市立函館博物館研究紀要 第17号 2007年3月31日

手珍坐郁呼
研
究
牙
つ
紀
第17号
2007
債
種
要
序
ここに『市立函館博物館研究紀要』第17号を刊行いたします。
本号は、本館古文書講座の参加者、駒井麗子氏による「択捉漁業と
駒井漁場」と、園畢院大皐大学院生藤田征史氏による「立川遺跡第且
地点出士資料の分析」、当館学芸係長佐藤理夫による「北海道初のラ
イラックの行方」の3題を掲載いたしました。
駒井麗子氏による「択捉漁業と駒井漁場」は、当館所蔵の「西津文
書」と「酒谷家文書」の整理・解読の中から、明治・大正期にかけて
函館に本拠を置いた、近江商人の末喬達の活躍に光をあてています≦
江戸時代後期から続く択捉漁業は、古くから行われてきた北洋漁業の
中心的な存在で、その基地となった函館の経済と深いつながりを持っ
ております。文書に登場する初代駒井弥兵衛が択捉島の「駒井漁場j
の開拓に力を注ぎ、好・不漁を乗り越えて運送業や牧場の経営に進出
してゆく姿には当時の函館経済人の遥しさを知ることができます。
藤田征史氏による「立川遣跡第1地点出土資料の分析」は、当館所
蔵の北海道旧石器文化を代表する資料・として知られている「立川遺跡
出士資料」をテーマに、詳細な観察と分析を行い、現在の知見をもと
に出土遺物全,体としての位置付けと考察を試みています。
また、佐藤理夫学芸係長執筆の「北海道初のライラックの行方」は、
現在の私たち北海道人にとって、俳句の季語や街の花として、とて迄
なじみ深いライラックの過去と現在について考察した興味深い一編
です。この植物が海を渡って日本に根付いた経緯と今日の現状は、函
館や北海道でのみ知ることのできない物語といえます。
結びになりますが、当研究紀要の発行にあたりご協力を頂戴した関
係各位には深謝致しますとともに、今後ともご指導等賜りますようお
願い申し上げます。
平成19年3月31日
市立函館博物館長
長谷部一弘
目 次
序
北海道初のライラックの行方
佐藤理夫
→
● ● ● ● ● ● h ’
ロロ
一
立川遺跡第1地点出土資料の分析
藤田征史・・
。・・・13
駒井麗子.、
・25
択捉漁業と駒井漁場
ゆ く え
北海道初のライラックの行方
佐藤理夫
はじめに
ムラサキハシドイと聞かれて、直ぐに何の植物かを思い当たる人は何人いるだろう。しかし、
ライラック、リラと言えば、真っ先にその植物を‘思い浮かぶことができるであろう。それほどラ
イラックは市民にとって身近な植物である実は、「ライラック(Lilac、$""gavulgaノ7.VL.)は英
語名で、仏名はリラ(LilaKfll糸はムラサキハシドイ」《'1である。ムラサキハシドイという菊は、
「H木の自生穂のハシドイ」噌'からとったとされている。
ライラックと言えば、札幌が直ぐ頭に浮かぶかもしれない。そう思われても仕方ないほどに、
札I幌市内のあちらこちらにライラックが見受けられる。これはこの木が「札幌市の木」と言われ
る由縁であろう。11^1134年から侮年「ライラックまつり」が盛大に術われ、昭和35年には「札
幌の木」に選ばれるほど(伽、札''1兇市民にとってはなじみ深い植物である。
しかし、函館でも、函館lllの麓にある坂に街路樹としてライラックが植えられているし、よく
兄ると住宅の庭に植えられているところも多く見受けられる。街路樹がいつから植えられたかと
いう記録はないのだが、函館市内も意外にライラックが多いことに気づく。
さて、H本に初めて持ち込まれたのはどこか知っているだろうか。ライラックは、「H本に雁
明治i'期に渡来」’21といわれている。じつは、この旧本には明治中期に渡来」したライラック
とは北海道に持ち込まれたものである。さらに、「北海道への渡来は二つのルートが知られてい
る。」’'’一つはアメリカから、一つはイギリスからである。ここではこの :つのライラックの渡
来ルートの過去と現在について考えてみたい。
北星学園のライラック
『北屋学園行年史迦史締、1990J'"'!'で、『花とともに四十年』(石田文三郎薯)の文章を引
用し、北海道入学北方生物圏フィールド科学センター植物園(以ド北人植物園)のライラックに
ついて、次のように述べている。
「現在北大植物園内に十数本のライラックの老木が立ち並んでいるが、その前には次のような表示がして
ある。このライラックは、1890(明23)年頃、サラ・スミス女史(北星学園の前身・スミス女学校の創始者)
が故郷アメリカから携えてきた苗木から育てられたものです。北星学園に植えられた母樹は現存していませ
んので、今では、北海道で一番古く大きい株になりました。この株からさらに多くの木が育てられ札幌のあ
ちこちに分けられています。この木は当初、温室付近に植えられていました。その後、この場所に移植され
ましたが、その際、運搬に使ったソリが植え穴から引き出せなかったので、そのまま埋めこまれたと伝えら
れています。」
つまり、札幌では、北w.学園の前身であるスミス女学校に明治23(1890)年に植えられたラ
イラックが最も.'.いというのである。さらに、「北星学園に植えられた母樹は現存していない」
ので、北海道では、植物園にあるライラックが「北海道で-一番古く大きい株」だというのである。
さらに、北大植物園前のライラックは「非常に古く、明治初年、宮部先生が函館に在住してい
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市立函館博物館研究紀要第17号
た外人宣教師から苗を麓い受け、温室横に植えたものを…巾Ill各…移植したもの」と述べている
ここで言う「宮部先生」とは、当時の北海道大学教授植物学者の宮部金吾氏と思われる。
では、この外人宣教師は誰であろう。再び、『北星学園百年史通史篇、1990』侭'によると、
「明治初年には未だ宮部金吾は来道していなかったし、植物学者になってから函館の外国人宣教師と懇意
にしていた、という記述は彼の書き残したものにはない。つまり、〈明治初年〉とかく函館〉というのは、
何かの間違いであるにしても、宮部が外国人宣教師からライラックの苗をもらったという点については、ス
ミスのライラックもち帰り説を裏づける資料になるだろう。」
この記述の中で言うように、〈明治初年〉に宮部金吾がもらい受けたのかは不明であるため、
時期については不確かなところはあるが、「<函館〉に在住していた外国人宣教師」は、スミス
氏を指していると思われるところで現在、このライラックの株が北星学園にないのは、「第二
次世界大戦中にく敵国の木〉として伐られてしまった」(1)ためである。
サラ・クララ・スミス
スミス氏の足跡の概略については、『北星学園百年史通史篇、1990J'師や『女学校物語、さ香
ぼろ文庫35』(6)を参考に、北星学園の前身のスミス女学j佼開設の頃までを以下に記載するが、
以後の経歴や、詳細については当該誌を参照していただきたい。
スミス氏(サラ・クララ・スミス、1851∼1947)は嘉永4(1851)年3月28日にニューヨー
ク州エルマイラ市近郊で生まれる。明治7(1874)年にエルマイラ市の学校に勤務した。日本に
は、明治13(1880)年8月IS日に長老教会婦人伝道局から派遣され、9月1日に東京の新栄女
学校の教師として着任した。長老教会としては、スミス氏に対して教師というより宣教師として
の役割を強く望んでいたようである。
まもなくスミス氏は健康を害したため、明治16(1883)年に新栄女学校を辞め、北海道に渡
り、札幌で数ケ月を過ごした。さらに、函館に移り、明治19(1886)年まで滞在することにな
った。本人は、生まれ育った故郷のエルマイラと同緯度にある札幌での生活を希望し、そこでの
病気療養と宣教、教育を行うことを望んでいたようである。健康を回復した後、「これから、女
子教育の普及に従事しよう」と決意したが、彼女自身で、そのことを決定するには、うら若き女
性であることと、本国の伝道協会の許しを得ることが難しかったのか、当分の間は、函館で様手
を見ることになったようである。
明治20(1887)年に札幌に設立された北海道尋常師範学校のお雇い英語教師として、札幌へ
移住する。さらに、北海道庁から無償貸与された建物でスミス女学校(初代校長スミス)を開校
する。
明治22(1889)年に一時、本国に帰り、翌年の明治23年に札幌に戻ってきた。この時の帰国
は、健康上の理由による本国伝道教会からの帰国命令であったようである。そしてこの時「スミ
ス氏はアメリカ東海岸のニューヨーク州から1890年(明治23年)にライラックを持ち帰った」
とされている。
−2
佐藤理夫:北海道初のライラックの行方
函館公園のライラック
mtw31年9月23II付けの北海道新聞に「函館公園に再びゆかりのライラック」(刀という見
出しの記事が救った。
「21日の昼下がり市立函館図書館の正面に1本のライラックが植えられ元木館長や館員たちがスコップを
手にその根にしっかりと土をかけていた。このささやかな1本のライラックの木にはこんなうれしい話が秘
められていた。」
『寄贈の子木植える三島さんの行為で果たしたユ夫人の意志』
「市民の″いこいの庭,,函館公園は明治十二年十一月三日に誕生してことしは七十七周年、喜の寿を迎え、
多彩な開園記念行事が開催されることになっており、関係者がその準備計画を練っている。
計画の一つに開園当時英国領事リチヤード・ユースデン夫人が記念に図書館前に西洋クルミとライラック
の苗を植え、公園の美化に大いに貢献したが、この当時をしのぶお礼の意味でユースデン氏の子孫を開園記
念日に招待しようというプランもあるが、この夫人が植えた二本の苗はその後、領事が帰国後美しい心を一
本の幹に受けついでみごとに生長、枝1杯に広がる緑に葉、季節に咲く花は公園に遊ぶ市民から愛され親し
まれ、明治二十二年には初代渡辺孝平、渡辺熊四郎両氏が渡英し、生長したライラックの木を撮影した写真
をみやげにロンドンのユースデン氏を訪ねたところ夫妻は
’'住みよい日本の街函館のことは一生忘れない。木はいつまでも大事に育ててほしい,,と大いによろこん
だというエピソードも残っていた。ところが一昨年く昭和29年〉秋の十五号台風はこの愛情のこもる思い出
のライラックを無'惨にもなぎ倒し、このため木は枯れ死してしまった。
元木館長は公園開園七十七周年の記念日を前にライラックの死をとても残念がっていたが、たまたま話を
聞いた函館市谷地頭町二三、漁業三島義賢(堅)氏(六五)が''そのライラックがうちの庭にある,,とかな
り生長した同家のライラックを紹介、′'記念のものだから私有すべきでなく公園にお返ししよう,,と快く公
園にその木を寄付提供したものである。
三島氏がもっていたこの木はまだ図書館前のライラックが元気だった昭和七年ごろ、根元から子が出てい
るのを見つけ故岡田図書館長の了解のもとにその一本を記念にわけてもらい、自宅の庭に植え苦心して育て
てきたものである。三島氏から思いがけなく寄贈されたライラックの木を前に図書館では
″これでユースデン夫人の志を全うできてまことにうれしい。せっかく来てくれるユースデンの子孫の方
にもこれで面目が立つ。大事に育てたい‘,と喜んでいた。」
さらに、昭和34年5ノI29IIイ、J-けの北海道新聞にも「身代わりライラック三島さん市立図
書館に贈る」(関連図版参照)侭Iという見出しの本道最初のライラックに関する記事が載った。
「市立図書館前のライラックは函館公園ができた際記念に植えられたゆかり深いものが、今年になってか
らついに枯れてしまい市民をガッカリさせていたところ、同じ株から生長したライラックが身代わりに贈ら
れ、関係者を喜ばせている。
このライラックは、明治十二年十一月三日、函館公園開園の時、同公園を作るため努力した当時のアメリ
カ領事夫人リチヤード・ユースデンさんが記念樹として二株植えたもの。その後四十年あまり毎年春には薄
−3
市立函館博物館研究紀要第17号
紫の花を咲かせ、訪れる市民の目を楽しませていたがことしになってから一株がついに枯れてしまった。と
ころが函館市谷地頭町二三、水産加工三島義堅さん(六七)が、昭和十年に市の了解をえて次第にふえたこ
のライラックを数本譲り受けており、図書館前のが枯れたのを聞きくそれでは身代わりに私のを贈りましょ
う〉とこのほど自宅の庭から五本持ってきて移植した。おかげで記念のライラックも絶やすことなくすんで、
関係者は大喜び、これを機会にくユースデン夫人記念樹〉の看板を立てることになった。」
以上の記事は年数的に4年の違いがあり、どちらもユースデン(関連図版参照)が植えたライ
ラックと霧かれており混乱するところもあるが、多分、昭和31年に義堅氏の自宅から株を移植
したが、それも昭和34年に枯れたため、再度の移植になったのではないかと思われる。
これらの記事の中で、明治12年の函館公園(現卿住所:函館市青柳町)開園の際に、当時のイ
ギリス領事であるリチヤード・ユースデンの夫人(関連図版参照)が2株ライラックの苗を開園
の記念樹として植樹したと記載されている。この2株のライラックは函館公園の開園式に際し、
ユースデン夫人が本国から取り寄せたもので、ほかに西洋クルミ〈旧市立函館図書館本館前に現
存するのは2代目‘'Hll'Klll¥の苗も植樹した(12X13)(関連図版参照)。
リチヤード・ユースデン(1830∼?)は文久元(1861)年にイギリス領事代理として最初に
函館にやってきた。この時は、数ケ月で函館を去ることになるが、さらに慶応3(1867)年∼明
治4(1871)年、明治6(1873)年∼明治14(1881)年と領事代理、領事、代弁領事を勤めた("x1う)。
記事の中で「図書館前」とあるが、当時はまだ図書館(明治42年には私立函館図書館として、
昭和3年には市立函館図書館として開設)はなく、開園後ではあるが、「協同館」が建ち、後に
入舟町から私立函館図書館が移ってくることになる(16$
函館公園の開設
明治12(1879)年に函館山の麓、山頂から見ると東南に位置する場所に函館公園が開園した。
この公園の開設については、1997年市立函館博物館特別展図録「函館の明治維新」('7)には次の
ように書かれている。
「公園開設の動きは明治6(1873)年の太政官布告がきっかけとなっています。函館において公園開設が
本格的に動き出したのは明治11(1878)年頃からです。
公園開設に当たり民間からの私有地の提供、造成の際には各町からの住民参加、また開拓使からは休日の
勤労奉仕、といった具合に官民あげての公園造成が行われ…後略」
では、太政官布告とはどういうものかというと
「三府ヲ始、人民輯嬢ノ地ニシテ、古来ノ勝区名人ノ旧跡等、是迄群集遊観ノ場所東京二於イテハ金龍山
浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都二於イテハ八坂社、清水ノ境内、嵐山ノ類、総テ社寺境内除地域ハ公
有地ノ類、従前高外除地二属セル分ハ、永ク万人借楽ノ地トシ、公園卜可被相定二付、右地所ヲ択上、其景
況巨細取調、図面相添大蔵省へ可伺出事」(「太政官日誌」『維新日誌』v(16)
つまり、これは、社寺境内など「古来の勝区名人の旧跡」で「是までも群集遊観の場所」とな
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佐藤理夫:北海道初のライラックの行方
っていた場所のうち主なものを「公園」とするものだった'1‘1.
