大黒座七十年 ―映画の灯をともしつづけて

大黒座七十年 ―映画の灯をともしつづけて
大正のなかば、町内唯一の芝居小屋であった「浦栄座(ほうえいざ)
」は老朽化し、すでに小屋の
機能を停止していた。浪花節が全盛となり、活動写真がようやく一般のものとして定着してきた頃で
ある。浦栄座に代わる常設の小屋を作ろうとする動きはあちこちで起こっていた。
浜町(現在の「えびす湯」の向かい)で風呂屋を営んでいた木谷五三郎がそのひとりであり、大工
の三上辰蔵がそうであった。五三郎は函館まで風呂釜を買いに行ったとき、仕事がなくて困っていた
旅芸人を連れて帰り、自宅を開放して客を集めたりしていた。一方辰蔵も、ドサまわりの講談師や浪
曲師に部屋や食事を提供して、売り上げは折半するというような興行師の真似事をしていた。
この頃、豊漁が続き、港は活気づいている。客はたくさん集まった。人びともやっとこうしたもの
を楽しむ余裕を見せはじめてきていた。辰蔵は考えた。「大工仕事は肉体労働だ。年を取ったらでき
なくなる。いっそのことこれを商売にしてみたらどうだろう」そう思いたつと、彼は自分の弟子を使っ
て早速小屋を建ててしまった。大正七年、「大黒座」はこうして始まるのである。
その頃の大黒座の観客席は現在のような椅子ではなく畳敷、その畳も最初はムシロだった。席は風
紀の乱れをふせぐためとかで、男女別々に分けられていた。人びとは木戸口に履き物をあずけ、その
引き替えに木札をもらう。暖房は貸し火鉢。売店は向かいの林屋のおばさんが出した。一銭店と呼ば
れる林屋の小さな店から、開演の時間が近づくと、げんこつ(菓子)だの桜パンだのを一反風呂敷に
包んでやってくる。やがて大黒座の前で演奏するにぎやかな音楽が聞こえてくると、夕飯をとってい
てもお尻のあたりがモゾモゾと落ち着かない。「始まっちまうよう」座布団をかかえた子どもが騒ぎ
出す。
当時の催し物はもちろん映画だけではない。浪曲があり、講談があり、芝居があった。その頃、四
谷怪談など怪談物を上映するときには、たたりが起きないように供養をし、劇場の前には花柳界のお
姐さん方にたのんで出してもらった腰巻きで赤、白、薄青の旗を立て、四谷怪談という染抜きはまだ
しも、南無阿弥陀仏と書いた幟(のぼり)さえ立てたという。
大正十四年頃には、足に五寸釘を刺したまま逃走を続けたという西川寅吉もやってきたようである。
獄中生活四十八年の寅吉が出家して雲外居士と名を改め、罪の償いのために舞台に立った。彼の演し
物「改心劇」は道内どこでも爆発的なあたりをとったという(「北海道演劇史稿」
)
。
また木谷五三郎の孫、越野真成(まさなり)は昭和の始め、 楓 一郎 という名前で一時大黒座
の弁士をしていた。弁士の善し悪しで客の入りが違ってくる。
「海は静かに明けてゆき、波おだやかに暮れてゆく ・・・・・・。
」彼が羽織袴で舞台に立つと女性の客が
増えた。阪東妻三郎の「雄呂血(おろち)
」
、井上正夫の「己が罪、作平」
、鶴見祐輔作、川田芳子主
演の「母」などは大そう好評だった。
しかし、札幌などのスター弁士や、道東各地をまわってかなりの高給を得ていたという彼は別とし
て、その頃の弁士はたいてい貧しかった。辰蔵の孫であり現在の大黒座館主である三上政義の記憶に
よれば、昭和五、六年の頃、大黒座を根城にして日高各地を巡回していた弁士の月給は十五円、楽士
が十円、技士が五円から十円ではなかったかという。中には帰りに返すからと、巡業に出るときにお
金を借りて行く者がいたり、楽士がバイオリンを質に入れることもあったらしい。
劇場の臨観席には警察官がふんぞり返っていた。風紀取締りという名目である。警官はいばりくさっ
ていて、売店のおばさんの持っていくお茶やお菓子にケチをつけたり、靴にカバーをかけようとする
下足のおじさんにいやがらせをしたりしていた。 俺が大きくなったら内務官僚になって悪い警官を
取り締ってやる その一部始終をみていた政義少年はそう思ったという。
やがて映画もトーキーの全盛を迎え、支那事変に突入した頃には、大黒座だけではなく日高町から
幌泉(えりも)町まで、映写機をかついでまわるようになった。娯楽といえば何をおいても映画々々
の時代で、どこへ行っても大歓迎だった。特に「愛染かつら」と「支那の夜」の二本は大盛況だった。
しかし、そうした映画ブームも、昭和三十年代のピークを境にして急激に衰退していった。日本映
画製作者連盟の調べによると 道内の常設映画館は、平成元年十月末現在百十五館で、全盛時(昭和
三十三年)の六分の一。このうち三十九館が札幌に集中し、人口十万人以上の九市で九十九館を占め
ている (平成元年十一月二十七日「北海道新聞」夕刊)とある。
「毎日いつやめようかと思っていますよ」と言いながら、「良い作品となると『客が入らないからや
めた方がいい』と配給元に言われても、つい借りてきてしまう」という三上政義氏のまわりで、いま
映画館を文化の発信地として残して行こうという若い人たちの動きが始まっている。
[ 文責 河村 ]
【話者】
越野 真成
村山 クラ
浦河町大通四丁目 明治四十一年生まれ
浦河町浜町 工藤 利男 浦河町堺町西 明治三十九年生まれ
大正十四年生まれ
三上 政義 浦河町大通三丁目 大正十二年生まれ