
和」政策そのものがわかりにくいため、その「解除」だ
といわれても「よくわからない」という声が少なくあり
ません。たしかにわかりにくいかもしれませんが、その
意味するとことは単純です。
デフレは終わったという、日銀の宣言です。
どこの国でもそうですが、中央銀行は「金利」の上げ下
げによって経済をコントロールしていきます。景気が過
熱してインフレになれば金利を上げて沈静化をはかりま
すし、その反対に景気が悪くなってくると金利を下げて
景気を刺激します。つまり中央銀行が行う金融政策とい
うものは「金利」という道具によってなりたっていると
いうことです。
ところが日銀は1999年に金利をゼロまで引き下げ
ました。これで景気が浮揚してくれれば良かったのです
が、景気が悪化し、さらに物価が下がるというデフレス
パイラルに日本経済が陥っていくなかで、日銀はさらな
る景気対策を求められました。しかし「金利」によるコ
ントロールはもうできません。金利をゼロよりも下げる
ことはできないからです。 そこで、でてきたのが「量的緩和」です。
「金利」という手段がデッドエンドに達してしまった
ので、世の中に流通するおカネの量そのものを増やすこ
とで景気を浮揚させようという政策、それが「量的緩
和」です。具体的には、メガバンクや地銀などが保有し
ている国債などの債券を日銀が買い上げ、銀行に資金を
供給することです。銀行は日銀に当座預金口座をもって
おり、この口座の預金残高が増えれば、企業や個人への
融資量も比例して増えるはずだとなるわけです。通常、
この当座預金残高は5兆円程度ですが、量的緩和政策に
よって日銀はこの残高を35兆円程度まで増やしたので
す。要するにお金をジャブジャブにして、一般企業への
融資を増やそうとしたわけです。
実際には、一般企業の資金需要そのものがなかったた
めに、ここまでやっても融資は増えませんでしたが、そ
◆住宅ローン金利2行比較
(3月適用分)
固定期間 みずほ 三井住友
2年
2.20(0.20)
2.20(0.10) 3年
2.45(0.20)
2.50(0.15)
5年
3.15(0.15)
3.20(0.15)
7年
3.70(0.15)
10年
3.75(0.15)
注:
-
3.75(0.15)
数字は年利%、カッコ内は、
2月比上昇幅
◆増加する長期固定ローン(35年)
金融機関 金利(%)
独自商品 三菱東京UFJ
2.86
三井住友
2.86
住宅金融公庫提携ローン
みずほ 2.89
( 31500円の定額制)
りそな
2.74
(融資額の2.1%)
SBIモーゲージ 2.591
(融資額の2.1%)
オリックス 2.641
(融資額の1.89%)
共同住宅ローン
(52500円の定額制)
注: カッコ内は手数料
出所:日本経済新聞
2.86
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れでも市場金利の上昇を押さえ込むという効果
はありました。いずれにしても日銀は「金利」
という手段のほかに、お金の「量」をコントロ
ールするという非常手段をこうじることで、日
本経済の危機に対応したということです。これ
が「量的緩和」です。
しかし、日本経済は明らかにデフレから脱し
つつあると日銀は判断をしました。その結果、
非常手段である「量的緩和」政策を解除して、
通常の状態に戻したのです。簡単にいえば、
「金利」で景気をコントロールしていく「普通
の状態」にもどしたということです。
依然としてゼロ金利政策は継続されていくわ
けで、すぐに金利があがるわけでもありません。
その意味では、量的緩和政策を解除したからと
いって、なにか特別な変化がすぐに起こるとい
うわけではありません。
もちろん、デフレ脱却が確実なものとなり、
日本経済がゆるやかなインフレになっていけば、
市場金利も上昇し、日銀もゼロ金利政策をあら
ためていきますが、少なくとも年内にそんな状
況がくるとは思えません。
じつは3月11日(土)に大阪で住友商事と
住友信託が個人投資家を招いたイベントがあり
ました。私がそのイベントのコーディネーター
役をひきうけ、住友商事の岡素之社長と住友信
託の森田豊社長と対談をしました。「量的緩
和」解除が公表された翌日だったので、両社長
に感想を求めました。2人とも「妥当な判断」
としたうえで、「近い将来の金利上昇を織り込
んだうえで、会社のオペレーションを行ってい
る」と話していました。きわめて現実的な理解
ですね。
福井総裁の執念
それにしても今回の「量的緩和」解除のニュ
ースに接して、私は10数年前に書いた原稿を
思い出しました。新潮社の『フォーサイト』に
寄稿したものだったと記憶していますが、その
内容はバブル経済の膨張を止めるために金融を
引き締めたい日銀が、大蔵省に恫喝され、身動