太政官布告がきっかけとなり開設された公園は、東京では上野公園(寛永寺境内)、浅草公園
(浅草寺境内)、芝公園(増上寺境内)で、既に庶民の憩い集う場所となっているところを指定
したもので"'、新たに整備のする必要のない場所であった。しかし、函館はといえば、公園に指
定できる場所がないため、〈何もないところから出発〉だったわけである。
明治7年の時点では、まだ「公園」になる土地が決まっておらず、私有地化の増加により、土
地の確保が難しくなりつつあった。このため、
このように、官が土地を確保しようとしたいきさつはあるものの、私有地の問題も絡み、前進
のきっかけにはならなかった。なぜなら、「公園」とはどういうものかがよく分からないまま、
自分の財・産を提供することなど、そう簡単にはできない相談であったろう。
函館と同じようにく何もないところから出発〉といえる横浜や神戸は、どうだったのだろう。
横浜や神戸では居留外国人が多かったため、太政官布告にかかわらず、政府としては「公園」
整備の要請に応える必要‘性に迫られた"'('”。これに対・し、居留外国人が少なかった函館では、政
府は積極的に公園を造成する必要性に欠け、その意欲に乏しかったであろう。また、公園とはど
ういうものか、理解することが難しかったことも容易に想像できる。
しかし、この事に不満を持っていた居留外国人が居たとしても不思議ではない。中でも当時の
イギリス領事であるユースデンは、「病院は病人に必要、公園は健康,体の養成所」との考えから、
〈憩いの場所〉としてく公園〉が有効であることを、当時の函館の有力者である渡辺熊四郎など
に説明し、自らも資金の提供を行い、夫人は樹・木の苗の提供ばかりでなく草花の栽培指導も行い、
夫婦協力して公園開設実現のための協力を惜しまなかった(l2xl副('6)。
ユースデンは親日家として知られるが、「豆コンシロ」、つまり、「豆く身体が小さな〉コンシ
ロ〈コンシェル=領事>」というあだ名をつけられ親しまれていた")。といったように、好意を
持って受入れられていたことがうかがえる。
さらに夫人といえば、公園の造成以外でも、「遊郭で働く女性のための技術指導および学業の
場として明治11年に蓬莱町に開設されたく女紅場>」で西洋式の洗濯法を教え、また鶴岡学校の
設立に際しても貢献している(i‘x'淵、'"。とにかく、ユースデンとその夫人は地元にとけ込んでいる
様子がうかがえる。
これらのことも、領事の話に函館の有力者が耳を傾けた要因ではなかったかと思われる。
北海道初のライラック
札幌の人々は、北海道に最初に持ち込まれたライラックは、札幌市の北星学園に開学者のスミ
ス氏がアメリカから持ち帰ったく株〉と思っているふしがあったようだ。
しかし、函館では、ユースデン夫人が函館公園に持ち込んだ2株のライラックであり、〈スミ
ス株〉よりId年ほど早いことになる。つまり、イギリス領事であるリチヤード・ユースデンの
夫人がこのライラックの株をイギリス本国から取り寄せたものが最も古いことになる。
−5
市立函館博物館研究紀要第17号
ところで、スミス氏はユースデン夫舞が雛函してから2年後の明沿16年から明治2(1年まで函
館に滞在しているため、どちらも接触する機会はないスミス氏が函館に},I}化していた噸のI;た
'、?:校は、函館lll麓の元町界隈にあり、函館公園からはそう遠くないところにあった。『北AW:胴
M年史迦史篇、1990'鋤によれば、スミス氏は「植物好き」でしたから、函館公園などにも足
をI巾ぱしていたであろうし、きっとバラやユースデン夫人が持ち込んだライラックや西洋クルミ
をIIにしたことであろう。
ライラックは東欧のバルカン、│も,儲原産の栽培極で、ユーラシア大陸と北アメリカ火膝の比較的
I府i緯度地方に植栽されており、北アメリカ大陸へは、ヨーロッハからの移住者が持ち込んだとさ
れている‘lx31
つまり、イギリスにもアメリカにも普通に分布する植物であるこのため、ライラックを11に
することで、故郷に思いをはせたことは容易に想像ができる
そう縁えると、一時アメリカに帰I型し、戻ってきた時に、〈函館で過ごした3年間で印象に握
ったであろうライラック〉を、アメリカから.持ち帰ってきたのではないかそう思うのは私だ:i
だろうか
ゆくえ
くユースデンゆかりのライラック〉の行方
くユースデンが植えた一株〉も、「身代わりのライラック」も今は植栽場所に見あたらない
これらも枯れてしまったのである
そのいきさつについては『由緒ある函館のライラック』‘3111に詳しい
跨鴛皇穂鯛蝋麗照噸毒期
さらに、この''1で、
謄羅謹鴬畿嘉羅篭鴬篭撫
と述べている
つまり、〈ユースデンゆかりのライラック〉は細々とであるが、三島清吉氏(以下清占氏、北
海道大学名誉教授)の庭に生き残っていたのである。しかし、残念なことに、この記述にある清
吉氏の庭にあったライラックは「平成16年に枯れた」鰹''ため、唯一残っているのは、北海道¥'¥
1:業技術センター(以下に業技術センター)に残るくユースデンゆかりのライラック〉であった。
I研ii62'r-10月III付けの北海道新聞の記蛎を見ると、「本道最.'『の“-f係”寄il脚ライラッ
ク、1:業技術センターに」‘型'という兄州しで、
「本道最古のライラックの“子供”の木の寄贈が1日、函館市桔梗町の道立工業技術センター前庭で行わ
−6
佐藤理夫:北海道初のライラックの行方
れた・
ライラックを贈ったのは同市花園町十三の元北大水産学部教授三島清吉さん(63)。ライラックの“父”
にあたる原木は、明治十二年(一八七九)年、函館公園開園記念と、当時の駐函館英領事夫人が植えたもの
で本道へライラックが植えられたのはこれが初めて。原木は昭和二十九年の洞爺丸台風で倒れ、枯れてしま
ったが、同七年に三島さんの義父、故義堅さんが原木の根株を自宅に移し育ててきた。長く保存できる場所
の移植を希望していた三島さんに、同センターが名乗りを上げ寄贈が実現した。三島さんは職員らの手で移
植されるライラックを見つめながらく函館の財産として、末永く保存して下さい〉と話していた。」
と い、うものだった。
'
筆者は、工業技術センターに残るくユースデンゆかりのライラック〉の存在を知り、5∼6年
前から観察を続けていた。この時、すでに、工業技術センターの職員はその存在も経過も忘れた
状態で心配をしていた。心配が現実のものとなってきたのは平成15年からである。年々花序く茎
や枝についた花の集まり〉は少なくなっていたが、それが、開花する花びらを捜すのにも苦労す
る状態となっていた。「移植の際、ライラックの根が、レンギョウの根と切り離せない状態であ
ったため、そのまま移植した」“!ことが原因だったようだ。平成17年には幹や枝が枯れ始め、
枯死が現実のものとなってきていた。筆者はこのことを清吉氏に報告し、北海道林業試験場函館
支場に相談を持ちかけようとしていた矢先、元北海道大学水産学部職員の鵜沼ワカ氏から次のよ
うな話がもたらされた")。
「函館植物研究会会長の宗像和彦氏から、前北海道自然保護協会会長の俵浩三氏がくユースデンゆかりの
ライラック〉に関する文章(これは「明治の文明開化を伝える函館公園」、『モーリーNo.12J])を書くにあた
り、このくライラック〉の情報提供を依頼された。そこで、鵜沼氏が懇意にしている清吉氏にお願いした
ところ、著者が工業技術センターのくユースデンゆかりのライラック〉を観察しており、このくライラック〉
が枯れ死寸前であることを聞かされたこと。
さらに、現在のこのくライラック〉の保存を図るため鵜沼氏と共に、清吉氏、宗像氏、元北海道立林業試
験場道南支場長で樹木医の斉藤晶氏、工業技術センター長の米田義昭氏に函館住宅都市施設公社の本谷章氏
と函館市土木部緑化推進課の田畑智美氏が加わり、保存。育成するための方法を話し合っている。」
というものである。
同様な話については田畑氏からも連絡が入った{割!。
函館公園は行政と市民が関わる中で、公園が造築され開園し、そこにくユースデンゆかりのラ
イラック〉が植樹されたのだが、さらに、またぐユースデンゆかりのライラック〉の子孫を残し、
種の保存を図るために行政と市民が手を組むというのも、函館公園ができた当時を思い起こさせ
る出来事のように思われる。
現在、工業技術センターにあるくユースデンゆかりのライラック〉の子孫とその株(ヒコバエ、
は(関連図版参照)、「(由緒ある)母木の蘇生と共に種の保存」を図るため、斉藤晶氏の手に
より育成されているI頚I“"'。
函館公園が平成IN年1月20日に国の「名勝地」に登録された事も何か運命的なモノを感じる。
−7
市立函館博物館研究紀要第17号
将来的には、このくユースデンゆかりのライラック〉がnび函館公園のくゆかりの地〉に移植さ
れ、保イf木として末永く見守られることを願わずにいられない
おわりに
筆者が、ライラックに関わるきっかけは、元北海道大学北方生物圏フィールド科学センター森
林圏ステーションの船越三朗氏に「ライラック観測網」へのお誘いを受けたことによるメーシ
ングリストに加わることで、身近なライラックのI111花情報を既定のマニュアルに従い観察し記録
したことを報告し、データを共有することで、北海道の季節の温度変化を追求しようというもの
である。これは、気象庁が行っているく生物季節〉のライラック版と考えても良いかもしれない。
この「ライラック観測網」に参加して気付いたことは、札幌の市民の多くが、北海道に、いや
H木にライラックが入ってきた場所が札幌であると思っていることであった。
さらに、函館市民のどれだけの人がくユースデンのライラック〉について知っているかも気に
なってきた
そのことが、この文章をまとめることにつながったと思う。
この文章をまとめるにあたり、船越氏には、「ライラック観測網」加わった当時から、「<ユー
スデンゆかりのライラック〉を早くまとめるように」と背'pを押して頂き、多くの助言を頂いた。
三島清詳氏にはくユースデンゆかりのライラック〉のその後について教えて頂いた。前函館iwm
察指導員の木村マサ子氏には、三島義堅氏のH宅の場所やライラックの行方についての情縦を提
供頂いた。鵜沼ワカ氏と旧畑智美氏には、I.業技術センターのくユースデンゆかりのライラック>
の保存の砿し合いから実際の手立てまでの情鞭を頂いた。この他多くの方からご指導、ご協ノJを
いただいたので、紙面をお俗りしお礼を申’二げる
(市立函館博物館学袋係長)
−8
佐藤理夫:北海道初のライラックの行方
引用文献
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(2)植物文化研究会・雅麗(1996)図説花と樹の大事典.柏書房株式会社,東京
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(5)百年史刊行委員会(1990)北星学園百年史通説篇.学校法人北星学園,札幌
(6)札幌市教育委員会編(1985)女学校物語.さつぼろ文庫,35,札幌
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(8)「北海道新聞」昭和34年5月29日付
(9)「北海道新聞」昭和45年5月28日付
(10)「北海道新聞」昭和45年6月30日付
(11)「北海道新聞」昭和51年4月27日付
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(13)俵浩三(1979)北海道の自然保護:その歴史と思想.北海道大学図書刊行会,札幌
(14)清水恵(1990)外国人の居留.函館市史通説編,2,1425-1426,函館市
自家瓶
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(16)渡辺道子(1990)函館公園の開設.函館市史通説編,2,1425-1426,函館市
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(21)三島清吉(2005)私信
(22)「北海道新聞」昭和62年10月1日付
(23)鵜沼ワカ(2005)私信
(24)田畑智美(2005)私信
(25)斉藤晶(2005)由緒あるライラックの継承と子孫種苗の育成保存記録.自家版
−9−
市立函館博物館研究紀要第17号
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1.イギリス領事リチヤード・ユースデン
2.ユースデン夫人
身代りライラック
翻一藩璽、
一一
鶴8=を
4.身代わりライラック
昭和34年5月29日付け北海道新聞記事
戸口
7
鍵蕊頴罰
−
鰯
・伊
rr画
調ィ弛み垂亨.,シ噴郷角へ診唄弊泌
︾垂
−
”9吾宛ず剰
釦 画 、 悩 み も
3.ライラック株(明治14年7月撮影)
5.ユースデンゆかりのライラック
道立工業技術センター前庭平成18年6月5日現在
関連図版写真'から4は函館市中央図書館蔵
−10
佐藤理夫:北海道初のライラックの行方
関連年表
※○内の数字は月隣の数字はE
ユースデンとスミスの塞項は左づめで記圏
リチャード・ユースデン(1830∼?)と夫人
年号/項’
サラ・クララ‘スミス(1851∼1947
咽一昭一昭一肥一昭一肥
函館(箱館)および近郊
札 幡
③28ニューヨーク州エルマイラ市近郊に生まれる
④15ペリーが函館に来航⑧30プチヤーチン乗艦、箱館に入港
TE
◆=●
(4'ライスをのせたアメリカ捕鯨船、箱館に入津
1857
安政“
箱館奉行、亀田村に五稜郭の築造に着手
I
戊9
1858
⑨ロシア領事ゴスケヴィッチ来箱
安政5皇
コ﹂
ヨコ
④オランダ軍艦バーリー、箱館に入る
⑤ロシアの東部シベリア総督ムラヴイヨフ.軍艦に乗じて箱館に来航
1859
跡イギリス緯領単オールコツクスと箱鮪駐在イギリス韻事ホジソン.柿舘に着く篭事瞳として称名寺が貫二
安政6曲
ロシア領事ゴスケヴィッチ、箱館に病院を計画
⑧箱館駐在イギリス領事ホジソン去箱
庚日
9:箱鮒駐在アメリカ緬率ライス、偶気のため帰国英国商人ジョン・ウィル.而餓に来る
③マキシモヴィッチ箱館周辺の植物採集し、須川長之助これを助ける
函館
載万延元年
辛睡
18E
万廷2主
ア■巽
蝕茶一鰐弼り力
亜︾函唾︾単一■一一・1
1860
安政7皇
ロシア領事館の隣にハリストス懇堂寄弾立
③ユースデン領事代理として着任
Cロシアの司祭ニコライ来箱
イギリス人ブラキストン来箱10月まで滞在
2文久元年
③箱館駐在イギリス領事ワイス着任
壬月
④ライス、アメリカより再度来箱
1862
文久22
。:弁天岬砲台竣二
臭診
186
⑧箱館のハリストス聖堂、ビザンチン様式で竣工
文久3劇
甲子
⑥,五稜郭竣工
186
文久4角
z元治元』
◆■■4■
P口■■や■。■■
毎 ■ 砧 =
乙王
■己貝凸耳●凸■甲
曲■■a亀且■■●
1861
I■P曲◆■■口
●■■。■●■■
pe6◆。■■■
元治2堂
垂慶応元』
③イギリス公使バークス来箱
”イギリス領事館員の森村・落部村アイヌ墓地発掘事件
⑪18杉浦誠、箱館奉行となる。(最後の奉行)/23箱館駐在イギリス領事兼
オランダ領事ワイス、後任のガワーに事務引継
1861
争十■
”■■旬︾︾唖﹄一一■■
丙戒
zイギリス公使バークス、アイヌ人骨採掘の3人を処刑した旨を幕府に報告
慶応Z料
T9I
ヤ℃■辛■亜酌叫酎亜︾a・
戊辰
②ユースデン領事代理として着任
蕊
雲
]>ユースデン領事とな塁
④箱館奉行所設置箱館ハリストス正教会創立
1861
慶応4号
昌菖l占当昌
明治2耳
軍屋争冒W弓
”代渡辺能四郎大町に洋品小間物店開業
Ⅲ8
187(
優麗
明治3匂
辛未
187
明治4年
ⅡqⅡⅡⅡⅡⅡ11■0■刊0日●IⅡ11Ⅱ!“、。9114.口8国q■0句9句日日■
灰午
H醗際
9旧箱館裁判所を開拓使出張所と改称。箱館を改めて函館とすき
Z五稜郭で製氷された『函館氷」横浜に移出
(⑤黒田清隆開拓次官に任ぜられ4
閏⑩東京の開拓便本庁を廃止し、函館出張所を本庁とする
⑤札幌を開拓使本府と定め、函館と根室を出張開拓使庁君
⑪蓬菜町に山ノ上町の遊郭を移
置く
「明治六年、谷地頭ニアル官有地若干坪ヲ相シテ公園地トナス」
187a
Z代弁領事として着任
ニューヨーク州立ブロックボルト師範学校に入学
⑨札幌閲拓使庁を札幌本庁と改め、函館・根室・宗谷・浦罷
・樺太の5庁を置く
⑥札幌までの新道完侭
I
︾、銘
Fと
明治6年
四一叩■函“函釦■印a釦9■も●■
②開拓便、函館・青森間定期航路を開設
美酉
主心Ⅷや。︾。由■■可0け■
明治5年
毎令■や巳4
S五稜郭庁舎解体
訂新道函館・森間竣工
1872
総ア.︾艶呼慨メ螺難
②函館・札幌間の新道開削エ事着昌
壬申
328エルマイラのフリーアカデミーを卒業、その後、フランス、ドイ
ツに留学
③榎本軍降伏し、五稜郭の戦いが終わり戊辰戦争終*
函
1861
●■■争自
一一坐函q中
ブラキストン自宅で気象観測を行う(明治5年中止
④榎本軍、四稜郭を急i
己E
句争口G凸口早四
口ザ辛子坐凸北■●●
閏④箱館奉行所を箱館府に改める
9明治元年
q●祁西垂︾一一F︽
ザ①■■ニ
186.
慶応3ゴ
一手季
①函館裁判所設置(開拓使函館支庁内
エルマイラ市の第4ジョージ。M・デーブン学校に勤瀦
M・C・ハリス来函メソジスト函館教会を創誕
明治7今
一
−11
唖五唖“叩、岬必仙
寺÷〆凡。
⑧旧秋田藩士田崎秀親、谷地頭においてドイツ代弁領事ハーハーさ毒,
187冬
差一群吋寺職咋
甲成
(⑧黒田清隆第3代開拓長官に任ぜられる
市立函館博物館研究紀要第17号
関連年表
※○内の数字は月隣の数字はE
ユースデンとスミスの事項は左づめで肥圃
リチヤード。ユースデン(1830∼?)と夫人
函館(箱館)および近郊
年号/項’
一一一一
一一一
一I p一
⑥谷地頭の山腹に碧血碑を建てる
⑧ブラキストン商社発行の証券通用を禁止
一一
1875
、動官立小学教科伝習所を会所学校内に開く
差 損 藍
丙
弓
の天皇函館に巡幸⑨函館裁判所は函館地方裁判所と改称
⑦イギリス領事館前に(WELCOME)の北海道最初のくアーチ>の門を作り、天皇を
迎え、夫人は花束を献上
1876
明治“
丁重
函
"
‘
187画
⑤ジョン・バチェラー、キリスト教伝道のため函館に来る
!⑱平田文右衛門・濫辺熊四郎ら、貧困者子弟のため私立鶴岡学校を股立(1929年閉銀
明治102
私立鶴岡学校に維持員として尽力
①北漠社北海道最初の新聞「函館新聞」創刊繭)「・・・公園ノ綾ハ各国共二官民協
戊1
1878
明治112
札 聴
④官立小学校の会所学校を開肇
乙ヨ
明治8f
サラ・クララ・スミス(1851∼1947
蕊
・
メ
.
雪
.
■①も①。BCF。■
4昼年・凸4
定ノモノニシテー其費用擬ネ人民ノ寄付二出テ、園中取繍等ノ職専ラ官ノ保渡二係
ル趣二有之」④公園の地所を拡張するため、隣接する民有地の買い上げが始ま
札幌の人口3千人函館の人口2万8千人
(「学制」を廃止し教育令を制定函館公園完成
る⑤蓬莱町に官立『女紅場』を設立
③ユースデン夫人『女紅場」の責任者に西洋洗濯法を教える
己9
館
1879
⑤函館公園内に開拓使仮博物場開館
明治12剣
⑪函館公園開園式
夫人函鯨公園にイギリス本国から取寄せたライラック2株と西洋クルミを植える
皮E
夫人による洗濯指導が始まそ
<教育令を改正
①「西洋洗濯伝習所』開所
188C
31アメリカ長老教会婦人伝道局から派遣され日本に出発
④函館校園内に混同館を新築
I
明治13倉
9}1新栄女学校の教師として着任
⑩ユースヂンと夫人は函堕を離れ、イギリス本国に帰国
I
辛邑
⑩官立小学教科伝習所を函館師範学校と改称
D「西洋洗濯伝習所」閉鎖
成果は「女紅場」に引き軽がれる
18E
明治14爵
東
京
秒遺愛女学校開設
壬弓
②開拓使を慶止して三県を設3
動函館県庁を元町一番地元開拓使支庁に開設
1882
明治152
④公立弥生小学校落成
尖ヨ
⑤私立函館商船学校を県立とし、函館県立商船学校と改称
⑩アメリカ函館領事館を閉韻⑪県立函館師範学校附属小学校に仮幼稚園を付般
⑰日本基督一致函館教会創立
札幌の戸数4千6百戸人口1万8千〃
函館の戸数8千2百戸人口4万1千人
1883
明治161
甲
日
数ケ月滞在その後、函館に移住伝道のかたわら英語・家事。且
書を教え4
③函館師範学校内に函館女子女学校を設置〈⑫師範学校に合併
乙E
⑦札幌博物場、札幌農学校に転f
函舘
明治17;
31病気擬養のため新栄女学校長を辞識北海道に遮り、札幌I∼
篭
蕊
⑧函館公園に博物場第2号館開設
⑨豚寺頭館病院を県立に改める
1884
⑤県立札幌仮師範学校を札幌県師範学校に改称
1885
明治184
目翠黍
①聖保禄女学校〈現白百合学校)開校式
丙腸
謹
動函館・根室に支庁を置く
エレラ、函館に発生して各地に蔓延
1886
明治191
動札幌・函館の師範学校を廃止/函館商案学校を官設とする
①三県一局を廃し札幌に北海道庁を設極““■9↑温■
②札幌農学校、北海道庁に移’
⑨札幌区に北海道師範学校を股1
塞重 ⑱北海道尋常師範学校の英語教師として任用されを
①12北海道尋常師範学校に着任/15師範学校官舎の旧厩舎を改j
丁。
した教室で授業を開始(生徒7名)
188フ
⑧北海道庁から新築校舎を無償貸与、スミス女学校開業式を挙客
明治20』
(生徒46名、初代校長スミス
(黒田清隆内閣成立:
戊弓
1882
明治214
③31北海道尋常師範学校英語軟師に任期潤了
1889
カ︾産
明治22』
灰フ
アメリ
己ヨ
(大日本帝国憲法発布.
