ポピュラー文化研究としての日韓研究 ―マンガのミュージアム展示解釈の差異に関する一考察- 山中千恵(仁愛大学) 1. 「枯れない花」展・論争 2014 年 1 月 30 日~2 月 2 日にかけての 4 日間、フランスで開催されたアングレーム国 際 BD (bande dessinée)フェスティバルにおいて、韓国漫画作品展「枯れない花」展が 開催され、会場には、1 万 7000 人以上が足を運んだ。この展示は韓国の女性家族部がアン グレームのフェスティバル実行委員に開催を打診して実現したもので、いわゆる「従軍慰 安婦」をテーマとする漫画作品をあつかうものだった。 日本の保守系メディアはこの展覧会を韓国政府による「反日」的政治活動ととらえて批 判した。これに反対する意見をマンガとして出展する「論破プロジェクト」が藤井実彦ら によって計画されたことから、 「漫画戦争勃発」として取り上げられもした。 結局、藤井らによる企画は、アングレームのフェスティバルの実行委員側から、フェス ティバル開幕前日に撤去が通告され、出展は実現しなかった。これを産経ニュースは日韓 が「同じ政治的主張」をしたにもかかわらず、日本だけがゆるされなかった、と報じた。 だが、「枯れない花」展と藤井らのプロジェクトは、「おなじ」ように政治的だと言える のだろうか? 本発表は、この出来事を日韓の慰安婦問題をめぐるメディアの主張の正否を審議するた めに論じたいわけではない。その問題を人々に伝えるための媒体・メディアとなったマン ガおよび作品を展示する場としてのミュージアム―これもメディアなのだが―が、何をメ ッセージしていたのか、さらに、そのメッセージにもかかわらず、各国マス・メディアは、 それぞれの「マンガイメージ」ゆえに、いかにメッセージを読み違えていくのかを問うた めにとりあげてみたい。つまりポピュラー文化研究として、この出来事を論じてみたいと 思う。 2.本発表の目的と視点 日韓文化研究において越境的なポピュラー文化の問題を扱う際、ポピュラー文化は交流 を促進するものととらえられてきた。もちろん、ドラマや K-POP、日本のアニメやアイド ル文化などが若者たち(あるいは女性たち)の共通の話題となっていることは確かである。 だがこれからは、共通の話題になったのちに、いったいそこから何が生まれるのかを問う 必要があるのではないか。ポピュラー文化を通じた交流が自明となったいまこそ、ポピュ ラー文化研究の一環として、日韓文化を考える必要があると思われる。 では、ポピュラー文化とはそもそもどのような性質をもちうる文化なのか。日本と韓国 が現在共通におかれている後期近代社会における性格を、ドミニク・ストリナチの整理に 従って確認しておく。ポストモダン理論において、現代社会がポストモダニズム的である というとき、ポピュラー文化は、メディアが現実を構成するという文化と社会の枠組みの 消滅、芸術とポピュラー文化の区分の消滅、そして大きな物語の消滅によって特徴づけら れることになる。本発表ではこの 3 つの観点をベースにもちいる。そして、ポピュラー文 化が芸術との境界を争う場であり、また、マス・メディアによって論争的な現実が構築さ れていく契機となった「枯れない花」展を、マンガおよびミュージアムという「メディア」 が生み出すコミュニケーションに注目しつつ、論じることとする。 3.アングレームという「場所」と BD という「メディア」 フェスティバルはフランスのポワトゥー=シャラント地域圏、シャラント県に位置する アングレーム市で開催された。パリから TGV(フランス国鉄が運営する高速列車)で 2 時 間半。普段は外国人を見かけることも稀な、人口 45,000 人程度の地方都市である。フェス ティバル期間になると、市役所、裁判所、大聖堂や街中のカフェまでもが BD 作品を展示 する会場となり、町全体がミュージアムとなる。 アングレームはフランス語圏 BD をメインに扱うフェスティバルで、ジャパンエキスポ などの日本マンガのファンを中心とした集まりとは異なる。BD は社会に対する批判的な視 点を含んでいることが歓迎される傾向にあるため、アングレームのフェスティバル展示で は、常に政治的テーマが歓迎されてきた。