きがとれずにバブルが膨張していったというも
のでした。その象徴的な出来事として、私はあ
るシンポジウムの様子を描写しました。そのシ
ンポジウムには日銀の幹部と大蔵省の財務官が
パネラーとして参加していたのです。日銀の幹
部は地価と株価の高騰に対して強い危機感をい
だき、「こうした資産インフレを抑えるために
金融を引き締めるべきだ」と発言しました。と
ころが、大蔵省の財務官はその発言に対して、
土地や株といった資産価格の上昇をもってイン
フレとする考え自体が間違っていると切り捨て
たのです。当時はまだ日銀法が改正される前で、
日銀総裁の人事権は大蔵大臣がもっていた時代
ですから、日銀は大蔵省にまったく頭があがり
ません。財務官に恫喝されたら、黙って引き下
がるよりほかありません。
そのシンポジウムはまさに、当時の大蔵省と
日銀の力関係を象徴していました。この日銀幹
部は大蔵省の財務官から「金融引き締めの必要
などありえない」と強弁された後、2度と自説
を展開することなく、シンポジウムは終わって
しまったのでした。その日銀幹部こそ、誰あろ
う、現在の福井俊彦日銀総裁だったのです。
それにしてもなぜ大蔵省と日銀のあいだには
大きな溝があったのでしょうか。それは政策運
営の柱をどこに置くかの違いから生まれていま
した。当時の大蔵省(=政府)がもっとも重要
視したのは「景気」でした。バブル経済を背景
に当時、日本の景気は絶好調で、毎年、凄まじ
い勢いで税収が増えていました。財政再建を目
指していた大蔵省にすれば、地価が高騰しよう
が株価が暴騰しようが、そんなことはおかまい
なしです。とにかく重要なことは、税収が増え
て、財政再建が進むことでした。地価と株価の
高騰がもたらす副作用など、財政再建の大儀の
前には些細な問題にすぎなかったということで
しょう。
そして、現実は大蔵省が描いた通りのシナリ
オに沿って進みました。89年度、日本は税収
の増加を背景に、単年度の赤字決算から抜け出
すことができたのです。まさに悲願の達成でし
た。大蔵省内では、次官以下の幹部が集まって、
赤字国債の発行をゼロにできたことを祝って、
祝杯があげられたのでした。
◆福井俊彦 氏プロフィール
ところが「通貨の番人」である日銀には、深
い挫折感が残りました。まさに苦杯です。歴史
1954 大阪府立大手前高等学校卒業
的な資産バブルが目の前で積み上げられていく
のを、手をこまねいて見ているしかなかったの
1958 東京大学法学部卒業後、
ですから。バブル経済が警戒水域を越えかけて
日本銀行入行
いると警告を発したのに、世間も耳を傾けなか
1977 総務部企画課長
ったし、ましてや景気優先、税収増による財政
再建第一の大蔵省からは「これいじょう無駄口
1980 高松支店長
をたたくな」とばかりに恫喝されてしまったの
1981 大阪支店副支店長
だから、日銀がうけた精神的なダメージははか
1983 総務局次長
りしれませんでした。いや日銀だけではありま
せん。福井さん自身もその挫折感にさいなまれ
1984 人事局次長
たことでしょう。それが福井さんのトラウマに
1985 調査統計局長
なっていたとしても不思議ではありません。
1986 営業局長
その後、バブルが崩壊し、日銀は苦しい政策
運営を強いられていましたが、そんななかで銀
1989 総務局長、日本銀行理事
行 か ら の 過 剰 接 待 を め ぐ る 不 祥 事 が 発 覚 。 1993 同理事再任
1998年3月、当時副総裁だった福井さんは
1994 日本銀行副総裁
辞任に追い込まれました。日銀マンとしての人
生に一度は終止符が打たれ、下野したものの、 1998 同副総裁退任後、富士通総研理事長
その後、内外からの福井総裁待望論が高まり、 2001 経済同友会副代表幹事
03年、第29代総裁として福井さんは日銀に
2003 日本銀行総裁
返り咲いたのです。しかもその間に、日銀法が
改正され、日銀の独立性が強く担保されるよう
になりました。政府からの影響力をうけにくい
法的担保を得たわけです。
編集・発行
バブル経済に適正な金融政策を発動できなか
ハーベイロード・ジャパン
った挫折感。日銀から民間への下野。日銀法改
正の改正。そして、予想もしていなかった日銀
〒105-0001
総裁就任。福井さんのパーソナルヒストリーを
港区虎ノ門5-11-1
追っていくと、「量的緩和」解除にみせた福井
森タワーRoP805
さんの執念が理解できます。
Tel. 03─5472─2088
だが本当にこの判断が正しかったのかどうか、
その答えがでるまでには、いましばらく時間が
Fax. 03─5772─7225
必要かもしれません。もっとも私自身はこの判
無断転載はお断りいたします
断を支持しています。
(財部誠一)