31−時、アメリカへ帰匡
10ハ新『小学校令」公布10/30「教育に関する勅躯」発布
卿アメリカか豊瞬慨霞識力通ら持ち帰ったとされる>勤烈鴬以立翰
『j;草木脊学技侭陛移櫓:吟::.::、溌騨《雛瀧』舞堂:驚蕊‘‘・雑
189C
明治23』
ミ
辛リ
18〔
明治248
宮部金著初繕画畏がスミスから量戒ラ凱2硯苗を糞煙麹ゴ
壬E
北犬稚物薗虐移粒”
189Z
明治25:
<参考文献>
園田健蔵《1956)『豆コンシロ』リテヤードユースデン函館百珍卜函館史買
函館市総務部『目で見る函飽のうつりかわり』市史福さん事務局
昭和訓年12月
百年史刊行委員会(1990)北星学園百年吏通践震学校法人北星学園.札甥
俵浩三(2”5)明治の文明開化を伝える函璽公園.モーリー.12.20-22
垂辺道子(1990)函館公園の開設_函露市史通説編.2.1425-1426.函館市
俵浩三(1979)北海道の自然保護号その歴史と思懇.北海道大学図書刊行会.札慢
辻喜久子〈1990)西洋洗濯伝習所函鐘市史遷鋭鱈21425-1426,簡鯨市
清水恵(1990)外国人の居留.函堕市史通鋭温.2.1425-1426.函館市
辻喜久子(1984>ユースデン夫人と西洋式洗設禰伝習所市史余話10.市政はこ踏て
−12
立川遺跡第1地点出土資料の分析
藤田征史
はじめに
立川遺跡は1髄道旧石器時代研究の初期(1958.1959年)に発掘された遺跡であり、4箇所の調査区から
は有舌尖頭器・細石刃/御1石刃核・大形の石刃を特徴とする旧石器時代終末期の石器群が出土している。
各地点の新旧関係について幾つかの意見がある。調査者の吉崎昌一氏は主‘体となる石器製品の違いから各
石器群を異なる時期に位置づけた(吉崎1960.1973。対して石刃の存在を根拠に各地点をまとめる考えか
ある(木村1967,畑1980)。また、千歳市周辺の層位的出土事例から蘭越型細石刃核を伴う石:認羊と忍路
子型細石刃核を伴う石器群とを新旧に分筒勝る視点もある(寺崎1999ほカツ。割符の意見にしたがえば両細
石刃核の出土している立川遺跡第1地点は異なる時期の混在として捉えられよう。
本稿では第1地点石器群が複数に細分される可能│生を考慮し、肉眼観察による母岩分類を基準とした石
器開戎を検討した。さらに石刃製,作の特徴を分析し、母岩分類との関係を調べた。
1.遺跡と出土資料の概要
立川遺跡は1脇道磯谷郡蘭越町の昆布川左岸段丘上に残された遺跡である儲1図)。表面採集時の遺
物の散布状況を手がかりに調査区が設定され、4地点隙IⅣ地点)から石器がまとまって出土した。出土
点数は第1地点334点、第Ⅱ地点197点、第Ⅲ地点925点、第Ⅳ地点284点である(函館博物館1960)。
出土資料は函館博物館に保管されている。
分析にあたり注記をもとに資料の所属地点を判断した。報告書と照合した結果、注記は第1地点「N翌
I」、第Ⅱ地点「NilI」、第Ⅲ地点「NⅡⅢ」、第Ⅳ地点「NⅡⅡ」、表面採集「NⅡC」であり、この他
注記のない資料も確認された。なお、未注記の資料には表面採集やT-P等と記入された付茎とともにケ
繍撫
鰯
正正唖㎡母坦
蕊
●
鐘
蕊蕊騨謬蕊
、
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霧
●
r ザ
第2図第1地点の遺物分布図
第1図立Jll遺跡の位圏函鏑割勿館I960)
(函飼熱勿館1960.スケール雷鋤
−13
市立函館博物館研究紀要第17号
一スに収納されているものと全く記録のないものとがある
今回対象とした第1地点の資料の多く(湖#作土直下の'三部ロームj濁の上方から出士し、、│え面的には調査
区(39i約東側の約5×3mの範囲に大部分の資料が集中して出土しているが北西側にも小規模なまとま竜
が認められる(第2図)。出土位置の記録が報告書に記載された遺物ク洲i図と写真だけであり、資料毎の分
布状況は不明である。
2.対象資料と分析方法
第1地点出土資料のうち、所在の確認できなかった資料6点を除いた328点を対象とした。報告書に久
測図掲載のある3点(報告No.55.59.60)とその他3点が未確認資料である。所蔵資料の注記,¥nは303まで
あるが、262点にだけNo.が付されており、5点が注記の剥落により番号不明、(;i点がNCのない資料であ-つ
た。対象賓料の詳細は第1.2表のとおりである。なお両面Mimの剥ハーは、本,体の内反・リップの突出=
背面の剥離方向を基準として剥片単体で判│折できたものだけを抽出した。
肉眼観察によって岩石学的な石質に分類し、各石質は,fl器製作の母岩に相、"lする単位を企図して色調お
よひ蝋様・rl色粒子惇の有無によって分類する伽藤・鶴丸1991)。ただし、接合作業をI分に行なって↓
ないので、接合資料に比べて精度に欠ける。さらに、目的とした打刃の大きさを反映している可能性のあ
る長iji副到直と、剥離に先立つ各種調整や打面転位を示う背面構成とを分析し石刃製作・作業の把握を試みた。
第1表第1地点出土資料の石器種・石材構成
‐−−−−−−−−−−−−−
細石刃
頁端
黒曜石
'
k
¥
¥
¥
i
メノウ
緑色凝灰兇
合計点数
33
25
細石刃膨
細石刃核打面形成・再生削卜
小形舟形石誌
掻淵
削号
彫患
彫器削片
二次加工ある剥片
裏面末端加エ石器
斧形石烈
4
‘
40
石フ
両面調整時の剥卜
剥卜
砕卜
22
n:
64
92
18
27
喫
合計点識
合計重量(輿)
1
5
ざ
目
w¥.6
13
2
5
5
.
;
総点数:331
35
2042.
12.
2.6
総電量:3307.3
※頁岩製石刃1点と安山岩製斧形石斧2点の砿斌は求計・測
坐 一 ユ ー ▲ 。
3.母岩別資料に基づく分析
対象資料は頁岩30種、安山岩8種、熱│羅石5種、メノウ1菰、凝灰岩1種の計45種の母岩別に分類し
た。以下では母岩分類毎に石材の糊散と器種をみていく。報告書中で詳細記載済みの資料には│司書中のv
を付した。また数字のみで資料を示す場合は本稿第2表の整理番号を用いている。
①頁岩傍3表)一色調・模様・不純物の有無から分類した。なお、地色が一色ではなく、赤みや青みの
なし恢(明∼II部と白の色調を大きな斑状に共有している資料が認められたので、色調複合盗料として分類
した。このことから小形の資料については灰色系統と白色系統とに分類した資料が同一の母岩であった口;
能性が残る。
.赤みがかる灰の地色の資料r[Al;II胃灰色や明灰色の小斑模様があり不純物が認められない/m;模様
−14
藤田征史:立川遺跡第1地点出土資料の分読
第2炎第1地点出土盗料屈性・覧表111
駕篭d瀞“麓霞石質
1 2 7
擢綾合驚零蒲箪量種類石質
0 . l S P S H A 】 P
2 今 6 B L S } l A l P
3 8 9 3 1 . 2 B L S H A l
6211
撚錘
2.8F1.S}IC2bアP
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411.
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5 2
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109
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110
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112
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113
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55..
1222畠
7.3BLSHD2、
144
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0.:^¥!BSII('211''/D
123162
0.3SPSHD2I〕
148
0.4、IBSHCJ
124205
5823:‘
7.1FI.SIII〕2I)
0.3、旧SHC2bアD39に扉
0.lFLSHD2,
5925.
1-0、1BSHC2bアP581垂、
0 . l F L S H D 2 ,
60300
0.3I1BSHC2bア,
61不明0.2MBSHC2hVD
-15
藤田征史:立川遺跡第1地点出土資料の分板
第2表第1地点出k盗料・屈性一覧表(2)
麓守驚璽篭種類石質
12748
膿援合驚需瀞重職細頚石蕊
0.8MBSHElaP
190150
0.2FL()BA2,
12816050.6MBSHElaD
191151
0.6FLOBA2!〕
12916
0.6MBSHElaD
192152
0.8F1.OBA2,
130238
0.2、1BSHElaD
193153
0.7FlBOBA2P
13127929.8MBCSHEIaD
194154
0 . 6 F L O B A I P
132114517.8BLSHE1bl)1331951塁
0.5F1・B()RA2,
13313R
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0.4FLSH脚bl)1321961垂
13493
‘I().8FI.SHElbF
13556
0.5FLS}IEI(2P
136363339.4BLS}.{l;2ill)
1971鼠
0.3FL〔)BA1P
198159
0,2F1.()BAlD
19916
().8ド1.HOBA2,
2()0168
().3F1.()HAlP
13753
2.9BLSHE2al)
2()1169
0今2F1.OBA1,
138236
1.6FLSHE2aD
202175
0 . l F L O B A l D
203176
0 9 F L O B A 1 P
139455636.9BSHE2b!)
204180
0.2FLBOBAlP
140153838.8SSSHE2bP
205188
4.7F1.OBA1,
141945417.8BLSHE2hP
206189
4.4FLHOBAln
1422103424.4B1.SHE2bI)
207190
().8F1.OBA1IE
143263
5.7B1〃SHE2bD
208191
0.5FL〔)BA]|ロ
144123
().2FLSIlE2bP
209192
0.8FL〔)BA2P
14516
().2FLSIIE2bI〕
210194
26.0Fl−H()BAlr
14618
0.6FLSI-1E2bP
211198
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147662419.4ESS1IE3bD
14869358.lBLSHE3hl)
212199
0.6F1・B()BAlP
2132()2
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214208
1.0FL()BAlP
4.3FLSHE3bD
215229
0 . 5 F L O B A 2 P
1505?
1.3FLSHE3aD
216230
0 . 4 F L O H A 1 P
l5IiI
10.5FLSHE3aP
217234
0.3FLB()BAlP
152125
0.2FLgHE33
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0.6FL〔)BA】P
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0.6F1.〔)BA1,
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1 5 3 : 1 7 6 0 . 2 Ⅵ H 訓 I F l )
15495
BLSH
220245
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221247
0 . 5 F L O B A l D
222255
1.0FLB()BA2P
223256
0 . 3 F I O B A I D
224260
0.3FL()BA2,
225267
1.6FLHOBAlD
226271
0 . 2 ド L O R A l D
0 . 5 F L O B A l D
1556:.
0 . 5 M B O B A 2 P
227272
156289
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228284
1.1FI.()BA1
157不明
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158
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23()286
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231288
0.6F1()HAIP
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232
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233
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234
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3.1Bll〔)BAll〕
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237
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16630
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238
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4
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16957
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248
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0 . 7 F L O B A l D
249
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178120
0 . 6 F L O B A l D
250
0.1FLOBA2,
17912
0.5F1.OBAlP
251
0.1FLOB._
180124
0.2FLOBA1P
252
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181127
0.2FLOBA2I〕
253
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254
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183129
0.3F1.〔)BAll)
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0 . 3 M H ( ) B B P
187136
0 . 1 F L O B A l D
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0 2 F L O B A l l 〕
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2 . 8 B 1 . O B B D
189149
0 . l F L O B A l P
2593..
0 . 5 F L O B B D
-16
接:
市立函館博物館研究紀要第-.7号
第2炎鋪I地点州|:衡料屈性・リ覧炎(3)
整理注記報告璽最諏頓石質勝号Nn.N...
番号恥N仇
撚嫉合繋埋注紀綱告“穂頚石質
謄援雲
7 . 3 F L A 入 B 4 、 3 1
26()2()6
5.2F'.()BBP
317
261225
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318
7.7
ド L A 、 B 4 、 3 1 6
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F L A 、 B 4
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266
267
50
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不蝉.
321
1.3CHA、B41
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AXA、
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6.4FLA〔
329
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0.lFLOBEI〕
291
0 . 2 c H O B E D
33()2(ノ
2.1FL1(
D331
331
0.5FL11
D330
※接合資料は整理番号で記載
※記号凡例
【石器種】
MB:細石刃
ⅥBc:細石刃核
BST:小形舟形石器
Bい彫器ES:掻器SS:削器
ER:嬰面末端加工石器
RS:二次加工のある剥片
SP;削片
ill.:石刃
AX:斧形石器
.::剥片
i-LB:両面調整時の剥片
CH言砕片.
【状態】
P:完形.ほぼ完形
!):欠損あり
292303581460.0AXA、AIP
293旧-1
11.OFL4、A2I)
294196
2 . 3 F L A 、 A 2 P
295197
2.0F1.A、A21〕
296254
3.7FLA、A2,
297296
0.9FLAXA21〕
298297
0 . 6 F L A 、 A 2 P
2992()1
0 . 4 C H A 、 A 2 、
3002月:1
1.5CIIA、A2;
3014:‐
3024:
124.IFLA、A3?
13.0ド1.A、A3I)
3()38?
5.9F1.八、A31)
3()‘#88
97.5FIA、A3号
305185
306195
3.21.1.A、A3P
K7,li-'l、A、A3E彦
307204
35.1FI.A、A3P
3()8270
58.0FLA、A3.‘‐
309
31()2”
※電最:言
0.2FLA、A3,
21.()F1.A、BIP
31126N
(う.2FI.A、B21)
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9.3FLA、B21)
3137:
17.()F1.A、B3!)
314280
11.6F1.A、B
315294
10.8FLA、B31〕
316
2.9FLANB31)
−17
市立函館博物館研究紀要第17号
鐸 一 一 … ぬ
第3表頁岩の母岩別分類と器種構成
ME
MB(
面とが成す稜に沿って剥離された第一イf刃(餅
FLB
ESSS
3図85)である。('31)の多頭石錐(Nn20)は忍路了一
剛細石刃核によく伴う。
B
1
上
・灰系統の地色で模様・不純物が認められなし
C1t
C2b弓
資料ClaJi脈の地色/C4b;灰の地色Clc
C4t
︲I
1■d■例勾■
D1
:!
灰の地色で珪質分に富む〕
$
唖乞
C4に
P
’.