今年のメイン展示は第一次世界大戦開戦 100 年 を意識した、 「タルディと大戦」展であった。さらに、韓国の「枯れない花」展は、フラン スの「エルネストとレベッカ」シリーズなどとともに「女性に対する暴力と男女の不平等」 を問うテーマの一環として位置付けられていた。アングレームは社会問題を意識的に扱い、 「政治的な」作品を歓迎する場であったことは間違いない。 韓国の展示はこうしたアングレームのフェスティバルの特徴を十分に踏まえたうえで企 画されていた。日本や韓国の人々が通常イメージする漫画ではなく、フランスで「第九の 芸術」ともいわれる BD のフォーマットや、美術館の展示技法を用いた展示をおこなって いた。そして、 「オリエンタリズム」を利用したイメージ戦略ももちいられていた。 これに対し、日本からの出展者は、 「展示」会場ではなく出版ブースを選択しており、 「政 治的主張」を行うための媒体選択が、そもそも韓国の場合とは異なっている。また、制作 された作品の形式も、 「学習漫画」的であり、BD の形式としては異質であった。 アングレームのフェスティバル主催者は韓国側の展示を「作家による主張でありアート」 と解釈し、「論破プロジェクト」をプロパガンダと評価した。だが、(日韓の)マス・メデ ィア言説は、これらのポピュラー文化としての意味や価値、メディア性を看過し、その結 果、 「枯れない花」と「論破」の「政治的主張」は「同じ」にも見え、主催者の判断を不公 平(あるいは圧力)と理解したのであった。 また、ここにはフランス(アングレームの主催者や BD 読者)における「政治性」の理 解とオリエンタリズムの問題も潜んでいる。フェスティバルが中心的に扱ってきたのは、 パレスチナ問題や、 (ポスト)コロニアリティを巡る問題など、ヨーロッパ圏が常にさらさ れている問題が中心だった。フェスティバル主催者にとって、「枯れない花」展はあくまで 女性に対する暴力をめぐる問題系に位置付けられるべきものであり、アジアにおける日韓 両国の争点であるという意識が欠けていたといえる。 4.マンガミュージアムから読み取る可能性 今回「枯れない花」展に着目することで、この展覧会がアングレームという場の期待に こたえつつ、 「女性問題」としての政治的メッセージを、時に BD 作品のように、あるいは 来場者のオリエンタリズムに訴えかけながら、伝えようとする仕掛けを持っていたことを 確認した。しかし日韓のマス・メディアは、その「ローカルなマンガ観」ゆえにこうした メディア性に着目できずにいる。そのため両国のマス・メディアを中心とした論争は、フ ランスのひとびとには全く「意味不明」な出来事となった。 しかし、ポピュラー文化、特に今回取り上げたマンガ文化に関する感覚には、日韓両国 になにがしか共通する部分があるようにも思われる。それは、韓国の漫画ミュージアムが ある韓国漫画映像振興院の来館者行動と、京都国際マンガミュージアムの来館者行動にた いする調査から推測されるものであるのだが。そこには、欧米におけるアートに対するよ うな、社会とのつながりの中でマンガをとらえる感覚の欠落のようなものが見え隠れして いる。むしろそこに可能性が感じられるのではないか。それは、まだまだ仮説的なもので はあるが、マンガが政治的メッセージを担わされてなお、集合的なアイデンティティへの 強制をのがれていくような要素なのかもしれない。 今回はあくまで調査の紹介が中心ではあったが、日韓両社会に生きる人々が何を共有し、 なにを異としているのか。それは欧米諸国の近代的経験といかに共通し、いかに異なるの か?これを考えていくことは、日韓研究のみならず、グローバルな文化研究においても求 められているのではないかと思われる。 引用文献 ストリナチ・ドミニク(渡辺潤他訳)『ポピュラー文化論を学ぶ人のために』世界思想社、 2003 年。 ※この調査に関するフルペーパーは『関西大学紀要』46 巻 1 号及び『仁愛大学研究紀要』 13 号に掲載予定である。
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