・にlの地色の資料;d1:小斑・筋模様がある/
:
C2bフ
D2;模様・不純物が認められない:diの細イ
E1E
1I
品
刃(114)には被熱による剥落がある。
C2aテ
4
C3E
.異なる色が複合した地色で白色微粒了-が認め
E1t
E3t
C2bィ
{
41
;られる盗料iEla;灰と暗灰の地'色で小斑側策
:2
2
E2E
がある/Elb;口と灰の地色で珪質分に富み模
葱
E2t
;:’
C3t
品
3
様が認められない/Elc:灰と暗灰の地色で縞
4
§
’
状模様がある〕
・灰と暗灰の複合した地色で不純物が認められ
|皿す−
ない盗料E2a;脈状模様/E2b;小斑1剣茶〕
E3i
C2a剤
・灰と暗灰の複合した地色で模様・不純物が認
し:E3aの151は蘭越聯、石刃核の側面調整剥ノ1
められない資料E3a;珪質分に富む/E3b;珪質分なし:E3aの151は蘭越聯、石刃核の側面調整剥ノ亨
暁3図151)である。
・口と茶の複合した地色で模様・不純物が認められない盗料K
②黒曜石一赤井川産剰I照イIの特徴である白色球順のリと漆黒・灰1'l色の縞状流瑚薄造とを基準に盗料をIll
出し(預崎2005)、それ以外の盗料は色調・模様で分類した。
A;白色球頼の列と漆黒・灰白色の縞状流理構造のある資料もただし球順の列や流胃鱗造が明瞭なも0星
から不明瞭なものまである。また、典蕃蜘なものを[A1Jとし、稲餓造が認められず白色粒子が疎らに
−18
藤田征史:立川遺跡第1地点出土資料の分祇
認められる資料(細石刃3点・剥片16点)をA2とした。細石刃4点、細石刃核(No.17.18)2点、彫淵第
3図161)・剥片素材の掻器(¥n^5)が各1点、イ「刃3点、剥片89点、砕片1点の計101点である。細石天
核のうち159は忍路子刷、160は忍路了型の「一変形」とされる(制Id1960)。彫器は腹面への細かな剥離
によって形成した打miから削片剥離がなされている。剥片の中には.^i面調整時の大形剥片がある暁3in
210)が、170.210以外の剥片はすべて5.09以下であり1.0g以下が主体を占め、両面調整時の剥片が目走
つ。被熱によるヒビが認められる剥片(166.171.172.17!).181.185.20(1.219.220.227.237)#
II点ある。
B;I'l色球蝋を含まず漆黒と透明・にl色との縞状模様のある資料総細石刃2点、石刃1点、剥片5,妻
の計8点である。
C;漆黒で白色球腰・縞状の流胤鵬造が認められない資洲¥・細石刃2点、小形舟底形打器(No.12.第享
図267)2点、細石刃核打面形成/再生削片帆0.7)・彫器(No.13)・裏面M端加[イi刃悌3図270)が各1点、I患
血調整n-の剥片・剥片が各2点、欠損した小形維伏原石1点の計12点である。被熱によるヒピが認め乞
れる剥片(272)が1点ある
D:ll冊赤色の地色に漆黒の鮒剣叢がある盗料b小形舟底形Yi器の製作途M1(No.11)1点である。甲板曲と
底部に残る素材面は他面と比べて細かなキズが多く蒋干白くくすみ、両側面の加工面との三重パテイナを
示している。
微小盗料⑮);末分類資料。剥バ14点・脚1.1点である。277.288は被熱によるヒビが認められる。
③安山岩一いずれの盗料も透りl粒子が多く認められ表面が粗、$色調を基准に分類した。
[Al;I1K灰色の資料A2:灰色の演料A3:Iリ]灰色の資料in:特にぽみの強い明灰色の資料[/B2:
青緑がかる灰色の盗料/B3;青みの強い灰色の資料BI;青みがかる灰色の盗料/C;口色の資糊
イf器製品はAlの斧形石器(N(..58)l点であり、この他に未検討の斧形石器2点がある。他の11:岩は剥片や
砕片だけで構成される。なお、B4の316.317は折れ面で接合する。
④メノウー327は宵みがかる白・透lリjの斑地に脈状1剣美、328は灰の地色にM色の縞模様、329は口色び
地色の資料であり、それぞオlノ{l材の特徴が異なる。削片剥離前の彫器仙0.10)1点、剥片2点である。
⑤凝灰岩一緑色凝灰岩の資糊洋。部分磨製の布斧の調整剥片2点である。330の背面に331が接合する
以bより、赤井川産の特徴を有する黒曜石閲では忍路子剛細石刃核、淵曜石[C-D]では小形舟底
形石器、安山岩・凝灰岩では斧形石器が認められるなど、各種のイ丁器製作に関わる資料が│リ岩毎に認め島
れることが明らかとなった。頁岩でも蘭越型細打刃核やその調整剥片、伴うと思われる禰器製品(35)が認
められる1J岩〔B1b・B3・rib-(^hア・(':l;,・Ela・E3ajと忍路子剛に伴うと思われる石器製品(5ル
79)が認められるIヲ岩('2aイ・("3bとが異なる母岩として分類できた。
頁岩について母岩毎の器極細戎をみると、蘭j幽糊;l!石刃核と打刃とが│リ:岩を共有しているように見え曇
Clbのような資料がある。その一方で、細石刃を伴わず石刃や石刃素材の石器を伴う母岩〔A1・A2・('2a
ア・C2bイ・C3b・E1b-E2a-E2b・E3b:(Mi3為がある。これら石刃が蘭越型細石刃核に伴うの力
否かを判断するために、以下では石刃の分析をとおして当地点の石刃と他の蘭越型細石刃核石器群の石蚕
との比較を行ないたい。また、細イi刃核と細イi刃との対応関係も検討する。
4.石刃・細石刃製作の検討
検討対亨象は鞘I麗不卿1ll石刃8点・黒曜石製石刃7点・頁岩卿:ll石刃25点・頁岩製石刃7)2点である。各
属′性は第4表にまとめた。なお、幅厚値では幅10.0:iiiiiを境にして大小に分かれ、小形の資料は値が良く
−19
市立函館博物館研究紀要第17号
【頁岩(SHBib)
【頁岩(SHCI)】【頁岩(SHC2b)1
‐ 5 9
一73(32)
−45(49)
【頁岩(SHC3)】
【頁岩(SHC4)】
−18(3霞
【頁岩(SHDl)]
82(53
師とご
ワ
【頁岩(SHE2b)
黒
1
0
4
(
4
5
)
1
0
3
(
4
6
)
△
【頁岩(SHEl)】
1
1
5
(
4
8
)
蝿
【頁岩(SHE3)】
型傘11
(
34)132(5壁
(34)<^^=>132(51)
1
3
9
(
5
6
)
4
7
(
2
4
)
【黒曜石(DBA)]
心
蝿
全夏〉16
【黒曜石(OBOl
− −
【凝灰岩(TU)]
剛9
^=>331
一
70、奄奄
第3図立川遺跡;第1地点出土資料.(S=1/2)No.(No.):整理番号(1960年報告No)
※:No.l8-45-73-82-103-104-115-132-139-142-147:函館博物館(1960)に剥離方向・剥離面の新旧関係を補暴
−20
藤田征史:立川遺跡第1地点出土資料の分祈
まとまることを踏まえ、当地点の分類ではIpg10.0iim床満を細石刃、以上を石刃とした傍4図)。
黒l寵石蝋Ⅲ石刃は、耐則に石核調整面を大きく残し打而形成削片の可能性がある155を除くと、7点か
幅3.611Ⅲl‐60mm・厚1.2mm-1.8mmの範囲にまとまり、長さは30.0mm以上と20.0mm前後の二者がある。
細石刃核に残る最終細石刃剥離面は159が長48.0m・I幅5.0m、160が長24.5m・幅5.5mであり、長
短の細石刃がそれぞれ対応するものと,思われる。残存する打面はすべて単剥離面であり、155だけ幅3.畳
ml・厚1.1mmと大きく、その他は幅1.2mm2.6mm・厚0.3mm-0.5minの範囲に収まる。内湾する形状から
みても、いずれも忍路子型細石刃核に対応するものと思われる。
黒I濯石製石刃は270だけが明瞭に幅広で厚く、明確に180.打面転位を示し、異質である儲3詞。そ
の他の6点は幅15.6ⅢⅢ-27.0iii1ii(被加工の161-261は除く)、厚4.8mm-9.0mである傍4帥。258の打
面は複剥離面であり幅7.8mm・厚1.8mである。単剥離打面から剥離される忍路子型細石刃核石器群や4
形舟底形石器の石淵羊に伴う石刃とは異なり、後述の蘭越型細石刃核に伴う石刃に類似する。
頁岩郷、石刃は最大の26を除くと24点が幅4.8Ⅲ111‐8.2,Ⅲl・厚1.1mill-2.3mnlの範囲にまとまる。長さ
は長短三種がある。細石刃核に残る最縛PI石刃剥離面はCI;42が長IS.0m・幅5.0mm、El:131が長
42.5111Ⅲ・幅5.5mm/長45.0mm.幅6.0mであり、長形の細石刃が蘭越型細石刃核と対応するといえる。短
形の16は末端が収束・内反し作業面端まで剥離が達した資料であり、より背の低い細石刃核から剥離さ
れたものであろう。残存する打面は119だけ複剥離打面、他は単剥離打面である。打面の大きさは最大の
26を除いても、幅0.8mm-3.2mⅢ、厚0.2mm-0.8mmとばらつきがある。また、114だけ打面が長軸に対L
て斜めに残り、両側縁がよく平衡するので、広郷鋤Ⅲ石刃核に対応する細石刃かもしれない。iI嬢順跡を
残すことも糊敦である。26の背面にはより幅狭の細石刃剥離が残されているので他と函I」する必要はなし
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13
11
11
11
と判断し、形状からみても16.114以外は蘭越型細石刃核
石刃・綱石刃の長幅値
に対応するものと考えられる。
v X
頁岩製石刃では21点が幅13.0mm-24.0m、厚4.0mm9.0ii皿に一つのまとまりを示すbなお、この範囲に入る6364.80は脚ロエのため含めていない。より小形の資料は
●黒曜石製輯石刃
o頁竃風思石刃
一鳳曜石蛍胞石刃〈被加工・欠損)
+頁岩製網右刃(被掴工・欠損)
△黒曜石製石刃(被加工・欠損)
3伽0.3)・71.100(No21)の3点のみである。このまとまりを
基準としてより大形の資料を母岩別にみると、〔1〕大形資
X頁岩製石刃
×頁岩製石刃〈被加王・欠損)
料を含まない母岩と〔2〕どちらの資料も伴う母岩と〔3〕
Lk
秀
大形資料だけ含まれる母岩の三者に分けられる。折損資料
を含めた長さでも〔3〕は95.0mm以上の資料がほとんどで
l×
あり、長大である。103.104もほぼ完形で長142.0mmと
なる大形資料である。だだし、82は喋面を大きく残し、目
引
一
卜
的とした石刃の幅厚値と逸脱するものと思わ
命も勿冷珍彰珍玲珍
幅〈m、)
l
』
l
』
黙
▲ ←
●黒曜石製絹石刃
れる。また、幅広資料(52)ぱ完形でも64.0mm
一呼一一﹃︾
厚︵m、︶
なので〔1〕に含めた。まとめると〔1〕A弘
o頁岩製俺石刃
▲鳳曙石製石刃
X皇
_
↓
轍
,
。
B2・B3・C2aア・C2aイ・C3a・C3b、2
×頁岩製石刃
竺
△黒噸石製石刃〈被加工・欠損〉
。
X‐
×頁岩製石刃(被加工・欠損)
005.0mO15,20,025′030.03aO40.O
Bib-Clb・C2bイ・('21.ウ・C4b・D2・E2a≦
K3b、[3]Dl-E2bである。なお、A2・D2-
枢6Tm)
第4図石刃・細石刃の長幅悩上)と幅享悩下)Elbは長幅厚値では判然としない。大形の
E2b;139は折れ面を打面とする彫器であり、広郷型細石刃核に伴うものと類似する。概ね大形の石刃に
−21
市立函館博物館研究紀要第17号
Ilifiiが大きく小形の布刃は打面が小さい傾向がある(餅リ3表)。襖剥胤勝T面(17点)、180.打I耐│吸位を'jくす盗
料〈10点・第31叉1)が月立つbリップがよく突出する資料は102.140の2点であり、噸部が明瞭に磨耗す
る例はない。ただし大形の2点(C4b;104.E2b;141)と闘越Mi1石刃核の第一イi刃(85)は小さな単剥離
打面を示し他の石刃とは異なる。
蘭越技法を示す良好な資料が得られている柏台1遺跡とオバルベツ2遺跡の例を参考にして、、":地点の
頁岩製石刃が同技法によるものかどうかを検討する。すでに指摘があるように(謂崎2006)、柏台1遺跡の
接合資料1(細井編1999)やオバルベツ2遺跡の石刃(図Ⅲ‐1921.22:偽藤編2002)ではイi刃剥胤椴階
で180.打面4到立を示す資料が認められる。また、:M遺跡では幅30.0ⅢⅢあるいは厚10.0mmを超える行刃
も少数ながら出土している(図V91.2.4.5:細井編1999,図Ⅲ1920:伽牒編2002)。立川第
1当地点でも180.打面転位を示す石刃が認められるし、比較的大形の石刃が多いものの中心となる石刃
の大きさは比較した両遺跡の石刃の範囲と重なる。また、柏台1.オバルベツ2遺跡における180.キ価
¥剰立を,jくす石刃はイ骸下縁の一部を打面とするものであり、103.147の背面は│司様のイi刃剥高雛を残す
これらは下縁稜を杓する蘭越型細石刃核に相似形の石刃核から剥離されたことを示している。ただしイi核
下面を残す115(第3mは異質であり、h叩淵に面を有する禰核から剥離された"I能│ゾ│§が高い。細イi刃も考
慮すると、Dlは広郷踊蝋H石刃核イi器群に属する可鯛生が高い。
まとめると、〔3;打刃が全て大形〕のDl・E2bはいずれも広郷型細石刃核石器群、C2aイは忍路了型
細石刃核石淵牒、それ以外は蘭越型細行刃核に伴うものと考えられる。なお禰刃打面の検討はできなかっ
たが、多頭錐の伴う('3bも忍路子咽細石刃核イ「器群として捉えておきたいp,lbはイi刃が蘭越耶蝋IIイ『刃核
に{、ドうと判│断されるが、細石刃が異質であり、複数の│リ:岩を含んでいるfij能r¥ミがi商iい・
ここで大形の石刃が多数出士している第Ⅳ地点と当地点との石刃製作を比較してみた↓も第I¥地点山士
資料では既報告の石刃に限れば背面の石刃剥離面はすべて腹面と│可方向示す資料である。また、頭部が磨
耗する石刃が特徴的に認められ(吉崎196⑳、広郷噛ill石刃核に伴う石刃と同様の糊敷を有する。当地点で
埜珂
榊卿
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閲場製イI刃
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打咽
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応睡
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帆”
第4表石刃・細石刃属性表
藤田征史:立川遺跡第1地点出土資料の分詮
も広郷型細石刃核に伴うと考えられる石刃〔D1・E2b〕が認められるが、これらを除く当地点の石刃は異
なる石器群のものと考えられる。
5.総括
以下に分析結果を総括する。また、蘭越型細石刃核石器群の石材利用柳各について周辺の遺跡も踏まゑ
考えてみたい。
・蘭越型細石刃核石器群一B1b・C2aイ・C'3b・D1・E2b以外の頁岩と熟曜石Bの石刃が該当する。乗!』
片だけの母岩も伴う可能性があるが、蘭越型細石刃核の調整剥片を含むE3a以外は現段階では判断できた
いなお、頁岩B3.C2bの石刃素材彫器(35:No.14.63:No.16)や周縁をやや粗く加工した掻器(64:N
27)は柏台1遺跡において類似資料が認められる。石刃・細石刃が全てこの地点で剥離されたものかは判
然としないが、剥片が伴うことを考慮して各々製作が行なわれたと仮定すれば、当地点にI伽、石刃剥離
を行なった母岩(C2bア・I'.lal、②細石刃核成形を行なった母岩(C3a-E3a)、③石刃製作を行った母岩(AlA2・C2bイ・C3a・E1b・E2a・E3b)、④石刃一細石刃製作を行なった母岩田2.B3・C1b・C2bウ・C4け
1)2)があるといえる。Cla・C4c-Fの細石刃や('2aア・黒曜石Bの石刃は単体で搬入されたものであ易
う°牒面を大きく残す剥片が認められないので①‐④はいずれも成形された石核が搬入された母岩であり
①のC2アや②-④は石核が移動先へ持ち出された母岩と考えられる。蘭越技法では石核の大きさが「詫
面再生・器体調製・目的剥片剥離を繰り返し、相似的に小さくなっていったものもあ」り、この場合生産
物が「石刃か糸Ill石刃かの区別は困難である」との偏簡がある(寺崎1999)。石刃の糊散(103.147)から当地
点でも石刃と細石刃が相似形の石核から剥離されたものと判断され、①-④は蘭越技法による石刃・細石
刃製作工程の段階差を示しているといえる。柏台1(福井編1999)・オバルベツ2伏島ほか編2000)両遺跡
の接合資料でも、石刃・細石刃剥胃縦に小形の残核が放棄される母岩と石刃・細石刃剥肖縦に石核が遺跡
外へ持ち出される母岩とがあり、いずれも成形された石核が搬入されている。当地点と同様の母岩消費状
況といえよう。基本的に母岩は小形の石核にまで削減された後に放棄されるといえる。蘭越技法初期段階
の石核成形が行われたと見られる美利河1遺跡A地点sb-4(長沼編1985)や都遺跡(木村1978)はいずれ望
原産地付近の遺跡であり、大形の石刃核が残される。蘭i越型細石刃核石器群では、原産地付近で蘭越型細
石刃核と相似形の大形ブランクを獲得し、移動にあたっては複数のブランクを携帯し、異なる消費段階の
ブランクを組み合わせることで移動先での必要に応じた道具を製作していたものと考えられる。蘭越技法
は次の石材補給までにブランクを徐々に削減していくブランクリダクション戦略として捉えられる。なお、
石刃製石器製品や石刃についてはブランクの小形化に伴い獲得機会が減少すると考えられ、単体で持ち運
ばれたものも想定される殖体搬入とみられる細石刃もおそらく植刃槍として当地点に搬入され、新たな
細石刃が補給された後に放棄されたものと考えられる。
・忍路子型細石刃核石器群一熟I擢石Al;155-160細石刃・細石刃梯、C;264-266細石刃・打面形成
削肘、頁岩C2aイ・C3bが該当する。両面調整時のものが目立つ母岩Al-2およびBの剥片は忍路子型
細石刃核の計砿録II片と考えられる。一方で小形舟底形石器も含む割霞石Cの剥片はいずれの調整剥片か半I
然としなv¥剥片の大きさも考慮すると、当地点では成形された黒曜石郷Ill石刃核が搬入され、細石刃剥
離と細石刃核の細かな整形が行われ、細石刃とA2に対応する細石刃核が搬出されたといえる。ただし大
形剥片(210)も1点認められ、蝿虫で搬入されたのでなければ当地点で細石刃核の素材を成形した可能性を
示している。赤州││産と判断される黒曜石が主体を占める。この他に頁岩を利用した石器製品・石刃製作
も当地点で行なわれたと考えられる。
−23
市立函館博物館研究紀要第17号
・小形舟底形石器一照│腰石Cの267.268、Dの276が該当する。いずれも単体で搬入された蜜料である。
黒曜布Cの剥ノ│・を考慮しても、当地点での製作痕跡はほとんど認められな↓もまた、赤井川産の特徴を虚
する黒I麗石は利用されない
・斧形石器関連資料群一安Ill岩と凝灰岩が該当する。安山岩の石器製品はAlの斧形石器と末検討の斧罷
石器2点であり、剥片はおそらく斧形石器製職作時の剥片と考えられる。喋面を大きく残す剥片はほとんと
ないので、ある程度成形されたものが当地点に搬入されたと考えられる。なお、Alの斧形石淵292)は零
体で搬入され、その他少なくとも5個体の斧形石器が当地点での成形後に持ち川された可能性がI断い凝
灰岩では本体が出土していないものの、接合する調整剥片が残ることから、当地点に部分磨製石斧が持漠
込まれ整形が行われた後に遺跡外へ持ち出されたことがわかる。これらは忍路了型細石刃核や小形舟底形
石器に伴うものと考えられる。
この他、広郷鋤Ill石刃核石器群に頁岩D1.E2bが該当する。また、メノウ製彫器は有舌尖頭器が伴う
第II地点・第Ⅲ地点からも類似資料が出土しており(笥崎1978)、黒曜石Cの裏面木端加l菖石器はピリカ込
跡D地点や湯の里4遺跡で川七しており、1,1,1遺跡では峠下型細石刃核に作っている。
以│弓、月岩分類をとおして立川遺跡節I地点の出土資料を分析した。各種の石器製作に関わる蜜料が庭
岩毎に認められるため、今hiの母岩分類は概ね妥当であると考えるが、今後確実性を'高めるために│ソ堵毎
の接合作業を進めていきたい。
訓僻函館博物館には盗料調査に際して格別のご配慮をいただき、さらに執筆の機会を与えていただいた。
また、覇1時康史氏・宮尾亨氏・仲田大人氏には執筆にあたり多くのご助言をいただいた。心より感謝申し
上げたい。
(園割院大畢大勢暁考iT学専攻生)
参考・引用文献
大島秀俊。谷岡康孝。長谷川徹編2000『オバルベツ2遺跡(2)』北海道文化財保護協会
加藤晋平・鶴丸俊明1991『図録石器入I'Tli"典一先土捌柏書房
材1英明1967「北海道先士瀞勝代文化終駕に関る一理解」『古代文化』192pp.2838
木村英明1978「余市川・赤井川洞或の先土器f『器群について」隅上海道考占崇j第14輯pp、23is
佐藤稔編2002『オバルベツ2遺跡(2)』北海道長万部町教育委員会
市立函館博物館1960『立川』
顎崎康史1999「妻│上海道細石刈荷淵│¥珊陥への一試論」『先史誉古学諭集』第8集pp.7]SS
顎崎康史2005「北海道赤州││産蝋│脳行の産状と旧打淵I寺代におけるその利用」『考古学ジャーナルj525pp.811
寺崎康史2006「北海道の地蝿i-'l年」『│ロ石器':代の地或編年的研究j同成社pp.275-314
希崎康史・宮本雅通・橋口豊2002『ピリカ遺跡Ⅱ』今金町教育委員会
長沼孝編1985膳誹り河1遺勤J北海道埋蔵文化財センター
畑宏明1980「2旧石器文化j『北海道考古も涛燕副pp.4166
福湘享一編1999『柏台l遺跡J北海道埋蔵文化財センター
吉崎昌一1960「立川遺跡の出七伏態と遺物」「結語」『立川』市立函館博物館”、25‐61
吉崎昌一1978「立川以後」『立Jll』復刻発行pp.14
−24
駒井麗子:択捉漁業と駒井漁場
←
農
灘
←
講昼灘一 詫崇全
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圃弧垣蝦蛭汰癌岬む縄些里堅
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2
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﹁函碧噛望嘉蟻雲一仁牒錐騨雪唾環嘉﹂誉哩袈選逆国e剛
・ 偶 。 省 筆 伽 塞 e 抹 雲 埜 叩 こ 押 八 心 僑 八 ・・蝿皇や当脹や岳●
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市立函館博物館研究紀要第17号
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劃︵勇一︶針一趨〆
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記︵語雲︶針唖睡眠
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鎧男屋三︵露雲︶掛詰調割局Ⅱ川下霜屑屋電華認李塞奉弔蝿卸掛川州幹
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酬︵霊室︶畔亜製麗
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︵零雲︶鴎雲唾眠
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鶏謹噂慧蕊羊⋮菖薯§
︵雷雲︶壁諦鋤割阿川釧軒
︵写雲︶叶雨二悪
11
恥概溌謹鯉謎l雷
一豊斗掻s患謂忠︵や一〃譲葬鵬丁
謝里一鴎冒︶壁豊塗妻重騨r
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謁画震察︵三一︶壁︾︾詞騨剖罰奇
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駒井麗子:択捉漁業と駒井漁場
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写真2難破船救助の賞状
写真3第四回内国勧業博覧会褒状
写真6正装した駒井弥兵衛
6寮好雄癖楯瞬額却捌︶
を︲令4丁圃葎︽雀電
世幸一う一隅浪需碁をグ感漣
及を罰峰ァ4為も
蝉右正二請取候也
︾馴椴一触織鯛111単←1剛︾
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駒井漁場使用の丸印
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醇薄;2. E郵遷群
一
市立函館博物館研究紀要第17号
茂が移行した免許状がみられる。相続問題に関わるなんらかの事情に
よるものか市内在住の近江家に﹁昭和四年度シネウスモイラウス
漁場残品帳 ﹂ が 近 江 漁 場 の 鍋 で 残 っ て い る
・・代目弥兵術は樺捉水産、樺捉漁業向社の取締役に就任、先代の迩
推を拡充、漁業経鴬に力を尽した。
て下さいました。
妓後になりましたが、本稿を記すに刈り﹁〃文書調査講座﹂の一員
である山口精次氏には、家系譜の作成にあたり全面的な協力を賜ると
ともに、北海道虻文書館、各種新聞等より盗料発掘、其の他について
も懇切I寧な御助言を頂き真に有りがとうございました。
函館市史編さん室長の菅原繁昭氏をはじめ熊谷興志子氏、道辻敏氏、
駒井博氏、駒井惇助氏、近江隆敏氏の諸氏より資料の提供を頂き筆を
進める事が出来ました
市立函館博物館学芸員保科智治氏には、平成十三年度﹁占文書調査
講座一に参加以来、様々の御指導を頂き此の度は発表の機会迄も与え
これから後も古文書に接していく上で新しい情報による展開が得ら
れる事を期待しつつ此の場をお借りして諸氏に心から感謝と御礼の言
莱を申しkげます
参考文献
菊地勇夫一ヱト日/烏︵多一くられた国境﹄︵・九九九吉川弘文館︶
菊地勇夫﹃北方史のなかの近枇日本﹄︵九九一校倉詩・屍︶
山本光雄﹃日本博臓会史﹄︵一九七○理想社︶
樺石太﹃開道蔽十年紀念北海道﹄︵・九一八鴻文社︶
地崎宇一烹郎﹃北海道偏川録﹄︵一九四.北海道経済興信所︶
金子郡平・金子備尚﹃北海道銀行・会社・火商店辞書﹄︵一九・六︶
斎藤虎之助﹃函館海運史﹄︵・九五八函館市︶
梶川梅太郎﹃北海道立志編第三巻﹄︵一九○・・一北海道図書出版合盗会社︶
岡田平助﹃函館紳と名鑑﹄︵・九三・函館紹介出版社︶
鹿能辰雄﹃択捉島地名探索行﹄︵九七六みやま書房︶
﹃近江宣次名義定置漁業免許状添付図面﹄︵近江隆敏氏所蔵︶
﹁岩手県宮古市光岸山菩林寺寺録﹂︵善林寺所蔵︶
﹃捧捉島漁業誌﹄︵・九三七樺捉島水産会︶
﹃北海道紗那外三郡ノ略況﹄︵’八九六北海道紗那外二郡役所︶
﹃樺捉嶋漁業権誉痢簿﹄︵一九二六樺捉島水産会︶
﹃北海道第一期拓殖計画事業報文﹄︵・九三一文栄堂︶
﹃岩内町史﹄︵・九六六岩内町︶
﹃函館市史通説編第三巻﹄︵一九九○函館市︶
﹃北海道史第四巻﹄︵復刻版一九九○清文堂︶
﹃松前町史史料編第三巻﹄︵一九上九松前町︶
﹃市立函館博物館研究紀要第十:・号﹄︵一・○○一篭市立函館博物館︶
﹃枝幸町史上﹄︵一九六七枝幸町︶
﹃枝幸町史ド﹄︵一九ヒー枝幸町︶
﹃地域史研究はこだて第四号﹄︵一九八七函館市史編さん室︶
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麗子:択捉漁業と駒井漁瑳
国与道をあ帳ての誼海辿伍櫛殖患脚仁政府向官か関係・すると共に
漁場
場経
経嘗
営をを
中中
藤心
一に撞
瞳き
き一
つ︾つ
三も
f拓
一抹
殖殖
計壷
画慨に
にも
も月
同を向け、牧場経常という
新たな分野へも初代弥兵術は進出していった
牧場の其の後卜臭いてほへ明だが駒井惇助氏によると現在唾一原野と
して一部分が残っているという事である。
︵十一︶初 代 弥 兵 衛 と 寺 院
駒井本家は岩手県宮古市内浄士真宗光岸川善林寺の檀家である。善
林寿寺録﹁建設経緯記録書﹂によれば、明治三卜九年一月初代弥兵術
が宮古を訪れた際、盤林寺世話方が集まり本堂雌築について話し合っ
たところ満応異議なく決して、初代弥兵術は五百円の寄付を記帳した
この年より順次、敷地の整備、前面の庭先、道路、打加等々の整備に
かかり、明治四卜竜年九月三I口竣に。卜月十日には落成式が畢行さ
れた本堂の裏山墓地に駒井本家の墓石が建つ
初代弥兵衛のお骨は此のお裳一にも分骨された。又初代弥兵術は函館
に於て真宗大谷派函館別院の檀家である。東本願寺函館別院では大正
八年九月八日より卜五u迄京都より法主大谷光演師を迎え、宗祖親瀞
聖人の六筒五卜回芯を執り行う事となった函館新聞には其の準備の
様子が日々報じられているそれは荘厳のうちにも絢嫡豪嫉を極め、
波辺熊四郎・小熊紫一郎・渡辺孝平・出中脹右術門・池田勝布術門・
筏野栄吉・杉野二次郎・川出竹次郎等々、巾内屈指の経済人であり檀
家である面々が計行八I端と共に其の運街に判っている。道内はもと
より東北地方からも暇しい人がお詣りに集り、今に云う経済効果は計
り知れずと書きたてている。
卜山口、十五日の庭雌︵院外街路の行列︶に参加する者の衣冠装束
は万事占例に基いて違法を許さない厳格なもので、初代弥兵術も典の
中の一人であった。砿装し威儀を正して写した写真が残っている。︵写
真⑥︶写真は口娯なので色彩は分らないが、実物は駒井惇助氏が所
持している。此の様な晴れがましい列に加えられたのも口頃よりの別
積によって州来たことである。
院仁対寺を貢献度による唾ので、これもみな漁場経営による喪産め蓄
あろう
おわりに
大正二年九月付けのu本銀行調べの﹁函館二於ケル銀行以外ノ金融
機関﹂︵﹃地域史研究はこだて第四号﹄所収︶に函館の漁業仕込業者の
一覧表がある。筆頭に﹁仕込金尚見込一↓十五万円東浜町四藤野四郎
兵衛支店一とあるが、藤野四郎兵衛は明治言卜四年喜悦丸の持主だっ
た人物である又貸付証に関わる澗縛長一郎の義弟澗容長作の端も見
られる﹁仕込商児込:∼三万円旅龍町駒井弥兵術﹂の糸が含まれてい
た。漁業化込業省とは漁業家から漁穫物の販寅を委託される水産物取
扱商人である初代弥兵術がこの一覧衣に名を連ねていたことはまた、
一つの新しい発見である。n分の漁場での漁獲物の他に他漁業省の漁
獲物の販売委託も引受けていた事になる漁業者への金主となってい
た部分もあって内分の漁場での漁業にのみ励んだのではなかったので
ある。﹁西瀧文書﹂にみられるように倉敷業、薪の販売、漁場の貸付、
喜悦丸に依る運送事業、千島汽船合盗会社、千島汽船株式会社の株主
そして北見枝喉の牧場経営と、経鴬内容の広がりを知った。今年大漁
だからといって来年もという確証はない不漁の時の大変さは﹁西濯
文書﹂の打田涯吉の書翰に詳しく記されてあった。浮き沈みの激しい
業界にあって細心の注意を払い、かつ又実家近江家、駒井本家への配
慮も怠りなく蕊取・紗那・留別の漁場に多角経鴬の道を迦進したので
初代弥兵術が、大正十年その生涯を終えるにあたり新聞の死亡広告
には盟友田端半この名があった。初代弥兵衛亡きあと長女タミの婿亀
次郎が一代同弥兵術を婆糸した。大旺十五年調べの﹃樺捉烏漁業権者
名簿﹄には近江宣次の名は無くすべて二代目駒井弥兵衛になっている。
大正トー年、宣次死亡に伴い糸義は祖献のイハが相続しているが、中
に大正十四年暑代目弥兵衛とイハとの売買契約が成虻して明らかに名
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市立函館博物館研究紀要第17号
.金拾七円五拾参銭
・金参白五拾弐円弐拾銭
金セド四拾四銭六厘
.金参白参拾門八十四銭
蕊取村
順イタイ、モシ官庁ノ都合ニョリ指令ガ遅レテイルノデアレバ、交付前二粁手
頓イタシテイルガ指令ノ交付ガナイタメトテモ困ツテイル、一日モ早ク御交付
イ為、牧場設計上柵木並二耕材伐採ハ雪中ヲ利用シナヶレバ出来ズ、諸準備整
石地貿払踏査結致、、︾既二調査二結、、皇スノ/二今以テ何〃御沙汰二鉦
こα後明治四十一錐七月一・十七日付で⋮年間にわた︵’てα起業方
法書が初代弥兵衛の代理である駒井亀次郎の糸で提出されている。
さらに初代弥兵術は、貸付された士地の購入を進めており、次のよ
うな願書を北海道長官宛に州している。
駒井弥兵衛ノ所有ヲ証明相願候也
牡庁一
号より十二号
”﹄r︽■ユ■己屋■
計弐拾五頭
時価額註金竜仔六白弐拾円也
牝玉椿、魁天、一郎より十三郎︵言・郎ナシ︶
税租
致シタイノデ電報デ御許可ヲ願イタク、其ノ為樋報料印紙添付シテ御願イ申シ
上ゲマス
明治四十一年十﹃月・日
の願書に対して次のような結果が川された。
本願牛卒月⋮:菟日指令第・乞:牢:一二三号以テ寅払御許嘩相成候言に願一・凌添ドノ切
オチッシュベッ四番地
龍海道枝幸郡礼文村や:
手使用、左按芯報凶答相成可然哉、此段相伺候也
︵願人送付切手
↑亀十銭使用の事︶
按
ホンゲッ・五ニチキョカセリホッカイドウテウ︵一一十三字乏十銭︶
初代弥兵衛が択捉の漁場の開拓に力を注ぎ、其れが軌道に乗った事
で、礼文村の前浜で練漁を行いながら其の背後に広がる原野に牧場を
経営しようとした。
未開地有償貸付願いは受理されたものの、数年にして却下される事
になったが、新たに申請した光払願いは受理された。それによって現
状維持は保たれた。
﹃枝潅町史﹄に明治三十年代の駒井牧場について数卜頭の牛を飼育
したが、これらの牛は和牛︵赤作︶で肉川であったとしている。
﹃北海道第一期拓殖計脚事業報文﹄のはしがきに明治四十二年成立
の北海道拓殖事業計画は明治五年の開拓使十年計画、明治三十四年の
北海道卜年計阿と共に明治維新以来の三大事業計画の一つで、本道拓
殖に関する政策の大本であると書かれている。
﹃枝幸町史﹄に未開地無償貸付地希望者の中に板垣退助が含まれて
いる。板垣は明治三十四年に牧場経樹の目的で頓別の土地四三五万坪
の貸し付け申し込みをし許可を得ている。
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北
北
海
所道
得地
税租
海
所道
得地
駒井麗子:択捉漁業と駒井漁場
I記され|︲bる一園田商会一三右一、一杜商会二千石・鳥海義映一
千石、鎌重支店四千打、黒江幸弥太千五百石、駒井弥兵衛千五
百打、川端孫市千五百石﹂択捉での漁獲高が函館経済に与える影
この願書を受にて宗谷支陛長藤出正疑力ら我海埠貯長官宛に次の様
な書類が提出された。
返還を命ぜら〆言寧一貸付を希望している相当費令を投とて多数飼茜に及賛・棄睡
有するに付、前の失敗に鑑み起業遂行し得るものと認め可然御処理相成様
郷が大であるという認識に立って、一歩先んじた巾場の動静把握の為
にも興信所の調査も必要とされたのであろう列記されたうち、鳥海
義映・駒井弥兵衛・黒江椛弥太の二名は千島汽船株式会社の株七であ
る。
さらに﹁副申書﹂なるものもあって其の文面は次の如くである。
申候也
明治四十一年六月十胃・日
明治二・十八年度分
所得税
北海道地租
争の際には戦時国債を多額に購入するといった様子が伺える。
次の資料は書類作成上必要だったと思われる証明書である。
こび|畠中書﹂によ’初代弥兵衛カム共事業に尽jしたり日露戦
伎挙郡各村戸長伊藤孫右衛門
右様の者二付起業確実ノ者卜認メ候間至急何分ノ儀御許可相成候様致度此段副
四、畜牛三十上頭ヲ有スル外、妊娠牛七頭ヲ有ス
三、当郡内二於テ有数ノ資産家ニシテ且シ名望家ダル事
二応募シタル事
ニ、当郡内二於ケル諸獅ノ公共事業二維力シ、殊二ロ露事件ノ際ハ多額ノ国債
ノデ他の経営者ヨリー脳起業確実ナリ
明治十年度ヨー〃引続キ練角網四統ヲ経営、、︾不漁の場合ノ漁﹄。当ル
︵十︶牧場経営につじて
ていきたい。
北海道立文書館に所蔵される﹁明治四卜:年北海道庁公文録飾四拾
五﹂に、初代弥兵術が前項千鳥汽船参両と同時期に北見国枝稚郡礼文
村字オチシュベッ︵現宗秤支庁管内枝幸町︶の士地問題にも取り組ん
でいたことが分かる盗料が含まれているので、この資料をもとに述べ
初代弥兵衛の長女タミの婿養子亀次郎を代理人として﹁オチシュベ
ッ原野九拾万参仔八拾弐坪﹂について牧場経満の計画を立て、未開地
の有償貸付を北海道庁に対し申し込む。明治ニト四年十一月’四日に
川願し三卜六年一月三トー日許可されている。しかし、初期の計画が
遂行されなかった事もあって返還命令を受け、明治四卜年Lハ月卜九u
付で伐採した﹁樹仙代価金三拾四円六拾八銭﹂の弁償を命ぜられた
だが初代弥兵衛は其の後も﹁迫願書一を提出し、代理人駒井亀次郎は
宗谷支庁長宛てに次のような請願書を提出している。
一韮函呼醒で︾一一一・・二・・李犀︽“・ロ凸一唾辱醇喧一一酷一一画︾一計﹂一一﹄一口一︾﹃牌亜一一宰狙壷一一■岬群三一呑宰呼応毎嘩嘩姻一再一T一一口咋一毎F昨靖圭一︾︾F・︷一一三︼”弄醒︾■︾一一寺F一一一凸・︾︾芦一一昨︾︿毎.↑一“︸︽一・L丘︾F“一一・マロニニコ一一一“夕一一︾︾一一画︿一・︾・夕壷即幸︾や二一︾一一三・“一夕
許可御命定二接シ殆卜困雌致候、既二御尊承ちも有之候如ク、畜牛ハ傭々蕃殖
一金弐拾円九拾九銭
内別紙願書ノヶ所二付、昨年来種々御配慮ヲ煩奉候得共不幸ニモ其効無之、不
致候次第ニテ、差当り飼畜ノ処分二困難致候有様二有之候間、何卒特別ノ御詮
明治・・・十九年度分
一金五百六拾八円九拾九銭
駒井弥兵衛代駒井亀次郎
離ヲ以而本願書御許可相成候様御尽力被成下度奉状テ歓願候、謹言
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市立函館博物館研究紀要第17号
の今一﹁::円ひ貸付一犀で参る
貸し、毛の酒谷長一郎から初代弥兵衛宛に書かれたもので、佃書に﹁本
年卜月限貸金の内江一とある朱書で本金は卜月一u二又貸附ス、
反古タルベキ者也一とある識、金額、一人の氏名には朱で棒線が引
かれている。
此の貸付証が酒谷家に残っていたということは、此の時点では返済
が完rしていなかったからである。どの様な理由からの借金かは不明
であるが、﹁西深文書﹂に見る如く明治二トー年、留別地方に於ては窄
前の大不漁であり又﹃樺捉島漁業誌﹄を見ても漁獲高は明治三卜四年・
五年各地の鮭鱒漁とも低く三卜六年・七年になってようやくk向いて
きている。此のことから、初代弥兵術は漁場経営上の運営資金として
柄谷からお金を借りたものと思われる。この件については、これ以外
の盗料が見あたらないことから、特に問題なく返済されたものと考え
られる同じく﹁酒谷家蜜料﹂大脹三年十菖月﹁十三日付けの涌谷長
一郎より函館の酒谷長作に宛てた書翰の中に﹁例年の駒井氏ヨリ鮭魚
祷入手仕候間例年通返礼可被下候﹂とある。明治三卜五年の貸付の件
以後も引続き両者の交流は継続されていた様である。
ハサ︵チガイヤマサ︶酒谷長一郎とは加賀橋立︵石川県加賀市︶の人
で北前船での商売のかたわら金融業も営んでいた人物である。
︵実︶手島芦船美三資会社・と写:島汽船株式会社
⋮︽言慨;え︵土・竃;⋮卜二を購久;︶淀・一宿亨と航路の開拓を征一彦一たか
ある。
不無にして明治山卜年犬照丸は破船し四十一年共盛丸が沈没して↑船
を失い、四卜一年遂に合資会社を解散する。
しかし同烏の航海はゆるがせに出来ず再出発となる明治四卜三年
三月弓卜八u付け函館毎日新聞に千鳥汽船合資会社解散の商業蚕記公
告がなされ、それと同時に下島汽船株式会社の設立が報ぜられたこ
の時初代弥兵術は監査役に就任、明治四十三年一月三トーu付け函館
uu新聞に干胎汽船株式会社第一同営業報告が掲救された。初代弥兵
術は引続き監査役であり、其の後もその任にあったと思われる。
﹃函館海運史﹄によって当時の海運業省の営業状況をみると、業者
は金森合糸を筆頭に十九社、航路は択捉・縦太・本州等様々だが、明
治四十を年には損失七社、配噺は五社で択捉航路の千鳥汽船株式会社
が七割五分の配当を行っているこれは函館日日新聞の営業報告と一
致している。﹁明治四卜三年は前年に比して経済界の同復とともに輸送
貨物も増加し運賃も前年に比して上昇業者いずれも収益をあげた﹂と
監査役駒井弥兵術の名がある。
千鳥汽船株式会社は四十・一年一万一千五百三円、四卜三年一々一千
五百四十三円と増収であったが配叫は二割に落ちている全体的にみ
ると損失・一社にとどまり配当は七社と前年を上回った。四卜三年も千
鳥汽船株式会社が一番配当であった。金森合名は四十二年は一万百七
十一円、四十二年は三千七百八十九円の収益で両年とも無配に終った。
﹃北海道銀行・会社・大商店辞書﹄の千島汽船株式会社の項には
明治三卜八年択捉で漁業を経営する有志数名で共同出資六万五千円で
千烏汽船合資会社は、﹃北海道銀行・会社・大商店辞書﹄によれば、
設立された会社である。
円で、一人が五千円を出資している。
明治三十八年四月z十三日付け函館毎口新聞の商業登記公告を見る
と代友社員は田端半七・駒井弥兵衛となっている。出資者は七名で、
留別シネウシモイの近江亥之助も名を連ねている。六人が同額の一万
函館市旅篭町の駒井家座敷で田端半七と初代弥兵衛が並んで写した
写真が残っているが撮影月日は不明である。︵写真⑤駒井惇助氏所蔵︶
明治四卜三年海運業界が実績をあげつつある時、択捉は不漁にみま
われていたようだ。﹁酒谷家資料﹂に﹁東京興信所函館出張所調べ﹂が
含まれていた。それに依ると鱒漁は終ったが薄漁で昨年高に較べて減
収のみならず価格も引立たずとして主なる漁場経営者の氏名が次の様
千鳥汽船合資会社は最初共盛丸︵三百九卜四トン︶を新造し、液船
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駒井麗子:択捉漁業と駒井漁場
を知る事が出来た。
賃の収入の無く金嶋一般飢餓年に相叩した本年は大漁になるだろう
と皆々男んでいる﹂又嘩地には明るい場所もあるとして﹁物産内保駒
井維助ヲビラカ合ラウス方面﹂を取上げている。﹁ヲビラカ﹂は打田
雪吉の管理しているシレートと隣接している。確実な駒井益助の所在
J資料ニハv
候、就テハ此度一や西沢弥兵衛様ヨリ御来翰二領り拝見仕候処、シレート漁場貸
拝啓陳ハ御尊公様も今回ノ函館丸ヲ以テ御帰嶋被為有候よし御安着大慶二奉存
渡し旨御申越し二相成候得共、愚生ヨリ再度羊へ対ス書面差出し候得共更二御
返事無之、到底相談免倒卜相考へ、シレート隣場昨年迄駒井益助漁場致し居場
所借受候間、甚々御気錐二候得共不悪御承引被下度候、尤も貸料請負金ニテ借
入候、併てシレートも殊ニョレハ望ミ人有之哉も難計候得共、場所賃ハ昨年ノ
割り弐百三十円二貸渡しベク言々御申越し、本年如クハ辿も合手無之、随而網
ズ、唯々用二立チモノハ間合船壱股キリ、船居小家有ルのみニテ丸デ新規同様、
類ハ元来ムレタル品二付、其後三ヶ年も使用致し候二付本年ハ到底使用ニナラ
是し迄漁業ニ無事致し鳩モノニテ網綱所持有之モノデ無とテハ免倒二付、殊ニ
ハタカ場所弐百・・十円ハ意外総償二付、合手ハ辿も及バザル次第、近年ハ前年
シモイ6漁業二無半シルのみ、跡ハ弐拾統も休業可致候、依テ場所ハ望ミ通り
ノ不漁継ニキタレアリテ手出し者無之故、ラウスより長機迄ノ間物産平出シネ
資料l﹄ノほり治’一年ナ月二卜u付備の書翰で石田善吉より中
瀬長五郎宛に出されたものである。中瀬良五郎は西沢商店の支配人格
で、択捉の中心地紗那で業務に携り留別の監督もしている。留別には
営業所があり漁場・漁具・漁船の賃貸をしていて、これらの責任者が
石田善吉である。だが税金などの諸経費の分担割合が決められている
ことから、西沢商店の雇人ではない。︵前掲熊谷論文より︶
此の書翰では漁場の貸渡し問題についてふれている。西深弥兵衛に
対して書面を再三送ったにもかかわらず返稗が無かったので今迄の隣
場所で駒井益助が漁場致していた場所を貸料請負金で借入れる事にし
た。断る事になったシレート漁場の今後についての意見、昨年明るく
無事終了した漁場の紹介等について書かれている。
資料十五と此の書翰によって布出善吉と駒井益助は漁場が隣同士の
間柄であったことが分かる。書翰に幾度も登場した事はお互いに助け
合う親密な関係にあったからであろう石田善吉と西深弥兵衛の関係
が終りを告げると、一口漁舎の糸も﹁両淫文書﹂から姿を消した。
明治・・卜九年より三卜甚年にかけての﹁両津文書﹂によって倉敷の
こと薪材の販売、其の他にも何かを小唆する事柄等、何よりも駒井維
助の存在を知った縦助については不明の点が多々あり、解明したい
が今の段階では想像の域を川ない。有効な資料の出現がまたれる
駒井益助亡きあとはサダは鼎別三番地より岩手県宮占へ幡篤した
翌年明治二トー年卜︽H、サダは初代弥兵術二女ミサオと鍵子縁組を
する此れにより本家への初代弥兵術の影響力は一層増したものと考
蛭喜零・参・︽一募・一二一鍔蕃・建震・・芝蕪二活藍ク謹言蕊.:︾:農篭.漁萎・群:琴シ・;了晶武川努室
水産税軽費相営二相掛り可申候二付、合予サヘ有之峡ハ些貸附候方叩然卜泰作
し、依テ除リ高バルト何二も相成ラザル、唯々休業致候場合ニハ・文も取レズ、
ノヶ所借受ケニ宜敬、物産ノウエンシリ有矧ナル場所迄取ピケ分ニテ貸渡しよ
石内外ノ兇込ヲ以テ相掛り可申候間、ムヤミナル場所徹ハ辿も相談人無之二付、
えられる
ここ貸付証
写真④は涌谷家資料﹂に含まれていた明治三十五年九月一日付け
佐様御r承被下度候、明キ場所ハ、ヲビラカ﹁シンモイ﹁物産内保﹁ヲビラカ
今物産ウエンシリ﹁セトバモイ弐ヶ所ラウス舎弐ヶ研堺豊四郎場所弐ヶ所、
外二七ヶ所計リアリ、是レハ昨年漁業無事致しダル漁場二御坐候、本年ノ仙場
ニテ貸渡し場合ニハ諸人へ逸々間合可申候得共、卒諜面通リナレハ
ハ其
其侭
侭二
二致
致し
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市立函館博物館研究紀要第17号
各諸店二千ド必卜h一一腰入等等一i白臼#〃︲僻皇作ノノテし
○源因ハ昨年貴舎漁場へ二拾円以上損害御迷惑棚柵ヶ、取返しうめ合ノ為メ周
患生ヨリ相納メ可申候二付、何卒特別ノ御憐澗ヲ以テ、本年丈ヶ御助ヶ被ド度
弁被下度此段奉願候、返金ノ法ハ何れも明年三月十n限り請負金上納へ策向、
り典侭二致し置キ、護々申縦候得共正金五拾円也莱k峡間、跡彼是ナし二御勘
○御依頼も甚々恐人候得共、塩十・貧目二直シ叶肌俵垂・・分六厘使用致しのみ残
ル事二付、跡々ノ法方専・ニ御坐候
たれ・人満足ナル引揚ヶ致しダル者無之、物産脅社なとハ賛場所俄唯壱丈収人
不満足のみノ致方御腹立も可有之ナレトモ、昨年ノ不漁ハ前大未門不漁ニシテ
デハ出函致雑候、此期限ニハ参舘可致候、昨年貴店ノ場所他へ御周旋致し装々
少々仕込候処彼是繁雑ノ為メ早速参り雑候、依テ五月下旬又ハ六月︲に旬頃ナラ
乍意外御安神被ド度候、抑又本年一番船ヲ以テ出函可致筈ノ処、本年ハ燐釣り
地御家内中様縦々御繁栄よし大慶二奉作候、患店ニハ皆々無事消光罷有候間、
拝啓陳壱昨蒔u・豊里賢電御・涛信ぎこ撞過キ候段一軍三脚赦免窪:︷:皮似戯テ/霊
われる
呉々歎願奉候、明年ハニウモイも休業、平出も二ヶ所休業ノ由、唯物産シネンモ
無之よし、実二全嶋一般飢餓年二相議、然し本年ハ大漁ナラント出雁省も皆々
旋致しダル、大たい私しノあやまり、然し今更失敗致しダル以上取返し付カザ
イ平州位漁業致し候よし、常地ハ見込も立不申然し又明祥二相成候ハ弾、此れ々
勇み居候、本年ハ綱領も古物弐ヶ年も使用致し候二付本年ハ使川出来ズ、群し
︽手千︶
漁業二敗掛ルモノも有之哉と難計候得共、月ドノ処ニテハ実二見込立ツモノ無
他ヘテも賃渡しノ場合ニハ、其御含ミヲ以テ御相談可然卜奉存候
︽ママ︶
之候、何卒前記御推察ノk呉々御助ケニ領り度候、先ハ用向方々余ハ後便二誠
○薪し又貴地二望ミ人撫之節ハ、常地二・期限り望ミ人有と殻も雌計候段御報
弥兵衛宛に州されたものである
一昨年の不漁は前代未聞の不漁で誰一人満足出来た者がなく貸場所
資料’五ほり治二l|年五月1日付Fの書翰で不田遊吉よI西淫
五月十日
拝眉易/鳥一寓々虻申堂候早﹄べ頓首
平出八百石位ノ兇込ヲ立漁業二無事政ベク事二付、憂度申k瞳キ候何れ其内
︵ママ︶
も倒年ノ人犬半額二減ズ、平州も佐ノ通り非常二減ズ、物産鱒一・・千石収穫ノ込、
燈明キ場所、辿も当地ノ漁業ハ鴬デニナラザル事二付休業ノ人多く、物産平川
○常地ニハ明キ場所沢山二御峨候、物産内保駒沖維助ヲビラヵ6ラゥス方面大
告致置キ候
ル、何辛至急御返事被成ド度候、早々頓首
石田藤吉
十@月け.n
西沢弥兵衛様
︵﹁閥滞文諜﹂昌寧弓笥g己
盗料十四は明治三十一年卜一月一十一u付けの書翰で、行田灘吉よ
り西深弥兵衛宛に出されたものである。
﹁本年ハ如何ナル厄災ヲ擢ル悪歳ノ年二郎有之哉生レをちる今日迄
如期苦心致したる事覚なく三昼夜も寝床に付くも眠らず心痛致し実に
一そ死する方増しと被考候﹂石田善吉の苦悩があますところなく述べ
られている。自分の経営のまずさにもふれているが、すべて大不漁が
もたらすものと事は深刻である。﹁明年はニウモイも休業、平出も二カ
所休業の由﹂と続く此の時期、益助亡き後の漁場はどうなったかは
不明であるが、留別に於て明治二十年の不漁につづき三十一年の大不
漁、雛助の死と重なれば休業の措置をとったのではあるまいか。蕊取
については、ほぼ四百石とある。留別の様な心配はなかったものと恩
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駒井麗子:択捉漁業と駒井漁場
○御尊店ニテも約定二基キ其レ々々御都合も可有之哉二考居候得共、生二於て
申と候
有之候得共、前条ノ場合二付何辛十月三十日迄テ御猶像被下度此段呉々御依頼
借主方二掛り合不得止ム幾分出金致し居り次第二付、約定通り差上度ハ山々二
村費水産税迄生悉皆立替致し置キタル次第ニテ、是レハ畢寛貴家ノ場所賃も生
何トも自分ノ業ニテ、持あましダル次第ニテ不得止ム八月下旬頃ヨリ、米其他
も可致処唯壱本も収獲物取レズのみナラズ、青森新町ノ御人五百円出しぱなし
ニテ如何卜も致し方無之、収獲物多少二不抱有之さへシレハ全品差をさヘニテ
戸嘉七へ貸渡し全人へ種々得促致し候得共、如何セン私し目前見ル通りノ不漁
増し卜被考候
致しダル事覚ナク、三昼夜も寝床二付クも眼ラズ心痛致し、実一言増死スル方
○本年ハ如何ナル厄災ヲ擢ル悪歳ノ年二可有之哉、生しをちる今日迄如斯苦心
幸へ雇夫中江皆々相渡し.れニテ手切致し
押ラレ何程談判致しトモ不承知、依テ切払い弐百四十七円計り有之為メ、是し
雇夫も一ノ戸嘉七へ被雇候モノシ、給金配ル常デも無之考ノよし二付、右品取
七へも是事情恥し合致し、同人も承諾致し候二付兎二角鮭廻し二差遣し候処、
其侭二相成居候二付、其れニテ御勘弁二領り度心得ヲ以テ、場所借主一ノ戸嘉
へ積入鮭獲高残ラズ御尊公様へ差上是レニテ塩三十俵使用のみ二付跡ハ残ラズ
掛ケ何トモ申訳無之次第、本年中鱒上速鮭十八速ノ収獲高二有之、過例五洋丸
拝啓陳ハ富春私しノ名儀ヲ以テ場所拝借二付、貴殿へも一方ナラザル御迷惑相
○漁場貸渡し際塩俵数悉皆相改メ候処、五百○弐俵有之内・・・拾俵使川致し、め
ル飯米ノ心配ニテ、実二堂惑仕居候、決シテ貴殿二対ス何程不漁ニテも懲生引
方平均九賞三百十六匁壱俵平均十・貰目二直し、什五俵三分六厘二相成可申候、
も例年トハ達へ紗那留別収獲ナしニテ、貸し費内ハ言段ニシテ唯々日々食用シ
受ダル以ヒハ御迷惑相掛ヶ申間敷候間、唯々目ドノ処金融消止ノ姿ニテ、如何
営地漁況収換佐二
物産引網弐統百弐十石
建網壱統八十人
シネウモイ小喬壱統六十石
遮網弓統上十人
小舌一・・統
平出引網弐統人数百八十人弐百石足ラズ
建網四統
トモ差操れ付難計次第二付、何卒特別ノ御情澗ヲ以テ宜敷願上候也、駒井益助
︵﹁西漂文詳。sごg︶
石田善吉
氏も本月廿三日死亡仕候
九月廿八日
西耀弥兵衛様
資料卜三は明治三トー年九月・・八日付けの書翰で、禰田善吉より西
右之通りノ収痩ニテ右:・軒./外、催夫切払侭クモノ唯軒も無之、貴殿御存知
何速より何十速ノ収獲
以上是レニ準ズ
小舌壱統
相変らずの不漁を伝え紗那、留別の苫しさは日々の食用の飯米の心
配に迄及んでいる。其の状況下に駒井益助の死亡が伝えられた。明治
三卜年の年末には函館で西沢弥兵術と面談した。其の後病の床に臥し
たのであれば何通かの書翰に其の記述がなされた筈であるが、それが
なかったということは、急に訪れた死のように思える。益助は四トー
ノ通り鱒鮭両期勘定ノ約定ニテ、各漁舎へ通帳差出し瞳キ、然ルー唯壱将正金
沢弥兵衛宛に出されたものである。
才、子は無かった。
ヲ以テ御勘定致しモノ撫之、是レハr弐白円計りニ寝ラレ如何トモ致し方無之
○シレート漁場引受ヶ損害ハ、函館姥子ヨリ千円計りさかく命出来、併し常村
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市立函館博物館研究紀要第17号
御令世劣願上候ノ借家1其侭片附もセス#捨是‘しjt片附致サセ置キ候沸外
ハ駒井氏ヨリ御聞取被ド度候
二西漂文書﹂罰中園忠︶
盗満⋮に肌治二⋮⋮伍型一犀一⋮⋮一輿付臆呼言翰で.右田置吉よ嘩両
深弥兵術宛にだされたものである。
六一小漁で翻臥紗那のにきにまるでなく食用L垂足りず困り・一言↓てい
る。蕊取方面は向石より八卜打の漁があった。
拝啓陳か過日漁況御報撒申上候後漁獲鯉之、紗那及常留跳災壱尼ノ収獲ナし二
相定マリ、是ヨリ鮭ノ仕度二掛ラントスレトも前漁ハ如斯有様ニテ、n々飯米
致し方無之次鋪、税金及食物二も差支候不始末愚店二於てモ現金及賃金トハ・
其際ニハ正金又ハ鮭ニテ御送付申上候間御戚諾被下度奉願候也
九月三日
西沢弥兵衛様
御請求二預り尤も愚生ハ借主三プ其儀務相果し可申ハ勿論二候得共、其実一ノ
九月け。、出し御紙面全廿八日相達し、拝見仕候処、兼而御約速ノ場所賃又々
八資料十三V
弥兵衛宛に川されたものである。
資料十一に続き漁は相変らず大不漁で好転していない、鱒漁壱期限
りで休業する者も出てきた。村は不鼠気になり場所の借主も﹁実に大
困却致居候﹂と記す十月下旬には﹁鮭も相当に収獲可致哉に相考居候﹂
とこれからの漁に望をかけて支挑の延期を願出ている。
資料十ほり治二’一年九月二日付化の書翰で石田善吉より西沢
︵﹁両津文書ろ9.房g︶
石田善方
段典々御依頼申上候同期限二相成候ハシ、鮭も相常二収獲可致哉二相考居候、
居候、依テ薩々申上旅候得共、場所代及塩代金十月下旬頃迄御猫像被下度、此
○場所貸及塩代ハ九月十五口迄二御返金御約定ノ処、目下ノ処ニテハ如何卜も
気ハ申計るも無之、此未如何相成候哉卜考フレハ、実二心細キ次第二御坐候
二も食継キ披候、方々漁業者も鱒壱期限り休業シルモノ過半有之、常村ノ不景
不明である。
漁場にて帳場を含む六人が賭博を行い警察沙汰になったこと順調に
運ばない積荷のあれこれ、その中にあって駒井益助が人夫を川してく
れた事など、文末に﹁詳外は駒井氏よりお問取被下度候﹂と結んでい
る。縦助は昨年同様葬れには函館へ帰った。宮古へ行ったかどうかは
金も兄ル事雌相成、誠二何卜も申上様モ無と次第、場所借主も実二大困却致し
此の年五月一口、初代西深弥兵衛が心臓病で急逝し実子仲次郎が襲
荊し二代目西濯弥兵衛となった。
八資料十二V
拝啓陳ハ此頃ハ︽向御無信音二打過キ候段、平二御赦免被下度候、常エトロプ
鴫漁況ハ大不漁、常留別及紗那如キハ丸デこなき卜言フテ可然、一本二本ノ収
獲ニテ雇夫ヲカリ食用ニモ足ラザル事ニテ実二大困却仕、海川場所卜も壱木も
C月飛の一剣ロ、、︾是レノ一番Ⅲ獲一二日速以白束了一束七一束
石田善吉
○シベトロ方面ハ百石より八十石位、東浦百石より以下三十石二十石四十石弐
八月廿六日
十石十石収獲ニテ皆々御困却仕居候、右目下漁況如斯二御坐候
西沢弥兵衛様
︵﹁西濯文書忌置噂邑
資料トーは明治三十一年八月一十六日付けの書翰で、石田善吉より
西深弥兵衛宛に出されたものである。
この書翰には択捉での漁況について述べられている。それに依ると
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駒井麗子:択捉漁業と駒井漁場
算スレノ百五十,計り千場賃相掛り右場所二付弐百Jイナ円損害薩々気
へ被下度候、余ハ後便ヲ以テ御報知申上候、網ノ儲も賞却方被申込候得共、直
塩之儀も御都合上御見込テも有之候ハシ、現品ヲ以テ御返戻可致候間宜敷御考
尺分九十本六尺拾壱本感生ニテ畑二使用二付、譲り受候間何卒元債ニテ願卜候、
寅却致し候間、本月中取練メ御送金可申上候間御承諾被下度候、丸太之儀ハ四
○角材責却代金ハ九月↓・十n期限トシテ、百石八十K円八十五石跡ハ九拾円二
度候
り、弐百五拾五円拾七銭御請取被ド度候、尚同人江御報知可致候間御承引被ド
極メ取衆メ候間、宜敷御承諾被下度候、金員ハ貴地富岡町拾番地姥子謙次殿よ
○是レニテ不服ノかど有之哉も難計候得共、愚生任セラレタル事二有之充分取
と候間御推察ノ程願上候
二相成、私し周旋致しナカラ貴殿へ不実出キズ、不得止ム立替決算致し事二有
漸々取戻シ相預り居候間御繍安意被下度候、奴奈川丸も来着致し居候二付、成ベ
ラサル厳重二付何れ二も居ル処無之次第、不得止ム本日自首致しダルよし鍵ハ
様再・︾・分署へ細迫り峡、不得止ム企人行家皆々ヤサガシ迄致し、探索ハー方ナ
鍵持参致し居候二付、此嶋二居ル中ハ稜々不安心二付、是非トモ捕博方致し呉
付三名捕博致サレ、帳場ハ何れへカクレ居哉不分明ナリ、依テ全人貴殿倉庫ノ
直ク四縞丈ヶ捕博サレ四名ハ逃ヶ行衛不相分候得共、探索ハ非常二厳重ナルニ
吉其外六人集合、公然賭博相初メ候よし、夜明ケ午前二時頃突然巡査二跳込レ、
ヶ取返し候、依テ御宿丈ケハ早速御断申上候、然ルー此日夜分帳場初メ伊藤春
致趣キ被仰越し実二驚入候、小田志郎相適し正金五円丈ケ差遣し漸々領り証丈
申旨相断申上候、然ル処鮭合へ預ケ分之預り証持参致し居、右寅賀致し使用可
人ヲ以て金拾髄円計り拝借ノ旨被仰越し甚々営惑仕候得共、一厘ニテも貸し不
附二相残し帳場之儀ハ、十七日沼田定吉方ニテ賭博致し非常二負ケタルよし、
拝啓陳者在樺吋塞嘩ぺ小取扱之段平.二御赦免被雫度候一就テ・︿貴殿出堂後跡片
歳、全而愚生進メニョリ漁業相営ミ今回貴殿へ渡し金ノ内百五拾七円立替貸し
目二付七拾五銭二附川アリ、精々八十銭位ナラハ御相談二相成哉難計候二付、
段之点二付不明是レハ其侭二致し置キ塩も買人有之、費却致し候哉直段十一貫
十一月汁二日
西沢弥兵衛様
賭博連類
坂本衆帳場高橋豊松今岡
二付九分九厘迄失倒ノよしニテ、他ヨリ川崎船鱈釣り二借用可致しよし二付、
相常ノ廻し賃差遣し二付、廻し方依頼致し候得共前日ノ暴風二付、廻船無覚束
致し水戸上太夫船借受ヶ分未二其侭漁場二有之侭当地へ廻船無之、依テ全人江
漁場も其侭撫捕.駒弗益助氏より人夫御遣シニ相成店ノ|勇吉造シ、悉皆取片附
石田善吉
前条帳場混乱〃々皆々様ノ心配一方ナラザル実地御推察被下度候
二付壱個もハイラス、不得止ム牌ニテ積戻サレ、何程談判致し候も致力無之、
ク積送り吋申胸堀安兵衛殿へ掛合僻船二積込本船迄持参致し候得共、船腹十分
石田善吉︵印︶
一膳御間合申t候
九月十八日
西沢弥兵衛様
︵﹁西鶴文書忌認・扇曽︶
盗滞jに明治二l緩﹄月十Juflの書翰で石田釜二︲主I西灘弥
兵術宛に出されたものである。
場所に関する連絡事項が穐々述べられているが、﹁仕度を整えて七月
七日迄に投網したが此の際、駒井益助氏は五拾石の収穫であった﹂
と書き加えられている。これは駒井に対する関心のあらわれであろう。
八資料十V
尚々時計雇夫二談へ差と候涛、何卒御届キー相成候ハシ修繕冬期航海便ヲ以
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市立函館博物館研究紀要第17号
盗料八は明治き十九年卜一月zi四口付けの蕎輸で稚田善吉から
西深弥兵衛宛である,
致しダル次第、此隙ニハ駒井維助氏ハ九拾打収捜致し居、企、より八月汁一・日
通り綱類さへ有之候ハ塗、跡ハ実子網及漁船何デも先年と残砧充分二有之、国々
迄汁:n間巡網ス、惣収捜繍四両汀壱束収痩恐生先方へ約束シルニ中瀬卜約定
マr
約束致し塩之雌ハ仙間振合相場ハ、鱒修業勘定拾壱賞目二付金九拾銭二取衆メ
牌、此倒ニョリ右直段ヲ以テ取楽メ是レハ生ノ塩他ヨリ委托ノ品沢山省之候
ヲと、過日来余員持参出紗致し候得共、場所代ノ儀二付貴殿へ御問介之k、御
得共、中瀬氏よりも折角ノ御畑し二付勉メテ御貴殿之塩使用致サセ候間御承引
送金致し度旨申居為メ送金方延引致しダル次第、先二中瀬氏卜御雌し合致しダ
ル事トハ、少々紺違有之哉も難計候得共、是レハ前記ノ通り期節切迫ノ折柄ラ、
し二付、愚生先談ニテ取緊メ候二付御承知ノ程偏二願上候
逸二中瀬満へ御間合ノ余暇無之、殊二会氏より大抵ノ事ハ御任セ可申トノ御恥
場所料鱗
鱒壱期四百Ⅱ◇
“速収獲
此場所貨薗弐拾円也
鮭の積出しに際して陸上輸送、海t輸送両面について最良の方策を
考え種々準備をしたにも拘わらず陸k輸送は突発的な事情から実行出
来ず、海上は二度、二度と川崎船を差向けたが沖合迄どうにか行って
もそれ以上は行き兼、こちらも積込出来ぬ状態になり﹁及ぶ丈の尽力
致し峡へ共成らず旨駒井氏モーガナラザル御尽力被下宜敷御礼被成下
大俵塩百八拾俵
此石上十石壱斗六升六合
は年水此の書翰を携えて函館に帰り西潔弥兵衛に会う事になる
度候﹂と記されている文末に何れ後便二縦ル余駒井氏より御聞取
被下度候﹂とあるが、封筒炎に托ス駒井様三とあることから統助
此貰間千六百虻十弐賞目
代金百一・・拾h円十六銭⋮厘
十・賞H二直し薗服十俵・分八厘
代金百:・拾九円十六銭四厘
八資料九V
二棚成候よし、中瀬氏迄御報知有之趣キ故二、僻曲策kf申不悠御欣引ヲ乞就
拝啓陳ハ其後一向御無僻肖二打過キ候段平二御赦免被ド度候、実ハ貴殿御出張
一I
外二水産税及組合経費〃三戸数割村溌鱒壱期分負据即チゼヶ年惣而費用
合計金弐薗胤拾肱川拾七銭
テハシレート貸借ノ件二付、在函中稀々御依頼二領りかども有之候二付、帰島
否哉期節後れ二候得共、生知人岡市卜申人二周旋致し、中瀬氏卜御相談ノk、
掛り候処、実子網ハ先年ノ分沢山二有之候得共、使用致様ナル品更二無之漁船
有之綱類さへ有之候ハシ間二合可申トノ事、依テヒ月十六日より漁業仕事二敗
合ニハ白円又ハ百什円ニマヶラン候事、外患生二御任セ被ド、漁具ノ催ハ惣而
以上二百石迄弐百五十円、若し二十石∼七十石より収獲無之非常損害ヲ祭ル場
ハ元如キ始末致サセ瞳キ候間御欺引被下度候
テも不都合二付、店ノ勇吉シレートニ雛併二相附ヶ置キ、修業於網又ハ漁具ト
葛不得止ム半額私弁致し、跡ハ取消し漁業中ハ惣而他人計り二付、何・品失ヘ
網極占物計りニテ川ニタシズ、漁船ハ不足此損害先方より請求ヲ紫り、是レハ
在者額持之事前記ノ内実子網井漁船充分アル心得ヲ以テ、賃約定致し候処実子
守で
場所料鱒壱期漁不漁二不抱箇丘十円トシレハ、芯シ非常ノ不漁二際シレハ態々
御
ハ皆々有之、州し合ノ処唯壱磯より用ニタシズ、期節切迫二至り甚々困却、実
○場所借人ニテも水産税及経費戸数削村費半額仕払、外実厚十網漁船借賃損害加
︵ママ
困難二付、収穫高百石二付百五十円、百五拾石より弐百石迄弐白円、弐百石
子網ハ新品百五十間人使用船ハ弐磯借入、漸々上月Ⅱじ日迄二仕度棚整へ投網
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駒井麗子:択捉漁業と駒井漁場
資料二・三・四・六・七はいずれも秋味・鮭・筋子等の倉敷料の受
取証で、一因漁舎と籍銅され、丸印が押されている。街料七は一口のみの
催手・至辰金取換之期・雪質員店函館表着函否・了此航一議換御渡琵甲候、征テ為
換証一札如件
紗那郡留別村三番地為換本人駒井益助︵印︶
八資料八V
可能性が高い。
益助亡き後、帥サダが明治三I・・年トー月卜四日留別村二番地より
岩手県宮古に松擁していることから留別村三番地は益助のn宅住所の
れる。
明治ぎ・拾年三月十n
脚館は会所町
︵﹁西潔文蕎扇ご扇急︶
署名だけで丸印は無く倉敷料関係の盗料の中では此の一枚だけ書手が
違う。盗料五の為換証は薪材代金とある事から、海産物の販売金額で
はない。此の取引も資料一と同様雌助の商売であろうか。為換証の住
所は留別村三番地となっている。前年の卜八番地から移転したと思わ
金渡人西濯弥兵術殿
紗那留別村
金受取人石田善吉殿
記
八資料六V
・金四円九拾散銭秋味拾九束拾五本庫敷料
テ壱個十伍銭ノ割リヲ以テ馬送致サセ、シニスモイ迄四十個丈運び置キ、然ル
拝啓陳ハ残り鮭積出し之儀二付、セトバモイニ置キテハ到底無覚束卜被考、依
右ハ廿九年十二月十四Rヨリ参拾年五月九日迄壱個二付キーヶ月金威銭ツッノ
ー明日又々運バセ可申虚帳場↓件混雑折柄ラ遂二馬送方延引、依テ水戸七太夫
但シ個数四拾壱個也
割合右之通り
及其他ヘシニスモイ廻荷方壱個七銭五厘ニテ請負致サセ置キ候共、只一日和日
︵ママ︶
無之常時二至而ハセトハモイヘ川崎船海岸へ附ヶ荷役致し兼候、過日詞︵カネ
五月十三日
留別村シネウシモイ一因漁舎︵印︶
ホン︶鮭積出しノ際ニハ大図合船ニテ自分人夫十五名以上連れ参り夜分二時
頃漸々積出し二相成、此際二も勇吉寝ズニ附ケ置キ、シニスモイより両度川崎
船差向ヶ候得共海岸高浪ニテ荷役出来兼候、今回も乞回迄スニシモイより川崎
︵﹁西津文書息$l菌へ邑
八資料七V
船差向候得共ウエンシリ沖合迄漸々参り候得共此以上通も行キ脹候、此時もシ
西葎総兵衛殿
記
ニスモイヘ勇吉造し寝ズニ附ヶ置キ実二何卜も鴬惑仕、及ブ丈ノ尽力致し候得
共、セトバモイノ分丈ケ致し方無之、是レハ囲二致候積り二付佐様御承引被下
一金四円九拾散銭
鮭延包 四 拾 壱 個 六 ヶ 月 倉 敷
申居候、何れ後便二誠ル、余駒井氏より御聞取被ド度候
ールリ付貸置キ言々分署へ申世キ候得共、会漁舎へ間合候得共一向不分明ノ旨
候、倉庫へ人世キ漁具多少帳場私用致哉も難計、常所高橋豊松へ白打毛壱本ブ
二有之分貴殿へ沸付ニシテ相願候筈二付、御手数ナカラ御届ヶ方御取計被下度
りダル内庄内行弥浦行員地姥子行く個四十個ノ内二有之候間、何卒皆々木札付
度候、駒井氏も・方ナザル御尽力被ド宜敷御礼被成F度候、錦旗丸ヲ以テ差送
一口
但シ壱ヶ月壱個二付金弐銭四頃
十一月ヨリ五月マデ心と迩候
川年Ⅲ月十三日
一牟御印代石田様
︵﹁西瀧文詳己ごごあ︶
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:
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市立函館博物館研究紀要第17号
四’二J拾
拾 五
円 ド
也 也
記
八資料二V
“金八拾銭也秋味四拾個
壱期分
曇倉敷料
場免許状にはニウモイも含まれている。
紀
二号
号﹄
﹂一
二○
○○
○二
三よ
より
り︶
︶ち
ちななみみ
紀要
安第十 二
﹄に明治三卜五年の近江宣次の漁
一考察l西濯弥兵衛関係文書の紹介を中心に−−﹃市立函館博物館研究
五円、四月三卜日に卜五円、合わせて四卜川の受取証である。内容は
記入されておらずなんの代金かは不明である。他の倉敷料の受取証金
額と比べて多額である。倉敷料ではなく他の取引か又は画漁場とは関
係のない益助個人に関わるものかもしれない。
益助は明治二卜九年六月トー・日岩下県閉伊郡宮占町旧舘六番応より
紗那郡留別村十八番地に転職している。受取証に記入されているニウ
モイが、自宅か店か又は漁舎かは不明である。溜別には西羅商店の鴬
業所があり、漁場・漁具・漁船の賃貸をしていて、これらの責任者が
有田善吉である。だが税金などの諸経費の分担割合がきめれれている
ことから西淫商店の雇人ではない。︵熊谷興志了﹁明治期函館商業史の
資料一に明治1J年五月j日付にグもので二月二1日に十
〆
右ハ十・月十三日ヨリ十上円
右之通正二受領峡也
十一月廿口
記
一金八拾銭也秋味四拾個庫敷料
右ハ十一月十八日ヨリ十一月廿三日迄・期分
右之通受領候也
明治廿九年十・月廿八日
記
八資料四V
右之通正二受領候也
明治廿九年十一・月叶日
八資料五V
為換証
・金四拾七円也
薪材代金之内江
右金員今回石山渉吉殿ヨリ前鍔薪材代金二向テ正二受取為換取組候処確実也、
−40
(
7
:
金三余
︵五︶内国勧業博覧会への出品受賞
︵東京上野公園︶、明治言卜三年第三回︵東京上野公園︶、明治一・十八
明治烹十八年七月卜一日、初代弥兵術は節四M内国勧業博覧会に蝋
鮭を川鮎して褒状を授芋された。内国勧業博覧会は、明治六年オース
トリアで開催されたウィーン万国博覧会にu本政府が賛同し出品した
ことに始り、内務郷大久保利通がわが国においても博覧会を開設する
事を奏請して政府主催の博覧会として明治十年第一回内国勧業博覧会
を東京上野において開催したことに始まる。其の後明治十四年第芝回
年第四M︵京都岡崎︶、明治三十六年第五M︵大阪︶、其の後万国博覧
で他界した
て倒れ明治・・卜一年鷺卜三才で没した。吋時、孫之助の長男宣次は三
才であった漁場の経鴬は初代弥兵術の采配で続けられたのではなか
ろうか明治:卜九年は宣次まだトー才、其の後の維桝も引き統き初
代弥兵術の肩にかかったものと推測する
明治二十五年宣次十七才の時の定置漁業免許状が近江家に保管され
ている。宣次が十七才ともなれば閉別で経営者としての実体験を積ん
でいたと思われるが実績はみあたらない。宣次は大正卜三年三十九才
前述の定瞳漁業免許状は鮭鱒についてのもので、卜三通残されてお
りすべて明治三卜五年七月一日の口付になっている。免許期間は:卜
年間、発行者は北海道庁紗那支庁と根室支庁の三通りで漁場実測図等
も添付されている。鱒に関する免許状は六件、鮭に関する免許状は七
件で、漁期は僻がレハ月一uから九月卜uまで、鮭は九月一口から十三
月二トーuまでとなっている大服上年六月三卜uに漁業権の存続期
間・一トケ年の更新畷雌をしているものもあり、賃借椛の投定をして貸
し付けているもの、又抵当権の投定を鞍録しているものもある図面
には建物・米職の位世を示すものもあり、それは昭和の時代と殆ど同
じ位置関係のようである。
一一︶一西漂文書﹂にみる一画駒井漁場一
れているものがある。関係資料を時代順に追って一回駒井漁場の様子に
ついて述べていきたい。
八資料一V
受取脈
余弐拾丘円也
(6
!
1
会となった。
た,現在、駒井惇助氏宅に保袴されている。︵写真③︶
一
﹁西深文書﹂のなかに、明治:卜九年よりニト2年にかけて西濯の
漁場を管理してVた北田善吉と両溌勅兵衛a間で交された書翰力残さ
れているそれらの書翰のなかには一口漁舎及び駒井益助について書か
へ
第四同内国勧業博覧会は明治弓卜八年四月一日より七月三トー日迄
開催され、出品申込点数は五、一四一点、合格数八九一点、出品人数
上三、上八一人、出舶点数一六九、○九八点、川州価格九四八、五上
八門、入場人員一三・天、六九五人、会期中の允止商︽:・四、上九上
川余りとなっているMを重ねるごとに出船人員、点数、価格ともに
増大し第一岡に比して第四Mでは出船人員約四倍強、点数約一・倍、価
絡約三倍となっている︵﹃u本博覧会史﹄より︶
受賞の褒状は額装し旅龍町の旧宅居間に飾ってあったが、空襲で行
方不明となった。稚運にも近所に預けられてあったので後u届けられ
︵六︶初代弥兵衛と近江漁場
明治二十九年には一多額の資を要する漁場経営の中で資本家と砺す
る音、高城惣吉、川畑孫市、駒井弥兵衛、近江宣次﹂があげられてい
る。︵﹃北海道紗那外三郡略況﹄︶明治竜十三年択捉の疑況として漁場
の漁猶最が報じられた畔、駒井某の糸称だったのが、それ以後六年を
総て蜜本家と云われるようになった。
近江宣次は初代弥兵衛実兄近江市兵衛の孫にあたる巾兵衛が他界
した岬、息子の孫之助は卜七才、その孫之助は柵別トシモイの漁場に
七
子:択捉漁業と駒井漁場
駒井麗
市立函館博物館研究紀要第17号
明治20 38年択捉島における鮭鱒の漁獲高及び販売額の推移(漁獲高;石販売額:R)
漁獲農
804
3
6
2
3
2
0
1
1
0
9
1
5
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2
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:
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^
55624
『擦捉島漁業史』より作成
︵三︶帆船購入
明治・・卜四年三月1日付け北海新聞によると、初代弥兵術は火浜町
五番地藤野四郎兵術所有の西洋形帆船喜悦丸八六トンを千五行五1円
で購入している前年の収益を考えると無理のない購入だったと恩わ
れる。
﹃函館巾史通説細第二巻﹄所収の炎上八開拓使岬代の函館定
繋の西洋形帆船﹂に寓悦丸の翁がある︲それには、叢簿トン数﹄心.、
船、毛藤野寓兵術、船七本篇函館、製造費五千五行七卜円、製造年月明
治トミ年上月、製造人川内の浦柳忠吉と記されている船主は藤野喜
−42
兵衛であるが藤野四郎兵衛とは兄弟であることから初代弥兵術が購入
した喜悦丸と同船であろう。なお、#悦丸の其の後の動静は不明だが
駒井家の漁場経憐を支えた二代同点悦丸の模型は駒井惇助氏宅に傑存
されている
︵四︶住所の変更
六年六月卜・・u、初代弥兵衛は宮占町旧館・・十四番戸より択捉蕊取郡
明治:卜凶年三月卜u付けの北海新聞には、初代弥兵術の寄慨地は
函館市犬神川四トー番︵現弥生町トヒ番地︶とある明治四卜・・年八
月三卜u付け蕊取外一村戸長役場発行の〆籍謄本によれば、明給ニト
蕊取村十六番地に転篤している価し家族は函館に居住し初代弥兵衛
自身も漁期以外は帰函していたと思われる初代弥兵衛が職鱗した背
最には、徴兵免除を得る為の方策と云われてきた。﹃岩内町史﹄に﹁文
豪夏日献打岩内に世籍﹂の項があり、明治二卜五年四月本鯖を岩内町
吹上町に移している。此れは噺時北海道が〆主徴兵免除の時代であっ
たからとされ、大眼三年六月には束戚巾牛込へ転居している徴兵令
は明治六年に公州されたが、北海道は明治豆十﹁年一月より函館・江
差・福山に、・・卜九年一月より渡島・後志・胆振・石狩に、三トー年
一月より手恥・口高・十勝・釧路・北見・根室・千鳥において実施さ
れた。
(5
駒井麗子:択捉漁業と駒井漁場
三択捉漁業と駒井家
﹁庚申万延元年蝦夷地恵戸呂府御領分御引受留﹂︵室トロフ島lつ
くられた国境﹄所収︶に依ると宮占からの川稼人は他の蝦夷地・松前・
箱館を抜いて際立っている。刀延元年︵一八六○︶初代弥兵術の実兄
近江市兵衛は十八才、弟源蔵︵初代弥兵術︶はI四才である。実父近
江亦助がどの様な規模の漁業を行っていたかは不明だが、少なくとも
宮打湾での漁業者間の情報はいち早く届いていた筈である。それが刺
激となって、まず兄の市兵衛が択捉へ行き弟源蔵が後を追ったと考え
紗那に没した。
船頭近江リと松は紅代弥兵衛の異母弟にあたる﹄又此の弟の近江亥
之助も初代弥兵術に協力救助にあたった。亥之助にも同じ賞状が授与
され、函館在住の近江家に伝えられている。卯之松は其の後も船頭と
して初代弥兵術のもとで働いたが、明治託卜三年にニト五才の若さで
この頃の漁場の様子について、明治三十年九月十u付け函館新聞に
﹁紗那から匿名の通信があり、留別振別老門二ヶ村で本年収穫された
鱒の収穫愚五千石余り漁夫一六二人なり﹂という記事がある。函館の
経済界にあってはu頃より択捉の漁独尚は関心事の一つであろう。こ
の記事もそういった関係から掲城されたと思われ、情報下段が限られ
ていたこの時代においてこのような新聞情報が相場などに影禅を与え
たのだろう。此の五千石は﹃樺捉烏漁業史﹄の記述と比べて少ない。
︵紗那一四八二七石、蕊取八五五九石︶鱒の漁獲量は年によって大き
な差がある。その点については表を参考にしていただきたい。
二一︶択捉の景況
明治一・卜三年卜一月2十九口付けの北海新聞に次の記事が戦った。
﹁去る三’一u錦城丸︵平拙喜三郎持船︶にて来函した人から聞く本
年は気候例年に比して頗る暖かく一般人気は鱒に引続き鮭の大漁なり
と、収穫高は楠原角兵衛氏一万石︵附属漁場を合せ︶三k係五郎氏三
千七百石、駒井某千九百石、其の他の漁業家二千五両布合計一万八千
石と見て大差なし、各地の不漁を見込みて悉、皆輸州する袴なれば岡
鮭は恐らく一尾もなかるべし﹂明治・・卜年前後は百行が四百円から
六百円なので初代弥兵衛としては七千六h円から一〃一千四百円の収
益を得た事になる。加正することで価値もtがり各地の不漁とあるか
ら一層の高価が期待出来たであろう。明治二トミ年仲浜町で海産物・
米穀・雑貨をあつかっていた平川宮二郎が初めて汽船を所有し翌二十
三年に択捉で漁驚を開始している時期でもある。
(4
−43
られる。
初代弥兵衛の択捉に於ける漁場での働きについては残る盗料が極め
て少い。明治十五年初代弥兵術が本家から分家した後、身内を択捉で
失い、実家近江家、駒井本家に深く関わるようになった。初代弥兵術
の択捉での漁場経営の中心は、創業時は留別と云われていたが明治・一
十六年以後は蕊取であろう。﹁西濯文書﹂からは留別での漁場経営につ
いてうかがい知る事が出来る.少ない蜜料を繋ぎ合せ、又留別での状
況も加味して初代弥兵術の漁場経営の輪郭に近づきたい。
︵一︶創業期の様子
﹃北海道信用録﹄に初代弥兵衛が開業した年は明治三卜年となって
いる。その創業期における様子について述べておきたい。
岩手蛎陸雁:国東閉伊郡悔:n判駒井弥兵衛肌治一十分九月四日千島国紗那郡
留別村字シネウスモイ沖合二難破船アルヲ認メ、船頭近江卯之松外弐拾壱糸
︵駒井惇助氏所厳︶
卜共二、青森豚平民又川長吉外六名ヲ救助候段、苛特二候事
ざ
二歳に睡隼の難破剛椴助に荒・二、弓明治⋮一隼八月一堂⋮六日付臆
で北海道庁長宮永山武四郎から授与された尚状の文面である。︵写真
②
市立函館博物館研究紀要第17号
職の長女タミの州生力ら推測して明治卜↓年前後と恩たれるこび婿
姻により、源蔵は近江姓から駒井姓となり、改名して初代駒井弥兵術
を名乗るようになったようだ。
本家の婿養子となった源蔵︵初代駒井弥兵術︶は明治卜五年1..月
.・卜六日、駒井本家より分家した。分家の理由は詳らかではないが、
明治卜四年実父近江亦助が死去し、明治卜五年実兄近江市兵術が死去
して、近江家は実力者不在となった。方や駒井家には源七・益助親子
の存在があり、初代弥兵衛は実家近江家を支えるためにも分家の立場
になった方が自由に打動できると考え、周冊も認めての分家だったと
思われる。この時点から源蔵︵初代駒井弥兵衛︶は、近江、駒井両家
に関わっていく事になる。因にマツの父弥助と源蔵の父亦助は異は兄
弟で、マツと源撒はいとこ同士にあたる。
初代弥兵衛の人物像については﹃北海道虻志編第竜巻﹄に﹁開杵能
く難に雌へ辛酸克く其の煩に忍び温厚篤実催も人の過失を答めず細心
翼々として深く辿れの及ばざるを恐れるの処殆んど君子人の風ありと
云う﹂とあり、また﹃樺捉島漁業誌﹄には﹁氏は風骨逼しく縛力衆に
優れたる一面情恒に厚く部下を愛しよく艮省の風を存し⋮⋮﹂とある。
創業時のなみなみならぬ拷労が周囲をしてこの様に言わしめた人物形
成となったのであろう。
初代弥兵術は大正十年トー月三十三口函館市旅篭町七十九番地︵現
弥生町卜四番地︶の側宅で永眠、享年七十五才であった。択捉の蕊取
と、宮古市涯林寺堪地にある駒井本家の蕊に分骨し、東本願寺函館別
院船見支院墓地に眠る。卿宅は昭和:十年上月十四日、卜五日の函館
空襲で蔵を残して焼失した
二択捉と宮古の関係
五代目駒井益助の書き残した覚書にある﹁市兵衛北海道樺捉にて漁
場開拓﹂と重ね合せて推測するに、初代駒井弥兵衛は万延元年︵一八
六○︶頃、函館で海産物を扱っていた叔父源上の家業を援けながら、
のち知人らとともに樺太漁業に携わり、文久三年︵一八六三︶頃、十
七才で択捉に波り楢原角兵衛氏の漁場で働いたようである。実兄近江
市兵衛の択捉での漁場開拓が刺激となって択捉へ行ったと思われる。
明治I年︵一八ヒヒ︶頃、二卜才で独立、留別のシネウシモイ漁場を
直営し、カムチャッカ漁業、北見枝椎の陳場経営とその経営を広げて
いった。
択捉の事業は年々拡充し蕊取・紗那・留別に計ニト数ヶ統のサケ・
マス定置漁業を経常するに至り、駒井家の基礎を確なした。駒井一族
が択捉に州かけて行った背景には次の様な事柄が察せられる。
﹃エトロフ島lつくられた国境﹄に次のような事柄が書かれている。
文化九年︵一八三↑︶ロシア船によって捕えられた高田屋嘉兵衛の観
世丸には南部仙人が三卜七人乗っていたと云う。文政卜三年︵一八三
○︶択捉の蕊取で病死した番人久兵術は奥州南部宮古出身の番人であ
り、伊達林狗術門の天保卜三年︵一八四鷺︶の日記︵﹃松前町史史料編
第三巻﹄所収︶にも択捉漁方支配の間吉なる者が在所南部宮古へ行く
という記事がみられ、その役名からすれば宮古周辺で出稼者を集めて
いた人物であろうと﹃エトロフ島つくられた国境﹄に記されている。
宮古から択捉への出稼者は三陸海岸での漁法を生かしたものだと思わ
れるが、﹁庚申刀延元年蝦夷地恵戸呂府御領分御引受留﹂︵内閣文庫所
蔵︵﹃エトロフ島lつくられた国境﹄︶より︶に記されている﹁支配人・
古が目倣っている。
番人稼方端前書﹂の択捉出稼者出身地を見ると、八十七名のうち実に
宮占出身者は三卜二名で他の松前・鞘館・佐井・大間を抜いて南部宮
早くから南部宮古の出身者は択捉へ州かけ、この様な環境の中で松
前・箱館・択捉などの情報を知る機会に恵まれていたと思われる。こ
の様な状況のなかで、漁場の経営や海産物販売の経営に自ら乗り出す
者もいたと思う。初代弥兵衛が勇躍北辺の海へ乗り出す背最には以上
の様な事情があったと思われる。
−44
(3
駒井麗子:択捉漁業と駒井漁場
此〃様な状況下にあ〆て蕊取紗那L於←て初代弥兵衛脆どの様な
漁場経営を行っていたのか、﹁西津文書﹂﹁酒谷家資料﹂を通して初代
弥兵術と択捉の関係を中心に探っていきたい。
一初代駒井弥兵衛の生い立ち
初代弥兵衛は弘化四年︵一八四七︶五月十五日近江亦助、サキの四
男として陸奥国閉伊郡磯聯椎︵現岩手県宮古市︶に生れ、名を源臓と
いう。家は代々呉服太物を商っていたが、父亦助の代になり呉服太物
商のかたわら漁業を営むようになった。初代弥兵術の事蹟は﹁北海道
立志編第二巻﹄﹃開道五十年記念北海道﹄﹃択捉島漁業誌﹄に述べられ
ているが、事蹟内容の正確な年代や詳細は掴み切れない。﹃北海道立志
編第二巻﹂によると﹁叔父駒井氏︵源七︶深く氏を︵弥兵衛︶愛し遂
に之を乞ふて氏を養ふて嗣子と為す駒井氏夙に本道海産の販売に従事
して函館に在り氏養はれて叔父の家業を援け大に成すあらんを期す
偶々知人福田某等両三名サガレン︵樺太の古称︶漁業の有望なるを説
き氏等と協同之に従はんを奨む⋮⋮後福田氏等と相ひ分離するや氏独
立凹営一事皇も誤らす年と共に斯業の盛運を来し⋮⋮﹂とある。
また﹃択捉島漁業誌﹄によると﹁初代弥兵衛は十七才渡島して先々
代栖原氏の漁場に奮闘の一頁を開けり明治十年独立して留別シネゥシ
モエ漁場を直営し爾来或は勘察加漁業に出漁し或は北見枝幸の鯨場経
り﹂とある。
営等に染手せるが択捉島の事業は逐年拡充して駒井家の基礎を為せ
駒井家の先祖は近江国︵現滋賀県︶より宮古へ来たと云うだけであ
とはまったく分らなかったが、最近になって宮古市に住む、駒井博
氏が所有する氏の祖父五代目益助氏が書き残した覚書に依って、初代
平兵衛が宮古へ来てからの様子を概ね知る事が出来た。其の覚書につ
いては、養子に入ったり分家したり同族内での婚姻と、やや複雑なの
駒井本家の祖となる平兵衛が近江国高島郡木津村︵現滋賀県高島市︶
で系譜を作成し説明を付け加えたい。︵﹁駒井・近江家系譜﹂参照︶
きんじ
きんしち
よ蕊シ陸奥国宮古︵弱岩手県宮古市︶へ来たのは安永期︵一七七○年代︶
と思われる。﹃近江商人と北前船﹄によれば、慶長十五年︵一六一○︶
近江高島より村井新七が盛岡に進出した。村井新七は岸和田城主浅井
氏の九男であったが病のため武士を捨てた。丁度南部藩二十七代藩主
南部利直は都市機能優先の街づくりを始め、商人町を作り上方の商人
達を優遇していた。新七は土地を与えられ、ここが郷里からやってき
た人の草履脱ぎ場となって、盛岡を中心とする東北での近江商人の活
躍がはじまった。新七は近江屋を屋号とした。その後分家・別家が増
えていき、その中の井筒屋などが知られるようになっていった。旧南
部藩領内には駒井姓を名乗る商人も多くいるが、宮古を例にとると、
駒井姓を持つ商人のなかには﹁近治﹂︵家印△︶﹁近七﹂︵家印△︶など
あったのではないか。
の近江を意識した屋号をつけている。駒井本家の屋号は平兵衛に因ん
きんぺい
で﹁近平﹂︵家印沓︶といわれた。平兵衛の出身地からも盛岡城下や三
陸海岸方面へと移住したものもいたと思われ、平兵衛もその内の一人
で、宮古へ移住して来たものと思われる。平兵衛がどの様な目的で宮
古へ来たかは今となっては知る由もないが、宮古の港としての繁栄も
平兵衛には子供がなかったため、故郷の近江より甥の友吉を呼び寄
せた。其の後、実子源兵衛が生れたので友吉は分家し呉服商、米穀商
に従事した。その後源兵衛に源七︵戸籍上の名は平兵衛︶とリセが生
れ、分家友吉に弥助が生れた。やがて本家の娘であるリセと分家の弥
助が結婚、この夫婦にマツという娘が生れた。マツは五才の時に母リ
セを九才の時に父弥助を相ついで亡くした。駒井本家の叔父源七は分
家を廃しマツを養女とした。分家の弥助が亡くなった翌年源七に長男
益助が生まれた。﹁西淫文書﹂に出てくる駒井益助である。分家の友吉
には身重の妻キヨと離別した過去があり、キヨは実家に戻り亦助を生
んだ。亦助は実父友吉が近江出身であることからそれに因み新たに近
江姓を名乗った。この近江亦助の息子源職は、叔父源七の望みにより
本家の養女となったマツの婿養子となった婿養子になった時期は源
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択捉漁業と駒井漁場
はじ一めに
平成卜三年度市な函館博物館ワークショップ︵通年講応︶としての
﹁占文書調査講座﹂が開識された。占文書の取り扱い、整理、解読に
占文書について種々説肌を受けた後、整理作業中であった館所蔵の
ついて受講出来ることから早速参加した。
﹁両濯弥兵衛関係文書﹂︵以下﹁両津文書﹂とする︶を参考資料として
識漉を受け、引続き同じく館所蔵の﹁涯榔家盗料﹂の整理、解読を行
う事となった。
講座参加の理由は、占文書に接する事で解読能力を高め郷士史を知
り、また個人的関心事である択捉の駒井漁場についての関連資料に出
会う機会を期待していたからである。その機会はすぐに訪れた。択捉
漁場の経営を行っていた初代駒井弥兵術︵以下初代弥兵術とする︶の
関迎賓料に出会う事になる。その盗料は﹁澗谷家盗料﹂の中の明治三
卜五年九月一日付けの﹁貸付金証﹂である。この資料には初代弥兵術
が支払いの延期を貸し主の酒谷長一郎に願い出ていることが書かれて
いた。一代で財をなしたとされてきた初代弥兵衛が、資金に筈労して
いる一画を垣間見た。
間もなく﹁両深文書﹂の整理作業が終了し文書の一覧表が﹃巾立函
館博物館研究紀要第十二号﹄に掲載された。西潔弥兵衛は幕末に来箱
し、沖船頭から身をおこし末広町に一傘︵イチヤマジュウ︶の看板をか
かげ、米穀・酒・塩・海産物・雑貨・荒物等を商い、のち経営の中心
を道東や択捉に移し、択捉の漁場経営に携わった人物である。
るぺつ
駒井麗子
初代弥兵術は択捉で漁場経営をしており、両津弥兵術とは同業者で
ある。﹁両漂文書﹂を見ていくと初代弥兵術の経営実態を示す文書は見
当らないが、姻戚関係にあたる駒井統助︵本家︶の糸前が川てくる書
輸煩や、駒井家や姻戚関係の近汀家が使川した家印図︵イチマス︶が
書かれた文書も確認できた。文書に押印された直径二センチの丸印に
は﹁択捉画縦肌郡砿肌村字スニウシモイ﹂︵写真①︶と刻まれていて、
留別での漁場経衡の一端を知ることができた。家印については、宮古
市の駒井本家の壌行にヘー︵ヤマニボシ︶が刻まれているが、函館東別
しべとろ
院船見支院の駒井家︵分家︶の壌行には一因が刻まれている。択捉蕊取
に残っていた蕊の台雁にも一因が刻まれていることを、駒井惇助氏が北
方四島墓参剛に参加して確認している。
もともと一回は近江家の家印であったことから考えると、後進の初代
弥兵術が択捉で漁業活動をするkで、冬より一因の方が優位にはたらい
たのではなかろうか。初代弥兵術は近江家の出身で、実兄巾兵衛亡き
後、近江家の漁場に関わることもあり一因を初代弥兵術凹身のものとし
たのも自然の成り行きであったと思われる。
留別シネウシモイに独立したといわれる初代弥兵衛が、肌治二十六
年宮占より蕊取に幅籍したのは漁場の中心が移っていたからではない
一北海道紗那外二郡略況﹄に一水鳥ノ収膜か皆函館二特ムラレ其の
金員モ凡ソ函館ハ七分弱ニシテ本島二入ルハ三分強二過ギズ﹂とある。
エトロフの漁業者は大方函館近辺に居住した事から漁場への仕込に始
まり出稼人への下配と其の経済活動は択捉と密接な関係にあったとい
われている事実駒井家もそうであった。
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に
か
市立函館博物館研究紀要第17号
2007年3月31日発行
編集・発行市立函館博物徴
〒040-0044函館市青柳町17−1(函館公園内>
TEL0138-23-5480FAX0138-23-083:
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〒040-0022函館市日乃出町23-17
T圃当0138-54-1551FAX0138-54-1513
BULLETIN
OF
HAKODATECITYMUSEUM
No.17
CONTENTS
Preface
MICHIOSATO:"WherewasfirsttheLilacplantedinHokkaido
islamd』
MASASHIF町ITA:"Classificationandmeaningofexcavationmaterial
atthefirstpointinTachikawaruins"
RAIKOKOMAI:"FisheryinEtorofuandthemanaegementofKomaiFisheryCompany
200局
Publishei
HakodateCityMuseum
17-1,Aoyagi-cho,Hakodate,Hokkaido,Japan 040-004耳
Phone0138-23-5480Fax.0138-23-0831